今日は何の日の日記です

目次

2017-02-20 ケン・オルセン 誕生日(1926)
2017-02-18 ハンス・アスペルガー 誕生日(1906)
2017-02-16 パソコン通信が生まれた日(1978)
2017-02-13 ウイリアム・ショックレー 誕生日(1910)
2017-02-11 リチャード・ハミング 誕生日(1915)
2017-02-10 西和彦 誕生日(1956)
2017-02-08 ボブ・バーマー 誕生日(1920)
2017-02-02 内藤時浩さん 誕生日(1963)
2017-01-31 【追悼】中村雅哉さん
2017-01-26 後藤英一 誕生日(1931)
2017-01-11 アントニー・ホーア 誕生日(1934)
2016-09-27 Googleの誕生日
2016-09-13 Bit-INN オープン(1976)
2016-09-05 Gateway 2000 設立日 (1985)
2016-09-04 google 創立日(1998)
2016-08-31 「人工知能」の生まれた日(1955)
2016-08-29 マイケル・ジャクソン 誕生日(1958)
2016-08-25 Linuxの存在が明かされた日(1991)
2016-08-19 ゴードン・ベル 誕生日(1934)
2016-08-09 宇宙からの初メール(1991)
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ケン・オルセン 誕生日(1926)  2017-02-20 10:24:11  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、ケネス・ハリー・オルセン、通称「ケン・オルセン」の誕生日(1926)


コンピューターを大きく変えた会社、DEC の創業者です。

しかし、DEC 創業以前から、コンピューターを大きく変えるようなプロジェクトに多数関わっています。




「デジタル計算機」がすべて歯車式だった時代、デジタルは正確ではあるが遅いものでした。


いや、当時の計算機の一番重要な任務「弾道表」の作成に関しては、デジタルは遅いうえに不正確、でした。


弾道表の作成では、様々な条件で、多数の弾道を計算する必要があります。

そして、1本の弾道の計算だけで、動く弾の位置計算を、時間に沿って繰り返し何度も行う必要がありました。


速度が遅い、という理由から、少しでも計算を早くするためには、計算する「時間」の精度を荒くする必要がありました。

しかし、そうするとわずかな誤差が溜まってしまい、最終的には大きな誤差となるのです。


このため、第2次世界大戦中には「微分解析機」というアナログ計算機が開発され、活躍していました。



デジタルでも速度を上げれば十分な精度の計算ができるはず、と ENIAC が作成されますが、終戦には間に合いません。




まだ戦時中、アナログ全盛の時代に、マサチューセッツ工科大学(MIT)に海軍から「パイロットの養成のために」航空シミュレータの作成が依頼されます。


もちろん最初はアナログで作成しますが、要求された「本物の飛行機のような感覚」には程遠いものでした。

もっと複雑な計算を行う必要がありました。


しかし、アナログ計算機は「複雑な計算」においては、役に立ちません。

そして、デジタル計算機は「計算の速度」において、役に立たないのです。



このとき、まだ作成中だった ENIAC の噂が聞こえてきます。

デジタルでありながら、歯車を使わずに電気回路で計算を行う機械。

しかし、その予想される速度であっても、航空シミュレータの必要とする速度には足りません。


まだ完成もしていない ENIAC の技術面を参考にし、さらに高速化のための工夫が編み出されます。



最初に作られたプロトタイプが WhirlWind I でした。


真空管時代のものですが、いまでは「あたりまえ」とされるような技術を、多数最初に編み出したマシンです。

それ以前は、コンピューターは今とはかなり違うものでした。

WhirlWind 以前と以降で、コンピューターの姿が変わってしまったのです。


当時、ケン・オルセンは海軍研究局に在籍し、海軍の立場から WhirlWind I の作成プロジェクトに参加しています。




WhirlWind I は当時最高の性能を持つコンピューターでしたが、ただの「計算機」ではありませんでした。

グラフィックディスプレイとライトガンを備え、画面に図示した情報を「タッチ」することで操作できたのです。


航空シミュレーターを作る必要性からグラフィック機能が備えられたのですが、当時の「計算機」の概念を超える、対話できる機械でした。


ただ、このコンピューターを実現するための回路規模は膨大でした。

最終的に海軍ではなく空軍で使われるようになるのですが、量産された WhirlWind I … SAGE と呼ばれたシステムは、1台のコンピューターを「建設」すると、4階建てのビルが出来上がりました。



戦後、トランジスタが発明されると、真空管と同じようにトランジスタでもコンピューターが作れるのではないか、という可能性が示唆されます。

ただ、最新鋭の電子素子であるトランジスタは、非常に高価でした。



ケン・オルセンは、海軍を退役してMITリンカーン研究所に在籍していました。

そして、彼が参加した WhirlWind を参考としたマシンを、トランジスタで実現するプロジェクトの責任者となるのです。


しかし、先に書いたように、トランジスタでコンピューターが本当に作れるのか、まずはその確認から始める必要がありました。


そこで、最低限の機能だけに縮小したプロトタイプ機、TX-0 を作成します。

最低限…命令が、たった4つしかありません。でも、ちゃんとプログラムできます。



これはプロトタイプですから、狙いどおりに動作することが確かめられるとすぐに TX-1 の作成に掛かります。

…が、TX-1 は野心的過ぎて失敗。


責任者は交代して最終的に TX-2 が出来上がります。

実は、TX-2 ももう人間の手には負えない設計で、設計段階から TX-0 の計算力を必要としています。


そして、TX-2 の完成時点で、TX-0 は用済みになりました。

しかし、この「用済みのコンピューター」こそが、ケンの人生を、そして世界を変えていきます。



#TX-2 は、世界初の「コンピューターグラフィックス」を実現したことで有名です。

 詳細はサザーランドの記事へ。




用済みの TX-0 は、MITに無償で貸し出されました。

MITにはすでに研究用の計算機として IBM 904 がありましたから、 TX-0 は学生が自由に使ってよいマシンとなりました。


そして、学生たちは TX-0 で自由に遊び始めます。

「計算機」のはずなのに、計算などさせず、絵を描いたりゲームを作ったり音楽を演奏したり。


ケンにはこのことが驚きでしたが、同時に「十分安くて自由に触れるのであれば、コンピューターの用途はずっと広がる」と気づきました。



ケンは、DEC社を設立。


当初は「装置」の名前通り、TX-0 や TX-2 の周辺機器をオーダーメイドで作っていました。

しかし、その裏で開発を進め、TX-0 を元としたミニコンピューター、「PDP-1」を作り出します。


ところで、DEC は Digital Equipment Corporation 、PDP は Programmed Data Processor の略です。

コンピューターを作っているのに、どこにも「Computer」の文字が入っていません。


これは、まだ広く知られておらず「一般人には関係のないもの」と考えられていた「コンピューター」の名前を使うことを、会社設立資金を提供したオーナーが嫌がったためです。


しかし、PDP-1 は明らかにコンピューターでした。

よく「世界初のテレビゲーム」と呼ばれる、「Space War!」は、この PDP-1 で作り出されています。




DEC は作る機械に順次番号を割り振っています。


そして、互換機もあれば、互換性のない機械もあります。

軍のオーダーで作られ一般販売しなかったものや、試作だけで終わったものもあります。


そのため、型番からでは互換性が分かりません。


PDP-1 は 18bit マシンで、4 7 9 15 が後継機。

PDP-3 は 36bit マシンで、6 10 が後継機。

PDP-5 は 12bit マシンで、8 12 が後継機。

PDP-11 は 16bit マシンで、後継機はシリーズ名も変わる「VAX-11」となります。


18 / 36 / 12bit って、今のコンピューターに慣れていると奇異に見えますが、当時は 1byte が 6bit です。

だから、3 / 6 / 2 byte を 1word とするマシン、ということになる。


でも、ASCII 文字コードが制定されると 1byte が 8bit になり、それ以降に作られた PDP-11 では 16bit / 2byte が 1word になっています。



このうち、特筆すべきは 1 7 8 10 11 …あたりかな。


7 は、初期の UNIX が作られた機械です。

後に、互換性のない PDP-11 に移植が行われ、その際に「アーキテクチャを問わないアセンブラ」として開発されたのが C言語です。


8 は 12bit で廉価だったのに加え、時代的にもコンピューターになじみが出てきたタイミングで発売されたため、大ヒットしました。

自動車を買うのと同じ程度の値段で買えた、と言いますから、現代の感覚からすればまだ高いのですが、当時としては「個人で所有できる唯一のコンピューター」でした。


商用としてはかなり初期のコンピューター音楽演奏システムなんかにも使われています。

「ミニコンピューター」「ミニコン」という言葉は、このあたりから出てきたもの。



10 は、電話回線でテレタイプを接続して時間貸し、というシステムでよく使われました。

ビル・ゲイツが初期のハッキングを楽しんでいたのもこのマシン。


11 は、当時のコンピューター命令セットとしては最も美しい設計だとされ、後の多くのマイクロプロセッサに影響を与えています。

6800/6809 や 680x0V60、Tron-chip なんかも PDP-11 の影響を受けて設計されているそうです。



最も、PDP-1 以降はケンの手を離れています。

PDP-4,5,6 それに 11 は ゴードン・ベルが作っています。




PDP-11 から VAX-11 に機能が拡張されます。

VAX は Virtual Address eXtension の意味で、「仮想メモリ」をサポートしました。


また、この機能を活用した VMS という OS が作られました。


…使ったことがないので迂闊なことは書けない。

でも、UNIX に対する「回答」として作られた節があって、どの部分をとっても UNIX に似ていて、しかしそれよりも良いものだったそうです。



たとえば、UNIX ではすべてを「ファイル」として考えます。

そして、ファイルの入出力ですべてが行えるようにするのです。


キーボードは読み出し専用のファイルです。

プリンタは、書き込み専用のファイルです。


ディスク全体も特殊なファイルとして考えられますが、その中に実際のファイルが入れられ、これは読み書き共にできます。


しかし、UNIX でも「メモリ」まではファイルにしていませんでした。

プログラムが入っているメモリは、OSにとってはちょっと特別な場所。


VMS では、「仮想メモリ」によって、搭載している以上のメモリ空間を扱えます。

そして、足りなくなった際にはメモリの一部はファイルとして保持するのです。

ここで、ファイルとメモリも統一が行われたのです。



さらに、UNIX ではファイルはディスク上に置かれていることが前提でしたが、VMS では「ネットワーク」を前提としています。

ネットワークされたコンピューターのどこかにファイルがあれば、その保存形態は問いません。



今では UNIX にも、仮想メモリや NFS (ネットワークファイルシステム)という概念があります。

しかし、これらは VMS から取り入れた概念なのです。




VAX には公式 OS として VMS が提供された一方で、PDP-7 / PDP-11 で育った UNIX もまた、VAX に移植されていました。


だからこそ、UNIX を超える公式 OS を作ろうとしたのでしょうが、普及したものに対して「よりよいもの」で追うという戦略は、大抵うまくいきません。

VMS も例にもれず、普及しませんでした。



UNIX 上では、「グラフィカルな操作環境」として X-Window というシステムが作られています。

この開発者は、後に DEC に在籍していました。



VMS の UNIX に対する優位点は、先に書いたように仮想化やネットワーク化が OS 自体に組み込まれている点です。

UNIX は、後付けのソフトウェアで実現しているため、設定・管理が煩雑でした。


そこで、いっその事、VMS を大きく作り直して、X-Window も取り込んだ次世代のグラフィカル OS を作ろう、というプロジェクトが始まります。

一歩先ゆく次世代 OS として、V M S の文字をそれぞれアルファベット順に一つすすめた、コードネーム WNT 。


しかし、作成中に DEC が破産します。

WNT は、マイクロソフトが買い取り、大幅に手を加えて、後の Windows NT となります。


現在も広く使われている Windows は、 Windows NT の後継です。




さて、もしもケンがいなかったら、どうなっていたでしょう?


TX-0 は作られず、コンピューターが「計算」以外の仕事を始めるのは、控えめに言って、もっと遅くなったでしょう。


個人で所有できるコンピューターの実現にも時間がかかったでしょうし、当然コンピューターゲームの誕生だって遅れます。

Windows だって存在しません。


ケンの存在は、今の世の中に大きな影響を与えているのです。




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コンピュータ

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03年 ホウレン草

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名前 内容

ハンス・アスペルガー 誕生日(1906)  2017-02-18 17:30:52  今日は何の日

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今日は、ハンス・アスペルガーの誕生日(1906)


今日は珍しく、コンピューターとは関係なさそうな話題。


アスペルガーはオーストリアの小児科の医師で、特に精神的な発達障害、今でいう自閉症を研究しました。


当時すでに「自閉症」の研究は始まっていました。

しかし、今ほど理解が進んでおらず、自閉症の原因は知的障害で、言語能力などが発達していないためにコミュニケーションが行えないのだ、と考えられていました。



しかし、アスペルガーは自閉症児との交流の中で、そんなに単純ではないことに気付きます。


通常の…精神病に分類されない人々も、知能の高い人と低い人、言語能力の高い人と低い人がいます。

そして、自閉症の子供にも、同じように知能や言語能力の高低があると理解するのです。


ただ、自閉症児は、振れ幅が非常に大きいのです。

…いや、振れ幅が非常に大きく、通常の人の枠組みを超えるから「精神病」に分類されるのかもしれません。


ともかく、自閉症児は知的障害を持つ、と考えられていたのは誤りで、場合によっては非常に高い知能・言語能力を持つのです。


彼は、こうした例に興味を持ち、多くの症例を論文で報告しました。


しかし、多くの論文は、ドイツ併合下のオーストリアで発表されたものでした。

他の言語に翻訳されることもなく、彼の仕事は世界的にはあまり知られることがありません。


アスペルガーは 1980年10月21日死去。

その直後、1981年に彼の論文をイギリスの精神科医、Lorna Wing が英語翻訳し、彼の報告した症例は「アスペルガー症候群」として世界に知られることになります。




アスペルガーは小児科医で、子供を非常にあたたかな目で見守っていたようです。

彼がアスペルガー症候群を報告し続けたのも、子供を守るためだった、という側面があります。


というのも、先に書いた通り当時のオーストリアはドイツに併合され、ナチスの支配下にありました。


ナチスは優生思想…優れた人間だけが子供を残すことで、悪い遺伝子を排除して、よい社会を作り上げる…を政策に取り入れていました。

ユダヤ人の大量虐殺も、「ユダヤ人は劣っている」という差別意識から行われています。


そして、同じように「先天性の精神疾患は、悪い遺伝子である」という考えから、やはり大量虐殺が行われています。

知的障害者である、というだけで殺されてしまう世の中だったのです。



しかし、アスペルガーは、自閉症の子供の中に「そこら辺の大人よりも優れた知能を持っている」子供がいることを示しました。

しかも、そうした子供も見た目の上では自閉症の…他の知的障害を持った子供と同じなのです。


これは、自閉症の子供を虐殺から守る効果がありました。

専門知識を持たないものが自閉症の子供を殺すことは、もしかしたら「将来の国の宝」を失うことになるかもしれないのです。



オーストリアは、「SOS子供の村」という、世界的な NGO活動団体の発祥の地でもあります。

何らかの都合で幸せな生活を送れない多くの子供を保護する活動で、現在では 100以上の国で 100万人以上の子供がサポート下にあります。


設立者、ヘルマン・グマイナーから要請を受け、アスペルガーも活動に協力しています。

もちろん、彼の専門である小児科医として。


彼はウィーン大学小児病院の理事もしていましたから、多忙でした。

それでも、「子供のために」そうした活動に参加しているのですから、非常にやさしい人だったのだろうと思います。



参考:アスペルガーの生涯(ドイツ語サイト)





さて、ここからは自分の話。

僕は以前に、自分も子供の頃アスペルガーだったのだろう、と書いたことがあります。


アスペルガー医師が研究したのは、ある程度「重度の」子供たちだったのだろうけど、こうしたものは軽度から重度までグラデーションがあるからね。

僕は多分、軽度のアスペルガー。


子供の頃はこんな区分なかったよね、と思っていたのだけど、上に書いたように世界に紹介されたのが 1981年。

日本で知られ始めたのは、1990年代の半ば過ぎだったのではないかと思います。



アスペルガー症候群の問題点…人とのコミュケーション下手は、大人になるにつれて多少改善します。

と言っても、「病気が治る」とかの意味ではないよ。症候群、と言われているけど、別に病気ではないし。


ただ、普通の人なら当たり前にできるコミュニケーションを、何度も失敗しながら覚えていくだけです。

上手くできないと言っても、失敗を繰り返せば覚えざるを得ない。

アスペルガー特有の記憶力の良さがあるから、徐々に「普通」を理解していきます。


僕は今でもコミュニケーション苦手です。

ツイッターやっているけど、あまり人と会話しないし。

WEB ページ作っているのも、これなら一方的に言いたいことを発信できるから、というだけ。



で、自分もそうだからよくわかるのだけど、アスペルガーは非常にプログラマーに向いてます。

研究者一般向いていると思うのだけど、僕はプログラマーだったからね。


…と、ここで普段コンピューターの話を書いている「今日は何の日」で、アスペルガー医師を取り上げた理由が出てくるわけです。




重度のアスペルガー症候群とか、そうでなくても子供のころから「頭が良いから」という理由で、ちょっと変わり者であることが許容されてしまった人とかは、人とのかかわりで失敗して「普通」を覚える機会が失われてしまいます。


これは非常に残念なこと。

先日書いたウィリアム・ショックレーとか、明らかにアスペルガーの悪い面が出てしまっている。


ショックレーはトランジスタを発明したチームのマネージャーで、彼自身も重要な改良発明を行っており、ノーベル賞を受賞し、後にシリコンバレー発展の種となる研究所まで作った。

でも、自分の部下を信用することもできず、周囲のすべてを敵に回してしまうのです。


超が付くほどの天才なのでアスペルガーとしても重度だったのかもしれませんし、天才と持ち上げられることが多かったために、周囲と折り合いをつける方法を学べなかったのもあるように思います。



先に書いたように、僕が子供の頃は「アスペルガー」なんて概念もありませんでした。


しかし、今は理解が進み、軽度の症例でも簡単に「アスペルガー」だと診断されます。

小学校のクラスに一人はいるような、ごく普通の存在。


「クラスに普通にいる」というのが大事ね。

知的障害を伴う自閉症児は、特別学級に入れられることも多いです。


でも、アスペルガーは知的レベルには何の問題もない。

だから、普通に学校に通えます。

ただ、人づきあいが下手だから、いじめにあったりするだけで。

(僕もいじめられたクチなので、本当によくわかるのです)



必要なのは、周囲の大人の理解です。小学生レベルだと、親が気付いてサポートするのが良いでしょうね。


付き合い下手かもしれないけど温かく見守って…でも決して甘やかさないで。


先に書いたように、衝突して失敗すれば徐々に覚えるから、甘やかしちゃいけない。

ただ、失敗しても「ちゃんと学ぶ」ように導いて、失敗のことは水に流してあげてほしいのです。


そして、その子が興味を持ったことは否定せず、とことんサポートしてあげて。



「そんな趣味役に立たない」と考えるのは、大人の偏見です。

子供時代に蓄えた知識は、必ず将来役に立ちます。


僕も子供の頃、クラスに「東海道線の駅名を全駅言える」なんて奴がいた。

それは何の役にも立たないです。でも、駅名を言うことで周囲に受けたのでどんどん他の線の駅も覚えて行って…


最終的に、中学の頃には暗記科目がすごく得意な奴になりましたよ。

なんか、覚えようと思ったことを確実に覚えられるメソッドを、自分なりに獲得したみたい。



僕は小学校の時にコンピューターに興味を持って 4bit マイコンを買ったり、中学の時にはファミリーベーシックを買ったりしました。


御多分に漏れずコミュニケーション下手だったので、中学では部活にも入らずさっさと家に帰り、自分でゲームを作ってばかりいました。

それをベーマガに投稿するのが楽しかったのだけど、成績が落ちて親に「そんなことをしていても将来役に立たない」と怒られたりもしました。


でも、その時は一時的に禁止されたのだけど、その後勉強もちゃんとやって節度を持つなら、プログラムを組むことを許してくれた。

「役に立たない」なんて言いながら、理解はしてくれていたのです。


おかげで、今では独立してフリーのプログラマでやっていける程度の腕にはなっています。

ちゃんと役に立った。




アスペルガー症候群って、精神病の一種と考えられているから、この症名を聞くと取り乱す人が多いみたい。


でも、これは「周囲から浮いてしまうほど頭が良い子供たち」につけられた症名です。

「この子は天才肌だ」と言われているのだと思ってください。悪いことじゃないんです。


事実、アスペルガー医師自体が、そうした子供に敬意を払い、「小さな教授」と呼んでいたのだから。



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別年同日の日記

05年 忙しい1週間・木曜日

07年 最近のうちの子

15年 占い開発の初期

16年 歯科矯正

16年 秒殺(1)


名前 内容

パソコン通信が生まれた日(1978)  2017-02-16 10:21:54  コンピュータ 今日は何の日

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今日は「パソコン通信」が生まれた日(1978)


当ページでは、古いコンピューターの話題も多数取り上げています。

だから、いわゆる「コンピューター通信網」は、これよりずっと前からあったよ、と言わないわけにいきません。


でも、1978 年の今日、「パソコン通信」が生まれたのです。




インターネットの前身となる ARPANET は、1969年には生まれています。


「テレタイプ」同士を電話線で繋げて通信を行うのはもっと昔からありました。

そして、テレタイプはコンピューターの入力機器としても使われました。当然、電話越しの利用もありです。


DEC の PDP-10 は1966 年に出荷されたマシンで、タイムシェアリング…複数のプログラムを同時に動かせる機能が特徴でした。


#今では複数のソフトが同時に動くなんて当たり前の話ですが、1990年代初頭までは一般的ではなかったのです。


このタイムシェアリング機能と、電話線越しのテレタイプ接続を使って、コンピューターを時間貸しするサービスが 1968年には存在しています。

1980年代には世界最大手のパソコン通信会社だった CompuServe も、1969年に創業したコンピューターの時間貸しサービスの会社でした。


とはいえ、コンピューターに電話線で接続してできることは、コンピューターのアプリケーションを利用すること、だけでした。




1975年、Altair 8800 が登場します。世界初の「パーソナルコンピューター」でした。


Altair は…作った MITS 社自身が売れるとは思っておらず、量産体制を整えてなかったため、入手困難な人気商品になりました。

そして、回路をほぼ丸ごと真似した「互換機」が大量に発売されることになるのです。


Altair の設計の特徴は、すべてを…CPU すらも、「周辺機器」と考え、それらを結び合わせるバスを巧妙に設計したことにありました。

このバスは S-100 バスと呼ばれ、互換機は S-100 コンピューターと呼ばれます。



シカゴに住むワード・クリスチャンセン (Ward Christensen) は、こうした互換機の内の一つを入手しました。


ワードは、近所のコンピューター愛好家の集会に顔を出すようになります。


Cicago Area Computer Hobbyists' Exchange、略称で CACHE と呼ばれる集会で、ランディ・スース (Randy Suess) と知り合います。

二人は打ち解け、仲の良い友達になりました。



1960年代末から普及し始めた「コンピューターの時間貸しサービス」は、電話回線越しにテレタイプやコンピューターを接続するための「モデム」を、一般的な電気製品にしていました。

コンピューターショップに買いに行けば、誰でも手に入れることができるのです。


ワードとランディは、この面白い機械を使えば、CACHE に顔を出して紙テープの受け渡しをしないでも、コンピューターのプログラムを交換できると考えました。



この頃の通信網というのは、それほど品質が高くありません。時々電気ノイズにより、ビットに「誤り」が起きるのです。

コンピューターの時間貸しを行っているだけであれば、それらは「文字が化ける」ことになります。


結果の数字が運悪く別の数字に化けたりすると困りますが、そんなに都合よく化けることはあまりなく、アルファベットなどに化けるので「おかしい」ことが分かります。

おかしいと思えば、再度計算させて確認することもできます。


しかし、コンピューターのプログラムで 1bit 間違える、というのは致命的です。

品質の悪い回線で、絶対にデータを間違えない転送方法を考案する必要がありました。



ワードは、300bps のモデムでデータ転送を行うための「MODEM」というプログラムを作り上げます。


128byte 転送するごとにチェックサムを送り、相手が「正しい」と信号を送ってくれば次を送ります。

もし「再送」という信号が来れば、同じ 128byte を送り直します。


これを最後まで繰り返せば、間違いなくバイナリプログラムを送ることができるはずです。



このプログラムは仲間内で話題となったようです。

それまで、パソコンは単体で使うもので、「電話線越しに接続する」なんて試みはなかったのですから。


やがて、パソコン同士を接続できるのであれば、みんなに伝えたいことなどを記録しておき、誰でも好きな時に確認できるシステムは作れないだろうか、という構想に発展していきます。


パソコンを相手とした留守番電話、というイメージでした。

ただし、メッセージは留守番電話の持ち主だけでなく、誰でも見ることができるのです。



とはいえ、構想だけでなかなか作成には入れなかったようです。




1978年1月中旬、シカゴは猛烈なブリザードに襲われました。

家の外に出るのもままならない状態。もちろん CACHE の集会にも顔を出せません。


しかし、家にいなくてはならないこの時間は、以前から考えていたプログラムを作る良い機会でもありました。



留守番電話のようなコンピューターを作るのであれば、普段使っている者とは別に、電話番専用の機械が必要になります。


ランディは、新しい S-100 コンピューターを組み立て始めました。

ワードは、MITS の 8K BASIC (ビルゲイツが作った Altair 用 BASIC)で、プログラムの試作を開始します。


試作段階では、メッセージはメモリ上にのみ残されました。

しかし、想定していたシステムは順調に動くようです。


ランディはさらにディスクドライブを入手して機械に取り付け、ワードは試作したプログラムを、アセンブラで作り直しました。

メッセージをディスクに残すために、CP/M 上のアプリケーションとなりました。


作業開始は、1月16日。

当初は2週間のつもりで作業していましたが、完成度を高めるためにさらに2週間の追加作業を行います。


そして、1978年の 2月 16日、システムは完成し、お披露目が行われました。


パソコン同士を接続し、メッセージを読んだり、当たらなメッセージをみんなに見せたりできる。

コンピューター化(Computerized)された掲示板(Bulletin Board)のシステム(System)です。


頭文字を取って、CBBS と名付けられました。

世界で最初の、いわゆる「パソコン通信」 BBS と呼ばれるものです。



#C を、彼の属していたサークル CACHE の意味とする説もあるらしいが、彼自身が「CACHE は関係ない」と明言している。




ワードとランディは、自分たちの作成したシステムの概要を、Byte 誌に投稿します。

この記事は、11月号に掲載されました。


記事のタイトルは Hobbyist Computerized Bulletin Board。

記事中では、表記ゆれで Computerized Hobbyist Bulletin Board System になったり、単に Bulletin Board System になったりします。


実際に動作している画面イメージでは CBBS/CHICAGO とあります。


どうやら、これで「Bulletin Board System」、略して BBS 、というのが一般的な認識となったようです。


この後、BBS を名乗るシステムが多数同時発生します。

「パソコン通信」の時代が始まったのです。




ワードの作成したプログラム転送機能、MODEM は、後にプロトコルなどが改良されて XMODEM と呼ばれるものになりました。


後にもっと改良されたプロトコルが作られても、「パソコン通信ソフト」には、XMODEM で転送を行う機能があるのが普通でした。

パソコン通信のホスト側も、クライアント側も、すべてが対応する「最低限の共通プロトコル」だったのです。


#1990年代にはモデムが高機能化し、通信回線の品質も高まっていたので、Flying XMODEM とかありました。…何もかも懐かしい。



多くのパソコン通信は、インターネット接続が一般化した 1990年代にサービスを終了しています。

CBBS も、そのころ運用を終了しました。


しかし、BBS の精神は無くなっていません。

元々 BBS は、「草の根」と呼ばれる、友達や地域の人と話をするための小さなコミュニティが中心でした。


大手企業が運営しているものはあっても、それが文化の中心ではなかったのです。



インターネット時代には、小さなコミュニティは「CGI 掲示板」などの形で残され、現在の SNS にも影響を与えています。




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コンピュータ

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05年 忙しい一週間・水曜日

15年 「ああ播磨灘」ゲームボーイ版


名前 内容

ウイリアム・ショックレー 誕生日(1910)  2017-02-13 09:59:09  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、ウィリアム・ショックレーの誕生日(1910)


トランジスタ効果の研究により、ノーベル物理学賞を受賞した人です。


トランジスタは、今ではコンピューターの最も基礎的な回路に使われる素子。

彼が研究所を設立した地は、周辺に同業他社が増え、今では「シリコンバレー」と呼ばれています。




ショックレーの伝記とか見ると、どうもアスペルガーだった印象を受けます。

大天才なのだけど、変人で扱いにくい。常に自分が正しいと思い込んでいる。


トランジスタの発明者、として知られているのですが、実は発明者は別の人です。

彼は、発明者もいたグループの「マネージャー」で、彼自身の提案による実験は失敗していました。


でも、自分の失敗したアイディアを改良して成功したのだ、と言い張り、自分こそが発明者だと言い張った。

これで世間からも彼が発明者だと思われるようになってしまい、一緒に研究していた科学者は、彼の元を去っています。


もっとも、誰が発明したかはともかく、それを使いやすく改良し、「現代の形の」トランジスタを作り上げたのは、彼の業績です。

ノーベル物理学賞は、一緒に研究していた科学者との共同受賞でした。




さて、時間を巻き戻して最初から話を進めましょう。


第二次世界大戦は、「無線機」が活躍した戦争でした。

それまでは情報は伝書鳩などで伝えられていましたが、無線によって通信されるようになったのです。


#無線電波は敵側にも簡単に傍受されてしまうので、暗号技術も進みました。

 こちらの話も面白いのだけど、今は関係のない話。



さて、第二次大戦中に問題となったのは、無線機の中で使われる「真空管」の扱いにくさです。


真空管は、無線にとって必要な「整流器」と「増幅器」の両方で使われます。

しかし、ガラス管で作られていて、大きく重いうえに、割れやすいのです。


整流器に関しては、「ゲルマニウムダイオード」の発明により、真空管ではなく、小さな素子をつかえるようになりました。

しかし、増幅器は相変わらず真空管が必要でした。



第二次大戦後、整流器をダイオードに置き換えられたように、増幅器も小さな素子に置き換えられないか、と研究が行われます。

ショックレーの率いるチームでもこの研究を行っていました。


しかし、ショックレーの試してみた方法では、増幅作用は置きませんでした。

その後、別の研究者が、ダイオードに対して3本目の電極をわずかに接触させることで、増幅作用を生むことを発見します。


今では「点接触型トランジスタ」と呼ばれるものなのですが、大発明でした(1947/12)。

大きくて重く、動作電圧が高くて動き始めるまでに「暖機運転」が必要な真空管と同じような動作を、小さく軽く、低い電圧で、すぐ使えるのです。



先に書いたように、ショックレーはこれを自分の発明だと主張します。他の人が発明したのに。

…結局、ベル研究所としてはこの主張を認めず、彼は特許書面に名を連ねることができませんでした。


その後の彼は、いつか自分単独の名前でトランジスタの特許を出す、と公言し、さらなる改良に励みます。



そして、僅か 5週間後に、接合型トランジスタを発明します(1948/1)


点接触型トランジスタは、針が「わずかに接触する」ことが大切です。

作るのにも微妙な感覚が必要で、使っていても壊れやすいものでした。


それに対し、接合型トランジスタは、量産も簡単で壊れにくいものでした。

彼の望み通り、単独の名前で特許出願が行われています。



トランジスタは無線用に開発されたものでしたが、数年後にはコンピューターが作られ始めます

いわゆる「第2世代コンピューター」です。




先に書いたように、ショックレーは人の気持ちを考えない強引な性格で、一緒に研究していた科学者は彼の元を去りました。

マネージャーとしては失格です。ベル研究所でも、彼は昇進できずにいました。


ショックレーは、友人に支援されて「ショックレー半導体研究所」を設立します。


しかし、ここでも彼は傍若無人にふるまいます。

すぐに部下を疑い、脅し、信頼しようとはしません。

そんな環境で良い研究が進むわけがありません。


研究所では、シリコン基板の上に半導体を生成する技術…「集積回路」の作成方法について研究が行われていました。


これは非常に難しい挑戦で、なかなかうまくいきません。

とはいえ、研究者たちの間では「あと一歩で成功する」という確信がありました。


しかし、ショックレーはこの研究の打ち切りを決めます。

これに反発し、8人もの研究者が一斉に研究所を辞め、新たな会社を近くに作りました。


これが、世界初の集積回路を生み出した会社、フェアチャイルド・セミコンダクターです。

この顛末は、ロバート・ノイスの誕生日に書いています。




晩年のショックレーは、人種差別主義者でした。


具体的にいえば、優生学…子孫を残すに値する、頭の良い人間だけが子孫を残せるようにし、頭の悪い人間を去勢すべきだ、という考え方です。


これ自体は「頭の良さ」だけが指標であり、「人種」差別的ではありません。

もっとも、頭の悪いやつは子孫を残すな、と言っていること自体が差別的で、人権無視ですが。



彼は持ち前の科学的な分析能力を使い、さらに論を展開します。


それによれば、子供の数と知能指数の間には相反する関係があるそうです。

つまり、「頭が悪い人ほど子供を多く残す傾向にある」というのです。


さらに、職種や人種による子供の数を比較し、黒人は子供が多い、つまり頭が悪いのだから積極的に去勢すべきだ、という論に繋がります。



これ、統計データとしてはおそらく正しいと思いますが、その理解はおかしいです。

今の日本もそうですが、社会的な地位を高めようとするとキャリアを積む必要があり、晩婚化が進みます。


また、差別や偏見によって地位を高めようがない場合、キャリアを積む必要もないので早婚になり、子供を多く残します。


そして、知能指数は絶対的な「頭の良さ」ではなく、そうしたテストに対する経験も影響します。

キャリアを積んだ人は数字が高く出がち、というだけのこと。



でも、ショックレーはこの主張を行うことが自分の生涯の務め、と信じて、いろいろなところで論を展開しました。

ノーベル賞学者の論ですから、雑誌などでも面白おかしく紹介されるのですね。

もちろん、その考え方がおかしい、ということの揶揄も含めて。


ショックレーはどんどん孤立していき、妻以外の家族と疎遠になっていきます。

彼が死んだとき、彼の子供ですら、死んだことをマスコミの報道で知ったのだそうです。



最初に書いたように、おそらくはアスペルガー症候群。


知能は非常に優れ、世界を変えるような天才性を発揮します。

その一方で、自分だけが正しいと信じ、人の気持ちを察するなんてできない。


世界を変えた人なのに…いや、名声が高まりすぎたが故の、寂しい末路に思います。


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名前 内容

リチャード・ハミング 誕生日(1915)  2017-02-11 16:10:54  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、リチャード・ハミングの誕生日(1915)


プログラミング…というより、情報理論をやったことのある人は、「ハミング符号」を聞いたことがあるかもしれません。

その考案者です。


他にも、ハミング距離やハミング重み、ハミング窓やハミング数など、彼の名がついた概念は多数。


ハミング符号については後で説明しようと思いますが、ハミング距離・重みは、ハミング符号に関連した概念。


ハミング窓は、通信における周波数特性などの問題改善に役立つ概念。

(応用は幅広いのですが、例えばインターネットで高速な通信ができるのは、こうした概念のおかげです)



ハミング数は、1,2,3,5 の掛け算だけで作られる数。

1,2,3,4,5,6,8,9,10,12,15... などです。


10,12,60 などを含むため、よく使われる「 n 進法」との相性が良い数値になります。


実は、昔からこれらの数は特別視されていたのですが、ハミングが「効率よくこれらの数字を作り出すアルゴリズムを求めよ」という問題を出したため、ハミング数とも呼ばれるようになりました。


#この問題に対する最初の一般解は、ダイクストラが出したようです。




さて、ハミング符号について説明しましょう。

大学の時に情報理論の講義でこれを知って、感動しました。



1980年代のパソコン少年にとって、「チェックサム」は見慣れたものでした。

雑誌に載っているプログラムには数値データが延々と続く場合があって、入力の際にどこか1カ所間違えただけで、プログラムは動かなくなってしまう。


でも、人間だから打ち間違いは当然生じます。


このミスを防ぐのがチェックサム (check sum) で、当時の雑誌プログラムではお馴染みでした。

sum は「集計」の意味。数値を全部足したものです。


例えば、メモリ上の 16進数を延々と打ち込むのだとしたら、16byte ごとに「全部足して、下1byteだけを取り出した数値」がついている。

数値を打ち込むためのツールの方にもチェックサムを表示する機能があるので、合っていれば打ち間違いはありません。


でも、打ち間違いがある、とわかった時には、どこが間違っているのかを自分で探し、訂正する必要がありました。




同じように「パリティ」という概念もあります。

こちらは、1byte とか 1word の範囲内でのチェックサムのようなもの。


1byte は 8bit ですが、この 8bit を、すべて XOR します。


XOR っていうのは、「2つのビットが違っていれば 1、同じなら 0」という単純な計算で、回路も簡単に作れます。

これを、8bit 分全部行います。


結果は「8bit 中、1のビットが奇数個あれば 1、偶数個なら 0」です。

この結果を「パリティビット」と呼びます。9bit 目として保存しておきます。


再びこのデータを使うときにも、同じようにデータ部分からパリティビットを求め、保存してあった結果と比較します。

合っていれば、データは壊れていません。大丈夫。


壊れていたら? …コンピューターに異常があった、と信号を出して、緊急停止でしょうね。

計算はやり直しですが、間違った計算を延々と続けて気づかない、というよりは良いでしょう。



このやり方だと、8bit のデータごとに 1bit のパリティが必要になります。データを保持する、という意味では、1/9 の無駄。

でも、16bit で 1bit のパリティ、でも構いません。それなら無駄は 1/17 です。


ただし、間違いが起きた個所を特定したい、と考えたときには、「8bit のどれか」まで絞り込めるか、「16bit のどれか」になるか、という違いがあります。

無駄を少なくすると、場所の特定はしにくくなるのです。




ここら辺までは「間違いがないかチェックしよう」という話です。

でも、ハミングが考案した「ハミング符号」(1950)はちょっと違いました。


「間違いがあるなら、直すところまでやってしまおう」というのです。


ハミング符号では、全体の長さに決まりがあります。

必ず、2^m-1 bit にならなくてはなりません。


7 とか 15 とか、今のパソコンで扱うにはちょっと中途半端な単位。

そして、この長さの中に「データ」と「誤り訂正符号」が入ります。


誤り訂正符号の長さは、m です。ということは、全体から mを引いたのが、使えるデータ部分。


全体が 7bit の場合、データが 4bit 、全体が 15bit なら、データは 11bit になります。




話を簡単にするために、ここでは 7bit で考えてみます。


データは 4bit あるので、それぞれのビットに小文字で名前を付けます。

abcd 、としましょう。


誤り訂正符号は 3bit なので、ABC とします。


誤り訂正符号は、全体の中の 1,2,4,8 ... 番目に入っているとします。

全体のビットの並びはこうなります。


ABaCbcd


これで 7bit です。



a は、3番目、2進数で書くと 011 番目に並んでいます。

b は、5番目、2進数で書くと 101 番目です。

c は、6番目、2進数で書くと 110 番目です。

d は、7番目、2進数で書くと 111 番目です。


A は、並び順の最下位ビット…1の位が 1 だった部分のビットのパリティです。

B は、2の位が 1だったビットのパリティ、C は、4 の位が 1 だったビットのパリティです。


XOR を + で表現することにすると、


A = a+b+d

B = a+c+d

C = b+c+d


となります。


これで計算終了。簡単です。




データの 4bit が、 1010 だったとしましょう。

全体の 7 bit は、次のようになります。


1011010


どこか 1bit がおかしくなったとしましょう。

例えば、先頭がおかしい。


先頭は誤り訂正符号ですから、データ部に影響はないです。

そして、データ部から「誤り訂正符号」を求め直すと、パリティ A が間違っている、ということが分かります。


ここで、A が 1の位、B が 2の位、C が 4の位の2進数(つまり CBA と並んでいる)と考えます。

「違った部分」を 1 、正しい部分を 0 として考えると、2進数で 001 という数値が現れます。


これが「1番目のビット」、つまり A が誤っている、という意味になるのです。



今度は、データ部分である a が間違っている、と考えましょう。

誤り訂正符号の計算式をもう一度書きます。


A = a+b+d

B = a+c+d

C = b+c+d


a の部分がおかしいのですから、A B が変化します。

すると、誤り訂正符号は 011 番目…つまり3番目のビットがおかしいことを示すようになります。


3番目のビットというのは、まさに a のことです。

bit の値は 0 か 1 しかないので、「誤っている」のであれば、反転すれば訂正できます。


これで訂正完了。

同じように、どこのビットを変えても、正しく誤りの位置を示します。




数学的に検証してみると、A B C はそれぞれ、ただのパリティにすぎません。

しかし、パリティを取る bit を巧妙に絞り込んであります。


そのため、A B C の誤り検出が、そのまま誤りの「位置」を示せるようになっているのです。

これにより、ハミング符号では、1bit が間違えていても正しく訂正できます。



ここでは、全体が 7bit でした。

誤り訂正符号は 3bit だから、8つの状態があるのだけど、エラーがない場合は「0」になるので、位置を示すのには使えない。


だから、残りの「7つ」の状態で、7bit の位置を示すのです。

これが、全体が 7 とか 15 とか、中途半端に見える長さになってしまう理由。



2進数の性質をうまく使い、非常に巧妙にできています。

大学生の時にこれを知り、ちょっと感動しました。




ちょっと話は違うのですが、室町時代から伝わる手品で、「目付字」というものがあります。

後から知ったのですが、これが、2進数の性質を巧妙に使ったもので、知った時に「ハミング符号」を思い出しました。


本当に、全く目的は違うし、やっていることも違う。

だけど、2進数の性質を同じように応用したトリック。


詳しく知りたい人は、上のリンク先を読んでみてください。

こういう数学トリックを思いつく人はすごいなぁ、と思います。




ハミング符号では、2bit 以上間違えると、誤りを訂正しようとして失敗します。


これを防ぐ「拡張ハミング符号」というのもあります。

「1bit のパリティを付加し、誤りが 1bit か 2bit かを検出できるようにしたもの」です。


長くなるので詳細は省きます。これ以上知りたい人は自分で調べて。



今ではハミング符号よりも巧妙でよくできた誤り訂正符号もあります。


でも、誤りの「検出」しか考えられていなかった頃に、最初に「訂正」という概念を作り出したのは、ハミング符号なのです。

最初にやってみせた、というすごさは、いつまでたっても変わりません。




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名前 内容

西和彦 誕生日(1956)  2017-02-10 09:40:30  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、西和彦さんの誕生日(1956)


日本のパソコン黎明期を支えた人です。

日本のみならず、世界的な影響も与えているのだけど。



とにかく、行動力があります。動かなくてはならないタイミングを逃さない。


日本で TK-80 が発売されたとき、数年前にアメリカでおきた「Altair 8800」と同じ現象が起きる、と直感します。


知人らと共にアスキー出版を設立し、パソコン情報誌の「アスキー」を創刊。

そして、次に必要なのは BASIC だと考えます。


すぐにアメリカにとび、Altair BASIC を作っていたビルゲイツをつかまえ、自分をマイクロソフトの極東代理店にに認めさせてしまう。

…ゲイツの証言によれば、英語が下手で会話にならない日本人がやってきて、「とにかく俺を日本担当にしろ」の一点張りなので、とりあえず帰ってもらうために承諾したのだとか。強引です。


西は、「アスキーマイクロソフト」を設立。社長になります。

さらにその後、マイクロソフトの副社長も兼任します。


でも、これでマイクロソフトは「アメリカの小さな企業」から、世界企業へはばたく足がかりを得ます。

西が、日本で次々と BASIC 開発の仕事を取り付けてきたのです。


日本電気(のちの NEC)の PC-8001/8801、新日本電気(のちの NEC ホームエレクトロニクス)の PC-6001、富士通の FM-8/7 、日立 BASIC MASTER 、沖 if800…


日本のパソコン黎明期に登場したライバル同士ですが、「マイクロソフトの BASICを搭載する」という共通点がありました。


#他にもありますが、代表的なものだけ。

 なお、SHARP の MZ / X1 は独自の BASIC を搭載していました。



PC-8001 などは、NEC の作成する機会に対して BASIC を供給する契約でした。

しかし、if800 などでは設計方針などの重要な会議にも参加していますし、後のハンドヘルドマシン、NEC PC-8201 / Tandy TRS-80 Model 100 などは、設計からすべてを行い、京セラが製造し、販売会社を見つけて売り込んだものです。


#NEC と Tandy のマシンは、ほぼ同じハードウェアで、BASIC などには違いがある。


これだけでも、当時の西の影響力の大きさがわかります。




マイクロソフトを本当に大企業に押し上げたのは、IBM への BASIC と OS の供給でした。


当時のマイクロソフトは、ほぼ「言語専門」の会社。

IBM からの依頼は、BASIC でした。しかし、FORTRAN と COBOL と Pascal も必要としている、と知り、それら全部を供給する契約を結んだのです。


まだ小さなマイクロソフトにとって、これだけでも期日に間に合うか不安な契約。

でも、さらに IBM が OS の供給先を探していると知った時、西がその契約もマイクロソフトで取ろう、と言い出します。


ビル・ゲイツは猛反対したようですが、最終的に西の熱意に負け、IBM に「OS も供給できる」と連絡を入れます。



現在マイクロソフトは巨大企業ですが、このときに西が副社長をやっていなければ、そうはならなかったわけです。




西は日本のパソコン業界に顔が広く、多くのパソコンの構想に関与しました。

先に書いたように、PC-8201 / Tandy TRS-80 Model 100 などは、マイクロソフトとアスキーが設計し、京セラが製造し、各社のブランドで販売されました。


このようなOEM(相手ブランドでの製品供給)の先に、基本設計を共有しながら各社が特色のある互換機を作る、という構想が生まれます。


MSX パソコンの登場です。もちろん、BASIC はマイクロソフト製でした。

もっとも、マイクロソフトは名前を貸しただけで、ほとんどアスキーで作成したそうですが。


#マイクロソフトは、このころすでに 16bit 向け BASIC に軸足を移しつつあり、今更 8bit をやるつもりはなかった。

 ただ、MSX の成功を「傍観」したことで、標準化ビジネスの旨味に気付き、以降 OS の機能拡充により「機種差を吸収し、標準化する」戦略を取り始める。




その後、マイクロソフトの株式公開を機に、西はマイクロソフト副社長を解任されます。


西はマイクロソフトが半導体事業も手掛けるべきだと考えていて、一方ゲイツはインテルと盟友関係にあるので、インテルの市場には手を付けるべきではないと考えていました。


アスキーもマイクロソフトもともに大企業となり、「企業として競合関係にある」ことも兼任を難しくしていたようです。


アスキーマイクロソフトも、マイクロソフトの日本代理店ではなくなりました。

大きな仕事を失ったことで、この後親会社のアスキーにも影響を与えます。




この後はパソコンの歴史というよりは「アスキーの顛末」になってしまうので、話はここらへんで終わりにしましょう。



西さんの人生については、ご自身のページで書かれている年表が詳しいですし、失敗談なども赤裸々に書かれていて面白いです。


また、西さんのページには作成に関わったパソコンなどの一覧もあります。



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名前 内容

ボブ・バーマー 誕生日(1920)  2017-02-08 10:05:55  コンピュータ 今日は何の日

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今日はロバート・ウィリアム・バーマーの誕生日(1920)

愛称は「ボブ」。Robert は一般に Bob になります。


#Rob なのだけど、R の音は発音しにくいので、変化させて B になる。




さて、ボブは ASCII の父として知られています。



以前、世界で最初に { } (弓括弧)を使えたマシンは何だろう、という疑問を調べたことがありあす。


今は、非常に多くのコンピューター言語が、{ } を使います。

これらの最初は BCPL という言語だ、ということになっています。


だけど、昔のマシンでは { } は使えませんでした。

BCPL は { } を使ったというけど、その時代のマシンでなぜ { } が使えたのか? という謎を追ったのでした。



実は、この過程で昔のコンピューターで使える文字セットに興味を持ち、言語との関係や変遷をまとめたのだけど、まだ記事にしていません。

いつか記事にしたいのだけど、タイプライターと文字セットと言語と…と、密接な話題が入り組んで整理しにくいの。




それはさておき、昔のコンピューターにはタイプライターが接続されていました。

そして、タイプライターは活字を持たなくてはならない都合上、それほど多くの文字を扱えませんでした。


これらのタイプライターは「テレタイプ」と言って、操作を紙テープに残せました。

このため、「文字コード」も持っているのですが、各社でバラバラ…いや、場合によっては同じ会社でも互換性がありません。


そこで、統一コードが作られます。これが ASCII です。


当時のタイプライターの紙テープは、5~6bit 記録でした。

しかし ASCII は 7bit として制定され、今までよりも多くの文字を使えるようになったのです。



そして、ボブ・バーマーは ASCII の定義委員の一人でした。

彼は { } や ⃥(バックスラッシュ)、制御コードとしての「ESC」など、多数の文字を入れるよう提案を行っています。


これらの文字は、単に「入れたいから入れよう」というような話ではなく、よく考えて決められています。


当時は、ALGOL が「最良の言語」でした。そして、 ALGOL では、論理演算に ∧ ∨ という数学記号を使います。

だから「それらの文字を入れるべきだ」という意見も出ていました。


しかし、ボブは、すでに入っている / (スラッシュ)に ⃥ を組み合わせれば、論理演算記号を表現できる、と提案したのです。


一部の言語しか使わない文字ではなく、より普遍的に使える文字を入れる。

長く使われる「標準セット」には大切な考え方でした。



そして、ESC は特に重要な提案でした。


ASCII では、「文字コード」を定めようとしていましたが、それは各社のタイプライターの差がなくなってしまうことでもありました。

タイプライターメーカーとしては、新機能を搭載しづらい…業界の進歩が止まってしまうことになります。


ASCII を決定したとしても、いつか新機能を搭載したがったメーカーが「新しい文字コード」を使い始めるかもしれません。

それでは標準コードの役に立たないのです。


ESC は、この問題を解決する素晴らしいアイディアでした。

ESC 文字コードが送られてくると、タイプライタは、ASCII 文字コードから「ESCAPE」…脱出できます。


ESC に続いて送られてきたデータを自由に解釈し、タイプライターメーカー独自の機能を追加できるのです。



ビデオ端末が登場すると、この機能により自由な位置に「カーソル」を動かしたり、文字に色を付けたりできるようになりました。

これによって、初期のテレビゲームや、ワープロなど…「グラフィカルな」ソフトウェアが作られ始めます。


もし ESC が無かったら、端末は文字しか出せないままで、コンピューターの利用用途はずっと限られていたでしょう。



このことから、ボブは「ASCII の父」と呼ばれるのです。


彼は 2004年に亡くなっていますが、彼の作っていた WEB ページはそのまま保持されています。


そのページから、写真を引用させてもらいます。

彼の乗っていた車のナンバーは「ASCII」でした。




ボブは、IBM 、ハネウェル、UNIVAC など、コンピューター黎明期の大メーカーを転々としながら働いています。

ASCII コードの定義委員をやっていたのも、IBM の代表の一人として。


IBM が FORTRAN (1956) を発表した後、ボブは彼自身のプログラム言語を考案しています。


FORTRAN は科学者向けの「数式 ( FORmula) を変換する (TRANslate) 」言語でした。

これに対し、仕事 (COMmercial) でつかえる言語、COMTRAN (1957) を作ったのです。


COMTRAN は普及しませんでしたが、これをベースとして COBOL (1959) が作成され、広く使われるようになりました。




この当時、メモリは貴重でした。

そのため、日付などを入れる際に、1957 年を 57 というように表記するのも当たり前でした。


しかし、これは良いやり方ではない、とボブは気づきました。

このままでは、上の桁が変化する 2000 年には、多くのソフトが誤動作するに違いない。



この指摘を行ったのは、1971 年でした。

2000年問題の危険性の指摘でしたが、当時としては「30年も先に、今作っているプログラムが使われているわけがない」と誰も相手にしなかったようです。


実際には、古いシステムは「誰も完全な動作を把握できていない」ために更新されることなく、使われ続けました。

そして、彼の指摘通り、1990年代後半に社会的な問題となるのです。



彼はこのときにも、2000年問題の対処を再び考えています。

すでにソースコードが失われ、実行バイナリしかないソフトに対してパッチを当て、「50以下は +100 してから比較することで、年の順序を間違えないようにする」というような解決方法でした。


…実際に、これで延命された古いシステムが多数あります。

2050 年に問題が起きるかもしれません。


#さすがにそれまでにはシステムが更新されている…と思いたいが、彼が指摘した 30年後に、実際に 2000年問題は起きたのだ。

 2050年も、あと 33年しかない。



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別年同日の日記

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内藤時浩さん 誕生日(1963)  2017-02-02 16:51:32  今日は何の日

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今日は内藤時浩さんの誕生日(1963)。


ハイドライドを作った人です。


ハイドライドについては、以前すこし触れています

僕が初めて見た「フロッピーディスク」のゲームで、当時主流の記憶装置であったカセットテープに比べ、アクセスが桁違いに速いので驚きました。


…こちらの記事では、パソコン周辺事情が主眼だったので、「フロッピーディスクに驚いた」という話だけで、ハイドライドが何か書いてませんね。


とにかく、当時の大ヒットゲームでした。

パソコン持っている人ならみんな遊んでたのではないかと思うし、以前の記事に書いた通り、友達はパソコンを持っていないのに買った。


僕もパソコン持ってなかったけど、友達と一緒に楽しみながら、エンディングまで見たと思います。



当時のパソコンゲームは、単純な内容が多いのね。

ゲーム的にも、技術的にも。


キャラクターなんかも、XOR で描いたものがあったりする。


XOR って、「ビットの反転」の意味ね。色を表現するビットを反転します。

反転なので、2回描くと元に戻る。背景があっても壊さずに画面を描ける半面、表示は多少おかしくなります。


BASIC で自作したゲームなどだとよく使われたのだけど、さすがに市販するにはお粗末。

それでも、初期の市販ゲームでは XOR で描かれたものはありました。



よくできたゲームだと、キャラクタを普通に描いた後、元に戻すときは背景を描き戻します。

当時のパソコンは 1dot を 1bit で表しているので、8dot 単位で絵を書き換える。


だから、キャラクタの周りは、黒く四角く抜けたり、キャラが重なるとちらついたりします。

でも、色がおかしくなったりはしない。



そして、もっとよくできたゲームだと、背景との重ね合わせをちゃんと計算します。

キャラクタの部分を 0 、周囲を 1 にした「マスク」を and して、さらにキャラクタを or します。


キャラクタが重なっても、ちゃんと計算しているからおかしな表示はならない。

移動するときは、重なっているキャラを識別したうえで、背景もキャラも描き戻す必要があります。


計算が面倒なだけでなく、いちいちこんなことをしていたら当時の非力な CPU では処理が遅くてゲームにならなくなる。

それでもゲームとして成立させられるのは、プログラマーの腕がいい場合だけです。


ハイドライドは、これにさらに「背景による特殊重ね合わせ」を持っていた。


藪の中や水の中を歩くときは、下半身が背景に隠れるのです。

まぁ、上半身しか描かない、というだけなのだけど、当時のパソコンゲームとしては画期的な表現でした。


#ハイドライドの場合、キャラ同士の重ね合わせはなかったように思う。

 描画ルーチンが対応していないという意味ではなく、ゲーム的に重ならないルール。




当時はゲームの花形はアクションゲーム。

ギャラガやドンキーコング、ゼビウス、そして「ドルアーガの塔」が流行していた時代。


しかし、パソコンはゲームを遊ぶには非力で、出来の良いアクションはそれほど多くありませんでした。

代わりに流行していたのが、じっくり考え、物語を楽しむアドベンチャーゲーム。


R.P.G. は一部の人は知っていましたが、まだ新しいゲーム過ぎて受け入れられていない状態。


こんな時代に作られたハイドライドは、ヒットゲームであるドルアーガの塔の雰囲気を取り入れ、アクションゲームでありながらアドベンチャーゲームのようなストーリーを持ち、R.P.G. の「主人公が育つ」仕組みを導入した、欲張りなゲームだったのです。


大ヒットしたのも当然というか、2年間も売れ続けるロングセラーにもなりました。




内藤さんは DAIVA も作った…と Wikipedia にあるのだけど、STORY 1 は PC-8801mkIISR 用だったので僕は遊んでないです。


当時は互換性のないパソコンがたくさんありましたが、DAIVA はそれぞれの機種に「別々のストーリー」を作るという変わったゲームです。

ゲームシステムは一応統一されているのだけど、単純な移植ではない。


ゲーム内容はシミュレーションゲームで、一部アクションゲームです。

ハイドライドは当時普及していなかった R.P.G. を、アクションゲーム風にすることで遊びやすくしたものでした。

そして、同じようにあまり普及していなかったシミュレーションゲームを、アクションゲーム風にすることで広めようとしたのです。



僕はファミコン版の STORY6 を買って遊び、ユーザー年齢層に合わせてシミュレーション部分が大幅カットされていることにがっかりして MSX 版の STORY5 も買いました。


シミュレーションで育てた「艦隊」をパスワードの形で他の環境に持って行けたりしたので、友達と楽しんで遊んだ覚えがあります。



しかし、ストーリーについては覚えていないな…

全機種のストーリーを統合すると、壮大な一本の話になったらしいのですけど、当時全部遊んだ人なんていたのだろうか。


#今は、プロジェクト EGG で全話セットなんてのがあるそうです。




最初に示した以前書いた記事のリンク、ハイドライドを含む「当時の周辺事情」の話だけでなく、後半に「当時のプロテクト技術」の話があります。


そして、この記事を書いておいたら、数日後に内藤さんご本人からコメントをいただきました。

これも、記事の後半に追記しています。


そんなわけで、ここのページは「ご本人に知られている」ので、あまりいい加減なこと書けません (^^;

間違えたこと書いたら申し訳ないので、今回はここらへんで終わりにしておきます。



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15年 僕のかかわったゲームのこと


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【追悼】中村雅哉さん  2017-01-31 11:20:49  今日は何の日

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昨夜、ナムコ創業者の中村雅哉さんが 22日に亡くなられていたというニュースが入ってきました。


ナムコには思い入れがあるので何か書きたい、という気持ちのある反面、僕は中村さんの人柄についてほとんど知りません。

ちょっと検索して書けるような薄っぺらいお悔やみを書くよりも、自分のナムコに対する思いを書こうかと思います。




インベーダーゲームのブームは僕が幼稚園年長の時。


まだ当時はテレビゲームは「大人の遊び」でしたから、幼稚園児がテレビゲームなんてやるわけがない。

(もっとも、うちには「TV FUN 701」があったので、テレビゲームという遊びがあることは知っていた)


そのまま、「インベーダーゲーム、というものがある」という程度の知識しかないまま育ちます。


以前も書いたのですが、小学校2年の時、年が離れた兄(当時高校生だと思う)に、ゲームセンターに連れて行ってもらいました。

親が出かけるので兄は僕の「お守り」を頼まれていて、家にいてもつまらないからゲームセンターに連れて行った、というだけだと思いますが。


兄は、自分の小遣いでどれかゲームを遊ばせてくれる、と言いました。

インベーダーゲームの知識しかなかったので「インベーダーやりたい」と言ったのですが、当時のゲームセンターにはすでにインベーダーはない。


最新のゲームはドンキーコングで、兄は上手に…簡単そうにプレイしていました。

僕にもやらせてくれたのですが、難しい。すぐ終わったと思います。


そして、やっぱりインベーダーを遊びたいと言っている僕に、兄が似たゲームを遊ばせてくれます。



これも難しくてすぐ終わったのだけど、インベーダーに似たゲームを遊んだ、ということで満足。

この、僕を始めて満足させてくれたゲームが、ナムコの「ギャラクシアン」でした。




もっとゲームを見てみたい、と思うのですが、小学校の規則でゲームセンターに行くのは禁止でした。

そのうち、友達から「あそこの駄菓子屋にゲームが置いてある」なんて情報をもらって、入り浸るようになります。


ネオジオの頃の、駄菓子屋の店頭にゲーム機が1台置いてあるような「駄菓子屋ロケーション」ではなく、小さなゲーセンみたいな駄菓子屋があったのです。

当初は3台くらい。人気があるので店舗拡張して、後には8台くらい置いてあったかな。


他にも似たような店が3件ほどありました。



小学生であまりお小遣い持ってないから、人のプレイを見てばかり。

それでもゲームは面白かった。


遊んでいるのは主に中高生で、おそらくは不良が多かったのでしょう。

人のプレイを食い入るように見ている変な小学生は、適当にからかわれました。


でも、からかいながらもその人たちは優しかった。

ゲームで手が離せないので「ちょっとそこのお菓子食べたいから、おばちゃんにお金払ってきてよ」とか使いッパシリにされて、その駄賃として「最後の一機」を遊ばせてくれたりするのです。


#ハイスコアを目指すプレイをしている人は、これはどうもダメだ、と見たところで、残機がいてもゲーム放棄することがあった。



このときのゲームは、主にパックマン。

馴染みのグループの人が上手で、パターンを組んで延々と遊んでいました。


自分ではとても覚えられませんでしたが、パターンを試行錯誤しながら組み上げた「攻略ノート」を見せてもらったりしました。

今思うと、「ゲームは攻略するものだ」とこのときに知ったのかもしれません。


この頃、友達の家にローリングクラッシュが置いてありました。

(その友達の親戚が喫茶店をやっていて、店に置けない筐体を預かっていた)


何度でも遊べるので、このゲームは攻略しました。

そして、やはりノートに攻略パターンを記録していました。




だらだら書いても仕方ないので、この先は少し飛ばしましょう。


この頃ゲームに魅せられていた人なら、誰しもナムコを特別に思っていたはずです。

ヒットしたからと言って似たようなゲームを作らない。どのゲームも常に「新しい体験」でした。



僕もナムコのゲームは大好きでした。


以前も書きましたが、スーパーマリオはパックランドの真似だ、と思っていた。

ナムコが好きだったからこれが許せなくて、スーパーマリオを遊んだのは、大ヒットからしばらくたった後です。


#今となってはこれは誤解だったと知っていますし、今ではスーパーマリオは大好きなゲームの一つですが、これはナムコの話としては余談。



高校の頃には、将来はゲーム会社で働きたいと思っていました。

大学になると具体的に考え始めます。


そして、出した結論は、「ナムコ以外のゲーム会社に行こう」でした。


いつか独立したい、という夢もありました。

(これも、ナムコから独立したゲームスタジオの影響があります)


その時に、ナムコだったら大好きすぎて、とても出て行こうとは思えないだろう、という気がしたのですね。

それくらいナムコが好きだった。




最も、1980年代中期~後期のナムコのゲームが好きだった、という程度で、それほど詳しいわけでもありません。


ゲームセンターにあまり行かなかった時期もあって、フォゾンとか見てもいないし。

NG も飛び飛びに読んでいたけど、全号集めようとするほどのものではない。未来忍者の映画だって見ていない。


まぁ、好きだと言っても所詮はぬるいファンに過ぎないです。マニアと自称できるほどでもない。




中村雅哉氏の話が全然ないので、最後に少しだけ。


僕の大学時代の知人が、ナムコに入社しています。

だから、直接は知らないけど雰囲気的なものを聞いたことはある。



基本的に、ゲーム開発には口を出さないけど、面白いかどうかはきっちり確認する人だった、と聞いたことがあります。

スケジュールも特に定めない。会社なんだから商売っ気が必要なはずなのに、そんなことよりも面白いものを作ることが優先だという。


そういう雰囲気だから、ナムコが常に新しいゲームを作り続けられたのだと思います。

そして、そのナムコに牽引されてゲーム業界は大きくなりました。



ゲーム業界の末席にいたものとして、中村氏に感謝しております。



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別年同日の日記

03年 映画鑑賞

03年 アンティキュティラ

05年 ねずみの手も借りたい

10年 PS3

11年 見上げてごらん、夜の星を

13年 いろいろ書きたいなぁ

15年 Landiskと格闘中

15年 Landisk のデータ復旧


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後藤英一 誕生日(1931)  2017-01-26 10:10:44  今日は何の日

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今日は後藤英一さんの誕生日(1931)


パラメトロンの発明で有名な方ですが、他にもコンピューター関連の素子を多数発明しています。



まずは、パラメトロンから説明しましょう。


その昔、コアメモリというメモリ素子がありました。

フェライトコア…鉄粉を焼き固めて作ったドーナツ型の焼き物を、電線で多数編んだだけのものです。


こんなものが、非常に優れたメモリ素子になる。

真空管は高価だし、水銀遅延線は不安定で有毒だし、ウィリアムス管は思ったより記録密度が低いし…という時代に現れ、一躍メモリの主役になりました。


パラメトロンは、このフェライトコアに電線を巻いて、二つ組み合わせ、コンデンサを付けただけの素子です。

…ちゃんと動作原理を理解していないのだけど、コイルとコンデンサなので LC回路(発信回路)が出来上がります。


2つのコイルは、半周期ずらした逆位相になるのだけど、これが「どちらの位相になっているか」を制御することで、0と1を表現できる。


この回路は非常に安定していて、弱くても位相を決めてしまえば、後は勝手に発振しながら定常状態を作り出し、しっかりした波になる。

つまり、弱い波を増幅する効果がある。


この効果を使って、複数の素子からの入力を同時に別の素子に入力すると、逆位相の波は打ち消しあい、同位相の波は強めあう。

これにより、入力された回路の「最初の状態」が決まる。最初の状態が決まれば後は勝手に増幅して状態を保持するので、多数決の論理回路になる。


これで、論理回路が完成します。論理回路があれば、後はコンピューターを組み立てられます。



後藤さんは、大学生の時にコンピューターを作ろうとし、予算が足りないためにできるだけ安く、論理回路が作れる素子としてパラメトロンを発明します。

素子を使ったコンピューターとして、最初に完成したのは電電公社・電気通信研究所の MUSASINO 1号 (1957)。


後藤さんの所属していた東大高橋研究室でも、1957年に9ビット加算器が動作することを実験で確認し、翌年には 36bit コンピューター PC-1 を完成させます。


#当時は、1byte = 6bit が普通なので、1word = 6byte のコンピューターとなる。


この方式は国内のコンピューター会社でも採用され、日立の HIPAC 103、日本電気の NEAC 1101、富士通 FACOM 212 などが作成されます。


しかし、パラメトロンは真空管や、当時新素子だったトランジスタよりずっと安く、安定性もあったものの、速度が致命的に遅いという問題がありました。

パラメトロン自体が発振回路ですから、外部から与えるクロックを上げて高速化…などは出来ないのです。


この頃最新のトランジスタコンピューターでは、動作速度 1MHz 程度。

それに対し、パラメトロンは最高でも 60KHz 程度でした。


パラメトロンコンピューターを各社が作っていた期間は 2年程度…広く見ても 5年程度で時代は終わりました。




1957年、日本人の江崎玲於奈博士が、エサキダイオードを発明しています。

量子トンネル効果を利用したダイオードで、この研究により江崎博士は 1973年のノーベル物理学賞を受賞しています。


後藤さんも、このエサキダイオードにすぐ注目し、パラメトロンコンピューターの研究を続けている最中に、並行して研究を行います。

そして、パラメトロンと同じように動作する素子を、エサキダイオードでも完成させるのです。


…またすみません。僕、回路には疎いので、説明できない。


一応、エサキダイオードを2つ直列に組み合わせることで、2安定回路というものを作れるのだそうです。

出力電圧が2つあり、高い電圧か低い電圧の、どちらかで安定するようになっている。だから2安定回路。


安定したところから多少離れた電圧を入れても、回路自体が「安定」を作り出すようになっているので、すぐに安定状態に戻ります。


2つの状態があるのですから、2進数を表現できます。

そして、これはパラメトロンと同じように、多数決回路として動作するのです。



2つのダイオードを組み合わせただけで論理素子となることから、ゴトーペアと呼ばれています。


#ダイオードなら何でもいいわけではなく、エサキダイオードのようなものでないとダメなんだそうです。




後藤さんは 1960年代前半に、ワイヤーメモリを発明しています。


コアメモリは、ワイヤーの交点にフェライトコアを配置したものでした。

これに対し、ワイヤーメモリはあらかじめ磁性体を塗布したワイヤーを編んだものです。


これもまた、資料が少なすぎて解説できない。

フェライトコアの代わりに磁性体を塗っただけで同じもの…なら話は速いのですが、どうもそうではありません。


コアメモリは、読み出し時に書き込まれていた値を「破壊」してしまいます。

そのため、読み出し直後には必ず書き込みを行う必要があり、メモリアクセス速度の低下につながります。


しかし、ワイヤーメモリは非破壊で読み出しが行えるのだそうです。


しかし、この発明もすぐに半導体メモリの時代が来てしまったために、国内で使われた程度で終わっています。




後藤さんは、単にパーツを組み合わせて何かを発明するような「発明家」ではなくて、素子の物理特性などを調べ、その性質を組み合わせることで目的にかなったものを作り出そうとする研究者です。


興味は主にコンピューター素子だったようですが、それだけではありません。



1933年のノーベル物理学賞は、ポール・ディラックが受賞しています。

彼は「ディラック方程式」として、複数の力学を1つの数式にまとめようとしました。


この数式に従うと、磁石のN極とS極は、「片方だけでも存在し得る」ことになります。

ディラック以前は、磁石の両極は不可分のものと考えられていました。


こうしたものを「単極子」、英語では「モノポール」(モノは「1つの」という意味。ポールは棒、軸、極性…両端があるものを意味する)と呼びます。


後藤さんは、モノポールの探究にも情熱を注いだらしいのです。




さて、これで後藤さんの話になるとよく出てくる言葉が説明できます。

ある時、外国人の研究者に名前を名乗るとこういわれたそうなのです。


「私はこの分野で後藤という名前の日本人を3人知っている。パラメトロンの後藤、ゴトーペアの後藤、磁気モノポールの後藤。お前はそのうちのどれか?」


パラメトロンとゴトーペアは、論理的にはある程度似ている素子です。

しかし、その物理特性などは全く違い、全く違う研究と思われていたのでしょう。


もちろん、モノポールは全く畑違いの分野です。

だから、この質問をしたくなる理由もわかります。


もちろん、後藤さんの返事は「そのすべてだ」だったそうです。





これだけ幅広い研究を行う人ですから、時には脱線…のように見える研究も行います。

彼の中ではひとつながりなのでしょうけど。



ジョセフソン素子、という論理素子があります。

超電導状態になる極低温でしか動作せず、エサキダイオードにも見られる量子トンネル効果を利用しています。


このジョセフソン素子を使い、パラメトロンの「安定性」を導入したのが、磁束量子パラメトロン素子。

パラメトロン自体が発振回路なので速度を上げられない…と先に書いていますが、発振回路はコイルの大きさなどにより発振速度が変わります。


磁束量子パラメトロンでは、通常のシリコン素子よりもスイッチングが高速で、テラヘルツ越えで安定して動作します。

元となったジョセフソン素子よりも低電力で動作するなど、優れた特性を持ちます。


この素子は 1986年にはすでに開発され、動作が確認されているのですが、なにぶん超低温でないと動かないため、実用化はされていません。



しかし、後藤さんは実用化を目指し…晩年は、液体ヘリウムによる極低温冷凍庫を安く作ることができないか、という研究に熱心だったそうです。

液体ヘリウム自体が非常に高価なものですが、普通の冷凍庫のサイズで、普通の2倍くらいの値段に収めることができれば、超電導コンピューターが実用化できる、と研究を続けていたとか。


しかし、残念ながら 2005年に亡くなられています。



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別年同日の日記

14年 iOS の position:fixed バグ回避方法


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【雷更新世】 どうやら「棒」のpoleと「極」のpoleは別語のようです。 https://en.wiktionary.org/wiki/pole (2017-01-27 00:38:59)

アントニー・ホーア 誕生日(1934)  2017-01-11 11:39:18  今日は何の日

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今日は、アントニー・ホーアの誕生日(1934)


コンピューター科学者で、クイックソートの考案者です。


わかる人には「じゃがいもソート」を思い出してもらえばいい。

…もう4年前になるのか。今では毎年正月の恒例となったNHKの教育番組「大人のピタゴラスイッチ」の、初めての放送時に紹介された動画でした。

ジャガイモの重さを比べながら、軽い順に並べていく。この際のアルゴリズムが、クイックソートでした。


#ちなみに、「しめじソート」もあり、しめじをマージソートで長さ順に並べていました。



ソートというのは「何かを基準に並べること」です。

いろんなアルゴリズムがあるし、適材適所で使い分ける必要がある。


クイックソートは、考えられた当時としては超早かったので「クイックソート」と名付けられましたが、今ではもっと高速なアルゴリズムもあります。

でも、ソートって「理想的な場合」と「最悪の場合」で速度が違うのが普通だし、理論上は速くてもプログラムがややこしくなるのであれば結局遅いし、今でもクイックソートはイイセン行っています。



上は YouTube にあったソートアルゴリズム比較。真ん中がクイックソートです。

繰り返し、いろんな条件でソートを行っているのだけど、クイックソートが平均的に速いのがわかります。




ソートっていうのはアルゴリズムの基本で、いろんな考え方がある、くらいには知っておいた方がいいです。

プログラマでない限り、詳細に知っている必要はないけど。


「検索アルゴリズム」も基本なのですが、検索前に並べてあるのが前提というのも普通だったりもします。

だから、やっぱりソートは重要。


例えば、辞書はすぐに目的の語を検索できます。

これは、辞書の項目が「あいうえお」なり「ABC」なりの順にソートされているためです。


そして、ソートアルゴリズムの中には、「すでにソートされている」ことを前提に、新しい要素を入れる場所を高速に探し出すものもあります。

これ、「ちょうどよい位置を探す」なので、検索アルゴリズムなのね。ソートと検索は密接な関係にあるのです。




「順番に並べる」ための方法をソートと呼ぶので、何もすべてが「計算機で実行できる」わけではありません。


昔、「パスタソート」という話を聞いたことがあります。折れてしまったパスタを長さ順に並べる方法。

パスタをまとめて立てたら、「輪っか」を下から持ち上げていくだけ。

短いものから順に、支えを失って倒れます。倒れたところを傾斜にしておけば、転がって短い順に並んでくれます。



僕は世代じゃないので実際に見たことが無いのだけど、昔の図書館では目録を「検索カード」で管理していたそうです。

著者名順とか、署名順とかで並べられている箱があって、その中でカードを探し出せば、どこの棚に本が置かれているかわかる。


カードの上部…肩の部分には、すべて同じ位置に穴があけられています。

でも、この穴は、「穴」として存在しているものと、穴の上部を切り欠き、カードの辺の「凹み」として存在しているものがあります。

カードを束にして、穴に棒を通して持ち上げると、「穴」のものだけが釣り上げられ、「凹」は下に残ります。


これで、カードを2つに分類できました。


実は、穴は複数空いています。

カードを2つに分けた後、それを「前後」になるように束にして、再度別の穴で持ち上げる。

実は、穴か凹かは2進数になっていて、繰り返すことでカードの束を順番に並べられるのです。


(下の桁から繰り返し、最後に一番上の桁を処理すると、ちゃんと並ぶ)


これもまた、ソートアルゴリズムです。




僕が作るようなプログラムは、ゲームなんかが多いので、使うのはもっぱら挿入ソートです。

非常に単純なアルゴリズムで、あらかじめソート済みの時には十分な速度で動く。


10位までのハイスコアランキング、とかなら全く問題ないし、アルゴリズムが単純なのでむしろ速い。


3D描画のためにポリゴンをZ軸に従って順次並べる…なんてことになると、もっと高速なアルゴリズムが必要になります。

何百も、場合によっては何万ものデータを、かなり短い安定した時間で並べる必要があるからね。


Amazon とかでお買い物をすると、他の類似商品をお勧めされることがあります。

これもソートアルゴリズム。何らかの指標で購入製品と別の製品の「類似度」を測り、類似度が高いものから順にお勧めしているのです。


同じように、google 検索も検索文にマッチしたものの中から、様々な指標で「お勧め度」を算出して、ソートして表示しています。


ページそのもののお勧め度もあるし、更新日付の近さや地理条件なども順位に関連する。

だから、同じ検索内容でも、日によってソート順序が変わったりもします。


何十万もあるページの中から瞬時にソートするには高度なアルゴリズムが必要です。




コンピュータープログラムでは、ソートは基本です。

今の世の中はコンピューターがいたる所にありますから、そこらじゅうソートアルゴリズムだらけ。


もちろん、用途に応じて新しいソートアルゴリズムなんかもまだ考案されたりしています。

でも、クイックソートは古典でありながら、今でも十分利用されているソートアルゴリズムの一つです。



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別年同日の日記

04年 住宅展示場

06年 自宅で新年会


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Googleの誕生日  2016-09-27 14:59:35  コンピュータ 今日は何の日

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会社なのに誕生日、というのも不思議な言葉ですが、Google 社内で「創立日」とはべつに「誕生日」が決められているのだそうです。


googleドメインを取得したのが、1997年の 9月15日、google という会社が登記(創立)されたのが 1998年の 9月 4日。


ちなみに、ドメイン取得前から検索システム自体は存在していました。

1996年に開発開始で、そのころは BackRub と呼ばれていたそうです。


9月に節目があるのは、アメリカでの「新年度」が 9月に始まるからでしょうね。


何度も 9月に節目を迎え、どこが「誕生」かはよくわからないのも事実。

だけど、何かお祝いしたいために 27日が誕生日としているようです。


google については「創立日」にいろいろ書きましたので、そちらも併せてお読みください。



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同じテーマの日記(最近の一覧)

コンピュータ

別年同日の日記

03年 インベーダー25周年

08年 トミカ博

13年 ラリーウォールの誕生日(1954)

14年 アラン・シュガートの誕生日(1930)


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Bit-INN オープン(1976)  2016-09-13 10:50:27  今日は何の日

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今日は NEC Bit-INN がオープンした日(1976)。

…だそうです。


ごめんなさい。僕当時のこと知らないし、後の…ただのショールームになった Bit-INN には行ったことあると思うのだけどよく覚えていない。


だけど、日本のパソコンの歴史では、重要な施設でした。




1976年の8月3日、日本電気(NEC)から、TK-80が発売される。


当時は「CPU」というあたらしい LSI が作られ始め、どうやらこれを使えば個人でコンピューターが持てるらしい、と電子工作マニアが興味を持っていた時代。


世界初の「パソコン」とされる、 Altair 8800 の発売は 1975年。

まだ電子工作マニアのためのものだった。


組み立て済みの製品が発売され、誰でも使えるようになるのは、1977 の Apple II まで待たなくてはならない。



#余談だけど、Altair 8800 を作ったエド・ロバーツの誕生日は、奇しくも9月13日。



TK-80 も、万人に向けて作られた商品ではなかった。

電子工作マニア向けですらない。NEC が扱うことになった、全く新しい LSI …「CPU」が、どんな用途に使えるのか、企業などで電子回路を設計している人に伝えるための製品だった。


だから、名前も「TK」、トレーニング・キットとなっている。

1年くらいかけて、全部で千台程度売れればよい…というものだった。


ところが、電子工作マニアがこれに飛びついた。

TK-80 は飛ぶような売れ行きで、数か月後には月産千台では生産が間に合わない、入手困難なヒット商品となった。



これだけ売れると、当初の想定ではない「お客さん」が出始める。

技術者だたら、組み立ててみて、動かなかったら自分で原因を探るだろう。


でも、「組み立てればマイコンが手に入る」と思っているお客さんは、動かなかったらショックを受けるし、原因を探る能力もない。


さらに、動いたとしてもそれで何をすればいいのかわからない。

試しに「3+4=?」とプログラムする程度のことは出来るのだけど、それ以上のプログラムを作れない。




TK-80 は、新しい LSI の販売を促進する目的で設計された。


実は、同じ目的で違う手段が用意されていた。

日本電気の販売特約店「日本電子販売」が、LSI 宣伝の拠点として、秋葉原に40坪のショールームを構えるための準備をしていたのだ。


急遽、ここに TK-80 の相談コーナーが設けられることになった。

3坪でいいから、というNECからの要請に、30坪のスペースが用意された。

LSI のショールームの予定だったが、事実上「TK-80の店」になった。


そして、NEC Bit-INN は 1976年の9月13日にオープンした。



当時のNECは、電電公社(国営企業。現在のNTT)の関連企業。

仕事のやり方も「お役所」で、残業や休日出勤はなかった。


しかし、TK-80 を設計したグループの本人たちが直接、土日に相談に乗った。

月曜日から金曜日は通常通り業務を行う。休みなしだった。


労務担当者からも、労働団体からもクレームがついたらしい。

でも、当人たちが「趣味でやっているだけで会社の業務とは関係ない」とごり押しして認めさせたらしい。



TK-80 を購入したものの、組み立てすらうまくいかない、組み上がってもその後何に使えばいいかわからない、というユーザーにとって、Bit-INN は救いのオアシスとなった。


ここに行けば、趣味を同じくする仲間とも巡り合える。

実際、ソフトバンクの孫正義や、アスキー創業者で元マイクロソフト副社長だった西和彦なんかも入り浸っていたらしい。




Bit-INN では、パソコン購入前の相談も良く持ち込まれたらしい。


シンセサイザー音楽の演奏に TK-80 を応用できないか。

医療保険の点数計算に TK-80 を利用できないか。



TK-80 は「回路を学ぶ」ことを目的としたもので、実用性はなかった。

しかし、個人でコンピューターを持てるなら、こんなことに使いたい…という応用例が、お客さんの方からどんどん上がってくる。



TK-80 はそのような用途で作ったわけではない、と最初は思っていたらしいのだけど、徐々に「そうした需要にこたえられるコンピューターを作れないか」という思いに変わっていく。


これが、後に TK-80 の拡張である TK-80BS や、PC-8001 を生み出すことにつながる。




当時、秋葉原は「無線の街」だった。

当時はラジオ作成やアマチュア無線が「ホビーの王様」で、そのための電子工作部品を売っている店が集まっていた。


もちろん電子工作というつながりで、TK-80 のユーザーが秋葉原に集まるのは悪くない。

でも、パソコンはすぐに「完成品」を売るようになり、電子工作とは違うものになっていく。


しかし、Bit-INN の存在したラジオ会館には、他のパソコンメーカーもショールームを作るようになる。

パソコンに興味のある人は秋葉原に集うようになり、秋葉原全体が「パソコンの街」に変貌していった。



そして、「中心地」を持つことは、文化にとっても商業にとっても望ましい。

秋葉原にはパソコンショップが軒を並べ、独自の商品を競った。


他社では売っていない拡張ボードだったりとか、独自開発したゲームだったりとか。

パソコンを求めるお客さんが集まるから、どんなものでも売れた。売れるからどんなものでも作れた。


この好循環で、日本のパソコン文化は一気に花開いていく。



その最初のきっかけが、40年前の今日、Bit-INN がオープンしたことだった。

NEC Bit-INN は、その後もショールームとして横浜・名古屋・大阪に展開されていたけど、今はもうない。



2016.9.16追記

当初、最後の2行の間に次の記述が入っていました。


『今でも店舗跡には「PC発祥の地」と記されたプレートがある。』



ラジオ会館が建て替えられたので、すでにこのプレートはないという指摘をいただきました。

そういえば、建て替えたのだった…子供生まれてから秋葉原から足が遠のいているので、すっかり忘れてました。

お詫びいたします。


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別年同日の日記

02年 美味しいケーキ屋さん

04年 コンビミニ

07年 ショック!!

13年 エド・ロバーツの誕生日(1941)

14年 スーパーマリオブラザースの発売日(1985)

14年 プログラマーの日


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Gateway 2000 設立日 (1985)  2016-09-05 15:47:24  コンピュータ 今日は何の日

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今日は Gateway 2000 の設立日 (1985)


一応まだブランドとしては残っているらしいのですが、覚えている人…というか、知っている人がどれくらいいるでしょうか?


パソコン自体には特に特徴がない、何の問題もなく使えるけど目立った特徴もない、というのが特徴。

通信販売中心で、送られてくる箱が非常に大きいのと、その箱が白黒の「牛柄」なのが強烈な印象でした。


一時期、パソコンと言えば Gateway 2000 という時代もありました。

それくらい売れていたのだけど… 強く輝いて去っていった、彗星のような存在です。




話としてはこれで終わりだよなぁ…


あとは Wikipedia に書いてある程度の情報しかない。

1985年にアイオワ州の農場の一角で創業して、DELL コンピューターのビジネスモデル(通信販売で、お客さんの注文を受けてから組み立てる)を真似して急成長します。


1989年に、牧場の写真と「アイオワからコンピューター? (Computers from Iowa?) 」のキャッチコピーで広告を出して有名に。

それ以来、牛柄の箱をブランドイメージにして急成長します。



日本では、まだこの頃は NEC の PC-9801 シリーズが一人勝ちの状態。

もっとも、IBM が DOS/V で日本語を使えるようにして、徐々にシェアを伸ばしてはいました。


1993年に Windows 3.1 が発売され、OS が徐々に Windows に移行していくと、98 でないといけない理由も無くなります。

98 に比べ、性能が良いのに値段が安い PC/AT 互換機が急に売れ始める。


でも、この頃は「互換機」なのね。

IBM 製ではなく、有名メーカー製ですらなく、秋葉原のショップが組み上げたマシンとか、部品単位で購入して自分でくみ上げるとか、そうするのが普通だったし、特に有名な互換機メーカーもなかった。


この、保証やサポートも弱いし、知識がない人には難しそうな印象で PC/AT 互換機はまだ伸び悩んでいました。


1995 年、Windows 95 が発売されます。

それと同時期に、Gateway 2000 も日本法人を作り、日本での販売を開始します。


先に書いたように、秋葉原のショップマシンは、安いけれども保証が十分ではありませんでした。

Gateway 2000 は、同程度の値段で十分な保証付き。ただし、完全に自分でカスタマイズできるわけではなく、ある程度完成したマシンに、メモリ容量は HDD 容量を決定するだけの、セミカスタムです。


いや、それだからこそ、初心者にもわかりやすい構成でした。

Gateway 2000 のパソコンは非常に売れて、どこの会社にも牛柄の大きな箱が置いてあったものです。


…邪魔だから、たくさん買った際は「問題があった時に送り返す用に1つ置いといて、後は潰して捨てる」のが普通だったんじゃないかと思います。


僕のいた会社ではそうしていたし、人気漫画の『OL 進化論』にもそんなネタが出ていました。

同マンガではパソコンの話題とかあまり扱わないので、珍しかったがゆえに覚えています。




Gateway が Amiga の権利を買い取ったことがあります。


Amiga は熱狂的なファンのいる、独特な設計のマシンでした。

しかし、1994 年には設計者が死に、発売元の Comodor社も倒産しています。


その後、Amiga の権利は各社を転々とし…Gateway が購入するのです。

ファンは Gateway の開発力で、後継機を作ってくれることを望みました。


…が、そんな面白い展開にはならず。

子会社として Amiga 社を作って、一応開発はしていたようですが、とても商売にならないとみると、子会社に権利を売却して独立させています。



また、eMachines 社も合併していました。

こちらも、安くて性能のいいマシンを作っていた会社。しばらくはブランドが残っていましたが、現在無くなっています。




Gateway 2000 は、所詮は「DELL の真似」でした。

一時期は DELL 以上のシェアを持っていたのですが、結局 DELL に徐々にシェアを奪い返されます。


1998 年には、社名を Gateway に変更します。

もともと「2000年(未来)への懸け橋」という意味合いの社名でしたが、2000年はもう目の前でした。


しかし、その 2000 年にはアメリカ本社の経営が悪化。

翌 2001 年には経営規模を大幅に縮小します。


このときに日本からも撤退しているのですが、先に書いた eMachine を買収した際に、eMachine 社の日本での流通網を生かす形で再上陸しています。


しかし、努力もむなしく、2007 年には台湾の Acer に身売り。

現在も Gateway ブランドは残っているのですが、以前の勢いはすでにありません。


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コンピュータ

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13年 ジョンおじさん


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google 創立日(1998)  2016-09-04 17:15:24  今日は何の日

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今日は google 社の創立日(1998)。


「社の創立日」というのがミソで、実際にはその前からドメインとってサービス開始していますね。


僕が初めて google を知ったのは、たしか 1999年。

全く新しい概念で検索するサービスだ、と、当時購読していた新聞に記事が出ていたのではなかったかな。


このときはまだ日本語対応していませんでしたが、試してみると日本語でも高品質にページを検索していました。

当時はまだ page rank の仕組みなどが紹介されておらず、日本語対応していないにもかかわらず高品質に検索する、というシステムが、いったいどうなっているのかと驚きました。

(正式に日本語に対応するのは 2000年 9月)




今では驚きも無くなった「Page rank」は、WEB のリンクを、リンク先への「投票」と考えて、より投票が集まるページを「みんなが参照したがる良いページ」と捉えるものです。


リンクは、1リンク1票ではありません。投票の集まる良いページからのリンクは、より高い価値がある。

皆が認める良いページに書かれた情報は良いものだろう、という考えが根底にあります。


当初はこの仕組みのみの、非常にシンプルな方法で順位を出していました。



でも、シンプルな仕組みは悪用されます。

いわゆる「リンクファーム」という、大量にリンクしあうだけのページ群が作られ、票を稼ごうとする手法に対し、リンクファームを見抜いて票を無効にするプログラムが投入されます。


すると、リンクファームはより巧妙になり、リンクファームだと見抜かれにくい構造を取ります。


あとはイタチごっこ。


こうした「検索エンジンに良いページと認識させる」方法はサーチエンジン最適化(SEO)と呼ばれ、Google は SEO を嫌います。


今でも基本的には最初のアイディア、「みんなが参照したがるページは良いページ」と考えていて、そうでないのに順位を上げる、SEO 「だけ」で上位に表示されようとするページを排除しようとし続けています。



これ、WEB ページを作ることで暮らそうとしている人には大変。

見てもらうことって何よりも大切だからね。


Google の気まぐれで順位が上がったり下がったりするっていうのは、死活問題。

順位の決定方法を明らかにしない Google に対する批判もあります。




僕のページは大して人気ない(趣味で作っているだけだし、内容がマニアックすぎるのは自分でわかっている)のですが、それでも Google の順位付けがどうにかならないかな、と思う事は多々あります。


一番腹立たしいのは、記事内容をコピーしただけの盗作ページが上位に来たりすること。

これ、「情報の鮮度」も重視していて、書いて数年たったページよりも、同じ内容をコピーしたページのほうが「新しい」と考えられて起こる現象。


もっとも、これは Google の責任ではないとも思います。

悪いのは盗作をする人であって、Google も盗作に対しては「検索結果から除外する」ための仕組みを用意している。


盗作と思われるページは自動的に順位を落としたりもしているようですが、こちらはどうも精度が悪い。

(完全コピーページならともかく、内容の一部切り張りなどは盗作と判断できないみたい)



残念ながら、機械で対処できない部分は「モラル」に期待するしかないようです。

(この対処方法はすでに破綻している、と思ってもいますが)




Google は当初、検索エンジンだけを手掛けるシンプルな商売をやっていました。

検索エンジンを別の会社に貸し出して儲けたりしていた。


でも、AdSense で「広告ビジネス」をはじめます(2003)。

どうも、これが転機となった感じ。


広告ビジネスは、広告枠を多く獲得することが何よりも重要です。

そのためには、インターネットをストレスなく使ってもらうことが必要。


軽量ブラウザが必要ではないか、と Chrome Browser を開発します(2008)。

また、DNS の遅さを解消するため Google DNS を始めます(2009)。


しかし、それらはまだインターネットが「PCのネットワーク」だった頃の話。

PCがなくても、いつでもどこでもネットを見られるように、Android を開発します(2008)。

また、低スペックの安いマシンでも軽快に使える OS として Chrome OS を開発します(2009)。



別に収益の上がる広告ビジネスを中心に考えてきたわけではなく、いったいどこで収益を上げるのか不思議な、単に「ユーザーに使ってもらいたい」だけのサービスも数多く展開してきました。


Gmail (2004) は今では多くのユーザーが使い、ここでも広告を表示することで収益を上げています。

Google Map (2005) も当初は商売抜きに考えられていましたが、今では店舗情報の掲載など、重要な広告媒体として収益を上げています。


一方で、自動的に顔を認識して写真を仕分けてくれる Picasa (2004) は、収益が上がらず中止してしまいました。

写真ストレージサービスとしての Google Photo は残っていますが、以前とは全く別の使い勝手のものです。


google Pack という、便利なソフトをパックにしたサービスもありました (2006)。

これは、Chrome OS の「すべてのアプリケーションを Webサービスとして統合する」考えに従う形で、Google Apps に移行する形で提供中止。


Google Apps は Gmail を中心とした「Webサービス」の総称ですが、すべてのアプリで作成したデータを保存する中核としての「Google Drive」の提供(2012)で実用的になったように思います。


他にも、消えていったサービスは数知れず。

僕も、先に書いた Picasa を始め、ローカルマシン内の検索を行う Google Desktop (2004) とか、google のトップページに自由にガジェットを置いて情報を集約する iGoogle (2005) とかを便利に使っていたのですが、サービス停止で困った覚えがあります。


収益が上がらなければやめる、というのは企業として当然なのですが、特に iGoogle は利用ユーザーも非常に多く、利用してもらえなかったのではなくて、「ユーザーを多数集めたのに収益に結びつけられなかった」という感じ。


参考資料:Google のさらに詳しい歴史



Google が「Evil にならない」と明言したのはずいぶんと昔の話。


いや、今が Evil だというのではないですよ。

Google の社是として「Evil にならない」が掲げられているのは今も同じ。


でも、Evil (悪) って曖昧な言葉で、人の数だけ感じ方がある。

今では Google は大企業ですが、大企業というだけで悪だとみる人もいる。


特にアメリカでは「アイディアさえあれば競争できる」のが理想とされます。

体力がある大企業は「アイディアがなくても企業体力で生き残れる」という悪しき存在にされることがあります。



当初、Evil と言ったときに、マイクロソフトを想定していたのだそうです。

それも、マイクロソフトの何が Evil だというのではなく…ただ何となく。

(これも、マイクロソフトが大企業だったから、程度の理由でしょう)


一応、マイクロソフトはソースを公開していないから Evil で、Google はそうならない、と説明したこともありました。

だから Chrome はソースを公開した。


でも、Google 検索プログラムのソースが公開されたことはないはずですし、Gmail だって公開されてない。

あれはソフトを販売しているのではなく、サービスを提供しているだけだという言い訳もできますが…


企業秘密を開示できないというのは企業にとって当然のこと。

マイクロソフトだって Evil じゃないと思いますし、Google だってももちろん Evil ではないでしょう。



現在の Google のサービスは、Web でサービス提供しているものが中心で、その都合上「重要な情報を預ける」必要があります。

これに不安を持つ人も非常に多いから、Google としては「Evil にならない」ことを明言しないといけないのでしょうね。


重要情報を預かるからこそ、それを悪用しないと宣言する。


ただ、やっぱり何が Eivl か、人によって考えは異なるので、Google は Evil だ、と感じる人がいるのも仕方がありません。


もっとも、その場合はマイクロソフトか、ヤフーか…結局どこかに情報は預けないといけなくなるように思います。



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「人工知能」の生まれた日(1955)  2016-08-31 11:02:56  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、Artificial Intelligence という語句が生まれた日。

略して AI 。日本語では「人工知能」と訳されます。


Art というと美術とか芸術と訳されることが多いのだけど、原義は「技巧」。

Artificial となると「技術的に作り上げた」という意味になり、「人工」と訳されます。


Intelligence は知能、理解力、思考力、知性など、頭の良さを意味する言葉。


Artificial Intelligence で、「技術によって作り出された知性」の意味で、人工知能と訳されるわけです。




以前にも書いたことがありますが、ジョン・マッカーシーという方がいました。

MIT の教授で、学生に積極的にコンピューターを開放して、ハッカー文化を花開かせた功労者の一人です。



彼が助教授になったのは MIT ではなく、ダートマス大学です。1955年のことでした。

数学の博士号を持っており、知能を数学的に表現する研究をしています。


アメリカの大学は、夏休みが長いです。

また、アメリカの大学は企業と共同で研究を行うことも多いです。


マッカーシーは、1955年の夏休みに、IBM で仕事をしていました。

そして、そこで別の研究者に出会います。


当時ハーバード大学に在籍していた、マービン・ミンスキー

彼は幅広い知識を持つ数学者で、マッカーシは彼と共に「考える機械」の可能性を語り合いました。



そして2人は、このような話し合いがもっと広くできないものかと考えます。

そこで、IBM で同様の研究をしている人を探し当てました。


ナサニエル・ロチェスター。

彼は MIT で Whrlwind I の設計に携わった後、IBM に入社して IBM 701 の主任設計士を務めています。

さらにその後、IBM でパターン認識やニューラルネットワークの研究を行っていました。


そしてもう1人、コンピューターの話をするなら当時この人は外せない、クロード・シャノンとも連絡を取ることに成功します。



夏休みの最後の8月31日。マッカーシーは彼らに、来年の夏に自分の大学に来てほしい、という招待状を送ります。

この招待状の中で、マッカーシーは彼らが興味を持って研究している分野に対して名前を付けています。


その、新しい分野を示す語句が Artificial Intelligence、人工知能でした。




翌年の夏、マッカーシーは約束通りにダートマス大学で会議を行います。

ロックフェラー財団が、この会議を行うための費用 $7,000.- を出資しています。


会議は、10人の研究者が集まり、多様なテーマについて1か月の間熱く語り合うものでした。


事前に挙げられた会議テーマは、コンピューター、自然言語処理、ニューラルネットワーク、計算理論、抽象化と想像力。


自然言語処理は、現在の機械翻訳などの元となっている技術です。

ニューラルネットワークは、ディープラーニングの元となる技術。

計算理論は、コンピューターを動かすための理論。


抽象化と想像力というのは、むしろ人間の問題。

「抽象化」というのは、例えば林檎を見て「りんご」という言葉で認識するような問題です。

そして、リンゴという言葉から、アップルパイのように全く違うものを連想できる。


一体人間はどのようにしてそれを成し遂げているのか?

哲学的な問いですが、人工知能の研究…「人間はどのように考えているのか」を明らかにしようとする研究では、これは一番大切なテーマです。


ここに挙げられたテーマは、扱い易そうなものから扱いにくいものまで、「人工知能」に関係しそうなことであればどんなものでも取り上げる、という姿勢です。

実際の会議の内容はよくわかりませんが、事前に用意されたテーマでなくても、自由な雰囲気で話し合いができたようです。


#言い方は悪いのですが、ずっと雑談しているようなもの。

 「会議」という名前が示すような固いものではなく、とにかく同好の士が一緒に生活しながら、寝ても覚めてもアイディアを語り合う場です。



この会議は大成功だったそうです。

これによって初期の人工知能研究は一気に進展します。




この会議の後、マッカーシーは MIT に移籍します。

その後、マービン・ミンスキーも合流するように MIT にやってきます。


マッカーシーが MIT の学生にコンピューターを開放したり、非常に高価な IBM 7094 を改造してマルチタスクにしてしまったり、マービン・ミンスキーと一緒に獲得した「研究費」である 300万ドルを好き勝手使い始めるのは、その後のこと。


結果的に、人工知能研究を強力に推進したことになるのですけど、日本ではなかなかいなそうなタイプです。




さて、人工知能は近年急速に進歩しています。

人間の命に直接かかわるような判断そのものにも使われ始めている。


今年8月の頭には、人工知能が、多くの医師が見抜けなかった難病を見抜き、治療法まで正しく示したために命が助かった、というニュースが伝えられました。

積極的に命に関与したかったわけではないけど、結果的に人の命を助けた人工知能です。


その一方で、自動車の自動運転技術なども開発されています。

上の話の1か月前…7月頭には、世界で最初の自動運転車による死亡事故が起きています。


こちらも、自動運転とはいえ運転手はハンドルを握らないといけない決まりでした。

にもかかわらず任せっきりにしていたが故の事故。AIに全面的に責任があるわけではありませんが、結果的に人命を失ってしまった。


今後も、自動運転車などでは、AIは責任を負えないので最終判断を人間ができるようにしたほうが良い、という意見と、人間にはミスがあるので究極的にはすべてをAIに任せた方が被害を最小に食い止められる、という意見の両方があります。


そして、同じことは積極的に「人を殺す」ための、戦闘兵器についても議論されています。

すでにイスラエル軍はロボット兵器を実戦配備し始めています。


まだ人間のサポートを必要としますが、最終目的は、自動的に敵を殺せるようにすること。


人を殺す判断を機械に任せてよいのか、という議論もあります。


一方で、機械だからこそ、確実に敵だと判断できるまでは、たとえ危険にさらされても攻撃しない、味方や非戦闘員への誤射を無くせるという期待もあります。


ロボット兵器により、戦争が今よりも「安全になる」という期待です。




ダートマス会議では、想像力のような人間側の問題も話し合われました。

そして、十分に人工知能が進化した今、やはり最後に残された問題は、道徳や倫理といった人間側の問題となっています。


自動運転車が事故を避けられない時、乗員1名の命を守ろうとしたら、3人の人をひき殺さないといけないとします。

でも、わざと壁に突っ込めば3人の命を助けられる。乗員は死亡しますが。


こうした状況をどう判断するか、究極の決断を迫られているのは、まもなく人工知能社会を迎える、我々全員なのです。





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マイケル・ジャクソン 誕生日(1958)  2016-08-29 14:29:52  今日は何の日

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今日はマイケル・ジャクソンの誕生日(1958)。


でも、すみません。

僕マイケル・ジャクソンに関してそれほど詳しくないですよ。


音楽をそれほど聞かないし、洋楽となるとなおさらわからない。

でも、マイケル・ジャクソンはゲーム業界…特にセガとは仲が良かったので、ゲーム関連の話題として書いておいても良いかと思います。




マイケルの生い立ちとかは飛ばします。

僕が書くよりもずっと詳しい話が、ネットを探せばいっぱいある。



とにかく彼は世界で一番売り上げたレコードの記録を持っていましたし、お金もたくさん持っていました。


でも、それと引き換えに「自由」を失っています。

あまりにも有名になりすぎて、家から出ることもできない。

子供の時から芸能界に入っていたため、遊ぶ友達もいない。



その時期が、ちょうどテレビゲームの黎明~黄金期と重なっていました。

彼は家の中でテレビゲームで遊び、テレビゲームが友達でした。


自宅に遊園地を作り、ゲームセンターも作り、多数の業務用ゲームを個人で所有していました。

特にセガのゲームが好きで、当時一番効果だった業務用ゲーム機「R-360」を個人で買ってしまったことも話題となっていました。


マイケルは、世界ツアーを度々行っていたので日本にも来ていました。

ツアーの際にはもちろん、それ以外にも打ち合わせなどで「お忍び」で来日しています。


そういうお忍びの際には、セガ本社を訪れることもたびたびありました。


R-360 も、セガ本社で一度体験し、即決で購入を決めたのだそうです。

ちなみに、値段は 1600万円。




セガから発売されたゲーム、「マイケルジャクソンズ・ムーンウォーカー」は、マイケルの持ち込み企画だったそうです。

といっても、同名の映画が同時期に作られていますから、映画のストーリーを活かしたゲームを作れないか、程度のアイディアを持ち込んだのではないかと思います。


映画のストーリーでは、マイケルは麻薬組織に誘拐された子供たちを取り戻すために戦います。

ゲームも、ほぼ同じストーリー。

映画もゲームも、実際にはマイケルの歌と踊りを見る内容で、ストーリーなんてあってないようなものですけど。


セガが作ったゲームは、業務用とメガドライブ用で、同じタイトルですが違う内容でした。

世間的に評価が高いのはメガドライブ用だと思います。



このゲーム、内容的に突飛なので「クソゲー」とされやすいのですが、結構面白くて僕は好きです。


もっとも、3面クリアしたら電源をそっと切るゲームかなぁ…

僕としては、ソニック・ザ・ヘッジホッグも3面クリアで電源を切るゲーム。

メガドラには、よくできているのだけどだらだらと長すぎるゲームが多いように思っています。




マイケルとセガは友好的な関係にありました。

しかし、この後マイケルが、児童虐待で訴えられます。


アメリカでは、児童虐待は日本よりも「人でなし」のイメージが強いです。

このスキャンダルで、マイケルのイメージは地に落ち、ゴシップ誌などでも彼を悪く書くことが流行します。


やはり、黒人であることで快く思っていなかった人も多いのかもしれません。

とにかく、マイケルを叩いておけば話題に事欠かないし、売り上げも上がる…そういう状態でした。


児童虐待は、金持ちのマイケルから何とかして金を手に入れようとした人のでっち上げだった、と後にわかっています。

しかし、一度落ちたイメージは回復しません。



この裁判の直前に、マイケルはアメリカでも人気のあった、ソニック・ザ・ヘッジホッグの次回作があるなら、是非音楽を作らせてほしい、とセガに言っていたそうです。


ここでの「次回作」は3のことで、実際にマイケルが音楽を書いたという噂もあります

ただ、裁判になってしまったのでマイケルの名前を出せなくなり、発売時には公式見解として「音楽は社内制作」となった。


あとから出てきた証言や状況証拠的に、どうやらマイケルが作った音楽がそのまま使われていたらしいのですけどね。


全然別の部署で作られているゲームですし、僕は真偽のほどは知りません。




裁判がひと段落してから、マイケルは何度かセガにお忍びで来ていました。


ちょうど20年ほど前だったと思いましたが、僕のいた部署にも来ています。

そのころはプリント倶楽部が流行していたので、マイケルもプリント倶楽部を1度遊び、シールを持って帰りました。


…ところで、プリント倶楽部って、コンティニューで「今のシールをもう1枚作る」機能があるんですよね。

マイケルが帰った後、大量印刷して奪い合いになっていました。



さらに後には、「スペースチャンネル5」などにも出演していますね。

歌って踊るゲームね。


このときは、完成したゲームを見せたところ「是非出演したい」と言われて、急遽最終面にゲスト出演となったそうです。

後の続編では、準主役として出演しています。




アメリカは日本人が思っている以上に階級社会で、社会的に成功し、富と名声を得たものは、上流社会の仲間入りをしたがります。


マイケルの肌が、黒人なのに白くなっていったのは病気のためです。

しかし、彼が「白人になりたがっている」というゴシップが語られていました。

これもまた、白人でないと上流社会に入りにくいためです。


しかし、実際のマイケルは、黒人であることを恥ずかしいなどとは思ってませんでしたし、むしろ自分の出自である貧困層と共にいたいと思っていたようです。



テレビゲームのようなものは、上流階級の人は遊びません。

…まぁ、実際はどうか知りませんが、少なくとも遊んでいると公言するようなものではない。


しかし、マイケルは自宅にゲームセンターを作り、公言していました。

「底辺層の娯楽」を楽しむ、決して上流層に媚びようとはしていない姿勢を見せたのです。


これもまた、貧困層と共にいることを伝える、メッセージだったのではないかと思います。





最後に自分の話を。


最初に書いた通り、僕はあまり音楽聞きませんし、洋楽になるとなおさら聞いていません。


でも、メガドライブの「ムーンウォーカー」が結構好きだったので、元ネタとしての映画「ムーンウォーカー」は一応見ている。


一時期ペンネームとして「WIZ」を使っていたので(西武企画のゲーム「魔法使いWIZ」が好きでした)、マイケルジャクソンが出演した映画「WIZ」も一応見ている。


あまり知らないのは事実なのですが、ちょっと話題に書きたいと思う程度には追いかけてますね。



でも、深入りしてはいなかったので、ゴシップ誌が書くような悪いうわさも真に受けてました。

死んだ後でいろんな話が伝えられ、そこでやっと噂が根も葉もなかったと知りました。



実は、先に書いたプリクラシール、僕は持ってません。同じ部屋にいたのだけど、遠目にちょっと見ただけで、それほど見ようとも思わなかった。


当時はまだ悪い噂が残っていたせいもあります。

折角世界的大スターが近くに来ていたのだから、もう少し見とけばよかったかな。




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別年同日の日記

13年 次女発熱


名前 内容

【隆三】 まさかここでセイブWIZの話題になるとは。アイテムや敵のパターンもランダムな運ゲーなのに独特の世界観が妙に魅力的で好きなゲームでした。昔、駄菓子屋の20円アップライト筐体や銭湯に置いてあったテーブル筐体でプレイしました。それにしても、マイケルももう居ないんですね… (2016-09-03 20:39:08)

Linuxの存在が明かされた日(1991)  2016-08-25 10:29:09  コンピュータ 今日は何の日

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この日をわざわざ取り上げるかどうか悩みました。


というのも、数日前に「Linuxの25周年の日」とする記事を読んでしまったから。

まぁ、幸い今日は他にめぼしい話題もないので(笑)、取り上げることにしました。




1991 年のこの日、Linus Torvalds は、minix のニュースグループに「minix のどこが好きですか?」という投稿をしました。


以下、意訳しましょう。


minix のどこが好きですか?


minix をお使いの皆さん、こんにちは。

私は、386(486) AT 互換機用の(フリーの)OS を作っています。

(GNU 製品のような大規模で専門的なものではなく、趣味にすぎません)


4月から作り始め、やっと動かせるような状態になってきたところです。


そこで、多くの人から、minix の好きな所、嫌いなところを教えてもらいたいと思っています。

というのも、私の OS は minix に似ているのです。

(ファイルシステムの構造など、全く同じです(そのほうが実用性があるため))


現在、bash(1.08) と gcc(1.40) が大体動いています。

数か月以内には、実用的に動くようになるでしょう。


なので、この後どのような機能を作るべきか、皆が何を欲しがっているか知りたいのです。

どんな意見でもありがたいです。でも、言われた通り作るとは約束できません。


         Linus.(メールアドレス)


追伸.

minix のコードは一切使っていません。

マルチスレッドファイルシステムを持ちます。

移植性はありません。(386 のタスクスイッチなどを使っています)

そして、AT ハードディスク以外のサポートは一切ありません。僕が持ってませんから :-(


これに対し、すぐに反応した人が一人。


(ソースコードが)フリーであることに期待し、移植性がないというが Amiga への移植は困難そうか、と聞いています。


Linus は、移植性のなさがどのようなものか、詫びながら詳細を解説しています。

minix と違い、ハードウェアの機能をそのまま見せ、386 の機能に頼ってしまっている部分が多数あることを示す内容です。


この返信により、minix がハードウェアを隠蔽し、メモリ管理もややこしいことに対する「不満」が次々出されます。

どうやら、新 OS ではそれらの不満が解消されそうだ。期待している、なんなら手伝う、という内容です。


でも、このときはそれで終わり。

まだまだ「Linux」の姿は見えません。



Linux が本当に姿を現したのは、3週間ほどたった 9月17日のことです。


こちらは以前「Linux の初公開日」として書いています。是非合わせてお読みください。



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ゴードン・ベル 誕生日(1934)  2016-08-19 17:50:25  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、ゴードン・ベルの誕生日(1934)。


PDP-11 の設計者にして、VAX の開発責任者。

そして、ハイ・パフォーマンス・コンピューティングを推進する「ゴードン・ベル賞」の提唱者です。


コンピューター業界を大きく変えた偉人。




PDP シリーズを開発した DEC 社は、もともと MIT の関係者が作った会社です。

MIT で開発された、TX-0 というコンピューターに将来性を感じ、量産するために設立された会社でした。


ゴードン・ベルも MIT の卒業生で、別の教授が設立した会社で働いていたのですが、引き抜かれて DEC の初期社員となりました。



当時は、コンピューターとは「専門のサービスマンしか触れない高価な機械」でした。

しかし PDP-1 は、購入したユーザーが自由に触ってよい機械でした。


ベルは、この PDP-1 の入出力システムを設計しています。


その後、PDP-1 の上位互換機である PDP-4 の設計を任され、PDP-5 にも参加、PDP-6 の設計も任されます。


しかし、これらの機械、ほとんど売れていません。

PDP-5 は初めての廉価機で、PDP-1 の 18bit とは互換性のない 12bit 、PDP-6 は DEC 初の大型コンピューターで、36bit でした。


その後も PDP シリーズは続くのですが、PDP-4 の後継機で初期の UNIX が作られた PDP-7 、PDP-5 の後継機で個人でも購入できるほど低価格となった PDP-8 あたりが有名です。




この後、ベルは DEC を辞め、カーネギー・メロン大学で計算機科学の講師となります。

そこで計算機のアーキテクチャなどを研究し、再び DEC に戻り、PDP-11 の開発を行います。


学術的な研究成果として作られた PDP-11 は、それまでのどんなコンピューターとも違っていました。

これまでのコンピューターは、技術的な都合で設計されていて、プログラマはその都合を察し、パズルのように最適なプログラムを組む能力が求められていました。


しかし、PDP-11 では「プログラマが使いやすい命令セット」が作られていたのです。

多数のレジスタ、直交性の高い命令、豊富なアドレッシングモード…


…これらの用語を説明すると長いので、知りたい人は PDP-11 を参考に設計された MC68000 の説明をお読みください。


ともかく、これはコンピューターのありようを変えてしまう大傑作でした。

この後は、PDP-11 のような設計が「良いもの」とされました。

先に書いた MC68000 だけでなく、PDP-11 を参考にしたコンピューターは数多くあります。



また、この後 UNIX は PDP-7 から PDP-11 に移植されます。

移植の際にはC言語が作成されるのですが、PDP-11 のアセンブラに「コンパイル」しやすいような言語設計を行ったため、C言語にはところどころに PDP-11 の影響が残る、とされています。




16bit の PDP-11 は、32bit に拡張されて、上位互換の VAX-11 となります。

この開発主任を務めたのもベルでした。


VAX-11 には、専用の OS として VMS が作られました。

しかし、PDP-11 用の UNIX もまた、VAX-11 に対応して普及しました。


VMS は非常に優れた OS だったのですが、VAX-11 「以外」でも使えた UNIX のほうが普及しました。



後に DEC は倒産し、部門ごとに解体され、別会社に吸収されます。

このときに、VMS を作成していた部門は Microsoft が吸収合併します。


ここで新たに作られたのが、VMS より一歩進んだ OS …アルファベットをそれぞれ一文字づつ進めて、コードネーム WNT でした。

後の Windows NT 、そして現在の Windows 10 のコア部分です。




ベルは DEC の副社長にまでなっていましたが、倒産前に退社しています。


その後マルチプロセッサシステムを作成する会社を設立し、このような並列コンピューター…「ハイ・パフォーマンス・コンピューティング」を推進すべく、ゴードン・ベル賞を設立します。


単に性能を競う、スーパーコンピューターのための賞ではありません。

「ハイパフォーマンス」の名前の示す通り、価格・性能比に優れたマシンや、それらを向上させる新アイディアなどに送られる賞となっています。


地球シミュレータや「京」、TUBAME2.0 など、日本の並列コンピューターもゴードン・ベル賞を受賞しています。


さらにその後、ベルはマイクロソフトの研究部門、マイクロソフト・リサーチの立ち上げから関わり、現在も名誉研究員となっています。




最後に、1992年10月に発売された雑誌に掲載された、ベルのインタビューから言葉を抜粋。


Twenty-five years from now...Computers will be exactly like telephones. They are probably going to be communicating all the time ... I would hope that by the year 2000 there is this big [networking] infrastructure, giving us arbitrary bandwidth on a pay-as-you-go basis.


意訳:

今から25年後、コンピューターは電話のようになります。

それらは皆、常時接続で通信をしています。


2000年ごろには大きなネットワークインフラが整備されて、誰でもお金を払えば使えるようになることを願っています。


これ、あまりに的確で驚きました。


1992 年だと、まだインターネットブームの前。研究者なら使っていたけどね。

インターネットがブームになったのは 1995 年ごろで、google が有名になるのが 1999年ごろ。


ADSL によって家庭向けの「常時接続」サービスが始まるのが、日本では 1999年ごろ。

光ファイバによる常時接続は 2001年。


1992年から「25年後」は来年 2017 年なのですが、すでに電話とコンピューターの区別は曖昧となっています。

それらは皆、常時接続で通信をしています。



でも、同じインタビューでのもう一つの言葉を紹介しておかないと、フェアではないでしょうね。


Somebody once said, 'He's never wrong about the future, but he does tend to be wrong about how long it takes.'


意訳:

誰かがこういったんだ。

「彼の未来展望は決して間違えていない。だけど、時期については結構間違うね」



先の予測、時期までぴったり合っている、というのは偶然かもしれません。



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宇宙からの初メール(1991)  2016-08-09 16:55:33  コンピュータ 今日は何の日

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1991年の今日、宇宙から初めてのメールが送られました。


メールと言っても、インターネットではなくてパソコン通信ですね。

1991年にはすでにインターネットメールはありますが、一般的に広まってはいなかったので。


具体的には、Apple が運営していた AppleLink というサービス上でのメールが送信されました。




1991年 8月 3日に、スペースシャトル・アトランティスが打ち上げられました。


ミッション番号は STS-43。

その中に「Mac in Space II」というプロジェクトがありました。


これ以前も、宇宙に DOS マシンを持って行ったりしたことはあったようです。

しかし、それらは特定の実験にコンピューターが必要になったから、などの理由。


このプロジェクトでは、もっと広範囲にコンピューターを…Mac を活用できないかを探るものでした。


乗員の健康管理にも使用されましたし、無重力化で使いやすいインターフェイスの実験も行われました。

メールの送信も、そうしたプロジェクトの一環だったのです。




実験には Macintosh Portable が使われました。

…Mac 好きの中でも、結構「珍品」扱いされる機種。


Portable は、妥協せずにデスクトップに見劣りしない性能を搭載し、キーボードやマウス代わりのトラックボールも内蔵したため、非常に大きくて重い機械でした。


元々 Mac は「電子文具」をコンセプトに開発されている側面があります。

初代から、小さなディスプレイは本体と一体型で、軽量でハンドルもついていたために持ち運べました。


このため、「持ち運びやすさ」でいえば、Portable よりも一体型 Mac のほうが上だったと言われることも多いです。


じゃぁ、なんで狭い宇宙船内に、そんなに大きな「Portable」を持ち込んだのか…というと、どうやら「トラックボール」が重要だったようです。


当時のマウスは、内部に球が入っていました。

球の入っている空間には余裕があり、球は「重力で下に引っ張られる」ことで接地していました。


また、球の動きは接触しているホイールで感知されますが、このホイールも重力で球と接していました。

つまり、マウスは宇宙空間では使えないのです。


そもそも、無重力空間では使いやすいインターフェイスも変わるかもしれません。


そこで、標準のトラックボール以外にも、3つの装置が用意されました。


・業務用ゲーム機などで使われる、大型の 2inch トラックボール

・操縦桿を改造して、上部に親指で操作できる小さなトラックボールを付けたもの

・光学式マウス


ちなみに、当時の光学式マウスは、今のものと違い、光を反射し、反射面に格子模様が印刷された専用のマウスパッドを必要とします。


#この格子模様をわざとぐにゃぐにゃに歪めた「ジョーク製品」があって、まっすぐマウスを動かしても、カーソルはぐにゃぐにゃと動いた。


各種装置を使ってどれが使いやすいかを評価したはずなのですが、その評価については公開されていないようです。



さて、当時 Mac を対象としたパソコン通信を、Apple が運営していました。

サービス名は AppleLink 。そして、接続するための専用ソフトが AppleLink 。


パソコン通信は基本的に「文字だけ」の世界です。

文字で表示されるメニューを見て、文字でコマンドを送ると、文字でメッセージが送り返されてきます。


しかし、AppleLink では、Mac でファイル操作を行う Finder と同じ感覚で操作ができます。


接続後、メニューがアイコンで示され、アイコンをクリックすることでメニュー階層を辿れます。

そして、文章をクリックすると、画像や様々なフォントを含む「リッチテキスト」で表示されるのです。



もちろんメールも送れます。


宇宙から AppleLink に接続を行い、メールを送る、というのもプロジェクトの実験の一つでした。




8月 9日、宇宙の Macintosh Portable から地上に向けて、AppleLink のメールが送信されました。

送信したのは、Shannon Lucid と James C. Adamson の2名で、次のようなものでした。


Hello Earth! Greetings from the STS-43 Crew.

This is the first AppleLink from space.

Having a GREAT time, wish you were here,...send cryo and RCS!

Hasta la vista, baby,...we'll be back!


意訳:

こんにちわ、地球! STS-43 の乗員からの挨拶です。

これは宇宙から初めての AppleLink です。


素晴らしいひと時、あなたがここにいてほしい、…cryo と RCS を送って!

地獄で会おうぜ、ベイビー、…すぐもどる!



これ、テストメッセージなので無茶苦茶。後半は冗談の連続です。


「あなたがここにいてほしい」はピンク・フロイドの大ヒットアルバムタイトル。

「地獄で会おうぜ、ベイビー、…すぐもどる!」は、映画「ターミネーター2」の印象的なセリフですね。

ミッション直前の 1991年 7月 3日に公開されたばかりでした。


#映画では I'll be back! なのだけど、ここでは we'll としている。

 冗談部分は正確な翻訳より、映画や曲名の邦題にあわせた。


cryo は cryogenics の意味で、極低温で貯蔵するものを意味します。

RCS は Reaction Control System で、姿勢制御のためのシステム。


スペースシャトルで極低温物質、RCS にも関連するものと言えば…液体酸素と液体水素燃料。


つまり、「酸素と燃料を送れ」って言ってるんですね。

「素晴らしいひと時」をもっと体験していたいから、酸素と燃料があれば滞在時間が伸ばせます。


2016.9.1 追記

コメント欄で教えていただきましたが、シャトルの RCS の燃料と酸化剤はヒドラジンと四酸化二窒素だそうです。

これらは常温で液体。混ぜただけで発火するために宇宙でも使いやすいのだとか。


液体酸素と液体水素を使っているのは、シャトルの発射時のみ使われる「メインエンジン」だけでした。

こちらは混ぜたうえで「着火」しないといけないので、火が燃えない宇宙では使いづらい。


…とすると cryo は何のことを言っているのだろう?


まぁ、内容を見てもノリ一発で書いている文章なので、あまり深く考えてないと思いますが。


このメールは簡単に送れたわけではなく、3回もリトライしてやっと届いたものなのだそうです。

その3回目も、メールは送信できたものネット接続を維持し続けることができませんでした。


つまり、この時点でのメール送信実験は、半分成功、半分失敗。

宇宙からのメッセージ送信方法として常用するのはまだ難しそうだ、という結果になります。




この実験から 19年後の 2010年 1月 22日、国際宇宙ステーションが、インターネットに直接接続されました。


これ以前にも、なんどか宇宙飛行士がネットにメッセージを送ったりしていました。

ただし、実際には地上にいる人間が送信を代行する形で運用されています。


それが、代行は不要で直接ネットに接続可能となったのです。



宇宙からインターネットへの、ダイレクト接続で最初に送信されたのは、twitter メッセージでした。





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あきよし】 おぉ、そうなんですね。ちゃんと調べずに書いてしまいました。ありがとうございます。 (2016-09-01 08:45:42)

【vandy1】 本筋から逸れた話になりますが、シャトルのRCSの燃料と酸化剤はヒドラジンと四酸化二窒素ですね。 (2016-08-30 22:10:24)


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