次世代ゲーム機戦争
目次
ソニーの弱み
ソニー自身、開発したゲーム機の弱点は判っていました。
3D性能に特化しすぎて、当時の一般的な人気ゲームが作れないのです。
3Dはマニア向けのジャンルで、3D性能に特化したゲーム機で何を作ればよいかすらわからなかったようです。
しかし、「3Dでも戦える」と確信したのは、バーチャファイターの登場(1993年12月)だったと言います。
先にも書きましたがこれはセガ側にも誤算で、「3D技術を使った2Dゲーム」という新しいジャンルを切り拓いた作品でした。
3Dがマニア向けなのは、3D空間の把握が難しいから。
どんなに3Dの表現を使っても、カメラワークによって事実上の2Dゲームを作ってしまえば、一般受けするゲームが作れるのです。
これで、3Dに特化したゲーム機でも戦える、という自信は付きました。
それでも、ソニーはゲーム業界では新参者でした。
プレステよりも半年ほど前に発売された、松下(現パナソニック)の 3DO は、「家電品会社が作ったゲーム機」の先達でしたが、惨敗でした。
決して性能が悪かったわけではありません。ゲーム業界にはゲーム会社と熱心なファンの間に「持ちつ持たれつ」の独特な雰囲気があり、新規参入が難しかったのです。
ソニーは、そのままではプレステは 3DO と同じ道をたどり、自滅する道をたどるだろう、と危機感を持っていました。
性能も知られずに「勝手に自滅」は避けたい。そのために、早くから宣伝を開始しました。
といっても、発売日のはるか前に広告をうつわけではありません。プレイステーションが面白そうだ、と思わせるため、世論を盛り上げていくのです。
「次世代ゲーム機戦争」…当時ほとんどのゲーム雑誌が、1994年のゲーム機ラッシュをこう呼んでいました。
これ、ソニーの策略だったそうです。おそらく、開発中のゲーム機の情報リークなどと引き換えに、こういう見出しで報じてもらうように取引したのでしょうね。
本当は、誰の目から見てもサターンの独り勝ちが明らかで、「戦争」なんて起こるわけがなかったのです。
でも、発売のずっと前から開発中のゲーム機などを取り上げ、「戦争」として取り上げてもらい、ゲーム好きの心をくすぐりました。
ここでは、「次世代」とは「CD-ROM の大容量と、3D表示機能を持つゲーム機」というように定義づけられました。
…もちろん、これもソニーの戦略なのでしょう。プレステの特徴を、「次世代」の定義にすり替えたのです。
NEC の PC-FX は3D表示機能がありませんでした。
実はこれは致命的なことではありません。まだまだ2Dのゲームが中心だったのですから。
しかし、「3Dで遊べる次世代ゲーム戦争」という雰囲気を醸成されてしまうと…惨敗は明らかでした。
セガにはバーチャファイターというビッグタイトルがありました。
サターンに移植されることは決まっていましたし、3Dの戦いでもやはり注目を集めていました。
…しかし、サターンの真価は2Dの機能にあります。ソニーの策略で、一番の得意技を封じられてしまった形でした。
ソニーとしては、サターンに勝つ必要はなかったようです。
ただ、「自滅」にならないように、サターンと争えるほどの性能の機械としてプレステを印象付けるのが目的です。
プレステは2D性能では、明らかにサターンに劣っていました。でも、3Dなら勝てます。
もし、セガが「3Dが遊べる次世代ゲーム機」という雰囲気を打ちこわし、逆に「プレステでは2Dのゲームは遊べないんですよ」と、ソニックシリーズや、固定ファン層の多いシューティングゲームなどを印象付ける戦略に出たら、勝負は変わっていたかもしれません。
しかし、プレステの性能の高さに慌てたセガは、CPU を増設して性能を互角にし、3D勝負、という土俵に上ってしまいます。自分の土俵に引き込んだソニーの作戦勝ちでした。
ソニーは、他にも「プレステは面白そうだ」と思わせる策略を、たくさん行っています。
プレステの発表会では、サードパーティの「数」を発表しました。これほど多くの会社が参加するから、面白いゲームが沢山出るよ、と言うわけです。
聞いたことない会社や、ゲームを全く作ったことがない会社も含まれました。実のところ、ゲーム業界にはサターンが勝利すると考えている人が多く、プレステに参加するゲーム会社は少なかったのです。
しかし、セガもこれに対抗するように「数」を発表せざるを得ませんでした。
(もしくは、ソニーに頼まれた各雑誌社が、参加企業の数を問題にするように記事を書いたのかもしれません)
それらの会社のサポートは、後々セガの重荷になっていたように思います。
ソニーの策略は、狙った以外の部分でもセガを苦しめていくのです。
とにかく、ソニーは広告戦略に長けていました。
雑誌メディアをうまく使い、ゲーム業界では有名なセガに「勝っている」部分の比較ばかりを出すことで、プレイステーションを印象付けていったのです。
ナムコの立場
ソニーにとって、ほぼ唯一の頼りになる援軍は、ナムコでした。
ソニーはプレステ向けに専用 LSI などの設計を行っていますが、新開発された LSI の情報などは、経済誌などでも発表されていました。
ナムコはこの LSI が業務用基板に使えるのではないか、とソニーに連絡を取ります。その際にソニーから開発中のプレステを見せられ、開発に協力します。
具体的には、かなり早い段階から開発機材を借り受け、「リッジレーサー」の移植を行っていたようです。プレステの同時発売タイトルでもありますが、移植の目的はむしろ「プレステの性能試験」でした。
ソニーにはゲーム機作成のノウハウはありませんでしたから、ナムコが具体的なゲームを作り、問題点があれば解消する、と言う方法で性能を上げていったのです。
ただ、多くの方が勘違いされているようですが、ナムコは「プレステにゲームを独占供給」するような契約は結んでいません。
ナムコはセガとも比較的仲の良い会社だったため、セガからもサターンの開発機材が早い段階から貸し出されていますし、プレステ・サターンの発売後も、サターン開発機材を借りたまま研究を続けていました。
当時のナムコは、面白いゲームを作るには開発者が自由に楽しめなくてはならない、と考えていました。そのため、どの機種で作るかはゲーム作成のチーム任せだったようです。
先に書いた通り、ナムコがプレステの開発に協力したきっかけは、ソニーの LSI が業務用基板に使えそうだと思ったからです。
実際ナムコは、この LSI を使った基板を作成しています。これは、プレステの上位互換基板でした。
この基板向けに作ったゲームは、当然プレステに移植されます。あくまでも「上位互換」なので、移植作業は必要です。しかし、サターンに移植するよりははるかに簡単です。
また、これによってノウハウが蓄積するため、別の基板からの移植や、全く新規に家庭用を作る場合もプレステが選択されることになります。
先に書いたように、ナムコ社内にはサターンのプログラムを研究していた人もいます。彼らも、せっかく研究したのだから、プレステとの違い、特に長所を社内で宣伝したようです。
しかし、サターン向けのゲームを作る、という決断に至らないまま、市場シェアはプレステに傾いていきました。
結局ナムコがサターンにゲームを発売することはありませんでしたが、これは結果論です。
プレステ発売前から決まっていたわけではありません。
ナムコはサターンの研究はしていましたから、サターンが無視できない市場規模を作り上げていれば、ソフトを供給したでしょう。