ここまでのあらすじ

〜または、歴史のOver view〜

著者の心変わりにより、コンピューターの歴史の大きな部分を飛ばします。

あまりにも大きすぎて、著者の力量では扱いきれないと判断したためです (^^;

飛ばす部分は、「ノイマン型コンピューター」の確立移行、さまざまなアイディアが試され、小型・高性能化がなされてコンピューターが一般化していくまでです。

この期間は技術的には書きたいことが山ほどあるのですが、全体の「流れ」を伝える資料が少なく、読み物として面白いものと出来る自信がありません。

とはいえ、完全に飛ばしてしまうと以降の流れが良くわからなくなるので、今回は飛ばす部分の「あらすじ」の紹介をしておきます。

いつか紹介出来るときもあるかもしれませんが、詳しく知りたい人は「ハッカーズ」や「マイクロコンピューターの誕生」を読むといいかもしれません。


1950年代後半から1960年代前半にかけて、アメリカ国防総省高等研究計画局(ARPA)は、様々なコンピュータープロジェクトに投資を続けます。


これは、大きな可能性を持ちながらも未知数の部分も多い「コンピューター」の能力を見極めるためで、最初の文章処理・電子会議システムであるエンゲルバートのNLS や、ポインティングデバイスの研究をしたサザーランドのスケッチパッドとFlex、さらにはインターネットの前身であるARPAネットなどが ARPAの資金で作られています。

そうした中に、MIT と IBM が中心となって研究を行った、マルチタスク・マルチユーザーのタイムシェアリングシステムOS 、multics がありましたが、この研究は事実上失敗に終わります。


これを残念に思ったのが、 AT&T から参加していた研究者 Ken Thompson です。

詳しい話は別ページにあるので譲りますが、彼は PDP-7 の上で動く multics に似た OS 、UNIX を作り上げます。

この UNIX が現在でも多くのプログラマーが使っているプログラム言語「C」を生み出し、インターネットの前身である ARPA-NET を生み出し、間接的な形ではありますがALTOという、GUI を使用したコンピューターを生み出します。


MITがコンピューターに対してどんな役割を果たしたかは、「ハッカーズ」に詳しいです。また、初期の UNIX 開発については「ハッカーの国小史」に詳しいです。


研究室レベルで新しい技術が産みだされ続けている間、研究室の外にも「コンピューターの恩恵」が広がって行きます。

そのひとつがデジタル回路を応用した「電子計算機」でした。コンピューターのような汎用性はなく、単純な計算のみを行う機械です。やがて日本で電子計算機の改良が進み、電子卓上計算機、つまり「電卓」と呼ばれるようになります。

コンピューターはまだ非常に高価でしたが、電卓は小さな企業でも買えるほどの値段でした。

電卓を作っていたメーカーはシャープ、カシオ、キャノンなどでしたが、その中にビジコン社も入っていました


1964年、シャープが日本で初めてトランジスタ製の電卓を発売した時の値段は50万円を超えていました。大学卒の初任給が3万円前後の時代です。

しかし、2年後の1966年にビジコンが29万8千円の電卓を発売すると、一気に開発競争が過熱します。これは後に「電卓戦争」と呼ばれることになります。


ビジコンが得意とするのは高級機種で、特に国内よりも海外で高い評価を得ていました。今のいわゆる「電卓」とは違い、計算結果を印字するためのプリンタを備え、レジスターのようなものをイメージしたほうが良いでしょう。

当時電卓を購入するのは企業が多く、その企業で良く使われる計算を簡単に行えるように、カスタマイズの注文が多くありました。

これに対応するため、ビジコンでは「マクロプログラム」と呼ばれる技法を開発します。電卓の計算回路を使い、次々と定められた手順で計算を繰り返すことで、結果を出すという方法です。


ビジコンではさらに電卓を小型・低価格にするために、電卓の内部の回路をすべて LSI にすることを考えます。当時の電卓は何十もの IC を組み合わせて作っていましたが、アメリカで開発されたばかりの最先端技術、LSI を利用すればもっと小型・低価格にすることが出来るとの読みでした。

実は、当時どこのメーカーでも同じ事を考え、アメリカ企業との提携を行っていました。また、電卓用の汎用 LSI を製品化しているアメリカ企業もありました。しかし、皮肉なことにコンピューター先進国のアメリカでは、電卓の性能は日本よりも2年は遅れており、「汎用 LSI」も時代遅れの性能を実現することしか出来ないものでした。

ビジコンが提携したのは、当時創立したばかりで、LSI メモリを専門としていた小さな企業、Intel でした。ビジコンが求める機能をインテルが設計・供給し、ビジコンはそれを全部買い取るというのがビジコン側の考えていた「提携内容」でした。ビジコンは LSI 設計などやったことが無いので、専門のインテルに任せようという考えでした。

しかし、インテルは提携することには前向きでしたが、インテルは製造だけを請負い、設計などはすべてビジコンが行うものと考えていました。インテルはメモリしか作ったことが無いので、電卓の論理設計は専門のビジコンに任せようという、こちらも当然の考えです。

お互いの考えが根本から違うのですから提携交渉はなかなか進まず、ビジコンの技術者 嶋正利と、インテルの技術者テッド・ホフが何度も交渉を行う中で、新しいアイディアが生まれてきます。


当時の電卓の回路というのは非常に大規模で、数字を 30bit であらわしていました。30bit あれば、10進数で10桁までの数字を表せます。

ビジコンの電卓では、そこにさらにプリンタ制御やキー制御、マクロプログラム機能を付加します。これでは信号線の数もLSIの数も膨大になり、価格も高くなるし、なによりも設計が非常に大変になります。

ホフの思いついた新しいアイディアでは、電卓の基本的な小さな機能だけを LSI で実現し、それをプログラムすることで電卓全体を作り上げようというものでした。

10桁の電卓を最初から用意するのではなく、1桁の数字が計算できれば、1桁ずつ繰り返して計算することで何桁の数でも計算できるはずです。10進1桁なら 4bit であらわせますから、これならばずいぶんと信号線の数も減らせますし、回路を小さくすることができます。


電卓をプログラムする「マクロプログラム」から、プログラムで電卓を作る「マイクロプログラム」へ。これは大きな方針変換でした。

インテルからは、回路の設計者担当としてフェデリコ・ファジン(Federico Faggin)を出してきましたが、この時ファジンは入社したばかりで、何を設計するのかも知らされていませんでした。そこで、電卓の理論に詳しい嶋が設計に参加し、二人で必要となる4つの LSI を設計します。

こうして、電卓汎用 IC、4000シリーズが出来あがります。 電卓の入出力を制御する 4001 、プログラムを書き込んでおく読みだし専用メモリ 4002 、計算の途中結果を記憶するメモリ 4003 、計算を行う演算装置 4004 のセットでした。 4004 はすぐに 8bit 版が作られ、8008 と名付けられます。 この頃から、他の半導体メーカーも「CPU」の可能性に気付き、さまざまなCPUを発売しはじめます。 この小さな部品、「CPU」を組み込めば、テレビタイプライターを本物のコンピューターにする事が出来ます。 1970年代も半ばを過ぎた頃には、コンピューターを作ろうとするホビーストがたくさん現われます。 最初の有名な「製品としての」個人向けコンピューターは、MIPSテクノロジーの Altair800 でした。ただし、製品とは言っても、自分で作る組立キットでしたが。 これはCPUに8080を使用し、入力は2進トグルスイッチ、出力は2進LEDで行う物で、RAMを256byte 搭載していました。 この製品の優れた所は、あまり良い設計ではないながらも「拡張バス」を持っていた事です。 Altair は本体だけではたいしたことは出来なかったので、拡張メモリユニット、キーボード接続ユニット、テレビ出力ユニット、プリンタ接続ユニット、紙テープ入出力ユニット…等々の、さまざまな周辺機器が発売されます。 周辺機器が充実すれば、その「周辺機器」を使えるように設計された、別のコンピューターも作られます。互換機の登場です。 MIPS テクノロジーは小さな会社で、実際には十分に Altair を供給出来ませんでしたが、こうした周辺会社にもささえられて Altair のコミュニティーは盛りあがります。 Microsoft も、こうした「Altair 周辺メーカー」のひとつとして始まっています。 Altair が発表されてすぐ、ビルゲイツは年上の友人である   から、「Altair 用に、だれでも使える高級言語を作れば一儲け出来る」と持ちかけられて BASIC を設計します。 実はこのとき、Altair はまだほとんど出荷されておらず、ビルゲイツも「理論上は動く」BASIC を作ったに過ぎません。本当に動くかどうかは確認のしようもなかったのです。 しかし、「BASICを作ったので買いとって欲しい」とMIPSテクノロジーにアポをとり、部っつけ本番で動かした所見事に動作したといいます。 こうした度胸の良さにより、この後もビルゲイツはいろいろなコンピューター向けのBASIC を売り込み続け、Microsoft は BASIC のメーカーとして急成長して行きます。 http://www.linux.or.jp/JF/JFdocs/history.html http://users.hoops.ne.jp/s-osaki/
(ページ作成 2002-09-14)

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