目次
17日 【訃報】近藤淳さん
21日 異臭症 ほぼ完治
28日 コロナワクチン三回目接種
28日 地震と電力逼迫
近藤淳さん、3月11日に亡くなった、と昨日公表されました。
いつも、わざわざ訃報を取り上げたりするのは、コンピューター関連の人であることが多いです。
でも、今回はそうではなくて、個人的な思い入れ。
金属を十分に冷やすと、電気抵抗がゼロになる場合があります。これを「超電導」と呼びます。
一般的には、冷やせば冷やすほど抵抗は小さくなります。
しかし、一部の金属では、ある程度以上冷えた場合に、抵抗が大きくなります。
この現象が、なぜ起こるのかわからなかった。
この現象を、極小の世界の粒子の挙動として理論的に説明し、解明したのが近藤さんです。
このため、この現象は「近藤効果」と呼ばれており、この現象が起きる合金を「近藤合金」と呼びます。
自分の過去がばれてしまいますが、僕が大学在学中に、学んでいたキャンパスで教授をやってました。
もっとも、別の学部だったため、僕とは直接の関係はありません。
当時から近藤さん…以降は学生当時の気分で近藤先生と書きますが、先生はノーベル賞候補とされていました。
同じキャンパスにノーベル賞候補がいる、というのは、学生の間でも話題なっていました。
僕が大学に入学したのが、1990年。近藤先生が赴任したのも同年です。
学部が違うと言ってもそれほど大きくない大学でしたから、学部を超えて、先生同士の飲み会などはあります。
行動力のある奴が、その飲み会に潜り込み、近藤先生から直接話を聞いてきました。
それで、近藤効果がどのようなものであるかを知りました。
当時は、高温超電導が発見され (1986年) 、しかし、なぜ高い温度で超電導になるのか、十分に解明できていませんでした。
だから、ここにも近藤効果は関係があるかもしれない、というので、すごい理論を打ち立てた人なのだなぁ、と思った覚えがあります。
ただ、同時に近藤先生自身は、ノーベル賞をもらえるとは思ってない、とも。
近藤効果の研究が凄いことは事実で、他の多くの研究から引用され、下敷きとなっています。
そのため、確かに以前はノーベル賞候補と考えられていました。
しかし、近藤効果でも謎の残る部分の研究から、新たな学問が芽生え、その理論を打ち立てた人が 1982 年に物理学賞を受賞しています。
また、高温超電導でも、その発見者が 1987 年に物理学賞を受賞しています。
普通、一つの分野から2回表彰されることはありません。
なので、近藤先生は、自分は表彰されることは無いだろう、と考えていたのです。
以前は、ノーベル賞の発表時期には、マスコミの人が大勢、近藤先生の自宅に集まっていたそうです。
しかし、この時点(1990年)では、そうした人も来なくなり、ただ昔なじみの新聞記者が、必ず来てくれたそうです。
受賞の知らせが来ることは無いだろう、と思っていてもお互い口には出さず、電話のそばで、酒を酌み交わしながらおしゃべりを楽しんでいる。
近藤先生はそう言っていたそうです。
しかし、近年では技術の進歩により、ナノテクノロジー…量子力学の世界での技術が実用化されています。
そうした世界では、やはり近藤効果の理解がまだ重要なのだそうです。
再び近藤先生の研究を引用する研究も増え、ノーベル賞の有力候補、とされるようになっていたのだとか。
同じキャンパスにいた、というだけの縁ですが、ご冥福をお祈りします。
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異臭症のその後話。
昨年の夏、コロナのデルタ株が爆発的な流行を見せ、第5波、と呼ばれていた時に、コロナに罹患しました。
その後も、後遺症として嗅覚異常である「異臭症」が残っていました。
これが、やっとほぼ完治したかな、という状態になっています。
病気の治癒直後は、匂いを感じられませんでした。
その後、弱いながらも匂いを感じられるようになったものの、フルーツっぽい匂いにはゴムのようなにおいが混ざり、フローラルな香りには生臭さが混ざりました。
2週間ほど前、3月の頭には、まだ時々生臭さを感じていたのですが、最近はそれもほぼなくなっています。
シャンプーの匂いとかで時々感じることもあるのだけど、いつもではないし、感じるとしても最初の一瞬だけ。
後は普通のシャンプーの匂いになります。
というわけで、ほぼ完治したのかと思います。
匂いを感じない、と分かった時に、コロナの嗅覚異常について調査しました。
ニュースサイトとかでもよく取り上げられているのだけど、そうした情報はいたずらに不安をあおるだけのものが多い。
調査したのは、そういうものではなく、医療系の論文・報告書など。
当たり前なのだけど、軽症の人は治りが早く、重症の人は遅いです。
そして、軽症の人が圧倒的に多いので、半数は3か月程度で治る。
じゃぁ、それで治らない人はどうかというと、長引きます。でも、長引いても大抵は治る。
8か月で 95% の人が治る、と理解したので、不安がらずにゆっくり待つことにしました。
そして、本当に8か月ほどかかったけど、まぁ上に書いたように、ほぼ完治しました。
残りの 5% の人は、1年かけても治らない、という時点で追跡調査がおわっていました。
その報告書を書いた時点で治っていなかった、というだけで、追跡調査をやめたわけではないと思いますが。
長男・長女も嗅覚異常ありましたが、僕より先に治っています。
これで、我が家のコロナの後遺症はほぼ終了、ということかな。
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もう5日も前の話だが、先週水曜日、23日の夕方にコロナワクチンの三回目接種を受けてきた。
接種したのはモデルナのワクチン。
妻と一緒に予約を入れ、仕事を早退して車で会場へ。
まぁ、このこと自体は特に問題はない。
接種して数時間たち、腕が痛くなってきたなー、というのも1・2回目と同じ。特に問題ない。
翌日、木曜日の朝、妻は若干熱がある、というのでアセトアミノフェン系の熱さましを飲んで午前中寝ていた。
僕は仕事があるので自宅で作業。
昼頃、僕も若干熱が出てきたので薬を飲むが、仕事は続ける。
問題が出始めたのは夕方になってから。
16時を過ぎたころから、急に寒気を感じてきた。
これは、今日は夕方5時(17時)に作業終了させてもらおう、と思いつつ仕事を続けるのだが、16時半ごろには辛くなってきた。
熱を測ると、38度あった。仕事先に連絡して、すぐ作業終了。寝る。
ちなみに、薬は6時間開けないといけないので、この時点ではのめず。
布団に入っても寒気が取れなかったのだが、30分くらいしたら大丈夫になった。
その後、気づいたら少し寝ていて、18時ごろに目が覚めた。
熱を測ると38度8分。
妻は少し楽になった、というので、夕飯の支度を任せて寝る。
いかんな。夫婦二人で一緒にワクチン接種するのは良くなかった。
翌日の朝には僕は熱は下がっていた。
午前中はなんとなくダルさも残っていたが、午後にはそれも消える。
最も、腕の痛みはまだ残っていた。
子供たちも、この日が終業式で明日から春休み。
なので、夕飯は手を抜いて、冷凍お惣菜とお菓子でだらだらと過ごす。
土曜日には僕は調子を取り戻したが、妻はまだ少し調子が悪かった。
もっとも、腕を「押さえても痛くない」普通の状態になったのは、僕は日曜(昨日)の夜。
妻はこの時点でまだ痛かったようだ。
さて、すでに4回目接種をどうするか、という検討も始まっているようだ。
インフルエンザと同じように、今後定期接種が必要なワクチンになっていくのかもしれない。
今は、たった1年程度で開発したワクチンで副反応も強めなのだけど、やがて穏やかなワクチンも作られるだろう。
今回の反省は、夫婦一緒に接種してしまったこと。
一緒に寝込むと家事が回らない。
次回があるなら別の日にしなくては。
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忙しくて書いていなかったが、「日記」として書き留めておきたいことを。
3月11日は、東日本震災から11年目だった。
この日に前後して、テレビなどでも特集が組まれていた。
10年目までは「復興」の名のもとに多くの人が関心をつないでいた。
しかし、11年目は急速に風化が進んだように感じる。風化を食い止めよう…という論調が多かった。
言っていることはわかるが、個人的には賛同できない。
「風化」ではなくて、最初から知らない世代も増えているから。
10年もたてば当然のことだ。
家の長男も、地震の時は保育園の年長で、「すごい地震があった、というのは覚えている」一方で、全体として何がどうだったのか、というのはちゃんと把握できていない。
これ、風化ではない。最初から知らないのだ。
親として、「知っておいた方が良いから」と教えることはあるが、それは同じようなことが起きたときに、自分の命を守るため。
「風化を食い止めよう」には賛同できない。
この言葉を使う人は、記憶が薄れつつあると思っているのだが、記憶というのは自分のもの以外は見えない。
つまるところ、風化すると言っている人は、「自分の記憶」が薄れつつあることに危機感を持っているのだろう。
あんな大変なことを忘れてはならない、という気持ちと、実際には薄れていく記憶の間で焦っているのだ。
実際には、今の10代から下は、当時生まれていないので記憶なんてないし、18歳以下くらいでも、ことものころの話でよく分かっていない。
「風化」ではなくて、最初から知らない、が正しいのだ。
だから、風化を食い止めるのではない。
伝承に力を入れよう、というのであれば悪くない。
さて、その3月11日からわずか5日後の、16日23時36分。
東日本震災の震源域で、まだ大きな揺れがあった。
マグニチュード 7.3。最大震度6強。
僕は、11時前にはたいてい寝るのだけど、この日は珍しく子供と遅くまで話をしていて、しかし11時半近いからもう寝るよー、とベッドに入ってすぐだった。
ベッドに入っているからこそ、初期微動から感じていた。ずいぶん長いな、と思っていたらさらに大きくなった。
これは遠くで大きな地震があった時の揺れ方だ、と思ったら、スマホの防災速報アプリが、東北地方で震度5強、というアラートを鳴らした。
(この情報は速報値で、後で訂正された)
一旦起きて、テレビをつけて情報取集するも、この時は深夜で情報が集まっていない。
1時間ほどで再度寝た。
翌朝、僕は4時半ごろ起きるのだけど、前日遅く寝たので5時ごろになった。
まずは家事を行って、テレビでも情報収集。まだあまり大きな情報が集まっていない。
その後、8時ごろまでテレビを見ていて、あまり死者はいないこと、東北新幹線に大きなダメージがあること、仙台城跡の石垣が崩れたことなどを知る。
結構な規模の地震だ。
また、東北地方の火力発電所が多数緊急停止したようだが、点検の後、早いものでは翌日には復旧している。
しかし、破壊され、復旧に時間がかかるものもあった。
先週の頭、21日月曜日は春分の日で休みだった。
この日の夜、テレビニュースを見ていたら、明日はすごく寒い、ということと、この寒さで電力の供給量が足りなくなる可能性があるため、節電が呼び掛けられていた。
16日の地震で、発電所が止まっている。
それでも、ここしばらくは暖かい日が続いたので問題はなかった。
これが寒くなると、皆が一斉に暖房を入れるため、電力需要が増し、足りなくなるというのだ。
ニュースを聞いて、夜の間は暖房の温度を上げた。普段 22度にしているのを、23度に。
そして、朝起きてから(5時ごろ)、暖房の温度を 20度まで下げた。
我が家は高断熱住宅なので、夜の間に温度を上げておくことで、温かさを保ってくれる…と期待したのだ。
この日は本当に寒く、雨に時々みぞれや雪が混ざった。春分の日を過ぎた三月下旬なのに。
気にしてネットで東京電力の情報を見ていると、午前中から供給できる電力量を超えていた。
超えた分は、揚水発電で緊急に発電して賄うそうだ。
しかし、揚水発電はダムにたまった水が無くなれば終わり。この水の量も情報として伝えられたが、予定以上に早くなくなっていく…
これは、停電も考えた方が良さそうだ。
この寒さで停電したら健康にかかわるので、停電させるとしたら、海沿いの比較的暖かいエリアかな…
(つまりは自分の住んでいるエリアだ)。
という想像で、停電に備えることにした。
我が家はIHなので、停電すると夕食を作ることもできない。
電力逼迫の状況下で申し訳ないが、16時過ぎに夕食のおかずとして煮込み料理を作ってしまい、バスタオルで鍋ごとくるんでおく。
これ、東日本震災の計画停電の時によくやった方法だ。
お湯が沸騰したら、具材が煮える前でも火を止めて、包んでしまえばよい。
保温されていてゆっくりと煮えて、食べるときには十分火が通っているし、3時間くらいたっても温かい。
結局、この日の停電は回避された。
僕が覚悟を決めた16時ごろから、あまりの危機的状況に、他の電力会社から融通してもらう電力を増やすことで乗り切ったそうだ。
また、翌日も寒いという予報で節電が呼びかけられたが、幸いなことに天気予報が外れ、前日ほどの寒さにはならなかった。
このため、電力逼迫警報は午前11時ごろ解除された。
停電はない方が良いが、備えとして、100v出力に対応した充電式のバッテリーは持っている。
そのバッテリーに接続して使う、折り畳み式の太陽電池もある。
今回もいざとなったら出すつもりで備えていたが、出番はなかった。
もっとも、今回は雨も降っていたので、太陽電池は使えなかったろう。
(太陽発電所に期待できない、というのも電力逼迫の原因の一つだった)
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