業界記の日記です

目次

2019-01-30 退社
2019-01-22 SEGA TETRIS
2018-12-30 1998年のそのほかのゲーム
2018-12-28 The House of the Dead 2
2018-12-10 辞職を切り出す
2018-11-27 闘龍伝説エランドール
2018-11-21 NAOMI向け開発
2018-10-22 NAOMI
2018-10-19 機材管理
2018-10-15 オーシャンハンター
2018-08-26 五年次社員研修
2018-08-06 C言語で会話
2018-07-18 年棒制
2018-06-06 凄腕プログラマ
2018-05-30 レイディアント・シルバーガン
2018-04-29 テクモワールドカップ'98
2018-04-27 ダイナマイト刑事2
2018-04-26 ST-V事業のテコ入れ
2018-04-14 サシっす!!
2018-02-18 GetBass
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退社  2019-01-30 18:16:14  業界記

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業界記」として書いてきた、セガ時代の思い出話は、今回で終わりになります。



退社することは部内で公表し、引継ぎ作業などに追われていた年末、部長から「辞めるの伸ばして、もう少し働かない?」と言われました。

入社して最初に作ったゲーム、「手相占い ちょっとみせて」に、特別バージョンを作ってほしい、という依頼が来ているのだそうです。



退社する、と決めたのは、勇気を振り絞ってのことでした。

大手企業を辞めるというのは、先行きの不安はありますからね。


だから、「自分の会社作る予定なので、そのまま残るつもりはないです」と言いました。

そうしたら「じゃぁ、新会社に発注出すからやらない?」と。


報酬額は? と聞いたら、今までの給料と同じだけ出すって。

それじゃぁ、結局今まで通り働くだけで、会社設立の意味がありません。お断りしました。



この話、詳しくは過去の日記にすでに書いています。




たしか、溜まっていた有休消化のために長期休暇に入ったのは、1999年の 1月 11日。

仕事始めが7日あたりだったともうので、新年の挨拶だけしてすぐに休暇、だったのだと思います。



なんで日付まで覚えているかといえば、わざと1並びの日にしたから。

退職したら自分で会社を興そう、と思っていたのですが、この日に会社設立書類を法務局に持っていきました。


そうすれば、会社設立日が1並びになって、なんか面白いかと思って。


…1週間たち、手続き完了していると思って再度伺ったら、書類不備で再提出でした。

自分で全部やろう、と思って勉強したのですが、こういうのは司法書士さんとかに頼まないとダメですね。


とはいえ、この時はそんな知恵もお金もなく、再び自分で修正して翌日に再提出しています。

そんなわけで、自分の会社の設立日は、書類上は 19日です。




確か有休を使い果たして3週間ほどたって…1月の末ごろに、もう一度出社しました。

この日が、本当の退社日。


部署に行って改めて挨拶し、その後人事部に行きます。

社員全員に配られていた「事業計画書」の冊子があり、退社するときはこれを人事部に返納するのです。


人事部としては、退社する人への対処も慣れているのでしょうね。

淡々と事務処理をしただけで終わり。

自分としてはもう少し「辞める」という感慨にふけりたいくらいなのだけど、手続きはすぐ済みました。



社員証も返してしまったので、いつも使っている、社員専用の通用口からは出られません。

正門から堂々と退社しました。




これで「業界記」の話は終わりなのですが、以降の自分の話をざっくりと。


実は、退社した直後、 1999年2月には、NTT DoCoMo の i-mode サービスが「ひっそりと」開始されます。


当初は注目されるようなサービスではなく、急激な伸びは1年後からです。

しかし、たまたま注目前の1年の間に i-mode 公式コンテンツの作成にかかわり、その後の急成長の波に乗ることができました。


偶然にも、非常に良いタイミングで会社を辞め、起業できたのですね。

以降は携帯電話向けコンテンツの作成を主な商売にしてきました。



時代が変わり、携帯からスマホに変わりましたが、いまでもコンテンツ作成をやっています。

ソーシャルゲーム作成に参加していたこともありますし、普通に WEBページ作成をやっていたこともあります。


プログラムとしては、PHP / Javascript / CSS の組み合わせが基本。Wordpress なんかも仕事でやっています。

最近の過去の仕事では、Smarty や node.js を言語環境としたり、Redis を使うこともありました。


CSS は、デザインのためのものというよりは、CSS Animation で動かすためのプログラム技術。

スマホで動くソーシャルゲームなど、CPU 性能は低めなので、CSS を使って GPU で動かす方が滑らかになります。


#申し訳ないのですが、僕はデザインセンスは壊滅的です。このページ見ればわかるか。

 デザインを示されて、それを CSS で実現する、というのはできます。



安請け合いはできませんが、言語に関しては、必要なら割と何でも、という感じ。

基礎は出来ているので、必要に応じて言語の表層を覚えればどうにでもなります。



というわけで、仕事の依頼は常にありがたいです。

僕の過去の話を読んで、スキルに興味を持ってくださった方がいましたら、よろしくお願いします。




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別年同日の日記

08年 Advanced [es] 購入

16年 ダグラス・エンゲルバート 誕生日(1925)


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

SEGA TETRIS  2019-01-22 13:44:50  業界記

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昨年末に「辞める前に作っていたゲーム」の話も書いたはずなのだけど、大事なのを忘れてました。


SEGA TETRIS。ドリームキャストと互換の、NAOMI 基板で作られたゲームです。

僕は直接かかわっていないのだけど、コラムス 97 の企画者が作っていたので、いろいろと相談に乗っていました。





そもそも、なぜ 1998 年ごろに、「いまさら」テトリスだったのか?


日本でのテトリスブームは、1988年ごろ。

最初に発売されたのは BPS 社から発売された PC 用で、ヒットはしましたが「大ブーム」というほどではありませんでした。


大ブームになったのは、夏ごろにセガから業務用が発売になってから。

その後、BPS から PC の移植であるファミコン版が発売され、ブームが確定的になります。



でも、実は最初の PC 版以外は、全部「海賊版」の扱い。

あまりにも単純なゲームで作りやすかったこともありますが、原作者のいたソ連の著作権管理が甘かったせいもあり、ライセンスがおかしな状態になっていたのです。



セガは、これに気付いてあとから業務用のライセンス料は払いましたが、作成していたメガドライブ移植版は発売中止に。


さらに、業務用の「続編」は作りますが、これには TETRIS の名前を冠していません。(BLOXEED、FLASH POINT)

「類似ルールの別ゲーム」という、まさに海賊版です。




テトリスは、ソ連のコンピュータープログラマーである、アレクセイ・パジトノフが趣味で作ったものです。

当時共産主義であったソ連では、何を生産するにも「国の計画」に基づいて作られ、国有の共有財産として管理されます。


しかし、趣味で作ったものだからこそ、その管理からもれました。

そして、無料で公開されたテトリスは、あっという間に世界中にコピーされます。


すべてが共有財産であるソ連では、こうしたソフトの著作権もあいまいでした。

世界中に広まってから「外貨獲得手段になる」と気づき、後追いでライセンスなどを承認したのですが、そこでも紆余曲折あります。


セガの業務用や、BPS のファミコン版が「海賊版」の扱いになってしまったのも、これが原因。

当人たちはちゃんとライセンスを得たつもりだったのが、得られていなかったのです。



ここら辺の長い紆余曲折は、非常に面白い、壮大なドラマです。

過去に書いていますので、興味がある方はそちらもお読みください




最終的に、1995年ごろに、テトリスの権利は原作者である、アレクセイ・パジトノフの手に戻っています。

そして、96年ごろから「テトリスのライセンス事業」で、複数の会社から、テトリスが発売され始めます。


今度こそ、正式にライセンスされた「テトリス」を作れるチャンスです。

セガでも業務用テトリスを作ろう。そういう決定がなされ、「じゃ、作ってね」と任されたのは、「コラムス 97」を作った企画者でした。



この時、内製するにはプログラマーなどの人数が足りなかったため、「テトリスくらい、外注でも作れるだろう」と、作成は別の会社に任せることになりました。


ところが、コラムス 97の企画者は、「プログラマーと密接に相談しながら企画を作っていく」タイプの人なのね。


外注会社を決めるには、先にある程度企画書を定めないといけません。

そこで、コラムス 97 のプログラマーだった僕が相談に乗って、いろいろと初期の企画を作り始めたのです。




まず最初に行ったのは、テトリスの版権管理団体である「ザ・テトリス・カンパニー」に文句を言うこと。


ライセンス供与する際の、守るべき仕様があるのですが、この仕様が全然ダメ。

そのまま作ったらとてもゲームにならない、という代物だったのです。


というのも、ザ・テトリス・カンパニーの実態は、BPS と考えてよいため。

PC 版のルールを元に仕様を組み立てているのです。




ここで、PC 版とセガの業務用が、全然違うルールであることを説明しないといけませんね。


原作となるテトリスは「上から落ちてくるブロックを、空中での左右移動と回転を行いながら、うまく積んでいくゲーム」でした。


「うまく」というのは、横一直線がブロックで埋まることを意味します。

この時、並んだブロックは消え、それより上のブロックは下に落ちるため、うまく消し続ければブロックの量が増えません。


逆に、うまく消すことができず、ブロックが上まで積みあがるとゲームオーバーです。



PC 版では、基本的にこの原作に忠実に作られていました。

ただし、パズルとしての側面をより明確にするため、一定のライン数を消したら「面クリア」とし、面の最初には適当なブロックが積みあがっている状態で始まったりもしました。



これに対し、業務用は別のアプローチをとっています。

パズルとしての側面よりも「ブロックが落ちるまでに考えなくてはならない」というアクション性を重視したのです。


ブロックの落下速度は、原作でもだんだん速くなります。

しかし、業務用では、空中での操作が不可能になるほど早く落ちるようにしました。


その代わりに、接地してからもしばらくは操作可能としていました。

「空中で操作する」ゲームから、「積みあがったブロックの上で、操作するブロックを転がす」ゲームに変えたのです。




この変更により、回転方法が全く違うものに変わっています。


まず、原作では「回転」の名前にふさわしく、ブロックを回転させる際の中心軸があります。

中心軸となるブロックが動かない形で、周辺のブロックが「回転する」のです。


この結果、回転した結果、元の状態よりも下側にブロックが出現することがあります。


先に書いたようにセガの業務用では、落下速度を速くして、その代わりに接地後も操作可能としています。

この時、下側にブロックがはみ出るような回転方法では、「接地後は回転操作ができない」ことになってしまうのです。


そこで、セガ版では、「ブロックの一番下のラインが変化しないように回転する」ようになっていました。

回転軸は持たず、基準ラインを持つようにしたのです。




しかし、テトリスカンパニーの定めた「テトリスの仕様」では、回転方法は原作・PC 版にそろえることが義務付けられていたのです。


企画者の最初の仕事は「そんな仕様ではゲームが作れない」と文句を言うことでした。

慣れない英語で、なぜゲームが作れないのかを分かってもらうために、細かな説明をする手紙を書きます。


当時はまだ今ほど電子メールも普及しておらず、海外とのエアメールでした。


最初の反応は、「回転方法の仕様変更は許されない。代わりにこれではどうか?」と、回転時にブロックにぶつかる場合は、ぶつからずに回転する位置までブロックが上に持ち上げられる…という仕様の提案でした。


これ、直線ブロックを縦にして、左右どちらかの壁に押し当てて回転させるだけで破綻します。

どんなに上に持ち上げようとも絶対に回転できませんから。


その指摘をすると、「じゃぁ、持ち上げられるブロック数を制限して、その範囲内に見つからなければ回転できないというのはどうだろう?」


これでも駄目です。持ち上がってしまった時点で「接地」ではなくなるため、さらに回転させると再び落下が始まります。

接地してから一定時間は操作可能、という仕様に対して、何度でも「再接地」できてしまうため、永久に操作可能になります。


また、階段状にブロックを積み上げておくと、回転させながらその階段を駆け上れます。

これもまた、「落下するまで」という時間制限が重要なゲームとしては、致命的な欠陥を生み出します。


テトリスカンパニーの提案する仕様には欠陥がある、ということを、また詳細に説明した手紙を書きます。



他にもいろいろな問題がありました。


とにかく、PC 版準拠で作られていたため、「ブロックを速く落とす」ことができませんでした。

ブロックを落とすときは、下方向レバーを入れた時点で、瞬時に接地します。


ブロックの色も PC 準拠で決められていました。

しかし、この色はセガが過去に作り、多くの人が知っている「業務用」と異なるのです。


これらの仕様についても、過去の業務用に準拠させてもらえるように、粘り強く交渉しました。



何度手紙を往復させたでしょう。

最終的には「わかった、我々の提案する仕様には、まだ欠陥があるのを認める。今回は自由に作っていい」という許可を勝ち取ったのです。


その後、テトリスカンパニーの作る仕様は何度かバージョンアップされ、現在では当時よりも柔軟なルールを作りやすいものに変わっています。





上に書いたような、ルールで悩んでいたのはまだ会社で働いていた頃です。

でも、テトリスの話は、「会社を辞めた後」も続くのです。


辞めた後に企画者から電話がありました。

プログラムの問題で悩んでいるので、アドバイスくれないか、って。


ドリームキャスト版を作成するにあたり、通信対戦に対応しようとしたのだけど、どうしてもデータ転送が間に合わない、というのです。



ドリームキャストは、当時としては珍しい、通信対応のゲーム機でした。

コンピューターを電話線に接続する「モデム」を標準装備しており、電気信号を音に変えて伝達します。


当時は最高速度で 56kbps 。1世代前の安いモデムなら 33.6kbps で、ドリームキャストも安いものを搭載していました。


ところで、モデムの世界では、1byte は 10bit。

8bit の情報の始めと終わりに、 1bit の「同期信号」を入れてあるためです。


このため、33.6kbps は、1秒間に 3360byteを送受信できることになります。



で、企画者の話を聞いてみると「毎フレーム、お互いの盤面の形状を送受信したい」とのこと。


テトリスの盤面は 10x20。ブロックの色が7色と「空白」があるので、1マス 3bit で送るとして、600bit。

600/8 = 75 なので、 1フレームは 75byte あれば送れそうです。


1秒間は 60フレームなので、1秒間のデータ量は 75*60 = 4500byte 。

これに対して、先に書いた通り、送受信できるデータ量は 3360byte。


これでは、どうやっても足りるわけがありません。



…と、電話をしながら計算して見せたら、納得してもらえました。


どうにかする方法ない? というので、「キー操作の情報とか、最低限のものだけ送って、送られた側で情報を再構築するのがいいんじゃないかな」とアドバイスしたように思います。

ただ、そのやり方をすると、お互いの間の通信タイムラグで不具合が出るかもしれないから、そこは何とかする必要があると思う、とも。


その後無事発売されたので、通信はなんとかできたのでしょう。




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別年同日の日記

03年 FCE Ultra for C700

04年 2冊のファミコン本

07年 ドーラと大冒険!

13年 Tweetの取得

14年 ボタンの左右位置

16年 デビッド・ローゼン 誕生日(1930)


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1998年のそのほかのゲーム  2018-12-30 12:09:10  業界記

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一応、公式に 1998年に AM1件のゲームとしては、ここまでに紹介したもののほかに


・わくわくしんかんせん

・スキーチャンプ

・ダイナマイトベースボール NAOMI

・ストレスバスターズ


が発売されたことになっています。


どれも、横目で見ていた程度には知っているのですが、それほど覚えていません。

だから紹介できなかったのだけど。




スキーチャンプは、SEGA SKI Super G / SEGA WATER SKI の特殊筐体を使ったコンバージョンですね。

Model3 になっています。


ダイナマイトベースボール NAOMI も、ファイナルアーチから続くポリゴン野球のシリーズ。

1995年にファイナルアーチ、96年にダイナマイトベースボールとして作られ、97年には「ダイナマイトベースボール97」、そして98年に対象基盤を NAOMI にした「NAOMI」が作られています。


野球ゲームって、結構時事ネタの部分があって、選手データとか毎年入れ替えないといけないのね。


ストレスバスターズは、タタコットの仕組みを使ったものではなかったかな、たしか。

画面がタッチパネル…というか、衝撃感知する仕組みになっていて、ポカポカたたいて遊ぶ。



というわけで、残すは「わくわくしんかんせん」だけなのですが…

記憶にございません。


わくわくシリーズは、初期のころは AM1研で内製していたのですが、途中から先は外注とかではないのかな。

新幹線に限らず、記憶にないの多いから。




ぼくの書ける「業界記」はほぼ終わりで、1999年の年頭にはセガを辞めています。


なので、このころ開発していたゲームで、記憶に残っているものも書いてしまいましょう。

(まだ開発中だったので、発売は 1999年中になります)


▼救急車


ハーレーダビッドソン&L.A. ライダーズのシステムを使ったゲームです。


ハーレーでは、当時としては画期的だった「街を丸ごと作りこんで、自由に走る」というゲームを実現しました。

しかし、「自由に走る」ということと、レースゲームの相性が良くなかったのも事実。


そこで、同じシステムでもっと相性の良いゲームはないか、と考えられたのが「救急車」です。

街のに急発生した病人・ケガ人を迎えに行き、受け入れてくれる病院まで搬送します。


これで、急に示された街の中の「どこか」に向けて、自由な経路で走り回ることの必然性が生まれました。


先日も書いた「消防士」とともに、職業シリーズということになっています。



▼AIRLINE PILOTS


Wing War は「飛行機を自由に飛ばせるゲーム」でした。

一部で評価が高かったものの、自由に飛ぶ、というのはゲームとしては、とっつきが悪く、あまり売れませんでした。


そこで、単純にシューティングゲームとして作られたのが Sky Target


しかし、3D だと嘘をつきづらい部分があり、シューティングゲームとしては爽快感に欠けた。

こちらもあまり売れていません。



売れないのが続いたから終わりになるか…というとそんなことはなくて、飛行機路線での開発は続きました。

そして、作られたのが AIRLINE PILOTS です。


自由に飛ぶのが無理、シューティングが無理なら、ある程度ガイドが示された中を飛べばいい。

…ある意味、「TOP LANDING」ですよね。技術が進んでリアルさは増しましたが。


これも、職業シリーズ、ってことになっていたはずです。

それぞれの開発は別々の理由で始まっているのだけど、販売戦略上シリーズということでまとめたのだと思います。



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別年同日の日記

02年 SL-C700レビュー

03年 風邪惹いた


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The House of the Dead 2  2018-12-28 10:54:46  業界記

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The House of the Dead 2 … 以下、HoD2 と書きますが、発売は 1998年の11月後半だったようです。


チーム発足時に、一応僕もそのチームに配属されていました。

でも、テクニカルサポートを発足させることになり、チームを抜けました。


だから、僕は HoD2 ではほとんど何もやっていないのね。

当然、スタッフロールなどにも名前は出ていない。


そんなわけで、HoD2 の名前でこの記事を書いていますが、HoD2 のことは何一つ書けないのです。




そんな、事実上無関係な立ち位置だったのですが、「打ち上げやるから来なよ」と、企画のチーフの人に誘われたのは12月上旬だったと思います。

前作の人気があったので最初から売り上げがよく、会社が打ち上げ費用出してくれることになったから、って。


会社での「忘年会」は別途あるのですが、そちらは自分たちで会費を出すので、安めの居酒屋がせいぜい。

HoD2 の打ち上げは、費用会社持ちなので豪勢に、フグ料理屋で行われました。



とはいえ、あまりよく覚えてなかったりします。

打ち上げっていうのは、完成までの修羅場を潜り抜けた連帯感があるから、盛り上がれるものです。

僕、何もやってなくて、打ち上げに急に参加しただけだもの。なんか浮いてしまっていて…




しかし、すでに会社を辞めるのは決めた後だったので、皆からいろいろと聞かれました。

特に周囲に言っていたわけではないのですが、会社興す予定、というのも広まっていたのね。


何か算段はあるのかとか聞かれましたが、実際のところノープラン。

一応、ホームページとか作る仕事しようと思っているのと、何とかなるんじゃないかな、という甘い見通しで…



「軌道に乗りそうだったら、俺も呼んでよ」という先輩もいましたが、それは怖くてできません。

自分一人なら貧乏しながらでも続けられるけど、人を雇うと責任が生じるからね。


話をしていると「会社を辞めたい」という人は案外多いことがわかりました。

でも、やめてどこに行く宛もないし、独立できる自信もないし、「仕方なく」今の会社に残ってる…というような。



「俺は腕がないから、積極的に会社にしがみつく」といった先輩もいました。

転職するにも独立するにも、腕に自信がないとできない。腕に自信がない自分は、何があっても会社に残ると。


辞めたいとぼやきながら仕事をするよりも、「腕がない」と開き直り、残れるように積極的に頑張るほうが前向きな気がします。




この飲み会、最後に先輩社員に言われた一言がすごくうれしくて、よく覚えているんです。


「辞めちゃうの、残念だなぁ。四天王の中で一番できる人材だったのに」って。



以前、凄腕プログラマの話をしました。


部署内に、すごくできる人が3人いて、僕は心の中で三賢者と呼んでいた、と。


その3人に僕を加え、「四天王」としてくれている人がいたのです。

…というか、話を聞くと、結構な数の人が僕を「凄腕」のグループに入れてくれていました。



そして、その先輩は、その中で一番できるのが僕だ、と言ってくれたのです。


僕としては、頑張って仕事はこなしていましたが、凄腕の3人にはかなわない、と思っていました。

でも、この一言で、すごく認められた気がします。


会社を辞める直前に、すごくうれしい言葉でした。



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別年同日の日記

02年 ページレイアウト変更

05年 サンマルク

14年 リーナス・トーバルズの誕生日(1969)

15年 今年のクリスマス


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辞職を切り出す  2018-12-10 16:58:10  業界記

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そろそろ、この業界記もおわりかな…

セガを辞めようと思っている、と上司に伝えたのは、たしか1998年 12月の頭ごろだったと思います。


切り出すのはとても勇気がいりました。

セガに在籍しているのは心地よいものでしたし、会社を辞めてどうなる当てもなかったので。


なので、辞めたいと切り出した後、「辞めた後どうするつもりなの?」など、普通に聞かれていただけなのに涙ぐんでしまいました。

辞めさせないために詰問しているわけではないよ、と言われたのだけど、別に詰問されて泣いたのではなくて、自分の中でも大きな線を踏み越えてしまったという気持ちがあったから。


しかし、引継ぎなどもあるのであと1カ月ほど、年内いっぱいは働いて、それから溜まっている有休を消化して退職、と決まりました。




辞めようというのは、夏ごろから考えていました。

五年次社員研修、というものがあり、会社に入ったときの気持ちを思い出せ、と言われたのです。



あぁ、そうだった。会社入ったときは、いつか独立しようと考えていたのだった。

そう思って冷静に周囲を見ると、辞めるタイミングが整っているのです。


独立の時のために溜めていた貯金は、当時の法律で有限会社設立に必要な 300万円を超えていました。


営業の人と仲良くする機会に恵まれ、開発だけをしていたころに比べ、会社全体の状況が見えていました。


サターン対プレステの争いは、セガの体力をいたずらに消耗しただけで、負け戦でした。

バーチャファイター、プリクラ、UFO キャッチャーのブームはひと段落着き、ゲームセンター店舗は求心力を失いかけていました。


しかし、開発現場には会社の状況に対する危機感はなく、「確実に売れるゲーム」よりも、「作りたい作品としてのゲーム」が優先されている感じでした。


歯止めの利かない支出を減らそうと人事部が給与体系を見直しました。

一部の人に年棒制が導入され、給料が安く抑えられるなど、労働環境は悪化していました。

これにより開発現場の士気は低下し、会社の将来にとっては逆効果でした。


直接の上司は、新婚なのに家に帰らずに会社に泊まり込む生活をしていました。

他の先輩社員でも、結婚しているのに家に帰れない人は多数いました。


すでに今の妻と付き合い、結婚も考えていましたので、この状況で働き続けることには不安を感じていました。



実は、半年くらい前から、退職する社員が増えていました。これも、おそらくは先の不安定さを見越してのこと。

でも、連続して人が辞めると、残る人への負担が急に増えてしまうので、その後しばらくは、何となくやめにくい雰囲気になるのです。


僕が「辞める」と伝えたタイミングは、連続して人が辞めた後、少し間が開いたタイミングでした。

このタイミングを逃してしまうと、言い出しにくくなる、という気がしました。




辞めた後は、WEB ページ作成の仕事ができれば…というつもりで考えていました。


僕はデザインセンスはありません。

しかし、当時は WEB 作成と言えば、HTML を直書きするのが当たり前でした。


当時すでに、当WEBサイト「魔法使いの森」は作成していて、HTML 知識はありましたし、perl で CGI を作成する技術もありました。


#今時 CGI って言わないな。サーバー側でプログラムを動作させて、動的に HTML を作成する技術。

 今なら PHP を使うけど、そもそも PHP は、perl で作られた CGI として最初のバージョンが作られている。


Linux サーバー建てる程度の知識はありましたし、ネットワーク設定もある程度できます。



当時 WEB はブームになっていましたが、誰でもが作れるほど簡単なものでもありませんでした。

だから、地元の商店街とか、WEB に興味はあるが作れない、という人が多いだろうと見越したのです。


商店街の店舗の WEB 作成を一手に引き受け、ネット上で仮想的な「商店街の WEBサイト」を作れるだろう、という考えですね。

まだ当時はネット上で商売をする方法が確立しておらず、いわゆるEコマース的なことは考えていません。


それでも、新聞に折り込み広告入れるような店舗を相手に、ネットにチラシを転載していくら、というような商売から始められれば、と思ったのです。

実際に印刷費などはかからないので、そういうお店から広がって、のちにはチラシを配れないような小さいお店からも広告を請け負えれば、と。



…あとで実際に営業に回ったら、そもそも WEB のブームなんて言うのは「パソコンマニア」の間のものであって、みんな興味すら持っていない、とわかったのですけど。

まぁ、それはまだこの時点では気づいてません、イケそうな商売だと思っている段階です。




夏ごろに独立を意識してから、会社設立の方法を書いた本を購入したり、実際に「開業セット」(役所への申請に必要な書類と、その書き方をセットにしたものを売っている)を購入したりして、準備を進めてきました。


いよいよ独立の日付を決めたことで、具体的に考え始めます。


会社設立を手伝ってくれる弁護士さんなどの存在も知っていましたが、そんなにお金に余裕はありません。

よくわからないことも多いまま、手探りで自分で書類などを整え、設立準備を進めます。



実際に会社を設立したのは、年が明けてからです。

セガには「副職禁止規定」があったので、普通に働いている年内は、準備だけにとどめていました。



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関連ページ

The House of the Dead 2【日記 18/12/28】

別年同日の日記

02年 昨日は雪でした

13年 たき火

14年 エイダ・ラブレイス伯爵夫人の誕生日(1815)

17年 風邪ひき


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

闘龍伝説エランドール  2018-11-27 16:43:52  業界記

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以前に、ST-V のテコ入れ策の話を書きました。


ST-V は、サターン互換で安く作られた基盤で、カートリッジ交換で簡単に別のゲームにできる、という特徴を持っていました。

基盤販売の際にも、「今後もカートリッジが供給される」という約束で売っていました。


しかし、ST-Vはサターン互換であるがゆえにゲームセンター用基板としては性能が低く、その性能の低さをカバーするために余計な労力をかける必要がありました。

さらに、そうして苦労してゲームを作っても、販売されるゲームカートリッジの単価は低めで割に合わないのです。


このため、ST-V ゲームの供給は先細りでした。

このままでは、「カートリッジが供給される」という約束を守れません。



そこで、サードパーティが作ったサターン向けゲームの人気作を、ST-V に移植してもらうことにしました。




しかし、この戦略もすぐに行き詰ります。


家庭用って、最低でも数千本、という単位で作ります。

そして、それで開発費用が回収できる値段をつけるのです。


だから、ヒットしてそれ以上売れれば、売れた分は丸儲け。


これに対して、ゲームセンター向けって、最低 300本とか、場合によっては 150本とか、そういう単位です。

もちろん単価は高いのですが、家庭用のヒット作を持っているようなメーカーが、労力をかけて移植するようなメリットがないのです。



じゃぁ、メーカーにとってのメリットを作り出せばよい。

サターンの「人気作」を移植してもらうのではなく、「発売前の作品」を移植してもらう戦略に変わりました。


今も昔も、家庭用ゲームの売れ行きは、どれだけ宣伝できたかで決まります。

残念ながら、ゲームの面白さと売れ行きは、あまり関係ないのです。


今なら、宣伝媒体として「試供版を配布する」などの方法があります。

実際に遊んでもらい、面白さを知ってもらうのが一番の宣伝。

しかし、ネット普及前の当時はそれもできませんでした。


そこで、ST-V への移植です。

家庭用ゲームソフトは、1本 6,000円程度します。内容がわからないまま買うには躊躇する金額。

これを、ゲームセンターで1回 100円で遊んでもらえば、宣伝としてはかなり効果があります。


セガは当時 3000店のゲームセンター直営店を持っていましたから、その1割、300枚程度を世に出すことは保証できました。

移植の手間に見合うほどの売り上げかどうかは微妙なところですが、これが宣伝になって家庭用が売れてくれれば、十分採算に合います。



多分、レイディアントシルバーガンがこの最初の例ですが…あまりうまくいったようにも思いません。

せっかく人気があったのに、なぜか家庭用の販売枚数が低く抑えられてしまったから。


でも、エランドールもこれに続く例として、サターン向けに作っていたゲームを、ST-V に移植して先行販売したのです。





サターン版は、年が明けた 1999年の1月発売。

ST-V 版は、たしか 1998年の初冬ごろだったと思います。


これがね… 見たことある人どれくらいいるんだろう?

見ていたらレア。内容覚えていれば、珍しいものを見たと自慢できます。


すごい出来のゲームなんです。悪い意味でですが。



なんでも大会を行うことで有名なゲームセンター「ミカド」で、エランドール大会を行った時の動画が配信されてました。

実況付きですが…ひどいな。「ゲームが破綻している」とか「素人が作った格闘」とか言われてる。


まぁ、否定できません。作った人見てたら申し訳ないけど。


ポリゴン格闘です。

竜に乗って空を飛んで戦います。


しかし、竜に乗っている意味が感じられない… 3Dの意味が感じられない…


一応、とってつけたような3D感、竜に乗っている感じはあるのですが、それがゲームの戦略に結び付いていない…


ちなみに、バーチャファイター3が 1996年、鉄拳3が 1997年のゲームです。

そして、1998年に発売されたのがエランドール。

性能の低い ST-V だから…とかいう話以前に、システム面などで、発売時点で「古臭い」ゲームでした。




これ本当に発売するんですか? …みたいな、失礼なことを営業の人に言ったと思います。

営業の人が見つけて、移植も頼んできたゲームだから。


営業の人としては、それに答えず(?)、「いやー、このゲーム、事実上一人で作ってるんですよ」って、完成度が低いことの言い訳を始めました。


その場での話だけなので詳細はわからないのですが、プログラマーが一人で頑張って、長い期間をかけて完成したゲームなんだそうです。

サターン発売のかなり初期段階から開発してきたのだとか…


発売「前」だったのか、「直後」だったのかは忘れましたが、その段階からの開発ということは、まだ SGL はなかった、ということ。

3D計算をして、ポリゴンを表示し、モーションをつけてアニメーションするライブラリから自作し、格闘ゲームの体裁まで作り上げた、ということ。


サターン初期のころから開発してきた、ということであれば、ゲーム内容の「古臭さ」も納得できます。

「ポリゴン格闘」というジャンルが形成されつつあるころ、ポリゴンを使いながらも事実上は2D格闘、というゲームもいくつも作られました。

そうしたゲームの一つなのです。ただ、発売が3~4年遅かっただけで。




ほとんど知られていないゲームですが、そのマイナーさが却って物好きの心をくすぐるようです。

先に書いたように、ミカドでも大会が行われたりしてますし、このゲームについて書かれたページも結構あります。


多くは、ネタとして「ひどいゲーム」だという話で書かれていますが、冷静に良いところを書いているページもあります。

せっかくなので、そうしたページをいくつかリンクしておきましょう。


その1


多分、一番「ほめて」いるページです。

ほめているというか、馬鹿にせずに真面目に攻略記事を書いている。


それでも、全体に「ダメゲーム」だという空気感で書かれているのですが…


その2


いかにダメなゲームであるかを伝えている感じですが、記事としては冷静です。

残念であることを含め、当時の雰囲気がよくわかるというか。


その3


画像をたくさん入れています。

…この画像、綺麗だな。記事の中でも、画面だけは綺麗だ、という扱いになっています。


実際動いているところ見ると、モーションがくがくだし、とても綺麗だとは思えないのですが。



これらの記事を読むと大体わかりますが、「プログラムの出来はともかくとして、格闘ゲームとしてつまらない」という評価ですね。


どのキャラクター使っても、ほぼ同じ操作で同じような技が出るだけで、性能の違いがあまり感じられないし。

当たり判定はやたら大きく、ガードも回避も不可能な技が多いし。




で、最後に疑問なのですが、これ、ST-V で先行発売して、宣伝効果あったのでしょうか…?

ゲームセンターで遊んだ人が「面白かった」と思える内容なら宣伝になるでしょうが、「つまらない」と思わせてしまう内容だと、逆効果なのでは…



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別年同日の日記

03年 ピザ

06年 クリスマス飾り

15年 エイダ・ラブレイス 命日(1852)

15年 NTT工事延期

16年 セガ・サターン復活

17年 リロケータブル


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NAOMI向け開発  2018-11-21 14:08:08  業界記

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僕は、NAOMI が発売して少し経ったところでセガを辞めています。

なので、NAOMI 向けのゲームはあまり知りません。


しかし、NAOMI 発売以前から、いくつかの初期タイトルを開発していたのは知っています。

今回はそうしたゲームの一つの話。


実際にゲームが発売されたのは、1999年の夏で、NAOMI 用ではなくなっていました。

でも、20年前…1998年の秋ごろに、NAOMI 用として開発を始めたのです。




ドリームキャスト / NAOMI で採用されたグラフィックチップ、PowerVR2 は、独特のレンダリングアルゴリズムにより非常に高速…

という触れ込みでした。


レンダリングというのは、画面を描画する処理のことね。

三角形、または四角形で表現されるポリゴンの各頂点の3D座標と、そこに描かれる「テクスチャ画像」を渡されて、実際に2Dの画面に反映する処理。


サターンでは、ソフトウェアでポリゴンを奥行き方向に並べ、奥から順に描いていました。

同じ位置にポリゴンがあると、手前のもので上書きされます。これにより、「奥のものは見えない」という3D画像を作り上げるのです。


奥行きをZ軸と表現するため、奥行き順に並べ(ソート)て描画するこの方法は、Zソート法と呼ばれます。



しかし、いちいちZ方向に並べてから描画、というのはプログラムの手間が大きいです。

現在主流の方法では、順不同にポリゴンを描画していく処理になっています。


この時、描画する画面の「色」だけでなく、そこに描画されている色の「Z座標」も記録しておきます。

新たなポリゴンを描画する際、現在のZ座標よりも手前の時だけ描画を行い、奥の場合は何もしないで捨てます。


Z座標を溜めて(バッファ)おくことから、Zバッファ法と呼ばれます。



PowerVR2 では、事前に画面を細かな「ブロック」に区切ります。

そして、やはり順不同にポリゴンデータを与えるのですが、各ブロックごとに、そのポリゴンがブロックに関係するかどうかを見極めます。


ブロックに関係するなら、以前に関係すると判別したポリゴンよりも手前かどうかを判別し、常に一番手前のものだけを覚えておきます。


最後に、一番手前に来たポリゴンだけを描画して終わり。


描画処理というのは結構時間がかかります。

テクスチャを読みだして、ドットごとに座標変換して、変換先のメモリに書き込まないといけないから。


しかし、描くべきポリゴンを最初に見極め、最後に描画を行えば、せっかく描いたものを上書きする、という無駄を生じません。

このため、PowerVR2 は当時のポリゴン描画プロセッサとしては非常に速度が速く、Zバッファが不要なのでメモリも少なくて済んだのです。




しかし、これは「理論上は」という話。


PowerVR2 は、セガの要望をもとに PowerVR を改良した LSI でした。

PowerVR では確かに高速のポリゴン描画ができたのですが、致命的な欠点があり、ゲームには使えなかったのです。


それは「ポリゴン単位で」一番手前以外は描かない、というところ。


ゲーム機では、3D以外の表示物も存在します。

たとえば、得点表示。単に数字を描きたいです。


そこで、周囲が透明になる数字の画像を作り、ポリゴンのテクスチャとして、パースがつかないように画面に配置したとしましょう。

常に表示したいので、「一番手前」に表示したとします。


ただこれだけで、描画が破綻します。

「一番手前のポリゴン」しか描きませんから、たとえテクスチャの周囲が透明でも、その奥は一切描画されないのです。



さすがにこれではゲームに使えない、というわけで、透明を含むテクスチャが使えるように改良されました。


ただ、透明かどうかはテクスチャを参照するまでわかりません。

「ポリゴン単位で処理し、最後にテクスチャを参照して描く」というPowerVR の基本アルゴリズムと相性が悪く、多少処理速度が落ちます。


でも、透明なら、まだ「少し遅い」と言える程度なんだ。


セガからの要望はもう一つあって、半透明が使えるようになりました。

こちらは奥から順に処理しないと正しい半透明にならないため、一番手前だけの処理、というわけにいきません。

ポリゴン1枚にかかる処理時間が、半透明が入ると30倍に伸びました。


これはもう、半透明は使ってはならない、使うとしても多用してはならない、ということですね。

そういうマシンスペックなのです。




ところが、です。

こんな細かな話が分かってきたのは、実際に動く試作機が出来上がってからの話。


まだ実機ができる前から、NAOMI 向けのゲームの企画は始まっていました。


ST-V とは違い、すごいことができる、というのを見せつけるようなゲームを作らないといけない。

たくさんのポリゴンが出せるそうだし、半透明も綺麗だそうなので、それを見せつけるようなビジュアルのゲームを作ろう。


というわけで、水・炎・空気を表現するような、すごいビジュアルのゲームが企画されました。

炎と煙の中を進み、放水銃で鎮火させる消防士の物語。



でも、実機で作ってみると、全然想定していたような美麗な画像が作れないわけですよ。

企画者の頭の中では、映画と見間違うばかりの迫力のある炎と、飛沫を散らして放水する様子が思い浮かんでいたらしいのですが…


先に書いたように、これらは全部半透明で描かないといけないですし、半透明を使うと性能が 1/30 に落ち込んでしまう。

結果として表示できるポリゴン数が減り、ST-V とそれほど変わらないような、カクカクのポリゴンになってしまう。



それなりの規模のプロジェクトでしたが、同期が一人アサインされ、水の表現を任されていました。


でも、どうやっても美しい表現になんてならないのね。

放水する水を柱状のポリゴンで表現すると、どうやっても柱で殴っているように見えてしまう。

じゃぁ、丸い板の連続で表現すると、System32 のゲームのような、古臭い表現になってしまう。


何をやっても企画者からダメだしされます。

NAOMI の性能ではこれ以上のことはできないし、どうしようもないよ…と僕に愚痴っていました。


最終的に企画者は彼の能力が低いのだとみなしました。

部長に掛け合って別のプログラマーがアサインされ、彼は担当を外されます。

でも、後任の人もやはり同じ表現しかできないのです。当然です。それが機械の限界なのだから。



同期だからよく知っていますが、彼はプログラマーとして決して腕は悪くありませんでした。むしろできるほう。

でも、高専卒で、大学は出ていないのです。この学歴で、腕がないと見られた。


彼としてはこの処遇に不満だったようで、この1年くらい後に会社を辞めています。




このゲーム、のちに対象ボードを HIKARU に変更して「消防士」として完成していますね。



僕が会社にいたときにはまだ HIKARU 基板はなかったため、詳細は知りません。

ネットの情報によれば、半透明処理時の描画能力が NAOMI の4倍あったそうで、ここでやっと「当初思い描いていた」性能が出たのかもしれません。


それでも、動画を見た限りだと、最初の予定と水の見せ方がずいぶん変わっています。

同期が任され、苦労していた段階では、必ず画面下左右から、弓なりに放水する様子を描くことになっていました。

そのほうが水がよく見えるから。


でも、「水がよく見える」ということは、半透明を使う部分が増えるということです。

ゲーム動画を見る限りでは、画面上を放水銃自身が動くことになっていて、放水自体はほとんど見えないように描かれています。



結局、ボード性能をさらに高いものに変えても、最初に考えていたような表現方法では作るのが難しかったのでしょう。

水と炎と空気の表現って、今でも難易度の高いものなので、当時の技術でリアルタイムに作り出すのは無謀だったのだと思います。



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NAOMI  2018-10-22 11:28:17  業界記

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テクニカルサポート部の重要な業務に、NAOMI 用開発資料の配布がありました。


NAOMI というのは、ドリームキャストの業務用基板ね。

セガサターンの業務用に ST-V があったように、ドリームキャストには NAOMI がありました。


ドリームキャストは 1998年 11月 27日 発売で、春ごろから開発中の実機でゲーム作成が始まったように思います。

開発が本格化したのが、夏から秋にかけて。



その資料を配布していたわけですが、ハードウェアに関してはハード研が作って配布していたのではないかな。

でも、NAOMI 用ライブラリ、開発時の名称は「カムイ」の資料はこちらでまとめて渡していました。


ハードウェアもまだ開発中で、このライブラリも開発中。

だから、定期的にバージョンアップして、マニュアル内容も変わります。

確か、最初はマニュアルは印刷して渡していたと思うのですが、すぐに CD-ROM 内の HTML ファイルに変わりました。




当時は、CD-R がやっと普及し始めた時代。


CD-R ドライブは、たしか4倍速での書き込みに対応していました。

ただし、まだドライブ側にバッファを持っていない時代。


どういうことかというと、CD-R ドライブは一定速度でディスクにデータを書き込んでいるのですが、そのデータは「常に」CPU から送り続けていないといけないのです。

データが途切れるとディスク作製は失敗。メディアは使えなくなります。


多数のファイルを順次送って…なんてとてもできないので、事前にパソコン上の作業で「書き込みイメージ」を作成し、一気に書き込みます。

4倍速だと失敗率も上がるので、あえて遅い2倍速で。

Windows 98 の時代で、一応複数のソフトを同時に動かせるのですが、CD-R ライティングソフト以外はすべて終了させ、書き込み中は使用禁止です。



CD-R のメディアも、まだ高価でした。

社内にはサターン用の「公式 CD-R メディア」が存在していて、配布用の CD-ROM も当初はそのメディアで作っていました。

このメディア、1枚1000円くらいします。


…でも、上に書いたように、時々書き込みに失敗するのです。1000円が無駄になります。


テクサポ課長が、「ちょっとメディア高すぎるから、この店行って値段調査してきて」と地図を渡して僕に命じました。


大鳥居にあった本社から、電車で蒲田まで行き、そこからさらに徒歩15分くらい。

片道 30分くらいかかる店でしたが、課長が言うには「会社からは一番近い PC ショップ」とのこと。



行ってみると、CD-R もいろいろと売っていました。

有名メーカーが作ったものでも 10枚で 5000円くらいだったのではなかったかな。

安いのだと、10枚3000円くらいで売っていたように思います。


というわけで、値段を調べ、社に戻って報告。

「え、そんなに安いの? じゃぁ、試しにまずは一番安いのを10枚買ってきてみてよ」とお金を渡されます。


Imation の CD-R だったと思います。

これが品質的に何の問題もなかったので、以降は 50枚づつ、時々買ってくることになります。




CD-ROM の内容は、ライブラリの最新版とそのソースコード、リファレンスマニュアル…だったかな。


リファレンスマニュアルは、HTML で書かれていて、関数ごとに別ページでした。

つまりは、関数と同じ数だけファイルがある、ということです。


HTML にしてあったのは、相手がどんな環境でも読めるだろう、という期待。



HTML のファイル名は関数名と合わせてあるのですが…

よくあることだけど、ライブラリの関数名、機能をそのまま表したもので、長いです。


ISO 9660 では入らないので、Rockridge / Joliet / TRANS.TBL のマルチフォーマット対応にしました。

当時はこのマルチ対応をできるソフトが無くて、テクサポ課長が試行錯誤していたのを覚えています。



…って話題を書いて「懐かしい」と思ってくれる人がどれだけいるか。

マルチ対応 CD-ROM の話、掘り下げると面白いのですけど、無駄に長くなるので割愛。




カムイ・ライブラリは、AM2 研で開発を行っていました。

ST-V 用のライブラリだった SGL も AM2 研が開発したものでしたし、そうすることがごく普通の流れ…という感じでした。


AM1 研テクサポ課としては、開発されたライブラリと資料をまとめ、配布するのが業務。

開発とサポートが別の部に跨っている形ですが、ST-V の時もそうだったし、これもごく普通の流れ。



ところが、このライブラリ開発が難航。

僕は NAOMI の開発をやっていなかったのでよくわかっていないのですが、機能の切り分け方を微妙に失敗していたり、期待するような性能が出なかったり…

ついには、まだライブラリが明らかに未完成の段階なのに、これ以上の機能追加が難しい、という状態になってしまったようなのです。



これに対して、以前書いた凄腕プログラマの一人…部署内でC++を普及させるべく、一人でライブラリをつくりあげた先輩が噛みつきました。

AM2 研に行って、こんなんじゃだめだ、ここのコードはこうあるべきだろ、って次々と実際のコードを示して指摘したのだそうです。


…で、それまで AM2 研が開発していたライブラリは、AM1 研との共同開発となりました。

AM1 研からは、この先輩が出向しただけですけど、開発中心メンバーの一人になったようです。


AM1 研でライブラリにかかわるなら、テクサポ課所属にしないとならんだろう、ということで、この先輩もテクサポに移動になりました。

とはいっても、朝出社するとすぐに AM2 研に行き、昼休みとかに時々戻ってくる程度ですけど。


以前から仲良かったのですが、同じ部署に配属になり、話をする機会が増えました。


200LX と、プログラムの話ばかりしていたと思います。



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別年同日の日記

13年 スタンレー・メイザーの誕生日(1941)

16年 CentOS7 の nginx で https / http2 対応


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機材管理  2018-10-19 11:46:30  業界記

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僕がテクニカルサポート部にいたとき、機材の管理は重要な仕事でした。

でも、テクニカルサポートに配属される前から、機材管理が大変なのでよく仕事に駆り出されていたように思います。


一番大切なのが、半年に一度の「棚卸」でした。

部署が保有している資産を、全部確認して報告するの。これが、とてつもなく大変な作業。


一応、「前回」存在したはずの資産のリストと、前回以降に新たに購入したはずの資産のリストが総務部から回ってきます。

そして、「バーコードスキャナ」が貸与されます。貸与期間は、たしか3日程度。


全ての資産には、総務部から発行された「バーコード」のシールが、どこかに貼られているはずなんです。

リストに載っているすべての資産を、部署の中から確認して、証拠としてバーコードをスキャンしなくてはなりません。

スキャナ貸与機関の3日以内で。




開発用のパソコン本体…これは、プログラム課、デザイン課、企画課、つまりは部署内の全課の全員が持っています。

それと、パソコンのCRTモニタも。これらは資産なのでバーコードがつけられています。


バーコードの位置は、マチマチ。

大抵は、購入してから総務部に「購入した」という連絡がいき、数週間後にバーコードが発行されます。

その時点ですでに誰かが使用しているマシンなので、勝手にいじらずに、本人にバーコードシールを渡して貼ってもらうことが多いのです。

だから、人によってはわかりやすい場所に貼るし、人によっては目立たない裏側に貼ったりする。


キーボードやマウスは、本体の付属品扱いです。

プログラム課の部員は、開発用のゲーム基板や、ゲーム筐体を持っています。これらも資産に計上され、バーコードがついています。



これらを、各自の席を回ってスキャンしていきます。

とりあえず使う人がおらず、サーバールームや倉庫に眠っている場合もあります。


これらを片っ端からスキャンして…、大抵は「行方不明」の機材が数台残ります。


ここからが大変。「何の機材か」はわかっていても、誰が使っているかわかりません。バーコードの情報しかないのです。

持ってそうな人のところを回り、スキャンし忘れた機材はないか、探させてもらいます。



場合によっては、関連会社に勝手に貸し出されてしまっていたりもします。

…どのバーコードのものがどこの会社に、とまでわからないのですが、リストに「~~社に貸し出し中」と適当に書き、とにかく所在はわかっている、ということで許してもらいます。




先に「倉庫に眠っている場合も」と書きましたが、機材ごとに「減価償却期間」が決まっていました。

これは、バーコードの下に、購入日と共に償却年数が書いてあります。



減価償却って、会計処理上、帳簿上の価値がなくなったとみなす期間ね。


法人会計では、毎年の「利益」を、収入から必要経費を差し引いて求めます。そして、利益に税金が課されます。


開発機材などは「必要経費」なので、利益が出た年は機材をたくさん買ってしまえば税金が安くなる。

…なんてことができないように、ある程度高額で、数年にわたって使用することがわかっている機材などは、「減価償却期間」が定められています。


たとえば、6年で減価償却であれば、購入した年はその 1/6 だけ必要経費と認められます。

最初に購入した年に一括ではなく、6年にわたって少しづつ必要経費として計上されるのです。



…で、パソコンの減価償却期間が6年だった時代がありました。

でも、3年もたったパソコンは性能が低すぎて、開発にはとても使えなくなります。


「減価償却中の資産だから、捨てるわけにはいかない」と、倉庫に積み上げているわけですね。

実際には価値がなくなったものを、経理上の理由で、東京の高い土地代を払って保管しておかなくてはならない。


当時は慣例に従って倉庫に置きっぱなしにしていたのですが、捨てたほうが良かったのではないか…



#日進月歩のPCで、減価償却期間6年は長すぎる、ということで、現在は4年になっています。

 また、20万円以下なら減価償却せず、一括で経費にできます。

 減価償却6年の時代のPCは20万以上するのが普通でしたが、今は20万超えるのは高級機ですね…




「開発用のゲーム筐体」とは別に、「資料用のゲーム筐体」というものがあります。


参考に見たいゲームがあったら…自社製でも他社製でも、資料用として店舗営業部署に「借りたい」という申請を出します。

すると、どこからともなく調達されてくるのです。場合によっては(というか、多くは)新規購入されて届くこともあります。


こうした資料は、借りているだけで店舗のもの、という扱いなので、AM1研の資産ではなく、バーコードはついていません。

ゲームの開発などが終わり、資料としていらなくなったら店舗に返され、営業に使用されます。



でも、僕がいた時に別の部署から配属されてきた不慣れな企画課の上役が、資料に欲しかったゲームを部署のお金で買ってしまったことがありました。

半年ほどで資料としての役割は終わり、「いらないから処分して」と僕が言われたのですが…


勝手に処分できません。資産なのですから。

店舗営業部署に譲ろうにも、資産の移動も書類とかややこしくて面倒。

大型筐体で、部署内に置いとくのは邪魔なので処分してほしいと言われます。



困って事務の方に相談しました。

以前も書いたのだけど、「AM1研のお母さん」と言われていた、やさしい女性事務の方。有能でした。


総務部に問い合わせて、処理法を教えてくれました。

新品で購入して半年しかたっていないのだけど、廃棄業者に引き取ってもらいます。

そして、「確かに廃棄した」という証明書を発行してもらい、資産価値がまだあったけど不要だから処分した、という特別損失の書類を書きます。



あとで、購入してしまった上役の人に、「必要なゲーム資料があったら、購入前に相談してください」とやんわりと注意したようです。

店舗から借りれば部署のお金も使わないし、不要になった後も店舗で使えるから困らないんですよね…




資材管理をやりやすくするために、データベースを作りたい、とテクサポの課長が考えていました。

途中まで試作してあるのだけど、ここからどうしていいかわからないので、ちょっと勉強してみて、と言われました。


Postgres95(現在の PostgreSQL)を使って、PC 本体とモニタとマウスとキーボードを、製品についたシリアル番号を使って別々に管理しつつ、本体とモニタには社内の管理番号が何番かも紐づけてあり、さらにはそのセットを現在誰が使っているかわかるようにする、というものだったのですが…


まったく訳が分かりませんでした。

当時は僕は SQL データベース(DB)の知識持ってませんでしたから。


課長も知識を持ってなくて、やっていること無茶苦茶。

今の知識で書くと、こんなところがだめ。


・DB が「バックエンドで使われる」ことを理解しておらず、簡易インターフェイスの psql ですべて操作しようとしていた。

 (最大のおかしな点)


・管理すべき機材の種類ごとに、別のテーブルを作っていた。

 PC とモニタとマウスとキーボードは、それぞれ別のテーブル。

 このやり方だと、ゲーム機筐体とか、ICE とか、わずかにしか使っていない機材ごとにさらに別のテーブルを作る必要があり、検索性などがどんどん悪化する。


・テーブル間をつなげるために「IDが必要らしい」と、製品シリアルなどとは別に、手動で一意管理しなくてはならない ID欄を用意していた。

 あってもよいが、手動ではなくシリアル値を使わないと管理が煩雑になる。

 一意な番号さえあればよいので、製品シリアルでも事足りる。


などなど。

「管理を簡単にしようとして、余計な手間を増やしているだけ」の状態でした。



しばらくDBの情報などを集めて検討し、「FileMaker Pro 買ってもいいですか?」と提案。


FileMaker は現在も存在しているDBソフトです。

SQL を使わず、GUI でデータ間の関係性などを示すことで、リレーショナルデータベース(RDB)を構築できます。


#RDB は、データとデータの関係性を示すことで、バラバラのデータを「意味を持ったまとまり」として扱えるデータベース。

 SQL は、最初の RDB が使用した「関係性の示し方」で、この方法を使った DB 製品が多数出ています。

 むしろ、SQL を使わない RDB というのは珍しいです。


FileMaker は、当時「WEB公開機能」がついた新バージョンが出たばかり。

これをマシンルームの NT サーバー上で動かし、誰の席からでも WEB ブラウザで閲覧できるようにしました。

また、管理者権限があれば WEB ブラウザからのデータ書き換えも可能です。



…でもね。

まだDBがわかっていなかったので、僕もこの時点でDB設計失敗している。

簡易インターフェイスで操作しようとしていた状態よりは使いやすい、というだけで、データ構造とかは課長の作ったものをそのまま移植しちゃったから。


「管理番号 xxxxx 番のマシン、レンタル期限きたから返さないと」とか言われたときは、すぐに持ち主を探し出せました。

でも、その程度。これならDBじゃなくて、テキストファイルで管理してもいいくらい。


さらに、みんなキーボードとかマウスとか、「調子悪くなった」とかで、あまり使わない人のものと知らないうちに交換したりしているのね。

DBに記載してある内容と、実際が食い違うことがしばしば。


DB導入で管理が楽になった、ということはありませんでした。




あ、しまった。


全部書いてから気づいたけど、この話、以前にも書いているじゃないか。

しかも同じタイトルで。


まぁ、一部違う話も書いているので、そのまま残しておきます。

鳥頭ですみません。



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別年同日の日記

13年 タツノコプロの設立日

13年 Windows 8.1

17年 オーラ占い・よもやま話


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オーシャンハンター  2018-10-15 14:37:29  業界記

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1998年9月発売の、ガン・シューティングゲームです。

…なのですが、このゲーム、作っていたのは横目で見ていたのですが、あまり覚えていないのです。

このころのゲームになると、そんなのばかり。申し訳ない。


以前に書きましたが、AM1 研が AKAI ビルに引っ越してから、部署が大きく2つの部屋に分かれてしまいました。

僕が普段いる部屋とは違う側で作っていたので、作っているのは知っている、という程度の存在だったのですね。





企画者は、仲の良かった同期です。

人にはない独特の感性を持っていて、彼の個性がさく裂すると、話題に残る佳作を作り上げます。


エジホンが当時の代表作かな。


オーシャンハンターも、設定など、なかなかいい雰囲気出していると思います。

海に魔物が棲むと信じられていた、大航海時代…そのまま技術が進化し、現代と同程度のレベルになったような世界観。


海の中を自由に行動できますし、海底資源の採掘なども行われている。

でも、相変わらず海には魔物が棲んでいて、それを退治する賞金稼ぎがいる。



主人公たちも賞金稼ぎですが、ほかにも賞金稼ぎのダイバーがいます。

襲われているところを助ければお礼をもらえますし、間違って撃てばペナルティ。

ここら辺は、ガンシューにはよくある構造。




以前「ザ・ハウス・オブ・ザ・デッド」を紹介した時に少し書きましたが、ガンシューティングにはいくつかの避けられない問題があります。


相手が自分と対等なもの、として世界観を描くと、こちらが弾を撃つのだから相手も弾を撃たなくてはなりません。

しかし、弾を撃たれてから避ける、なんて、本当ならできるわけありません。


バーチャコップでは、「相手の動きが妙に遅く、弾を撃とうとしているのがわかる」という方法で解決していました。

撃つ前に倒してしまえばよいのですね。

でも、動きが遅いのが妙な違和感を感じる。


ハウス・オブ・ザ・デッドでは、相手がゾンビだから動きが遅くてもよいし、弾なんて撃ちません。


でも、遅いとゲームとしてつまらないから、時々妙に元気なゾンビが混ざるんですよね。

ボスになると、やはり火の玉みたいなのを撃ってきたりもしました。


火の玉を「投げて」いるはずなのだけど動きは遅く、余裕をもって撃ち落とすことができました。

これも少し不自然な感じ。



オーシャンハンターでは、敵は基本的に魚介類なので、弾を撃ってきたりはしません。

やはりボスになると「泡」を撃ってきたりはしますが、泡だから動きが遅くても不自然でもない。


そう、水の中だから動きが遅くても不自然に感じないのです。

敵の弾だけでなく、こちらの弾も動きが遅く、撃ってから着弾まで、目で見えるほど遅いです。


なのに、魚は水の中だからこそ動きが速い。

敵の動きを予測しないと、正確に狙うだけでは当たらないこともあります。


「水の中」というのは、ガンシューとしては上手な設定でした。




完成が近づいたときに、企画者から「ちょっと協力してほしいんだけど、いいかな」って声をかけられました。

ゲーム中に使いたいんで、セリフ一言だけしゃべってきて、って。


助けを求めるダイバーの声。

「助けてくれーっ!」って迫真の演技しましたよ。

まじめに演技したのに、なぜか笑われた。


で、この声をもとに、水の中っぽく泡の音とか重ねて、ゴボゴボした音声がゲーム中に使われています。

なるほど、ほとんど聞き取れん。

一生懸命演技する必要はなかったようです。笑われたわけだ。




それほど売れたゲームだという印象はないのですが、今ネットで調べたら、好きな人は結構いるみたいね。


このころガンシュー多かったですし、多くの人にとっては「同じようなゲームがまた出た」というだけで、認知度が低いのでしょう。

でも、予測して撃つ必要があるとか、独特の世界観とか、遊んだことのある人の記憶には強烈に残っているみたいです。



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エアコン導入顛末【日記 18/12/04】

別年同日の日記

04年 大きく育て

04年 最終確認

13年 富一成さんの誕生日(1960)

14年 「計算機言語」が生まれた日(1956)

14年 変数名の話

15年 プレイステーションを生み出した新聞記事

15年 グレゴリオ暦の制定日(1582)


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五年次社員研修  2018-08-26 18:08:07  業界記

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確か夏の話だったと思います。

「五年次社員研修」が行われました。


入社5年目の社員の研修です。

僕は 1994年入社。この時が「1年目」ですから、1998年は5年目にあたります。


一応、5年目の社員は全員参加。

全員一斉ではなくて、人事から「参加してください」と日程が送られてきたら参加します。



どうしても忙しくて、この日程などが合わない場合、理由を添えて「不参加」にすることもできました。


でもね、AM1研の人は、ほとんど不参加。

先輩なんかに聞いても、「参加しても無意味」と言われて、ほとんどの人が参加しません。


しかし、じゃぁどう無意味なのかと聞くと、先輩も参加していないので知らないという…

参加したことがある人がほとんどいないのに「無意味」ってことにされて誰も参加しないという、不思議な研修でした。



僕はこういうのは参加してみたくなる性格。

当時のセガ会長が書いて、全社員に配布された本もちゃんと読んだしね


#そういえば、業界記としてはこの話書いてなかった。

 そういう本があって、誰も読もうとしなかったけど僕は読んだのね。

 詳しくはリンク先に。


そんなわけで、1泊2日の研修に出かけたのです。




研修内容については、それほど面白くないのでざっくりまとめましょう。


まず、チーム分けがなされます。

セガはいろいろな部署があるので、さまざまな部署の人間が集まるようなチームに。


店舗運営、事務、営業、工場、開発…

いや、確かに開発から来ている人は少なかったかも。


まぁ、そういう人が集まってチームを作り、最初にやったのは「ゲーム」だったと思います。


チーム同士がライバル会社となって、売り上げを競うゲーム。


条件が明らかにされてない糞ゲーですけどね。

後で考えると、わざとそういう設定になっているのだけど。


司会者が非常にふんわりとした仕様で、作るべき「製品」の概要を示します。

みんなで、渡された紙を材料として、その場にある道具で、限られた時間で製品を作らないといけない。


はっきり言って、何を作ればいいのかもわからない。

でも、1ターン終わったところで、「実はこういうものを作ってほしかった」と明かされます。



…つまりは、要求がはっきりしていないクライアントがいて、動いてから次々仕様変更が来る状態なのですね。

それに対して、臨機応変に対応して、できるだけチームの利益を上げなくてはならない。


その後のターンでも、終わるたびに「実はこう」が繰り返されますし、チームごとに渡されている道具なども均一ではない。

最初からチームの有利・不利が違っていて、競争するゲームとしては成立していないんです。



でもどうやら、無理難題に対して、その場にいる人たちで話し合いながら難局を乗り越える…という工夫をさせるのがこのゲームの主眼だったようです。

競争結果は、結構どうでもいい。




その後、ゲームで仲良くなったところで、各部署から来た人間同士で、自分の部署が何をやっているかなどの紹介をしあいます。

普段は部署内にいるから「当たり前」のことを、それを知らない人に説明しないといけないんですね。


後で考えると、これには二つの効果があります。

1つは、冷静に自分の部署の良いところ・悪いところを見つめなおす効果。

もう1つは、社内には知らない部署がたくさんあるのだ、ということを知る機会。


確か1日目はここまで。




翌日、5年前を思い出して、自分が会社に入った時の目標などを文章にまとめてください、と言われます。

さらに、その目標に対して現状はどうなっているのか、今後はどうしていくべきかなどをまとめます。


その後、せっかく仲良くなったのだから名刺交換会とか、歓談の場は設けられたと思うのだけど、これで日程終了。




入社5年目くらいの社員になると、退社・転職率が高まるのだそうです。


正直なところ、3年目くらいまでは、会社が金をかけて「教育している」期間。

だからこそ、3年目までは仕事はぬるい。

4年目くらいから大事な仕事を任されるようになる。


それだって、やっと大事な仕事を任せられる、という程度で、上手にこなせるわけではありません。

会社にとって利益となるのは、5年目くらいから。


ところが、本人にとっては、仕事が重責に感じ始めるころでもあるのです。

この頃の退社率が一番高く、会社にとってはこの頃に退社されると「教育に金は使ったのに、利益を上げられていない」状態で、一番損が大きい。


五年次社員研修とは、この退社を防ぐための施策でした。



一人で仕事を抱え込むことが増えてくる頃に、チームで工夫することで利益を目指せるのだ…ということを、ゲームを通じて教える。


嫌になり始めている自分の部署を、他の人に紹介することでいい面・悪い面両方に目を向けさせる。

嫌な面だって、「なんとなく嫌」なのではなく、改善すべきポイントがわかれば乗り越えられます。


場合によっては、他の人の紹介してくれた職場に配置転換という手だってあるのです。


さらに、入社当初の目標を思い出させることで、モチベーションを回復させる。

これからも仕事を続けるべく、新たな目標を持たせる。



なるほど、なかなか理にかなった研修内容です。




でも、僕は入社時の目標は「ある程度仕事を学んだら、独立したい」だったんですね。

そのためにコツコツ貯金してきた。当時は、有限会社作るのには300万円必要でしたから。


#1998年当時は、会社を設立するには有限会社で300万円、株式会社なら1000万円の資本金が必要でした。

 2006年に会社法が改正されて、現在は資本金 1円から会社を興せます。



で、思い出したわけです。


そうだ、独立に向けて準備しなくちゃ。

すでに貯金は出来ている。後は実現に向けての準備だけ。



いつか独立する、ということが夢だったので、独立して何をするのかとか、どうすれば独立できるのかとか、そういうことを考えていませんでした。

この研修の後、仕事内容を考えたり、会社設立の方法を勉強したり、具体的に動き出していくことになります。


「退社させないための研修」だったはずなのですが、僕に限っていえば、この研修は逆効果でした。



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申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

C言語で会話  2018-08-06 12:17:29  コンピュータ 業界記

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1998年の夏の暑い時期だったと思います。

韓国から、セガの下請けになった、というプログラマーが研修に来ました。



で、「教えてやって」と、僕に仕事が丸投げされました。

韓国語なんてわからない。英語すらできない。

そもそも、教えてやってと言われても、何を教えればいいのかも聞いてない。




当時の韓国の世相を説明しといた方がよさそうだな…


韓国は、1961年にクーデーターがおこり、軍事政権になっています。

軍事政権下では、国民の権利などは抑圧されていた一方で、強引な(一部の人を泣かせるような)政策によって経済成長も遂げています。


が、1979年に民主化デモがおこります。そして大統領暗殺。

これにより民主化が行われるか…と思われたのですが、1980年にふたたびクーデターがおこり、軍事政権は続きます。


それでも、経済的に急成長を遂げた韓国は、1988年のソウルオリンピック誘致に成功します。

しかし、1987年、再び民主化運動がおこり、IOC は「治安が維持できない場合は、オリンピックをロサンゼルスで行う」と決定。


軍事政権は、経済成長した韓国を、オリンピックで世界に誇示するつもりでした。

これは、軍事政権を続けるより重要なことでした。


そこで、民主化宣言を行います。

これにより軍事政権は終わりました。


1988年、ソウルオリンピックの年には海外の渡航も自由化されました。


これ以前は、日本と韓国の関係は冷たい物でした。

しかし、徐々に民間レベルでの交流は増えていきます。

韓国でも、同じアジアの発展した国として、日本にあこがれる若者が増え始めます。




軍事政権の時代には、娯楽は「不要なもの」という扱いでした。

テレビゲームも発売されていません。

(パソコンである MSX は発売されていましたし、そのゲームも売られていましたが)


1989年、「ファミコン」と「セガマスターシステム」のライセンス品が登場

ちなみに、スーファミは日本で 1990年登場。メガドライブは 1988年登場です。



「あこがれ」でもある日本のゲーム機は、家電各社が日本の会社からライセンスを取得し、製造・販売します。


直接日本のメーカーが輸出販売しないのは、日本企業が直接活動するのが許可されていなかったため。

民間レベルでの交流は増えていましたが、韓国と日本の関係はまだ冷たい物でした。



僕がセガに入社後も、いくつかのゲームの「韓国版」を作るのを見ています。

1996年くらいだと、テレビゲームはすっかり人気の商品で、業務用も売れていたのです。


ただし、厳しい決まりがあって、どこか一カ所でも日本語が入っていると、韓国での販売は許可されませんでした。

当時は、日本にあこがれる若者も多い一方で、反日の動きも強かったのです。


文字テキストなどを変えるだけでなく、画像なども細かくチェックして、とにかく日本語を完全になくさないといけません。

実は、こんな苦労をしてゲームを作っても、それほど売り上げがよかったわけでもないのです。


それでも韓国版を作ったのは、これから韓国が伸びそうな国だと考えられていたからでした。




そして、1997年。アジア通貨危機が起こります。


アジアの小さな国の経済は、欧米の強大な資本の前では簡単に翻弄されてしまいます。

欧米の投資家が、アジアの通貨を空売りし、売りが多いので値が下がったところで買戻す、というテクニックを使い、儲け始めたのです。


投資家が儲かるということは、「誰かが」損をしているということ。

その誰かが、この場合はアジアの小国でした。


具体的には、タイ、インドネシア、韓国。

マレーシア、フィリピン、香港もターゲットにされています。


さらに、直接のターゲットにされなかったものの、これらの国の不景気の影響で、中国、台湾、日本なども影響を受けています。



韓国では、経済が完全に破綻し、国際通貨基金(IMF)の管理下に入りました。

IMFにより、次々と、韓国内の巨大企業が解体されていきます。




…と、これが 1998年当時の韓国の様子。


この状態の韓国から、プログラマーが研修にやってきたのです。


ちなみに、上に書いた「当時の状況」ですが、当時の僕は認識してませんでした。

今調べて知ったの。


ただ、韓国ではゲームは結構人気ある、ということと、経済的に今なんかやばいらしいよ、程度には知っていたかな。


ちなみに、完全な余談だけど、日本と韓国の関係が急に改善するのは、2002年のワールドカップサッカー共同開催がきっかけ。

今でも日本を嫌っている韓国人、韓国を嫌っている日本人は多いのですが、総体としてはおおむね良好な関係だと思います。




さて、話を戻して韓国からの研修生のこと。

彼らは、韓国版のプリクラを作るために、フレームなどのデータを差し替える方法を学びに来たのでした。



プリクラは当時の大人気ゲーム。顔写真シール自販機ですね。

さまざまな「フレーム」がありました。プログラム内容は同じでも、画像などの差し替えでいくらでもバリエーションが増やせる、ということですね。


特に ST-V になったプリクラ2からは、このフレームにフルカラー画像を使えるようになったため、観光地の綺麗な風景をフレームにして写真を撮れるとか、大人気アイドルと並んでいるかのような写真が撮れるとか、多様な展開を始めていました。


#と書いていて思い出した。たしか当時大人気だった SMAP 版を作ったら、とんでもないインカムを叩き出したはず。

 5人それぞれが別バージョンで、並べられた5台それぞれが「朝から晩まで、途切れなく稼働」しないと出ない収入となった。



で、プリクラはアトラスの開発したゲームでしたが、販売はセガ。

例によって、業務用外注作品はAM1研を通しています。


そして、フレーム変更などのバージョン変更も、AM1研でもやっていました。


こうしたデータ差し替えはセガ…AM1研のほうでもやっていました。

このやり方を学びに来た、ということね。




えーと、僕はプリクラチームではないので、実際の作業内容は知りません。

でも、それ以前の「ST-V 開発機材の扱いに慣れる」部分から話を始めなくてはならず、そこなら確かに僕が教えられます。


プログラマの人は韓国語しか話せなかったのですが、一緒に来ていた営業の人が日本語が出来ました。

そこで、機材の説明、セッティング方法などは通訳してもらう形で、お二人に説明します。

たしか、セッティングは1日。


プリクラのソース一式を展開し、コンパイルし、開発機材で動かし、デバッガでメモリなどを覗く…

というのが翌日の作業じゃなかったかな。ここまでは順調。


さて、問題はここから後です。

「この後は技術的な話だから」と、営業の人は別の仕事でどこかに行ってしまいました。

韓国語しかわからないプログラマに、日本語しかわからない僕が、「フレーム画像の変更方法」を教えなくてはなりません。


そもそも、僕がやり方を判っていないので、プリクラチームの人に聞きます。

画像データをディレクトリにいれて、それをデータファイル化するツールを起動。

その後、データへのポインタをこの構造体に入れて、いくつのデータがあるかをこちらのメモリに入れて…という感じ。


で、いよいよ教えるのです。




韓国プログラマの隣に座って、UNIX のコマンドラインを操作します。


「あー…、ふれーむぴくちゃー、せっと、ぢす、でぃれくとり」


そういいながら僕が cd コマンドでディレクトリに入ると、プログラマがパス名をメモします。


「あんど、らん、ぢす、こまんど」


そういいながらデータファイル化するコマンドを実行すると、やはりそれをメモします。


「ちぇんじ、ぢす、ふぁいる」


構造体が書かれたファイルをテキストエディタで開くと、ファイル名をメモします。


「ちぇんじ、ぢす、でーた」


構造体にファイル名を書き込むと、構造体の名前をメモします。



一部始終こんな感じ。ブロークンイングリッシュと、C言語のファイルを見ながらの「ちぇんじ、ぢす」の連続。

向こうから質問が来るときも似た感じ。


でも、「プリクラのフレームを変更する方法を学びたい」という目的ははっきりしていますし、C言語はどちらも使える共通言語。

多少もどかしい部分はありましたが、実際にCのソースを書き換えて「ぢす」と言えば通じる。


ブロークンイングリッシュで、というよりは、C言語で会話していました。

set LANG=C です。




書き換え方法を学んだあと、実際に適当なデータを使って一通り作業をしてみて、その間にもわからないことがあれば質問を受け付けました。

結局、AM1研での研修は1週間程度ではなかったかな。


その後、「仕事のために借りたアパートで以降の作業を行う」というので、機材を貸し出す手続きをし、機材を持ってアパートを訪れました。


…驚きました。8畳程度のワンルームではなかったかな。

そこに、4人で生活していました。研修に来ていたプログラマーは「チーフ」で、部下が2人いたのね。


狭い中に4人分のパソコンがすでに置いてあり、さらに開発用の大きな機材を持ち込みます。

ここは「仕事場」ではなく、滞在中の住居でもあるそうです。夜になると機材の隙間に潜り込むように眠る。


夏で暑いのにクーラーもなく、扇風機が1台回っていました。



びっくりしていると、日本語のできる営業の人が


「日本物価高いですからネー、これでも出せる額ギリギリデス。

 彼らは本国ではエリートだから期待されてマス。

 日本で暮らすため、たくさんお金もらってマス」

とのこと。


期待されて、精いっぱい出してもらっても、冷房もないワンルームで4人暮らしがやっとなのです。

それでも、期待を背負ってきているので、一生懸命ゲーム作成のノウハウを吸収しようとしているのです。


このハングリー精神、今の日本では、とても真似できない、と思いました。


#ここでの「今」は、1998年当時のこと。




その後も、何度か、電話で質問に答えたりしていました。

日本語のできる営業の人経由だったと思います。あのプログラマーと電話越しに話せたとは思えないから。


しばらくして「一度韓国に戻ります」という連絡が来ました。

当時の韓国では就労ビザを取るのが厳しくて、観光ビザで日本に来ていたのだそうです。


で、さらに後に「また戻ってきました」という連絡。

それからしばらくして「ゲームが完成しましたので、韓国に帰ります」という連絡。


帰る前にお別れ会をやろう、ということになり、セガ近くの居酒屋で一緒に飲みました。


久しぶりに会ったプログラマーの人と、たどたどしい英語でゆっくり話をしました。

難しい話は出来ないのだけど…


日本の文化が大好きで、漫画とかも好きだけどゲームが特に好き、と言っていました。

でも、韓国では日本の文化は規制されていて、なかなか触れることができない。

今回の日本滞在では、色々見られてよかった、とも。


そして、ゲームが好きだから、いつかヒットゲームを作りたい、と言っていたと思います。

当時の韓国では、まだゲーム制作者という職業は珍しくて、大きな夢だったようですが。



今では、韓国はゲームの輸出大国です。もちろん、世界的なヒット作も出ています。

彼は夢をかなえられたのでしょうか?


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年棒制  2018-07-18 18:10:20  業界記

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たしか1998年の春から、セガでも「年棒制」が導入されました。

多くの社員は今まで通りなのですが、一部の「高度な技能を有している」と見なされた人は、高額な年棒での契約になるのです。

働いた時間とは関係なく、年間の給与が保証されます。


つまりは、いま政治的に話題になっている「高度プロフェッショナル制度」と同じものです。


労働時間とは関係なく給与を決める…残業代を払わないでも良い、というのは、1987年にはすでに成立している法律。


ただ、条件が厳しくて現実的には使いにくい物でした。

そこで、成立から 10年目の 1997年に改正され、使いやすくなりました。


この改正で、プログラマーも適用対象となりました。

具体的には、労働時間に対する最低賃金などの制限がなくなります。



今話題になっている「高プロ制」は、職種制限などを大幅に緩和しようという話。

その代わりに、他の制限がたくさんつけられています。労働条件としては、いまより改善する…はず。働き方改革だそうです。


この制限に意味がない…というような議論もあるけど、今はその話じゃない。

「当時の」法律では、そうした制限もなく、本当に残業代カットに使われるだけだった、ということ。




先に、凄腕プログラマ3人を紹介しました。

3人とも泊まり込んで仕事することも多く、残業代はかなり高額になっていました。


そこで、人事部としてもこの3人に対して、年棒制を持ち掛けたのね。

交渉は個別に行われたので、春に導入されてすぐ、ではなかったと思います。


今の基本給より高額での契約で、裁量労働なので、仕事に支障がない範囲なら休みも好きにとって構わない。

悪くなさそうな話ですし、人事部に「高度な技能を有している」と評価されたわけですから、誇らしくもあります。



でも、年棒制になって半年くらいしたら、みんな「年棒制への移行はしない方がいい」と周囲に言い始めていました。


年棒が決まっていて、残業代を出す必要がない、というのは、会社にとっては仕事を押し付けやすい人材だから。

予定外の仕事をどんどん押し付けられて、残業は増えるのに給与は変わらないのです。

これでは仕事のモチベーションも落ちてしまいます。



僕はこの後会社辞めたのですが、C++ 導入させた先輩も、僕のしばらく後に辞めてしまったそうです。

高い技術力を持った人材を囲い込めなかったわけで、年棒制の導入の失敗例です。




一方、他部署の人から聞いた話ですが、そちらの部署ではほぼ全員を年棒制に移行させたようです。

結局、誰を移行させるかは現場(おそらく部長)の判断だったみたい。


この場合、技能に応じて年棒が決まるので、技能が特に高くない人は、本当に「残業代カット」にしかなりません。



その結果、部員が団結して「残業はしない」雰囲気が出来上がったのだとか。

締め切りが近かろうが、トラブルが起きようが、技能が高い人も含めて、定時になったらみんな帰ります。


スケジュールに明らかな遅れが目立つようになりました。

それによって、部署としてのノルマは達成できず、業績が落ちました。


こちらも、年棒制導入の失敗例。

定時で帰れる雰囲気ができた、というのは悪いことではないですけど。




ずっと後になって、独立して自分で仕事するようになってから理解したのですが、「裁量労働」というからには、仕事内容を自分でコントロールできる必要がありました。


会社で、上司から指示された仕事を行う、という就業形態だと、仕事内容を自分でコントロールできません。

すると、残業の発生も自分でコントロールできなくなりますし、その状況で残業代が出ないのは「おかしい」状況にしかならない。


もっと、大きなくくりで「ミッション」を定めないといけません。

たとえばゲーム作成なら「ゲーム内のボスの動きをすべて担当」とかをミッションとする。


もう少し細かく言えば、最初のボスは仮の動きをいつまでに、次のボスはいつまでに…全部仮の動きができたら、ブラッシュアップをいつまでに…と、仕事内容を「契約前に」決めておく。

その上で、年棒額も提示して、折り合えば契約とする。


これなら、自分の裁量で働けます。

仕事が思ったよりきつくて残業続きになっても、それは自分が最初に契約したのだから仕方がない。


逆に、頑張って予定を前倒しにしたら、仕事を休んで遊びに行ったってかまわない。

年棒になって就業時間は関係ないのだから、昼過ぎで仕事を終わりにしてコンサートに行ってもいい。



本来、「裁量労働制」ってそういうことのように思います。

会社が一方的に残業代カットの道具に使うのはおかしい。


…のだけど、上に書いたように「折り合えば契約」が前提とすると、残業代カットにしかならない契約を呑んでしまった側にも問題がありますね。

労働者側がちゃんと勉強していれば防げることでもあります。



ここら辺、以前に詳しく書いたことがあるので、興味ある方はそちらの記事をお読みください。




昨年の夏から、東京都は通勤ラッシュ時の混雑を緩和しようと、「時差Biz」という取り組みを始めています。

通勤時間をずらすことで快適に働けるようにする、働き方改革の試み。…だそうです。


一応、東京オリンピックの際に外国人観光客が増えて公共交通機関が混雑するだろう、ということも見据えての取り組みなのだけど、これって結局通勤して、決められた時間は働くことが前提。


同時に「テレワーク・デイ」という取り組みも始まっています。

でも、こちらも昨年時点では取り組みが低調でした。


低調な理由は、技術的に「家で働ける」としても、本当に仕事しているのか誰がチェックするのか…なんてところでもめているから。

就労時間で縛ろう、という発想が抜けていません。


こちらに関しても、去年書いているので興味ある方はどうぞ。



20年前から、同じところでぐるぐる回っている気がします。

法律では裁量労働を導入しようと頑張り続けているのに、社会全体が就労時間で縛ろうという体勢から抜け出せません。


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別年同日の日記

07年 電車のパン

13年 ハングアウト

16年 山登り


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凄腕プログラマ  2018-06-06 17:16:47  業界記

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以前、技術力の低いプログラマの話を書いたことがあります。


いわゆるコピペプログラマ。

プログラムを「読む」ことは出来るし、「組み合わせる」こともできるけど、1から「書く」ことは出来ない人。


人数が多いと、そういう人もいる一方で、恐ろしく技術が高い人もいます。


僕がセガにいた頃には、部署内で明らかに「別格」の人が3人いました。

三強というか、三賢者というか…3人なので、勝手にそう思ってました。




一人は、テクニカルサポート課の課長。


…そのころは「凄腕」だと思っていたのだけど、今振り返ってみると少し違うかもしれない。


会社柄、みんなゲームのプログラムは出来ました。

でも、テクサポ課の課長は、みんなとは知識の質が違った。


部内で唯一、ネットワークやサーバーの知識があり、部署内のインフラ整備を一手に引き受けていました。


プログラマは、仕事の道具として UNIX を与えられていたので、当時の標準だった「MS-DOSしかわかりません」という人よりは UNIX 知識がありました。


でも、多くの人は ls や grep 、せいぜいが sed を使うくらい。

プログラムを書かないといけない都合上 Emacs は使える人が多かったけど、それも使わずに HP-UX 標準の、機能の低いエディタを使っている人もいました。



僕が awk や perl をつかえただけで「すごい」と思われていたような世界なので、ネットワーク整備なんて誰もできないのです。



僕がテクニカルサポートに入ってからは、テクサポ課の課長からネットワーク・サーバーの知識を教え込まれました。

だから、当時「誰もできない凄い知識を持っている」と思いましたし、部内のみんながそう思っていました。



…でも、僕自身がサーバー管理できるようになった今考えると、課長の知識はちょっと怪しかった部分あるな。

それでも、まだ Linux がそれほど普及しておらず、UNIX に触る機会も少ない状況下で、部署内のサーバー・ネットワーク管理を一人でやっていた課長は凄腕だったと思います。




もう一人は、先日書いた、ST-V の BIOS を書いた先輩。


ST-V の BIOS 機能はあまり活用されなかったのですが、ちゃんとマルチカートリッジ対応になっていて、ゲームセレクトボタンを押されたら次々に刺さっているカートリッジのゲームを切り替える機能がありました。


タスクスイッチ、みたいなものですね。

ST-V はシングルタスクではありますが、複数のゲームを同時に扱えたのです。


ハードウェア的にはサターンと同じですから、マルチカートリッジは BIOS のソフトだけでやっています。

…まぁ、タスクをゲーム中にスイッチするようなことはないので、ハイスコアやコイン設定、Book keeping (いくらコインが入って何回遊ばれたか、などの記録集計)などが正しく管理されていれば良いだけですけど。


もっとも、このコイン設定は非常に複雑怪奇なので、それをちゃんと作っただけでも賞賛ものだと思うのですが…



周囲から「凄腕」だと思われるのは重圧だったようで、BIOS なんて時間さえかければ誰でも作れるよ、とよく言っていました。




この2人、人がいない深夜のほうが集中できたそうで、良く泊まり込んでいました。


テクサポ課の課長は、深夜に徹夜で仕事して、みんなが出勤する時間になると仮眠室に行って寝ました。


BIOSの先輩は、徹夜はしませんでした。6時間は寝ないといい仕事ができない、というポリシーを持っていました。

でも、仮眠室の「誰が寝たかわからない布団」は嫌なのだそうで、深夜2時くらいまで仕事をすると、机の下で寝袋で寝ていました。

そして、皆が出勤してくる9時半ごろには起きる。


#勤務時間はフレックスでしたが、10時にはいないと「遅刻」扱いだったので、多くの人が10時前出勤でした。




残る一人は…多分、プログラムの腕前的には、この人が一番の凄腕。


後に正式にテクニカルサポート課に編入されるのですが、ゲームプログラマとしても間違いなく凄腕でした。

作るプログラムの品質が良いだけでなく、作成速度も速いのです。


ただ、その天才さゆえに、人に対する要求も厳しい。

自分ができることを他の人ができないと、容赦なく「そんなプログラムじゃダメだよ」って言い捨てるのです。


それゆえに、この先輩を怖がっている人も多くいました。

僕も、以前はこの先輩苦手でした。



でもある時、僕が HP200LX を使っているのを知り、先輩から話しかけられました。

興味は持っているのだけど購入に踏み切れないので、ちょっと見せてほしいのだそうです。


行動が早くて、試用した数日後には購入して持ってきたのではなかったかな。

そして、数週間後には RAM増設、クロックアップ改造をしていました。


僕は、改造できることは知っていましたが、壊してしまう可能性を考えると怖くてできませんでした。

HP200LX 、結構高価だったからね。


…と先輩に言ったところ「じゃぁ、実費で改造してやるよ。失敗したら責任取って弁償するから、それなら安心だろ」って。

翌日には改造キットを買ってきて、目の前で改造してくれました。


#半田ごてとか、工具一式は仕事柄部署に置いてあるので。




この件があってからたびたび話をする仲の良い先輩になったのですが、ある日「C++ 知ってる?」と聞いてきました。

僕は一応興味があって勉強はしていたのですが、試用程度にしか使ったことがありませんでした。


でも、先輩も C++ に…というか、オブジェクト指向をあまり知らなかったので、興味があって勉強したのだそうです。

そしたら、ゲームとオブジェクト指向は相性が良いのではないか、と思ったのだけど、自分だけの直感だったので話し合える人が欲しかったらしい。


オブジェクト指向って、「言語」の話ではなく「データ構造」の話です。

ただ、オブジェクト指向言語と呼ばれる言語は、そのデータ構造を扱いやすい工夫があるだけ。


そして、当時アセンブラかCで作成していたゲームも、すでにオブジェクト指向でプログラムが行われていました。

アセンブラからでも扱いやすい方法なので、本当にシンプルな形ですけど。


でも、先輩はこの時点で「C++ は普段使っているライブラリと相性がよさそうだ」という直感はあっても、ちゃんとした理解に至っていなかった。

そこで、すでに普段使っているライブラリがオブジェクト指向なので、C++ とは当然相性が良いでしょうね…というような話をします。


具体的には、C++ の class が構造体の拡張表現であり、普段使っているライブラリの構造体と同じような形式になっている、という説明だったと思います。

オーバーライドなどのオブジェクト指向に特有の表現も、構造体に処理先ポインタを入れてあるのと同じもので…とかね。



で、先輩の結論は「ゲームを作る上で C++ はすごく適している。ぜひ広めるべきだ」。



この時、先輩は新しいゲームのチーフプログラマーでした。

でも、まだプロジェクトが本格化しておらず、時間があるのでライブラリを C++ 用に作り直します。


ライブラリ…と言っても誰かが作ったもので、ソース一式そろっていました。

それをすべて C++ で扱いやすいように改造します。

2週間くらいで一通り作ってしまったのではなかったかな。


そして、次のゲームはすべてを C++ で作る、とチームのプログラマに宣言しました。


…これね、すごく実行力もあるし、天才の仕事だと思う。

でも、巻き込まれたチームの人は、急に新しい言語環境を強要されて大変だったみたい。


こういうことするから、怖い人だと思われているのではないかと。




1年半前の日記に、当時やっていたテレビアニメ「NEW GAME!」の話を書きました。


アニメの舞台はゲーム会社のグラフィックチームなのだけど、机の下で寝袋で寝る人とか、天才肌で自分と同じようにできない人を見下す人とか、個性の強い人々が出てくる。


お話だから強烈な個性に書いているように思われるかもしれないけど、実際ゲーム会社にはそういう人いますよ…と書いていたのですが、今回紹介した先輩方です。



凄腕だから、強烈な個性を持っていても大目にみてもらえる、という側面もあります。



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14年 フェルディナント・ブラウンの誕生日

16年 テトリス完成(1984)

17年 キャベツ料理


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レイディアント・シルバーガン  2018-05-30 16:34:36  業界記

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以前書いたように、サターンで人気のあったゲームを ST-V でも出してもらう、という方向でいくつかのゲームがリリースされました。


サターンで人気、と言えば(株)トレジャーをほおっておくわけには行きません。

メガドライブで高い技術力を見せつけるゲームを発売し、そのままサターンのゲームも作成していた人気会社です。


詳しい経緯は知らないのですが、最初はサターン用に何か発売できるゲームはないか、とお願いをしに行ったようです。

でも、この時点でトレジャーが出しているサターンソフトは「ガーディアンヒーローズ」のみで、あまり業務用向けの内容ではなかった。


そこで、サターンで次に出す予定だった新作を、サターン発売前に ST-V で発売する、ということになったようです。

それが、1998年5月発売のレイディアントシルバーガン。シューティングゲームでした。




ST-V で動作するようになった最初のバージョンは、その時点ですでにかなり面白い物でした。

まだ開発中なので、途中の面までしか作られていない。バランスもこの時点では悪かった。

なのに、すごく面白い。



シルバーガンを知らない方のために説明しておくと、一応シューティングゲームです。

でも、すごく独特。パズルみたいなところがあります。


ボタンは3つ。どれも攻撃ボタンで、違う弾が出ます。

それどころか、同時押しでも違う攻撃になり、全部で7種類の攻撃が出せます。


でも、強力な攻撃で敵を一網打尽…ではだめなのです。

敵には3種類の色があり、同じ色を連続で倒していくと、その時倒した武器が強くなっていく。

どこでどの武器を使うか、よく考える必要がありました。


そして、何よりも独特なのが、「ほとんどがボス戦」というゲーム内容。

雑魚が出てくる部分は最小限で、だから「同じ色の敵を連続」も、よく考えないといけない。


そして、パワーアップした武器で、動きに癖があって、攻略しがいのあるボスに挑みます。




ボスはそれぞれ個性的で、作るのが大変そうなのがわかりました。

でも、新しいバージョンが送られてくるたびに、どんどんボスが増えていく。


ボス登場の際には、ボスの名前が表示されるようになっています。

この名前と、ボスの動きを見ると…過去の名作シューティングゲームとか、アニメとかを、いろいろとパロディ化しているのがわかる。


送られてきたバージョンは、部内で自由に遊べるようにして、意見をトレジャーに送っていました。

かなり元ネタが明らかなパロディに対し、「著作権的に大丈夫なのか」と心配する声も多く出ました。

一部は少し名前を変えたり、おとなしい表現になったのではなかったかな。


#それでも元ネタははっきりとわかるのですが


新しいバージョンが来るたびに、役得でやりこみました。

もっとも、僕はシューティングそれほど得意ではなくて、最後まではいけませんでした。

最後までクリアしていたのは部内で数名だったかな…



とにかく、シルバーガンの凄さを語ると、いくら文字数があっても足りません。

熱く語っているサイトたくさんあるので、知らなかったけど興味ある、という人は、そういうページを参照してください。




ある時、ST-V 独特の処理…BIOS 関連だったと思うのですが、わからない部分があるので教えてほしい、という要請が来ました。


僕はテクニカルサポート課ではありますが、BIOS を作ったのは別の先輩。

その先輩と、直接担当の営業の人と、3人でトレジャーを訪問します。



立場上訪問はしたものの、質問は先輩の専門部分なので僕は特にやることなし。

営業の人と一緒に、トレジャーの開発中のゲームなど見せてもらっていました。


先輩はシルバーガンのプログラマーの人と話し込んでいましたが、どうやら「わからない部分」というのが開発用ハードウェアの不具合のせいだったようです。

別の基板を貸し出す、と約束して決着したと思います。BIOS を作った先輩が来る必要はなかった。




さて、要件が終わったから帰りましょう…となった時に、営業さんがトレジャーの社長から呼び止められました。

せっかく来てもらったのだし、焼き肉でもどうですか、とのこと。


たしか、まだ17時前だったと思います。就業時間中。

でも、社長のおごりにするから全員で行こう、となってトレジャーの人全員と焼き肉会。


#締め切りが近いチームの人は参加しなかったかも…



セガの、ST-V に詳しいプログラマが二人もいますし、トレジャー側も技術力の高い人ばかり。

いろんな技術話などで盛り上がった…ように思います。


作成中のシルバーガンについても、難易度調整とかどうですか? と聞かれたのははっきり覚えています。

作製チームはこれでいい、と言っているのだけど、社長さんから見たら難しく感じるので、外部の人から見てどうか、という質問。


僕はシューティング得意ではないのですが、テストプレイでやりこんでいたので十分普通に遊んでいました。

部署内でも、上手な人は普通にクリアできています。

ゲームセンターに置くなら腕の立つ人も多いので、このままでよいと思います、と答えました。



…今考えると、シルバーガン難易度高いよね。

パターンゲームなので、繰り返し遊ぶうちに覚えてしまって、普通に楽しめるようになるのだけど。




その後、完成が近づいた時に、営業の人からローマ字フルネームの確認を受けました。

スタッフロールに名前入れるから、間違いがないか確認だって。


AC/SS 版には、Special Thanks として、BIOSの先輩、僕、営業さんの3人の名前が入っています


…でも、上に書いたように、僕何にもしてない。

部署内で遊んでもらった報告取りまとめたり、大量生産に必要な書類書いたりして、焼き肉おごってもらっただけ。


しかしまぁ、入れてくれるというのだからありがたい…その時は軽く考えていました。

面白いゲームだから、そこそこ売れるだろうな、程度にしか思ってなかったから。


…後の評価は、伝説級ですね。

こんなゲームに名前を入れてもらえたというのが、すごいことでした。




発売された業務用は、シューティングゲーム好きの間で高い評価を得ました。


いや、賛否両論と言った方がいいかもしれない。

好きな人は好きな一方で、パズル性が高すぎてシューティングではない、という人もいたから。

でも、物議をかもしたというのはそれだけ存在感があったということです。


しかし、「商品」としては、実はあまり良いものではありませんでした。

攻略するタイプのゲームだから、マニアに攻略されると、あっという間に1プレイの時間が伸びます。


100円で最終面まで行く人が続出、とかになると、お店としては採算に合わないのね。



その上、業務用に置かれて話題になっているうちに…発売1カ月目くらいに「サターン版を7月に発売する」という発表。

ST-V版が5月発売で、それから1か月後くらいですから、もう来月には発売するという予告ですね。


先に書きましたが、もともとサターン版を作成していて、それを業務用にも「発売してもらった」感じでした。

だから、本来トレジャーの人たちが作りたかったのはサターン版。


サターン版では、CDの大容量を活かしてストーリーシーンを入れ、業務用では意味不明だった数々の「謎」が解き明かされる。


…このゲーム、いきなり3面から始まって、次に2面に進むか4面に進むか選ぶんだよね。

これ、ストーリーがあると何やっているのかわかるのだけど、業務用だと意味が分からなかった。


しかしまた、業務用を気に入った人からは「余計なストーリーシーンが入ることでテンポが悪くなった」とか言われるわけです。

一方で、独特の世界観を持つストーリー展開を絶賛する向きもある。



でも、サターン版の発売告知は、店舗から見ると採算性をさらに落とすものでした。

1か月後に入手可能とわかったらみんな遊ぶのをやめてしまったから。


当然ながら、この後業務用のカートリッジも売れ行きが落ちます。

サターン版はせめて半年待ってほしかった…店舗側から当時聞かれた意見のようです。




さて、業務用での収益があまり良くなく、カートリッジもあまり売れていない。

営業上は「このゲームはあまり売れていない」ということになります。


どうも、サターン版の作成枚数は、この実績をもとに決められたようです。


でも、先に書いたようにゲーム好きからは高く評価されていた。

業務用の収益が悪いのだって、みんなサターン版を待っているからです。



結果、発売前の予約でほとんど売り切れ。

発売日まで待って購入しようとしても、店頭にはほとんど並ばず、買えませんでした。

その後の再生産もなし。中古品にはプレミアがつき、定価の3倍…1万5千円から、特に高い時には2万円くらいになりました。



僕としては、エンディングにも名前入れてくれたのだし、サターン版1枚くらいもらえるのでは…

と思って予約しておらず、結局入手に失敗しました。



数年後に中古品入手したので、ちゃんと手元にはありますけど



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テクモワールドカップ'98  2018-04-29 16:25:25  業界記

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1998年の4月に発売になっています。


「テクモ」と名前に入っている通り、テクモのゲームです。

ゲーム基板は ST-V 。ST-V のタイトル数を増やすために営業の人がテクモに交渉し、開発してもらったゲームでした。


以前も少し書きましたが、ST-V のタイトル数を増やすために、営業の人がセガサターンで面白いゲームの「業務用移植」を頼んでいました。

テクモワールドカップはサターンには出ていないようですが…


1997 年に、サターン用に「Jリーグ GO GO GOAL!」というゲームを出しています。

画面構成などずいぶんと違うのですが、おそらくはこれの業務用アレンジが「ワールドカップ '98」。



生産・販売はセガ。だから、セガ社内の書類事務や、生産工場に対する申し送り業務を誰かがやらなくてはなりません。

この「誰か」とは、ST-V に対するサードパーティサポートをやっていた部署…つまりは、AM1 研のテクニカルサポート、僕のことです。



生産と流通はセガが行いましたが、セガがお金を出したゲームではありません。

だから、ゲーム内容には口を出さない。通り一遍のバグチェックを行い、発売するための社内規定を満たしているかのチェックを行い、書類を整えて申し送りをするだけです。


ゲームは、開発用のフラッシュロムカートリッジに入れられた状態で送られてきました。

まずは、このデータを他のカートリッジにコピーし、部内でチェックプレイを行う必要があります。




ところが、ここで問題発生。

コピーすると、なぜか実物と違って、ゲーム中の速度が速く…なんだか、2倍速で回しているような動きになってしまい、ゲームにならないのです。

コピーミスかと思って、いろんなカートリッジを使い、何度コピーしても同じ。


テクモの担当者に電話をして何が起きているのか聞きました。

「その症状は、コピープロテクトに引っかかってしまっている」とのこと。



ここで初めて知りました。

セガ社内でも使っていなかった「コピープロテクト対応 ST-V カートリッジ」というものがあり、このゲームはそれに対応していたのです。

普通のカートリッジにコピーすると、プロテクトに引っかかってしまうのでした。



ハードウェア部署に、対応カートリッジについて問い合わせます。

通常のカートリッジを改造して作ったもので、貸し出せる在庫はないとのこと。

つまり、マスターとなっているカートリッジをそのまま使うしかありません。



うまく動かなかったとはいえ、コピーの際にデータはファイル化していました。

この内容を信じて、ROM 化するためのデータを作ります。


このゲームに限ったことではないのですが、ST-V ゲームの大量生産用のマスターロム作成は、少しおかしなことになっていました。


生産する ROM と同容量の EP-ROM がないため、半分の容量の ROM で作成し、それぞれの ROM のチェックサムをつけて申し送るのです。

ROM にチェックサムをつけていると言っても、出来上がってくる ROM は2つあわせた容量になっているため、チェックサムは異なります。

生産を頼む段階でのミスは防げますが、上がってきたものが正しいかどうか確かめる方法はない、という状態でした。


しかしまぁ、そういう慣例だったので書類などもそのように作ります。


その間に、マスターのカートリッジの方のチェックプレイもある程度やってもらいました。

ゲームにもおかしそうなところはありませんし、各種テスト項目も満たしていました。


これで、ROM 生産の申し送りは出来ました。



次に、今回の特例として、コピープロテクト用の LSI チップを生産しなくてはなりません。

このための申し送り書類と、ROM が上がってきた時にチェックプレイなどを行うための、テスト用の LSI チップを数個、手作りします。


この LSI チップを作るための道具は、特別なカスタマイズ品でハードウェア部署に1つあるだけでした。

プロテクトのための情報が何も書かれていない LSI と、この「道具」を借りてきて数個生産します。

使ったことのない機械、やったことのない作業で、プロテクトがらみのため「一度失敗したら使えなくなる」LSI だったので、緊張しました。




プロテクトの仕組みについて説明しましょう。


まず、もともとこの LSI は、プロテクト用途に開発されたものではなかったそうです。

じつは、静的ハフマン圧縮されたデータを展開するハードウェアチップ。セガのハードウェア部署が開発したものでした。



ハフマン圧縮というのは、zip や gzip などで使用されている圧縮方法です。


特徴の一つは、圧縮を「辞書」によって行うこと。

展開のためには、圧縮データ中にこの「辞書」を一緒に入れておく必要があります。


辞書を入れることでデータが増えますが、それによって圧縮できる割合が増加分以上であれば、入れる価値があります。


そのため、一つの圧縮データ中でも、時々辞書を入れ替えるのが一般的な方法です。

局所的にデータの特徴が変わることは多いので、場面ごとで適切な辞書を使うことで圧縮率を上げるのですね。



しかし、ハードウェア部署が作成したチップでは、静的ハフマン圧縮を使っていました。

「辞書」を回路の中に最初から作りこんでしまい、交換できません。


辞書自体は、交換はできないとはいえ、LSI チップごとに1度だけ書き込むことが出来ました。

なので、ゲームが完成してから最適な辞書を求め、専用のカスタマイズ LSI を作れば、それなりの効果があります。


…いや、あまり効果なかったそうです。ゲーム中に使われる多くのデータを「全部まとめて」圧縮できるような辞書を作ると、データの特徴が平均化されてしまい、圧縮効率が上がりません。



そのままでは、圧縮用途としては使えません。そこで、「プロテクト用」と目的を変えて使うことにしたのです。




この LSI チップは、ROM カートリッジのバスの途中に挟み込まれていました。


通電した最初は「互換モード」になっています。

データを読み込む際、LSI は特に何もせず、アドレスバスに示されたデータアドレスからデータを読み出し、データバスに返します。


しかし、I/O ポート経由で「展開モード」にすると、実際のカートリッジのデータを加工して返すようになります。

アドレスを最初に指定してから連続して読み出しを行うと、最初に指定したアドレスからのデータを「展開して」データバスに返すのです。



最初は互換モードで、ゲームの初期化を行うプログラムを読み込み、動き始めたとします。

このプログラムが「展開モード」を指定し、ゲーム本体プログラムを読み込んだとしましょう。


これで、圧縮されていたゲームプログラムが展開されながらメモリに読み込まれます。

当たり前のことながら、ゲームプログラムを呼び出せばゲームが動きます。


ここで、LSI チップが入っていない通常のカートリッジや、LSI チップが入っていても別のゲームのものだったりしたらどうなるでしょう?


ゲームプログラムは正しく展開されず、呼び出しを行った時点で「暴走」します。


LSI チップの中には「辞書」が含まれていて、この辞書はゲームごとに異なるものです。

そして、この LSI は一般的なものではなく、セガだけが持っているものです。


これは、ゲームのコピーを防ぐための仕組みになりえます。

元々圧縮展開用の LSI でしたが、コピープロテクト用としても十分に使えるのです。




テクモのゲームでは、ほぼ完成間近になってから、この LSI に対応したのだそうです。

そのため、プログラムを圧縮するような方法は使いませんでした。


画面に表示するテクモの会社ロゴを、圧縮と非圧縮の2つ持っている、と聞いたように思います。


アドバタイズの冒頭にはテクモのロゴが表示されますが、これは圧縮データを展開したもの。

この表示の際に、展開後の表示データと、非圧縮データを比較します。


あっていれば正規の ROM 、違っていれば、違法コピーです。

そして、違法コピーなら「事実上ゲームにならない」ように、2倍速で動かすようにしました。


#参考:

 実機動作画面

 ロゴ・タイトルが展開できていない状態(MAME)

 MAME では、現状「2倍速」の部分にパッチが当たり、遊ぶことはできるようです。


もし、「ゲームが止まる」ようなプログラムを組めば、その部分を探し出して回避されてしまうかもしれない、と考えたようです。

それよりも、一見動いているように見えて実はゲームにならない、というようなものであれば、コピーに失敗していることにすら気づかず、回避策はとられないかもしれません。


ここら辺、8bit 時代の PC ゲームのコピープロテクトなんかでも使われた考え方ですね。




このプロテクト用の…というか、ハフマン展開 LSI 、僕はこれ以外のゲームで見たことがありません。

カートリッジ開けない限りわかるものでもありませんし、もしかしたら他にも使われているのかもしれませんが。



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別年同日の日記

13年 ハムスター

15年 ポール・バラン 誕生日(1926)

15年 「オセロ」 発売日(1973)

16年 お昼ご飯の思い出


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ダイナマイト刑事2  2018-04-27 15:00:52  業界記

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ダイナマイト刑事2

忘れもしない1998年 4月 9日。


…って、本当は忘れてたけど、さっき古い雑誌見たら日付まで書いてありました。

そろそろ20年だよな、という程度には覚えていたのだけど。


さて、その 4月 9日に、ダイナマイト刑事2のお披露目が行われました。

普通のゲームではなかなかないことなのですが、選ばれたゲーム雑誌などの記者さんを招待する形で、船上クルーズパーティでのお披露目です。



#日記に添付した写真は、雑誌「サターンファン」1998年5月15日号 182ページで伝えられた、発表会の模様レポート記事から抜粋。

 クリックすることで記事全体を読めます。




ダイナマイト刑事は ST-V 基板で作られた、高層ビルを舞台とした格闘アクションゲームです。

いわゆる「ダブルドラゴン」とか「熱血硬派くにおくん」のタイプのゲームね。


ポリゴンを使っていたことと、そこらへんに落ちているものを何でも「武器」として使える、派手なアクションが特徴でした。



で、結構人気出たので、2が作られたのです。


作製はまた、アメリカチーム。企画者は同じですが、メンバーは変わっています。

アメリカでやっていたから、作っていた経緯とかは知りません。


完成版が日本に送られてきて、第1作の日本での担当者がまたプロモーションなどを担当して、その段階を知っているだけ。



対応基板は、ST-V ではなく、Model 2 でした。


ダイナマイト刑事って、ゲームとしては「佳作」だと思います。よいさくひん。

何が何でも手に入れたい、遊びたい、って作品ではない。でもそこにあれば遊ぶし、ちゃんと楽しめる。そういう作品。


そういう作品になると、値段が結構重要です。ST-V なら安いから買ってもらえるけど、Model 2 は基板が高いのでね…


人気作品の続編とはいえ、売るためにはちゃんとしたプロモーション活動が必要でした。




そこで、冒頭に書いたお披露目会です。

単体のゲームのお披露目を行うって、結構異例のこと。

普通はゲームショーか、セガのゲームをいくつかまとめて発表する、業者向けの内覧会でお披露目しますからね。


ダイナマイト刑事2は、豪華客船が舞台でした。

だから、お披露目会もクルーズパーティで行おう、ということになりました。


第1作のラスボスが、今回もラスボス。逮捕したのに脱走した、ということになっている。

第1作で事件に巻き込まれた「大統領の娘」がなぜかまた事件に巻き込まれている。

そしてもちろん、主人公も同じ人。これは事件を知って乗り込むので、偶然居合わせたわけではない。



クルーズパーティに合わせて、担当者は主人公のコスプレをする、と決めていました。

と言っても、主人公ってジャケット着て銃持っているだけなのよ。

コスプレしても、言われないとわからないレベル。


2のゲーム中には、敵に「カニ男」とか、インパクトが強いのがたくさんいます。

カニ男なら、大きな蟹を背負っているの。カメ男とかサメ男もいる。


こういうコスプレをやれればインパクトあるのだけど、作るの大変そうだし、お披露目は3日後…

というような愚痴を担当者から聞きます。



何も、そんな新キャラをコスプレしないでも、ダイナマイト刑事と言えば「大統領の娘」じゃん。

2のお披露目に来る人は、2はまだ見ていないのだから、1から通しで出ているキャラのほうがわかりやすいよ、とアドバイス。


しかし、大統領の娘って不細工なんですよね。

少ないポリゴン数で描かれているので顔が不気味に見える。


娘なら女性だけど、不細工役をやってもらうのは失礼だろう…とまだ愚痴る担当者に、いや、不細工だから男がやればいいんだって、と言います。


なるほど。それは面白いアイディアだ。

言い出しっぺのお前が是非やってくれ、と頼まれます。



いや、僕はプログラマだからイベント手伝いなんてやっている暇はないよ、と言っても後の祭り。

企画課課長を通し、プログラム課の課長に書面で正式な要請が行われ、僕が「イベント手伝い」に駆り出されることになりました。




寸劇。


パーティが行われている部屋の扉が急に開き、銃を手にした男が入ってくる。


ブルーノ(主人公):


おっと、みんな動くな! 今、テロリストがこの船に乗り込んでいるという知らせが入った。

運悪く乗り合わせた大統領の娘が人質になっているらしい。

お楽しみのところ申し訳ないが、身体検査をさせてもらうぜ。



その時、パーティの料理を置いたテーブルのクロスの下から急にピンク色のドレス姿の人影が這い出して来る。

(人が入る前から30分くらい、そこで隠れて待っていた)


大統領の娘:


まぁ、救出に来てくれたのね。ありがとう。

私が大統領の…



パンッ!

ブルーノ、大統領の娘(自称)を無言で銃で撃つ。倒れる娘。


大統領の娘:


ひ・・・ひどい。

私は大統領の娘よ。

パパに言いつけて…


パンッ! パンッ!


ブルーノ:


大統領から、娘さんは可愛いと聞いている。

お前テロリストの仲間の偽物だろう。死ね!


パンッ! パンッ!




…ってな感じの劇を飛び込みでやったのですが、ひどいことにオチを決めてなかった。

殺されたので動くわけにもいかず、しばらくそのまま倒れていましたが…



ブルーノ:


急にお騒がせしました。実は、わたくし本日の司会をいたします…



と自己紹介を始めたので、僕も立ち上がって自己紹介して終了しました。

パーティの間はずっと女装だったけどな。



…で、その場にいた漫画家の柴田亜美さんが、ファミ通でネタにしてくれました。

この話は過去に書いてるね


そちらの記事で最後に書いたけど、女装衣装は会社に経費請求したのに却下されました。

まぁ、最初から経費になるとも思ってなかったのだけど。


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別年同日の日記

02年 4/26

03年 ほっかいどぉ

08年 誕生日とG.W.

11年 誕生日

14年 相模湖リゾート プレジャーフォレスト

15年 ピューロランド・追記

15年 サミュエル・モールス 誕生日(1791)

19年 長女の誕生日


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ST-V事業のテコ入れ  2018-04-26 17:43:20  業界記

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以前に書きましたが、ST-V ってネオジオの開拓した「駄菓子屋ロケーション」を奪う戦略商品でした。


でも、そういう位置づけでありながら、社内は「売上」でノルマを課せられていました。

基板もソフトも単価の安い ST-V を一生懸命やるのは、社内的には「馬鹿げている」のです。



これも以前にも書きましたが、AM1研は、社内で必要とされていることはやる、という感じの部署でした。


決して派手ではないが、ゲームセンターの隅に1台は置いておかないといけないようなゲーム…

コラムスとか、野球ゲームとか、占いとか。そういうものを開発するのは AM1研の仕事でした。


こういうゲームは、それほど売り上げが伸びないとわかっているので、安くないと買ってもらえません。

必然的に ST-V で作ることになります。


でも、AM1 研だけで作っていても、ゲームの数は少ないのです。

せっかくカートリッジ式でソフトの交換を簡単にしているのに、肝心のゲームが少ない。

ST-Vの弱い部分でした。




どこかの段階で、会社の方針としてもう少し ST-V に力を入れる、となったようです。

ここら辺、詳しい経緯は知りません。


でも、売り上げベースのノルマは変わらない。

当然、開発各部署は、ST-V のゲーム開発に力を入れたいとは思わない。


内部開発がだめなら、外部に頼めばいいじゃない、ということで、ST-V 基板をサードパーティにも広く開放するようになったようです。



もちろん、今までもサードパーティ作品はありました。

でも、これらは主に2つの群に分かれていて


・セガが資金提供して開発させたサードパーティ作品

・元々業務用ゲームを作っている会社が、開発ターゲットとして ST-V を選んでくれた作品


でした。


これに加えて、新たに以下のような枠を広げようとしたのです。


・サターンのゲームの ST-V 移植作品


これまで、ST-V のゲームはサターンに移植できる、というメリットは利用されてきたのですが、その逆はあまりありませんでした。

でも、この道ができれば、ST-V のゲームは大幅に増えるはずでした。




この戦略のために、営業に ST-V 専任の人が割り当てられたようです。

AM1研内に、テクニカルサポート部署ができたのもその流れの一環のようです。


そして、当然のことながら、営業の人とテクニカルサポートの ST-V 技術担当…つまり僕は、頻繁に連絡を取り合うようになります。

何社か、営業の人と一緒にあいさつ回りをした覚えがあります。



その時の1社、…名は伏せますが、塾の教室のようなところで開発を行っていました。



学校の教室ほど広くないスペースに、小さな机が、同じ方向を向いて整然と並べられています。30人くらいでしょうか。

パソコン置いたら他に何もスペースがない。椅子の後ろはすぐ他人の机で、席を立つのも気をつかう。


資金的な問題などもあって仕方がないのだとは思いますが…こんな状況では、気持ちの余裕は持てなくて、良いゲームは作れないだろうな、と思いました。

(実際、その会社のゲームは面白くないものが多かったので…)


これは一番ひどかった例で、多くの中小企業は少人数でした。

30人くらいも雇っておきながら、狭い部屋しかもっていない、というのがかなり変な例なのね。


大抵は数人で開発していて、狭い事務所か、マンションの一室を借りています。

大学時代2カ所ほど、ゲーム会社でアルバイトしていましたが、そこもそうした感じでした。



セガの環境がいかに恵まれているか、よくわかりました。

いろんな会社を見ることは大切で、プログラマーだけをやっていたらそうした機会はなかったでしょう。




営業の人との交流は、それまでになかった視座を与えてくれました。

それまでは「開発の人間として」良いゲームを作ることが一番大切だと考えてきました。


良いゲーム、という定義も難しいのですが、まずはゲーム好きな人に認めてもらえるようなものを作りたい。

ただ、AM1 研の方向性として、特にゲーム好きでない人に気軽に遊んでもらえるもの、というのもアリです。


でも、営業の立場から言うと、それらは決していいゲームではないのね。

「お客さん」を、ゲームを遊ぶ人だと思っているから。


営業にとってのお客さんは、ゲームセンターの経営者。

ゲームセンター経営者が儲かって喜んでくれるのがいいゲームです。


もちろん、面白くて遊んでもらえるものがいいに決まっている。

でも、それに加えて安く買えること、プレイ時間が短く連続して遊んでもらえること、お客さんの多く来る夏休み・年末年始などの前に発売されること、なども重要です。


特に発売時期に関しては、作成現場では全く意識されていませんでした。

2月と9月のショーでお披露目をする、という意識はあっても、これらのショーは「ゲームセンターが暇な時期だから」その時期に開催しているフシもあります。


みんながその時期を目指してしまうと、ゲームセンターの人・営業の人にとっては、ゲームが欲しい時期に良い商品がない、となってしまうのです。


#と、コラムス97 のところで書いた話は、作っているときにはちゃんと理解できておらず、後から真意を知った話なのです。




もう一つ、営業の人と外回りをしたのも勉強になりました。

外の会社を見るということは、自分の会社を外から見る機会にもなります。


小さな会社の開発者は、開発期間やコスト意識に敏感な人が少なからずいました。

セガでは、そのような開発者は、部課長クラスを含めても多くはありませんでした。


小さな会社では、会社の状況を開発者まで感じていて、とにかく儲かるゲームを作ろうと一生懸命なのですね。

ゲームが売れずに会社がつぶれてしまえば、自分の明日からの暮らしに困るのですから。


そうなると、妥協は許されません。ゲームを作るための情熱が違います。



セガだって情熱をもってゲームを作っている人はたくさんいましたよ。ゲーム作るの好きで入社したのですから。

でも、「お仕事」と割り切っている人も、少なからずいました。


ゲームを作りはするが、そこから先は営業の仕事・店舗の仕事で、自分が作ったゲームがどう評価されているかもわかりにくい。

作ったゲームを遊んでいる人の姿が見えず、徐々に情熱を失う人も多いのです。



で…それまでに持っていなかった視座を持って、改めて自分の会社を見てみると…

なんというか、こう、「やばい」感じがするのですね。


商品を作る開発部と、商品を販売する営業と、実際の商品を遊んでもらって外貨を稼ぐ店舗と、すべてを統括する人事部が、ちゃんと意思疎通できていない。


各セクションが思い付きのように「状況を改善」しようとする動きを起こしても、チグハグな感じで効果が出ない。



例えば、店舗が「シンプルな古いゲームを好むお客さんは結構いる一方で、最近の新作はややこしすぎてあまり遊ばれていない」という報告を上げたとしましょう。

もっとシンプルなゲームが欲しい、という要求です。


でも、開発部に開発命令が下されるときには、伝言ゲームの結果全く意図と違うものに変わっているのです。

古いゲーム、というところだけ取り出して「ヘッドオンをリメイクしろ」とか「コラムスをリメイクしろ」とか。




とはいえ、やばいと感じ始めたのはもっと後の話。秋ごろだったと思います。


半年後の1999年4月には、1000人規模のリストラを発表。

各部署も分社化されるのですが…実は、やばいと感じて早々に僕はセガを辞めて独立してしまいました。

なので、その頃のことは知りません。


今書いている「20年前」、1998年の春ごろは、まだ慣れないテクニカルサポート業務で、日々追われていたと思います。



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サシっす!!  2018-04-14 12:33:34  業界記

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ST-V で作られた対戦ミニゲーム集です。


1998年の2月に発売になっています。

当時は2月に AOU ショーが行われていたので、このタイミングで発表・発売ということですね。


このゲーム、僕は関係していません。傍観者でした。

でも、企画も、プログラマ(2名:以下A、Bと表記)も、デザイナーも、みんな同期。




元はプログラマーAのアイディアだったらしいです。


そいつは普段から買い物の際に「小銭を上手に払う」ようにしていました。

上手に、ってニュアンスが難しいのだけど、「ピッタリ払う」というよりは「財布の中の小銭を減らす」という感じ。


ある日、これってゲームにしても面白いんじゃないか、と同期の企画に話しました。


でも、そのままじゃぁ、とてもテレビゲームにはならない。



少し前に「エジホン」というゲームを作っていました。

こちらは、プログラマーBが参加した作品。


簡単な間違い探しなのですが、2人で同時プレイをした際には、「先に見つけたほうが勝ち」になるようにしていました。


すごく単純なゲームでも、2人で競うと面白くなる。

どんな単純な内容でも、対戦させればゲームとして成立するのではないか?



飲食店などで、支払いの段になって「私が払います」と全員分を持とうとする人がいます。

そんな感じで、我先に払おうと競争するゲームにしたら?


最初に満額を出した人が支払うことにして、速度を求めつつ小銭を減らすように支払う。

これを対戦で作れば、面白くなるはず。

どんな単純なルールでも「対戦する」というのは面白い。


でも、これだけだとまだ弱い。

同じように、「普通はゲームにならない」ような異色のネタを集めて、対戦するのが面白いミニゲーム集を作れたら…




企画がこんな感じに起こりましたから、最初から「タントアールにはしない」ことを目標に置いていました。


タントアールは、AM1 研が作ったヒット作です。

ミニゲーム集で、二人同時プレイもできましたが、あくまでも「同時プレイ」。

一人用のゲームを、二人同時にそれぞれが遊ぶ、というだけで、対戦ではありません。



必ず対戦する。一人用でも CPU と対戦する。

1体1、いわゆる「サシ」の勝負をする。これが「サシっす!!」の企画に発展しました。



とはいえ、「異色の」を考えるのが難しいのよ…

アイディアないか、と僕も聞かれたけど、急に言われても思いつかんのよ…

結局、多くのゲームはどこかで見た感じがするゲーム。


でも、次の3つは異色と言っていいのではないでしょうか。


・小銭減らし

・絵の具

・アリンコ



…というところで、ゲーム画面紹介しておきましょう。



昨年、有名なゲームセンター「ミカド」で行われたという大会の動画です。

冒頭から、「小銭減らし」の対決が行われています。


6分目ごろから「アリンコ」、9分目ごろから「絵の具」の対決が見られます。


その他にも、いろいろなゲームが入っているのがわかります。




小銭減らしは、先に書いたように「サシっす!!」全体の元になったアイディア。



レジに現れた「合計額」よりも多くの金額を出したプレイヤーが「支払った」ことになります。


これで小銭を減らしていく。

ピッタリ払えば当然一番減るわけだけど、それだと相手との競争に負けて、支払えない。

最適解よりも、「少しでも減る、早く出せる組み合わせ」を判断しないといけない。


しかも、これ何回か支払った結果で勝負するのね。

早いうちに小銭を減らしすぎると、組み合わせが制限されて後半で苦しんだりする。



ちなみに、作成の少し前に、Oh!X (雑誌)に、「小銭減らしゲーム」というのが載っていました。

アクション対戦ではなく、パズルゲームだったのだけど。


このミニゲームを作っている最中に、「Oh!X に載ってたやつ元ネタ?」って聞きました。

アイディア出したプログラマーAも Oh!X の愛読者だって知ってたから。


でも、彼はその記事読んでなかった。

大学時代から買っていたから惰性で買い続けていたけど、忙しくて内容ほとんど目を通していなかったらしい。

(僕に言われて読んだらしいけど、その時にはもうゲームの企画は完成していたし)


そんなわけで、時期が近いのだけど全く別個に出されたアイディアです。

同じようなこと考える人がいるもんだ、というだけで。




絵の具は、プログラマーBが担当していました。

どうしてよいかわからず、僕に相談に来ました。


「絵の具を混ぜて、指定の色に近い色を作るゲーム」なのだけど、RGBでどのように「絵の具を混ぜる」のかわからないし、どうやって「近い」と判断するのかもわからない…と。



詳しくない人に説明しておきましょう。


多くの人は、赤・青・黄を混ぜればどんな色でも作れる、と知っていると思います。

青と黄色を混ぜると、緑になる。緑と赤を混ぜれば、黒になる。(理想的には)


でも、コンピューターは赤緑青…Red Green Blue の頭文字で「RGB」と呼ばれますが、この3色で色を作ります。

赤と緑を混ぜると、黄色になります。黄色と青を混ぜると、白になります。

絵の具とは全く違います。


プログラマーBの悩みは、コンピューターで扱えるRGBで、どのようにすれば絵の具のような表現ができるのか、ということでした。



僕はプリンタのプログラムとか経験していましたから、RGBの補色がCMY(シアン・マゼンタ・イエロー 絵の具の三原色である、青・赤・黄をより厳密にした色)であることを教えました。

非常に単純な話で、各色の割合を 0~100 のパーセントで表すとしたら、


R = 100-C

G = 100-M

B = 100-Y


という、非常に単純な式で変換できます。


プリンタで使う場合には、物理的な特性などの関係でもう少し複雑な処理が必要なのだけど、ゲームに使うならこれで十分。

これで、とりあえず画面上で「絵の具を混ぜる」は実現できるようになったようです。



でも「近い色」を判定するのは難しい…


たしか、HSVに変換したうえで近い値なら…とか当初は実験したはず。

HSVも色を表現する方法で、RGBやCMYよりも、人間の感性に近い表現になります。


それでも、実際には人間の目の色ごとの感受性の違いによって、ある色なら「近い」と思える範囲指定の数値が、他の色では全然近くなかったりする。


結局、出題する色をランダムではなく、ある程度決まった色からランダムに出すことにして、出題色ごとに「近い」と判定するデータテーブルを作り込んだそうです。



ゲームを遊んでいて、「えー、それ若干違うだろ」と思う色でOKが出ることがありますが、許してやってください。

(ゲーム上は、絵の先生がOKを出せばよい、というルールなので…)




アリンコは、アイディアを実装してみたら面白かったのだけど、いろいろと問題があって…

企画者が「隠しゲーム扱い」とした問題作です。



問題の1つ目は、蟻の生態が理解できていないと意味不明なゲームだということ。

問題の2つ目は、実はこのゲームは「囲碁」に非常に近いルールで、CPU の AI が作れなかったこと。



蟻が行列を作っているのを見たことがある人は多いと思います。

これが「道しるべフェロモン」と呼ばれる、蟻の分泌する化学物質によるものだ、と知っている人も多いでしょう。


でも、道しるべフェロモンにはいくつかあり、「餌の位置を仲間に教える」時と「自分が道に迷わないようにする」時を使い分けます。

道に迷わないようにしながらランダムに歩いて餌を探し、餌があったら仲間を呼んで巣に持ち帰るのです。


もし餌があると思って進んでいたのに餌が無かったら…

その時は、再び「道に迷わないように」しながら、付近にあるかもしれない餌を探すためにランダムに歩くのです。



「アリンコで対決」は、中央にあるアリの巣から出てくる蟻を餌で誘導し、自陣に多く導いたほうが勝ち、というゲームです。


プレイヤーは「餌」を置くことで、ランダムに歩く蟻のうち、一番「自陣に近い」位置にいるやつに仲間を呼ばせます。

これを繰り返すことで、自陣までの道を作り、得点を稼ぐのです。


理解すると面白いのだけど、まずこのルールを説明するのがほぼ不可能です。




これ、結局「全く手掛かりのない状態から、目的を持ったラインを生成する」という遊び方です。

ラインを生成するためには、少し先を読んで、「つながりそう」なところに点を打っていく必要があります。



これ、やっていることは囲碁と同じ。

囲碁は盤面に「線」を形成して相手を囲い込むゲームですが、コンピューターには線が「作れそう」な場所を想像することができません。


数年前に AlphaGO が人間に勝って話題になりましたが、それ以前の囲碁ソフトは、ルールを理解させるのが精一杯でした。

「アリンコで対決」が作られたときも、コンピューターにこのルールを教えて相手をさせることができませんでした。


そんなわけで、サシっすの狙いである「ひとりの時は CPU が相手をして、サシで勝負」ができないのです。


ルールを説明できない、CPU が相手をできない、でもゲームとしては悪くない。

これが、「アリンコで対決」が隠しゲーム扱いとして入れられた理由です。




ほぼ完成し、ロケテストでも悪くない成績を修めた後、営業からリクエストが来ました。


「タントアールの続編、ってことにして欲しい」


えー、それはないよー。

企画者、すごくがっかりしていました。

最初の方に書いたけど、「サシっす」を作っているときの指針の一つが「タントアールにしないこと」だったから。


タントアールは、このころすでに流行遅れになっていたとはいえ、ミニゲーム集としては金字塔です。

あえてそれとは違う、一風変わったミニゲーム集を目指したのが「サシっす」でした。



でもまぁ、営業の言うこともわかるんだ。

気軽に遊べるミニゲーム集への需要はやはりあって、ゲームセンターでは新しいタイトルが求められていました。

タントアールは、やっぱり金字塔。その続編、ということにしておけば営業的には売りやすい。


結局、タイトルの前に「対戦タントアール」という言葉がつくことになりました。

最後の最後に無理やりくっつけたものなので、当然のことながらゲーム中はタントアールとは全く違う雰囲気だし、キャラクターも違います。


でも、遊ぶ人にはそんな事情関係ないよね。


「シリーズなのにキャラなどの雰囲気が違う」って言われちゃうのね。

場合によっては「あの雰囲気好きだったのに、なぜ変えた」って苦情になる。


いまでも、ネットを検索すると、いろんなところでこうした意見が書かれています。



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申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

GetBass  2018-02-18 15:55:15  業界記

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こちらも L.A.ライダーズと同じく、1997年12月発売でした。


この頃のゲームは日本で先行発売してから海外版を作っていたのですが、ネット上の多くの情報が海外基準で書かれています。

そのため、年末ぎりぎり発売の作品などは、翌年の作品にされてしまうことが多いのですね…




以前、「スポーツフィッシング2」というゲームを紹介しました。


AM4研が主導し、AM1研でプログラムを作成したゲームです。


当時のAM4研というのは、筐体やエレメカを作る部署。

スポーツフィッシング2は、「リアルな竿の動き」を表現するエレメカに、おまけ程度の実写映像を組み合わせた釣りゲームでした。


これを、映像部分も MODEL3 のリアルな映像で作り出してやろう、というのが「GetBass」でした。

スポーツフィッシングは海釣りですが、GetBass は湖…それも、タイトル通りブラックバス釣りに特化しています。



発案が誰だったのか知りません。

でも、プロジェクトに参加していた同期のグラフィックに釣り好きがいて、「このゲームを作るために会社に入った気がする」と言っていたように思います。


ゲーム発表後に話題になり、釣り雑誌が取材しに来て開発話が漫画化されていました。


「GetBassを創った男たち」



…えーと、「バーチャファイターを創った男たち」って漫画があったので、それのパロディですね。タイトルは。

同期のグラフィックの彼も重要な役どころで登場していたそうで、喜んでいました。


僕は「漫画になった」ことは聞いたのですが、読んでないので詳しいコメントはできません。




業務用は、結構リアルに感じました。

釣りやったことないから、本当にリアルなのかわからないのだけど。


実際に釣り竿型のコントローラーで操作し、魚がかかれば糸が引っ張られる。

魚が左右に動けばそちらに糸が動いていく。


リールを巻けばどんどん重くなって竿がしなるし、竿を上下に動かしながら、少しづつ糸を巻き取っていく感じ…


スポーツフィッシング2もそうだったのですが、本当は糸を巻いてなんていないんですよ。


リールは回転を感知して、モーターで負荷をかけて「重さ」を演出しているだけ。

同時に、竿の先に固定されている糸がゲーム機の中に巻き取られて竿がしなるだけ。


でも、自分でリールに糸を巻き取っているように感じますし、「魚と格闘している」ように思える。

この仕組み、エレメカとしては3作目ですから、非常によくできていました。




しかし、ゲームですのでリアルばかりではありません。嘘もたくさんついています。


魚釣りって、のんびりと魚を待つものなのですが、これはゲームですから待つ必要がありません。


ルアーを投げ込めば、魚がすぐによってきます。

「寄ってくる」というのも、水中の魚の動きが見える。

魚がいないなら、すぐに別のポイントに切り替えられます。


魚釣りの「楽しいところ」だけを、テンポ良く楽しめるゲームなのです。



この、「水中の魚の動きが見える」部分がよくできていました。

当時最先端の MODEL3 の描画能力を、たった数匹のブラックバスのために注ぎ込んでいるのですから。


さすがは、釣り好きのグラフィックが一生懸命作っただけのことはあります。





でも、業務用の宿命として、1回に遊べる時間が結構短めだったのね。


ゲームシステムとしては、与えられた時間が無くなったらゲームオーバーです。


当初の持ち時間は2分程度。魚がかかったら時間延長、釣り上げても時間延長。


一定時間内に釣った魚の重さの合計が一定数に達すると面クリア。

次の釣りポイントへ向かいます。

新しい釣りポイントでは新しい持ち時間設定があり、最終面クリアで終了。


魚釣りってのんびりとしたものですが、一種のタイムトライアルレースです。

忙しいゲームでした。




リアルな画面と巧妙なエレメカの組み合わせ、というのは高評価だったのですが、世の中の評価の多くは、後に作られたドリームキャスト版のものだと思います。



上のビデオは、移植されたドリームキャスト版のもの。

また、タイトルも海外名の「SEGA Bass Fishing」になっています。

日本でも人気はあったのですが、それ以上に海外で人気の出たゲームでした。



ドリームキャスト版では、時間を気にせずに「釣りシミュレータ」としてじっくり楽しめます。

専用のコントローラー「釣りコン」も、糸が引っ張る仕組みこそないものの、竿の角度やリールの手ごたえなどは再現していました。


さらに言えば、DC 版は後に PS3 / XBOX360 / PC 版として移植されています。

このときは専用コントローラーさえなく、それでも高評価だったようです。

それだけ、家庭用で拡張された「シミュレータ」部分がよくできていたのでしょう。


でも、DC への移植は、基本的に外注会社の仕事のはず。


外部に移植を任せると、原作に忠実な「べた移植」になればよい方で、大抵は劣化移植。

それが、独自のモードを追加してその部分の評価が高いというのは、かなり良い仕事をしてもらえたのではないかな。



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