2013年09月08日の日記です


当WEBの執筆指針について  2013-09-08 11:02:12  その他

Twitter でゲームの歴史関連で盛り上がっています。

ざっくりまとめると、ネットも本も嘘が多すぎる、なんでも鵜呑みにせずちゃんと調べて書け、ということになってます。



…えーと、すみません。僕のサイトでもコンピューターの歴史とか、ゲームの歴史とか書いていますが、嘘多いと思います。


盛り上がっていた方々は、僕も参考にさせてもらっている、本当に素晴らしいサイトを作っている方々ばかりです。

歴史研究の第1人者である彼らは、本当に多くの努力をしています。

世間に流布した「誤ったイメージ」を払拭するような話題を、根拠と共に示しておられます。


でも、残念ながら僕にはそこまでの能力がないのです。


会話をまとめたサイトを見た際に、自分のことを糾弾されているような気分になり、サイト閉鎖しようかと真剣に悩みました。

でも、一晩たってそれは違う、と思い直しました。


以下、サイトを続けていくためにも僕の考えを書いておきます。

ある種の言い訳です。言い訳は見苦しいのですが、考えを明らかにしておかなくてはサイトを続けるのが心苦しいので。




まず、僕は歴史の「真実」を知りません。

好きで古いコンピューターやゲームを調べていますが、その時代には生きていませんでしたし、それらの開発者たちとも友達ではありません。


真実を知らないので、書いていることは聞きかじった知識だけです。

聞きかじりなので、嘘がインプットされれば、そのまま嘘をアウトプットします。



書いている記事は、僕がいろいろ調べていて「面白い」と感じたことに限られます。

「面白い」というのは、あまり一般には知られていない事実、と言い換えても良いです。


この時、その「面白さ」が伝わるような記事を書きたいと思っています。


ただ、この場合の面白さって、見つけた事実だけ書いても伝わらないのです。

周辺の話題をある程度展開しないと意味が伝わりません。


この周辺話題を書く際には、手元にある本や、ネット上の資料を参考にしています。

「伝えたいこと」に関しては、間違いがないか入念なチェックを行っていますが、それ以外の部分のチェックは甘いです。

糾弾されているように「本やネットは嘘ばかり」なのであれば、僕はそれらに書いてあることをそのまま書き写しているだけになります。


ですから、この時点でふたたび嘘が混ざります。



もう一つ、僕がわかっていて嘘を書くことがあります。

伝えたい話題があり、その話題の周辺も伝えないとうまく伝わらない時、周辺の話題を掘り下げることになるのですが、それを伝えるためにさらに周辺を掘らないといけないことがあるのです。


こんな時、嘘を承知で端折ります。

大抵は、端折ったことがわかるように書いているのですが、上手く伝わらないこともあるようです。


(事実、1か月ほど前に書いた記事に関して昨日「違うよ」と指摘をいただきました。

 指摘をもらった場所は、事実を知っていながら嘘を承知で端折った場所だったのですが、これは端折ったことがうまく伝えられない僕の書き方が悪かったのだと反省しています。)


以上、3つの理由により、僕の書いた記事には嘘が混入します。




3つの嘘のうち、「わかっていて、話を単純化するために書く嘘」は、嘘であると読み手に伝わらないとなりません。

これがうまく伝わらないのは僕の文章力がないせいで、申し訳なく思います。


しかし、それ以外の2つに関しては、すくなくとも僕自身は嘘を書いている、と言う意識はありません。

事実と異なっていても、僕はそれを事実だと信じているわけです。


これを「誤れる事実」と呼ぶことにします。


僕自身、なにか文章を書くにあたって、嘘を広めようとは思っていません。すべてが事実のつもりで書いています。


しかし、「誤れる事実」が混入することはあります。

言い訳になってしまいますが、誤れる事実の混入をもって「嘘を広めるな」と言われてしまうと、僕は一切の文章発表ができなくなってしまうのです。



「間違えている」と言う指摘は大歓迎です。

先に書いたように、昨日も間違えの指摘をいただきましたし、そのしばらく前にもいただきました。


しばらく前にいただいた指摘は、実は指摘の方が間違えていました。

指摘者の考えていた事実が「誤れる事実」だったわけですね。


それでも、この指摘に関して裏付け調査する過程で、それまで知らなかった新たな事実が発掘できました。


先に書きましたが、僕にとって面白いと感じている「以外」の部分は、他の記事を読んで、僕の言葉に直して書くくらいのことしかしていません。

指摘によって興味を持ち、調査した結果新事実が発掘できる、と言うのは非常に嬉しいことです。


誤りの指摘はいつでもどうぞ。




「誤れる事実」に関しては、間違えの指摘は受け付けますが、間違えていると怒らないでほしいな…と甘えたことを言います。

書いた文章に責任を負う覚悟はあるのですが、その責任は誤りの修正を限度とさせてほしいのです。


そして、僕が甘えているのですから、僕も他人の「誤れる事実」に寛容であろうと考えています。


この寛容さはまた、僕自身が「誤れる事実」に立脚して文章を書いてしまった場合に、元記事に責任転嫁するのではなく僕が責任を負う、という態度表明でもあります。




もう一つ、他人の意見に寛容であろうとする理由を掲げます。


僕自身は、好きでコンピューターやゲームの歴史を調べています。

でも、こんなもん、普通の人にとっては「どうだって良いこと」だろうともわかっています。


これは、人の態度に寛容であろうとするときに、一番最初に心をよぎることなのです。


僕自身、たとえばパンについてそれほど知りません。


日記に「このパン美味しかった、最高」と書いたとして、詳しい別の方から「あれが最高じゃない。もっと美味しいのがあるのだ」と指摘されたとしても、嬉しいとは思いません。むしろウザいだけです。

だって、僕はパンにはそれほど興味がなく、その日たまたま食べたおいしいものを書きとどめたかっただけなのですから。


同じ理由で、「世界最初のテレビゲームは Tennis for Two」と書かれたページを見ても、それで構わないと思っています。

その人にとって、その時知った情報を書きとどめたかっただけです。それ以前のゲームがあるからと言って「それは最初じゃない」なんて言うのは野暮なだけです。



少し前に書いた「世界最初のテレビゲーム」の記事では、読んでくださったある方が「結局どれが最初なのか結論を出してない」と感想を呟いていました。


結論を出さない理由を説明しているのでもう少し読んでほしいな、とは思いましたが、結論を出さないのは上記のような理由もあってのことです。


僕は好きだから研究しているけど、その一方で「正直どうでもよい」と感じている、冷めた自分もいるのです。




寛容でありたいと言いながら矛盾した態度ですが、僕は時々「Wikipedia が間違っていると思う」ということを書きます。

これは、Wikipedia の影響力が無視できないからなのですが、そんなに言うなら僕が直せばよいのです。

Wikipedia は、誰でも編集に参加できるのですから。


しかし、それをやらないで指摘どまりにしているのは、先に書いたように僕が「新事実の発掘」が好きなためです。


新事実の発掘と言うのは、つまり誰もそれについて検証していないことを意味します。新しい主張では、嘘か本当かすらわからないのです。


Wikipedia では、「事実」だけを書くことを目的とするため、こうした「独自研究」の記述は禁じられています。


僕が一番好きなことが禁じられているのでは、編集に参加してもモチベーションが続きません。

これが、僕が Wikipedia の間違いを指摘しつつ、編集を行わない理由です。


#実は、新事実の発掘が好きな理由の一つは「誰からも嘘だと言われないから」でもあります。

 検証されていなければ、嘘だという人もいませんからね。

 僕は臆病で、嘘だと言われるのを恐れているのです。

 …だからこんな長い言い訳を書いているわけですが。




少し話が変わります。

冒頭に挙げた、歴史好きの方が盛り上がっていた話の中で、一次資料を当たるべき、と言うような話も出ていました。


多分、一次資料という言葉の意味も、人ごとに違うと思います。

ここで、「僕の規定する」資料のランクについて記しておきます。


一次資料とは、歴史の当事者が当時書いた書面です。

もしくは、当時撮影された写真です。

いずれも、「当時である」ことを示す日時などが入っていると良いです。


二次資料とは、歴史の当事者が、後に過去を振り返って書いた記録です。

当事者ですからある程度の正確性はありますが、記憶違いや、過去を美化している、功名心で美化しようとしているなど、事実とは異なる可能性が高くなります。


三次資料とは、一次資料・二次資料などを基に、他人が書いたものです。

三次資料を基に書かれた資料も三次資料とします。つまりは、信憑性の低いものです。



信憑性は一次資料が最も高く、三次資料が最も低いです。


しかし、歴史と言うのは「後世に名を遺したもの」によって構成されます。

まだ歴史に名を残すかわかっていない時点で、当事者が残した資料と言うのはかなり少ないです。

一次資料を当たれればよいのは当然ですが、一次資料だけでは歴史全体を構成できません。


また、一次資料に「誤れる事実」が混入する可能性もかなり高いです。

一次資料は信憑性が高いからそのまま信じる、と言うわけにもいかず、さらに裏付けが必要となるのです。


僕自身の現在の態度としては、できる限り信頼できる資料を参照したいとは思っています。

しかし、所詮趣味でやっていることなので、非常に高価な本を取り寄せたり、海外の図書館に調べに行ったりはしていません。


Whrlwind を調べていたときは、関連書籍が MIT の図書館に保管されていることはわかりましたが、残念ながら参照していません。

学術論文などでは、Paypal 払いができる論文配布サイトなどもあるのですが、1ページでも $10~$30 程度はすることがおおかったり、そもそも Paypal 払いに僕自身が対応できなかったりして、参照していません。


話を書くのに一次資料も参照しないとは何事か、とお叱りを受けるのであれば、全くそのとおりで申し開きできません。


一方で、ネットが普及して、以前なら入手できなかった一次資料も PDF などで配布されているのも事実です。これらは、知り得た限りではできるだけ目を通します。



#例として EDSAC の NOP の話題を挙げときます。

 一次資料を当たらなければ気づかなかった話です。



なお、この「できるだけ資料を当たる」と言う態度は、サイトを再始動させた昨年あたりから。

重要だと感じた資料は「参考資料」などの形で記していますが、それ以上に資料を読んでいます。


それ以前の記事…子供が生まれて8年くらいブランクがあるのですが、その前に書かれた記事は、ネットが今ほど便利でなかったころに書かれています。

そのため、持っている本を元に書いたりする程度で、信憑性が低いことを断っておきます。




信憑性についてもう一つ追記しておきます。


日記に書いたネタは裏付けがきちんと取れていない、と考えてください。

ちゃんと裏付けを取りながら書くと、短い記事でも2~3週間かかってしまうので。


旬なうちに書きたいネタとか、それほど興味を持っていないネタは、裏付けが不十分なまま「日記」として書くことがあります。




…と、見苦しい言い訳を長々と展開してみました。


嘘を書いてはならない、という気持ちで臨んではおりますが、以上に書いたような理由により、必然的に僕のサイトには嘘が混在しています。


読んでくださる方には申し訳ありませんが、嘘かどうかはご自分でご確認ください



僕としては、面白いと思ったこと…あまり知られていない事実の掘り起こしをこれからもやっていきたいと思っています。

「嘘か本当かもわからない」という、もっともタチの悪い文章の書き方でもあります。


嘘を許せない、と言う方には申し訳ありません。

ここは自分が趣味で作っているページですので、好き勝手やらせてもらう! と開き直ることにしました。


#最初に書いたように、サイト閉鎖まで考慮に入れて悩んだ結果の結論です。

 開き直って恥をさらさないと趣味なんてつづけられるか! と言うことです。




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