今日は何の日の日記です

目次

2017-03-28 X68000 発売日 (1987)
2017-03-22 2つの特許の出願日(1971)
2017-03-16 タネンバウム教授(1944) ストールマン(1953) 誕生日
2017-03-15 世界最初のドメイン登録(1985)
2017-03-10 QV-10 発売日(1995)
2017-03-09 BSD 初リリース日 (1978)
2017-03-08 ラルフ・ベア 誕生日(1922)
2017-03-07 スティーブン・クーンズ 誕生日(1912)
2017-03-06 アダム・オズボーン 誕生日(1939)
2017-03-05 レイ・トムリンソン 命日 (2016)
2017-03-03 ロジェ・カイヨワ 誕生日(1913)
2017-03-01 エドウィン・ハーバード・ランド 命日(1991)
2017-02-28 コアメモリ特許 成立(1956)
2017-02-20 ケン・オルセン 誕生日(1926)
2017-02-18 ハンス・アスペルガー 誕生日(1906)
2017-02-16 パソコン通信が生まれた日(1978)
2017-02-13 ウイリアム・ショックレー 誕生日(1910)
2017-02-11 リチャード・ハミング 誕生日(1915)
2017-02-10 西和彦 誕生日(1956)
2017-02-08 ボブ・バーマー 誕生日(1920)
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X68000 発売日 (1987)  2017-03-28 11:40:52  コンピュータ 今日は何の日

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今日は X68000 発売日(1987)


ちょうど 30 年だ、というので記録しておきます。


X68k については、もう 20年前に言いたいこと言っているので、いまさら言うことは何もないです。





公開してから気づいた。


2年前にも X68k の発売日書いてるじゃないか…


鳥頭にもほどがある。




公開当日の内の追記。


シャープ公式の人のツイート。



20年前に書いた僕の記事では、「春発売」と書いている。

当時の記憶では、発売日が明確になってはいなかったからだ。


2年前の日記は、公式に「3/28」となっていたのでその日に書いた。

僕が知らなかっただけで、ちゃんと発売日設定があったのかな、と思って。


しかし、上のツイートで疑問が解消した。

どうやら、今日が発売日、と明確に定まるわけではないようだ。



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コンピュータ

別年同日の日記

02年 3/28

03年 布団

04年 花見

11年 何がデマで、何がデマでないのか。

15年 ファミベ、MSX、X68k

15年 家庭用と業務用

15年 X68000発売日(1987)


名前 内容

2つの特許の出願日(1971)  2017-03-22 12:57:52  コンピュータ 今日は何の日

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1971年の今日、アメリカで2つの特許が出願されています。


まずは、米国特許番号 3,728,480


「Television gaming and training apparatus」

 テレビ受像機による、ゲーム・訓練装置


出願者は、ラルフ・ベア


彼が、テレビ受像機を、放送を見る以外に使えないか? というアイディアを思い付き、ゲーム機の研究を行ったのが、1967~1968年。

最終的に「Brown BOX」としてまとまります。


これを量産品として販売した Odyssey は 1972年。

発売前に特許を出願したようです。まぁ、普通の判断。


世界で最初のテレビゲームの一つですが、詳細は上のリンク先をお読みください。




もうひとつは、米国特許番号 3,842,194


「Information records and recording/playback systems therefor」

 情報保持、記録/再生のためのシステム


出願者は、RCA の研究者であった、ジョン・クレメンス。


「静電容量ディスク」の特許です。

今では聞きなれない方式ですが、一時期非常に注目され、テレビゲームとも縁が深いです。



1959年には、RCA のトーマス・スタンレーによって「静電容量ディスク」のアイディアが考案されていたそうです。

これは、普通のレコード盤にビデオ信号を記録する、というもの。


レコードは、音…つまり、空気の揺らぎを、レコードの「溝」の揺らぎとして記録します。

しかし、ビデオ信号は音よりももっと周波数の高い「光」の波であり、この方式では記録できません。


光と電気・磁気信号は近いものなので、せめて電気・磁気で信号を記録できれば…というところ。

実際、ビデオテープなどは磁気を使いますし、DVD などはレーザー光線を使い、光で記録を行います。


#DVD は前段階として、デジタルによる信号圧縮も行われているので単純ではないですが。



静電容量ディスクは、レコードのような「ビニール樹脂」が、静電気を溜めやすい性質を利用したものです。

小さな穴を作り、そこに「静電気」を溜めようとすると、穴のサイズによって溜められる量が変わります。


この「静電容量」を信号として取り出せれば、電気的な記録が可能です。

物理的な溝の揺らぎで記録するよりも、高密度で、高速に読み出せる記録が可能でした。


1964 年には RCA で本格的に研究が始まり、1971 年までに技術を確立し、特許が出願されたのです。




アメリカでは、RCA から CED(Capacitance Electronic Disc :電気容量ディスク、の意味)として発売されています。


日本では、この方式をさらに改良した、VHD(Video High Density Disc :高密度ビデオディスク)として 1981年に発売されました。

ちなみに、根本的な部分の改良なので、CED との互換性はありません。



CED では、レコードのように1本のらせん状の溝があり、その溝に従う形で信号記録のための穴があけられていました。

しかし、VHD には溝がありません。完全に平らなディスク上に穴があけられ、読み出し針は自由に動くことができます。


これによって、ランダムアクセス…頭出しが可能なことが VHD の特徴でした。

また、溝がないことから「針が溝を削る」こともなく、摩耗しにくい…ともされましたが、それでも物理的な接触はあるため摩耗します。




ところで、CED/VHD のライバル規格として、レーザーディスク (LD) があります。

フィリップス/MCA が企画したもので、日本ではパイオニア1社のみが製造していました。


こちらは 1978年にはアメリカで発売、1980年に日本で発売しています。


名前の通り、レーザーで読み取ります。接触しないので摩耗はなく、ランダムアクセスも可能です。

ただし、記録時間は LD が30分、VHD が1時間でした。


LD は「両面ディスク」を発売し、1枚で1時間として欠点をカバーしましたが、途中で裏返すという手間が増えます。

(のちに記録方式を拡張し、片面1時間にも対応。)


レーザーという「新技術」を使っていたため、機械が高価なのも普及を妨げていました。



しかし…ここからが、今日の本題。

1983 年、「ドラゴンズレア」が発表となります。


世界初の、レーザーディスクを使用したテレビゲームでした。



まだゼビウスが「最も美しい」テレビゲームだった時代に、ディズニー風のセルアニメで遊ぶゲームは、まさに異次元のものでした。


LD の機械が高価でも、業務用として売れない値段ではありません。

例え 30分しか記録できなくても、業務用ゲームのプレイ時間としては十分です。


そして、すぐに再生画面が切り替えられる、というランダムアクセス性を活かし、操作に成功すればアニメが続き、失敗すればすぐに「やられた」画面を表示するようになっていました。



LD の欠点をカバーし、長所を伸ばす形で応用したゲームにより、LD の存在感を示したのです。




ドラゴンズレアは大ヒットゲームとなり、日本でも、サンダーストーム(DATA EAST)、タイムギャル(TAITO)、バッドランズ(KONAMI)などなど、多数の LD ゲームが発売されます。


#アストロンベルト(SEGA)は微妙な所。

 ドラゴンズレア以前から開発されていた一方、背景を LD に任せただけの普通のシューティングゲームだから。



そして、これらの「家庭用」は、主に VHD で発売されました。

LD よりも VHD のほうが、本体価格が安くて普及していましたから。


#もちろん、LD でも出ましたけど。


ただし、ゲームで遊ぶにはそれなりの設備が必要になります。

主に、テレビとの親和性が重視されたパソコンだった、シャープの X1 と、VHD の開発元であるビクターも製造していた MSX 用にソフトが発売され、パソコンから制御できる機能を持った VHD プレイヤーも必要でした。


参考:VHD サンダーストーム



ランダムアクセスと言っても、読み取りヘッダの移動時間は物理的に必要です。

LD や VHD のゲームでは、特殊なフォーマットで記録を行うことで、こうした「移動時間」を最小にしています。


確か、当時のベーマガで、この技術を説明していました。


VHD は普通らせん状に1本にデータが記録されているのだけど、この「らせん」を2本にする、というもの。

通常映像のすぐ横の溝に、「失敗した時の分岐先」を用意することで、ヘッダの移動時間を最小化するのです。



これ、昔の「ひもを引くとランダムにしゃべる人形」…トイストーリーのウッディみたいなおもちゃで使われていた技術と似ています。

…って書いて判る人はほとんどいないでしょうね (^^;;


ウッディみたいなおもちゃは、中に非常に小さなレコードが入っています。

レコードには普通溝が1本ですが、4つの溝が刻まれていて、ひもを引いてバネを巻いたときに、たまたま針が落ちたところの音声が再生されます。




VHD ゲームは「オリジナルソフト」も多少はあったのですが、VHD ゲームを作るのは手間がかかるため、ほとんどは業務用の移植でした。


ただ、ビクターもパソコンとセットにできる VHD プレイヤー、なんて高価なものを売った以上はソフト供給の責任があるわけで、いろいろ変わり種も発売していました。


ゼビウスの背景が延々と流れるだけのディスク、というのがあったのを覚えています。

通常そんな画面が出るわけはないので、ゼビウスのソフトを書き換えて、わざわざ専用に収録したものだったそうです。



当時、ゼビウスは「移植不可能」と言われていましたが、最大の問題が背景のスクロールでした。

当時のパソコンにはスクロールのハードウェアなんてなかったため、すべてのドットをソフトウェアで書き換える必要があったのです。


ここに、ゼビウスの背景 VHD を垂れ流して、ゲームに関係するキャラクターだけ書けばよいとしたらどうでしょう?

きっとそんなソフトが発売されるに違いない、と思ったのですが…


…出るわけありませんでしたね。

パソコンだけでも高価だった時代、特殊な VHD本体と接続キット、さらにゼビウスの背景 VHD まで買った人しか遊べないゲーム、なんて需要あるわけありませんし。




LD ゲームは、画面はきれいかもしれませんが、その特性上「自由に動く」ようなことは出来ず、画面の指示に従ってタイミングよく操作を行うだけの、覚えるだけのゲームでした。


そのため、あっという間にジャンル自体が廃れます。

1984~1985 のわずかな期間に、ほとんどのゲームが発売されたのではないかな。



ちょっと特殊な所では、1990 年のギャラクシアン3。

あまり LD ゲームとはされません。


セガの「アストロンベルト」と同じで、背景が LD で、その上にキャラクターを重ねて3Dシューティングゲームを行う。

ただ、7年もたっているので技術は格段に上がっていて、背景とキャラクターの間に違和感を感じません。


1990年の、いわゆる「花の万博」で披露されたもので、28人が 360度スクリーンで同時に遊ぶという、大規模なものです。

後に6人で遊べるバージョンが作られ、ゲームセンターに置かれました。


…といっても、これも非常に高価で、置かれた店は限られていましたけど。

(大学の近くにあったので、仲間と一緒に遊びに行きました)


こんな大型機で、しかも LD なんて特殊なものを使っているので、保存しておくのも大変なようです。


2010年に大規模な「LD エミュレーション」を作成するプロジェクトが行われています。


LDプレイヤーが入手困難になっているので、全動画を PC に取り込み、LD 制御信号を解釈するプログラムを作ることで、PC に LD プレイヤーの代わりをさせる、というものでした。


これは、「アーケードゲーム博物館計画」さんの所有物で、年に数回開放しています。

そのタイミングで倉庫に行けば遊ぶことができるそうです。


僕も、昨年秋に友達と遊びに行ってみようと計画していたのですが、残念ながら昨年秋の開放は中止になってしまいました。



#今回「静電容量ディスク」の話のはずが、すっかり脱線してしまいました。



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タネンバウム教授(1944) ストールマン(1953) 誕生日  2017-03-16 13:19:11  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、アンドリュー・タネンバウム教授(1944)と、リチャード・ストールマン(1953)の誕生日。


この二人が同じ誕生日、というのはすごい偶然だと思います。


タネンバウム教授は、MINIX の設計者。

MIT の卒業生で、カリフォルニア大学バークレー校で博士号を得ています。


その後、オランダのアムステルダム自由大学で計算機科学の教授を行っています。

この過程で、学生にコンピューターOSの仕組みを教える教材として、MINIX を設計。1987年に完成させます。


UNIX は、そもそもミニコンピューター(と書くと小さそうですが、パソコン=マイクロコンピューターより巨大なもの)で動くOSでした。

MINIX は、その機能を厳選し、IBM-PC で動くようにしたOSです。


MIT のハッカー風土を知り、バークレー校のBSDを知っている教授が作った、誰でも使える UNIX でした。




と言っても、MINIX は機能を限定した UNIX です。

MINIX でOSの仕組みを学んだリーヌス・トーバルズが、後に「ハイエンドな」IBM-PC で動く、フルセットの UNIX を作ります。


これが現在の Linux

ただし、Linux はOSの一番重要な部分、「カーネル」だけです。

周辺ソフトなどを整え、OSとして使えるようにするには、別のソフト群が必要でした。




話は変わって、リチャード・ストールマン。RMS とも呼ばれます。(ミドルネームは「マシュー」)


ストールマンも MIT の学生でした。ただし、卒業はせず、中退。

MIT のハッカー文化が消えつつあるときの学生で、書籍「ハッカーズ」の中では、最後の章でやっと登場します。

ハッカー最後の生き残りとして。


ハッカーの倫理は、当時のブームであった「ヒッピー文化」に深く根差しています。


誰かが作ったものは、皆で共有されるべき。すべてを公開し、秘密を無くすべき。

金もうけのために働き、稼ぎを自分一人の財産にする、なんていうのは、最も忌むべきことでした。


しかし、学生の時はそのような理想を口にしても、社会人になれば金もうけのために働く必要があります。

ハッカーたちの多くは、MIT 内の「AI研究所」に所属し、政府の助成金で研究をするモラトリアムを送っていましたが、その助成金すらも制限があります。


そして、みな自分たちの技術や知恵を「商品」として、商売をし始めるのです。


特に決定的だったのが、先日も書いた「Lispマシン」でした。

AI研究所では Lisp マシンを開発しましたが、この商品化のために Symbolics 社が作られます。


そして、「金儲けは許さない」とした一派と分裂。

許さないとした一派もLMI (Lisp Machine Inc) という会社を作り、結局は Lisp マシンで商売を始めるのです。


これが、ハッカー文化の終焉でした。



ストールマンはハッカー文化の中心となった人達よりも若く、このどちらの行動も許せませんでした。

…まだ若かったのですね。


そこで MIT を飛び出し、「すべてのコンピューターソフトをフリー(自由、無料)にする」という活動を始めます。


これが GNU 活動。

UNIX の複製品を作り、無料で配布することが当初の目的でした。




OS自体を作るのはなかなか難しいことです。

そこで、GNU は「周辺ソフト」から活動を開始します。


UNIX の標準コマンドは、すべて GNU 製品として用意しました。

一般的な標準コマンドよりも性能が良く、機能が多く、ソースコードも配布され、改造も自由で、無料です。


ソースコードは「Cコンパイラ」で処理すると、コマンドとして使える「実行ファイル」が出来上がります。

このCコンパイラも、GNU 製品で用意しました。


ソースコードの作成には、テキストエディタが必要です。

実は、ストールマンは GNU 活動を始める前から、Emacs というエディタを作っていました

これも GNU 製品として使えるようにします。


UNIX 上では、OSは「カーネル」の部分と、ユーザーが操作を行う「シェル」の部分に分かれます。

このシェルも、従来より高性能なものを作成しました。




とにかく、UNIX のありとあらゆるソフトを無料で使えるように。

ただ、周辺ソフトは全部そろえられても、カーネルだけは作れません。


カーネルというのは、ハードウェアに密着し、その違いを隠す部分です。

上に書いたようなソフトは、そうした「違いが隠された」上で動作するものなので、OSが整っていれば、ある意味どこででも動作します。


しかし、OSのカーネルは、マシンごとに作成しなくてはならず、手間もかかるし泥沼の作業になりやすいのです。




さて、ここで先ほどタネンバウム教授のところで出てきた話に繋がります。


タネンバウム教授の MINIX で勉強したリーヌスが、Linux という新しい UNIX 準拠のOSを作りました。

ただし、カーネルだけで、周辺部分が一切ありません。


ストールマンは、UNIX 準拠のOSを用意しようとして、周辺一式を揃えました。

しかし、カーネルの部分がありません。



この二つを組み合わせれば、UNIX として使えるようになるわけです。

実際、現在の Linux は組み合わせた状態で「配布」されています。



ストールマンとしては、リーヌスの名前を付けた「Linux」という名前でこのセットが呼ばれることを、快く思っていないようです。

GNU/Linux と呼んでほしい、と呼び掛けていますが、あまりこの呼び方をする人はいません。



リーヌスとしては、Linux を GNU のライセンスに従って配布することにしています。

だから、ここでも GNU 製品と呼んでも差し支えないことになる。


もっとも、GNU の考え方も一枚岩ではなくて、GPL の解釈だって、リーヌスとストールマンで違います。


ここら辺、GNU に関してはいろいろな話があるのですが、長くなるのでまたの機会に。



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名前 内容

世界最初のドメイン登録(1985)  2017-03-15 11:00:15  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日は、世界最初のドメイン名が登録された日(1985)


…と言ってしまって良いものかどうか。

一応、この前から「ドメイン名」は存在していました。


ただ、登録機関が作られ、最初に正規の手続きが取られたのは、 SYMBOLICS.COM で、1985年3月15日に登録されているのです。




インターネットは、初期の頃に IPv4 が完成し、IP アドレスを直接使ってコンピューターを指定していました。

しかし、これは覚えにくく、不便です。


そこで、HOSTS.TXT という仕組みが考えられます。

テキストファイルで、IP アドレスとホスト名(コンピューターの名前)の組を書いただけのファイル。


ホスト名を指定すると、自動的に HOSTS.TXT を調べて IP アドレスにアクセスを行います。


この HOSTS.TXT は、マウスの発明者としても知られるダグラス・エンゲルバートが管理していました。


彼はスタンフォード研究所(Stanford Research Institute)に所属していましたが、自分のマシンで、この HOSTS.TXT を FTP 公開していました。

ですから、時々 FTP で最新の HOSTS.TXT を取り出し、自分のマシンに入れる必要があります。


Stanford Research Institute's Network Information Center


「スタンフォード研究所 ネットワーク情報センター」の頭文字をとって、SRI-NIC と呼ばれます。



しかし、このやり方は、1980年代の初頭にはホスト名が数百件を超え、破綻気味でした。


そこで、ポール・モカペトリスが、ホスト名の分散管理を考案します。

Domain Name System …いわゆるDNSです。


1983年11月に構想の概要が公表されています。(RFC882,883)

1984年10月には、ドメイン名の名付け規則が決められます。(RFC920


1987年11月には、プロトコルなどの詳細などが決まって実装されます。(RFC1034,1035



SRI-NIC では、命名規則が決まった後の 1985年にはドメイン名の登録受付を始めています。

そして、現存している「一番最初の登録」が、1985年3月15日登録の、SYMBOLICS.COM なのです。




さて、話としてはこれでおしまい。

でも、折角なので SYMBOLICS.COM について書いておきましょう。



MIT にジョン・マッカーシーという計算機学者がいました。

人工知能の生みの親の一人であり、タイムシェアリングを普及させた人で、Lisp 言語の設計者です。


さて、Lisp という言語、非常にシンプル、かつ強力な処理構造を持ちます。

面白いので紹介したいところなのですが、長くなるのでそれはまたの機会にしましょう。


ここで重要なのは、Lisp は List Processor の略である、ということです。


List 構造は、プログラマーならご存知かもしれません。

1つのデータの塊に、次のデータの塊への「ポインタ」を用意し、次々繋げていくデータ形式です。

データを移動したい際に、実際のメモリ上から動かす必要はなく、ポインタのつなぎ変えだけで済む、という利点があります。


Lisp は List Processor なので、すべて…データだけでなく、プログラムもこの List 構造で作られています。


さらに詳細にいえば、Lisp では、ポインタのつなぎ方がすべて二進木になっています。

ポインタの2つ組みが非常に重要なのです。




さて、Lisp は非常に柔軟なデータ形式を持っているのですが、そのぶん処理は遅いです。


たとえば、Lisp では整数型と浮動小数点型の数値は区別はされていますが、問題なく加算できます。

これ、今の言語では当たり前ですが、当時としては画期的なこと。

代償として、加算の前に「型チェック」や、必要なら「型の変換」が必要になるので、速度が遅いです。


そこで、Lisp 処理に特化したコンピューターが、MIT で開発されました。

後に多くのメーカーがこの市場に参入し、一般に「Lisp マシン」と呼ばれます。


Lisp マシンでは、word を保持するのに必要なメモリよりも若干大きめのビット数を確保してあって、データと型を一緒に保持していたりします。(タグ付きアーキテクチャ)

これにより、ハードウェアが型チェック・変換をサポートし、速度の低下を抑えます。



先に書きましたが、List 処理では「ポインタ」の操作が非常に多いです。

Lisp マシンでは、型の一つとしてポインタを持っていて、データを読んだ時に「次のメモリ」を参照すると、自動的にポインタの示す先に進んだりもします。


アドレスの概念がハードウェア的に隠蔽されているのです。


#Lisp マシンは Lisp を効率よく実行できるようにはなっていますが、他の言語、例えばCだって動かせます。

 しかし、アドレスを持たないため、「ポインタ」概念は混乱があります




やっと今日の話に戻れます。

世界最古のドメイン、SYMBOLICS.COM を取得した Symbolics は、MIT で開発された Lisp マシンを商用で販売する会社です。


実際には MIT の研究所内で活動し、その代償として成果は MIT に無償提供されました。

つまるところ、商用販売するから組織を分けただけで、実体は MIT の人工知能研究所なのですね。


ちなみに、現在はこのドメインは売却され、ドメイン名管理会社が所有しています。

「最古のドメイン」を知らせるページが設置されていますが、その会社の宣伝を兼ねているのでしょうね。



ところで、Symbolics のキーボードは…なんというか、とても個性的です。


画像は、Retro Computing Societyから引用させてもらっています。

クリックすると別ウィンドウで同じ画像を開くので、細部まで拡大してご覧ください。


このキーボード、「Space Cadet Keyboard」と呼ばれます。


Cadet というのは「士官候補生」の意味。

このキーボードを使う君は、将来宇宙で活躍するヒーローの候補だ! ってことですかね。

SF映画に出てくる、すごい装置っぽさはあるよね。



キーボードには謎の記号がいっぱいついています。

∞⊂∀∂みたいな数学記号はまだいいとして、👍👎👈👉とかありますからね。


Shift や Ctrl に当たるような修飾キーにも、「SUPER」「HYPER」「GREEK」とか、いっぱいある。


注目すべきは「META」かな。これ、Emacs ユーザーなら知っている「METAキー」の本物です。

今のキーボードでは ESC で代用するのが普通だけど。



このキーボード、{ } …いわゆる「弓括弧」もある。

以前、弓括弧が使えた最初のマシンはどれか、という調査をやったのだけど、その時にこのキーボードを発見して「すごい!」って思いました。


リンク先に書いてあるけど、MIT の Lincoln Keybord も数学記号とか { } とか入れてあるんだよね。

Symbolics も、先に書いたように実態は MIT の人工知能研究室です。同じような記号が使えるのは、多分関係あるんじゃないかな。




ドメイン名を登録開始した 1985年中には、5つのドメインしか登録されていません。

2番目は bbn.com。これも MIT と関係の深い、初期のインターネットを形作った企業です。


続いて、think.com mcc.com dec.com …やっぱり、全部 MIT と関連のある企業。


5番目の northrop.com が、やっと関連のない企業(航空機製造業)です。

でも、空軍がらみの企業だよね。MIT って、空軍や航空業界ともつながりがあるので、やっぱその関係かも。



ドメイン登録は SRI の仕事でしたが、SRI 自体は 1986年になってから、7番目に登録しています。

6番目は Xerox 、8番目は Hewlett-Packard。1986年は、シリコンバレー企業が続々登録しています



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タネンバウム教授(1944) ストールマン(1953) 誕生日【日記 17/03/16】

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10年 V60 設計者にお会いした。

14年 さよなら遠足

15年 手相開発時の技術話(2)

15年 さよなら遠足


名前 内容

QV-10 発売日(1995)  2017-03-10 11:45:05  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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QV-10 発売日(1995)

今日は QV-10 の発売日(1995)

大ヒットし、「デジタルカメラ」を普及させた機械です。


写真は、QV-10 のマイナーバージョンアップ、QV-10A ね。

小さな改良があるのと、本体色が違います。

後で書くけど、初代も持っていたのだけど、壊れて今は 10A しか残ってない。



僕はいつも古いコンピューターの話ばかり書いているけど、今日は比較的新しい。

といっても 22年前の話だけど。(普段は 60年前とか…僕が生まれる前の話書いてるからね)




実のところ、QV-10 以前にも「電子カメラ」は存在しています。

ソニーのマビカが有名ですね。


これが市販された最初、ではないのですが、研究開発としてはソニーが最初(1981~)なので、製品としては人気が出ました。



マビカが発売された当時、僕は大学生で、 Oh!X という雑誌が愛読書でした。

ライターの一人(荻窪圭だったはず)がマビカを購入して、これがいかにパソコンと相性の良い、遊べる機械であるかを、楽しそうに書いてました。


マビカは電子カメラだけど、アナログ記録でした。

2inch フロッピーディスクにアナログで記録して、見るときにはオプションのアダプター経由でテレビに接続して見るのね。


X68000 はテレビと組み合わせて使うことを前提に設計されたパソコンで、オプションで「カラーイメージユニット」がありました。

テレビ画面をパソコンに取り込むための周辺機器。


だから、マビカとイメージユニットを組み合わせることで、撮影したものをそのまま X68000 で扱えます。

これが、パソコンと相性が良い、という理由でした。


…でも、イメージユニットは高価だったし(¥69,800)、マビカも本体だけでは使えず、テレビ信号を作り出すプレイバックアダプターなどを買うと10万円を超えます。


当時はまだ大学生だったので、楽しそうだと思う反面、とても手が出ませんでした。




1994 年には「世界初のデジカメ」である、Apple Quicktake 100 が発売されています。

…へー、そうだったんだ、ってくらいの話。


Mac の周辺機器として設定されていたので、Mac ユーザー以外には話題にならなかったみたい。

11万8,000円」という情報が得られたので、国内でも販売されたのでしょう。


640x480 ピクセルなら 8枚、320x240 ピクセルなら 32枚撮影できます。

ズームもない、フォーカスも固定、写真を見るにはパソコンが必要、という純粋な「画像を取り込むための周辺機器」でした。



…なぜか一時期持っていたのだよね。

たしか、ヤフオクで Mac の周辺機器探していたら、Quicktake 100 も付属したセットで出品されていたのではなかったかな。


そのころはすでにデジカメの普及機で、こんな低性能な機械に興味はなかったので、即刻売り払ったと思います。




そして QV-10 の発売。

¥65,000 だったようです。


320x240 の画像が、96枚撮影できます。

液晶ディスプレイがついていて、撮影したその場で写真を見ることもできたし、パソコン側から画像を送り込んで、ビューワーとしても使えました。


発売前から情報を知り、先に書いたマビカの話などもあって、「ぜひ欲しい」と思ってました。

この頃はスキャナも欲しかったのだけど、とにかく画像が取り込めるのだから、本の挿絵とか取り込みたいなら接写すれば何とかなるだろう、とも期待を込めて。


でも、正直なところ、値段も結構高いし、画質も悪い。

こんな変なものを買う人は少ないだろう…と、発売日に量販店に行くと「大人気であっという間に売り切れました」と店員さんに言われます。


驚きました。こんな変なものを欲しがる人が、僕以外にもたくさんいるんだ、って。

次の入荷はいつになるかわかりません、多分1か月くらい後です、と言われましたが、その場で予約して帰ります。


…2日後に、「入荷しました」という連絡が来ました。

ずいぶんと速いな。



#当然ですが、スキャナ代わりにはなりませんでした。

 スキャナは後で買った。




高校時代は写真部に在籍していました。かけもちの幽霊部員ですが。

一応文化祭の時には写真を出展していたし、暗室作業も一通りはやりました。


でも、写真ってたくさん撮らないとダメね。

上手な人は、躊躇せずにシャッターを押す。大量にとった中から厳選して、本当にいい写真を公開する。


もちろん、最初から構図を決める能力も必要ですよ。

どの写真も上手に取れていて、その中から厳選するのだから、人を感動させられるレベルの写真が生まれる。


でも、僕にはどちらもなかった。

構図を決める能力も、フィルムを湯水のように使う財力も。


#財力は、パソコンにつぎ込んでいたからだとも言えます。

 写真やる人が金持ちなわけではなく、配分の問題。



そんなわけで、「フィルムを使わないから気軽に録れる」「96枚も録れる」というのは、なかなか快適でした。

普段から QV-10 を持ち歩き、何か面白いものがあれば気軽に撮影します。


バスの時刻表とか、メモしたいものを気軽にパシャリ。

今では当たり前ですが、フィルムカメラの頃には考えられない使い方でした。



QV-10 はフラッシュなんかついていませんでしたが、暗がりに強く、夜の街灯の下でも撮影できました。


電池食いではありましたね。

その上、電圧が足りないから充電池は使えない。




液晶の付いた本体部分とカメラ部分の角度が変えられる…カメラ部分が「回る」ことに関しては、今だと「独創的だった」とする解説が多いのですが、「液晶ビューカムの真似」というのが当時の率直な感想。


デジタルカメラに液晶を付けたのは世界初だったし、それによって気軽さが強調され、大ヒットしたのは事実です。

今のデジカメの方向性を示したのは、Apple Quicktake100 ではなく、QV-10 とされるのもそのため。


だけど、ビデオカメラで「液晶ビューカム」という機種をシャープが 1992年に発売していて、QV-10 と形がそっくりです。

QV-10 は安くするために、普及していたビデオカメラ用 CCD を使用した、というのも相まって「動画の撮れない、小さな液晶ビューカム」だと思っていました。



真似が悪いというのではないよ。

この「カメラ部分に角度がつけられる」というのは非常に便利で、QV-10 の後に続いたデジカメブームでは真似した会社も多かったし、むしろこの機能がついていない、普通のカメラのような形状だと不便だと感じていた。



ところで、ビデオカメラ用 CCD は、NTSC ですからデジタルに換算すると 640x480 程度の画像を撮影できます。

でも、縦方向はインターレース…奇数ラインと偶数ラインを交互に読む仕組みです。


だから、縦 480 で撮影すると、奇数ラインと偶数ラインの間に 1/60秒のずれが生じてします。

「静止画」としては、妙なことになってしまうのです。


これが、QV-10 が 320x240 で撮影する理由。

記憶容量を節約する意味ももちろんあるのだけど、安くするために「仕方ない」理由があるのです。



このWEBサイトは 1996年に作り始めていますが、初期の写真は QV-10 で撮影されています。

当時のインターネットは回線速度も遅く、320x240 でも「大きすぎる」くらいだったので、十分な性能でした。


でも、QV-10 だと料理中の写真撮りにくいのね。

赤外線フィルタが不十分で、熱い部分が「緑色」になってしまうの。



いろいろと欠点もあったけど、欠点を補って余りある楽しさもありました。




QV-10 がヒットすると、カメラ会社からもっと本格的なデジカメが発売され始めました。

デジカメの黎明期ですね。


カメラ会社としては、ちゃんとした「写真」を撮れないといけない。

最低 640x480 以上の画質にしたいのですが、そのためには CCD から専用品を設計しないといけない。


当然高価になります。

高画質にするためには、ピクセル数を増やす必要もありますが、それは「1ピクセルの面積」を減らすことでもあります。


そうすると、暗がりに弱くなる。

フラッシュを搭載しても、気軽な撮影は難しくなります。



何よりも、慌てて QV-10 の後を追ったカメラは、搭載しているソフトウェアがこなれていないものが多く、使いにくい印象でした。


僕も QV-10 のしばらく後に「もっといいカメラを」と思って DC-3 とか買いましたけど、使いにくかった。

暗いと撮れないし、撮影後にすぐ電源を切ると、画像が保存されていないことがある。

(電源はソフトウェア制御しているはずなのに、「データ保存」よりも「電源処理」を優先してしまっている)



そのころ、まだ結婚する前の妻から「デジカメ買いたい」と相談を持ち掛けられ、QV-10 を勧めました。

主な想定用途は WEB サイト作成だったから画質は十分だったし、何よりもそのころには安くなっていたから。


これが、冒頭画像の QV-10A です。

僕の QV-10 は、使い込みすぎて壊れてしまって捨てたのだけど、妻の QV-10A はまだ残っています。




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BSD 初リリース日 (1978)  2017-03-09 15:30:18  コンピュータ 今日は何の日

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今日は BSD 初リリースの日(1978)


UNIX は、AT&T ベル研究所で作成されました。

別に商品として作られたわけではなく、ケン・トンプソンが「ゲームを遊びたい」という素敵な理由で作り始めた、趣味のシステムです。


でも、ベル研究所は「研究所」だけあって優れた人材が集まっていました。

仲間が寄ってたかって UNIX を改良し、優れた OS へと育ちます。


当初 PDP-7 でアセンブラで作られれていた UNIX は、PDP-11 に移植され、新たな言語「C」ですべてを書き直されます。

これにより、OS自体の構造も他の人に判り易くなりました。


この頃になると、ベル研究所も UNIX の商品価値に気付き始めたみたい。

でも、AT&T はあまりに巨大企業で、独占禁止法により本来の業務…電話以外の商売を禁じられていました。


だから、UNIX は「無償」で、ソースコードが大学などの研究機関に配布されます。

OSの研究用、という名目でした。


特に、カリフォルニア大学バークレー校では、UNIX の生みの親であるケン・トンプソンが直接出向いて講義を行うなど、積極的に UNIX を導入しました。




バークレー校に、ビル・ジョイという学生がいました。


彼は UNIX を積極的に改良し、オリジナルにはなかった各種機能を追加します。

そして、ある程度改良が溜まった時点で、これらをまとめて公開しました。


オリジナルに対するパッチ集です。そのため、使用するにはオリジナルが必要です。

しかし、これが「バークレイ・ソフトウェア・ディストリビューション」(Berkeley Software Distribution)、略してBSDです。


1978年の3月9日に配布された first BSD (1BSD) では、Pascal コンパイラと、ex エディタが含まれています。


この ex エディタ、以前に書いています

UNIX の標準エディタだった ed を改良して、豊富な機能を持たせたものです。


特筆すべきは、ビデオテレタイプ…ブラウン管を使用した端末用に、「ビジュアルモード」を持っていたこと。


通常の「ラインエディタ」モードなら、テレタイプでも使用できます。

ビジュアルモードはビデオテレタイプでしか使えませんが、前後の行を同時に参照しながらファイル編集が行え、しかも編集位置を示すカーソルを、自由に動かすことができるのです。


…いわゆるスクリーンエディタ、今我々が「エディタ」と呼んでいるものの元祖ですね。


このモードは、起動後に切り替えることもできましたが、コマンドファイルの名前を変え(シンボリックリンクを作ればいい)、起動時からビジュアルモードにすることもできました。


ビジュアルモードの際は、コマンドを vi とします。Visual の先頭2文字です。




BSD はその後も版を重ね、便利になっていきます。

UNIX に初めて「仮想記憶」を取り入れたのは、3BSD。

UNIX はすべてを「ファイル」として統一しようという思想があるのですが、ネットワークすらも「ファイル」の一つにしてしまったのが 4.2BSD 。


BSD は本家 AT&T の UNIX を超え、広く使われ始めていました。

しかし、BSD は AT&T UNIX の派生品であり、AT&T のライセンスを受けたものしか使用できませんでした。


この不便を無くすため、AT&T 由来のコードが徹底的に排除されていきます。

1989 年には、4.3BSD Net/1 として、完全ライセンスフリーな BSD が作成されています。



こうした改良には DARPA も資金を提供し、バークレー校だけではなく、多くの大学から専門家が協力しています。

4.2BSD には、マスコットキャラも用意されました。




しかし、BSD が改良を続ける間にも、AT&T は「独占禁止法」により解体され、分社化しました。


分社化した AT&T は、もう大企業ではなく、「電話事業のみ」の縛りも無くなりました。

UNIX を商品化しようとする AT&T と BSD の間に訴訟が起こります(1992~1994)。


結局、この訴訟では UNIX の商標権が AT&T にあることが認められ、BSD は「UNIX」という名前を捨てます。

これ以前、BSD は「BSD UNIX」と呼ばれていたのですが、以降は単に BSD となります。



AT&T の UNIX … System V は、この間にも着々と「標準化」を進めていました。

ヒューレットパッカード、IBM、SCO、NEC、アップル、そして Sun など、多くのメーカーが「System V 準拠」の UNIX を作っていました。


特に Sun の System V 陣営への参加は決定的でした。

Sun は、もともと最初の BSD を作った学生たちが起業した会社で、BSD を搭載したワークステーションを作り続けてきた会社です。


その Sun が技術協力することで、 SystemV には BSD 由来の機能も数多く搭載され、それまでの「本家対元祖」のような戦いに終止符が打たれるのです。




1990年前後は、上に書いたように System V 対 BSD という構図が見られたのですが、90年代後半に入って Linux が勢力を持ち始めると、この構図も有耶無耶になってしまいました。


2大勢力がいがみ合っている間に、横からきて人気をかっさらう…漁夫の利の構図ですね。


でも、実際 Linux は、System V 互換を目指して開発が始まりながらも、最終的には両者のいいとこどり。

趣味で初めてプライドなんてなかったから、節操はないけど使いやすい実装を行いました。


BSD と System V がそれぞれのプライドで互換性が悪かったころには、これがウケた。



今でも、BSD の流れを汲む PC BSD はあります。


FreeBSD、NetBSD、OpenBSD が主な勢力だったのだけど、今では「Mac OS X」が一大勢力かな。

あまり、これを BSD だと思っている人いないのだけど。




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ラルフ・ベア 誕生日(1922)  2017-03-08 11:21:07  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日はラルフ・ベアの誕生日(1922)


世界最初のテレビゲーム機を作った人です。


もっとも、テレビゲームはそれ以前からありました。

当時は非常に高価だったコンピューターで、一部の大学生とか技術者が遊んでいた。


でも、ラルフはそういう立場にはいませんでした。

全く独自に、「テレビの使い道は、テレビ番組を見るだけではないのではないか」と思いついただけ。

だから、彼のアイディア自体は物真似ではありません。



試作品である BROWN BOX を作ったのは 1968年。

ゲーム専用に特化された機械で、「世界初のテレビゲーム機」です。

「テレビゲーム」という言葉自体、BROWN BOX の特許を取る際に作られた言葉なのだから。


この後、コンピューター上のテレビゲーム「SPACE WAR!」を見たことのあるノーラン・ブッシュネルが、安価な専用回路を組んで「COMPUTER SPACE」を発表します(1971)。

これが、発売されたものとして、また、業務用として初のテレビゲーム機。

でも、ちっとも売れませんでした。



ラルフは、BROWN BOX を改良・量産し、ODDYSSEY として発売します(1972)。

家庭用として発売された、初のテレビゲーム機。


しかし、新しいものというのは理解されるのに時間がかかります。

発売時にはあまり売れなかったようです。

とはいえ、最終的には 35万台を売る大ヒット。



ノーラン・ブッシュネルは、この ODDYSSEY の中の1ゲームをみて、業務用に改良し、PONG として発売します(1972/11/29)。


これが空前絶後の大ヒット。

ブッシュネル自身の作った ATARI 社で売ったものだけで1万台。

違法コピー基盤も含めれば、10万台を超えると言います。


…家庭用の 35万台と比較してはいけないよ。業務用は、1台のゲーム機で数百人から数千人が遊ぶのだから。

遊んだ人の数でいえば、ODDYSSEY の比じゃない、ということ。


実のところ、先に書いたように ODDYSSEY は最初から売れていたわけではありません。

PONG を遊んだ人が「家庭でも似たゲームが遊べるから」という理由で ODDYSSEY を買い始め、結果としてヒットになったのです。



世界的には「テレビゲーム」ではなく、「ビデオゲーム」と呼ばれることも多いです。

ビデオゲームという言葉は、PONG の宣伝文句として考え出されたものです。




以上の話は、以前に書いた世界初のテレビゲームPONG発売日を再度まとめたもの。


ラルフは、テレビゲームを見たこともないのに全く独自に面白いものを作り出した…

というわけではなく、彼はゲームを見たことがないが、彼の下で働いた技術者がゲームを知っていたようです。

この話は、ラルフ氏の亡くなられた際に書いた追悼文に書きました。




今回は、ODDYSSEY 以降の彼の最大のヒット作、サイモン(1978)について書きましょう。


ラルフ氏は ODDYSSEY の発明以降、「発明家」として転身しましたが、テレビゲームよりも、むしろ手に取って遊べる「おもちゃ」を作るのが好きだったようです。


サイモンは、単純明快で面白いので、当時大ヒットしましたし、その後もシリーズ作が続きます。



上の動画が、オリジナルの機械。

これに似た機械を見たことがあるとか、機械は知らないけど同じようなゲームを知っているとか、みんな何かしら覚えがあるはず。


動画を見てもらえば遊び方は一目瞭然ですが、記憶ゲームです。

機械が指示したとおりにボタンを押す。ただそれだけ。


最初は指示は短いのですが、成功すれば「前の指示に追加」される形で長くなっていきます。

だから、一度は覚えて成功したはずのものを、何度も繰り返し入れないといけない。


何度も入れてわかっていたはずの場所で間違えると、妙な悔しさがあります。

つい「もう一回」となってしまう中毒ゲーム。



このゲーム、優れているのは、攻略法がいくつもあることです。


指示は「押すボタン」のランプを連続して点灯することで行われます。

しかし、ボタンには色がついていて、光ると同時に固有の音階が出ます。


このため、「位置」「色」「音」の3つが、同じ指示を出していることになるのです。


最初は一生懸命ボタンそのもの(つまりは位置)を覚えようとするのだけど、慣れてくると色の連続として覚えたり、目をつむって音に集中したりもする。


不要な情報を遮断して集中することで、むしろ記憶しやすくなるのです。

そして、どの情報が不要になるかが、人によって異なります。


ボタンが4つしかないのもいい。

単純だからこそ覚えやすいですし、失敗した時の悔しさに繋がります。




ところで、1970年代末期に「サイモン」といえば、まだ外国人の名前に慣れていない日本人にとっては、サイモン&ガーファンクルでした。

(サイモン&ガーファンクルは 1960年代に世界的に大ヒットした音楽ユニット)


で、昔 X68000 用に、「ガーファンクル」ってゲームがあった。

まるっきりサイモンなんだけど。電脳倶楽部の創刊号に入ってました。



X68000 では、キーボードの7つのキーに、LED が埋め込まれていたのね。

それなりのプログラムを組めば、当たり前だけど点灯を制御できた。


この LED キーを使って「サイモン」を遊ぶ、というアイディアでした。


だから、PC ゲームなのに画面を使わない。キーボードだけで完結している。

単純なのだけど、ゲームなのに画面を使わない、というアイディアに驚いた覚えがあります。




「サイモン」という名前は、欧米の子供の遊び「Simon says」から来ているそうです。

Simon は、13世紀のイギリスの英雄、Simon de Montfort のこと。


日本で言うと「赤白旗揚げゲーム」が近いかな。


Simon says ~ と言われたら、これは英雄の命令ですから、従わなくてはなりません。

でも、命令の前に Simon says がついていない場合は、偽の命令なので従ってはならない。


サイモンは言う、回れ右! サイモンは言う、腕を上げよ しゃがめ!


この例では、最後の「しゃがめ」は偽命令なので、従ってはなりません。

みんなでこの遊びをやって、正しい動作ができてない人は脱落、最後まで残った人が勝ち、という遊び。



単純な遊びなので亜流もいっぱいあって、「やれ!」と言われるまで、命令を覚えるだけで動いてはいけない、というのもあったみたい。

だから、命令の真偽を判別する上に、覚えておかなくてはならない。


ここら辺が、記憶ゲームを「サイモン」と命名した由来なのかな、と思います。




今でもサイモンは人気があって、時々シリーズの新作が発売されます。


先日、お店に置いてあった「サイモンエア」を遊びました。

子供が興味を持ったのだけど遊び方がわからなくて、僕が説明しながらプレイして見せたのね。


基本的にサイモンですが、ボタンが無くて空中に手をかざすだけでいい、という不思議感覚おもちゃ。


内容はやっぱりサイモンでした。単純明快な良さがある。

遊ぶ前は「古いゲーム」と思ってたのですが、今遊んでも十分面白いです。



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スティーブン・クーンズ 誕生日(1912)  2017-03-07 09:22:57  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、スティーブン・アンソン・クーンズの誕生日(1912)。


3Dコンピューターグラフィックスの基礎を作った人です。

今では、CG技術に貢献した人に贈られる「スティーブン・A・クーンズ賞」に名前を残しています。

(CG界のノーベル賞、と呼ばれる、権威ある賞です)



元々、CGを研究していたわけではないのです。

第二次世界大戦中、航空機の設計に携わった経験から、「3Dの自由な曲面を数式で定義する方法」を研究していただけで。


しかし、その「3D曲面」こそ、多くの人を悩ませていた難問だったのです。

1967年、クーンズ教授はついに「クーンズ・パッチ」と呼ばれるアルゴリズムを完成し、3D曲面の定義ができるようになります。



ただ、ちょっと扱いにくいところがありました。

後にクーンズパッチを改良し、「NURBS」と呼ばれるアルゴリズムが完成します。


現在、多くの3DCGで使用されている、曲面の定義方法です。




クーンズ・パッチや NURBS が開発される以前は、細かな板や、円筒・球などの単純な図形を組み合わせることで曲面を定義していました。

でも、この方法は手間がかかりすぎて、複雑な形状を作れないのね。



NURBS が完成した今でも、ゲームなどに使われる「ポリゴンモデル」は、板の組み合わせでできています。

曲面に見える部分も、十分に細かな板を組み合わせて、それらしくみせているだけ。


これは、NURBS が計算に時間がかかりすぎて、ゲームなどには使いづらいため。

でも、「ポリゴンモデル」を作成する現場では NURBS で作成されていて、最後に自動的に板に分割させているのです。




話はちょっと変わります。


CGは、アイバン・サザーランドが始めたものです。


彼は、TX-2 コンピューターを使い、「コンピューターで絵を描く方法」を研究しました(スケッチパッド:1963)。

ライトペンを使って直接画面に絵を描けるのですが、単にお絵かきではなく、論理的に絵を作り出し、最終的には「ページ記述プログラム」を生成します。


これ、現在の Illustrator なんかの基礎になった概念です。

偶然ではなく、Illustrator の開発者は、サザーランドの教え子です。



そして、サザーランドは、クーンズ教授の教え子です。


クーンズ教授は複雑な曲面を持つ航空機の設計などを研究していましたが、サザーランドは、設計図を描き出すためのプロッタプリンタを制御するためのデータ(先に書いた、「ページ記述プログラム」)を生成するツールとして、スケッチパッドを作っているのです。


CGを始めたのはサザーランドですが、それもクーンズ教授の影響があってのことでした。



CGの始まりに影響を与え、そこで出てきた「自由な形状が定義できない」という問題を見事に解決した。


クーンズ教授の名を冠した賞が最高の栄誉として作られているのは、このような理由によります。



クーンズ賞の第1回受賞者は、サザーランドでした。

第2回は、「自由曲面」の基礎概念となる自由曲線…いわゆる「ベジェ曲線」を開発した、ピエール・ベジェでした。




興味を持った方は、以前に書いた記事「自由曲面実現の歴史」もお読みください。



「数式で形を自由に定義する」というのが、茨の道であったことがわかります。



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アダム・オズボーン 誕生日(1939)  2017-03-06 15:42:04  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、アダム・オズボーンの誕生日(1939)


オズボーン1(1981/4)を作った人です。

知らない? 知りませんね。僕も名前くらいしか聞いたことない。


基本的には欧米でしか発売されていないのだもの。




世界初の「ポータブルPC」です。


一応、ポケコンは、シャープの PC-1210が 1980年に出ているようです。

でも、BASIC が使えるプログラミング電卓、といった趣で、仕事につかえる「PC」ではありません。


オズボーン1は、当時の人気 OS である CP/M や、ワープロ・表計算・データベースなどが使える、立派な PC でした。



一応、オズボーン1以前にも「ポータブルPC」は存在しています。

世界初、というのは、商業的に成功した世界初、という意味合い。


オズボーン1の元となったのは、Xerox NoteTaker。

Xerox の PARC(パロアルト・リサーチセンター)で、1978年に10台だけ作られた「研究用」です。


パロアルトと言えば、アラン・ケイ。

「ダイナブック」という、未来にあるべきコンピューターの姿を構想した人です。


コンピューターが、高価で、重たく、テキスト処理が中心だった時代に、ダイナブックは


・子供が持てるほど軽く、薄い

・子供に与えても良いくらい安価

・グラフィック処理が中心


と言った、先進的な姿を描いていました。



この構想に基づいて、Alto というコンピューターが作られたのは有名です。

Alto 上で動作した Smalltalk という環境は、子供でもプログラムが作れるような、グラフィカルで扱いやすいものでした。

これが、後に Macintosh や Windows に発展していきます。



そしてもう一つ、持ち歩けるほど軽いコンピューターがあれば何ができるか、という研究もおこなわれました。

それが、NotetTaker 。名前の通り、ノートのように使えるコンピューターです。



CPU は 16bit の 8086。

これ、1978年のマシンですよ。日本では TK-80 が 8080 で動いていた時代。

その時代に、すでに 8086を採用しているのです。


メモリは 256Kbyte 。当時、AppleII の標準メモリは 4Kbyte です。

フロッピーディスクと、たった 7inch とはいえ、タッチセンサー付きのディスプレイを備えています。

バッテリーを備え、どこでも使うことができます。


そして、SmallTalk が動きました。ダイナブックの実験ですから。



…これ、「持ち運べる」とはいっても、気軽ではありません。

当時のバッテリーって、鉛蓄電池しかないからね。22Kg もあったそうです。


試作品なので値段は付いていませんが、プロジェクトの費用などから見積もると、1台5万ドルに相当するそうです。


AppleII は、当時 1298ドルで販売されていました。




オズボーン1は、NoteTaker の影響下で作られたマシンでした。

ただし、商業的に採算に合うように、大幅に簡略化されています。


重たい蓄電池はなくしています。だから、持ち運べるとは言っても、使う際にはコンセントが必要です。

ディスプレイも、大きいと重たくなるので、5インチになっています。タッチセンサーは無し。


#当時のディスプレイはブラウン管…中が真空のガラス管です。

 大きくすると、空気圧に耐えるためガラスを厚くする必要があり、単に大きくする以上に重たくなりました。


こうした割りきりで、重さは 10.7Kg に抑えられています。


CPU は Z80。メモリは 64Kbyte 。フロッピーディスクは2基あります。


見た目は、NoteTaker にそっくり。

でも、値段は 1795ドルで、この値段の中にワープロ・表計算・ゲームなど、多数のソフトが含まれていました。


当時、AppleII plus は 1195ドル。ただしメモリは 16Kbyte で、本体のみです。


まともに使うには、別途ディスプレイも必要だし、ディスクドライブも必要。

メモリを 64K に拡張して…と、全部そろえると4千ドルくらいになったようです。

さらにソフトは別売り。


オズボーン1は大人気になりました。

発売すると、1ヵ月で1万台、100万ドルを売り上げたそうです。




しかし、オズボーン社にはそれほどの生産能力がありませんでした。

当初の予想では、数年かけて1万台売れればよい、と考えていたのですから…


結局、8ヵ月で実際にお客さんの手に渡ったのが、1万1千台。

この時点で、まだ5万台の予約が入っていたといいます。



…なんかどこかで聞いた話ですね。

そう、Altair 8800とそっくりです。


そして、この後の展開もそっくり。

互換機が発売されるのです。


1982年発売の、KayproII。

ほぼ互換機なのですが、ディスプレイは 9inch に改良されており、それに伴い表示桁数も増えています。


#当然重くなっていたそうです。

 しかし、オズボーン1の人気は、「持ち運べる」ことよりも、「オールイン1パッケージで安い」ことでした。



同じ買うのなら性能がよくて、すぐ手に入るほうを…オズボーンの潜在顧客は、KayproII に徐々に奪われていきます。



もうひとつ、IBM は 1981年の8月…オズボーン1の発売から4か月後に、IBM PC を発売しています。

こちらも強力なライバルでした。




オズボーン社は後継機の開発を急ぎます。

そして、試作機ができた段階で…まだ量産機の発売日程などが決まらないうちに、発表を行います。


他社に対する牽制でした。話題を作って他社の機械を買おうとしている人たちを繋ぎとめようというのです。


しかし、これは逆効果でした。

オズボーン1を買おうとしている人達すら、新マシンを待とうとして、売り上げが激減してしまったのです。


発売された新マシンは IBM-PC と闘えるくらい高性能でしたが、値段も高いものでした。

思ったほど人気が出ません。


そこで、KyproII にターゲットを絞った「次のマシン」の開発に入りますが、こちらでも同じように速すぎる発表により、買い控えを起こしてしまいます。


結果、1981年に登場した「オズボーンコンピューター」は、1983年の9月に倒産します。




決して人気が無かったわけではありません。


人気があるにもかかわらず、近いうちにもっといいものが出ると消費者が期待し、買い控えが起こる…

当時の経済学では想定していなかった現象でした。


今では、この失敗にならって「オズボーン効果」と名付けられています。


#「発表による買い控えで売り上げ悪化して倒産」は都市伝説だそうです。

 本当の理由は、もっとずっと後でわかっている。

 でも、倒産まで行かずとも売り上げが落ちたのは事実だし、当時は本当の理由がわからなかったため、今でもオズボーン効果と呼ばれます。



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レイ・トムリンソン 命日 (2016)  2017-03-05 15:06:17  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、レイ・トムリンソンの命日(2016)

昨年亡くなったので、1周忌です。


インターネット初期の…というか、インターネットを形作ったプログラマーの一人です。

まだ「ネットワーク」で何ができるかわからなかった頃、ネットワークを使って「いろんなものを送る」実験をしているのね。


ネットワークは、当然のことながら「文字」を送れるように設計されました。


それ以前から、テレタイプを電話線越しにコンピューターに接続して使う、というようなことは出来ました。

これでできることは、文字を送るだけ。だから、最初のコンピューターネットワークも、同じようなことができるように設計されたのです。


でも、彼はそのネットワークで「ファイル」を送る方法を作り出しました。

そして、文字を送るプログラムに、ファイルを送るプログラムを組み込み、「相手がいない時でも、相手に送った文字メッセージをファイルとして残す」プトグラムを作り上げます。



当初は非常に簡単な仕組みだったのですが、便利で多くの人に使われたため、彼自身がさらに便利にするための使用を策定しています。

この策定段階では紆余曲折あるのですが、最終的に完成したのが RFC 821 。「SMTP」です。


現在の電子メールの、一番最初の仕様です。




彼の同僚は、ネットワークで「プログラム」を送る方法を作り出しました。


単にプログラムの「ファイル」を送り付けるのではないよ。

そんなことは、彼の作った「ファイルを送るプログラム」でできるのだから。


そうではなくて、マシンAで動いていたプログラムが、マシンBに移動して動作を続けるのです。



レイ・トムリンソンは、このプログラムに「いたずら」を加え、「移動」の部分を「コピー」にしました。

プログラムは、マシンAとBの両方で動き続けます。


コンピューターからコンピューターへと「感染」しながら増殖するプログラム…世界最初の「コンピューターウィルス」でした。

彼は、このプログラムを除去するための、いわゆる「ワクチン」も同時に作成しています。




以上の話、詳細は以前に書いた誕生日記事をご覧ください。



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今日は、ロジェ・カイヨワの誕生日(1913)


フランスの思想家・哲学者です。

実のところ、僕はよく知りません。


よく知らないけど、彼の本を一冊だけ持っている。ずいぶん前に読んで、内容をちゃんと覚えてないけど。

「ゲーム」を作る立場なら、この本を読んでおく必要はあるだろう、と思ったのです。


「遊びと人間」

彼の一番有名な著書です。




キリスト教社会において、怠惰は罪でした。

何の生産性もない「遊び」に興じることもまた、怠惰なことであり、罪です。


そのため、長い間遊びについて研究されることはありませんでした。

「遊び」そのものは、どんなに禁止しようとも一向に無くならないのに。



一石を投じたのは、オランダの文化史家、ヨハン・ホイジンガでした。

彼は著書、「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人、という意味の造語)の中で、歴史的に見て遊びこそが文化のすべてを生み出してきたのだ、と主張します。(1938)



当時としては新しい考え方でしたが、今では認められています。

「生産性のある仕事」を突き詰めて考えると、つまりは「生きていくために最低限必要なこと」であり、それだけでは文化は生まれません。


文化というのは、衣食足りて生活に余裕が生まれ、「遊び」始めたから生まれたものです。

そして、文化を持つことこそが、人間の、もっとも人間らしい部分なのです。



ただ、彼も旧来の価値観から完全に脱却したわけではない。

ギャンブルは悪いことだ、という概念にとらわれており、ギャンブル性のある、言い換えれば運の要素のある遊びを「低俗で悪いもの」、チェスのような運の要素のないものを「高尚で良いもの」としています。




カイヨワは、この主張を受け、さらに研究を進めました。

遊びが文化を形作ったとして、人間はなぜ「遊び」に惹かれるのか。


ここで彼は、多くの遊びを蒐集し、似た要素を持つものを分類します。


そして、「カイヨワの遊びの4要素」と呼ばれる体系を作り出すのです。


遊びは、以下の要素に分類されます。


競争 (Agon:アゴン)

偶然 (Alea:アレア)

模倣 (Mimicry:ミミクリー)

眩暈 (Ilinx:イリンクス)


後で詳細に説明しますが、「偶然」とは運の要素を持ったゲームのこと。

ホイジンガが「低俗な遊び」と否定したものを、カイヨワはむしろ遊びの本質だと考えたのです。



また、この4要素とは別に、遊びは2つの極性を持ちます。


即興と歓喜 (Paidia:パイディア)

規約と従属 (Ludus:ルドゥス)



4要素と2極性の組み合わせで、8つのカテゴリが出来上がります。




先に極性から説明しましょう。


即興と歓喜は、ルールが明確に決まっていない遊び。その場で「面白いからそうしよう」というように、どんどんルールが変わります。

ここで何よりも大切なのは「楽しいこと」。楽しいから遊ぶのです。


先日、早口言葉について書きました。


早口言葉って、何をもって「早口言葉」とするのかのルールもない。

そちらの記事では、最後の方「早口言葉ではない」と明記しながらも類似する言葉を出したりしていましたが、境界は曖昧です。


でも、いいんです。楽しければ。

遊びって本来そういうものですから。



それに対し、規約と従属は、ルールが定まった遊び。


「ゲーム」と呼ばれるの物は、普通これです。

ルールの中で成功条件も失敗条件もあり、成功を目指して頑張る。


楽しいから遊ぶ、はずなのに、ここでは好き勝手は許されません。

場合によっては、遊びなのに「楽しくない」ことにもなる。


しかし、好き勝手が許されないからこそ、全員が公平な立場に立てます。

遊びの種類によっては、これは非常に重要なことです。



この二つは「極性」にすぎず、間に無段階なグラデーションがあることに注意してください。


例えば、UNO 。有名なカードゲームです。

購入するとルールブックが付いてきます。


でも、誰もルール守らないんだよね。独自のローカルルールで遊んでる。そのほうが楽しいから。

とはいえ、ゲームの前にプレイヤーで示し合わせて、各自の考えるルールの「すり合わせ」は行うでしょう。


公式ルールではないものを、その場の即興で決めはするが、1回のゲーム中ではルールを固定して動かさない。

全体としては「規約と従属」側の遊びですが、比較的柔軟な例です。




では、4要素。

これらも「要素」であり、多くの遊びは要素の組み合わせでできていることに注意してください。



競争は、順位をつけられることを前提に、1位を目指す遊びです。


徒競走だって、テストの順位だって、スイカの種とばしだっていい。

誰かと比べて「勝った」とか思った瞬間、競争という遊びを感じているのです。


徒競走は普通厳密にルールを定めますが、スイカの種とばしは突発的に始まるものでしょう。

このそれぞれが「規約」と「即興」の極性になります。



偶然は運を楽しむ遊び。


ホイジンガは、運の絡むゲームはギャンブルであり、悪い遊びだと否定しました。

しかし、カイヨワは、偶然を遊びの重要な要素だとして、むしろギャンブルを肯定しています。


偶然の要素は、例えばサイコロを転がす。辞書を適当に開き、載っていた言葉でお話を作ってみる。雲を見て「クジラみたいに見える」と笑う。


サイコロを転がしただけでは面白くありませんが、先の「競争」と組み合わせ、大きな数を出したほうが勝ち、とかで競えば楽しくなります。これは「規約」。


雲の形をなにかに見立てて遊ぶ、なんていうのは何のルールもありません。

それでも、親しい人とやっていると案外楽しいもの。これは「即興」の極性です。



模倣は、何かを真似る遊びです。


シミュレーションゲームや R.P.G. は、言うまでもなく模倣です。

子供のごっこ遊び。物語を本で読み、主人公の気分に同化すること。砂のお城を作ること。


テレビゲームでも、ストーリー性を感じるのであれば「模倣」しているのです。

ピンボールゲームにすら、ストーリーが設定されている。(好きな人しか判らないかもしれませんが)


例を挙げるときりがありません。

模倣の要素が入っていない遊びのほうがむしろ少ないんじゃないか、とさえ思います。



テレビドラマを見た後に、ふと自分が主人公の立場だったらどうするだろう、と考えてしまう。

こうした瞬間、結構楽しいものです。「模倣」の遊びで、「即興」の極性です。


「電車でGO!」というテレビゲームがあります。

電車の運転士になる…いわば「電車ごっこ」なのだけど、時刻表を守って駅の間を運行しないといけない。

一切の自由は許されず、正確な操作だけが求められます。


非常に窮屈なのだけど、これもまた楽しい。「規約」の極性です。



眩暈…「めまい」と読みます。

これが一番説明しづらいのだけど、僕は遊びで一番重要な要素だと思っています。


「何が何だかわからない楽しさを感じること」だとも言えます。


よく例に出されるのは、ジェットコースター。何が何だかわからないけど、楽しい。

これ、「身体的眩暈」とも言われます。


子供がぐるぐる回って、本当の眩暈を起こして「たのしー」ってなっているのとか、まさにこれ。



でも、遊びとしては「精神的眩暈」のほうが効果的に使われるように思います。


先日早口言葉を書いたときに挙げた例ですが


「裏庭には2羽 庭には2羽 鶏がいる」


「にわ」という音の連続ですが、この音が「庭」だったり「2羽」だったり、接続詞の「には」だったり、「鶏」だったりする。


同じ音の連続なのに目まぐるしく意味が変わる。これを面白いと感じるとき、精神的な眩暈を起こしています。



ジェットコースターは、乗ったら受け身でいるしかない。「規約」の極性。

弾幕シューティングとかで、考えるより先に体が動くような、精神的にハイになっている状態も「眩暈」で、これもルールに従って動いているので「規約」の極性。


早口言葉…は例として適切でないのだけど、会話の途中にとっさに挟まれる言葉遊びなんかは、「即興」の極性かと思います。




さて、一通り説明し終わったところで、僕の思うところをつらつらと。

思ったことを書くだけの、ただのポエムです。



遊びの4要素は大学生の頃に知って、ゲーム会社でゲームを作っている時には何度も考えることがありました。


テレビゲームに限定して考えても、ゲームごとに4要素の配分はかなり違うのね。

絶妙な配分にされるとやっぱり面白いし、悪くないのに面白くないゲームなんかを見た際には、配分を分析してみると理由が見えてきたりする。



「遊び」というのは自由なものですが、「ゲーム」というのはルールの中で競うもの。

この時点で「競争」の要素は欠かせません。


純粋なパズルゲームには、「偶然」も「模倣」も「眩暈」もないけど、制作者との知恵比べはある。

だから、競争だけでもゲームは成り立ちます。


#本当によくできたパズルは、解決方法が巧妙に隠されていて、見つけた瞬間に、自分の想像を超えた巧妙さに眩暈を感じられたりもしますが。



ミニゲーム集ってあります。

任天堂の「メイドインワリオ」シリーズとか。古くは、セガの「タントアール」。


あれ、1つ1つのゲームは大して面白くない。でも、連続してどんどんやらされると、妙に面白くなる。


ゲーム内容が詳しい説明もないまま切り替えられて、即座にルールを把握して対応していくことに対して「眩暈」を起こしているのですね。


テトリスとかコラムス、落ち物パズルなんかも、だんだん速度が速くなることで、自分が何をやっているのかわからなくなる。

自分の理解を超えたところで勝手に連鎖とかおきはじめると、うれしい反面何が起きているのか理解できません。

強い眩暈により楽しませるタイプのゲームなのですね。



偶然の要素は大切です。

何回も遊ぶテレビゲームでは、何度遊んでも同じ、だとすぐに飽きてしまうから。


だけど、運の善し悪しだけで結果が決まってしまうゲームはつまらない。

「偶然」と言いながらも、プレイヤーの腕前次第で運の要素を小さくできるものが望ましいです。


インベーダーゲームの UFO は、「ランダムな点数」と言いつつ、規則がありました。

この規則を理解した人は、常に UFO で最高得点を取ることができました。


落ち物パズルなんかでも、落ちてくるブロックはランダムでも、それをどう積み上げるかはプレイヤー次第。

多くのテレビゲームがこうした構造を持っていると思います。



模倣は、テレビゲームでは実は使いどころが難しい概念。


ブロック崩しにだって、スペースインベーダーにだって「ストーリー」(というか設定)があったので、実は最初から模倣の要素は取り入れられていたのだけど。


模倣の意味を取り違えると、窮屈なゲームになります。

シミュレーションゲームとか、慣れれば面白いのは事実だけど、窮屈で嫌う人も多い。


R.P.G. も、当初は面白かったのですが、だんだん物語が壮大になりすぎて、エンディングまで遊ぶだけで 50時間、とか言われると手を出すのに躊躇します。



広い意味では、Wii の登場は、テレビゲームにおける「模倣」の意味を広げてくれました。

コントローラーをゴルフクラブに見立てて腕を振る、とか、それまでのゲームではあまり見なかった。


#皆無だったとは言わないけど。


ただ、「あまり見なかった」という眩暈感が相乗効果を生んでいたのは事実で、Wii はすぐに飽きられました。

眩暈って、やがて慣れてしまって楽しさが消えてしまいますから。


これも模倣は使いどころが難しい、という理由。

模倣すると言っても、突飛な方法を取ると、それは模倣ではなく「眩暈」の楽しさになってしまうのです。



Nintendo Switch 、今日発売なんですが、どうなんでしょうね。

「あまり見なかった」ゲームがたくさんあるので面白そうなのですが、眩暈を感じるのは最初だけです。

気になってはいるのですが、今すぐ買う予定は立てていません。



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別年同日の日記

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エドウィン・ハーバード・ランド 命日(1991)  2017-03-01 14:04:34  今日は何の日

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今日は、エドウィン・ハーバード・ランドの命日(1991)


ポラロイド社の創業者です。


ポラロイド(偏光板)の科学的合成法を開発したことから、会社名もポラロイドでした。

偏光板は、世界を変える大発明でした。あまりに当たり前になりすぎて、身の回りにたくさん使われているのに気づかない人が多いくらい。


このあたりの話は、誕生日の際に書いた記事を参照してください。


そして、ランドはもう一つの大発明を行います。

それが、会社名から一般名詞化してしまった「ポラロイド」…つまり、インスタントカメラです。




今となっては、昔のカメラの原理から説明する必要があるでしょうね。


今ではカメラと言えば、デジタルカメラ。

CCD イメージセンサや CMOS イメージセンサと呼ばれる素子を使い、光を電気信号に変え、デジタルに変換して撮影します。


電気信号なので、撮影してすぐにみられるのが特徴。



でも、こんなカメラは 1994年に発売された QV-10 以降の話です。

それ以前のカメラは、全く違う原理で撮影されていました。




中学で習う「元素周期表」をどのくらいの方が覚えているでしょう?

「水兵リーベ 僕の船…」ってやつ。H He Li Be B C N O F Ne ですね。


周期表では、横方向に順次「重さが少し違う」元素が並び、縦方向には「性質が似ている」元素が並びます。


そこで、先ほど最後から2番目に書いた F の下に縦に並ぶ元素を「ハロゲン族」と呼びます。

非常に反応性が高く、ほかの元素とよくくっつきます。


くっついたものは「化合物」と呼ばれるのですが、「塩」(「しお」ではなく「えん」)と呼ばれることもあります。



さて、銀とハロゲン族がくっつくと「ハロゲン化銀」、または「銀塩」と呼ばれるものになります。

昔のカメラは、この銀塩の性質を使って撮影を行っていました。


そのため、いまでは「銀塩カメラ」と呼ばれます。


#当時としてはこれが当たり前なので、普通に「カメラ」と呼んでました。



銀塩は不安定な物質で、光に当てると分解してしまい、「金属としての銀」に変わってしまう性質があります。


ただし、こうしてできる銀はほんのわずかで、ほとんどの部分は変わりません。

ほんのわずかしか変わらないので、変わった部分を目で見ることもできません。


その後、「現像液」と呼ばれる薬品に浸けることで、強制的に銀塩を分解します。

この際、金属銀は触媒として働くため、すでに金属銀がある部分は早く分解が進み、分解によって金属銀ができるため、反応が加速していきます。


(現像液の組成や、化学変化の詳細は、使用する銀塩によっても異なります)



成長した銀結晶は、十分に肉眼で見ることができるようになり、いわゆる「写真」として機能します。

ただし、そのままでは成長し続け、やがては全体が真っ黒になってしまいます。


そこで、頃合いを見て「停止」します。

現像液は一般にアルカリ性なので、酸性の液に浸けることで、この反応を止めるのです。



しかし、このままでは銀塩が全体に残っています。

光に当て続ければ、徐々に黒ずんでいってしまうでしょう。


そこで、最後に、金属化した銀はそのままに、銀塩だけを溶かす「定着液」と呼ばれる薬品に浸けます。

銀塩がなくなってしまえば、もう光に対して反応することは無くなり、気軽に写真を見ることができます。


仕上げとして、水で薬品をすべて洗い流し、乾燥すれば写真の出来上がりです。



これらの作業は、光の入らない「暗室」で行う必要があります。




以上、これが銀塩写真の「現像工程」でした。

町の写真屋さんにフィルムを持ち込めば、2~3日で現像してもらえました。


実際には、フィルムを現像すると、色が反転した「ネガフィルム」が得られます。

このネガフィルム越しの光を「印画紙」に当てると、再び色が反転して「ポジ写真」が得られます。

この工程を焼き付けと言います。


つまり、「写真現像」とは、フィルム現像後、24枚程度の写真に対して焼き付けを行い、その24枚の現像工程を行うのです。

時間がかかるのも当然の作業でした。



デジカメが現れる直前…1980年代後半から90年代前半には、自動的に現像工程を行う機械を使用し、55分、さらには 23分で全工程を終了する、なんて店もありました。


しかし、どんなに高速化しても 30分程度はかかってしまうのです。

化学変化によって写真を作成している以上、反応時間を待つ必要はあるための限界でした。




もっとも、別の手段による「高速化」は、1950年代には作られていました。


フィルムを現像し、できたフィルムから印画紙に焼き付けを行い、この印画紙を現像し…というのは、さすがに工程が多すぎて遅いのです。


フィルムを使わず、最初から「印画紙」に当たるものに撮影を行っていれば…

こうして作られたのが、Photomat 、日本ではデビッド・ローゼンにより改良されて「2分写真」と呼ばれたものです。


とはいえ、「2分」は少し誇張した言い方で、実際に出来上がるのは撮影後3分くらいしてから。

しかも、最後の「乾燥」工程は入らず、湿った状態で出てきました。



写真をすぐに手に取りたい、という要求は、19世紀末にはすでにあり、1883年には同じような機械がすでにあったようです

5分程度で写真が出てきましたが、「人が写っていると認識できない場合もある」程度のものだったようです。


後の「2分写真」でも、結局は機械の中に暗室があり、自動で現像を行っているだけ。

現像を行える「暗室」が無くては、写真は見られません。


ともかく、写真をすぐに見たいという需要はあれど、なかなかそれに応える技術が無かったのです。


#一般には、フィルムに塗られている感光剤は光が当たったところが黒くなります。

 これは色が逆なので、もう一度反転するために焼き付けを行う必要があります。


 しかし、光が当たったところが白くなる感光剤もあり、この場合「印画紙」に直接撮影できるのです。




ランドは、娘から「何で写真はすぐに見られないの?」と聞かれ、すぐにみられるカメラを作ろうと決意します。


…そして、出来上がったのが 1947年に発表する「インスタントカメラ」です。


通常のカメラはフィルムを入れるだけですが、インスタントカメラでは最終的に写真となる「印画紙」を入れます。

ただし、この印画紙自体も特殊なもの。


実は、印画紙とフィルムが2枚張り付いて密着する構造になっています。

さらに、印画紙の端にはカプセルがついていて、現像液が入っている。



撮影すると、まずはフィルム側に光が当たります。

その後、カメラから出てくる際には、ローラーで圧着する形で、フィルムと印画紙が張り合わされます。


この圧着の際に、端のカプセルが潰され、現像液がフィルムと印画紙の間に浸透します。

ちなみに、フィルム自体は不透明なもので作られていて、現像中のフィルムと印画紙を光から守るようになっています。


さて、普通の写真と違うのはここからです。


フィルム側の「ネガ」が現像されると、光の当たった部分の銀塩は金属銀に変わります。

一方で、光の当たっていない部分は、銀塩のままです。


印画紙側には、あらかじめ「目に見えないほど細かな金属銀の粒子」が塗られています。

フィルム側で、光に当たらなかった部分の銀塩は現像液に溶けて印画紙側に移り、金属銀の粒子を触媒として分解が進んでいきます。


このため、印画紙側では「光の当たらなかったところ」が黒く表現される、ポジ写真が出来上がります。


撮影後、1分ほど待って、フィルムと印画紙を引きはがすと出来上がり。

フィルムから印画紙に銀塩が移行する反応が止まるため、「停止液」が無くても、現像はそこでストップします。


元々印画紙側に銀塩はないため、「定着液」で銀塩を取り去る必要もありません。


非常に巧妙なしくみです。



さらに巧妙なのが、この現像工程の「化学」について、特許書面(米特許番号2435720)に一切書いてないんですね。

インスタントカメラの構造と、印画紙の現像液カプセルが破れて現像される、ということしか書かれていない。


特許書面って、公開されるものです。

公開されるからこそ、他の人が「真似しちゃいけない」と知ることができる。


インスタントカメラの仕組み上、「カプセルから現像液が出る」とかは、避けられない構造です。

だから、ここを特許書面に書けば同じようなカメラを発売できない。


でも、一番重要な化学反応は隠してあるわけです。

特許で縛り、さらに重要な秘密は一切公開しないことで真似を防ぐ。


ランドは、「技術」の価値を本当によくわかっていたのだと思います。




後には、インスタントカメラは、コダックや富士フィルムからも発売になっていました。

特許って、最大で 20年しか権利主張できないからね。


しかし、その20年で、インスタントカメラのことを「ポラロイド」と呼ぶように、一般名詞化してしまった。

他社が作っても、みんな「ポラロイドカメラ」と呼んでいました。


それくらい、当時のポラロイドのインパクトは強かったのです。



一方で、通常のカメラに比べると、専用本体に専用フィルムが必要なので、割高でした。


その上、通常のカメラでは「フィルム」から「印画紙」にコピーする仕組みのため、同じ写真を何枚でも作れます。

ポラロイドカメラでは、原理上これができません。


初期投資もランニングコストも高く、コピーできないという致命的な問題がある。

その代わりに「撮ったその場で見られる」という、他には変えられないメリットがある。



…つまりは、カメラでありながら、カメラとは全く違うものだったのだと思います。

家族旅行の記念写真を撮るようなものではない。


工事現場で報告書に現場写真を添付したり、パーティ会場なんかで貸し出していたり、「仕事で所有する」ものが方のではないかと思います。




ポラロイド社は、創業者のランドが 1991年 3月 1日に亡くなるまでは、順調な大会社でした。


しかし、1990年前後から、先に書いた「1時間現像」の自動機械によるサービスや、特許切れによる他社のインスタントカメラへの参入、さらに、1994年にはデジカメが登場します。


写真の世界に、相次いで激変が起こったのです。

「撮ってすぐ見られる」というポラロイドカメラの優位性は、あっという間に失われました。



ポラロイドでもデジカメの開発などを行いますが、これは多くのカメラメーカーとの戦いになります。

今まで独自の路線を取っており、競争に慣れていないポラロイドは、魅力のあるデジカメを作ることはできませんでした。


時代に完全に乗り遅れ、2001年の10月に経営破綻。


しかし、一時代を作り上げた「ポラロイド」の名前は強かった。

他の会社に買収され、子会社になりながらもポラロイドは生き残ります。


…が、その親会社は、有名な商標を使って荒稼ぎをしようとしただけでした。

ポラロイド社は事業から次々と撤退し、部門ごとに切り売りされ、2008年12月に2度目の経営破綻。




その後、2度目の買収が行われ、まだ「ポラロイド」は存続しています。


現状のメイン商品は、まず、特殊な用紙による写真プリンタ。

用紙側に特殊なインクをしみこませてあり、プリンタはその色を引き出す処理だけを行うため、非常に小型です。


そして、このプリンタを内蔵したデジカメ。

取ってすぐ「紙の」写真を見られる。

デジタル時代のポラロイドカメラ、という風情があります。


…でも、ディスプレイは付いてないのね。

見たければ印刷しないといけないし、友達相手ならデジタルデータでシェアしたほうが喜ばれそう。


「普段使い」にはやっぱり適さなくて、パーティグッズのような方向性になっています。

悪く言えば、好きものでないと買わない。


これもまた、ポラロイドらしさなのかもしれません。



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コアメモリ特許 成立(1956)  2017-02-28 13:46:27  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、コアメモリの特許が成立した日(1956)



最初に誤りの訂正から入らないといけませんね。

以前に、アン・ワング博士がコアメモリを発明した、という記事を書いたことがあります。


これ、間違いではありません。一般的にワング博士がコアメモリを発明したと言われます。

でも、今日の記事を書くために詳細を調べたら、実際には少し違っていました。




ワング博士が発明したのは、米特許番号 2708722 「Pulse transfer controlling device」です。

訳すなら「パルス転送制御装置」。

1949年に出願し、1955年に特許成立しています。



電話のダイヤルなどは「パルス」を発生し、自動交換装置はこのパルスで動作します。

電話パルスには、1秒間に10回のパルスを送る 10pps と、もっと高速に 20回のパルスを送る 20pps の2つの規格があります。


どうも、ワング博士が発明を行ったのは、新しい規格への移行期のようです。

交換機が新型で、高速パルスに対応していれば問題はありません。低速のパルスでも、同じように動くことができます。


しかし、交換機が古いのに電話機が高速だったら…交換機が速度に対応できません。

このため、「一度パルスを受けて、記憶した後で改めて速度を変えて送り出す」ような装置が必要だったのです。



当時は、真空管を組み合わせて記憶させたり、磁気ドラムを使って記憶させたりしていました。

しかし真空管は電気食いで放熱も大きく場所を取るし、磁気ドラムは物理動作を伴うので故障しやすい。


ワング博士は、ここに磁石などに使われる「フェライト」を使うことで、パルスを記憶させる装置を作り上げるのです。


この時点では、パルスを覚えればいいだけなので、フェライトコアはシーケンシャルに並び、シフトレジスタ(ビット列を順次ずらしていける装置)として動作させています。




以前書きましたが、WhirlWind I コンピューターが制作される際に、当時としてはあり得ないほど高速なコンピューターを目指したため、演算装置とメモリ装置を同時開発しました。


演算装置は、今でも使われる様々な工夫により、超高速なものが作られました。

しかし、メモリ装置は開発に失敗し、低速でした。演算装置の足を引っ張るくらいに。



そこで、いったん完成した後にメモリシステムの改良がおこなわれます。

多くのメモリを試し、その中でワング博士の特許が見出されます。


ただのフェライトコアで記憶ができてしまう!

しかも、特許によれば磁気の強さがある閾値を超えることで記憶ができます。


このことから、電線を縦横にクロスし、交点にフェライトコアを置くことで、多数のコアを少ない電線で制御する…という方法を考え付いたようです。



こうして作られたコアメモリは、非常に高速に動作するのに安く、駆動するのに必要な電力もわずかという、夢のようなメモリでした。


WhirlWind I の開発責任者、ジェイ・フォレスターの名前で特許が出願されています。


米特許番号2736880、「Multicoordinate digital information storage device

訳すなら「多軸デジタル記憶装置」でしょうか。


出願は 1951 年で、特許成立は 1956年の 2月 28日でした。




特許の白眉は Multicoordinate、「多軸」の部分にあります。


先に書いたように、電線を縦横にクロスし、交点に記録を行う。つまり「多軸」による記録。


これ以前のメモリ装置は、基本的には 1bit に対して1組の配線が必要でした。

そのため、容量が増えれば線形にコストが増えます。


#ランダムアクセスメモリの場合の話。

 当時の主流は、コストが安いが低速なシーケンシャルメモリだった。



コアメモリでは交点が重要です。

16本 × 16本の電線を用意すれば、交点は 256カ所もあるのです。


一般にはコアメモリは2次元に作られます。

しかし、フォレスターの特許では「3次元」の可能性についても言及しています。

コアの物理特性はある程度変えられますし、3本の線に電流が流れなくては反応しないコアを作ることも可能でしょう。

この場合、 16x16x16 の電線を用意すれば、交点は 4096カ所になります。



こうした特性により、コアメモリでは、容量が増えてもコストの増加を抑えられます。

ビット単価で考えれば、容量を増やすほど安くなるのです。


これが、特許の中心概念となっている「Multicoordinate」の意味です。



この考え方は現代の DRAM にも引き継がれ、容量が上がるほどビット単価を割安にしています。




ワング博士が特許を出願したのは 1949年。

その後コアメモリが 1951 年に発明され、特許出願。


ワング博士の特許成立が 1955年、コアメモリの特許成立が 1956年です。



これに対し、IBM がコアメモリを使用した IBM 704 を発売するのが 1954年。

704 作成時点では特許は成立していないため問題ありませんでしたが、特許成立後にトラブルとなります。


IBM は、対価としてワング博士に 50万ドル、フォレスターの所属する MIT に 1300万ドルを支払っています。


それぞれへの支払いの経緯も違いますし、この額の差がコアメモリに対する発明の寄与度だ、というつもりはありません。

どちらの発明が無くても、コアメモリは生まれなかったのですから。


しかし、コアメモリを完成させたのは MIT の WhirlWind I 作成チームで、ワング博士はその基礎となる、フェライトコアの物理特性などを研究したに過ぎない、というのは、ある程度事実でしょう。



最初に書いた通り、一般的には、コアメモリはワング博士が発明した…とされています。

しかし、ワング博士の特許ではなく、フォレスターの特許成立の今日を「コアメモリ特許が成立した日」とするのは、間違いではないと思うのです。




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名前 内容

ケン・オルセン 誕生日(1926)  2017-02-20 10:24:11  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、ケネス・ハリー・オルセン、通称「ケン・オルセン」の誕生日(1926)


コンピューターを大きく変えた会社、DEC の創業者です。

しかし、DEC 創業以前から、コンピューターを大きく変えるようなプロジェクトに多数関わっています。




「デジタル計算機」がすべて歯車式だった時代、デジタルは正確ではあるが遅いものでした。


いや、当時の計算機の一番重要な任務「弾道表」の作成に関しては、デジタルは遅いうえに不正確、でした。


弾道表の作成では、様々な条件で、多数の弾道を計算する必要があります。

そして、1本の弾道の計算だけで、動く弾の位置計算を、時間に沿って繰り返し何度も行う必要がありました。


速度が遅い、という理由から、少しでも計算を早くするためには、計算する「時間」の精度を荒くする必要がありました。

しかし、そうするとわずかな誤差が溜まってしまい、最終的には大きな誤差となるのです。


このため、第2次世界大戦中には「微分解析機」というアナログ計算機が開発され、活躍していました。



デジタルでも速度を上げれば十分な精度の計算ができるはず、と ENIAC が作成されますが、終戦には間に合いません。




まだ戦時中、アナログ全盛の時代に、マサチューセッツ工科大学(MIT)に海軍から「パイロットの養成のために」航空シミュレータの作成が依頼されます。


もちろん最初はアナログで作成しますが、要求された「本物の飛行機のような感覚」には程遠いものでした。

もっと複雑な計算を行う必要がありました。


しかし、アナログ計算機は「複雑な計算」においては、役に立ちません。

そして、デジタル計算機は「計算の速度」において、役に立たないのです。



このとき、まだ作成中だった ENIAC の噂が聞こえてきます。

デジタルでありながら、歯車を使わずに電気回路で計算を行う機械。

しかし、その予想される速度であっても、航空シミュレータの必要とする速度には足りません。


まだ完成もしていない ENIAC の技術面を参考にし、さらに高速化のための工夫が編み出されます。



最初に作られたプロトタイプが WhirlWind I でした。


真空管時代のものですが、いまでは「あたりまえ」とされるような技術を、多数最初に編み出したマシンです。

それ以前は、コンピューターは今とはかなり違うものでした。

WhirlWind 以前と以降で、コンピューターの姿が変わってしまったのです。


当時、ケン・オルセンは海軍研究局に在籍し、海軍の立場から WhirlWind I の作成プロジェクトに参加しています。




WhirlWind I は当時最高の性能を持つコンピューターでしたが、ただの「計算機」ではありませんでした。

グラフィックディスプレイとライトガンを備え、画面に図示した情報を「タッチ」することで操作できたのです。


航空シミュレーターを作る必要性からグラフィック機能が備えられたのですが、当時の「計算機」の概念を超える、対話できる機械でした。


ただ、このコンピューターを実現するための回路規模は膨大でした。

最終的に海軍ではなく空軍で使われるようになるのですが、量産された WhirlWind I … SAGE と呼ばれたシステムは、1台のコンピューターを「建設」すると、4階建てのビルが出来上がりました。



戦後、トランジスタが発明されると、真空管と同じようにトランジスタでもコンピューターが作れるのではないか、という可能性が示唆されます。

ただ、最新鋭の電子素子であるトランジスタは、非常に高価でした。



ケン・オルセンは、海軍を退役してMITリンカーン研究所に在籍していました。

そして、彼が参加した WhirlWind を参考としたマシンを、トランジスタで実現するプロジェクトの責任者となるのです。


しかし、先に書いたように、トランジスタでコンピューターが本当に作れるのか、まずはその確認から始める必要がありました。


そこで、最低限の機能だけに縮小したプロトタイプ機、TX-0 を作成します。

最低限…命令が、たった4つしかありません。でも、ちゃんとプログラムできます。



これはプロトタイプですから、狙いどおりに動作することが確かめられるとすぐに TX-1 の作成に掛かります。

…が、TX-1 は野心的過ぎて失敗。


責任者は交代して最終的に TX-2 が出来上がります。

実は、TX-2 ももう人間の手には負えない設計で、設計段階から TX-0 の計算力を必要としています。


そして、TX-2 の完成時点で、TX-0 は用済みになりました。

しかし、この「用済みのコンピューター」こそが、ケンの人生を、そして世界を変えていきます。



#TX-2 は、世界初の「コンピューターグラフィックス」を実現したことで有名です。

 詳細はサザーランドの記事へ。




用済みの TX-0 は、MITに無償で貸し出されました。

MITにはすでに研究用の計算機として IBM 904 がありましたから、 TX-0 は学生が自由に使ってよいマシンとなりました。


そして、学生たちは TX-0 で自由に遊び始めます。

「計算機」のはずなのに、計算などさせず、絵を描いたりゲームを作ったり音楽を演奏したり。


ケンにはこのことが驚きでしたが、同時に「十分安くて自由に触れるのであれば、コンピューターの用途はずっと広がる」と気づきました。



ケンは、DEC社を設立。


当初は「装置」の名前通り、TX-0 や TX-2 の周辺機器をオーダーメイドで作っていました。

しかし、その裏で開発を進め、TX-0 を元としたミニコンピューター、「PDP-1」を作り出します。


ところで、DEC は Digital Equipment Corporation 、PDP は Programmed Data Processor の略です。

コンピューターを作っているのに、どこにも「Computer」の文字が入っていません。


これは、まだ広く知られておらず「一般人には関係のないもの」と考えられていた「コンピューター」の名前を使うことを、会社設立資金を提供したオーナーが嫌がったためです。


しかし、PDP-1 は明らかにコンピューターでした。

よく「世界初のテレビゲーム」と呼ばれる、「Space War!」は、この PDP-1 で作り出されています。




DEC は作る機械に順次番号を割り振っています。


そして、互換機もあれば、互換性のない機械もあります。

軍のオーダーで作られ一般販売しなかったものや、試作だけで終わったものもあります。


そのため、型番からでは互換性が分かりません。


PDP-1 は 18bit マシンで、4 7 9 15 が後継機。

PDP-3 は 36bit マシンで、6 10 が後継機。

PDP-5 は 12bit マシンで、8 12 が後継機。

PDP-11 は 16bit マシンで、後継機はシリーズ名も変わる「VAX-11」となります。


18 / 36 / 12bit って、今のコンピューターに慣れていると奇異に見えますが、当時は 1byte が 6bit です。

だから、3 / 6 / 2 byte を 1word とするマシン、ということになる。


でも、ASCII 文字コードが制定されると 1byte が 8bit になり、それ以降に作られた PDP-11 では 16bit / 2byte が 1word になっています。



このうち、特筆すべきは 1 7 8 10 11 …あたりかな。


7 は、初期の UNIX が作られた機械です。

後に、互換性のない PDP-11 に移植が行われ、その際に「アーキテクチャを問わないアセンブラ」として開発されたのが C言語です。


8 は 12bit で廉価だったのに加え、時代的にもコンピューターになじみが出てきたタイミングで発売されたため、大ヒットしました。

自動車を買うのと同じ程度の値段で買えた、と言いますから、現代の感覚からすればまだ高いのですが、当時としては「個人で所有できる唯一のコンピューター」でした。


商用としてはかなり初期のコンピューター音楽演奏システムなんかにも使われています。

「ミニコンピューター」「ミニコン」という言葉は、このあたりから出てきたもの。



10 は、電話回線でテレタイプを接続して時間貸し、というシステムでよく使われました。

ビル・ゲイツが初期のハッキングを楽しんでいたのもこのマシン。


11 は、当時のコンピューター命令セットとしては最も美しい設計だとされ、後の多くのマイクロプロセッサに影響を与えています。

6800/6809 や 680x0V60、Tron-chip なんかも PDP-11 の影響を受けて設計されているそうです。



最も、PDP-1 以降はケンの手を離れています。

PDP-4,5,6 それに 11 は ゴードン・ベルが作っています。




PDP-11 から VAX-11 に機能が拡張されます。

VAX は Virtual Address eXtension の意味で、「仮想メモリ」をサポートしました。


また、この機能を活用した VMS という OS が作られました。


…使ったことがないので迂闊なことは書けない。

でも、UNIX に対する「回答」として作られた節があって、どの部分をとっても UNIX に似ていて、しかしそれよりも良いものだったそうです。



たとえば、UNIX ではすべてを「ファイル」として考えます。

そして、ファイルの入出力ですべてが行えるようにするのです。


キーボードは読み出し専用のファイルです。

プリンタは、書き込み専用のファイルです。


ディスク全体も特殊なファイルとして考えられますが、その中に実際のファイルが入れられ、これは読み書き共にできます。


しかし、UNIX でも「メモリ」まではファイルにしていませんでした。

プログラムが入っているメモリは、OSにとってはちょっと特別な場所。


VMS では、「仮想メモリ」によって、搭載している以上のメモリ空間を扱えます。

そして、足りなくなった際にはメモリの一部はファイルとして保持するのです。

ここで、ファイルとメモリも統一が行われたのです。



さらに、UNIX ではファイルはディスク上に置かれていることが前提でしたが、VMS では「ネットワーク」を前提としています。

ネットワークされたコンピューターのどこかにファイルがあれば、その保存形態は問いません。



今では UNIX にも、仮想メモリや NFS (ネットワークファイルシステム)という概念があります。

しかし、これらは VMS から取り入れた概念なのです。




VAX には公式 OS として VMS が提供された一方で、PDP-7 / PDP-11 で育った UNIX もまた、VAX に移植されていました。


だからこそ、UNIX を超える公式 OS を作ろうとしたのでしょうが、普及したものに対して「よりよいもの」で追うという戦略は、大抵うまくいきません。

VMS も例にもれず、普及しませんでした。



UNIX 上では、「グラフィカルな操作環境」として X-Window というシステムが作られています。

この開発者は、後に DEC に在籍していました。



VMS の UNIX に対する優位点は、先に書いたように仮想化やネットワーク化が OS 自体に組み込まれている点です。

UNIX は、後付けのソフトウェアで実現しているため、設定・管理が煩雑でした。


そこで、いっその事、VMS を大きく作り直して、X-Window も取り込んだ次世代のグラフィカル OS を作ろう、というプロジェクトが始まります。

一歩先ゆく次世代 OS として、V M S の文字をそれぞれアルファベット順に一つすすめた、コードネーム WNT 。


しかし、作成中に DEC が破産します。

WNT は、マイクロソフトが買い取り、大幅に手を加えて、後の Windows NT となります。


現在も広く使われている Windows は、 Windows NT の後継です。




さて、もしもケンがいなかったら、どうなっていたでしょう?


TX-0 は作られず、コンピューターが「計算」以外の仕事を始めるのは、控えめに言って、もっと遅くなったでしょう。


個人で所有できるコンピューターの実現にも時間がかかったでしょうし、当然コンピューターゲームの誕生だって遅れます。

Windows だって存在しません。


ケンの存在は、今の世の中に大きな影響を与えているのです。




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ハンス・アスペルガー 誕生日(1906)  2017-02-18 17:30:52  今日は何の日

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今日は、ハンス・アスペルガーの誕生日(1906)


今日は珍しく、コンピューターとは関係なさそうな話題。


アスペルガーはオーストリアの小児科の医師で、特に精神的な発達障害、今でいう自閉症を研究しました。


当時すでに「自閉症」の研究は始まっていました。

しかし、今ほど理解が進んでおらず、自閉症の原因は知的障害で、言語能力などが発達していないためにコミュニケーションが行えないのだ、と考えられていました。



しかし、アスペルガーは自閉症児との交流の中で、そんなに単純ではないことに気付きます。


通常の…精神病に分類されない人々も、知能の高い人と低い人、言語能力の高い人と低い人がいます。

そして、自閉症の子供にも、同じように知能や言語能力の高低があると理解するのです。


ただ、自閉症児は、振れ幅が非常に大きいのです。

…いや、振れ幅が非常に大きく、通常の人の枠組みを超えるから「精神病」に分類されるのかもしれません。


ともかく、自閉症児は知的障害を持つ、と考えられていたのは誤りで、場合によっては非常に高い知能・言語能力を持つのです。


彼は、こうした例に興味を持ち、多くの症例を論文で報告しました。


しかし、多くの論文は、ドイツ併合下のオーストリアで発表されたものでした。

他の言語に翻訳されることもなく、彼の仕事は世界的にはあまり知られることがありません。


アスペルガーは 1980年10月21日死去。

その直後、1981年に彼の論文をイギリスの精神科医、Lorna Wing が英語翻訳し、彼の報告した症例は「アスペルガー症候群」として世界に知られることになります。




アスペルガーは小児科医で、子供を非常にあたたかな目で見守っていたようです。

彼がアスペルガー症候群を報告し続けたのも、子供を守るためだった、という側面があります。


というのも、先に書いた通り当時のオーストリアはドイツに併合され、ナチスの支配下にありました。


ナチスは優生思想…優れた人間だけが子供を残すことで、悪い遺伝子を排除して、よい社会を作り上げる…を政策に取り入れていました。

ユダヤ人の大量虐殺も、「ユダヤ人は劣っている」という差別意識から行われています。


そして、同じように「先天性の精神疾患は、悪い遺伝子である」という考えから、やはり大量虐殺が行われています。

知的障害者である、というだけで殺されてしまう世の中だったのです。



しかし、アスペルガーは、自閉症の子供の中に「そこら辺の大人よりも優れた知能を持っている」子供がいることを示しました。

しかも、そうした子供も見た目の上では自閉症の…他の知的障害を持った子供と同じなのです。


これは、自閉症の子供を虐殺から守る効果がありました。

専門知識を持たないものが自閉症の子供を殺すことは、もしかしたら「将来の国の宝」を失うことになるかもしれないのです。



オーストリアは、「SOS子供の村」という、世界的な NGO活動団体の発祥の地でもあります。

何らかの都合で幸せな生活を送れない多くの子供を保護する活動で、現在では 100以上の国で 100万人以上の子供がサポート下にあります。


設立者、ヘルマン・グマイナーから要請を受け、アスペルガーも活動に協力しています。

もちろん、彼の専門である小児科医として。


彼はウィーン大学小児病院の理事もしていましたから、多忙でした。

それでも、「子供のために」そうした活動に参加しているのですから、非常にやさしい人だったのだろうと思います。



参考:アスペルガーの生涯(ドイツ語サイト)





さて、ここからは自分の話。

僕は以前に、自分も子供の頃アスペルガーだったのだろう、と書いたことがあります。


アスペルガー医師が研究したのは、ある程度「重度の」子供たちだったのだろうけど、こうしたものは軽度から重度までグラデーションがあるからね。

僕は多分、軽度のアスペルガー。


子供の頃はこんな区分なかったよね、と思っていたのだけど、上に書いたように世界に紹介されたのが 1981年。

日本で知られ始めたのは、1990年代の半ば過ぎだったのではないかと思います。



アスペルガー症候群の問題点…人とのコミュケーション下手は、大人になるにつれて多少改善します。

と言っても、「病気が治る」とかの意味ではないよ。症候群、と言われているけど、別に病気ではないし。


ただ、普通の人なら当たり前にできるコミュニケーションを、何度も失敗しながら覚えていくだけです。

上手くできないと言っても、失敗を繰り返せば覚えざるを得ない。

アスペルガー特有の記憶力の良さがあるから、徐々に「普通」を理解していきます。


僕は今でもコミュニケーション苦手です。

ツイッターやっているけど、あまり人と会話しないし。

WEB ページ作っているのも、これなら一方的に言いたいことを発信できるから、というだけ。



で、自分もそうだからよくわかるのだけど、アスペルガーは非常にプログラマーに向いてます。

研究者一般向いていると思うのだけど、僕はプログラマーだったからね。


…と、ここで普段コンピューターの話を書いている「今日は何の日」で、アスペルガー医師を取り上げた理由が出てくるわけです。




重度のアスペルガー症候群とか、そうでなくても子供のころから「頭が良いから」という理由で、ちょっと変わり者であることが許容されてしまった人とかは、人とのかかわりで失敗して「普通」を覚える機会が失われてしまいます。


これは非常に残念なこと。

先日書いたウィリアム・ショックレーとか、明らかにアスペルガーの悪い面が出てしまっている。


ショックレーはトランジスタを発明したチームのマネージャーで、彼自身も重要な改良発明を行っており、ノーベル賞を受賞し、後にシリコンバレー発展の種となる研究所まで作った。

でも、自分の部下を信用することもできず、周囲のすべてを敵に回してしまうのです。


超が付くほどの天才なのでアスペルガーとしても重度だったのかもしれませんし、天才と持ち上げられることが多かったために、周囲と折り合いをつける方法を学べなかったのもあるように思います。



先に書いたように、僕が子供の頃は「アスペルガー」なんて概念もありませんでした。


しかし、今は理解が進み、軽度の症例でも簡単に「アスペルガー」だと診断されます。

小学校のクラスに一人はいるような、ごく普通の存在。


「クラスに普通にいる」というのが大事ね。

知的障害を伴う自閉症児は、特別学級に入れられることも多いです。


でも、アスペルガーは知的レベルには何の問題もない。

だから、普通に学校に通えます。

ただ、人づきあいが下手だから、いじめにあったりするだけで。

(僕もいじめられたクチなので、本当によくわかるのです)



必要なのは、周囲の大人の理解です。小学生レベルだと、親が気付いてサポートするのが良いでしょうね。


付き合い下手かもしれないけど温かく見守って…でも決して甘やかさないで。


先に書いたように、衝突して失敗すれば徐々に覚えるから、甘やかしちゃいけない。

ただ、失敗しても「ちゃんと学ぶ」ように導いて、失敗のことは水に流してあげてほしいのです。


そして、その子が興味を持ったことは否定せず、とことんサポートしてあげて。



「そんな趣味役に立たない」と考えるのは、大人の偏見です。

子供時代に蓄えた知識は、必ず将来役に立ちます。


僕も子供の頃、クラスに「東海道線の駅名を全駅言える」なんて奴がいた。

それは何の役にも立たないです。でも、駅名を言うことで周囲に受けたのでどんどん他の線の駅も覚えて行って…


最終的に、中学の頃には暗記科目がすごく得意な奴になりましたよ。

なんか、覚えようと思ったことを確実に覚えられるメソッドを、自分なりに獲得したみたい。



僕は小学校の時にコンピューターに興味を持って 4bit マイコンを買ったり、中学の時にはファミリーベーシックを買ったりしました。


御多分に漏れずコミュニケーション下手だったので、中学では部活にも入らずさっさと家に帰り、自分でゲームを作ってばかりいました。

それをベーマガに投稿するのが楽しかったのだけど、成績が落ちて親に「そんなことをしていても将来役に立たない」と怒られたりもしました。


でも、その時は一時的に禁止されたのだけど、その後勉強もちゃんとやって節度を持つなら、プログラムを組むことを許してくれた。

「役に立たない」なんて言いながら、理解はしてくれていたのです。


おかげで、今では独立してフリーのプログラマでやっていける程度の腕にはなっています。

ちゃんと役に立った。




アスペルガー症候群って、精神病の一種と考えられているから、この症名を聞くと取り乱す人が多いみたい。


でも、これは「周囲から浮いてしまうほど頭が良い子供たち」につけられた症名です。

「この子は天才肌だ」と言われているのだと思ってください。悪いことじゃないんです。


事実、アスペルガー医師自体が、そうした子供に敬意を払い、「小さな教授」と呼んでいたのだから。



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パソコン通信が生まれた日(1978)  2017-02-16 10:21:54  コンピュータ 今日は何の日

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今日は「パソコン通信」が生まれた日(1978)


当ページでは、古いコンピューターの話題も多数取り上げています。

だから、いわゆる「コンピューター通信網」は、これよりずっと前からあったよ、と言わないわけにいきません。


でも、1978 年の今日、「パソコン通信」が生まれたのです。




インターネットの前身となる ARPANET は、1969年には生まれています。


「テレタイプ」同士を電話線で繋げて通信を行うのはもっと昔からありました。

そして、テレタイプはコンピューターの入力機器としても使われました。当然、電話越しの利用もありです。


DEC の PDP-10 は1966 年に出荷されたマシンで、タイムシェアリング…複数のプログラムを同時に動かせる機能が特徴でした。


#今では複数のソフトが同時に動くなんて当たり前の話ですが、1990年代初頭までは一般的ではなかったのです。


このタイムシェアリング機能と、電話線越しのテレタイプ接続を使って、コンピューターを時間貸しするサービスが 1968年には存在しています。

1980年代には世界最大手のパソコン通信会社だった CompuServe も、1969年に創業したコンピューターの時間貸しサービスの会社でした。


とはいえ、コンピューターに電話線で接続してできることは、コンピューターのアプリケーションを利用すること、だけでした。




1975年、Altair 8800 が登場します。世界初の「パーソナルコンピューター」でした。


Altair は…作った MITS 社自身が売れるとは思っておらず、量産体制を整えてなかったため、入手困難な人気商品になりました。

そして、回路をほぼ丸ごと真似した「互換機」が大量に発売されることになるのです。


Altair の設計の特徴は、すべてを…CPU すらも、「周辺機器」と考え、それらを結び合わせるバスを巧妙に設計したことにありました。

このバスは S-100 バスと呼ばれ、互換機は S-100 コンピューターと呼ばれます。



シカゴに住むワード・クリスチャンセン (Ward Christensen) は、こうした互換機の内の一つを入手しました。


ワードは、近所のコンピューター愛好家の集会に顔を出すようになります。


Cicago Area Computer Hobbyists' Exchange、略称で CACHE と呼ばれる集会で、ランディ・スース (Randy Suess) と知り合います。

二人は打ち解け、仲の良い友達になりました。



1960年代末から普及し始めた「コンピューターの時間貸しサービス」は、電話回線越しにテレタイプやコンピューターを接続するための「モデム」を、一般的な電気製品にしていました。

コンピューターショップに買いに行けば、誰でも手に入れることができるのです。


ワードとランディは、この面白い機械を使えば、CACHE に顔を出して紙テープの受け渡しをしないでも、コンピューターのプログラムを交換できると考えました。



この頃の通信網というのは、それほど品質が高くありません。時々電気ノイズにより、ビットに「誤り」が起きるのです。

コンピューターの時間貸しを行っているだけであれば、それらは「文字が化ける」ことになります。


結果の数字が運悪く別の数字に化けたりすると困りますが、そんなに都合よく化けることはあまりなく、アルファベットなどに化けるので「おかしい」ことが分かります。

おかしいと思えば、再度計算させて確認することもできます。


しかし、コンピューターのプログラムで 1bit 間違える、というのは致命的です。

品質の悪い回線で、絶対にデータを間違えない転送方法を考案する必要がありました。



ワードは、300bps のモデムでデータ転送を行うための「MODEM」というプログラムを作り上げます。


128byte 転送するごとにチェックサムを送り、相手が「正しい」と信号を送ってくれば次を送ります。

もし「再送」という信号が来れば、同じ 128byte を送り直します。


これを最後まで繰り返せば、間違いなくバイナリプログラムを送ることができるはずです。



このプログラムは仲間内で話題となったようです。

それまで、パソコンは単体で使うもので、「電話線越しに接続する」なんて試みはなかったのですから。


やがて、パソコン同士を接続できるのであれば、みんなに伝えたいことなどを記録しておき、誰でも好きな時に確認できるシステムは作れないだろうか、という構想に発展していきます。


パソコンを相手とした留守番電話、というイメージでした。

ただし、メッセージは留守番電話の持ち主だけでなく、誰でも見ることができるのです。



とはいえ、構想だけでなかなか作成には入れなかったようです。




1978年1月中旬、シカゴは猛烈なブリザードに襲われました。

家の外に出るのもままならない状態。もちろん CACHE の集会にも顔を出せません。


しかし、家にいなくてはならないこの時間は、以前から考えていたプログラムを作る良い機会でもありました。



留守番電話のようなコンピューターを作るのであれば、普段使っている者とは別に、電話番専用の機械が必要になります。


ランディは、新しい S-100 コンピューターを組み立て始めました。

ワードは、MITS の 8K BASIC (ビルゲイツが作った Altair 用 BASIC)で、プログラムの試作を開始します。


試作段階では、メッセージはメモリ上にのみ残されました。

しかし、想定していたシステムは順調に動くようです。


ランディはさらにディスクドライブを入手して機械に取り付け、ワードは試作したプログラムを、アセンブラで作り直しました。

メッセージをディスクに残すために、CP/M 上のアプリケーションとなりました。


作業開始は、1月16日。

当初は2週間のつもりで作業していましたが、完成度を高めるためにさらに2週間の追加作業を行います。


そして、1978年の 2月 16日、システムは完成し、お披露目が行われました。


パソコン同士を接続し、メッセージを読んだり、当たらなメッセージをみんなに見せたりできる。

コンピューター化(Computerized)された掲示板(Bulletin Board)のシステム(System)です。


頭文字を取って、CBBS と名付けられました。

世界で最初の、いわゆる「パソコン通信」 BBS と呼ばれるものです。



#C を、彼の属していたサークル CACHE の意味とする説もあるらしいが、彼自身が「CACHE は関係ない」と明言している。




ワードとランディは、自分たちの作成したシステムの概要を、Byte 誌に投稿します。

この記事は、11月号に掲載されました。


記事のタイトルは Hobbyist Computerized Bulletin Board。

記事中では、表記ゆれで Computerized Hobbyist Bulletin Board System になったり、単に Bulletin Board System になったりします。


実際に動作している画面イメージでは CBBS/CHICAGO とあります。


どうやら、これで「Bulletin Board System」、略して BBS 、というのが一般的な認識となったようです。


この後、BBS を名乗るシステムが多数同時発生します。

「パソコン通信」の時代が始まったのです。




ワードの作成したプログラム転送機能、MODEM は、後にプロトコルなどが改良されて XMODEM と呼ばれるものになりました。


後にもっと改良されたプロトコルが作られても、「パソコン通信ソフト」には、XMODEM で転送を行う機能があるのが普通でした。

パソコン通信のホスト側も、クライアント側も、すべてが対応する「最低限の共通プロトコル」だったのです。


#1990年代にはモデムが高機能化し、通信回線の品質も高まっていたので、Flying XMODEM とかありました。…何もかも懐かしい。



多くのパソコン通信は、インターネット接続が一般化した 1990年代にサービスを終了しています。

CBBS も、そのころ運用を終了しました。


しかし、BBS の精神は無くなっていません。

元々 BBS は、「草の根」と呼ばれる、友達や地域の人と話をするための小さなコミュニティが中心でした。


大手企業が運営しているものはあっても、それが文化の中心ではなかったのです。



インターネット時代には、小さなコミュニティは「CGI 掲示板」などの形で残され、現在の SNS にも影響を与えています。




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ウイリアム・ショックレー 誕生日(1910)  2017-02-13 09:59:09  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、ウィリアム・ショックレーの誕生日(1910)


トランジスタ効果の研究により、ノーベル物理学賞を受賞した人です。


トランジスタは、今ではコンピューターの最も基礎的な回路に使われる素子。

彼が研究所を設立した地は、周辺に同業他社が増え、今では「シリコンバレー」と呼ばれています。




ショックレーの伝記とか見ると、どうもアスペルガーだった印象を受けます。

大天才なのだけど、変人で扱いにくい。常に自分が正しいと思い込んでいる。


トランジスタの発明者、として知られているのですが、実は発明者は別の人です。

彼は、発明者もいたグループの「マネージャー」で、彼自身の提案による実験は失敗していました。


でも、自分の失敗したアイディアを改良して成功したのだ、と言い張り、自分こそが発明者だと言い張った。

これで世間からも彼が発明者だと思われるようになってしまい、一緒に研究していた科学者は、彼の元を去っています。


もっとも、誰が発明したかはともかく、それを使いやすく改良し、「現代の形の」トランジスタを作り上げたのは、彼の業績です。

ノーベル物理学賞は、一緒に研究していた科学者との共同受賞でした。




さて、時間を巻き戻して最初から話を進めましょう。


第二次世界大戦は、「無線機」が活躍した戦争でした。

それまでは情報は伝書鳩などで伝えられていましたが、無線によって通信されるようになったのです。


#無線電波は敵側にも簡単に傍受されてしまうので、暗号技術も進みました。

 こちらの話も面白いのだけど、今は関係のない話。



さて、第二次大戦中に問題となったのは、無線機の中で使われる「真空管」の扱いにくさです。


真空管は、無線にとって必要な「整流器」と「増幅器」の両方で使われます。

しかし、ガラス管で作られていて、大きく重いうえに、割れやすいのです。


整流器に関しては、「ゲルマニウムダイオード」の発明により、真空管ではなく、小さな素子をつかえるようになりました。

しかし、増幅器は相変わらず真空管が必要でした。



第二次大戦後、整流器をダイオードに置き換えられたように、増幅器も小さな素子に置き換えられないか、と研究が行われます。

ショックレーの率いるチームでもこの研究を行っていました。


しかし、ショックレーの試してみた方法では、増幅作用は置きませんでした。

その後、別の研究者が、ダイオードに対して3本目の電極をわずかに接触させることで、増幅作用を生むことを発見します。


今では「点接触型トランジスタ」と呼ばれるものなのですが、大発明でした(1947/12)。

大きくて重く、動作電圧が高くて動き始めるまでに「暖機運転」が必要な真空管と同じような動作を、小さく軽く、低い電圧で、すぐ使えるのです。



先に書いたように、ショックレーはこれを自分の発明だと主張します。他の人が発明したのに。

…結局、ベル研究所としてはこの主張を認めず、彼は特許書面に名を連ねることができませんでした。


その後の彼は、いつか自分単独の名前でトランジスタの特許を出す、と公言し、さらなる改良に励みます。



そして、僅か 5週間後に、接合型トランジスタを発明します(1948/1)


点接触型トランジスタは、針が「わずかに接触する」ことが大切です。

作るのにも微妙な感覚が必要で、使っていても壊れやすいものでした。


それに対し、接合型トランジスタは、量産も簡単で壊れにくいものでした。

彼の望み通り、単独の名前で特許出願が行われています。



トランジスタは無線用に開発されたものでしたが、数年後にはコンピューターが作られ始めます

いわゆる「第2世代コンピューター」です。




先に書いたように、ショックレーは人の気持ちを考えない強引な性格で、一緒に研究していた科学者は彼の元を去りました。

マネージャーとしては失格です。ベル研究所でも、彼は昇進できずにいました。


ショックレーは、友人に支援されて「ショックレー半導体研究所」を設立します。


しかし、ここでも彼は傍若無人にふるまいます。

すぐに部下を疑い、脅し、信頼しようとはしません。

そんな環境で良い研究が進むわけがありません。


研究所では、シリコン基板の上に半導体を生成する技術…「集積回路」の作成方法について研究が行われていました。


これは非常に難しい挑戦で、なかなかうまくいきません。

とはいえ、研究者たちの間では「あと一歩で成功する」という確信がありました。


しかし、ショックレーはこの研究の打ち切りを決めます。

これに反発し、8人もの研究者が一斉に研究所を辞め、新たな会社を近くに作りました。


これが、世界初の集積回路を生み出した会社、フェアチャイルド・セミコンダクターです。

この顛末は、ロバート・ノイスの誕生日に書いています。




晩年のショックレーは、人種差別主義者でした。


具体的にいえば、優生学…子孫を残すに値する、頭の良い人間だけが子孫を残せるようにし、頭の悪い人間を去勢すべきだ、という考え方です。


これ自体は「頭の良さ」だけが指標であり、「人種」差別的ではありません。

もっとも、頭の悪いやつは子孫を残すな、と言っていること自体が差別的で、人権無視ですが。



彼は持ち前の科学的な分析能力を使い、さらに論を展開します。


それによれば、子供の数と知能指数の間には相反する関係があるそうです。

つまり、「頭が悪い人ほど子供を多く残す傾向にある」というのです。


さらに、職種や人種による子供の数を比較し、黒人は子供が多い、つまり頭が悪いのだから積極的に去勢すべきだ、という論に繋がります。



これ、統計データとしてはおそらく正しいと思いますが、その理解はおかしいです。

今の日本もそうですが、社会的な地位を高めようとするとキャリアを積む必要があり、晩婚化が進みます。


また、差別や偏見によって地位を高めようがない場合、キャリアを積む必要もないので早婚になり、子供を多く残します。


そして、知能指数は絶対的な「頭の良さ」ではなく、そうしたテストに対する経験も影響します。

キャリアを積んだ人は数字が高く出がち、というだけのこと。



でも、ショックレーはこの主張を行うことが自分の生涯の務め、と信じて、いろいろなところで論を展開しました。

ノーベル賞学者の論ですから、雑誌などでも面白おかしく紹介されるのですね。

もちろん、その考え方がおかしい、ということの揶揄も含めて。


ショックレーはどんどん孤立していき、妻以外の家族と疎遠になっていきます。

彼が死んだとき、彼の子供ですら、死んだことをマスコミの報道で知ったのだそうです。



最初に書いたように、おそらくはアスペルガー症候群。


知能は非常に優れ、世界を変えるような天才性を発揮します。

その一方で、自分だけが正しいと信じ、人の気持ちを察するなんてできない。


世界を変えた人なのに…いや、名声が高まりすぎたが故の、寂しい末路に思います。


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名前 内容

リチャード・ハミング 誕生日(1915)  2017-02-11 16:10:54  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、リチャード・ハミングの誕生日(1915)


プログラミング…というより、情報理論をやったことのある人は、「ハミング符号」を聞いたことがあるかもしれません。

その考案者です。


他にも、ハミング距離やハミング重み、ハミング窓やハミング数など、彼の名がついた概念は多数。


ハミング符号については後で説明しようと思いますが、ハミング距離・重みは、ハミング符号に関連した概念。


ハミング窓は、通信における周波数特性などの問題改善に役立つ概念。

(応用は幅広いのですが、例えばインターネットで高速な通信ができるのは、こうした概念のおかげです)



ハミング数は、1,2,3,5 の掛け算だけで作られる数。

1,2,3,4,5,6,8,9,10,12,15... などです。


10,12,60 などを含むため、よく使われる「 n 進法」との相性が良い数値になります。


実は、昔からこれらの数は特別視されていたのですが、ハミングが「効率よくこれらの数字を作り出すアルゴリズムを求めよ」という問題を出したため、ハミング数とも呼ばれるようになりました。


#この問題に対する最初の一般解は、ダイクストラが出したようです。




さて、ハミング符号について説明しましょう。

大学の時に情報理論の講義でこれを知って、感動しました。



1980年代のパソコン少年にとって、「チェックサム」は見慣れたものでした。

雑誌に載っているプログラムには数値データが延々と続く場合があって、入力の際にどこか1カ所間違えただけで、プログラムは動かなくなってしまう。


でも、人間だから打ち間違いは当然生じます。


このミスを防ぐのがチェックサム (check sum) で、当時の雑誌プログラムではお馴染みでした。

sum は「集計」の意味。数値を全部足したものです。


例えば、メモリ上の 16進数を延々と打ち込むのだとしたら、16byte ごとに「全部足して、下1byteだけを取り出した数値」がついている。

数値を打ち込むためのツールの方にもチェックサムを表示する機能があるので、合っていれば打ち間違いはありません。


でも、打ち間違いがある、とわかった時には、どこが間違っているのかを自分で探し、訂正する必要がありました。




同じように「パリティ」という概念もあります。

こちらは、1byte とか 1word の範囲内でのチェックサムのようなもの。


1byte は 8bit ですが、この 8bit を、すべて XOR します。


XOR っていうのは、「2つのビットが違っていれば 1、同じなら 0」という単純な計算で、回路も簡単に作れます。

これを、8bit 分全部行います。


結果は「8bit 中、1のビットが奇数個あれば 1、偶数個なら 0」です。

この結果を「パリティビット」と呼びます。9bit 目として保存しておきます。


再びこのデータを使うときにも、同じようにデータ部分からパリティビットを求め、保存してあった結果と比較します。

合っていれば、データは壊れていません。大丈夫。


壊れていたら? …コンピューターに異常があった、と信号を出して、緊急停止でしょうね。

計算はやり直しですが、間違った計算を延々と続けて気づかない、というよりは良いでしょう。



このやり方だと、8bit のデータごとに 1bit のパリティが必要になります。データを保持する、という意味では、1/9 の無駄。

でも、16bit で 1bit のパリティ、でも構いません。それなら無駄は 1/17 です。


ただし、間違いが起きた個所を特定したい、と考えたときには、「8bit のどれか」まで絞り込めるか、「16bit のどれか」になるか、という違いがあります。

無駄を少なくすると、場所の特定はしにくくなるのです。




ここら辺までは「間違いがないかチェックしよう」という話です。

でも、ハミングが考案した「ハミング符号」(1950)はちょっと違いました。


「間違いがあるなら、直すところまでやってしまおう」というのです。


ハミング符号では、全体の長さに決まりがあります。

必ず、2^m-1 bit にならなくてはなりません。


7 とか 15 とか、今のパソコンで扱うにはちょっと中途半端な単位。

そして、この長さの中に「データ」と「誤り訂正符号」が入ります。


誤り訂正符号の長さは、m です。ということは、全体から mを引いたのが、使えるデータ部分。


全体が 7bit の場合、データが 4bit 、全体が 15bit なら、データは 11bit になります。




話を簡単にするために、ここでは 7bit で考えてみます。


データは 4bit あるので、それぞれのビットに小文字で名前を付けます。

abcd 、としましょう。


誤り訂正符号は 3bit なので、ABC とします。


誤り訂正符号は、全体の中の 1,2,4,8 ... 番目に入っているとします。

全体のビットの並びはこうなります。


ABaCbcd


これで 7bit です。



a は、3番目、2進数で書くと 011 番目に並んでいます。

b は、5番目、2進数で書くと 101 番目です。

c は、6番目、2進数で書くと 110 番目です。

d は、7番目、2進数で書くと 111 番目です。


A は、並び順の最下位ビット…1の位が 1 だった部分のビットのパリティです。

B は、2の位が 1だったビットのパリティ、C は、4 の位が 1 だったビットのパリティです。


XOR を + で表現することにすると、


A = a+b+d

B = a+c+d

C = b+c+d


となります。


これで計算終了。簡単です。




データの 4bit が、 1010 だったとしましょう。

全体の 7 bit は、次のようになります。


1011010


どこか 1bit がおかしくなったとしましょう。

例えば、先頭がおかしい。


先頭は誤り訂正符号ですから、データ部に影響はないです。

そして、データ部から「誤り訂正符号」を求め直すと、パリティ A が間違っている、ということが分かります。


ここで、A が 1の位、B が 2の位、C が 4の位の2進数(つまり CBA と並んでいる)と考えます。

「違った部分」を 1 、正しい部分を 0 として考えると、2進数で 001 という数値が現れます。


これが「1番目のビット」、つまり A が誤っている、という意味になるのです。



今度は、データ部分である a が間違っている、と考えましょう。

誤り訂正符号の計算式をもう一度書きます。


A = a+b+d

B = a+c+d

C = b+c+d


a の部分がおかしいのですから、A B が変化します。

すると、誤り訂正符号は 011 番目…つまり3番目のビットがおかしいことを示すようになります。


3番目のビットというのは、まさに a のことです。

bit の値は 0 か 1 しかないので、「誤っている」のであれば、反転すれば訂正できます。


これで訂正完了。

同じように、どこのビットを変えても、正しく誤りの位置を示します。




数学的に検証してみると、A B C はそれぞれ、ただのパリティにすぎません。

しかし、パリティを取る bit を巧妙に絞り込んであります。


そのため、A B C の誤り検出が、そのまま誤りの「位置」を示せるようになっているのです。

これにより、ハミング符号では、1bit が間違えていても正しく訂正できます。



ここでは、全体が 7bit でした。

誤り訂正符号は 3bit だから、8つの状態があるのだけど、エラーがない場合は「0」になるので、位置を示すのには使えない。


だから、残りの「7つ」の状態で、7bit の位置を示すのです。

これが、全体が 7 とか 15 とか、中途半端に見える長さになってしまう理由。



2進数の性質をうまく使い、非常に巧妙にできています。

大学生の時にこれを知り、ちょっと感動しました。




ちょっと話は違うのですが、室町時代から伝わる手品で、「目付字」というものがあります。

後から知ったのですが、これが、2進数の性質を巧妙に使ったもので、知った時に「ハミング符号」を思い出しました。


本当に、全く目的は違うし、やっていることも違う。

だけど、2進数の性質を同じように応用したトリック。


詳しく知りたい人は、上のリンク先を読んでみてください。

こういう数学トリックを思いつく人はすごいなぁ、と思います。




ハミング符号では、2bit 以上間違えると、誤りを訂正しようとして失敗します。


これを防ぐ「拡張ハミング符号」というのもあります。

「1bit のパリティを付加し、誤りが 1bit か 2bit かを検出できるようにしたもの」です。


長くなるので詳細は省きます。これ以上知りたい人は自分で調べて。



今ではハミング符号よりも巧妙でよくできた誤り訂正符号もあります。


でも、誤りの「検出」しか考えられていなかった頃に、最初に「訂正」という概念を作り出したのは、ハミング符号なのです。

最初にやってみせた、というすごさは、いつまでたっても変わりません。




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名前 内容

西和彦 誕生日(1956)  2017-02-10 09:40:30  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、西和彦さんの誕生日(1956)


日本のパソコン黎明期を支えた人です。

日本のみならず、世界的な影響も与えているのだけど。



とにかく、行動力があります。動かなくてはならないタイミングを逃さない。


日本で TK-80 が発売されたとき、数年前にアメリカでおきた「Altair 8800」と同じ現象が起きる、と直感します。


知人らと共にアスキー出版を設立し、パソコン情報誌の「アスキー」を創刊。

そして、次に必要なのは BASIC だと考えます。


すぐにアメリカにとび、Altair BASIC を作っていたビルゲイツをつかまえ、自分をマイクロソフトの極東代理店にに認めさせてしまう。

…ゲイツの証言によれば、英語が下手で会話にならない日本人がやってきて、「とにかく俺を日本担当にしろ」の一点張りなので、とりあえず帰ってもらうために承諾したのだとか。強引です。


西は、「アスキーマイクロソフト」を設立。社長になります。

さらにその後、マイクロソフトの副社長も兼任します。


でも、これでマイクロソフトは「アメリカの小さな企業」から、世界企業へはばたく足がかりを得ます。

西が、日本で次々と BASIC 開発の仕事を取り付けてきたのです。


日本電気(のちの NEC)の PC-8001/8801、新日本電気(のちの NEC ホームエレクトロニクス)の PC-6001、富士通の FM-8/7 、日立 BASIC MASTER 、沖 if800…


日本のパソコン黎明期に登場したライバル同士ですが、「マイクロソフトの BASICを搭載する」という共通点がありました。


#他にもありますが、代表的なものだけ。

 なお、SHARP の MZ / X1 は独自の BASIC を搭載していました。



PC-8001 などは、NEC の作成する機会に対して BASIC を供給する契約でした。

しかし、if800 などでは設計方針などの重要な会議にも参加していますし、後のハンドヘルドマシン、NEC PC-8201 / Tandy TRS-80 Model 100 などは、設計からすべてを行い、京セラが製造し、販売会社を見つけて売り込んだものです。


#NEC と Tandy のマシンは、ほぼ同じハードウェアで、BASIC などには違いがある。


これだけでも、当時の西の影響力の大きさがわかります。




マイクロソフトを本当に大企業に押し上げたのは、IBM への BASIC と OS の供給でした。


当時のマイクロソフトは、ほぼ「言語専門」の会社。

IBM からの依頼は、BASIC でした。しかし、FORTRAN と COBOL と Pascal も必要としている、と知り、それら全部を供給する契約を結んだのです。


まだ小さなマイクロソフトにとって、これだけでも期日に間に合うか不安な契約。

でも、さらに IBM が OS の供給先を探していると知った時、西がその契約もマイクロソフトで取ろう、と言い出します。


ビル・ゲイツは猛反対したようですが、最終的に西の熱意に負け、IBM に「OS も供給できる」と連絡を入れます。



現在マイクロソフトは巨大企業ですが、このときに西が副社長をやっていなければ、そうはならなかったわけです。




西は日本のパソコン業界に顔が広く、多くのパソコンの構想に関与しました。

先に書いたように、PC-8201 / Tandy TRS-80 Model 100 などは、マイクロソフトとアスキーが設計し、京セラが製造し、各社のブランドで販売されました。


このようなOEM(相手ブランドでの製品供給)の先に、基本設計を共有しながら各社が特色のある互換機を作る、という構想が生まれます。


MSX パソコンの登場です。もちろん、BASIC はマイクロソフト製でした。

もっとも、マイクロソフトは名前を貸しただけで、ほとんどアスキーで作成したそうですが。


#マイクロソフトは、このころすでに 16bit 向け BASIC に軸足を移しつつあり、今更 8bit をやるつもりはなかった。

 ただ、MSX の成功を「傍観」したことで、標準化ビジネスの旨味に気付き、以降 OS の機能拡充により「機種差を吸収し、標準化する」戦略を取り始める。




その後、マイクロソフトの株式公開を機に、西はマイクロソフト副社長を解任されます。


西はマイクロソフトが半導体事業も手掛けるべきだと考えていて、一方ゲイツはインテルと盟友関係にあるので、インテルの市場には手を付けるべきではないと考えていました。


アスキーもマイクロソフトもともに大企業となり、「企業として競合関係にある」ことも兼任を難しくしていたようです。


アスキーマイクロソフトも、マイクロソフトの日本代理店ではなくなりました。

大きな仕事を失ったことで、この後親会社のアスキーにも影響を与えます。




この後はパソコンの歴史というよりは「アスキーの顛末」になってしまうので、話はここらへんで終わりにしましょう。



西さんの人生については、ご自身のページで書かれている年表が詳しいですし、失敗談なども赤裸々に書かれていて面白いです。


また、西さんのページには作成に関わったパソコンなどの一覧もあります。



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ボブ・バーマー 誕生日(1920)  2017-02-08 10:05:55  コンピュータ 今日は何の日

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今日はロバート・ウィリアム・バーマーの誕生日(1920)

愛称は「ボブ」。Robert は一般に Bob になります。


#Rob なのだけど、R の音は発音しにくいので、変化させて B になる。




さて、ボブは ASCII の父として知られています。



以前、世界で最初に { } (弓括弧)を使えたマシンは何だろう、という疑問を調べたことがありあす。


今は、非常に多くのコンピューター言語が、{ } を使います。

これらの最初は BCPL という言語だ、ということになっています。


だけど、昔のマシンでは { } は使えませんでした。

BCPL は { } を使ったというけど、その時代のマシンでなぜ { } が使えたのか? という謎を追ったのでした。



実は、この過程で昔のコンピューターで使える文字セットに興味を持ち、言語との関係や変遷をまとめたのだけど、まだ記事にしていません。

いつか記事にしたいのだけど、タイプライターと文字セットと言語と…と、密接な話題が入り組んで整理しにくいの。




それはさておき、昔のコンピューターにはタイプライターが接続されていました。

そして、タイプライターは活字を持たなくてはならない都合上、それほど多くの文字を扱えませんでした。


これらのタイプライターは「テレタイプ」と言って、操作を紙テープに残せました。

このため、「文字コード」も持っているのですが、各社でバラバラ…いや、場合によっては同じ会社でも互換性がありません。


そこで、統一コードが作られます。これが ASCII です。


当時のタイプライターの紙テープは、5~6bit 記録でした。

しかし ASCII は 7bit として制定され、今までよりも多くの文字を使えるようになったのです。



そして、ボブ・バーマーは ASCII の定義委員の一人でした。

彼は { } や ⃥(バックスラッシュ)、制御コードとしての「ESC」など、多数の文字を入れるよう提案を行っています。


これらの文字は、単に「入れたいから入れよう」というような話ではなく、よく考えて決められています。


当時は、ALGOL が「最良の言語」でした。そして、 ALGOL では、論理演算に ∧ ∨ という数学記号を使います。

だから「それらの文字を入れるべきだ」という意見も出ていました。


しかし、ボブは、すでに入っている / (スラッシュ)に ⃥ を組み合わせれば、論理演算記号を表現できる、と提案したのです。


一部の言語しか使わない文字ではなく、より普遍的に使える文字を入れる。

長く使われる「標準セット」には大切な考え方でした。



そして、ESC は特に重要な提案でした。


ASCII では、「文字コード」を定めようとしていましたが、それは各社のタイプライターの差がなくなってしまうことでもありました。

タイプライターメーカーとしては、新機能を搭載しづらい…業界の進歩が止まってしまうことになります。


ASCII を決定したとしても、いつか新機能を搭載したがったメーカーが「新しい文字コード」を使い始めるかもしれません。

それでは標準コードの役に立たないのです。


ESC は、この問題を解決する素晴らしいアイディアでした。

ESC 文字コードが送られてくると、タイプライタは、ASCII 文字コードから「ESCAPE」…脱出できます。


ESC に続いて送られてきたデータを自由に解釈し、タイプライターメーカー独自の機能を追加できるのです。



ビデオ端末が登場すると、この機能により自由な位置に「カーソル」を動かしたり、文字に色を付けたりできるようになりました。

これによって、初期のテレビゲームや、ワープロなど…「グラフィカルな」ソフトウェアが作られ始めます。


もし ESC が無かったら、端末は文字しか出せないままで、コンピューターの利用用途はずっと限られていたでしょう。



このことから、ボブは「ASCII の父」と呼ばれるのです。


彼は 2004年に亡くなっていますが、彼の作っていた WEB ページはそのまま保持されています。


そのページから、写真を引用させてもらいます。

彼の乗っていた車のナンバーは「ASCII」でした。




ボブは、IBM 、ハネウェル、UNIVAC など、コンピューター黎明期の大メーカーを転々としながら働いています。

ASCII コードの定義委員をやっていたのも、IBM の代表の一人として。


IBM が FORTRAN (1956) を発表した後、ボブは彼自身のプログラム言語を考案しています。


FORTRAN は科学者向けの「数式 ( FORmula) を変換する (TRANslate) 」言語でした。

これに対し、仕事 (COMmercial) でつかえる言語、COMTRAN (1957) を作ったのです。


COMTRAN は普及しませんでしたが、これをベースとして COBOL (1959) が作成され、広く使われるようになりました。




この当時、メモリは貴重でした。

そのため、日付などを入れる際に、1957 年を 57 というように表記するのも当たり前でした。


しかし、これは良いやり方ではない、とボブは気づきました。

このままでは、上の桁が変化する 2000 年には、多くのソフトが誤動作するに違いない。



この指摘を行ったのは、1971 年でした。

2000年問題の危険性の指摘でしたが、当時としては「30年も先に、今作っているプログラムが使われているわけがない」と誰も相手にしなかったようです。


実際には、古いシステムは「誰も完全な動作を把握できていない」ために更新されることなく、使われ続けました。

そして、彼の指摘通り、1990年代後半に社会的な問題となるのです。



彼はこのときにも、2000年問題の対処を再び考えています。

すでにソースコードが失われ、実行バイナリしかないソフトに対してパッチを当て、「50以下は +100 してから比較することで、年の順序を間違えないようにする」というような解決方法でした。


…実際に、これで延命された古いシステムが多数あります。

2050 年に問題が起きるかもしれません。


#さすがにそれまでにはシステムが更新されている…と思いたいが、彼が指摘した 30年後に、実際に 2000年問題は起きたのだ。

 2050年も、あと 33年しかない。



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