業界記の日記です

目次

2018-08-06 C言語で会話
2018-07-18 年棒制
2018-06-06 凄腕プログラマ
2018-05-30 レイディアント・シルバーガン
2018-04-29 テクモワールドカップ'98
2018-04-27 ダイナマイト刑事2
2018-04-26 ST-V事業のテコ入れ
2018-04-14 サシっす!!
2018-02-18 GetBass
2018-02-16 Harley-Davidson & L.A. Riders
2018-02-06 データバックアップ
2018-02-02 機材管理
2018-02-01 ネットワーク管理
2018-01-29 テクニカルサポート
2018-01-23 サターンポリゴンのゆがみ
2017-12-29 1997年のその他のゲーム
2017-12-23 ポケベル早押しPiポパ
2017-11-16 ST-V 開発環境
2017-11-02 引っ越し作業
2017-11-01 千客万来
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C言語で会話  2018-08-06 12:17:29  コンピュータ 業界記

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1998年の夏の暑い時期だったと思います。

韓国から、セガの下請けになった、というプログラマーが研修に来ました。



で、「教えてやって」と、僕に仕事が丸投げされました。

韓国語なんてわからない。英語すらできない。

そもそも、教えてやってと言われても、何を教えればいいのかも聞いてない。




当時の韓国の世相を説明しといた方がよさそうだな…


韓国は、1961年にクーデーターがおこり、軍事政権になっています。

軍事政権下では、国民の権利などは抑圧されていた一方で、強引な(一部の人を泣かせるような)政策によって経済成長も遂げています。


が、1979年に民主化デモがおこります。そして大統領暗殺。

これにより民主化が行われるか…と思われたのですが、1980年にふたたびクーデターがおこり、軍事政権は続きます。


それでも、経済的に急成長を遂げた韓国は、1988年のソウルオリンピック誘致に成功します。

しかし、1987年、再び民主化運動がおこり、IOC は「治安が維持できない場合は、オリンピックをロサンゼルスで行う」と決定。


軍事政権は、経済成長した韓国を、オリンピックで世界に誇示するつもりでした。

これは、軍事政権を続けるより重要なことでした。


そこで、民主化宣言を行います。

これにより軍事政権は終わりました。


1988年、ソウルオリンピックの年には海外の渡航も自由化されました。


これ以前は、日本と韓国の関係は冷たい物でした。

しかし、徐々に民間レベルでの交流は増えていきます。

韓国でも、同じアジアの発展した国として、日本にあこがれる若者が増え始めます。




軍事政権の時代には、娯楽は「不要なもの」という扱いでした。

テレビゲームも発売されていません。

(パソコンである MSX は発売されていましたし、そのゲームも売られていましたが)


1989年、「ファミコン」と「セガマスターシステム」のライセンス品が登場

ちなみに、スーファミは日本で 1990年登場。メガドライブは 1988年登場です。



「あこがれ」でもある日本のゲーム機は、家電各社が日本の会社からライセンスを取得し、製造・販売します。


直接日本のメーカーが輸出販売しないのは、日本企業が直接活動するのが許可されていなかったため。

民間レベルでの交流は増えていましたが、韓国と日本の関係はまだ冷たい物でした。



僕がセガに入社後も、いくつかのゲームの「韓国版」を作るのを見ています。

1996年くらいだと、テレビゲームはすっかり人気の商品で、業務用も売れていたのです。


ただし、厳しい決まりがあって、どこか一カ所でも日本語が入っていると、韓国での販売は許可されませんでした。

当時は、日本にあこがれる若者も多い一方で、反日の動きも強かったのです。


文字テキストなどを変えるだけでなく、画像なども細かくチェックして、とにかく日本語を完全になくさないといけません。

実は、こんな苦労をしてゲームを作っても、それほど売り上げがよかったわけでもないのです。


それでも韓国版を作ったのは、これから韓国が伸びそうな国だと考えられていたからでした。




そして、1997年。アジア通貨危機が起こります。


アジアの小さな国の経済は、欧米の強大な資本の前では簡単に翻弄されてしまいます。

欧米の投資家が、アジアの通貨を空売りし、売りが多いので値が下がったところで買戻す、というテクニックを使い、儲け始めたのです。


投資家が儲かるということは、「誰かが」損をしているということ。

その誰かが、この場合はアジアの小国でした。


具体的には、タイ、インドネシア、韓国。

マレーシア、フィリピン、香港もターゲットにされています。


さらに、直接のターゲットにされなかったものの、これらの国の不景気の影響で、中国、台湾、日本なども影響を受けています。



韓国では、経済が完全に破綻し、国際通貨基金(IMF)の管理下に入りました。

IMFにより、次々と、韓国内の巨大企業が解体されていきます。




…と、これが 1998年当時の韓国の様子。


この状態の韓国から、プログラマーが研修にやってきたのです。


ちなみに、上に書いた「当時の状況」ですが、当時の僕は認識してませんでした。

今調べて知ったの。


ただ、韓国ではゲームは結構人気ある、ということと、経済的に今なんかやばいらしいよ、程度には知っていたかな。


ちなみに、完全な余談だけど、日本と韓国の関係が急に改善するのは、2002年のワールドカップサッカー共同開催がきっかけ。

今でも日本を嫌っている韓国人、韓国を嫌っている日本人は多いのですが、総体としてはおおむね良好な関係だと思います。




さて、話を戻して韓国からの研修生のこと。

彼らは、韓国版のプリクラを作るために、フレームなどのデータを差し替える方法を学びに来たのでした。



プリクラは当時の大人気ゲーム。顔写真シール自販機ですね。

さまざまな「フレーム」がありました。プログラム内容は同じでも、画像などの差し替えでいくらでもバリエーションが増やせる、ということですね。


特に ST-V になったプリクラ2からは、このフレームにフルカラー画像を使えるようになったため、観光地の綺麗な風景をフレームにして写真を撮れるとか、大人気アイドルと並んでいるかのような写真が撮れるとか、多様な展開を始めていました。


#と書いていて思い出した。たしか当時大人気だった SMAP 版を作ったら、とんでもないインカムを叩き出したはず。

 5人それぞれが別バージョンで、並べられた5台それぞれが「朝から晩まで、途切れなく稼働」しないと出ない収入となった。



で、プリクラはアトラスの開発したゲームでしたが、販売はセガ。

例によって、業務用外注作品はAM1研を通しています。


そして、フレーム変更などのバージョン変更も、AM1研でもやっていました。


こうしたデータ差し替えはセガ…AM1研のほうでもやっていました。

このやり方を学びに来た、ということね。




えーと、僕はプリクラチームではないので、実際の作業内容は知りません。

でも、それ以前の「ST-V 開発機材の扱いに慣れる」部分から話を始めなくてはならず、そこなら確かに僕が教えられます。


プログラマの人は韓国語しか話せなかったのですが、一緒に来ていた営業の人が日本語が出来ました。

そこで、機材の説明、セッティング方法などは通訳してもらう形で、お二人に説明します。

たしか、セッティングは1日。


プリクラのソース一式を展開し、コンパイルし、開発機材で動かし、デバッガでメモリなどを覗く…

というのが翌日の作業じゃなかったかな。ここまでは順調。


さて、問題はここから後です。

「この後は技術的な話だから」と、営業の人は別の仕事でどこかに行ってしまいました。

韓国語しかわからないプログラマに、日本語しかわからない僕が、「フレーム画像の変更方法」を教えなくてはなりません。


そもそも、僕がやり方を判っていないので、プリクラチームの人に聞きます。

画像データをディレクトリにいれて、それをデータファイル化するツールを起動。

その後、データへのポインタをこの構造体に入れて、いくつのデータがあるかをこちらのメモリに入れて…という感じ。


で、いよいよ教えるのです。




韓国プログラマの隣に座って、UNIX のコマンドラインを操作します。


「あー…、ふれーむぴくちゃー、せっと、ぢす、でぃれくとり」


そういいながら僕が cd コマンドでディレクトリに入ると、プログラマがパス名をメモします。


「あんど、らん、ぢす、こまんど」


そういいながらデータファイル化するコマンドを実行すると、やはりそれをメモします。


「ちぇんじ、ぢす、ふぁいる」


構造体が書かれたファイルをテキストエディタで開くと、ファイル名をメモします。


「ちぇんじ、ぢす、でーた」


構造体にファイル名を書き込むと、構造体の名前をメモします。



一部始終こんな感じ。ブロークンイングリッシュと、C言語のファイルを見ながらの「ちぇんじ、ぢす」の連続。

向こうから質問が来るときも似た感じ。


でも、「プリクラのフレームを変更する方法を学びたい」という目的ははっきりしていますし、C言語はどちらも使える共通言語。

多少もどかしい部分はありましたが、実際にCのソースを書き換えて「ぢす」と言えば通じる。


ブロークンイングリッシュで、というよりは、C言語で会話していました。

set LANG=C です。




書き換え方法を学んだあと、実際に適当なデータを使って一通り作業をしてみて、その間にもわからないことがあれば質問を受け付けました。

結局、AM1研での研修は1週間程度ではなかったかな。


その後、「仕事のために借りたアパートで以降の作業を行う」というので、機材を貸し出す手続きをし、機材を持ってアパートを訪れました。


…驚きました。8畳程度のワンルームではなかったかな。

そこに、4人で生活していました。研修に来ていたプログラマーは「チーフ」で、部下が2人いたのね。


狭い中に4人分のパソコンがすでに置いてあり、さらに開発用の大きな機材を持ち込みます。

ここは「仕事場」ではなく、滞在中の住居でもあるそうです。夜になると機材の隙間に潜り込むように眠る。


夏で暑いのにクーラーもなく、扇風機が1台回っていました。



びっくりしていると、日本語のできる営業の人が


「日本物価高いですからネー、これでも出せる額ギリギリデス。

 彼らは本国ではエリートだから期待されてマス。

 日本で暮らすため、たくさんお金もらってマス」

とのこと。


期待されて、精いっぱい出してもらっても、冷房もないワンルームで4人暮らしがやっとなのです。

それでも、期待を背負ってきているので、一生懸命ゲーム作成のノウハウを吸収しようとしているのです。


このハングリー精神、今の日本では、とても真似できない、と思いました。


#ここでの「今」は、1998年当時のこと。




その後も、何度か、電話で質問に答えたりしていました。

日本語のできる営業の人経由だったと思います。あのプログラマーと電話越しに話せたとは思えないから。


しばらくして「一度韓国に戻ります」という連絡が来ました。

当時の韓国では就労ビザを取るのが厳しくて、観光ビザで日本に来ていたのだそうです。


で、さらに後に「また戻ってきました」という連絡。

それからしばらくして「ゲームが完成しましたので、韓国に帰ります」という連絡。


帰る前にお別れ会をやろう、ということになり、セガ近くの居酒屋で一緒に飲みました。


久しぶりに会ったプログラマーの人と、たどたどしい英語でゆっくり話をしました。

難しい話は出来ないのだけど…


日本の文化が大好きで、漫画とかも好きだけどゲームが特に好き、と言っていました。

でも、韓国では日本の文化は規制されていて、なかなか触れることができない。

今回の日本滞在では、色々見られてよかった、とも。


そして、ゲームが好きだから、いつかヒットゲームを作りたい、と言っていたと思います。

当時の韓国では、まだゲーム制作者という職業は珍しくて、大きな夢だったようですが。



今では、韓国はゲームの輸出大国です。もちろん、世界的なヒット作も出ています。

彼は夢をかなえられたのでしょうか?


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13年 新記事投入と、「ニコ動」話のつづき

14年 Copyright 表記について


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

年棒制  2018-07-18 18:10:20  業界記

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たしか1998年の春から、セガでも「年棒制」が導入されました。

多くの社員は今まで通りなのですが、一部の「高度な技能を有している」と見なされた人は、高額な年棒での契約になるのです。

働いた時間とは関係なく、年間の給与が保証されます。


つまりは、いま政治的に話題になっている「高度プロフェッショナル制度」と同じものです。


労働時間とは関係なく給与を決める…残業代を払わないでも良い、というのは、1987年にはすでに成立している法律。


ただ、条件が厳しくて現実的には使いにくい物でした。

そこで、成立から 10年目の 1997年に改正され、使いやすくなりました。


この改正で、プログラマーも適用対象となりました。

具体的には、労働時間に対する最低賃金などの制限がなくなります。



今話題になっている「高プロ制」は、職種制限などを大幅に緩和しようという話。

その代わりに、他の制限がたくさんつけられています。労働条件としては、いまより改善する…はず。働き方改革だそうです。


この制限に意味がない…というような議論もあるけど、今はその話じゃない。

「当時の」法律では、そうした制限もなく、本当に残業代カットに使われるだけだった、ということ。




先に、凄腕プログラマ3人を紹介しました。

3人とも泊まり込んで仕事することも多く、残業代はかなり高額になっていました。


そこで、人事部としてもこの3人に対して、年棒制を持ち掛けたのね。

交渉は個別に行われたので、春に導入されてすぐ、ではなかったと思います。


今の基本給より高額での契約で、裁量労働なので、仕事に支障がない範囲なら休みも好きにとって構わない。

悪くなさそうな話ですし、人事部に「高度な技能を有している」と評価されたわけですから、誇らしくもあります。



でも、年棒制になって半年くらいしたら、みんな「年棒制への移行はしない方がいい」と周囲に言い始めていました。


年棒が決まっていて、残業代を出す必要がない、というのは、会社にとっては仕事を押し付けやすい人材だから。

予定外の仕事をどんどん押し付けられて、残業は増えるのに給与は変わらないのです。

これでは仕事のモチベーションも落ちてしまいます。



僕はこの後会社辞めたのですが、C++ 導入させた先輩も、僕のしばらく後に辞めてしまったそうです。

高い技術力を持った人材を囲い込めなかったわけで、年棒制の導入の失敗例です。




一方、他部署の人から聞いた話ですが、そちらの部署ではほぼ全員を年棒制に移行させたようです。

結局、誰を移行させるかは現場(おそらく部長)の判断だったみたい。


この場合、技能に応じて年棒が決まるので、技能が特に高くない人は、本当に「残業代カット」にしかなりません。



その結果、部員が団結して「残業はしない」雰囲気が出来上がったのだとか。

締め切りが近かろうが、トラブルが起きようが、技能が高い人も含めて、定時になったらみんな帰ります。


スケジュールに明らかな遅れが目立つようになりました。

それによって、部署としてのノルマは達成できず、業績が落ちました。


こちらも、年棒制導入の失敗例。

定時で帰れる雰囲気ができた、というのは悪いことではないですけど。




ずっと後になって、独立して自分で仕事するようになってから理解したのですが、「裁量労働」というからには、仕事内容を自分でコントロールできる必要がありました。


会社で、上司から指示された仕事を行う、という就業形態だと、仕事内容を自分でコントロールできません。

すると、残業の発生も自分でコントロールできなくなりますし、その状況で残業代が出ないのは「おかしい」状況にしかならない。


もっと、大きなくくりで「ミッション」を定めないといけません。

たとえばゲーム作成なら「ゲーム内のボスの動きをすべて担当」とかをミッションとする。


もう少し細かく言えば、最初のボスは仮の動きをいつまでに、次のボスはいつまでに…全部仮の動きができたら、ブラッシュアップをいつまでに…と、仕事内容を「契約前に」決めておく。

その上で、年棒額も提示して、折り合えば契約とする。


これなら、自分の裁量で働けます。

仕事が思ったよりきつくて残業続きになっても、それは自分が最初に契約したのだから仕方がない。


逆に、頑張って予定を前倒しにしたら、仕事を休んで遊びに行ったってかまわない。

年棒になって就業時間は関係ないのだから、昼過ぎで仕事を終わりにしてコンサートに行ってもいい。



本来、「裁量労働制」ってそういうことのように思います。

会社が一方的に残業代カットの道具に使うのはおかしい。


…のだけど、上に書いたように「折り合えば契約」が前提とすると、残業代カットにしかならない契約を呑んでしまった側にも問題がありますね。

労働者側がちゃんと勉強していれば防げることでもあります。



ここら辺、以前に詳しく書いたことがあるので、興味ある方はそちらの記事をお読みください。




昨年の夏から、東京都は通勤ラッシュ時の混雑を緩和しようと、「時差Biz」という取り組みを始めています。

通勤時間をずらすことで快適に働けるようにする、働き方改革の試み。…だそうです。


一応、東京オリンピックの際に外国人観光客が増えて公共交通機関が混雑するだろう、ということも見据えての取り組みなのだけど、これって結局通勤して、決められた時間は働くことが前提。


同時に「テレワーク・デイ」という取り組みも始まっています。

でも、こちらも昨年時点では取り組みが低調でした。


低調な理由は、技術的に「家で働ける」としても、本当に仕事しているのか誰がチェックするのか…なんてところでもめているから。

就労時間で縛ろう、という発想が抜けていません。


こちらに関しても、去年書いているので興味ある方はどうぞ。



20年前から、同じところでぐるぐる回っている気がします。

法律では裁量労働を導入しようと頑張り続けているのに、社会全体が就労時間で縛ろうという体勢から抜け出せません。


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別年同日の日記

07年 電車のパン

13年 ハングアウト

16年 山登り


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凄腕プログラマ  2018-06-06 17:16:47  業界記

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以前、技術力の低いプログラマの話を書いたことがあります。


いわゆるコピペプログラマ。

プログラムを「読む」ことは出来るし、「組み合わせる」こともできるけど、1から「書く」ことは出来ない人。


人数が多いと、そういう人もいる一方で、恐ろしく技術が高い人もいます。


僕がセガにいた頃には、部署内で明らかに「別格」の人が3人いました。

三強というか、三賢者というか…3人なので、勝手にそう思ってました。




一人は、テクニカルサポート課の課長。


…そのころは「凄腕」だと思っていたのだけど、今振り返ってみると少し違うかもしれない。


会社柄、みんなゲームのプログラムは出来ました。

でも、テクサポ課の課長は、みんなとは知識の質が違った。


部内で唯一、ネットワークやサーバーの知識があり、部署内のインフラ整備を一手に引き受けていました。


プログラマは、仕事の道具として UNIX を与えられていたので、当時の標準だった「MS-DOSしかわかりません」という人よりは UNIX 知識がありました。


でも、多くの人は ls や grep 、せいぜいが sed を使うくらい。

プログラムを書かないといけない都合上 Emacs は使える人が多かったけど、それも使わずに HP-UX 標準の、機能の低いエディタを使っている人もいました。



僕が awk や perl をつかえただけで「すごい」と思われていたような世界なので、ネットワーク整備なんて誰もできないのです。



僕がテクニカルサポートに入ってからは、テクサポ課の課長からネットワーク・サーバーの知識を教え込まれました。

だから、当時「誰もできない凄い知識を持っている」と思いましたし、部内のみんながそう思っていました。



…でも、僕自身がサーバー管理できるようになった今考えると、課長の知識はちょっと怪しかった部分あるな。

それでも、まだ Linux がそれほど普及しておらず、UNIX に触る機会も少ない状況下で、部署内のサーバー・ネットワーク管理を一人でやっていた課長は凄腕だったと思います。




もう一人は、先日書いた、ST-V の BIOS を書いた先輩。


ST-V の BIOS 機能はあまり活用されなかったのですが、ちゃんとマルチカートリッジ対応になっていて、ゲームセレクトボタンを押されたら次々に刺さっているカートリッジのゲームを切り替える機能がありました。


タスクスイッチ、みたいなものですね。

ST-V はシングルタスクではありますが、複数のゲームを同時に扱えたのです。


ハードウェア的にはサターンと同じですから、マルチカートリッジは BIOS のソフトだけでやっています。

…まぁ、タスクをゲーム中にスイッチするようなことはないので、ハイスコアやコイン設定、Book keeping (いくらコインが入って何回遊ばれたか、などの記録集計)などが正しく管理されていれば良いだけですけど。


もっとも、このコイン設定は非常に複雑怪奇なので、それをちゃんと作っただけでも賞賛ものだと思うのですが…



周囲から「凄腕」だと思われるのは重圧だったようで、BIOS なんて時間さえかければ誰でも作れるよ、とよく言っていました。




この2人、人がいない深夜のほうが集中できたそうで、良く泊まり込んでいました。


テクサポ課の課長は、深夜に徹夜で仕事して、みんなが出勤する時間になると仮眠室に行って寝ました。


BIOSの先輩は、徹夜はしませんでした。6時間は寝ないといい仕事ができない、というポリシーを持っていました。

でも、仮眠室の「誰が寝たかわからない布団」は嫌なのだそうで、深夜2時くらいまで仕事をすると、机の下で寝袋で寝ていました。

そして、皆が出勤してくる9時半ごろには起きる。


#勤務時間はフレックスでしたが、10時にはいないと「遅刻」扱いだったので、多くの人が10時前出勤でした。




残る一人は…多分、プログラムの腕前的には、この人が一番の凄腕。


後に正式にテクニカルサポート課に編入されるのですが、ゲームプログラマとしても間違いなく凄腕でした。

作るプログラムの品質が良いだけでなく、作成速度も速いのです。


ただ、その天才さゆえに、人に対する要求も厳しい。

自分ができることを他の人ができないと、容赦なく「そんなプログラムじゃダメだよ」って言い捨てるのです。


それゆえに、この先輩を怖がっている人も多くいました。

僕も、以前はこの先輩苦手でした。



でもある時、僕が HP200LX を使っているのを知り、先輩から話しかけられました。

興味は持っているのだけど購入に踏み切れないので、ちょっと見せてほしいのだそうです。


行動が早くて、試用した数日後には購入して持ってきたのではなかったかな。

そして、数週間後には RAM増設、クロックアップ改造をしていました。


僕は、改造できることは知っていましたが、壊してしまう可能性を考えると怖くてできませんでした。

HP200LX 、結構高価だったからね。


…と先輩に言ったところ「じゃぁ、実費で改造してやるよ。失敗したら責任取って弁償するから、それなら安心だろ」って。

翌日には改造キットを買ってきて、目の前で改造してくれました。


#半田ごてとか、工具一式は仕事柄部署に置いてあるので。




この件があってからたびたび話をする仲の良い先輩になったのですが、ある日「C++ 知ってる?」と聞いてきました。

僕は一応興味があって勉強はしていたのですが、試用程度にしか使ったことがありませんでした。


でも、先輩も C++ に…というか、オブジェクト指向をあまり知らなかったので、興味があって勉強したのだそうです。

そしたら、ゲームとオブジェクト指向は相性が良いのではないか、と思ったのだけど、自分だけの直感だったので話し合える人が欲しかったらしい。


オブジェクト指向って、「言語」の話ではなく「データ構造」の話です。

ただ、オブジェクト指向言語と呼ばれる言語は、そのデータ構造を扱いやすい工夫があるだけ。


そして、当時アセンブラかCで作成していたゲームも、すでにオブジェクト指向でプログラムが行われていました。

アセンブラからでも扱いやすい方法なので、本当にシンプルな形ですけど。


でも、先輩はこの時点で「C++ は普段使っているライブラリと相性がよさそうだ」という直感はあっても、ちゃんとした理解に至っていなかった。

そこで、すでに普段使っているライブラリがオブジェクト指向なので、C++ とは当然相性が良いでしょうね…というような話をします。


具体的には、C++ の class が構造体の拡張表現であり、普段使っているライブラリの構造体と同じような形式になっている、という説明だったと思います。

オーバーライドなどのオブジェクト指向に特有の表現も、構造体に処理先ポインタを入れてあるのと同じもので…とかね。



で、先輩の結論は「ゲームを作る上で C++ はすごく適している。ぜひ広めるべきだ」。



この時、先輩は新しいゲームのチーフプログラマーでした。

でも、まだプロジェクトが本格化しておらず、時間があるのでライブラリを C++ 用に作り直します。


ライブラリ…と言っても誰かが作ったもので、ソース一式そろっていました。

それをすべて C++ で扱いやすいように改造します。

2週間くらいで一通り作ってしまったのではなかったかな。


そして、次のゲームはすべてを C++ で作る、とチームのプログラマに宣言しました。


…これね、すごく実行力もあるし、天才の仕事だと思う。

でも、巻き込まれたチームの人は、急に新しい言語環境を強要されて大変だったみたい。


こういうことするから、怖い人だと思われているのではないかと。




1年半前の日記に、当時やっていたテレビアニメ「NEW GAME!」の話を書きました。


アニメの舞台はゲーム会社のグラフィックチームなのだけど、机の下で寝袋で寝る人とか、天才肌で自分と同じようにできない人を見下す人とか、個性の強い人々が出てくる。


お話だから強烈な個性に書いているように思われるかもしれないけど、実際ゲーム会社にはそういう人いますよ…と書いていたのですが、今回紹介した先輩方です。



凄腕だから、強烈な個性を持っていても大目にみてもらえる、という側面もあります。



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関連ページ

年棒制【日記 18/07/18】

別年同日の日記

02年 晴天の霹靂

02年 Home Brew

04年 そう来るとは思わなかった

04年 77の手習い

04年 怪我

11年 PC購入

13年 次女のぬいぐるみ

14年 フェルディナント・ブラウンの誕生日

16年 テトリス完成(1984)

17年 キャベツ料理


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レイディアント・シルバーガン  2018-05-30 16:34:36  業界記

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以前書いたように、サターンで人気のあったゲームを ST-V でも出してもらう、という方向でいくつかのゲームがリリースされました。


サターンで人気、と言えば(株)トレジャーをほおっておくわけには行きません。

メガドライブで高い技術力を見せつけるゲームを発売し、そのままサターンのゲームも作成していた人気会社です。


詳しい経緯は知らないのですが、最初はサターン用に何か発売できるゲームはないか、とお願いをしに行ったようです。

でも、この時点でトレジャーが出しているサターンソフトは「ガーディアンヒーローズ」のみで、あまり業務用向けの内容ではなかった。


そこで、サターンで次に出す予定だった新作を、サターン発売前に ST-V で発売する、ということになったようです。

それが、1998年5月発売のレイディアントシルバーガン。シューティングゲームでした。




ST-V で動作するようになった最初のバージョンは、その時点ですでにかなり面白い物でした。

まだ開発中なので、途中の面までしか作られていない。バランスもこの時点では悪かった。

なのに、すごく面白い。



シルバーガンを知らない方のために説明しておくと、一応シューティングゲームです。

でも、すごく独特。パズルみたいなところがあります。


ボタンは3つ。どれも攻撃ボタンで、違う弾が出ます。

それどころか、同時押しでも違う攻撃になり、全部で7種類の攻撃が出せます。


でも、強力な攻撃で敵を一網打尽…ではだめなのです。

適には3種類の色があり、同じ色を連続で倒していくと、その時倒した武器が強くなっていく。

どこでどの武器を使うか、よく考える必要がありました。


そして、何よりも独特なのが、「ほとんどがボス戦」というゲーム内容。

雑魚が出てくる部分は最小限で、だから「同じ色の敵を連続」も、よく考えないといけない。


そして、パワーアップした武器で、動きに癖があって、攻略しがいのあるボスに挑みます。




ボスはそれぞれ個性的で、作るのが大変そうなのがわかりました。

でも、新しいバージョンが送られてくるたびに、どんどんボスが増えていく。


ボス登場の際には、ボスの名前が表示されるようになっています。

この名前と、ボスの動きを見ると…過去の名作シューティングゲームとか、アニメとかを、いろいろとパロディ化しているのがわかる。


送られてきたバージョンは、部内で自由に遊べるようにして、意見をトレジャーに送っていました。

かなり元ネタが明らかなパロディに対し、「著作権的に大丈夫なのか」と心配する声も多く出ました。

一部は少し名前を変えたり、おとなしい表現になったのではなかったかな。


#それでも元ネタははっきりとわかるのですが


新しいバージョンが来るたびに、役得でやりこみました。

もっとも、僕はシューティングそれほど得意ではなくて、最後まではいけませんでした。

最後までクリアしていたのは部内で数名だったかな…



とにかく、シルバーガンの凄さを語ると、いくら文字数があっても足りません。

熱く語っているサイトたくさんあるので、知らなかったけど興味ある、という人は、そういうページを参照してください。




ある時、ST-V 独特の処理…BIOS 関連だったと思うのですが、わからない部分があるので教えてほしい、という要請が来ました。


僕はテクニカルサポート課ではありますが、BIOS を作ったのは別の先輩。

その先輩と、直接担当の営業の人と、3人でトレジャーを訪問します。



立場上訪問はしたものの、質問は先輩の専門部分なので僕は特にやることなし。

営業の人と一緒に、トレジャーの開発中のゲームなど見せてもらっていました。


先輩はシルバーガンのプログラマーの人と話し込んでいましたが、どうやら「わからない部分」というのが開発用ハードウェアの不具合のせいだったようです。

別の基板を貸し出す、と約束して決着したと思います。BIOS を作った先輩が来る必要はなかった。




さて、要件が終わったから帰りましょう…となった時に、営業さんがトレジャーの社長から呼び止められました。

せっかく来てもらったのだし、焼き肉でもどうですか、とのこと。


たしか、まだ17時前だったと思います。就業時間中。

でも、社長のおごりにするから全員で行こう、となってトレジャーの人全員と焼き肉会。


#締め切りが近いチームの人は参加しなかったかも…



セガの、ST-V に詳しいプログラマが二人もいますし、トレジャー側も技術力の高い人ばかり。

いろんな技術話などで盛り上がった…ように思います。


作成中のシルバーガンについても、難易度調整とかどうですか? と聞かれたのははっきり覚えています。

作製チームはこれでいい、と言っているのだけど、社長さんから見たら難しく感じるので、外部の人から見てどうか、という質問。


僕はシューティング得意ではないのですが、テストプレイでやりこんでいたので十分普通に遊んでいました。

部署内でも、上手な人は普通にクリアできています。

ゲームセンターに置くなら腕の立つ人も多いので、このままでよいと思います、と答えました。



…今考えると、シルバーガン難易度高いよね。

パターンゲームなので、繰り返し遊ぶうちに覚えてしまって、普通に楽しめるようになるのだけど。




その後、完成が近づいた時に、営業の人からローマ字フルネームの確認を受けました。

スタッフロールに名前入れるから、間違いがないか確認だって。


AC/SS 版には、Special Thanks として、BIOSの先輩、僕、営業さんの3人の名前が入っています


…でも、上に書いたように、僕何にもしてない。

部署内で遊んでもらった報告取りまとめたり、大量生産に必要な書類書いたりして、焼き肉おごってもらっただけ。


しかしまぁ、入れてくれるというのだからありがたい…その時は軽く考えていました。

面白いゲームだから、そこそこ売れるだろうな、程度にしか思ってなかったから。


…後の評価は、伝説級ですね。

こんなゲームに名前を入れてもらえたというのが、すごいことでした。




発売された業務用は、シューティングゲーム好きの間で高い評価を得ました。


いや、賛否両論と言った方がいいかもしれない。

好きな人は好きな一方で、パズル性が高すぎてシューティングではない、という人もいたから。

でも、物議をかもしたというのはそれだけ存在感があったということです。


しかし、「商品」としては、実はあまり良いものではありませんでした。

攻略するタイプのゲームだから、マニアに攻略されると、あっという間に1プレイの時間が伸びます。


100円で最終面まで行く人が続出、とかになると、お店としては採算に合わないのね。



その上、業務用に置かれて話題になっているうちに…発売1カ月目くらいに「サターン版を7月に発売する」という発表。

ST-V版が5月発売で、それから1か月後くらいですから、もう来月には発売するという予告ですね。


先に書きましたが、もともとサターン版を作成していて、それを業務用にも「発売してもらった」感じでした。

だから、本来トレジャーの人たちが作りたかったのはサターン版。


サターン版では、CDの大容量を活かしてストーリーシーンを入れ、業務用では意味不明だった数々の「謎」が解き明かされる。


…このゲーム、いきなり3面から始まって、次に2面に進むか4面に進むか選ぶんだよね。

これ、ストーリーがあると何やっているのかわかるのだけど、業務用だと意味が分からなかった。


しかしまた、業務用を気に入った人からは「余計なストーリーシーンが入ることでテンポが悪くなった」とか言われるわけです。

一方で、独特の世界観を持つストーリー展開を絶賛する向きもある。



でも、サターン版の発売告知は、店舗から見ると採算性をさらに落とすものでした。

1か月後に入手可能とわかったらみんな遊ぶのをやめてしまったから。


当然ながら、この後業務用のカートリッジも売れ行きが落ちます。

サターン版はせめて半年待ってほしかった…店舗側から当時聞かれた意見のようです。




さて、業務用での収益があまり良くなく、カートリッジもあまり売れていない。

営業上は「このゲームはあまり売れていない」ということになります。


どうも、サターン版の作成枚数は、この実績をもとに決められたようです。


でも、先に書いたようにゲーム好きからは高く評価されていた。

業務用の収益が悪いのだって、みんなサターン版を待っているからです。



結果、発売前の予約でほとんど売り切れ。

発売日まで待って購入しようとしても、店頭にはほとんど並ばず、買えませんでした。

その後の再生産もなし。中古品にはプレミアがつき、定価の3倍…1万5千円から、特に高い時には2万円くらいになりました。



僕としては、エンディングにも名前入れてくれたのだし、サターン版1枚くらいもらえるのでは…

と思って予約しておらず、結局入手に失敗しました。



数年後に中古品入手したので、ちゃんと手元にはありますけど



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凄腕プログラマ【日記 18/06/06】

別年同日の日記

02年 続・探し物

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テクモワールドカップ'98  2018-04-29 16:25:25  業界記

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1998年の4月に発売になっています。


「テクモ」と名前に入っている通り、テクモのゲームです。

ゲーム基板は ST-V 。ST-V のタイトル数を増やすために営業の人がテクモに交渉し、開発してもらったゲームでした。


以前も少し書きましたが、ST-V のタイトル数を増やすために、営業の人がセガサターンで面白いゲームの「業務用移植」を頼んでいました。

テクモワールドカップはサターンには出ていないようですが…


1997 年に、サターン用に「Jリーグ GO GO GOAL!」というゲームを出しています。

画面構成などずいぶんと違うのですが、おそらくはこれの業務用アレンジが「ワールドカップ '98」。



生産・販売はセガ。だから、セガ社内の書類事務や、生産工場に対する申し送り業務を誰かがやらなくてはなりません。

この「誰か」とは、ST-V に対するサードパーティサポートをやっていた部署…つまりは、AM1 研のテクニカルサポート、僕のことです。



生産と流通はセガが行いましたが、セガがお金を出したゲームではありません。

だから、ゲーム内容には口を出さない。通り一遍のバグチェックを行い、発売するための社内規定を満たしているかのチェックを行い、書類を整えて申し送りをするだけです。


ゲームは、開発用のフラッシュロムカートリッジに入れられた状態で送られてきました。

まずは、このデータを他のカートリッジにコピーし、部内でチェックプレイを行う必要があります。




ところが、ここで問題発生。

コピーすると、なぜか実物と違って、ゲーム中の速度が速く…なんだか、2倍速で回しているような動きになってしまい、ゲームにならないのです。

コピーミスかと思って、いろんなカートリッジを使い、何度コピーしても同じ。


テクモの担当者に電話をして何が起きているのか聞きました。

「その症状は、コピープロテクトに引っかかってしまっている」とのこと。



ここで初めて知りました。

セガ社内でも使っていなかった「コピープロテクト対応 ST-V カートリッジ」というものがあり、このゲームはそれに対応していたのです。

普通のカートリッジにコピーすると、プロテクトに引っかかってしまうのでした。



ハードウェア部署に、対応カートリッジについて問い合わせます。

通常のカートリッジを改造して作ったもので、貸し出せる在庫はないとのこと。

つまり、マスターとなっているカートリッジをそのまま使うしかありません。



うまく動かなかったとはいえ、コピーの際にデータはファイル化していました。

この内容を信じて、ROM 化するためのデータを作ります。


このゲームに限ったことではないのですが、ST-V ゲームの大量生産用のマスターロム作成は、少しおかしなことになっていました。


生産する ROM と同容量の EP-ROM がないため、半分の容量の ROM で作成し、それぞれの ROM のチェックサムをつけて申し送るのです。

ROM にチェックサムをつけていると言っても、出来上がってくる ROM は2つあわせた容量になっているため、チェックサムは異なります。

生産を頼む段階でのミスは防げますが、上がってきたものが正しいかどうか確かめる方法はない、という状態でした。


しかしまぁ、そういう慣例だったので書類などもそのように作ります。


その間に、マスターのカートリッジの方のチェックプレイもある程度やってもらいました。

ゲームにもおかしそうなところはありませんし、各種テスト項目も満たしていました。


これで、ROM 生産の申し送りは出来ました。



次に、今回の特例として、コピープロテクト用の LSI チップを生産しなくてはなりません。

このための申し送り書類と、ROM が上がってきた時にチェックプレイなどを行うための、テスト用の LSI チップを数個、手作りします。


この LSI チップを作るための道具は、特別なカスタマイズ品でハードウェア部署に1つあるだけでした。

プロテクトのための情報が何も書かれていない LSI と、この「道具」を借りてきて数個生産します。

使ったことのない機械、やったことのない作業で、プロテクトがらみのため「一度失敗したら使えなくなる」LSI だったので、緊張しました。




プロテクトの仕組みについて説明しましょう。


まず、もともとこの LSI は、プロテクト用途に開発されたものではなかったそうです。

じつは、静的ハフマン圧縮されたデータを展開するハードウェアチップ。セガのハードウェア部署が開発したものでした。



ハフマン圧縮というのは、zip や gzip などで使用されている圧縮方法です。


特徴の一つは、圧縮を「辞書」によって行うこと。

展開のためには、圧縮データ中にこの「辞書」を一緒に入れておく必要があります。


辞書を入れることでデータが増えますが、それによって圧縮できる割合が増加分以上であれば、入れる価値があります。


そのため、一つの圧縮データ中でも、時々辞書を入れ替えるのが一般的な方法です。

局所的にデータの特徴が変わることは多いので、場面ごとで適切な辞書を使うことで圧縮率を上げるのですね。



しかし、ハードウェア部署が作成したチップでは、静的ハフマン圧縮を使っていました。

「辞書」を回路の中に最初から作りこんでしまい、交換できません。


辞書自体は、交換はできないとはいえ、LSI チップごとに1度だけ書き込むことが出来ました。

なので、ゲームが完成してから最適な辞書を求め、専用のカスタマイズ LSI を作れば、それなりの効果があります。


…いや、あまり効果なかったそうです。ゲーム中に使われる多くのデータを「全部まとめて」圧縮できるような辞書を作ると、データの特徴が平均化されてしまい、圧縮効率が上がりません。



そのままでは、圧縮用途としては使えません。そこで、「プロテクト用」と目的を変えて使うことにしたのです。




この LSI チップは、ROM カートリッジのバスの途中に挟み込まれていました。


通電した最初は「互換モード」になっています。

データを読み込む際、LSI は特に何もせず、アドレスバスに示されたデータアドレスからデータを読み出し、データバスに返します。


しかし、I/O ポート経由で「展開モード」にすると、実際のカートリッジのデータを加工して返すようになります。

アドレスを最初に指定してから連続して読み出しを行うと、最初に指定したアドレスからのデータを「展開して」データバスに返すのです。



最初は互換モードで、ゲームの初期化を行うプログラムを読み込み、動き始めたとします。

このプログラムが「展開モード」を指定し、ゲーム本体プログラムを読み込んだとしましょう。


これで、圧縮されていたゲームプログラムが展開されながらメモリに読み込まれます。

当たり前のことながら、ゲームプログラムを呼び出せばゲームが動きます。


ここで、LSI チップが入っていない通常のカートリッジや、LSI チップが入っていても別のゲームのものだったりしたらどうなるでしょう?


ゲームプログラムは正しく展開されず、呼び出しを行った時点で「暴走」します。


LSI チップの中には「辞書」が含まれていて、この辞書はゲームごとに異なるものです。

そして、この LSI は一般的なものではなく、セガだけが持っているものです。


これは、ゲームのコピーを防ぐための仕組みになりえます。

元々圧縮展開用の LSI でしたが、コピープロテクト用としても十分に使えるのです。




テクモのゲームでは、ほぼ完成間近になってから、この LSI に対応したのだそうです。

そのため、プログラムを圧縮するような方法は使いませんでした。


画面に表示するテクモの会社ロゴを、圧縮と非圧縮の2つ持っている、と聞いたように思います。


アドバタイズの冒頭にはテクモのロゴが表示されますが、これは圧縮データを展開したもの。

この表示の際に、展開後の表示データと、非圧縮データを比較します。


あっていれば正規の ROM 、違っていれば、違法コピーです。

そして、違法コピーなら「事実上ゲームにならない」ように、2倍速で動かすようにしました。


#参考:

 実機動作画面

 ロゴ・タイトルが展開できていない状態(MAME)

 MAME では、現状「2倍速」の部分にパッチが当たり、遊ぶことはできるようです。


もし、「ゲームが止まる」ようなプログラムを組めば、その部分を探し出して回避されてしまうかもしれない、と考えたようです。

それよりも、一見動いているように見えて実はゲームにならない、というようなものであれば、コピーに失敗していることにすら気づかず、回避策はとられないかもしれません。


ここら辺、8bit 時代の PC ゲームのコピープロテクトなんかでも使われた考え方ですね。




このプロテクト用の…というか、ハフマン展開 LSI 、僕はこれ以外のゲームで見たことがありません。

カートリッジ開けない限りわかるものでもありませんし、もしかしたら他にも使われているのかもしれませんが。



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別年同日の日記

13年 ハムスター

15年 ポール・バラン 誕生日(1926)

15年 「オセロ」 発売日(1973)

16年 お昼ご飯の思い出


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ダイナマイト刑事2  2018-04-27 15:00:52  業界記

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ダイナマイト刑事2

忘れもしない1998年 4月 9日。


…って、本当は忘れてたけど、さっき古い雑誌見たら日付まで書いてありました。

そろそろ20年だよな、という程度には覚えていたのだけど。


さて、その 4月 9日に、ダイナマイト刑事2のお披露目が行われました。

普通のゲームではなかなかないことなのですが、選ばれたゲーム雑誌などの記者さんを招待する形で、船上クルーズパーティでのお披露目です。



#日記に添付した写真は、雑誌「サターンファン」1998年5月15日号 182ページで伝えられた、発表会の模様レポート記事から抜粋。

 クリックすることで記事全体を読めます。




ダイナマイト刑事は ST-V 基板で作られた、高層ビルを舞台とした格闘アクションゲームです。

いわゆる「ダブルドラゴン」とか「熱血硬派くにおくん」のタイプのゲームね。


ポリゴンを使っていたことと、そこらへんに落ちているものを何でも「武器」として使える、派手なアクションが特徴でした。



で、結構人気出たので、2が作られたのです。


作製はまた、アメリカチーム。企画者は同じですが、メンバーは変わっています。

アメリカでやっていたから、作っていた経緯とかは知りません。


完成版が日本に送られてきて、第1作の日本での担当者がまたプロモーションなどを担当して、その段階を知っているだけ。



対応基板は、ST-V ではなく、Model 2 でした。


ダイナマイト刑事って、ゲームとしては「佳作」だと思います。よいさくひん。

何が何でも手に入れたい、遊びたい、って作品ではない。でもそこにあれば遊ぶし、ちゃんと楽しめる。そういう作品。


そういう作品になると、値段が結構重要です。ST-V なら安いから買ってもらえるけど、Model 2 は基板が高いのでね…


人気作品の続編とはいえ、売るためにはちゃんとしたプロモーション活動が必要でした。




そこで、冒頭に書いたお披露目会です。

単体のゲームのお披露目を行うって、結構異例のこと。

普通はゲームショーか、セガのゲームをいくつかまとめて発表する、業者向けの内覧会でお披露目しますからね。


ダイナマイト刑事2は、豪華客船が舞台でした。

だから、お披露目会もクルーズパーティで行おう、ということになりました。


第1作のラスボスが、今回もラスボス。逮捕したのに脱走した、ということになっている。

第1作で事件に巻き込まれた「大統領の娘」がなぜかまた事件に巻き込まれている。

そしてもちろん、主人公も同じ人。これは事件を知って乗り込むので、偶然居合わせたわけではない。



クルーズパーティに合わせて、担当者は主人公のコスプレをする、と決めていました。

と言っても、主人公ってジャケット着て銃持っているだけなのよ。

コスプレしても、言われないとわからないレベル。


2のゲーム中には、敵に「カニ男」とか、インパクトが強いのがたくさんいます。

カニ男なら、大きな蟹を背負っているの。カメ男とかサメ男もいる。


こういうコスプレをやれればインパクトあるのだけど、作るの大変そうだし、お披露目は3日後…

というような愚痴を担当者から聞きます。



何も、そんな新キャラをコスプレしないでも、ダイナマイト刑事と言えば「大統領の娘」じゃん。

2のお披露目に来る人は、2はまだ見ていないのだから、1から通しで出ているキャラのほうがわかりやすいよ、とアドバイス。


しかし、大統領の娘って不細工なんですよね。

少ないポリゴン数で描かれているので顔が不気味に見える。


娘なら女性だけど、不細工役をやってもらうのは失礼だろう…とまだ愚痴る担当者に、いや、不細工だから男がやればいいんだって、と言います。


なるほど。それは面白いアイディアだ。

言い出しっぺのお前が是非やってくれ、と頼まれます。



いや、僕はプログラマだからイベント手伝いなんてやっている暇はないよ、と言っても後の祭り。

企画課課長を通し、プログラム課の課長に書面で正式な要請が行われ、僕が「イベント手伝い」に駆り出されることになりました。




寸劇。


パーティが行われている部屋の扉が急に開き、銃を手にした男が入ってくる。


ブルーノ(主人公):


おっと、みんな動くな! 今、テロリストがこの船に乗り込んでいるという知らせが入った。

運悪く乗り合わせた大統領の娘が人質になっているらしい。

お楽しみのところ申し訳ないが、身体検査をさせてもらうぜ。



その時、パーティの料理を置いたテーブルのクロスの下から急にピンク色のドレス姿の人影が這い出して来る。

(人が入る前から30分くらい、そこで隠れて待っていた)


大統領の娘:


まぁ、救出に来てくれたのね。ありがとう。

私が大統領の…



パンッ!

ブルーノ、大統領の娘(自称)を無言で銃で撃つ。倒れる娘。


大統領の娘:


ひ・・・ひどい。

私は大統領の娘よ。

パパに言いつけて…


パンッ! パンッ!


ブルーノ:


大統領から、娘さんは可愛いと聞いている。

お前テロリストの仲間の偽物だろう。死ね!


パンッ! パンッ!




…ってな感じの劇を飛び込みでやったのですが、ひどいことにオチを決めてなかった。

殺されたので動くわけにもいかず、しばらくそのまま倒れていましたが…



ブルーノ:


急にお騒がせしました。実は、わたくし本日の司会をいたします…



と自己紹介を始めたので、僕も立ち上がって自己紹介して終了しました。

パーティの間はずっと女装だったけどな。



…で、その場にいた漫画家の柴田亜美さんが、ファミ通でネタにしてくれました。

この話は過去に書いてるね


そちらの記事で最後に書いたけど、女装衣装は会社に経費請求したのに却下されました。

まぁ、最初から経費になるとも思ってなかったのだけど。


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別年同日の日記

02年 4/26

03年 ほっかいどぉ

08年 誕生日とG.W.

11年 誕生日

14年 相模湖リゾート プレジャーフォレスト

15年 ピューロランド・追記

15年 サミュエル・モールス 誕生日(1791)


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ST-V事業のテコ入れ  2018-04-26 17:43:20  業界記

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以前に書きましたが、ST-V ってネオジオの開拓した「駄菓子屋ロケーション」を奪う戦略商品でした。


でも、そういう位置づけでありながら、社内は「売上」でノルマを課せられていました。

基板もソフトも単価の安い ST-V を一生懸命やるのは、社内的には「馬鹿げている」のです。



これも以前にも書きましたが、AM1研は、社内で必要とされていることはやる、という感じの部署でした。


決して派手ではないが、ゲームセンターの隅に1台は置いておかないといけないようなゲーム…

コラムスとか、野球ゲームとか、占いとか。そういうものを開発するのは AM1研の仕事でした。


こういうゲームは、それほど売り上げが伸びないとわかっているので、安くないと買ってもらえません。

必然的に ST-V で作ることになります。


でも、AM1 研だけで作っていても、ゲームの数は少ないのです。

せっかくカートリッジ式でソフトの交換を簡単にしているのに、肝心のゲームが少ない。

ST-Vの弱い部分でした。




どこかの段階で、会社の方針としてもう少し ST-V に力を入れる、となったようです。

ここら辺、詳しい経緯は知りません。


でも、売り上げベースのノルマは変わらない。

当然、開発各部署は、ST-V のゲーム開発に力を入れたいとは思わない。


内部開発がだめなら、外部に頼めばいいじゃない、ということで、ST-V 基板をサードパーティにも広く開放するようになったようです。



もちろん、今までもサードパーティ作品はありました。

でも、これらは主に2つの群に分かれていて


・セガが資金提供して開発させたサードパーティ作品

・元々業務用ゲームを作っている会社が、開発ターゲットとして ST-V を選んでくれた作品


でした。


これに加えて、新たに以下のような枠を広げようとしたのです。


・サターンのゲームの ST-V 移植作品


これまで、ST-V のゲームはサターンに移植できる、というメリットは利用されてきたのですが、その逆はあまりありませんでした。

でも、この道ができれば、ST-V のゲームは大幅に増えるはずでした。




この戦略のために、営業に ST-V 専任の人が割り当てられたようです。

AM1研内に、テクニカルサポート部署ができたのもその流れの一環のようです。


そして、当然のことながら、営業の人とテクニカルサポートの ST-V 技術担当…つまり僕は、頻繁に連絡を取り合うようになります。

何社か、営業の人と一緒にあいさつ回りをした覚えがあります。



その時の1社、…名は伏せますが、塾の教室のようなところで開発を行っていました。



学校の教室ほど広くないスペースに、小さな机が、同じ方向を向いて整然と並べられています。30人くらいでしょうか。

パソコン置いたら他に何もスペースがない。椅子の後ろはすぐ他人の机で、席を立つのも気をつかう。


資金的な問題などもあって仕方がないのだとは思いますが…こんな状況では、気持ちの余裕は持てなくて、良いゲームは作れないだろうな、と思いました。

(実際、その会社のゲームは面白くないものが多かったので…)


これは一番ひどかった例で、多くの中小企業は少人数でした。

30人くらいも雇っておきながら、狭い部屋しかもっていない、というのがかなり変な例なのね。


大抵は数人で開発していて、狭い事務所か、マンションの一室を借りています。

大学時代2カ所ほど、ゲーム会社でアルバイトしていましたが、そこもそうした感じでした。



セガの環境がいかに恵まれているか、よくわかりました。

いろんな会社を見ることは大切で、プログラマーだけをやっていたらそうした機会はなかったでしょう。




営業の人との交流は、それまでになかった視座を与えてくれました。

それまでは「開発の人間として」良いゲームを作ることが一番大切だと考えてきました。


良いゲーム、という定義も難しいのですが、まずはゲーム好きな人に認めてもらえるようなものを作りたい。

ただ、AM1 研の方向性として、特にゲーム好きでない人に気軽に遊んでもらえるもの、というのもアリです。


でも、営業の立場から言うと、それらは決していいゲームではないのね。

「お客さん」を、ゲームを遊ぶ人だと思っているから。


営業にとってのお客さんは、ゲームセンターの経営者。

ゲームセンター経営者が儲かって喜んでくれるのがいいゲームです。


もちろん、面白くて遊んでもらえるものがいいに決まっている。

でも、それに加えて安く買えること、プレイ時間が短く連続して遊んでもらえること、お客さんの多く来る夏休み・年末年始などの前に発売されること、なども重要です。


特に発売時期に関しては、作成現場では全く意識されていませんでした。

2月と9月のショーでお披露目をする、という意識はあっても、これらのショーは「ゲームセンターが暇な時期だから」その時期に開催しているフシもあります。


みんながその時期を目指してしまうと、ゲームセンターの人・営業の人にとっては、ゲームが欲しい時期に良い商品がない、となってしまうのです。


#と、コラムス97 のところで書いた話は、作っているときにはちゃんと理解できておらず、後から真意を知った話なのです。




もう一つ、営業の人と外回りをしたのも勉強になりました。

外の会社を見るということは、自分の会社を外から見る機会にもなります。


小さな会社の開発者は、開発期間やコスト意識に敏感な人が少なからずいました。

セガでは、そのような開発者は、部課長クラスを含めても多くはありませんでした。


小さな会社では、会社の状況を開発者まで感じていて、とにかく儲かるゲームを作ろうと一生懸命なのですね。

ゲームが売れずに会社がつぶれてしまえば、自分の明日からの暮らしに困るのですから。


そうなると、妥協は許されません。ゲームを作るための情熱が違います。



セガだって情熱をもってゲームを作っている人はたくさんいましたよ。ゲーム作るの好きで入社したのですから。

でも、「お仕事」と割り切っている人も、少なからずいました。


ゲームを作りはするが、そこから先は営業の仕事・店舗の仕事で、自分が作ったゲームがどう評価されているかもわかりにくい。

作ったゲームを遊んでいる人の姿が見えず、徐々に情熱を失う人も多いのです。



で…それまでに持っていなかった視座を持って、改めて自分の会社を見てみると…

なんというか、こう、「やばい」感じがするのですね。


商品を作る開発部と、商品を販売する営業と、実際の商品を遊んでもらって外貨を稼ぐ店舗と、すべてを統括する人事部が、ちゃんと意思疎通できていない。


各セクションが思い付きのように「状況を改善」しようとする動きを起こしても、チグハグな感じで効果が出ない。



例えば、店舗が「シンプルな古いゲームを好むお客さんは結構いる一方で、最近の新作はややこしすぎてあまり遊ばれていない」という報告を上げたとしましょう。

もっとシンプルなゲームが欲しい、という要求です。


でも、開発部に開発命令が下されるときには、伝言ゲームの結果全く意図と違うものに変わっているのです。

古いゲーム、というところだけ取り出して「ヘッドオンをリメイクしろ」とか「コラムスをリメイクしろ」とか。




とはいえ、やばいと感じ始めたのはもっと後の話。秋ごろだったと思います。


半年後の1999年4月には、1000人規模のリストラを発表。

各部署も分社化されるのですが…実は、やばいと感じて早々に僕はセガを辞めて独立してしまいました。

なので、その頃のことは知りません。


今書いている「20年前」、1998年の春ごろは、まだ慣れないテクニカルサポート業務で、日々追われていたと思います。



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サシっす!!  2018-04-14 12:33:34  業界記

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ST-V で作られた対戦ミニゲーム集です。


1998年の2月に発売になっています。

当時は2月に AOU ショーが行われていたので、このタイミングで発表・発売ということですね。


このゲーム、僕は関係していません。傍観者でした。

でも、企画も、プログラマ(2名:以下A、Bと表記)も、デザイナーも、みんな同期。




元はプログラマーAのアイディアだったらしいです。


そいつは普段から買い物の際に「小銭を上手に払う」ようにしていました。

上手に、ってニュアンスが難しいのだけど、「ピッタリ払う」というよりは「財布の中の小銭を減らす」という感じ。


ある日、これってゲームにしても面白いんじゃないか、と同期の企画に話しました。


でも、そのままじゃぁ、とてもテレビゲームにはならない。



少し前に「エジホン」というゲームを作っていました。

こちらは、プログラマーBが参加した作品。


簡単な間違い探しなのですが、2人で同時プレイをした際には、「先に見つけたほうが勝ち」になるようにしていました。


すごく単純なゲームでも、2人で競うと面白くなる。

どんな単純な内容でも、対戦させればゲームとして成立するのではないか?



飲食店などで、支払いの段になって「私が払います」と全員分を持とうとする人がいます。

そんな感じで、我先に払おうと競争するゲームにしたら?


最初に満額を出した人が支払うことにして、速度を求めつつ小銭を減らすように支払う。

これを対戦で作れば、面白くなるはず。

どんな単純なルールでも「対戦する」というのは面白い。


でも、これだけだとまだ弱い。

同じように、「普通はゲームにならない」ような異色のネタを集めて、対戦するのが面白いミニゲーム集を作れたら…




企画がこんな感じに起こりましたから、最初から「タントアールにはしない」ことを目標に置いていました。


タントアールは、AM1 研が作ったヒット作です。

ミニゲーム集で、二人同時プレイもできましたが、あくまでも「同時プレイ」。

一人用のゲームを、二人同時にそれぞれが遊ぶ、というだけで、対戦ではありません。



必ず対戦する。一人用でも CPU と対戦する。

1体1、いわゆる「サシ」の勝負をする。これが「サシっす!!」の企画に発展しました。



とはいえ、「異色の」を考えるのが難しいのよ…

アイディアないか、と僕も聞かれたけど、急に言われても思いつかんのよ…

結局、多くのゲームはどこかで見た感じがするゲーム。


でも、次の3つは異色と言っていいのではないでしょうか。


・小銭減らし

・絵の具

・アリンコ



…というところで、ゲーム画面紹介しておきましょう。



昨年、有名なゲームセンター「ミカド」で行われたという大会の動画です。

冒頭から、「小銭減らし」の対決が行われています。


6分目ごろから「アリンコ」、9分目ごろから「絵の具」の対決が見られます。


その他にも、いろいろなゲームが入っているのがわかります。




小銭減らしは、先に書いたように「サシっす!!」全体の元になったアイディア。



レジに現れた「合計額」よりも多くの金額を出したプレイヤーが「支払った」ことになります。


これで小銭を減らしていく。

ピッタリ払えば当然一番減るわけだけど、それだと相手との競争に負けて、支払えない。

最適解よりも、「少しでも減る、早く出せる組み合わせ」を判断しないといけない。


しかも、これ何回か支払った結果で勝負するのね。

早いうちに小銭を減らしすぎると、組み合わせが制限されて後半で苦しんだりする。



ちなみに、作成の少し前に、Oh!X (雑誌)に、「小銭減らしゲーム」というのが載っていました。

アクション対戦ではなく、パズルゲームだったのだけど。


このミニゲームを作っている最中に、「Oh!X に載ってたやつ元ネタ?」って聞きました。

アイディア出したプログラマーAも Oh!X の愛読者だって知ってたから。


でも、彼はその記事読んでなかった。

大学時代から買っていたから惰性で買い続けていたけど、忙しくて内容ほとんど目を通していなかったらしい。

(僕に言われて読んだらしいけど、その時にはもうゲームの企画は完成していたし)


そんなわけで、時期が近いのだけど全く別個に出されたアイディアです。

同じようなこと考える人がいるもんだ、というだけで。




絵の具は、プログラマーBが担当していました。

どうしてよいかわからず、僕に相談に来ました。


「絵の具を混ぜて、指定の色に近い色を作るゲーム」なのだけど、RGBでどのように「絵の具を混ぜる」のかわからないし、どうやって「近い」と判断するのかもわからない…と。



詳しくない人に説明しておきましょう。


多くの人は、赤・青・黄を混ぜればどんな色でも作れる、と知っていると思います。

青と黄色を混ぜると、緑になる。緑と赤を混ぜれば、黒になる。(理想的には)


でも、コンピューターは赤緑青…Red Green Blue の頭文字で「RGB」と呼ばれますが、この3色で色を作ります。

赤と緑を混ぜると、黄色になります。黄色と青を混ぜると、白になります。

絵の具とは全く違います。


プログラマーBの悩みは、コンピューターで扱えるRGBで、どのようにすれば絵の具のような表現ができるのか、ということでした。



僕はプリンタのプログラムとか経験していましたから、RGBの補色がCMY(シアン・マゼンタ・イエロー 絵の具の三原色である、青・赤・黄をより厳密にした色)であることを教えました。

非常に単純な話で、各色の割合を 0~100 のパーセントで表すとしたら、


R = 100-C

G = 100-M

B = 100-Y


という、非常に単純な式で変換できます。


プリンタで使う場合には、物理的な特性などの関係でもう少し複雑な処理が必要なのだけど、ゲームに使うならこれで十分。

これで、とりあえず画面上で「絵の具を混ぜる」は実現できるようになったようです。



でも「近い色」を判定するのは難しい…


たしか、HSVに変換したうえで近い値なら…とか当初は実験したはず。

HSVも色を表現する方法で、RGBやCMYよりも、人間の感性に近い表現になります。


それでも、実際には人間の目の色ごとの感受性の違いによって、ある色なら「近い」と思える範囲指定の数値が、他の色では全然近くなかったりする。


結局、出題する色をランダムではなく、ある程度決まった色からランダムに出すことにして、出題色ごとに「近い」と判定するデータテーブルを作り込んだそうです。



ゲームを遊んでいて、「えー、それ若干違うだろ」と思う色でOKが出ることがありますが、許してやってください。

(ゲーム上は、絵の先生がOKを出せばよい、というルールなので…)




アリンコは、アイディアを実装してみたら面白かったのだけど、いろいろと問題があって…

企画者が「隠しゲーム扱い」とした問題作です。



問題の1つ目は、蟻の生態が理解できていないと意味不明なゲームだということ。

問題の2つ目は、実はこのゲームは「囲碁」に非常に近いルールで、CPU の AI が作れなかったこと。



蟻が行列を作っているのを見たことがある人は多いと思います。

これが「道しるべフェロモン」と呼ばれる、蟻の分泌する化学物質によるものだ、と知っている人も多いでしょう。


でも、道しるべフェロモンにはいくつかあり、「餌の位置を仲間に教える」時と「自分が道に迷わないようにする」時を使い分けます。

道に迷わないようにしながらランダムに歩いて餌を探し、餌があったら仲間を呼んで巣に持ち帰るのです。


もし餌があると思って進んでいたのに餌が無かったら…

その時は、再び「道に迷わないように」しながら、付近にあるかもしれない餌を探すためにランダムに歩くのです。



「アリンコで対決」は、中央にあるアリの巣から出てくる蟻を餌で誘導し、自陣に多く導いたほうが勝ち、というゲームです。


プレイヤーは「餌」を置くことで、ランダムに歩く蟻のうち、一番「自陣に近い」位置にいるやつに仲間を呼ばせます。

これを繰り返すことで、自陣までの道を作り、得点を稼ぐのです。


理解すると面白いのだけど、まずこのルールを説明するのがほぼ不可能です。




これ、結局「全く手掛かりのない状態から、目的を持ったラインを生成する」という遊び方です。

ラインを生成するためには、少し先を読んで、「つながりそう」なところに点を打っていく必要があります。



これ、やっていることは囲碁と同じ。

囲碁は盤面に「線」を形成して相手を囲い込むゲームですが、コンピューターには線が「作れそう」な場所を想像することができません。


数年前に AlphaGO が人間に勝って話題になりましたが、それ以前の囲碁ソフトは、ルールを理解させるのが精一杯でした。

「アリンコで対決」が作られたときも、コンピューターにこのルールを教えて相手をさせることができませんでした。


そんなわけで、サシっすの狙いである「ひとりの時は CPU が相手をして、サシで勝負」ができないのです。


ルールを説明できない、CPU が相手をできない、でもゲームとしては悪くない。

これが、「アリンコで対決」が隠しゲーム扱いとして入れられた理由です。




ほぼ完成し、ロケテストでも悪くない成績を修めた後、営業からリクエストが来ました。


「タントアールの続編、ってことにして欲しい」


えー、それはないよー。

企画者、すごくがっかりしていました。

最初の方に書いたけど、「サシっす」を作っているときの指針の一つが「タントアールにしないこと」だったから。


タントアールは、このころすでに流行遅れになっていたとはいえ、ミニゲーム集としては金字塔です。

あえてそれとは違う、一風変わったミニゲーム集を目指したのが「サシっす」でした。



でもまぁ、営業の言うこともわかるんだ。

気軽に遊べるミニゲーム集への需要はやはりあって、ゲームセンターでは新しいタイトルが求められていました。

タントアールは、やっぱり金字塔。その続編、ということにしておけば営業的には売りやすい。


結局、タイトルの前に「対戦タントアール」という言葉がつくことになりました。

最後の最後に無理やりくっつけたものなので、当然のことながらゲーム中はタントアールとは全く違う雰囲気だし、キャラクターも違います。


でも、遊ぶ人にはそんな事情関係ないよね。


「シリーズなのにキャラなどの雰囲気が違う」って言われちゃうのね。

場合によっては「あの雰囲気好きだったのに、なぜ変えた」って苦情になる。


いまでも、ネットを検索すると、いろんなところでこうした意見が書かれています。



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GetBass  2018-02-18 15:55:15  業界記

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こちらも L.A.ライダーズと同じく、1997年12月発売でした。


この頃のゲームは日本で先行発売してから海外版を作っていたのですが、ネット上の多くの情報が海外基準で書かれています。

そのため、年末ぎりぎり発売の作品などは、翌年の作品にされてしまうことが多いのですね…




以前、「スポーツフィッシング2」というゲームを紹介しました。


AM4研が主導し、AM1研でプログラムを作成したゲームです。


当時のAM4研というのは、筐体やエレメカを作る部署。

スポーツフィッシング2は、「リアルな竿の動き」を表現するエレメカに、おまけ程度の実写映像を組み合わせた釣りゲームでした。


これを、映像部分も MODEL3 のリアルな映像で作り出してやろう、というのが「GetBass」でした。

スポーツフィッシングは海釣りですが、GetBass は湖…それも、タイトル通りブラックバス釣りに特化しています。



発案が誰だったのか知りません。

でも、プロジェクトに参加していた同期のグラフィックに釣り好きがいて、「このゲームを作るために会社に入った気がする」と言っていたように思います。


ゲーム発表後に話題になり、釣り雑誌が取材しに来て開発話が漫画化されていました。


「GetBassを創った男たち」



…えーと、「バーチャファイターを創った男たち」って漫画があったので、それのパロディですね。タイトルは。

同期のグラフィックの彼も重要な役どころで登場していたそうで、喜んでいました。


僕は「漫画になった」ことは聞いたのですが、読んでないので詳しいコメントはできません。




業務用は、結構リアルに感じました。

釣りやったことないから、本当にリアルなのかわからないのだけど。


実際に釣り竿型のコントローラーで操作し、魚がかかれば糸が引っ張られる。

魚が左右に動けばそちらに糸が動いていく。


リールを巻けばどんどん重くなって竿がしなるし、竿を上下に動かしながら、少しづつ糸を巻き取っていく感じ…


スポーツフィッシング2もそうだったのですが、本当は糸を巻いてなんていないんですよ。


リールは回転を感知して、モーターで負荷をかけて「重さ」を演出しているだけ。

同時に、竿の先に固定されている糸がゲーム機の中に巻き取られて竿がしなるだけ。


でも、自分でリールに糸を巻き取っているように感じますし、「魚と格闘している」ように思える。

この仕組み、エレメカとしては3作目ですから、非常によくできていました。




しかし、ゲームですのでリアルばかりではありません。嘘もたくさんついています。


魚釣りって、のんびりと魚を待つものなのですが、これはゲームですから待つ必要がありません。


ルアーを投げ込めば、魚がすぐによってきます。

「寄ってくる」というのも、水中の魚の動きが見える。

魚がいないなら、すぐに別のポイントに切り替えられます。


魚釣りの「楽しいところ」だけを、テンポ良く楽しめるゲームなのです。



この、「水中の魚の動きが見える」部分がよくできていました。

当時最先端の MODEL3 の描画能力を、たった数匹のブラックバスのために注ぎ込んでいるのですから。


さすがは、釣り好きのグラフィックが一生懸命作っただけのことはあります。





でも、業務用の宿命として、1回に遊べる時間が結構短めだったのね。


ゲームシステムとしては、与えられた時間が無くなったらゲームオーバーです。


当初の持ち時間は2分程度。魚がかかったら時間延長、釣り上げても時間延長。


一定時間内に釣った魚の重さの合計が一定数に達すると面クリア。

次の釣りポイントへ向かいます。

新しい釣りポイントでは新しい持ち時間設定があり、最終面クリアで終了。


魚釣りってのんびりとしたものですが、一種のタイムトライアルレースです。

忙しいゲームでした。




リアルな画面と巧妙なエレメカの組み合わせ、というのは高評価だったのですが、世の中の評価の多くは、後に作られたドリームキャスト版のものだと思います。



上のビデオは、移植されたドリームキャスト版のもの。

また、タイトルも海外名の「SEGA Bass Fishing」になっています。

日本でも人気はあったのですが、それ以上に海外で人気の出たゲームでした。



ドリームキャスト版では、時間を気にせずに「釣りシミュレータ」としてじっくり楽しめます。

専用のコントローラー「釣りコン」も、糸が引っ張る仕組みこそないものの、竿の角度やリールの手ごたえなどは再現していました。


さらに言えば、DC 版は後に PS3 / XBOX360 / PC 版として移植されています。

このときは専用コントローラーさえなく、それでも高評価だったようです。

それだけ、家庭用で拡張された「シミュレータ」部分がよくできていたのでしょう。


でも、DC への移植は、基本的に外注会社の仕事のはず。


外部に移植を任せると、原作に忠実な「べた移植」になればよい方で、大抵は劣化移植。

それが、独自のモードを追加してその部分の評価が高いというのは、かなり良い仕事をしてもらえたのではないかな。



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スポーツフィッシング2【日記 16/04/16】

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Harley-Davidson & L.A. Riders  2018-02-16 16:27:13  業界記

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このゲーム、僕は関与していません。

それどころか、1998年の発売だと思っていたら、1997年の12月でした。慌てて記事書いてます。


一応「クールライダーズ」の系譜ということになるのかな…

バイクで自由気ままに走り回るゲームです。


クールライダーズでは「Born To Be Wild」をテーマソングに使っていました。

この曲は、映画「イージーライダー」のテーマソング。

そして、映画「イージーライダー」は、自由を求めてハーレーダビッドソンのバイクで旅をする男たちの物語でした。


そこで、今作では正式にハーレーダビッドソンのライセンスを取得しました。

ゲーム中のバイクはハーレーを正確にモデリングしていますし、排気音も実機から録音したものです。


そして、ハーレーを乗り回すのであれば「自由」でなくてはなりません。

ただゴールを目指すだけのレースゲーム、ではダメだったのです。




そこで「L.A. ライダーズ」というわけです。

L.A. (Los Angeles:ロサンゼルス)の街をゲームの中に丸ごと作り込み、交通ルール無用で自由に走り回るゲーム。


とはいっても、ゲームですので目的は必要です。

「ランダムに示されるチェックポイントを回る」がゲームの目的になります。


チェックポイントを通過すると、プレイ残時間が延長されて、次のチェックポイントが現れます。

5個クリアするとゲーム終了。


次がどこかは出現するまでわからないので、場合によっては急ターンして戻らないといけない、なんてことも。

それまでのレースゲームにはない感覚でした。




街を丸ごと作り込んで、プレイヤーはその中でどのように行動しても良い。


…今ならそういうゲームもありますが、当時としては大きなチャレンジでした。

そういうゲームに「挑んだ」話は度々聞いたのですが、「完成した」という話はほとんど聞きませんでしたから。


L.A. ライダーズの場合、街丸ごとを作り込むとは言っても、できることは「中を走る」ことだけです。

それでも、街の中には他にも車が自由に走っていますし、歩道には人が歩いています。

建物の中などに何もないとはいえ、活気ある街はちゃんと再現されているのです。



当初は、本当にこのアイディアが実行可能なのかどうか、街の作り込みから始まりました。

ただ広い街の中を走れるだけで、この時点ではゲームではありません。


そこから、これをどうすればゲームにできるのか、試行錯誤が始まりました。

先に書いた通り、当時は「自由に行動してよい」なんてゲームはないのですから、参考にできるものはありません。


結局、次々と指定される「チェックポイント」を目指す、という形になりました。

チェックポイントは「地点」であり、そこに至るまでの「コース」はプレイヤーが自由に決められます。


一応、初心者のために道案内してくれる矢印は出るのだけど、これは決められたコースではありません。

街をちゃんと知れば、大胆なショートカットをしたり、多少遠回りでも障害物の少ない道を進んだりできるのです。



しかし、これでもゲームとしてはまだ今一つだったのです。

本当にランダムだと「絶対クリアできない」とか「簡単すぎてつまらない」状況が時折現れるのです。


この乱数の「出具合」の調整にも、かなり苦労していました。




完成したゲームは…若干大味のゲームでしたね。

かなり調整したとは言っても、ランダムにチェックポイントが設定されるという「運の要素が強い」ゲームになってしまいますから。

一人でやり込むようなゲームではありません。


しかし、多人数でわいわい楽しむゲームとしては楽しい物でした。


多人数プレイの場合、誰かがチェックポイントを通過すれば全員が時間延長です。

チェックポイントが出る場所はある程度決まっているので、自分がチェックポイントから遠い場合は、次の出る位置をヤマを張って待つ、なんてプレイもアリでした。



一人で遊ぶより、多人数プレイが楽しい作品。

そんなところも、「クールライダーズ」と共通しています。


もっとも、当時最新の Model 3 基板を使っていたこともあり、高価でした。

複数台揃え、多人数対戦できる設定だった店舗がどれほどあったのかも疑問です。




「決められたコースがない」という、それまでのゲームにはなかった新しい世界を作り出す実験は成功だったと思います。

L.A. ライダーズは、ゲームマシンの性能が上がり、「街を丸ごと作り込む」ことが可能な時代がやってきたことを示しました。


2年後に、AM3研はクレイジータクシーで、AM2研はシェンムーで、同じように「自由に行動できる」ゲームを作ります。

そして、それらは現在「オープンワールド」と呼ばれるゲームジャンルの先駆けとなりました。



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GetBass【日記 18/02/18】

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データバックアップ  2018-02-06 10:52:58  業界記

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データのバックアップもまた、テクサポの仕事でした。

これらは、開発会社にとっては一番大切な「資産」だからね。


プログラマのホームディレクトリは、Sun ワークステーション上に置かれて NFS 共有されていました。

このディレクトリは、週に数回、テープにバックアップされます。

これは課長が cron で動くようにセッティングしていたので、特に触った覚えはありません。


#テープのセットだけ頼まれたくらいのことはあったかも。

 Quantum のを使っていたと思うから、 DLT (Digital Linear Tape) かな…




デイリーなバックアップとは別に、プロジェクト終了後の永久保存用バックアップもとります。


プログラムは、上に書いてあるように NFS に入っているので、ソースファイルのディレクトリを聞いて保存するだけです。


グラフィックは NFS 共有していなかったので、プロジェクト終了ごとに各マシンからデータバックアップを取りました。

3Dゲームの一式とかになるとデータが膨大過ぎるので、不要なもの(元データから機械的に生成できる中間生成物など)は消してもらって、ディレクトリごと保存します。


僕がこれらの作業をする頃には、3Dゲームが当然になっていましたが、とにかくデータが大きい…

後で何かあった時に再利用するのがバックアップの狙いですから、無圧縮で保存することになるのですが、CD-R に焼くとデータだけで4~5枚になります。


データ損傷に備えて2枚づつ作ったので、結構な枚数になります。



セガには「セガ純正 CD-R」というのがあって、サターンのマスター作成なんかに使うのですが、最初はそれを使ってバックアップを作っていました。

でも、このディスク、1枚千円くらいするんだ。


ゲーム1本のバックアップを作ると、それだけで1万円とか行きます。

なんかもったいないから、秋葉原で生ディスク探してきて、と言われます。


#当時は CD-R はまだ新しいメディアで、売っている店が少なかったのです。



秋葉原に行ってみると、10枚組で3千円くらいだったかな…

とにかく安いのがあると判ったら、課長が会社の近くでメディアを売っている店を見つけてきました。


それでも、歩いて30分くらいかかる距離だったけど、時々 CD-R を買いに行かされました。

行くときは途中で買い食いしたりして、お使いもそれなりに楽しんでました。




古いゲームのバックアップの「メディア更新」も行われました。

PC98 用の 5.25inch ディスクにバックアップされた古いゲームのソース一式を、CD-R にコピーするのです。


スペースハリアーとか、アウトランとかのソース一式もあったと思います。

1つのゲームに対して、フロッピーで4~5枚、大規模なものでも10枚程度だったと思います。


だから、昔すごいと思ったあれやこれのゲームも、30本で CD 1枚とか、そんな感じ。

こちらも、データ損傷に備えて2枚づつ作ります。



先に書いたように、その頃の「最新のゲーム」なら CD 4~5枚。

この容量の差が、そのままゲームの発展の歴史です。


これらのゲームソース一式は、頑丈なジェラルミンケースに収められ、課長の席の後ろに置かれました。

そして、「火事などの大事があったとき、とにかくこのケースだけは持って逃げるように」と厳命されました。




基本的に 20 年たった話で書いていますが、2001年頃の話を…僕がセガをやめた後の話です。


ネットで知り合ってリアルにもあったことのある、フリーのプログラマーさんがいました。

その後疎遠になっていたのですが、ある時街でばったりと出会いました。


なんとなく、お互いのその後の話になったのですが、セガを辞めたというと、その方が「セガの仕事を受けた」というのです。


2002年にセガから発売になった、PC 用のスペースハリアーのタイピングゲームを作っていたのです。

というか、話をしていた段階で「すでに完成しているのだけど、セガにそれを言えない」というのです。


なぜなら、作成に際して提供されるはずのドット絵などの各種資料が提供されていないから。


サターン版の CD から解析してデータを手に入れてしまい、完成しているのだそうです。

だけど、それはリバースエンジニアリング。法的に微妙な問題をはらみます。

だから、資料提供までは、何も手を付けていないふりをしていないといけない…と。


#リバースエンジニアリング(製品を分解・解析して情報を得ること)は、違法行為ではありません。

 しかし、当時は「知的財産権の侵害であり、違法行為である」という世論が強くなっていました。



依頼主は AM2研でした。

そして、AM2研の担当の人が探しているのだけど、スペースハリアーのソース一式が見当たらないのだそうです。



…それ、AM1研にあるから。

テクサポ課長の机の後ろに、ジェラルミンのケースに入った CD の中に入れてあるから。



『スペースハリアーは古い作品で、当時は1研も2研も分かれてないですよね。

 念のため、1研の方に連絡を入れて調べてもらえないでしょうか』


と、次に AM2研の担当者にあった時に伝えてみてください、とアドバイスして別れました。


その後どうなったかは知りませんが、ゲームは無事発売されたようです。


…そして、評価低いですね。



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別年同日の日記

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機材管理  2018-02-02 17:27:58  業界記

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機材管理もテクサポの仕事でした。


主に古いコンピューターと開発用 ST-V 基板…かな。


経理上の問題なのですが、会社で機材を購入した場合は、「減価償却」しなくてはなりません。

例えば、25万円の UNIX ワークステーションを購入したなら、5年間にわたって、毎年5万円づつお金を払った…という扱いにします。


仕事上必要なものを購入したお金は、売り上げから差し引かれ、「儲け」を見た目の上で減らすことができるためです。

儲かった時に、税金を払いたくないから贅沢品を購入する…というようなことが罷り通れば、税制はむちゃくちゃになります。

そのため、高価なものは「数年にわたって分割して」購入代金が支払われたようにしなくてはならないのです。


#これにより、単年度の売り上げは圧縮されることが無く税金が発生する。

 また、本当は必要のない高価なものを無計画に買いにくくなる。

 世の成金社長が「中古のベンツ」を購入する理由でもある。



この「減価償却期間」が終わるまでは、そのコンピューターは正しく購入した部署の手元にある必要がありました。

…とはいっても、コンピューターの世界は日進月歩。5年も同じマシンを使い続けられない、ということもあります。


どうするかというと、テクサポ預かりで棚に積んでおくの。

各機材には「機材管理番号」のバーコードシールが貼られていたので、そのシールだけはすぐ見えるように棚に積んでおく。


年に一度、総務課に「購入した機材がどこにあるか」を届け出る必要がありました。

バーコードリーダーが貸し出され、機材管理番号のバーコードを、全部読み取って見せないといけない。


結局、それだけのことなのです。

総務課に怒られないようにするという、ただそれだけのために使わないコンピューターを保管しておく必要がありました。



もちろん、実際に使っているコンピューターにも機材管理番号はつけられていて、部署内の全部のマシンを読み取って回るのは大変な仕事ではあったのですが。




テクサポ課長が、この作業が大変なので、機材管理台帳を作りたい、と言いました。


Linux マシンに PostgreSQL をインストールして…機材管理を DB でやろうとしたのですが、当時はまだ SQL なんて一般的ではなく、課長もよくわかっていません。

僕に「どうにかして」と丸投げされたのですが、僕も当然わかりません。


許可を得て FileMaker Pro を購入し、そちらで管理しました。

今考えると、素のコマンドラインで DB を操作して機材管理しようって、無謀すぎるよ…


FileMaker は一度 DB を構築してしまえば、Web で操作できる機能があります。

サーバールームに WinNT マシンがあったのでインストールし、どの機材が誰の席にあるか、すぐに探し出せるようになりました。


本体、モニタ、キーボード、マウス…それぞれに別の機材番号がつけられていました。

多分、キーボードとモニタは経理作業上は「付属品」なので管理の必要はないと思うのですが、課長が周辺機材まで管理するように求めたもので。


しかし、機材管理を細分化しすぎると、余計な手間が増えて実用的ではなくなります。

実際、「キーボードの調子が悪い」なんて時には、テクサポを経由せずに人から人に機材が「移動」してしまうことも多かったため、たびたび台帳と実際が合わずに苦労することになります。




ST-V 開発基盤は、リース品でした。


ST-V はいうまでもなくセガがオリジナルで開発した基盤ですが、「開発用機材」となるとそれほど大量生産するわけでもなく、「手作り」になってしまいます

生産は外部の会社に委託するわけですが、このコストだけでも市販する大量生産基板に比べて高価になってしまうのです。


そんな高価な機材を「購入」するとなると、部署の予算を使い果たしてしまいます。

そこで、外部のリース会社に間に入ってもらうのです。

AM1研としては、非常に高価な開発機材を一括購入できる予算がないため、リース会社に5年程度の契約でリースをお願いします。


さらには、ICE などの機材も必要です。

CPU をエミュレートして、その動作を外部の PC などから確認・変更できる機材で、1台で数百万から1千万くらいの機材です。


これらもすべて、リース品でした。



しかし、僕が引き継いだ時点で、前任者である「基板奉行」の管理がいい加減で…借りているはずの品物が、どこにあるのかわからないものが多数存在していました。


しばらくするうちに、外部の会社から「開発が終わったのでお返しします」とか言って急に現れたりするんですが…


とにかく、新しく認識したら、その時点で先に書いた DB に機材を登録。

どこに何台貸しているのかも一切わからないのだから、他に方法がない。



ある時、ICE のリース期限が近いので返却お願いします、とレンタル会社から連絡が来ました。


確認すると、本体は台数がちゃんと足りていました。すぐ返せます。

でも、多数の付属品のうち、マニュアルが一冊だけ足りない!


必死で探しました。全部そろっていないと返却できません。

ST-V 開発経験者に持っていないか聞いて回り、昼礼でもどこかに紛れているのを知らないか聞き、他のマニュアルの間に挟まっていないかマニュアル棚を隅々まで探し…


無情にも返却期限はやってきました。

レンタル会社に電話して事情を話します。


マニュアル1冊だけであれば、とりあえず揃っているものを返却して、マニュアルだけ後で返却でよい、という返事をもらえました。

恐る恐る、ちなみにマニュアルが見つからない場合はどうなるでしょう? と聞いてみます。

「破損扱いになるので新品相当の代金をいただくことになります」と、血の気が引く金額が伝えられた覚えが…



しかし、その後も懸命の捜索に関わらず、マニュアルは見つかりませんでした。

1か月後「今回だけは特別に」マニュアルはもうあきらめて、返却が終わった手続きとする、とレンタル会社から通達が来ました。

オリックスレンタリース様、その節は寛大な処置、感謝です。



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別年同日の日記

06年 インクリボンを買いに

12年 人工衛星

15年 僕のかかわったゲームのこと

17年 内藤時浩さん 誕生日(1963)


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ネットワーク管理  2018-02-01 14:33:16  業界記

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テクサポができる半年ほど前、AM1研は新しいビルに引っ越し、その際にサーバールームが新設されました。


サーバーの熱を冷やすため、専用のクーラーもついた小部屋です。


ファイルサーバーとして Sun のワークステーションが置かれていました。

部署内の UNIX マシンは、基本的に NFS でこのワークステーションとディレクトリを共有しています。

そのため、ファイルのバックアップなどは、各個人のマシンで行う必要はなく、定期的にストリームテープに保存されていました。


また、UNIX / Mac / Windows マシン間のファイル共有用に、Windows NT マシンも置かれていました。

同時接続数ライセンスの関係で、ファイルのやり取りをするときは迅速に行うように、と通達が出ていましたけど…


Windows NT マシンは、たしかプリンタ共有にも使われていたはず。

プリンタ本体は、サーバールームの外に置かれていました。



たしか Linux マシンもあったはずなのだけど、なんに使っていたのかよく覚えていません。

テクサポ課長もそれほど UNIX に詳しいわけではなかったし、当時はまだ Linux は今ほど一般的ではなかったので、何かに使えないか実験していただけではなかったかな。


同様に BoW を入れたマシンもありました。

BSD on Windows って…知らない人のほうが多いだろうなぁ。


いま BoW って言ったら、Breath of the Wild (ゼルダの伝説) か、Bash on Windows (Windows 上の Linux 環境) の略です。

当時の BoW は BSD on Windows 。名前の通り、Winodws 上で動く BSD 環境でした。


まぁ、これもテクサポ課長が実験していただけだと思うんですけどね…

「期待していたほど UNIX として使えない」と言っていたと思います。


この頃まで、開発環境は全部 UNIX だったのですが、テクサポができたのと前後して Windows マシンなども使うようになっていきます。

多分、その過渡期として「安いマシンに UNIX を入れた際に、開発で使い物になるかどうか」を調べていたのではないかと思います。




ネットワークの管理は今よりも泥臭いもので…


一端書いてみたのだけど、あまり面白い話ではないので詳細は省きます。


スイッチングハブはまだなく(実際にはあったけど高価で)、パフォーマンスを上げるためにはサブネット分割が必要でした。

AM1研はゲームのプロジェクトごとに人員を集める方式だったので、同じチームの人を1つのサブネットにしようとすると、チーム編成のたびに IP アドレスの付け直しが必要になります。


物理的にもマシンが移動しますし、ケーブルの繋ぎ直しも必要。サーバールームには大きなパッチボードが用意されていて、そこでケーブルの物理的な接続を変えられるようになっていました。



あるころ、新しく導入したマシン(SGI O2)が 100Mbit の通信に対応していました。

ハブの方は先に 100M 対応を終わらせていたので「これで速度が速くなる」と思ったのですが、思ったよりパフォーマンスが出ません。


多くの 10M マシンと同じサブネットにしているので、10M の通信の遅さに 100M が「待たされて」しまうのですね。

チームごとにサブネットを分けるのをやめ、10M マシンと 100M マシンで別のサブネットにしたら速度が上がりました。


今だと笑い話にもならないような、古い時代のネットワーク管理苦労話です。




そういえば、SGI の UNIX (IRIX)を GUI で操作する際、ネットワーク構成を入力する際に、IP アドレスを 16進数で入れさせられたと思います。


…必ずではなくて、通常の 10進入力も選べたはずだけど。どちらがデフォルトだったかは忘れました。

32bit だから 16進にするのも悪くないのでは…と思いつつ、他のマシンが全て10進入力なので、SGI でも10進入力でやってました。



IP アドレスとしては、会社で Class B アドレスもらってたんじゃなかったかな。


それを各部署に分割して使わせていた。

AM1研では /22 くらいのアドレスをもらっていたと思います。


まだ IP アドレスの枯渇、なんてあまり気にされていなかった時代です。


#もっとも、枯渇が近いと言われ、NAT 技術はすでにありました




Windows マシンに Chameleon NFS を入れる、なんていうのも大切な仕事だったな。


先に書いたように、テクサポができたころから Windows マシンを使い始めたのですが、当時はまだ Win95 。

インターネット接続は標準では提供されていませんでした。


そんな当時のベストセラーソフトの一つが、Chameleon NFS。

ネットワークに接続するための機能…TCP/IP スタック、と呼ばれるものを提供していました。



買ってきた Windows マシンには、Windows はインストールされているのですが、ネットワークに繋げません。

そこで Chameleon NFS をインストールするのですが…


「TCP/IP スタック以外はそれほど出来が良くないので入れるな」と課長に厳命されていました。

名前になっている NFS とか、FTP とか、ファイルを交換するソフトの利用がネットワークに接続する目的なのですが、それらは別のソフトを使え、と。


当時は詳しくなかったので言われるままにやっていたのですが、ならばなぜ Chameleon だったのか。




ネットワークと言えば、BootP なんてのもあったな。


MODEL-1 の開発機材だったと思いますが、ネットワークに接続して使うのに、IP アドレスを設定できないものがあったのです。

マニュアルには BootP をつかえと書いてありました。



イーサネット機材は、必ず IP アドレスとは別に MAC アドレスというものを持っています。

マシンに電源が入ると、「ネットワークに参加するよ!」って、MAC アドレスが通知されます。


ネットワーク上に BootP サーバーがあると、この MAC アドレスを受け取って設定リストと照合し、同じものがあった場合は「君の IP アドレスはこれだよ」と、IP アドレスを渡します。

もちろん、リストに載っていない MAC アドレスに対しては、何もしません。


BootP に対応した機材は、それ以降は受け取った IP アドレスを使って通信を行います。



これ、当時は「IP アドレスはマシンに設定するもの」だと思っていたので、設定方法がわからずに苦労した覚えがあります。

こんな変な方法で設定を行う機材もあるんだ…って思っていたら、今ではこの技術がさらに拡張され、一般的になりました。


DHCP ってやつですね。実は BootP の拡張です。

BootP では、人間が MAC アドレスと IP アドレスの対応表を作りましたが、DHCP では自動的に作ってくれます。




特にまとまりはないですが、ネットワーク管理の仕事はこんな感じでした。



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別年同日の日記

03年 システム改変

12年 インフルエンザ

17年 些細な綴り間違い


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

あきよし】 誤記指摘ありがとうございます。修正しました。
冗談部分でチェック甘かったとはいえ、ひどいミスだ…
 (2018-03-10 13:42:01)

【rink】 Breath of the Wildですね・・・ (2018-03-06 18:24:18)

テクニカルサポート  2018-01-29 16:39:01  業界記

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1998年の年頭だったと思います。…正確に覚えていないのですが。

AM1件内に、テクニカルサポートチームが作られました。


一応独立した「課」に相当するのかな。

企画課、デザイン課、プログラム課に並列する形の「テクニカルサポート課」です。

でも、実際には課長に当たる人と課員1名の、2名だけ。


後で増員されるのですが、増えた時でも4名程度。

課というよりはチームでした。


で、創設にあたり僕に声がかかりました。

最初の課員1名、というのは僕のことです。




テクサポをやってほしい、と言われたときは、正直なところ左遷だと思いました。

プログラムが好きでプログラマーをやっているのに、一線から退くのですから。


実際この頃、左遷されても仕方ないような「身に覚え」がありまして…


新たに MODEL-2 ゲームのチームに入ったのですが、それまで ST-V を使っていたのでハードウェアの癖などがわからず、プログラムしていてもどうも「乗らない」のです。

頼まれていた「研究課題」が、どうもぼんやりしたものだったこともあって、2週間くらいいじっていたのですが何も成果を上げられていませんでした。


もっと私情を語れば、今の妻と付き合い始めた時期で、色ボケだったのです。

慣れてないハードとぼんやりした研究テーマ、さらには色ボケで、仕事に身が入っていなかったのは事実。

それで「左遷」なのだと思ったのです。



しかし、仕事を始めてみてわかりましたが、別に左遷されたわけではなく、「僕が適任」だったのでした。




テクサポの仕事は、大きく分けてふたつ。

部署内の環境整備と、サードパーティのサポートでした。


部署内ではネットワーク管理などが主な仕事だったのですが、詳しい人がテクサポ課長しかいなかったのです。


僕だって詳しくありませんでした。

まだ当時はそれほど知られていなかった「Linux」ってやつを、Towns にインストールしてみたことがあった程度。

もっとも、インストールなんて、インストーラーさえあれば誰でもできます。


そもそも、部署内では多くの人が UNIX を使っているだけで、詳しくはないのです。

仕事で使う、ファイル操作やコンパイラ起動などのコマンドは理解していても、その程度。


僕は awk や perl を使って、仕事に必要なツールをどんどん自作していました。

これなら UNIX 管理もできるのではないか…と思われたようです。


#awk や perl などのスクリプト言語は、システム管理にもよく使われます。




サポート仕事の多くは「ST-Vのサードパーティサポート」でした。

僕としては ST-V を「普通に使っていた」程度で、それほど詳しいという認識はなかったのですが、部署内では一番詳しいと考えられていたようです。


…えーとね、過去にサターン関連の記事書いているけど、知識としてはその程度。

マニュアルを読めば大体のことは書いてあります。


SGL の動作がわからない時に逆アセンブルして内部構造解析するくらいはやっていたけど、自分で大規模ライブラリ組めるほどの腕はない。


ハードウェアに関しては、ST-V の BIOS 作った人が同じ部署内にいたので、多分その人のほうが詳しい。

(と、当時は思っていたのだけど、BIOS は必ずしもハードを叩かないので、その人はそれほど詳しくなかったらしい。もちろん BIOS には詳しかったけど)




また、サードパーティサポートは、当然ながらサードパーティとのコミュニケーションが必要となります。

これが…部署内の優れた技術者の多くが、いわゆるコミュ障なんですね。


僕だってそれほど人づきあい上手ではないのだけど…

少なくとも、部署内の優れた技術者と話ができる程度には技術がわかりますし、仕事上の話ができる程度にはコミュニケーション能力もあります。



結局、求められていたのは突出した能力ではなく、全方位にそこそこできること。

それを満たせる人が案外少なく、僕が適任だったというわけです。




といっても、仕事の多くは雑用でした。

本当の雑用って、企画課が中心になってこなしていたのですが、「技術的な」雑用というのも結構あるのです。

そういうのは企画の人にはできない。


技術雑用は、それまではプログラム課の人が、役割分担して分散することでやっていました。

役割を任された人を、課内では「奉行」と呼ばれていました。



例えば、基板奉行は基板の管理をしていました。

ゲーム基板も多数ありますし、開発用の特殊機材や PC も基板奉行の管理するもの。


ケーブル奉行は、山ほどある謎のケーブル類を管理していました。

当時は、シリアルケーブルでも RS-232C や RS-422 があり、そのコネクタ形状も複数ありました。

パラレルケーブルも、SCSI ケーブルもコネクタ形状が多数あり、両端の組み合わせにより膨大な数のケーブルが存在しました。

必要な時に必要なケーブルを取り出せるように管理しておくのは大変な仕事だったのです。


その他、マニュアル奉行、筐体奉行…仕事上管理しなくてはならない膨大な資材ごとに「奉行」仕事がありました。

全部雑用ですが、誰かがやらなくてはならない仕事のため、任された人が通常業務の合間にやっていたのです。



これらは、すべてテクサポの仕事として集約されました。


最初の頃の仕事は、山ほどあるケーブルを、現状で多数使用されているものを除き、1種類1本づつ残して捨てる、という作業だったと思います。

同じ種類かどうかを判定するだけでも大変で、他の作業の合間にやっていて、これだけで半月くらいかかったのではないかな。




ここまで、自分が開発に関与したゲームの話を書いてきました。


しかし、これ以降は直接的に関与したゲームはありません。

一方で、サポートで関与したゲームなどはありますし、プログラムとは違う形でゲーム開発に関与する形になりました。


今後は、そうした話を書いていきたいと思います。



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機材管理【日記 18/02/02】

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サターンポリゴンのゆがみ  2018-01-23 17:57:30  コンピュータ 業界記

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4年ほど前に、サターンのハードウェアに関して…いや、ハードに限らず周辺の噂話まで含めて、長大な記事を書いた。

嬉しいことに、今でも時々反響がある。


で、先日 Twitter で、「たしかに、プレステは大きく歪むが、サターンは歪まなかった」と言っている方がいた。

その言葉を読んで、ハッとしたのだ。


しまった。

サターンの大バグで、わざわざ「歪めて表示しないといけない」場合があったことを書いていない。




セガラリーチャンピオンシップは、サターンのプログラムがこなれてきたころに発表されたビッグタイトルだ。

非常によくできている。僕も当時、レーシングコントローラーまで購入してやり込んだ。


このゲームを遊んだことがある人なら、ゆっくりと走った際に、コースを表現するポリゴンの、一番「手前」…

説明しずらいが、画面の一番こちら側に来る部分が、妙に歪んで表示されていたことを覚えているかもしれない。


あの歪み、ソフトウェアでわざわざ歪めて表示している。

そうしないと、ハードウェアの別のバグにぶつかり、表示がおかしくなってしまうためだ。


サターンのテクスチャは方式上歪みが少なく、プレステのようには歪まない。

しかし別の部分のバグを回避するために、状況によってわざわざ歪ませるように表示しないといけない場合があった。




サターンのスプライト表示 LSI …VDP1 には、クリッピングウィンドウ機能というものがあった。

画面内の「上下左右」の辺の座標を指定することによって得られる四角形の中でだけスプライトを描画し、その外側には描かない、という機能だ。


通常は、この四角は画面の最大サイズになっている。

その外側にはメモリが無いから書き込んではいけないためだ。


でも、例えば画面を分割して対戦できるようなゲームでは、ウィンドウサイズを変えることで、それぞれのプレイヤーの画面の中だけを描くことができる。

車のバックミラーの中だけ別描画、というようなこともできるし、ゲーム内の背景にテレビ画面があってその中に別のものが表示されているような効果も出せる。


工夫次第でいろいろ使える便利な機能だ。




スプライトは「四角」で定義されていて、4つの頂点を自由な位置に指定することで変形表示できた。

これがいわゆる「ポリゴン」だ。


変形表示の際には、元の画像定義の「横1ライン」ごとに画像が転送され、このラインを重ねていくことで面が作られる。

南京玉すだれみたいなものを想像してもらえるといいだろう。


実際には、この「ライン」が送られる直前に、クリッピングウィンドウの処理が入る。

ラインの始点と終点がウィンドウの外にあるかどうかがチェックされ、外にある場合は、ウィンドウの辺とラインの交点を算出する。

交点はつまり「ウィンドウ内に表示される端の点」なので、ここからウィンドウ内だけを描けばよいわけだ。


始点側がウィンドウ外なら、交点を求めるとともに、テクスチャの読み出し開始アドレスをずらす。

終点側がウィンドウ外なら、交点を求めるが、テクスチャ読み出しアドレスは変えない。

(いずれも、テクスチャの読み出しスピードは、クリッピングしない際のラインの長さに依存する)


始点も終点もウィンドウ外なら?

その線は、全部がウィンドウ外だろう。描画の必要はなく、捨てられる。



…ここにバグがある。


おそらく、この処理は System32 の家庭用を作っていた際の名残で、スプライトは四角いまま拡大縮小する程度の前提だったのだろう。

変形しない、四角いスプライトを前提にすれば、始点も終点も描画外なら全体が描画外、は正しい。


しかし、サターンの変形スプライトでは、ラインの一部だけがウィンドウ内に入る、ということがあり得る。

ウィンドウの「角」の部分にかかるように、始点と終点が違う辺(例えば下辺と左辺)をはみ出して描画される場合だ。


この場合、先に書いたクリッピングアルゴリズムだと、ラインの描画全体が捨てられてしまうため、本来必要な描画が行われなくなる。

結果として、サターンで作ったポリゴンゲームの、画面の角の部分は描画が行われないことが多くなり、「穴が開く」状態となる。



レースゲームでは、コースを構成するポリゴンが画面の下左右角にはみ出る、という状況は当たり前に発生する。

そこで、セガラリーチャンピオンシップでは、2次元変換させた後のポリゴンの座標をさらに加工する。


具体的には、「左右」からはみ出さないようにプログラム内でクリッピングしてしまえばよい。


厳密に言えば、クリッピングによって表示が6角形になる場合があるのだけど、セガラリーではおそらくそのような状況にはならない。

クリッピングで5角形になる場合に限定すれば、外側の2頂点を適切に移動してやれば、見た目の上でポリゴンの「辺」の形状を変えないようにできる。


ただし、内部のテクスチャは大きく歪む。

これをどう誤魔化すかは、作る側のテクニックだ。


セガラリーの場合、路面のテクスチャは工夫されていて、多少歪んでもわからなかった。

また、極端に斜め線を作らなければ問題の状況は起きないので、ガードレールなどはポリゴン面が縦に分割されるようになっていたのだと思う。


そもそも、歪んでも十分に高速で動いていれば、一瞬で通り過ぎるためにあまり気にならない。


しかし、崖の斜面などの形状が歪んだ部分にぶつかり、ゆっくり動いたりすると、歪むのがわかった。

このゲーム、そんな下手なプレイしているようじゃダメなので、慣れるにしたがってそういうことは起きなくなるのだけど。




他のゲームでも、よく見ると画面端は歪んでいる場合が結構あった。

描画が破綻するというのは最悪の状況なので、回避のために工夫したのだろう。


初期の SGL には、自動的にゆがめることで破綻しないようにする機能、というのはなかったように思う。

でも、もしかしたらバージョンアップの過程でつけられていたかもしれない。

申し訳ないが、この辺りはちゃんと覚えていない。



この記事、書き上げてからネットで SS のセガラリーの動画探してみたのだけど、思ったような歪みが見つけられない。

記憶で書いているので多少違っている部分もあるかもしれない、と断っておく。


本当は、自分で実機でセガラリー動かして検証すればいいのだけど、そこまでやっていない。



この話はサターン記事の中に追記するのが適切なのだけど、個別論に入った長い話を追記すると話の腰を折ってしまう。

なので、日記に書いたうえで、記事内からリンクしておくことにする。




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【獣】 歪まないけど汚いっていう印象でしたね~デイトナなんかでは一番手前側にくる道路が、下に落ちていくような感じになっていましたが、あれも表示がおかしくならなくするための対策だったのでしょうか (2018-01-24 13:01:05)

1997年のその他のゲーム  2017-12-29 16:36:57  業界記

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以前も書きましたが、1997年頃になると自分も中堅社員になってしまい、忙しくなったために部署内のゲームでもあまり見ていません。

なので、どうやら発売したらしい、もしくは発売した程度には知っていても、あまり詳しくないゲームもあるのです。



▼ダイナマイトベースボール 97



4月リリース。


以前に僕も携わった、ポリゴン野球こと「FINAL ARCH」は、1996年から「ダイナマイトベースボール」と名前を変えてシリーズ化されました。


97 は、名前の通り 97 年の選手データに入れ替えたバージョン。

この後、98、99と毎年発売されています。



AM1研では、プロジェクトごとにプログラマ・デザイナーなどが割り振られ、特に固定されたチームはない、という形式でやっていました。

しかし、このシリーズは、プログラムに関してはほぼメンバーが固定。シリーズなので仕方ないのですが…



企画の方は結構変わっていたと思います。

どこのタイミングだったか忘れましたが、割り振られた人が野球に詳しくはなかったようなのです。


それまでの前任者は、一人で企画の仕事を全部やっていました。

でも、野球が「好きだからできる」部分が多くて、作業量が多くても楽しくやっていたようなのね。


新しい人は、それほど野球好きだったわけではなく、でも前任者が一人でやっていたのだから一人でやらないといけない、と仕事を抱え込んでしまい…

ある日「探さないでください」と書置きがあり、失踪しました。


驚きました。

こういう話、本当にあるんだ。



仲のいい人が自宅に様子見に行ったら、普通にいたそうですけどね。

「失踪」ではなくて、単に出社拒否だっただけ。


そんなに辛かったのなら、早く言えばいいのに、と、もう一人企画者がアサインされました。

と言っても、サポート扱い。別の人に交代、とはならなかった。


詳しい事情は知りませんが、途中までやった責任もあるし、人材が足りなかったのもあると思います。





▼SEGA WATER SKI



9月リリース。


1996 年に、SEGA SKI Super G というゲームが発売になっています。

水の上を走る、Waverunner ってゲームも同年発売です。


じゃぁ、水上スキーやっちゃおうよ、と作られたゲーム。筐体は Super G と同じ、スキーコントローラーです。

Super G のコンバージョン(ソフト入れ替え)目的で作られたのではないかな。



特殊筐体を使うゲームの場合、通常のゲームより高価になりますし、買ってくれたお店に対しても「儲けが出る」ようにしないといけません。

でも、ゲームのヒットは運もあります。なかなか思うようにヒットが出るものではない。


そんな時、買ってくれた特殊筐体を使用するゲームを発売し、「ソフトを入れ替えることで新しいゲームにする」ことで、少しでも筐体稼働率を上げる必要があります。

それがコンバージョン。


バーチャフォーミュラに対して、Indy500 の特別版作ったりしたのも、コンバージョン。

つまりは、Super G が思ったようにヒットしなかった、ということの裏返しですね…



▼モーターレイド



10月リリース。


こっちもあまり覚えてない…

当時「銃夢」って漫画が流行していて、その世界観イメージで作っていたのではなかったかな。


いや、それともそれは、単に先輩が好きで漫画読んでいただけか…

なんか、開発していた先輩の机に銃夢が並んでいた覚えがあるんですよ。


でも、その程度の記憶しかありません。すみません。




▼マルちゃんdeグー!!!



12月リリース。


ST-V 基板で作られた、東洋水産の「マルちゃん」キャラクターを使ったゲームです。


当時のセガは、ゲームに広告を入れてスポンサーを募る商売を実験的に行っていました。

「バーチャファイターキッズ」で、大塚製薬の「ジャワティーストレート」が出てくる、とかね。

FINAL ARCH でも、日本テレビの「進め電波少年」のロゴ入れました。


でも、どれもゲームがまず作られ、そこに「無理やり」商品CMを入れ込む、という感じなのね。

どうしても、唐突にCM入れた感じがする。



マルちゃんdeグー!!!は、もともと東洋水産からの依頼だったようです。

どういう経緯でそうなったのかはよく知らないのですが、おそらく製作費も東洋水産持ち。


…つまりは、制作費が少ないのです。広告費とかの枠組みだと思うから。

社内で作るには割に合わない仕事なので、全部外注に任されました。



少なくとも「唐突なCM」という感じはないです。

ゲーム丸ごとCMだから。主人公からマルちゃんだし、ミニゲームも東洋水産の商品名とかを冠している。


ゲームとCMの融合、という実験としては完璧でした。

惜しむらくは、ゲームを「作る」程度の制作費しか出ておらず、「面白くする」ところまで踏み込めなかったことか…



▼バーチャル麻雀


リリース2月。

ここまで時系列で書いてきたのですが、これは最後にしました。

AM1研作品ではなく、外注ですらないから。



サターン用に作っていたゲームを ST-V でも発売したい、という会社があり、「面倒見てあげて」と、AM1研が事務処理を頼まれたのです。

そのまま、部署内の基板などの管理を任されていた先輩に処理が丸投げされ、先輩が「ちょっと ST-V 基板使わせて」と僕の席を訪れました。


#先輩は Model2 のチームにいたので、ST-V ゲームを頼まれても、動作確認もできなかった。


それがバーチャル麻雀だったのですが…



作ったのは、サターンで何本か麻雀作っている会社なのですね。


でも、本格派の麻雀ではなくて、勝てば相手が脱ぐ、いわゆる脱ぎ麻雀。

サターンの性能を活かし、CD-ROM の大容量で、実写の写真を表示するように作ってありました。


それを、CD-ROM のない ST-V に移植…タイトルも変えて完全に新作でした。

(あとでサターン版も発売になっています)



ポリゴンで「お姉さん」を表示しています。

勝つとご褒美シーンがあるのだけど…



…えっと、悪夢?


ご褒美シーンのはずなのだけど、背景がおどろおどろしいし、ポリゴンカクカクだし、踊っている(?)動きが悪い。

(ポリゴンに関しては技術の進化もある…と擁護したいのですが、当時見ても「カクカク」と感じました)


#Youtube動画で走査線がおかしな感じになっているのは、エミュレータの出来が悪いのだと思います。



担当者の先輩、こんなんじゃいかん、脱ぎ麻雀で求められる美少女グラフィックとは…と、熱く語りだしました。


この先輩、当時でいうところの「美少女ゲーム」マニアだったらしい。

この時まで知りませんでしたよ。




確かこのとき、一緒にもう一本のソフトを見せてもらったと思います。

こちらは営業の人が持ってきたみたい。


「ペブルビーチ ザ・グレートショット」


T&Eソフトが作った3Dのゴルフゲームで、業務用を 1996年3月に発売していたそうです。

パソコンで話題になった「遥かなるオーガスタ」のシリーズね。


これが、3Dなのだけど、ST-V の機能に頼りません。

自前のプログラムで描画を行っているらしく、少し遅いのですが、非常に美しい風景を描き出します。


ハイクオリティなソフト。

サターンから移植して ST-V で発売したサードパーティソフトなのですが、これが評判良かったらしいのです。



それで、他の「サターン用ソフト」を作っていた会社にも、ST-V 移植の門戸を開いたようなのです。

その第一弾が「バーチャル麻雀」。


…同じ「サードパーティソフト」として扱うには、クオリティに歴然とした差が。



これで「前例」ができたので、その後はAM1研でそれらのサードパーティ作品の事務処理を行うことになります。

外注ではなくサードパーティなので、ゲーム内容などには口をはさみません。ただ事務処理だけ。


でも、今後はそうしたゲームのことも(思い出したら)書くかと思います。





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別年同日の日記

02年 ハイテク回転寿司

03年 おせち料理

08年 クリスマス

14年 クリスマス

15年 HDMI -> VGA 変換器


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ポケベル早押しPiポパ  2017-12-23 21:10:54  業界記

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この作品、見たことありません。ごめん。

世の中にもあまり出回っていないのではないかな。


AM1研の作品ですらなくて、AM4研のエレメカです。

この作品を紹介したいのではなくて、これに絡んだ思い出話を書きたいだけです。



アスキーのWEBページに、1997年12月に行われた製品発表会の様子が書かれていました。


…ね、ちゃんと発表されているでしょう?

多分12月の発表会だから世に出回ったのは翌年だと思うのですが、一応 20年たった、ということで。





最初に概要を書いておくと、当時は「ポケベル」という道具がありました。


携帯できる道具で、電話を使ってメッセージを送れる

ポケベルから送ることはできません。送るには公衆電話を見つけないといけない。


1986年ごろからビジネスマンの道具として出てきたものですが、1990年頃から、女子高生の間でブームになります。

いつも友達と繋がっていたいお年頃よね。


でも、その頃はまだ、メッセージとして数字しか送れませんでした。

普通は「この番号に連絡せよ」という意味で電話番号を送るものだったのですが、女子高生は語呂合わせで数字を使ってメッセージをやり取りします。


114106 なら「アイシテル」と読む具合。


#1 は先頭にあるため、「ア」と読ませる例多し。また、「イチ」なので「イ」とも読む。

 4 が「シ」は良いとして、10 は「テン」なので「テ」、6 は「ロク」だけど、文脈からラ行の「ル」と判断。

 …あらかじめ符丁を示し合わせてないと伝わらないですね。



恋愛ドラマ「ポケベルが鳴らなくて」は 1993年の作品。

ドラマの小道具に使われるくらいにはブームになり、浸透していたのです。


この需要にこたえるかのように、1996年に、数字だけでなく文字メッセージが送れる仕組みが登場します。

プッシュホンを使用し、2桁1組の数字で文字を表します。


例えば、1桁目が 1 なら「あ」行、2 なら「か」行で、0 なら「わ」行を示します。

そして、2桁目が 1 なら「あ」段、2 なら「い」段…で、5 なら「お」段を示します。


だから、1112324493 なら、「アイシテル」となるわけです。


#ちなみに、2桁目が6以降は、アルファベットや数字などを意味します。



この入力方法、現在のスマホの「フリック入力」にほぼそのまま受け継がれています。

1桁目の位置はそのまま数字位置で、2桁目は、指をフリックする方向として。


詳しく知りたい人は、こちらも参考になります



#全くの余談ですが、i-mode 時代…現在「ガラケー」と呼ばれる時代は、繰り返し同じボタンを押すことで「段」を選ぶ方式が主流でした。

 1 を1回押せば「あ」だけど、5回押すと「お」になる。これ、わかりやすいけど入力に時間がかかるのね。

 i-modeも一部端末でポケベル式入力が使えたので、僕は好んで使っていましたが、だんだん使える機種が減って行って…

 フリック入力が登場した時は、「時代が戻ってきた」と感じました。




文字が使える機種は大人気で、あっという間に女子高生に広がりました。

当初は暗号表のような「文字変換表」を見ながら送っていたメッセージも、やがて暗記し、高速に入力できる人が増えていきます。


そのブームを受けて開発されたのが、「ポケベル早押し Piポパ」です。


ポケベル、と言いながらも、ゲームの操作部分は公衆電話の形をしています。

メッセージを受ける側の「ポケベル」ではなくて、送信側の公衆電話のゲームなのね。



そして、画面に表示された「問題文」を、高速にタイプしていくのです。

やはり当時パソコンソフトとして流行していた、タイピング練習ソフトのノリですね。




さて、最初に書いた通り、このゲームを紹介したいというより、このゲームにまつわる思い出なのです。

と言っても、実際にその思い出話が発生したのは、半年くらい後だったかな。


同期の女性デザイナーが、退職することになったのです。


一緒に仕事もした人で、退職すると周囲に公表した後のこと。

何かのきっかけで、ふたりで話をしていました。


その時に、「誰にも言ってはならないナイショ話」として聞いたのです。

誰にも言ってはならないと言われましたが…ごめん、面白い話だから書いてしまいます。



「ポケベル早押し Piポパ」は、AM4研の作でした。

AM4研は基本的にエレメカ部署で、ゲーム画面を組み合わせる場合は、AM1研と組むことが多いです。

スポーツフィッシング2や、アンパンマンポップコーン工場など)


AM4研には、ドット絵を描けるデザイナーが存在していないためです。



しかし、ポケベル~では、AM4研単独作成を目指しました。

そのために、外注でフリーのグラフィックデザイナーを頼んだのだそうです。



その外注が…じつは、AM1研に在籍していた、彼女だというのです。

ゲームのドット絵を描ける人を募集していると知り、セガ社員であることは隠して応募し、採用されました。


2か月くらいの短期の仕事で、時間給を考えると正社員でいることが馬鹿らしくなるほどの報酬をもらったとか。



で、それなら独立してやった方がいいんじゃないだろうか、と退職を決めたのだそうです。


セガは社員の副業禁止でしたし、そもそも社員だったと判れば「社員の仕事内」のこととして、報酬を無しにされてしまうでしょう。

だから、絶対にナイショの話でした。




当時すでにインターネットを始めていましたので、彼女がやめてしばらくたってからメールをもらいました。

とある有名企業の広報誌の表紙イラストの仕事を、1年分貰ったとのこと。


これで、イラストレーターとしても十分な実績を得られたようです。



これ、身近なロールモデルですね。

僕も後に独立するわけですが、彼女が失敗していたら、慎重になってしまって独立しなかったかもしれません。



彼女はその後もフリーのイラストレーターとして活躍していたようですが、後にデザイン会社に所属するメンバーになっていたようです。

これは、今どうしているかな、と思って10年くらい前にネットで名前を調べて知ったこと。


しかし、数年前に名前を検索した時には、見つかりませんでした。

(女性なので姓が変わった可能性もありますね)



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別年同日の日記

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ST-V 開発環境  2017-11-16 17:07:05  業界記

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そういえば、ST-V の開発環境話って書いてませんでした。

ここらへんで書いておきましょう。


…とはいっても、「業界記」タグで書いていないだけで、だいたいはこちらで書いた通りです。


リンク先記事では、僕の所属を「セガの業務用ハード向けのゲームばかり作っていた会社」としていますが、セガそのものです。

嘘は書いてない。自分の中で20年たっていないことは書かないという自主ルールを定めていたので、明言を避けただけです。




開発環境としては、当然のことながら、それまでの開発環境から緩やかに移行できるようになっています。

と言っても、メインとなる PC をそのまま使えた、という程度かな。System32 でも使っていた、HP-UX マシンをそのまま使って開発しました。


当初は、HP-UX には限らないものの、UNIX マシンを使わないと開発できなかったようです。

しかし、すぐに通常の PC でも開発できるようになります。


実際、後に入ってきた新入社員には、Windows マシンが支給されていたはず。



ターゲットとなるボードは当然変わります。CPU エミュレータである ICE も変わります。

V60 ICE は PC-9801 が無いと制御できませんでしたが、SH2 ICE は UNIX/PC から制御できるようになったので、PC-9801 は不要になりました。


これ、机の上が広く空いて嬉しかった。


ROM エミュレータも不要になりました。

というか、時代の変化で ROM の容量が増えて、それまで使っていた ROM エミュレータではエミュレートできなくなりました。



Model 2 などでは ROM エミュレータとは違う方法で対応していたのですが、ST-V には「フラッシュロムカートリッジ」が作られました。

ICE を経由して、PC からデータを送り込んで、基板に挿したままで内容を書き替えられます。


開発用のフラッシュカートリッジは、商品のカートリッジよりも大きいですし、基板がむき出しです。



ST-V のカートリッジは、後にコピー防止のためのチップが入ったバージョンが作られます。

当然、フラッシュカートリッジにもそのバージョンがありました。


…でも、旧バージョンを手作りで拡張しただけ。わずかな基板しかありませんでした。

開発時は普通のカートリッジで開発し、コピー防止のスクランブルをかけたデータを作成したら、特別版で動作確認だけする、という感じ。


まぁ、詳細はまたそのうち。




SH2 ICE の UNIX 版ソフトウェアの GUI は、OPEN LOOK で作られていました。

しかし、HP-UX は Motif でした。



…この説明で悲劇を理解してくれる人はどれだけいるでしょう?


UNIX の世界は、もともとコマンドラインインターフェイス…キーボードから文字でコマンドを入力し、文字で結果を受け取る、という文化です。

グラフィックが使える環境もありましたが、OS ではなく「端末」依存で、環境が違うと一切互換性がありませんでした。


これを解決しようと、X Window System が作られます。

Window と名前にありますが、事実上は標準グラフィックライブラリ。


Window 環境を実現しやすい工夫はありますが、とにかくどんな環境でも共通でグラフィックは扱えるようにしてやるから、後はお好きなように、というもの。


このままでは使いにくいので、GUI らしい「部品」のライブラリが作られます。

OPEN LOOK は Sun が作ったもので、こうしたライブラリの中では比較的早く広まったもの。


Sun ワークステーションでは Open Windows という環境が整えられていて、その中ではすべてが OPEN LOOK で作られていました。

これはこれで、統一されていて使いやすい状態。


当時は Sun は UNIX 界の巨人でした。

そもそも、大学などでは「無料だから」という理由で利用されていた UNIX を、仕事でも使えるものとして広めたのは Sun なのです。



その後、Sun に対抗するそれ以外の UNIX メーカーが共同で、「標準 Window ライブラリ」を作り上げます。

それが Motif 。


コンピューター業界の標準 GUI にしよう、という意図で設計されたため、Windows も、3.1 の時には Motif ベースで作られています。

なので、Motif は 3.1 の頃の Windows にそっくりです。


HP-UX では、Window 環境全体を Motif で構築しており、Windows 3.1 を利用しているのと似た感覚で操作できました。



…でも、OPEN LOOK と Motif は、見た目も操作の作法も全然違うのです。




SH2 ICE の UNIX の GUI は、OPEN LOOK で作られていました。

しかし、HP-UX は Motif でした。


もう、操作しづらいの。

SH2 ICE の操作をする時だけ、普段とは全然違う操作を強いられるから。


Windows と MacOS を切り替えながら使うような仕事って、今でもあると思うのだけど(僕はやってます)、そういう時の「操作しづらさ」を想像してもらえばいいかな。



もちろん、Sun ワークステーションを使っていれば統一された操作感で悪くないのでしょうね。

でも、すでに Sun は優位な立場を失いつつあり、ワークマシンとしての人気は落ちていました。


#サーバーとしての信頼性などはまだありました。



先に書いた通り、開発には Windows でも使えました。もちろん、SH2 ICE の Windows 用ソフトもありました。

こちらの GUI は、ちゃんと Windows 用に作り込まれていたようです。


結局、UNIX 用はライブラリが違っても動いてしまうがゆえに、ライブラリ環境ごとのカスタマイズはされていなかっただけなのでしょうけど…




SH2 の話ではないけど、V60 の頃は僕は awk 使いでした。

awk でグラフィックなどのデータを次々とツールに通し、得られた結果を整理して、プログラムから扱える環境まで全部整えるスクリプトを作っていました


でも、これに限界を感じて、ST-V 用に処理を書き替えるついでに、全部を perl で書き直しました。

awk で作っていたスクリプトは、大量のデータを処理するには遅かったしどうしても無理があって、バグ含みだったんだよね。

(バグに遭遇する確率は低いが、特定形式のデータでバグが出ることはわかっていた)


まぁ、これらのスクリプトは「自分で使う」ために作っていただけで、誰にも見せたことはありません。



オーラ占いの話のところで書きましたが、最後の方で同僚の仕事を一時引き継ぎました


その時に、awk のスクリプトでデータ整理していることに気付きました。

それで調べてみると、誰にも見せたことがないのに、「作者不明」のまま、ST-V やその他基板用に改造され、いつの間にかみんなが使うものになっていて…


perl 版と違って、遅いしバグ含みなんだけどな。

説明するのも面倒くさいので、後に会社辞めるまで、そのまま知らないふりを通しました。


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別年同日の日記

01年 11/16

01年 11/15

09年 食育フェスタ

11年 tcc

12年 こんにゃく

13年 宮本茂 誕生日(1952)

14年 雑誌の発行日

15年 デイビッド・パターソン 誕生日(1947)


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

あきよし】 失礼しました。正式表記に書き替えました。指摘ありがとうございます。 (2017-11-21 09:29:06)

【m.ukai】 × X-Window ○ X Window System (または単にX) (2017-11-20 20:20:05)

引っ越し作業  2017-11-02 17:59:43  業界記

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オーラ写真の作成中の…たしか 1997 年の夏の出来事。

部署の引っ越しが行われました。


それまでいたのは、「本社2号館」。

僕が入社する前年に「新本社ビル」が完成し、隣にあった旧本社ビルは2号館となったのです。


で、それまでAM1件は別の場所にいたのが、2号館に引っ越してきたそうです。



でも、この頃のセガはどんどん人数が増えています。

僕が入社した時だって、3年間で3倍に増えた、と言われていました。


その後も増え続け、本社と2号館だけでは手狭になり、新たに「3号館」が作られたのです。



ちなみに、


このビルは、当時は「別館」として、AM4研(筐体やエレメカなどを作る部署)が使っています。

2号館にあった仮眠室から、大きな道路をまたいでレーザーLANで繋がってました




3号館は新しく建てたわけではなく、近所のビルを買いました。


セガ本社は、京急大鳥居駅が最寄り駅だったのだけど、同じ駅から「別の方向に」同じくらい歩いたところ。

だから、引っ越したと言っても環境はそれほど変わりません。



赤井電機本社ビル。


赤井電機は、「AKAI」のブランド名で世界的に知られた、高級オーディオメーカーです。

しかし、CDの時代に乗り遅れ、業績が悪化していました。


1980年代からじわじわと業績が悪化し、1997年、ついに本社ビル売却まで追い込まれ、セガが購入したのです。


#この後、2000年に倒産。

 ただし、AKAI ブランドは売却され、まだ生き残っています。




引っ越し作業で、事前に一度赤井ビルを訪れたと思います。

手の空いている人間だけを集めて、AM1件が入る予定の部屋に行って事前準備をしたのではないかな。


…オーラの開発期間を考えると、自分がこの準備に参加したのだから、初夏ごろの話かな。



このときは、普通のオフィスビルでした。床はオフィスによくあるタイル張り。

さらに後、いよいよ引っ越しの段階になって訪れると、床がカーペットになっていました。


単にカーペットにしたわけではなく、入り口がスロープになって、床が 20cm 程持ち上がっている。

いわゆる OA フロアです。床下に空間を作り、電源やイーサネットなどのケーブルを通せるようになっています。


カーペットは、50cm 程のタイルに分割されています。

専用の取っ手…巨大なマジックテープのようになったものをカーペットにくっつけ、引っ張るとタイルを外せます。


席替えなどの時は、これでケーブルなどを繋ぎ変えられました。

なお、タイルには切り欠きの付いたものがあり、そこからケーブルを床上に出せます。



以前の2号館でも、床はOAフロアでした。

ただし、カーペットではなくタイル。外すときは吸盤を使う方式でした。




引っ越し作業。

歩いて10分ほどの距離なのですが、重たい機材がたくさんあります。

4トントラック(たしか引っ越し業者にトラックだけ借りた)を何度か往復させました。


たしか、誰かが書類戸棚を動かそうとして、ガラス扉を割ってしまったのではなかったかな。


これがきかっけで、プログラマ課の課長が覚醒。

大学時代に引っ越し業者でアルバイトをしていたそうで、「ガラスは割れた際に危険が無いように、前もってテープを貼る」「可動部は片側に寄せてテープで固定する」とか、てきぱきと指示を出し続けます。


もともと部下の面倒見は良い人なのですが、意外な一面を見ました。



戸棚だけでなく、机も椅子も機材も、全部自分たちで運びます。

運搬台車もあるのですが、とにかく運ぶものが多いので、台車に頼ってもいられない。


CRTモニタは大きくて重いので、キャスター椅子に乗せて運びました。

その際、ガラス面が背もたれで保護されるように。


テーブルなんかは、大きいだけで重くはないので、2人で運べば何とかなりますね。



エレベーターで1階までおろし、前の道路でトラックに積み込み、赤井ビル後ろの駐車場でおろし、エレベーターで新しい部屋まで。

経費節約もあるだろうけど、運ぶものの多くが企業秘密の精密機器だから、他人の手は借りられない、という感じでした。




部屋は基本的に続き部屋の2部屋で、間に壁があります。

壁には大きな開口部があり、2部屋を自由に行き来できるのだけど。


合計面積は以前より広くなったけど、1部屋だけだとちょっと狭い感じ。

2号館の時は、部署全体が大きな一部屋で一体感がありました。

でも、この頃から「同じ部署内でも何やっているのかよくわからない」感じになった気がします。


この2部屋を、仮にA,Bと呼びましょう。



基本的に、部屋の中は可動式のパーテションで区切られ、プロジェクトチームごとに分けられていました。


パーテションは、大人の男性の胸くらいの高さ。

壁越しに話をするのも簡単ですが、一応「区切られている」感じはするくらいの壁です。


これは、A,Bどちらの部屋も同じ。



Aの部屋の入り口を入ってすぐのところには、部長室が作られました。


これはパーテションではなく、床から天井までつながった壁です。

基本ガラス張りで、中の様子もよくわかります。


特にお客さんがいない時であれば、相談などにも入りやすい雰囲気でした。


でも、部長室だから重要な会議も行われます。

天井まで壁が繋がっているのは、声が外に漏れないため。



…と、もう一つ。部長が喫煙者だったためです。

社内禁煙だったのだけど、部長権限で空気清浄機を持ち込んで、タバコ吸ってました。




もう一つ、Aの部屋の入口、部長室の逆側にも部屋が作られました。


こちらも天井から床まで壁があるのですが、窓は一切ありません。

それどころか、壁は厚めで、扉には鍵がかけられました。


サーバールームです。

専用のクーラーがつけられ、常に肌寒いくらいの温度に保たれています。


それまでももちろんサーバーは使われていたのですが、サーバー管理者の机の周囲に並べられているだけでした。

それが、ちゃんと部屋に収められ、熱暴走しないように気を使われ、防犯のために人が近づけないようになったのです。



結果、Aの部屋は、入り口すぐの部分が、部屋に挟まれた細い通路になりました。


でも、2号館からの習慣で、毎日昼休み後に「昼礼」の時間が設けられ、部長室前に集まる必要がありました。


これが、集まるスペースないのね。

パーテション越しに、適当に周囲の区画に散って部長からの連絡とか聞いてましたけど、機材とか置いてある都合もあってやっぱり集まりにくい。


周囲にいても声がよく聞き取れず、あとで近くで聞いていた人に「何の話だったの?」と聞く必要があったり、それならいっその事昼礼さぼる、という人も増えました。



#一応、部長室前に事務の女性の机があったため、部長が立って話をする程度のスペースはありました。

 ただ、聞く人のためのスペースがほとんどないだけで。




もう片方の、Bの部屋の話もしましょう。


こちらの部屋の一番奥に、機材倉庫と仮眠室が作られました。

…というか、この二つ共通。機材倉庫に2段ベットが1つ置かれていた、というだけ。


機材と言ってもいろいろあります。

ゲーム機の基板とか、開発用のパソコンとか、古い開発用資料とか、各種ケーブルとか。


これ、2号館の時には、あちこちに分散して保管されていました。

基板はこちら、ケーブルはこちらの引き出し、資料はあちらの本棚、という感じで。


これが全部1カ所に集約されたのです。



この部屋は機材置き場なので、普段基本的に人が入ることはありません。

静かなので、片隅に2段ベッドが置かれました。


2号館では、シャワー付きの仮眠室があり、ベッドがたくさん並んでいました。

その時に比べると、2段ベッド1つだし、シャワーは無くなったし、環境が劣化しています。


ただ、床がカーペットになったので、寝袋で直接寝ても床から冷えることが無くなったんですね。

もともと「誰が寝たかわからないベッドで寝たくない」という人も多かったので、そういう人にとっては寝やすくなったようです。


…というか、この頃から残業自体がやりにくい雰囲気になり、よほどのことがない限り泊まり込みをする人は減りました。


#先に書いた、ノー残業デーなどの運動もありましたし、そのうち書く別の要件の影響でもあります。




引っ越してすぐのころに、仲の良いグラフィックの先輩が「このビル、なんか傾いているよね?」と言っていました。


僕はそうは感じなかったのですが、絵を描く人だから、水平・垂直などに敏感だったのかもしれません。


赤井ビルは結構古いビルで、1981年に制定された「新建築基準法」の基準を満たしていなかったようです。

とはいえ、そんなこと当時の僕は知りません。


その後もビルは使い続けられましたが、2011年の東日本震災を受け、「危険性がある」と2012年に閉鎖。

今では取り壊されています。



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関連ページ

ネットワーク管理【日記 18/02/01】

別年同日の日記

01年 11/1

12年 最近のうちの子

14年 ホビーパソコン・オフ会


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

千客万来  2017-11-01 10:41:53  業界記

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セガにいる間に、何度か著名人が訪れたことがありました。

大会社だから、いろいろな人脈がありますよね。今回はそういうお話。




僕が入社する直前、当時「世界最速の男」と呼ばれたF1ドライバー、アイルトン・セナが訪れたのだそうです。


当時のセガの副社長、入交正一郎氏は、前職がホンダの副社長でした。


ホンダはF1にエンジンで参戦しています。

当初はセナが在籍していたロータスへエンジンを供給し、セナがマクラーレンに移籍すると、マクラーレンにエンジンを供給しました。


入交氏はこの頃にセガと親交を厚くしたそうで、新しい会社に移ったと聞いての表敬訪問だったようです。



入交氏がセガに入社したのは1993年の6月。

セナがレース中の事故で死去したのが 1994年5月1日。


僕はセナがセガを訪れたのがいつか知らないのですが、この間の出来事なのでしょう。


セナが訪問した際、本社入口にロビーに、「スーパーモナコGP」(1989年のアーケードゲーム)を置いて、開発者と対戦したのだとか。

結果は開発者の勝ちで、「世界最速の男より速い男」の栄冠を得たそうです。



#最初に書いた通り、僕が入社する前の話なので先輩からの伝聞です。

 なお、入交氏がホンダから持ってきて、このときにセナからサインを書いてもらったという本物のF1カーは、セガの倉庫に置いてあったのを見ています。




マイケル・ジャクソンがセガを訪れたのは、たしか…「人相占い」のプロジェクトが発足したものの、何もやることが無くて暇だったころ


マイケルはセガのゲーム大好きで、時々お忍びで日本にも来てましたし、日本に来た時にはセガを訪れていました。


このときも、そういう感じでセガに来たらしいです。

でも、いつもよりも時間があったようで、ゲーム作成現場の各部署を案内してもらっていた。


#ゲーム開発現場は社外秘だらけですから、普通は急にやってきたお客さんになんて見せません。

 マイケルだから特別扱いです。



世界的スーパースターが職場にやってきた、というので周囲は騒然としていました。

とはいえ、そこは仕事中。浮かれて野次馬をするわけにもいかず、みんな自分の仕事を黙々と続けます。


今作成中のゲームなどを一通り見た後で、「最近は日本ではこれが人気なんですよ」と、プリント倶楽部を見せます。


#プリント倶楽部はアトラスのものですが、AM1研でも関係が深く、部署内に置いてありました。

 詳しいことはまたそのうち。



作成中のゲームをいろいろと見せてもらい、自分の顔写真をシールにしたものをお土産にもらい、にこやかに部署を出ていくマイケル。


…この後、一斉に野次馬が動き出します。

プリント倶楽部では、「コンティニュー」することで、直前に作ったシールを追加印刷できるのです。



次々とシールが印刷され、ミーハーな人達で部署内はちょっとしたお祭り状態。

シールの用紙が無くなり、補給して印刷していたので、かなりの枚数が作られたのではないかな。




飯野賢治さん。

たしか「ここらでコラムス」を作りはじめた頃だったと思いました。1996年の10月ごろかな。


その時のプロジェクトチームの席が部長室に近かったため、部長室から出てきて去るまでの間を、ちょっと見かけただけ。


飯野さんはその後亡くなっていますが、天才ゲームデザイナー、ともてはやされ、雑誌などにもよく出ていました。

ここでいう「天才」というのは、ゲームが面白かった、というようなことではないです。残念ながら。


むしろ、ゲームは万人受けしない、強烈な個性のものが多かったように思います。だからゲームとしての評価もそれほど高くない。

しかし、その個性的な内容が同業者…他のゲームデザイナーなどに評価され、対話してみるとゲームに対する深い造詣・ゲーム愛を感じる、などのことから「天才」と呼ばれていた模様。

雑誌などによく出ていたというのも、こうした対話が面白かったため、インタビューなどが良く行われたためのようなのですが…


多分、一緒に酒でも酌み交わさないと理解できないタイプの人です。

当時の僕は率直に言って、「天才」と呼ばれているけど、作るゲームは大して面白くないし、メディアに祭り上げられているだけの人、と思っていました。


プレイステーション陣営のゲームショーで、「次のゲームの対応ハードは、プレステから予定を変更し、セガサターン専用」と大々的に発表し、話題となったのが 1996年3月27日。


部長室に来ていたのは、その衝撃がまだ冷めやらぬ頃です。

なんの話をしていたのかは知りません。

話題の人がサターン陣営に入ったわけで、そのまま ST-V などにも展開できないか、というような話があったのかもしれません。


#当時のセガは、サターンと ST-V が互換機版であることを活かして、家庭用で人気のゲームを業務用にも展開できないか模索していました。



最後、部屋を出ていくところを見ただけですが、体躯も大きく怖そうな人…プロレスラーや暴力団員を想像する威圧感がありました。


亡くなったずっと後に飯野氏がまとめたインタビュー集などを読んで、結構繊細で、ゲームを作るのが本当に好きな人だったんだな、と知りました。




田尻智さん。

こちらも「ここらでコラムス」を作っている時でした。結構遊べる形になっていたから、11月頭頃かと思います。

(中旬には、「ここらで」は打ち切られ、「コラムス97」の作成に入るので)


ポケモンの発売が同年 2月27日ですね。

ポケモンは当初全然売れず、ベスト 10 入りしません…が、常に 20位以内には入っていました。


そのまま数か月「ベスト 20位入り」を続ける、というおかしな売れ方のソフトになっていきます。

普通のソフトは、発売後1か月くらいで極端に売れ行きが落ちるのね。


これで「変な売れ方をしているソフトがある」と話題になり始めるのが夏ごろ。

「コラムス97」の企画者Mが、僕に「ひとりで遊んでも面白くないらしいので、一緒に買って遊ぼう」と持ち掛けてきます。


僕はこれでゲームボーイ本体から購入したのですが、当の本人は1週間くらい遊んだところで「自分の好きなタイプのゲームではなかった」と投げ出しやがった。ひどい奴だ。


…まぁ、それは余談。



本当にポケモンが話題になるのは冬頃からで、この段階では田尻さんはそれほど有名ではありません。


#まぁ、「知る人ぞ知る」タイプの有名人ではありましたが。



ここで田尻さんは仕事から一時解放されているわけです。

そして、1994年にはセガで「パルスマン」を作ってもいます。


多分、セガに来たのはまた仕事ができないか、というような相談だったのでしょう。

で、飯野さんと同じく、サターンで仕事をするなら ST-V でも何かできないか…というような流れではないかと。



部長室での会談が終わって出てきてから、近くで動いていた「ここらでコラムス」に興味を持っていただけたようで、少し遊んでもらいました。


非常に腰の低い、丁寧な方で、演出面の効果などよくできている、と褒めていただきました。

以前に書いたように「ここらで~」はお蔵入りになってしまったので、社外の人で遊んだのは田尻さんだけだと思います。



また余談:

コラムスの企画者Mは、結構ゲーム関連の同人誌とかを持っていて、このとき机の引き出しの中にゲームフリーク版「ゼビウス1000万点への解法」が入っていたのだそうです。

でも、このときはほんの数分の出来事で、そんなことに頭が回りませんでした。


後になって「サイン貰えばよかったー!」って悔やんでました。


#ゼビウス1000万点~は、「うる星あんず」氏が作った同人誌。コピー本。

 あまりに有名になり、日本全国から「買いたい」という問い合わせが殺到したため、田尻さんが主宰するサークル「ゲームフリーク」で改訂版を発行する。同人誌だけど合計で約1万部を売り上げ。

 さらにその後、マイコンベーシックマガジン付録の「スーパーソフトマガジン」で、この内容を再編集したものが3回にわたり連載される。

 この本は、「世界初のゲーム攻略本」ともされている。




スティーブン・スピルバーグ監督がセガを訪れたのは、コラムス97のサターン版のための「残務処理」をしている頃でした。



スピルバーグ監督の映画会社「ドリームワークス」とセガは、1996年3月に、アメリカでテーマパーク事業を展開する「ゲームワークス」を立ち上げます。


セガはアミューズメントテーマパーク構想をぶち上げ、「各都道府県に1つづつのテーマパークを作る」としていました。

…が、すぐに頓挫。言っちゃ悪いけど、「テーマパーク」なんて言いながら、実情はゲームセンターに過ぎなかった。



ナムコは同じ頃に同じようなことをしていましたが、こちらはもっと「遊園地」らしさがありました。

セガは技術力はあるのですが、どうもそこに頼りすぎて、遊園地らしい雰囲気を作り出せず、ゲームセンターになってしまうのです。



そこで今度は、スピルバーグが監修を行い、セガの技術的なノウハウを活かして、アメリカでテーマパークを展開しようとしたのです。

このための会社がゲームワークスでした。


…で、1997年の1月に、スピルバーグがセガを訪問したわけです。

マイケルの時と同じように、各部署を案内されて回っていました。



スピルバーグ監督、男の子を連れてきていました。多分お子さん。

開発中のゲームを見る際も、この男の子が興味を持ってみていた感じ。多分ゲーム好きなんでしょうね。


最後に、みんなで記念写真撮りました。

「1月」と時期を明示できるのは、この写真の中にカレンダーが写っているため。



…プライバシーもあるのでとても写真は公開できないのだけど、部署全員が写っているわけではないな。

どういう基準でこのメンバーになったのだろう。


撮影場所は、コラムスチームのブースだったはず。

ゲーム作り終わった後で、ブースに「空き」があったので、みんなが集まって撮影できそうな広さがあったのだと思う。


カメラマンが僕の机の上に立って撮影したのも覚えています。


多分そのせいで、僕はかなりいいポジションで写真に写っています。

最前列、ほぼ中央。ちょっと右より。

僕の隣、ちょっと左寄りには、男の子…監督のお子さんがいます。


そして、最前列中央の二人に手をかけるような形で、監督が後ろに立っているのです。


#男の子の方には手を載せているが、僕の方には別に載せてません。そういう位置、というだけで。




これ以外に、タレントの松村邦洋さんが来たことは知っています。会っていないけど。


セガは、当時ゲームの中に広告を入れる、というビジネスモデルの実験をしていました。

これを受けて、テレビ番組「進め!電波少年」の企画で、ゲームの中に広告を入れてもらおう、もちろんタダで!という企画があったのです。


松村邦洋さんが来て、セガの広報の人を拝み倒して、何かのゲームに広告を入れる、と決まります。

で、当時僕が参加していた「ファイナルアーチ」に広告を入れたので、後日テレビ局スタッフがゲーム画面の撮影に来ました。


そんなわけで、「会ってないけど来たことは知っている」です。



もう一人、声優の千葉繁さんが来ていますね。こちらも会ってません。


手相占い ちょっとみせて」のナレーションは千葉さんです。企画の先輩がアニメ好きで、千葉さんの大ファンでした。

なので、地位を利用して千葉さんに仕事を発注し、会ってサインをもらってきていました。


AM2研にあったサウンドのスタジオで収録していたので、サウンドの人と企画の先輩は会っていますが、僕は姿を見ていません。




と、これが僕が知っている範囲のすべて、かな。

もちろん、会社としてのセガでは、もっとたくさんの人が来ているはずです。


というか、一緒に働いていた人達でも、たびたびメディアに出ている人とかいましたし、外の人から見たらセガ自体が著名人だらけだったのだろうなぁ…



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別年同日の日記

01年 10/31

10年 遠足

13年 ミッチ・ケイパーの誕生日(1950)

13年 セガ初期の歴史を調べてまとめてみた

14年 続・男と女とLGBT

15年 プリンタ買った


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