アラン・ケイ(前編)

もっと使いやすく!

エンゲルバートの NLS ほどではないにせよ、NLS のようなさまざまなデバイスを備えたシステムの研究は、NLS と平行して多くの人が行っていました。ただ、NLS ほどの大規模システムは珍しかったというだけです。

たとえば、サザーランドのスケッチパッド。また、パパートのLOGOシステム。さらに、プラズマディスプレイ・・・

ハードウェアが安定し、新鮮な発想の応用研究が進む中、運の良いことにこれらのすべてを体験できる環境にあった人物がいました。

ユタ大学大学院の学生、アラン・ケイです。

目次

サザーランドとFLEX

2つの研究発表

パパートとLOGO


サザーランドとFLEX

ケイは、空軍服役中にプログラムの適性試験に合格し、プログラムを学ぶために空軍の助成金でコロラド大学に入学します。彼はここで優秀な成績を収め、軍はさらに彼を大学院に進学させるための資金を提供することを決定しました。

しかし、彼はコンピューターになんか興味はありませんでした。趣味は Jazz の演奏と山登り。コンピュータープログラムを学んだのは、そうしていれば空軍で窮屈な生活をしなくて済むからです。

それなのに、空軍は彼に大学院まで行かせようというのです。彼は軍をしたたかに利用しようとしました。つまり、軍からお金をもらって、自分の趣味をしながら遊んで暮らせるような大学を探したのです。

たった一ヶ所ですが、そういう大学がありました。そうして彼は、山が近くてコンピューター学科のある大学、ユタ大学の大学院に進学を決めたのです。

サザーランド写真 しかし、ここで彼はアイヴァン・E・サザーランドと出会うことになります。サザーランドは新設されたばかりのユタ大学コンピューター学科に招聘され、講師を勤めていたのです。

サザーランドは、MIT の大学院を卒業した、まだ若い新任講師でした。しかし、彼は大学院在学中に「スケッチパッド」というコンピューターシステムを開発しており、このシステムは ARPA (高等研究計画局)からも注目される、重要技術でした。


ライトペン スケッチパッドは、線画を表示できるベクタースキャンCRT ディスプレイと、CRT に押し当てることで押し当てた位置を検出することの出来るライトペンを組み合わせた、簡単なお絵書きツールでした。


スケッチパッドで絵を描くところ なにかに利用できる、というほどのシステムではありません。出来ることといえば、ただ単純な線画を描くことだけです。


右上:スケッチパッドのライトペン
右下:画面にペンをあて、図を描いているところ

ケイは、サザーランドのスケッチパッドを見て衝撃を覚えます。これは、彼が今まで学んできたコンピューターの利用法とは明らかに違うものでした。

面倒くさいプログラムを丁寧に組み立て、散々デバッグを行った揚げ句、出てくるのは無味乾燥な数値データだけ、というのがそれまでのコンピューターの使い方でした。

しかし、スケッチパッドでは、まるでコンピューターの中に手を突込んで直接データをいじっているかのような操作が可能だったのです。


ARPA は、このスケッチパッドのような簡単な操作性を持ったコンピューターシステムの開発を行いたいと考えていました。そこで、サザーランドの元に資金を提供し、グラフィカルコンピューター「FLEX」の開発を行わせます。

ケイはこのプロジェクトに参加しました。FLEX は出力としてグラフィカルディスプレイ、ポインティングデバイスとしてペンタブレットを備え、SIMULA 言語を元にした高度なプログラムシステムを備えたコンピューターでした。


SIMULA は「アクターモデル」という言語モデルを採用したプログラム言語でした。この方法でのプログラムは、コンピューター内で役割を持った「俳優」(アクター)に対し、命令を出すことで行われます。
 俳優は、自分の行うべきことを知っており、そのために必要なデータも持ち合わせています。そこに命令を出すだけで、必要な処理をやってくれるのです。

 SIMULA は、名前の通り気体分子の運動などをシミュレーションするための言語でした。気体などは1つ1つの「部品」の動きは単純ですが、全体を見ると想像もつかないような動きをします。
 アクターモデルは、このようなプログラムに効果を発揮するのです。

ケイは、このコンピューターの開発の最中に、コンピューターの部品が驚くべきスピードで小さくなっていくことを知ります。そして、FLEX を表現するために一つの造語を考案します。

パーソナルコンピューター・・・これが、FLEX に名付けられたもう一つの名前でした。個人でも購入することができ、机の上に乗せて置けるほど気軽なコンピューターという意味です。もちろん、このときの FLEX は机の上に乗せられるほど小さなものではなく、値段も高価でした。

しかし、近い将来、コンピューターはそのようなものになる。その時には、FLEX の様に使いやすいコンピューターが必用となるのだ、という意味の命名でした。


2つの研究発表

1968 年、重要な二つの発表会が行われました。

共に、ARPA が資金提供して行われたプロジェクトの発表です。そのうち一つは、ケイらのような学生に資金提供して行われた、基礎研究レベルの発表会でした。

ケイは、ここにFLEX の発表のために参加しました。FLEX は、ケイが言う「パーソナルコンピューター」のための、使いやすいシステムの研究です。

しかし、これは実際問題としては失敗でした。FLEX のやり方はどこかが悪く、専門家にしか使えないような複雑なものになってしまっていたのです。


ともあれ、ケイは FLEX の発表会をすませ、同時に他の人の研究を目にします。

その中の一つに、薄型プラズマディスプレイの発表がありました。これはケイにとって衝撃的なものでした。

ケイの考える「パーソナルコンピューター」は、テレビのブラウン管にキーボードがついたようなものだったのです。なぜなら、コンピューターの部品はどんどん小さくなるけど、CRT とキーボードは小さくすることが出来ないから。

しかし、プラズマディスプレイを使えば、CRT はいらなくなります。キーボードは「広さ」は必要ですが薄くすることが出来ますから、将来のコンピューターは板のように薄くなることになります。

まるで本のようなコンピューター。「動的な本」、DynaBook の最初の着想はこのときに生まれたのでした。


1968年に行われたもう一つの重要な発表・・・それは、NLS のプレゼンテーションでした。

ここで、エンゲルバートは伝説的な素晴らしいプレゼンテーションを行います。なんと、彼の開発したコンピューターを使って、彼の開発したコンピューターを説明して見せたのです。

プレゼンテーション会場で、インターカムをつけた彼はコンピューターの前に立ち、彼の後ろにはコンピューターの画面が大きく投影されていました。

そして、見たこともない箱形の装置(マウス)を握りしめた彼は、その装置で次々と発表原稿を画面に表示し、説明図を呼び出し、時には彼の表情をそのまま画面に映したり、何十キロも離れた別の場所のコンピューターと文字で会議を行ったりするのです。


まるで SF 映画を見ているかのようでした。しかし、それは現実に目の前で行われたことなのです。

2時間のプレゼンテーションが終わったとき、観客は総立ちになり拍手を送りました。そして、ケイもこの発表の場に居たのです。


実は、この話には後日談がある。観客は知らなかったのだが、NLS のシステムは巨大で、会場には持ち込めなかったのだ。しかも実際のコンピューター操作は複雑すぎて、彼一人で行えるようなものではなかった。
 実はスクリーンに投影されていた映像は、彼の部下と知人が 30Km 離れた研究所で操作しているコンピューターの中継画面だったのだ。

 ではエンゲルバートは何をしていたのか?
 それらしい機械の前で、画面の動きに合うようにそれらしく手を動かしていただけなんですね。悪く言えば、「壇上で踊っていた」のです。
 もちろん、解説などの仕事は彼がいないと出来ませんでしたけど。


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(ページ作成 1999-09-06)

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