2015年02月の日記です

目次

02日 僕のかかわったゲームのこと
04日 いきなり出鼻をくじくような
06日 最初のゲーム業界仕事
08日 はじめてIKEA行った
09日 ビル・メンズチの誕生日(1945)
09日 バイトでやった CD-I の仕事
12日 ジャングルウォーズ2
12日 フィル・ジマーマン 誕生日(1954)
13日 改正風俗営業法の施行日(1985)
14日 おばあちゃんとぼくと
14日 ENIAC公開日(1946)
16日 「ああ播磨灘」ゲームボーイ版
17日 クリストファー・レイサム・ショールズ 命日(1890)
17日 手相うらない ちょっとみせて 発表(1995)
18日 占い開発の初期
19日 ロケテストとショー発表
20日 スタッフロール
23日 ゲームセンターの努力
23日 理科ハウス
24日 当時の雰囲気
26日 ずんずん教の野望
27日 WING WAR
28日 プログラム教育


僕のかかわったゲームのこと  2015-02-02 17:36:20  業界記

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その昔テレビゲーム業界で仕事していた、というのは何度も書いていることなのだけど、いろいろと「企業秘密」っていうのもあるのかな、と思って詳細は書かずに来ました。


その一方で、どこかで知っていることをまとめておきたい、という気持ちも持っています。

以前書いたのだけど、自分にとっては些細なことでも、研究したい人には重要なデータかもしれないから。


で、一応自分なりの折り合いは気持ちの上ではついていて、20年たったことは公表しても良いだろう、と思っています。




多くの人には退屈だろうけど、なぜ20年なのか書いておきます。

最初に書いておけば、20年たったから公表してもよい、とする法的な根拠はありません。


まず、企業秘密について。

僕がゲーム業界大手で働いていた20~15年前は、企業秘密をばらしてしまう、ということについて、処罰する明確な法的根拠がありませんでした。


一応、「社員」に対しては処罰できました。

懲戒免職にもできるし、会社に損害を与えたのであれば、損害賠償請求の訴訟も起こせる。


役員であれば特別背任罪で刑事告訴も出来ましたが、基本的には民事なのですね。


民事っていうのは、会社が裁判所に訴えを起こす必要がある、ということです。

会社側にもリスクがあるので、あまり大きな話にはせずに、本人を諭して即退職してもらう(懲戒免職)、というのが普通の「罰」でした。

つまり、すでに退職した社員なんかはやりたい放題。会社を辞めてから内情暴露、とか簡単だったのです。



その後法律が変わり、企業秘密の漏洩は刑事告発できるようになりました。

刑事告発と言うことは、ある程度資料をそろえて、警察に提出すれば終わりです。


後は警察の仕事になるので、企業としては「処罰」を行うためのリスクが小さいです。

また、十分な容疑があれば実刑を受けることになるので、退社後の社員でも処罰することが可能になります。


つまり、退職後にやりたい放題、という時代は終わったのです。



これが、僕が自分のやった仕事の内容を秘密にしていた主な理由。


ただ、刑事告発できるようになって会社側の権利が増した分、制約も付けられています。

「秘密を漏洩した」というのであれば、その情報が「秘密」であると誰にもわかるように、かつ適切に管理されている必要があります。


…社外秘、とか大きく判子押してある情報は、秘密だということですね。



たとえば、セガサターンのマニュアルとか、社外秘の判子押してありました。

だから、そういう情報を漏洩してはいけない。


でも、もう一つ条件が付いていて、漏洩時点ですでに「公知の事実」となっていた場合は秘密とは言えません。

僕はすでにサターンの技術話を書いているのですが、エミュレータもオープンソースで作られたりしているし、どこかから流出したマニュアルもネット上で見つけることができる。


だから、これらはすでに「企業秘密」ではありません。


判子を押せないような、人のうわさ話なんかも、企業秘密ではない。

ただし、こちらは企業秘密ではないとしても、個人のプライバシー侵害の可能性があるので、あまり実名は出せません。

(役職名などでも、簡単に個人が特定できてしまうのであれば、実名に準じるでしょう)



実は、在任中に「噂話」を同人誌で公表したことが問題となって退職せざるを得なくなった社員が、同じ部署にいました。

これが、僕がかなり慎重になっている最大の理由。




法律では、会社の「営業上の秘密」がいつまで秘密であるか、年限を定めるものはありません。

でも、退社した社員がいつまでも自分の過去経験したことを口にしてはならないとしたら、これはちょっと会社側に一方的に有利な法律のような気もします。


だから「適切に管理されていること」があるのでしょうが、退社した後では、現在の管理状況がどうなっているかを知ることもできません。



一つ注釈を入れておくと、僕が今後書きたいと思っている話は、当時「社外秘」として指定を受けていなかったようなことばかりです。

ただ、入社するときにどこの企業でも誓約書書くと思うのだけど、「仕事上知り得た事項はすべて社外秘」扱いだったように思うのだよね。


実際、先に書いた、噂話だけで退職せざるを得なくなった人もいるし。

(もっとも、僕はこの人が同人誌で何を明かしたのかは一切知りません。もしかしたら、本当にヤバイこと書いたのかもしれない)



当時は社外秘を漏洩した人へ刑事罰を与える法律がなかったので、「適切な管理」も求められていなかった。

社外秘、というものが非常にざっくりとしていたのです。


ここが、いつになったら話をしてよいのか困っているところです。

それで、自分の中では 20年を区切りとしよう、と決めたわけです。




さて、「20年」と考えているのは、特許法の援用から。


特許は、普通なら秘密にしたいような技術上の優位点をあえて公開する見返りに、一定期間の「独占」が認められるものです。


独占されるとはいえ、技術そのものは公開されるため、他の人が類似技術を習得したり、工夫する余地が生まれます。

これにより、秘密にされるよりも技術の進歩を促すことが狙いです。


そして、この「独占期間」の上限が 20年です。

特許は一般に公開される前…ゲームであれば、ロケテストに出されたり、ショーでお披露目されたりする前に申請する必要があり、その申請から20年以内が独占期間。


技術と言うのは日進月歩で、20年も経てばもう「最新技術」ではありません。

誰でも使える程度の技術になっているだろうし、独占させておくことは却って弊害がある、という判断です。


これが、僕が公開するのに「20年」待つことがけじめだと考えている理由。




他に援用できそうな法律としては、特定秘密保護法なんかもあるでしょう。

あれは、国益に重大な影響を与えそうな秘密を守るための根拠で、保護期間は30年です。

(60年まで延長可能ですが)


僕の場合、会社員になって最初に作ったゲームが、そろそろ20年たつ。

これを30年までまってから公表するのはどうか…と考えた時、それはちょっと遅すぎる気がするのです。


たびたび書いていますが、ゲームの歴史を少しでも残そう、という話題が、あと10年たったらどうなっているかわからない。


というのも、僕としてはゲームはすでに斜陽産業だと思っているから。


人が居る限り、遊ぶ心は無くならないでしょう。

でも、30年後ではテレビゲームが、今よりもっと「特別なもの」ではなくなりそう。

歴史に興味を持つ人も減って、歴史を残す意義も失われていそう。



他には、たとえば著作権法は、権利の存続期間が60年ありますが、これは、「権利」という話だけで、秘密の話ではありません。

むしろ、すべてを明らかにした「著作物」だからこそ、長く権利が保護されている。




というわけで、少しづつ話を書いていこうと思っています。


会社員になって最初に作ったゲームの話から始めるつもりだけど、その前にバイト時代のことを少しづつ書くかな…



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24年 朝ご飯


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いきなり出鼻をくじくような  2015-02-04 17:24:06  業界記

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先日書いたように、20年を区切りに過去の仕事のことをまとめておこうかな、と思いました。


これ、僕としても心理的に少し障壁があるんです。

法的な話とか持ち出して牽制しているのも、そうした自分の気持ちに折り合いをつけるためでした。



で、一昨日書いたら、今日社員時代の友人から、久しぶりに電話がかかってきました。



電話の本題が終わった後、雑談に入ります。


友人「(過去に一緒に作ったゲーム名)なんだけど、まだ稼働している店あるんだよねー。

まだ1年以上あるけど、来年には20周年になるし、なんかイベント出来ないかと思ってるんだよ。

稼働しているゲームセンターとかに協力してもらってさ、当時の作成裏話とかできると面白いんじゃないかな。」


おぉ、それは面白い。

該当のゲーム、今でも「好きだ」と言ってくれる人がそれなりにいるゲームで、ありがたく思っています。

そんなイベントやるつもりなら、ぜひ参加したい。


友人「でね、あと1年あるから、それまでにちゃんと許可をもらっておこうと思って。

Aさんの連絡先知っている? **さんと、**さんには連絡ついたし、**さんはまだ会社にいるみたいだから、Aさんに了解貰えれば全員了解とったことになるんだよね。」


…すごいです。偉いです。

彼は、20年前のゲームの話をするのに、関係者全員の了承を貰おうと考えている。


僕も「20年が区切りだ」と考えている点では同じなのですが、了承もなしに裏話を書くための言い訳を考えていました。


うーん、ちょっと考えたほうがいいのか。



でも、今月中には、僕が初めて作ったゲームが 20年迎えるんだよね。


残念ながらこちらは、今では稼働している物は多分ない。

でも、「好きだったのだけどどこかに置いてないか」とか、「あの音楽好きだったけど、サントラとか出てないのが残念」とか言ってくれる人が、今でもいる。


#ツイッターでエゴサーチしてますよ



なんか、この機会に思い切って話を書かないと、きっかけを失って公開せずじまい、になってしまいそうな気がするんだ。

ゲーム業界に携わったものとして、些細な話でも残しておこう、という意図とずれてきてしまう。


葛藤を振り切って、公開しようと動き始めた矢先に、出鼻をくじかれた格好になってしまった。

もう少し悩んでみます…


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最初のゲーム業界仕事  2015-02-06 22:24:29  業界記

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まずは、とっくに20年たっている話。バイト時代の話から始めましょう。


1991年、大学2年の時に、横浜にある「ARC」というゲーム会社でアルバイトしていました。ごく短期。

名称変更はありましたが今でも存在している会社ですね。


たしか、アルバイトの応募で、「コメット」持っていったのではなかったかな。

1年の秋に大学祭のために作って、冬頃に満開製作所から発売してもらったゲームね。


この会社には運よく X68k があったので見てもらえて、それなりにプログラムできる、ということでバイト採用。


仕事内容は雑用。


プログラムできるならちょっとやってみな、と言われ、その時作っていた業務用プロレスゲームの、レフェリーの座標移動作りました。


プログラムをしたというよりは、どの程度のことができるのかテストされた、という程度です。

レスラー2人の座標を渡すので、その中間よりちょっと上あたりにレフェリーの座標をセットして、という課題でした。



プログラムが判る人には簡単な話で、平均位置を出して「そのちょっと上」に表示すればいいのですね。

アセンブラでも、足して1ビットシフト(2で割るのに相当)すれば平均が出せます。


どうも、テストとして求められていたのはその程度で良かったようです。

当たり前のことが当たり前に出来るかどうか。それすらできなければ「使い物にならない人材」ですから。


でも、平均位置に表示するだけだと、レフェリーの動きが不自然になる、と僕は考えました。

そこで、レフェリーの座標を、前回位置を元にして「平均位置に向かうように移動」するように作りました。


その際、座標のあたり判定をして、どちらかのレスラーに表示がぶつかりそうなら、移動しないようにします。

すでにぶつかっていたら、速やかにぶつからなくなる方向に向かって逃げます。


そうしないと、レスラーが縦に並んだ時に、上のレスラーと重なっちゃうかもしれないからね。

同じ位置に人が二人いることになったら、それは不自然な表示です。


CPU が何だったかは忘れたけど、ニーモニック表を見ながら30分くらいでプログラム作ります。

テキストファイルで組んだだけで、アセンブラとかは環境にないので、念のためじっくり見直し。



これでプログラマーの方に渡して、組み込んでもらいます。

大きなエラーもなく、一発で思ったような動きをして驚かれました。

(「レスラーにぶつからないように」とかは指示されてなかったのに作っていたので、それも含めて。)



今調べた限り、この会社がプロレスゲームを出したという記録は無いみたい?

記録漏れかもしれませんし、名前を出さない下請け仕事かもしれません。


#記録って言っても、所詮は Wikipedia に書いてあったのを調べただけです。


メイン取引先のライバルからの受注もあったりしたので、名前を出せない仕事もしていましたし、隠れて仕事をするために近くのマンションに別室も用意されていました。




これで「出来る奴」と認めてもらい、雑用とはいえゲーム作成に関わらせてもらえます。



とはいえ、プログラムではなくて、データ作成など。


ゲームギアで、当時流行していた「ちびまる子ちゃん」のミニゲーム集作っていて、仕様書を元に「スゴロク」のマップを埋めました。

スゴロクなので、通るマスは決められたキャラで。それ以外の部分は適当にって、そんな仕事。


このゲーム、後で企画変更になって、ちびまる子ちゃんではなくなった。

理由は知らないけど、版権取れなかったのではないかな。


たしか、絵とか変更して「クニちゃんのゲーム天国」になったのだと思う。

僕が埋めたマップがどうなったのかは知らない。


#基本的に仕様通りに埋めただけなので、自分が自由にしてよい場所をどう作ったかは覚えていない。

 そのため、同じかどうかすら不明。




会社に、当時は珍しかったカラーインクジェットプリンタがありました。

シャープのIO-735X というやつ。今調べたら、定価で24万8千円だったようです。


#当時はプリンタ自体持っている人が少ない時代。

 持っていても白黒。よくてカラー熱転写。

 ワープロで使われるのが普通で、それ以上のことがしたければ自分でプログラムを作る必要があった。


画面のイメージをプリントアウトして発注主に見せられる、という思惑で買ったらしいのですが、プリントアウトするためのプログラムが無い。

試しに作ってみてよ、と言われ、作ることになりました。


プリンタ自体の制御は、MSX で熱転写プリンタに印刷するプログラムとか作ったことがありました。

これは難しくない。


まずは、白黒前提でスーパーファミコンのキャラクタデータを印刷するプログラムを作ってみます。

ここまでは、比較的簡単に出来ました。


これだけでも、「進捗状況を見せられる」と喜ばれました。


そこからカラー対応。

当時はカラープリンタ自体珍しく、画面の色をどうやったらカラー印刷できるのか、解説した本なんかもない。


「あらゆる組み合わせで印刷しみてさ、それらしい色を探し出せばいいよ」みたいに社長が言うので、組み合わせを片っ端から印刷するプログラムを作ってみますが…




先に前提を書いておきましょう。

最終目的は、スーファミのゲームの画面などをプリントアウトすること。


スクリーンショットではなく、専用ツールで書いた「キャラクター」や、そのキャラクターを並べた「マップ」のファイルを印刷します。


スーパーファミコンは 32768色。

一方、カラープリンタは、CMYK の4色のインクの有無の組み合わせで色を出すので、論理上16色。


16色ではとてもスーファミの色を表現しきれないので、これを 4x4 ドットで扱います。

1色について17階調の表現ができるようになります。

(4x4 の 16ドットについて、0ドット塗る、1ドット塗る、2ドット塗る…16ドット塗る、の17段階)


IO-735X は180dpi だったので、A4 横方向が8インチとして、1440dot位印刷できます。

4x4 でファミコンの1ドットを表現すると、横に 360dot が印刷できることになります。


スーファミは画面上、横に 256dot 表示できますが、これがちゃんと収まります。

「1画面が収まって少しあまる」サイズで印刷した覚えがあるから、多分このサイズで作ったのではないかな。




色の表現方法はこれで良いとして、社長の示唆するように、あらゆる組み合わせを印刷してみようとします。

…4つのインクが17階調ですから、17x17x17x17 = 83521 の組み合わせがあるんですね。


どの色がどのような配合かも示さないといけないので、少し色を塗ったら、横に CMYK の割合を表示しました。


たしか、1行に4色分くらい、縦に32行位表示するとちょうどよかったような。

1ページに128色が印刷されることになる。


ちょっと計算してみると…653ページ印刷しないといけない。

そして、その中から「スーファミの色に近い色」を、32768色選び出してテーブルを作らないといけない。


できるわけありません。数ページ印字したところで気づいてやめました。




2~3日、ひたすらいろんな印刷を試しては、にらめっこ。


まずは、CMYK 共に値が大きいときは、インクが多すぎて紙がふやけ、使い物にならないことを知りました。

でも、この時点では実験なのでこの問題は無視。とにかくいろいろな色を試してみます。


そのうち、「なるほど、RGB の補色が CMY なのか」という、今考えれば当たり前のことに気付きます。

これがかなりの進展。


そして、色を混ぜれば「黒く」なるのだから、CMY 共に値が大きい場合は、一番少ない値の分だけ黒を混ぜ、その分 CMY の使用を差し引くと「紙がふやけない」ことに気付きます。


色合いが多少おかしいながらも、それらしい印刷をするプログラムが出来上がりました。

今考えれば、ガンマ補正とか付けないといけないのだけど、当時はそこまで知識が無い。


あと、キャラクターを並べて「マップ」を表示するようにも対応します。


僕のプログラムはここまで。

社長が想像していた「カラーで美しい印刷」とまではいかなかったようなのですが、買っただけで使えていなかったプリンタが動くようになった、というだけでも喜ばれました。


この時の経験、結構後まで役に立ちました。



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はじめてIKEA行った  2015-02-08 16:51:59  住まい 家族

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タイトルの通り、はじめての IKEA。


IKEA ネタは今更なので特に詳しいことは書かない。


でも、あのネタとか、このネタとか、見た時に単に笑っていたものが、自分が IKEA に行ってみてやっと真の意味が理解できた。


自分がスウェーデンハウスに住んでいて、IKEA はスウェーデン家具を売る店なので、ずっと前から興味はあった。

でも、特に買いたい家具もなかったし、子連れで家具屋に買い物に行っても子供はつまらないだろう。


そう思っていたのだけど、妻の仕事椅子が壊れて買う必要ができて行ってみたら、子供は楽しかったようで「また行こうね」と言っている。


まぁ、家具なんてそれほど必要になるわけではないから、当面行かないけどね。



椅子だけでなく、しばらく前から懸念していたいろいろなもの…子供が成長して生活スタイルが変わってきたので、もう少しコート掛が欲しいとか、そうしたものは購入してきた。


いくつかは既に設置したし、いくつかはこれから。




実際の部屋を想定したスペースに家具を設置してある、ショールームスペースがところどころにある。


その一つに、「古い和風建築の部屋を、今時の若者が使うように簡単に改装」しているものがあった。


押入れと床の間が付いた畳の部屋を想定してある。


でも、押し入れは襖を取っ払って、中段を作りつけの机として使えるようにそろえてある。

ノートパソコンとか置いてあるし、周囲に使いやすく棚などを配置して合って機能的。


床の間と思われるスペースも、全然それらしく見えないし、畳は見えないようにカーペットで覆ってある。

鴨居もあるのだけど、タペストリなどで巧妙に隠し、言われないと気にならない。


この、「和風の部屋を洋風に改造してあり、全く和風を感じさせない。でも、ショースペースなので和風の改造だと気づいてもらえないと意味がない」という微妙な展示を行ったスタッフの心意気に感銘した。


そして、畳の上を土足で通ってよいこのスペースに、妙な居心地の悪さを感じた。



すぐ近くに、同じように「畳の部屋を子供部屋に改造」した展示もあり、そちらは畳が見えたままだった。

子供が遊びたくなるようなおもちゃも置いてあり、多くの子供が靴を脱いであがっていた。


やっぱ、畳見ると日本人は靴脱いじゃうよね。

でも、先に書いた部屋は一見畳の部屋に見えないからこそ、だれも靴を脱がない心地悪さがあったんだ。



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10年 かわいくて おっきいの!

10年 ヒーローごっこ

17年 ゲーム会社の仕事

17年 ボブ・バーマー 誕生日(1920)


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ビル・メンズチの誕生日(1945)  2015-02-09 10:08:30  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、ビル・メンズチの誕生日(1945)。

モトローラで 6800 の設計に携わり、モステクノロジーで 6502 の基本設計を行い、ウェスタンデザインセンターで 65816 を設計した人です。


独特な、癖の強い設計で、ファンも多い CPU を作り続けた人。

「思想的な後継」としては現在でも ARM がありますが、設計者などは全然別ね。




実のところ、僕は 6800 をあまり知りません。

通り一遍の知識はあるけど、プログラムまではしたことが無い、という意味ね。


6800 は、PDP-11 を元に設計された、と言われている 8bit CPU です。


当時としては、PDP-11 は最高の CPU 設計。

でも、小さなマイクロチップにこれを押し込めるには、まだ時代が速すぎた。


A B 二つの 8bit アキュムレータ、X PC SP の3本あるアドレスレジスタ。そしてフラグ用に 8bit 。

これがレジスタのすべてです。


PC はプログラムカウンタなので、16bit は当然。

SP はスタックポインタ、X はインデックスでした。これらも 16bit あるので、メモリのどこでも参照できます。


設計はチームで行われ、CPU だけでなく周辺チップなども開発されています。

メンズチは、主に周辺チップの担当でした。



6800 は後に改良され、互換性のない 6809 として発売されます。

どちらかというと売れたのは 6809 の方で、6800 はそれほど売れていないはず。


6809 の方は、メンズチは関わっていません。

別の会社に移籍してしまったためです。




6502 は、この 6800 を思い切って簡素化し、値段をずっと安くした CPU です。

モトローラではなく、モステクノロジーで作成された物。


アキュムレータは A だけになりました。

PC は 16bit ですが、SP とインデックスレジスタは 8bit に縮小されました。


16bit のアドレス空間を、8bit でアクセスするのではアドレスの完全な指定ができません。


そこで、スタックは、アドレスの上位が 1 のアドレス空間に固定になりました。

256バイトしかスタックが無いことになりますが、工夫すれば乗り切れます。


インデックスレジスタを使用する際も、命令と共に上位8ビットは指定することになります。

このため、メモリ空間は 256byte ごとに区切られることになりました。


6502 では、この 256byte 単位を「ページ」と呼びます。

改めて書くと、スタックは1ページ目に固定されていることになります。



6800 を「貧弱にしただけ」では出来ることも限られてしまいます。

6502 は、大胆な方法で拡張された機能もあります。


まず、インデックスレジスタは X Y の2つになりました。

配列をコピーする際など、インデックスが2つ必要になる場合は多いです。

必要とされる機能を、ちゃんと用意したのです。


ただし、X Y の持つ機能は、微妙に異なります。

これも、利用される状況を考え、微妙に異なる機能を持たせた方が便利だからそうなっているのです。


アキュムレータは1本だけに減らされています。

アキュムレータとは「計算に使うレジスタ」なので、普通に考えると、必ず2本必要です。


6502 では、ここに設計の最大の特徴があります。

先ほど書いた「ページ」と組み合わせ、0ページ目の 256byte のメモリは、アキュムレータと組み合わせて計算しやすい命令が揃っているのです。


つまり、一見するとアキュムレータは1本ですが、実は +256 本ある、というような設計になっているのです。


6800 よりも設計が簡素化され、安くなっているにもかかわらず、機能は 6800 を上回る部分もある。

後に作られ、大人気となる Z80 と比べたって遜色ないのです。


ただし、癖が強いので使いこなすのには腕が必要です。


ウォズニアックはこの CPU を気に入り、Apple I に採用しました。

その後 Apple II でも採用され、爆発的なヒットとなったのは多くの人が知る通り。


さらに、ファミコンでも 6502 の一部機能を省略したものが使用されています。



設計はたった3人で行われ、メンズチは演算回路など、中心となる部分を作っています。




65816 は、Apple II の後継機を 16bit にしたかったアップル社の要望で設計された CPU です。

単純に 16bit CPU が欲しいのではなく、過去の 8bit 資産を完全に活かせることが重要要件でした。


モステクノロジーではなく、メンズチが設立した、ウェスタン・デザイン・センターで作成されています。


65xx シリーズで、8bit と 16bit の2つのモードを持つ。

それが 65816 の名前の由来です。


6502 では 8bit だった、アキュムレータ、スタックポインタ、インデックス X Y が、16bit に拡張されています。

やった! これで全メモリ空間を指定できる!


…のではなく、メモリ空間も 24bit に拡張されています。やっぱり 8bit 足りない。


そして、やっぱり「256byte をレジスタ代わりに使える」方式は残されています。

ただし、この 256byte はアドレス先頭に固定ではなく、新設されたレジスタで指定されたメモリから始まります。


サブルーチン内でローカル変数が欲しいときは、このアドレスを移動して、終了後に元に戻せば大丈夫。

同時に使えるメモリは相変わらず 256byte ですが、ひと手間かければ無限に増えるようになったのです。



設計は、メンズチ1人で行っています。

妹さんが雑用を手伝ったりはしたらしいけど。




そして、65816 の最大の特徴は、8bit と 16bit がモード切替だということです。


このモードは、基本的にレジスタ・メモリアクセス幅を変えるだけだと思ってください。

「16bit の拡張命令が増えた」のではなく、モードを切り替えて同じ命令を使います。


でも、そのことを除けば、基本的に機能は同じ。


これは、「16bit モードで 8bit のアクセスをする方法が無い」という意味にもなります。

読み込むときは、16bit で読み込んで、上位データを and 0 して消してしまえばよいだけ。


8bit を書き込むときは結構面倒なことになります。

でも、8bit / 16bit モードの切り替えは遅かったので、工夫した方が高速に動く。


高速にしたい場合、8bit アクセスを無くす、というのが一番良い方法でしたけど、遅くてもいいからメモリ節約したい場合もあった。



こう書くと使いにくいダメ CPU のようですが、メンズチは 6502 の時から一貫して「小さな回路規模で最大の効果」を念頭に設計しています。


命令は 8bit/16bit で共通で、データ幅だけを完全に切り替える、という設計は、この観点で見ると非常に素晴らしい割り切り方です。

256byte のゼロページアドレッシングを残しつつも、0ページの位置を変えられる、というのも、簡素ながら良く練り込まれた設計。


そもそも 6502 の設計が面倒くさくて使いにくい、という人には、65816 もダメでしょう。

その一方で、6502 の簡素な美しさが好きだという人は、65816 もきっと好きになれます。


そういう、癖の強い設計の CPU です。




先に書いたように、65816 は、16bit の Apple II を作るために設計されました。

実際に Apple II GS という名前で発売されています。


GS は Graphics and Sound の略。

Apple II 独特の、貧弱な画面とサウンドを大幅強化して、CPU も 16bit にして、OS も GUI にしたマシン。


もう Apple II じゃないじゃん、と言われそうだけど、ちゃんと互換性もある。

ちなみに、Mac 発売以降に作られていて、OS も Mac 風。


Apple II 部署と Mac 部署は仲悪かったはずだから、会社の方針で使い勝手の統一を図ったとかではなくて、「対抗心で作った」のではないかな、と思ってます。

もっとも、仲が悪かったのは Jobs のせいで、Woz は怒ってすでに会社辞めているし、Jobs も混乱の原因を取らされてクビにになった後に Apple II GS が作られているのだけど。


そして、実は ADB の採用第1号マシンです。


ADB … Apple Desktop Bus は、マウスやキーボードをコンピューターに接続するための規格。

これ以前は、周辺機器ごとに違う接続方法があり、直接コンピューターに接続するのが普通でした。


ADB では、今後機器を増やしても大丈夫な設計指針があり、デイジーチェーン(直列つなぎ)で機器を増やせたので、柔軟な周辺機器設計が可能になりました。


IBM 系の PC で、この ADB を真似しようとして後に作られたのが USB ね。

こちらも iMac が大々的に採用したことで普及したのだけど。




65816 は、6502 上位互換なのでスーパーファミコンにも搭載されています。

スーパーファミコンは、ファミコンとの互換性はありませんでしたが、開発時にはギリギリまで「上位互換」として作られていました。


その名残で、スーパーファミコンは起動するとまず 8bit モードで動作し、メモリなどもすべてファミコンとほぼ互換性を持った状態で見えるようになっています。

その後 16bit へ切り替える命令が実行されると、スーパーファミコンの全機能が利用できるようになるのです。


スーパーファミコンは画面モードとしても「ファミコン互換モード」を持っていたし、なぜ互換機路線をやめたのかは不明。

多分、将来の拡張性も考えた際に、カートリッジ形状を変えたかったのではないかとも思いますし、些細な部分で完全互換が難しくなったのかもしれません。



当初は「上位互換」として発表されたため、後に上位互換が無理だとわかっても「アダプタで対応」となりました。


ただ、この「アダプタ」は、スーパーファミコンとは独立した機械。ジョイパッドや電源アダプタなどを共有できる、というだけ。

つまり、新設計されたファミコンでした。


結局「アダプタ」という誤解を招く名称もなくなり、後に AV ファミコンとして発売になっています。



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バイトでやった CD-I の仕事  2015-02-09 11:22:30  業界記

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1992年、大学3年の時には、「アトリエドゥーブル」という会社でアルバイトしていました。こちらも短期だけどね。

今は解散してしまい、存在しない会社。


この会社、横浜のマンションの一室…というか、3室でやってた。

1室はメイン開発室。1室は、先の会社の例と同じで、ライバル会社からの請負を扱う「別室」。もう1室は会議室を兼ねた社長室でした。


実は、さらにもう1室あるけど、これは社長の自宅。

すぐ近くだから、時々社長の奥さんが社長室に現れたりする。

(奥さんが来ると、社長は仕事場に顔を出すなと怒るのだけど)


非常にアットホームな、良い雰囲気の会社でした。


アルバイトで最初に頼まれた仕事は、CD-I 用のゲーム 「Mystic Midway:Rest in Pieces」の日本語化作業。


CD-I って、フィリップスが作った「マルチメディア端末」ね。

事実上はゲーム機だったのだけど、CD-ROM を搭載した機械としてはかなり初期の物。


ドゥーブルでは、すでに CD-I のタイトルをいくつか作っていて、「東京私立校受験ガイド リセエンヌ グラフィックス」とか、「斉藤由貴 Anniversary」とか、かなり売れたそうです。

特に、「斉藤由貴 Anniversary」は、この時点での「日本で最も売れた CD-I タイトル」だったはず。

たしか、300枚くらいと聞いたような…


#受験ガイドは、主に女子高の制服を集めた図鑑データベースです。


 当時はまだバブル崩壊直後で、まだ残り香のあったころ。

 特に私立高校の間で「新しい制服を作る」のが流行していました。

 著名デザイナーに依頼したかわいい制服など、それを目当てで受験する女子中学生が多かったためです。


 そして、選ぶ側の女子中学生にも、かわいい制服を一覧できる図鑑などに需要があったのです。

 書籍も流行っていたけど、CD-I ソフトは主に私立中学・進学塾相手に売れたのだとか。



さて、「Mystic Midway:Rest in Pieces」日本語版の話。

日本語版には「ひとり墓ッ地でキモだめし」というサブタイトルがついていましたが。


日本語版と言っても、プログラムなど一切いじりません。

先に書いたように、一番売れて 300枚、なんて世界なので、細かな作業していたら割に合わない。


アメリカでそこそこ売れたゲームの権利を買ってきて、簡単に改造するだけです。


CD-I は「マルチメディア機」だったので、良く喋りました。

この音声ファイルを全部日本語に差し替える、というのが目標。


すでに、声優さんに喋って貰った音声データはありました。

DAT (デジタル・オーディオ・テープ)に入っていて、秒数も元の物に合わせてある。

元ファイルのファイル名と、バイト数の表もある。


MacII を使って DAT から音声を取り込み(この時点では 48KHz のデータ)、CD-I で使う 44.1KHz にコンバートします。

そして、元ファイルと1バイトたりとも違わないように、正確にファイルを切り出します。


Mac には 5inch MO を接続してありました。


当時はハードディスクはまだ高価なもので、パソコンに内蔵しているのは 40M ~80M 程度。

外付けでも結構高価な 120M があり、サーバー用などならやっと 250M くらい…という時代。


でも、CD-ROM ゲームを作るのですから、650M の記憶域が必要です。

5inch MO は、650M を記録できました。もっとも、これはメディアを両面使った場合の話で、片面は半分。


#CD-R はまだ普及していません。規格ができたのは 1990年だけど、普及は 1995年ごろから。


そして、この MO ドライブ自体が非常に高価。

ドゥーブルには当然こんな高価な機材は無く、ドライブごと借りていました。


「両面で」650M なのに、普通に開発していたのだから、容量は半分程度しか使っていなかったのではないかな…


#もしかしたら、ヘッドが両面にあって、裏返さずに両面のデータを読めたのかもしれません。




先に作りだした「日本語化」ファイルを、MO 上で元ファイルと同じ名前で保存します。

完成したら、テストプレイ。

…どうやって遊んだのだろう。記憶にない。


開発用の特殊な CD-I 本体とかで、MO ドライブを CD-ROM に見立てて起動したりできたのかもしれません。

ここら辺、どうやっていたのか全然覚えていない。


ただ、テストプレイをやっていた記憶だけはあります。



しばらく遊んでみて問題なさそうなので、日本語化完了。


全てのデータを MO に入れて、ドライブとメディアを一緒に発注元に送り返します。

MO ってリムーバブルメディアだけど、常にドライブとメディアをセットで移動している状態。

先に書いたように、ドライブが高価だったからね。



ちなみに、ゲーム内容は「射的」です。

画面下で左右にしか動かない銃を動かして、画面内を左右にしか動かないターゲットを撃つの。


玉数制限もありますし、一定時間たってもゲーム終了します。

一定点数取れば次の面に進めるのだけど、点数が達してなければゲームオーバー。


このゲーム、一応「アメリカではヒットした」ということで日本語版が作られたわけですが…

なんでこんなゲームがヒットしたんだろう (^^;


#まぁ、つまらないわけではなくて、それなりに良くまとまってはいた気がします。

 でも、5千円払って買うゲームではないよね、という感じ。


2021.8.30 追記


このページを英語翻訳して紹介している海外のページを発見したのだが、そのページには貴重な実物写真が多数入っている。


Mystic Midwayの日本語版のジャケット写真もあるし、リセエンヌグラフィックや、斉藤由貴のアニバーサリーの写真もある。


日本にいてもお目にかからない日本版のソフトまで集めているという、海外コレクターおそるべし。



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ジャングルウォーズ2  2015-02-12 13:33:33  業界記

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さて、ドゥーブルでは当時、「ジャングルウォーズ2」というスーファミのR.P.G.作ってました。

キム皇、こと きむらはじめ さんがシナリオを担当したゲームで、非常にドラクエ的な感じ。


でも、亜流とかパロディとかではなくて、ちゃんと独特の世界観を作り出しています。



メインプログラマの人は、元々音楽作曲をしていた、という人。

音楽作成で会社に入り、サウンドドライバの出来に納得がいかなかったので独学でプログラムを覚えてサウンドドライバを作り上げてしまう。


そして、それだけプログラム能力があるのだったら、とメインプログラマをやるようになった。


この人が作ったサウンドドライバ、出来がいいので別の開発会社に販売していたりしたそうです。

ドライバだけでなく、音楽制作まで含めて一式、という仕事の請負もあったらしいのだけど、ドライバを販売した某社はすごく初歩的なことを何度も聞いてきて、最後には改造までしてあげたけど金銭的なプラスは無く、お礼もないというので「あそこには二度と協力しない」と言っていました。


#相手は結構有名な大手会社。名は伏す。


スーパーファミコンって、音声チップが非常に良かった反面、メモリ容量などの問題で使いこなしが難しく、ドライバ次第で全然性能が違って感じたらしいです。




CD-I ゲームの次の仕事は、このジャングルウォーズ2のお手伝い。


ジャングルウォーズ2の中では、以前に行った町や村にいつでも移動できる方法がありました。

この際、「空を飛ぶ」演出があるのですが、この空を飛ぶ経路を求めるプログラムを作る仕事でした。


まぁ、簡単なプログラムで腕前をテストされたのですね。


現在地 A と、目的地 B の座標があり、この間を「上下・左右の移動だけで」(斜めには動かずに)埋めたい。

綺麗に等分した動きではつまらないので、適度のランダムを交えつつ、中間の動き経路を埋めるデータを生成してほしい。


…これが、僕に与えられた課題でした。


んー…。しばし考える。

間をランダムに割る、のではなくて、A B 間の距離を適切な値で割ったものを「標準移動距離」として、これが期待値となるランダムを連続生成、というプログラムを作りました。


こちらも、テキストでプログラムを組んだだけで、自分のマシンにアセンブラなどが無かったので目視確認のみです。

ほぼそのままで動いたそうですが、依頼時に忘れていた仕様があって、「ほんの少し改良して」発売されたプログラムでも使われています。


#全体マップの左上には、ゲーム中では「遠くにある」ことになっている別の島が入っている。

 単に A B を結ぶ経路を出すだけでは、この島の近くを飛んでしまうことがあった。

 これは、A B 共に特定エリアに入っている場合は、中間地点 C を設けることで回避したらしい。




これを作ったら、もう一つ頼まれました。


ゲームの演出上、空を飛んできた鳥が、滑らかに主人公たちの前に降り立つ場面があります。

ゲーム中のキャラは、ほぼ常に「上下左右」の動きしかないのですが、ここだけは特別な滑らかな曲線。

(ニコ動に動画あり。1:10 あたりから見られます。)


これは表示位置データを配列で持って、そのまま「再生」しています。

この、位置データ作って、というのが僕に与えられた仕事でした。


1回の動きは n ドット以内、全体でデータは何バイト以内、動きはこんな感じで…と細かな指定があったのですが、それをそのまま手打ちで作るのは難しそう。


使っていない PC-98を1台借りて、BASIC で「動きエディタ」作りました。半日くらいで作った、作りの荒いプログラム。

マウスでキーとなる位置を複数指定すると、「nドット以内」になるように中間ポイントを作り出します。


確か、細かめにポイントを作り出して、適当に間引いて動きに緩急をつけたのではなかったかな。

2~3個動きを作ったら終わりなので、動きエディタに速度指定までは付けなかったように思います。


その代りに、データを読み込ませると、98 の画面上で動きを確認できる、簡単な「プレイヤー」も作り、手で間引いたデータがそれらしく動くかどうかを確認しました。



これで生成したデータをプログラムに入れてもらい、動きを確認すると、滑らかに動きました。

非常にいい動きだ、と褒められ、これも発売されたプログラムでそのまま使われているはずです。



たしか、ジャングルウォーズ2でやった仕事はこの2つだけ。

この2つだけなのに、サブプログラマとして名前を入れてくれました。


もう1つ、依頼されたけどできなかったことがあります。

「サンプル家に持って帰っていいから、テストプレイしてもらえないか」と言われたのですが、僕はスーファミ持ってなかったので出来なかったんですよ。

発売前のゲームを遊ぶなんて、スーファミ持ってたら喜んでやりましたけどね。


実は、このゲーム未だに遊んだことありません。

自分の名前入っているのにね。



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フィル・ジマーマン 誕生日(1954)  2015-02-12 17:00:32  コンピュータ 今日は何の日

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今日はフィル・ジマーマンの誕生日(1954)。



僕はこのサイトで、時々「ハッカーズ」という書籍を引き合いに出します。

その書籍を書いた「スティーブン・レビー」というルポライターが書いた別の本が「暗号化」。


この「暗号化」の中で、特に重要な人物として描かれているのが、フィル・ジマーマンです。


彼は PGP …Pretty Good Privacy を開発した人物です。




彼が小学校4年生の時、テレビで子供向けの冒険番組を放映していました。


今でもよくあることですが、そのテレビ番組の中では、スポンサーの商品が効果的に使われていました。

番組中、時々「暗号文」が表示されることがあり、その内容は「暗号解読器」を購入した子供だけが知ることが出来たのです。


ジマーマンはこの暗号解読器を持っていませんでした。

しかし、画面に表示される数字をメモし、その規則性を解き明かして、ついには自分で暗号を解読できるようになったのです。



ジマーマンはこれ以降暗号に強い興味を持ち、子供向けに書かれた「暗号の本」と出合います。

その本に載っている暗号は単純なものでしたが、暗号を基礎から解説し、いくつもの暗号化のパターンを教え、その応用で無限に暗号が作り出せることを示していました。


ジマーマンは、暗号を作れると同時に、暗号を解読する基本的な手法も身に付けました。

中学の時には、「オリジナルの暗号を作った」という友人の挑戦を受け、頻度解析…換字式暗号の基本的な解読方法を駆使して、見事に解読しています。


換字式暗号とは、文字を別の文字に交換する暗号です。

たとえば、アルファベット表に従って1文字前にずらすと、IBM が HAL になる、等と言うのが有名です。


アルファベット表では簡単に見破られるかもしれないので、この「表」自体を複雑化する場合もあります。

アルファベットではない、不思議な記号にするものもあります。


ジマーマンが中学時代に挑戦を受けた友人の暗号は、すべての文字を、独自に作成した記号に置き変えたものでした。



しかし、元の文章が「英語」であれば、文字 e の出現頻度が一番高く、続いて t a o 等が多いことが知られています。

また、文字の接続にも、t の次には h が来やすい、などの規則性があります。


ジマーマンが使った頻度解析とは、こうした「英語の規則性に注目する」方法でした。


ジマーマンは、挑戦を受ける際に、「簡単ではつまらないから、長い文章にしろよ」と、友達を逆に挑発しています。

挑発に乗った友達は、思いっきり難しくしようと、長い文章を暗号化しました。


しかし実は、長い文章ほど頻度解析がしやすく、解読のための手掛かりが多いのです。

暗号の性質を良く知っているジマーマンの作戦勝ちでした。



ジマーマンの「暗号」への興味は、いわゆる中二病をこじらせたもの。

この頃を頂点として、中学卒業の頃には興味を失います。




彼は大学に進学し、コンピューターを学びます。

ここで FORTRAN と出会い、「乱数発生器を組み合わせた換字式暗号」を独力で開発します。


換字式暗号は、変換表に基づいて文字を変換します。

このため、e は必ず同じ記号、t は必ず同じ記号…と変換されてしまうため、頻度解析で解読できます。


ジマーマンは、コンピューターの乱数を使えば、1文字ごとにこの「変換表」を交換できるため、頻度解析ができなくなると考えたのです。


ちなみに、コンピューターの乱数は「擬似乱数」にすぎません。

人間からするとでたらめな数に見えるのですが、コンピューターは純然たる計算によって数字を作り出しています。


そのため、同じ条件を指定すれば、何度でも同じ乱数を作り出します。

乱数を使って暗号を作った場合でも、同じ乱数を使って元に戻すことができるのです。


これなら、暗号として使えます。


彼は、「これは最強の暗号で、誰にも解読できない」と考えました。

しかし、すぐ後に大学の授業でこの暗号の解き方を教わることになります。


自分が考案したと思っていた暗号は、遥か昔にすでに考案されており、それを解読する方法ももう考案されていたのです。

教授はこの暗号を「非常に基本的で解読しやすい暗号」として、受講者全員が解読してくるように、宿題を出したのでした。




その後、大学卒業の直前の1977年に、ジマーマンは RSA 暗号の論文発表を知ります。


ジマーマンの知る暗号とは、鍵を使って解読するものでした。

鍵を秘密にしながら、通信したい相手にだけ鍵を教える必要がありました。


これを「秘密鍵暗号」と言いました。

秘密にしないといけないのに、共有しないといけない。

これが暗号の最大のジレンマでした。


しかし、RSA は全く新世代の暗号でした。

鍵を公開してしまっても暗号として成立するのですから。


通信者は、お互いに「秘密鍵」と「公開鍵」のペアを持ちます。

秘密鍵は自分だけが知り、絶対に他人に教えてはならないものです。


その一方、公開鍵は誰が知っても構いません。


そして、この鍵のペアの一方で暗号化したものは、他方で解読できます。


AさんがBさんに通信したいとしましょう。


通信文をAさんは自分の秘密鍵と、Bさんの公開鍵で暗号化して、Bさんに送ります。

Bさんは、Aさんの公開鍵と、自分の秘密鍵で解読します。


もし、第3者に暗号を見られても問題はありません。

なぜなら、第3者はAさんの公開鍵は知っていても、Bさんの秘密鍵は知らないからです。



ジマーマンはこの暗号にショックを受け、すぐに論文の執筆者に連絡を取ります。


この暗号はコンピューターで処理できるのか?

RSA 暗号は非常に複雑なもので、コンピューターで処理できなければ、誰にも使うことはできません。


MIT では、すでにプログラムを作成中でした。

ただし、それは非常に高価なマシン向けで、誰もが使えるようなものではありませんでした。




ジマーマンは、当時発売されたばかりの Z80 マシンで RSA を実装しようと頑張ります。

しかし、RSA 暗号はあまりにも高度な数学であり、その数式の意味すら解りませんでした。


しかし、「誰もが気軽に使えるように、この暗号をパソコンソフト化する」というのは、ジマーマンの強い思いとなりました。


当時はベトナム戦争の後。ヒッピーブームの頃です。


政府は信用ならない。政府は人々の生活を監視し、人々を裏切る。

皆がそう考える時代の空気の中で、「政府に監視されないように、誰もが暗号を使える社会を」作ることが、ジマーマンにはとても大切なことに思えたのです。


Z80 は RSA を実装するにはあまりにも非力でした。



ジマーマンは、暗号によって政府から人々を守る、という目標が難しいと悟ると、反政府活動家へと変わりました。

反政府デモを行ったり、核凍結運動を行ったり。


その過程で、2度投獄もされています。

もう、立派な政治活動家でした。




ここに、チャーリー・メリットと言う別の人が登場します。

彼はジマーマンと同じように考え、Z80 に RSA を実装することに成功しました。


そして、この暗号化ソフトを販売し始めます。

アメリカ国内にはあまり需要は無く、主に海外で売れ始めました。


そして…政府の弾圧を受けました。

アメリカの諜報局である、NSA がたびたび彼の元を訪れ、すぐにソフトの販売を中止しなくては痛い目にあうぞ、と脅し続けたのです。


ただ、この際の脅しは「海外販売を辞めろ」というものでした。

当時の NSA としては、海外での諜報活動が中心でしたから、海外で解読不能な暗号が広まることを恐れたのです。



チャーリーメリットは、海外での販売が難しくなったため、なんとか国内で使ってくれる企業は無いか、片っ端から電話をしてセールスをかけ始めます。

そして、ジマーマンが設立した会社に連絡を取り、ジマーマンと知り合うのです。




メリットの思惑とは異なり、ジマーマンの会社で暗号製品の採用はありませんでした。


しかし、二人は密接に連絡を取り合うようになり、メリットはジマーマンに RSA 暗号を実装するのに必要な数学を叩き込みます。


ジマーマンは、RSA 暗号が複雑すぎて遅いことを理解し、この遅さを克服するアイディアを持っていました。


暗号化には従来型の秘密鍵暗号を使い、RSA 暗号は、この「秘密鍵」の交換のみに使用するのです。


秘密鍵暗号の弱点は、秘密鍵の管理にありました。

通信するたびに秘密鍵をランダムに生成し、通信の後は破棄してしまえば、管理の手間はいらなくなります。


そして、秘密鍵が通信する2者以外にばれないように、この交換にのみ、速度の遅い RSA 暗号を使うのです。



そして、二人で RSA 暗号を商売にしようとしていた RSA 社… RSA 暗号の考案者たちが作った会社にまで乗り込み、会食をしています。


この会食で、ジマーマンは「RSA 暗号の特許を無償で使う」ことに承諾してもらった、と考えています。

RSA 社は特許を商売にするために設立した会社なので、無償提供などあり得ない話なのですが、彼はこの「快諾」を受けて、本格的に暗号プログラムの作成に取り掛かります。





ジマーマンは、寝る間も惜しんで暗号ソフトを作ります。

時代は Z80 から 8086 にうつり、ターゲットは IBM-PC でした。


Pretty Good Privacy と言う名前も開発中に考えていました。

これは、RSA 社の関連企業である、Public Key Partners (PKP 社)をもじったものでもあります。


#本当はもっといろいろな意味が込められていますが



この間は仕事もせず、家のローンを払う金も失いかけ、半年たってやっと完成しました。


最初はこのソフトを販売しようとしていたジマーマンは、「誰もが安心できる社会を作り出す」という使命感にかられ、シェアウェア販売にしようと考え直します。


多くの人が無料で使えるが、価値を見出してくれた人だけがお金を払う。

それこそが使命です。だからこそ、RSA 社も特許の無償使用を快諾してくれたのです。


そう思って、いよいよ完成して公開できる段階に来た、と RSA 社に連絡を取ります。

実際に完成したソフトに、特許使用の正式承諾を貰うためです。


しかし、返事は「特許の無償使用の許諾など、ありえない」という当然の物でした。

ジマーマンが思っていたのとは違います。


RSA は大企業であり、政府と同じだ。

…信用には値しない。彼の直観がそう判断させました。


この問題は、無視することにし、ソフトの完成を急ぎます。




そんな時、新たな法律が可決されました。

1991年の初頭のことです。冷戦は終わり、世界はテロとの戦い、という新たな戦争に突入していました。


その中で、通信情報の暗号化禁止が盛り込まれた法律が可決したのです。

テロを防ぐために、政府が十分な情報を得られること。それが大義名分でした。


ジマーマンはこのことを知り、慌てます。

この法律が施行されてしまえば、暗号化を行うプログラムは世に出ることができなくなり、抹殺されるでしょう。


その前に、一人でも多くの人の手元にプログラムを届け、人々が自由に「暗号通信」を出来るようにしなくてはなりません。



ジマーマンは、急いで PGP を「使える形」に仕上げ、バージョン1として配布します。


完成を急いだため、それほど使い勝手の良いソフトではありませんでした。

しかし、一人でも多くの手に届くように、シェアウェアではなく、フリーウェアとして公開します。


これは、数年間の彼の努力を無料で公開する、というだけでなく、もう一つの意味がありました。


配布も自由なのです。

2次配布、3次配布…ジマーマンの許可を取る必要などないから、とにかく一人でも多くの手元へ!




インターネットでは、この「意味」を追記して配布するものが現れました。

とにかく、法律の「暗号化禁止」条文を無意味なものにすること。


今更政府が取り締まっても手遅れだ、というところまで PGP が普及してしまえば、法律はあっても全く無意味なものとなります。


事前に法律の意味に気付かず、可決されてしまった以上は、それが最善手でした。


さもなければ、みんなは生活をのぞかれることになるのです。

政府の横暴から身を守るために、できるだけ配布に協力お願いします。



この言葉は非常に効果が大きく、どんどん転載が行われました。

そして…ジマーマンの予想をはるかに超え、海外にまで流出しました。


国内での暗号化は、先に書いた法律が施行されるまでは合法です。

しかし、すでに海外への暗号製品の輸出は、武器輸出と見做され違法でした。


ジマーマンは、このことで犯罪者になってしまいます。



さらに、RSA 社からも追訴されました。

こちらは「PGP の配布を辞める」という条件で和解しましたが、ジマーマンは「配布はしないが作り続ける」という態度を取ります。


そして、配布は数名の協力者に任せることにしたのです。




実は、PGP の登場と、それを迎えたインターネットの盛り上がりに恐れをなし、法律の提出者は「暗号を禁止する」条文を、こっそりと削除していました。


この条文は、法律の提出者の本意ではありませんでした。

FBI から「このような条項を入れてくれ」と頼まれ、あまり深く考えずに追加しただけの条文だったのです。


アメリカ国内での PGP の配布は「暗号」の面から見て特に違法ではなくなりました。


しかし、ジマーマンはすでに…海外に「武器」を輸出した疑いで犯罪者です。


彼は家を捨て、協力者の家を転々としながらプログラムを作り続けます。

そうしないと、政府と RSA 社の両方の追手から逃げられないためです。


PGP 1.0 は慌てて公開したバージョンなので、いろいろと問題もありました。

そして、逃避行の中で PGP 2.0 を完成。誰が、どこから配布したかわからないようにするため、協力者数名が、音響カプラとノートパソコンを持って公衆電話からサーバーにアップロードします。



今度は、「海外用」として、ソースコードを印刷した書籍も出版しました。


暗号を扱う「ソフトウウェア」は武器として輸出が禁止されていましたが、ソースコードを印刷した書籍を武器と見做す解釈はさすがに出来ないためです。



結局、1993 年にジマーマンは FBI の捜査対象となり、裁判所に召喚されます。

ジマーマンは反政府活動家として、堂々と戦い…1996 年に、ついに政府は訴えを取り下げます。


1999 年には「暗号は武器である」という規制も弱まり、PGP の輸出は基本的に合法となります。



この話には後日談もあるのですが…

気になる人は、「暗号化」を読んでみてね。




さて、戦いは終わった…のでしょうか?


2013 年、NSA が Google や Yahoo 、Microsoft などの「WEBメールサービス」の内容をほとんど盗聴していることが発覚し、問題となりました。



PGP は、通信文を暗号化するツールです。

メールで使用するには、暗号化してからメールにコピー&ペーストし、相手は暗号文をコピー&ペーストで解読しなくてはなりません。


しかし、これは面倒なので、多くのメールソフトが PGP の自動暗号化に対応しました。

PGP で暗号化、というオプションさえ選んでおけば、勝手に暗号化・解読してくれます。



ところが、WEB メールにはこうした機能が無いのです。

ほぼすべてのメールが、暗号化されずに流通していました。


「暗号化してはならない」という法律は無くなりましたが、ほぼすべての人が、WEB メールの便利さの前で、喜んで暗号化の権利を放棄したのです。



その後、Google は GMail を https 通信で利用できるように変更しました。

NSA の盗聴に対する「自衛策」の一環です。



この闘いはジマーマンがいち早く開始し、彼の名前が有名となっています。

しかし、まだまだ戦い続けている無名プログラマたちが多数いるのです。



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改正風俗営業法の施行日(1985)  2015-02-13 11:41:19  今日は何の日

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今日は、改正風俗営業法の施行日(1985)。


あまりコンピューターの話と関係なさそうに見えますが、この日以降、ゲームセンターはいろいろと法律の規制を受けることになりました。


それまでは、別に子供が入ったって構わなかったわけですよ。

まぁ、「ゲームセンターに行くと不良になる」とか言われた時代で、学校ではゲームセンターに行くことを禁じていたりするのですが、入ることに法律的な罰則はなかった。


でも、1985年の今日以降は、法的な縛りができたのです。


…今調べたら、法的には「夜10時以降は18歳未満が入ってはならない」なのね。

でも、少なくとも僕の住んでいた地域では、12歳未満は午後5時、15歳未満は午後7時に追い出されました。



世はファミコンブームの中。

ゲームセンターでは、ゼビウスのブームで類似ゲームが雨後の筍のように出ていた時期。


僕はゲームが好きだったのでゲームセンターにはよく行っていました。

小学生でお金が無いから、見ているだけで満足する(せざるを得ない)のだけどね。


でも、そのささやかな愉しみも禁止されたあの頃。




風俗営業、と言うと、性風俗を想像する人がいます。

ゲームセンターは風俗営業法の縛りがあるんだよ、と言っても、にわかに理解してくれない人がいます。


でも、上に書いた通り規制対象。

風俗、という言葉自体が勘違いされているように思いますが、これは世の中の流行性の事柄を示す言葉です。


接待をするような飲食店、やたら暗めの飲食店、ディスコやダンスホールなども規制対象。


そして、雀荘、パチンコ店など、景品などを賭けて遊戯を行う場合がある店は7号営業、景品などを賭けることは無いが、競争などを目的とした遊戯をさせる店は8号営業と分類されています。


ゲームは、コンピューターとの、または人との「勝負」です。

なのでゲームセンターは8号営業。




ちなみに、多少のゲーム性があっても、遊園地は風俗営業には含まれません。

遊園地によくあるのですが、射的などで景品がもらえたとしても、7号営業にはなりません。



風俗営業法の規制を受ける店は、深夜12時を超えて営業することは認められません。

(客を追い出すのに時間がかかった、等の理由で深夜1時までは許容)


しかし、ディズニーランドはニューイヤーパーティで夜通し営業したりします。

これも、遊園地は風俗営業ではないから。



テレビゲーム会社にとっては、「風俗営業」の枠にハメられ、商売が自由に出来なくなったのは痛手でした。

1985年以前は、「終電無くなっちゃったからゲームセンターで夜を明かす」なんて人もいたんですよ。


遊園地なら終夜営業も認められるのに、風俗店の枠に入れられたから夜明かし客をファミレスに取られちゃった。



風俗営業に入るならはいるで、パチンコみたいに景品を出すことを認めてもらえれば、まだ別の道もありました。

でも、8号営業では景品の供与も禁止です。


これから10年間、ゲーム業界はなんとか「8号営業を抜け出す」方法を模索することになります。




その1。

積極的に、縛りが厳しいが利益も大きいパチンコ業界に割り込む。


パチンコはギャンブルではありません。

少なくとも法的な建前上はそうなっています。


#WHOの調査報告では、これはギャンブルだと断定されており、街中に必ずギャンブル場がある日本は「ギャンブル依存者が多い」と警告されています。


しかし、現実問題としてパチンコは大きな金が動き、儲けの出る商売です。



今では多くのゲーム会社が、パチンコ業界に何らかの形でかかわっています。

昔と違ってパチンコが進化し、CPU 内蔵でディスプレイを備えたものになりました。


ここは、ゲーム業界のノウハウが活かせる部分です。


ただ、利権の多い業界なので、不文律も多いのですよね…


良く出る話題に「CPU が Z80 でないといけない」というものがあります。

これ、そんなことは無いです。別の CPU で作ってはならない、という根拠はどこにもない。


ただ、どの CPU で作ろうとも、パチンコ店の監督省庁である警視庁にソースコード一式を提出して、承認を貰う必要はあります。

当たりの出る確率がやたら偏っていたりすると、射幸心を過度にあおってしまい、「ギャンブル」となってしまうためです。


この際、残念ながら警察では次々登場する新しい技術に、常についていくことはできません。

新しい CPU で作っても構わないのですが、それらの CPU のプログラムを十分に理解し、確率部分まで含めて承認を出せるのがいつになるか、保証はできません。


それよりは Z80 で、できることなら以前のプログラムを少し修正した程度で、提出すればすぐに認可が下りるのです。


結果的に、Z80 で作らなくては認可されないのですが、他の CPU はダメ、ということではないのです。



#実際には、Z80 ではなく、警察に協力している外郭団体のエンジニアが堪能な、Z80 を少しカスタムした CPU が一番速く認可されるらしい。

 これも、警察の協力者に判るエンジニアが多いのだから仕方がないね。


 そして、この Z80 カスタムを製造しているのは国内に1社だけで、警察 OB が多く勤める会社らしい。

 これも、「警察の認可が行いやすいようにわかりやすい命令セットの CPU を作っている」のだから仕方がないね。


 うん、全部スムーズに事務手続きを進めるために、善意で行われていることなんだ。

 全部噂に聞いただけで、詳しいことは知らないけど。




その2。

遊園地と認めてもらう。


遊園地とゲームセンターの違いは何なのか、と突き詰めていくと、特に違いが無いことがわかります。


1回遊ぶごとに金を払う?

遊園地だって、そういう形態の方が多いです。

むしろ、パスポートを買って後は乗り放題、なんてディズニーランドスタイルの方が少数派。


入場料金を取られる?

これも、八景島シーパラダイスや横浜コスモワールドなどのように、入場料金不要の遊園地はあります。


ゲーム性・インタラクティブ性の違い?

テレビゲームはインタラクティブ性の高いものが多いのですが、必ずしもそういうものばかりではありません。

そして、遊園地にだって、ちょっとしたゲームと考えてよい程度のインタラクティブなものはあります。


どうも、こちらも警察とも相談したようです。


一部の遊園地に例外はありますが、基本的に「入場料を払うなどしないと中に入れない閉鎖空間」は遊園地だ、ということになったみたい。



で、ナムコのたまご帝国、ナンジャタウンとか、セガのジョイポリスとかが作られるわけです。

事実上巨大ゲームセンターでも、ある程度ここにしかない遊具があり、入場料が必要ならゲームセンターではない、という扱いです。


これなら、景品を出すのにも何も問題はありません。

深夜営業だってできます。


ただ、遊園地の経営は、ゲームセンターとは異質の物でした。

現実問題としてこれらの策は長続きせず、まだ続いてはいるけど規模縮小気味。


この話題、以前も書きました。

興味あったらそちらも参照してね。




その3。

8号営業のままで、「ギャンブル」を始めてしまう。

景品を持ち帰らせる、ということですね。


パチンコは、成功すれば何か持って帰れます。

ゲームは、どんなに成功しても何も持ち帰れません。


この違いで「ゲームは金の無駄」と考える人は確かに存在します。

楽しい時間を過ごすためにお金を払った、とは考えてくれない。


じゃぁ、ゲームでも何か持ち帰ってもらいましょう。


ゲームセンターに、やたら「占い機」が流行した時代がありました。

あれ、結果用紙をお持ち帰りいただくことで、お金を出すことに対する満足度を上げようという策でもありました。


遊べば必ず出てくるのですから、この程度は「ギャンブル」ではありません。



でも、お持ち帰りいただく、ってすごく重要。

プリクラだって、シールを持ち帰れるからあんなに流行したのです。



そして、ここに「ゲーム性」を組み合わせれば、当然ながら遊ぶ人によって持ち帰れる景品のグレードが異なることになります。


UFOキャッチャー以前から、お菓子などを取るクレーンゲーム機は存在していました。

でも、大抵は割に合わなかった。100円入れて遊んでも、50円程度取るのがやっとだったりね。


これも「楽しい時間を過ごしてもらう」ためのお金なので、景品が割に合わないのは当然、と考えれば、まだギャンブルではありません。


流れが変わったのはUFOキャッチャーでした。

この機械も、元々はお菓子などを入れる前提で開発されたそうです。


ただ、「割に合わない」感じを無くすために、少し大きめのお菓子を取れるよう、アームを大きくしていた。

…これが、大失敗。アームが大きいからお菓子などの箱が抜け落ちやすく、全然取れないのです。


そんな時、セガの重役が視察で中国を訪れます。

(当時から、人口の多い中国は次のターゲットとして有望でした)


そこでたまたま見たのは、ぬいぐるみ縫製工場に積み上げられた返品の山。

日本の下請けで作ったものの、日本人の品質管理は厳しく、返品率が高かったのです。


これを安く大量に仕入れ、試しにUFOキャッチャーに入れてみたところ大ヒット。

当時、ぬいぐるみはまだ高価なものでした。小さなものでも千円とか当たり前。


でも、実際には買いたたいてきた不良品なので、1個 50円とかなのです。

100円入れて遊んでもらって、最大でも取れるのは1個 50円。これはギャンブルではありません。


でも、人気が出たら専用のぬいぐるみを作る必要ができました。

最初は1個100円から。100円でゲームをやって景品が100円なら、まだギャンブルではありません。


しかし、人気が出て、ライバルも増えれば差別化も必要。


警察と相談し、どこまでがギャンブルでないか自主規制することで対処します。

最初は 300円から。


しかしやがて、100円程度の安いぬいぐるみと、500円位するぬいぐるみを混ぜて「平均300円」にすることで、射幸心をあおりながらもギャンブルではない、という、ねじれた状態になります。


じゃぁ、ねじれているよりも「500円までは認めましょう」と。

そして、やがて「800円までは良いでしょう」と…


現在、UFO キャッチャーの景品は 800円まで「黙認」されています。

あくまでも黙認ね。8号営業で景品を出してはならないので、実際は違法行為です。



ただ、そもそもゲームセンターを風俗営業の枠組みに入れたのが適正だったかどうか、という論議もあり、これを「違法だ」と言い出せば、「8号営業にしたこと自体が違法だ」とやり返される可能性もあるのです。


#先に書いた通り、遊園地と本質的に変わらないものだからです。

 遊園地は規制がなく、本質的に変わらないゲームセンターに規制がある、というのは法の下の平等に反します。


そして、もし8号営業にしたこと自体が違法、となれば、ゲームセンターは風俗営業の枠を外れ、景品を出すことが違法でなくなります。


…えーと、ややこしいね。

つまり、警察としては景品を違法だと言い出しづらい状態があるのです。


規制から外れて過剰な競争になるより、業界が自主規制で800円に抑えてくれているなら御の字です。


#時々、UFOキャッチャーの中に「あたり」とか書いたボール入れて、プレステとか貰えるようになっているのを見かけます。

 これ、ゲームセンターでやっていたら違法です、ってのはずっと昔に書いたことがあります。


 でも、ショッピングモールの一角に置かれた機械だと、ゲームセンターではないから規制の枠外れるのかな…

 実際、近所にあるのですけど (^^;




実は、「ゲームの結果データ」の持ち帰りすら、7号営業に当たるのと考えられた時期もあります。


SNK はネオジオで、ゲームのデータをセーブできるカードを作りました。

家で遊んだ結果をゲームセンターに持っていけるし、ゲームセンターのデータをまた持ち帰れる。


でも、あまり積極的に活用された節はありません。


同様に、セガもドリームキャストと NAOMI で、ビジュアルメモリを使ってデータの交換を出来るようにしていました。

これも、「家で練習した成果」を持ってくることは出来たのですが、ゲームセンターの結果を持ち帰ることはできませんでした。


いずれも、データをゲームの結果貰える「景品」と考えると、7号営業になってしまうためです。

ゲームセンターでは景品の提供は許されていませんでした。



今は、ネット技術が進んだために玉虫色に解決できています。


持ち帰るのは、「鍵」だけです。

これは、占いの結果用紙と同じ。遊んでもらった結果に関わらず発行しているだけで、景品ではありません。


データはサーバーに置いてあり、どこのゲームセンターからでも「鍵」によって引き出せます。

家庭用にもゲームが提供されている場合、家庭でも使えるかも知れません。


そして、ゲーム結果のデータを再度サーバーに預けることもできます。


この場合、景品となりそうな「データ」は、決して持ち帰ってはいないのですね。

サーバー…つまりは、店が預かっている。


メダルゲームで沢山メダルが出た時に、店に預かってもらうのと同じ理屈です。

ただ、ネットの進化で、このデータをどこからでも引き出せる、というのが違うだけ。


これなら8号営業のままでデータを提供できます。




…などなど。

改正風俗営業法の施行日だというので、風俗営業法にまつわる話を、思いつくままに書いてみました。


ゲーム好きな人でも、ゲームセンターが風俗営業法の枠に入れられていることを知らない人も結構いるし、その枠の中でこんな努力をしていることはもっと知られていない。

結構面白い話なんですけどね。


(なんにせよ、知恵を絞って状況を打開しようとする話と言うのは面白いものです)




もっとも、僕も今はゲーム業界現役ではないので、知識が古かったり勘違いしている部分もあるかもしれません。



追記 2015.2.23

大切なことを書くのを忘れていました。


上に書いたのはすべて、ゲーム機を作ったりする開発側の視点。


後日、8号営業の枠をはめられた現場であるゲームセンターの努力を書きました。



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おばあちゃんとぼくと  2015-02-14 10:17:19  コンピュータ 家族

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おばあちゃんとぼくと

「おばあちゃんとぼくと」という名作ソフトがある。


ソフト…あえて言うならゲームなのだろうけど、いまでいう「デジタル絵本」の最初期のものの一つだ。

Mac 用に発売されたもので、後に Windows にも移植されている。


初めて見たのは、1992年。

箱根で、デジタル美術の展示イベントがあった。


箱根中がイベント会場だったらしいのだけど、大学のサークル合宿(という名目の旅行)で行った、箱根彫刻の森美術館では、Mac を複数台並べて「アートな」ソフトや、活動を紹介していた。


その中に、「おばあちゃんとぼくと」があった。




衝撃を受けた。

これはゲームではない。特に目的は無く、絵本のお話をパソコンに読んでもらうだけだからだ。


でも、パソコンが絵本を読み上げた後、そのページの絵をゆっくり楽しむのは構わない。

それは実物の絵本だってそうだ。絵本と言うのは絵を楽しむものだ。


そして、「おばあちゃんとぼくと」には、パソコンならではの仕掛けがあった。

絵に描かれたものをクリックすると、いろいろなことが起きる。


これは絵本なのだから、それによってストーリーが変わったりすることは無い。

何のことは無い、ただの「遊び」。でも、ゲームなんていずれもただの遊びだ。


そして、遊びである以上、楽しいか楽しくないかが非常に重要な一線となる。

「おばあちゃんとぼくと」は、めっぽう楽しかった。



実は、「おばあちゃんとぼくと」以前に、Mac では似たようなゲームが出ている。

「the Manhole」(マンホール)というゲームで、もっとゲームらしいゲームだった。


でも、面白かったかというと…僕には面白いと思えなかった。


基本的には絵本だ。

ただ、クリックしたものによっては、その先の場所に移動する。

ハイパーリンクで構成された世界の中をさまよい、世界観に浸ることが主目的で、特にゴールは無い。


このゲーム、当時のゲーム賞を総なめにしていたはず。

今でも好きだという人は多い。


でも、ゲームとしては「アドベンチャーゲーム」に属するもので、道に迷ったりする。

気付かないと先に進めないような経路もあり、ひたすらクリックして進める場所を探す必要がある。


それでいて、クリックに反応する箇所はそれほど多くは無かった。

このことで、ゲームが「作業している」感を感じるものになってしまったのが、僕が楽しくないと思った理由だ。



「おばあちゃんとぼくと」は、ゲームではなくて絵本なので、道に迷うことは無い。

たった12ページしかない。


でも、少ないページ数だからこそ、クリックに反応する箇所が非常に多く、濃密な体験ができる。

そして、このクリックしたときの動きが、非常にセンスが良い。



後に、Mac が Performa シリーズ…多数のソフトを最初から付属させた廉価機種ラインナップを出した際に、「おばあちゃんとぼくと」が付属したものがあった。


僕はこの機種を選んで買い、ソフトを入手した。

Mac が欲しかったのもあるが、このソフトが付いていることは決め手の一つだったように思う。




当時は、兄の子供が3歳くらいだったので、ずいぶんとこのソフトで遊ばせてあげた。

子供と言うのは集中すると飽きずに遊んでいる。


僕も気に入ってそれなりに遊んだのだけど、大人の発想ではクリックしないポイントが相当ある、とこの時に気付いた。


さらに数年たち、兄に2人目の子供が生まれ、5歳くらいになった時に久しぶりにソフトで遊ばせたような覚えがある。


この時にも、見たことのない動作を発見した。


いや、もしかしたら見たけど忘れていただけかもしれない。

でも、覚えきれないほど動作があるので、遊ぶたびに発見があるのだ。


そういうソフトはなかなかない。



僕の長男が5歳くらいの頃、このゲームで遊ばせてあげたい、と思った。

しかしその時は Windows を使っていて、Mac はあるのだけど、子供がいるからこそ物置から引きずり出すことができなかった。


#小さな子がいると、ややこしい機械を出すのははばかられるもんです。



Windows 用の Mac エミュレータの存在もこの時に知ったのだけど、うまく動作しなかった。




さて、2年ほど前に、長男が近所の科学館で「キッドピクス」を見て面白がっていた。


家にあるから今度遊ばせてあげる、と約束したのだが、この時もまだ次女が3歳で、物置からガラクタを引きずり出すのは難しかった。


もう一度エミュレータに挑戦した。

動作はするのだけど、CD-ROM ドライブにアクセスできない。


この時も断念した。




先日、急に思い出して3度目の挑戦をした。


エミュレータも、数年の間にずいぶん進化した。

68K Mac のエミュレータ、Basilisk II というやつなのだけど、現在は JIT コンパイラを搭載し、68K のコードを x86 ネイティブに変換しながら動作する。


CD-ROM ドライブが読めない件は、どうやら 32bit Windows 用のドライバしかないことが問題だったようだ。

無いものは仕方がない。iso ファイルをマウントすれば読めるよ、と説明があるのを見つけたので、CD-ROM から iso ファイルに変換した。


今のマシンだと、CD-ROM を丸ごとファイル化しても、ハードディスクに対して誤差範囲みたいなものだ。

昔のマシンでは、なんか記憶領域がもったいなくってできなかった。


かくして「おばあちゃんとぼくと」が蘇った。懐かしい。

キッドピクスもインストールした。


えーと、他に Mac 用のゲーム持ってたかな…Puzzle Bobble 2 があった。遊べることを確認。

まぁ、わざわざエミュレータで遊ぶほど好きだったわけでもないのだけど、動くことが楽しい。


iTachoco のゲーム、結構沢山持っていたので遊びたいのだけど、これはフロッピーディスクなので読む方法が無い。残念。




かくして、いま5歳の次女に「おばあちゃんとぼくと」を遊ばせてみている。


すっごく気に入ったようで、集中して遊んでいる。


Windows の画面に、狭い Mac エミュレータのウィンドウを開き、その中央に小さく表示された画面で。


#「おばあちゃんとぼくと」は、カラーであればコンパクトマックでも動くように、小さな画面で設計されていた。


色数も 256 色。ドットも荒く見える。

今こんなソフト発売しても売れないだろうね。


でも、実際に子供はすごく面白がっている。

色数とかドットの細かさとか、面白さとは無関係だということがよくわかる。



キッドピクスも遊ばせるつもりだったけど、「おばあちゃんとぼくと」を気に入って何度も最初からやり直しているので、まだキッドピクスには進んでいない。




2019.10.28 追記


今でも入手できないか、というお問い合わせをいただいたので…


1年ほど前に、Internet Archive に動作する状態で収蔵されているため、現在 WebBrowser で遊べます。


Just Grandma and Me



Internet Archive は、もともとは「すぐに消えてしまいやすい」WEB ページをアーカイブする目的で設立された、アメリカの非営利団体です。

当初のサービスは Wayback Machine と言い、1996 年以降の WEB ページを積極的に収集、公開しています。


当ページでも、リンク切れなどの際にたびたびこちらにリンクをつなぎなおしています。



その後、活動範囲を広げ、コンピューター関連のありとあらゆるものをアーカイブしようとしています。


古いコンピューター雑誌とか、古いゲームとか。

こちらも、資料としてよく使います。




注意書きを一つ。


アメリカと日本では著作権に対する考え方が違っていまして、アメリカではこれは合法活動です。

しかし日本では、Internet Archive のような活動は、違法行為となる可能性があります。


…「可能性」と書いたのは、日本では、いろいろと曖昧なままでして…



まず、他者の著作物を勝手に公開することが、日本国内では違法行為です。

国内であれば、Internet Archive 自体がアウト。


とはいえ、先に書いたように、アメリカの活動で、アメリカに著者がいる著作物を公開しているので、今回の話に関しては違法ではない。(適法ではなく、「違法ではない」グレーゾーンです)


そして、閲覧者側。これもまた、グレーゾーンです。


一応、閲覧するだけの場合でも、著作権法第119条 3項では、「違法と知りつつダウンロード」した際に違法になるように条文が作られています。


ここで、ダウンロードを「録音または録画」と位置付けています。

あらかじめ録音・録画されたデータであっても、インターネットを通して、改めて手元に「残す」時点で、録音・録画行為となります。


このため、「残さない」場合や、せいぜい「一時ファイル・キャッシュが残る」程度の場合は、違法性がないと判断されます。


ただ、昨年起きた「漫画村」事件のように、現在は「WEB 上で見せてしまう」違法行為が増えたため、政府はこれに対応する法律を準備しようとしました。

WEB 上で見るだけでも違法、という位置づけにしようとしたのですね。


しかし、あまりにも影響範囲が大きすぎるということで、反対意見が相次いで表明され、法制化を断念しています。


上に書いたような「ゲーム」の場合、これらが録音・録画の範疇に入るのか、などの問題もあります。

(一応、ゲームは映画の著作物の一種として扱う、という過去の判断があるため、録画として判断することも可能です)




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あきよし】 日記に書いた通り、「おばあちゃんと僕と」自体はCD-ROMをisoフォーマットに変換したものを使用、エミュレータとしてはBasiliskIIです。
エミュレータ上でのソフト使用はWin/Mac両方の周辺知識を高いレベルで要求されます。
冷たいようですが、ご自分で解決できないようであれば、あきらめたほうが良いかと思います。
 (2017-03-02 11:21:57)

【あこ】 こんにちは。初めまして!検索からこのブログを見に来させていただきました!!「おばあちゃんとぼくと」、名作でしたよね!! 私もプレイしたいのですが、解凍がうまくいかず……。 宜しければ、どのソフトを使用したか……教えて頂ければ幸いです。 (2017-03-01 15:59:43)

ENIAC公開日(1946)  2015-02-14 16:58:50  コンピュータ 今日は何の日

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今日は ENIAC の公開日(1946)。


ENIAC は、戦時中の軍事機密として作成が開始されました。

そのため、完成してから公開までに時間がかかっており、公開は入念なリハーサルが行われたうえで、行われました。


ENIAC が完成したのは1945年の秋でした。

完成の報を受け、陸軍では「ENIAC の能力を見るために」当時の科学者たちを悩ませていた問題を用意します。


当時、原爆よりも強力な「水素爆弾」が考案されていたのですが、その内部状態の計算が出来ていなかったのです。

科学者たちの考えた方式で思ったような成果が出せるのかどうか、これが ENIAC に与えられた最初の計算でした。


この、非常に複雑な数式が ENIAC にプログラムされます。


プログラムが完成し、科学者・陸軍関係者が ENIAC の視察に訪れたのが1945年の12月。

結果は「考案した方式では、想定した結果にならない」でした。


これにより、水素爆弾の設計は見直されます。

ENIAC が無ければ、そのまま計画が進み、水爆の完成は遅れていたでしょう。



この頃、同時に ENIAC の完成・公開式典が計画されていました。

水爆の内部状態シミュレーションは…結果がよければ式典に使用されたのでしょうが、使わないことになりました。




公開式典では弾道計算シミュレーションの実演が行われることになり、新たなプログラムが作成されます。

しかし、このプログラムがうまく動作せず、プログラマたちは頭を悩ませます。


ENIAC のプログラマは、6人の女性でした。


6人の女性は、非常に数学の成績が優秀で、戦時中に弾道計算を行うために集められていました。

最初は、微分解析機などを使って弾道計算をすることが仕事でした。


そして、彼女たちは、ENIAC のプログラムを作ることを命じられます。

しかし、ENIAC の動作を示す資料は一切なく、あるのは複雑な回路図と、エンジニアと自由に話せる機会だけでした。


この頃、まだ ENIAC は完成しておらず、実機で試すこともできません。

そんな状態から ENIAC の動作を理解し、与えられた数式をプログラムする方法を考えなくてはならなかったのです。



ENIAC は、多数の計算回路の集合体です。

個々の回路は、掛け算だけ、足し算だけ、引き算だけ…などを行うように作られています。


プログラムは、この回路間を「結線」することで行われます。

結線により計算手順を示し、場合によっては複数の結果のうち、条件に適合したものだけを次の計算に使ったりするのです。


数式を与えられたとき、その数式を表現するために、どのような結線を行えばよいか。

これは、非常に難しい問題でした。


「結線を変えられれば自由な計算を行えるはずだ」という設計は間違えていないのですが、それがどんなに複雑なことになるかまでは考慮されていなかったのです。



彼女たちは EANIC のプログラム方法を自分たちで見つけ出し、複雑な数式もプログラムできるようになっていました。

完成後最初の計算である、水爆の内部状態遷移も彼女たちがプログラムしたものです。



しかし、それよりも簡単なはずの「弾道計算」はうまく動きませんでした。

公開式典はすでに日付が決められており、それまでにプログラムを完成させなくてはなりません。



恐らくは、世界初のデスマーチ・プロジェクトです。

彼女たちはこの問題にかかりきりで、何日も昼も夜も、何が悪いのか考え続けました。


式典の数日前、プログラマの一人である、エリザベス・ホリバートンは真夜中に目を覚まします。

何が悪いか、夢の中でひらめいたのです。


条件によって ON にならなくてはならないスイッチが、特定条件下では OFF のままでした。

これが計算を台無しにしていたのです。



#この話、デスマーチ経験のあるプログラマなら思い当たるはず。

 頭を悩ませていると、夢の中にまでその問題が現れるものです。

 そして、夢の中では「あたりまえ」だと思っていたことが邪魔せず、解決方法がひらめくことがあります。




そして、完成式典は 1946年の今日、2月14日に行われました。


世紀の大発明を公開する式典は非常に豪華なもので、晩餐会つきでした。


晩餐会のメニューは、ロブスターのビスキュイ(クリームスープ)、フィレミニヨンステーキ、サーモンステーキなどを含む5品だったそうです。


基調演説は、科学アカデミー会長で、原爆開発のマンハッタン計画にも一役買った、フランク・ジュウェットでした。



この完成式典は「完成」を伝えるためだけのものでした。

しかし、その衝撃は世界中に伝わり、ソ連からも「一台売ってくれ」と注文が来たそうです。


#この注文は断られました。

 アメリカに敵対する国に軍事上優位な装置は渡せない…というわけでもなく、「ENIAC は量産品ではなく、1台しかない」ことが主な理由です。



ENIAC の開発資金を提供した陸軍に納入されたのは、その数か月後。

余りにも巨大なので壁に穴を空け、まとまった回路ごとに分割して運び出され、陸軍に納入されました。


ENIAC の本格的な稼働はその後。

最初の計算は、設計し直された水爆の内部状態計算でした。




ところで、この完成式典を挟んだ数か月…水爆の最初の設計が正しくない、と示した時から、陸軍に納入されるまでの期間が後に争点となります。


ENIAC の特許が申請されたのは、1947年の6月26日。


アメリカでは特許申請は「公に使用されてから1年以内」と決められていました。

申請は、公の使用とは陸軍への納入である、と考えて、期限に間に合うように行われています。


しかし、後に ENIAC の特許を無効にしようと別のコンピューター会社が起こした訴訟では、「公の使用は、最初の水爆計算の 1945年12月である」と判断されました。


つまり、ENIAC の特許は申請期限を半年も過ぎており、無効。



この裁判の中で、ABC マシンが「ENIAC に先行して作成されたコンピューターである」という主張が行われています。

(先行する類似発明があると、特許は無効となります)


ABC マシンは ENIAC とは明らかに違ううえ、完成していません。

そのため、裁判ではこの件は判断されておらず、ABC が世界最初のコンピューターだとは判断されていません。


しかし、ENIAC の特許が認められなかった = ABC が最初と認められた、と主張する書籍が後に作られ、ABC が世界初である、と誤解が広まっています。




最後に、バレンタインデーらしい話を…


ENIAC のプログラマ6名が、マニュアルもない状態でプログラムを作らなくてはならなかった、という話を途中で書きました。


彼女たちは、参考に、エンジニアと自由に話をする機会を与えられました。

恐らくは、仕事のために何度も何度も、エンジニアに質問をしたことでしょう。


そのうちに仲良くなるエンジニアがいるのは当然のことです。


全員がエンジニアと交際していました。

そして、結局3組のカップルが結婚しています。



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「ああ播磨灘」ゲームボーイ版  2015-02-16 09:42:33  業界記

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昔話を続けましょう。

大学の頃、アトリエドゥーブルという会社で短期間ですがバイトしてました。


バイト中に、ゲームボーイ版の「ああ播磨灘」の作成依頼が来ました。

これ、当時流行していた相撲漫画ね。


ゲーム内容の詳細は決まっておらず、ただ「ああ播磨灘」を使う、ということだけ決定。

漫画内の絵など、自由に使ってよい、ということも決定。


企画者の人が、相撲ゲームの参考資料を集めるのですが、相撲のゲームってそれほど多くないのね。

当時、花王のフロッピーディスクを買うとおまけで「98用ゲームの入ったディスク」が付いてきたのですが、それに相撲がある、という噂を聞いて、企画の人が探して買ってきたりしました。


遊んでみると、これがとんでもないシロモノ。

相撲なのに必殺技がある。相手を屋根を突き破って飛ばしたり、パイルドライバーで脳天落とししたり。

キャラクターを力士にしただけで、当時人気のあった格闘ゲームのような様相でした。


これを見て、「正統派の相撲ゲームを作る」ということだけは確認していました。


#メガドライブで発売された「ああ播磨灘」は、格闘ゲームになっていましたが、この時点ではまだ発売されていません。


さて、そんな作業の傍ら、「漫画の絵をそのまま使う」ことは決定事項だったので、僕はそのためのソフト作りを依頼されました。


漫画の絵をスキャンして適切なサイズに変更、までは終わっているのですが、このデータが16階調の白黒データでした。

ファイル形式も…忘れたけど、たしか TIFF かなにか。


でも、ゲームボーイでは4階調しか出ませんし、ゲームボーイ独特のデータ形式でないと使えません。

なので、4階調に減色し、ゲームボーイで扱える形式のデータとして吐き出すツールが必要です。



PC-98 の TurboC があったので使わせてもらい、ソフトを作成します。

バイナリファイル扱うなら、BASIC よりもCの方がやりやすかったから。


16階調を減色、と言っても、そのまま減色しては美しくならないことはわかっていました。


幸い、PC-98 には 16色のパレット機能があります。

そこで、画像を表示した横に、16色を並べたパレットを作り、動かせる「スライダー」を3つ用意します。


このスライダーを閾値として、16色のパレットを4色に減色するようにしました。

先に書いた16色パレットを使い、スライダーを動かすとリアルタイムに画面上で見た目を確認できます。



多数のファイルを処理しないといけないのはわかっていたので、ディレクトリ内のファイルを次々と自動で読み込み、閾値を適当に処理したのち決定すると、ゲームボーイのデータ形式で4階調のデータを吐き出すようにしました。


ゲーム機向けのデータのコンバートと言うのは、1年前の別会社でバイトした時のプリンタ制御と似たようなもの。

減色しながらデータ形式を変換して、出力するだけですから。1年前のノウハウが役立ちました。


データ整理ツールを依頼した社長としては、とにかく 16階調の絵を適当に4色に出来れば、それだけで良かったようです。

汎用で使えそうなツールを作ってしまった、ということに驚かれました。




このあと、社長から「播磨灘のプログラム作んない?」と聞かれました。

この頃、バイトとはいっても週に2~3日しか入っておらず、とてもメインプログラムなんて作れないです。


それに、8080 系には嫌な思い出が…

高校の時、MSX で Z80 のプログラムを初めて作ったら、BASIC コンパイラより遅かったんですよね (^^;;


これですっかり Z80 系には苦手意識が…


#Z80 では、インデックスレジスタを使うと非常に遅かったのだが、それを知らずに使ってしまった。


GB は Z80 じゃなくて、インデックスレジスタもないから大丈夫だよー、とか言われて資料も見せてもらったのですが、大学行きながらメインプログラマはできないです。

そう断ったら寂しそうでしたが、結局社長がメインプログラマーやってゲームは完成したようです。


この後、「大学辞めて入社しない?」とまで誘われたのですが、申し訳ないのですが大学を辞める気はなかったので、バイトの方を辞めました。

なかなか楽しい職場だったんですけどね。



バイトを辞めてずっと後、ゲームボーイの「ああ播磨灘」が、ゲームショップのワゴンセールで安く売られていたのを見かけました。

買ってきて遊んでみましたが、大バグあるじゃんよ!


力士の移動に従って土俵がスクロールするのですが、「画面のスクロール」「画面上の力士の位置」「土俵上の力士の位置」がかみ合っていません。

このため、土俵中央で寄り切ってしまうことがあります。


バグの出現条件も非常に単純で、慣れれば確実に出せます。

このバグ、発売まで誰も気づかなかったの?


で、さらに後で知ったのですが、このゲームのスタッフクレジットとして、僕はサブプログラマーになっているのね…

持っていて遊んでいるのに、Youtube で再確認するまで気づいてなかったよ。


画像整理のためのツールは作ったけど、ゲームのプログラムは1バイトたりとも書いてませんよー。

僕が関わってたら、あんな大バグ残さないよー。


#と言いつつ、バグっていうのは必ず出るものです。

 岡目八目で大バグなんて言っているけど、その場にいたら気づかないかもしれません。



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クリストファー・レイサム・ショールズ 命日(1890)  2015-02-17 11:29:28  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、クリストファー・レイサム・ショールズの命日(1890)。


PCをお使いの方は手元をご覧ください。

その、QWERTY配列キーボードを考案した人です。


実は3日前のバレンタインデーが彼の誕生日(1819)だったのですが、ENIACの公開日、という大ネタもあったので命日の紹介となりました。




彼は新聞編集者で、多数の新聞の編集長を務めています。

同時に、郵便局長・税関・土木事業局理事などの公職も歴任。


恐らくは、とても事務仕事が多かったでしょうし、とても多忙だったでしょう。

そんな中で、ペンを使って手で書くよりも早い筆記具を研究し始めます。


当初はピアノの鍵盤のような形状だったようです。

それが改良されて現在のQWERTYになっていく過程に関しては、Wikipediaを読んだ方が、僕が書くよりずっとわかりやすそうです。




1882 年には現在とほぼ同じ配列のタイプライターが完成します。

この発明はレミントン社に持ち込まれ、商品化されます。


このレミントン社、吸収合併の歴史の繰り返しもあり、簡単には説明できません。

これもWikipediaを見てもらったほうが良さそう。



レミントン社は後にレミントン・ランドとなり、ENIAC を作成したエッカートモークリーを迎え入れ、UNIVAC I を作り出します。

世界初の商用コンピューターでした。


もちろん、このコンピューターはQWERTY配列のキーボードで操作することが可能でした。




さて、一足飛びにコンピューターの話に入る前に、タイプライターの進化をざっと書いておきましょう。


話はモールス信号の実用化まで遡ります。

当初は、通信士が通信文をモールスに変換して送信し、受信側の通信士が元の通信文に戻していました。


しかし、これでは訓練された人員が両側に必要です。

訓練なしに文字を送れるように、「文字」を直接送れるようにした「テレプリンタ」がすぐに開発されます。


ピアノ状のキーボードを使い、押したキーに対応した文字が相手側で印刷される、という仕組みでした。

タイプライターは、当初はこのキーボード配列を流用し、後には独自に使いやすいキーボードを考案して作成されたものです。



タイプライターの発明時点では、キーを押すことで直接活字が動き、紙に印字する機構になっていました。


紙に活字を叩きつける必要があるので、結構力がいります。

人差し指で押すキーと小指で押すキーでは、力が違うのでインクの濃淡があり読みづらい、等の問題もありました。



少しして、キーボードは単に「スイッチの集まり」になり、電気の力で活字を打ち付ける方式が登場します。

電動タイプライタです。


こうなると、キーボートと印刷機が目の前にある、というだけで、テレプリンターシステムと何ら変わりのないものになります。

実際、遠隔地と結ばれた電動タイプは「テレタイプ」と呼ばれ、すぐにテレプリンタを置き変え始めます。




電動タイプには、入力したキーを紙テープに記録できる機種が作られ始めます。

この紙テープを「再生」すると、先の入力と同じように印字ができます。


タイプライターでは、間にカーボン紙を挟んだ複数枚の紙を使って、同じ文章内容の「複写」を作ることができました。

とはいえ、複写するときには特に強くキーを押す必要がありましたし、せいぜい2~3枚を同時に作成するのがやっとでした。


#カーボン紙で作られるコピーを「カーボンコピー」、略して CC と呼びます。

 電子メールで同時に複数人数に送る際の CC: 欄はこの意味です。

 念のため書いておくと、当時はコピー機の開発以前です。


紙テープによる再生は、カーボン紙を使わずに、同じ文面のコピーを可能にしました。

これなら、何枚でも同じ文面の書類を作ることができます。



紙テープの利点はそれだけにとどまりません。


タイプライターで1ページの書類を入力していると、当然「入力ミス」も発生します。

そんな場合はホワイトで消して修正するか、そのページを最初から入力し直すしかありません。


しかし、紙テープなら「間違えたところをハサミで切り取り、糊で繋ぎ合わせる」という編集が可能なのです。

紙テープが多少ツギハギになったところで、大切な「書類」にはその跡は残りません。


これは、書類作成事務を大きく変える大発明でした。




コンピューターが登場するのは、この紙テープタイプの普及後です。

「現代的な意味で」最初のコンピューターである EDSAC では、すでにタイプライターが活用されています。


…と言っても、電動タイプライタの印字部分を出力に使用できた、というだけです。

キーボード部分は一切接続されておらず、入力機器としては使用できません。


EDSAC では電話のダイヤルが取り付けられていて、0~9の数字が入力できました。


電動タイプライタの印字部分だけとか、電話のダイヤル部分だけとか、寄せ集め感満載です。


EDSACは大学が研究のために作ったもので、それほど潤沢な予算があったわけではありません。

だから、使えそうな民生品を流用して作った、という、それだけの理由でしょう。



ところで、先にリンクした Wikipedia のQWERTY配列のページでは、EDSAC にテレタイプが接続されていて、QWERTY配列だったことが書かれています。


テレタイプがプリンタとして接続されていたのは、上に書かれている通り本当です。

しかし、キーボードは使用されていないので、QWERTYであることは無関係です。


#Wikipedia の記述は資料に基づいたものなので、資料に誤りがあるのかと思います


#僕が勘違いしていました。記事の最後(15行くらい後)に訂正の追記を行います。




UNIVAC I がQWERTYで操作できた、というのは先に書いた通りです。

もっとも、こちらも基本的には EDSAC と同じで、紙テープの作成用と印字用、というのが中心的な使われ方。


それでも、キーボード部分が入力インターフェイスとして使えるように、UNIVAC I に接続されていたようです。

UNIVAC I は商用の、事務などにも使用されたコンピューターなので、文字の扱いも重視されていたようです。

(これ以前のコンピューターは主に科学計算用でした)


UNIVAC I 以前のすべてのコンピューターを調べたわけではありませんが、おそらくは UNIVAC I 以前にはQWERTYキーボードで操作できたコンピューターは無いのではないかと思います。



クリストファー・レイサム・ショールズがQWERTY配列を考え、レミントン社が権利を買い取り、普及させた。

そして、レミントン・ランド社になって、自社製のキーボードをコンピューターにも接続した。


どうやら、現在QWERTYキーボードがコンピューターに接続されているのは、こういう理由のようです。




2015.2.25 追記

上記、「資料に誤りがあるかと」と書いたところ、資料の著者の方から意図の説明がありました。



僕がちゃんと読み解けていなかった部分もありましたので、お詫びの上訂正し、解説します。


Wikipedia を改めて確認したところ、「インターフェイスとして用いた」という記述のみで、接続されているとは書いていませんでした。


これを読んで「EDSAC では接続はされていなかったはずだけどな」と思ってしまったのが僕の勘違いです。

EDSAC では、キーボードは接続されてはいなかったが、インターフェイスとして利用はされていた、というのが事実です。


実のところ、EDSAC に「接続された」タイプライタと同種のタイプライタが、別の用途で利用されていたこと自体は知っていました。

当初はその話も書いていたのですが、それは「EDSACの話」であり、この日記のテーマである「QWERTY」から外れすぎると考えて削除していました。



以下に詳細を書きます。

(EDSAC の話に偏ってしまいますが、不正確な記事の訂正のためですのでご了承ください)



EDSAC の命令コードは、1文字で表されます。

現代的に言えば、アセンブラのニーモニックです。


ニーモニックですから、コンピューターが理解できるバイナリコードに変換(アセンブル)しなくてはなりません。

しかし、EDSAC ではこのバイナリコードとして、テレタイプで文字をタイプした際に紙テープに記録されるコードをそのまま採用していました。


また、テレタイプで数値を入力すると、それはそのまま2進数表現となる文字コードになっていました。

1桁のみの2進数なので、BCD表記となりますが、BCDから2進表現への変換は、イニシャルオーダー(紙テープを読み込むためのプログラム)で解消されました。


つまり、アセンブリ言語で書かれたプログラムをタイプライターで紙テープにパンチすると、EDSAC で実行可能なプログラムとなったのです。



「インターフェイス」という言葉をどのような意味に捉えるかにもよりますが、これはQWERTYキーボードをインターフェイスとして利用してはいます。


ただし、紙テープの穿孔機としての利用であり、コンピューターに働きかけることはできません。

現代で考えるようなキーボード利用の方法とは、かなり性質の異なるものです。



いずれにせよ、Wikipedia の記述がおかしい、というのは僕の早合点でしたので、お詫びしたうえで訂正します。


2018.6.18

上の追記の指摘をくださった先生が、キーボードの成立過程を解説したページを作っていました。

面白いのでリンクしておきます




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申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

あきよし】 補足ありがとうございます。ご本人からの解説で痛み入ります。
元文献を読まずに違うのではないかと書いたことは軽率でした。お詫びいたします。
一応紙テープのことは知っていたのですが、本文が長くなりすぎることを避けて書いていませんでした。
ただ、結果的に誤りを書いてしまったことになるので、本文修正いたします。
 (2015-02-25 09:14:54)

【安岡孝一】 『The Preparation of Programs for an Electronic Digital Computer』(Addison-Sesley 1951)を読む限りでは、EDSACにはCreed Model 47を改造したキーボードが繋がっていたようです。ただし、電気的にではなく、もちろん紙テープを介してですけどね。 (2015-02-23 21:09:53)

手相うらない ちょっとみせて 発表(1995)  2015-02-17 13:22:43  今日は何の日 業界記

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手相うらない ちょっとみせて 発表(1995)

さて、20年たちました

そろそろ書いても良いかな、と思います。



1995年の2月…日程は正確に覚えていないけど、カレンダーを調べると多分2月の17日と18日。

幕張でAOUエキスポが行われました。


AOUエクスポって、業務用ゲーム機の展示・商談会ね。

17日はビジネスデーで招待客のみ。18日は一般入場も可能で、ゲームファンが集まる日でした。


僕が会社員になって初めて作ったゲームが、一般に初お披露目する機会でした。


追記2023.03.27

これを書いた当時、確認手段がなかったのですが、今は当時の業界紙「ゲームマシン」が、公式に公開されています。

上の記述が急に気になって調べたところ、日程は 22~23日でした


2日目の一般客向けの配慮で、金土にしていると思ったのだけど、両方平日。記憶違いだったみたい。


しかし、開催を伝える記事のすぐ隣には、招待客のみのはずの1日目に一般客が入っていたので、ゆっくり商談ができないという不満を伝える記事が…


そのゲーム機が、「手相うらない ちょっとみせて」。

名前の通り占い機です。


ゲーム好きの人からは「なんだ、占いか」なんて言われそう。

でもこのゲーム、当時の占いゲームの常識を塗り替える大ヒットでした。


半年後くらいには、同じAOUでデビューした、同じ分野の機械が社会現象になるほどの大ヒットとなったため陰に隠れてしまいましたけどね。


#日記冒頭の写真は店舗向けの宣伝チラシ。

 クリックすると全体が見られます。




僕がプログラマーとしてセガ・エンタープライゼスに入社したのは、1994年の4月。


当時はセガは新人研修に時間をかけていて、1週間ほど店舗営業を経験し、2週間ほど工場での作業を経験し、それから部署に配属になりました。


僕の配属された部署は第1AM研究開発部。俗にいう「AM1研」ですね。



部署に配属されてからも、しばらくは新人研修、ってことで雑用をいろいろやります。

よくロケテストでお世話になる店舗を廻って、単に遊ぶ場所としてのゲームセンターではなく「客層の違い」を見たりとか、ゲームのアイディアを書いて提出したりとか。


さらに、プログラム課に配属されて、それぞれに「先輩社員」が付けられます。

最初はその先輩に教えてもらえ、ということ。


最初の仕事は、プログラムではなく仕事に使う道具作りだったように思います。


JAMMA ハーネス…ゲーム基板とゲーム筐体を接続するケーブルの作成。

開発の際には、開発用基板を机の上に置き、筐体は机の横に置きますから、「基盤が筐体に内蔵される」際の一般的なケーブルでは短すぎるのです。


今は新JAMMA ってやつがあるけど、この頃はまだ旧 JAMMA 規格ね。

56ピンのコネクタで筐体とゲーム基板を接続します。この56のピンの延長ケーブルを作るので、両側合計 100か所ほどの接点をハンダ付けしなくてはなりません。


こんな作業をしている間に、課長からはプログラムの簡単な課題も出されたりもします。

どうも、技量を推し量られたようで、配属プロジェクトが決まります。




で、僕が配属されたのが、先に書いた手相占いゲーム。

他の同期は、当時発売前だった ST-V のゲームなどに割り振られていました。


アクションゲームが好きで入社したので、占いへの配属は多少不満もありました。

使用ボードは、すでに旧式となりつつある System32 。こちらも、最新ボードを使ってみたい気持ちがありました。


しかし、「仕事なのだから何を割り振られても全力でやる」と最初に考えていたので、とにかく良いものを作ろう、と気持ちを切り替えます。



この割り振り、後で知ったのですが、僕が一番実力がある、と認められてのものだったようです。

大きなプロジェクトでは、新人は「雑用のデータ整理」などが主な仕事なのですが、占いはプログラマー二人だったため、雑用仕事もこなしつつ、プログラムをかなり書く必要がありました。


また、System32 はアセンブラで作成する必要があり、Cだけでなくアセンブラも使えた僕なら…と割り振られたようです。

この時は知らなかったけど、非常に名誉なことでした。




この時に一緒にプログラムを作ったA先輩は、面倒見が良くて気さくで、人の輪の中心になるような人でした。

後にA先輩が退社するまで、いろいろとお世話になることになります。


手相占いは、A先輩が主に占いロジックや、周辺機器との I/O などの「複雑な部分」を担当。

ユーザー入力や画面表示など、ゲームの見た目を占める大部分は僕に任されました。


これ、A先輩としては「複雑な部分は新人では荷が重かろう」と考えたようなのですが、ゲームらしい部分を多数任されたので、作っていて非常に楽しいものでした。



この話、結構長いので少しづつ区切って出します。

続きは後日



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占い開発の初期  2015-02-18 11:00:02  業界記

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占い開発の初期

昨日の続きです。


話は僕が入社する前になります。

AM1研が作成した占いゲーム機で、「スターライトフォーチュン」というものがありました。


このゲーム機、占いとしては結構人気が出たそうです。

占いゲーム機って…悪く言えばいい加減なものが多いです。占いなんて、適当に書いたってわかりゃしない…というのはある程度事実だから。


スターライトでは、専門の占い会社の方に頼んで占いのロジックを決めてもらい、その結果文章も大量に用意してもらいました。

占いジャンルも大量、占い結果の文章も大量。さらに、結果文章は画面で表示する「概要」と、印刷してお持ち帰りいただく「詳細」が違います。


占いは文章を楽しむもの、という考えで、友達数人で占っても同じものが絶対に出ないように、と多数の文章が用意されていたのです。


とにかく本格派の占いでした。



これが好評で新たな占いを作ろうとしているところへ、オムロンが「一緒にゲームを作れないか」と話を持ち掛けてきました。


オムロンは昔からスイッチ部品などを作っていましたが、この頃からゲームセンター用のスイッチ類の扱いを始めていました。


詳細は知らないのですが、ゲームセンター向け事業の部署を興したので、スイッチに限らずいろいろやってみようとしていたようです。


オムロンからは、医療機器を作ってきたノウハウもあるので、手相などを取ることができますよ、との話があり、これが「新しい占い」の話と結びついたのです。




とはいえ、僕がプロジェクトに配属された段階で、まだ手相を取る機械も、占いのロジックも、何もありませんでした。

プロジェクトは始まったばかりだったのです。


企画として、スターライトでも企画を行ったB先輩が割り振られました。

B先輩、非常に論理的で、的確なアイディアを次々出す方でした。


スターライトでは、本格派を目指して「神秘的な雰囲気」を前面に押し出しました。

これは雰囲気を出す点では成功だったのですが、ゲームセンターの端に置かれることが多い占い機としては地味すぎて、気づかれにくいものでした。


また、発売後の「反響」として、深刻な人生相談なども寄せられたようです。

それだけ信頼された、というのは嬉しいことではありますが、残念ながらセガはゲーム屋です。人生相談には乗れません。

もっとゲームとして気軽に楽しんでほしいのですが、本格的な雰囲気を出したが故の悩みです。


そこで、手相占いでは明るいポップな雰囲気で、話の種として気軽に楽しんでもらえるものを目指します。

結果的に、これは大成功でした。



全体として、キャラクターはかわいく。

…具体的なキャラデザインは、デザイナーの人に任されました。

こちらも、実は同期の新入社員デザイナーと、先輩デザイナーの2人。企画も合わせて5人の小さなチームでした。


#音楽は、慣例としてゲームが完成に近づいてから人員が割り振られます。


少し赤ちゃんっぽい感じに描いた男の子と女の子をメインキャラに据え、ゲーム内では必要に応じて「筋肉男」「オールドミス」など、極端な性格付けをしたキャラが数人います。


というか、占いゲームで「キャラを立てる」ってこと自体が、当時としてはあまり前例がなかったように思います。


ちなみに、紙切れなどのエラー時には「貧乏神」と呼ばれる謎のキャラが現れます。


ゲームセンターの店員とかでない限り、見たことある人はあまりいないはず。


この貧乏神がふらふらと歩いていくと、歩いた後にお花が咲く。

画面端まで行くと逆端から出てくるのだけど、今度は花に触れると花が散っていく。


…なんて謎の演出なんだ。


この演出はデザイナーの先輩の指示だったように思います。

企画のB先輩は、エラー画面なんてあまり出ないから適当でいいよー、って何も決めなかったのではないかな。




占い監修は、スターライトに引き続き「ディメーレ」という占い会社。

この会社、今では代表者である「ステラ薫子」さんの名前に変わって存続しています。


占い師としては、実際の手相を見ながらでないと文章が書きづらい、というので、AM1研全員の手相がコピー機で取られ、それを見ながら文章を書き、その後で各種手相パターンに応じて分類・修正していく…という作業が行われました。


ゲーム全体の雰囲気に合わせ、明るい口調で言いにくいこともズバズバ言う、というような文体で書かれた文章は、やはりものすごいデータ量でした。


企画課の方で、直接関係なくても手が空いている人はみんな協力して誤字・脱字のチェックを行ったようですが、少しくらい誤字があっても許してあげてください…



しかし、ディメーレの文章は的確で、スターライト・手相、後に作られるもう一つの占いの3部作の評判をいまネットで調べてみても「非常に良く当たっていた」という評価が多いです。


占いのアルゴリズムなどはディメーレがすべて決め、セガとしてはそれをゲーム機の形に組み上げただけ。

良く当たったのであれば、それはステラ薫子さんの力によるものです。




オムロンから手相を実際に取れるハードウェアが送られてきました。


手をカメラで撮影し、生命線・頭脳線・知能線…などの形を分類し、数値化して返してきます。

ただ、このハードの速度が想像以上に遅かった。オムロンの営業氏の最初の約束では15秒程度でとれるはずだったのに、最大1分程度かかるようになっていました。


急遽、この「解析時間」をごまかすための策が練られます。


解析前に、撮影した手の画像を取り出せるようになっていました。

そこで、手の画像を画面に表示し、それをあたかも現在解析しているようなグラフィックを表示します。


…ここら辺、完全に僕のアドリブで作りました。

解析している風の「スキャンライン」を表示したり、エッジ抽出して掌の「線」を際立たせたり。


たしか、まだ稼働している頃にネットで見た感想で、「こんなに荒い画像で手相を検出しているようだが、微妙な手相なんかは潰れてしまうのではないか」とか言っている人もいたように思います。


ご安心ください。あの画像は完全フェイクです。

本当は別ハードウェアの中で時間をかけて丁寧に解析しております。



ところで、ゲーム作っていると、エッジ抽出みたいなグラフィック処理はそれほど使わないものです。


周囲からどうやっているのかと不思議がられましたが、実のところこれもバイト時代にプリンタドライバ書いた延長で、グラフィック処理に興味を持っていたので知っていたという…


バイト時の経験が後々まで役に立ってます。




ある程度完成してきてから、音楽が入れられました。


当時のセガでは、音楽はAM2研にチームがあり、1研や3研はそちらのチームに依頼をしていました。


とはいっても、1研担当と3研担当の人は前もって割り振られていて…事実上、各部署の人材が、2研に置いてある機材を使わせてもらっている、という状態。

まぁ、音楽機材は高価なので部署を超えて共有するのが合理的だったのでしょう。



音楽も、同期の新人が割り振られました。

この占いゲーム、計6人のうち3人が新人と言う、新人だらけプロジェクトでした。


#あとでデザインが3人短期で割り振られるけど、そのうち2人も新人でした。


さて、音楽担当の人なのですが、音楽センスが無茶苦茶良くて、しかも占いでは「好きに作って!」という依頼だったので、のびのびと良い曲を書いてくれました。


最初から「占い結果の概要説明を音声で喋らせる」ことが決定していたため、音楽も CD で演奏することになっていました。

だから、System32 の音源の制約などもなく、本当に自由自在。


これを書く前にネットで評判調べたら、「手相解析中の音楽好きだった」「サントラ出すべきだ」というツイートを見つけました。

3年も前の物だけど、なかなか嬉しいことを言ってくれている。


残念ながらサントラは出ていませんが、効果音以外はほぼ CD からの再生だったので、もし入手できればそのままサントラみたいなものです。

ゲームの性質上、中古基板とかは出回ってないみたいだけど、CD だけどっかにあったりしないもんですかね…


僕は開発時に使っていた CD-R を大切に保管しています。

著作権の問題があるのでとても公開できませんが。


ところで、これもネットで調べたら「解説などの音声は声優の千葉繁さんではないか」と書いている人がいました

正解です。企画のB先輩がアニメ好きで、「この人しかいない」と決めたものです。



収録時には、本来使う予定ではなかった音声もたくさん取れていました。

NG音声や、その際につい口走ってしまった言葉とか…


音楽担当者が、この本来使うはずではなかった音声をリミックスし、音楽の中で使っていたりします。

データ入力時の音楽で、千葉さんのいろんな声がパーカッションのように使われているのです。


「しじみじゃないんだから」って繰り返す部分があって、どういう文脈で喋ったのだろう?


つづく



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ロケテストとショー発表  2015-02-19 09:53:09  業界記

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ロケテストとショー発表

昨日の続きです。(最初からも読めます)。

20年前に発表された「手相うらない ちょっとみせて」という業務用ゲーム機の話。



#写真は、画面上に貼られたジャンル一覧の紙の一部。

 クリックで大きくなります。(相変わらず一部ですが)


 ロケテスト用に作られた仮のもので画質が悪いです。

 販売時にはもっときれいな印刷だったはず。




ある程度出来上がった段階で、一度ロケテストが敢行されました。

作ろうとしている方向性が「正しい」かどうかを確認することになったのです。


この時点で、占いの主要部分は全部出来上がっていたように思います。

でも、アドバタイズ(誰もゲームをやっていない時の宣伝画面)とか、細かな詰めが無かったのではなかったかな。


明るい雰囲気で、占いだからカップル向けだろう…というので池袋 GIGO がロケテスト場所に選ばれました。


#占いのジャンルの中に相性占いがありました。

 たしか、1人用が300円、2人用が500円。

 「2人用が高くても、きっと彼女が遊びたがって、彼氏が全額払うから大丈夫」という読みだったはず。


#ロケテストの意義について、近いうちに説明しておきたいとも思いますが、当時はロケテストは「絶対に秘密で行う」のが普通でした。



この時、お客さんの反応を見るために遠巻きに見ていたら、オムロンの営業の方と会いました。

営業の方も気になって見に来ていたのです。


お昼おごりますよ、と言われて近くのレストランへ。

新人のペーペーを接待しても、なにも見返りになるようなことしてあげられませんよ…と思いながら、申し訳ないので「好きなものを頼んでください」と言われても比較的安いものを。


この時は知恵がなかったのですが、今考えると「協力会社の人と昼ご飯を食べた」という名目があれば、会食費全体が接待費として会社持ちなのですね。

営業の方が一人でご飯食べても自分持ちなので、昼食代を浮かすために僕を誘っただけでした。もっといいもの食べればよかった(笑)


ちなみに、僕は「ご馳走になって申し訳ない」と思っていたので、営業の人には開発の状況など、出来るだけ情報提供しました。

ちゃんと仕事上の会食としての要件は満たしてますので、営業の人が会社の金で昼飯食べただけ、ということではありません。


ここ、キッチリ主張しとかないと、当時の営業の人に迷惑かかっちゃうからね。




ロケテストの結果はおおむね良好。

ただ、プリントアウトの待ち時間が長すぎて、「待たされる」感が出ていたのが問題でした。


内部的には、手相データを貰ったらすぐに結果を計算し、印刷を開始していました。

でも、当時のページプリンタでは印刷に1分くらいかかってしまっていたのね。


画面上で結果の概略などを説明しているアニメがあるのですが、これが25秒~40秒程度。

当初予定では30秒程度で印刷が終わるはずで、その時間に合わせてアニメを作っていたのです。


結果、20秒~30秒程度の待ち時間が発生します。

何もしないで待っている時間としては、かなり長く感じる。


そこで、25秒程度で「手相に関するクイズ・雑学」などを出すことになりました。

占いなのに唐突にクイズを出されるのはゲームとしてまとまりのない印象なのだけど、最初から「ごった煮のような雰囲気」でまとめていたので、それほど致命的ではありませんでした。



急遽仕様変更になるけど、メモリとか大丈夫? と聞かれました。

画面周りは僕の管理でしたから。


この時点でグラフィック格納用のメモリには十分な余裕がありました。

そこで「大丈夫です」と答えたのですが、メモリがあいていたのは、絵を描いているデザイナーの先輩が上手だったから、でした。

データをうまく使いまわして、メモリを節約する癖がついていたのね。


デザイナーが3人追加になります。うち2人は同期の新人。

どんどん絵を描いたら、あっという間にパンク。新人は、データ節約テクニックとか知りませんから。


結局、せっかく大量に描いてもらった絵は多くがお蔵入りに。

僕の見通しが甘かったせいでもあり、せっかく描いたのにすみません。


#この頃冬休みに入る直前で、忘年会が行われました。

 「せっかく描いたのにひどいよ」と同期のデザイナーに責められながら、しこたま飲まされました。




で、最初に書いた通りAOUエクスポで初お披露目となります。


これが大評判で、たしか4台くらい置いておいたのですが、遊んでみたい人が大勢並び、隣の会社のブースまで列が伸びてしまいました。

隣の会社がどこだったか忘れたけど、迷惑かけて後で営業宛てにクレーム来てたみたい。


実はこの日もまだバグ修正などが行われていて、出来上がった ROM を会場に運び、一瞬機械を止めて裏で交換したりもしていました。


大学祭の時にも発表しながら夜に改良してたりしたので、社会人になってもあまり変わらんなぁ、と思った覚えが。

(でも、そういう「ライブ感」は好きです)



会場に行ったついでに、敵情視察。

他の会社を廻り、類似ゲームなどを確認する、というのは、ゲーム製作者としての大切な仕事でもあります。


この年の AOU ではあまり占いなどは出ておらず、一番「類似」だったのは、シール作成機の「プリント倶楽部」。

まったく注目されておらず、誰も遊んでいませんでした。


…会社で報告書に「類似ジャンルと言っても全く違うタイプだし、競合相手ではないだろう」というような記述をしたと思うのですが、ご存知の通り、これは後に社会現象になるほどのゲームになりました。


ただ、ブームに火が付くのは半年以上後のこと。




手相占いは大評判で、占いゲーム機としては異例なほどの注文が入りました。


元々は、System32 の在庫を処分する、という名目で作られていたのだそうです。

しかし、在庫だけでは足りず、System32 に増産がかかってしまいました。


ある程度売れたら、今度はプリンタが足りなくなってしまいました。

コストの問題もあり、エプソンの2世代前のプリンタを使っていたのですが、エプソン側に在庫が無くなってしまったのです。


1世代前のプリンタが互換品だ、というので、少し高いのですがそちらを搭載する形で生産されました。

こちらのプリンタの方が印刷が速く、「印刷時間待ち」のクイズなどを始めるころには印刷が終わります。

(最初からこれを搭載していれば何の問題もなかったわけだ)



しかしやがて、これの在庫すらなくなります。

現行機種を使えば生産を続けられたのですが、互換品ではなくプログラムを大幅修正しないと動かない、と判ります。



昔のプリンタは、プリンタ内に文字フォントを持っていました。

しかし、Windows 時代になると、Windows のフォントを使って「画像として」文字を表示するようになったので、プリンタ搭載フォントは不要になりました。


しかし、System32 は残念ながら Windows ではないのです。

プリンタ側にフォントを持っていることを前提としてプログラムを作っていました。



まだ注文が入っていたのですが、これで生産終了。

プリンタ問題がなければ、もう少し販売されたのでしょうね。



つづく



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スタッフロール  2015-02-20 10:50:24  業界記

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スタッフロール

昨日からのつづき。

20年前に作った手相占いゲーム機の開発話書いてます。

最初から


#画像は、手相ゲーム機が取り上げられた当時の新聞の切り抜き。

 クリックで全体を見られます。




AOU が終わった後で、隠しコマンドが入れられました。


…プログラマーのA先輩の命令により、「普通に操作していても絶対に出ないように」という、複雑な方法で。



ここで、当時の「完成から発売まで」の段取りを書いておかないと話が理解できません。


AM4研という部署がありました。

ゲーム基板ではないほうの「ハードウェア」を担当する部署です。


エアロシティ、アストロシティ、ブラストシティなどの筐体を開発した部署。

UFOキャッチャーなどのエレメカを作ったり、占いなどの特殊筐体を設計する部署。


そして、ROM の大量生産のための窓口となっている部所でした。


ゲーム作成では、プログラムよりもグラフィックやサウンドデータの方が遥かに容量を使います。

そこで、グラフィックデータは安価に大量生産できる、マスク ROM を作成します。


ゲームの完成の1か月程度前にはグラフィックやサウンドを完成させ、この部分のデータを全て EP-ROM に焼きます。

この際、チェックサムも取って ROM 番号と共にシールに書いて、EP-ROMの窓に貼ります。


そして、仮のプログラムを入れた EP-ROM と一緒にAM4研に送ります。


#EP-ROM とは、紫外線を当てることで内容を消去できる ROM です。

 内容消去済みの ROM に対し、専用の書き込み機でデータを書き込むことができます。

 紫外線を内部のシリコンチップにあてる必要があるため、ガラス製の窓が付いています。

 窓にシールを貼る、というのは、データを保護する意味があります。


AM4研ではこの EP-ROM を業者に送って ROM を生産してくれるのですが、ROM を一度生産してしまうとやり直しは利かないため、厳しい「最後のチェック」を行っていました。


もっとも、この段階ではグラフィック・サウンドのチェックのみです。

プログラムはまだ修正可能なので、多少バグが出ても問題ありません。


ちなみに、万が一グラフィック・サウンドに問題があった場合には、パッチデータをプログラム ROM に入れて、ほんの少しですが RAM 領域でグラフィックパターン等を定義できるようになっています。




ROM の大量生産完成までに1か月程度。

この完成が締切になります。プログラムはこの間に最後の追い込み。


そして、完成したプログラムは EP-ROM に焼かれ、またAM4研に送られます。


そして、今度はプログラム内容が厳しくチェックされます。

設定画面などが社内仕様にあっているか、など、最低限の要求仕様を満たしていることのチェックは当然、ゲーム上バグが生じないか調べられます。


ここで、万が一ゲーム上不要と思われる「隠しモード」などが発見されると、これはバグなのか、それとも正常な「仕様」なのかの問い合わせが、部署間で申し送られることになります。

こっそり作ろうとしていたものが、部課長クラスにも知られてしまう、ということです。



ここで話は最初に戻ります。

A先輩が「普通に操作していても絶対に出ないように」隠しコマンドを入れるように指示したのは、上のような心配があったため。


部課長に内緒で作るため、深夜残業中に作られ、チェックされました。



作ったのは、スタッフロールでした。

占いゲームにスタッフロールなんて、本来は不要。でも、A先輩もメインプログラマーをやるのは初めて。

自分が作ったゲームである、と入れたかったんです。


これはナイショで入れたものだけど、もちろんチームの全員が知っていて、協力して作られました。


スタッフロールは、…ぶっ飛んでいます。非常にいい意味で。

デザイナーの手により、顔写真がはめ込まれて「キャラ」に仕立てられたスタッフが登場します。


その際、スタッフごとの「テーマ曲」まで作られ(10秒程度)、スタッフの名前も読み上げられるのです。


#この読み上げは千葉さんの声ではなく、音楽担当スタッフの声。


僕は、宙を飛ぶサーフボードに乗った、銀色のスーツをまとったキャラだったはず。

何でも、僕がいない時にA先輩が「そういうキャラで」と注文したそうで…


銀色スーツは「技術が高すぎて、宇宙人のようだから」、サーフボードは「湘南に住んでるから」のようです。



隠しコマンドは、確か以下の通り。


1) ジャンルセレクト画面で、左キー押しっぱなし。

たしか、ジャンルを3周位させる。

(32マス移動、だったかな。あるところで、小さな音で「カチッ」となったら OK 。回しすぎても問題なし)


2) 今度は右キー押しっぱなし。以降は1周程度だったと思う。

3) もう一度左キー押しっぱなし。


この後普通にゲームを遊び、最後のコンティニュー画面で…


4) 3つのキーを左から2進数の 1 2 4 と見立て、残り時間7秒から、1~7を入力。

 (入力するたびに秒数が1減るキャンセル動作が入るため、失敗は許されない)


これでエンディングに入ったはず。


回す順番。右、左、右、だったかもしれない。

同じく、最後は右から 1 2 4 だったかもしれない。


…と書いたところで、多分もう動いている実機もないし、誰も確認できないと思う。




実は、何だったか忘れたけど、プログラムロムの「完成」のあとで、大きなバグが発見されました。

すでに工場での生産がかかった後に。


#もしかしたら、AOU前に生産にかかっていたかも。ここら辺記憶が定かでない。

 AOUにもロムを差し替えに行ったので、同じバージョンが完成版かもしれません。


修正版ロムはすぐに出来たのですが、ロムを差し替えたい、という要望に対し、工場から「場所貸すから自分でやれ」との注文が。


#なんか、直前にも別の部署でロム交換作業が発生して、工場としては生産性の上がらない作業に怒っていた模様。



僕は新人社員研修で1年前に行ったばかりの工場でした。

A先輩はその工場に行ったことは無かったらしいのですが、ロムとロムライターとロム消し機を持って、車で工場へ。


製造された筐体は、この時はまだ数十台だけでした。

片っ端からロムを抜き、保護シールをはがし、ロム消し機に入れます。


プログラムは(こういうこともたびたびあるので)EP-ROMです。

EP-ROM は、ガラス窓があって強い紫外線を当てると内容が消えます。


10分ほど当てると内容が消えるので、続いてロムライターへ。

完成したマスターロムの内容をコピーします。同時に 32個づつ焼けたのではないかな。

こちらも結構時間がかかる。


そして、新たなシールを貼り、元の基板に戻し、動作確認。

問題無ければ1台完成。


ロムを抜く人、消して書く人、入れて確認する人。

何人かで手分けして作業し、半日ほどで全部を交換したと思います。




先に書いた通り、このゲームは当時の占い機の常識を塗り替える大ヒットでした。


普通、占い機っていうのはゲームセンターの片隅に1台ひっそり置かれている程度で、それほど儲からないのね。

儲からないとわかっていても、品ぞろえとして入荷せざるを得ない感じ。


しかし、手相占いは大ヒットで、順番待ちの行列ができるときもあったとか。


でも、先に書いたように部材が足りなくなり、注文を抱えた状態のままで「生産打ち切り」にせざるを得ませんでした。



この日記の冒頭の画像、当時の新聞の切り抜きです。

北海道新聞 1995年7月12日、道央圏地方版です。


北海道に住んでいる姉が「新聞記事になってたよ」と送ってくれたもの。


記事としては手相だけでなく、占い機全体について書かれています。

でも、話の中心となっているのは手相ですし、実際手相占いのヒットで書かれた記事でしょう。



「大きな店では3台から10台」は、手相だけではなくて占いゲーム機を複数台、という文脈でしょうね。

手相は上に書いたように、人気があるのに生産できなかったので、これだけで複数台導入は無かったのではないかな。




このゲーム、大ヒットだったので「同じようなのをもう一つ」と要望が多く、しばらく後にオムロン・セガ・ディメーレ(その時は名前変わってた)という同じチームで、「オーラ写真倶楽部」(1997)を作ることになります。


こちらも僕はかかわったのだけど、詳細な話を出すのは20年を超えてからにします。




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ゲームセンターの努力  2015-02-23 14:18:17  その他

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先日、ゲーム業界が風営法の下でどんな努力をしてきたか、というような話を書きました。


でも、一番大切な事を書いてないのに気が付いた。

現場である「ゲームセンター」の努力を書いてませんでした。




一応、8号営業のままでなし崩しに景品を出してしまう、という話は書きました。

これもゲームセンター運営の努力ではあります。



ゲームマニアって、ゲームすること自体が楽しいのね。

ゲーム自体が趣味なので、趣味にお金を払うことになんのためらいもない。


でも、ゲームマニアなんて人口のほんの一部です。

そこだけを相手に商売をしていても先細りになってしまう。



じゃぁ、ゲームマニア以外もゲームセンターに来てもらうためにはどうすればいいか、というと、お金を払った見返りに何かが手元に残るようにするのです。


これが景品の払い出し。でも本当は風営法で禁じられています。

この方法を取るのは無理がある。




風営法が定められた当時、「賭博ゲーム機」が問題となっていました。


改造されたテレビゲーム機で、1プレイ千円。(30年前の話なので、いまよりずっと価値が高いです)。

大抵はポーカーやブラックジャックなど、すぐに勝負がつくカードゲームで、勝てば払い戻しがあります。


ここで重要なのが、当時は「プログラム」というものが今よりもはるかに理解されていなかったこと。

カードゲームなのだから、カードゲームと同じ確率で動いているのだろう、と考える人が遊ぶわけです。


ポーカーもブラックジャックも、本来ならば親が多少有利な程度で、子でも十分に勝てるゲーム。


だから「勝てるかも」と考えて遊び始めるわけですが、プログラム的に子はほぼ勝てません。

ただ、全く勝てないとすぐにやめてしまいます。10回に1回くらいは勝てるようにしてある。


そうすると、「ちゃんと勝つときもあるから、今まではちょっと運が悪いだけ。」と考えて遊び続けてしまうのです。


何十万もすった挙句、確率がおかしいのではないかと気づいて文句を言っても遅いです。

こんな違法な賭博を運営しているのはヤクザ絡みです。

自分が運が悪いのを人のせいにしてインネンを付ける気か、と絡まれて殴られ、謝っても慰謝料と称してさらにふんだくられます。


これが、テレビで摘発のニュースをたびたびやっているのに、だまされる人が後を絶たない時代があったのです。


#いまのオレオレ詐欺みたいなもんだ。



8号営業は、法律上次のように定められています。


・スロットマシン、テレビゲーム機その他の遊技設備で本来の用途以外の用途として射幸心をそそるおそれのある遊技に用いることができるもの(略)を備える店舗(以下略)


この、「本来の用途以外の用途として~」というのは、上記のように改造した賭博機を言っています。




もう一つ、風営法が定められた当時、ゲームセンターが不良学生のたまり場になっていることも問題でした。


学校サボって、行く場所もないからゲームセンターに溜まる。


ゲームセンターは結構音がうるさいため、外に音が漏れないように常に扉が閉められています。

そして、画面に光が反射して見えにくくなるのを抑えるために、窓にポスターを貼ったりして光をさえぎっていて、中が見えづらいです。


これが、サボっていて隠れられる場所を探す学生には格好の隠れ家だったわけです。


普段はサラリーマンも来る場所ですから、灰皿もあります。

不良学生ですから、タバコも吸います。


でも、彼らだって(暇つぶしに)ゲームを遊ぶので、店舗からすればお客様。

店としては追い出すこともできません。




賭博ゲーム機と不良学生。…他の要件もあったのかもしれませんが、ここら辺がゲームセンターに風営法の網がかかる原因となっていました。


ならば、これらのマイナス要因を払しょくすれば、風営法の枠を外してもらえるかもしれません。

それは無理だとしても、イメージを好転させればお客さんも増えるでしょう。


これから10年間、ゲームセンターは地道な努力を続けます。


昼間学校があるはずの時間に、学生服で来店するお客様は、一旦私服に着替えるか、午後3時以降に再来店していただくようにお願いして帰ってもらいます。


未成年と思われるお客様が煙草を吸っているのを見かけた際には、未成年が煙草を吸うのは違法行為であることを明示したうえでやめていただきます。


雰囲気を明るくするため、灰皿に吸い殻などがある際は速やかに片づけ、新たな灰皿に交換します。

ゲーム中のお客様の場合も、さりげなく灰皿を交換することがあります。


#この時、灰が飛ばないように別の灰皿を上からかぶせて運ぶ、など作法も細かい。


普通の蛍光灯ではなく、映り込みの少ない特殊照明を導入して店内を明るく保ちます。




店舗の立地によっては、さらに踏み込んで明るい雰囲気づくりに勤めています。


女性客にも楽しんでもらえるように、占いゲーム機などを充実させたのもこの時期。

子連れでも楽しめるように、「アンパンマンのポップコーン工場」とか、「わくわくトーマス」とかが作られたのもこの時期。


この路線は、UFO キャッチャーとプリント倶楽部の登場で完成形を見たように思います。


…結局「景品を出すゲーム機」なのだけど。

お金を払う以上、何かが手元に残る、というのは強いです。


ちなみに、風営法で禁じられているけど、UFO キャッチャーは業界の自主規制を前提に黙認されています。

(風営法前から、お菓子などを取るクレーンゲーム機は存在したが、風営法ではこれらは問題とされていなかった、というのも黙認の理由の一つのようです。)


また、プリント倶楽部は必ずシールが出てくるので、景品ではなく「自販機」扱い。

8号営業の枠の中で問題なくお土産を持たす方法としては、うまい落としどころでした。



このブームの時期、入り口にはUFOキャッチャーとプリクラを置いて子連れ・女性客でも遊べるように考慮し、中に入ると各種テレビゲーム、さらに奥には見た目も華やかな大型メダルゲーム機、という店舗レイアウトが非常に多かったと思います。


まぁ、本当に大型メダルゲーム機まで置けたのは大手が運営する大規模店だけかな。

とはいえ、小さな店でも、ある程度このフォーマットに従っていたように思います。




多分、「店舗の努力」で状況が改善していったのは、このあたりまで。

バブル景気の後押しもあって、売れないゲーム機でも「雰囲気のために」置いておく、という余裕が許された状況も幸いしていたと思います。



先に書いたプリクラ・UFO キャッチャーブームのころ、同時に対戦格闘ゲームのブームも進行していました。


でも、まだスト2が大人気ではあったものの、それ以外にも多数のゲームが元気だった時期。

ぷよぷよだってありますし、シューティングゲームだってまだ人気がある。


その後さらに格闘ブームが進み、カプコンとSNKの2大メーカーだけでも多くのシリーズを出し始めます。

そこにバーチャファイター・鉄拳のポリゴン格闘2大シリーズが加わる。

さらに格闘以外にも、バーチャロンなどの対戦ゲームが作られ始める。



限定された店舗面積の多くが対戦ゲームに取られるようになっていきました。


そして、これらの対戦ゲームは、初心者お断りなことが多いです。

ゆっくり遊ぼうとしても乱入されて、すぐゲームが終わってしまう。


女性でも、子連れでも入れるゲームセンターを目指していた一方で、マニア以外はお断りなゲームに人気が集中していました。




プリクラ・UFOキャッチャーを集めた、「プリクラセンター」と化すゲームセンターも現れる一方、対戦ゲームばかり集め、マニア人気を求める店も出始めました。


棲み分けられた、と言えば聞こえは良いのですが、「誰でも楽しめるゲームセンター」を目指していた時代は終わりました。


そして、それと共に集客力も落ちていきます。

だって、ゲームセンターが棲み分けた、ということは、どこかの店に行ってもその店は「同じような機械しかない」ということだもの。


本屋に行くと、普段は手にしないような本を、背表紙だけ見て気になったりするから面白いのです。

そこには偶然の出会いがあり、このこと自体が楽しみになっている。


見知らぬ人との対戦や最新の技術を求めるマニアならともかく、一般の人にとってゲームセンターに求める機能は、そうした「偶然の出会い」なのではないかと思います。


そうでなければ、家のゲーム機とか、スマホで遊んでいればいいんだから。


でも、今のゲームセンターは品ぞろえが薄く、偶然の出会いが起こりにくい。

ゲームが面白かったとしても、それを置いてある空間に面白さが無いので、魅力が半減しています。



もちろん、すべての店がそうだというのではありません。

頑張っているゲームセンターだってある。でも、総じて状況は悪くなっている。


今もこの状況から脱せていない、と思います。

僕自身がゲームセンターに頻繁には行かなくなって久しいので、認識の間違いもあるかもしれないけど。



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【名無しさん】 現状は、品揃えに関しては格ゲー全盛期より悪化してるのではないでしょうか?同じゲーム機が4台単位で並ぶのが当たり前になり、また収集要素やP2W化など、重いゲームが増えてタイトルの掛け持ちが難しいことも影響しています、ゲーム機の撤去が客層の切り捨てに直結するので軽々と撤去できなくなったのも大きいです (2017-09-02 17:40:11)

理科ハウス  2015-02-23 16:31:55  社会科見学 家族 天文

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理科ハウス

昨日日曜日、子供と一緒に逗子の「理科ハウス」に行ってきました。


世界一小さな科学館、と標榜しているところです。


妻が別の用事がある間、子供と僕だけで遊びに行く予定でした。

ところが当日は雨。屋内で遊べるところを探します。


で、理科ハウスなのですが、小さいことはわかっていて、「1時間で飽きて出ることになる」覚悟で行きました。




結論から言うと、1時間で飽きたりしない。

1日は無理かもしれないけど、半日遊べます。


とはいえ、僕等がいたのは2時間半ほど。

妻の用事が終わったので帰ろう、と子供に声をかけると「えー、もっと遊びたい」と答えが返ってきました。



小さな科学館…普通の2階建ての家よりも狭いです。

狭小住宅をそのまま使った、と考えてよい広さかな。


駐車場は、3台分しかスペースがありません。

もっとも、奥に長いので6台止まれます。


後から来た3台は、奥の車が出るときに「車動かしてくださーい」と声をかけられることになりますが、家が狭いからすぐに持ち主がわかる。


狭いけど、科学を伝えるための小道具は沢山あるらしいです。

だから、毎週のように展示内容を変えているのだとか。


季節変動もあるので、昨日何を見たかをここに書いても、後から見たいと思っている人の参考にはならないかもしれません。

でも、書き記します。




まず、玄関を入ると受付があります。

この時、受付には誰もおらず。駐車場が3台埋まっていて、後ろに停めてもいいですか? って聞こうとしたのだけど。


丁度、プラネタリウムの公演開始で人手が必要だったようです。


すぐに受付の方が来たので、駐車の了承を貰います。


「プラネタリウムみますか?」と聞かれました。


今の季節しかやってない、ということは知っていたのですが、公演時間に間に合わなかったこともわかっていました。

でも、この日は希望者が多いので臨時公演することにしたのだそうです。


見る場合、一人百円。

理科ハウス自体の入場料は、中学生以下無料。高校生以上は百円です。


子供3人分もふくめ、入場とプラネタリウムで500円。


…ですが、入場料はここで払うんじゃない。

徴収ボックスがあるので、そこに入れます。



このボックスが優れもの。

磁石を使ったコイン選別機になっています。


コインは鉄じゃないから、磁石に「くっつく」のではないよ。

磁界の中を導電体が動くことによる誘導電流と、その反作用によって通過時に抵抗を受ける。


軽い上に電気が発生しやすい、アルミ貨の1円玉は、すごく通過が遅くなります。

一方、50円玉はほとんど影響を受けない。


面白いのが5円玉で、わずかな影響を受けた結果、選別用の仕切り板の上で弾んで、一番遠くへ落ちる。

きっと、狙った設計ではなくて偶然なのだけど、いい動きをします。



子供が面白がるので、100円以上入れてしまいました。

箱の上には、ちゃんと「入れすぎても返しません。寄付ありがとうございます」って書いてあります。




プラネタリウムの臨時公演します、というお知らせがあり、ドームに入ります。


ダンボールで作ったと思われるドームの中に、学研「大人の科学」のプラネタリウム


学研のプラネタリウム、安いけど非常に良い、と聞いていました。

でも、実物見るのは初めて。


…非常に良くできていました。

ちゃんとドームを作ってあることもあるけど、美しく投影されます。


丁度この日、火星と金星が最接近する日だったんですよね。

そんなことも説明してくれましたが、生憎雨だったので夜の確認はできてません (^^;;


全天での星の動き方、北極星が動かないこと、北斗七星とカシオペアから北極星を探す方法、オリオン座、ベテルギウスがもうすぐ爆発しそうなこと…あたりを説明しておしまい。


小さなドーム内なので、子供の興味に従って臨機応変に説明を変えていきます。


小さいからこそできることがある、とわかります。


プラネタリウムの後、その「暗闇」のスペースを使った実験がありました。

一応出来る実験は6種類。でも、時間の関係で、その中で3種類選んで、と言われます。


…結局、子供の意見がまとまらず4種類やったのですが。


1)ガムテープが光る実験。

 ガムテープをはがす際に剥離静電気が発生し、その静電気の作用が…ごにょごにょっとなって光る、というのは知っていました。

 でも、あまり試したことは無かった。

 接着面同士を半分に折り返してくっつけ、それを暗闇ではがすと、わずかに光る。


 これは面白いから家でもやろう、と子供に言っていると、ガムテープの種類でかなり光が違う、と教えてくれました。

 良いガムテープを探すのが大変だそうですが、それを探すこと自体を楽しんで、と。


 後でやったら、家で2つあるガムテープのうち1つは、少し実験方法が異なりますが光りました。

 家のガムテープは、ロールから引きはがす時に光りました。


2)虹を探す

 マイクロビーズを張り付けた青い紙があり、これを青空の水滴にみたてて、懐中電灯で照らして虹を作ります。

 光の入射角と見る角度が重要。紙に対して斜めに照らし、照射側から見ると良いようでしたが、最初は正面から照らしたのでなかなか見えず。


3)青空と夕焼け空の色を作る

 少し白濁した水を入れたペットボトルに、懐中電灯の光を照らす実験。

 ペットボトルの横から、短い距離に光を通すと青っぽく見えます。

 ペットボトルの縦方向、長い距離に光を通すと、最後が赤っぽくなります。

 この「距離」によって青空と夕焼け空の色が変わる、という実験。


4)紫外線で光る物

 紫外線ペンライトでいろんなものを照らすと光ります。

 蛍光ビーズとか、届いたハガキとか、洗濯洗剤というのはありがち。

 剥いたオレンジの皮とか、ビタミンB2入りドリンクとか、ハイレモンも光るのね。

 そして、一番驚いたのがルビー。紫外線で照らすとすごく輝く。


 ルビーレーザーってこれか? と思ったのですが、今調べたらそれとはまた違うらしい。

 ただ、エネルギーを得ると輝く性質があって、ルビーレーザーは違う方法で輝かせているようです。




1階は、プラネタリウムの周りに望遠鏡の原理など天体関連の展示がいくつか。


別の一角は、本のコーナー。

「僕たちの鉱石ラジオ」とか「数学ガール」とか、欲しかったけど結局買ってない本がゴロゴロ。

うわーすげー。近所にいたら通って全部読みたいような蔵書。


そのすぐ近くはミュージアムショップ。

というか、棚2つに物販品並べてあるだけだけど。


すごく面白い施設なのに、入場料は大人百円だけ。

申し訳ないので何か物販買おうと思っていたけど、帰りにあわただしくて何も買えなかった。


また今度行ったら、是非なんか買おうと思います。


#入場料は先に書いたように、100円「以上」なので、寄付してもいいのだけど。




2階に上がってみます。

階段も面白い。1段毎を地層に見立て、年代が書いてあり、紙粘土で作った化石が貼ってある。


手すりもDNAを模したビーズが入っている、アクリルパイプで作られている。

手作り感があるのだけど、安っぽい感じはしない。センスいい。



2階に上がったら、丁度静電気の実験をやっていました。

今から百人脅しやる、というので、是非参加をと呼びかけるのだけど「痛いんでしょう?」とその場にいる子供たちは及び腰。


大人の参加でもいいですよー、といわれ、「あ、じゃぁ僕やる」と、今来たばかりで全然わかってないのに手を挙げます。

何事も体験だし、これやって見たかったんだよね。


うちの長男(10歳)と長女(7歳)も参加。次女(5歳)は、怖いからと逃げる。


大人が僕と、別のお父さんの二人だけだったので、この二人がスイッチ役に。

僕がライデン瓶(ビニールコップで作ったコンデンサ)もって、もう一人のお父さんがそこに触れる。


…あれ?

持っている手はピリっとしたけど、逆の手は全然大丈夫。

その場の子供も全員、あれ? という感じ。


もう一度実験したけど同じ状況でした。


「電気来てないんじゃない?」と言い出す子がいたので、少なくとも片手に痛みを感じたから電気回路は繋がってるよー、と説明。

職員の人が「そうそう、よくわかってくれてる」と言ってくれる。

この実験やると、いつも「電気来てない」という子がいるのだとか。


実験道具は置いてあったので、後で自分一人でやりましたけど、結構電気を溜めるのが難しい様子。

1度だけ、自分でもびっくりするくらい痛い放電がありました。


この時は出してなかったけど、ヴァンデグラフ起電機が片隅に置いてありました。

「あー、高校で実験したことある」と言ったら、それが置いてあるのすごいでしょう、これ高いんですよー、と職員の人に自慢されました。

うん。高そう。ぜひ実験見たかった。



2階も季節ごとに展示を変えるらしいけど、今は冬だから静電気実験なんでしょうね。

片隅には顕微鏡も置いてあり、ヒツジの毛糸とアクリル毛糸の違い、とかみせてました。




2階で、職員の人に呼ばれて子供が発表を行うことになりました。


この施設、子供は無料だから、近所の子は良く通ってくるらしい。

そして、そんな子の中で自然発生的に「巻物」を作るのが流行して、いろいろ作られているらしい。


巻物は、自分の研究をまとめた、ちょっとした発表資料です。

床に置いて転がしながら見せていきます。


この子の作った巻物は、ミジンコの一生、と題された物。

内容は全然一生ではなくて、クイズです。でも面白かった。


ミジンコの目が実は一つしかない、というのは結構有名。

じゃぁ、「生まれたばかりのミジンコの目はいくつでしょう」。


えっ! 生まれた時は数違うの? そんなこと、疑問にも思わなかった。

答えは2個、なんだそうです。


卵は状況により体内、または水の中に生み出されるのだけど、体内で生まれたばかりの子供を見ると目が2つあるのだとか。


この子はミジンコが好きで、池で水をすくってきてはここの顕微鏡で観察しているらしい。


多分、うちの長男の1コ下くらいの年齢。

自分で観察し、調べ、資料にまとめ、発表している、というのが素晴らしいです。




2階にトイレが2つ。

「植物細胞の部屋」と「動物細胞の部屋」と扉に書いてありました。


小部屋を細胞になぞらえて、中にはそういう飾りつけがしてあります。

植物細胞の部屋は、壁を全部細胞壁に見立てた薄い布で囲んであり、核や葉緑素やゴルジ体が天井から吊り下げられています。




子供たちが本読みたいというので、1階の本のコーナーへ。

ちょっとしたパズルとか、カリンバ(指ピアノ)とかも置いてありました。


そしたら、そのコーナーに来たおじいさんが、何か箱に入った実験道具みたいなものを置いて去る…


なんだろう、と思ったら、手作りのモーター各種でした。

1つはエレキットのモーター。子供の頃に見たことがある。


見てたら、おじいさんが戻ってきました。

口下手な人で、すぐにはわからなかったのですが、話を総合するとこういうこと。


このおじいさん、近所に住んでいる方でした。

孫も時々遊びに来て、理科ハウスで楽しんでます。


じゃぁ、何か協力できることを、と思っているのだけど、理科はよくわからないので、何か展示物を作っては寄付しているのだそうです。


このモーターも、古道具屋で見かけたものから取ったものとか、本を見ながら自作してみたものとか、合計4つあったのですが、自作したものだけが動かない、と。


原理がちゃんと理解できてないから、どうしていいんだかわからなくてそのまま持ってきたけど、後はここに来る人に何とかしてもらおう、ということでした。



次女が興味を持って、電池をつなぎ変えては動かして遊びます。


ちなみに、自作モーターは僕も子供の頃に作ったことがあります。

やっぱり動きませんでした(笑)


今なら知識あるから、是非これを修理してみたいところだけど、時間が無い。



他にもいろいろ作ったんだよ、とあの展示や、この展示をどう作ったか教えてくれます。

そして、今日もこのモーターともう一つ、新しいの持って来たんだ、と…



玄関のところに、伊能忠敬の四分儀(象限儀)のようなものが置いてあります。


「江戸時代の望遠鏡らしいんだけど、本に載ってたのを作ってみたんだ」と。


素晴らしい!!!


えーっと、望遠鏡は付いているんだけど、望遠鏡として使われたものではないです。


これで星を見て、その角度と方向を計ることで、自分がいま地球のどこらへんに居るかを確認できたんです。

今で言ったら、GPSみたいなもの。


#僕、小学生の時に「尊敬する人物」とアンケートを取られて「伊能忠敬」と答えてます。その程度には好き。



と、おじいさんに説明すると「へー、すごいんだなぁ」と感心してました。

本で形を見たからと言って、それらしいものを再現してしまう人の方がすごいわ。


そんな正確じゃないけど、小学生に説明する程度には使えるよね、と聞かれました。

十分だと思います。別にこれで測量しようとするわけでもないし、説明用には十分すぎる。




丁度妻から用事が済んだとの連絡が来たので、これで最後にして帰ります。


ここでミジンコの研究をしている小学生の発表に偶然出会い、近所で展示物作成に協力しているおじいさんに偶然出会いました。


…ほんの2時間半いただけで、そんなうまい偶然あるもんか。

これは、それだけ多くの子供が通っていて、多くの近所の人の支援がある、ということでしょう。


理科ハウス、地元の人に愛されています。

こんな施設がある街は、非常に幸せだと思います。



あとで妻に話したら、是非行ってみたいとのこと。

子供も「来週にでもまた行きたい」と言っています。


せっかくだから、展示が入れ替わったころがいいな。

でも、そう遠くないうちに、再訪したいです。


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僕の配属されたAM1研がどういう部署だったか、当時の雰囲気を少し書いておきます。


僕が入社する前のことはそれほど知りません。

でも、歴史的に見れば、AM1研は業務用開発の中では一番古い部署です。第1、だからね。


もっとも、最初から第1だったわけではなく、第2が出来た時から第1になりました。これも当然。

第2は、言わずと知れたAM2研。「3Dゲームに特化した研究を行う」名目で、1研から分離した部署です。


実のところ、現在2研の初期のゲームとして知られている多くのゲームが、分離前の時期に作られています。

「鈴木裕作品」と「2研作品」は違うものなのだけど、混同して考えられている。


まぁ、この混同はセガの方針でもあった可能性大です。

詳細は知らないのだけど、セガのゲームの中で「高級ブランド」のイメージを作ろうとした感じ。


だから、AM2研のゲームには積極的に部署名が付けられました。

さらにあとで出来たAM3研もそういう感じ。

(僕の入社時にはすでに3研もあったので、こちらの出来た経緯も詳しくは知りません)




で、AM1研の作品では特に「AM1」を前面に押し出すこともなく、「セガ作品である」という表記になります。


部内では、自分たちはセガとしての商品を作っているのであり、作品に携わった人の個性をことさら強く主張する必要はない、と言う雰囲気でした。


先に書いた、手相を作った時にスタッフロールを隠しで入れたけど、簡単には見られないようにした、というのもそのため。

部署内の雰囲気が「作家性は不要」だったので、スタッフロールを入れることに後ろめたさがあったのです。



まぁ、後には時代の流れもあって多少は開発スタッフが前面に出ていくことになるのですけど。

(雑誌取材で開発者インタビューとかを求められるようになったので、名前を出さざるを得なくなるのです)




作家性を求めない、という意味では、1研はチームも固定していませんでした。


ゲームを作るために人材が集められて、そのゲームが終わると解散する。

別のゲームに携わっている最中でも、これはこの人でなきゃ、ってことになると配置換えになったりもします。



他の部署は良く知らないのですが、2研では新人の時に配属されたチームで固定だった、と聞いています。


チーム内の連携は非常に強くなり、作家性が強くなります。

一方で、チーム間のライバル意識で開発した技術が共有されず、同じ部署内であっても、他のチームに技術的な質問をして「企業秘密」という答えが返ってきたりしたそうです。


1研では、セガのゲームを作っている、という意識があったため、同じ社内である2研や3研に技術を教えることもありました。

逆に教えてもらえることはほとんどないのだけどね。




セガのゲームを作っている、という意識は、「会社として必要なものは請け負う」という意味合いでもあります。


AM2件は3Dに特化した部署でした。

結構3D以外も作ってるんですけど、まぁ当初の設立意図としては明確な方向性を持っている。

3研も2研ほど強烈な方向性は無いものの、やはり方向性がありました。


それに対し、AM1研は「方向性が無い」というのが方向性でした

禅問答みたいだけど、ようは何でもやるよ、ということ。


それが会社にとって必要だ、と上層部が認識し、開発を指示したとします。

2研や3研がやりたければ、そっちでやればいい。でもやりたくない仕事は1研が引き受けます。



これがね、当たり前だけど儲からない仕事ばかりなんだ。

各部署には均一な売り上げノルマがあったのだけど、僕がいた間には1研はノルマ達成したことないんじゃなかったかな。


#いや、1度くらいはあったかも?


2研は大抵ノルマ達成していましたが、それでも達成できないこともあったような…

その程度に厳しい目標なのですが、1研は全然ダメだった。


多分、部長は針のムシロだったと思います。

でも、儲けにならない仕事を上層部から貰ってくる。

自分が取ってきた仕事だから、ノルマ達成できなくても部下を責めるようなことは無い。


会社にとって必要な仕事を請け負うことで、ノルマ未達成の「免罪符」を得ていたのかもしれません。

しかし、結果的に1研の中では伸び伸びと仕事ができました。今更ながら良い部長だったと思います。




会社にとって必要な、儲からない仕事、って何か書いた方が良さそうです。


ゲームセンターが「ゲームをやりに行くところ」だと思っている人は多いと思います。


でも、当時はゲームセンターってもっと気軽に来てもらう空間を目指していたし、実際気軽に入る人がいました。

そうなると、別にゲームが好きなわけでもない、ゲームをしたいわけでもない人もやってくる。


営業のサラリーマンが、次の約束までに時間が空きすぎてるから暇つぶしに来るとか、お母さんが買物する間に子守を頼まれた父親が子供と来るとか。


すると、バーチャファイターとか、グラディウスとか、難しすぎて遊べないわけです。


麻雀とか、野球ゲームとか、クイズとか、わざわざゲームセンターで遊ぶ意味あんの?ってゲームありましたよね。

あれは、そういうサラリーマン向け。

ゲーム内容の説明がなくても、見た瞬間にやることがわかる。ゲームが特に好きでもない人には重要です。


子連れには「アンパンマンのポップコーン工場」とか人気があります。

ゲームですらないけど、ハンドルぐるぐる回すと絵が動くから、子供は遊んだ気になる。


AM1研では、そうしたものの開発を引き受けてました。

(そういうの「だけ」ではないよ。ちゃんと普通の、ゲームらしいゲームも作ってた。)




サードパーティのサポートをやっていたのもAM1研。

もしかしたら他の部署でもやっていたかもしれないけど、大抵は1研に回ってきていた。


サポートって、手間がかかって割には合わない。

でも、ゲームセンターには多様なゲームが必要、という信念のもとでは、割に合わなくてもやらないといけない仕事なんです。


多くの名作、迷作が送り出されました。

迷作は出したくないんだけど、いろいろとやむを得ない事情もありまして…


部内開発のゲームだと、開発中でもつまらないと判断されると即打ち切り、って厳しさがあったんですよ。

でも、他社のゲームだとそういうわけにもいかない。ものすごくつまらなくても販売ルートに乗せたゲームもあります。


逆に、すごく技術力高くて、ゲームも面白かったんだけど、販売できなかったサードパーティゲームもあったな。

勝手に基板改造してたの。これはさすがにルートに乗せられず、発売されなかったはずです。



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ずんずん教の野望  2015-02-26 10:55:33  業界記

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まだ新入社員の頃(1994)、時々部署内で「手の空いてる新人手伝って~」という声が聞こえることがありました。


雑用は新人の大切なお仕事です。

僕は手相チームでプログラムやっていましたが、比較的「手が空いている」方でした。


#同期は、ST-V発売同時タイトルのプロジェクトに入ったりしていたので忙しかった。


で、行ってみると単に力仕事の時もありますし、ゲームのテストプレイの場合もありました。




ずんずん教の野望は、入社して配属部署が決まり、はじめて部署内を案内されたときに、すでに完成間近で置かれていたゲームです。


あまりに強烈なゲーム内容にみんなが驚いていると、「あぁ、これは、コアランドの残党が作ったゲームね」と、案内していた先輩社員からさらりとした説明が。



1994年の春ですから、地下鉄サリン事件の1年前です。

しかし、すでにオウム真理教はたびたび問題を起こし、ワイドショー番組などでも繰り返し取り上げられていました。


その世相に、「時事ネタ」として、怪しげな宗教をテーマにしたゲームを作っていたのです。


今見ても珍妙なゲーム内容に根強いファンがいるのですが、当時の世相の中でのインパクトは絶大。

「ほぼ完成していた」のに、本当にそのまま発売してよいのかどうか、意見が噴出してなかなか発売できなかったゲームでもあります。


発売できないから、ずいぶんとテストプレイをやった覚えが。

(最初の頃は暇だったし、テストプレイという仕事が新しい体験だったからよく覚えている、というのもあると思います)


#「このゲームはいかなる宗教とも関係ありません」の表示を入れることと、作ったのはセガではなく「港技研」であることを表記することで、発売を許されたのじゃなかったかと思う。


#20年前の話で、しかもテストプレーしただけで当事者でなかった話を記憶で書いています。

 新入社員の頃だから、いろいろな会社間の関係とかわかって無いし。

 だからこの日記の内容を鵜呑みにしないように




コアランド…正確には、「コアランドテクノロジー」っていうのは、「ごんべえのあいむそ~り~」(1985)を作った会社ね。


田中角栄似の「ごんべえ」が、タモリやジャイアント馬場を張り倒しながら金を集めて、自宅に持ち帰って「わっはわっは」と笑うゲーム。


ちなみに、田中角栄って元総理大臣ね。「あいむそ~り~」ですよ。

今の若い子には言わないとわからんかもしれないので書いとく。(若い子はこんなページ読んでないと思うけど)


総理退任後に、米国の航空機会社が全日空に航空機を売り込む際に5億円のリベートを受け取ったのではないか、という疑惑が浮上し、逮捕されています。

いわゆる「ロッキード事件」です。


1983年に一審で有罪判決が出て即日控訴。1985年は、この控訴審が始まった年です。


そこに「田中角栄(に似た人)がひたすら金を集めるゲーム」を発売するという危なさを考慮すると、よりゲームの内容が楽しめます。


#「自宅」が国会議事堂そっくりだったりする面もあるしね。



ところで、コアランドはセガと仲の良い会社で、「ペンゴ」とか「青春スキャンダル」など、まともに面白いゲームも多数作ってますよ。


「ごんべえ」のような危ないネタの方が、むしろ珍しい。



このコアランド、1989年にバンダイの子会社となり、「バンプレスト」と社名変更しています。

ただ、この時に結構人材が流出していて、その一部が「港技研」という会社と合流してゲームを作ったようです。


それが「ずんずん教の野望」。

先輩が「コアランドの生き残り」と言ったのは、「ごんべえのあいむそ~り~」を念頭に置いたものだったのだと思います。


両方とも時事ネタの危ないゲームだから。


#危なさで言えば、チェルノブと同じ危険な香りを感じました。

 X68k ユーザーだったから、天安門とか知ってたけど、市販ゲームとはまた違う話だから。


#ちなみに、バンプレストになってもしばらくはセガと仲が良く、AM1研が作った「わくわくトーマス」はバンプレストから発売になっています。

 後にセガとバンダイの合併話が出たこともあったよね。結局バンダイはナムコと合併したけど。




さて、ずんずん教ですが、世間では「愛すべきクソゲー」という評価のようです。

見るべきところはある。でも、遊んでもそれほど面白いゲームではない。


でも、仕事だと延々と遊ばないといけないんですよ。

正常に最後まで遊べるか、を調べないといけないから。


このゲーム、1周すると偽のエンディング、2周で真のエンディングとなります。

だから、2周しないといけない。


でも、2週目とか難易度すごくあがるのね。

とにかくコンティニューで押して…とかだとダメ。スコアリセットされちゃうから。


「2周ノーミスクリアしたらスコアがあふれておかしなバグが出ました」とかは困るから、ちゃんとノーコンティニュークリアしないと。


僕はとてもそこまで行けませんでした。

コンティニューして1周クリア、がやっとだったのではないかな。



しかも、僕はテストプレーと言うのがそれほど上手ではなく、つい「普通に」遊んでしまうのですね。

上手な人は、高い難易度のゲームの中で、さらに変な「縛り」を付けてプレーする。


あえて敵を倒さずに逃げ回りつづけたりとかね。

そうするとバグが出る、ということもあるのです。


#ギャラガ1面で編隊左下の敵を1匹残して15分逃げ続ける、とか有名なバグですね。

 ギャラガの場合、どういう理由かその後敵が一切弾を撃たなくなります。

 そんなことも想定しながらバグが出ないか確認するわけです。




ただ、サードパーティゲームにそんなに労力を割いていたのは、この頃までなのね。


各部署に均等に売り上げノルマが割り振られたことと、ちょっとした事件があったことで「サードパーティのサポートに手間をかけるのは割に合わない」という考え方になったようです。


ダメ押しに、社内で新たな事務処理の部署を作るため、この頃サードパーティサポートを一手に引き受けていた社員がそちらに移動になってしまったのね。


#サードパーティのサポートは事務仕事も多く、経験があるため選ばれた模様。



事件の話は、またそのうち書ければ、と思っています。



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WING WAR  2015-02-27 10:20:54  業界記

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思い出話、基本的に時系列で行きたいと思っているのですが、順序について記憶が定かでない部分もあります。


また、20年も前の記憶で書いているので、事実と違う可能性が高いです。

内容を鵜呑みにせずに、興味があるなら他の情報源を出来るだけ当たってください。


#僕の個人史みたいなもんなので、話半分に楽しむのが一番良いでしょう。




さて、先日「ずんずん教」を書きましたが、はじめてずんずん教を目にしたとき…つまりは、新入社員として部署内を案内されたときに、メインで見せられたのはWING WARでした。


というか、WING WARの部内テストプレイ筐体の隣に、ずんずん教が置いてあったのね。

ずんずん教はこの時点でほぼ完成で、その後すぐに発売されたので先に書きました。



WING WARは、飛行機でのんびりと空中戦を楽しむゲームです。

一人でCPU相手でも、二人で対戦でもできます。


海外ではなんだか2研作品だと思われているみたい。上にリンクした Youtube 動画の説明も含め、そう書いてあるページが多いです。

Wikipedia 英語版にそう書かれているから広まっちゃったみたいですけど、1研作品です。


本格派のフライトシミュレーター…ではなく、業務用ゲーム機として、短時間で楽しめるように簡略化されてる。

地上の建物にぶつかっても問題ないし、複葉機とハリアー戦闘機が同列に闘えたりする。


建物に当たったり撃たれたりしたとき、ちょっとコミカルな動きをするあたりが1研流。



ゲームモードは2種類あります。


「ドッグファイトモード」は初心者向けです。

しばらく相手を撃ちまくったら、攻守交代して相手から逃げ回るようになる。

これを数回繰り返すだけ。


でも、単純だから非常に面白い。



「エキスパートモード」は、真面目な空中戦ゲーム。

自由空間で飛行機を操作して、相手を見つけるところから始めなくてはなりません。


まぁ、どちらに相手がいるかはわかるようになっているんだけどね。

自由な分だけ難しく、でも慣れるとどんどん高度なテクニックが使えるようになる。



最初に「のんびりと」と書きましたが、1対1の空中戦って、案外のんびりしてます。

相手だけに注意を払いつつ、空中では機体の制御にも強い慣性がかかるので、思ったように動けないんだよね。




発売は初夏の頃だったような…Wikipedia によれば6月だったようですね。

部署に配属されてすぐの頃です。


WING WARは MODEL1 で作られていましたが、すでに4月に後継基板の「デイトナUSA」がAM2研から発売になっています。

つまり、WING WAR発売時点で、すでに MODEL1 は旧世代基板。


技術とゲームの面白さは関係ない、と強がりたいけど、当時はポリゴン3Dはまだ目新しく、むしろゲーム内容よりも技術で驚かせることが重要でした。


#もちろん、ゲームがつまらなくてはダメなのですが、見た目が重視されるジャンルでした。



MODEL1 って、テクスチャ無いから見た目は地味です。

1対1の空中戦、というテーマも地味で、それほどヒットしませんでした。

先に書いたように、結構のんびりしていてゲームとしての「激しい体験」が少ないのね。


でも、遊んだことのある人は皆「名作」だと言ってくれます。

そういうゲーム。


僕はドッグファイトモードが好きで、部内テストプレイ筐体で良く同期と遊んでいました。

エキスパートモードは、ちょっと難しすぎたように思います。


ちなみに僕、3Dは苦手です。でも、ゲームは好きだから、それなりに3Dの文法はわかっている。

それでも難しいと感じるのだから、業務用としてはちょっととっつきが悪かったと思います。


まぁ、それがわかっているからドッグファイトモードを設けてあったのですが。




WING WARの発売後、夏の…ちょっと暑い日だったと思います。

午前中に「新人手伝って~」の声。


行ってみると、「ちょっと別の場所まで歩くから」と、会社近くの倉庫まで連れて行かれます。

ってことは、機材運ぶ力仕事だろうか。


いや、違いました。

「WING WARの R-360 版がほぼ完成したのでテストプレイです」と説明を受けます。


チーム内の人でテストしてきたけど、連続してプレイすると疲れるから新人に頼む、とのことでした。



R-360 が1台。

もう一台普通筐体が近くに置いてあって、対戦できるようになっていました。


R-360 は2軸回転だけど、ゲーム上飛行機は3軸回転するので、できるだけ2軸回転ではできないような動きを心がけて、と言われたように思います。

…といわれても、どうすればいいのかわかりません。


いろいろ操作したように思いますが、それほど違和感は感じませんでした。

ゲーム上の3軸回転の動きを、違和感ないように2軸回転で表現できているのね。



とにかく、2軸で出来ない動きということは、激しく回転していればいいわけだ…

と、空中で回転して頭が下になった時、非常停止ボタンを押されます。


「わー、なんとかしてくださーい」と言うものの、「いや、非常停止ボタンもちゃんと動くか確かめないとね」と外で先輩が笑っています。


実際の話としては、2軸回転とと3軸回転が「微妙にずれる」ような動きを見事に起こしたので、停止して内部パラメーターなどを確認したかった、ということのようです。




たしか、10時ごろからテストを開始して、午前中いっぱいやって「昼ご飯の時間だから」終了したのではなかったかな。


同期と2人で、前半は同期が、後半は僕が R-360筐体に入っていました。


で、1時間連続でぐるぐる回されていると、流石に気持ち悪くなります。

さらに、暑い日に冷房のない倉庫にいたので脱水症状気味。


気持ち悪くてお昼ご飯食べられなかった覚えだけが残っています。



こんな個人的な事もあって、WING WARは直接は関係していないけど、今でも好きな思い出のゲーム。

でも、家庭用には移植されていないし(Super32X で移植話があったけど、結局出なかった)、また遊ぶのは難しそう。


愛知の日本ゲーム博物館さんに置いてあるらしいのですが、遠くてとてもいけません。



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プログラム教育  2015-02-28 18:27:44  コンピュータ 家族

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子供に Scratch を遊ばせている。


長男(10歳)は素晴らしい吸収力で、弾幕シューティングみたいな動きを作って「動きが美しい」と喜んでいた。

画面中央から自分を正確に狙った弾が飛んでくるので、ひたすら避けるだけのゲームだけど。


こういうものを簡単に作れてしまう、というのは Scratch の柔軟性の高さだと思う。




プログラムを勉強する、というと、とりあえずリファレンスマニュアルを読み始めようとする人がいる。


英語だったら、ある程度英単語を知らないと作文はできない。

リファレンスを読むのは「どんな単語があるか」を知ることになるので、まぁ、間違っているとは言わない。


でも、まずは何か目標を立てたほうがいい。

英語の学習でもそうだけど、明確な目標が無いと上達しにくい。



で、目標を立てるというと、思い描くソフトの「完成系」を夢想してしまい、そこにむかって邁進しようとする人が多いようだ。


目標が細かすぎると頓挫する。

最初に細かな「仕様」を決めると、どうしてもそのものを作りたくなって、持っている技術で「回避しよう」とか考えられなくなっちゃうから。



目標は、一言で言い表せる程度にしておくのが良い。緩い目標設定だ。

「ゼビウスみたいなシューティングを作る」とか、「綺麗な模様を描けるソフトを作る」とか、その程度。


そして、自分の知識で出来そうなことから作ってみるのがいい。

その途中で新たな知識を得たら「これで何か面白いことできないかな」って考えて機能を追加してみる。



自分の出来ることばかりやってたら上達しないよ、っていう意見ももっともだけど、プログラムってそんな単純なもんじゃない。

「これならできるだろう」と思って始めたことでも、思わぬところでつまづいて、苦労するもんだ。

それで十分勉強になるし、上達できる。




先に書いた弾幕シューティングは、非常に簡単な仕組みだ。


Scratch 2.0 には「クローン」という機能がある。

プログラムは1つしかないのに、複数の物を動かせる便利機能だ。


ちなみに、1つのプログラムで複数の物を動かす、という概念は混乱しがちなので、Scratch 1.x 系列にはこの機能は用意されていなかった。

でも、この機能無いとゲームが非常に作りにくい。


ものすごく重要な機能で、使い方を理解してしまえば非常に便利だ。



で、長男は画面の中央に適当なキャラクターを置き、常に「自機」の方を向くようにプログラムを組んだ。


Scratch では、キャラクターに「向き」がある。キャラクターの移動を「前へ」「後ろへ」「右へ」「左へ」などで指示するためだ。

そして、他のキャラクターの方に向ける、という命令があるので、「自機」に向かせるのはたった1命令で出来る。


で、一定時間ごとに「クローン」を作るようにした。

クローンは元のキャラクターと同じ位置に生み出されるが、特に指示しない限り生み出されるだけで、プログラムは動かない。


そこで「クローンされたとき」に動き始めるプログラムを組んだ。

このプログラムは、ひたすら「前へ」を繰り返すだけ。生み出されたときの方向に、ずっと動き続ける。


以上。これでおしまい。

自機はマウスで動かせるようになっているのだけど、その自機をめがけて多数の弾が飛び続ける。


まるで弾幕シューティングのような画面になる。



ちなみに、長男は弾幕シューティングなんて全く知らない。

「この命令、何かに使えないかな」と適当に組み合わせている間に面白い動きになり「みてみて、面白い」と見せに来ただけだ。




この無目的さがいい。

プログラムの「お勉強」だと、なかなかこういうことができないけど、何かに使えないかな、って考えて使ってみた機能は、確実に自分の知識となる。


独習書を買ってきて、本で原理を学んで、サンプルプログラムを真似して作ってみても、その知識は案外活用しづらい。



思えば、僕も BASIC のリファレンスマニュアルを読んでは「へー、こんな機能あるんだ」って実験しながらプログラムを覚えていったと思う。


BASIC は、プログラムを組まないでもその場で「命令の実行」が可能だった。

いわゆるダイレクトモード。命令を入力すれば、すぐに結果が返る。


これがあるから、リファレンスを見ても命令の動作詳細がわからないとか、そもそも手元にリファレンスが無いけど命令自体は記憶しているとか、そんなときに命令の動作を簡単に調べられた。


簡単な組み合わせで、狙っている目的が実行できることを確認してからプログラムに組み込んだりね。

実は、いまも Javascript や PHP のプログラムを作るときに、同じようなことをすることがある。




Scratch では、リファレンスすらいらない。

だって、使える命令は全部画面上に「ブロック」として置かれているのだもの。


それ以外の命令は使えない。

この、「命令が見えるものだけに限られている」ことに拒否反応を示す人がいる。

大抵はプログラマーだ。


本物のプログラムは、もっと多くの命令を自由に駆使することで無限の可能性が広がっているものだ、という。


この意見はわからないではない。

僕も、Scratch で仕事のプログラムを作れ、と言われたら断乎として拒否する。

出来ることが非常に限られているから、苦労することが目に見えているんだ。


でも、それは「本物のプログラマは Pascal を使わない」というのと同じことだ。


今までの自分のやり方と違うからと言って拒否しているだけ。



僕はアセンブラで低レベルなプログラムを書いて、ハードウェアの隅々までしゃぶりつくすのが好きだ。

それを仕事にしていたこともある。


でも、Scratch の非常に簡単にプログラムが書けるのも大好きだ。

多くのプログラム言語を見てきて、それぞれに違う得意分野があることを知っている。


そして、そのどれもが、本物のプログラム環境だと思う。


Scratch では、先に書いたように全命令が非常に少なくて、画面上に置かれているのでリファレンスがいらない。

BASIC と同じように、ちょっと書いて(組み合わせて)動かすことも簡単だ。

だから、リファレンスが無くても動作詳細はすぐにわかる。


そして、非常に少ない命令は、よく考えられている。

ゲームを作る、キャラクターが動き回る紙芝居を作る、タートルグラフィックで遊ぶ…など、いくつかの「子どもが興味を持ちそうな」分野において、目的を1命令、もしくは数命令の組み合わせで実現できるように練り込まれている。


でも、もし Scratch でいわゆるお勉強…基本のソートアルゴリズムとか、文字列検索のプログラムとか、モンテカルロ法で円周率を求めるプログラムを作ろうとしたら、非常に苦労するかもしれない。


Scratch は得意分野が狭い。

その代わりに、その得意分野では非常に簡単にプログラムが組めるし、その範囲内では命令の組み合わせもしやすいように工夫されている。


でも、それでいいと思う。万能の言語なんて存在しない。

汎用性が高い、と言われるC言語すら、プログラムの需要が高まった現代では、不得手な分野が非常に多いと言われる。


子供向けの学習用言語である Scratch がCよりできないことが多いからって、「そんなのダメだ」と言い出す理由は、全くない。




何か興味のあることを見つけて、その興味に従って自由に遊んでみる、ということが勉強には必要だと思う。


実は、これはプログラムに限らず、すべての勉強に言えること。


疑問を持ったら、それが知識の範疇であるならば図書館に行って調べてみる。

物理なり、幾何学なりで計算してみれば導ける問題なら計算してみる。

台所に行って実験できるものなら実験してみる。

空き箱で工作して解決出来そうなら工作してみる。


方法は問わないけど、「プログラム」もそれらと大きく変わるものでもない。


ただ、プログラムは「正解」かどうかがわかりやすい、というのが違う。


言い方を変えると、他の方法では、自分のやったことを直接的にしか知りえない。

調べたことをノートにまとめたとして、そこには自分の書いた字が残るだけ。

計算して数値を出しても、その数値が正しいかどうかはわからない。


プログラムは、自分が書くのは「プログラム」なのだけど、動かして出てくる「結果」は違うものだ。

結果が間接的に返ってくる。

ここで、エラーになったり誤動作したり、目的通りに動かないのであれば、明らかに違っているとわかる。


プログラムは他の学習方法と大きく変わるものではないけど、ただ一つ、目線を強制的に変えてくれる作用があるのだ。


そして、目線を変えることこそが、考えるときには重要だと思う。

先に書いたプログラム以外の「興味で遊ぶ」方法、自分一人で正しいかどうか判断する方法が一つあって、それは全く違う目線で確認することだ。


でも、違う目線を持つのは非常に難しい。大人になってもできない人が多いし、子供にはまず無理。

それが簡単にできる、というのがプログラムを学ぶメリットの一つだと思う。




遊びから得られるのは、知識ではなく「考える力」だ。

知識は教えることもできる。でも、考える力は教えることはできない。


「良く学び、良く遊べ」と言われるものこのためだと思う。

遊ぶというのが「元気に遊べ」ということではなくて、学んだ知識を使った遊びを考案せよ、ということね。


遊びを考案するってのは、応用できるようになるってことだからね。

これは知識を頭に入れただけでなく、己の血肉としなくてはできないこと。


そして、逆説的だけど血肉にするためには遊んでみないといけない。




長男が Scratch を楽しそうにやっているからこの日記を書き始めたのだけど、時間が来たので妹たちに交代した。


長女(7歳)はまだ自分でプログラムはできない。

でも、先日スクラッチで表示できるキャラクターの中から「魚がかわいいからこれで何か作って」というので、僕が簡単な金魚すくいゲームを作ってみせた。


「もっと魚の数増やせない?」とか、「すくい網が破けにくいようにできない?」とか言ってくるので、ヒントだけ与えて自分でやってごらん、と対応している。


まだプログラムは組めないが、どこのパラメータをどう変更すれば何が起こるのか、いろいろ試してみて喜んでいる。

「最高点を記録しておきたい」というのはなかなか難題だが、長男がヒントを出しながら一緒にプログラムを組んでいた。



我が家の実感では、7歳はまだプログラムを自由に作るのは難しいな、という感じ。

10歳なら十分だ。


実際のところ、10歳は自分でものを考えられるようになる年齢だとされている。

子供にプログラムをやらせてみたい、という人はその年齢を一つの目安にするといいだろう。


#上に書いた通り、7歳でもパラメータを改造して遊ぶくらいはできる。


次女は5歳だが、5歳はゲームのルールを理解できる年齢。

これ以前は、ジャンケン程度の簡単なものでも難しい場合がある。


#ジャンケン程度なら3歳くらいから遊べる子もいます。


ちなみに、次女のお気に入りはキッドピクス。

長男・次女のプログラムは横から見て楽しんでいるし、実は書き変えるパラメーターの位置なども、長女より早く「ココじゃない」と指摘することがある。


でも、まだプログラムにはあまり興味がないようだ。



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