目次
01日 夏の家族旅行(箱根) 1/3
01日 夏の家族旅行(箱根) 2/3
01日 夏の家族旅行(箱根) 3/3
06日 Copyright 表記について
11日 スティーブ・ウォズニアックの誕生日(1950)
12日 IBM PC の発売日(1981)
13日 電子メールの誕生日(1982)
15日 ミスティクア
17日 長男誕生日
19日 ブレーズ・パスカルの命日(1662)
25日 チキンラーメンの誕生日(1958)
27日 レフ・テルミンの誕生日(1896)
28日 ミヒャエル・エンデの命日(1995)
30日 ジョン・モークリーの誕生日(1907)
7/29,30で、毎年恒例、夏の家族旅行に行ってきました。
今年は箱根。
あの時、彫刻の森美術館で楽しく遊んだ長男が「また行きたい」と言っていたのが今回の決め手。
次女は3年前はうまく遊べなかったし、そもそもよく覚えていないようなのですが、写真などを見ると「行きたい」と言っていました。
当日、朝6時起きで7時には家を出発。
本当は6時半出発にしたかったのですが、少し遅くなってしまいました。
3年前は、朝の通勤ラッシュで「下りはたいしたことないだろう」と思っていたのですが、長時間立っていた子供から不満が漏れていました。
しかし今回はすぐに座れます。小田原まで直通ではない、平塚行きに乗ったせいもあるのだけど。
平塚で乗り換え、小田原で「箱根フリーきっぷ」を買ってさらに乗り換えます。
そして、これも箱根旅行恒例で、小田原駅内の売店で朝食を購入。
ここまで、軽くお菓子とかは食べているけど、朝ごはん食べてないんです。
箱根登山電車を待ちながら駅のホームでおにぎりを食べます。
ここら辺から、子供たちは「旅行だ!」という気分が乗ってきてみたいで、ハイテンション。
登山電車のホーム看板には標高が書いてあります。
小田原は標高 14m 。自宅付近よりも標高が低いです。
電車が来て出発。1駅ごとに、すごい勢いで標高が上がることに驚いています。
入生田駅の前には、しばらく前に遊びに来た「生命の星地球博物館」が。
あの時は車で来たのだけどね。
箱根湯本で乗り換え。ここから、本格的に「登山」電車。
これも運よく座れました。まだアジサイが残るシーズンで、結構観光客は多いのですが。
長男は覚えているけど、長女も前回来たのを覚えていないみたい。
この電車がどれほどすごいか…日本一、世界でも2番目の勾配を登ることや、非常に古いものなので、当時はトンネルを機械ではなく手で掘っていたことなどを教えます。
近くにいた別の子供も説明を聞いていて、車内はちょっとしたテーマパーク。
この時、「どっちに進んでいるか」も意識させておきます。
スイッチバックで、急に逆に走りだしたりするのが登山電車の面白さだからね。
終点の強羅の1つまえ、彫刻の森駅の手前で、彫刻の森美術館の散策路が一瞬電車から見えます。
これを見つけ、「あの公園なに! 楽しそう!」と興奮する長女と次女。
あれが、今から行く彫刻の森美術館だよ、というと、すごく楽しくなってきた様子。
駅に着いたのは10時少し前。
9時のオープン直後に来たかったのでちょっと予定おくれだけど、10時前ならまぁ十分でしょう。
「彫刻の森で遊びたい」と希望していた長男は、先頭をたって進んでいきます。
長男・長女は「ネットの森」に早くいきたがっているけど、まずは入り口付近から順番に。
3年前にもやっていた屋内展示、「コロコロゴロン」のスペースに入ります。
子供が触ってもいい、中に入って遊んだりもできる美術品を置いたコーナー。
テトラポッドのようなジャングルジム、巨大な滑り台、4つの穴に見える…けど2つはトランポリンの床、など。
4つ穴の床、トランポリンに隣り合った穴に、柵が付いていました。
「4つとも同じに見える」のが面白さだったのに、たぶん気づかずに飛び込んで怪我をした子供でもいたのでしょう。
美術品としては不恰好でつまらなくなってしまい、残念。
片隅に、モビールがぶら下がっています。
子供の目線から見ると見上げる形だし、地味であまり気づかれないようですが、子供が「あれなに?」と興味を持っています。
僕の子供の頃には、モビール作りって子供の遊びとして流行しました。
これ、大人になってから知ったのですが、非常に画期的な「芸術」だったのですね。
彫刻、と言えば、普通は大理石や鉄などを使って作られる、しっかりとした重たいものです。
しかし、それらの概念を打ち破り、「軽くて風で動いてしまう」彫刻が、彫刻家アレクサンダー・カルダーの考案した「モビール」でした。
ひとしきり遊び、「次はネットの森!」と長女が言うのに、長男は「その前に、真っ暗な中を地下に潜る奴行きたい」と言います。
これも入り口付近にある、タイトル「天を覗く穴」だったかな。
真っ暗な箱に入り、真っ暗な狭い道を進むと、明るい光の元に椅子があります。
座って上を見ると、明るい空が見える。
さらに進むと、ガラスの箱から外に出られます。
現代的な御胎内めぐり。
前回は工事中で遊べなかった「シャボン玉の城」が近くに見え、「遊びに行っていい?」と長男。
もちろんですとも。
透明な樹脂で作った、本当にシャボン玉のようなジャングルジム。
僕も小さかったときに遊んで楽しかった覚えがあります。…が、作成年代見ると、僕が8歳以降だな。
「小さいとき」の思い出だったけど、それほど小さくなかった。
夏で中が暑いのではないか、と危惧していたのだけど、結構空気穴が沢山開いていて、中はちっとも暑くないようです。
子供たちが遊んでいる間、親は近くの木陰で涼みます。
前回もそうだったのですが、子供たちに事前学習として「ハナさんとコウちゃん」というデジタル絵本を見せてきました。
シャボン玉のお城の後、「ネットの森!」と言っている子供たちに、まぁ待てと言って園内を巡りはじめます。
この絵本に出てくる、キャラクターとしての芸術作品たちに会うために。
入り口から右手に進むと、散策路になっています。
モーターや風で動く彫刻…「コロコロゴロン」にもあった、モビールの影響を受けた作品などもあります。
「あれ、割れちゃってるよ」と長女が作品を指さします。もちろん、本当に割れているのではなく、割れているように見せている作品。
そうやって驚いてくれる人が要れば、芸術としては成功なんだよ、ってことを教えます。
そして、「赤と黒の人」(絵本の中でのキャラクター名)のところへ…見つけて走っていく最中に、別の物を見つけてそちらへ。
まぁ、それはそれでいいや。
よろこんで走って行ったのは、「大きな目玉焼き」のところ。
絵本の中では、主人公のコウちゃんがなくした帽子を、ここで発見します。
そのすぐ近くに「ボクシングするうさぎさん」もいました。
で、そこまで行ったら、ネットの森が見えました。「行きたい」というのを、再度制止。
まずは、キャラクターめぐりを終わらせてから、ゆっくり遊べるようにしたいから。
大きなお姉さん、鉄のお兄さん…などなど。大体主要キャラクターを見終わったところで、ステンドグラスの塔が見えました。
上まで登れる、と聞いて次女が「はやくいきたい!」と言い出します。
長男、前回怖かった記憶があって「あれ、登るの怖いんだよ」などと行かないように次女を説得。
でも、結局登ることに。
…あれ、思ったより怖くない、と長男。3年たって成長したな。
今度は長女が怖がっていましたが、「外を見ないで、階段の足元だけ見て登りな」と言ったら、問題なく上まで登れました。
頂上からは、デジタル絵本のもう一人の主人公「歩く花」が見えました。
次はあそこまで行こう。
…でも、まずは塔の下で足湯でのんびり。
足湯があることも知っていたので、タオルもってきました。
持ってなくても、ハンドタオルを 100円で売ってますので、お土産にもなります。(前回は買った)
丁度12時。目の前のカフェでお昼にしようとも思っていたのだけど、非常にこんでます。
大体、前回も食べたけど、「カフェ」であって、お昼ご飯食べるほどのボリュームの料理は無いんだよね。
菓子パンとかは一杯持ってきているので、近くの木陰でちょっと食べます。
そして、歩く花のある、ピカソ館へ。
ピカソ館に行く最中、彫刻を見ながら長女が「この人もおしり出してる。なんでみんなおしり出してるの?」と。
裸が多いという視点ではなく、「おしりだしてる」という視点が新鮮で、これ以降彫刻を見ても「おしり出してるかどうか」が気になるようになってしまいました。
ピカソ館では、年代とは関係なしに「ピカソが良く作成したテーマ」別の展示をやっていました。
前回は、年代ごとの移り変わりだったのだよね。
年代ごとの移り変わりだと、非常に上手な絵から、だんだん変わっていくのがわかるのだけど、いきなり落書きっぽいものが多い。
これがなぜすごいのかを、子供たちにちゃんと説明します。
本当はすごく上手な絵を書ける人なのだけど、どんなにうまく書いても「絵は平面だ」という限界にぶつかって、なんとか3次元を表現しようとする。(ちゃんと、キュビズム時代の作品もありました)
落書きみたいだけど、絵がうまい人が始めたことだから、ちゃんと意味があるはずだとわかった人たちは、面白いと認めてくれた。
そのうち、キュビズムの絵が古代の壁画なんかに似ていることに気付いたピカソが、だんだんシンプルで力強いものを目指すようになっていく…
ピカソの目指したものが「シンプルな表現」と判った時点で、子供たちはどれが上手な省略をしているか、自分はどれが好きだ、というようなことを言いながら見るようになりました。
作者の意図がわかってきたら、後は好みの問題でもあるので、正解は無い。正しく芸術鑑賞できています。
この後、やっとネットの森へ。
子供3人とも非常に楽しく遊んでいましたが、途中で親のところに戻ってきた長男
「思ってたほど楽しくなかった。前はもっと楽しかったと思うのに。
さっきのシャボン玉の城の方が面白かったから、帰る前にもう一度行っていい?」
それもまた、成長でしょう。期待が膨らみ過ぎていた、というのもある。
でも、長女と次女は、ネットの森がちょうど楽しめる年齢だったみたい。
希望通り、最後にもう一度シャボン玉の城で遊び、入り口付近に戻ったところで「コロコロゴロン」ももう一度遊びます。
時間は15時前。さすがにお腹も減りました。
さぁ、これでもう十分遊んだかな? 宿に向かっていいかな? と念を押し、出口に向かいます。
出口の後のミュージアムショップで、長女と次女の「これお土産に買いたい」攻撃。
これがまた、別の場所でも買えそうなもの…
結局、もう1日旅行はあるけど、明日もっといいものがあっても買えないよ、と確認して、購入。
完全に外に出て歩き始めると、次女が「疲れたから抱っこー」と言ってきます。
抱っこはダメ、というと、「じゃぁ、これ持ってー」と、先ほど買ったお土産物を渡してきます。
それも、自分のリュックに入れな…と見ると、次女のリュックがない。
僕の荷物の中に入れてあるかと確認したけど、やっぱない。
慌てて家族全員集まり、最後に見たところを確認…シャボン玉の城の後は、背負っているのを僕が確認している。
ミュージアムショップで下したような形跡はなかった。…ころころゴロンで、おろして遊んでた!
妻が事情を話して再入場。走って取りに行きます。広い園内だけど、入り口付近で良かった。
思ったところにあったそうで、妻はすぐに戻ってきました。
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別年同日の日記
16年 Microsoft Office 発売日 (1989)
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箱根旅行記の続きです。
15時半ごろ彫刻の森駅に戻り、次の駅の強羅まで。
強羅からはケーブルカーが出ていて、次女は「乗りたい」と興味を持っていますが、今は駅を出ます。
箱根は何度か来ているけど、実は強羅で降りたのは初めて。今まで、ここはケーブルカーへの乗換駅、と言う感じでした。
本日の宿は、駅からすぐのところにある、「箱根パイプのけむり プラス」。
後で書きますが、非常にいい宿でした。
実は、今までの旅行で泊まった宿は、悪くなくても「もう一度泊まりたい」と言うほどの宿はありませんでした。
でも、ここはもう一度泊まりたい。それくらい良かった。
…ただし、「値段相応で」という前提が付くので、安宿に耐えられない人には勧めません。
(基本的には安宿ですので、多大な期待をしないように)
ともかく、宿についたのは16時前。本当は15時過ぎには来ようと思っていたのですが。
妻が疲れたーといってベッドに横になってしまったので、少し休憩タイム。
でも子供たちは「お腹空いたから早く散歩行こうよ」と。この後散歩がてら、強羅公園に行く予定でした。
10分ほど休み、散歩に出ます。
駅周辺にご飯を食べられそうなところは無いし、夕食も近いのでそれほど食べようとも思わない。
駅の隅に、サンドイッチとホットドックのお店がありました。
サンドイッチは今日は売り切れだというので、ホットドック3種類(これで全種類)をたのみ、家族で分けて食べます。
で、食べ終わって、長女が先ほど乗りたがっていたケーブルカーに乗ろうとすると…妻が「ホテルにフリーパス忘れてきた!」。
次の瞬間、「私、走っていくから先行ってて」と走り出す妻。元陸上選手です。
そんなわけで、子供たちとケーブルカーへ。
これも特殊な電車なので、仕組みなどを子供に説明します。
出発して、公園下…そういえば、どこで落ち合うか決めてなかった。走る妻は大変だろうけど、次の駅まで行くことにして「公園上にいるよ」とメールを送ってしまいます。で、公園上で降りる。
強羅公園は、日本初のフランス式庭園です。今年で100年になるそうで、昨年には「国登録記念物」に登録されたそうです。
駅を降りて少し歩いたら、丁度妻が坂を駆け上ってくるのが見えました。
子供たちは「おかあさんがんばれー」と応援。
合流して入り口に向かいます。
そうしたら…「入園時間は過ぎました」。開園時間は17時まで、入園時間は16時30分までだったようです。
時計を見ると 16時33分。あらら、残念。
「えー、行きたかったー」と長女から文句が出ますが、仕方がない。明日来れるようにスケジュールを考える、という約束でひとまず納得。
「全力坂をやっただけだった」と妻。坂道を走って登るのは本当にきつかったようです。
下り坂なので、ゆっくり散歩しながら皆で強羅まで歩きます。
駅前で、ホテルに向かわず売店へ。
持ち込み可なので酒でも買おう、と思ったのですが、秘密箱が充実した店でした。
組み木の手品…タバコが消えるシガレットケースとか、コインが消えるコインケースとか、子供たちにやってみせます。
長男はすぐにタネがわかったみたいだけど、次女は本当に驚いている。
何度も見せていると、外国人観光客らしいおばぁさんが、「これはどれ?」と棚を指さして聞いてきます。
これですよ、と指さすと、買い物籠へ。
僕がまた別の物を見つけて次女に実演すると、「これはどれ?」で、また買い物籠へ。
最後に、7回秘密箱を見つけて、カチャカチャと仕掛けを動かしながら開けてみせると、「これはどれ?」
え、お土産にするには結構高いですよ? と言ったけど、別に構わないようでお買い上げ。
まぁ、わざわざ高い旅費払って日本に来たのだから、数千円のお土産代はケチらないのでしょうね。
図らずも売り上げに貢献し、長男も展示してある秘密箱などで散々遊んでいたけど、うちはおいしそうな漬物を1つ買っただけ。
(この店は酒屋ではなく、酒は隣の店で買いました)
さて、ホテルに戻り、夕食前に風呂でさっぱりします。
この時は、男と女で別れる。
家族で入れる貸切風呂もあるのだけど、夜9時以降しか空いていなかったため、翌朝の朝風呂を予約してあります。
さっぱりして、夕食はバイキング。これが…おいしかった!
食べ放題だし、安宿だからそれほど期待していなかった、というのが実際のところ。
でも、非常においしいものでした。和食も洋食もデザートもあり、みんな「食べ過ぎた」と言うほど食べた。
特に、デザートコーナーにアイスクリームマシンが置いてあり、トッピングを自由に選んでパフェが作れるのが子供に大人気。
お腹いっぱい、と言ってからも食べ続け、最後には「寒い」と言い出す始末。
部屋に戻ります。
このホテル、部屋は基本的にベッドが並び、ユニットバスがあるだけ。ビジネスホテルのような作りです。
入った部屋からは、電車の線路が良く見えます。子供には大人気。
でも、電車が見える部屋は安いので、「騒音が嫌がられる」という側面もあるのでしょう。
ベッドは1部屋に4つ。
うちは5人家族ですが、未就学児童は「ベッドなし」が選べるので、2つのベッドをくっつけて子供3人で寝てもらうことにしました。
…が、寝相が悪くて長女が長男の蒲団に潜り込み、長男は何度も起こされて最後には怒っって蹴りだしたようです。
これで長女は寝ながらしくしく泣いていて、長男に「さっきまで長女の寝ていたところで寝な」と促したら、別の場所に行ってすぐ寝息を立て始めます。
次女もまた、布団をけっ飛ばして寒くてしくしく泣いていました。
(布団を掛けてあげたらおさまった)
朝になって、長女は位置が入れ替わっているのを不思議がりました。
貸切風呂で朝風呂。
家族5人が入るには十分ですが、大浴場よりはずっと狭いです。まぁ、当然かな。
風呂は、屋根はあるけど壁がない半露天。
オプション料金で 700 円ですが、チェックイン時に申請した早い者勝ち。
これが15時過ぎにチェックインしたかった理由でもあるのだけど、16時前になってしまったので当日夜は取れなかったのでした。
朝ごはんも、バイキング。
もちろん夕食とは内容が変わりますが、やはり和食、洋食、デザートコーナーとあります。
これも非常においしかった。
そして、全員性懲りもなくアイスを食べました。
さすがに、寒くなるほどは食べなかったけど。
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箱根旅行記の続きです。
9時前にチェックアウトし、強羅駅から再びケーブルカーで公園上へ向かいます。
隣の席に座っていた外人さんが、しきりに妻に話しかけて何か言っています。
よく聞くと、妻が来ている服に書いてあるロゴが何か知っているか? とのこと。
いや、良く知らないで着ている、と答えると
「それは、ニューヨークの小さなレコードレーベルのロゴだ。僕はニューヨークから来ていて、日本でそのロゴを見るとは思わなかった」
とのこと。(英語でしゃべっていたけど意訳)
妻は、この服をインドネシア旅行中に購入しました。
そう言ったら、ニューヨーク、インドネシア、日本と言う関係性に一層驚いてました。
公園上まではすぐ着きます。Have a nice trip! と言って別れます。
昨日見られなかった強羅公園。
フランス式庭園として、左右対称に作られているのが大きな特徴です。
飲食店まで左右対称に2つあります。
本当は公園下の方に正門があり、上に登っていくように作られてます。
100年前はケーブルカーなんてないから、山の下側から上に向かって登っていくのが正しいルートなのね。
でも、結構坂がきついので、上から降りていくと楽。
風景は下から見上げると見事なように設計されているので、時々振り返るのを忘れずに。
公園造園中に苗木が植えられた、というヒマラヤスギは、今では巨木。
「およそ樹齢100年」という説明に納得。
公園内にはガラスや陶芸の工房もあって、体験できます。
でも、この日は時間がないのでやらないよ、と言ったら、次女が「風鈴作ってみたかった」と。
(ガラス風鈴がいっぱいぶら下がって売っていた)
じゃぁ、と工房を覗きに行ったら、ちゃんと見学しやすいようになってました。
遠くから見ただけですが、非常に熱いガラスに近づかねばならない、ということに恐れをなして、次女は「また今度にする」と言ってました。
強羅公園は10時前には切り上げ、再びケーブルカーへ。
早雲山でロープウェイに乗り換えます。
長男、ここでも「高くて怖かった覚えがある」と言ってましたが、乗ってみたら案外大丈夫でした。
前日の彫刻の森もそうでしたが、子供の3年間は案外感覚を変えます。
次女は、対向するロープウェイの人に一生懸命手を振ってます。
子供連れや、老夫婦、外国人は結構手を振ってくれます。
絶対ふらないのが、40~50代男性一人。
もっとコミュニケーション能力を磨いた方がいいです。
大涌谷。
「黒卵食べる」と、行く前から楽しみにしていた長女。
3年前の記憶はあまりないけど、黒卵だけは覚えていたようです。
でも、硫黄臭に「くさいくさい」と連発。
まずは、この3年の間に出来た新施設、「ジオミュージアム」を見ます。
これは、地学を専攻していた妻がぜひ見たがっていたところ。
…非常に小さな博物館、とは知っていましたが、想像以上に小さい。
それでも知らなかった内容もあり、それなりに楽しめました。
妻曰く、「近くの富士山や、ハワイのキラウェア火山との対比をすると、火山について知らない人でももっと楽しめる内容になるのに」とのこと。
箱根の火山が特徴的である、ということを伝えようとしているのに、他との対比がないので専門家でないと理解できず、しかし専門家には物足りないくらいの情報しかないのだそうです。
大涌谷を登ります。
くさいくさい、と言っていた長女「お腹が痛くなってきた」と言い出します。
どうも、匂いが嫌で心因性の腹痛。
しかしなんとか進んで、黒卵を売っている茶屋までたどり着きます。
卵を2袋購入したけど、茹でたてだったようで非常に熱い。冷めるまでゆっくり待ってから食べました。
時間的にはそろそろお昼。2個ぺろりとたいらげます。
記念写真撮ったりもしたけど、「くさい」と言い続ける長女・次女もかわいそうなので先に進むことにします。
ロープウェイ駅に戻り、芦ノ湖を目指します。
次女は下山中に、妻におんぶされたまま寝てしまいました。
案外混んでいて、乗れるまで20分くらい。妻はずっとおんぶしていましたが(変わろうか? と何度か聞いたが、面倒なのでそのままで良い、と言われた)さすがに20分は長かったようです。
ロープウェイに乗ってやっと下せる…と座らせたら起きました。
芦ノ湖につき、そろそろ13時。
昼ごはんどうしよう? と妻に相談したら、ロープウェイ駅で1件しかないレストランを選ぶより、箱根町まで行けばいくらか選べるのではないか、との判断。
じゃぁそうしよう、と子供に伝えたらそれでよいとのこと。
ちょうど船も来ていましたし、食べないのならすぐ乗れます。乗船。
「海賊船」と聞いてワクワクしていた子供たちも、ひとしきり船内を見て回り、座席に座ってしまえばただの船なので飽きました(笑)
リュックから紙を出してお絵かきして遊んでます。
箱根町。
レストランは沢山あるのですが、観光客相手の、値段の高い店が並びます…
(町の定食屋、みたいな内容で客単価千円程度)
お子様ランチで千円、と言う感じですが、店に入ります。
僕は680円のたぬきそばで。次女が絶対食べきれないで残すから。
…案の定、お子様ランチは残ったので僕が食べました。
予想外なことに長女まで残したので、たぬきそばもいらなかったくらい。
もう14時です。15時くらいには帰途につきたいのですが、その前に行きたいところが…
箱根関所跡を探します。
近くのお土産物屋さんが「中を抜けると関所まで近道」と出していたので、策略だとわかりつつ中に入ります。
そして、箱根細工のコーナーがあったので、箱根細工好きな僕としてはまんまと策略に引っかかります。
長男も、昨日少しいじった「秘密箱」などが楽しかったので、興味を持っているようです。
お土産で買える程度の金額、ということで、ここで組み木細工のパズルを購入。
(僕も、小学生の頃は組み木細工好きでいくつか持っていました)
関所跡の近くに、箱根細工のからくり箱の美術館がオープンした、という情報を、駅で無料配布していた情報誌で見ていました。
それを探したいのですが…ありました。
からくり箱、というのは、秘密箱の延長上にあって、新たな仕掛けなどの考案している職人たちが競って作っている商品につけられた共通ブランドのようです。
今回の旅行まで知りませんでした。
秘密箱は、箱を開けられるまでの操作回数により、3回、5回、7回、10回…上は80回越えまであるのですが、慣れてくると操作方法が大体予想できるようになってきます。
20回くらいを超えると、もう楽しいというよりは作業しているだけの感じ。
それだけの回数の「操作」を正しくしないと開かない、という仕掛けの工作精度には感心するのですが、それだけな感じ。
しかし、今回「からくり箱」を見たら、もっと「開ける喜び」を持った作品が多いのに驚きました。
「新ひみつ箱」と銘打ったものでも、従来の秘密箱以上の工作精度で、予想もしない動きをしながら開けるようになっています。
それでも、新ひみつ箱は名前の通り、秘密箱の延長上にある感じ。
もっと予想もしない開け方をする作品がいっぱいありました。
作家さんによっては、同じサイズ、同じ見た目の作品をシリーズのように作り続けていて、すべて開け方が全く違う。
予想もしないような動きや、仕掛けとしては単純だけど発想の転換がないと開けられないものなど、遊んでいて楽しいです。
「ひみつ箱」は、他人には開けられない宝箱のような意味合いで作られているのですが、からくり箱は純粋にパズル。
知恵の輪のような立体パズルです。開けて、元に戻せれば正解。
「ひみつ箱」との大きな違いとして、「からくり箱」は、開いたときに共通のロゴマークが見えるようになっているようです。
ピタゴラ装置の最後のロゴマークが書かれていて「終わり」とわかるように、このマークが出たら「正解」。
ちょっとした工夫なのですが、喜びの演出として悪くありません。
この「美術館」では、いくつかの作品を実際に触れますし、作家さんの作った作品の展示もあります。
(見た目の美しい、飾っておいて様になる細工物も多い)
明治時代に作られた、という元祖秘密箱も展示されていますし、からくり家具や、普通に開けようとしても開かない「からくりドア」など、大きなものもあります。
ひみつ箱は好きで、いつか大掛かりなものを買いたいと思いつつ、実際目にすると躊躇して買わない、ということを20年間繰り返してきたのですが…
「からくり箱」は久しぶりに買いたくなり、1つ購入してしまいました。4千円程度の小物ですが。
でもこれ、シリーズでそろえたほうが楽しめるんだろうな (^^;;
さて、これで終わり。
家族みんなで(5歳の次女まで!)からくり箱を開けるのを楽しんでいたため、15時半になってしまいました。
元箱根まで歩くと、そこから箱根湯本行きのバスが出ているようです。
15分程度、とのことだったの歩きますが、これ、大人の足で、という時間だった。
子供がいるのでもっと時間かかりました。
でも、途中旧街道があったので、歩いたのは正解。子供に旧東海道の話などしながらのんびり進みました。
バスターミナルについたのは16時少し前。
16時過ぎに、丁度始発の急行箱根湯本行きがあります、というので、一番乗りで座ります。
出発すると…あらら、予想外のコース。
6年前に乗った、急行でないバスは、小涌谷まで山を登って登山電車と並走するように箱根湯本に向かうのですが、急行だと逆方向…さっき自分たちが歩いてきた方角に進むようです。
しかも、途中のバス停から乗ることもできる。歩かなくてもよかった、ということですね。
歩きながら「疲れた」と言っていた長女が恨めしそう。でも、始発に乗れたから座れてよかったじゃない。
急行だと、箱根新道を通って行くコースのようです。
バスの中で子供たちは寝てしまったけど、箱根湯本についたところで起こしたら、次女以外は起きました。
次女は僕が抱きかかえておりましたが、すぐに目を覚まします。
朝、宿から送った荷物を駅で受け取ります。
箱根家族旅行は3度目ですが、毎回荷物を受け取る場所が変わり、場所を探すのがちょっと大変です。
(過去2回、駅は工事中だった。今回工事は終わっていたので、今後は場所が固定されるのだろうと思う)
ここで、ホームまで入ってから、大事なことを思い出しました。
箱根旅行中、各所のお土産物屋さんなどに、スタンプラリーのスタンプが置いてありました。
実は、「からくりパズルを広める会」が主催するもので、当選するとからくり箱などがもらえます。
スタンプは1個からでも応募可能で、押すほど当選確率が上がります。
最後に、どこかのお土産物屋さんでポストに入れないといけなかったのに、まだかばんに入っている。
電車の出発まであと8分くらい。
駅から出て、近辺のお土産物屋さんを探してみますが、用紙に名前のある店がありません。
観光案内所で用紙を見せて尋ねると、少し先の土産物屋さんの名前がある、とのこと。
その土産物屋さんに行くと、「その用紙は見た覚えがあるけど、ポストなんてあったかな」という反応。
でも、店の一番奥の用紙置き場まで案内してくれて…ちゃんと、ポストがありました。
案内してくれて何か買ってあげたかったけど、電車の時間も迫っているし、お礼だけ言って店を出ます。
ダッシュして、電車には何とか間に合いました。
帰りの電車の中は、子供たちは寝るかとおもいきや、お土産のおもちゃで楽しそうに遊んでました。
特に2日目は移動が多かったけど、それなりに楽しめた様子。
だんだん、子供たちの「楽しい」ことも変化してきたので、次に来るときは乗り物を楽しむだけでなく、美術館巡りなどやってみたいところ。
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ある漫画で著作権侵害があったとかで、ゲーム会社ともめているようだ。
まぁ、その漫画を僕は全く読んでおらず、何の情報も持っていないので、そのことについて書きたいのではない。
これでいろいろ騒いでいる人たちが、著作権についてあまりに知らないため、これはちょっと書き留めておかないと…と思っただけ。
僕だって専門家じゃないから詳しくない。でも、ゲーム会社に勤めていたので著作権は非常に重要で、仕事で叩きこまれた。
著作権を知らない、というのは別に悪いことではない。普通は気にする必要もないと思う。
でも、何らかの著作物を作って利益を得ている人(金銭に限らない。ネットで有名人になったりするだけでも利益だ)なら、著作権は知らないといけない。
著作権と言うのは、細かな権利にいろいろ別れているけど、
・勝手にコピーされない権利
・勝手に改変されない権利
あたりが軸になっている。
つまり、コピーしてはならないのは当然のこと、改変であるパロディなどの作成も侵害となる。
ただ、ここが難しいところだけど、社会風刺としてのパロディなど、公益性が高い場合には許可されている判例がある。
日本の法律では認められないが、アメリカの著作権法などでは「フェアユース」と言って、フェア(公正)な使用は認められている。
たとえば、漫画のコマが気に入ったから拡大コピーして部屋に貼った、としても、これはフェアユースだ。
でも、日本の法律では、厳密に言えば著作権違反だ。
ただ、アメリカの法律では著作権違反となれば、懲罰の意味も込めて高い罰金が科される。
日本の場合、損害を算出して請求するのが限度だ。だから、漫画のコマを拡大コピーして部屋に貼ったとしても、特に損害が出ているわけではないため、訴えられることもないだろう。
(せいぜいが、ちゃんとポスター買えや、とポスター1枚分の代金請求が認められる程度。裁判の手間に見合わない)
2016.8.30 追記
上の例は説明が足らずに不適切でした。お詫びいたします。
「自分の部屋に」貼っていても、私的複製は著作権の例外として認められるため、問題にはなりません。
私的ではない…たとえば、部室に貼ったとかの例だとお考え下さい。
それだけで、「私的」の適用範囲を超えるため、厳密には違法となります。
でも、裁判の手間に見合わないので訴えられることはないだろう、というのは変わりません。
アメリカでは、同人活動(fun make)は、フェアユースとされる。
気に入った物語などの世界観で別の小説を書いたり、仲間同士で見せ合ったり、多少なら販売したとしても問題はない。
でも、日本では漫画の世界観を使った同人誌などは、厳密に言えば違法だ。
日本の著作権法は親告罪(権利者が訴えない限り罪にならない)なので、多くの作者がお目こぼしを与えているが、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)で足並みをそろえるために、アメリカに倣って親告罪ではなくそう、という動きもある。
アメリカに倣うならフェアユースも取り入れてくれれば問題ないが、法律を大きく変えると混乱するため、非親告罪化だけが取り入れられそうで、危機感を持っている漫画家さんなんかも多い。
日本の法律でも、たとえ誰かの著作物の一部が使われていたとしても、引用の範囲であれば問題はない。
引用は特に相手に許諾を得る必要はない、誰でも行使できる権利だ。
ただし、どこまでが引用か、という線引きは一意に出来ない。
今回の漫画というのは内容を知らないのだが、特にパロディなどというわけではなく、お話の中にゲームが出てきていた、という使われた方だったようだ。
であれば、引用、もしくは事実の報道のたぐいではないかと思う。これらは、著作権侵害とはみなされない。
(ただし、最後のボスを表示しているとか、そのコンテンツにとって秘密にすべき部分を開示するようなことであれば、著作権侵害と見做されることもある)
今回問題になっているのは、Copyright 表記がおかしい、ということも問題の一因のようだ。
お話の最後に、作中に登場したゲームなどのコピーライト表記を、エンディングロールのように入れたようだ。
これはおかしい。コピーライト表記はそのように使うものではないからだ。
ただ、これを「違法行為だ」と言っている人がいたのだけど、それも違う。
もともとコピーライト表記自体、法的な拘束力の一切ないものだからだ。
普通、コピーライト表記は、「著作権者が、自分の著作物に対し、権利を有していることを公示するために使う」ものだ。
著作権者に写真などの使用許諾を得る際に、「使ってもいいけど、ウチの権利を主張する」と言われたら、コピーライト表示を入れなくてはならない。
これは、権利者が権利を有することを示したうえで、他人に使用許諾したことを意味するためだ。
そんなの無しで使かっちゃっていいよ、という人もいるかもしれない。
コピーライト表記には法的な拘束力はないし、今となっては慣習化しているだけでほぼ無意味だからだ。
権利は「公示」しなくてもちゃんと発生している。ただ、公示しておけば後々面倒が起りにくい。
では、使用許諾も受けていないものが、勝手にコピーライト表記をしていいのか。
コピーライト表記を「他人の著作物を使っている、という表示」だと勘違いしている人が(少なくとも自分の見た中では)多数いるようだったが、それは間違っている。
たしかに、本などに使われている写真にコピーライト表記が付記されていたら、そこは本の著者から見れば「他人の著作物を使っている」部分だ。
しかし、コピーライトは「権利者が権利を主張するために使う」ものなので、写真の権利者がコピーライトの明記を条件に使用を許諾した、という場合以外では、表記してはならない。
そうでないなら、他人の物を「引用」した形で、引用元を示して使うべきだろう。「○○は□□社の著作物です」などの表示だ。
いずれにしても、引用物のそばに表記を添えなくては意味がない。
それが、引用個所でもない、お話の最後にまとめてコピーライト表記を行う、と言うのは訳がわからない。
先に書いた通り、コピーライトは法的な拘束力のない慣習にすぎないため、違法性は無いともいえる。
しかし、慣習としては実際残っており、「許諾された」際に表示するものなので、許諾も受けずに表示するのは事実誤認を招く不当表記方法である、とは言える。
著作権法は、先に書いた通り「コピーされない」「改変されない」ための権利だけど、知名度に便乗させない、という目的もある。
だから、たとえば「知名度のある大会社が多数、公的に許諾を与えて作られた物語だ、と誤認させ、大会社の知名度に便乗した」という訴え方も可能だ。
多分コピーライトの正しい表記方法を知らず、なんとなく格好良さそうだからやった程度なのだろうけど、裁判になるのであれば、表記した方に不利に働くだろう。
著作物で生計を立てるものであれば、著作物の権利を主張するためのコピーライト表記には詳しくないといけない。
これは、明らかに漫画家・編集側の知識が不足しているように思える。
コピーライトの表記方法について、正確なところを知らない人が多いようだ。
…と言ったところで、法的な拘束力がないものなので正確に表示しようとそうでなかろうと、特に意味はないし、最初に書いた通り、著作物を作らないような人が知っている必要もない。
しかし、どんな駄文一つだって著作物だ。誰だって著作者にはなれる。
また、コピーライト表記は法的な拘束力がないとはいえ、先に書いた通り慣習としては残っている。
そして、裁判では「一般化した慣習」は、法律と同じような効果を持つ、と判断されることがある。
コピーライト表記は、注意して扱うべきだろう。正確な表記については知っておいた方が役立つ。
コピーライト表記は、COPYRIGHT の文字、または © の記号、そして記号を使えない場合は (c) の文字のいずれかと共に、著作権者の名前(法人名や通名でも良いが、公に認識されていない偽名ではいけない)、そして、初公開された西暦を表記しなくてはならない。
コピーライト表記には法的拘束力がない、と再三書いたが、これは現在の話で、過去には法的な意味があった。
ただし、国内法ではなく国際条約として。
そこで定められていたのが、上記した、COPYRIGHT の文字、著作者名、初公開年の3つの表記だ。これがあれば、どこの国でも著作物は保護された。
ただ、その後世界的にはもっと強力な枠組みが出来上がり、現在はほとんどの国がそちらの方式を採用している。
「特に権利を主張しなくても、著作物の権利は著作者が有する」という仕組みだ。
だから、コピーライト表記は現在においては特に意味はない。
ただ、先に書いた通り、慣習として残っている限りは裁判などになった際に意味は持つだろう。
書くのであれば、正しい表記を心がけなくてはならない。
2016.8.28追記 8.30改定
テレビゲームのタイトルに表記される年号によって、発売年が誤認されている、という話題を見かけたので追記。
タイトルの年号は、著作権表記だ。
上に書いたように「初公開年」を書く。
たとえば、ロケテスト(作成中にお客さんの反応を見るために、仮完成のゲームをゲームセンターに置くこと)は公開したことになる。
ゲームショーなどで、まだまだ完成していないゲームを「こんなゲーム作ってますよ」と置いておいたら、公開したことになる。
ただ、タイトルの年を見て「古そうなゲーム」だと遊んでもらえないのも事実で、発売年を書きたがる人もいる。
これは著作権表記として誤っているため、法的に「虚偽記載」となってしまって、権利主張の上でまずいことになる場合もある。
この件、詳細をさらに別記事に書いた。
詳しく知りたい人は読んでほしい。
西暦が間違っているのを、特に WEB で良く見かける。
Javascript で「今年」を表示してしまったりしている。初公開年が入っていないと意味がない、というのは重要ポイントなので、自動で書き変えてはいけない。
(初公開年を入れたうえで、最後の改変年を入れるのは良い。改変履歴を全て入れるかどうかはお好みで)
逆に、個別記事の公開年を示さず、WEBサイト全体の「初公開年」で統一している例もある。
これは、下に書く通り、自分の権利を狭くしてしまうのでもったいない。
なぜ公開年が重要かと言えば、法人の場合公開から一定期間で著作権が切れるためだ。
個人は、死んでから一定期間で著作権が切れる。今はだいたいの国でこの方式だが、昔は個人でも公開年から一定期間で著作権切れになる国も有り、公開年の表示は重要だった。
そして、最後の改変年を書くのも、著作権の延命に意味がある。
改変したものは「2次著作物」とみなされ、2次著作物の著作権は、元の著作物とは別に扱われるのだ。
有名なところでは、「ポパイネクタイ事件」というものがある。
ポパイが公開されてから一定期間がたち、著作権が切れたので、最初の漫画をデザインに取り入れたネクタイが作られた。
しかし、ポパイは連載漫画だった。最初の1回の公開から見れば著作権切れだが、最新作から見ればまだ著作権は切れていない。そこで争いが起きた。
この結果は、連載第1回は「元となる著作物」であり、それ以降は「第1回を元とした2次著作物」とみなされ、第1回のデザイン流用は問題なし、とされた。
古い映画などのリマスター版やディレクターズカット版が作られる理由もここにある。
リマスターしたものは2次著作物に当たるため、新たに著作権保護期間が設定されるのだ。
以上、専門家ではないので間違いもあるかもしれないけど、知っておけばちょっと役立つ…かもしれない豆知識でした。
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別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【あきよし】 表記する年に関しては、指摘された条文が根拠です。しかし、「発行」も「複製」も通常の日本語ではなく、法律用語です。ここでの「発行」は最初の公表を意味します。 詳細を書くと長くなるので別記事を起こしました。 本文中にもリンクを張りましたが こちらにあります 。 (2016-08-30 09:56:15) 【あきよし】 フェアユース・私的使用の指摘に関しては、その通りですね。 判り易いように極端な例を挙げようとしたのだけど、極端すぎてあまり例が良くなかった。 ただ、そのあとの話で同人誌を出したかったので、同人誌の例にはしたくなかったんですね。 ちょっと例を考え直そうと思います。 (2016-08-29 17:57:28) 【ななし】 持ってる著作権本調べましたが全て「最初の発行年」と解説されてます。発売年でいいでしょう。 (2016-08-28 22:55:19) 【ななし】 私は逆に発売年でない公表日を書くゲーム会社が無知だと常々思ってました。 (2016-08-28 22:38:07) 【ななし】 万国著作権条約には(日本語訳)「©の記号、著作権者の名及び最初の発行の年」と書かれていますが?条約に発行の定義もあります。「第六条 〔発行の定義〕 この条約において「発行」とは、読むこと又は視覚によつて認めることができるように著作物を有形的に複製し及びその複製物を公衆に提供することをいう。」なぜ提示が含まれるとお考えで?http://www.cric.or.jp/db/treaty/bap_index.html (2016-08-28 22:36:05) 【ななし】 「漫画のコマが気に入ったから拡大コピーして部屋に貼った」たしかに日本にはフェアユースはありませんが、私的使用のための複製の例外をご存知ないのですか? (2016-08-28 22:31:21) |
今日はスティーブ・ウォズニアックの誕生日(1950)。
いわずとしれた、Apple 創業者3人の1人ですね。
創業者と言っても、ウォズは一山当てようなんて気持ちは全くなく、安定した生活を望んでいた人でした。
当時はヒューレットパッカードの技術者で、その仕事を気に入っていました。会社を辞めて、失敗するかもしれない道に踏み出そうとは全く思ってなかった。
その一方、「二人のスティーブ」のもう片方であるジョブズは、コンピューターは金になりそうだと思ってました。
でも、ジョブズは金になりそうだ、という気持ちはあるけど、ウォズのような技術力は無い。
そこで、強烈にウォズを巻き込もうと画策します。
会社を辞めたくないウォズを散々説得し、ついには会社を辞めさせるのです。
話を、アップル創業より少し昔に戻しましょう。
ジョブズも、ウォズほどの技術力を持っていない、というだけで技術がわからないわけではありません。
彼らはホームブリュー・コンピュータークラブで知り合った友達でした。
ある時、ジョブズがATARI 社から仕事を貰います。
その頃 ATARI が売り出そうとしていた新ゲーム「ブレイクアウト」を、量産前に部品点数を減らし、安く作れるように改良する仕事でした。
ジョブズはこの仕事をウォズに丸投げし、ウォズは、この仕事を「やりすぎ」るほどやっています。
確かに劇的に部品点数は減ったのですが、その手腕が巧みすぎて、誰も論理を理解できないような回路が出来上がったのです。
これでは、何かあった際に改良することもできません。「もう少し回路を冗長にするように」という不本意な依頼を受け、再設計しています。
それでも、ブレイクアウトは発売されて大ヒット。
(日本に輸入された際に「ブロック崩し」と呼ばれるゲームです。画面上部に並ぶすべての物を消したら1面クリア、という概念は、後にインベーダーゲームを生み出すことになります)
ジョブズはアタリ社から 5000ドルの報酬をもらったようなのですが、ウォズには「あまりもらえなかった」と言って、「半分づつ山分け」と称して 350ドル渡しています。
…なんて友達思いのいい奴でしょう!
アップル社の前に、すでに「Apple I」があります。
これは、ヒューレットパッカードに在籍しながら設計し、ヒューレットパッカードに売り込んで断られ、ATARI に売り込んで断られた機械です。
この Apple I という機械がとにかく変わっていて、なんと 6502 なんていう、誰も知らないような CPU を使用していました。
ホームブリュー・コンピュータークラブではみんな 8080 を使っていて、8080 用のソフトは多数ありました。
でも、6502 を使ったのはウォズくらい。だから、ウォズは Apple I ようの BASIC からなにから、全部一人で作る必要がありました。
本当はウォズは、PDP-11 をベースにして 8bit として作られた、モトローラの 6800 を使いたかったのです。
命令セットが非常に美しく、技術者なら憧れる石(LSI)でした。
でも、エレクトロニクス製品の見本市で、6502 を見つけたんです。
6800 と似ているけど「なくてもいい便利な命令」をそぎ落としたような構造。
ちょっと命令が減って、ちょっとレジスタ幅が小さくなっただけで、値段はなんと7分の1でした。
それで、ウォズはこの CPU を使うことにして、あっという間に BASIC を自分で書きあげたんです。
回路設計もソフト作成も出来る、ウォズでないと選ばなかった選択肢でした。
誰も Apple I を販売ルートに乗せてくれないので、ジョブズは自分たちでやろうと考えました。
アタリ社のセールスマンだったロン・ウェインを加え、3人で「アップル・コンピューター」を設立します。
ただし、この時点では任意団体としての会社で、正式に法人化はしていません。
ウォズはヒューレットパッカードに在籍していて、「サイドビジネス」として参加しています。
Apple I の原価はおよそ220ドルで、ウォズは 300ドル程度で売れればよい、と考えていました。
でも、ジョブズは金儲けがしたかったので、卸価格を2倍と考え、小売店のマージンを 1/3 と考えます。
すると、およそ 660 ドル。数字のインパクトを求めて、666.66 ドルで販売することにします。
…これが思わぬ事態を引き起こします。
このころ、恐怖映画「オーメン」が封切りされ、獣の数字 666 というのがちょっとしたブームとなりました。
そして、Apple 社は「獣の数字で得体のしれない機械を売っている」と、苦情の電話が絶えずかかってくるようになったのです。
ジョブズは、これに対し「神聖な数字 777.77 と 111.11 の片方から、もう片方を引いたものだ!」と怒鳴り続けていたそうです。
#666 が獣の数字だ、というのは新約聖書の「ヨハネの黙示録」に書かれているのですが、意味はよくわかっていません。
何言ってるのかわからないから、みんなが意味をこじつけて好きなように解釈しているだけです。
777 と 111 が神聖だ、というのは多分ジョブズがでっちあげただけだけ。777 はスロットマシン的には大当たりですね(笑)
大儲け、というほどではありませんが、Apple I はそれなりに売れました。
ロン・ウェインはこの時点で期待外れだったと去り、代わりにマイク・マークラが参加します。
そして、その3人で法人化を行います。
ウォズも、ジョブズに説得されて会社を辞め、アップル社の後継製品作りに専念します。
ウォズは社員番号1番でした。「ジョブズが1番だと、調子に乗るから」がその理由。ジョブズは2番でした。
でも、自分がウォズより後、ということに納得がいかないジョブズは、後に自分の社員番号を「0番」にしています。
ジョブズは、「拡張性は最小限の、誰でも使えるコンピューター」を主張したそうですが、ウォズは「拡張性にあふれた、スロットが20くらいあるコンピューター」を作ると言い張ります。
結局、スロット8個で決着しますが、この拡張性が、後に他社が参入しても生き残っていけた決め手になりました。
Apple II は、非常に簡素なコンピューターでした。
その簡素さは、ATARI のブレイクアウトを改良した時の、ウォズの手腕を発揮したものです。
貧弱なのではなく、豪華なのに簡素なのです。
カラーが出るにも関わらず、メモリは白黒ビットマップ程度しか持っていません。
アナログジョイスティックが使えるにもかかわらず、特別な回路はもたずに、デジタル回路で処理します。
自由な音階を出せるのに、音を発生する回路はありません。
たった 8K の ROMには、BASIC とアセンブラと機械語モニタ、それに 16bit CPU エミュレーターまで持っています。
#もっとも、6502 は 16bit 演算が苦手なのでエミュレータを作り、BASIC は処理の一部を 16bit CPU として書くことでコードサイズを圧縮しています。
なので、コンパクトな代わりに速度は犠牲になっています。
後に発売されたディスクドライブも、普通なら必ず持つ「フロッピーディスクコントローラー」や、「現在のヘッド位置を知るためのセンサー」などを省略して安くするなど、Apple II は徹底して「簡素」なコンピューターでした。
Apple II はアメリカの 8bit パソコンを制し、一時代を築きました。
大きくなった Apple 社も、売り上げのほとんどを Apple II に頼っていました。
しかし、Apple II はジョブズとウォズの主張の折衷案として作られた妥協の産物でした。
…いや、実際にはウォズが好きなように作ったので、妥協したのは拡張スロットの数くらい。
ジョブズは「自分の考えるコンピューター」が作りたくて仕方がありません。
Lisa プロジェクトを開始します。
この時、Lisa は「16bit」「ディスプレイとディスクドライブを内蔵している」「キーボードはセパレート」「白黒グラフィック」「拡張性を無くして万人にわかりやすくする」というコンセプトを持つ…ごく普通のコンピューターでした。
この後、社を挙げて Apple III の開発が始まります。ディスクドライブと、一体的なデザインを持つ専用ディスプレイを持ち、Apple II の上位互換機でした。
ただ、経営陣が「他社に負けない機能」を求めたために仕様が肥大化しており、開発は難航します。事実、互換性は一部犠牲にされ、設計にも問題があり、後に大失敗となります。
ウォズはこの設計には一切参加していません。
さらに同じ頃、ジェフ・ラスキンも、当時の社長であったマイク・マークラの許可を得て「マッキントッシュ」プロジェクトを開始します。
16bit で、ディスプレイとディスクドライブを内蔵し、取り外し可能なキーボードをディスプレイカバーにして持ち運ぶことができる、白黒グラフィックの、拡張性の無いマシンでした。
マッキントッシュとは、姫リンゴのようなリンゴの品種。「小さくコンパクトに納める」ことが重要なコンセプトでした。
Apple II よりも安い価格を目指します。
ウォズは、こちらの「コンパクト化」には共感したようで、部分的に設計を手伝ったりしています。
Lisa とマッキントッシュは、コンセプトがかぶっていました。
そこでジョブズは、このプロジェクトをつぶしにかかります。
しかし、ラスキンもジョブズに負けず劣らずの頑固者で変人。簡単には圧力に屈しません。
その後、ジョブズはパロアルトを訪れ、Alto を知ります。
そして、「なぜ Xerox はこれを商品化しないのか? 商品化する気が無いならアップルがやる!」と宣言し、Lisa のコンセプトを「Alto の実現」方向に大きく変えます。
#Xerox は非常に優れたコンピューターを作りましたが「これが実現されたらオフィスから紙が不要となり、主力商品であるコピー機が売れなくなる」と考えて長い間研究段階に留めていました。
これでコンセプトは「かぶらなく」なったし、当面集中したい作業も出来たので、マッキントッシュプロジェクトは潰されずに済みました。
しかし、Lisa は失敗でした。
ジョブズらしいこだわりが細部まで活かされ、一切妥協せずに作られた素晴らしいマシンは、非常に高価なものだったのです。
Apple II は $1298 でした。ディスクドライブも $595 で追加できました。しかし、Lisa は 1万ドルでした。
余りに売れなかったため、後に8千ドルまで値下げされましたが、やはり売れませんでした。
ジョブズの「こだわりすぎ」が Lisa を売れないマシンにしてしまいました。
ジョブズは Lisa プロジェクトから追放されます。
ジョブズは、先日まで潰そうとしていたマッキントッシュプロジェクトに潜り込みます。
そして、ラスキンを追い出してプロジェクトを自分のものにするのです。
ラスキンはこれに怒り、アップル社を退社しています。
Lisa にかかった「開発費」はLisa プロジェクトの責任です。
マッキントッシュプロジェクトは、Lisa の資産だけを流用し、もっと安くマシンを作ることを目指しました。
今度こそうまくいくはずでした。
マッキントッシュが発表されると、熱狂的に迎え入れられました。
発表後数時間で750万ドル分の予約が入り、大学関係からむこう2年間で3500万ドルの予約が入ったと言います。
#初代Mac の価格は $2495 だったので、3千台の一般予約が入り、1万4千台の大学関係からの予約が入ったことになります。
しかし、実際に出荷が始まるとキャンセルが相次ぎます。
使い始めたユーザーが問題点を指摘しはじめ、購入しようとしていた人たちも考え方を変えるようになったのです。
マッキントッシュは、Lisa に次ぐ失敗作になりました。
にもかかわらず、ジョブズは「これからはマッキントッシュの時代だ。Apple II なんてもう時代遅れで、使っている奴は間抜けだ」と社内で吹聴して回ります。
ウォズは、これに反発するように…しかし表立った抗議もなく、ひっそりとアップル社を去っています。
この頃、アップル社の売り上げのほとんどは、ウォズが作った Apple II が生み出していました。
その後は汎用プログラマブルリモコンを作る会社 CL9 (クラウドナイン)を興しています。
これは、赤外線を利用するリモコン機器に対して、どんな命令でも出せる魔法のリモコン。
日本でもハル研がクロッサムとか作っていましたが、その元祖です。
現在でも「学習リモコン」というのがあるけど、当時は IR 規格(リモコン信号の統一規格)とかなかったので、自由な信号を学習して出せるだけでなく、手順を覚えさせたり出来るのはすごいことでした。
CL9 で作っていたリモコンは、6502 をベースとしたカスタム CPU を使っていたようです。
この会社も後に売却し、小学校の教師を無償でやったり、好きなことをして暮らしているようです。
金儲けにはあまり興味がないそうですが、彼自身アップル社の設立者の一人であり、お金は余るほど持っています。
人々、特に子供が楽しんでくれるのであれば、莫大な額をポンと寄付したりもします。
ジョークが好きで、ジョーク集の本を出したりもしています。「公式コンピュータージョーク集」。
日本語訳が家にあります。…ウォズの本だというので買ってみたけど、中身は結構ベタなアメリカンジョーク集。
(一応、コンピューターにまつわるものを集めたことになっていますが、無理やりなものも多いです。
一部はコンピューターマニアでないと理解できないもので、その部分はさすが)
ユーモア好きで、持っているお金を周囲の人の幸せのために惜しみなく使うその姿勢から、多くの人に慕われています。
彼がお気に入りのジョーク…というか、ネタは、アップルストアで社員割引を使って買い物をすること。
「社員番号は?」と聞かれて「1番」と答えるのが好きなのだとか。
アップル社は退社しているのですが、書類上はまだ社員で、給料ももらっているんだそうです。
余談になりますが、マッキントッシュが売れ始めるのは、ジョブズがマッキントッシュプロジェクトを外されてアップル社を去った後。
変なこだわり方をするジョブズがいなくなり、問題のある個所をやっと「問題だ」と言えるようになったら、すぐに良いコンピューターに改良されました。
ウォズもジョブズもいなくなった Apple の話は、またそのうち。
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IBM PC の発売日(1981)【日記 14/08/12】
別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
今日は IBM PC の発売日(1981)。
IBM は、メインフレームと呼ばれる大型コンピューターを作っていました。
しかし、Apple II が状況を変えます。
Apple II はメインフレームに比べて非力でしたが、簡単なビジネス計算や給与計算を行うには十分な性能を持っていました。
そして、値段はメインフレームよりもはるかに安かったのです。
しかし、ビジネスの現場では IBM のブランドは信頼性がありました。
聞いたこともない新興企業「アップル」よりも、IBM 製の、同じような機械を欲しがる人が増えました。
そこで、IBM はパーソナルコンピューター事業に乗り出すことにします。
メインフレームが商売の中心、という考えは変わりません。それまではメインフレームに端末を接続して使用していたのが、「単体でも使用できるが、端末としても使える」コンピューターを作ることにしたのです。
お金のない会社は、最初はパソコンを買うかもしれません。
しかし、成長して事務処理などの需要が増したとき、それまで使い慣れたパソコンを「端末」として、同じ操作感覚でメインフレームのパワーを使えるとしたら、絶対にメインフレームを使ってくれるはずです。
将来のお客様のために、小さな市場を大切に育てる。…これが、IBM の経営陣の決定でした。
アップル社は、Apple II の性能では不足だ、と以前から考えていました。
後から雇われた経営陣は、Apple II が他社のパソコンに比べて「簡素」であることに不安をもっていたのです。
そして、明日にでも Apple II が他社のパソコンとの競争に敗れ、売れなくなるのではないかと思っていました。
そのため、他社のパソコンの機能を取り入れながら、Apple II との互換性を持った機械を作ろうとします。
この作業は…経営陣の要求は、つまり「てんこ盛りだけど、簡素を保つ」と言う要求で、非常に難航します。
IBM がいよいよパソコンの開発に着手したのは 1980 年の夏。
アップル経営陣はこの噂におそれ、以前から開発中だった Apple III の完成を急ぎ、同年秋に発売しています。
IBM に市場を奪われる前に、足場を固めておく必要がありました。
しかし、Apple III は II との互換性が悪く、設計も十分に練り込む時間がなかったため製造工程で問題が出ました。
出荷された後で、コネクタの接触不良などが多発したのです。
結局、Apple III は II を超えることができず、Apple III の販売は早期に終了します。
その後は Apple II を改良した後継機の販売に戻るのですが、「IBM が乗り出してくる」という噂だけで、アップル社はガタガタふるえていたのです。
IBM のパソコン…開発計画は「チェス計画」、開発する機械は、ACORN (どんぐり)と呼ばれました。
発案者はIBM 中間管理職のウィリアム・ロウ。彼はこの計画を上層部に進言し、認められます。
ただし、開発期間はたった1年。すでに Apple II によるパソコンのブームは起きていて、それ以上待っていては市場を奪われてしまう、という IBM 上層部の判断です。
ロウは、IBM は大企業病にかかっている、と感じていました。
会社が口をはさめば、どんなにうまくいきそうなプロジェクトでも失敗してしまいます。
そこで、彼はチェス計画を、独立事業単位(IBU)にしてもらうように社長に掛け合います。
IBM が大企業病であることは、会長も社長もわかっていました。
そのため、IBU という…今なら「社内ベンチャー」と呼ばれる制度を作り、自由な発想で研究を行えるようにしていました。
IBU に指定された計画は、IBM 社内にありながら、IBM に干渉されることはありません。
当時の IBM 会長、フランク・ケアリーの言葉によれば、IBU は「象にタップダンスを仕込んでくれるかもしれない」ものでした。
象とは、大きすぎて動きが緩慢な IBM のこと。
IBM の官僚主義は、多くのハッカーが嫌っていました。
しかし、会長や社長までもが嫌っていて、誰かが「タップダンスを仕込む」のを期待していたのです。
ロウは計画遂行のために、社内でも実力を持った13人の技術者を集めます。
リーダーはドン・エストリッジ。技術者としても、リーダーとしても十分な資質をもった人物でした。
彼らはロウが期待した通り、IBM の慣習にとらわれず、自由気ままにふるまいます。
IBM の官僚主義に縛られたエリートたちは、自由気ままにふるまう彼らを嫉妬と侮蔑を込めて「汚い1ダース」(13 をセットとする単位の意味)と呼びました。
しかし、彼らは自分たちのチームを「パン屋の1ダース」と呼んでいます。
#パン屋は、中世において特権を認められた職業の一つ。
町の人々全員の食を保証するため、店の数は競争が起きない程度に抑えられ、日々の生活が保障されました。
一方で、町の中全員の命を握ることになるため、嘘は絶対に許されず、パンの数をごまかしたりしたら死刑でした。
そのため、パン屋は「1ダース」のセットに、おまけの1個を付ける習慣を持っていました。
そして、開発が始まります。
IBM の慣習では、コンピューターの内部は全て IBM 製の部品で作ることになっていました。
しかし、メインフレーム用の部品はあっても、パーソナルコンピューター用の部品はありません。開発から始めていては、とても1年の期間では作れません。
そこで、CPU は外部から調達することになり、Intel の 8088 (16bit の 8086 を 8bit 化し、すでに安くなっていた 8bit 用の周辺 LSI などを使えるようにしたもの)が使用されます。
IBM のコンピューターの内部構造は企業秘密とするのが慣習でしたが、回路図や ROM に焼かれたプログラムまですべて公開する、オープンアーキテクチャが取られました。
当時のパソコンには、BASIC が付きものでした。これはマイクロソフトから調達するのが順当でした。
また、すでに人気のあった 8bit OS 、CP/M の16bit 版も付属させたいと考えていました。
IBM は、マイクロソフトに行き交渉を行います。
IBM は秘密主義で、契約事項は多項目にわたりました。ビル・ゲイツはこれほど一方的な契約書は始めてみましたが、ちょっと肩をすくめただけでサインをしました。
マイクロソフトは、BASIC だけでなく、FORTRAN、COBOL、PASCAL も提供することになります。
しかし、IBM が CP/M を作っていたデジタル・リサーチ社を訪れた時、社長で CP/M 製作者のゲイリー・キルドールは、趣味の自家用飛行機でフライトを楽しんでいました。
共同経営者の妻は、夫のいないうちに勝手なことはできない、と契約書へのサインを拒みました。
…ただ、キルドールは IBM が嫌いだったのではないかな、と思います。
そうでなければ、IBM の担当者が出直せば話は終わりです。しかし、彼はその後も IBM と契約しようとはしていません。
マイクロソフトがこのことを知るのは、BASIC 等の開発のための打合せをしていたときです。
当時のパソコンでは、BASIC は ROM に搭載するのが普通でした。しかし、IBM の意向も有り、IBM 用の各種言語は OS 上で動作させることになっていました。
ところが、まだ OS が決まらない、と担当者が打ち明けたのです。
マイクロソフトの人間は、CP/M を独自に 16bit 化した SCP-DOS (開発名は QDOS)の存在を知っていました。
小さな会社が発売していた 16bit マシン用に作られた OS で、あまり知られてはいません。
SCP-DOS を買い取って、マイクロソフト製品として IBM に提供するかどうか…
しかし、4つの言語を提供する約束もあり、さらに OS まで移植作業をするのは納期が厳しいです。
「このチャンスを絶対に逃すべきじゃない。IBMを踏み台にして大きくなるんだ。なんとしてもやるんだ」
とゲイツを説得したのは、副社長だった西和彦。
この言葉で腹をくくり、SCP-DOSの権利を買い取り、IBM PC 用に改造する作業が始まります。
同時に、IBM に「4つの言語に加え、OS も提供できる」と連絡を入れ、採用が決まります。
SCP-DOS の元となる QDOS を作成したティム・パターソンはマイクロソフトに社員として招かれ、改良作業は QDOS を一番よく知っている彼が行うことになりました。
ACORN は IBM PC として、1981年8月12日に発売になります。
アップルは、IBM が出してきた機械が、市販の部品を寄せ集めただけで驚くような機能がなかったことに安堵します。
これなら、恐れるに足りません。
そして、ウォールストリート・ジャーナルに、「ようこそ IBM」という、歴史に名を残す広告を打ちます。
「ようこそ、IBM。
コンピューター革命が起きて35年、もっとも刺激的で重要な市場にようこそ。
アメリカが作り上げたこの技術を世界に広めるべく努力し、責任を持って競争しようではありませんか。」
当時、アップル社長のマイク・マークラは、インタビューにこう答えています。
「IBM はパソコンのことも、パソコンの売り方も何もわかっていない。我々はパソコンを知っているし、ソフトウェアも豊富に持っている。パソコン市場でアップルはIBMを打ち負かすだろう」
しかし、IBM PC は大人気で、アップルはあっという間に打ち負かされます。
IBM PC は大成功をおさめ、ドン・エストリッジと彼らのチームは…左遷されます。
左遷の理由は2つありました。
大人気になってしまった製品を、「勝手気まま」に行動するチームに任せておくことはできません。
これからは、IBM らしくしっかりと管理していかなくてはならないのです。
そして、IBM PC は想定よりも高機能すぎ、メインフレームの販売はますます不振になったのです。
開発チームは、販売不振の責任を取らねばなりません。
この左遷の直後、ドン・エストリッジとチームメンバーの多くが乗る飛行機が墜落する、と言う事故が起き、メンバーのほとんどが死んでしまいました。
ドンはとてもおしゃれで、背広の胸ポケットに常に赤いバラを挿していたそうです。
そして、これを「パン屋の1ダース」のシンボルとしていました。
彼の棺は、赤いバラの花で飾られたそうです。
これで、IBM の一つの時代が終わりました。
残ったチームのメンバー2名も「もう、あのような素晴らしい仕事はできない」と失望し、IBM を退社してしまいます。
IBM は、IBM PC の後継機種を作り続けますが、徐々に互換機に市場を奪われ、10年前の 2004年には「IBM 互換機から撤退」するまで追い込まれます。
2016.8.12 追記
ここに書いたこと、1989年の書籍「林檎百科」、およびネット上で集めた情報で構成したのですが、間違いが多数あるとわかりました。
同じく1989年に邦訳が出た書籍「ブルーマジック」に詳細がありました。
Twitterでこの本が良書であると教わったのですが、早速古書を探して読みました。
事実と大きく違う点は、エストリッジは「左遷」にはなっていない、ということ。
彼は副社長に抜擢され、喜んで受け入れています。
副社長でありながら、IBM PC チームのリーダーではありました。
しかし、重役でもある責任上自由なふるまいは難しくなり、チームへの締め付けはきつくなります。
もう一つ、IBM PC 開発のきっかけは「メインフレーム不振」ではなく、パソコン参入の失敗でした。
IBM 5120 というパソコンを開発しながら、IBM 社内の「事務手続き」のために発売タイミングを完全に逸し、宣伝もしなかったために知られることなく在庫を抱えていたのです。
当時の IBM 重役陣には、AppleII の作り出したパソコン市場への参入、そして「君臨」が重要な責務で、IBM PC は 5120 の「遅れ」を取り戻す戦略製品でした。
だからこそ、たった1年という期間が設定され、その期間内の発売と普及が見込めるのであれば、あらゆる自由が許されたのでした。
いずれ…エストリッジの誕生日にでも、もう少し事実に近い人物像をお届けできれば、と思っています。
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今日は、電子メールの誕生日(1982)
誕生日って言っちゃうと、少し語弊があるかも。
正確に言えば、インターネットの電子メールの送信方式である、SMTP の最初のバージョンを定めた仕様書である、RFC822 の公開された日ですね。
電子メール自体は SMTP 以前から存在していて、いわゆる「パソコン通信」だってあったし、インターネットでも RFC561 で定めています。
ただ、RFC561 では、メールヘッダの書き方だけ定めていて、「FTP で相手のサーバーに送る」となっているのね。
特定のディレクトリに送り込みさえすれば、あとは定められた形式で書かれているヘッダを読んで、各自のディレクトリに配送できたのでしょう。
ヘッダの書き方はこの後何度か改定されますが、送り方は FTP のまま。
FTP と言うことは、自分のアカウントが使える範囲でしかメールが送れない、ということです。
まぁ、単純に言って「学内の友達にはメールが送れる」とかですね。
工夫次第で学外にも送れそうだけど、どこの相手にでも自由自在、とはいかない感じ。
これが、メール専用のプロトコルが定められ、今知られているような「電子メール」が出来上がったのが、RFC822 です。
RFC には公開日が記されるので、1982年の今日公開された、と言うことがわかります。
時々僕の日記などに顔を出す RFC っていうのは、Request For Comments の略ね。
本来は「コメント募集」って意味で、技術仕様ではありませんでした。
インターネットの最初期において、複数の違うマシンを接続するときに情報を整理するのに考えられた方式です。
誰かが「Request For Comments」と書かれた大学ノートに、自分が考えた技術アイディアをメモします。
もしかしたら、それは考えた人のコンピューターではうまくいくけど、別のコンピューターではダメな方式かもしれない。
ほかの人から見て、そうした、発案者が気づかなかった部分にコメントが欲しいわけです。
で、コメントを出す方も一緒になって解決策を考え、皆が参照する「技術仕様」の位置づけになっていきます。
今では、この議論を RFC 上でやるのは混乱するため、Internet-Drafts という文書を発行して意見を募り、十分に議論してから RFC の番号を割り当てるようになっています。
じゃぁ、RFC はもう RFC じゃないじゃん、って思うけど、慣習的に名前だけ残っているのです。
さて、話を戻して RFC822 。
これは、SMTP の送信形式だけでなく、それ以前に定められた「メールヘッダ形式」などもすべて含め、電子メールとしての基本的な仕様を網羅できる文書になっています。
とはいえ、すでに時代遅れ。
RFC2822, RFC5321 & 5322 などで更新されています。
2822 は 822 の更新だけど、さらに更新する際には肥大化しすぎたし、メールのフォーマット形式はその後 HTTP 等にも流用されるようになっていました。
そのため、SMTP を再定義したのが 5321 で、メッセージフォーマットを再定義したのが 5322 と分離されたのです。
内容に関しては、現在みんなが「あたりまえ」と思っていることが書かれているので、特に言うべきことは無いです。技術者でなければ特に読む必要なし。
しかし、「あたりまえ」というのはここに規定されているから当り前なのであって、重要であることは間違いありません。
技術者や、そうでなくてもちょっと読んでみたい人のために…
たとえば、数年前まで問題になっていた、DoCoMo の i-mode メール。
i-mode メールでは、メールアドレスの @ の左側で、. (ピリオド)が自由に使えました。
でも、RFC5322 には、こう書かれています。
atext = ALPHA / DIGIT / ; Printable US-ASCII
"!" / "#" / ; characters not including
"$" / "%" / ; specials. Used for atoms.
"&" / "'" /
"*" / "+" /
"-" / "/" /
"=" / "?" /
"^" / "_" /
"`" / "{" /
"|" / "}" /
dot-atom-text = 1*atext *("." 1*atext)
dot-atom = [CFWS] dot-atom-text [CFWS]
local-part = dot-atom / quoted-string / obs-local-part
addr-spec = local-part "@" domain
…あぁ、ややこしい!
RFC は技術文書なので、BNF という特殊な記法で(間違いが無いよう厳密に)書かれているのです。
BNF は、= の左側に書かれている「名前」は、右側に書かれている「意味」だよ、という定義方法だと思ってください。
等式に見えるけど、定義ね。数学みたいに「これとこれは同じです」ではなく、「今こう決めました」なので、意味がわからなくても難しがる必要はないです。
でも、知らない名前が書かれていたら、どこかでその名前について定義しているはずだから、ファイルの中を検索して探しながら読む必要がある。
ちなみに、英単語みたいに書かれているのが「名前」で、" " で囲まれているのは「文字」です。
上の方に ALPHA と書かれているのは、アルファベットの文字、と言う意味の名前なのだけど、"!" と書かれているのは ! という文字。
さて、先の定義、上から読もうと思っても混乱します。一番下から見てください。
addr-spec というのは、「メールアドレス」として書ける文字列のこと。これを「local-part と domain の間に、 @ を挟んだもの」と定義しています。
これならわかる気がする?
じゃぁ、local-part ってどんななの? と言うのがその上の行。dot-atom か、 quoted-string か obs-local-part のどれかを選んでよい、と言う意味です。
dot-atom というのは、[CFWS] が前後についた、dot-atom-text 。
[CFWS] っていうのはまた別に定義があるのだけど、Comment & Folding white space の略。
「コメントと、改行・スペース・タブ」の意味で、これらの「無意味なもの」がついてもいいですよ、となっている。
[ ] で括られているのは「なくてもよい」と言う意味なので、必ず付く必要はないです。
…ということは、メールアドレスを書くときは、@ の前にスペースを置いても同じ意味になる、と言うことです。普通そんな書き方しないけど、もしその書き方で送れないメールソフトがあったら RFC に従っていない、と言うことになります。
dot-atom-text は、1つ以上の atext の連続の後に、. (ピリオド)を置いて、また1つ以上の atext を置く、と言うのを任意回繰り返してよい形式。
1* というのは、「その後ろにあるものが、1回以上繰り返される」の意味で、 * だけだと「0回以上繰り返される」です。
先に書いた通り、「なくてもよい」は [ ] なので、*a と [1*a] は同じ意味になりますね。
次でやっと最後。atext というのは、「英文字と数字と、ここに示された記号」のうち、任意の1文字です。
長々と書きましたが、言葉で厳密に説明すると長くなるものを、BNF では簡潔に書けているわけです。
読み方を知っておくと、いろいろと発見があるかも。
たとえば、atext を眺めただけでも、メールアドレスに ? や ! を含んでも良い、と言うことがわかります。
これは、「含んでも良い」であり、「使える」ではないことに注意。
使えるかどうかは、自分がメールボックスを持っているシステムの仕様によります。
たとえば、unix ではアカウントに - (ハイフン)は使えなくて、local-part は普通アカウントが使用されます。つまり、local-part にはハイフンは使えないことになります。
…が、unix のプログラムである qmail は、ハイフンが入っていると「その前までをアカウント」だと認識して、該当アカウントを持つユーザーにメールを配送します。
このため、ユーザーは目的に応じてメールアドレスを変更でき、目的別のメールの振り分けなどが楽に行えます。
また別の話ですが、「自分のシステム」が local-part に記号を使えないからと言って、どんなシステムでも使えない、と決めつけるのは間違いです。
多くの WEB サービスで、メールアドレスを ID としてログインできるような形になっていますが、loca-part 部に ? 等の記号が入ると、不正なアドレスだとエラーになるものもあるようです。
RFC で認められている文字なのだから、これがエラーになるのはおかしいです。
自分が勝手に考える「常識」の前に、技術仕様としてどう定義されているのか確認しましょう、という、技術者なら当然の話。
でも、BNF の読み方を知らない技術者は(残念ながら)非常に多いのです。
さて、話を戻しましょう。
dot-atom-text をもう一度簡単に示せば、「atext を連続させる際、途中でピリオドを挟んでもよい」と言う形式です。
atext の連続は許されますが、ピリオドの連続は許されません。
「途中」ではない、先頭や末尾のピリオドも許されません。
i-mode メールが一時期問題視されていたのは、これが許可されてしまっていたため。
au は RFC に従っていたのですが、i-mode の普及に伴って「i-mode に仕様をあわせる」という意味不明の改悪をして、大騒ぎになりました。
ただね、当時一部のメールサーバーで i-mode からのメールを受け取れないので問題視されて「docomo は RFC に違反している」と言われていたのだけど、受け取れないメールサーバーだって RFC 違反。
RFC では、常に「自分が作るデータは厳密に。しかし、相手から送られてくるデータには寛容に」が求められています。
だから、RFC に違反するデータを作り出す i-mode メールが問題なのは当然なのだけど、そのデータを寛容に受け取れないメールサーバーにも問題があるのです。
実際、多くのメールサーバーではちゃんと受取れていたしね。
RFC っていうのは、「そのデータしか送られてこない」と保証する類の仕様書ではなくて、「相手はともかく自分は」従いましょう、という緩い決まりごとにすぎません。
電子メールの誕生日って話から離れてしまいますが、せっかく RFC の話をしたので…
RFCには「ジョーク RFC」と呼ばれるものがあって、これは4月1日に発行されます。
最近では恒例になりすぎて、「ジョークを書いてやろう」と力が入りすぎているのが多くてちょっと興ざめなのだけど。
でも、これらのジョークは、技術文書のふりをして書かれているので、BNF を読めると面白さが広がることも多いです。
(ジョークだから、BNF 使わないものも多いのだけど)
初期(1978)に書かれた RFC748 とか、なかなか名作。
一ひねりしてあって、裏読みしないと真意がわかりません。
(真意がわかると、これがジョークではなく「切望」であると、技術者なら共感できるはず)
RFC1149 も名作とされているのですが、日本語訳はどうもまずいものばかり。(日本語訳は、探せば見つかります)
これは英語の言葉遊びをうまく織り交ぜていながら、バカバカしいことを真面目に技術的に書いているから「名作」なのです。だから、日本語にすると面白さが失われてしまう。
RFC3514も名作。技術的に確かに可能だけど「作っても意味ない」と明らかにわかるものを大真面目に書いた…というものだったのですが、当日中に(つまり、エイプリルフールジョークとして)本当に作る人が現れて話題になりました。
まぁ、「ジョーク RFC」で探せば紹介しているサイトは一杯あるので、興味あったら探してみてね。
(本も出版されているけど、あまりお勧めしない)
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先日、子供と科学館に行き、ミュージアムショップで「ミスティクア」と言うカードゲームを買った。
後で調べたら、去年のダイオウイカブームに乗じて作った、ということが臆面もなくプレスリリースに書いてあった(笑)
深海に行って、ダイオウイカをはじめとする深海生物を調査するゲーム。…と書くと、ありがちに聞こえる。
もしそんなゲームだったら買わなかった。
ここまで深海生物にフォーカスしながら、目的は深海生物の調査ではない。
他の研究者との駆け引きを制し、昇進して教授職にいち早くつくことが目的なのだ。
…ほら、これだけで、混乱必至のゲーム展開が予想できて面白そうでしょう?
ミュージアムショップで見かけて「これは買いだ!」って思いましたよ。
まずはゲームシステムから紹介しよう。
カードは2種類に分かれる。深海生物のカードと、各プレイヤーが現在の自分の「位置」を示す、潜水調査船のカードだ。
このうち、潜水調査船のカードは各自の前に、全員に見えるように置かれる。最初に各自が持っているカードはこれだけだ。
潜水調査船カードは、最初は「海上」と書かれた面を表にしておかれている。
裏返すと、向きによって Lv.1 ~ Lv.3 の潜航深度を表せるようになっている。
深海生物のカードには、表に名前・イラスト・生態などの説明と、生息深度(Lv.1~3)、レア度(1~5)が書かれている。
ゲームに必要な情報は、深度とレア度だけ。ちなみに、レア度は「学術的な重要性ではなく、ゲーム内での撮影難易度を示すものです」と注釈つき。
深海生物のカードは、裏返しにまとめてデッキ(山札)として置かれる。
そして、裏返しのまま、中央に5枚置かれる(場札)。
この状態でゲームスタートだ。
プレイヤーは、各自の手番で、以下の行動を順番に取れる。
1) 場札に対するアクション
これには二つあり、「レーダー」か「ピクチャー」のどちらか片方を行う。
レーダーを宣言すると、場札のうちどれか一枚を、自分だけがみることができる。
見終わった後は元の位置に戻す。
ピクチャーを行うと、好きな場札を表にして、全員に見せる。
この時、自分の潜水調査船の「潜航深度」と生物の「生息深度」が一致すれば、写真を撮るのに成功したことになり、カードを手札としてもらうことができる。
(場札が無くなった場所は、山札から補充して、常に場札を5枚にする)
深度が一致しなければ、ペナルティとして手札のうちいらないものを一枚、捨てなくてはならない。
この場合、場札のカードは、再び裏にして元の位置に戻す。
(レーダーを行っていないプレイヤーも、その詳細を知ることになる)
2) 潜水調査船カードに対するアクション
潜水調査船カードを裏返したり回転させることで、違う深度に移動できる。
移動せずに「そのまま」でも構わない。
3) そのほかのアクション
そのほかのアクションを取るには条件があり、まず潜水調査船が海上にいる必要がある。
さらに手札が2枚以上あれば「発掘」が、3枚以上あれば「学会提出」が行える。
(1回には、どちらか片方しかできない)
発掘は、いらないカード2枚を捨てることで、代わりに捨て札の山から好きなカード1枚を貰うことができる。
学会提出は、手札のうち1枚を、伏せて目の前に置く。
誰かが学会提出すると、次にその人の番が回ってくるまでは、「同じ提出期間」となる。
同じ提出期間に提出されたカードは、最初に提出した人の手番の始まる前に、一斉に表にされる。
この時、一番レアなカードを提出した人が、学会で認められたことになり、昇進する。
同じレア度の場合はジャンケン勝負だ。
負けたカードは、すべて捨て札になる。
誰かが4回勝つと教授となり、その人が勝者でゲームは終了する。
ルールは以上だ。
それほど難しいルールではない。しかし、これが非常に練り込まれた、考えさせる局面の多いルールなのだ。
基本的には、レーダーして移動、次の回でピクチャー、と言う手順でカードを入手することになる。
1回では入手できない、と言うのがミソだ。
ここで、レーダーして移動した、ということは、他の人に「自分のレーダーしたカードの深度を教えている」ようなものだ。
もし、事前にその深度にいたプレイヤーがいると、自分の手番が回ってくる前に横取りされてしまう。
そこで、馬鹿正直に移動せずに、嘘を付く必要が出てくる。
カード取得のために移動した…ように見せかけて、全然関係ない深度に潜る。もしも別のプレイヤーが奪い取ろうとすると、ペナルティを負うことになる。
ただ、レア度の高いカードでこれをやると、ペナルティを負う際に「全員に公開」されてしまうので争奪戦になる。
レア度が低ければ嘘をつき、レア度が高ければ狙いに行く、という攪乱が必要になる。
最初にレーダーをかけても移動せず、もう一度レーダーをかけてから移動する、と言う戦略もある。
自分がカードを忘れず覚えておく必要はあるが、周囲のプレイヤーにはどちらのカードを狙った移動かわからず、奪われる危険性を減らせる。
しかし、他のプレイヤーが同じカードにレーダーを行う可能性もあるし、油断はできない。
ゲームの基本である「カードの取得」だけで、非常に深い駆け引きが発生するのだ。
ある程度カードが集まると、学会提出となる。
しかし、ライバルは少ないほど良い。「1週回る間」に「一番レアなカードを出した人」が勝つのだ。
つまり、自分以外誰も出さなければ、どんなにレア度が低いカードでも、自分の勝利が確定する。
ということは、後出し有利。
各自の手札は、途中で「公開」されている。公開しないと手札に加えなられないルールだからだ。
じゃぁ、提出した人を見て、その人のカードから何が出されたか…を想像することもできる。
これは確実に勝てる、とか、負けるからパス、とか考える余地が生まれる。
すると、学会は自分から仕掛けない方がいい?
学会提出後の「勝負」は、最初に提出した人に手番が回ってきたところで行われる。
ということは、最初に提出した人は、大量の捨て札が発生した後に「発掘」できるチャンスがある。
もちろん、皆が提出するカードだから、レア度が高いのは必至だ。
レア度5のジャンケン勝負で負けたカードなんて、是非発掘して手に入れるべきカードだ。
自分から進んで学会提出をするのも、ちゃんとメリットがあるのだ。
というわけで、小学生でもわかる単純なルールなのに、だまし合い、牽制し合いの状況が生まれる。
この中で、どの場札が誰も見ていない(狙っていない)のか、自分がみたカードはどれで、深度やレア度はどうだったのか、記憶していなくてはならない。
レアだったはずのカードをめくったら、隣と間違えていてペナルティ、とか、勝手に自滅することもある。
たった5枚の場札なら覚えられる…と思われるかもしれないが、別の作業もしなくてはならないし、これがなかなか難しいのだ。
ところで、このゲームは多分わざと嘘を付いているところが2つある。
いや、ゲームだから嘘はいっぱいあるのだけど、すごく気になる嘘が2つね。
一つは、深海生物の探査に「レーダー」をつかうこと。
レーダーは電波を使うので、海中では使えない。海中ではソナーを使う。
でも、そんなこと知らない人多いし、ソナーなんて名前を知らない人も多い。
「レーダー」なら理解してもらいやすいから、多分、わかっていて嘘ついている。
もう一つ「学会提出」と言っているけど、これは多分「学会誌への投稿」なのだと思う。
研究者の昇進条件として、学会誌に論文が何回掲載されること、というのがある。
学会誌は「雑誌」なので、紙面に限りがある。だから、投稿が集中すれば、より重要そうな論文だけが掲載される。
だからこれ「深海生物の写真を学会に提出」ではなくて、「撮影資料を基に論文を書いて投稿」している、と考えてほしい。
苦労して資料を集めて、それを時間をかけて論文にまとめて投稿しても、たまたま同時期に投稿した相手との比較で「捨てられて」しまうのだ。
…妙にリアルで恐ろしいゲームだ。(わかる人にとっては)
でも、多くの人は「学会」というのは聞いたことがあっても、どんなものか知らない。
「学会誌」になると、存在すら知らない人の方が多い。
だから、わかりやすく「学会」としているのだと思う。ここもわかっていて嘘ついている。
嘘の理由がわかっていると、このゲームの「リアルさ」が見えてくる。
美しいイラストと、そこに書かれた生物の説明を見るのも楽しいのだけど、実はこのゲームは「学者の生態」を上手にゲーム化したものなのだと思う。
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別年同日の日記
15年 Windows10 へのアップグレードで Chrome が動かなくなったが
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長男、10歳になりました。
妻から「お父さんお母さんになって10年」と言われて、違う感慨が。
…そうか、すごいことだな。
余り物欲の無い長男、誕生日プレゼントに欲しいものも特にない、という。
じゃぁ、なにか食べたいものある? と聞くと、ピザ食べたいという。
なるほど。
長男が想定しているのは「宅配ピザ」だと思うが、ここは思い切りピザを食べさせてやろう、と目論む。
まぁ、ピザ食べ放題と言えばシェーキーズだよね、と思って探すが、我が家から遠い。茅ヶ崎まで行く必要がある。
電車で出かける場所としては、桜木町駅前にあった店がいつの間にかなくなっている。
横浜駅の店はまだあるが、子連れで横浜駅行っても遊ぶ場所がない。桜木町ならみなとみらいに行って、今年のピカチュウ大発生イベントでも見るのだが。
妻が、「茅ヶ崎に行くことにして、辻堂海浜公園で遊ぶのは?」と言った。
そうか、辻堂海浜公園なんて忘れてた。4年前に1度行ったきりだし。
じゃぁ、あわよくばジャンボプールにも行ってみよう、と水着の支度をする。
9時前に出るつもりが、妻が準備が遅れて9時半ごろ家を出る。
辻堂海浜公園は…というか、ジャンボプールは想像を絶する込み具合だった。
駐車場はすでに満車で、路上での駐車場待ちを禁じるため、警察指導により「閉鎖」。
プールは混んでいたらやめる、と子供たちには言ってあったので、交通公園で遊ぶことにする。
出発支度が遅れた妻が責任を感じて、周辺の駐車場を探してくるというので、僕と子供たちで楽しむが、妻がなかなか来ない。
しばらく遊んでいても妻から連絡無いのでメールすると、「周辺ぐるぐる回ったけど駐車場空かないし、周辺の有料駐車場もない。離れたところで車停めて待つから、移動するつもりになったら連絡して」との返事。
交通公園内は、4年前に比べ、いろいろと老朽化していました。
「金星の広場」にあった滑り台はなくなり、なにもない更地になっていました。
金星の広場と地球の広場を結ぶ、ゆらゆら揺れる高架橋は「腐食のため危険なので使用禁止」と張り紙がありました。
交通展示館の中も、セガの AS-1 みたいなバーチャルライド型シミュ―レータは動かなくなったそうで「運用終了」。機械だけは残っていました。
以前は人気があって待たないといけなかったので乗ってなくて、結局どんなものだったのか不明。
実写映像を使った電車の運転シミュレータ(本物の操作台を使ったトレインシミュレータみたいなやつ)も、老朽化による不具合? で、まともに遊べない状況になっていた。
特定のコマを再生すると、画像の読み取りに失敗し、数秒前のコマに戻ってしまうようだ。
通常速度である 80Km程度を超えて120km 程度で走っているとバグが出にくい。でも、駅で停まろうとするとおかしくなるので、事実上遊べない。
いろいろと残念。
その一方、昔にはなかったものが新設されたりもしていた。
特に、小高い丘からのそりすべりは、次女が非常に気に入った。
他の子が別のところで遊びたい、というので「またあとで遊ぶ」といってやめたのだけど、そのまま忘れていて終了してしまったので、「またいつか遊びに行く」という約束になってしまった。
いろいろ楽しみ、12時半ごろに「お腹空いた」というので妻に連絡。
公園裏手の車どおりが少ないところで待ち合わせ。
そのまま、茅ヶ崎のシェーキーズに向かいます。店に入ったのは1時過ぎ。
この店、10年くらい前に一度だけ食べに入ったことがある。
食べ放題、ジュース飲み放題で、長男の好きなカレーも有り、想像していたよりもずっと多くの種類のピザも、まったく想像してなかった「甘いデザートピザ」もあり、長男は大満足。
長女、次女もたらふく食べました。
昔とは当然ながらメニューも変わっているのだけど、僕が昔好きだった「カスタードとパイナップルのピザ」は無くなってしまったようだ。
でも、「ココナッツとクリームチーズのピザ」が味の傾向を受け継いでいた感じがする。パイナップルも入っていたし。
子供が調子に乗って取って「お腹いっぱい」で残した分を全部食べたら、僕もお腹いっぱい。
午後になって、駐車場情報を見ると、少し空きが出始めたみたい…
ということで、再び辻堂海浜公園へ。目指すはジャンボプール。
時間は3時前。待った方がより空くだろうし、3時半を過ぎるとプールの入場料は安くなるらしい。
セブンイレブンのポケモンスタンプラリーが完了していないので、寄り道をしながら向かいます。
公園に近づくころ、どんどん雲行きが怪しくなっていました。
これで慌てて帰る人もいれば、うちと同じで今から来る人もいる。
3時45分ごろ、駐車場はちゃんと入れました。でも、プール前はまだ入場待ちの長蛇の列。
プールに入ったのは4時過ぎで、6時の閉園まで、ゆっくり遊びます。
2時間も遊べば子供は満足。長男はウォータースライダーが、長女は流れるプールが、次女は波の出るプールが気に入ったようです。
ちなみに、僕は水遊びプールにあったアルキメデスのポンプを気に入りました。
そういうものを置いてある、と言うことが面白い。
土日は非常に混むらしいので、仕事の都合が付けば、次は平日に行きたいところ。
今年はもういいかな。来年以降の話。
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今日はブレーズ・パスカルの命日(1662)。
大天才ですが、39歳で没しています。
一説によれば、パスカリーヌの作成(17歳から19歳の時)に没頭しすぎた時に体調を崩し、生涯虚弱だったと言います。
…もともと虚弱だったから室内で出来る研究に没頭したのではないかな、と言う気もしますが。
6月19日の誕生日にいろいろ書いているので、詳細を知りたい方はリンク先へ。
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22年 vue-tweet-embed で表示していた Tweet が崩れる
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今日はチキンラーメンの誕生日。
誕生日? まぁ、発売された日と言うことね。
#パピコンクリッカーを作った Tiny野郎さんは今日が誕生日だそうだ。
同じ誕生日の人を探していたようなので、誕生日と表現してみた。
5か月ほど前にカップヌードルミュージアムに遊びに行っていて、そこでは当然チキンラーメンの発売以降の、日清を中心に他社の製品も含め、インスタントラーメンの歴史を展示していました。
戦後の食糧難の時に、安藤百福さんが誰でもすぐ作って食べられるラーメンを開発しようとした話や、てんぷらをヒントに製法を考案する話なんかは結構有名。
他社にまねされたときに粗悪品もかなり出回り、「製法がわからないから粗悪品ができるんだ」と、特許を取っていた製法を無償公開してしまった、というのはミュージアムで知った。
ただし特許を使用するには「日本ラーメン工業協会」に加盟して品質を保証しなくてはならない。この協会の会長は百福さんがやっており、加盟料は払う必要がある。
でも、これで類似品も含めて品質が安定し、「インスタントラーメン」の需要がさらに広がる。
結果としてちゃんと日清は儲かるようになっている。素晴らしい。
と、僕のページで書くのだから、受け売りの話で終わらそうとは思っていない。
僕が子供の頃にはじめて「自分で作れる料理」のレパートリーを持ったのは、インスタントラーメンだと思う。
これ、非常に微妙な問題で、パンを焼いて食べる、程度はその前からやっていた。
どこから料理と見做すかの境界で、当時の僕は「ガスコンロを使う」ことが大事だと思ったのね。
ちなみに、具は入っていないので包丁は使わない(笑)
でも、小学生には十分な料理に思えたのですよ。
プログラマは料理ができなくてはならない、と説いたのは元アスキー編集長の遠藤諭。
優れたプログラマは人に邪魔されない深夜に仕事をするものだし、その際に腹が減ったらちゃっちゃと自分一人分の料理をこしらえられなくてはならない、というのがその理由だった。
今ならコンビニがあるから買ってくれば済む話だが、それは多分真意ではない。
料理と言うのは科学実験であり、そこにはアルゴリズムも、探求心も存在する。だから、料理もできない奴は良いプログラムは組めない、ということだと僕は理解している。
もちろん、優れたプログラマで料理ができない人だって多数いる。
でもそれは、知識が足りないだけ。優れたプログラマは、最初のきっかけがあれば後は勝手に調べて学習するので、料理を始めるきっかけさえあれば必ずおいしいものが作れるようになるはず。
逆もまた真で、ありあわせの材料でおいしい料理を作れる人はプログラマの素養があると思っている。
こちらもまた、知識を持たないといけないけど、「料理する」ことに比べると「プログラムする」のはハードルが高いね。
料理にアルゴリズムが伴う、というのは、なにも料理するときに限らない。
1950年代の MIT ハッカーたちが、中華料理店に通い、メニューに書いてある謎の記号(漢字)と料理の素材・料理法などの関連性に気付き、「甘酢苦瓜」を注文した…と言う話を過去に書いた。
自分で料理はしていないが、素材と料理方法を組み合わせれば料理ができるはずだ、と推察し、実際に料理人にその指示を出して作ってもらった、というのは面白いエピソードだと思っている。
料理が自分で出来る人でも、素材と料理法の組み合わせを実験してみることがある。
思い切った実験の結果、マズくて食えないものができることもある。でも、そこで「確実にマズイ組み合わせ」を覚えたら、以降はそれを避ければよいだけだ。
実は、まずい料理を作るのは、料理の腕を確実に上げる。その積み重ねをやった人は、おいしい料理を作れるようになる。
ハワイ伝統料理を食べた時は、立場が逆転していた。
僕はお客さんで、何が出てくるかわからない。出てきたのは得体のしれないもので、周囲の人がみなまずそうに食べている。
その状況ですら、料理を知っていれば出来ることがある。
伝統料理がマズいはずがない。マズいと感じるなら、何かが間違っているんだ。
単体で食べたらまずいのを、別の料理を一緒に食べるとおいしくなるのを発見した。
この時は、ハワイ料理に対する知識も経験もなくても、料理に対する知識と「探求心」で正しい方法を見つけ出したことになる。
逆に、一般においしいと思われているものですら受け入れられない人もいる。
ドライカレーに干しぶどう、酢豚にパイナップル、鶏肉のオレンジジュース煮、生ハムメロン。
大抵肉とフルーツは、適切に合わせるとうまいのだけど、拒否反応を示す人は多い。
好き嫌いは個人の自由だけど、なぜそれが一般に「おいしい」とされるのかが理解できないのであれば、その人の理解力はその程度であり、プログラマーとしての素養もそれほどない、と思っている。
#理解したうえで自分が嫌いな理由を論理立てて言える人ならその限りではない。
大切なのは論理体系が構築できることだからだ。
食べるというのは日常で最も大切な行為の一つで、大切だからこそ保守的になるのが普通のようだ。
多くの国では、伝統料理が大切にされ、その形を崩さないことを良しとする。
じゃがいもやトマトが新大陸からもたらされても、人々はなかなか食べようとしなかった、というのには、そうした側面もあるかと思う。
しかし、日本人は食を「冒険」と捉えるのが好きらしい。
変わったものを食べたがる。外国の料理を取り入れ、伝統料理にも新食材を取り入れ、世界中どこの国にもない新しいものを作り出してしまったりする。
#この意味では、トマトを食べたイタリア人も食の冒険が好きだったようだ。
チキンラーメンは世界最初の「インスタント食品」だけど、日本人はそれに拒否反応を示さず、むしろ好奇の目を持って「食べてみたい」と受け入れた。
その後もボンカレーなどを含めて多くの「すぐ食べられる」食品が出てきたが、それほど拒否反応は無い。
インスタント食品が日本から出てきて世界に広まっているのは、こういう国民性とも無縁ではないように思う。
#もちろん今でも「体に悪そう」と拒否反応を持つ人もいるが、それは個人の好みであり、自由だ。
(納豆が嫌い、というのとそれほど変わらない話だと思っている)
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今日はレフ・テルミンの誕生日(1896)。
不思議な電子楽器「テルミン」に名を残す、ロシア生まれの博士です。
ロシア革命後、人間が近寄ったことを感知する「近接センサー」を研究している過程で、人間との距離を音階・音量で表現する楽器「テルミン」を作り出しました(1920)。
僕は音楽にはそれほど詳しくなくて、テルミンも「音を出した」ことはあるけど、演奏とは程遠いレベル。
もっとも、テルミンの演奏は非常に難しく、音楽ができれば使える、と言うようなものではないです。
音楽って、本来連続している音の周波数をあえて「区切る」ことで、人間が認識しやすい数にまとめることで成り立っています。
だから、ピアノでは鍵盤があるし、ギターではフレット(弦の押さえられる位置を決める凸部)があります。
でも、テルミンは「距離」によって音階を決めるので、音が自由に出せすぎてしまい、音楽になりません。
バイオリンもフレットがなく自由な音が出せてしまうため、テルミンは演奏方法は全く違うものの、「バイオリンと類似する楽器」として使われることが多いようです。
ただ、バイオリンの物まねをするのであれば、最初からバイオリンを使う方がいい。
テルミンの性能を最大限に引き出した演奏は、テルミンでしかない味わいが出ます。
「テルミン」と言う映画があります。博士の辿った一生をインタビューなどを中心にまとめた映画ですが、公開された 1993年に博士は亡くなっています。
(作成時点では博士は生きていてインタビューに答えているので「半生記」とすべきなのかもしれません。
しかし、事実としては博士はインタビュー直後に無くなってしまったため、事実上は博士の一生を追った映画となっています)
日本では 2001 年に夏に公開され、興味があったので見に行きました。
恵比寿ガーデンシネマでの単館上映でした。
映画の内容は…えーと、よく覚えてない!
僕のページ、1996 年からやっているけど、2000年前後に一旦閉鎖して、2001年秋から再公開しています。
そのため、テルミン見た、と言う日記もありません。残念。
手元に今、映画のパンフレットというか、映画について書かれた小冊子があります。
映画館で買ったものなのですが、いわゆるパンフレットのサイズではなく、文庫本サイズ。
普通のパンフレットにしていないのは意味があって、カバーの中に3冊が収まっているのです。
1つは、楽器テルミンと博士の一生について解説した冊子。
もうひとつは、テルミンに魅せられた音楽家や、関係者、映画を一足先に見た著名人などからのメッセージ集。
最後の一つは、冊子ではなくて折りたたまれた紙。広げると、テルミンの回路図が描いてあります。
テルミンは古いだけに回路が単純で、その気になれば簡単に作れます。
メッセージ集には、ビーチボーイズのブライアン・ウィルソンや、最高のテルミン奏者であるクララ・ロックモア、シンセサイザーの始祖として有名なモーグ博士の談話も載っています。
モーグ博士は、「モーグ」シンセサイザー(1965)の開発者として有名ですが、元々テルミンに感化され自分でテルミンを作って販売し、その過程で音を自由に作り出す原理を学んでシンセサイザーを作成したのだそうです。
PDP-8 で MUSYS(1969)を作った Electronic Music Studios Inc. もシンセサイザーメーカー…ということはモーグの影響を受けていますし、MML の始祖と僕が考えている SCORTOS(1977) も、モーグのシンセサイザーを含むいくつかの電子楽器をコンピューターで操作するシステムでした。
なので、テルミン - モーグ - 現代のコンピューター音楽というのは、明らかにつながっているのです。
クララ・ロックモアは、博士から直接演奏法を教わり、博士より上手に演奏ができるようになった、当時最高のテルミン奏者でした。
奏者はそれなりにいたのですが、クララの演奏は次元の違う音です。
映画では、多くの演奏者が出演するのですが、明らかにレベルが違っていました。
クララの演奏は、Youtube などで見ることもできます。
最初に人間との距離によって演奏する、と書きましたが、クララの演奏では手の形を変えています。
厳密に言えば、人間との距離、ではなく、アンテナが電圧を持つことで人間との間に静電気が溜まり、この静電容量によって音を変えています。
距離が変われば静電容量も変わるのですが、電場中の「面積」が変わっても静電容量が変わります。
クララは、手の形を微妙に変えることにより、これをコントロールしているのです。
演奏には非常に集中力が必要なだけでなく、周囲の観客の動静までもが「静電容量」に影響を与えてしまいます。
このため、演奏中は周囲の人も静かにしていなくてはならないそうです。
映画を見に行った頃は、「テルミン」というのはそれほど有名ではない楽器でした。
それ以前にテレビで見たことがあって興味を持っていたのですが、日本で映画公開するまでに 8 年かかっているので、たぶんテレビで見たのもアメリカでの映画公開後だったのでしょう。
今では日本でも知名度が上がっています。
「テルミン」と言えば、名前くらいは知っている人が多いのではないかな、と言う程度には。
先に「クララ・ロックモアの演奏は次元が違う」と書きましたが、それは映画公開前の話。
今では、日本でも非常に高いレベルの演奏を行うテルミン奏者が多数います。
遊んでみたいなら雑誌の付録で入手できてしまうくらい。
もっとも、最初に書いた通り僕はそれほど音楽に詳しくなくて、生演奏のコンサートを見に行ったこともないですし、テルミンも持ってはいません。
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エンデの誕生日(11/12)に書きたいこと大体書いたので、リンクしておきます。
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ENIAC を作った2人のうちの一人です。
もう一人のジョン・エッカートは過去に記事を書きました。
モークリーは ENIAC を構想した人で、エッカートは実際に作った人でした。
ENIAC の設計前、気象学の仮説として「十分なパラメータがあれば、気象は完全に予測できる」と言うものがありました。
この頃、経験と勘で天気予報を行うことはあったけど、完全に出来るかどうかは不明だったのね。
モークリーは、この仮説を実証したかったのだけど、「完全なパラメーター」がわからないし、もしパラメータが入手できても、膨大な計算が必要だと予測されました。
それどころか、いま手に入るパラメーターを計算するだけでも、手回し計算機ではとても間に合いません。
恐らく、当時最高速だったリレー計算機や、アナログの微分解析機を使ってもダメでしょう。
#アナログと言うと遅そうですが、微分解析機はデジタルが「遅すぎるから」作られた機械でした。
そこで、超高速の計算機を作るにはどうすればよいかを考え始めます。
モークリーは自分で勉強をして、真空管を使えばリレー回路と同等の回路をくみ上げ、物理的な動作が無い分だけ高速に計算ができそうだ、という考えに辿りつきます。
モークリーはいくつかの試作機を作りますが、電子回路設計の体系だった知識は持ち合わせていませんでした。
その頃、ヨーロッパで第2次世界大戦がはじまります。
アメリカでも参戦は免れないとの考えが広まり、戦時要員の確保のために、電気工学者の養成講座が開かれることになりました。
モークリーはこの養成講座に参加します。最年長の受講生でした。
しかし、この講座の目的は「素人に最低限の電気工学を教える」ためのもので、独学とはいえ計算機を試作しているモークリーにとっては満足できるものではありませんでした。
しかし、彼はここでエッカートと出会います。
エッカートは、最年少の講師でした。
電気工学の天才で、若くして講師に選ばれていたのです。
モークリーは、講座の参加者の前で、真空管を使えば超高速の計算機が作れるはずだ…という自分の考えを披露しました。
素人の集まりの中では、この主張はあまり理解されなかったようです。
また、熟練した講師陣に於いては、壊れやすく不安定な真空管を何本も組み合わせる回路など、実現できるようには思えませんでした。
ただ一人、講師の中で最年少のエッカートだけが、この考えに共感しました。
ここに、最年長で最も知識を持った「素人」と、最年少で経験の浅い「専門家」のタッグが組まれます。
やろうとしていることは、理論的には出来るはずでした。
ただ、経験があればそれがどれだけ難しいかわかるのに、中途半端な知識ゆえに前に踏み出すことができたのです。
ところで、先に「アナログの微分解析機」という話題を出しました。
電気工学者養成講座が行われたペンシルバニア大学ムーア校では、この微分解析機を使った、大砲の弾道計算業務を請け負っていました。
大砲を打つ際には、角度と火薬の量、風向き・湿度・気温など、非常に多くのパラメーターを考慮する必要があります。
当時の大砲は急に高性能になり、地平線の向こうまで届くようになっていました。
敵を狙う際に「撃ってみて、着弾点を見て少し方向修正する」という従来の方法は使えないのです。
そこで、多くのパラメーターを考慮して、撃ったらどこに着弾するか、をすぐに調べられる「射表」を使って敵を狙う必要がありました。
この計算がとにかく大変で…地平線の向こうまで届くのですから、わずかな計算誤差が非常に大きくなります。
砲弾の飛行中の動きを全て計算し、着弾までをシミュレーションすると、当時最高の計算能力を持つ微分解析機ですら、射表を1つ完成させるのに1か月かかっていたのです。
戦局が動き、新たな地が戦場になると、湿度や気温などが大きく変わるため、新たな射表が必要となりました。
新兵器が開発されると、砲弾の空気抵抗などがすべて変わるため、新たな射表が必要となりました。
1つの射表に1か月もかかっていては、とても戦えません。
ムーア校に計算業務を委託していた陸軍では、もっと早い計算機を必要としていました。
そこに、モークリーとエッカートが超高速の計算機を作ろうとしている、という話が届きます。
射表計算を統括していた陸軍将校ゴールドスタインは、この計画にすぐに資金提供を申し出ます。
そうして、ENIAC の開発が始まるのです。
ENIAC に関しては、ずっと昔に書いた記事を読んでね。
もっと、このページのごく初期に書いた(もう17年も前だ)ものなので、今見ると拙い記事ですが。
まぁ、ざっとまとめると ENIAC は以下のようなものです。
・「世界初のコンピューター」として、広く知られています。
・でも、今のコンピューターと違って2進法ではなく、10進法を使っています。
・配線板があって、配線を変えることで計算内容を変えられます。
今のように、メモリにプログラムを書き込む方式ではありません。
・つまり「世界最初のデジタル電子計算機」ではありますが、現代人の考えるコンピューターとは全然違います。
ENIAC の作成中から、モークリーとエッカートは「次の機械」を構想していました。
ENIAC は10進法ですが、これは陸軍の「技術に詳しくない」人々を納得させるために、あえて手回し計算機と同じ構造を採用している節があります。
もっとも、モークリーとエッカートも、設計当初はちょっとした勘違いで「2進数より10進数の方が良い」と考えていたようですが…
また、配線板によるプログラムは複雑で、内蔵したメモリにプログラムを書き込む、というアイディアも、すでに出ていました。
2進法の採用と、プログラム内蔵方式。この二つのアイディアを中心として構想されたのが、EDVAC でした。
これは、ENIAC に比べるとずっと現代のコンピューターに近いものです。
…が、途中からプロジェクトに参加した(というか、呼ばれてもいないのに割り込んできた)フォン・ノイマンによってプロジェクトチームが分裂、完成が大幅に遅れます。
モークリーとエッカートは、プロジェクト途中で離脱、「エッカート・モークリー・コンピューティング・カンパニー」を設立し、商用機である BINAC を作成します。
この会社はその後資金繰りで躓いて、レミントン・ランド社に身売り。
安定した資金で二人はそのまま開発を続け、商用コンピューターとして最初のヒット商品である「UNIVAC-I」を生み出します。
ここら辺の経緯は、エッカートの誕生日の際に書いていますので、そちらを参照してください。
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