2016年03月の日記です

目次

01日 シーモア・パパート 誕生日(1928)
04日 1985年のパソコン事情
04日 プロテクトの話
05日 1988年のパソコン事情
05日 1991年のパソコン事情
06日 社会問題の根っこ
07日 【訃報】レイ・トムリンソン
09日 クララ・ロックモア 誕生日(1911)
11日 なんでもない日おめでとう!
11日 オーレ・キアク・クリスチャンセン 命日(1958)
14日 アレクセイ・パジトノフ 誕生日(1956)
19日 プログラム教育に対する誤解
19日 プログラム教育の目指すところ
20日 ロビン・ミルナー 命日 (2010)
26日 卒園式
26日 肩の力が抜けたところで
29日 アクティベートにハマる


シーモア・パパート 誕生日(1928)  2016-03-01 11:49:49  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、シーモア・パパートの誕生日(1928)。


LOGO 言語を作り出した人です。


誕生日を間違えていました! 本当は、前日の2月29日だったそうです。


日本語で書かれた情報の多くには、3月1日と書かれているのですが、英語の情報はみんな 2月29日と…

大変申し訳ありませんが、記事の日付を変えると URL が変わってしまうため、このまま残します。


ちなみに、2月29日はハーマン・ホレリス(パンチカード集計機の発明者)の誕生日でもあります。


パパートは数学者であり、児童発達心理学者でした。

そして、数学者として、マービン・ミンスキーと一緒に論文を作成したことがありました。


マービン・ミンスキーは以前も書きましたが、MIT が進めていたコンピューターに関するごった煮プロジェクト、「Project MAC」の中心人物の一人です。


Project MAC には MIT 以外にも多数の参加企業がありました。

Bolt Beranek and Newman (以下 BBN)もその1社です。


BBN は MIT の教授が創始した会社で、音響設計のコンサルタントを業務内容としていました。

音響設計というのは、非常に高度な計算力が必要となります。そのため BBN では初期のころからコンピューターに積極的にかかわっています。


そして、その高い技術力から、ARPA (米国防高等研究計画局)からも信頼される軍事企業でもあります。

インターネットの初期プロトコルの設計にも多数関わっていますし、最初のウィルスも、 BBN の「遠隔地のコンピューターにプログラムを届ける」実験として作られています。




さて、Project MAC の一環として、コンピューターを子供に教えるためのプロジェクトがありました。


当初は既存の言語を使って教えていたようなのですが、どうも子供に教えるには概念が難しすぎる。

子供が楽しく学べる言語はないものだろうか?


Project MAC の一環として、新しい言語が構想されます。


ミンスキーの紹介で、児童心理発達学者でもあるパパートが、子供にとって学びやすい言語を設計します。

そして、その実装は BBN に任されました。



MAC の主要人物の一人、ジョン・マッカーシーは、LISP という言語を設計していました。

設計時は、FORTRAN しか言語がなかった時代ですが、FORTRAN とは全く違う概念で作られていました。



FORTRAN は「手続き型言語」と呼ばれます。今でも、大多数の言語が手続き型です。

しかし、LISP は「関数型言語」と呼ばれます。プログラムとは何か、という概念から違うものになっています。



ただ、LISP は非常にシンプルで強力な言語なのですが、シンプルすぎて、何をするのにも1から面倒をみる必要がありました。

ある程度最初からいろんなことができる状態に整えてやって、子供でもすぐ始められる LISP を作ればよいのではないか。


これが最初の LOGO のアイディアでした。



この段階ですでに LOGO という名前がついています。文字デザインの「ロゴ」の意味。

名前の由来は、大雑把な見た目が重要であり、細かな部分は些細な問題に過ぎない、と示したかったため、だそうです。


コンピューターは計算機です。

そして、子供に「計算」と言えば、学校の算数のテストを思い起こさせてしまいます。


算数のテストでは、正確でないと点数をもらえません。

でも、ここではプログラムを動かす楽しさを知ってほしい。正確さは二の次でいいから、大雑把に動かして楽しんでほしい。


そう考えられていたのです。




ここで、パパートの最大の功績は、「プログラムを教える」という概念を捨て去ってしまったことです。


LOGO はもともと、コンピュータープログラムを子供に教えるために構想されたものです。

目的はプログラムの教育。計算機を使いますが、「計算」をさせたいのではありません。


パパートはこれをさらに推し進め、プログラムを教えるのではなく、「コンピューターを友達ととらえ、一緒に楽しむ」ようにしたのです。



子供の脳は非常に柔軟です。

公園で遊んでいて、知らない子がやってきたとしても、すぐに打ち解けて一緒に遊び始めたりします。


来たのが自分よりずっと小さな子で、同じ遊びができないとしたら?

その時は遊びの内容を変えるでしょう。柔軟にルールを変化させ、小さな子も遊びの輪に加われるようにします。


その子が自分とは違う言葉をしゃべっていたら?

それでも、子供たちは身振り手振りで意思を伝え、一緒に遊ぼうとするでしょう。

その子の使う言葉を、少しづつ学ぼうとするかもしれません。



では、相手がロボットだったら?

ロボットと遊ぶのが楽しければ、子供はロボットの言語を学びます!


誰かがプログラムを教えようとはしなくても、子供が自分からそうするのです。




パパートは MIT に移籍し、本格的に LOGO のプロジェクトに参加します。


この際、まずは LOGO で制御できるロボットを実際に作ってもらい、ロボットが簡単な絵を描けるようにしました。

子供たちは、ロボットに絵の描き方を教えることができます。


「コンピューター」という捉えどころのないものではなく、「ロボット」という具体的な相手を設定したことが大切でした。


絵が思ったように描けないとき、子供たちはロボットの気持ちになって、自分の体を動かしながら考えます。

そして、わずかに動く角度が間違えていたことや、図形の組み合わせの順番を勘違いしていたことに気づくのです。



「対象物をよく観察する」ことの必要性に、子供が自分自身で気づいていく、という過程が重要です。

大人が「教えてあげよう」と口を出さないことが大切。


自分なら紙の上にすらすらと描けるものを、何も知らない「他の人」に伝えるにはどうすればよいか?


うまくいけば、綺麗な絵が描けるはずです。

うまくいかなくても、何かがおかしい絵が描かれるので、改良のヒントは与えられる。


結果をもとにフィードバックしながら自分で解決していく。

パパートは、この過程こそが一番大切だと考えていました。




知識を「知っている」ことと「理解している」ことは大きく違います。

大人でも、勘違いしている人は非常に多いです。


専門家がせっかく解説してくれているのに、「あぁ、知ってる」で済ませてしまう大人のなんと多いことか!

「知ってる」いう言葉で自分の知識の多さを自慢するつもりなら、全く無意味なことです。



知っている、というのであれば、それを誰かに伝えるつもりで文章にまとめてみるとよいでしょう。

細かな部分が矛盾していたり、説明に詰まったりするところがあれば、「理解していない」のです。


そして、ちゃんと伝えようと細部を調査する。観察する。それを通じて理解が進む。

これが、学問の基本姿勢です。学問に限らず、社会で生活するうえで常に必要となる技術です。



LOGO では、自分なら簡単に描ける図形を、ロボットに描かせようと試みることになります。

そのためには、手順を文章…つまり、プログラムとしてまとめる必要があります。


描いてみたら間違っていた。じゃぁ、どこかが違う。細部を調査し、観察し、誤りを見つけ出す必要があります。


子供は、いつもと違う方法で「お絵かき」することが楽しくてやっているだけです。

しかし、やっていることは学問上の「研究」や、社会での仕事の進め方と何も変わりません。



結果として学ぶのは、LOGO のプログラムの仕方、ではありません。

何かを研究し、その内容を人に伝えるためにまとめ上げる力…つまりは「人間社会で生きる力」を学ぶのです。




パパートが LOGO 研究をしたのは 1960年代から。

当時はテレタイプの時代でしたが、後に「ビデオ端末」が作られ、画面にグラフィック表示ができるようになると、ロボットを使わずに画面上に図形を描けるようになりました。


そして、特別なロボットが不要となったことで、LOGO 言語は普及を始めます。

1980年に「マインドストーム」というパパートの著書で、コンピューターを使った学習方法として紹介されたのも大きな要因でした。


ロボットは「タートル」と呼ばれていたため、今でも LOGO の方法で図形を描く方法を、「タートルグラフィック」と呼びます。

実際のロボットではありませんが、「画面上のキャラクターに動きを教える」形で図形を描くため、子供でも学習しやすい図形の描画方法です。



今では、「タートルグラフィック」は様々な初心者向け言語に取り入れられています。

LOGO にヒントを得て作られた Smalltalk や、Smalltalk で作成された Scratch は、LOGO の「正当な後継者」と言えるでしょう。


Microsoft も、初心者向け教材として Small Basic を作っています。

この中でもタートルグラフィックが使えます。


つい先日知って遊んでみたのだけど、Scratch なんかに比べて、無駄にロボットらしくゆっくり動くアニメーションで楽しいです。


#もちろん、アニメーションをカットして高速に絵を描くことも可能。



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申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

1985年のパソコン事情  2016-03-04 16:54:59  コンピュータ

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こんなツイートを見た。



うーん、昔話ばかり書いている人間としては解説しないといけないか。

この人、人気者だから同じこと考えて解説する人は山ほどいそうだけど。


別のツイートで、スペックとかの話ではなくて、当時の日常の追想みたいなのを読みたい、と書かれていたので、そういう形式で。




まず、「ネットのないパソコンが一般的だったのはしっくり来ない」と書かれているけど、一般的ではなかった。


1985年ごろのパソコンは、全然一般的な製品ではなくて、よほど好きな人しか買わなかった。


40人のクラスに、1人か2人持っているかどうか…という感じだったから、5%くらい。

全然一般的ではない。


パソコンに興味を持つなんて中学生前後の男だったのだけど、ベビーブームの世代だ。

学校でもクラス数は多い。


僕の学校の場合、6クラスくらいあった。それで、学年でパソコンを積極的にやっているのは、10人くらい

珍しい趣味を持っているわけで、クラスを超えて仲が良かった。


#実際に持っている人でいえば、もうちょっといる。

 でも、買ったものの楽しめずに脱落、という場合も多いのだ。




当時のパソコンは、全く互換性がないものが多数あって、10人集まっても機種はバラバラ。


これで何をやるのか、といえば、大抵はゲームだ。

ゲームセンターに行けばゲームがあったけど、小中学生ではお金もあまりない。


でも、パソコンならゲームが遊び放題。

友達の家に集まっては、その家のパソコン用のゲームでみんなで遊ぶことになる。


#写真は、PC-6001mkII。仲の良い友達が持っていて、よく「スペースハリアー」で遊んだ。



今のパソコンと同じように「いろんなことができる」と考えると間違いで、「いろんなゲームができる」が正しい。

アルファベットとカタカナは使えるけど、漢字すら使えないので、ワープロにもならない。


当時はファミコンは発売された少し後で、まだゲームセンターのアクションゲームの移植が多かった。

ドラクエの発売と大ブームは 1986年だ。



パソコンでは、ゲームセンターの移植よりも、オリジナルのアクションゲームが多かった。

これは、性能が低かったから移植なんてできなかった、という面もあるのだけど、その分工夫を凝らした面白いゲームが多かったんだ。


ゲームセンターのゲームは、100円で少しの時間遊んでもらう、というのが基本なので、短時間のものが多い。

でも、パソコンのゲームは、じっくりと長時間プレイするように工夫されたものが多くて、ファミコンとは違う世界があった。


そして、当時のゲーム好きは、そうした「まだ見ぬゲーム」に強くあこがれていたんだ。

だからこそ、高くてもパソコンを買う必要があった。




当時の主な記録媒体は、カセットテープ。


機種にもよるけど、16KByte ~ 64KByte しかメインメモリがなかった。

今なら、小さな写真も納まらないサイズだ。


そして、このたった 64KByte のメモリにデータを読み込むのに、カセットテープでは 5~10分くらいかかった。

当時は今よりもずっと「漫画」の人気が高かったから、テープの読み込みを待ちながら漫画を読んでいた。


カセットテープにどうやって記録ができるのだろう?

ハードディスクなんかと同じ「磁性媒体」だとは言っても、あれにデジタル記録ができるとは思えない。


…と、現在の妻に言われたことがある。僕が昔話をするときに、妻が知らないからと、からかっていると思われたのだ。


もちろん、カセットテープはデジタルで記録できない。

だから、デジタル信号を、アナログの「音」に変換する。


1200Hz と、2400Hz の音。普通の「ラ」と高い「ラ」だ。

これで 0/1 を表現し、1秒間に 1200bit を記録する。


#テープ記録の際には、1バイトの「最初」と「最後」にも信号が付き、1バイト 10bit で表現した。

 だから、1秒間に 120バイト記録してあることになる。


音として聞くと、雑音にしかならない。

でも、テレビやラジオで放送して「パソコンのプログラムを届ける」なんて例もあったし、雑誌の付録にソノシート(ビニールで作られた安価なレコード)としてプログラムが付いてくることもあった。



市販のゲームだって、カセットテープで供給されている。

パソコンに読み込んで再セーブ…というような方法でコピーされないように、特殊な仕掛けなんかはしてあるのだけど、カセットテープだからダビングすることは難しくなかった。


もちろん違法だけど、当時のパソコンは最初に書いたように、マイナーな趣味。

違法だと啓蒙するような団体もなかった。


#写真は、PC-6001 の OLION のカセットテープ。

 カセットテープ時代の有名プログラマ、竹内あきら氏の作品。

 どういうご縁か、現在仕事で時々会います…




しばらくたって、フロッピーディスク (5inch) が普及し始めた。

僕の家の近所の書店が、パソコンの時間貸しサービスをやっていた。


その書店では、PC-8801 と PC-9801 、IBM-JX の3機種を置いていた。

当時はまだ PC-9801 にはゲームが少なく、中高生には PC-8801 の人気が高かった。


#写真は PC-8801 。http://www.emu-france.com/ から引用。


PC-8801 は、標準ではフロッピーディスクを扱えない。

しかし、その書店では、外付けドライブが繋げられていた。



そして、友人がフロッピー版のゲームを購入。

友人の家には、ディスクドライブはおろか、パソコンもなかった。

その「時間貸し」で遊ぶつもりで購入したものだ。


フロッピーって、速いっていうけどどれくらい速いんだろう?

カセットテープだとロード(読み込みの意味)に10分くらいかかるけど、1分で終わったりするのかな。


…なんて言いながら起動すると、数秒でゲームが始まって驚いた。




#僕が初めてフロッピーディスクの速度を知ったゲーム。

 PC-8801 用、ハイドライド。




当時は OS という概念は一般的ではなくて、パソコンに搭載された ROM に BASIC が入っていた。

今なら BIOS とか UEFI とか、そういうものに該当する部分。


BASIC というのはプログラム言語なのだけど、BIOS も OS も兼ねていた。

言語の機能として、メモリに直接自由な値を書き込んだり、そのメモリを実行したりできたので、BASIC からほかのプログラムを実行したりしたのだ。



カセットテープのゲームは、まず BASIC の LOAD 命令で読み込まれる。

読み込みが終わった時点では、その気になればプログラムが読める。BASIC で書かれているからだ。


でも、普通は内容は、メモリに書き込むデータの羅列。意味が分からない。

実行すると、メモリにプログラムを書き込んで実行する。その結果、さらに大きな機械語プログラムをテープから読み込み、即実行する。


先に「読み込んでからセーブしてコピーすることは出来ない」と書いたのは、こういう仕組みだから。

ゲームが動き始めたら、止めるにはリセットするしかないし、リセットすればプログラムは失われる。


1983年ころだと、機械語を使わずに BASIC で書かれたようなゲームも普通に出回っていた。




BASIC は初心者向けの言語で、実行速度も遅かった。

今でいえば、Javascript なんかと同じなのだけど、CPU が遅いことに加えてプログラム言語の技術がまだ低いので、ずっと遅い。


でも、腕に覚えがある人なら自分でアクションゲームを作れたし、アクションではないパズルなどを作る人もいた。


そうしたゲームが、BASIC のまま市販されることもあった。

でも、雑誌なんかに投稿され、掲載されているものもあった。


だから、雑誌に載っているリストを打ち込む根気さえあれば、非常に安くゲームを遊ぶことができた。

まぁ、雑誌に載るゲームは素人が作ったものだから、それほど面白くはないかもしれないけどね。


僕も、2度ほど雑誌に載ったことがある。

僕が使っていたのは、ファミリーコンピューターの周辺機器として発売された、ファミリーベーシック


#写真は、「マイコン BASIC マガジン」。当時のプログラム投稿雑誌で一番人気があった。

 雑誌の上に紙が載っているのは、僕のプログラムが掲載されたときの原稿料の通知書です。




先に「当時のゲーム好きはパソコンを買う必要があった」と書いたけど、僕は貧乏で買えなかった。

でも、ゲームが遊びたかったというより、プログラムが組みたかったので、これでよかったんだ。


当時のパソコンの使い方を「大抵はゲーム」と最初に書いたけど、おそらく2番目の需要がプログラム。

プログラムで何かを作りたい、というよりは、プログラムそのものをやってみたい、という需要。


何を作るかと言えば、やっぱ大抵はゲームなんだけど、絵を描くだけでも楽しかったし、音楽を演奏するだけでも楽しかった。


そして、ゲームを作ったとしても、すごく面白い作品になんてなるわけがない。

ゲームを作る、ということ自体を、一種のパズルゲームとして楽しんでいるだけ。


当時のパソコンはゲームしかできないものだったけど、「俺の考えた最強のゲーム」を作ることは…作ろうとすることは出来る、夢の箱だった。




最初にあげたツイートの反響の中に、「当時はネットもなくて、どうやってプログラムをインストールしていたのだろう」と言っている人がいた。


えーと、ハードディスクがないので、インストールという概念もないです (^^;

しかしまぁ、ここまでに書いた通り、ゲームで遊ぶことは出来たし、パソコンショップで買ってくることもできた。


そして、パソコンショップの一部は…いや、半分くらいかな。

「ソフトレンタル業」をやっていた。


今では違法行為だけど、当時は法律がなくて、ソフトは映画ビデオなどと同じものとされていたのね。

大体、市販価格の10分の1くらいで、3日くらい借りられる。


先に書いたように、パソコンのゲームは「じっくり楽しむ」ものが多かった。

3日でゲームを終わらせる、なんて無理な注文だし、誰もそんなこと考えてない。


もちろん、レンタルソフトはコピーするものだった。

レコードレンタルだってコピーするのが普通で、複製保証金がカセットテープの生テープに含まれていた。

だから、パソコンソフトだってコピーするのが当然、とみんな思っていた。


この頃になると、もうフロッピーディスクの多い時代。

カセットテープと違って簡単にはダビングできず、特殊な方法で「コピープロテクト」が施されている。


でも、私的複製は法律でも認められた権利なので、コピープロテクトを外してコピーするためのソフト、というのも売られている。

何百種類ものソフトに対応し、コピーできるのだけど、自分自身のコピープロテクトは外せない、という仕組みなので、コピーソフトだけは買うしかなかった。


#他社のソフトのプロテクトを外す、という機能はそれなりにあったけど、コピーソフト会社同士の不文律か、外せるソフトは少なかった。



後に、レコードなどと違って、デジタル情報のコピーは劣化せずにいくらでも作れてしまう、ということが問題となり、こうした「パソコンソフトのレンタル行為」は違法となる。


でも、レンタルは違法でも、中古ソフト販売は違法ではなかった。

だから、こうした店では中古ソフトを7割の値段で売り、3日以内に再度売りに来た場合は6割の値段で買いとる、なんて行為が横行した。


それは事実上レンタルだろう、という裁判所の判断が下りて警察が動き、やがてすべての店が消えうせたけど。




冒頭にあげたツイートでは、BL が見たくてパソコン始めた、と書かれていた。


当時だってもちろん、そういう需要はあった。

BL というより、エロ、特に 1985年には流行していた「ロリコン」ってやつが多かったようだけど。


#ロリコンっていうのは性的指向の意味だけど、当時は特定の絵柄やシチュエーションに対して「ロリコン」という言葉が使われた。


実は僕はこっちの方向は疎くてそれほど知らない。

いや、恥ずかしくて格好つけているとかではなくて、本当に当時興味がなかったのよ。


それでも、雑誌広告などに入っていたので記憶はある。


当時はエロ漫画だってエロ写真集(当時、ビニール袋に入れて立ち読みされないようにしたことから、ビニ本と呼ばれた)だって、モザイクやぼかしが入っていた。


だけど、パソコンなんて一部の人しか知らないマイナー世界。

簡単な線画とはいえ、局所をモザイクなしで描いたゲームが普通に市販されていた。無法地帯。


ここら辺、黎明期のインターネットと似ているね。

内容だってひどいもんで、今だと確実に問題になりそうなシチュエーションを楽しむようなゲームが多かった。


そしてもちろん、そういうソフトが目当てでパソコンを買うような人だっていた。

いつの時代でも、エロと戦争は技術を進化させる。



こちらは、自分のページポリシーで写真なしで…

脱ぎ麻雀コレクターでタモリ倶楽部に出たことでも有名なみぐぞうさんのページに素晴らしいまとめがありました。




とりあえず、思いつくことをだらだらと書いた。

時代背景としては、1985~1990 くらいの話かな。


このページにすでに書いた文章で重複しているものも多いと思う。

特に、ぎーちさんとの対談とは重なる部分が多い。


#ぎーちさんとの話は、パソコンというよりゲームの話題も多かったので、守備範囲が多少違う。


特に関連する話題にはリンクしてあります。

興味があればそちらもお読みください。





後から追記


後から「画像があると想像しやすい」ってリクエストいただいて、画像などを入れ込みました。

普段画像なんて入れ込まないから、入れ方にセンスがないよ(笑)


どこかのサーバーにあった画像などは、直接リンクさせてもらったうえで、出典を明記しています。

問題があれば削除いたしますので指摘してください。



こうした「当時の世相」みたいなものも、どこかでまとめたいと思っていたのですが、とりとめが無くなりやすく、まとめる機会がありませんでした。


今回は簡単な形ですが、まとめるきっかけを与えていただけたことに感謝いたします。


後から追記その2


いろいろと続編書きました。


レンタルソフトのコピーが当然の権利だと考えられていた時代の、コピープロテクトの話。


1988 年、1991年のパソコン事情




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申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

プロテクトの話  2016-03-04 23:54:21  コンピュータ

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先の思い出話の勢いで書いてしまおう。


コピープロテクトの話をいつか書きたいと思っていた。

かける側と、破る側の攻防が好きなのね。


実は、もう3年くらい前に書いて、詰めが甘いのでお蔵入りさせていたやつ。

というのも、技術を網羅できるほどには僕が詳しくなかったもので。


そのまま…出せる感じではないので、ある程度リライトしつつ。




プロテクトの話と言えばまずはフロッピーディスクなのだけど、仕組みを知らないとわからない部分も多いので、ざっと説明。


今では 3.5inch も使ったことがない、という人が多いのだけど、3.5inch は「入れれば読める」ので特に難しくはない。

裏表を間違えて入れようとしても入らないし、ドライブに入れる前は磁性体がシャッターで保護されるし、一番よくできたディスクだ。


5.25inch の場合、裏表逆にしても入ってしまう。

裏表逆でも入ってしまう、というのが面白くて、後で書くのだけどわざと逆に入れることもあった。


そして、ドライブに入れただけでは読めない。

入れた後に、「ノブ」を回してやる必要があった。


このノブは、物理的にディスクの抜き差しを禁止するのと、内部でディスクを上下から抑え込み、挟んで回転させる機構に密着させるのと、両方の意味合いがあった。


8bit コンピューターの時代…1980年代後半は、5.25inch が普通だった。

シャッターもついていないし、3.5inch よりもジャケット(外側の保護プラスチック)が柔らかいので、取り扱いに注意が必要だった。


もっと大きいと 8inch ディスク。実は、これが「標準ディスク」と呼ばれる。

1980年代のパソコンでは使われていない。その時代でも、オフィスコンピューターでは使われていたけど。


詳しくは、8inch ディスクの開発者、シュガートの話でも読んでくれ。




さて、ディスクというのは非常に複雑な機構を持つのだけど、あまりに複雑なので、ディスクドライブだけに専用の LSI を持たせるのが普通だった。

フロッピーディスクコントローラー (FDC) と呼ばれる。


ただし、Apple II では FDC を持たなかった。CPU で直接フロッピーディスクを制御するので、変なことがいろいろできた。


先に書いたけど、PC-8801 では、フロッピーディスクは当初は外付けだった。

外付けだと、CPU との通信にも時間がかかる。これを少しでも効率化するために、ドライブ内にも CPU を搭載した。


なので、メイン CPU とドライブの CPU を通信して、ドライブの CPU が FDC を制御して、FDC がフロッピーディスクを駆動した。

こちらも、変なことがいろいろできる。




プロテクトの基本は、「読めるけど書けない」だ。


ディスクをコピーするときは、読み込んで、同じ内容を書く。

でも、書けなければコピーできない。単純な理屈だ。


問題は、どういうデータが読めるけど書けないのか、だ。

僕もすべてを網羅するほど詳しくないのだけど、いくつか書いてみよう。


(詳しくないし、当然資料も持ち合わせていない。なので、書いてあることには間違いがあるかもしれない。

 いろんな方法がある、という読み物として楽しんでもらい、詳細を知りたければ自分で調べてみてほしい)



▼セクタ数が違う


非常に初歩的なもの。

フロッピーディスクは、データを「セクタ」という単位で区切っている。

セクタはさらに集まってトラックを作る。



これらをいくつにするかは、ある程度融通が利く。

セクタやトラックの数を変えることだってできる。


当時は BASIC が OS みたいなものだったので、BASIC が使用する標準ディスクフォーマット、というものがあった。

そして、この標準ディスクをコピーするソフトも、BASIC のセットに付属していた。


「ユーザーは、このソフトでコピーを取ろうとするだろう」という前提で、BASIC のフォーマットとはセクタの数を変えてやる。

すると、全部のセクタをコピーしたつもりでも、実はコピーできてないセクタが生じる。


でも、すぐに「どのようなセクタ数でも、解析して全部をコピーするソフト」が登場する。

セクタ数を変える、というプロテクトは、短期間しか通用しなかった。



▼CRC プロテクト


ディスクには、セクタごとに CRC というデータがつけられている。

データが壊れていないか検出する、「チェックサム」と呼ばれるものの一種だ。


これを書き換えて、わざと「壊れている」ようなセクタを作るとどうなるか?


FDC は、一応データを読み込みはするのだけど、「壊れている」という報告を返す。

ソフトのほうでは、壊れているなら再読み込みをするのだけど、何度読んでも壊れている。


仕方がないので、何度目かのトライで読み込みを諦め、その時読み込めたデータを信用するしかない。


そして、コピーのためにそのデータを書き戻す際には「正しい」 CRC を再計算して、書き込む。

この CRC の書き込みは FDC の仕事なので、「正しくないものを書き込め」とは指示できない。


ソフト起動時に、このセクタを読み込んでエラーが出れば、正規品だ。



これを再現するには、何度読んでも CRC エラーが出るセクタを見つけたら、そのセクタのデータを書き込んでいる最中に「FDC をリセット」するように CPU から指示を送ればいい。


FDC は、セクタの途中で書き込みをやめてしまう。当然、CRC は計算されず、「それまで書き込まれていたもの」のままだ。

これでセクタはエラーとなる。



▼未フォーマット(コロコロプロテクト)


新品のディスクは、フォーマットしてから使う。

上に書いた、「セクタ」や「トラック」に、データ的な目印をつけてから使うのだ。


ところが、特定のセクタやトラックだけ、わざとこの「フォーマット」作業を行わない、という技法がある。


すると、磁気データが一切書き込まれない。

これは不安定な状態で、データを読もうとすると、読むたびに違う結果が返ってくる。


コピーソフトは、「読むたびに違う」なんて思わないから、1回読み取って書き込んでしまう。

すると、とにかくその時のデータで「確定」してしまう。


プログラムの起動時に、該当セクタを 3 回読み取り、すべてが内容が同じかチェックする。

正規品は、フォーマットが行われていないので、「内容が変わる」はず。

でも、コピーしたものは、常に同じ内容が返ってくる。


一度も使っていない生ディスクを使い、(もしくは、一度使ったディスクに磁石を近づけて内容を破壊し)、コピーする際に同じセクタを複数回読みながら、未フォーマットと思われる部分は飛ばしてコピーする、という手法が現れた。



▼時分秒プロテクト


FM-7 などで使用された FDC では、フォーマット時のコマンドとして F5 F6 F7 の3つの値が使われた。

それぞれ別の意味だが、ともかくフォーマットに必要な処理を行う。


もちろん、これらが意味を持つのはフォーマット時のみで、通常のデータとして書き込む際には、これらの数値は問題なく書き込める。


では、フォーマット時に書き込まないといけないデータ部分に、F5 F6 F7 の数値を利用したらどうなるか?

これは、「使えない」というのが、その FDC での仕様だった。



では、逆に、わざとこのデータを書き込んでしまえばプロテクトになる。

読み込みには問題は出ないが、書き込もうとしても絶対に書き込めない。


F5 F6 F7 は、FM-7 の文字コードでは「時分秒」の文字が入れられていたため、時分秒フォーマットと呼ばれた。



該当 FDC は、もともと「片面ディスク」用に作られたもので、両面ディスクで使用する際には、この FDC とは別に読み書き面を切り替える回路を設けるのが普通だった。


そして、この回路は FDC とは独立して動作する。


なので、時分秒フォーマットを見つけたら、F5 F6 F7 の代わりに、FD FE FF を書き込む。

FD と F5 は、1bit だけ値が違う。他の数値も同様だ。

そして、時間を正確に測り、この 1bit を書き込むタイミングで、書き込み面の裏表を逆にしてしまう。


これで F5 を書き込むことができる。他の値も同様。


#説明が難しいが、信号を逆の面に送ることで、1 のビットは必ず 0 になった。

 また、保護機構があって、裏面が 1bit だけ破壊される、ということはなかったらしい。

 


▼ダブルインデックスホール


5inch ディスクには、小さな穴が1つ開いていた。


未フォーマット時のディスクを初めてフォーマットするときは、何も目印がない。

そこで、この「穴」を検出できるようになっていて、この穴を見つけたらディスクが1周した、と考えてフォーマットを行った。


逆に言えば、フォーマット時くらいしかこの穴は使用されない。

これを利用して、穴を2つ開けてしまう。


穴が特定の位置を通ったかどうかは検出できるので、穴の通る時間間隔を調べれば、穴が1個か2個か、程度はわかる。

穴が2個開いていれば正規品、と考える。



自分で穴を開けるにしても、それなりに正しく穴を開けないと、時間間隔の微妙な違いでコピー品と見抜かれてしまう。

物理的な工作が必要なので、コピーソフトだけでは対応ができなかった。



▼穴あきプロテクト


上と同じような感じなのだけど、ディスクのデータ領域に穴を開けてしまおう、というプロテクト。

その部分を読むと、コロコロプロテクトと同じようなことが起きるので確認できる。


じゃぁ、コロコロと同じようにコピーできる。物理的に変わったことをしても、それほど意味はなかったようだ。


ついでに、穴が開いているために、ディスクドライブのヘッドを傷つける恐れがある、というので、どこかの会社が考えたものの、ほとんど使われなかったらしいプロテクト方法。



▼回転速度プロテクト


ディスクドライブには個体差もあるので、ディスクの回転数は常に同じ、とはならない。

ディスクの回転が異なれば、データの読み出し速度も変わる。


そこで、FDC では、多少読み出し速度のムラがあっても対応できるようになっていた。

ただ、書き込み時には基本的に同じ速度で書き込みを行う。


これを利用して、特殊なドライブで、ゆっくり回転するディスクにデータを書き込む。

ディスクはゆっくり回るので、普通のディスクよりも多くのデータを書き込める。


読むときは、多少の速度の違いは許容されるので、普通にデータが読める。

ただ、ディスク1枚に入るデータ量が、普通より多いだけだ。


この方法でディスクを作られ、データを詰め込まれると、コピーすることができない。

どんなにコピーしようとしても、全データを書き込むことができないのだ。



▼Apple II のプロテクト


先に書いたが、Apple II は FDC を持たず、CPU がすべてを制御する。

そのためおかしなフォーマットがたくさんあった。


ディスクを逆回転させるとか、読み取りヘッドが、普通の 1.5 倍の速度で動く、なんてやり方もあったようだ。


Apple II のディスクドライブは片面だったので、途中で「裏返す」ようなゲームも存在した。

先に書いたが、5inch ディスクは裏返しても入ってしまう。


これを積極的に利用したのだ。


#実際には、裏返して入れることは出来るのだけど、それで読み書きするにはちょっと加工が必要。

 市販ゲームの場合は、もちろん最初から加工してあったし、簡単に加工するための工具も売られていた。



▼パッチ


プロテクトというより、外す側の最後の手段が「パッチ」だ。

最後の手段というか、末期には常套手段になっていた。


ここまでに書いた話では、「コピーする」というのは「オリジナルと同じものを作り出す」ことだった。


しかし、パッチでは、コピーしようとしているのに、オリジナルと積極的に変えてしまう。


ほぼすべてのプロテクトで、「正規品かどうかを確かめる」プログラムが動くことになっている。

このプログラムを動かさないようにしてしまえば、プロテクトを再現できなくてもソフトは動くのだ。



究極の方法…だけど、特に面白さを感じない。

当時はコピーが法的に「認められたもの」から「違法」へと移行しつつある時代で、まだコピーは当然の権利、と捉えられていた。


でも、それは自分で買ったゲームを、万が一の事故に備えてコピーしておく、というような場合だ。

市販ソフトをただで遊ぶためにコピーする、というのは、褒められた行為ではない。


そして、悪い行為に「面白い」も「面白くない」もないのだけど、パッチ当てはあまりにも即物的だ。

コピー、と言っているのだから、元と同じものを再現してやろう、というテクニックには、チャレンジ精神を感じる。



ちなみに、この「パッチ」を禁止してやろうと試みるプロテクトも存在したようだ。


パッチを開発するコピーソフト製作者は、CPU の動作を特別な方法で確認しながら、プロテクトを確認している該当プログラムを探そうとする。


でも、プロテクトの確認を「CPU 以外」がやっていたら?

通常の方法では、プロテクト確認のプログラムを見つけ出せない。


PC-8801 は、ディスクドライブに CPU を搭載していた。

そこで、こちらの CPU にプロテクト確認をさせよう、というプロテクトもあったようだ。


こうなると、パッチを作るのが難しくなる。

人間のやることだから、最後にはばれてしまうのだけど、少しでも「パッチ」に抵抗しようという、防御側の工夫が面白い。





以上。

多分、もっとたくさんのプロテクトが考案されていたはず。


ついでに、ゲーム機のほうのプロテクトの話も…とおもったら、これはすでに過去に書いていた




追記 2016.7.4

2016.6.30に、ハイドライド作者の内藤さんがこのページを見てくださり、思い出話をツイートしていました。


これは貴重な話だと思ったので、ご本人に許可を頂いたうえで引用いたします。


元々は、引用されることなど想定せずに思い出を語っただけです。

間違いなどあっても内藤さんへの問い合わせをしないようにお願いします。


記録が残ることを想定していない文章を引用した以上、文責は僕にあります。




「パソコン向けソフト」の黎明期は、プログラムを作成したメーカーが自分のところで複製を行っていました。

しかし、後にはデュプリケート(複製)業者が現れ、大量生産を請け負うようになります。


そして、業者がオプションサービスとして、プロテクトも請け負うようになります。




上記ツイートは、本人より INT 21H と書いたのは 1BH の間違いです、との訂正情報もいただいています。

INT 21H は DOS の機能を呼び出す機械語命令で、1BH は DISK アクセスのための機能を呼び出す機械語命令。


記憶のみでさっと書いて、よく使う数値を取り間違えただけの些細な問題です。




引用許可をいただいたら、さらに思い出話をしていただけました。


「互換機」などは結構頭の痛い問題です。

こちらは僕の思い出ですが、知人が FM-7 の外付けドライブを購入する際、安い互換品を買ったところ、正規に購入したゲームがコピー品とみなされて遊べない、という事態が発生していました。


MSX なんかは「互換機」しか存在しない市場なわけで、事実上強いプロテクトはかけられなかったようです。

MSX の場合、ROM カートリッジにすることが何より強いプロテクトでもありましたが。



以上、当時現場でプロテクトをかけていた側の方に思い出話をいただけたのは、非常に貴重なことかと思います。

引用の許可をいただき、ありがとうございました。



追記 2016.7.5


上の追記をした翌日、たいにゃんさんが SeeNa で使われた技術と共に、プロテクトの話をしてくださいました。

許可を得た…のかな (^^; リンクさせてくださいと言ったら「にゃーん」と答えられたのだけど。



SeeNa は、たいにゃんさんが PC-8801mkII 用に作られた、迷路の中を駆け抜ける3Dゲームです。

レース+RPG風味…かな? 今でも似たゲームは見当たりません。


本文に書いたように、PC-8801 のディスクドライブは、CPU を搭載しており、任意のプログラムを実行できます。

これを使ってゲームの処理をするという超絶技巧を使い、ヒットしたゲームでした。


SeeNa の技術についてはとても興味深いですし、そちらが話の主体なのですが、togetterまとめが作られているのでそちらを読んでください。



以下、プロテクトに関する部分を引用します。

こちらも、引用した以上文責は僕にありますので、たいにゃんさんに問い合わせしないように。






いろいろ分からなかったので、ツイッターで直接お伺いしました。簡単にまとめます。


SeeNa のプロテクトは多重構造になっていて、


・普通にプロテクトがかけられている

・プロテクトチェック部分はディスク1枚ごとに違う方法で暗号化され、パッチしにくい


・ディスク1枚ごとに、トラックの並び方が違う

・トラックのうち一本は「ハングアップを誘う」トラップ用

・並びの違いは、先に書いた「暗号化」されたデータ領域内に記録されているので、事前にわからない。


・でも、BASIC のディスクをコピーする純正ツールではコピーできる。

 (BASIC のディスク構造を示す fat 領域を巧妙に作り込み、トラップに引っかからずコピーできる)

・ただし、純正ツールコピーでも、違法コピーしたことはゲームを遊ぶとわかるようになっている。



SeeNa はゲーム自体の技術も高かったのですが、プロテクトもすごい…



引用ツイート最初の暗号化部分、簡単に解説すると、シーザー暗号です。

IBM の各アルファベットを、ABC 順で1つ前にすると HAL になる、ってやつ。


ここで「1つ」という数値が「ソルト」と呼ばれます。


#暗号鍵と同じ意味。

 なぜわざわざ違う言い方をするかは、説明が長くなるので興味ある人は調べて。



sub 1(1つ前にする)で暗号化したら、add 1(1つ後ろにする)で復号化できる。

ソルトが変われば数値部分を変える。sub と add を入れ替えると別の暗号になる。


さらに、xor でも別の暗号になる。

この演算は、2回繰り返すと元に戻ります。だから暗号化と復号化は同じ。



市販するディスクをコピーする際に、自動的に sub add xor のどれを使って暗号化するかを選び、ソルトもランダムに選び、暗号化したデータと一緒に適切な復号化プログラムをディスクに書き込む…というソフトを作成したのだそうです。


コピーソフトを作る業者が、プロテクトをチェックしている部分を回避しようと思ってパッチを当てようとしても、パッチを当てたいプログラムは暗号化されている。

しかも、その暗号データは、市販されているディスクの1枚づつで内容が異なる。



ここに、最後の引用ツイート、トラックシャッフルが組み合わさります。


本文最初の方で書きましたが、ディスクはセクタ単位で管理が行われ、セクタをまとめたものをトラックと呼びます。

トラックはディスクに対して同心円状に並び、物理トラック番号が割り振られます。



この順番をディスクごとにバラバラにシャッフルしてしまい、実際にアクセスするときは、シャッフル順を記録したデータを参照して実際の物理トラック番号に変換してアクセスするのですね。


これに加えて、特定の1トラックはおかしな構造で記録されていて、アクセスすると FDC がハングアップする。

シャッフルされているので、そのトラックがどこかはディスクごとに異なる。


ハングアップするトラックを飛ばしてコピーしよう、と考えたとしても、それがどこにあるかわからないのです。




ディスクから起動する場合は、まずトラック0のセクタ1が読み込まれます。

トラック0はシャッフルしない、という理由はこれ。


読み込むんだデータはプログラムとみなされ、実行されます。

これは1つのセクタに収まるほど小さなプログラムですが、続いて複雑なプログラムを読みこませるには十分です。


そして、おそらくここでトラック0から先に書いた「復号化プログラム」が呼び出され、シャッフルされたトラックのデータ(シャッフルテーブル)を含む、暗号化された重要データの復号が始まる。


以降はゲームのシーケンスに入っていくのでしょうが、データアクセスの際には、必ずシャッフルテーブルを参照して、そこに書かれたトラックにアクセスします。


これで、トラックがシャッフルされていても正しいデータにたどり着ける。

もちろん、ハングアップするトラックにはアクセスしないようになっている。



非常に巧妙です。



SeeNa は、「ソフトメーカーのお手製プロテクト」の時代としては、最後に近いものではないかと思います。

もう少し後になると、先に書いたように複製業者が出てきて、プロテクトのサービスを行うようになる。


SeeNa はヒットゲームだったので、後に「ワイド版」というバージョンが作られます。(続編ではない)

このときには、複製業者にプロテクトを頼んだのだそうです。



こうした複製業者のサービスは、専門家なので非常に技巧を凝らしたものだった一方で、あまり手の込みすぎることは出来ません。

すでに完成しているゲームにプロテクトを施すだけだからね。2重3重のトラップは作りにくい。


SeeNa は、非常に凝ったプロテクトの技術としては円熟期のゲームの一つなのだろうと思います。



こんなお話を伺えたのは、非常に貴重なことかと思います。

引用の許可をいただき(…にゃーん?)、ありがとうございました。


2018.7.24 追記


実際に、FM-7 の各種ゲームを中心にプロテクトがどのようにかけられていたか、コピーするとどうなるか、などを説明しているサイトを見つけました。

こういう実例、非常に面白いです。リンクしておきます



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前回は1985年ごろ、というつもりで書いたのだけど、多少突っ込みを見受けたので釈明。


1985年にはもうディスクは一般的だったのでは、と言っている方がいました。

たしかに、一般化し始めていたからこそ、ハイドライドのディスク版なんかも発売されたんでしょうね。


だけど、まだ高価だったのは事実で、中学生への普及率は高くはなかった。

先に書いたように、そもそもパソコンを持っているだけでも珍しい。興味はあるけどパソコンすら買えず、もっと安いポケコンで、というやつだっていた。


#前述の、家にパソコン持っていないのにディスクのゲームを購入した奴は、ポケコンなら持っていた。


あと、1985年「ごろ」なので、それほど話が厳密ではないです。

今でもそうですが、コンピューターを取り巻く状況は急激に変わる。


中学1年の時には、パソコンを持っていることが珍しかったのに、3年の時には PC-8801mkII SR を持っていたのは何人かいたようにも思いますし。


いずれにしても、一般化された話ではなくて「僕の周辺の」話です。

今回はもう少し後の時代を書くのだけど、これも僕の周辺に限った話。




1988 年ごろ…ちょっと前から話を始める。


ファミコンブームはひと段落するけど、ブームの中でゲーム機はファミコンの一人勝ちになっていた。

多数の機種がひしめいていたパソコンも、PC-8801mkII SR の後継機 (以下 88SR)が主流になっていた。


この間に挟まれたのが、MSX 。

MS はマイクロソフトの意味。マイクロソフトの名を冠した、8bit パソコンの決定版!…という触れ込みで発売されていた。


今ではどこの会社が発売した PC でも互換性があるけど、当時は会社が違えば互換性がないのが当たり前。

それを、会社の垣根を超えて互換性を確保しよう、という統一ブランドだった。


でも、先に書いたように、ゲーム機ならファミコンが、パソコンなら 88SR が強くなってきて、MSX はどっちつかずの状態。

MSX を発売しているメーカーにも撤退が相次ぐ中、カシオ計算機が思い切った機能削減により、他社のパソコンの10分の1の値段で発売を開始した。


これで、ゲームをやりたいわけではなくプログラムに興味があり、でも 88SR を買うほど金を持っていない貧乏人の間で、MSX は普及し始める。




僕が MSX2 を購入したのは、この状況から少したって、MSX が安定した勢力になりつつあった頃。

MSX2 は MSX の後継の仕様。カシオの MSX に引きずられる形でどんどん低価格化して、フロッピーディスク付きでも5万円程度で変えるようになっていた。


この当時、88SR を買おうと思ったら、専用ディスプレイ込みで20万円くらい。他社の機械でも同じくらい。

MSX2 は普通のテレビに接続できたので「ディスプレイなし」の値段なのだけど、非常に安かったのがわかると思う。


88SR は同時に8色しか出なかったけど、MSX2 は 256色出せた。

88SR でアクションゲームを作ろうと思ったら大変だったけど、MSX2 はスプライト機能(ゲーム向けの、小さなキャラクタを動かすハードウェア)を持っていた。


メインメモリ容量も同じ 64KByte だったし、MSX2 は全然 88SR に負けていなかった。

いや、当時の MSX ユーザーは、「負けていない」と思いたがっていた。



まぁ、実際には MSX2 の CPU 速度は 88SR の半分だったし、グラフィックが 88SR より荒いのでワープロなどには向いていなかったし、勝負になっていなかったのだけど。




僕は MSX2 でゲームを作ろうと思ったのだけど、なかなか難しかった。


ファミリーベーシックは 4KByte しかなくて、キャラクターはあらかじめ決められた「マリオ」などを使うだけ。

MSX2 は、64KByte 使えたし、キャラクターも自由に作れた。音源もファミコンより高機能だった。


ファミリーベーシックは、何かをやろうとしても「できない」ことのほうが多すぎて、妥協しながらメモリいっぱいになるまでプログラムを組んだら完成、だった。

でも、MSX2 は妥協しないでもいろいろできてしまう。プログラムの完成がいつになるかわからず、モチベーションが続かなくなる。



そして、MSX2 には誘惑が多かった。


ファミリーベーシックには、ゲームなんてなかった。ゲームをやるならファミコンのカセットを買えばいいのだから。

そして、カセットはコピーすることが難しかった。


中学生の頃は、先に書いた通り友達の間でも持っている機種がバラバラ。

コピーが当然の時代で、レンタルソフト屋があった話も書いたけど、そもそも中学生にとってはレンタル代金だって安くない。



MSX2 を買ったときにはある程度機種が淘汰されていて、同じ MSX2 ユーザーが周辺に何人かいた。

ゲームをコピーするにしても、友人経由で無料で回ってくる。必要なのは、生ディスクの代金だけ。


#MSX2 は各社から発売されたため、フロッピーディスクを制御する LSI である、FDC の種類が決まっていなかった。

 このため、プロテクトはかかっていても非常に弱いもので、コピーが簡単にできた。


ゲームを作ろう! と考えていても、面白いゲームが目の前にある。

これがモチベーションを低下させた。


結局、小さなゲームは数本作ったけど、「ゲーム作りが楽しかった」という思い出は、この頃にはない。




話が急に逸れるようだけど、当時は BASIC でプログラムするのが当然。

BASIC では、命令ごとに「行番号」が付くのだけど、これは処理の「とび先」を示すなどの言語機能以上に、大きな役割があった。


長いプログラムの「どこを」編集したいのかを示すのに、行番号を使うのだ。


10 INPUT A


と書いてリターンキーを押せば、この行を「10」という行番号と共に記憶してくれる。


20 END


と書いてリターンを押せば、新たな行を「20」として覚えてくれる。


間に行を入れたいときはどうするか?


今のエディタなら、行の間に空行を作って、新しい行を挿入する。

でも、BASIC ではそうはしない。


全く新しく、


15 PRINT A


と書く。画面上の順序としては、10 20 15 の順に行が並んでいることになる。


でも、LIST 命令で覚えている内容を改めて表示すると


10 INPUT A

15 PRINT A

20 END


と、行番号の順に並び替えられて表示される。


行を消したければ、行番号「だけ」を入れてリターンすればいい。

行の順序を入れ替えたいなら、LIST で表示された行番号を入れ替え、各行でリターンすればいい。



#リターンは今のように「改行」を意味するのではなく、「カーソルのある行を記憶」という指示だった。

 なので、2つの行を入れ替えた際には、両方の行でリターンしないといけない。

 もっとも、この作法も機種により異なり、富士通系ではリターンすると「画面上のすべての行を」記憶した。




この「行番号による編集」は、BASIC のものなのだけど、これを応用して動作するアセンブラなんかもあった。


BASIC が「記憶する」内容は、命令などが解釈された中間形式でメモリ上に置かれる。

でも、「コメント行」は、当たり前だけど解釈が行われない。そのままメモリに入る。


これを利用して、メモリ上に置かれた BASIC のコメント部分を解釈してアセンブルする、というアセンブラがあったのだ。

アセンブラ自体は、BASIC からメモリに機械語を置いて呼び出す形で使う。


1) BASIC で書かれたアセンブラプログラムを入力し、実行する

2) すると、BASIC を拡張し、「アセンブル」命令が使えるようになる

3) BASIC のプログラムを消去し、コメントの形でアセンブラソースを入力する

4) 2 で追加された「アセンブル」命令を使うと、メモリ上に機械語プログラムが生成される


ファイルなどを仲介せず、すべてメモリ上で行われている。

当時は、まだディスクを持っていない人もいたためだ。


当時は BASIC が BIOS であり、OS だった。

すべてをここから実行する。だから、今みたいな「エディタを起動」なんて概念がない。


でも、BASIC は、行番号によるエディタ機能を備えていた。

アセンブラなどのプログラムが作られたとき、このエディタを利用するのはごく自然なことだった。




1988年ごろには、ゲームとプログラムだけではなく、ワープロとかグラフィックソフトとか、他の使い方が一般化し始めた。


この頃、MSX-C というC言語のソフトもあって、僕は BASIC 以外の言語に興味を持っていた。

でも、C言語には行番号がないという。いったい、行番号なしでどうやってプログラムを入力するというんだ?


今から見ると笑い話みたいだけど、当時の僕には本当に見当が付かなかった。



パソコンで文章を書く、ということに興味を持ってワープロソフトを購入し、そこで初めて疑問が解けた。

画面上で文章を編集する、なんていう世界があったなんて!



とはいえ、C言語とかを使うのはまだ先の話。

当時は、この「画面上で文章を編集する」ということが、面白くて仕方がなかった。


#今も、文章を書くこと自体が大好きだ。

 だからこんな駄文を書いている。



それまでは高価な周辺機器だったプリンタも、このころ急激に安くなり始めている。


#裏には、ワープロ専用機のブームがある。

 BASIC ではなくワープロソフトが動くようにしたパソコンと、数行しか表示できない小さな液晶モニタと、プリンタを一体型にした機械だ。



これ以前のプリンタは、ドットインパクトが主流だった。

縦に何本か並んだ細い「針」を、横に動かしながらインクリボン越しに紙に打ち付けて印字する。


カーボン紙を挟んで2枚の紙を置いておけば、正副2枚の書類が作れる。

会社などでは便利だったからこのプリンタが主流だったのだけど、騒音が激しいし、可動部分が多くて作るのも大変なので高かった。


ワープロ専用機では、熱転写方式が主流となった。

プラスチックのリボンの表面に、薄く熱で溶けるインクが塗られている。

この上から、小さなヒーターで文字の形に加熱し、インクを溶かして紙に転写する。



ドットインパクト方式では、インクリボンは布でできている。

打ち付けた後も周囲のインクがにじんでくるため、長期間使えた。

また、上下に2本のインクリボンがついていて、「赤と黒」など、色が使えるものも多かった。


しかし、熱転写では、一度印字に使った個所は、まだインクが残っていても使えなくなる。

そんな形式なので、色を使えるようにすると、ものすごい無駄が出る。


本体は安く、静かだったけど、むちゃくちゃ印字コストの高い方式だった。



僕も、MSX2 用の熱転写プリンタを購入してワープロで作ったものを印刷して遊んでいた。


高校でパソコン部にいたので、みんなに呼び掛けて部誌とか作ってたんだけど、目的は部誌を作ることよりも、当時流行しつつあったDTPの真似ごとをしたかっただけだ。


でも、印字コストが高いので、主に「感熱ロール紙」を使った。


これは、熱に反応して黒くなる薬剤が塗布された紙。

鉛筆の裏で表面をこすると摩擦熱で黒くなる、というくらいの反応性で、長期保存には適さない。


でも、インクリボンを使うよりも、この特殊紙を買う方がずっと安かった。




MSX2 は、ファミコンのようなカートリッジによって、様々な拡張ができた。


今のPCよりずっと優れていて、ハードウェアとデバイスドライバが一体化している。

本当に、カートリッジの差し替えでなんにでも変身したんだ。


先に「ゲームはコピーしたものが回ってきた」というようなことを書いたけど、カートリッジで発売されるゲームも少なくなかった。

本当に欲しければ、お小遣いを貯めて買った。


先に書いたワープロも、漢字ROMなどが必要となるため、カートリッジになっていた。

高校生のお金で買うには高かったのだけど、本当に欲しかったので思い切って買った。


貧乏だと言いつつ、機能拡張には結構お金を使った覚えがある。




なんか、MSX2 の話ばかりになってしまっているけど、当時はそれなりに MSX2 ユーザーの勢力があって、僕が「MSX2 のコミュニティ」内にいたためだ、


あと、中学と違って高校は友達の家が遠いので、友達の家に行って別のマシンで遊ぶ、とかができない。

88SR 持ってた友達もいるけど、数回遊びに行った程度であまり思い出がない。


当時は、BASIC が使える、電卓を巨大化させたような「ポケットコンピューター」もあった。

中学の頃のポケコンは、プログラムができる電卓、という程度の低機能なものだったのだけど、高校の頃には低性能なパソコン程度の力は持っていた。


テトリスが流行した時、ポケコンでテトリスを作ったらクラスで流行してしまい、休み時間になるたびにクラスメイトがポケコンを借りに来たのを覚えている。



あぁ、そうだ。大事な話を忘れていた。


中学の頃は、パソコンはマイナーな趣味だけど、それほど悪いイメージはなかった。

でも、高校の頃には「オタク」や「ハッカー」という言葉が社会的に浸透し始め、パソコンで遊んでいたり、プログラムを作るだけで後ろめたい雰囲気が醸成されていった。


つまりは「パソコンが無視できないものになりつつあった」ことの裏返しなのだけど、多くの大人が、この新しいメディアをどのように捉えていいのかわからなかったんだ。


結果として、もちろんそのコミュニティにもよるとは思うのだけど、パソコンが趣味だというだけで蔑視されたとか、暗い思い出を持っている方も少なからずいるように思う。


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1991年のパソコン事情  2016-03-05 18:18:10  その他

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19851988 と書いてきたのだけど、これで終わりにしようと思う。


1991年、とは書いているけど、僕が大学の頃の話だな。

大学の間に、Windows 3.1 が発売になり、IBM PC が普及する。


後の世界は、今とそれほど変わらないし、パソコンが一気に普及した後だから、思い出話をする人もいくらでもいるだろう。




群雄割拠の 8bit 機で 88SR が主流になり、MSX2 が「貧乏人のための」選択肢になったころを最後にして、急激に 8bit 機の時代は終わる。


時代の転換点は狙い目だ。大きく勢力が変わるかもしれない。

8bit 機で覇権を争っていた各社は、8bit 時代のユーザーをそのまま取り込みつつ、勢力を拡大できるような 16bit 機を発表した。


でも、結局は NEC が強かった。

まだ 8bit 機が主流だった時代から、PC-9801 は発売されていたのだ。


すでにビジネス分野で強みを持つ PC-9801 が、改良されてゲームなどにも強くなった。

88SR からの移行がされやすいように、88 なのに 16bit で MS-DOS 互換性のある「88VA」や、98 でありながら 88 互換機能を持つ「98Do」など、今となっては珍品とされるようなパソコンまで投入し、88SR で固めた地盤をそのまま 98 に受け継いだ。


MSX 陣営も、MSX turboR という 16bit 機を出したのだけど、これはあまり売れていない。


僕は、ファミリーベーシック、MSX2 と渡り歩いてきた。

実は、ファミベはシャープ系のパソコンに相当し、MSX2 とは「スプライト機能がある」という共通点があった。

そして、シャープでスプライトのある 16bit パソコン、X68k を購入した。


16bit パソコンでは、ハードディスクを持つことも普通になった。

今のパソコンと大きくは変わらない姿が、そこにある。


ここら辺の思い出話は、散々書いたからもう書かない。

1991 年のパソコン事情としては、急速に広がりつつあったパソコン通信のことを書きたいと思う。




1985年に電話事業が民営化され、「電話」以外のものを電話線につなぐことが許可されることになった。


これを機にパソコン通信のための会社などが次々設立される。

また、「草の根BBS」と呼ばれる、個人で運営されるパソコン通信ホストも多数存在した。


パソコン通信は、とにかくコストが高かった。

まず、当初はパソコンを電話線につなぐための、モデム装置が高かった。


1985年ごろの初期のモデムは、300bps 。1秒間に 300bit を送受信できる。

データは、カセットテープへの記録と同じように、アナログの音に変換される。だから電話線でも通信ができる。


速度は倍々で上がり続け、1980年代の終わりごろには、1200bps のモデムが発売された。

でも、まだ普及していたとは思えない。一部のマニアの趣味だった。


僕がパソコン通信を始めたのが、たしか 1991 年ごろ…だったと思うけど、翌年だったかもしれない。

9600bps のモデムが、手ごろな価格で発売され始めた。たしか、2~3万だったと思う。

これなら実用的に使える、と思い購入。



パソコン通信には憧れがあったのだけど、とにかくコストがかかる。

自分で稼げるようになった大人の趣味だった。


でも、通信速度が上がれば、コストは下がる。9600bps というのは皆が「これなら使える」と思った節目だったようで、僕の周囲でもこの頃から急にパソコン通信に手を出す人が増えた。




当時は、電話は市内3分10円。


大手のパソコン通信サービスの「アクセスポイント」電話番号は、大都市に置かれるのが普通だったし、利用に別途お金がかかる。

そのため、もっぱら市内の草の根BBSを利用した。


深夜料金だと、割引が利いて、半額程度になった…のではなかったかな。正確に覚えていない。

まだ、深夜がかけ放題になる「テレホーダイ」サービスは始まっていない。



初めてパソコン通信で、他の「ホスト」と接続したときは、不思議な気持ちだった。

目の前のパソコンは、いつものパソコンと同じでありながら、知らない世界に繋がる「窓」になっている。


いつものパソコンなら、ファイルの中身を表示しても、知っている内容しか表示されない。

でも、コマンドを与えると、自分の知らない、誰かの書いた文章が次々表示されるんだ。


自分のパソコンは、自分のものでありながら、誰かのものでもある。そんな気持ちだった。



当時のパソコン通信は、いくつかのコマンドによって動いていた。

ホストの中には、複数の「会議室」があり、文章によって会話が進んでいる。


ユーザーごとに ID があり、その ID で「どこまで読んだか」は管理されている。

だから、会議室に移動して「読む」ためのコマンドを入れると、次々と新しい話題が表示された。


最初は、これをそのまま読んで、返事を書いていた。

でも、1週間もたつとこれはまずい、と思い始める。文章を書いていれば、3分なんてあっという間に過ぎる。

つまり、行動するたびにどんどんお金を取られているのだ。



パソコン通信では、プログラムも多数配布されている。

市販ソフトと違って、大抵はコピーが許可されたものだ。ダウンロードにも時間がかかるため、人気のあるソフトは友達経由でコピーが出回ったりした。


もらったソフトから見つけたのか、自分でダウンロードしたのかは覚えていないが、パソコン通信の接続を「自動化」する環境を構築し始める。




当時のパソコン通信の接続には「ターミナルエミュレータ」を使用した。

前時代的な、ビデオテレタイプ端末を模倣するためのソフトだ。


えーと、テレタイプは 1960年代のコンピューター技術になるのだけど、詳しくは僕の書いた過去記事を参照してくれ。


ビデオテレタイプは、テレタイプを「紙に印字する」のではなく、画面に文字を表示する形で模倣した機械。

紙を使わないから経済的、というようなことから始まって、文字の配置が自由、カラーが使えるなど、テレタイプにはなかった特性を備え始める。これが、1970年代のお話。



実際、アメリカでは当時から「パソコン通信」に相当するものがあった。

パソコンがまだ珍しい時代、テレタイプを電話線で遠隔地のコンピューターに接続し、計算サービスなどを行うものだ。


その中でメールも使えたし、掲示板のような機能もあった。



でも、日本では電電公社以外の会社が電話事業を行うことが禁じられていて、電話線に接続する機械も電電公社の作った電話しか許されなかった。


それが、冒頭に書いたように 1985年の電話事業民営化で解禁されたのだ。


だから、パソコン通信とは近未来の夢の技術、ではなくて、技術的には 1970年代に戻ることだった。

ただし、手元にあるのはただの端末ではなくて、立派なコンピューターなのだけど。



テレタイプなら、受信した文面などはすべて紙に印字されて手元に残る。

ターミナルエミュレーターでは、受信内容をすべてテキストファイルに残すことができた。


そこで、通信を開始したら、とにかくいつも読んでいる会議室のメッセージを全部表示してしまい、すぐに通信を終了する。

これなら通信時間は短く、電話代は安いだろう。


表示されたものはテキストファイルに残っているから、後でゆっくり読めばよい。



とはいえ、だらだらと長くスクロールするテキストファイルは、読みにくい。

複数の会議室のメッセージが1ファイルになっているのも読みにくい。


ここら辺を解決し、読みやすくしてくれる「ログビュワー」と呼ばれる種類のソフトがあった。

自動化の第一歩は、ログビュワーの導入からだった。




ところで、パソコン通信と簡単に言っても、ホスト側の機能によって表示や命令などが全然違う。

ログビュワーも、ホスト側の表示によって影響を受けるため、ホストに合わせたものを使わないといけない。


僕の行きつけだった草の根BBSは、98 の BIG-Model と呼ばれるホストプログラムで運営されていた。

使っていたのは X68k で、中心的な X68k ユーザーは、X68k でホストされたBBSで活動していた。


そのため、見つけ出した、使いやすいログビュワーは、X68k のホストプログラムに対応したものだった。


そこで、こいつを無理やりどうにかする。テキストファイルだからどうにでもなる。

BIG-Model のログを awk で成形し、ビュワーで読める形式に変換できた。



ログビュワーは、メッセージに対する「返信」も書けるようになっていた。

返信を書くときは、内部からエディタが呼び出され、文章作成後に、作成した内容を「アップロード」するためのコマンドを作り出す。


このコマンドも、後で awk で変換するようにした。


ともかく、通信ログをビュワーで見れば、個々のメッセージをゆっくり閲覧・返信などできて、その結果は「次回のアップロードファイル」として用意される。


アップロードファイルと言っても、これはターミナルからホストに送信するテキストに過ぎない。


会議室に入り、「書き込み」の命令を出して、書きたい文章を入れる。

その後、「文章を書き終わった」というコマンドを送る。


必要ならほかの会議室にも次々と入り、文章を次々とアップロードしていく。


一番最後に、「前回アクセス以降の未読」を、会議室を周りながら次々読みだして、終了する。



僕は早寝早起きだったので、深夜 11時の割引時間帯を待たずに寝ることが多かった。

しかし、朝7時の「割引終わり」よりも前に起きる。


X68k はタイマー起動できたので、目覚まし代わりにすでに起動している。


一連の流れをすべて自動的に行うプログラムを作ってあった。


すぐに、このプログラムの実行を指示する。

前日作っていたアップロードファイルを送信し、得られたログを成形し、ビュワーで見られる形に整える。

大抵は3分以内に通信は終了する。



あとは、ゆっくりログをみながら返信を書いた。

送信されるのは明日の朝だ。




パソコン通信では、今では見られないユニークなソフトや、「遊び」が多数あった。


一番書いておきたいのは、「エスケープシーケンスアニメ」のこと。


ターミナルエミュレータは、大抵 VT100 端末をエミュレートしている。

そして、この端末では、エスケープ文字から始まる文字列を、特殊なコマンドとして解釈する。


これによって、画面上の任意の位置にカーソルを移動したり、文字の色を変えたりすることができた。



エスケープシーケンスアニメは、通信が 1200bps であることを前提に、エスケープシーケンスを駆使することで作られた動画だ。


普通は、圧縮したバイナリで、バイナリ書庫に置かれている。

でも、中身はただのテキストファイルだ。

いや「ただの」ではないな。エスケープシーケンスが大量に入っているので、普通のテキストエディタで開いても意味が分からない。



ターミナルソフトには、大抵「ローカルのファイルを、任意のビットレートで通信しているかのように表示する」という機能があった。

これを使い、1200bps として、エスケープシーケンスアニメのテキストファイルを表示することで再生する。


動画、と言っても、文字の組み合わせで表現する。

簡単なアスキーアートを動かして、文字でセリフを表示し、物語を作るのだ。


再生に5分もかかるような大作もあったけど、数秒で終わるけど笑わせてくれる、というような作品が好きだったな。

今でいえば、GIF アニメとか、Flash アニメみたいなものだった。




バイナリ書庫、とさらっと書いたけど、文字で会話する「会議室」以外に、書庫もあった。

ターミナル側が、バイナリの送受信に対応している必要がある。


初期のパソコン通信では、バイナリ書庫が存在しない場合もあった。

そこで、ish というプログラムが作られていた。石塚さんが作ったから ish 、らしい。


任意のバイナリを、テキストに変換してくれる。

初期のパソコン通信は通信エラーで文字化けすることも多かったので、強力なエラー訂正機能も持っている。


今でいえば、BASE64 エンコーディングするようなものだけど、BASE64 程大きくならない上に、エラー訂正もついているという優れたものだった。


…と、書いているけど僕自身お世話になった覚えはない。

パソコン通信やるなら持ってなきゃ、というわけで入手はしたはずだけど、もうバイナリが普通に扱える時代だったからね。



作ったゲームのいくつかは、地元の草の根BBSにアップロードして、転載自由とした。

だけど、「遊んだ」というような感想は聞かれなかった。




9600bps の時代、大きなデータのやり取りは大変だった。


TeX という組版ソフトがあって、これは論文などを書く時にも非常に有用なのだけど、X68k 版はフロッピーディスク3枚組くらいあったと思う。


こういうソフトは、ダウンロードするにも通信費がかかるし、ホストのほうも一人のユーザーがずっとアクセスしていると困る。


そこで郵送による「通信」が行われた。

ネット上で予約して、自分の順番になると誰かからディスクが郵送されてくる。

自分は、コピーし終わったら次の予約者に郵送する。


何とものんびりしたものだけど、僕は友人がこうやって手に入れた TeX をコピーさせてもらった。

卒業論文はこの TeX で書いたよ。


#関係ないけど、前回書いた「MSX2 用のプリンタ」を、X68k に接続して、自分でデバイスドライバ書いて TeX から印刷した。

 そしたら、印刷を見た大学の後輩に「先輩、レーザープリンタ買ったんですか?」と驚かれた。


 TeX の印刷は非常に整った、綺麗なものだ。

 そして、その後輩は「綺麗な印刷 = レーザープリンタ」だと思ったのだ。



同じような目的で、「バイナリ配布オフ」が開かれることもあった。

草の根BBSなんかで、ホストを運営している人のお宅をみんなで訪問するの。もちろん許可を得てね。


ホストが目の前にあるのだから、バイナリファイルは取り放題。

とにかく、大きすぎるデータはパソコン通信の外でやり取りされることが多かった。


ここら辺、今とは違うところ。




バイナリと言えば、画像データも結構人気があった。


ただ、僕はあまり画像に興味なかったんだよね…もらったもののうち、「この絵はいいなぁ」と思うようなものはコピーして保存していたけど。


今なら、WEB で簡単に絵を見せられるけど、当時はバイナリ配布で1枚づつダウンロードしてもらうしかなかったのよ。

しかも、長時間かけてダウンロードして、絵を開くまでどんな絵かわからない。


描く方も大変で、一番の勢力だった 98 を念頭に書かれたものが多かった。


640x400 ドットで、同時に使える色は 16色だけ。ただし、この 16色は、4096 色の中から自由に選び出せる。


こんな色数でも、上手に描く人は上手だった。



ちょっと毛色の変わったところでは、NAPLPS で書かれた絵、というのもそれなりにあった。


NAPLPS は、今でいえばベクターグラフィック。

98 に限らず、どんな環境で表示しても、綺麗な状態で見ることができる。


…とはいっても、「線をひいて塗りつぶし」の連続なので、線はきれいだとしても、塗りがぺったりしていた。

上手に書いたビットマップ絵のほうが、たとえ解像度の変換などでドットがつぶれても、美しい感じ。



NAPLPS には面白いところがあって、計算しながらゆっくり描くので「描いている最中」を見ることができる。

これを使って、絵を描いてから、さらに上に塗りつぶしていく…というような書き方で、動きを見せることができた。


GIF アニメとかの始祖的なものだと思ってもらってもいい。



画像データだけでなく、音楽データなんかも出回っていた。

ただ、こちらは機種ごとの差が結構大きかったように思う。


X68k だといくつかの形式の音楽があったけど、98 なんかはまだBeep音しか出ない機種もあったからね。




いずれにしても、パソコン通信の普及で一番大切なのは、「作成したデータの発表の場」が作られたことではないかと思う。

プログラムも絵も音楽も、雑誌投稿くらいしか発表の場がなかったのが、自由に発表できるようになって活気づいていく。


それは同時に、それらを「消費するだけ」で生み出さない人々も多数いたから支えられたのだと思う。



当時は「読むだけ」のユーザーをROMと呼んで見下す風潮があったのだけど、僕はその風潮に違和感を持っていた。

まぁ、自分もゲームなどを発表した側なので、一言でいいから感想くらいもらえるとありがたいとは思う。

それは厳しい意見でもいい。ちゃんと見てくれた、ということがうれしいし、次回作への意欲となるからだ。


でも、見た人全員が語り始めても邪魔なだけだ。

見たけどあまり興味なかった、という程度の感想が山ほど来ても困るだけだ。




大学卒業後…だから、1993 年以降の話だけど、パソコン部にいたので、仲間は大抵パソコン通信をやっていた。

後輩の友達がやっている、という草の根BBSの中に、メンバー限定の会議室を作ってもらい、そこで連絡を取り合っていた。


この頃になると、インターネットも気になり始めている。

まだ WEB は一般化してないのだけど、日本初のインターネットプロバイダである IIJ が設立されたばかりで、uucp とかは使えるようになっていた。



1995 年には、NTT が「テレホーダイ」を開始する。

同年、Windows 95 が発売。


…でも、Windows 95 には、インターネット接続機能はなかった。

標準搭載になるには、98 を待たないといけない。


#標準ではないけど、95の時代にマイクロソフトは IE を大々的に配布し、インターネット時代が始まる。



僕のこのページは、1996年から作り始めている。

先に書いたように、IIJ はとっくにインターネットサービスを始めているし、テレホーダイも始まって1年もたっている。


「すっかり出遅れた」つもりで始めたのだけど、今となっては「古いサイト」の一つになっている。

見た目も古いし、あまり褒められるところはないのだけどね。



そのころのインターネットの様子は、ジェリー・ヤンの誕生日の時に書いているので、そちらを読んでもらうとわかりやすいかな。



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社会問題の根っこ  2016-03-06 12:27:33  その他

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1月の末に、友達と遅い新年会をやったのだけど、その時の友達の言葉が胸に刺さっている。


その友達、海外を飛び回る「国際技術者」だ。

いろんな国に行って、LSI の開発案件などを受注したり、依頼したり、時には新しい工場の立ち上げなんかもやっている。


だから、日本人と海外諸国の考え方の違いを理解している。




酒を飲みながら話をしていて、社会問題の話に及んだ。

いろんな社会問題があるのだけど、根っこの部分は実は一つに集中していると思うんだ、というところまでは意見が同じ。


僕は、会社に就職することが当然だと思っている状況に問題があるんだよ、と言い放った。

僕自身は独立してフリーで働いている。就職すること自体は悪くないと思うが、依存しすぎは問題だと思っている。


でも、知人は「就職してもいいけど、年棒でないとダメだ」と言い放った。



海外の技術者のほとんどが年棒だという。そして、海外では日本で起きているような悪い状況は回避されている。

すべて年棒だから問題が起こらないのだ、というのが友達の持論。



多分、こっちが正しい。


僕は、就職すれば月給をもらうものだと思っていた。

でも、「就職に問題がある」というのは、この間違った前提に根差した結論だった、と気づいた。


つまりは、月給でなければ就職してもいいんだ。




アメリカ人は残業しない、自分の仕事に責任感がない、とよく言われるのだけど、これは間違っているそうだ。


彼らは年棒で働いている。残業したところで何も得をしない。

だから残業が発生しないように、自分で作業をコントロールしている。



彼らは、日本人以上に仕事に責任を持っている。だから、時間内に仕事をきっちり終わらせる。

時間を超えて働くということは、オフィスの電気代などを無駄に使うことで、余計なコストを発生させる。

それは「責任を持つ人がやることではない」というのだ。


とはいえ、必要であれば残業もする。

余計なコストが発生しても、納期に間に合わずに報酬をもらえない上に、約束を違えたことにより違約金を請求されるリスクに比べればずっと安いからだ。


週末は家族と遊ぶ予定だから、と金曜日に猛烈に残業をして作業を終わらせる、ということもよくあるらしい。




この働き方は、単に「年棒」というだけでは実現できない。


年棒というのは、1年間の給料をあらかじめ固定する、という意味ではなくて、会社が与える作業内容も事前に説明して固定する、ということだ。


予定外の作業は発生しない。

これは「トラブルが起こらない」ということではないよ。トラブルはいつでも起きるし、そのための追加作業は生じる。


でも、自分の責任分担分野は明確にされていて、それ以外の仕事をやる必要はない。

もし、それ以外の仕事を会社から要求されれば、堂々と拒否できるし、年棒の上積み要求だってできる。


つまり、自分の仕事のゴールは働き始めたときから見えている。

ゴールが決まっていて、締め切りも決まっていて、それまでにきっちりと仕事が完成していればそれでいい。


邪魔も入らないからペース配分ができて、「残業を発生させない」という働き方が可能になる。



難しい仕事をこなす人の年棒は高いし、簡単な仕事なら安い。

報酬が安いからと言って不平をこぼす人はいない。

最初に、仕事内容と報酬を説明されて、不服なら交渉する機会も与えられて、双方納得の上で契約しているからだ。


難しい仕事をこなせるなら報酬が上がる、という保証だってあるのだから、会社が予想する以上の働きを見せれば次の契約金だって上がるかもしれない。




最初に「月給」と書いたけど、日本では時給が働き方の基本だ。


一カ月に働く最低時間が定められていて、時給が定められている。

だから事実上の「月給」になるわけだけど、残業をすればどんどん報酬額が上がる。


働く最低時間は決められているが、仕事内容の取り決めはない。

だから、自分の作業が終わって手が空いている場合、新たな仕事が急に持ち込まれることがある。


自分の仕事がコントロールできない。

コントロールできないから、余計に働いた場合に会社が追加の報酬を出すわけだけど。



この環境下において、「最善手」は何だろう?


自分の仕事を、わざと効率悪くこなすことだ。

あまり効率が悪すぎると目をつけられるので、8割の力しか出さない、という程度が良いだろう。


少なくとも、時間内に仕事をすべて終わらせることがなければ、余計な仕事は持ち込まれない。

多少残業をするふりをして、早めに帰るのが良いだろう。



場合によっては、積極的に昼間サボり、残業時間になってから仕事を始めることで残業代を多くもらう、という戦略も考えられる。

仕事はちゃんとこなしているので文句は出ない。余計な仕事も持ち込まれない。給料は多くなる。



いやいや、あまりやると会社だって怒るでしょ、と思う人も多いと思う。

でも、大丈夫。会社だって、みんながこういう働き方をしていることはお見通しだ。


だから、最初から基本給を低めに設定してある。

みんなが残業したがるのだから、残業してやっと普通の給料になるくらいに設定しておけばよい。


ほら、万事丸く収まった。

何かが間違っている、と感じる人は多いとは思うが。




2000年代後半には、在宅勤務という話がずいぶんと脚光を浴びていた。


インターネットで様々なデータが交換できるようになり、リアルタイムにテレビ電話もできるようになった。

これからは、わざわざ通勤しないでも在宅で仕事が可能になるだろう。


これは世界中で注目されていたことだし、世界中で広まった。

実際、在宅勤務は珍しいものではなくなっているのだ。



しかし、日本では普及したという話を聞かない。

一度は導入した会社でも、辞めてしまった例が多いようだ。


理由は簡単で、会社の人事部としては、タイムカードもなく、本当に働いているのかわからない状態で給与を出すわけにはいかないのだ。

試験的に在宅勤務を導入した場合でも、会社で顔を合わせていないと仕事がやりにくい、などの理由であまり評判が良くなかったという。



つまりは、日本人の働き方には在宅勤務は適していない、ということになる。


年棒で働く場合、「成果物」に対して報酬を出しているのだから、働いている時間はどうでもいい。

自分のすべきことはわかっているし、データをもらうなどの必要があるとき以外、人と接触する必要はない。


でも、日本人は時間に対して報酬をもらっている。

見えないところで働いている、と言われても信用できないし、手が空いたらすぐに「忙しそうな人」を見つけて仕事を分けてもらう必要がある。

つまり、常に人と接触していなくては仕事にならない。




日本には保育園が足りていない。


これには2つの面がある。

実際に保育園の数は足りてない。保育士はきつい仕事で、子供に責任を持たないといけないため、最後の一人が引き取られるまで帰れない。


普通の職場なら、9時から17時、というのが標準的な働く時間帯だ。

しかし、保育園は、この標準時間帯に働く人から子供を預からなくてはならない。7時から19時、というような長い時間運営している。


ましてや、親が残業してしまったりすると、19時にも迎えに来れない。

親の残業以上に、保育士の残業は過酷になるのだ。



保育士だって時間をずらして勤務することで長い時間をカバーしているのだけど、大勢でカバーできるほど大きな保育園ばかりではない。


保育園を増やしたいのであれば、残業なんかせずに帰れる世の中でなくてはならない。



もう1つ、本当は保育園に入れたいわけではないのに、保育園に頼らざるを得ない人がいる。

給料が低いため、夫の稼ぎだけでは食べていけない。本当は妻が家を守りたい、という人でも働かざるを得ない。


勘違いしないでほしいのだけど、「妻が家を守るべきだ」と言っているのではないよ。

女性だって、働きたい人が働ける世の中がいい世の中だと思う。


でも、家を守る時間に幸せを見出す人だっている。

女性に限らない。女が働いて、男が家を守るような家庭像だってある。


そういう人も幸せに暮らせる社会がいい社会だと思うのだけど、今は共働きでないと家計が持たない、という人も大勢いる。


保育園に本当は入れたくないのに入れないといけない、という人が幸せに暮らせれば、本当に保育園を必要とする人は保育園に入れやすくなるのだ。




日本での問題として、残業が多いこと、給与が安いこと、在宅勤務ができないこと、保育園が少ないことを挙げた。

もう想像がついていると思うが、これらはすべて、日本人が時給で働いていることに一因がある。


もちろん、それだけがすべてではないよ。社会問題というのは、もっと深く複雑に絡み合っているものだ。


だけど、時給制をやめて年棒にし、個人の働き方の裁量をもっと増やして在宅勤務も視野に入れる。

これだけで、問題の多くは解消に向かうはずだ。



じゃぁ、それが解決策か、と言えばそうではない。

時給制は日本人の働き方に深く根差していて、これを変えることにものすごい抵抗がある。

無理に変えようとしたら、社会システムの違うところにひずみを起こすかもしれない。



年棒で働くということは、「契約は1年単位」ということを意味する。

会社の期待する働きができなければ、来年の契約はない。


日本では「終身雇用」が長かったため、こうした働き方を望む人は少ない。



先にあげなかった問題の一つに、無茶な業務を要求するブラック企業、なんてのもある。

契約で働くのであれば、契約になかった業務を要求されても、従う必要はない。


会社に雇用されている、のではなくて、技術を提供して報酬をもらう、という対等関係だ。



じゃぁ、アメリカだと無茶な要求をするブラック企業はないのかと言えば、アメリカでも年棒ではなく時給で働く人もいて、そういう現場ではやはり同じ問題が起きているのだけど。




アメリカだって時給で働く人もいる、と書いたけど、みんなが年棒で働けるわけじゃない。

最初から「時間こそが大切」な仕事だってあるのだから、そういう仕事では時給が正しいし、突発的な残業に対して報酬が支払われないといけない。


先に保育士の話を出したけど、保育士は「さっさと仕事を終わらせて帰る」などができない職場だ。

そこにいることに価値がある。必要なら、残業してでもいなくてはならない。


こうした職業には時給が適しているだろう。



しかしまぁ、話を進めるために、「目標を達成することに価値がある」仕事を前提としよう。

プログラマーやデザイナー、設計士など、いわゆる「ホワイトカラー」と呼ばれる職業だ。



会社の雇用システムを変える、というのは個人ではなかなかできない話だ。

月給をやめればいいのに、政府は何やってるんだ、大会社は、うちの会社の人事部は何やってるんだ、と怒る人もいるかもしれない。


でも、政府も産業界も、雇用システムを変えるために、とっくに動いている。


もう30年も前、1987年には労働基準法が改正されて、実際の労働時間とは関係なく賃金を支払う「裁量労働制」が導入されている。

ただし、この時点では導入はされたものの、実際には使いにくかった。


その後、1997年に改正されて使いやすくなり、昨年にも改正されて、今年の4月から施行される。



だから、日本でも年棒で働くことは可能だ。

ただし、法律では契約方法までは明記していない。そこは、職種によっても必要な要件が違うだろうし、ケースバイケースだからだ。


そのため、字面だけをみると「残業代をカットしても良い」と書かれているだけの法律に見える。


そこを捉えて、今までと同じように残業は発生するのに、残業代をカットするための法律だ、と、不安をあおる週刊誌などが多い。

労働団体なども、裁量労働の導入に反対していて、会社が導入できないかもしれない。


つまり、法律が作られて状況は整っているけど、社会は変わらない。




そうではない。


労働基準法に定められたのは、これが労働者を救うための策だからだ。

労働基準法は、「労働者を会社から守るための法律」だ。


「裁量労働」というのは、時間に縛られずに、自分で労働方法を決められる、ということを意味している。

自分で効率の良い方法を見つけて時間を短縮しても、「はたらいている時間が短い」ことを理由に、会社が給料を減らすことができないように規定しているのだ。



もし、業務内容も示されずに「裁量労働に移行したい」と会社から持ち掛けられたら、それは警戒したほうがいい。

裁量労働の名のもとに、年棒だけが導入されて、働き方は今までと変わらない可能性が高い。


裁量労働なのだから、先に仕事の内容と報酬を決めた契約書をまとめてほしい、と依頼しよう。

これなら年棒の導入と同時に働き方も変えることができる。それが本来の「裁量労働」の意味だ。


もし拒否されて、裁量労働に移行できなかったとしても大丈夫。

今まで通りの安月給と残業の山が待っているだけだ。

残業代カットされるよりは、残業代が出たほうがいいだろう?


会社がちゃんと考えてくれているなら、仕事内容が確定して、それ以外の仕事は受けなくてよくなる。

残業は激減し、それでも給与は「全く残業しない場合」よりは上がるだろう。




うちの会社も早く導入してくれないかな…と思ったのであれば、会社がやるまで待つのではなく、自分から会社に掛け合う方法だってある。


とりあえず、2~3か月間の作業時間と作業内容の記録を細かくつけてみよう。

そのうち、どれほどが「自分の本来の業務とは関係ない」作業だろうか。


本来の作業だけならどれほどの時間で終わったかを計算し、その場合にもらえた給与の総計よりも、「少し安い」額を提示して会社に掛け合ってみよう。


本来の業務は絶対にこなすから、この年棒で裁量労働にさせてくれ、と頼むのだ。

提示しているのは今までよりも安い額なのだから、会社にとって損な話ではないはずだ。


でも、これは君にとっても損しない話だ。

急に持ち込まれる仕事で心理的にダメージを受けることも無くなるし、早く帰ってゆっくり休める。


おそらくは、それらの効果で今までよりも仕事の能率が上がるので、作業時間に対する給与は、おそらく上がる。



政府は、会社は何をやっているんだ! と怒る話じゃないんだ。

政府も会社も解決策を提示しているのに、それを嫌がっているのは労働団体や、労働者個人。…つまりは、自分たち。


ここで労働団体や他人に怒るのも間違っている。

嫌な人は受け入れないでもいい。そうした多様性を認めるのが成熟した社会だ。


でも、あなたが残業を減らしたいのであれば、自分だけでも裁量労働制を認めさせればいい。

誰かがやれば、それは前例となって後に続く人も出る。




ここで今更なのだけど、実はこの記事は「プログラム学習」の話を書きたくて書き始めたものだ。


諸外国では今、プログラム学習がブームになっている。

でも、日本ではどうも、これがただのバズワードにすぎず、何のためにプログラムを学習するのかよくわからない、という反応が多い。


裁量労働が当然になり、働く時間に関わらず給与がもらえ、たとえ早く作業が終わっても余計な仕事が持ち込まれない、となった時、どうするのが最善手だろう?


もちろん、仕事をできるだけ短時間で終わらせて、さっさと帰ることだ!


コンピューターのパワーを駆使できるのであれば、仕事を高速に終わらせることも可能になるだろう。

みんな、そのためにプログラムを覚えたいんだ。



今、日本でプログラムを学んで仕事の効率を上げたらどうなるだろう?

他人の仕事が持ち込まれて忙しくなるだけだ。

または、残業代がカットされて給与が下がり、生活が苦しくなるだけだ。


これでは、誰もプログラムを覚えようと思わないのが当たり前だ。



僕はプログラムの学習には、「頭をよくする」効果があると思っているので、プログラム学習は推進したい。

でも、残念ながら今の日本では、プログラム学習で得られるものを提示しにくい。


その問題の根っこは、ほかの社会問題の根っことつながっている、と思うんだ。



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【訃報】レイ・トムリンソン  2016-03-07 11:47:39  コンピュータ 今日は何の日

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レイ・トムリンソンが3月5日に亡くなっていたそうです。


現在の電子メールの考案者で、「ウィルスとワクチン」を作り出した人でもあります。


どちらにしても、ネットワークを介して、情報やプログラムを送信できることを示しました。


以前、誕生日記事を書いているので詳細はそちらを参照。




ウィルス・ワクチンに関しては、彼の功績を示しにくいのだけどね。


元となるプログラム「クリーパー」を作ったのは同僚で、彼はそれに「いたずら」を加えただけ。

いずれも、作られたのは 1970年ごろ。



元のクリーパーは、コンピューターからコンピューターへと、渡り歩くものでした。

AからBにプログラムをコピーし、Bで稼働を開始したらAのプログラムを消去する。


これは、通信とプログラムの関係性で何ができるか、という実験だったのね。



でも、レイはいたずらして、「Aを消去する」部分を失くします。

これで、改造クリーパーは無限に増殖することになった。


しかし、無限に増殖するプログラムは困ります。

そこで、これを駆除するプログラムも一緒に作った。


こちらは「リーパー」(死神)と呼ばれます。



ここで、現代のウィルス・ワクチンらしくなる。

でも、名前はクリーパーとリーパーです。




ウィルス・ワクチンと名付けたのは、おそらく HARLIE

1972年に発行されたSF小説です。

この中で「クリーパーとリーパー」の話が、「ウィルスとワクチン」という名前で使われている。


こちらの名前のほうが実態に即していたし、わかりやすい。

でも、当時はまだコンピューターが一般的ではなかった時代。これは「笑い話」として広まります。



本当にパソコンに感染する「ウィルス」が発見されるのは 1982年。10年もあとの話です。

このときには「ウィルス」と呼ばれていますから、HARLIE の影響があったのでしょう。




そんなわけで、レイ・トムリンソンは、ウィルスとワクチンを最初に作った人でもあるのだけど、こちらは言いにくい。

言ったとしても、ウィルスって社会的にいいイメージ無いしね。


でも、「電子メールの人」だけじゃなくても、もっといろんなことしているのです。




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今日は、クララ・ロックモアの誕生日(1911)


この人は知っていたのに、そう言えば誕生日を調べていませんでした。

今朝、Google Doodle になっていて知った。


電子楽器の始祖とされる「テルミン」の最高の演奏者であり、その楽器の作成者であるテルミン博士の一番の理解者でした。


テルミンについても、その最高の奏者であるクララさんについても、テルミン博士の誕生日に詳しく紹介しています。


詳細はそちらをお読みください。




テルミンって、古臭い、奇妙な楽器…ではないですよ。


テルミンの原理を元に、モーグ博士が世界最初のシンセサイザーを作っています。


その後類似のシンセサイザーを作るメーカーがたくさん現れるけど、ヤマハはデジタル化した。

FM音源ですね。その音源を搭載したキーボード、DX-7は今でも名機と呼ばれます。


で、同じくヤマハが開発した、歌うシンセサイザー技術「ボーカロイド」を商品化する際に、DX-7 を擬人化したイメージのイラストが使われた。

これが初音ミクです。


ほら、ちゃんと現代に繋がった。


#お、当時のクララ = 現代のミク という妙な図式が思い浮かんだ。

 僕のイメージするクララはおばあちゃんなのだけど、若いころはきれいな人だったそうです。




楽器としてのテルミンや、テルミン博士についてはいろいろと知られているのですが、クララさんの生涯についてはあまり情報がありません。


まぁ、Wikipedia とか見れば少しは情報はあるのだけど、本当に少し。


以下、細かな情報と、僕の記憶(怪しいもんだけど)をつなぎ合わせて、クララさん視点で追ってみます。




テルミン博士はロシア生まれ。

電気工学の博士で、テレビなどの開発も行っています。


人が近寄ったことを感知する「近接センサー」の開発中に、これで音楽を奏でられることに気が付きました。


その後、ヨーロッパへの演奏旅行を経て、アメリカへ。




アメリカで研究所を設立し、電子楽器の研究を続けます。


ここで、クララ・ライゼンバーグと知り合う。

ライゼンバーグは、クララの旧姓ね。



クララは子供の頃にバイオリンを習っていましたが、病気がもとで断念しています。

でも、優れた音感の持ち主でした。


テルミンは演奏が難しい楽器ですが、自由な周波数…音階ではなく、自由な音が出せるという点でバイオリンに近いです。


実際、多くの人がテルミンをバイオリンのように扱います。

しかし、クララはテルミンの演奏法を独自に研究し、テルミン博士に改良を要請し、テルミンでないとできない素晴らしい演奏を行うまでになります。




テルミン博士は、彼女に何度かプロポーズしたそうです。

でも、クララは博士とは結婚していません。


だって、博士はすでに結婚していたのですよ!

ソ連で結婚して、家族一緒にアメリカに来ているのです。



しかも、どうも博士は女癖が悪かったらしい。


電子音楽に興味を持ち、博士にコンタクトを取ったバレエ団がありました。

このバレエ団のプリマドンナ(看板バレリーナ)と恋仲になり、妻と別れて再婚しています。


アメリカにもソ連人を中心としたコミュニティがあり、博士はそのメンバーでもありました。

そして、プリマドンナとの結婚に周囲は反対していて、結婚後はコミュニティから半ば離脱した状態に。



クララは、法律家のロバート・ロックモアと結婚。

クララ・ロックモアを名乗り始めたのはこの後です。



そして、テルミン博士はある日急に姿を消します。

皆にお別れを言うでもなく、本当に音信不通。


そのまま 50年の時が立ちます。




テルミン博士は、ソ連の秘密組織 KGB に拉致され、ソ連に強制送還されていました。


…となっているのですが、博士が借金で苦しんでおり、自分から送還を望んだのだという話も。


ここら辺、はっきりしないです。多分どちらも本当なのだろうね。

KGB は、優れた工学博士であるテルミン博士を連れ戻したかったし、テルミン博士は戻っても良い頃合いと感じていた、ってところなのでしょう。



今の若い人にはわからないかもしれないけど、当時のソ連は恐ろしい国でした。


技術力は高かったのよ。民間主導のアメリカと違って、何かをやるときは国が一丸となって達成する。

だから、当初の技術力は非常に高いのです。


当時のソ連は、すべてを国が主導する。民間主導のものなんて、基本的にない。

この結果、企業間競争もないので、だんだん技術力が落ちて行ってアメリカに抜かれるわけだけど。


そして、「国のため」という大義名分のためには、平気で人を拉致するし、歯向かう人は抹殺されるし、それでいて外には全然情報が出てこない。



だから、テルミン博士がどこに消えたのか、誰もわかりません。

ソ連に帰ったのかどうかすらわからない。もしかしたら、ニューヨークの路地裏でたまたまチンピラに絡まれて殺されてしまった、というだけかもしれない。




たしか、映画「テルミン」を撮った監督は、クララの親戚だったか、親戚の友達だったか、ともかくクララとたまたま接点のあった人なのだそうです。


すでに「テルミン」という楽器も忘れされれていたけど、クララの演奏を見る機会に恵まれた。

そして、すでに演奏者はほかになく、演奏すること自体が難しく、年老いたクララだけがこの楽器を守り続けているのだ、と知ります。


そして、このスゴイ事実に巡り合えた幸運を喜び、映画作品としてクララさんの演奏を残したい、と考えます。



記録映画とするために、古い写真と当時を知る人も証言をもとに、テルミンの歴史などを再構成。

もちろん、最高の演奏者であるクララさんの演奏も途中に挟まれます。


そして、当時ペレストロイカ(情報公開政策)を進めていたソ連から、テルミン博士を探し出し、クララさんと再会を果たします。


「テルミンのことを記録したい」という動機で気軽に作られ始めた映画が、50年間音信不通だった博士を探し出し、再会を果たすという、作る側も予想しなかった結末へと進んだのです。




この映画が公開される前に、テルミン博士は亡くなります。

そして、5年後にはクララさんも亡くなります。


日本で映画が公開されたのは、アメリカでの公開から8年後。

お二人とも亡くなった後でした。


しかし、亡くなる前に再開を果たせてよかった。

心からそう思います。


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なんでもない日おめでとう!  2016-03-11 14:01:31  その他

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5年前の今日が大変な日だったからこそ、あえて書く。

なんでもない日おめでとう! と。


Twitterのディズニー公式氏が、昨年の8月9日、長崎原爆忌に流してしまったツイートの文句がこれだった

どうも、何か手違いがあっただけで、何の意図もなかったようだけど。



だけど、考えてみてほしい。

大変なことがあり、日常が破壊されると、なんでもない日常がどれだけ貴重なものかよくわかる。


5年前の今日、地震が起きてから、日本中が変わったと思う。

いい意味でも悪い意味でも変わった。


あんなことがあったのに、何も変わらない、と怒る人もいるけど、「あんなことがあったのに」って、以前は言わなかったでしょ?

やっぱり、震災以降で変わっている。



なんでもなかった日々のなんと平和だったことか。

なんでもない日々を取り返すために、努力を続けなくてはならない。




復興に向けて支援を続ける人がいる。

今も福島第一原発の廃炉作業に向けて作業をする人たちがいる。


そうした人々の努力は本当に頭が下がる。

でも、日本国民のほんの一部に過ぎない。1%にも満たないだろう。


残りの 99% 以上が、今何をすべきか考えないといけない。

復興に向けて…とか、大げさに考えるのはやめておこう。


無理しても続かない。今できる、小さな一歩を踏み出してみることだけを考えよう。


被害が大きかった地域の支援をしようというんじゃない。


いつか必ず来る、次の大地震に備えて…

それが自分の住む地域を襲うときに備えて…


まずは、食糧の備蓄をする。壁に止められていない家具を固定する。つい開けっ放しにしてしまう食器戸棚をしめる癖をつける。

そんな些細なことで、有事の命を守れる。けがを防げる。救援を呼ばなくてよくなる。

災害の時は、救助の義務を負う人々は大忙しだ。少しでも手を煩わせないようにする、という些細な心掛けが、他の人に対する、何より大切な支援となる。




食料の備蓄は、家族全員が3日生き残れるように…というのが基本だけど、1日分でも、ないよりはずっといい。

5年もつ缶詰とか、高価なものを買う必要はないし、高価なものは3日分を揃えるのが難しい。


普段の食事にも使える、普通の缶詰や乾物、6カ月以上日持ちする普通のビスケットで構わない。

ちょっと多めに買い置きしておいて、賞味期限前には食べてしまえばいい。


水も同じく。一人1日3リットルとして、我が家は5人家族なので、3日分で45リットル。

「5年もつ水」みたいなので揃えたら高くつきすぎて続かない。

ペットボトルに汲み置きして、3日以内に使うつもりで回している。


正直に言うと、我が家の場合30リットル程度しか置いていない。目標に足りない。

これでも、ペットボトル20本くらいあるからね。水の確保って、ものすごく大変だ。


こうした、普段から使いながら備蓄することを、ローリングストックという。

特別な高いものを買う必要はないし、普段から賞味期限を気にしているので、いざというときに使えない、ということもない。




地震だけを想定してはいけない。

新型インフルエンザなどが蔓延して、人との接触を避け、できるだけ自宅から出ないように要請される、という事態もあり得る。


震災なら「避難所」が開設されて、皆で助け合えるかもしれない。

でも、そうではなく、人を避ける。助け合いは出来ず、食料の調達なども最低限に抑える。


そういう時に、家に1週間こもって生活ができるか?



災害時は、ガス・電気・水が止まる可能性が高い。

備蓄食料としてカップラーメンを置いといたけど、お湯が沸かせない、という事態もありうる。


乾パンなどは備蓄しやすいけど、なにぶん乾燥しているために、食べるのに喉が渇く。水を多めに必要とする。

先に書いたけど、水の備蓄は大変だ。こうした「乾燥した食料」に頼るのは良くない。


そういうことまで考慮して備える必要がある。



うちの場合、庭があるので焚火台と炭を常備している。

夏には家族でバーベキューとかやるし、これも普段使いのローリングストック。


火があればお湯が沸かせる。カップラーメンだけでなく、多少の調理も可能だ。雑草だって味噌汁にすれば食える。

そして実は、これは足りない水の問題の対策でもある。


幸い、うちの近くに、飲むことができる湧き水がある。とはいえ、生水なので飲むときには煮沸が必須だ。

燃料を用意して、電気やガスが止まっても水は沸かせる、という前提があるから、水が少し足りなくても大丈夫だと思えるのだ。


備蓄の方法に正解はない。

それぞれの家庭に合わせた方法で備蓄をしなくてはならないし、数年ごとに内容を見直さないと、家族の成長に従って必要なものも変わっていく。


「災害用備蓄袋」みたいなセットを売っているけど、あれを買ったから備えがある、などと考えたらだめだ。

買っても良いのだけど、それが最低限の備えだと考えて、さらに家族に合わせた構成を考えなくてはならない。


#ちなみに、災害用備蓄袋の水は、全く不十分なことが多い。

 多くて2リットルくらいしか入っていないのに、「3日分の備え」だとか宣伝しているのが多い。




耐久消費財も同じ考えで行ける。

災害への備えを特別なものにするのではなくて、普段から使うものを揃える際に、災害時でも役に立つこと、という視点で見るのが良いだろう。


太陽光式の単三電池充電器を買って、普段使いしている。

充電速度は遅いのだけど、普段使いの電池はこれで全部充電できている。


普段家事をしながら聞いているラジオも、内部に充電池が入っていて、単三電池でもつかえる。

普段は常に充電状態で聞いているので、急に停電になってもしばらくは聞き続けられる。



結婚前に、キャンプが好きで買ったストーブ(調理器)、ランタンなどは置いてある。

テントや寝袋は邪魔で捨ててしまったのだけど、これらは残してあるのだ。


ホワイトガソリンと普通のガソリンのどちらでも使えるタイプなので、燃料が足りなければ自動車からガソリンを抜き取って使うこともできる。




話は変わるけど、被害の大きかった地域への支援もまた、普段の生活をしながら行うことができる。


寄付を出したり、ボランティアに駆けつけたりできる人はやったほうが良いのだけど、そんな特別なことでなくても支援になることはいっぱいある。


うちは、震災前から福島のお米をよく買っていた。美味しいからね。

震災後も変わらず買っている。


スーパーの店頭でも、福島産の野菜があれば優先して買う。

まぁ、あまり値段が高いと躊躇するけど、少し高いくらいなら問題ない。


以前は値段が安いものを選んでいたね。あまり産地は気にしなかった。

今は、応援したいという気持ちで買っている。



しかし、5年たってもまだ「風評被害」が無くならないという。


リスク正当に評価をできない人がいるのは、残念だけど事実だ。

「風評被害をなくすために積極的に情報発信」とかやっているようなのだけど、残念な人はそもそもそういう情報を見ないので、届かない。


僕は、福島産と書かれていたら積極的に買うようになった。

残念な人がいるのは事実だけど、ほんの一部に過ぎない、というのもまた事実だ。

ならば、福島産の安全性を理解している人が、ちょっと多めに買えば、風評被害を少しでもカバーできるだろう。



福島への旅行も2回ほど行った。

これも、毎年どこかへ行っている家族旅行の一環なので、それほど無理はしていない。


ちょっと遠かったのは事実で、移動時間が長かったのが子供にはつまらなかったようだ。

でも、楽しかったのでまた行きたいというリクエストはもらっている。



うちはたまたま福島を応援しているのだけど、それぞれの想いで別の地域でもいい。

東北に限定する必要すらない。


茨城なんかは結構被害は大きかったのに、東北ではないので支援の手が届きにくいと聞く。

そういう場所も積極的に支援してよいと思う。




5年目を前にして、震災を風化させない、という言葉をよく聞くようになった。


積極的に言っている人の中ではすでに風化しちゃってるんだろうな、と思う。

あれだけの大災害だった、という記憶があって、ほとんど忘れていることに罪悪感がある。

だから「風化させない」と言葉にして、気持ちを引き締めている。



でも、この言葉とセットとなっているのが、ほとんど「東日本震災の記録」とか「復興の現状」なんだ。

今後の備えにしようとか、自分は些細だけどこうした活動をしています、とか、そういう言葉は聞かれない。


「風化しない」っていうのは、普段から考え続けているということだし、それであれば常に「自分のこと」として語られるはず。



5年前、地震のすぐ後に僕は、この地震はみんなが被災者だ、ということを書いた。


「被災地」という言葉は、自分が住んでいる「ここ」ではないどこかを示す言葉だ。

つまり、他人事だ。そういう意識でいればすぐに記憶が風化する。


今自分に何ができるか。

もし自分の身に同じことが起きたらどうするか。


他人事ではなく、常に「自分」に置き換えていれば、決して風化しない。

「風化を食い止める」とかではなくて、常に新鮮なんだ。


それは、普段の生活に経験を活かして、なんでもない日でも有事に備え続けるということだ。

今日も皆が笑顔でいられたことに感謝しつつ、明日も同じ日が続けられるように備え続ける。



この、なんでもない日々に感謝して。

なんでもない日おめでとう!


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オーレ・キアク・クリスチャンセン 命日(1958)  2016-03-11 17:12:09  歯車 今日は何の日

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今日は、オーレ・キアク・クリスチャンセンの命日(1958)


LEGO 社の創業者です。


2年前に誕生日記事を書きました

なので、どんな人かはそちらの記事参照。


その記事の最後で、LEGO とデュプロの互換性について「解説はまた別の機会に」と書いたままになってました。



というわけで、解説したいと思います。

…が、この話、言葉だけではうまく伝わらない。


写真があっても、接続すると接続部分は内部に隠れてしまうので、伝えられない。


上手なイラストがあればわかるかもしれませんが、僕はそういう絵は描けない。


…というわけで、かなりわかりにくいと最初に謝っておきます。




まず、前回の話のおさらいから。


LEGO ブロックは、いくつかの基準サイズがあり、各部がこの基準に従うように、非常に厳密に作られています。


たとえば、ブロック上の凸部。レゴを裏返した時に見える「パイプ」の中の穴と同じサイズです。


といっても、レゴはパイプの穴と凸が組み合わさって組み立てられるわけではないですよ。

なので、このサイズは直接的には無関係。


でも、穴に入れること「も」できる。

凸1個分しかないサイズのブロックを使えば、普通とは少しだけずらした位置にブロックを置ける、ということを意味します。


レゴの人形の手の外側の径は、凸と同じです。

なので、人形がブロックを持っている、という演出もできる。


裏のパイプの外側の径は、凸を2×2に並べたときの、中央にできる隙間にぴったり収まるサイズです。

というか、もともとそこにパイプがハマることでレゴは固定されます。


レゴブロックには、凸1個分のサイズの小さなブロックの円筒形もあります。

この円筒形の底の部分は、パイプと同じ構造。凸にはめることもできるし、凸の間にはめることもできる。



ちなみに、凸の間の隙間は、薄いブロックの厚みとも同じ。

だから、薄いブロックを凸に挟む、なんていう、普通とはちょっと違うつなぎ方もできます。




他にもいろいろと「思わぬところに繋げられる」面白さがあるのですが、ここら辺は以前も書いたこと。


今回は、デュプロとプリモ(ベビー)についても書きましょう。



デュプロは、レゴの2倍サイズのブロック。

デュプロとは、Double 、2倍の意味です。


縦の大きさが2倍。横の大きさも2倍。高さも2倍。体積では8倍ですね。



デュプロは、レゴとは少し見た目が違います。

凸部が、単純に出っ張っているのではなくて、円筒形になっているの。


それと、薄いブロックが本来の高さの半分になっている。

LEGO は3分の1なのね。このため、薄いブロックを凸部の隙間に立てる、という繋げ方は出来なくなった。



厚みが変わったのは、実は内部構造が少し違うためです。

LEGO は、裏に入っているパイプが、ブロックの底のぎりぎりまで来ています。


でも、デュプロでは、パイプが少しだけ短い。その短いパイプに届くように、凸部が少し高い。

結果として、3分の1の薄さにはできない構造になっている。



単純にサイズを2倍にしただけのはずなのに、なぜこんな細かな違いが?

…ここが、デュプロの良くできているところです。



凸部の円筒形の穴の中の径は、LEGO の裏のパイプの外の径とぴったり同じです。

これにより、2x4 の、一番標準的な LEGO ブロック(裏のパイプは、凸の隙間に入るため2本)を、デュプロの凸2つの部分の上に載せるように接続できます。


また、デュプロブロックの「壁の厚み」は、LEGO ブロックの高さの6分の1になっています。

3分の1の高さの薄いブロックは、LEGO の凸の隙間に入るのでした。じゃぁ、6分の1は?


「LEGO の凸の隙間に、壁が2枚入る」で正解。

裏のパイプは、少し長さを短くしているため、LEGO の凸には干渉しません。


これによって、LEGO の上にデュプロを載せて接続できます。



言葉で説明すると長いし、写真を出したところで理解しにくい。

(つながっているときは、巧妙な部分は隠されているから!)


でも、非常に巧妙な方法で、LEGO とデュプロは相互接続可能な互換性を保っているのです。


全然サイズが違う商品だし、最初からこうした仕組みを考えていたわけではない(デュプロはずっと後に発売された)のに、最初から単位系をしっかり考えていたからできた芸当だと思います。



じつは、デュプロのさらに2倍サイズでデュプロと接続できる「クワトロ」というのも一時期発売されていました。

1歳の赤ちゃんでも遊べる、という触れ込みだったけど、そもそも「ブロックを接続して形を作る」というのは、1歳の子が興味を持つことではない。


そんなわけで、今は発売していません。僕も見たことありません。


LEGO 、デュプロ、クワトロを接続した写真が出ているブログを見つけたので紹介しておきます。




さて、クワトロは1歳の子が興味を持つような遊びではなかったのだけど、LEGO ベビーという1歳児向け玩具もあります。


以前は「プリモ」という商品名だった。「最初の」という意味の言葉ね。

プリモはブロックおもちゃだったのですが、ベビーのブランドは、プリモを含む赤ちゃんおもちゃ全般です。


なので、ここではベビーブランドの中のブロック製品、という意味で、旧称のプリモで呼びます。




プリモの基本サイズは、デュプロの2倍、です。

つまりはクワトロのサイズなのですが、プリモではあくまでも「基本」というだけ。


というのも、プリモは、3か月の子供でも遊べるように、できるだけ丸く作ってあるのです。

なので、2倍サイズだけどきっちり2倍ではない。ブロックのように組み合わせて形を作ることは考慮していない。


基本的には円筒形。そして、円筒の頭に、半球型の凸があります。

円筒の底に、この凸を入れる形で組み合わせられます。


もうね、ブロックではないです。

組み合わせられるといっても、1歳未満児向けが遊べるように、かなりゆるゆる。形なんか作れない。

逆さまにすれば落ちるし、ただ積み上げていても途中から曲がってくる。


でも、基本的な円筒形ブロックは、中にビーズが入れてあって動かすとカラカラ音がするの。


子供と遊ぶ時は、親が積み重ねてあげる。

それを子供が軽い力で叩けば、緩い接続なので、すぐ崩れてバラバラになる。

中にビーズが入っているのですごい音がする。


赤ちゃんって、こういうの大好きです。

まだ手足を動かすのも自由ではなくて、狙った通りのことが起きるだけでうれしい段階。

「崩すぞ」って思って崩せるだけで大喜びです。


やがては、自分で同じ遊びをしようとして積み上げ始めます。

目的は崩すことなので、高く積み上げられずに崩れても楽しい。

ちゃんと「最初のブロック遊び」の導入として、赤ちゃんが楽しめるように作ってあります。


他にも、円筒形ではない、いろんな形のブロックを、同じ形の穴の開いた箱に押し込む「ぽっとん遊び」とかができるセットもあります。




そしてデュプロと接続できます。


デュプロの上にある凸部の、 2x2 の部分が、プリモの円筒の内側にぴったり内接するように作られているの。


ただし、「繋げられる」だけで、構造物に組み込もうとするのは難しい。

先に書いたように、キッチリ2倍ではないので、周囲のブロックと干渉しやすいから。

面白い形を一部に入れて、飾りに使う程度に考えておいた方がいい。


逆に、プリモの上にデュプロを載せることもできます。

…けど、これはちょっとおもしろくない。プリモの円筒の上に、デュプロの凸をつけてある特殊ブロックがある、というだけの話。


相互に互換性があるのではなくて、変換コネクタがあるということですね。


デュプロの上にプリモ、は互換性があるけど、プリモの上にデュプロ、は変換コネクタが必要、という一方向の互換性です。






今回の話、写真などではなくて、実物を見て自分で組み合わせながら読まないと理解できないな (^^;;


ずっと以前から書きたかったのだけど、どんな方法で書いても伝わりにくいと気づいて書かなかった、という話でもあります。


まぁ、細かなことがわからなくても、LEGO ブロックってよくできているんだな、ということが伝わってくれればいいです。



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アレクセイ・パジトノフ 誕生日(1956)  2016-03-14 15:56:32  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、アレクセイ・パジトノフの誕生日(1956)


テトリスを作った人です。


他にもいろいろ作っているけど…どうでもいい!

テトリスだけで十分偉人。多分、それ以外のことを言い始めるとかえって名誉を貶める(笑)


テトリスによって「落ち物パズル」というジャンルを創出し、この延長上に誰でも気軽に楽しめる、いわゆる「カジュアルゲーム」と呼ばれるジャンルがあります。

これを作ったのが彼だ、というだけで、もう十分。



テトリスについての説明はいらないでしょう。

誰もが知っているゲーム。


1988年ごろ、世界中で大ヒットしました。

いろんな会社が作って、少しづつルールが違ったりするんですけどね。


日本でも、BPS 、任天堂、セガが作っています。


BPS はパズルゲーム色が強く、任天堂は対戦ゲーム、セガはアクションゲームと、同じ名前で基本ルールも一緒なのに、全く違うゲーム。




パジトノフがテトリスを作ったのは、1984年。

当時、西側諸国では COCOM (対共産圏輸出統制委員会)という組織があり、共産圏であるソ連に対して、16bit CPU を持つパソコンやゲーム機を輸出することは出来ませんでした。


でも、ソ連にはちゃんと IBM-PC があるんですよね。

一般に売られてはいないので、入手は困難。でも、必要な人にはちゃんと IBM-PC が与えられた。


パジトノフは、当初は PDP-11 のソ連製クローンである「エレクトロニカ60」でテトリスを作ったそうです。

このバージョンでは白黒。


でも、1985年にはパジトノフ自身の手で IBM-PC に移植されています。

ここでカラー画面になったそうです。



僕の記憶では、当時は「心理学の研究のために作った」とされていました。

選択の自由はあるが時間は限られている、という状況で、人はどのような選択をするか、という研究。


心理学の研究ですから、多くの被験者に、他の影響を出さないためにできるだけ単純なテストをしてもらう必要があります。

「テトロミノを組み合わせる」「横に揃えると消える」「上まで積み上がったらダメ」という単純なルールのゲームを用意したのだとか。


他に、職業適性検査だった、軍人の忍耐力を試すものだった、というような話もあります。

「単にゲームを作りたかった」からテトリスを作った、という話も見ました。



ソ連では計画経済で、勝手にゲームを作ったりは出来なかったはず。


職業適性訓練や軍人の忍耐力も含めて、心理学的な検査が求められていたのは事実かと思うので、それを理由にして好きなようにゲームを作った、などが真相かもしれません。




計画経済の当時のソ連では、「テレビゲーム」なんて言うジャンルの商品はありませんでした。

だから、コンピューターで作られたゲームに価値がある、なんていう概念がない。


価値があると思っていないので、自由にコピーされました。

1985年の夏に、パジトノフが友人に IBM-PC 版のコピーを渡しました。

それ以降のことはよくわかっていません。


ともかく、2週間でモスクワのすべての PC で遊べる状態になり、その後ソ連中に広まり、気づいたらヨーロッパ中に広まっていた…そうです。


これで、「フリーウェア」としてのテトリスがまず出回ります。

ここまでの時点で結構時間がかかっている。


すでにテトリスは「出所不明」になっています。




当時共産圏であるハンガリーに、「アンドロメダソフト」というソフトウェア会社がありました。


共産圏と言っても、一枚岩ではありません。

ハンガリーは、当初からソ連の支配に反発し、最終的に共産圏全体の崩壊を招いた国。


共産主義の時でも、比較的自由経済をとりいれていて、ソフト会社もあったのです。


このアンドロメダソフトが、テトリスを商品化しようとしました。

そこで、ソ連の科学アカデミー計算機センターに、商品化についての問い合わせを行います。



先に書いたように、ソ連ではソフトウェアが商品価値を持つとは考えられていませんでした。

問い合わせの意味が分からず、とりあえず作者であるパジトノフをハンガリーに送ります。


パジトノフは、ただ送り込まれただけで、何も事情を分かっていません。

しかし、アンドロメダソフトの社長は、パジトノフが作者であることを知り、だから彼が全権を持っているのだと考え、交渉を行いました。


そして、テトリスに関する全権利を彼から譲り受けます。

もちろん、パジトノフはテトリスに価値があり、その価値に対する権利がある、ということを理解していません。

権利を譲り受けた、ということ自体が、アンドロメダソフト側の勘違いです。


しかし、アンドロメダソフトは、テトリスをさらに面白くするように作り直し、各種パソコン向けに移植します。



とはいえ、比較的自由と言えども、ハンガリーは共産圏です。

テレビゲームはハンガリー国内では商売になりません。




ハンガリー、チェコスロバキア、ポーランド、ルーマニアに囲まれた国境地域に、カルパチア・ルテニア地方という場所があります。


この地域は戦争のたびに別の国に併合される、という歴史がありました。

チェコスロバキアの一部だった時代があり、独立運動により独立国家となったわずか2日後に、ハンガリーに攻め込まれて併合されています。


ハンガリーはドイツの同盟国であり、ユダヤ人に対する迫害も行っていました。


さて、チェコスロバキアに生まれたユダヤ人、ロバート・マックスウェルは、ハンガリー人となり、迫害で家族を失い、難民となってイギリスへ逃れます。


そこで事業を起こして成功し、資産家となります。

会社を大きくし、次々とメディアを買収して、イギリスのメディア王となります。

国会議員にもなり、政治の世界にも影響力を強めます。



多数持っているメディア会社の中に、2つのゲーム会社、イギリスのミラーソフトと、アメリカのスペクトラム・ホロバイトがありました。



ハンガリーでテトリスを作ったアンドロメダソフトは、ハンガリー出身者の会社であるミラーソフトに、作成したテトリスの販売を委託します。


ミラーソフトと経営者が同じスペクトラム・ホロバイトも、アメリカでのテトリス販売権を得ます。

イギリスのミラーソフトが販売するゲームの、アメリカでの販売権、という形ですが、社長が同じなので事実上同じ権利を持っていました。


1987年にイギリスとアメリカで発売され、大ヒット。

10万本が販売されたそうです。




ATARI は、自社製の家庭用ゲーム機にテトリスを販売しようとします。

そこで、ミラーソフトと契約を行いました。


このとき、ミラーソフト自身の商売の邪魔とならないように、「PC以外」をライセンス条件としたようです。

ATARI は、これにより業務用ゲーム機の販売権も得ることになりました。



ところで、当時のナムコファンならば、ATARI がナムコの傘下に入っていたことを覚えているでしょう。


ATARI は、業務用の作成に当たり、まず親会社のナムコに相談をしたようです。

しかし、ナムコはテトリスを作るつもりはない、と返事をしました。


そこで、ATARI の子会社であるテンゲンに業務用の権利を移行し、テンゲンが業務用を作ります。



そして、この頃になると、アメリカで大ヒットしたゲーム「テトリス」の噂は日本にも届きはじめていました。




ここで、BPS を紹介しておきましょう。この後、非常に重要な役割を果たします。


今は解散した会社なので知らない人もいるかと思いますが、パソコン黎明期から活動していた有名なメーカーです。


社名は「Bullet Proof Software」の意味。「防弾ソフト」という意味ですが、それほど強固な、バグのないソフトを作る、という意味合いです。


日本の会社ですが、社長はアメリカ人のヘンク・ブラウアー・ロジャース。



BPS は、国産初の RPG と呼ばれるブラックオニキスシリーズで有名になりました。

その後は、社長がアメリカの事情に詳しいのを活かし、海外でヒットしたゲーム、アーコンやM.U.L.E.、ボールブレイザーなどの移植で知名度を上げていきます。


そして、テトリスもいち早く発見しました

社長のヘンクが、スペクトラム・ホロバイトと交渉を行い、日本のパソコン向けの権利を獲得します。



一方、セガもテトリスを業務用に出そうとしました。

テンゲンが業務用のライセンスを持っていることを知り、テンゲンから許可を取り付けます。



正確な発売時期がわからないのですが、BPS の PC 向けが 1988年の初頭、セガの業務用は夏、ファミコン版は12月だったようです。



また、任天堂は BPS に許可をもらい、ゲームボーイ版の作成を開始します。

ゲームボーイ発売時に、「通信ケーブル」を使ったキラータイトルとなるものです。


こちらは、ゲームボーイと同時発売で、1989年4月。




ここにきて、ソ連は価値に気づきます。

テトリスはソ連の資産であり、海外貿易に使えるものです。


ソ連政府は、コンピューター資産を外国にライセンスするための新しい部署「Elektronorgtechnica」を作ります。

Electron org technica …電子技術組織、の意味です。略称 ELORG。


活動を開始したのは、1988年の前半。最初の仕事は、アンドロメダソフトとミラーソフトに対し、警告を送ることでした。


「テトリスの正式なライセンス契約がなされていない、契約を結ぶように」



5月になって、アンドロメダソフトの社長が ELORG と会談を持ちます。


アンドロメダソフトは、ELORG の持ってきた契約書にサインしました。

しかし、契約金の支払いを拒みます。


すでにパジトノフと契約はしてある。

組織が変わったということであれば、書類に再度署名はするが、契約金を払う必要はない、というのです。



10月になっても問題は解決せず、ELORG は権利関係の再調査を行います。

この段階で、ヘンク(BPS の社長)が権利関係がこじれていることに気づきました。



1989年2月、ヘンクはロシアへ向かいます。

英語しかできない彼はロシアでは右も左もわからず、すぐには ELORG にたどり着けません。


ロシアの政府機関にも顔が利く通訳をやとい、やっと ELORG にたどり着いて交渉を開始します。



この動きを知り、アンドロメダソフトの社長と、ミラーソフトの代理人も ELORG に向かいます。

お互いの動きはわかりませんが、同じ週に相次いで ELORG との交渉を持ちました。


ミラーソフトの代理人は、社長であるロバート・マクスウェルの息子、ケビン・マクスウェル。

メディア王・政治家の息子として育った彼は、各国の習慣にも詳しい、国際交渉のエキスパートでした。



ヘンクは、ファミコン版を発売していたことを ELORG に告げました。


正式にライセンスを受けていないが、ライセンスを受けたものと勘違いし、すでに発売してしまった。

ファミコンは世界で最大のシェアを持ち、テトリス発売に当たっては任天堂のバックアップもあった。

事後になってしまうが、ちゃんとした権利を買い取りたい。



一方、ケビンは、ファミコン版が権利を得ていない海賊版だ、と ELORG に訴えました。

家庭用ゲーム機の権利は我々が保有しており、ATARI に権利を委譲している。

にもかかわらず、ファミコン版を発売したのは許されない行為である。



ELORG は、ヘンクの態度を好ましく感じました。

ミラーソフトはライセンス料を支払っていないにもかかわらず、権利を保有していると主張している。

それに対し、ヘンクは勘違いがあったことを謝罪し、事後になるがちゃんと権利を得るための支払いをしたいと申し入れているのです。


このとき、ヘンクはパジトノフとも会談し、今後のテトリスについてアイディアを出し合っています。

ヘンクとパジトノフは、この後も友好的な関係を保ちます。




ELORG は、ヘンクのためにミラーソフトに対するライセンス契約書を書き換えることにしました。


すでに署名だけされていた契約書は、全権を与えるもので、契約金が支払われれば契約が締結される状態でした。



新しい契約書は、ミラーソフトに与えるライセンスの区分が、次のように書き換えられていました。


「プロセッサ、モニタ、ディスクドライブ、キーボードとOSを持つコンピューター向け」


コンピューターゲームのライセンスなのですから、コンピューター向けに決まっています。

しかし、よく読むと、ディスクドライブやキーボード、OSを持つ…つまり、ゲーム機は除外され、PCに限定される内容となっています。


この書き換えと同時に、再三警告しているにも関わらず支払いがないことに対するペナルティとして、契約金を値上げします。



ケビンは契約金が上がってしまったことに驚き、契約が遅れるとさらに値上げされるかもしれない、と慌てて契約を締結します。

権利条項の書き方が変わったことには気づきましたが、それが巧妙に「PC限定」となっていたことには気づきません。



BPS には、家庭用ゲーム機に対する権利を与える、という契約書を作りました。

そのうえで、任天等が新しい「携帯ゲーム機」を作っていることを聞いていたので、新たなライセンス分野としてハンドヘルドゲーム機の分野も加えます。



ヘンクは、交渉をうまくまとめました。

しかし、この契約金は BPS には払いきれないもので、任天堂が支払います。


任天堂は、BPS からライセンスを受ける形でゲームボーイ版の開発を始めました。

しかし、最終的には任天堂が権利を持ち、BPS は任天堂の権利下でファミコン版続編の開発を続けます。




さて、ここで ATARI の権利が消滅しています。


ATARI は、ミラーソフトが持っている権利から、PC 以外のものを委譲されています。

しかし、そもそもミラーソフトは PC 向けの権利しか持っていないことになったのです。


ATARI から業務用の権利を委譲されていたテンゲンも、さらにその権利を認められたセガも、一緒に権利を失いました。



セガは、任天堂との交渉で発売を中止。

発売したばかりのメガドライブ用のキラータイトルとして移植を行っていたようですが、まだカートリッジ生産前で、今やめてしまえば損失は少ない、と判断したようです。


業務用でも、テトリスは大ヒットタイトルでした。

過去に作ってしまったものに対しては、済んでしまったことなので遡って契約金を払ったようです。


しかし、この後は続編を作れなくなります。

ブロクシード、フラッシュポイントなどの名前で続編を作ってはいますが、「類似ルールのゲーム」に過ぎず「テトリスを名乗らない」ため、ゲームのどこにもライセンス表記がありません。



ATARI はすでにゲームを発売していました。

新聞の全面広告まで使い、大々的に宣伝費をかけています。


テトリスはヒットゲームとなっていて、ATARI はカートリッジを増産していました。



任天堂は、そんな ATARI を相手に販売差止請求を行います。

ELORG が唯一認めた家庭用ゲーム機ライセンスは任天堂が保有しており、ATARI の販売行為は違法である、というものです。

裁判所命令により、ATARI は販売をやめなくてはなりません。


ATARI は、確かにミラーソフトから家庭用ゲーム機向けのライセンスを購入していました。

ちゃんと権利を持っている、任天堂の訴えこそ違法なもので、販売差止によって失った機会損失を補填せよ、と逆訴訟を起こします。


この裁判は、1989年の11月に判決が出ています。

ミラーソフトは、そもそも家庭用ゲーム機のライセンスを持っておらず、ATARI にライセンスを与えられない。

任天堂の持つライセンスだけが、正当なものと認められる。というものでした。



ATARI としては、ミラーソフトと、その社長であるマクスウェルに責任を取らせなくてはなりません。



しかし、この頃ロバート・マクスウェルの「メディア帝国」は崩壊し始めていました。

彼はメディア王でしたから、自分自身に関するスキャンダルを抑え込んでいました。


しかし、違法行為を含む不正行為で事業を拡大し、会社を私物化し、社員が給与から積み立てた年金を横領するなど、彼の行ってきた悪事が次々と暴かれ始めていたのです。


ロバート・マクスウェルは、姿を消しました。

ミラーソフトは名前だけの、倒産寸前の会社でした。


こうして、テトリスの権利をめぐる世界的な争いは、BPS と任天堂の勝利に終わるのです。



マクスウェルは、この直後、1991年にヨットから転落して水死しています。

彼の帝国が崩壊する最中だったため、自殺したとする説もあります。


1992年には、彼の帝国の企業が次々と破産し、息子ケビンも借金を抱えて破産申請します。




ソ連の崩壊が進む中の1991年、パジトノフはヘンク(BPS 社長)のつてでアメリカに移住し、一時期はマイクロソフトでゲーム作成を行います。



1995年、ヘンクがハワイに「ブルー・プラネット・ソフトウェア」(以下、新BPS と略記)を設立。

ゲーム作成を開始します。


すでにテトリスのブームは去り、各会社に与えられたライセンスは失効していました。

ソ連が崩壊し、ELORG は民間会社となりましたが、まだテトリスの権利を管理していました。


ヘンクは、ELORG から独占ライセンスを得て、新 BPS に集約します。


そして 1996 年、パジトノフと共に、新 BPS の子会社として「The TETRIS Company」を設立。

世界中に向けて、テトリスの版権管理を行います。



その後、パジトノフは「原権利者として」ELORG からテトリスの権利自体を買い取ります。

そして、権利を管理する会社として「TETRIS holding」を設立します。


現在、パジトノフの TETRIS holding と、新 BPS が半分づつ出資する子会社として、The TETRIS Companyが存在する形です。

TETRIS holding は権利を持っていますが、その権利の管理は The TETRIS Company が行っています。



ややこしいかな?

紆余曲折あったけど、テトリスが再びパジトノフのものとなった、ということ!



そんなわけで、2000年ごろから再び、いろいろな会社がテトリスを作れるようになっているのです。


#ところで、日本の BPS は 2001 年に解散しています。




以上、主に日本語資料英語資料2つを元に書いています。


食い違うところが多々あるので、インターネット上の多数の資料を調査しながら、信ぴょう性のありそうな情報をまとめましたが、正確性を保証するものではありません。



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プログラム教育に対する誤解  2016-03-19 10:43:52  コンピュータ

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プログラム教育に対して誤解があるな、というのは、ずっと前から気づいていた。

しかしまぁ、時がたてば誤解も解けるだろうと思っていたら、むしろ誤解が広まっている気がする。



誤解はいろいろあるし、根深い。

一言で誤解を解くようなことは出来ないのだけど、ネットなどで見かけたものをタイプ別に、「そうではない」ことを示していきたい。




▼スマホがあるからパソコンはいらない


最初から特例。プログラム教育に対する誤解ではなく、それ以前。


でも、実際そういう人が増えている。

まずは家にパソコンがないと、プログラム教育の話に入れないので、この部分から話をしよう。



テレビつければなにか映像動いているんだから、わが子のビデオ撮る必要なんてないじゃん、という人はいるだろうか?

そんな馬鹿な話はない、テレビで放映されている映像と、家族のビデオは違うものだ、と誰もが反論するんじゃないかと思う。


スマホとパソコンの関係は、テレビとビデオカメラほどはっきりとは別れていない。

でも、同じような感じだ。スマホは閲覧に適したもので、パソコンは作成に適したもの。


スマホだってメールで文章書いたりできるよ、という反論もあるかもしれない。

それは否定しない。でも僕は「適している」と言ったのだ。スマホは文章作成に適していない。


パソコンでは文章を書くだけでなく、絵を描いたり3Dのモデリングをしたりもできる。

「スマホでもできる」という反論はここでもあり得るが、明らかに得意分野ではなくなっていく。


まずは「守備範囲が違う」ことを知ってほしい。スマホがあるからパソコンいらない、はおかしな論理なのだ。




学校の授業では、教科書とノートを使う。

先生は教科書に従って板書し、皆がそれをノートに写し取る。


ということは、教科書をノートにまとめ直すのと似たようなもんだし、じゃぁ教科書を読めばいいのだから、ノートに取る必要はない。


…これは、本当にそう思っている人いそうだな。ノート取らない学生ってそこそこいるし。


この考え方は間違っている。

まぁ、良い先生なら教科書以上の情報を授業で伝えるので、それを書きとっておくと役に立つ、というのもある。



たとえそのような情報がなくとも、まとめ直すという行為に意味がある。

「まとめ直す」ということは、まとめる程度に理解する必要があるからだ。


だから、学校では教科書だけでなく、必ずノートを使う。

ノートにまとめるときに、よくわからないと思ったら手を挙げて質問しよう。

そこはきっと理解しにくいポイントだ。他の人も疑問に思っているかもしれない。


物資の少ない国の学校などでは、生徒も小さな黒板を持っていて、書いては消してしまう。

消しちゃったら記録の意味はないのだけど、ノートに書くのは記録のためではなく、「まとめ直す」ためだと考えれば納得できる。




スマホとパソコンも、教科書とノートのような関係だ。

スマホで情報を閲覧したってかまわない。急な調べものには便利だ。

でも、その情報を自分のものにしたいなら、情報を自分でまとめ直さないといけない。


もちろん、パソコンで情報を閲覧することもできるから、「スマホとパソコンを一緒につかえ」と言っているのではない。

パソコンを使えるようにするだけで、スマホだけを使っているよりも遥かに多くの知識が、技術が、身に付く。



「プログラム教育」に関しては、スマホでできる環境を整えようとする動きも、もちろんある。

でも、この文章の目的はプログラム教育の誤解を解くことだ。


スマホ向けの環境整備も、少し誤解の上に成り立っている。

プログラムの制作環境は作れるのだけど、実際にそのうえでプログラムをしようと思うと、使い勝手が悪すぎて持続しないからだ。



スマホがあればパソコンはいらない、と思っている人は、パソコンの購入を検討してみてほしい。



▼別にプログラマーになりたいわけじゃない


プログラム教育は、職業訓練ではない。プログラマーになることを目的とはしていない。

だから、プログラム言語の習得も目的とはしていない。


プログラム教育なのに、言語の習得を目的にしていないだって?



驚かれるかもしれないが、事実だ。

もっと言えば、コンピューターの動作を理解させたいわけでもない。


プログラム教育の目的は、もっと他のところにある。

何が目的かは、読み進んでもらえば追々わかる。



▼プログラムを教える前に、コンピューターの仕組みを理解させないと


この誤解は、趣味でプログラムをやっている、もしくは仕事としてプログラムをやっている人に多いようだ。


いずれにしても、プログラム経験者だね。…それも、申し訳ないが上級者レベルではない人。



プログラム言語を学ぼうとすると、多くの教科書が「コンピューターの動作原理」から入り、早いうちに「変数」の説明をする。

これが結構ややこしい。小学生に理解させようと思ったら大変だ。

だから、プログラム教育の前に1~2年使ってしっかり教えないといけない。


…と、この主張をする人たちは思っている。本当はそうではないのだけど。



そんなことは、プログラマーになりたい人だけが覚えればいいのだ。

先に書いた通り、プログラム教育はプログラマーになるための職業訓練ではない。


プログラム教育用に考慮された言語を使えば、コンピューターの動作原理を知っていなくても、OS上のアプリケーションの連携を知らなくても、変数を理解していなくても、数学一般の知識がなくても、プログラムを作り始めることができる。


実は、こうした言語は 1960年代には登場している。十分実績もある。

コンピューターの原理を知らないとプログラムできない、というのは、これらの言語の存在を知らない発言だ。


「上級者レベルでない」と書いたのは、様々な言語を経験していない程度のプログラマ、という意味合いだ。



▼あんな子供だましの言語では役に立たない


これも、プログラム経験者に多い意見のようだ。


実際、大手IT会社のプログラマが、プログラム教育を依頼されて、普段仕事で使っている「真に役立つ言語」を子供たちに教えたと、自慢げに書いているブログを読んだことがある。



申し訳ないけど、プログラマーを職業にしているというだけで、上級者ではない意見だと思う。


仕事で役立つ言語を教えた、と言っている人は、プログラムに重要なのが「言語」だと思っている。

言語は道具にすぎない。大切なのは道具を使いこなす知恵のほうだ。


プログラム教育の目的の一つは、プログラムを通じて知恵を身に着けさせることだ。

何度も書くが、職業訓練を目的としているのではない。


だから、仕事で使うような「役立つ言語」は、もっと成長してから、やりたい子供だけがやればいい。



すでに書いたように言語は「道具」にすぎないので、プログラム教育に使う言語が何であってもかまわない。

ただし、小学生に教えるのであれば、先に書いたように「コンピューターの仕組み」や「アプリケーション間の連携」「変数」、数学の「座標系」などを理解していなくても始められるものが良いだろう。




具体例を挙げないと話が進めにくいので書くと、「子供だまし」と言われているのは Scratch であることが多い。

Viscuit かもしれないけど、どちらも批判されやすい点は似たようなものだ。


批判されているのは大きく分けて2点。

プログラムを作るための「エディタ」が選べないことと、最初から画面上にかわいい絵が表示されていることだ。



Scratch は、過去にあった多くの「初心者用言語」と同じように、言語内にプログラム作成環境を組み込んでいる。

多くのプログラマにとって、これが許し難いことのようだ。自分のお気に入りのエディタを使えないなんて!


Emacs や Vim を使わないと何も書けない、という人にとっては致命的なのだろう。

でも、古くは LOGO や BASIC 、Smalltalk だってエディタを言語内に組み込んでいた。


初心者には、アプリケーション間の連携という概念が難しく、煩雑なためだ。

最初に覚えないといけないことを極力減らすなら、エディタは内蔵してしまったほうがいい。



そんなの許さない、と主張する人たちは、すでに初心者ではないので Scratch を使わなければ良いだけの話だ。

それでも批判したがる人は、使ったことがない言語が流行して、自分が時代遅れになってしまうのが嫌なのだろう。




かわいい絵に関しても同じことだ。

最初に表示されている猫の絵は、命令を出す対象を具体化したものに過ぎない。


初心者プログラマの最初の壁は、パソコンでできることが抽象的過ぎて理解できないことだ。

Scratch ではその壁をなくし、具体的に猫に命令を出すことを最初の一歩とする。


猫は「前へ」と命令すれば前に進むし、「右へ」と命令すれば右に曲がる。

「にゃーんと言う」と命令すれば、「にゃーん」と書いた吹き出しが現れる。


歩いた後に線を残すこともできて、三角形を描く手順を指示すれば三角形を描く。

三角形を描くのなんて、単純だけどしっかりとした「プログラム」だ。


先ほど少し書いたけど、絵を描くにも関わらず座標系などの難しい概念は必要ない。

猫には「現在の状態」があるにも関わらず、それを保持する変数などの概念を知らなくてもかまわない。


「前に進む」と「曲がる」だけで三角形は描ける。


こうして、子供たちは自然にプログラムに親しんでいく。



もちろんそれで終わりではない。

三角形を拡張して、再帰処理によりシェルピンスキーのギャスケットを描けと命令すればフラクタル図形を描き出す。


100までのすべての数字で割り切れる最小の数値を教えて、と命令すれば、猫はとてつもなく大きな数字を教えてくれるだろう。



猫が表示されているから子供向け、ということはなくて、十分に複雑なことだってできるのだ。


これが子供だましだ、というのであれば、おそらくその人は Scratch を一度も使わずに批判をしている。

理解せずに批判しているのであれば、あまりにも筋違いだ。そんな批判を気にする必要はない。



▼小学校のうちは、国語や算数をしっかりやるべきだ


今度は、おそらく非プログラマーの意見。


これに類似の意見は非常に多い。全体にざっくりまとめると以下のようなものだ。


「まずは論理的に物を考え、文章で伝える力が必要だ。

 そのためにも、母国語である国語をしっかりやるのだ、算数で論理性を学ぶのだ。

 これらが完璧にこなせるようにならないと、他のことを学んでも意味がない。」


これは、国語や算数が何かわかっていない。

算数と数学を同じものだと思っているかもしれない。



国語は、表現するために必要な技術を教えてくれる。

だけど、その表現内容は個人の体験に基づくもので、国語で学ぶわけではない。


そして、「論理」は表現内容に付随するものだ。

国語の授業で、論理立てて話を展開しましょう、という「アドバイス」はするが、論理を教えるわけではない。



数学は、論理が重要になる。数学を勉強すれば論理が身に付く。

しかし、小学校で教わる算数は、数学の前段階の基礎を学んでいるだけで、まだややこしい論理は出てこない。

だから、算数をやっていても論理が身に付かない。



プログラム教育は、論理性を身につけさせようとする教育だ。

しかし、プログラム教育の反対論者は「論理性が身に付かないうちにプログラム教育をしても意味がない」という。


論理を学ぶのを禁止して、どうやって論理を身につけろっていうんだ?



余談になるけど、同じ理由で「小学校の英語教育必修化反対」という意見もある。

こちらも、日本語で文章を書けないと英語に翻訳しても意味がないからダメ、という意見だ。


英語って、日本語で考えてから翻訳するものではないよ?

最初から英語で考えて、英語でしゃべれるようになるのが目標だ。


#と言っても、僕は英語で考えてしゃべることはできない。

 読むのは、かろうじて英語のままでできる。頭の中でいちいち翻訳はしないで、なんとなくわかる。

 正確な意味が知りたいときは、やっぱり翻訳していかないとダメなのだけど。




さて、誤解としてはこんなところだろうか。

「そうじゃない」ばかり書き続けていて、プログラム教育が何なのか見えてこない、余計わからなくなった、という人も多そうだ。



文面が長くなったので、いったん区切って、次の投稿でプログラム教育の目指すところを書きたいと思う。


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プログラム教育の目指すところ  2016-03-19 10:56:06  コンピュータ

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先ほど書いた記事では、プログラム教育に対する誤解を挙げて、プログラム教育はそういうものではない…という否定ばかりを書いた。


否定ばかりされて、何が何だか分からなくなった、という人もいるかもしれない。

今度は、プログラム教育が何を目指す教育なのか書いてみたいと思う。




学校の勉強では、国語・算数・理科・社会・図工・音楽…などというように、学科がわかれている。

これが当然のように思われているが、実は学校教育の弊害の一つが、「学科を分ける」という考え方だ。



国語と算数は別のものだろうか?

算数には文章題が良く出される。問題の意図を理解するには国語の能力が必要だ。


理科では数式をよく使う。社会問題である二酸化炭素の削減を論じるとき、科学の知識は必須となる。


図工だって幾何が理解できていなくては展開図を作れない。音楽は周波数が単純な整数比となるとき、美しい和音となる。


これらの学科を分けて考えることに、いったいどんな意味があるのだろう? 全部ひとつながりではないのか?


でも、小学校時点から学科を分けて教えられた結果、多くの人が国語と算数は違うものだと思っている。




本来、学問というのはひとつながりになっているものだ。

理系と文系、なんて垣根は、このつながりを理解していない人が生み出したものに過ぎない。



「数学なんてやって何の得になるのか」という、子供が良く発する質問がある。

答えは幾通りも考えられるが、この質問が定期的に出てくることに目を向ける必要があるだろう。


数学が他の分野に繋がっている、ということに気付けば、この質問は出てこない。

質問が出てきた時点で、学校教育制度の負けだ。学問がつながっていることを教えられなかったのだから。



誰かがつながりを教えなくてはならない。


その子がテレビゲーム好きなら、すべてのテレビゲームの裏で数学が駆使されていることを教えられると良いだろう。

その子が音楽好きなら、古代ピタゴラス音階からの、音楽と数学の結びつきを教えられるかもしれない。

その子が物語好きなら、不思議の国のアリスの作者は数学者で、言葉遊びの裏に数学が潜んでいることを伝えてみよう。


すべてのものは学問の対象になりうる。そして、すべての学問はつながっている。

じゃぁ、どんな学問であっても、その意味を自分の興味に結び付けられるはずなんだ。



ただし、これらを教えるためには、当然のことながらそのことに詳しい大人が周囲にいる必要がある。

子供が興味を持っている分野、というのも、一人一人違うので学校では教えにくい。




プログラム教育は、この現状に風穴を開ける、新しい学習方法だ。


コンピューターは万能シミュレータだ。理論的に論じられるものであれば、どんなものにでも化けられる。

そこで、各自が思い思いの趣味を楽しめばいい。それだけで、学問のつながりを肌で感じられる、他にない学習方法となる。


ただし、自分でプログラムする、というのが大前提だ。

お絵かきツールを使って絵を描くだけだと、紙とペンをコンピューターに置き換えただけで、学習効果は得られない。



まず、自分で絵を描いてみる。

これは図工の知識が必要だ。


続いて、コンピューターにプログラムするために、絵の中に現れる線の角度や長さを測ってみる。

これは算数の知識だ。


プログラムする。

言い換えれば、ちょっと特殊な言葉を使って作文をする。


この作文の出来は、直接結果に表れる。

正しい順序で書き方を説明できていないと、正しい絵が描けない。

論理的な文章を書く訓練になる。国語だ。


結果がうまく出ないとき、どこが悪いのか探さないといけない。

作ったプログラムが長くなってくると、その中のどこがおかしいのか探すのは大変だ。


結果をよく観察し、おかしくなった場所を特定し、自分のプログラムの手順のどこら辺が悪いのか推察する。

つづいて、プログラムの該当箇所を探し出し、書き換えてみて、正しくなったかを確認する。


これは理科の実験と同じだし、小学校では教えない、工学的なフィードバック改良過程だ。




ここでは絵を描く例なので、社会や音楽は出てこない。

でも、音楽を作ることもできるし、地理クイズのようなゲームを作り出す子だっている。



画面上で多数のキャラクターを動かし、物語を作る、という遊びを始める子も多い。

子供は想像の世界でお話を作るのが大好きなのだ。


楽しい物語を作るには、良いお話がどういう構造になっているかを知らないといけない。

そして、それをみんなが楽しいと感じる方法で表現しないといけない。


これには国語の能力だけでなく、表現能力やプレゼン能力が必要となる。

学校では教えないが、実社会で必要になることが多い技術を、子供が勝手に学び始める。



想像力さえあれば、どんな学問でもプログラムと結びつく。


学問の垣根を飛び越え、学んだことはすべてつながっている、と肌で感じ取る。

これが、「プログラム学習」の第1の効用だ。



▼「知ってる」と「説明できる」の違い


ネットを見ていると、誰かの発言に対して「知ってる」と知識をひけらかそうとする人がいる。

しかし、発言者と「知っている」という人との間には、知識に圧倒的な差がある。


例えば、あなたはパンダを「知っている」と思う。


じゃぁ、今すぐ何も見ずにパンダを紙に描いてほしい。

これがパンダだよ、と説明してほしい。


おそらく、知っている人の多くは、描けない。説明できない。

これは、誰もが知っているはずなのに、実はほとんどの人が説明できないというギャップを楽しむ「記憶スケッチ」という遊びだ。

(故ナンシー関の考案したもの。多くの人が描いた「パンダ」や「カマキリ」などの絵が載った書籍が発売されていて、爆笑ものだ)


これは単に「絵が下手だ」という話ではない。


絵が下手でも、ちゃんと「知っている」人は、的確に説明できる絵を描く。

どんなに絵が上手な人でも、説明できるほどに詳しくなければ、何か偽物くさい奇妙な絵を描く。



誰かが説明したのに対して「知っている」と言うだけの人の浅はかさがよくわかる。

知っていても何も偉くはない。説明できるほどに知識があれば、ちょっとは偉い。




小学校の友達同士で、勉強でわからないことを教えあう、というのは普通に見られる光景だ。


多分、頭の良い子が教える側に回るだろう。

その子はなぜ頭がいいかというと、よく友達に教えるからだ。



初めて教えるとき、いきなり上手には教えられない。

どうやったら相手に伝わるのか、よく考えないといけない。自分が知っていると思う事を、さらに細かく分解しないといけない。


友達に教えようとしても、最初は要領を得ない。

でも、何度か説明するうちに、説明がすっきりしてわかりやすくなる。


これ、説明する子が、説明するうちにより深い理解に進んでいるんだ。

そして、深く理解しているから、次の授業で教えられた内容もすぐに頭に入る。



残念ながら不公平な話で、頭の良い子はどんどん頭が良くなる。

頭の悪い子は、教えられてばかりで、教える機会に恵まれない。なかなか理解が進まず、頭が悪いままだ。



プログラム学習は、この不公平を失くす役割もある。


コンピューターは何も知らない。いちいち教えてやらないと何もできない。

自分の知っていることをコンピューターに教える…つまり、プログラムする、という経験を通じて、より深い理解に進むことができる。


何度も繰り返すうちに、説明できるレベルまで理解しよう、という習慣が自然に身に付く。

どんなものを見ても、これを人に説明できるだろうか? と考え始めれば、実際に説明しないでも深い理解にたどり着くことができる。



これが、プログラム学習の第2の効用だ。




以下は余談だけど、大切なこと。


頭が良い子がプログラムを作れるのは、当然に思えるかもしれない。


でも、頭が悪い子こそ、プログラムを経験する意味が大きい。今までに人に教えた経験が少ないから、伸びしろも大きい。

頭が悪い、と思われていた子が、プログラムを始めた途端にぐんぐん頭が良くなっていくなんてことだってあり得る。


ただ、教えることに慣れていないから、最初は時間がかかるかもしれない。

急がずにじっくりと取り組む環境が必要だ。


ところで、「世界で最初のテレビゲーム」と呼ばれるスペースウォーを作ったスティーブ・ラッセルは、「うすのろ」というあだ名で呼ばれていた。

他の人よりも頭が悪く、何をさせても遅かったそうだ。


#「うすのろ」は、書籍ハッカーズで出てくる翻訳語。原語でのあだ名は slug 、「なめくじ」の意味だ。


でも、じっくり取り組むことで、誰もが認める、面白いプログラムを作り出した。

あまりに面白いから、他の人も真似し始めた。多くの亜流が生まれ、そこからさらに亜流が生まれた。


結果として、今のテレビゲームがある。すべてのテレビゲームは、彼が作ったゲームの子孫だ。

彼は「うすのろ」だったかもしれないけど、その分伸びしろが大きく、最後には誰もやらなかった大きなことを成し遂げたんだ。


これからプログラムを始めようと思っている人は、途中であきらめずに続けてほしいと思う。



▼模倣すること


先に記憶スケッチの例を挙げたけど、もちろん急に言われたものでも上手に描く人がいる。


何で描けるかと言えば答えは簡単で、以前に描いたことがあるから、だろう。

見ていても、なかなか細部が頭に入ってこない。でも、一度描いてみれば頭に入り、記憶だけでも描けるようになるのだ。


一度描く、というのは「模倣する」ということだ。

模倣するというのは研究の基本で、まずは何かを模倣することから始まる。


そして、コンピューターというのは万能のシミュレーターだ。

論理的に表現できることであれば、ありとあらゆることを模倣できる。




1990年代に LEGO LOGO というプログラム教育があった。

まぁ、今でもあるのだけど、僕も当時あこがれて入手した。

(注:本来教育組織向けで、個人が入手するようなものではない)



テキストに「洗濯機の動きを作ってみましょう」というのがあった。

子供の興味を引くなら、そこは車とかじゃないの? と思うのだけど、読み進めるとこの課題が絶妙であることがわかる。


最初は、ドラムを回転、逆回転させてそれらしい動きを作ることを目指す。

一定回数動かしたら「洗濯完了」ランプを点灯し、完了を知らせるようにする。


洗濯機のふたにセンサーを付けて、ふたが開いたままでは動作が始まらないようにする。

この際、動作が始められないことを知らせる「エラー」ランプを点灯させる。


とりあえず、ここまでは作り方のサンプルもあった。

以降は、余裕があったらやってみよう、と書かれた課題。答えは載っていない。


・洗濯、脱水などのモードランプをつけ、回転動作を変える。

・洗濯ものの量を変えられるようにし、時間などを調整する。

・動作中にふたが開けられたら緊急停止させ、エラーランプをつける。



車を題材にしていたら、こんなに細かく真似をする項目を出せないだろう。

車は「自動的に動くもの」ではないから、プログラムで模倣しにくいのだ。


模倣することで、普段気付かない「洗濯機」の細部が理解できる。

どんなものであれ、細部を知ると驚きがあるものだ。


ここでは、自分でプログラムを作っているのだから、「緊急停止」がどんなに難しいことか知るだろう。

世の中すべての洗濯機が、この複雑な機構を取り入れていることに驚くかもしれない。




模倣することから得られるものは大きい。


そして、コンピューターは万能シミュレーターだ。

自分でプログラムすることで、なんでも模倣できる。世の中を深く知ることができる。


これが、プログラム学習の第3の効用だ。




プログラム教育の利点は多いのだけど、ここでは3点ほど効用を挙げてみた。


もう一度まとめ直すと


・学問がつながっていることを知り、多くの知識を結びつける能力が身に付く。

・知っている知識を説明することで、より深い知識を得ることができる。説明能力が身に付く。

・観察し、模倣することで世の中を深く学ぶことができる。



深い知識を持っていて、それらの知識を結び合わせる方法を知っていて、観察眼を持った人材が育つ。

ついでに言えば、説明能力があるからプレゼンだって上手だろう。


つまりは「頭が良い人が育つ」とまとめてもいいんじゃないかな。

本当にこういう人材が増えれば世界が変わるだろうね。



追記 2016.4.20


Scratch を開発した MIT メディアラボで学び、日本で Scratch の普及に努めている阿部和広氏が、「情報処理」に発表した論文が無料公開されていました。(PDF)



論文なので、プログラム教育とは何か、なんてことは理解していることが前提で、僕の記事内容とは異なります。

プログラムの授業で起こったことなど、実践風景をまとめたもので、読むのに専門知識は不要です。


これを読んでもらうと、小学生でのプログラム教育についてイメージされやすいかと思います。


追記 2016.6.30


文部科学省が、プログラム教育に関する有識者会議の議論取りまとめを発表していました。


この日記に書いた「誤解」や「目指すもの」は、日記執筆時点では僕の考えに過ぎなかったのですが、文部科学省も大体同じ認識を示していました。ほっとしました。



もう一つ、上の日記には「人に教えることでより深く理解できる」ということを書いたのだそうですが、この学習方法を「ファインマンテクニック」と呼ぶのだそうです。


ファインマンが考えたわけでもないのですが、天才の名前を付けることで「正しい学習法である」という感じは出ます。

その一方で、名前だけで満足して本質が理解できない人も出てきそう。


リンクした記事は、たぶん理解していない人が書いていますし、理解するつもりもなさそうです。



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ロビン・ミルナー 命日 (2010)  2016-03-20 11:35:50  コンピュータ 今日は何の日

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今日はロビン・ミルナーの 命日(2010)


OCaml や Caml という言語があります。

ML という言語から派生したものなのですが、この ML を作ったのがミルナーです。


プログラムリスト見ると普通の言語っぽいのだけど、関数型の言語なのね。

Lisp などのなかま。


一般的な BASIC や C などの「手続き型」の言語が、ただ処理の手順を並べただけだとすれば、関数型の言語はもっと数学的な美しさによって処理をくみ上げていく。



ミルナーはまた、数学の定理を証明するプログラム、というものも作っています。

あー、やっぱ数学系なのだな、数学者なのかな、と思います。



でもこの人、博士号とか一切持ってません。

イギリスのコンピューター会社、フェランティ社のプログラマーだった、というだけの人。




イギリスマンチェスター大学で、世界で最初に稼働したノイマン型コンピューター、The Baby MarkI が作られました。


これは、当時新開発されたメモリ部品、ウィリアムス管を使って本当にコンピューターを作れるのかを試験するための機械。

一応コンピューターではありますが、実用品ではありません。


しかし、実験に成功したので実用コンピューターを作ります。

マンチェスター MarkI と呼ばれます。


さらに、このコンピューターをプロトタイプとして、互換機が量産されました。

レーダーや通信機器などを作る民間軍事企業の、フェランティ社が量産を担当し、「フェランティ MarkI」と名付けられました。


世界初の商用機、と呼ばれるものの一つです。


#UNIVAC I も世界初と言われます。

 完成は UNIVAC のほうが早く、顧客への納入はフェランティのほうが早かったようです。



フェランティ社はこの後もコンピューター企業として成長するのですが、ミルナーもその会社のプログラマーだった、ということ。


まぁ、当時はコンピューターなんて科学者でないと使いませんし、マンチェスター大学の優秀な学生がフェランティ社に入社した、とかだと思うのですが。




博士号は持っていませんが、ミルナーは多くの大学を渡り歩き、計算機科学科の学科長まで勤めています。


詳細は、ミルナーの誕生日記事にも書いてあるのでそちらを参照してください。



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卒園式  2016-03-26 09:53:53  家族

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昨日、次女の保育園で卒園式が行われた。


保育園は教育機関ではないから、卒園したとしても何かを「修了」したわけではない。

(幼稚園は教育機関なので、修了と考えられる)


でも、うちの子たちが通った保育園は、地域で一番古いものだ。

江戸時代の初期には寺があったそうで、いつの頃からか付近農民が農作業をする際に子供を預かっていたらしい。


江戸時代には、当然ながら幼稚園や保育園の制度はなかった。

幼稚園制度ができたときに一端幼稚園となり、その後保育園制度ができたときに、より実態に即すために保育園に変更している。



というわけで、保育園なのだけど幼稚園のような教育を行っているし、幼稚園のような制服もある。

幼稚園のように卒園式で証書も渡す。


何年保育園に通いました、という保育証書だけど。




多くの子が、保育園の一番の思い出として、夏のお泊り保育を挙げるようだ。

卒園児が皆で読み上げる「答辞」(在園児が先に送辞を読むのに返答している)でも、夏のお泊り保育の思い出などが多く盛り込まれている。


でも、残念ながら次女はお泊り保育に参加できなかった。


ちょうどその時期にマイコプラズマ肺炎にかかってしまい、治癒するのに時間がかかったためだ。


どうしても卒園の思い出と言うとこの話になるし、思い出写真としてもお泊り保育の写真がある。

次女は皆と思い出が共有できないことが悲しくて、お泊り保育の話になると涙ぐんでしまう。


お泊り保育でみんなが体験した…自分でカレーを作ったり、お風呂屋さんに行ったり、ということは追体験させた。

だけど、そういうことではない。やはり追体験は家族との思い出になってしまい、保育園の思い出ではない。


かわいそうだとは思うが、過ぎた時間を取り戻すことは出来ない。




長男の時から9年間と少し通ったけど、保育園とは一応これでお別れ。

次女の卒園式というだけでなく、家族の卒園式だ。


一区切りついた感慨はあるが、寂しくはない。


というのも、歴史の古い保育園だから、地域の中心になっている。

行事には広く卒園児が集まり、高校や大学、社会人になっても顔を見せる人がいる。


おそらく来年も運動会やバザーに呼ばれるだろう。

いや、呼ばれなかったとしても、顔を出そうと思っている。


きっと喜んで迎えてくれる。

だって、親が参加したくて顔を出している、という OB が、すでに多数いるのだから。



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肩の力が抜けたところで  2016-03-26 17:10:10  コンピュータ 家族

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先日、プログラム教育について思うところを書いた。


3月1日に、パパートの誕生日って記事書いたのね。

僕の勘違いで、本当は2月29日が誕生日だったのだけど。


パパートという人が、プログラム教育の概念を作り出した人。


BASIC など、プログラムの作り方を学習する手段はすでにあった。

そういうことではなくて、プログラムを活用することで子供の発達に良い影響を与えられないかと考え始めた。


1960年代にはやり始めていて、1980年には本を書いてちょっとしたブームになった。

それから「プログラム教育」が広まり、実際にプログラム教育で育った世代が社会に出始めて、ここ数年でプログラム教育の有用性が急に注目され始めている。


#詳しくは、パパートの誕生日記事読んでね。



これがアメリカでの「プログラム教育」ブームの背景にあるわけだけど、日本にいるとそういう流れがわかりにくい。

じゃぁ、一つ書いてみようか、と思ったのが、先日の記事




先日の記事は、説明しようと思って肩に力が入っている。


自分でもわかっていた。

でも、書いても書いても良くならない。


記事を書く過程で、派生記事も生まれている。

問題を一部切り分けることでまとめようとしたのだけど、まとまらない。


もう悩むのに疲れて、とりあえず出してしまえ、で公表した。



やれやれ…と思って別件で過去の Scratch 関係の日記を検索したら、1年前にも同じようなこと書いてたことに気付いた。


鶏頭だ。

そんな記事を書いたことをすっかり忘れていた。



過去記事は、別に誤解を解こうとか考えていない。

単に家族の情景を書いただけの、自然体の良い日記になっている。


その代わりと言っては何だけど、誤解なんてないことを前提に書いているので、誤解がある人が読んでも理解できないかもしれない。




とりあえず公開してしまった理由の一つは、NHK で「Why!? プログラミング」という番組が始まる直前だったから。


ちゃんとプログラム教育がわかっている先生が監修している番組なので、この番組自体には誤解はないと安心していた。

でも、もしかしたら見た人が勘違いして何か言い出すかもしれない。


…杞憂だった。

番組見たら、すごくいい内容。誤解しているような人でも納得してくれるんじゃないかと思う。


全編 NHK のサイトで見られるので、興味がある人はそちらを見てほしい。

プログラムを知らない人には冗談で笑わせつつ、しっかりとしたお勉強もやりつつ、上級者ならニヤリとすることも入っている。


すごい盛り込んだ内容だ。

盛り込んでいるのに、詰め込んだ感じはない。


#いや、第3回はちょっと詰め込みすぎだったかな。

 「直交座標系」の勉強をして、キー入力で動くキャラクターの作り方を教え、シューティングゲームまで作ってしまった。

 10分の中で、初心者向けの説明を交えつつシューティングゲームの基礎が作れてしまう、という Scratch の扱いやすさを象徴する回でもあるのだが。



この番組、全5回しかないのが惜しい。


もっとも、現在レギュラーの子供番組「みーつけた」だって、「なりきり!」だって、「ミミクリーズ」だって、「シャキーン」だって、2~5回程度の試作版から始めている。

この番組もいつかレギュラーになる、と思いたい。



一方で、たった5回だから今の濃厚な内容が楽しめるのかな、とも思う。

これを毎週、1年作るとしたら結構大変だ。


いや、「考えるカラス」みたいに年20回くらいの放送ならできそうな気もするか…


#今思ったが、うちが NHK 教育見ている時間比率すごいな…




実は、この記事を書いている時点で全5回の、第5回だけ未放送だ。

月曜~金曜で5回の予定が、金曜日に国会中継が急遽入り、延期になったの。


長男に見せるために録画したのだけど、春から1年生の次女も、もちろん長女も、楽しく見ている。

昨日、予定されていた第5回がない、というだけで、次女は不満そうだった。それくらい楽しみなのだ。



長男はある程度 Scratch をやっているからこそ、他人の作品を紹介するコーナーで「この処理どうやってるの?」なんて声を上げている。


気になるなら、ソースプログラムを見られる、というのも Scratch の良いところだ。

公開されている作品は、すべてソースにアクセスして、改造して構わない。



人は教えても成長しない。

学ぼうとしたときにだけ、成長する。


この番組では、基本的なことは教えているが、「もっと知りたい」と思うくらいで止めている。

わざと中途半端に終わらせているのだ。寸止めがうまい。


そして、知りたければ資料は山のようにある。

学び取るのは自分自身だ。


つくづく、よくできていると思う。



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アクティベートにハマる  2016-03-29 17:44:27  コンピュータ

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恥をさらすだけなのだけど、面白かったので書く。


世の中では iOS 9.3 のアップデートでアクティベートできない、という問題が出ていたようだ。

OS にバグがあったそうで、Apple が慌てて配布を中止、数日後にバグを修正したものを再配布した。


僕自身は Android 派なのだけど、仕事で iPhone を借りて使っている。

そして、やっちまったのですよ。アクティベートでハマった。




ただし、バグのせいではない。自分のうっかりミスなので「恥をさらす」と書いたのだ。


仕事で借りてから、何度か OS のアップデートはしていた。

でも、今までアクティベートっていうのは求められなくて、その存在すら知らなかった。


iPhone は「高級品」で盗まれることが多いので、盗んだ人が使えない仕組みが備わっているのね。


たとえば、クラウドストレージである iCloud との連携で、iPhone を探し出すことができる。

この機能、購入して最初に「アクティベート」した際に設定した ID とパスワードの組で動作していて、機能を OFF にしようとしてもパスワードを求められる。



先に書いた通り、仕事先で購入した iPhone を、仕事で使うために借りている。

借りる際に、すべてのデータをクリアしてから僕に渡されたので、新たに ID を設定して使っていた。


でも、iCloud の ID だけ、以前のままだった。

時々 iCloud がパスワードを聞いてきていたのだけど、キャンセルすればそのまま使えていたし、仕事で使っているだけなのでそのまま気にせずにいた。



で、iOS 9.3 を入れたら、アクティベートを求められた。

iCloud の ID とパスワードを求められたのだ。


普通に使っているとき、iCloud の ID は表示され、パスワードを求められるだけだった。


しかし、アクティベートでは ID から入力しなくてはならない。

ヒントとして、数文字だけ明かされているのだけど、わからない。



えーと、たしか iColud の ID は、EZweb の初期メールアドレスだった。

利用者名義は貸してくれている会社社長になっていた。


じゃぁ、社長に聞けばわかるだろう。解決。


…と思ったら、社長も知らないという。

仕事で使うだけだから、普段自分が使っている ID とは違うもので、購入時にショップの店員に「適当にアクティベートしといて」と頼んだだけだそうだ。

パスワードはさすがに適当ではなく自分で設定したはずだけど、ランダムに決めただけで覚えてないらしい。




情報を調べる。


iOS9.3 でアクティベートができないときは、PC に接続して iTune をつかえ、という情報がある。

しかしよく調べると、これは「iOS 9.3 のバグにより、iPhone 単体でアクティベートできないとき」の対処方法らしい。


そして、Apple ID がわからない際は、キャリアに聞いても無駄。Apple に聞けとのこと。

じゃぁ、Apple に聞いてみよう。



まずは、本体のシリアルを調べる。問い合わせに必須らしいので。

起動するなら OS 上で調べられるが、起動しないので OS 上では調べられない。


機種により違うが、どこかに物理的に文字で書いてある

うちの場合、SIM カードを抜くとトレイに記してあった。



Apple に電話する。

バグ問題もあってすごく混んでいて、つながるまで2時間待ち、という情報もある。


でも、WEB ページで電話番号を調べると、WEB 上からコールバックを要求できるようになっていて、2分以内に電話する、とある。


すでにバグを修正したバージョンが配布されているので、混雑が解消しているだけかもしれない。

電話をかけるのではなく、コールバックしてもらう方がかかりやすいのかもしれない。




事情を説明する。

自分の名義ではなく、法人で購入していること。

購入者が「仕事で使うだけだから」とショップでアクティベートしてもらい、ID すらわからないこと。


連絡先などがわかれば…ということなので、購入者氏名として、社長の名前と法人名を伝えたが見つからない。

iPhone の電話番号でも、シリアル番号で調べることもできない。


Apple ID を消去してやり直すこともできるのだけど、それには購入証明書などの書類手続きが必要になるという。


他にも、思いつく限りの購入者の特定情報をためしてもらう。

…運よく見つけることができた。



見つかっても、本人確認が必要だ。

そして、僕は困ったことに購入者本人ではない。


レガシー…古いタイプの本人確認方法だった。

今の Apple ID では、あらかじめ決められたいくつかの質問のうち、3つに答える形で本人確認を行う。


以前は、質問自体を自分で設定したようだ。その設定が残っていた。

幸いなことに社長は、社員であればわかり、社員以外にはわからないような質問を設定していた。


これで、Apple ID はわかった。

あらかじめわかっていたことだけど、EZweb メールの初期アドレス(ランダム文字列)だった。




さて、パスワードもわからない。

パスワードリセットは可能で、リセットするとメールアドレスに届くらしい。


そのメールアドレスは、iPhone をアクティベートしないと受け取れない。


EZweb には WEB でメールを確認する機能もあったように思う。(未確認)

だけど、WEB ページに行ってみたら、2段階認証が必要だった。


電話番号を入れてログインすると、その電話番号にショートメッセージが届く。

iPhone をアクティベートしないと見られない。WEB メールも使えない。詰み。



でも、Apple サポートのお姉さんは、もう一つの方法を教えてくれた。

もう一つの方法で本人確認すれば、 WEB ページでパスワードを付け直せる。



その本人確認の方法は、誕生日を答えることだった。

社長の誕生「日」は知っていたのだけど、年は知らない。


3回間違えると、「しばらく後でまたやってね」になる。

お姉さんによれば、これを3セットくらい繰り返してしまうと、8時間程度ロックされるという。


社長に聞けば簡単なのだけど、連絡してもすぐ捕まらない人なので、適当に入れてみる。


…6回目で突破。




パスワードを付け直し、アクティベートする。

その後、iCloud を OFF にする。パスワードもわかっているから大丈夫。


今後は、謎文字列の EZweb メール ID は不要になる。


これで完了。



そもそも、iCloud が時々パスワード求めてきている時点で、キャンセルしないで社長に問い合わせて置けば済んだ問題。

最初に書いた通り、自分の不用意が招いたもので、書くのは恥さらし。

でも、面白かったので記録を残したかったの。



一応社長から了承を得ているのだけど、ちょっとしたソーシャルハッキングだよね。

ゲームとしてはなかなか楽しめた。


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