2016年01月の日記です

目次

01日 あけましておめでとうございます
03日 三が日
04日 テニスとインベーダー
07日 Serverman SIM LTE 解約
10日 国立科学博物館
10日 国立科学博物館(続き)
10日 上野公園
14日 トーマス・J・ワトソン 誕生日(1914)
17日 山本卓眞 命日(2012)
18日 森公一郎 命日(2015) レイ・ドルビー誕生日(1933)
19日 マーシャル・カーク・マキュージック 誕生日(1954)
19日 大雪の日
21日 ポール・アレン 誕生日(1953)
22日 デビッド・ローゼン 誕生日(1930)
23日 iOSでtextのコピー・ペーストができないバグの回避
29日 【追悼】マービン・ミンスキー
29日 AI囲碁
30日 ダグラス・エンゲルバート 誕生日(1925)


あけましておめでとうございます  2016-01-01 09:24:05  料理 家族

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あけましておめでとうございます

今年の正月は、なんだか平和に迎えております。


年末に風邪ひいて、無理だと諦めて大掃除とおせちを一部省略したからね。

おせち料理はしっかり作り、のんびりとした正月になっています。


トリはむ、だて巻き、数の子いり松前漬け、いくらのしょうゆ漬け、栗きんとん、豚の角煮。

以上が今年僕が作ったもの。


田作り、紅白なます、煮しめ。

以上が妻の作。煮しめは一部作業を僕がやってます。


昆布巻き、かまぼこ、黒豆は既製品。




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06年 あけましておめでとうございます

13年 あけましておめでとうございます

15年 あけましておめでとうございます

17年 あけましておめでとうございます

18年 あけましておめでとうございます

19年 あけましておめでとうございます


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三が日  2016-01-03 18:02:12  家族

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1日の朝に「あけましておめでとう」なんて日記を書いていましたが、その後バタバタしてました。



昨年末に妻と僕で揃って携帯電話を買い換えたのですが、電話番号はそのままなので必要な連絡は来るだろう…と思ってました。


でも、やっぱメールアドレス変わるとダメなのね。

年末に妻の知人から「メール送ったけど届かない」と電話があり、慌てて SMS で知人各位にメールアドレス変更を伝えて回りました。


そしたら、妻の兄上から、元日の昼前になって「今日実家に帰るけど来れるか?」という連絡が。

えーと、昼頃に初詣に出るつもりだったので、慌てて近所の神社に初詣に。


毎年行っているところで、とくに有名でもない小さな神社なのですが、毎年たくさんの参拝客が訪れています。

地元の人に大切にされている神社って、なんかいいね。



で、初詣から帰って実家に帰る準備。

準備しつつ、持ち焼いて食います。昼ごはん。


そして妻の実家へ GO!

出発は午後2時ごろ。片道2時間くらいかかります。


手土産持たないわけにいかないな、と途中で買ったりして、ほかにも寄らないといけないところがあったりで、着いたのは5時半ごろ。




妻のお兄さんの子供…つまりは子供の従妹もいて、子供同士すぐに仲良くなって遊んでいました。

買ってきてくれたお寿司など食いつつ、僕も持って行った自作のおせちなど披露しつつ、しばし歓談。


遅くいったので帰りは11時ごろに。

子供たちは帰りの車中で寝てました。




翌日2日。

前日寝るのが遅かったこともあって、みんな朝寝坊。

9時ごろから朝ごはんです。



我が家のあたりでは、2日に獅子舞が来ます。


毎年怖がって逃げてしまう次女(7歳)。

今年は逃げない、と周囲に公言していたのに、獅子舞が来ると慌てて僕の後ろに隠れる。


でも、隠れるだけで逃げはしなかった。

そして、頭を「かぷっ」とかじってもらいます。(元気な子になるおまじない)


これはすごく怖かったらしい。

人が入っている、とわかっていても嫌なんだって。



2日は僕のほうの親類一同が集まります。

いつもは獅子舞が去ったらすぐに家を出るのだけど、それから洗濯などの家事を行い、持って行くおせちなどを準備して、出発準備が整ったのは午後1時ごろ。


実家は車で30分程度の距離。

妻は「自転車で行ってみる」と別行動。(昨年クロスバイクを購入したため)


これが、見事なまでに同着。

街中の近距離では、車といい自転車は同じくらいの速度です。



いつもは長兄のいる実家に一番乗りですが、今年は次姉家族がすでに来ていました。

ちょうど次姉の配偶者(次義兄)が駐車場にいたろ頃に、妻の自転車と僕がちょうど別方向から現れたので驚いていました。




昨年は、妻の実家にいく日が2日だったので、親類の集まりに出ませんでした。

毎年恒例でカニを出してくれるのだけど、カニが大好きな長男は、「食べれなかった」と残念がってました。


で、今年は食べる食べる。

うちの子だけで食い尽くすのでは、と申し訳なかったのですが、いっぱい買ってあるそうで大丈夫でした。


ちなみに、長兄が毎年作ってくれるカレーも、今年も美味でした。



この日も帰りは9時ごろ。

近所だから家に帰って風呂に入る余裕はありましたが、子供たちは当然眠かったみたい。




で、今日は疲れたこともあって家でのんびり。


長女は朝6時半に、長男は7時には起きて来ましたが、次女は9時ごろまで寝坊。

一番小さいから一番疲れているのね。




のんびり…といっても、僕は多少仕事含みでサーバー構築などやってました。

以前から書いているように、1か月ほど前にサーバー故障してからいろいろやっているのね。


新サーバーはもう2週間前に構築して移行しているのだけど、併用しているもう一台のサーバーの電源ファンがうなりを上げるようになってきたので新調。

電源付きケースだったため、電源だけの交換ができず、ケースごと変えました。


これで、現在動作しているサーバー2台はファンレスになりました。

非常に静かです。


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テニスとインベーダー  2016-01-04 13:59:23  その他

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昨年秋から放送していたらしいのだけど、普段テレビを見ないので、年末年始に初めて日清カップヌードルの以下のCMを見た。



ほぉ、と思って調べてみると、CGではなく、実際に作ったインベーダーに、実際のボールをぶつけてもらって撮影したそうです。


でも、僕が調べたかった内容に触れた記事はないし、CM作成側もその意図はないようだ。




このCMを見て、僕は「すごくよく わかっている」と感心したのでした。

でも、それは思い過ごし。


思い過ごしだけど、美しくまとまっている。偶然を引き寄せたのであれば、それはもはや必然。


というのも、インベーダーゲームとテニスにはもともと深い関係があるから。



よく最初のテレビゲーム、と呼ばれるものに「PONG」があります。

それ以前にもテレビゲームはあるのだけど、まぁ、今はどうでもいい話。


この PONG は、テニスゲームです。

その後、PONG が発展して BREAK OUT になりました。


日本語では「ブロック崩し」として知られるゲーム。

PONG は二人用でしたが、一人で壁打ちテニスをやるゲームになりました。


ただ、BREAK OUT では、壁打ちテニスでぶつけた壁が「壊れる」のね。

設定としては、刑務所の中で行われる「レクリエーション」としての壁打ちテニスを装いつつ、囚人が壁を壊して脱獄する、ということになっています。

BREAK OUT って、「脱獄」の意味があるからね。



この BREAK OUT は大ヒットゲームで、ほかの会社も続々真似をした。

でも、真似をしていても本家は超えられない。そこで、タイトーの人が少し発展させてみよう、と考えた。


ブロックが動いて、下に向かってせめて来たら面白いのではないか。

でも、ブロック崩しでは玉を自由に動かして「狙う」ことは難しい。ブロックが動いてしまうと、偶然ぶつかるまで耐え忍ぶだけのゲームになってしまう。


そこで、自由に狙ってブロックを「撃てる」ようにした。

ブロックを撃つのだと、「玉を拾えないと終わり」というのができないから、相手も攻撃してくるようにした。


こうなると戦争ゲームなのだけど、殺し合いというのは殺伐とする。

当時はスターウォーズなどのSFが流行していたので、「異星人が攻めてくる」という設定にして、血なまぐさい感じを避けた。



これで出来上がったのがスペースインベーダー。

だから、スペースインベーダーと BREAK OUT は、直接的につながっている。




冒頭のCM、テニスボールでインベーダーを撃破する。

これを見た瞬間に、BREAK OUT とスペースインベーダー… もともと繋がったものを混ぜて実写化した、と瞬時に理解した。


でも、この理解が勘違いで、そんな意図はなかったようだ。

とはいえ、先に書いたように、美しくまとまっている。必然だと思う。


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Serverman SIM LTE 解約  2016-01-07 18:08:23  コンピュータ

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利用は1年9か月でした。


表題にある通り、Serverman SIM LTE を解約しました。

MVNO の黎明期にさっそうと登場した格安 SIM でした。


当時、MVNO と言えども、データ専用と言えどもそれなりに高くて、2千円くらいから、だったと思うのですが、490円という低価格で人気を博したもの。


250Kbps という低速通信だったのですが、ちょっとネットで調べものするとか、Google MAP にナビをやらせながら Google Music で音楽をストリーム再生、という程度ならこの速度で十分でした。


そもそも、僕は以前Bitwarp とか W-Zero3 とか使ってたわけで、そのころに比べれば 250K は別に遅くないと思うよ。




そんなわけで、便利に使わせてもらったのですが、先日書いた通り別の格安 SIM を契約したからね。


最低利用期間が2年…と思って、もう少し契約しておくつもりだったのですが、この最低利用期間が勘違いとわかって即解約。

最低利用期間、特にありませんでした。いつでも解約できました。



勘違いした理由は、昨年秋にこの SIM 運用サービスの権利譲渡が行われたため。

元は DTI (Dream Train Internet) が運用するサービスでした。


Serverman って、同社のサービスブランド名。格安クラウドサーバとかやってる。


でも、TONE mobile という別の MVNO 業者に権利譲渡されました。



ちなみに、DTI も TONE も、フリービットという会社の子会社です。


仕事がらこの会社も以前から知っているのだけど、なかなか面白い会社です。

今回は詳細割愛。興味ある人は自分で調べて。



で、ともかく権利譲渡で Serveman は TONE の運用サービスになったのですが、元々 TONE が運用していた電話サービスは契約が2年縛りです。

そして、TONE のページには Serverman の説明はほとんどなく、FAQ も TONE のサービスに関するもの。


これで勘違いしたわけです。




DTI がサービスしていた時は、インターネット上で SIM の解約が可能でした。

インターネットの会社だからね。


で、TONE になったら、解約手続きが電話のみになりました。

まぁ、電話の会社だからね。



そして、今電話して解約したところです。

特に解約手続き上問題はなかったのだけど、混んでいるようで結構待たされました。



一応 SIM は今月末まで利用可能で、その後は返却用封筒が届くので返却の必要があります。

1年9か月の間、家族旅行などを楽しく演出するのに役立ってくれました。ありがとう。


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国立科学博物館  2016-01-10 17:26:50  社会科見学 家族

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国立科学博物館

長女が「どこか科学館行きたいー」という。

遊園地に連れてけ、とかいう話ではなく科学館というのが我が家らしい。


そういえば先日妻が「湘南台のこども館にまた行きたいね」とか言ってた。

あそこは科学館ではないが、似たようなものだ。行くか。


…と思って妻に相談したら、発言は別にすぐに行きたいというものではなくて、それほど遠くないうちに、程度の話だという。

今すぐであれば、国立科学博物館でやっている「江戸時代の天文学者」展を見たいという。


じゃぁ、そちらに行こう。




電車で上野まで。

到着は10時過ぎで、ちょっと小腹がすいたので上野公園の入り口にある休憩所、上野グリーンサロンで食事。


無料休憩所なのだけど、食事(もちろん有料)も提供している。値段は安めで、750円前後のものが多い。

次女は「パンダカレー」という、見た目がかわいらしいけど 800円のメニューを注文。家族の中で一番高い。

そして、食べきれないと残す。まぁ、いつものことなのだけど。


この店、いたるところにパンダのぬいぐるみやシールが配置され、子供は大喜びった。




科博へ。

前回来た時は、特別展目当てで、地球館を回ったら時間切れで終了となった。


今回は特別展がワインの話。…興味はあるが、特別展をまわっているとまた時間が無くなる。パス。

日本館の1階に、目当ての展示があった。広いかと思ったら1部屋だけで小さくまとまっていた。



時々書くけど、僕は小学生の時に「尊敬する人物」と聞かれて、周囲が「お父さん」とか「王貞治」とか答える中で、そんな誰もが知っている人じゃつまらないと思っていろいろ考えた挙句「伊能忠敬」と答えた。


その時は、江戸時代に日本地図を作った人、程度の認識で、尊敬する等ほど知っている人ではなかった。

でも、「そう言ってしまったから」その後調べて、今ではそれなりに知っている。


伊能忠敬もまた、天文学者の一人だ。

星の運行を調べ、星の観察によって地球上の「緯度」を調べられることを知り、緯度の1度がどの程度の距離になるのかを確かめようとして測量術を学んだ。


徒歩で歩数を数えることによる測量、縄やチェーンを使い距離を測る測量、歯車を組み合わせた車を地面の上で動かすことによる測量、山などの位置関係を調べることによる三角測量、星を観察することによる測量…などなど、複数技術を組み合わせ、それぞれの結果をその状況での信頼度を加味しながら組み合わせて、驚くほど正確な地図を作った。


伊能忠敬が浅草にあった天文所でこれらの技術を学んだ、ということは知っていたのだけど、僕は浅草の天文所がどのような所かは知らなかった。

今回は、浅草の天文所の様子を伝える貴重な紙資料、実際に残されている器具などの資料と共に、それらを元に再現したジオラマ模型の展示もあった。




そもそもは、渋川春海から始まっている…そうだ。今回の展示で初めて知った。


日本では、昔から中国大陸から伝わってきた情報をありがたがった。

無条件に、中国は日本よりも優れている、と考える傾向にあった。


渋川春海は江戸初期の天文学者で、800年前に中国から伝わり、使い続けられている暦がおかしいことに気づいた。

中国から入ってきたものをなんでもありがたがる、という風潮の中で、「疑った」ことが重要だ。


そして、自分でも天体観測を行い、暦が800年の間に2日分ずれていることを発見し、修正した暦を作り上げる。



ここに、日本独自の天体観測が始まる。

中国と日本では、地理的な違いから見える星にも違いがあるし、それらの「南中」時刻も異なる。

中国で観測されたデータは日本では使えない、ということが明らかになったため、天体観測の重要性が認識されたのだ。


将軍徳川吉宗も、江戸城の中に天文台を設置し、天体観測を行っている。

天体観測熱の高まりを受け、天体観測のための機器を製造し、販売する専門業者まで現れる。


専門業者がいる、ということは、名もない無名の天文家が多数いた、ということだ。




元々「暦が間違えている」ことに気づいて始まった天文観測は、最終的に正確な暦の策定をもたらした。

天保暦。現代では、「旧暦」と呼ばれているのがこれだ。


世界中で、およそ30日の単位を「ひと月」と呼ぶけど、月の満ち欠けの周期が30日程度のためだ。


現代の暦(グレゴリオ暦)では、地球が太陽を1周する期間を「1年」と定め、12か月に固定した日数を割り振っている。

太陽との位置関係のみで暦が決定され、最早「月」は、30日程度という周期に名残を残すのみになっている。


天保暦では、ちゃんと月の運行を元として暦が決められている。

そのため、朔日(月の初めの日)は、必ず新月の日。15日は満月になる。

1か月は、30日か29日。これは新月から次の新月までの間隔が、実際には 29.5日であるためだ。


1か月が30日足らずなので、1年間は360日よりも短くなる。これでは太陽の運行とずれてしまうので、数年おきに1か月増やして「閏月」を設ける。


…と、ここまでは実は天保暦以前でも行われていた。

天保暦が優れているのは、このルールを細かく定めたことだ。


太陽の位置関係を元に、1年を12に区切る。(実際には24節気のうち、1つ置きの12を使用する)

特に重要な、春分・夏至・秋分・冬至の日が属する月を、2月・5月・8月・11月とする。


先に書いたように、ひと月は新月の日から始まる。

上に書いた2・5・8・11の月の間が2か月づつであれば、素直に連番を割り振って暦が決まる。


でも、時折3か月入ってしまう時がある。

このときは、先に書いた「12の区切り」が入っていない月があるはずだ。

その月を「閏月」として、前の月の繰り返しとする。


たとえば、5月の次が閏月となった場合は、閏5月、と呼ばれる。



展示の最後には、自分で実際に暦を割り出せるコーナーがあった。

新月・満月と、24節気が示された2016年の新暦カレンダーが配布されていて、そこにルールに従って「旧暦」を書き込んでいけば完成する。


上手なのは、「上級編」として、来年、2017年のカレンダーも置いてあったこと。

天保歴では、2017年は閏年に当たるそうで、閏月の適用規則が必要となるため、少し処理が難しくなる。




ところで、天保歴は2033年に破たんする。

このことは今回の展示では触れられていなかったのだけど、面白いので書いておこう。


今でもカレンダーに旧暦を印刷してあることは多いので、ここ数年カレンダー業者の間で、2033年にどうするのかが問題視されている。



先に12の区切り、と書いたけど、これは太陽との位置関係によるものだ。

太陽との角度を均等に12分割して、区切りとしている。


ところで、地球は太陽の周りを「きれいに」回っているわけではない。

楕円軌道で回っていて、太陽に近いところは速く、遠いところはゆっくり動く。


それに対し、「月の形」の周期は一定で、29.5日になっている。これは、1か月の時間がほぼ一定ということだ。


これで何が起こるか。

タイミングによっては、1か月の間に、12の区切りが2つ入ってしまうことがある。


いや、これだけなら大丈夫。

先に書いたように、天保歴は2・5・8・11月を先に決めて、そのあとで間を埋めるようになっている。

これは、もともと1か月に区切りが2つ来る、というような問題を考慮して決められたルールだ。


しかし、2033年は、11月に2つの「区切り」が入ってしまう関係で、8月と11月の間に1か月しかなくなる。


いや、これでもまだ大丈夫。過去にもこういうことはあった。

例えば、8月と11月の間が1か月で、5月と8月の間が3か月であれば、8月を特別にずらせば解決する。

特に問題はない。


2033年がややこしいのは、この前後に閏月が入ってしまうためだ。

5月と8月の間が3か月で、8月と11月の間が1か月、そして11月と2月の間が3か月ある。


閏年なのだから、5月と8月の間か、11月と2月の間か、どちらかに閏月が挟まるのだろう。

どちらかが決まれば、8月と11月の間が1か月、というのも特別な処理で解決できるかもしれない。


でも、どちらが本当の閏月か、天保歴では決まらない。

200年近く使われてきた天保歴で、こんなことは初めてなのだ。




カレンダーの問題なので、国立天文台に決めてもらいたい、という要望もあるようだ。

しかし、国立天文台は「現代の」暦を決める業務は行っているが、すでに法的に廃止された旧暦に関する権限を持たない。


旧暦は勝手にカレンダー業者が印刷しているだけなので、カレンダー業者の組合などで決めてほしいという。

でも、カレンダーを印刷するような印刷業者は多数あり、それらは特に組合など作っていない。


結局、誰もが心配していて、誰もが決める権限を持っていない状態のままになっている。

まだ17年も先の話、とも思えるけど、「権限を誰が持つか、誰もが納得する方法で決める」という大事業を考えると、タイムリミットは近い。




また話は変わるのだけど、この日記につけた画像


天体観測をするための、当時の精密な計時装置(時計ではない)の文字盤なのだけど、ちょっとおもしろいことがわかる。

漢数字で書かれているのに「0」が使われているのだ。


この計時装置自体は、元々科博の別の部屋に置いてあった覚えがある。今は企画展で、こちらに移しているのだろう。

以前見たときには気づかなかった。


明治になって、外国の文明と共にアラビア数字も入ってきた。

その際に、日本人は初めてゼロの概念を知った、ということになっている。


ゼロがないと位取りができないので、計算がややこしい。

江戸時代には和算という独特の計算方法が発達していた。


でも、この文字盤…写真は「1」単位の文字盤で、十単位で数が示してあるのだけど、最初が「0十」から始まっている。

十には達していないよ、と示すために、わざわざ「0」を使ったのだ。


まぁ、学者の多くは蘭学(オランダから入ってきた学問)を学んでいるのだから、一般人に先駆けてアラビア数字にも親しんでいただろう。

でも、漢数字に混ざってアラビア数字の「0」だけを使っている、ということが興味深い。




企画展の話だけで長くなりすぎたので、ここでいったん区切る。

続きは別ページに


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国立科学博物館(続き)  2016-01-10 17:27:34  社会科見学 家族

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国立科学博物館の話題の続きです。



企画展は、日本館の1階だった。

日本館は、どうやら一番上の階から下に下りながら見るようになっているようだ。


そうすると、日本の古代から始まって江戸時代までの暮らし、そして江戸以降花開いた日本独自の科学技術の歴史が見られるようになっている。



しかし、企画展を最初に見たので、向かいの部屋、科学技術の歴史を先に見る。

いや、非常に面白かった。


全体に4つに分かれている。

天文観測、顕微鏡、地震観測、計時技術だ。


いずれも、非常に面白かったけど、ここでは計時技術…つまりは、時計について書いておこう。

僕が一番好きな技術だから。



現代は、一日を均等に24分割して「時間」とする、定時法を使っている。

(古代は12分割していたそうですが、いつから24分割になったのか、僕は知らない)


日本では1日を12分割した。

このうち昼が6分割、夜が6分割だ。


昼と夜の長さは、季節によって異なる。

にもかかわらず、昼と夜を、それぞれ均等に分割する。季節によって分割の長さが変わることになる。

これが「不定時法」だ。


日が昇るのが「明け六つ」、日が沈むのが「暮れ六つ」。


太陽の南中時刻が「九つ」で、真夜中も「九つ」。

ここから、明けと暮れの六つに向かってカウントダウンする。

そのままカウントダウンを続け、三つの次がまた九つ。




なんで九つから始まるのか、なんでカウントダウンなのか、その理由は知らなかったけど、解説ボランティアの方に伺うことができた。

といっても、ボランティアの方もよくわかっていないようだったので、ここではさらに僕の知識を上乗せして解説する。



陰陽では、奇数を「陽」、偶数を「陰」とする。

この二つはバランスが大切であり、どちらが良い、という意味ではない。


と言いながら、陽のほうが良いものとされ、重視される。

奇数の数字は縁起の良いものとして、今でも数字が並ぶ日を祝う習慣がある。


一月一日、三月三日、五月五日、七月七日…


一桁の中で一番大きな「陽」数である九は、一番縁起の良い数字とされる。

今では祝わなくなってしまったのだが、九月九日を「重陽の節句」という。


さて、ボランティアの方は「重陽」を知らなかったようなのだが、江戸時代の人は縁起のいい数字として重視していた。

そこで、一日の重要な時間…南中時刻と、反対の真夜中を「九」に割り当てた。


そして、一時が進むたびに、9を足した。

「九つ」の次は「十八」で、続いて「二十七」「三十六」だ。


でも、どんどん数字が大きくなるのは使いにくいので、一の位だけを利用した。これだと、一見カウントダウンに見えるのだけど、実は縁起の良い9を重ねているのだ。



このボランティアの方、割り駒式の和時計の解説もしてくれた。

先に書いたように、季節ごとに時間の長さは変わる。でも、時計が季節ごとに進む速度が変わる、というのは難しい。


じゃぁ、時計の針は一日に一周するようにして、文字盤を調整すればいい。それが割り駒式だ。

数字が「駒」になっていて、自由に動かせる。


江戸時代の不定時法を理解するには、まずはわかりやすい解説。




でも、展示の多くは2丁天符式。


振り子時計では、振り子が正確に動くことを利用して時間を測る。

天符式では、長い棒を振り回すのには結構力がいる(力学的にいえば、モーメントが大きい)ことを利用して時間を測る。


この天符を、昼と夜で自動的に切り替えて、時間の進む速度を調整するのが2丁天符式だ。



ただ時計がたくさん収蔵されているだけで、ここら辺の解説は一切なし。


そもそも文字盤と針を動かす機構を省略して、錘(おもり)式時計の「錘」の位置によってのみ時刻を示す、尺時計というものもある。


毎日錘を上に引き上げる必要があるけど、これは錘式なら当然やらねばならないこと。

普通の錘式との違いは、引き上げる際に正確な位置に合わせる必要がある、という手間で、大幅に機械を簡略化している。


「正確な不定時法への挑戦」という、一見して矛盾しているような解説もあった。

江戸末期、技術が進んで、西洋よりややこしい、不定時報を採用した時計が次々作られている。



そのあと、明治になって定時法が導入されます。

定時法で作られた柱時計(しばらく前に理科ハウスで見たのとほぼ同じ奴)や、懐中時計などが多数展示されます。


最期はセイコークオーツの1号機で締めくくられています。

1秒を正確に測る方法として、振り子や天符が使われてきた中で、「水晶発振子」によって正確性を飛躍的に高めた時計ですね。


でも、ここら辺も解説一切なし。せっかく面白いものが多数あるのにもったいない。


でも、科博の展示って、基本的にすべてそんな感じ。

国の最高機関としての科学博物館だから、わかっている人への資料性が高く、わからない人への解説はしないのですね。




この後、上の階に登りながら展示を見て回ります。

時代的には、どんどん古代の日本に遡っていく形。


途中で長女がおなかすいた、と言います。

でも、もうちょっと見たら全部だから、そしたらご飯食べよう…と言いながら引っ張る。


全部見終わったら3時前。。

地球館のレストランに行きます。


長男はマカロニグラタンを頼んだけど、ほかはみんなケーキ。


地球館は前回来た時にみっちり見たのですが、まだ時間があるので少しだけ回ります。

骨の標本などが多数ある区域、前回は次女が怖がって近寄れなかった。今回は大丈夫。


#まだ、人骨標本は怖くて嫌い。

 動物は大丈夫になった。


チビトガリネズミをはじめとする、非常に小さな剥製標本が並べてあるコーナーがありました。

ちいさい、かわいい、と長女も次女も喜びます。


ふと後ろを見ると、アフリカゾウやキリンの骨格が後ろにあります。

あー、なるほど。一番大きな生物と、一番小さな生物なのか、と理解して、子供に説明します。


チビトガリネズミは、ほ乳類最小の生き物です。そして、アフリカゾウは地上最大のほ乳類。

大きさ全然違うねー、と解説しながら、あれ? この流れはもしや…と、周囲を見回す。


ありました。頭の上に、天井からつりさげられた、シロナガスクジラの骨格標本。

世界最大のほ乳類です。象よりもはるかに大きなサイズに、長男も「大きさのスケールが違う」と驚く。


なかなか良い展示方法です。

相変わらず、説明はあまりないのだけどね。



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上野公園

科学館が閉館時間になったのだけど、せっかくだから上野公園を歩いてみます。


動物園の前まで行って、こっちはまた今度来ようね…と言う程度のつもりだった。

そしたら、何やら楽し気な明かりが見えます。次女があれなに? と気にしています。


僕も知らなかったので近寄ってみたら、上野こども遊園地でした。

上野動物園には何度か来ているし、上野こども遊園地は1946年から営業している、ということだけど、今まで気づかなかった。


#子供がいないときは、僕がこうしたものに興味なかったので見落としていたのでしょう。


非常に狭いところに、古い遊園地の遊具を押し込めたような、昭和の屋上遊園地を5倍濃縮したようなスペース。

次女が、空飛ぶ象の乗り物に乗りたがります。


実は、先日ディズニーランドに行ったときに、時間の都合でダンボに乗れなかったのです。

乗れなかったのを残念がっていたので、これでよければ乗りましょう。


1人百円。長女も載るというので、僕と合わせて300円。

これで満足してくれるなら安いものです。



周囲には、デパートのゲームセンターなどにも置かれることのある、子供ライドものが多数ありました。

わくわくマリンとわくわくトーマスもあったよ。

(マリンは故障中で画面消えてたけど)




さぁ、暗いしもう帰ろうか…と駅に向かう最中、大噴水が動いているのを発見。

子供たちが慌てて駆け寄りますが、ちょうど終わるところでした。


そしたら「もう一度動いているのを見たい」とその場で待つことに。


えー、いつ動くかわからないし、寒いから帰ろうよ、といっても、子供は見る気十分。

無駄に噴水の周囲を走り回って「寒くない」と言っています。


妻が愛用の一眼レフで、夜景などをとっています。さすがにいいカメラではとれる。

じゃぁ、僕も…と honor 6 で夜景モードを試してみる。


持ち運べる小型の三脚しかないのでアングルに制約が出るのですが、暗い中でそれなりに綺麗に撮れています。

携帯のカメラとしては十分な感じ。



どのくらい待ったのだろう…まぁ、30分は待っていないと思いますが、また動き出しました。

しばらく見て、子供がやっと満足しました。


これでやっと終了。

子供と約束したから、今度は動物園に来ないとな…



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トーマス・J・ワトソン 誕生日(1914)  2016-01-14 16:36:11  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、トーマス・J・ワトソンの誕生日(1914)


IBMの2代目社長です。

ちなみに、初代社長は彼の父、トーマス・J・ワトソン。


わー、なんだそれ。子供に自分と同じ名前付けるな。

ややこしいので、一般に父親は「シニア」または「ワトソン」、子供は「ジュニア」または「トム」(トーマスの愛称)と呼ばれます。


(この文章、父親の話題を書いたときの使いまわし)




シニアは、汚い手を使っても商売を成長させる、やり手でした。

とはいえ、IBM 社長になってからは社員を大切にし、悪いことはしなかった。


ジュニアは…父の名前を継がされ、ゆくゆくは会社経営を引き継ぐ御曹司でした。


でも、そんなのは父が勝手にやったこと。

彼自身は後を継ぐのを嫌がり、反抗的で、無気力な学生時代を送っています。


成績は悪くて、遊び歩いてばかりで、酒におぼれる日々だったのね。


父親の意向でIBMに入社すると、周囲が「跡継ぎ」とみる傾向はさらに強まり、彼にとっては苦痛となります。

この頃第二次世界大戦がはじまり、陸軍でパイロットとしての腕を磨きます。


彼はとにかく、自分の道を見つけたかった。がむしゃらに訓練し、少将付きの副官となります。

当時の彼は、少将に気に入られることだけが喜び。上へのごますりばかりで、部下から反感を持たれたりもしました。


でも、彼は事態を収拾し、部下から認められるようになります。

人心を掌握することの難しさと、大切さ…この経験は、後に彼の役に立ちます。



やがて戦争は終結し、進路に悩む彼に、少将はIBMに戻るよう助言をします。

そして、彼は今度は自信をもってIBMに戻るのです。




IBMはこの時点ではまだ「ビジネス向けのサービス」を売る会社でした。


機械を売るのではなく、ビジネスへの助言なども含めた「サービス」全体を売るのね。

パンチカード集計機を、その複雑なセッティングを行うサービスマンと共にリースする、という商売です。


このサービスマンのことを「コンピューター」と呼びます。

複雑な計算処理をする人、という意味の英語です。


IBMは非常に多くのコンピューターを抱え、この人材を大切にすることは、シニアの重要な経営哲学でした。



世の中には電子計算機が作られ始めていました。これらも「コンピューター」と呼ばれます。

しかし、それらは「計算機」にすぎず、IBMの抱える「コンピューター」のように、ビジネスで利益を出すための方策を考えてはくれません。


IBMは、ビジネス向けサービスを売る会社でしたから、自動化された「コンピューター」に手を出そうとはしませんでした。

何よりも、労働組合がそれを許さず、人材を大切にしたいシニアも手を出さなかったのです。


事実上「コンピューター」である SSEC が、IBM公式には「計算機に過ぎない」のも、そのためです。




ところが、UNIVAC 社が世界初のコンピューターの販売を開始すると、パンチカード集計機のサービスは解約・返品が相次ぎます。

ちょうどそのころ、ジュニアは2代目社長の座に就きます。


ジュニアが2代目を継いでも、まだシニアは健在でした。

人材を大切にしろ、という厳命が残されていました。


しかし、ジュニアはコンピューターの開発に乗り出します。


もちろん、労働組合が黙ってはいません。

機械としての「コンピューター」が導入されたら、人材の「コンピューター」は解雇されてしまうかもしれません。


しかし、彼は具体的な案を示して説得します。

今までは、「コンピューター」の仕事は、パンチカード処理機のリース先の企業に赴いて、その企業で必要な計算を行うことでした。

データを収集し、処理するための手順を考案し、機械にその手順を設定し、パンチカードを処理するのです。


機械としての「コンピューター」は、非常に高価なので、パンチカードのように多くの企業が導入することができません。

数カ所の計算センターに置かれ、使われることになるでしょう。


企業からはパンチカード集計機が消え、計算センターに処理を頼むことになります。

この点だけを見ると、IBMは解雇を行う、と思えるかもしれません。



しかし、相変わらず機械の扱いは複雑で、手順の設定はパンチカード以上に複雑になります。

今後のIBMの主要業務は、この複雑な手順を設計し、多くのお客様に、満足する計算結果を届けることになります。


この複雑な手順の設計には、今までパンチカード処理機を扱ってきた「コンピューター」の能力が必要です。

そのためにも、解雇は行わない。業務内容は多少変わるが、IBMは今後も彼らの能力を必要としています。



最終的に、労働組合は納得しました。

そして、IBM 701 (1952) …IBM最初のコンピューターが作られることになります。




IBM 701 は、非常に高価な計算機でした。

たとえ計算力があっても、これほど高価なものは売れないだろう…シニアはそう考えていたようです。


開発開始前、需要は5台、と見積もられ、リース料金などはそれに合わせて金額設定がなされました。


しかし、実際に発売してみると18台の注文が入ります。

最終的には、もう一台追加して19台が販売されました。



IBM 701 は、別名「国防計算機」と呼ばれています。

購入した顧客の多くが、軍を中心とする政府機関だったためです。


発売となった 1952年は、朝鮮戦争の最中でした。

そのため、軍は膨大な計算力を必要としていたのです。



5台売れれば儲けが出るつもりで値段設定したら、19台も売れた。

IBMにとってうれしい誤算でした。


これにより、IBMはさらにコンピューターを作るための資金を手にします。



この後も軍はIBMにとって良い「お客様」でした。

Whirlwind I を軍用に改良した SAGE (1958) も、IBM によって量産されています。


SAGE は、たった1台のコンピューターのために、4階建てのビルを建てる必要がありました。

もちろん非常に高価なのですが、軍はこれを数十カ所に建設したのです。


もちろん、IBMは莫大な利益を手にし、その資金を元に地位を固めていくのです。




シニアは、IBM以前にはずいぶん卑怯な手を使って商売を大きくしています。

ジュニアにもその血が受け継がれていました。


IBMは UNIVAC とライバル関係にありましたし、他の企業も続々とコンピューター業界に参入してきました。


新しい企業は、魅力的な新製品を大々的に発表します。

まだIBMが今ほどコンピューター業界の巨人ではない頃の話です。IBMは何度もピンチを迎えます。


そのたびに、ジュニアは「魅力的な新製品が開発中で、もうすぐお目見えする」ことを発表しました。

たとえ、そんなものは開発していなかったとしても、です。


現在のIBMの機械よりも魅力的なライバル社のマシン…そこに、IBM はそれ以上の魅力のものを約束するのです。


IBMの機械はリース契約でしたから、いつ契約を打ち切ってライバル社に乗り換えてもかまいませんでした。

しかし、リース契約である、ということは、新マシンが発売されたらアップグレードも可能である、という事でもあります。

わざわざライバル社に乗り換えて、契約変更の面倒をかける理由は無くなります。


もちろん、約束したマシンはちゃんと開発します。

IBMにはそれだけの開発力がありました。




そして、決定版ともいえる IBM System/360 の開発(1965)。

ジュニアが社長の時代の、最大のヒット商品です。


すぐ上に書いたように、当時のコンピューターは「ビジネス向け」「科学計算向け」など、用途に応じて設計が違っているのが普通でした。


しかし、System/360 は、360という名前が示す通り「全方位」に向いているマシンでした。

どんな用途にも使えるような、贅沢な構成になっていたのです。


今となってはあまり言われませんが、昔はコンピューターの種類を示して「大型汎用機」という言葉が使われました。

この「汎用機」という概念は、System/360 のために作られたものでした。


これが大ヒットし、IBMはコンピューター業界で、確固とした地位を築き上げます。




1970年、ジュニアは心臓発作を起こします。

大事には至りませんでしたが、これで体力的な限界を感じ、翌 1971年に社長を引退します。


その後は政治の世界で活躍し、1993年に79歳で亡くなっています。



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山本卓眞 命日(2012)  2016-01-17 11:31:19  コンピュータ 今日は何の日

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今日は山本卓眞さんの命日(2012)


富士通の元会長さんで、コンピューター黎明期に日本独自のコンピューターを設計したチーム(3名)の1人でした。


その設計チームの一人に、池田敏雄さんがいました。

今でも、黎明期の大天才として知られる人。富士通の社員でしたが、日本のコンピューター産業全体を牽引したといってもよいでしょう。


ただし、若くして亡くなっています。


山本卓眞さんは、自分の役割は池田敏雄さんの存在を伝える語り部だ、と言っていました。

富士通の会長になっても、富士通をコンピューターの大企業にしたのは、池田さんの存在があったからこそだ、と感謝し続けていたのです。



山本卓眞さんについては、誕生日記事で書いています

詳細はそちらをご覧ください。




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山本卓眞さんの誕生日(1925)【日記 14/09/11】


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森公一郎 命日(2015) レイ・ドルビー誕生日(1933)  2016-01-18 09:55:46  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日は、LSI-C 、 MSX-C の作者である森公一郎さんの命日(2015)


そして、音響研究者レイ・ドルビー博士の誕生日(1933)



いずれも、過去に記事を書いています。


森公一郎さんは、よく知らなかった人なのですが、LSI-C はお世話になったので、訃報記事を書いています


もっとも、僕がお世話になったのは LSI-C 86 試食版ですね。

今でも入手可能な無料のC言語環境です。MS-DOS 用ですけど。


LSI-C ・ MSX-C は、CP/M ・MSX-DOS 用のC言語。

8ビット機で動作して、非常に今品質なコードを生成します。



ドルビー博士は、命日に記事を書いています


音響関係でいろいろな発明をしているのですが、今なら ac3 拡張子のファイル形式、ドルビーデジタルが有名かな。

mp3 よりも高品質なデジタル圧縮技術です。



いずれも、詳細はリンク先をお読みください。

この日記は、日付を記録するためのものです。



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マーシャル・カーク・マキュージック 誕生日(1954)  2016-01-19 11:27:39  コンピュータ 今日は何の日

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マーシャル・カーク・マキュージック 誕生日(1954)

今日は、マーシャル・カーク・マキュージック (Marshall Kirk McKusick) の誕生日(1954)


といっても、この人のこと、僕はあまり知りません。

ネットで探してみても、Wikipedia で書いてある内容がほぼすべて。


本人のページもありますが、こちらは大学で彼が持っている講義の案内や、趣味のワインの話などが中心。




さて、マーシャル・カーク・マキュージック…以下「カーク」と呼びますが、彼はBSD初期のプログラマの一人です。


彼はビル・ジョイと一緒に、初期BSDを作り上げ、その後も関わり続けています。


特に、BSD初期に使われていたファイルシステム FFS (Barkeley Fast File System) は彼の作品です。

また、FreeBSD で使われていた UFS2 も彼の作品です。(FFS を改良したもの)

さらに、UFS2 を「急に電源が落ちてもファイルシステムが壊れないようにする」改良(soft updates と呼ばれます)も行っています。



余談になりますが、UFS とは「Unix File System」のことです。

ユニックスで使われるファイルシステム、という意味の言葉なのですが、実際に UFS と名付けられたシステムは存在しません。


UNIX にはいろいろなファイルシステムがありますが、全部を総称して UFS 、と呼ぶこともあります。


初期の UNIX では、ファイルシステムは、単に FS と呼ばれていました。

しかし、本家 UNIX の FS なのだからと、これを UFS とする一派もいます。


しかし、一番多いのは、FS を改良した FFS …カークの作ったものを UFS とする場合です。

UNIX の普及期において、BSD の存在が大きかったためです。


カークは先に書いた通り、 UFS2 を作っています。

BSD ユーザーの間では、UFS と言えば UFS2 のことです。



ところで、Linux は MINIX のファイルシステムである ext を改良した、ext2 を初期に使っていました。

この ext2 は、FFS を参考に ext を改良したものです。


ext2 はその後も改良が続けられ、ext4 として近年まで使われていました。

なので、Linux ユーザーであってもカークと無縁ではありません。




しかし、カークの一番有名な業績は、「BSDデーモン」というかわいいマスコットキャラクターを作り上げたことではないかと思います。

(この日記冒頭の画像。クリックで拡大します。)


BSD なんて興味ない、という人でも、一度くらいはこのキャラを見たことがあるのでは?

このキャラクターは、現在も彼が著作権を保有していますが、「著作権を有している」と主張する以上の権利行使をする気はないようです。



すぐ後に追記


キャラクター自体は徐々に作られていったもので、彼が作ったものではない、という指摘をいただきました。

誤った情報を公開したことをお詫びするとともに、追跡調査をいたしました。



先に、カーク自身のページがあると書いたのですが、その中に詳細を記したページがありました。


これによれば、最初に描かれたのは、BSD のバージョンが 4.2 だった時に発行されたマニュアルの表紙だったそうです。



基本的に、UNIX のマニュアルはオンラインの man コマンドで提供されます。


しかし、本の形で情報がまとまっているほうが読みやすいです。

今でも詳細を書いたマニュアルを発行する会社は存在していますし、4.2 BSD マニュアルもそうした本でした。


4.2 BSD マニュアルを発行したのは、USENIX。

UNIX ユーザー・研究者の団体です。



1984年に、USENIXがマニュアルを発行し、注文を受け付けた際のメールが残っていました


この最後の部分で、マニュアルのレイアウト作業を手伝ってくれた人への感謝が述べられています。

そして、協力者の中に「ルーカスフィルム」が入っていて、カバーデザインは「ルーカスフィルムの、ジョン・ラセターが行った」と書かれています。


…僕も、ジョン・ラセターが BSD デーモンを描いた、という話を聞いたことはあったのですが、綺麗に描き直しただけだと思っていました。


どうやら、原画から彼のものだったようです。


ただし、この時点では BSD デーモンは白黒でした。

1989年の冬、カンザス州立大学の UNIX 好きのグループが、おそろいのTシャツを作ろうとしました。


このときに、マニュアルの表紙の白黒デザインに色を付けています。

また、白黒デザインでは素足だったのが、スニーカーを履くようになっています。




BSD の新しいバージョン、4.3 BSD が作られ、「4.3 BSD UNIX OS の設計と実装」という本が出版されました。

複数著者による本ですが、カークも著者の一人に名を連ねています。


この際に、スニーカーを履いたカラーバージョンのデーモンを元に、再びラセターが表紙の絵を描いています。


詳細はわからないのですが、どうやらこのときに表紙の絵を依頼したのがカークのようです。

そして、この絵はカークの著作物となり、現在も著作権を保持している、ということのようです。


#著作権は、著作を行ったものに自動的に発生する権利で、譲渡することはできません。

 しかし、依頼されて著作を行った際、原著作者の同意の元、依頼者が著作権の行使権利を留保することが可能です。



Wikipedia のカークの項目に「BSD デーモンの公式キャラクター画像の著作権を保有」と書かれていたのを見て、彼が作ったものだと僕が早合点した、というのが今回の誤りの原因でした。




ところで、カーク自身は USENIX の会長を務めたこともあります。

1990~92年と、2002~04年に会長職にありました。


4.3 BSD はラセターが描いた、と彼のページに明記していますが、4.2 BSD については誰が描いたのか触れていません。


4.2 BSD のために絵が描かれたのは 1984年で、その時点ではカークは USENIX の役員ではなかったようです。

そのため、誰が描いたのか確信が持てなかったのかもしれません。


先にリンクしたメールによれば、4.2 BSD もラセターが描いたことになっています。




なんで、ルーカスフィルムのラセターが、BSD のマニュアルの表紙なんて描いているんだ?


という疑問もあるかと思います。


ネットで情報を探しても見当たらないので記憶の話になるのですが、間違った記述をしたお詫びもかねて書いておきましょう。

(記憶で書くので、これがまた間違えているかもしれませんが…)



以前に書いた話なのですが、ルーカスはスターウォーズの特殊効果を作り出すために、コンピューターを作っていました


コンピューターというより、今でいうグラフィックボード、フレームバッファですけどね。

この機械の名前が Pixer 1 。後の「ピクサー社」の由来です。


当初は、複数のフィルム画像を取り込み、美しく合成する、という用途で使われていました。


しかしやがてコンピュータープログラムで3D計算を行い、アニメを作り始めます。実験的なものでしたが。


1984年には、その第1作目、「アンドレとウォーリーB.の冒険」が公開されています。

実験的なものなので、劇場公開とかではなくて、CG学会での上映ね。


このときの監督が、ジョン・ラセター。

そして、3Dの計算などは Cray X-MP と VAX11 でやった、と作品の最後に出てきます。




使用「機材」は書かれていても、OS まではわかりません。

しかし、Cray X-MP は Cray 版の UNIX で動きます。


VAX11 のほうは、「PROJECT ATHENA に 10台借りた」と書かれています。

これ、分散コンピューティングの初期の例です。


1983年に始まっているのですが、UNIX を使っていたことがわかっています。

Cray も VAX11 も UNIX を使っていて、接続して作業分担したのかな、と思います。



しかし、VAX11 用の UNIX は、正式には 1984年リリース。

PROJECT ATHENA には VAX11 製造元の DEC も参加していたので、リリース前のバージョンを使えたのでしょう。


しかし、リリース前となると、マニュアルもまだ整っていなかったと思われます。


…いや、大丈夫。VAX11 の UNIX は 4.2 BSD ベースでした。

4.2 BSD のマニュアルがあれば、大体使えます。


そして、この頃 USENIX は、BSD のマニュアル本の出版のために準備をしていたはずです。

まだ出版前だけど、4.2 BSD のマニュアルはすでに存在しているわけです。



ここらへんに、ルーカスフィルム、ジョン・ラセター、USENIX 、4.2 BSD マニュアルのつながりがありそうです。


以下は推測ですが、ルーカスフィルムの技術陣が、マニュアルが必要で USENIX に草稿段階のものを見せてもらったのではないでしょうか。


そして、草稿を読みながら、わかりにくい点などをどんどん質問します。

もっとこう書いたほうがわかりやすいのでは? というような意見も出します。


これが反映される形でレイアウトや記述内容などが見直され、協力者に「ルーカスフィルム」の名前が入ります。

そして、ついでに表紙の絵をラセターが描いた、というわけです。




追記のほうが長くなりました (^^;


しかし、世の中狭いな、という感想。

アンドレとウォーリーBは、以前に見ていて「VAX11 と Cray XP 使ったって書いてある」ことが心に残ってました。


#そういう、古いコンピューター大好きですからね。


以前に Pixar 1 の話書いたときも、別にこんな話を展開しようとは思っていなかった。


でも、思わぬところで話がつながりました。



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大雪の日  2016-01-19 17:12:37  住まい 家族

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すでに昨日の話。


1月18日、関東地方に雪が降りました。

大雪…ってことになっているけど、我が家のあたりはそれほどではない。


まぁ、少しは積もりましたが、家の前の大通りは車が通ることもあり、朝8時ごろには完全に溶けていた。

でも、8時時点ではまだ雨が降っていて、次女を保育園に送るには車で出ないといけない状態。


じゃぁ行こうか…と、後部座席のドアを開けようとすると、「バキッ」という異音と共に、手が空を切ります。

一瞬何が起きたのか理解できませんでしたが、外部のドアノブに当たる部分が壊れて空中を舞っていました。



うちの車、後部座席はスライドドアなのね。

スライドさせようとして壊れたので、後ろに向けてドアノブがすっ飛んでいった。


そして、ドアは開きっぱなしの状態に。

閉まらない。危なくて仕方がない。非常に困る。


まずは、バッテリーが上がらないように、ドア連動の室内灯を OFF にします。




保育園に行こうとしていたわけですが、雪だということもあっていつもより早めに出ようとしていました。

まだ時間の余裕はあります。


あわてて、瞬間接着剤を持ってきてみる。

まぁ、力のかかる部位がそれで直るとも思ってなかったのですが、ダメもとで。


…瞬間接着剤って、化学変化で硬化するから、寒いと固まらないんですよね。

雪の中で使えるわけがありませんでした。まぁ、それもやる前から思ってたのだけど、ダメもとで試したの。



仕方がないから歩いて保育園行く? とか、妻が聞いてきます。


でも、そういうことではないのよ。この日の夜に車を使う予定があったの。

家族を送っていくだけだから、とにかく動いてくれればいいだけなんだけど。



次。とにかくドアを固定できないかと考えます。

ガムテープを持ってきて、貼ってみる。まずは保育園まで行ければいいので、見た目は気にしない。


…濡れていて張り付きません。


家に戻ってタオルを持ってきて、再挑戦。

ガムテープの粘着力が弱い。濡れてなくてもすぐ剥がれる。


家に戻って、一番強そうなテープを探す。

これで張り付けると、まぁ走っても大丈夫かな、くらいには固定できました。


いや、固定できたように思えました。

この後保育園まで行ったけど、外から見ると閉まっているように見えても、中からは隙間がはっきり分かった。




まずは、保育園に送り届けて一安心。

家に帰って仕事をしたのですが、ディーラーが開く時間を間って電話をかけます。


まずは見てみないと何とも言えない、ということで、カーディーラーまで。


30分くらい待たされたかな。

ドアを分解して、原因究明したそうです。


本来は、ドアノブが壊れても開きっぱなしにはならない設計なんだとか。危険だから。

それで疑問に思ったので分解したそうなのですが、中の部品が壊れていたそうです。


でも、普段はちゃんとしまっていました。

どうも、壊れていて保持力が弱くなっていたのだけど、ドアノブ部分を動かすためのバネの力で補佐して、何とか止まっていたみたい。


#言われてみると、締まりが悪かった気はします。


しかし、それが逆にドアノブへの負荷となり、割れてしまったというわけ。

同じく内側のノブもひび割れているので、一緒に交換することになりました。



部品類は発注して、後日届いたら修理、ということで。

でも、このままでは危ないので、「ドアを開けられない状態」に応急処置してくれました。



自動車のドア修理なんて高くつきそうだ…と思ったら、思ったより高くありませんでした。




さて、夕方。

車を使う用事…というのは、長男を歯医者に連れていくため。


歯並びが非常に悪く、矯正したほうが良いと3年くらい前から言われていました。


言われたときに近所の歯医者に行ったのだけど、まだ乳歯の生え変わり時期なので、少し様子を見ましょう、と言われていました。

その後も毎年見てもらっていて、先日「そろそろ矯正したほうがよさそうですね」と言われ、矯正専門の別の歯医者を紹介されたのでした。


ただ、ここが家から行くにはちょっと遠い。

車で15分くらいなのだけど、予約してあった日に車が壊れて慌てたわけです。



こちらは…思った以上に高くて驚きました。

美容矯正ではなくて、明らかに歯並びが悪いから病気扱いになるかな…と思っていたのですが、矯正って一切保険利かないのね。


まぁ、自由診療じゃ高いのは仕方がないなぁ…と思いつつも手痛い出費。

この日は初診で「相談だけ」扱いだったので、お金は取られていないのですけど。




実は、家が築10年を超えて、メンテナンスの時期なのです。


点検はもう1年近く前に来たのだけど、その後連絡がなくて、先週やっと見積もりをもらったところ。

家のメンテナンスだから高いだろう…と思っていたけど、やっぱり非常に高かった。


とはいえ、作業内容の説明を受けたら、適正だと思える値段なんですけどね…



1年の計は正月にあり、と言いますが、そういう意味では今年は大きな出費が相次ぐ年になりそうです。



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05年 E500不調


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ポール・アレン 誕生日(1953)  2016-01-21 11:01:32  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、ポール・アレンの誕生日(1953)

マイクロソフトの共同創業者です。


ビル・ゲイツとは、シアトルの名門校、レイクサイドスクールにともに通いました。

ビルが2歳年下。


2人はまるで違う性格でしたが、コンピューターに興味がある、という共通点がありました。

ポールは物静かで、注意深く物事を進めるタイプでしたが、ビルは常に周囲を「挑発」していて、思い付きで行動するタイプ。


ビルは負けず嫌いで、自分が何でもできるように周囲に思われたくて仕方がありません。

しかし、そのために何かをやり始めると、驚くような集中力を見せました。


しかし、そんなビルも、兄貴分であるポールのいうことには耳を傾けました。

ポールは人当たりもよく、様々な「仕事」を見つけてきます。


それらは金儲けであることを超えて、彼らにとって面白い「挑戦」でした。




詳細はビル・ゲイツの誕生日に書いた記事を読んでもらうことにして、ざっと書いていきましょう。


まず、彼らはレイクサイドスクールが時間借り契約していた PDP-10 を使いすぎて、年間の接続予算を使い切ってしまいます。

すると、無料で使えるバグを発見し、使い続けるのです。


これが発覚し、アクセス禁止措置を受けると、ポールは PDP-10 の提供会社に掛け合います。

バグを修正できるし、そのほかの PDP-10 のプログラムのバグを探す手伝いもできる。

だから、その仕事と引き換えに PDP-10 を使わせてほしい。


こうして、彼らは PDP-10 ハッキングを続けます。



数年後、ポールの発案で、「トラフ・オ・データ」社を設立します。

交通量調査を請け負う会社でした。


当時、交通量調査は人海戦術で集計されていました。

トラフ・オ・データは、コンピューターを利用することで、安価で正確、迅速な集計を行いました。


さらにその後、インテルが 8008 を発表。

彼らは、交通量自動測定機の作成を思いつきます。


しかし、この時点でまだ 8008 は発売されていません。スペックシートの公表だけです。


ポールは、スペックシートを元に、PDP-10 上で 8008 エミュレータを作ります。

そして、ビルがそのうえでプログラムを作ります。


もっとも、この機械は成功しませんでした。

交通量調査自体も、後に合衆国政府が無料で行うようになったため、トラフ・オ・データは廃業しています。




さらに数年後、インテルは 8080 を発売し、エド・ロバーツが「アルテア 8800」を発売します。

ポールはこれを商機ととらえ、PDP-10 の 8008 エミュレータを改造、8080 エミュレータを作り上げます。


そして、ビルがその上で BASIC を作り上げるのです。

エドに BASIC を売り込むために作った会社が、「マイクロソフト」社でした(1975)。


その後 IBM に BASIC と MS-DOS を供給するようになったのをきっかけに、マイクロソフトは急成長します(1981)。


#負けず嫌いなだけで小心者のビルと、慎重派のポールは、IBM 相手に、やったこともない OS 開発なんて請け負う気はなかった。

 これを、ぜひやるべきだ、と説得して動かしたのは、西和彦。




その後ポールは、病気の治療のためにマイクロソフトを離脱(1983)。

これは誤診だったと後にわかり、マイクロソフトに復帰します(1990)。


最初に離脱した段階で、マイクロソフトはもう大企業の仲間入りをしていました。

創業者であるポールは、十分な富豪でした。


1986年には、慈善団体「ポール・G・アレン一族財団」を設立しています。

その後も各方面に寄付を行ったり、慈善事業を続けています。


また、ベンチャーキャピタルもやっています。

こちらは慈善事業ではなく、ベンチャー企業に出資し、成功すればきっちり回収する。


でもリスクも大きくて、やっぱり富豪でないとなかなかできないこと。



一方、趣味である「第2次世界大戦時の兵器」の収集にも力を入れています。

昨年…2015 年の 3月3日には、フィリピン沖で、日本軍の沈没した戦艦「武蔵」を発見しました。


8年前から、武蔵が沈んだあたりの捜索を続けていたそうです。



ポールはトレジャーハンターとして武蔵を探していたわけではなく、発見の権利を強くは主張しない、と表明しています。

戦死した乗員にも追悼の意を示し、今後の扱いは日本政府と協議するそうです。



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デビッド・ローゼン 誕生日(1930)  2016-01-22 09:52:49  コンピュータ 今日は何の日

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別にそれほど有名人ではないので、知らない人のほうが多い気がします。

セガの初代社長です。


初代、ってのがみそね。

以前にセガ初期の歴史書いたけど、創業者ではない。


というか、セガという会社は複数の会社が合併して出来上がっているので、どこが「創業」かはよくわからない。

ローゼン氏も、ローゼン・エンタープライズという会社の社長で、「セガ」という商標を使っていた会社と合併しました。


そして、社名が「セガ」となった時に、初代の社長となったのです。




ローゼンは、米空軍の軍人として朝鮮戦争に参加し、中国、韓国、そして沖縄に配属になっています。


沖縄配属中に、日本に「ローゼン・エンタープライズ」社を設立(1953)。

その後退役となり一度ニューヨークに戻りますが、すぐに日本を再訪しています。


ローゼンは、写真技術に詳しかったようです。

そして、占領下の日本がアメリカに比べて人件費が低いことに目をつけ、写真と芸術を組み合わせた商売を行うつもりでした。


ビジネスとしては単純で、「安い肖像画を提供する」ものでした。

絵描きを雇って肖像画を描いてもらえば、それなりの金額を支払わねばなりませんが、日本の安い人材を使えば、安く提供できます。


しかし、アメリカ人の肖像画を日本人が描くために、わざわざ旅費をかけていてはかえって高くなります。

そこで、アメリカで写真を撮影し、その写真を元に日本で肖像画を描こう、というのです。

これならば安い肖像画を作り出せます。


この頃、アメリカでは写真技術に革命が起きており、写真はそれまでよりもずっと安く撮影できるものになっていました。

安くなった「写真」そのもので商売することは難しいのですが、そこに肖像画という付加価値を付ければ儲けられるかもしれません。




しかし、日本を再訪したローゼンは、もっといい商売に気づきます。


米軍占領下の日本では、物資が困窮しており、米などの食料は配給制になっていました。

そして、その配給をもらうためには、本人を証明するカードが必要でした。このカードには、証明写真がつけられていました。


電車に頻繁に乗る人は、定期券のために証明写真が必要でした。

まだ職も少ないこの時期、就職するための履歴書にも証明写真が必要でした。

学校に通うものは、学生証のための証明写真が必要でした。



とにかく、証明写真の需要はたくさんあったのですが、先に書いた「アメリカでの写真革命」はまだ日本に入ってきていませんでした。


日本では、写真が必要であれば写真館で撮ってもらうのが普通でした。

そして、250円という当時では高いお金を払った上に、3日も待たないと写真が出来上がらないのです。


#うどん一杯20円、あんぱん1個10円の時代です。



彼は当初、アメリカで商売することを考え、そのための安い人材として日本を利用しようとしていました。

しかし、アメリカで安くなった技術が、日本ではまだ珍しいものであることに気づいたのです。


彼はビジネスプランを変更し、アメリカでの「写真革命」を、日本で提供する方法を考え始めます。




アメリカでの写真革命…Photomat は、今でいう「証明写真撮影機」のはしりです。

椅子に座って 25セントを入れると、4ポーズ・4枚の顔写真を撮影し、2~3分で現像済みの写真を出してくれます。


ローゼンは、これで撮影した写真を日本に送り、肖像画を描かせようとしていたのです。


#当時は固定相場で、1ドル=360円。25セントは 90円になります。



証明写真用としてこれを日本で展開すれば、確実に人気になる。

ローゼンはそう考えたのですが、1つ問題がありました。


Photomat で撮影した写真は、やがて色褪せはじめ、2年程度で消えてしまうのです。


とはいえ、たった 25セントで撮影した、ちょっとしたお遊び。

アメリカでは、2年で消えてしまうことを問題視する人はいませんでした。


しかし、日本で証明写真用とするには問題がありました。

食糧配給のための証明カードで自分を証明でき無くなれば、食糧が手に入らなくなることを意味します。

そんなもの、とても売れません。



退色問題は、現像工程の温度管理に問題がある、とわかりました。

写真現像は化学的な現象で、温度により反応速度が左右されるのです。


そこで、ローゼンは Photomat の古い機械を安く入手し、温度管理機構を付け加えます。


彼は、改良された機械を「Photorama」と名付けました。

そして、日本へ輸出・設置を行うのです(1954)。




ローゼン・エンタープライズは、Photorama を1回150~200円の値段設定で提供しました。

写真館よりも安く、2~3分後には写真が手に入ります。


当時は「2分写真」と呼ばれ、大人気となったようです。

設置個所もどんどん増え、1年で 100カ所以上になりました。



「2分写真」の人気の陰で、怒ったのは街の写真館です。

収入の柱であった、証明写真の需要をまるっきり取られてしまったのですから。


当時の日本は米軍の占領下にありましたが、法的にはアメリカ人も日本人も平等です。

しかし、Photorama はローゼンエンタープライズが開発し、ローゼンエンタープライズが販売する、独占商品でした。


写真館の人々は連名で、アメリカ領事館に対して抗議を行ったようです。

米軍占領下とはいえ、アメリカ人の独占商売を野放しにしておくのは、アメリカ人に対する優遇なのではないか。


当時、米軍は占領政策をとるとともに、日本人が米軍に対して不満を抱かないように苦慮していました。

この苦情は、すぐにローゼンエンタープライズに伝えられ、改善要求が出されます。


そこで、ローゼンエンタープライズでは、Photorama の機械を一般に販売することにしました。

これまでは、自社で設置を行ってきたのですが、今後は日本人に販売し、日本人が設置するのです。


これは、ローゼンエンタープライズの管理できる範囲を超えて、Photorama が普及することを意味しました。

自社設置の100カ所に加え、さらに100カ所に設置されたと言います。


ところで、Photorama を運用するには、印画紙や現像液などの消耗品を必要とします。

これらの消耗品は、ローゼンエンタープライズから購入する必要があります。


「直接商売」ではなくなったとしても、利益を上げ続ける構造があるのです。


いわゆる「フランチャイズ制」ですね。

米国ではすでに良くあるビジネス形態で、ローゼンもそれを元に考案したようです。


日本で展開されたフランチャイズ・ビジネスとしては、最初期のものでした。


#1954年の Photorama 提供から1年ほどでフランチャイズに移行したらしいのだけど、正確な時期は不明。

 一般に、日本初のフランチャイズは、1956年にコカ・コーラ社が始めた、とされるのですが、ローゼンのほうが早かったようです。




フランチャイズ制とすることで、ローゼンには暇ができました。

後はほおっておいても利益が上がります。



彼はまた、アメリカでは珍しくもないが、日本にはまだあまりないものを見つけ出し、日本への輸入を始めます。(1957年ごろ)

…コインを入れると一定時間遊べるゲーム、いわゆる「アーケードゲーム」でした。


すでに、サービス・ゲームズ・ジャパンがスロットマシンを輸入していました。

太東貿易や、レメーヤー&スチュアートなど、ジュークボックスを輸入する企業もありました。


これらの「コインオペ機」は、アメリカでの人気が下火になりつつあったのを、安く買って日本で提供しています。

そして、アーケードゲームも同じく、アメリカで人気が落ちつつある産業でした。


スロットは、非合法な賭博として、酒場などで遊ばれていました。

ジュークボックスも酒場や、人の多く集まるところで提供されていました。


ローゼンがアーケードゲームを提供する場所として目を付けたのは、映画館の待合ロビーでした。

ジュークボックスではうるさすぎるけど、次の上映まで暇を持て余す人の多い場所です。


特に、東宝や松竹とは契約を結び、映画館のロビーに機械を置いていきます。

この戦略は大当たりでした。当時、映画は重要な娯楽で、映画館は日本全国にあったのです。



ローゼンは、証明写真機に続いて、アーケードゲーム市場を切り拓きました。

まだ誰も手を付けていない、ライバルのいない市場です。


でも、順調に商売できたのは2年ほどです。

すぐに太東貿易や、サービスゲームズ社が名称変更した日本娯楽機械が、アーケードゲームの輸入に乗り込んできます。




Photorama は、その後同種の機械を日本の企業も作り始め、激戦となります。

ローゼンは、1960年代の初頭にはこの商売から手を引いています。


そしてまた、アーケードゲームの競争は激化しつつありました。


戦後の何もない日本では、商売は楽でした。ライバルがいなかったからです。

しかし、日本が豊かになるとライバルが増え、商売は楽でなくなりました。


ローゼンは、自分の事業を売り払うことに決め、ライバルであった日本娯楽機械と交渉を持ちます。

その結果、ローゼン・エンタープライズと、日本娯楽機械は合併することになります。


新会社名は、セガ・エンタープライゼス(1965)。


日本娯楽機械は、前身である「サービスゲームズ」の時代から、頭文字をとった「セガ」ブランドを使っていました。

そこに、ローゼン・エンタープライズの名前を組み合わせたものです。

(エンタープライゼスは、エンタープライズの複数形。会社が合併したのだから)



社長には、ローゼンが就任します。

ここに、セガが誕生するわけです。


以降は、以前に書いたセガの歴史を読んでください。


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iOSでtextのコピー・ペーストができないバグの回避  2016-01-23 21:48:49  コンピュータ

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iOSのJavascriptのバッドノウハウ。


iOS8でバグが報告され、iOS9になっても修正されなかった…つまりは「もはや仕様」のバグへの対処方法。


以前からお手伝いしている仕事で、ユーザーさんから指摘があってバグっていることを知った。

iOS8 からのバグだったのに、1年以上もデバッグ担当が誰も気づいていなかったという問題。


input TAG の type="text" か、textarea によってテキスト入力を作った際、テキスト部分の長押しで、全選択やコピー・ペーストなどのメニューが開く。


この際に、Javascript などが動作していて特定の処理を行っている場合、メニューが消えてしまい、結果的にコピー・ペーストなどの操作ができなくなる、というのがバグの概要だ。




特定の 処理とは、「画面全体の再レンダリングが必要となる処理」である。


画面の一部領域だけ書き換えれば済む問題はバグを引き起こさないようだ。

ここで「全体の再レンダリング」とは、スクロールのような処理を含まない。


スクロールは、単純に画面をコピーしてずらすだけだから。


より具体的にいえば、DOM 要素の style を変えることで、表示位置やサイズなどを変える。

より厳密にいえば、サイズを「変える」必要すらなく、「サイズに関与するプロパティ」に書き込みを行うだけでいい。


style 要素が変わればよい、という意味では、css の transition 指定や animation 指定でも同じことになる。

とにかく、テキストメニューが開いているときに、再レンダリングが起きること。


top left width height などの指定はもちろん、border padding margin などの指定でも起きる。


opacity などでは大丈夫な一方、box-shadow ではバグが起きた。

どうも、opacity はあらかじめ存在する矩形領域の中だけの「一部書き換え」で済むが、box-shadow は矩形領域の外側だというのが影響するようだ。



これらの変更が、HTML 内のどこかで使われているだけでバグが生じる。

テキストの近くにあるとか、画面表示領域内かどうかなどは無関係だ。




どうすればよいか。


お仕事のプログラムでは、テキスト入力のある画面内で、javascript でアニメーションしている部分があった。


このアニメーションは、setInterval で動いていた。

そこで、一定時間ごとに動作する関数の冒頭で、text 入力中かどうかを確認し、入力中なら何もせずに return することにした。


お仕事では、テキスト入力はダイアログを出して行うことにしていたので、ダイアログに相当する div が「表示されている」ことを確認して return していた。


document.activeElement を使うと、現在フォーカスしている DOM 要素を取得できる。

document.activeElement.id とすれば、その DOM 要素の id を知ることもできる。


これを使って、text 入力にフォーカスされていたら何もしない、とする方法ならどんな場合でも使えそうだ。


#僕は試していないので、うまくいかなかったら申し訳ない。




Javascript ならこの程度の対処で済むのだけど、問題は CSS で animation 指定などをしている時だ。

CSS なので、Javascript と違って「状況によって何もしない」というプログラムを作ることはできない。


そのアニメが本当に必要か考えて、不要なら失くしてしまうのも手だ。

今回は、大したアニメではなかったので、失くしてしまうことで解決した。



次善の策は、text 入力に focus / blur イベントを仕掛けて置いて、animation する DOM の class を変えてやる方法だろう。

そして、この class が付いた場合のみ、animation するように css を作っておく。


jQuery があればこんな感じかな。


#こちらも試してない


▼javascript

$('input[type="text"]').bind("focus",function(){
  $(".anim").removeClass("move");
}).bind("blur",function(){
  $(".anim").addClass("move");
});

▼css

.anim.move {
  animation:~
}


上のコードは、input type="text" にフォーカスが当たったら、class="anim move" のタグから、move を取り去る。

そして、フォーカスが消えたら、class="anim" のタグに move を加える。


css では、class="anim move" のタグに対してアニメの指定をしている。

text にフォーカスした時は、 move が消えるのでアニメは止まる。



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【追悼】マービン・ミンスキー  2016-01-29 10:35:16  コンピュータ 今日は何の日

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マービン・ミンスキーが、1月24日に亡くなったそうだ。


26日にはニュースになっていたようだけど、僕は27日になって妻から聞いて知った。

今週ちょっと忙しくて、ネットの情報をそれほど見ていなかったのだ。だから、追悼文もすぐ書けなかった。


もっとも、ミンスキーをそれほど強く記憶していたわけでもない。

妻に「ミンスキーって人が亡くなったらしいよ」と聞いても、すぐに誰だか分らなかった。


ミンスキー? と問い直して、AIの研究家だそうだよ、と言われた。

…で、思い出した。マービン・ミンスキーか。ミンスキートロン作った人だ!



と、すぐに思い出したのがこれくらい、というので、僕がたいしてミンスキーに詳しくないのがわかる。

そんな僕が追悼文を書いたところで、駄文にしかならない。



僕の知識の多くは、「ハッカーズ」という書籍からきている。

コンピューター黎明期の、わくわくするような冒険譚。僕にとってはジュブナイル小説のようなものだ。


まぁ、冒険譚といってもトムソーヤのようなことはしない。実際の山を駆け巡るわけではなく、彼らはコンピューターというフロンティアを切り拓いた。

「ハッカーズ」には、若さゆえのいたずらっ子がたくさん出てきて、誰も見たことのない地平を切り拓く。これがジュブナイルでなくしてなんであろう。


そして、ジュブナイルには「子供の成長を見届ける大人」が必要だ。

ハッカーズの第一部では、その一人がジョン・マッカーシー…ジョンおじさんだ。


マービン・ミンスキーは、ジョン・マッカーシーの同僚で、ともにAI研究の創始者のひとりだ。

ただ、ハッカーズにおいては、ミンスキーはマッカーシーよりも扱いが小さい。

というのも、当時のミンスキーは、マッカーシーの弟子で最大の理解者、というような位置づけだからだ。


#とはいえ、無視できない重要人物なので、それなりに出てくるのだが。



マッカーシーは「若者がコンピューターに熱中している」ことを知り、彼らのやりたいようにやらせただけだった。

ハッカーが少しでも速度の速い、少しでもステップ数の短いプログラムを作ろうと工夫していても、それはバイクで速度を出して喜んでいるようなもの…若さゆえの楽しさだろうけど、ほとんど意味はない、と考えていた。


ミンスキーは、若者の中に飛び込み、自らも一緒に熱中した。

小さなプログラムを作ることには大きな意味があるし、直接プログラムをしたものにしかわからない「体験」があると感じていた。


当然、ハッカーたちはミンスキーのAIの講義には必ず出席したらしい。

ミンスキーはハッカーとして尊敬を集めていたし、その偉大なノウハウの一端を学べるのだから。




ある日、ミンスキーは PDP-1 の画面上に渦巻き曲線を描こうとしていた。


直線を描くのは簡単だ。だけど、整数演算しか使えない PDP-1 では、曲線を描くのは難しかった。

だけど、「渦巻き」がかけるプログラムは、すでにハッカーの間で作られていた。


こんなプログラムだ。

当時はアセンブラだけど、わかりやすいようにC言語風に表記する。



while(1){
  Y' = Y;
  X' = X;
  Y = Y' - (X'>>4);
  X = X' + (Y'>>4);
  pset(X,Y);
}


つまり、一個前の座標から新しい座標を生成して、そこに点を打っているのだな。

ちなみに、PDP-1 の座標系は、ディスプレイ中央が (0,0) になっている。



ミンスキーは、これをちょっと間違えて、最後の Y' を Y としてしまったらしい。

直前の行で Y を書き換えているので、「1個前の座標」にならない。


実をいうと、それ以外の Y' X' は無意味だ。

「一個前」と明示するために最初に X Y を保存しているのだけど、そもそも書き換えの影響を受けるのは最後の Y' だけ。

そこを書き間違えた。


つまり、次のプログラムを実行したことになる。



while(1){
  Y = Y - (X>>4);
  X = X + (Y>>4);
  pset(X,Y);
}


これが、偶然からの大発見だった。

描かれる線は、渦巻きではなく正円になった。


正円が描けるということは、SIN / COS の三角関数を生成できる、ということ。

ミンスキーは偶然から、整数演算のみで三角関数を導き出すプログラムを作ってしまったのだった。



これはすごい発見だったのだけど、ミンスキーはこれで終わりにしなかった。

この、偶然見つけたアルゴリズムの「意味」を数学的に検証して、「3つの円」を表示するプログラムを編み出した。


当時、ハッカーの間で、ディスプレイに興味深い画像を表示する、短いプログラムを作るのが流行していた。

Hacks 、もしくは HAX (読み方はどちらも「ハックス」)と呼ばれる。


3つの円を表示する、といっても、単純に表示するのではない。

表示に関係するパラメーターを、コンソールの2進スイッチにより与え、あえて「円を崩して」表示できる。


これによって3つの円は非常に複雑な形状へと変化し、パラメーター次第でいろいろな図形が描き出される興味深いプログラムとなった。



3つの円を描きだすので、ミンスキーはこれを「Tri-pos」と名付けたのだけど、ハッカーたちは「ミンスキートロン」と呼んだ。


#リンク先のミンスキートロンはエミュレータで再現されたもの。

 上のメニューで何か選ぶと、2進スイッチが「お勧めの設定」になっていろいろな図形を描いてくれる。

 もちろん、自分でスイッチをいじって変化を楽しんでもいい。




ジャック・デニスの話を以前に書いたことがある。


デニスも、マッカーシー、ミンスキーと共に、MITのハッカーを導いた人だ。

ただ、マッカーシーとミンスキーは当時すでに偉い人だったけど、デニスは当時は新米だった。



だから、マッカーシーとミンスキーは「師匠」であり、デニスは「兄貴」だった。


それはともかく、3人ともMITのハッカーたちと共に過ごし、コンピューターに対する先進的な考え方を持っていた。


当時のコンピューターは、バッチ処理が普通。

パンチカードの束をセットして、後は結果が出るのを待つだけ、という使い方だ。


でも、3人とも、コンピューターはいつも人間が使える状態にあって、対話的に使えたほうが良いと考えた。


当時のコンピューターは非常に高価なので、1人1台、なんてことはできない。

コンピューター1台で、同時に複数のプログラムを走らせる方法…今なら当たり前の、マルチタスクの研究を始めた。



最初は、PDP-1 を使った小さなシステムだった。


これが成功し、成果を ARPA に報告すると、さらに研究を行うために ARPA が資金提供してくれることになった。

その額、300万ドル。


#どうも、文献によって金額が違うのだけど、後からの追加などもあったためだと思う。



ARPA は、この資金を「コンピューターをマルチタスクで使うための研究」に拠出した。

でも、マッカーシーやミンスキーは、この資金を元に「プロジェクトMAC」を立ち上げた。


このプロジェクトは、コンピューター科学の研究プロジェクトとされた。

「マルチタスク」もその一つではあるのだけど、他にもいろいろな研究をする。



それまで、マッカーシーらは年間 10万ドルの予算しか与えられていなかった。

ところが、いきなり 300万ドルが使えるようになったのだ。


そして、ミンスキーはこの「マルチタスク研究のための資金」の 1/3 、100万ドルを使い込んだ!

マルチタスクで各個人がコンピューターと「対話」できるようになれば、対話するためにコンピューターが人間を理解する必要がある。


じゃぁ、人工知能はマルチタスクでできることの研究として重要だ。

マルチタスク研究の一環なのだから、お金を使って何が悪い!



使い込んだといっても、別に私腹を肥やしたわけじゃない。

優秀な学生ハッカーたちを雇い入れて、プログラムを作らせたのだ。


ハッカーたちは、ほっといてもプログラムを作る。それが楽しいからだ。

例えば、世界最初のテレビゲームの一つとされる、Space war! を生み出した。


でも、ゲームをしたかったんじゃない。それを作ること自体が楽しかったのだ。


だから、プログラムの目的はなんでもいい。

ミンスキーが、バイト代を出すから人工知能の研究を手伝ってくれ、というのであれば、喜んで参加した。



ARPA は怒らなかったのか?

大丈夫、デニス(というより、その師であるコルバト)がちゃんとマルチタスクの研究をやっていたから。


デニスは後に Multics のプロジェクトに参加するのだけど、最初はそんな大掛かりではない。

IBM に協力してもらって…IBM は乗り気ではなかったようなのだけど、IBM 7094 というコンピューターを改造して、マルチタスク機能をつけてしまった。


ミンスキーが 1/3 を使った、という分け方の「根拠」は僕は知らないのだけど、マッカーシーとミンスキー、コルバトで3等分したのではないかと思っている。




この後、プロジェクトMACは、MITのハッカーが集う場所になっていく。

研究内容は多岐にわたった。当時としては最先端の実験、というものが多かった。



今回、訃報に触れたときに、ミンスキーが「LOGO や Lisp の開発にも携わった」という評伝があった。

恥ずかしながら、僕はそれを知らなかった。


パパートが書いた「マインドストーム」という本があって持っているのだけど、ずっと前に読んだ切り、内容はほとんど覚えてない。

もう一度読み返してみた。



プロジェクトMACには、後にシーモア・パパートがやってきて、「コンピューターを使った教育」の実験を始める。

パパートは、本の中でこの頃を振り返って、二人の「強い影響を受けた人物」を挙げている。


1人がミンスキーだ。最も重要な人物、としてあげられている。


パパートは教育心理の専門家で、子供の心に詳しかった。

ミンスキーは人工知能の専門家で、人工知能がどのように学習するかに詳しかった。


この二人が、実際に子供の教育現場に立ち会いながら、子供がどのように学習していくかを、時に心理学の見地から、時に「学習機械」としての見地から、意見を出し合って理論として固めていったのだ。


これはパパートにとって最も重要な経験だった、と回顧させているのだけど、LOGO の開発自体に手を貸したわけではないようだ。

もっとも、LOGO は子供の教育に使える言語として考えられたわけで、「意見交換」を LOGO の開発だとみなすのであれば、そう言えなくもないけど。



ミンスキーは、計算理論が、単に「数学の計算方法」ということではなくて、その人の世界観を形作るための重要な存在である、とパパートに示したそうだ。

これが、何よりもパパートの考え方を変えたとのこと。


ちなみに、もう一人の「影響を受けた人物」はアラン・ケイ

ケイはパパートの元で学んだ弟子のような位置づけなのだけど、「子供のことを考える」という点で、誰よりも強い情熱を注いでいたそうだ。


Lisp も LOGO と同じような感じで、Lisp 自体はマッカーシーが考えたものだ。

でも、マッカーシーとミンスキーは常に近い位置にいたので、いろいろと意見交換はしているみたい。

どこまでが「開発に携わった」といってよいのかわからない。


ただ、一つ言えることは、ミンスキーは恐ろしく頭が良くて、意見を求められれば畑ちがいの分野であっても、喜んで飛び込んで実のある意見を出せた、ということ。

関係した誰もが、ミンスキーはとても頭が良かった、と振り返っている。


そして、何よりも面白がりで、いたずら好きだったらしい。

ハッカーと仲良くなれたのも、そういう子供っぽいところがあったからなのだろう。




ミンスキーは、パパート共に「ニューラルネットワーク」の研究もしている。


たくさんの電線に可変抵抗(ボリューム)をつないだ、配線のお化けだ。

でも、これは人間の脳のニューロン構造を模倣している。


脳は、ニューロン間の接続の「強さ」を可変させることで物事を学習する。

同じように、電線間の接続の「強さ」を、可変抵抗で調整していけば学習する機械になる。


ただ、ニューラルネットワークは、恐ろしく可変抵抗が多い。

何をどう回せばよい学習になるのかわからない。学習することはわかっていたのだけど、扱うのは職人芸だった。


1958年に手法が示され、60年代に流行したのだけど、ブームの初めの頃は、「人間の脳を模倣しているのだから、すごいに違いない」という期待論が上回った。

でも、先に書いたように、学習方法すら確立していなかったのだ。


これに対し、1970年代に、ミンスキーとパパートがニューラルネットワークの数学的な解析を行う。

これで、能力の限界がわかった。

「上手なプログラムを作れば分類できる」ものを分類できる、というのが能力の限界だった。


実は、これはすごいことだ。

上手なプログラムを作れば…というけど、それは職人芸だ。

でも、ニューラルネットワークは、学習することができる。プログラムする必要はない。


ただ、この時点では学習手法が確立しておらず、学習も職人芸だった。

ブームは急速にしぼんでしまった。



1986年に、ニューラルネットワークが再注目される。

結果を見て、「誤差」をフィードバックすることで学習する、という手法が確立するのだ。


これでニューラルネットワークの「第2次ブーム」が起きる。



僕はこの頃大学生だったのだけど、研究室の先輩が興味を持って、「脳を模倣するらしい」とプログラムを自作していた。

そしたら、研究室の教授が、何やら英語の論文を持ってきてくれた。


しばらくして、ゼミで先輩が論文の内容を発表した。

フィードバック学習の手法と、その限界についての論文だった。


フィードバック学習方法では、ニューラルネットワークをあまり複雑にできない。

これは、「脳を模倣する」と言いながら、脳ほど複雑にはできないことを意味する。


ミンスキーの結論も一緒に書かれていた。

上手なプログラムで分類できる程度のものしか分類できない。

…ただし、これは「十分に複雑なニューラルネットワークがあれば」というのが前提だ。


この二つを組み合わせると、出てくる結論は一つ。

ニューラルネットワークでは、下手なプログラム程度の結果しか出せない。


先輩は急に興味を失って、作るのをやめてしまった。



#念のために書いておくと、この後もニューラルネットワークは研究され、現在「第三次ブーム」と言われている。

 ディープラーニングと呼ばれる手法で、上手なプログラムと同程度以上の成果を、上手なプログラムを組むよりも低いコストで実現できるようになった。

 ただし、ここでいう「低コスト」はプログラム時間に関することだけ。

 学習のための膨大な「教材」と、膨大な学習時間が別に必要。


#関係ないけど、2000年ごろに「サポートベクタマシン」という自動学習手法が流行した。

 これも、最初は理論が未完成で期待されていたのだけど、理論が完成すると「上手に組まれたプログラム並みの能力しか出ない」ことがわかり、ブームが過ぎた。

 もちろん、適材適所で、普通のコンピューターが良いところ、ニューラルネットワークが良いところ、サポートベクターマシンが良いところは違うのだけど。




ミンスキー、調べれば調べるほど、逸話が次々と出てくる。


とても書ききれないので、手持ちの「ハッカーズ」と「マインドストーム」から、面白いところだけ抜粋して、ついでに自分の大学時代の、ミンスキーに関係しそうな思い出話を書いた。


今後も機会があったら、少しづつ業績を紹介していきたいと思う。




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AI囲碁  2016-01-29 14:42:31  コンピュータ 歯車

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Google が作った囲碁プログラム (AlphaGO) が、ヨーロッパチャンピオンと対戦して勝利したそうだ。


昨年秋に対戦したらしいのだけど、ニュースになったのは昨日。

囲碁はチェスや将棋に比べてずっと難しいので、このニュースにはちょっと驚いた。


でも、なんで囲碁が難しいのか、という話に触れている記事を見かけない。

(僕が探せていないだけかもしれないけど)


ちょっと解説してみよう。




まず、僕は囲碁についてそれほど知識を持っていない。

ルール詳細すら知らず、「陣形を作るゲーム」であることは知っている、という程度。


以前に将棋について少し書いたのだけど、将棋も囲碁も、シミュレーションゲームだ。

将棋は、局所戦…小さな戦いを表現している。駒が人で、人と人が殺しあう。


#日本の将棋は、殺さずに捕虜にして、仲間にすることができる。


それに対して、囲碁は国家レベルの戦略をシミュレートしている。

局所的な戦いは関係ない。そもそも、国家レベルの戦いでは、実際の戦闘がおこらない「にらみ合い」が多い。


お互いににらみ合い、前線を形成しつつ、相手の補給路を断つ。

補給路を断たれた相手は降伏するなり野垂れ死ぬなどして、いずれその領地は自分のものとなる。


こうして、前線で相手を囲い込みながら領土を広げるゲームが「囲碁」だ。




ここで、ゲーム性が大きく違うことに気づいただろうか。

将棋もチェスも、駒を動かして、相手を取る。


つまりは、「点」から「点」への動きだ。

ある地点の駒を別の地点に動かせば、相手の駒をとれる。

もしくは、自分の駒を動かさないと、相手にとられる。


盤面がいくら広くても、駒の数は有限だ。

その駒すべてについて、動かせる手を全部試すことは、実はそれほど難しいことではない。


…チェスならね。

いや、本当はチェスだって全部なんて試せないのだけど、それは後で書く方法でカバーできる。


ともかく、チェスの動きはそれほど多くはない。

特に、終盤に向かって駒が減っていくので、先読みが簡単になっていく。


チェスを指す機械が作れるだろう、という考えは、コンピューター以前からあったくらいだ。



将棋は、取った駒をいつでも盤上に投入できる。

これにより、盤上の駒が少なくなる終盤は、駒を「動かす」のではなく、どこでも好きな位置における、という可能性が高まる。

これによって、終盤に向かって複雑さがどんどん増していく。先読みが難しくなっていく。


チェスより将棋のほうが難しい、というのはこのためだ。




囲碁は、石を「好きなところに置く」ことの連続で、動かさない。

また、相手の上に乗る、というようなこともない。


相手の動きを阻止するために「すぐ横に置く」ことは多いのだけど、これも絶対ではない。

状況によっては、全く異なるところに置くことがある。


つまり、自分も相手も、石を置く場所の手がかりがない。

手がかりがないからどこに置いていいのかわからないし、相手がどこに置くのか読みづらい。


これが、囲碁の難しさの一因になっている。



google もルールから説明するのは面倒だからか、単純に「盤面の広さ」から、取り得る局面の数を示して「囲碁は非常に大きい」と言っている。


チェスは 8x8で、将棋は 9x9 、囲碁は 19x19 だから、囲碁は圧倒的に「取り得る局面」は多い。


でも、局面の多さが難しさを示すのだとしたら、同じく碁盤で行う五目並べも、囲碁と同程度に難しいということになってしまう。

盤面の大きさが難しさにつながる部分は確かにあるのだけど、それほど重要ではない。




本当に囲碁が難しいのはここからだ。


先に書いたように、将棋は「点から点」の動きだった。

でも、囲碁は「線で囲む」ゲームだ。より正確に言うと、線を「形作っていく」ゲームだ。


人間なら、星と星をつないで星座を作ることができる。

「点」をつないで線を「形作り」、そこに絵や物語を見出すのだ。


でも、コンピューターはそんなことできない。点はいつまでたっても点であり、線になることはない。

点を伸ばしてやがて前線を作り、相手を囲い込む…というゲームは、コンピューターにはどこに手を打つべきかもわからない。


もちろん、石と石の間が1マス開いていたら、そこに石を置いたらつながるな、程度の判断ならできる。

でも、5マスも離れていたら、そこを埋められるかもしれない、なんて思わない。


同じような局面が多数あった時に、どちらのほうがつながりそうだ、とか判断できない。




「判断できない」というのは、非常に致命的な問題をもたらす。


話は戻るだけど、チェスや将棋は、駒が有限だから動かすことは簡単、と書いた。


でも、もっと重要なのは、「意味が分かりやすい」ことだ。

駒が相手の駒に乗れば、取ることができる。乗られれば取られる。


できれば取られないのが一番いい。でも、歩を犠牲にすることで王を守れるのであれば、王を優先して守ったほうがいい。


こうした「手の評価」が簡単にできる。


手の評価ができるからこそ、駒の動きをいくつも試してみて、「一番いい手」を選び出すことができる。


将棋の場合、数手先まで読んだりする。

でも、「1手」でも、動かせる駒は非常に多い。そのまま2手、3手と先読みすると、そのたびに駒の数だけ動かせる可能性が増えて、調べきれなくなる。


この場合も、「手の評価」を使うことで、大幅に可能性を減らすことができる。

王手がかかっているのに、無視して別の駒を動かす必要はない。自分の王がとられるのは最悪の結果なのだから、とにかくそれを防ぐ手を考える。

それ以外の手を採用する必要はないので、先読みすべき手を大幅に減らすことができる。


王手は極端な例なのだけど、自分がわざわざ悪い手を打つ必要はないのだ。

同様に、相手も悪い手を打つ必要はない。これで、先読みの「可能性」を大きく減らすことができる。


最終的に一番いい手を選ぶにも、先読みをするのにも、とにかく「手の評価」が大切なのだ。



ところが囲碁は、基本である「どうやれば線がつながるか」がわからない。

繋がりそうな箇所がいくつかあったとして、どれを優先すべきかわからない。


つまり、もしコンピューターが超高速で、すべての手を総当たりで試せたとしても、その結果から「一番いい手」を選び出せない。


ここが囲碁の難しさの本質だ。

何がいい手なのか。


これ、実はコンピューターだけでなく、人間にもわからない。

もちろん慣れた人にはわかるのだけど、初心者にはとっかかりがなさ過ぎて入門しづらい。


囲碁人口が少ない理由の一つだ。

同時に、わかっている人にとっては、単純ではない、非常に奥深いゲームとなる。



余談なのだけど、米国のゲーム会社…ビデオゲーム業界を生み出した「ATARI」社の社名は、囲碁の用語「あたり」からきている。


子会社に SENTE 、TENGEN という会社もあった。これも囲碁用語の「先手」「天元」からきている。


ATARI 社の創始者が、囲碁を「世界で一番面白いゲーム」だと考えていたことに由来する。




唐突だけど、大学の時のコンピューターサークルの先輩が、卒業研究に「コンピューター囲碁」を考えていた。


90年代の頭かな。

今調べたら、このときには後で書く GNU GO がもうできていたようなのだけど、今と違ってネットは普通ではなかったので知らなかった。


で、コンピューターにルールを教えることすらできない。

「コンピューターに囲碁を教えるのは何が難しいか」という、失敗談をまとめるのが精いっぱいだった。


学生が1年間で研究するには、ちょっと荷が重かったテーマなのだ。



で、GNU GO なのだけど、これ以前にも囲碁ソフトがなかったわけではない。

でも、GNU GO は、GNU だからソースを公開していた。他の人が研究して、さらに強いものを作る土台となった。



GNU GO は、少なくとも「全く無意味ではない」手を打てる程度には囲碁のルールを学べていた。


手を考えるときは、碁盤を配列として用意し、数値を入れられるようにしておく。


石が置いてある「周囲」のマスに、+1 する。すべての石について行う。

これが第1段階。


すでに数値が入っているところを、すべて +1 する。

そして、数値が入っているマスを石と同じように見なして、また「周囲」を +1 する。

これが第2段階。


以降、同じ操作を繰り返し、数値を大きくしていく。

石の周りに「濃度」を持つ勢力範囲が染み出していく…そんな雰囲気を感じ取ってもらうといい。


何段階行うかは任意。というか、その時によって最適な回数は異なるので、状況を見ながら調整。


5段階までやったとしたら、最後にすべてのマスの数値から、5を引く。

マイナスになるところは 0 だと考えて無視。


石の周囲に増やした数字は、0 に戻るはず。

でも、「周囲を +1」した時に重なっていた部分は、重複してカウントされているので 0 に戻らない。

ここはつまり、周囲の石の間を埋めて、前線を作るのに役立ちそうな場所、ということになる。



これで、少なくとも「石を打つとよさそうな場所」がわかる。

複数ある場合にどう評価するか、状況によって全く新しいところに打たないといけないときにどうするか、などは別問題。


ともかく、GNU GO がこの手法を広めて、しばらくはこれ以外の良い方法がなかったらしい。




90年代の中ごろ、画期的なアルゴリズムが考案される。


どこに打てばいいのかわからないなら、乱数で打てばいいじゃん、という割り切り。


もちろん、本当に乱数だけで勝負していたら、とんでもなく弱い。

ここに「学習機械」を組み合わせる。


ランダムに打った手のデータを覚えておいて、とにかく、むちゃくちゃなうち筋でもいいのでゲームを終了させる。

(ランダム同士で打ち合えばいい)

ゲームが終われば勝敗がわかる。きっと、負けたほうの「ランダム」は弱い手だ。データは覚えているから、同じような局面になった時には避けよう。


逆に、勝ったほうの手は、同じような局面ではまだ使おう。


これをひたすら繰り返すと、強そうな手と弱そうな手がわかってくる。


あるとき勝った手が、同じ局面で別の時に打ったら負けたとする。

この手は強いと思っていたけどそうじゃなかった、ということだ。


逆に、何回も打ってすべて勝った手があったら、これは本当に重要な手なのだ。

今後も同じ局面では打つのがいい。



ここにあるのは、ひたすら過去のデータを積み上げるだけで、打った手の評価は「しない」という方針だ。

囲碁の手の評価は、先に書いたように難しい。だったら、評価しないでもいい。

でも、最後に勝ったかどうかだけは覚えておいて、途中の手すべてに「勝ち負け」のフラグを積み重ねていく。


…これ、マッチ箱エンジンだよね。

ただのマッチ箱でも、マルバツゲームの思考ルーチン程度は作れてしまう、というアルゴリズムの実験。



もちろん最初は弱かった。

でも、2006 年に、この手法をさらに応用して学習部分を強くしたプログラムが作られる。


ひたすら戦って「勝った」「負けた」を記録するだけではなくて、勝った打ち筋なら、途中から手を変えたらどうなるか、などを試すようにしたのだ。

これによって、勝てそうな局面で、さらに強い手を探すことができるようになった。


このプログラムは、コンピューター囲碁大会で優勝した。

以降、この手法が主流になっていく。




実は、こういう「ランダムを使ってひたすら学習する」のは、囲碁の世界に限った話ではない。


最初のほうに書いたけど、チェスや将棋では、一手ごとに「その手が良いか悪いか」を評価している。

この評価部分は、昔は人間が作っていた。そして、評価方法の善し悪しが強さに直結した。


評価方法の善し悪しというのは、つまりパラメーター調整のことだ。

昔は職人芸でプログラマがやっていたのだけど、最近の流行は「ランダムに設定したパラメーターでひたすら戦わせ、勝ったものだけを残す」というような手法だ。


これにより、コンピューターが自分で最適なパラメーターを学習するようになった。

評価方法の調整は職人芸の時代から、コンピューターオートメーションの時代に入ったのだ。



そして、囲碁でもそれが適用された、に過ぎない。

元々評価手法自体が作りづらかったので、思い切って評価をしないことにした。

評価は、試合結果によってのみ決まる。


そして、ひたすら試合を繰り返して、結果から学習する。

機械が勝手に学習したものなので、機械が「良い手」だと思っているものが、なんでいい手なのかは誰にも説明がつかない。


でも、実際強くなったのだからいい手なのだろう。

今回プロに勝ったという Google の囲碁プログラムも、こうして作られたものだ。


何で勝ったのか、どういう仕組みで考えているのかは誰にもわからない。

わかるのは、強くなったという事実だけだ。




今回の Google のプログラムでは、学習部分にニューラルネットワークを使っているそうだ。


ニューラルネットワークは、十分な学習を積んだ場合に、まだ見ぬ問題であっても「正解に近いと思われる回答」を得られる特徴がある。



以降は、詳細が明かされていないので想像に過ぎない話。


単純に「過去に打った手」を参照するのではなく、盤上の局所的な形勢などを見て、それらしい正解を出せるように学習させてあるのではないだろうか。


囲碁は「線を形作る」と最初のほうに書いたのだけど、これはパターン認識の世界だ。

そして、パターン認識ではニューラルネットワークは非常に役立つことがわかっている。


近年流行のパターン認識では、局所的なパターンの特徴を、「局所」のサイズを様々に変えながら抽出し、それらをパラメータとして組み合わせたうえでニューラルネットワークの入力とする。


この方法だと、局所的な特徴も捉えられているし、ニューラルネットによって全体のバランスも考慮される。

囲碁の広い盤面を全部「記憶」するのではなく、局所的なパターンを元に判断を下すこともできるだろう。



そして、実はこのパターン認識方法は、人間の「目」の働きを模倣したものだ。

目は局所パターンを識別し、局所的な形状を「特徴」として不可逆圧縮し、その組み合わせとしてデータを脳に送っている。


この「特徴抽出」によって、人間は線を線と感じたり、丸いものを丸いと感じたりすることがわかっている。

点に過ぎない星を見て、それがつながった「星座」を思い浮かべるのもこれに近い働きだ。


なので、「前線を作る」ゲームである囲碁が、パターン認識の世界に踏みこんだというのも、ある意味当然なのかもしれない。




話はここまでの部分で終わっていて、以降は余談。


途中で書いた「マッチ箱エンジン」だけど、マッチ箱エンジンで囲碁の19路盤を学習させたらどうなるか…という解説記事があった。


英語だけど、図表が多数入っているのでわかりやすく、面白い。


ざっと解説すると、多数のマッチ箱に9色のビーズを入れておくと、マルバツゲームの相手をすることができる。

箱は、現在の「盤面」の状況を示している。対応する箱から、ビーズを1個取り出すと、その色が「どこに打つか」を示している。


最初は、すべての色のビーズを入れてある。

当然、打てない場所の色も出てしまう。マッチ箱は、最初はマルバツのルールも知らないのだ。


それは捨ててやり直す。つまり、人間がルールを教える。

正しい手を打った場合も、マッチ箱はランダムに打つことになるので、おそらく負けるだろう。


マッチ箱が負けたら、最後の手順で打ったビーズは捨てる。その手を打ってはいけなかったのだ。

もしもマッチ箱が勝ったら、途中で使ったビーズをすべて1個増やしてやる。勝ったご褒美だ。次からはこの手を打ちやすくなる。


マッチ箱はだんだんと良い手を打つようになってくるし、究極的には絶対負けない、最強プレイヤーとなる。



…というのがマッチ箱エンジンなのだけど、解説記事は途中までこの解説をしつつ、最後に19路盤への応用の話になる。


打てる可能性が非常に多いので、マッチ箱が大量に必要になる。


最後の画像は、必要なマッチ箱を置くための面積を、わかりやすいものと比較した図だ。

なるほど、ゲームの規模がわかりやすい。



というか、先に書いた通り Google の囲碁プログラムは基本的にマッチ箱エンジンだ。

(多少工夫して、知らない手でも打てるようにはなっているけど)

マッチ箱じゃなくてコンピューターを使っているけど、この図にあるようなものを実現してしまったということですよ!




最近の囲碁のアルゴリズム詳細について、詳しい資料がありました

今回、いくらかはこの資料を参考に書かせていただいています。




2016.3.20追記

3月中旬、AlphaGO は世界最高峰の棋士である韓国人、イ・セドル九段と対局し、4対1で勝ちました。

と同時に、上記記事を書いたときにはあまり報じられていなかった詳細が報じられました。


やはり、推察したとおり盤面を画像として認識しているそうです。

チェスや将棋では駒の位置関係など、データを中心に扱いますが、画像として「なんとなく」状況把握している。


今までの AI などにはなかった新しい手法です。


と同時に、駒の位置関係だけが重要で、駒の価値や動きに意味がないからこそできる手法だとも思います。


AlphaGO を開発したディープマインド社は、汎用性のある AI を目指して研究しているそうです。


実際、AlphaGO と同じ仕組みをインベーダーゲームやブロック崩しなどの単純なゲームに応用し、スーパープレイヤーを作り出すことに成功しています。


とはいえ、パックマンのルールは複雑すぎて理解できません。


ニューラルネットワークは、なんにでも応用できる汎用性がある一方で、単純な問題にしか対応できません。


囲碁もまた、十分に奥深いゲームではあるが、ルール自体は非常に単純。

だからニューラルネットワークが活きてきます。


DeepMind 社の創始者の詳細記事が、昨年末発売の Wired に掲載されていたようです。


AlphaGO がイ・セドル九段との対局初日に、WEB ページでも公開されたようです。

今日知って読んだところ、非常に面白かったのでこの追記を行った次第です。



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ダグラス・エンゲルバート 誕生日(1925)  2016-01-30 11:38:31  今日は何の日

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今日は、ダグラス・エンゲルバートの誕生日(1925)


マウスの発明者、とよく言われるのですが、これはあまりにも過小評価…という話を以前書きました。




まだコンピューターが計算機にすぎず、ディスプレイは接続されていてもグラフ表示を想定したものだった頃に、彼は「ディスプレイ上で文章を編集する」ことを思いつきました。



これが、世界初 (1968年) のワープロです。

もっとも、今ではワープロの中でも特殊な位置づけの「アウトラインプロセッサ」に近いものです。


これ以前は、接続されたディスプレイは、グラフ表示に適した「ベクタースキャンディスプレイ」でした。

しかし、ベクタースキャンディスプレイは高価だったので、エンゲルバートは工夫して普通のテレビを接続します。


普通のテレビは、ベクタースキャンディスプレイよりもずっと安いですし、何よりもコンピューターから遠いところでも表示ができる、という利点がありました。

ベクタースキャンでは、コンピューターがディスプレイを直接制御していたのですが、テレビなら「放送」で画面を送れます。


これにより、同じ画面を遠く離れた複数の人が見て、文字や音声で会話をしながら文章をまとめ上げる、というようなビデオ会議システムが実現します。

これは同時に、オンラインチャットシステムでもありました。



マウスは、このシステムで使われた、入力機器の一つにすぎません。

エンゲルバートを「マウスの発明者」とするのは、あまりにも過小評価だと言えるでしょう。


ここら辺の話、詳細は追悼記事に書いています




エンゲルバートが作ったシステムは、現代の WEB にも影響を与えています。


それ以前に、MEMEX と呼ばれる、関連する文書間にリンクを張って保存しておける、という「構想」がありました。


これは、構想だけで実現できてないのね。

コンピューター以前のもので、マイクロフィルムを使うことになっていた。

技術的にそれぞれをどう実現したらよいか…というところまで踏み込んでいましたが、実現はされなかった。


この MEMEX を作りたいと思っていた人が、エンゲルバートのシステムをみて「コンピューターで作ろう」と考えます。

そして、こんなシステムがあったら世界はきっとよくなる、という文章を書いて広め、資金提供者が現れるのを待ってシステムを作り始めるのです。



でも、このシステムは最初に大きなことを考えすぎた。

当時のコンピューターは性能が低くて難航します。


難航している間に、文章を見た人が一部機能だけを取り出して作ったのが、現在の WEB システム。

その間にコンピューター技術が進んだ、というのも大きかったのだけど。



ここら辺の経緯は、追悼記事から1年たった命日の記事に書いています。


このときは、なんと MEMEX 構想を考えた人の命日と、MEMEX 構想が発表された日と、エンゲルバートの命日が3日連続していたので、歴史の流れを追いながらゆっくり話ができた。


さらに WEBが作られた話は別のところにありますけどねー。


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