2014年08月12日の日記です


IBM PC の発売日(1981)  2014-08-12 13:00:58  コンピュータ 今日は何の日

今日は IBM PC の発売日(1981)。


IBM は、メインフレームと呼ばれる大型コンピューターを作っていました。

しかし、Apple II が状況を変えます。


Apple II はメインフレームに比べて非力でしたが、簡単なビジネス計算や給与計算を行うには十分な性能を持っていました。

そして、値段はメインフレームよりもはるかに安かったのです。


しかし、ビジネスの現場では IBM のブランドは信頼性がありました。

聞いたこともない新興企業「アップル」よりも、IBM 製の、同じような機械を欲しがる人が増えました。




そこで、IBM はパーソナルコンピューター事業に乗り出すことにします。

メインフレームが商売の中心、という考えは変わりません。それまではメインフレームに端末を接続して使用していたのが、「単体でも使用できるが、端末としても使える」コンピューターを作ることにしたのです。


お金のない会社は、最初はパソコンを買うかもしれません。

しかし、成長して事務処理などの需要が増したとき、それまで使い慣れたパソコンを「端末」として、同じ操作感覚でメインフレームのパワーを使えるとしたら、絶対にメインフレームを使ってくれるはずです。


将来のお客様のために、小さな市場を大切に育てる。…これが、IBM の経営陣の決定でした。




アップル社は、Apple II の性能では不足だ、と以前から考えていました。


後から雇われた経営陣は、Apple II が他社のパソコンに比べて「簡素」であることに不安をもっていたのです。

そして、明日にでも Apple II が他社のパソコンとの競争に敗れ、売れなくなるのではないかと思っていました。


そのため、他社のパソコンの機能を取り入れながら、Apple II との互換性を持った機械を作ろうとします。

この作業は…経営陣の要求は、つまり「てんこ盛りだけど、簡素を保つ」と言う要求で、非常に難航します。



IBM がいよいよパソコンの開発に着手したのは 1980 年の夏。

アップル経営陣はこの噂におそれ、以前から開発中だった Apple III の完成を急ぎ、同年秋に発売しています。

IBM に市場を奪われる前に、足場を固めておく必要がありました。


しかし、Apple III は II との互換性が悪く、設計も十分に練り込む時間がなかったため製造工程で問題が出ました。

出荷された後で、コネクタの接触不良などが多発したのです。


結局、Apple III は II を超えることができず、Apple III の販売は早期に終了します。

その後は Apple II を改良した後継機の販売に戻るのですが、「IBM が乗り出してくる」という噂だけで、アップル社はガタガタふるえていたのです。




IBM のパソコン…開発計画は「チェス計画」、開発する機械は、ACORN (どんぐり)と呼ばれました。

発案者はIBM 中間管理職のウィリアム・ロウ。彼はこの計画を上層部に進言し、認められます。


ただし、開発期間はたった1年。すでに Apple II によるパソコンのブームは起きていて、それ以上待っていては市場を奪われてしまう、という IBM 上層部の判断です。


ロウは、IBM は大企業病にかかっている、と感じていました。

会社が口をはさめば、どんなにうまくいきそうなプロジェクトでも失敗してしまいます。


そこで、彼はチェス計画を、独立事業単位(IBU)にしてもらうように社長に掛け合います。


IBM が大企業病であることは、会長も社長もわかっていました。

そのため、IBU という…今なら「社内ベンチャー」と呼ばれる制度を作り、自由な発想で研究を行えるようにしていました。


IBU に指定された計画は、IBM 社内にありながら、IBM に干渉されることはありません。


当時の IBM 会長、フランク・ケアリーの言葉によれば、IBU は「象にタップダンスを仕込んでくれるかもしれない」ものでした。

象とは、大きすぎて動きが緩慢な IBM のこと。


IBM の官僚主義は、多くのハッカーが嫌っていました。

しかし、会長や社長までもが嫌っていて、誰かが「タップダンスを仕込む」のを期待していたのです。




ロウは計画遂行のために、社内でも実力を持った13人の技術者を集めます。

リーダーはドン・エストリッジ。技術者としても、リーダーとしても十分な資質をもった人物でした。


彼らはロウが期待した通り、IBM の慣習にとらわれず、自由気ままにふるまいます。


IBM の官僚主義に縛られたエリートたちは、自由気ままにふるまう彼らを嫉妬と侮蔑を込めて「汚い1ダース」(13 をセットとする単位の意味)と呼びました。


しかし、彼らは自分たちのチームを「パン屋の1ダース」と呼んでいます。


#パン屋は、中世において特権を認められた職業の一つ。

 町の人々全員の食を保証するため、店の数は競争が起きない程度に抑えられ、日々の生活が保障されました。

 一方で、町の中全員の命を握ることになるため、嘘は絶対に許されず、パンの数をごまかしたりしたら死刑でした。

 そのため、パン屋は「1ダース」のセットに、おまけの1個を付ける習慣を持っていました。




そして、開発が始まります。


IBM の慣習では、コンピューターの内部は全て IBM 製の部品で作ることになっていました。

しかし、メインフレーム用の部品はあっても、パーソナルコンピューター用の部品はありません。開発から始めていては、とても1年の期間では作れません。


そこで、CPU は外部から調達することになり、Intel の 8088 (16bit の 8086 を 8bit 化し、すでに安くなっていた 8bit 用の周辺 LSI などを使えるようにしたもの)が使用されます。


IBM のコンピューターの内部構造は企業秘密とするのが慣習でしたが、回路図や ROM に焼かれたプログラムまですべて公開する、オープンアーキテクチャが取られました。



当時のパソコンには、BASIC が付きものでした。これはマイクロソフトから調達するのが順当でした。

また、すでに人気のあった 8bit OS 、CP/M の16bit 版も付属させたいと考えていました。


IBM は、マイクロソフトに行き交渉を行います。

IBM は秘密主義で、契約事項は多項目にわたりました。ビル・ゲイツはこれほど一方的な契約書は始めてみましたが、ちょっと肩をすくめただけでサインをしました。

マイクロソフトは、BASIC だけでなく、FORTRAN、COBOL、PASCAL も提供することになります。


しかし、IBM が CP/M を作っていたデジタル・リサーチ社を訪れた時、社長で CP/M 製作者のゲイリー・キルドールは、趣味の自家用飛行機でフライトを楽しんでいました。

共同経営者の妻は、夫のいないうちに勝手なことはできない、と契約書へのサインを拒みました。


…ただ、キルドールは IBM が嫌いだったのではないかな、と思います。


そうでなければ、IBM の担当者が出直せば話は終わりです。しかし、彼はその後も IBM と契約しようとはしていません。




マイクロソフトがこのことを知るのは、BASIC 等の開発のための打合せをしていたときです。

当時のパソコンでは、BASIC は ROM に搭載するのが普通でした。しかし、IBM の意向も有り、IBM 用の各種言語は OS 上で動作させることになっていました。


ところが、まだ OS が決まらない、と担当者が打ち明けたのです。


マイクロソフトの人間は、CP/M を独自に 16bit 化した SCP-DOS (開発名は QDOS)の存在を知っていました。

小さな会社が発売していた 16bit マシン用に作られた OS で、あまり知られてはいません。



SCP-DOS を買い取って、マイクロソフト製品として IBM に提供するかどうか…

しかし、4つの言語を提供する約束もあり、さらに OS まで移植作業をするのは納期が厳しいです。


「このチャンスを絶対に逃すべきじゃない。IBMを踏み台にして大きくなるんだ。なんとしてもやるんだ」


とゲイツを説得したのは、副社長だった西和彦

この言葉で腹をくくり、SCP-DOSの権利を買い取り、IBM PC 用に改造する作業が始まります。


同時に、IBM に「4つの言語に加え、OS も提供できる」と連絡を入れ、採用が決まります。


SCP-DOS の元となる QDOS を作成したティム・パターソンはマイクロソフトに社員として招かれ、改良作業は QDOS を一番よく知っている彼が行うことになりました。





ACORN は IBM PC として、1981年8月12日に発売になります。


アップルは、IBM が出してきた機械が、市販の部品を寄せ集めただけで驚くような機能がなかったことに安堵します。

これなら、恐れるに足りません。


そして、ウォールストリート・ジャーナルに、「ようこそ IBM」という、歴史に名を残す広告を打ちます。


「ようこそ、IBM。

 コンピューター革命が起きて35年、もっとも刺激的で重要な市場にようこそ。

 アメリカが作り上げたこの技術を世界に広めるべく努力し、責任を持って競争しようではありませんか。」


当時、アップル社長のマイク・マークラは、インタビューにこう答えています。


「IBM はパソコンのことも、パソコンの売り方も何もわかっていない。我々はパソコンを知っているし、ソフトウェアも豊富に持っている。パソコン市場でアップルはIBMを打ち負かすだろう」


しかし、IBM PC は大人気で、アップルはあっという間に打ち負かされます。




IBM PC は大成功をおさめ、ドン・エストリッジと彼らのチームは…左遷されます。


左遷の理由は2つありました。

大人気になってしまった製品を、「勝手気まま」に行動するチームに任せておくことはできません。

これからは、IBM らしくしっかりと管理していかなくてはならないのです。


そして、IBM PC は想定よりも高機能すぎ、メインフレームの販売はますます不振になったのです。

開発チームは、販売不振の責任を取らねばなりません。



この左遷の直後、ドン・エストリッジとチームメンバーの多くが乗る飛行機が墜落する、と言う事故が起き、メンバーのほとんどが死んでしまいました。


ドンはとてもおしゃれで、背広の胸ポケットに常に赤いバラを挿していたそうです。

そして、これを「パン屋の1ダース」のシンボルとしていました。


彼の棺は、赤いバラの花で飾られたそうです。



これで、IBM の一つの時代が終わりました。

残ったチームのメンバー2名も「もう、あのような素晴らしい仕事はできない」と失望し、IBM を退社してしまいます。


IBM は、IBM PC の後継機種を作り続けますが、徐々に互換機に市場を奪われ、10年前の 2004年には「IBM 互換機から撤退」するまで追い込まれます。


2016.8.12 追記


ここに書いたこと、1989年の書籍「林檎百科」、およびネット上で集めた情報で構成したのですが、間違いが多数あるとわかりました。


同じく1989年に邦訳が出た書籍「ブルーマジック」に詳細がありました。

Twitterでこの本が良書であると教わったのですが、早速古書を探して読みました。



事実と大きく違う点は、エストリッジは「左遷」にはなっていない、ということ。

彼は副社長に抜擢され、喜んで受け入れています。


副社長でありながら、IBM PC チームのリーダーではありました。

しかし、重役でもある責任上自由なふるまいは難しくなり、チームへの締め付けはきつくなります。



もう一つ、IBM PC 開発のきっかけは「メインフレーム不振」ではなく、パソコン参入の失敗でした。

IBM 5120 というパソコンを開発しながら、IBM 社内の「事務手続き」のために発売タイミングを完全に逸し、宣伝もしなかったために知られることなく在庫を抱えていたのです。


当時の IBM 重役陣には、AppleII の作り出したパソコン市場への参入、そして「君臨」が重要な責務で、IBM PC は 5120 の「遅れ」を取り戻す戦略製品でした。

だからこそ、たった1年という期間が設定され、その期間内の発売と普及が見込めるのであれば、あらゆる自由が許されたのでした。


いずれ…エストリッジの誕生日にでも、もう少し事実に近い人物像をお届けできれば、と思っています。




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