2016年03月05日の日記です

目次

03-05 1988年のパソコン事情
03-05 1991年のパソコン事情


1988年のパソコン事情  2016-03-05 16:47:18  コンピュータ

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前回は1985年ごろ、というつもりで書いたのだけど、多少突っ込みを見受けたので釈明。


1985年にはもうディスクは一般的だったのでは、と言っている方がいました。

たしかに、一般化し始めていたからこそ、ハイドライドのディスク版なんかも発売されたんでしょうね。


だけど、まだ高価だったのは事実で、中学生への普及率は高くはなかった。

先に書いたように、そもそもパソコンを持っているだけでも珍しい。興味はあるけどパソコンすら買えず、もっと安いポケコンで、というやつだっていた。


#前述の、家にパソコン持っていないのにディスクのゲームを購入した奴は、ポケコンなら持っていた。


あと、1985年「ごろ」なので、それほど話が厳密ではないです。

今でもそうですが、コンピューターを取り巻く状況は急激に変わる。


中学1年の時には、パソコンを持っていることが珍しかったのに、3年の時には PC-8801mkII SR を持っていたのは何人かいたようにも思いますし。


いずれにしても、一般化された話ではなくて「僕の周辺の」話です。

今回はもう少し後の時代を書くのだけど、これも僕の周辺に限った話。




1988 年ごろ…ちょっと前から話を始める。


ファミコンブームはひと段落するけど、ブームの中でゲーム機はファミコンの一人勝ちになっていた。

多数の機種がひしめいていたパソコンも、PC-8801mkII SR の後継機 (以下 88SR)が主流になっていた。


この間に挟まれたのが、MSX 。

MS はマイクロソフトの意味。マイクロソフトの名を冠した、8bit パソコンの決定版!…という触れ込みで発売されていた。


今ではどこの会社が発売した PC でも互換性があるけど、当時は会社が違えば互換性がないのが当たり前。

それを、会社の垣根を超えて互換性を確保しよう、という統一ブランドだった。


でも、先に書いたように、ゲーム機ならファミコンが、パソコンなら 88SR が強くなってきて、MSX はどっちつかずの状態。

MSX を発売しているメーカーにも撤退が相次ぐ中、カシオ計算機が思い切った機能削減により、他社のパソコンの10分の1の値段で発売を開始した。


これで、ゲームをやりたいわけではなくプログラムに興味があり、でも 88SR を買うほど金を持っていない貧乏人の間で、MSX は普及し始める。




僕が MSX2 を購入したのは、この状況から少したって、MSX が安定した勢力になりつつあった頃。

MSX2 は MSX の後継の仕様。カシオの MSX に引きずられる形でどんどん低価格化して、フロッピーディスク付きでも5万円程度で変えるようになっていた。


この当時、88SR を買おうと思ったら、専用ディスプレイ込みで20万円くらい。他社の機械でも同じくらい。

MSX2 は普通のテレビに接続できたので「ディスプレイなし」の値段なのだけど、非常に安かったのがわかると思う。


88SR は同時に8色しか出なかったけど、MSX2 は 256色出せた。

88SR でアクションゲームを作ろうと思ったら大変だったけど、MSX2 はスプライト機能(ゲーム向けの、小さなキャラクタを動かすハードウェア)を持っていた。


メインメモリ容量も同じ 64KByte だったし、MSX2 は全然 88SR に負けていなかった。

いや、当時の MSX ユーザーは、「負けていない」と思いたがっていた。



まぁ、実際には MSX2 の CPU 速度は 88SR の半分だったし、グラフィックが 88SR より荒いのでワープロなどには向いていなかったし、勝負になっていなかったのだけど。




僕は MSX2 でゲームを作ろうと思ったのだけど、なかなか難しかった。


ファミリーベーシックは 4KByte しかなくて、キャラクターはあらかじめ決められた「マリオ」などを使うだけ。

MSX2 は、64KByte 使えたし、キャラクターも自由に作れた。音源もファミコンより高機能だった。


ファミリーベーシックは、何かをやろうとしても「できない」ことのほうが多すぎて、妥協しながらメモリいっぱいになるまでプログラムを組んだら完成、だった。

でも、MSX2 は妥協しないでもいろいろできてしまう。プログラムの完成がいつになるかわからず、モチベーションが続かなくなる。



そして、MSX2 には誘惑が多かった。


ファミリーベーシックには、ゲームなんてなかった。ゲームをやるならファミコンのカセットを買えばいいのだから。

そして、カセットはコピーすることが難しかった。


中学生の頃は、先に書いた通り友達の間でも持っている機種がバラバラ。

コピーが当然の時代で、レンタルソフト屋があった話も書いたけど、そもそも中学生にとってはレンタル代金だって安くない。



MSX2 を買ったときにはある程度機種が淘汰されていて、同じ MSX2 ユーザーが周辺に何人かいた。

ゲームをコピーするにしても、友人経由で無料で回ってくる。必要なのは、生ディスクの代金だけ。


#MSX2 は各社から発売されたため、フロッピーディスクを制御する LSI である、FDC の種類が決まっていなかった。

 このため、プロテクトはかかっていても非常に弱いもので、コピーが簡単にできた。


ゲームを作ろう! と考えていても、面白いゲームが目の前にある。

これがモチベーションを低下させた。


結局、小さなゲームは数本作ったけど、「ゲーム作りが楽しかった」という思い出は、この頃にはない。




話が急に逸れるようだけど、当時は BASIC でプログラムするのが当然。

BASIC では、命令ごとに「行番号」が付くのだけど、これは処理の「とび先」を示すなどの言語機能以上に、大きな役割があった。


長いプログラムの「どこを」編集したいのかを示すのに、行番号を使うのだ。


10 INPUT A


と書いてリターンキーを押せば、この行を「10」という行番号と共に記憶してくれる。


20 END


と書いてリターンを押せば、新たな行を「20」として覚えてくれる。


間に行を入れたいときはどうするか?


今のエディタなら、行の間に空行を作って、新しい行を挿入する。

でも、BASIC ではそうはしない。


全く新しく、


15 PRINT A


と書く。画面上の順序としては、10 20 15 の順に行が並んでいることになる。


でも、LIST 命令で覚えている内容を改めて表示すると


10 INPUT A

15 PRINT A

20 END


と、行番号の順に並び替えられて表示される。


行を消したければ、行番号「だけ」を入れてリターンすればいい。

行の順序を入れ替えたいなら、LIST で表示された行番号を入れ替え、各行でリターンすればいい。



#リターンは今のように「改行」を意味するのではなく、「カーソルのある行を記憶」という指示だった。

 なので、2つの行を入れ替えた際には、両方の行でリターンしないといけない。

 もっとも、この作法も機種により異なり、富士通系ではリターンすると「画面上のすべての行を」記憶した。




この「行番号による編集」は、BASIC のものなのだけど、これを応用して動作するアセンブラなんかもあった。


BASIC が「記憶する」内容は、命令などが解釈された中間形式でメモリ上に置かれる。

でも、「コメント行」は、当たり前だけど解釈が行われない。そのままメモリに入る。


これを利用して、メモリ上に置かれた BASIC のコメント部分を解釈してアセンブルする、というアセンブラがあったのだ。

アセンブラ自体は、BASIC からメモリに機械語を置いて呼び出す形で使う。


1) BASIC で書かれたアセンブラプログラムを入力し、実行する

2) すると、BASIC を拡張し、「アセンブル」命令が使えるようになる

3) BASIC のプログラムを消去し、コメントの形でアセンブラソースを入力する

4) 2 で追加された「アセンブル」命令を使うと、メモリ上に機械語プログラムが生成される


ファイルなどを仲介せず、すべてメモリ上で行われている。

当時は、まだディスクを持っていない人もいたためだ。


当時は BASIC が BIOS であり、OS だった。

すべてをここから実行する。だから、今みたいな「エディタを起動」なんて概念がない。


でも、BASIC は、行番号によるエディタ機能を備えていた。

アセンブラなどのプログラムが作られたとき、このエディタを利用するのはごく自然なことだった。




1988年ごろには、ゲームとプログラムだけではなく、ワープロとかグラフィックソフトとか、他の使い方が一般化し始めた。


この頃、MSX-C というC言語のソフトもあって、僕は BASIC 以外の言語に興味を持っていた。

でも、C言語には行番号がないという。いったい、行番号なしでどうやってプログラムを入力するというんだ?


今から見ると笑い話みたいだけど、当時の僕には本当に見当が付かなかった。



パソコンで文章を書く、ということに興味を持ってワープロソフトを購入し、そこで初めて疑問が解けた。

画面上で文章を編集する、なんていう世界があったなんて!



とはいえ、C言語とかを使うのはまだ先の話。

当時は、この「画面上で文章を編集する」ということが、面白くて仕方がなかった。


#今も、文章を書くこと自体が大好きだ。

 だからこんな駄文を書いている。



それまでは高価な周辺機器だったプリンタも、このころ急激に安くなり始めている。


#裏には、ワープロ専用機のブームがある。

 BASIC ではなくワープロソフトが動くようにしたパソコンと、数行しか表示できない小さな液晶モニタと、プリンタを一体型にした機械だ。



これ以前のプリンタは、ドットインパクトが主流だった。

縦に何本か並んだ細い「針」を、横に動かしながらインクリボン越しに紙に打ち付けて印字する。


カーボン紙を挟んで2枚の紙を置いておけば、正副2枚の書類が作れる。

会社などでは便利だったからこのプリンタが主流だったのだけど、騒音が激しいし、可動部分が多くて作るのも大変なので高かった。


ワープロ専用機では、熱転写方式が主流となった。

プラスチックのリボンの表面に、薄く熱で溶けるインクが塗られている。

この上から、小さなヒーターで文字の形に加熱し、インクを溶かして紙に転写する。



ドットインパクト方式では、インクリボンは布でできている。

打ち付けた後も周囲のインクがにじんでくるため、長期間使えた。

また、上下に2本のインクリボンがついていて、「赤と黒」など、色が使えるものも多かった。


しかし、熱転写では、一度印字に使った個所は、まだインクが残っていても使えなくなる。

そんな形式なので、色を使えるようにすると、ものすごい無駄が出る。


本体は安く、静かだったけど、むちゃくちゃ印字コストの高い方式だった。



僕も、MSX2 用の熱転写プリンタを購入してワープロで作ったものを印刷して遊んでいた。


高校でパソコン部にいたので、みんなに呼び掛けて部誌とか作ってたんだけど、目的は部誌を作ることよりも、当時流行しつつあったDTPの真似ごとをしたかっただけだ。


でも、印字コストが高いので、主に「感熱ロール紙」を使った。


これは、熱に反応して黒くなる薬剤が塗布された紙。

鉛筆の裏で表面をこすると摩擦熱で黒くなる、というくらいの反応性で、長期保存には適さない。


でも、インクリボンを使うよりも、この特殊紙を買う方がずっと安かった。




MSX2 は、ファミコンのようなカートリッジによって、様々な拡張ができた。


今のPCよりずっと優れていて、ハードウェアとデバイスドライバが一体化している。

本当に、カートリッジの差し替えでなんにでも変身したんだ。


先に「ゲームはコピーしたものが回ってきた」というようなことを書いたけど、カートリッジで発売されるゲームも少なくなかった。

本当に欲しければ、お小遣いを貯めて買った。


先に書いたワープロも、漢字ROMなどが必要となるため、カートリッジになっていた。

高校生のお金で買うには高かったのだけど、本当に欲しかったので思い切って買った。


貧乏だと言いつつ、機能拡張には結構お金を使った覚えがある。




なんか、MSX2 の話ばかりになってしまっているけど、当時はそれなりに MSX2 ユーザーの勢力があって、僕が「MSX2 のコミュニティ」内にいたためだ、


あと、中学と違って高校は友達の家が遠いので、友達の家に行って別のマシンで遊ぶ、とかができない。

88SR 持ってた友達もいるけど、数回遊びに行った程度であまり思い出がない。


当時は、BASIC が使える、電卓を巨大化させたような「ポケットコンピューター」もあった。

中学の頃のポケコンは、プログラムができる電卓、という程度の低機能なものだったのだけど、高校の頃には低性能なパソコン程度の力は持っていた。


テトリスが流行した時、ポケコンでテトリスを作ったらクラスで流行してしまい、休み時間になるたびにクラスメイトがポケコンを借りに来たのを覚えている。



あぁ、そうだ。大事な話を忘れていた。


中学の頃は、パソコンはマイナーな趣味だけど、それほど悪いイメージはなかった。

でも、高校の頃には「オタク」や「ハッカー」という言葉が社会的に浸透し始め、パソコンで遊んでいたり、プログラムを作るだけで後ろめたい雰囲気が醸成されていった。


つまりは「パソコンが無視できないものになりつつあった」ことの裏返しなのだけど、多くの大人が、この新しいメディアをどのように捉えていいのかわからなかったんだ。


結果として、もちろんそのコミュニティにもよるとは思うのだけど、パソコンが趣味だというだけで蔑視されたとか、暗い思い出を持っている方も少なからずいるように思う。


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1991年のパソコン事情  2016-03-05 18:18:10  その他

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19851988 と書いてきたのだけど、これで終わりにしようと思う。


1991年、とは書いているけど、僕が大学の頃の話だな。

大学の間に、Windows 3.1 が発売になり、IBM PC が普及する。


後の世界は、今とそれほど変わらないし、パソコンが一気に普及した後だから、思い出話をする人もいくらでもいるだろう。




群雄割拠の 8bit 機で 88SR が主流になり、MSX2 が「貧乏人のための」選択肢になったころを最後にして、急激に 8bit 機の時代は終わる。


時代の転換点は狙い目だ。大きく勢力が変わるかもしれない。

8bit 機で覇権を争っていた各社は、8bit 時代のユーザーをそのまま取り込みつつ、勢力を拡大できるような 16bit 機を発表した。


でも、結局は NEC が強かった。

まだ 8bit 機が主流だった時代から、PC-9801 は発売されていたのだ。


すでにビジネス分野で強みを持つ PC-9801 が、改良されてゲームなどにも強くなった。

88SR からの移行がされやすいように、88 なのに 16bit で MS-DOS 互換性のある「88VA」や、98 でありながら 88 互換機能を持つ「98Do」など、今となっては珍品とされるようなパソコンまで投入し、88SR で固めた地盤をそのまま 98 に受け継いだ。


MSX 陣営も、MSX turboR という 16bit 機を出したのだけど、これはあまり売れていない。


僕は、ファミリーベーシック、MSX2 と渡り歩いてきた。

実は、ファミベはシャープ系のパソコンに相当し、MSX2 とは「スプライト機能がある」という共通点があった。

そして、シャープでスプライトのある 16bit パソコン、X68k を購入した。


16bit パソコンでは、ハードディスクを持つことも普通になった。

今のパソコンと大きくは変わらない姿が、そこにある。


ここら辺の思い出話は、散々書いたからもう書かない。

1991 年のパソコン事情としては、急速に広がりつつあったパソコン通信のことを書きたいと思う。




1985年に電話事業が民営化され、「電話」以外のものを電話線につなぐことが許可されることになった。


これを機にパソコン通信のための会社などが次々設立される。

また、「草の根BBS」と呼ばれる、個人で運営されるパソコン通信ホストも多数存在した。


パソコン通信は、とにかくコストが高かった。

まず、当初はパソコンを電話線につなぐための、モデム装置が高かった。


1985年ごろの初期のモデムは、300bps 。1秒間に 300bit を送受信できる。

データは、カセットテープへの記録と同じように、アナログの音に変換される。だから電話線でも通信ができる。


速度は倍々で上がり続け、1980年代の終わりごろには、1200bps のモデムが発売された。

でも、まだ普及していたとは思えない。一部のマニアの趣味だった。


僕がパソコン通信を始めたのが、たしか 1991 年ごろ…だったと思うけど、翌年だったかもしれない。

9600bps のモデムが、手ごろな価格で発売され始めた。たしか、2~3万だったと思う。

これなら実用的に使える、と思い購入。



パソコン通信には憧れがあったのだけど、とにかくコストがかかる。

自分で稼げるようになった大人の趣味だった。


でも、通信速度が上がれば、コストは下がる。9600bps というのは皆が「これなら使える」と思った節目だったようで、僕の周囲でもこの頃から急にパソコン通信に手を出す人が増えた。




当時は、電話は市内3分10円。


大手のパソコン通信サービスの「アクセスポイント」電話番号は、大都市に置かれるのが普通だったし、利用に別途お金がかかる。

そのため、もっぱら市内の草の根BBSを利用した。


深夜料金だと、割引が利いて、半額程度になった…のではなかったかな。正確に覚えていない。

まだ、深夜がかけ放題になる「テレホーダイ」サービスは始まっていない。



初めてパソコン通信で、他の「ホスト」と接続したときは、不思議な気持ちだった。

目の前のパソコンは、いつものパソコンと同じでありながら、知らない世界に繋がる「窓」になっている。


いつものパソコンなら、ファイルの中身を表示しても、知っている内容しか表示されない。

でも、コマンドを与えると、自分の知らない、誰かの書いた文章が次々表示されるんだ。


自分のパソコンは、自分のものでありながら、誰かのものでもある。そんな気持ちだった。



当時のパソコン通信は、いくつかのコマンドによって動いていた。

ホストの中には、複数の「会議室」があり、文章によって会話が進んでいる。


ユーザーごとに ID があり、その ID で「どこまで読んだか」は管理されている。

だから、会議室に移動して「読む」ためのコマンドを入れると、次々と新しい話題が表示された。


最初は、これをそのまま読んで、返事を書いていた。

でも、1週間もたつとこれはまずい、と思い始める。文章を書いていれば、3分なんてあっという間に過ぎる。

つまり、行動するたびにどんどんお金を取られているのだ。



パソコン通信では、プログラムも多数配布されている。

市販ソフトと違って、大抵はコピーが許可されたものだ。ダウンロードにも時間がかかるため、人気のあるソフトは友達経由でコピーが出回ったりした。


もらったソフトから見つけたのか、自分でダウンロードしたのかは覚えていないが、パソコン通信の接続を「自動化」する環境を構築し始める。




当時のパソコン通信の接続には「ターミナルエミュレータ」を使用した。

前時代的な、ビデオテレタイプ端末を模倣するためのソフトだ。


えーと、テレタイプは 1960年代のコンピューター技術になるのだけど、詳しくは僕の書いた過去記事を参照してくれ。


ビデオテレタイプは、テレタイプを「紙に印字する」のではなく、画面に文字を表示する形で模倣した機械。

紙を使わないから経済的、というようなことから始まって、文字の配置が自由、カラーが使えるなど、テレタイプにはなかった特性を備え始める。これが、1970年代のお話。



実際、アメリカでは当時から「パソコン通信」に相当するものがあった。

パソコンがまだ珍しい時代、テレタイプを電話線で遠隔地のコンピューターに接続し、計算サービスなどを行うものだ。


その中でメールも使えたし、掲示板のような機能もあった。



でも、日本では電電公社以外の会社が電話事業を行うことが禁じられていて、電話線に接続する機械も電電公社の作った電話しか許されなかった。


それが、冒頭に書いたように 1985年の電話事業民営化で解禁されたのだ。


だから、パソコン通信とは近未来の夢の技術、ではなくて、技術的には 1970年代に戻ることだった。

ただし、手元にあるのはただの端末ではなくて、立派なコンピューターなのだけど。



テレタイプなら、受信した文面などはすべて紙に印字されて手元に残る。

ターミナルエミュレーターでは、受信内容をすべてテキストファイルに残すことができた。


そこで、通信を開始したら、とにかくいつも読んでいる会議室のメッセージを全部表示してしまい、すぐに通信を終了する。

これなら通信時間は短く、電話代は安いだろう。


表示されたものはテキストファイルに残っているから、後でゆっくり読めばよい。



とはいえ、だらだらと長くスクロールするテキストファイルは、読みにくい。

複数の会議室のメッセージが1ファイルになっているのも読みにくい。


ここら辺を解決し、読みやすくしてくれる「ログビュワー」と呼ばれる種類のソフトがあった。

自動化の第一歩は、ログビュワーの導入からだった。




ところで、パソコン通信と簡単に言っても、ホスト側の機能によって表示や命令などが全然違う。

ログビュワーも、ホスト側の表示によって影響を受けるため、ホストに合わせたものを使わないといけない。


僕の行きつけだった草の根BBSは、98 の BIG-Model と呼ばれるホストプログラムで運営されていた。

使っていたのは X68k で、中心的な X68k ユーザーは、X68k でホストされたBBSで活動していた。


そのため、見つけ出した、使いやすいログビュワーは、X68k のホストプログラムに対応したものだった。


そこで、こいつを無理やりどうにかする。テキストファイルだからどうにでもなる。

BIG-Model のログを awk で成形し、ビュワーで読める形式に変換できた。



ログビュワーは、メッセージに対する「返信」も書けるようになっていた。

返信を書くときは、内部からエディタが呼び出され、文章作成後に、作成した内容を「アップロード」するためのコマンドを作り出す。


このコマンドも、後で awk で変換するようにした。


ともかく、通信ログをビュワーで見れば、個々のメッセージをゆっくり閲覧・返信などできて、その結果は「次回のアップロードファイル」として用意される。


アップロードファイルと言っても、これはターミナルからホストに送信するテキストに過ぎない。


会議室に入り、「書き込み」の命令を出して、書きたい文章を入れる。

その後、「文章を書き終わった」というコマンドを送る。


必要ならほかの会議室にも次々と入り、文章を次々とアップロードしていく。


一番最後に、「前回アクセス以降の未読」を、会議室を周りながら次々読みだして、終了する。



僕は早寝早起きだったので、深夜 11時の割引時間帯を待たずに寝ることが多かった。

しかし、朝7時の「割引終わり」よりも前に起きる。


X68k はタイマー起動できたので、目覚まし代わりにすでに起動している。


一連の流れをすべて自動的に行うプログラムを作ってあった。


すぐに、このプログラムの実行を指示する。

前日作っていたアップロードファイルを送信し、得られたログを成形し、ビュワーで見られる形に整える。

大抵は3分以内に通信は終了する。



あとは、ゆっくりログをみながら返信を書いた。

送信されるのは明日の朝だ。




パソコン通信では、今では見られないユニークなソフトや、「遊び」が多数あった。


一番書いておきたいのは、「エスケープシーケンスアニメ」のこと。


ターミナルエミュレータは、大抵 VT100 端末をエミュレートしている。

そして、この端末では、エスケープ文字から始まる文字列を、特殊なコマンドとして解釈する。


これによって、画面上の任意の位置にカーソルを移動したり、文字の色を変えたりすることができた。



エスケープシーケンスアニメは、通信が 1200bps であることを前提に、エスケープシーケンスを駆使することで作られた動画だ。


普通は、圧縮したバイナリで、バイナリ書庫に置かれている。

でも、中身はただのテキストファイルだ。

いや「ただの」ではないな。エスケープシーケンスが大量に入っているので、普通のテキストエディタで開いても意味が分からない。



ターミナルソフトには、大抵「ローカルのファイルを、任意のビットレートで通信しているかのように表示する」という機能があった。

これを使い、1200bps として、エスケープシーケンスアニメのテキストファイルを表示することで再生する。


動画、と言っても、文字の組み合わせで表現する。

簡単なアスキーアートを動かして、文字でセリフを表示し、物語を作るのだ。


再生に5分もかかるような大作もあったけど、数秒で終わるけど笑わせてくれる、というような作品が好きだったな。

今でいえば、GIF アニメとか、Flash アニメみたいなものだった。




バイナリ書庫、とさらっと書いたけど、文字で会話する「会議室」以外に、書庫もあった。

ターミナル側が、バイナリの送受信に対応している必要がある。


初期のパソコン通信では、バイナリ書庫が存在しない場合もあった。

そこで、ish というプログラムが作られていた。石塚さんが作ったから ish 、らしい。


任意のバイナリを、テキストに変換してくれる。

初期のパソコン通信は通信エラーで文字化けすることも多かったので、強力なエラー訂正機能も持っている。


今でいえば、BASE64 エンコーディングするようなものだけど、BASE64 程大きくならない上に、エラー訂正もついているという優れたものだった。


…と、書いているけど僕自身お世話になった覚えはない。

パソコン通信やるなら持ってなきゃ、というわけで入手はしたはずだけど、もうバイナリが普通に扱える時代だったからね。



作ったゲームのいくつかは、地元の草の根BBSにアップロードして、転載自由とした。

だけど、「遊んだ」というような感想は聞かれなかった。




9600bps の時代、大きなデータのやり取りは大変だった。


TeX という組版ソフトがあって、これは論文などを書く時にも非常に有用なのだけど、X68k 版はフロッピーディスク3枚組くらいあったと思う。


こういうソフトは、ダウンロードするにも通信費がかかるし、ホストのほうも一人のユーザーがずっとアクセスしていると困る。


そこで郵送による「通信」が行われた。

ネット上で予約して、自分の順番になると誰かからディスクが郵送されてくる。

自分は、コピーし終わったら次の予約者に郵送する。


何とものんびりしたものだけど、僕は友人がこうやって手に入れた TeX をコピーさせてもらった。

卒業論文はこの TeX で書いたよ。


#関係ないけど、前回書いた「MSX2 用のプリンタ」を、X68k に接続して、自分でデバイスドライバ書いて TeX から印刷した。

 そしたら、印刷を見た大学の後輩に「先輩、レーザープリンタ買ったんですか?」と驚かれた。


 TeX の印刷は非常に整った、綺麗なものだ。

 そして、その後輩は「綺麗な印刷 = レーザープリンタ」だと思ったのだ。



同じような目的で、「バイナリ配布オフ」が開かれることもあった。

草の根BBSなんかで、ホストを運営している人のお宅をみんなで訪問するの。もちろん許可を得てね。


ホストが目の前にあるのだから、バイナリファイルは取り放題。

とにかく、大きすぎるデータはパソコン通信の外でやり取りされることが多かった。


ここら辺、今とは違うところ。




バイナリと言えば、画像データも結構人気があった。


ただ、僕はあまり画像に興味なかったんだよね…もらったもののうち、「この絵はいいなぁ」と思うようなものはコピーして保存していたけど。


今なら、WEB で簡単に絵を見せられるけど、当時はバイナリ配布で1枚づつダウンロードしてもらうしかなかったのよ。

しかも、長時間かけてダウンロードして、絵を開くまでどんな絵かわからない。


描く方も大変で、一番の勢力だった 98 を念頭に書かれたものが多かった。


640x400 ドットで、同時に使える色は 16色だけ。ただし、この 16色は、4096 色の中から自由に選び出せる。


こんな色数でも、上手に描く人は上手だった。



ちょっと毛色の変わったところでは、NAPLPS で書かれた絵、というのもそれなりにあった。


NAPLPS は、今でいえばベクターグラフィック。

98 に限らず、どんな環境で表示しても、綺麗な状態で見ることができる。


…とはいっても、「線をひいて塗りつぶし」の連続なので、線はきれいだとしても、塗りがぺったりしていた。

上手に書いたビットマップ絵のほうが、たとえ解像度の変換などでドットがつぶれても、美しい感じ。



NAPLPS には面白いところがあって、計算しながらゆっくり描くので「描いている最中」を見ることができる。

これを使って、絵を描いてから、さらに上に塗りつぶしていく…というような書き方で、動きを見せることができた。


GIF アニメとかの始祖的なものだと思ってもらってもいい。



画像データだけでなく、音楽データなんかも出回っていた。

ただ、こちらは機種ごとの差が結構大きかったように思う。


X68k だといくつかの形式の音楽があったけど、98 なんかはまだBeep音しか出ない機種もあったからね。




いずれにしても、パソコン通信の普及で一番大切なのは、「作成したデータの発表の場」が作られたことではないかと思う。

プログラムも絵も音楽も、雑誌投稿くらいしか発表の場がなかったのが、自由に発表できるようになって活気づいていく。


それは同時に、それらを「消費するだけ」で生み出さない人々も多数いたから支えられたのだと思う。



当時は「読むだけ」のユーザーをROMと呼んで見下す風潮があったのだけど、僕はその風潮に違和感を持っていた。

まぁ、自分もゲームなどを発表した側なので、一言でいいから感想くらいもらえるとありがたいとは思う。

それは厳しい意見でもいい。ちゃんと見てくれた、ということがうれしいし、次回作への意欲となるからだ。


でも、見た人全員が語り始めても邪魔なだけだ。

見たけどあまり興味なかった、という程度の感想が山ほど来ても困るだけだ。




大学卒業後…だから、1993 年以降の話だけど、パソコン部にいたので、仲間は大抵パソコン通信をやっていた。

後輩の友達がやっている、という草の根BBSの中に、メンバー限定の会議室を作ってもらい、そこで連絡を取り合っていた。


この頃になると、インターネットも気になり始めている。

まだ WEB は一般化してないのだけど、日本初のインターネットプロバイダである IIJ が設立されたばかりで、uucp とかは使えるようになっていた。



1995 年には、NTT が「テレホーダイ」を開始する。

同年、Windows 95 が発売。


…でも、Windows 95 には、インターネット接続機能はなかった。

標準搭載になるには、98 を待たないといけない。


#標準ではないけど、95の時代にマイクロソフトは IE を大々的に配布し、インターネット時代が始まる。



僕のこのページは、1996年から作り始めている。

先に書いたように、IIJ はとっくにインターネットサービスを始めているし、テレホーダイも始まって1年もたっている。


「すっかり出遅れた」つもりで始めたのだけど、今となっては「古いサイト」の一つになっている。

見た目も古いし、あまり褒められるところはないのだけどね。



そのころのインターネットの様子は、ジェリー・ヤンの誕生日の時に書いているので、そちらを読んでもらうとわかりやすいかな。



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