最古の時計
この「歯車」コーナーには3本の柱があり、そのうち一つが時計である、と、以前に明言しました。
今回は久しぶりに時計の話。それも、最も原始的な時計、「日時計」です。
日時計と言うのは、非常に原始的で、直感的にわかりやすい仕組みでもあります。
現在の太陽の位置を使って時刻を見る。どこの位置をどのような名前で呼ぶかは時代によって異なるのですが、現在の時刻で言えば、太陽が出た時が「6時」、もっとも高くなった時が「12時」で、太陽が沈む時がふたたび「6時」です。
もちろん、現在の機械式の正確な時計と比べると、日の出と日の入りを「6時」と固定してしまうのは非常にいい加減な話です。季節によって、これらの時間は変動しますから。
しかし、もともと時間と言うのは「人間にとって」便宜を計るための仕組みであり、おおよそのところがわかれば問題はないのです。
太陽の位置を元に時間を区切る、というのは、簡単ではありますが計測しやすい方法ではありません。太陽の位置をなにかと比較することが難しいですから。
そこで、太陽の位置とともに変化する「影」を使って太陽の代用とする方法が考えだされます。これが、いわゆる「日時計」です。
最も単純な日時計は、地面に棒を垂直に立て、その棒の西、北、東に線を引いてそれぞれ「朝6時」「12時」「夕6時」とする方法です。あとは、その線の間を等分すれば時刻がわかります。
このタイプの日時計は、紀元前2000年ころのバビロニアで使われ始めたと考えられています。
バビロニア人達は、太陽の出ている時間を6等分し、それぞれを「1時間」としました。6と言う数字は、2でも3でも割れるために便利だったためです。
そして、同じく2と3だけでなく、4、5、6、10、12、15、20、30と、多くの数字で割ることのできる「60」で1時間を割り、その単位を「分」としました。さらに、同じように分を60で割ったものは「秒」としました。
こうして、1年の日数は360日、日の出ている時間の長さは360分という、美しい時間体系を作り上げるのです。(彼等は、円の一周についても「360度」とする単位系を作っています)
いつごろから一日が24時間になったのか、私は残念ながら知りません。いろいろな資料を調べたのですが、古代において一日が12時間だったことに言及しているものはあっても、いつから24時間になったのかは書いていませんでした。
また、1年を360日と考えているのは、多くの古代国家に見られる現象です。実際には、「余分の5日間」を設けたり、数年ごとに「うるう月」を設けてつじつまをあわせます。
さて、日時計はその原理の簡単さ、時計としての正確さから、広く普及し、長い間使われることになります。
日時計に付いて書かれた一番古い記録は、旧約聖書の中にまとめられている「イザヤ書」だと言われています。
これは、預言者(神の言葉を伝える者)イザヤの言葉をまとめた記録で、紀元前7世紀頃のものです。内容は当時の大国アッシリアにユダヤの人々が征服された時、預言者イザヤが人々を導いた記録なのですが、この中に次のような一文があります。
主が約束されたことを行われることについては、あなたは主からこのしるしを得る。見よ、わたしはアハズの日時計の上に進んだ日影を十度退かせよう』」。すると日時計の上に進んだ日影が十度退いた。(イザヤ書38:7)
アハズというのは、先代の王の名です。アハズの日時計というものが何かはわかりませんが、その王が作った日時計ではないかと思います。
宗教的な内容はともかくとして、ここでは日時計と言うものがなんの説明もなく登場します。つまり、この時代には説明がいらないほどに日時計は普及しているのです。
その際には詳細がわからなかったのですが、2010 年時点で調査したところでは、「アハズの階段が正しい」とする解説ページを見つけました。リンクしておきます。(2010.12.06)
日時計は機械式時計が普及し始める16世紀頃まで使われつづけます。
当然、さまざまなタイプの日時計が作られました。季節による誤差が少ないように作るのは当然です。大きくてしっかりと据え付けられた正確なものもありましたし、持ち運びに便利な携帯用も沢山作られました。
季節による誤差が少ないようにするには、影を作る突起(指針)を、その土地の緯度と一致する角度につくります。
季節によって日の出、日の入りの方角は微妙に変わるため、垂直な指針で影を作ってしまうと、影の方向も変わってしまいます。しかし、角度を付けた指針をつかうことで、この差を多少減らすことができるのです。
昔は「旅行」とは言っても、今ほど距離を移動しないことが多かったため、携帯用の日時計では緯度の違いまで考慮する必要はありませんでした。ただ、東西南北の方向さえちゃんとあわせて設置すれば日時計はどこでもつかえたのです。
(ただし、方位磁針の発明は機械時計の登場とほぼ同時期なので、正確な方位を簡単に知る方法はなかった)
指輪に作られた日時計
そして、今回の目玉です。
実は、写真の指輪を見つけ、購入したのが今回日時計に付いて書こうと思った動機です。
これは15世紀の指輪のレプリカです。まだ金属の微細加工技術が確立する前(やっと針金が発明された時期)のものなので、作りは単純です。
この指輪の上には「CARPE DIEM」と刻まれています。これは、ラテン語で「今を生きる」という意味だそうです。
この、文字の刻まれた面を地面に置くようにして指輪を立てると、裏に穴が開いているのがわかります。そして、ここから入った日の光がちょうど落ちるあたりには、7〜12、そして1〜5の数字が・・・そう、これは日時計なのです。
構造的には、太陽の方角ではなく、高さが時間を示す形になっています。というわけで、季節・緯度による誤差は大きいでしょうが、その反面方角合わせが不要で、どこででも使える形になっています。
輪に開けられた穴から落ちた光が、写真では文字盤の3,4,8,9の間にあたっているのがわかるでしょうか?
ちなみに、私が購入したものでは南中した時の太陽がほぼ真上に来ないと12時を指しません (^^; 赤道直下でしか使えませんね。
これがレプリカだから作りが悪くなっているのか、元々そうなのかは不明です。
この指輪の本物は大英博物館に陳列されていて、元の持ち主はエドワード5世だそうです。
指輪を買った店でもらった小さな紙には、こう書かれていました。
エドワード5世はこの指輪を投獄された際に獄中で愛用し、その後自由になった後も外すことはなかったそうです。
・・・調べてみると、1483年に王位継承者であったエドワード5世は、王位を狙ったグロスター公の謀略でロンドン塔に幽閉されています。(グロスター公はリチャード3世を襲名し、イギリス国王に即位)
そして、その翌年、自由になること無く処刑されていますね (^^; まぁ、アクセサリーとしては血塗られた歴史より、嘘でもハッピーエンドを説明に選んだのでしょうけど。
指輪に付いての詳しいことは、歴史書には当然載っていません。もしかすると大英博物館までいけば何か説明があるのかも知れませんが、そこまでは出来ません。
後は想像するしかないのですが、おそらく、日時計への改造はエドワード5世の手によるものだと思います。指輪全体の加工精度も高くありませんが、日時計になる穴の開け方や文字の刻み方は、とくに出来が悪いですから。(失敗した跡もある)
そして、職人に頼まずに自分で加工しなくてはならなかった、ということは、これは幽閉されている間の仕事だったのではないでしょうか。
日時計の歴史と言うのは、長いだけにいろいろな形状のものが作られています。
また、指輪も非常に歴史がふるいもので、さまざまな仕掛けものが作られていたのは知っていました。
しかし、指輪の仕掛けを作る場合は、大抵装飾部分を使うだけで、輪の部分は単に「輪」なのですよね。
今回、装飾部分ではなく「輪」の側を使って、日時計を作っている指輪を発見したのは非常に衝撃でした。
携帯用日時計については、サンシャイン60のプラネタリウムの待ち合い室にもいくつか展示があります。以前に見つけて写真をとりたかったのですが、撮影禁止で諦めたような憶えがあります。
興味を持った方は、そちらも参照してみると良いかと思われます。
一人は「昔の船乗りが使った指輪だ」と言われて買ったといいます。別の一人は「昔のシルクロード商人が使っていた」と言われて買ったといいます。
どうも、エドワード5世が…というのも眉唾っぽいです (^^;
まぁ、指輪としては面白いと思うのでそのまま紹介しておきます。