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12-08 NLS伝説のデモの日(1968)
12-08 【追悼】ラルフ・ベア氏
1968年の今日、ダグラス・エンゲルバートにより、NLS の「伝説のデモ」が行われました。
ダグラス・エンゲルバートは元米空軍のレーダー技師で、Whirlwind I の海軍版である「SAGE」を扱っていました。
当時のコンピューターは、「計算機」にすぎません。
パンチカードでプログラムとデータを入力すると、テレタイプライターが結果を印字します。
普通なら、これで終わり。
しかし、SAGE はそうではありませんでした。
何台もの CRT ディスプレイ…オシロスコープを改造したものが接続されていて、ベクタースキャンで画像や文字を出力します。
さらに、ライトガンと呼ばれる機器で画面をタッチすることで操作を行えます。
米空軍では、海岸線に並べたレーダーから入る情報を SAGE を使って統合し、表示し、必要なら即座に詳細情報を見られるようにしていました。
こうして、米国本土に侵入する航空機を監視していたのです。
エンゲルバートは、SAGE を扱った経験から、「コンピューターと対話する」可能性に気付きました。
SAGE では、必要な情報を画面に表示するだけです。しかし、「計算」だけではなく、画像や文字で情報が表示され、それに触れるだけで詳細を得られました。
この方法をもっと拡張すれば、コンピューターで文章を作成したり、遠く離れた人とそれを共有したり、文字を使って会議をすることもできるでしょう。
エンゲルバートのアイディアは、oN Line System 、略して NLS と呼ばれ、ARPA (国防総省高等研究計画局) の予算を獲得します。
NLS では、SAGE で使っていたベクタースキャンディスプレイよりも「安価な端末」として、市販されていたテレビを利用します。
ただ、このためにライトガンが使えなくなってしまいました。
そこで、エンゲルバートはライトガンに変わる「暫定的な」ポインティングデバイスとして、マウスを考案します。
また、マウスと同時に「片手だけで文字を入力できるキーボード」として、和音キーボードも考案します。
NLS は、文字入力用の通常のキーボードと、コマンド入力用の和音キーボード、そして、コマンドを適用する位置を指定するマウスの、3つの入力機器を使用していました。
1968年の今日…12月8日に、スタンフォード大学で NLS の発表会が行われます。
これが、後に「伝説のデモ」と呼ばれることになるものでした。
SAGE からずっと時代はたっていますが…まだ、コンピューターはテレタイプで使うのが普通でした。
ディスプレイを接続された PDP-1 などは現れていましたが、それはちょっとグラフを表示したりテレビゲームに使われたりする程度の、メイン用途ではない周辺機器です。
そこに、マウスによってグラフィカルに操作を行え、文章を自由自在に「コピー&ペースト」出来る、魔法のようなワープロが登場したのです。
oN Line System の名前の通り、遠隔地ともオンラインで結ばれており、テレビ会議を行うことも可能でした。
エンゲルバートのスピーチも見事なもので、この新しい概念…コンピューターを計算以外に使う、ということの有用性をわかりやすく伝えていました。
このデモを直接見た人は、そう多くはないそうです。
大学の講堂で行われた発表会に過ぎませんから。
しかし、その中にアラン・ケイがいて、スモールトークと GUI が生み出されます。
テッド・ネルソンの Xanadu も、伝説のデモの影響をいくらか受けているようです。
(ハイパーリンク、という案は伝説のデモ以前から持っていたようですが、このデモ以降に具体的なものとなったようです)
スモールトークが元となって Macintosh が、そして Windows が生み出されましたし、Xanadu が元となって WEB が生み出されました。
その意味で、NLS のデモが後に与えたインパクトは絶大で、まさに「伝説の」と呼ばれるのにふさわしいものだったように思います。
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詳細は現時点で明らかになっていませんが、ラルフ・ベア氏がお亡くなりになったそうです。
(追記:12月6日没)
世界最初のテレビゲーム機である、ODYSSEY を作成した方。
そのプロトタイプモデルである BROWN BOX と共に有名です。
(BROWN BOX の方が性能が良く、発売に際してコスト削減で性能が落ちたため)
「世界最初のテレビゲーム」と一般に言われる、アタリ社の「ポン」は、ODYSSEY に含まれる複数のゲームのうち「テニス」を真似して、さらに完成度を高めたもの。
ついでに書けば、アタリ社はポンを「ビデオゲーム」と呼んでいます。
ラルフ・ベアは ODYSSEY を「テレビゲーム」と呼びました。
そういう意味では、ODYSSEY こそが、世界で最初のテレビゲーム。
「テレビゲーム」という言葉を作り出したのは、ラルフ・ベア氏です。
1年ほど前に、テレビゲームの初期の歴史を「ある程度」追いかけた記事を書きました。
僕はコンピューターの歴史を追いかけるのが好きですが、どんなものでも「無から生じる」ことは無いと思っています。
必ず先行技術があり、影響を受けたり、改良されたりして新しいものが出来る。
先に書いたように、ポンは ODYSSEY の影響を受けています。パクリだと呼ぶ人もいます。
でも、そこで行われた「改良」は非常に重要なもので、ヒットの原動力となっています。
だから、ポンが「世界最初」と呼ばれるのも自然な事。
正直なところ、ODYSSEY のゲームは、現代人から見るとゲームらしくありません。
でも、記事を書いたときに、BROWN BOX がどんな先行技術から生み出されたのか、さっぱりわかりませんでした。
もしかしたら、ラルフ・ベアは本当に人知を超えた天才で、完全な無からこれを作り上げたのか…とさえ思いました。
でも、多分そうじゃない。
記事を書いている最中にしつこく調べつづけて発見しましたが、ラルフ・ベア氏の元で働いたエンジニア、ウィリアム・ラッシュが、MIT 出身でした。
そして、彼が新しいアイディアを次々もたらして、「おにごっこ」しか遊べなかった BROWN BOX に、次々と新ゲームを追加していったことがわかりました。
恐らくは、彼は MIT で作られた多数のゲーム…特に「スペースウォー」を知っていたのでしょう。
この記事を書いた時点で、ベア氏はまだ存命でした。
彼の WEBサイトも見つけていました。
…ただ、コンタクト用ページは 404 NotFound になっていました。
WaybackMachineを使ってメールアドレスを見つけましたが、まだ使えているのかも不明でした。
メールが届くかどうかもわからないけど、思い切って、ラッシュ氏のことを聞いてみようか…
そう思いましたが、きっとベア氏には、ラッシュ氏は「アイディアも豊富なエンジニアだった」程度の認識しかないでしょう。
ラッシュ氏が何処でアイディアを得たのか、という謎にはきっとたどり着けないと思いました。
それに…彼のページを見ると、すべてを一人で作り上げたかのように書いてあります。
実際はそうではない、というのは少し調べればわかるのに。
テレビゲームは彼が切り拓いた世界なのに、テレビゲームの世界は、すでに彼の手を離れている。
ラルフ氏は他にも有名な電子ゲーム、「サイモン」を作ったりしていますが、テレビゲームの隆盛を、半ば寂しく見守っていたのではないか、という気がしました。
「彼がひとりで作った」かのように書いているのも、彼の精いっぱいの虚栄心なのではないか?
そう考えると、そのアイディアはラッシュ氏が持ってきたのでは? などと聞く気にはなれませんでした。
僕の考えすぎかもしれませんが、とにかく聞く気にはなれなかったのです。
そして、永遠に聞くことは出来なくなってしまいました。
ラッシュ氏はベア氏ほど有名ではないので、現在どこにいるのかわかりません。
彼が PDP-1 とスペースウォーを知っていたのかどうか…状況証拠から、恐らく知っていたと確信しているのですが、是非知りたいところです。
決してそれは、ラルフ氏の業績を貶めるものではありません。
最初に書いた通り、どんなものも、先行技術を受け継いで生み出されると思っています。
BROWN BOX / ODYSSEY は重要な「ターニングポイント」です。
これが、MIT のゲーム群…特に「スペースウォー」と正しく繋がっている、と確認するのは、ゲームの歴史を俯瞰する上で重要だと思っています。
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