2018年08月06日の日記です


C言語で会話  2018-08-06 12:17:29  コンピュータ 業界記

1998年の夏の暑い時期だったと思います。

韓国から、セガの下請けになった、というプログラマーが研修に来ました。



で、「教えてやって」と、僕に仕事が丸投げされました。

韓国語なんてわからない。英語すらできない。

そもそも、教えてやってと言われても、何を教えればいいのかも聞いてない。




当時の韓国の世相を説明しといた方がよさそうだな…


韓国は、1961年にクーデーターがおこり、軍事政権になっています。

軍事政権下では、国民の権利などは抑圧されていた一方で、強引な(一部の人を泣かせるような)政策によって経済成長も遂げています。


が、1979年に民主化デモがおこります。そして大統領暗殺。

これにより民主化が行われるか…と思われたのですが、1980年にふたたびクーデターがおこり、軍事政権は続きます。


それでも、経済的に急成長を遂げた韓国は、1988年のソウルオリンピック誘致に成功します。

しかし、1987年、再び民主化運動がおこり、IOC は「治安が維持できない場合は、オリンピックをロサンゼルスで行う」と決定。


軍事政権は、経済成長した韓国を、オリンピックで世界に誇示するつもりでした。

これは、軍事政権を続けるより重要なことでした。


そこで、民主化宣言を行います。

これにより軍事政権は終わりました。


1988年、ソウルオリンピックの年には海外の渡航も自由化されました。


これ以前は、日本と韓国の関係は冷たい物でした。

しかし、徐々に民間レベルでの交流は増えていきます。

韓国でも、同じアジアの発展した国として、日本にあこがれる若者が増え始めます。




軍事政権の時代には、娯楽は「不要なもの」という扱いでした。

テレビゲームも発売されていません。

(パソコンである MSX は発売されていましたし、そのゲームも売られていましたが)


1989年、「ファミコン」と「セガマスターシステム」のライセンス品が登場

ちなみに、スーファミは日本で 1990年登場。メガドライブは 1988年登場です。



「あこがれ」でもある日本のゲーム機は、家電各社が日本の会社からライセンスを取得し、製造・販売します。


直接日本のメーカーが輸出販売しないのは、日本企業が直接活動するのが許可されていなかったため。

民間レベルでの交流は増えていましたが、韓国と日本の関係はまだ冷たい物でした。



僕がセガに入社後も、いくつかのゲームの「韓国版」を作るのを見ています。

1996年くらいだと、テレビゲームはすっかり人気の商品で、業務用も売れていたのです。


ただし、厳しい決まりがあって、どこか一カ所でも日本語が入っていると、韓国での販売は許可されませんでした。

当時は、日本にあこがれる若者も多い一方で、反日の動きも強かったのです。


文字テキストなどを変えるだけでなく、画像なども細かくチェックして、とにかく日本語を完全になくさないといけません。

実は、こんな苦労をしてゲームを作っても、それほど売り上げがよかったわけでもないのです。


それでも韓国版を作ったのは、これから韓国が伸びそうな国だと考えられていたからでした。




そして、1997年。アジア通貨危機が起こります。


アジアの小さな国の経済は、欧米の強大な資本の前では簡単に翻弄されてしまいます。

欧米の投資家が、アジアの通貨を空売りし、売りが多いので値が下がったところで買戻す、というテクニックを使い、儲け始めたのです。


投資家が儲かるということは、「誰かが」損をしているということ。

その誰かが、この場合はアジアの小国でした。


具体的には、タイ、インドネシア、韓国。

マレーシア、フィリピン、香港もターゲットにされています。


さらに、直接のターゲットにされなかったものの、これらの国の不景気の影響で、中国、台湾、日本なども影響を受けています。



韓国では、経済が完全に破綻し、国際通貨基金(IMF)の管理下に入りました。

IMFにより、次々と、韓国内の巨大企業が解体されていきます。




…と、これが 1998年当時の韓国の様子。


この状態の韓国から、プログラマーが研修にやってきたのです。


ちなみに、上に書いた「当時の状況」ですが、当時の僕は認識してませんでした。

今調べて知ったの。


ただ、韓国ではゲームは結構人気ある、ということと、経済的に今なんかやばいらしいよ、程度には知っていたかな。


ちなみに、完全な余談だけど、日本と韓国の関係が急に改善するのは、2002年のワールドカップサッカー共同開催がきっかけ。

今でも日本を嫌っている韓国人、韓国を嫌っている日本人は多いのですが、総体としてはおおむね良好な関係だと思います。




さて、話を戻して韓国からの研修生のこと。

彼らは、韓国版のプリクラを作るために、フレームなどのデータを差し替える方法を学びに来たのでした。



プリクラは当時の大人気ゲーム。顔写真シール自販機ですね。

さまざまな「フレーム」がありました。プログラム内容は同じでも、画像などの差し替えでいくらでもバリエーションが増やせる、ということですね。


特に ST-V になったプリクラ2からは、このフレームにフルカラー画像を使えるようになったため、観光地の綺麗な風景をフレームにして写真を撮れるとか、大人気アイドルと並んでいるかのような写真が撮れるとか、多様な展開を始めていました。


#と書いていて思い出した。たしか当時大人気だった SMAP 版を作ったら、とんでもないインカムを叩き出したはず。

 5人それぞれが別バージョンで、並べられた5台それぞれが「朝から晩まで、途切れなく稼働」しないと出ない収入となった。



で、プリクラはアトラスの開発したゲームでしたが、販売はセガ。

例によって、業務用外注作品はAM1研を通しています。


そして、フレーム変更などのバージョン変更も、AM1研でもやっていました。


こうしたデータ差し替えはセガ…AM1研のほうでもやっていました。

このやり方を学びに来た、ということね。




えーと、僕はプリクラチームではないので、実際の作業内容は知りません。

でも、それ以前の「ST-V 開発機材の扱いに慣れる」部分から話を始めなくてはならず、そこなら確かに僕が教えられます。


プログラマの人は韓国語しか話せなかったのですが、一緒に来ていた営業の人が日本語が出来ました。

そこで、機材の説明、セッティング方法などは通訳してもらう形で、お二人に説明します。

たしか、セッティングは1日。


プリクラのソース一式を展開し、コンパイルし、開発機材で動かし、デバッガでメモリなどを覗く…

というのが翌日の作業じゃなかったかな。ここまでは順調。


さて、問題はここから後です。

「この後は技術的な話だから」と、営業の人は別の仕事でどこかに行ってしまいました。

韓国語しかわからないプログラマに、日本語しかわからない僕が、「フレーム画像の変更方法」を教えなくてはなりません。


そもそも、僕がやり方を判っていないので、プリクラチームの人に聞きます。

画像データをディレクトリにいれて、それをデータファイル化するツールを起動。

その後、データへのポインタをこの構造体に入れて、いくつのデータがあるかをこちらのメモリに入れて…という感じ。


で、いよいよ教えるのです。




韓国プログラマの隣に座って、UNIX のコマンドラインを操作します。


「あー…、ふれーむぴくちゃー、せっと、ぢす、でぃれくとり」


そういいながら僕が cd コマンドでディレクトリに入ると、プログラマがパス名をメモします。


「あんど、らん、ぢす、こまんど」


そういいながらデータファイル化するコマンドを実行すると、やはりそれをメモします。


「ちぇんじ、ぢす、ふぁいる」


構造体が書かれたファイルをテキストエディタで開くと、ファイル名をメモします。


「ちぇんじ、ぢす、でーた」


構造体にファイル名を書き込むと、構造体の名前をメモします。



一部始終こんな感じ。ブロークンイングリッシュと、C言語のファイルを見ながらの「ちぇんじ、ぢす」の連続。

向こうから質問が来るときも似た感じ。


でも、「プリクラのフレームを変更する方法を学びたい」という目的ははっきりしていますし、C言語はどちらも使える共通言語。

多少もどかしい部分はありましたが、実際にCのソースを書き換えて「ぢす」と言えば通じる。


ブロークンイングリッシュで、というよりは、C言語で会話していました。

set LANG=C です。




書き換え方法を学んだあと、実際に適当なデータを使って一通り作業をしてみて、その間にもわからないことがあれば質問を受け付けました。

結局、AM1研での研修は1週間程度ではなかったかな。


その後、「仕事のために借りたアパートで以降の作業を行う」というので、機材を貸し出す手続きをし、機材を持ってアパートを訪れました。


…驚きました。8畳程度のワンルームではなかったかな。

そこに、4人で生活していました。研修に来ていたプログラマーは「チーフ」で、部下が2人いたのね。


狭い中に4人分のパソコンがすでに置いてあり、さらに開発用の大きな機材を持ち込みます。

ここは「仕事場」ではなく、滞在中の住居でもあるそうです。夜になると機材の隙間に潜り込むように眠る。


夏で暑いのにクーラーもなく、扇風機が1台回っていました。



びっくりしていると、日本語のできる営業の人が


「日本物価高いですからネー、これでも出せる額ギリギリデス。

 彼らは本国ではエリートだから期待されてマス。

 日本で暮らすため、たくさんお金もらってマス」

とのこと。


期待されて、精いっぱい出してもらっても、冷房もないワンルームで4人暮らしがやっとなのです。

それでも、期待を背負ってきているので、一生懸命ゲーム作成のノウハウを吸収しようとしているのです。


このハングリー精神、今の日本では、とても真似できない、と思いました。


#ここでの「今」は、1998年当時のこと。




その後も、何度か、電話で質問に答えたりしていました。

日本語のできる営業の人経由だったと思います。あのプログラマーと電話越しに話せたとは思えないから。


しばらくして「一度韓国に戻ります」という連絡が来ました。

当時の韓国では就労ビザを取るのが厳しくて、観光ビザで日本に来ていたのだそうです。


で、さらに後に「また戻ってきました」という連絡。

それからしばらくして「ゲームが完成しましたので、韓国に帰ります」という連絡。


帰る前にお別れ会をやろう、ということになり、セガ近くの居酒屋で一緒に飲みました。


久しぶりに会ったプログラマーの人と、たどたどしい英語でゆっくり話をしました。

難しい話は出来ないのだけど…


日本の文化が大好きで、漫画とかも好きだけどゲームが特に好き、と言っていました。

でも、韓国では日本の文化は規制されていて、なかなか触れることができない。

今回の日本滞在では、色々見られてよかった、とも。


そして、ゲームが好きだから、いつかヒットゲームを作りたい、と言っていたと思います。

当時の韓国では、まだゲーム制作者という職業は珍しくて、大きな夢だったようですが。



今では、韓国はゲームの輸出大国です。もちろん、世界的なヒット作も出ています。

彼は夢をかなえられたのでしょうか?



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