今日は何の日の日記です

目次

2017-01-11 アントニー・ホーア 誕生日(1934)
2016-09-27 Googleの誕生日
2016-09-13 Bit-INN オープン(1976)
2016-09-05 Gateway 2000 設立日 (1985)
2016-09-04 google 創立日(1998)
2016-08-31 「人工知能」の生まれた日(1955)
2016-08-29 マイケル・ジャクソン 誕生日(1958)
2016-08-25 Linuxの存在が明かされた日(1991)
2016-08-19 ゴードン・ベル 誕生日(1934)
2016-08-09 宇宙からの初メール(1991)
2016-08-03 カシオミニ 発売日(1972)
2016-08-03 【訃報】シーモア・パパート
2016-08-01 Microsoft Office 発売日 (1989)
2016-07-31 PowerPC 発表(1991)
2016-07-16 ダン・ブルックリン 誕生日(1951)
2016-07-11 岩田聡 命日(2015)
2016-07-07 ドナルド・ミッキー 命日(2007)
2016-07-01 PHSサービスが始まった日(1995)
2016-06-24 【訃報】長谷川五郎さん
2016-06-21 コンピューターが初めてプログラムを実行した日(1948)
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アントニー・ホーア 誕生日(1934)  2017-01-11 11:39:18  今日は何の日

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今日は、アントニー・ホーアの誕生日(1934)


コンピューター科学者で、クイックソートの考案者です。


わかる人には「じゃがいもソート」を思い出してもらえばいい。

…もう4年前になるのか。今では毎年正月の恒例となったNHKの教育番組「大人のピタゴラスイッチ」の、初めての放送時に紹介された動画でした。

ジャガイモの重さを比べながら、軽い順に並べていく。この際のアルゴリズムが、クイックソートでした。


#ちなみに、「しめじソート」もあり、しめじをマージソートで長さ順に並べていました。



ソートというのは「何かを基準に並べること」です。

いろんなアルゴリズムがあるし、適材適所で使い分ける必要がある。


クイックソートは、考えられた当時としては超早かったので「クイックソート」と名付けられましたが、今ではもっと高速なアルゴリズムもあります。

でも、ソートって「理想的な場合」と「最悪の場合」で速度が違うのが普通だし、理論上は速くてもプログラムがややこしくなるのであれば結局遅いし、今でもクイックソートはイイセン行っています。



上は YouTube にあったソートアルゴリズム比較。真ん中がクイックソートです。

繰り返し、いろんな条件でソートを行っているのだけど、クイックソートが平均的に速いのがわかります。




ソートっていうのはアルゴリズムの基本で、いろんな考え方がある、くらいには知っておいた方がいいです。

プログラマでない限り、詳細に知っている必要はないけど。


「検索アルゴリズム」も基本なのですが、検索前に並べてあるのが前提というのも普通だったりもします。

だから、やっぱりソートは重要。


例えば、辞書はすぐに目的の語を検索できます。

これは、辞書の項目が「あいうえお」なり「ABC」なりの順にソートされているためです。


そして、ソートアルゴリズムの中には、「すでにソートされている」ことを前提に、新しい要素を入れる場所を高速に探し出すものもあります。

これ、「ちょうどよい位置を探す」なので、検索アルゴリズムなのね。ソートと検索は密接な関係にあるのです。




「順番に並べる」ための方法をソートと呼ぶので、何もすべてが「計算機で実行できる」わけではありません。


昔、「パスタソート」という話を聞いたことがあります。折れてしまったパスタを長さ順に並べる方法。

パスタをまとめて立てたら、「輪っか」を下から持ち上げていくだけ。

短いものから順に、支えを失って倒れます。倒れたところを傾斜にしておけば、転がって短い順に並んでくれます。



僕は世代じゃないので実際に見たことが無いのだけど、昔の図書館では目録を「検索カード」で管理していたそうです。

著者名順とか、署名順とかで並べられている箱があって、その中でカードを探し出せば、どこの棚に本が置かれているかわかる。


カードの上部…肩の部分には、すべて同じ位置に穴があけられています。

でも、この穴は、「穴」として存在しているものと、穴の上部を切り欠き、カードの辺の「凹み」として存在しているものがあります。

カードを束にして、穴に棒を通して持ち上げると、「穴」のものだけが釣り上げられ、「凹」は下に残ります。


これで、カードを2つに分類できました。


実は、穴は複数空いています。

カードを2つに分けた後、それを「前後」になるように束にして、再度別の穴で持ち上げる。

実は、穴か凹かは2進数になっていて、繰り返すことでカードの束を順番に並べられるのです。


(下の桁から繰り返し、最後に一番上の桁を処理すると、ちゃんと並ぶ)


これもまた、ソートアルゴリズムです。




僕が作るようなプログラムは、ゲームなんかが多いので、使うのはもっぱら挿入ソートです。

非常に単純なアルゴリズムで、あらかじめソート済みの時には十分な速度で動く。


10位までのハイスコアランキング、とかなら全く問題ないし、アルゴリズムが単純なのでむしろ速い。


3D描画のためにポリゴンをZ軸に従って順次並べる…なんてことになると、もっと高速なアルゴリズムが必要になります。

何百も、場合によっては何万ものデータを、かなり短い安定した時間で並べる必要があるからね。


Amazon とかでお買い物をすると、他の類似商品をお勧めされることがあります。

これもソートアルゴリズム。何らかの指標で購入製品と別の製品の「類似度」を測り、類似度が高いものから順にお勧めしているのです。


同じように、google 検索も検索文にマッチしたものの中から、様々な指標で「お勧め度」を算出して、ソートして表示しています。


ページそのもののお勧め度もあるし、更新日付の近さや地理条件なども順位に関連する。

だから、同じ検索内容でも、日によってソート順序が変わったりもします。


何十万もあるページの中から瞬時にソートするには高度なアルゴリズムが必要です。




コンピュータープログラムでは、ソートは基本です。

今の世の中はコンピューターがいたる所にありますから、そこらじゅうソートアルゴリズムだらけ。


もちろん、用途に応じて新しいソートアルゴリズムなんかもまだ考案されたりしています。

でも、クイックソートは古典でありながら、今でも十分利用されているソートアルゴリズムの一つです。



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別年同日の日記

04年 住宅展示場

06年 自宅で新年会


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Googleの誕生日  2016-09-27 14:59:35  コンピュータ 今日は何の日

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会社なのに誕生日、というのも不思議な言葉ですが、Google 社内で「創立日」とはべつに「誕生日」が決められているのだそうです。


googleドメインを取得したのが、1997年の 9月15日、google という会社が登記(創立)されたのが 1998年の 9月 4日。


ちなみに、ドメイン取得前から検索システム自体は存在していました。

1996年に開発開始で、そのころは BackRub と呼ばれていたそうです。


9月に節目があるのは、アメリカでの「新年度」が 9月に始まるからでしょうね。


何度も 9月に節目を迎え、どこが「誕生」かはよくわからないのも事実。

だけど、何かお祝いしたいために 27日が誕生日としているようです。


google については「創立日」にいろいろ書きましたので、そちらも併せてお読みください。



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コンピュータ

別年同日の日記

03年 インベーダー25周年

08年 トミカ博

13年 ラリーウォールの誕生日(1954)

14年 アラン・シュガートの誕生日(1930)


名前 内容

Bit-INN オープン(1976)  2016-09-13 10:50:27  今日は何の日

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今日は NEC Bit-INN がオープンした日(1976)。

…だそうです。


ごめんなさい。僕当時のこと知らないし、後の…ただのショールームになった Bit-INN には行ったことあると思うのだけどよく覚えていない。


だけど、日本のパソコンの歴史では、重要な施設でした。




1976年の8月3日、日本電気(NEC)から、TK-80が発売される。


当時は「CPU」というあたらしい LSI が作られ始め、どうやらこれを使えば個人でコンピューターが持てるらしい、と電子工作マニアが興味を持っていた時代。


世界初の「パソコン」とされる、 Altair 8800 の発売は 1975年。

まだ電子工作マニアのためのものだった。


組み立て済みの製品が発売され、誰でも使えるようになるのは、1977 の Apple II まで待たなくてはならない。



#余談だけど、Altair 8800 を作ったエド・ロバーツの誕生日は、奇しくも9月13日。



TK-80 も、万人に向けて作られた商品ではなかった。

電子工作マニア向けですらない。NEC が扱うことになった、全く新しい LSI …「CPU」が、どんな用途に使えるのか、企業などで電子回路を設計している人に伝えるための製品だった。


だから、名前も「TK」、トレーニング・キットとなっている。

1年くらいかけて、全部で千台程度売れればよい…というものだった。


ところが、電子工作マニアがこれに飛びついた。

TK-80 は飛ぶような売れ行きで、数か月後には月産千台では生産が間に合わない、入手困難なヒット商品となった。



これだけ売れると、当初の想定ではない「お客さん」が出始める。

技術者だたら、組み立ててみて、動かなかったら自分で原因を探るだろう。


でも、「組み立てればマイコンが手に入る」と思っているお客さんは、動かなかったらショックを受けるし、原因を探る能力もない。


さらに、動いたとしてもそれで何をすればいいのかわからない。

試しに「3+4=?」とプログラムする程度のことは出来るのだけど、それ以上のプログラムを作れない。




TK-80 は、新しい LSI の販売を促進する目的で設計された。


実は、同じ目的で違う手段が用意されていた。

日本電気の販売特約店「日本電子販売」が、LSI 宣伝の拠点として、秋葉原に40坪のショールームを構えるための準備をしていたのだ。


急遽、ここに TK-80 の相談コーナーが設けられることになった。

3坪でいいから、というNECからの要請に、30坪のスペースが用意された。

LSI のショールームの予定だったが、事実上「TK-80の店」になった。


そして、NEC Bit-INN は 1976年の9月13日にオープンした。



当時のNECは、電電公社(国営企業。現在のNTT)の関連企業。

仕事のやり方も「お役所」で、残業や休日出勤はなかった。


しかし、TK-80 を設計したグループの本人たちが直接、土日に相談に乗った。

月曜日から金曜日は通常通り業務を行う。休みなしだった。


労務担当者からも、労働団体からもクレームがついたらしい。

でも、当人たちが「趣味でやっているだけで会社の業務とは関係ない」とごり押しして認めさせたらしい。



TK-80 を購入したものの、組み立てすらうまくいかない、組み上がってもその後何に使えばいいかわからない、というユーザーにとって、Bit-INN は救いのオアシスとなった。


ここに行けば、趣味を同じくする仲間とも巡り合える。

実際、ソフトバンクの孫正義や、アスキー創業者で元マイクロソフト副社長だった西和彦なんかも入り浸っていたらしい。




Bit-INN では、パソコン購入前の相談も良く持ち込まれたらしい。


シンセサイザー音楽の演奏に TK-80 を応用できないか。

医療保険の点数計算に TK-80 を利用できないか。



TK-80 は「回路を学ぶ」ことを目的としたもので、実用性はなかった。

しかし、個人でコンピューターを持てるなら、こんなことに使いたい…という応用例が、お客さんの方からどんどん上がってくる。



TK-80 はそのような用途で作ったわけではない、と最初は思っていたらしいのだけど、徐々に「そうした需要にこたえられるコンピューターを作れないか」という思いに変わっていく。


これが、後に TK-80 の拡張である TK-80BS や、PC-8001 を生み出すことにつながる。




当時、秋葉原は「無線の街」だった。

当時はラジオ作成やアマチュア無線が「ホビーの王様」で、そのための電子工作部品を売っている店が集まっていた。


もちろん電子工作というつながりで、TK-80 のユーザーが秋葉原に集まるのは悪くない。

でも、パソコンはすぐに「完成品」を売るようになり、電子工作とは違うものになっていく。


しかし、Bit-INN の存在したラジオ会館には、他のパソコンメーカーもショールームを作るようになる。

パソコンに興味のある人は秋葉原に集うようになり、秋葉原全体が「パソコンの街」に変貌していった。



そして、「中心地」を持つことは、文化にとっても商業にとっても望ましい。

秋葉原にはパソコンショップが軒を並べ、独自の商品を競った。


他社では売っていない拡張ボードだったりとか、独自開発したゲームだったりとか。

パソコンを求めるお客さんが集まるから、どんなものでも売れた。売れるからどんなものでも作れた。


この好循環で、日本のパソコン文化は一気に花開いていく。



その最初のきっかけが、40年前の今日、Bit-INN がオープンしたことだった。

NEC Bit-INN は、その後もショールームとして横浜・名古屋・大阪に展開されていたけど、今はもうない。



2016.9.16追記

当初、最後の2行の間に次の記述が入っていました。


『今でも店舗跡には「PC発祥の地」と記されたプレートがある。』



ラジオ会館が建て替えられたので、すでにこのプレートはないという指摘をいただきました。

そういえば、建て替えたのだった…子供生まれてから秋葉原から足が遠のいているので、すっかり忘れてました。

お詫びいたします。


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別年同日の日記

02年 美味しいケーキ屋さん

04年 コンビミニ

07年 ショック!!

13年 エド・ロバーツの誕生日(1941)

14年 スーパーマリオブラザースの発売日(1985)

14年 プログラマーの日


名前 内容

Gateway 2000 設立日 (1985)  2016-09-05 15:47:24  コンピュータ 今日は何の日

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今日は Gateway 2000 の設立日 (1985)


一応まだブランドとしては残っているらしいのですが、覚えている人…というか、知っている人がどれくらいいるでしょうか?


パソコン自体には特に特徴がない、何の問題もなく使えるけど目立った特徴もない、というのが特徴。

通信販売中心で、送られてくる箱が非常に大きいのと、その箱が白黒の「牛柄」なのが強烈な印象でした。


一時期、パソコンと言えば Gateway 2000 という時代もありました。

それくらい売れていたのだけど… 強く輝いて去っていった、彗星のような存在です。




話としてはこれで終わりだよなぁ…


あとは Wikipedia に書いてある程度の情報しかない。

1985年にアイオワ州の農場の一角で創業して、DELL コンピューターのビジネスモデル(通信販売で、お客さんの注文を受けてから組み立てる)を真似して急成長します。


1989年に、牧場の写真と「アイオワからコンピューター? (Computers from Iowa?) 」のキャッチコピーで広告を出して有名に。

それ以来、牛柄の箱をブランドイメージにして急成長します。



日本では、まだこの頃は NEC の PC-9801 シリーズが一人勝ちの状態。

もっとも、IBM が DOS/V で日本語を使えるようにして、徐々にシェアを伸ばしてはいました。


1993年に Windows 3.1 が発売され、OS が徐々に Windows に移行していくと、98 でないといけない理由も無くなります。

98 に比べ、性能が良いのに値段が安い PC/AT 互換機が急に売れ始める。


でも、この頃は「互換機」なのね。

IBM 製ではなく、有名メーカー製ですらなく、秋葉原のショップが組み上げたマシンとか、部品単位で購入して自分でくみ上げるとか、そうするのが普通だったし、特に有名な互換機メーカーもなかった。


この、保証やサポートも弱いし、知識がない人には難しそうな印象で PC/AT 互換機はまだ伸び悩んでいました。


1995 年、Windows 95 が発売されます。

それと同時期に、Gateway 2000 も日本法人を作り、日本での販売を開始します。


先に書いたように、秋葉原のショップマシンは、安いけれども保証が十分ではありませんでした。

Gateway 2000 は、同程度の値段で十分な保証付き。ただし、完全に自分でカスタマイズできるわけではなく、ある程度完成したマシンに、メモリ容量は HDD 容量を決定するだけの、セミカスタムです。


いや、それだからこそ、初心者にもわかりやすい構成でした。

Gateway 2000 のパソコンは非常に売れて、どこの会社にも牛柄の大きな箱が置いてあったものです。


…邪魔だから、たくさん買った際は「問題があった時に送り返す用に1つ置いといて、後は潰して捨てる」のが普通だったんじゃないかと思います。


僕のいた会社ではそうしていたし、人気漫画の『OL 進化論』にもそんなネタが出ていました。

同マンガではパソコンの話題とかあまり扱わないので、珍しかったがゆえに覚えています。




Gateway が Amiga の権利を買い取ったことがあります。


Amiga は熱狂的なファンのいる、独特な設計のマシンでした。

しかし、1994 年には設計者が死に、発売元の Comodor社も倒産しています。


その後、Amiga の権利は各社を転々とし…Gateway が購入するのです。

ファンは Gateway の開発力で、後継機を作ってくれることを望みました。


…が、そんな面白い展開にはならず。

子会社として Amiga 社を作って、一応開発はしていたようですが、とても商売にならないとみると、子会社に権利を売却して独立させています。



また、eMachines 社も合併していました。

こちらも、安くて性能のいいマシンを作っていた会社。しばらくはブランドが残っていましたが、現在無くなっています。




Gateway 2000 は、所詮は「DELL の真似」でした。

一時期は DELL 以上のシェアを持っていたのですが、結局 DELL に徐々にシェアを奪い返されます。


1998 年には、社名を Gateway に変更します。

もともと「2000年(未来)への懸け橋」という意味合いの社名でしたが、2000年はもう目の前でした。


しかし、その 2000 年にはアメリカ本社の経営が悪化。

翌 2001 年には経営規模を大幅に縮小します。


このときに日本からも撤退しているのですが、先に書いた eMachine を買収した際に、eMachine 社の日本での流通網を生かす形で再上陸しています。


しかし、努力もむなしく、2007 年には台湾の Acer に身売り。

現在も Gateway ブランドは残っているのですが、以前の勢いはすでにありません。


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コンピュータ

別年同日の日記

11年 メールアドレス隠蔽の戦略

13年 ジョンおじさん


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google 創立日(1998)  2016-09-04 17:15:24  今日は何の日

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今日は google 社の創立日(1998)。


「社の創立日」というのがミソで、実際にはその前からドメインとってサービス開始していますね。


僕が初めて google を知ったのは、たしか 1999年。

全く新しい概念で検索するサービスだ、と、当時購読していた新聞に記事が出ていたのではなかったかな。


このときはまだ日本語対応していませんでしたが、試してみると日本語でも高品質にページを検索していました。

当時はまだ page rank の仕組みなどが紹介されておらず、日本語対応していないにもかかわらず高品質に検索する、というシステムが、いったいどうなっているのかと驚きました。

(正式に日本語に対応するのは 2000年 9月)




今では驚きも無くなった「Page rank」は、WEB のリンクを、リンク先への「投票」と考えて、より投票が集まるページを「みんなが参照したがる良いページ」と捉えるものです。


リンクは、1リンク1票ではありません。投票の集まる良いページからのリンクは、より高い価値がある。

皆が認める良いページに書かれた情報は良いものだろう、という考えが根底にあります。


当初はこの仕組みのみの、非常にシンプルな方法で順位を出していました。



でも、シンプルな仕組みは悪用されます。

いわゆる「リンクファーム」という、大量にリンクしあうだけのページ群が作られ、票を稼ごうとする手法に対し、リンクファームを見抜いて票を無効にするプログラムが投入されます。


すると、リンクファームはより巧妙になり、リンクファームだと見抜かれにくい構造を取ります。


あとはイタチごっこ。


こうした「検索エンジンに良いページと認識させる」方法はサーチエンジン最適化(SEO)と呼ばれ、Google は SEO を嫌います。


今でも基本的には最初のアイディア、「みんなが参照したがるページは良いページ」と考えていて、そうでないのに順位を上げる、SEO 「だけ」で上位に表示されようとするページを排除しようとし続けています。



これ、WEB ページを作ることで暮らそうとしている人には大変。

見てもらうことって何よりも大切だからね。


Google の気まぐれで順位が上がったり下がったりするっていうのは、死活問題。

順位の決定方法を明らかにしない Google に対する批判もあります。




僕のページは大して人気ない(趣味で作っているだけだし、内容がマニアックすぎるのは自分でわかっている)のですが、それでも Google の順位付けがどうにかならないかな、と思う事は多々あります。


一番腹立たしいのは、記事内容をコピーしただけの盗作ページが上位に来たりすること。

これ、「情報の鮮度」も重視していて、書いて数年たったページよりも、同じ内容をコピーしたページのほうが「新しい」と考えられて起こる現象。


もっとも、これは Google の責任ではないとも思います。

悪いのは盗作をする人であって、Google も盗作に対しては「検索結果から除外する」ための仕組みを用意している。


盗作と思われるページは自動的に順位を落としたりもしているようですが、こちらはどうも精度が悪い。

(完全コピーページならともかく、内容の一部切り張りなどは盗作と判断できないみたい)



残念ながら、機械で対処できない部分は「モラル」に期待するしかないようです。

(この対処方法はすでに破綻している、と思ってもいますが)




Google は当初、検索エンジンだけを手掛けるシンプルな商売をやっていました。

検索エンジンを別の会社に貸し出して儲けたりしていた。


でも、AdSense で「広告ビジネス」をはじめます(2003)。

どうも、これが転機となった感じ。


広告ビジネスは、広告枠を多く獲得することが何よりも重要です。

そのためには、インターネットをストレスなく使ってもらうことが必要。


軽量ブラウザが必要ではないか、と Chrome Browser を開発します(2008)。

また、DNS の遅さを解消するため Google DNS を始めます(2009)。


しかし、それらはまだインターネットが「PCのネットワーク」だった頃の話。

PCがなくても、いつでもどこでもネットを見られるように、Android を開発します(2008)。

また、低スペックの安いマシンでも軽快に使える OS として Chrome OS を開発します(2009)。



別に収益の上がる広告ビジネスを中心に考えてきたわけではなく、いったいどこで収益を上げるのか不思議な、単に「ユーザーに使ってもらいたい」だけのサービスも数多く展開してきました。


Gmail (2004) は今では多くのユーザーが使い、ここでも広告を表示することで収益を上げています。

Google Map (2005) も当初は商売抜きに考えられていましたが、今では店舗情報の掲載など、重要な広告媒体として収益を上げています。


一方で、自動的に顔を認識して写真を仕分けてくれる Picasa (2004) は、収益が上がらず中止してしまいました。

写真ストレージサービスとしての Google Photo は残っていますが、以前とは全く別の使い勝手のものです。


google Pack という、便利なソフトをパックにしたサービスもありました (2006)。

これは、Chrome OS の「すべてのアプリケーションを Webサービスとして統合する」考えに従う形で、Google Apps に移行する形で提供中止。


Google Apps は Gmail を中心とした「Webサービス」の総称ですが、すべてのアプリで作成したデータを保存する中核としての「Google Drive」の提供(2012)で実用的になったように思います。


他にも、消えていったサービスは数知れず。

僕も、先に書いた Picasa を始め、ローカルマシン内の検索を行う Google Desktop (2004) とか、google のトップページに自由にガジェットを置いて情報を集約する iGoogle (2005) とかを便利に使っていたのですが、サービス停止で困った覚えがあります。


収益が上がらなければやめる、というのは企業として当然なのですが、特に iGoogle は利用ユーザーも非常に多く、利用してもらえなかったのではなくて、「ユーザーを多数集めたのに収益に結びつけられなかった」という感じ。


参考資料:Google のさらに詳しい歴史



Google が「Evil にならない」と明言したのはずいぶんと昔の話。


いや、今が Evil だというのではないですよ。

Google の社是として「Evil にならない」が掲げられているのは今も同じ。


でも、Evil (悪) って曖昧な言葉で、人の数だけ感じ方がある。

今では Google は大企業ですが、大企業というだけで悪だとみる人もいる。


特にアメリカでは「アイディアさえあれば競争できる」のが理想とされます。

体力がある大企業は「アイディアがなくても企業体力で生き残れる」という悪しき存在にされることがあります。



当初、Evil と言ったときに、マイクロソフトを想定していたのだそうです。

それも、マイクロソフトの何が Evil だというのではなく…ただ何となく。

(これも、マイクロソフトが大企業だったから、程度の理由でしょう)


一応、マイクロソフトはソースを公開していないから Evil で、Google はそうならない、と説明したこともありました。

だから Chrome はソースを公開した。


でも、Google 検索プログラムのソースが公開されたことはないはずですし、Gmail だって公開されてない。

あれはソフトを販売しているのではなく、サービスを提供しているだけだという言い訳もできますが…


企業秘密を開示できないというのは企業にとって当然のこと。

マイクロソフトだって Evil じゃないと思いますし、Google だってももちろん Evil ではないでしょう。



現在の Google のサービスは、Web でサービス提供しているものが中心で、その都合上「重要な情報を預ける」必要があります。

これに不安を持つ人も非常に多いから、Google としては「Evil にならない」ことを明言しないといけないのでしょうね。


重要情報を預かるからこそ、それを悪用しないと宣言する。


ただ、やっぱり何が Eivl か、人によって考えは異なるので、Google は Evil だ、と感じる人がいるのも仕方がありません。


もっとも、その場合はマイクロソフトか、ヤフーか…結局どこかに情報は預けないといけなくなるように思います。



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14年 ジョン・マッカーシーの誕生日(1927)


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「人工知能」の生まれた日(1955)  2016-08-31 11:02:56  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、Artificial Intelligence という語句が生まれた日。

略して AI 。日本語では「人工知能」と訳されます。


Art というと美術とか芸術と訳されることが多いのだけど、原義は「技巧」。

Artificial となると「技術的に作り上げた」という意味になり、「人工」と訳されます。


Intelligence は知能、理解力、思考力、知性など、頭の良さを意味する言葉。


Artificial Intelligence で、「技術によって作り出された知性」の意味で、人工知能と訳されるわけです。




以前にも書いたことがありますが、ジョン・マッカーシーという方がいました。

MIT の教授で、学生に積極的にコンピューターを開放して、ハッカー文化を花開かせた功労者の一人です。



彼が助教授になったのは MIT ではなく、ダートマス大学です。1955年のことでした。

数学の博士号を持っており、知能を数学的に表現する研究をしています。


アメリカの大学は、夏休みが長いです。

また、アメリカの大学は企業と共同で研究を行うことも多いです。


マッカーシーは、1955年の夏休みに、IBM で仕事をしていました。

そして、そこで別の研究者に出会います。


当時ハーバード大学に在籍していた、マービン・ミンスキー

彼は幅広い知識を持つ数学者で、マッカーシは彼と共に「考える機械」の可能性を語り合いました。



そして2人は、このような話し合いがもっと広くできないものかと考えます。

そこで、IBM で同様の研究をしている人を探し当てました。


ナサニエル・ロチェスター。

彼は MIT で Whrlwind I の設計に携わった後、IBM に入社して IBM 701 の主任設計士を務めています。

さらにその後、IBM でパターン認識やニューラルネットワークの研究を行っていました。


そしてもう1人、コンピューターの話をするなら当時この人は外せない、クロード・シャノンとも連絡を取ることに成功します。



夏休みの最後の8月31日。マッカーシーは彼らに、来年の夏に自分の大学に来てほしい、という招待状を送ります。

この招待状の中で、マッカーシーは彼らが興味を持って研究している分野に対して名前を付けています。


その、新しい分野を示す語句が Artificial Intelligence、人工知能でした。




翌年の夏、マッカーシーは約束通りにダートマス大学で会議を行います。

ロックフェラー財団が、この会議を行うための費用 $7,000.- を出資しています。


会議は、10人の研究者が集まり、多様なテーマについて1か月の間熱く語り合うものでした。


事前に挙げられた会議テーマは、コンピューター、自然言語処理、ニューラルネットワーク、計算理論、抽象化と想像力。


自然言語処理は、現在の機械翻訳などの元となっている技術です。

ニューラルネットワークは、ディープラーニングの元となる技術。

計算理論は、コンピューターを動かすための理論。


抽象化と想像力というのは、むしろ人間の問題。

「抽象化」というのは、例えば林檎を見て「りんご」という言葉で認識するような問題です。

そして、リンゴという言葉から、アップルパイのように全く違うものを連想できる。


一体人間はどのようにしてそれを成し遂げているのか?

哲学的な問いですが、人工知能の研究…「人間はどのように考えているのか」を明らかにしようとする研究では、これは一番大切なテーマです。


ここに挙げられたテーマは、扱い易そうなものから扱いにくいものまで、「人工知能」に関係しそうなことであればどんなものでも取り上げる、という姿勢です。

実際の会議の内容はよくわかりませんが、事前に用意されたテーマでなくても、自由な雰囲気で話し合いができたようです。


#言い方は悪いのですが、ずっと雑談しているようなもの。

 「会議」という名前が示すような固いものではなく、とにかく同好の士が一緒に生活しながら、寝ても覚めてもアイディアを語り合う場です。



この会議は大成功だったそうです。

これによって初期の人工知能研究は一気に進展します。




この会議の後、マッカーシーは MIT に移籍します。

その後、マービン・ミンスキーも合流するように MIT にやってきます。


マッカーシーが MIT の学生にコンピューターを開放したり、非常に高価な IBM 7094 を改造してマルチタスクにしてしまったり、マービン・ミンスキーと一緒に獲得した「研究費」である 300万ドルを好き勝手使い始めるのは、その後のこと。


結果的に、人工知能研究を強力に推進したことになるのですけど、日本ではなかなかいなそうなタイプです。




さて、人工知能は近年急速に進歩しています。

人間の命に直接かかわるような判断そのものにも使われ始めている。


今年8月の頭には、人工知能が、多くの医師が見抜けなかった難病を見抜き、治療法まで正しく示したために命が助かった、というニュースが伝えられました。

積極的に命に関与したかったわけではないけど、結果的に人の命を助けた人工知能です。


その一方で、自動車の自動運転技術なども開発されています。

上の話の1か月前…7月頭には、世界で最初の自動運転車による死亡事故が起きています。


こちらも、自動運転とはいえ運転手はハンドルを握らないといけない決まりでした。

にもかかわらず任せっきりにしていたが故の事故。AIに全面的に責任があるわけではありませんが、結果的に人命を失ってしまった。


今後も、自動運転車などでは、AIは責任を負えないので最終判断を人間ができるようにしたほうが良い、という意見と、人間にはミスがあるので究極的にはすべてをAIに任せた方が被害を最小に食い止められる、という意見の両方があります。


そして、同じことは積極的に「人を殺す」ための、戦闘兵器についても議論されています。

すでにイスラエル軍はロボット兵器を実戦配備し始めています。


まだ人間のサポートを必要としますが、最終目的は、自動的に敵を殺せるようにすること。


人を殺す判断を機械に任せてよいのか、という議論もあります。


一方で、機械だからこそ、確実に敵だと判断できるまでは、たとえ危険にさらされても攻撃しない、味方や非戦闘員への誤射を無くせるという期待もあります。


ロボット兵器により、戦争が今よりも「安全になる」という期待です。




ダートマス会議では、想像力のような人間側の問題も話し合われました。

そして、十分に人工知能が進化した今、やはり最後に残された問題は、道徳や倫理といった人間側の問題となっています。


自動運転車が事故を避けられない時、乗員1名の命を守ろうとしたら、3人の人をひき殺さないといけないとします。

でも、わざと壁に突っ込めば3人の命を助けられる。乗員は死亡しますが。


こうした状況をどう判断するか、究極の決断を迫られているのは、まもなく人工知能社会を迎える、我々全員なのです。





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コンピュータ

別年同日の日記

10年 1回忌

15年 夏の終わりの素数

15年 DOSBoxで日本語表示・JP106キーボード・UBASIC


名前 内容

マイケル・ジャクソン 誕生日(1958)  2016-08-29 14:29:52  今日は何の日

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今日はマイケル・ジャクソンの誕生日(1958)。


でも、すみません。

僕マイケル・ジャクソンに関してそれほど詳しくないですよ。


音楽をそれほど聞かないし、洋楽となるとなおさらわからない。

でも、マイケル・ジャクソンはゲーム業界…特にセガとは仲が良かったので、ゲーム関連の話題として書いておいても良いかと思います。




マイケルの生い立ちとかは飛ばします。

僕が書くよりもずっと詳しい話が、ネットを探せばいっぱいある。



とにかく彼は世界で一番売り上げたレコードの記録を持っていましたし、お金もたくさん持っていました。


でも、それと引き換えに「自由」を失っています。

あまりにも有名になりすぎて、家から出ることもできない。

子供の時から芸能界に入っていたため、遊ぶ友達もいない。



その時期が、ちょうどテレビゲームの黎明~黄金期と重なっていました。

彼は家の中でテレビゲームで遊び、テレビゲームが友達でした。


自宅に遊園地を作り、ゲームセンターも作り、多数の業務用ゲームを個人で所有していました。

特にセガのゲームが好きで、当時一番効果だった業務用ゲーム機「R-360」を個人で買ってしまったことも話題となっていました。


マイケルは、世界ツアーを度々行っていたので日本にも来ていました。

ツアーの際にはもちろん、それ以外にも打ち合わせなどで「お忍び」で来日しています。


そういうお忍びの際には、セガ本社を訪れることもたびたびありました。


R-360 も、セガ本社で一度体験し、即決で購入を決めたのだそうです。

ちなみに、値段は 1600万円。




セガから発売されたゲーム、「マイケルジャクソンズ・ムーンウォーカー」は、マイケルの持ち込み企画だったそうです。

といっても、同名の映画が同時期に作られていますから、映画のストーリーを活かしたゲームを作れないか、程度のアイディアを持ち込んだのではないかと思います。


映画のストーリーでは、マイケルは麻薬組織に誘拐された子供たちを取り戻すために戦います。

ゲームも、ほぼ同じストーリー。

映画もゲームも、実際にはマイケルの歌と踊りを見る内容で、ストーリーなんてあってないようなものですけど。


セガが作ったゲームは、業務用とメガドライブ用で、同じタイトルですが違う内容でした。

世間的に評価が高いのはメガドライブ用だと思います。



このゲーム、内容的に突飛なので「クソゲー」とされやすいのですが、結構面白くて僕は好きです。


もっとも、3面クリアしたら電源をそっと切るゲームかなぁ…

僕としては、ソニック・ザ・ヘッジホッグも3面クリアで電源を切るゲーム。

メガドラには、よくできているのだけどだらだらと長すぎるゲームが多いように思っています。




マイケルとセガは友好的な関係にありました。

しかし、この後マイケルが、児童虐待で訴えられます。


アメリカでは、児童虐待は日本よりも「人でなし」のイメージが強いです。

このスキャンダルで、マイケルのイメージは地に落ち、ゴシップ誌などでも彼を悪く書くことが流行します。


やはり、黒人であることで快く思っていなかった人も多いのかもしれません。

とにかく、マイケルを叩いておけば話題に事欠かないし、売り上げも上がる…そういう状態でした。


児童虐待は、金持ちのマイケルから何とかして金を手に入れようとした人のでっち上げだった、と後にわかっています。

しかし、一度落ちたイメージは回復しません。



この裁判の直前に、マイケルはアメリカでも人気のあった、ソニック・ザ・ヘッジホッグの次回作があるなら、是非音楽を作らせてほしい、とセガに言っていたそうです。


ここでの「次回作」は3のことで、実際にマイケルが音楽を書いたという噂もあります

ただ、裁判になってしまったのでマイケルの名前を出せなくなり、発売時には公式見解として「音楽は社内制作」となった。


あとから出てきた証言や状況証拠的に、どうやらマイケルが作った音楽がそのまま使われていたらしいのですけどね。


全然別の部署で作られているゲームですし、僕は真偽のほどは知りません。




裁判がひと段落してから、マイケルは何度かセガにお忍びで来ていました。


ちょうど20年ほど前だったと思いましたが、僕のいた部署にも来ています。

そのころはプリント倶楽部が流行していたので、マイケルもプリント倶楽部を1度遊び、シールを持って帰りました。


…ところで、プリント倶楽部って、コンティニューで「今のシールをもう1枚作る」機能があるんですよね。

マイケルが帰った後、大量印刷して奪い合いになっていました。



さらに後には、「スペースチャンネル5」などにも出演していますね。

歌って踊るゲームね。


このときは、完成したゲームを見せたところ「是非出演したい」と言われて、急遽最終面にゲスト出演となったそうです。

後の続編では、準主役として出演しています。




アメリカは日本人が思っている以上に階級社会で、社会的に成功し、富と名声を得たものは、上流社会の仲間入りをしたがります。


マイケルの肌が、黒人なのに白くなっていったのは病気のためです。

しかし、彼が「白人になりたがっている」というゴシップが語られていました。

これもまた、白人でないと上流社会に入りにくいためです。


しかし、実際のマイケルは、黒人であることを恥ずかしいなどとは思ってませんでしたし、むしろ自分の出自である貧困層と共にいたいと思っていたようです。



テレビゲームのようなものは、上流階級の人は遊びません。

…まぁ、実際はどうか知りませんが、少なくとも遊んでいると公言するようなものではない。


しかし、マイケルは自宅にゲームセンターを作り、公言していました。

「底辺層の娯楽」を楽しむ、決して上流層に媚びようとはしていない姿勢を見せたのです。


これもまた、貧困層と共にいることを伝える、メッセージだったのではないかと思います。





最後に自分の話を。


最初に書いた通り、僕はあまり音楽聞きませんし、洋楽になるとなおさら聞いていません。


でも、メガドライブの「ムーンウォーカー」が結構好きだったので、元ネタとしての映画「ムーンウォーカー」は一応見ている。


一時期ペンネームとして「WIZ」を使っていたので(西武企画のゲーム「魔法使いWIZ」が好きでした)、マイケルジャクソンが出演した映画「WIZ」も一応見ている。


あまり知らないのは事実なのですが、ちょっと話題に書きたいと思う程度には追いかけてますね。



でも、深入りしてはいなかったので、ゴシップ誌が書くような悪いうわさも真に受けてました。

死んだ後でいろんな話が伝えられ、そこでやっと噂が根も葉もなかったと知りました。



実は、先に書いたプリクラシール、僕は持ってません。同じ部屋にいたのだけど、遠目にちょっと見ただけで、それほど見ようとも思わなかった。


当時はまだ悪い噂が残っていたせいもあります。

折角世界的大スターが近くに来ていたのだから、もう少し見とけばよかったかな。




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別年同日の日記

13年 次女発熱


名前 内容

【隆三】 まさかここでセイブWIZの話題になるとは。アイテムや敵のパターンもランダムな運ゲーなのに独特の世界観が妙に魅力的で好きなゲームでした。昔、駄菓子屋の20円アップライト筐体や銭湯に置いてあったテーブル筐体でプレイしました。それにしても、マイケルももう居ないんですね… (2016-09-03 20:39:08)

Linuxの存在が明かされた日(1991)  2016-08-25 10:29:09  コンピュータ 今日は何の日

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この日をわざわざ取り上げるかどうか悩みました。


というのも、数日前に「Linuxの25周年の日」とする記事を読んでしまったから。

まぁ、幸い今日は他にめぼしい話題もないので(笑)、取り上げることにしました。




1991 年のこの日、Linus Torvalds は、minix のニュースグループに「minix のどこが好きですか?」という投稿をしました。


以下、意訳しましょう。


minix のどこが好きですか?


minix をお使いの皆さん、こんにちは。

私は、386(486) AT 互換機用の(フリーの)OS を作っています。

(GNU 製品のような大規模で専門的なものではなく、趣味にすぎません)


4月から作り始め、やっと動かせるような状態になってきたところです。


そこで、多くの人から、minix の好きな所、嫌いなところを教えてもらいたいと思っています。

というのも、私の OS は minix に似ているのです。

(ファイルシステムの構造など、全く同じです(そのほうが実用性があるため))


現在、bash(1.08) と gcc(1.40) が大体動いています。

数か月以内には、実用的に動くようになるでしょう。


なので、この後どのような機能を作るべきか、皆が何を欲しがっているか知りたいのです。

どんな意見でもありがたいです。でも、言われた通り作るとは約束できません。


         Linus.(メールアドレス)


追伸.

minix のコードは一切使っていません。

マルチスレッドファイルシステムを持ちます。

移植性はありません。(386 のタスクスイッチなどを使っています)

そして、AT ハードディスク以外のサポートは一切ありません。僕が持ってませんから :-(


これに対し、すぐに反応した人が一人。


(ソースコードが)フリーであることに期待し、移植性がないというが Amiga への移植は困難そうか、と聞いています。


Linus は、移植性のなさがどのようなものか、詫びながら詳細を解説しています。

minix と違い、ハードウェアの機能をそのまま見せ、386 の機能に頼ってしまっている部分が多数あることを示す内容です。


この返信により、minix がハードウェアを隠蔽し、メモリ管理もややこしいことに対する「不満」が次々出されます。

どうやら、新 OS ではそれらの不満が解消されそうだ。期待している、なんなら手伝う、という内容です。


でも、このときはそれで終わり。

まだまだ「Linux」の姿は見えません。



Linux が本当に姿を現したのは、3週間ほどたった 9月17日のことです。


こちらは以前「Linux の初公開日」として書いています。是非合わせてお読みください。



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コンピュータ

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04年 あと少し

04年 結構忙しい

06年 携帯電話

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15年 ntsysv の名前の由来


名前 内容

ゴードン・ベル 誕生日(1934)  2016-08-19 17:50:25  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、ゴードン・ベルの誕生日(1934)。


PDP-11 の設計者にして、VAX の開発責任者。

そして、ハイ・パフォーマンス・コンピューティングを推進する「ゴードン・ベル賞」の提唱者です。


コンピューター業界を大きく変えた偉人。




PDP シリーズを開発した DEC 社は、もともと MIT の関係者が作った会社です。

MIT で開発された、TX-0 というコンピューターに将来性を感じ、量産するために設立された会社でした。


ゴードン・ベルも MIT の卒業生で、別の教授が設立した会社で働いていたのですが、引き抜かれて DEC の初期社員となりました。



当時は、コンピューターとは「専門のサービスマンしか触れない高価な機械」でした。

しかし PDP-1 は、購入したユーザーが自由に触ってよい機械でした。


ベルは、この PDP-1 の入出力システムを設計しています。


その後、PDP-1 の上位互換機である PDP-4 の設計を任され、PDP-5 にも参加、PDP-6 の設計も任されます。


しかし、これらの機械、ほとんど売れていません。

PDP-5 は初めての廉価機で、PDP-1 の 18bit とは互換性のない 12bit 、PDP-6 は DEC 初の大型コンピューターで、36bit でした。


その後も PDP シリーズは続くのですが、PDP-4 の後継機で初期の UNIX が作られた PDP-7 、PDP-5 の後継機で個人でも購入できるほど低価格となった PDP-8 あたりが有名です。




この後、ベルは DEC を辞め、カーネギー・メロン大学で計算機科学の講師となります。

そこで計算機のアーキテクチャなどを研究し、再び DEC に戻り、PDP-11 の開発を行います。


学術的な研究成果として作られた PDP-11 は、それまでのどんなコンピューターとも違っていました。

これまでのコンピューターは、技術的な都合で設計されていて、プログラマはその都合を察し、パズルのように最適なプログラムを組む能力が求められていました。


しかし、PDP-11 では「プログラマが使いやすい命令セット」が作られていたのです。

多数のレジスタ、直交性の高い命令、豊富なアドレッシングモード…


…これらの用語を説明すると長いので、知りたい人は PDP-11 を参考に設計された MC68000 の説明をお読みください。


ともかく、これはコンピューターのありようを変えてしまう大傑作でした。

この後は、PDP-11 のような設計が「良いもの」とされました。

先に書いた MC68000 だけでなく、PDP-11 を参考にしたコンピューターは数多くあります。



また、この後 UNIX は PDP-7 から PDP-11 に移植されます。

移植の際にはC言語が作成されるのですが、PDP-11 のアセンブラに「コンパイル」しやすいような言語設計を行ったため、C言語にはところどころに PDP-11 の影響が残る、とされています。




16bit の PDP-11 は、32bit に拡張されて、上位互換の VAX-11 となります。

この開発主任を務めたのもベルでした。


VAX-11 には、専用の OS として VMS が作られました。

しかし、PDP-11 用の UNIX もまた、VAX-11 に対応して普及しました。


VMS は非常に優れた OS だったのですが、VAX-11 「以外」でも使えた UNIX のほうが普及しました。



後に DEC は倒産し、部門ごとに解体され、別会社に吸収されます。

このときに、VMS を作成していた部門は Microsoft が吸収合併します。


ここで新たに作られたのが、VMS より一歩進んだ OS …アルファベットをそれぞれ一文字づつ進めて、コードネーム WNT でした。

後の Windows NT 、そして現在の Windows 10 のコア部分です。




ベルは DEC の副社長にまでなっていましたが、倒産前に退社しています。


その後マルチプロセッサシステムを作成する会社を設立し、このような並列コンピューター…「ハイ・パフォーマンス・コンピューティング」を推進すべく、ゴードン・ベル賞を設立します。


単に性能を競う、スーパーコンピューターのための賞ではありません。

「ハイパフォーマンス」の名前の示す通り、価格・性能比に優れたマシンや、それらを向上させる新アイディアなどに送られる賞となっています。


地球シミュレータや「京」、TUBAME2.0 など、日本の並列コンピューターもゴードン・ベル賞を受賞しています。


さらにその後、ベルはマイクロソフトの研究部門、マイクロソフト・リサーチの立ち上げから関わり、現在も名誉研究員となっています。




最後に、1992年10月に発売された雑誌に掲載された、ベルのインタビューから言葉を抜粋。


Twenty-five years from now...Computers will be exactly like telephones. They are probably going to be communicating all the time ... I would hope that by the year 2000 there is this big [networking] infrastructure, giving us arbitrary bandwidth on a pay-as-you-go basis.


意訳:

今から25年後、コンピューターは電話のようになります。

それらは皆、常時接続で通信をしています。


2000年ごろには大きなネットワークインフラが整備されて、誰でもお金を払えば使えるようになることを願っています。


これ、あまりに的確で驚きました。


1992 年だと、まだインターネットブームの前。研究者なら使っていたけどね。

インターネットがブームになったのは 1995 年ごろで、google が有名になるのが 1999年ごろ。


ADSL によって家庭向けの「常時接続」サービスが始まるのが、日本では 1999年ごろ。

光ファイバによる常時接続は 2001年。


1992年から「25年後」は来年 2017 年なのですが、すでに電話とコンピューターの区別は曖昧となっています。

それらは皆、常時接続で通信をしています。



でも、同じインタビューでのもう一つの言葉を紹介しておかないと、フェアではないでしょうね。


Somebody once said, 'He's never wrong about the future, but he does tend to be wrong about how long it takes.'


意訳:

誰かがこういったんだ。

「彼の未来展望は決して間違えていない。だけど、時期については結構間違うね」



先の予測、時期までぴったり合っている、というのは偶然かもしれません。



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名前 内容

宇宙からの初メール(1991)  2016-08-09 16:55:33  コンピュータ 今日は何の日

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1991年の今日、宇宙から初めてのメールが送られました。


メールと言っても、インターネットではなくてパソコン通信ですね。

1991年にはすでにインターネットメールはありますが、一般的に広まってはいなかったので。


具体的には、Apple が運営していた AppleLink というサービス上でのメールが送信されました。




1991年 8月 3日に、スペースシャトル・アトランティスが打ち上げられました。


ミッション番号は STS-43。

その中に「Mac in Space II」というプロジェクトがありました。


これ以前も、宇宙に DOS マシンを持って行ったりしたことはあったようです。

しかし、それらは特定の実験にコンピューターが必要になったから、などの理由。


このプロジェクトでは、もっと広範囲にコンピューターを…Mac を活用できないかを探るものでした。


乗員の健康管理にも使用されましたし、無重力化で使いやすいインターフェイスの実験も行われました。

メールの送信も、そうしたプロジェクトの一環だったのです。




実験には Macintosh Portable が使われました。

…Mac 好きの中でも、結構「珍品」扱いされる機種。


Portable は、妥協せずにデスクトップに見劣りしない性能を搭載し、キーボードやマウス代わりのトラックボールも内蔵したため、非常に大きくて重い機械でした。


元々 Mac は「電子文具」をコンセプトに開発されている側面があります。

初代から、小さなディスプレイは本体と一体型で、軽量でハンドルもついていたために持ち運べました。


このため、「持ち運びやすさ」でいえば、Portable よりも一体型 Mac のほうが上だったと言われることも多いです。


じゃぁ、なんで狭い宇宙船内に、そんなに大きな「Portable」を持ち込んだのか…というと、どうやら「トラックボール」が重要だったようです。


当時のマウスは、内部に球が入っていました。

球の入っている空間には余裕があり、球は「重力で下に引っ張られる」ことで接地していました。


また、球の動きは接触しているホイールで感知されますが、このホイールも重力で球と接していました。

つまり、マウスは宇宙空間では使えないのです。


そもそも、無重力空間では使いやすいインターフェイスも変わるかもしれません。


そこで、標準のトラックボール以外にも、3つの装置が用意されました。


・業務用ゲーム機などで使われる、大型の 2inch トラックボール

・操縦桿を改造して、上部に親指で操作できる小さなトラックボールを付けたもの

・光学式マウス


ちなみに、当時の光学式マウスは、今のものと違い、光を反射し、反射面に格子模様が印刷された専用のマウスパッドを必要とします。


#この格子模様をわざとぐにゃぐにゃに歪めた「ジョーク製品」があって、まっすぐマウスを動かしても、カーソルはぐにゃぐにゃと動いた。


各種装置を使ってどれが使いやすいかを評価したはずなのですが、その評価については公開されていないようです。



さて、当時 Mac を対象としたパソコン通信を、Apple が運営していました。

サービス名は AppleLink 。そして、接続するための専用ソフトが AppleLink 。


パソコン通信は基本的に「文字だけ」の世界です。

文字で表示されるメニューを見て、文字でコマンドを送ると、文字でメッセージが送り返されてきます。


しかし、AppleLink では、Mac でファイル操作を行う Finder と同じ感覚で操作ができます。


接続後、メニューがアイコンで示され、アイコンをクリックすることでメニュー階層を辿れます。

そして、文章をクリックすると、画像や様々なフォントを含む「リッチテキスト」で表示されるのです。



もちろんメールも送れます。


宇宙から AppleLink に接続を行い、メールを送る、というのもプロジェクトの実験の一つでした。




8月 9日、宇宙の Macintosh Portable から地上に向けて、AppleLink のメールが送信されました。

送信したのは、Shannon Lucid と James C. Adamson の2名で、次のようなものでした。


Hello Earth! Greetings from the STS-43 Crew.

This is the first AppleLink from space.

Having a GREAT time, wish you were here,...send cryo and RCS!

Hasta la vista, baby,...we'll be back!


意訳:

こんにちわ、地球! STS-43 の乗員からの挨拶です。

これは宇宙から初めての AppleLink です。


素晴らしいひと時、あなたがここにいてほしい、…cryo と RCS を送って!

地獄で会おうぜ、ベイビー、…すぐもどる!



これ、テストメッセージなので無茶苦茶。後半は冗談の連続です。


「あなたがここにいてほしい」はピンク・フロイドの大ヒットアルバムタイトル。

「地獄で会おうぜ、ベイビー、…すぐもどる!」は、映画「ターミネーター2」の印象的なセリフですね。

ミッション直前の 1991年 7月 3日に公開されたばかりでした。


#映画では I'll be back! なのだけど、ここでは we'll としている。

 冗談部分は正確な翻訳より、映画や曲名の邦題にあわせた。


cryo は cryogenics の意味で、極低温で貯蔵するものを意味します。

RCS は Reaction Control System で、姿勢制御のためのシステム。


スペースシャトルで極低温物質、RCS にも関連するものと言えば…液体酸素と液体水素燃料。


つまり、「酸素と燃料を送れ」って言ってるんですね。

「素晴らしいひと時」をもっと体験していたいから、酸素と燃料があれば滞在時間が伸ばせます。


2016.9.1 追記

コメント欄で教えていただきましたが、シャトルの RCS の燃料と酸化剤はヒドラジンと四酸化二窒素だそうです。

これらは常温で液体。混ぜただけで発火するために宇宙でも使いやすいのだとか。


液体酸素と液体水素を使っているのは、シャトルの発射時のみ使われる「メインエンジン」だけでした。

こちらは混ぜたうえで「着火」しないといけないので、火が燃えない宇宙では使いづらい。


…とすると cryo は何のことを言っているのだろう?


まぁ、内容を見てもノリ一発で書いている文章なので、あまり深く考えてないと思いますが。


このメールは簡単に送れたわけではなく、3回もリトライしてやっと届いたものなのだそうです。

その3回目も、メールは送信できたものネット接続を維持し続けることができませんでした。


つまり、この時点でのメール送信実験は、半分成功、半分失敗。

宇宙からのメッセージ送信方法として常用するのはまだ難しそうだ、という結果になります。




この実験から 19年後の 2010年 1月 22日、国際宇宙ステーションが、インターネットに直接接続されました。


これ以前にも、なんどか宇宙飛行士がネットにメッセージを送ったりしていました。

ただし、実際には地上にいる人間が送信を代行する形で運用されています。


それが、代行は不要で直接ネットに接続可能となったのです。



宇宙からインターネットへの、ダイレクト接続で最初に送信されたのは、twitter メッセージでした。





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名前 内容

あきよし】 おぉ、そうなんですね。ちゃんと調べずに書いてしまいました。ありがとうございます。 (2016-09-01 08:45:42)

【vandy1】 本筋から逸れた話になりますが、シャトルのRCSの燃料と酸化剤はヒドラジンと四酸化二窒素ですね。 (2016-08-30 22:10:24)

カシオミニ 発売日(1972)  2016-08-03 14:19:12  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日はカシオミニが発売された日(1972)。


名前は有名ですが、もちろん僕は実機を使ったことも、CMをリアルタイムに見たこともありません。

年がばれるけど、この世にはいたけど物心ついてない頃。



カシオミニは、ポケットに入るサイズの電卓です。

電卓というのは、「電子卓上計算機」の略です。卓上、つまりはデスクトップです。


その卓上計算機が、ポケットに入るサイズになるまでには激しい競争がありました。




「卓上」計算機になる前の話から始めましょう。


1950 年代、計算機と言えばタイガー計算機でした。

桁ごとにレバーが付いていて、その位置で 0~9 の数字を表します。

そして、クランクを回して歯車を動かすことで計算を行います。


足し算引き算はクランクを1回まわすだけ。


掛け算の場合、クランクを「かけたい数」だけ回します。

つまり、足し算を繰り返せば掛け算になる、という原理です。


ただ、大きな数をかけたいときにはこのままでは大変ですから、桁をずらすことで「筆算」と同じ原理で高速に計算できました。

割り算はもう少し複雑になりますが、おおむね掛け算の逆の考え方です。



1937年には、電動式のタイガー計算機も開発されていますが、高価で普及はもう少し後です。

電動式では、桁をずらす部分まで含め、自動的に掛け算・割り算を行ってくれました。


1950年代になると電動式も普及し始めますが、手動式でも高価なものだったので、一般的だったわけではありません。




コンピューターは「計算機」に自動制御機能を追加したものですから、電気式計算機もコンピューター以前からありました。


初期のものはリレー回路を使用していて、非常に巨大で、遅いものです。

それでも歯車式よりも高速で動作したため、特に膨大な計算が必要な組織で使用されていました。


この頃の計算機は、数値の入力も歯車式の計算機を模していました。

桁ごとに 0~9の数値を選ぶ、という方式です。10桁の入力がができるなら、10桁それぞれに 0~9 の数字が必要で、数字だけで 100個のキーが必要でした。

これを「フルキー方式」と呼びます。


カシオ計算機は、もともとはこの「リレー式計算機」を作成する企業でした。

まだ計算機と言えばタイガー計算機のような歯車式が中心で、リレー式計算機なんて作られていない頃のこと。


樫尾4兄弟の次男の発案で、リレー式の計算機を作り始め、1957年に「14-A」計算機が完成します。

カシオ計算機は、この機械の利益で作られた会社です。


使いやすさを考慮し、フルキー式ではなく、世界初の「テンキー式」を採用した計算機でした。

テンキー式とは…いうまでもなく、今の我々が知っている「計算機」の入力方法です。

10個のキーで 0~9 の数値を入力し、キーを押すごとに以前に入力した桁が上の桁に送られていきます。


表示に関しては、各桁ごとに 0~9 を示すランプがついていました。

まだ現在のような7セグ表示(いわゆるデジタル数字表示)はありませんし、それ以前につかわれた、数字の形の電極が重なるように入れてある「ニキシー管」も普及前です。



14-A は歯車などの機械部分を持たない「純電気式計算機」であり卓上計算機ではありません。

一見、机の上に置かれているように見えるのですが、その机こそが本体。上に載っているように見えるのは、入出力を行う操作盤です。


価格は 48万 5千円でした。

大学卒の初任給が1万円未満、あんぱん1個が12円の時代です。


#当時の「大学卒」は、非常に限られたエリートだったことに留意。今の大卒と違って高給取り。

 今の感覚でいえば、1000万円近い機械でしょうか。




1964年 7月、シャープが「電子卓上計算機」コンペット CS-10A を発売します。53万 5千円。

フルキー方式でしたが、カシオのものよりもずっと小さく、机の上に乗せることができました。

なによりも、リレーと違いトランジスタを使用していたため、高速でした。


カシオはまだリレー式を作っていたのですが、トランジスタ式の研究も開始し、いや応なく切り替えていく形になります。


ここにきて、電卓市場に乗り出してくる会社が相次ぎ、後に「電卓競争」と呼ばれる状態に突入します。

各社機能と安さを競うようになり、どんどんコストパフォーマンスが上がっていきました。



1966年 7月に、日本計算器販売の発売した Busicom 161 が、競争の中で一歩抜き出ます。

数値の記憶部分に高価なトランジスタを使うのではなく、安価なコアメモリを使うようにした製品でした。

値段は 29万 8千円。たった2年で、電卓の値段は半額近くまで下がったことになります。


同社は、製品名のほうが有名になったために、後に「ビジコン」と社名変更します。




この頃、電卓の機能競争は、購入する各社ごとに必要な計算を行いやすくする「アプリケーション」の競争に入っていきます。


銀行に納入するなら複利計算などがすぐできるように。設計事務所に納入するなら構造計算がすぐできるように。

レンズメーカーに納入するなら、光の屈折計算がすぐできるように…


これらをすべて、トランジスタの論理回路で実現していくのです。

値段は下げなくてはならない一方、このカスタマイズ作業が非常に大変で、電卓メーカーの収益を圧迫し始めていました。


また、トランジスタを使った回路ははんだ付け個所も非常におおく、工場での組み立てコストも悩みの種でした。




1969年、シャープが QT-8D を発売します。

世界初の、LSI によって論理回路を実現した電卓でした。


基本演算部分を集積回路にし、アプリケーション部分は別に作り込めるようにすることで、はんだ付けのコストを大幅に減らしています。

値段は 99,800円と、10万円以下を実現しました。


ビジコンも追随し、LSI を1つだけの「ワンチップ化」に成功。BUSICOM LE-120A。

これにより、電池駆動でポケットに入るサイズを実現します。89,800円。


とはいえ、これは小さすぎるため、アプリケーションの作り込みなどはできないものでした。


ビジコンの次の一手が、「アプリケーションを回路の組み合わせではなく、ソフトで実現する」という 141-PF でした。

値段は 159,800円と少し高めですが、計算結果をプリントアウトできる高級機種でした。


この 141-PF を作成する過程で、世界初の「1chip CPU」である i4004 が作られています。

こちらは過去に 4004の発売日 で書いているので、興味のある方はお読みください。




ところで、1960年代は「所得倍増計画」が実行された年代でもあります。

池田勇人内閣総理大臣の打ち出した政策で、10年間で国民の所得を倍増させる、という計画。


実際は所得は4倍に増えています。好景気の時代でした。

先に、1957年ごろの大学卒初任給が1万円未満、と書きましたが、1970年代頭には 4万 6千円ほどになっています。

ちなみに、あんぱんの値段も 12円から 40円に値上がりしています。


生活に余裕ができ、レジャーブームが起こったころでもあります。

特に、ボーリングは簡単な運動で誰でもでき、屋内なので天候にも左右されないなど、いいことづくめで大ブームを起こします。




カシオ計算機の中でもボーリングはブームでしたが、当時のボーリングはすべての計算を手で行います。

(今みたいな、自動計算はない時代ですから)


ボーリングの計算は結構複雑です。

ストライク(1回の投球で的をすべて倒す)、スペア(2回の投球で的をすべて倒す)を出すと、その後の2回、1回の投球の点数がボーナスとして加算されます。

さらに、この頃はブームですから上手な人もいて、ハンデなども考慮した計算が必要です。


ここで、カシオ4兄弟の四男が、「ボーリング用の電卓があれば売れるのではないか」と発案します。

ボーリングの点数は最大で300点なので、数ゲームやって集計しても4桁あれば十分。

その分値段を下げ、ポケットに入るサイズにして…


早速技術者が仮計算してみると、1万円を切る販売価格で作れそうです。

四男とその技術者の二人だけで、他の人には一切内緒で完成させてしまいました。



作成の過程で、8桁になると製造コストが上がるが、4桁と6桁では大して変わらないことが判明。

表示は6桁になります。


従来、1桁ごとに1つの蛍光表示管(広義の真空管の一種)を使っていたのを、6桁を封入した大きな蛍光表示管にすることでコストを下げます。


#ただし、当初からそのように設計したというだけで、初期型には1桁ごとの普通のものが使われた。

 6桁封入した管を特注すると、計画が他社にばれてしまう恐れがあったため。


表示は6桁ですが、6桁×6桁=12桁の掛け算性能を持ちます。

この際、上位6桁だけが表示され、下位6桁はボタンによる表示切替で見ることができました。



ボタンにはそれまで使われていたスイッチ(リードスイッチ)と違い、パネルスイッチを採用します。

パネルスイッチとは、基板に「途中が途切れた線」が作り込まれていて、スイッチ側の導電体を押し当てることで電気を流す仕組み。

今では当たり前に使われていますが、当時としては新しいコストダウン技術でした。



完成した電卓を重役会議で披露すると、兄弟の中での反応は上々。

しかし、部長クラスの重役になると「こんなおもちゃみたいなもの、売れるわけがない」という反応もあり、意見は分かれます。




当時の電卓は事務用品ですから、事務用品店の経路で販売されていました。


しかし、カシオミニは個人消費を狙った低価格商品です。

全く新しい流通網として、文房具屋に卸すネットワークを構築します。


そして、個人向けにテレビCMが作られます。

「答え1発! カシオミニ!」


当初の予定を超え、12,800円になってしまったのですが、それでも当時は驚くほどの低価格。

カシオミニは大ヒットします。

生産が間に合わず、営業の仕事は客に謝ってまわること、と言われたほどでした。



月産10万台で、10か月後には100万台。

1年近くたっても生産量が下がらず売れ続けていたのですから、本当の大ヒット商品です。


海外にも多く輸出されていました。100万台のうち 20万台は海外輸出だったそうです。


当時の電卓は、高い計算力を持つ「兵器」の一種だという考え方で、業界では海外への輸出の自主規制が行われていました。

ただし、ここで定義される「電卓」とは、8桁以上の計算能力を持つもの。

カシオミニは、6桁しかないためこの規制も潜り抜け、自由に輸出できたのだそうです。


ここに「電卓戦争」の時代は終結します。




カシオミニはその後も改良が続けられ、まずは定価は据え置きで製造コストの削減・使い勝手の向上を、ついで値下げを行っていきます。

3年後には、4800円と5千円を切りました。


シリーズ累計では1000万台を超える売り上げ台数となったそうです。


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【訃報】シーモア・パパート  2016-08-03 10:16:14  コンピュータ 今日は何の日

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7月31日、パパートが亡くなったそうです。享年88歳。

昨日知ったのですが、昨日は仕事が忙しくて訃報をかけませんでした。


LOGO を作った人です。

LOGO は今となっては古い言語なのですが、「計算機」に「計算させない」ための言語、というスゴイ発想の転換でした。


もちろん、コンピューターのアプリケーションで、計算を目的としていないものはあります。

しかし、それだって内部ではいろいろな計算をやっている。プログラムというのは計算で成り立っています。



でも、この「計算」こそが、プログラムを難しいものだと思わせている元凶だ、とパパートは考えました。

細かな数字なんてどうだっていい。

「プログラムする」こと自体を楽しめる言語を作れば、子供だってプログラムを楽しめるのではないか。




パパートは教育学者であると同時に、数学者でした。

そして、数学にとって当時はまだ「新しい武器」であったコンピューターにも触れていました。


この頃、BASIC のような「初心者向けのプログラム言語」が作られ始めていました。

パパートの在籍する MIT でも、子供に扱える、簡単なプログラム言語は作れないかと研究を始めます。



BASIC は、「文法が平易」で「実行しながらデバッグがしやすい」言語です。

しかし、そこで扱う概念はやはりコンピューターそのもので、計算することが中心になっていました。


これでは子供にとっては難しすぎます。

そこで、パパートはもっと概念が簡単なプログラム言語を作ろうとします。



プログラムの難しさは、計算を多用することと、できることが抽象的過ぎることの2点に集約されます。

そこで、パパートは複雑な計算をしないでも、ロボットが動かせる言語を作りました。


抽象的であることは、「ロボットに命令する」という具体性に置き換えて解決しました。

そして、常にロボットを中心として考えることで「座標系」の概念を知らないでも絵を描けるようにしたのです。


手順を示して絵…グラフを描くということは、幾何数学そのものです。

しかし、そこには座標系やベクトルなどの難しい概念は存在せず、分度器で測れる「角度」と、ものさしで測れる「距離」だけがあればいいのです。




LOGO は BASIC のようなものを目指して作られ始めましたが、できたものは全く違ったものでした。


BASIC は、プログラムの初歩を教えるものです。

文法は扱いやすく、デバッグもしやすいのですが、当時主流だった FORTRAN や COBOL と、根本的な部分では変わりません。

「なにか」を解決するためのプログラムを作るための道具です。


しかし、LOGO はプログラム言語でありながら、役に立つプログラムを作るための道具ではありませんでした。

LOGO で重要なのは、出来上がった成果物ではなく、その成果物を作る過程なのです。


子供は目的を達成するために、綿密に計画を立て、その手順をコンピューターにプログラムします。

しかし、大抵は思い違いなどで誤動作するものです。この「バグ」の原因を突き止め、自分の勘違いを修正しなくてはなりません。


人は成功からは何も学べません。

上手くいく、とわかっている知識だけを詰め込まれても、たいした役には立たないのです。


それよりも、何度も繰り返し失敗し、失敗した時にどう対処すればいいのか、どういうやり方なら失敗しにくいのか、実地で経験し続けることは、子供にとって何よりも重要な体験となります。


LOGO は、子供がそれを学ぶことができる言語なのです。



LOGO の開発話に関しては、パパートの誕生日にも記事を書いています。

興味のある方はそちらもお読みください。




LOGO は Smalltalk を生み出し、Smalltalk は Squeak, Scratch を生み出しました。


Scratch は、現在子供向けとしては一番成功しているプログラム言語です。

LOGO と同じように、具体性をもってプログラムできますし、非常に巧妙な仕組みで、初心者でも簡単にゲームやアニメを作れます。


#一応本職のゲームプログラマの目で見ても、ゲームに関しては「子供でも使える」けど、子供だましではない本格的なものが作れます。



一方で、Smalltalk は「オブジェクト指向」という新しいプログラム技法を生み出しています。

LOGO が「ロボットに教える」という具体性でプログラムを解かりやすくしたように、任意の機能を持った「オブジェクト」(物、という意味)をプログラムして、オブジェクトの組み合わせでプログラムをしていく、という技法です。


オブジェクト指向は、C++ や Objective-C を生み、Java や Javascript にも使われてきました。

こちらは単純に LOGO の子孫とは呼びにくいものですが、パパートの考えた「わかりやすくするための具体性」は受け継いでいます。



4年後をめどに、日本でも学習指導要領が改められ、子供にも積極的にコンピューターに触れさせることになりました。

少し前から方針は明らかにされていましたが、一昨日詳細が発表されてニュースをにぎわしたところです。


日本で、パパートの目指した教育がやっと取り入れられようとしている時の残念な訃報でした。


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Microsoft Office 発売日 (1989)  2016-08-01 14:16:28  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、Microsoft Office の発売日 (1989)


最初のバージョンは、Macintosh用のソフトでした。


当時 Apple と Microsoft は仲が良くて、Apple II 用の BASIC も Microsoft が作っていました。


#当初の整数 BASIC は、Woz の作。

 しかし、浮動小数点への要望が大きかったこと、Microsoft BASIC は事実上の標準になっていたことなどから、Microsoft に作成を依頼した。

 名称は Applesoft BASIC。



Macintosh の発売時にも、発売前から Microsoft に試作機などを提供し、ビジネスソフトを開発させています。

このときに作られたのが Word と Excel でした。




Mac には、Mac WORD 、Mac DRAW など、いくつかのソフトが同梱されていました。

これらは「GUI の使い方」を示すお手本にはなりましたが、ワープロやグラフィックソフトとしては、それほど高機能ではありません。


そこで、Microsoft も Mac 用に本格的なワープロソフトを発売します。

1984 年1月発売の、Microsoft Word for Macintosh でした。


#Microsoft の作った UNIX 環境である、XENIX 用に発売したワープロソフトの移植。

 XENIX 用は Multi-Tool Word という名前だった。




AppleII は、世界初の表計算ソフトである VisiCalc に牽引されてシェアを伸ばしました。

IBM-PC は、 VisiCalc よりも強力な表計算ソフト、Lotus 1-2-3 に牽引されてシェアを伸ばしました。


Apple は、表計算ソフトの重要性を理解していました。

そこで、Microsoft に表計算ソフトを作ってほしい、と依頼したようです。


…これは、どうも「会社として」の約束ではなく、Jobs が友人である Gates に依頼したもの。

この際に、非公開だった Mac の内部情報まで開示し、「どのように使ってもかまわない」と確約する直筆メモまで渡しています。


後に Windows と Macintosh の GUI が似ている、という訴訟になった時、このメモが原因で Apple は敗訴しています。



ともかく、Mac の GUI を上手に使った表計算ソフト Excel は、1985年9月に発売になっています。




その後、1987 年に Forethought 社から、Mac 用に、それまでになかった新しいタイプのソフトが発売されます。

「PowerPoint」というそのソフトは、コンピューターを使ってプレゼンテーションを行うという、新しいビジネススタイルの提案でした。


当時のパソコンは、本体・モニタ・キーボードが別々なのが当たり前。

移動するにしても、セットアップが面倒でした。


しかし、Mac は本体・モニタが1体型で、持ち運びのための持ち手までついています。

キーボードなしでもマウスで操作できます。


これを活かし、顧客の前で Mac の画面を見せてプレゼンテーションができる、という画期的なソフトでした。


Microsoft は、このソフトに将来性を感じ、会社ごと買収。自社のラインナップに加えます。


そして、Excel / Word / PowerPoint をセットにしてビジネス用パックを発売します。

1989 年の今日発売された、「Microsoft Office」でした。




Office は、それまで個別販売していたソフトの寄せ集めにすぎません。

しかし、これからコンピューターを使おうとする人が、まとめて必要なものを買うことができました。


実のところ、これ以前も Microsoft は類似のソフトを作ってきていましたし、この後もしばらく作り続けています。

Microsoft Works というのがそれで、ワープロ・表計算・データベースを中心として、いくつかの機能を使うことができました。


Handy98 に付属していたバージョンでは、このほか「グラフ作成」と「パソコン通信」の機能があった。


Works は、機能を単純に絞り込んだソフトの集合体でした。

最初から一緒に使うことを前提に設計されているので、インターフェイスもできるだけ共通化され、わかりやすいものでした。


しかし、初心者がちょっと使うには十分なのですが、本格的に使おうとし始めると、機能不足を感じるのです。



Office は、Works よりも高価でしたが、最初からフルセットの機能が使えました。

各ソフトは出自は別々でしたが…もちろん、Office が発売されるまでにインターフェイスは統合され、わかりやすく使えるのです。


今となっては当たり前に思うかもしれませんが、これは当時すごいことでした。

同じ OS の上で動く、同じ会社が作ったソフトであっても、それぞれのソフトごとに使い勝手がバラバラ、というのが当時の普通でしたから。




Microsoft は、 Windows が 3.1 以降になって普及し始めたときに、Office を OS にバンドルして販売する戦略を取ります。


バンドル版 Office は、特に人気がある Word / Excel だけに絞り込まれていました。

しかし、この2つだけ使えれば十分、という人も多く、Word / Excel を使いたいから Windows を選ぶ、という「キラーソフト」として十分な役割を果たしています。



ライバルである Lotus 社や、Justsystem も、Lotus SuperOffice や Justsystem Office などの対抗製品を投入するのですが、「OS にバンドルされる」という強力な販売経路を前に、大きく差をつけられてしまいます。


#このやり方は、独占禁止法違反だということで後に訴訟になっています。

 現在は、バンドルソフトは OS / PC 販売時に料金を示して別途購入できる、という形で解決しています。

 (適正な金額が示されているので、市販品を買うのと変わらず、優位な販売方法とは言えない)




フルセットの機能を提供しつつ、ワープロ・表計算を中心としたいくつかのソフトウェアを提供…という形式は、今でも各社から提供されています。


まず、有名どころでは、旧 Sun Microsystems が作成していた Star Office。

Sun が作成した Java のキラーソフト…となる予定だった、Java 上で動くオフィスソフトです。


Java 上で動く、ということは、すべてのコンピューターで動く。(とされていた)

Sun は開発をオープンソースにすることにして、すべてのソースコードが公開されました。


これを元に、OpenOffice.org というソフトが作られます。


後に、Sun が Oracle に買収され、オープンソースの理念が引き継がれなくなる可能性が出ました。

その際に作られたのが LibreOffice 。


事実上 OpenOffice.org の主要メンバーは、すべてこちらに移行しています。

企業買収の影響でブランド名だけが変わってしまった、ということ。


Oracle は、OpenOffice.org を Apache 財団に寄贈しました。

現在こちらは Apache OpenOffice となっています。

Apache ライセンスで提供されているのですが、このライセンスは完全な「フリー」ではないため、LibreOffice と袂を分かった格好です。



もう一つ、IBM は、Lotus を買収し、Lotus SuperOffice の後継に当たる Lotus Symphony を無償で提供しています。


ただし、こちらの中身は OpenOffice をベースとしたもの。

過去の Lotus SuperOffice とは全く異なる、ブランド力だけを活かしたものです。


以上は StarOffice を源流とする無料オフィス製品です。




もう一つの有名 Office 製品の流れの代表としては、KingSoft Office があるでしょう。

MicroSoft Office 互換を目指して作られた、Windows 用の Office 製品。


ファイルもある程度互換性がありますし、操作性も似通っている。

「互換品」としては一番信頼性があるようで、人気があります。

とはいえ、あくまでも互換品で、完全に同じものではありません。


同様の「Microsoft Office 互換」ソフトは、他にもいくつかありましたが、今は大体消えてしまったようです。



さらに、全く新しい流れを作り出したものとして、Google のアプリケーション製品群があります。

ただし、Google はこれを Office とは名付けていません。


ドキュメント(ワープロ)、スプレッドシート(表計算)、スライド(プレゼンテーション)があり、それぞれ Word / Excel / PowerPoint と、ある程度のファイル互換性を持っています。完全ではないけど。


すべて Javascript で書かれていて、WEB ブラウザ上で動きます。

何よりも、オンラインで同時に多人数で編集できるとか、URL が割り振られるのでアクセスすることでデータを得られ、機械的な処理も可能とか、従来の Office にはない新たな使い方が広がります。


ここら辺、以前に Chrome Book を買ったときに詳しく書いてますね。



本家である Microsoft Office も、Google のやり方の新しさには気づいたようで、類似ソフトを作っています。


Office Online


名前は Microsoft Office を連想させますが、Google の製品並みに「別物」だということを認識しておく必要はあるでしょう。

ただ、インターフェイスなどは極力似せてあるので、Microsoft Office に親しんだ人には使い易そうです。




以上、今日は Microsoft Office の最初のバージョンが発売された日だったので、Office がどれほどその後のソフト業界を変えてきたか、現在進行形の部分も含めて書いてみました。


すでに、いわゆる「Office」…Windows 上で動くマイクロソフトのデスクトップアプリ、は以前ほど優位性を持ってないように思います。

それでも、Office の中核がワープロと表計算である限り、これらのソフトは求めら続けるのでしょうし、統一的にデザインされた(同じ製造元の)製品のほうが使いやすいのだろうとは思います。


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PowerPC 発表(1991)  2016-07-31 16:21:30  コンピュータ 今日は何の日

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今日は PowerPC の開発が発表された日。


古い Macintosh で使われていた CPU です。

少し前、Wii / PS3 / XBOX 360 が争っていた時代、この3つのゲーム機の CPU はいずれも PowerPC を元としたものでした。


というくらいには普及していたのですが、そのころを頂点にすっかり消えてしまった感があります。




PowerPC とは、POWER プロセッサの PC 版。

いや、正式名称は Performance optimization with enhanced RISC - Performance Computing で、この頭文字が PowerPC です。

でも、こんな正式名称がどう見たって後付け。



POWER は、世界最初の RISC プロセッサです。


1970年代、コンピューターをプログラムするのには、アセンブラを使うのがまだ普通でした。

C言語のような高級言語はすでに登場していますが、性能を出すにはアセンブラでないといけないと言われていた時代。


PDP-11 は、それまでのシリーズとの互換性を断ち切り、非常に使いやすい機械語命令を搭載して話題となります。

PDP-11 のアーキテクチャは、6800 6809 68000 V60 トロンチップなど、多くの CPU の手本とされました。


その特徴は、命令の直交性が非常に高いこと。

CPU の機械語命令では、足し算、引き算という「命令」と、結果を残すレジスタやメモリアドレス、計算に使用するレジスタやメモリアドレス、の3つの組み合わせで作られます。


たとえば、Z80 の ADD A,#5 という命令は、レジスタ A の現在の内容に、数字の 5 を加えて、その結果を A に残すことを意味します。

LD A,(1234) は、アドレス 1234 のメモリ内容を、レジスタ A に読み込みます。


じゃぁ、ADD A,(1234) だったら、アドレス 1234 のメモリ内容を A に足すか…というと、そうではありません。

そんな命令は存在しません。ADD では、アドレスを指定したメモリとの足し算は出来ない、という決まりがあるのです。


こうした決まりは、CPU 設計の技術上の問題で生じています。

しかし、極力技術上の問題をクリアし、人間が直感的に使えるようにすることを「直交性が高い」と呼びました。


#直交性は数学的な概念です。グラフを書くとき、X座標とY座標が「直交している」という、その直交。

 X と Y がお互いを制限することなく、自由であることを意味しています。




さて、PDP-11 の頃から始まる、直交性が高くて使いやすい CPU は人気が出ます。

その一方で、これらの CPU は技術的な課題をクリアするために、非常に複雑な仕組みを使っていました。


そして、その複雑さは「遅さ」につながります。



もう一つ、先に Z80 の例を挙げましたが、Z80 は非常に命令が豊富です。

足し算や引き算は当然として、「裏レジスタ」というものを持ち、レジスタの表と裏を入れ替える命令とか、メモリ内のある領域から特定の 1byte を入れてあるアドレスを見つけ出すとか、1byte = 8bit を、4bit で表現できる 10進数2桁とみなして足し算・引き算するための命令とか…


これらの仕組みもまた、複雑で「遅さ」につながります。



1970年代、IBM は豊富な命令のどの程度が利用されているのか、既存のプログラムコードを調査しました。

調査対象は、主に IBM System/370 用のプログラム。


人間が直接アセンブラで書いたプログラムや、FORTRAN や COBOL を利用したプログラムなど、様々なものがありました。

さらに、IBM のコンピューターだけでなく、他社のコンピューターも調査したようです。


その結果、次のようなことがわかります。


・プログラム実行時間の8割で、10個程度の基本命令しか使われていない

・それらの基本命令でも直交性は十分利用されておらず不要である

・「便利な命令」よりも「単純な命令」を組み合わせたほうが高速に動作することが多い


これは、従来の「人間にとって使いやすいプロセッサが、良いプロセッサである」という価値観を覆すのに十分でした。




IBM は 801 というコンピューターを作成します。

これは実験プロジェクトで、上に書いた調査結果を元にしたものです。


よく使われる基本命令を高速に実行するように最適化されており、直交性も低いです。

しかし非常に高速に動作し、人間にとっての「使いやすさ」は、コンパイラを開発することで保証されます。


801 の作成中に、パソコン用の 1chip プロセッサーである、ROMP の作成が開始されます。

801 では、高速性を求めてすべての命令を同じ長さにしていたり、単純な命令の組み合わせで複雑な命令を実現したりするため、プログラム容量が大きくなることが予期されていました。


801 では、すべての命令が 32bit でした。

ROMP では、一部の命令を 16bit にして、混在命令長にすることで省メモリ化を図っています。


ROMP は 1981 年に開発が開始されたそうですが、実際に製品として発売されたのは 1986 年でした。




その後、1990 年に POWER 1 が作成されます。

大型汎用機に使用されるもので、CPU の機能を複数の LSI に分散しています。


そして、このときに、1970 年代の研究成果と共に「一部の命令を高速化すればよい CPU が作れる」というアイディアが宣伝されました。


この宣伝のために、RISC という概念が作られました。

同時に、従来の人間に使いやすいプロセッサは CISC と名付けられました。



ここには、IBM の宣伝のうまさがあります。


RISC の R は Reduce の意味。複雑化しすぎて遅くなっている CPU を「Reduce」(元に戻す、縮小する、減らす、などの意味)する、という意図があります。


それに対し、CISC の C は Complex 。「複雑な、込み入った、嫌悪する」などの意味のある単語です。

この用語の対比を見ただけで、RISC は素晴らしく、CISC はダメなものに思えてしまう。


POWER は頭文字…最初に挙げましたが、意味のある単語で、最後の R は RISC です。

でも、そんな意味よりも「POWER」=「力」という意味を強く感じる。ここでも、POWER が素晴らしいものに見える。


ここから、1990年代の RISC CPU ブームが起きます。




でも、RISC って結局、宣伝文句のバズワードに過ぎなかったのね。


「命令が少ないから高速化できる」と言った POWER は、どんどん命令を追加して強力なものになっていく。


一方で、CISC 代表のように言われた Intel の CPU …当時は i486 とかなんだけど、Pentium の時に互換性のあるまま「RISC になった」とされる。


RISC と CISC の共通部分 ISC は「Instruction Set Computer」を意味しています。

命令によって見分けるのだから、互換性があるなら CISC のままのはず。

でも、インテルも宣伝上手で、RISC の定義を「ワイヤードロジックである」ことに置き換えてしまうのね。


ワイヤードロジックとは、すべての命令を回路で作ってある、という意味です。

それ以前は、非常に多くの命令を効率的に作るために、複雑な命令は CPU 内部で別の命令に置き換える形で実行していた。

このやり方だと、回路は使いまわせるから効率的だけど、結局インタプリタみたいになっているので遅い。




1991 年 7 月 31日、IBM 、 Motorola 、Apple の3社は、共同で「PowerPC」の作成を行うと発表します。

前年に、大型コンピューター用に作られたばかりの POWER を、PC に乗せられるサイズに小さくしようというのです。


Motorola は、CICS の代表格の一つ、68000 を作っていたメーカーです。

Macintosh の CPU としても使われていましたが、複雑すぎて、後継機で速度を上げるのが難しくなっていました。


IBM は、PC 用の CPU としては ROMP に次ぐ製品になります。

ROMP は、開発開始から製品が出るまでに 5年もかかっているのですが、多くの時間を OS 開発に費やしたそうです。


パワフルな CPU であることを活かし、他の CPU をエミュレートすることで、複数の OS をエミュレートし、どんなアプリケーションでも動く究極の OS を作ろうというものでした。


ROMP の時は途中で断念したようなのですが、PowerPC でも夢の続きを見ます。


プロジェクト名「Pink」、WorkPlace OS と呼ばれました。

UNIX 、DOS 、Windows、Macintosh OS 、などなど、どんな OS でもその上で動かすことができる…予定でした。


最終的には失敗し、AIX (IBM の UNIX) と、OS/2 (マイクロソフトと共同で作成した OS )だけを動かす形に、規模を縮小して製品化されています。




PowerPC は 1993 年に完成し、Apple では 1994 年に Power Macintosh 6100 を発売します。

従来の 68040 を搭載した Mac のソフトも、ソフトウェアでエミュレートすることで動作しました。


…が、68040 を利用する実機よりも速度は遅い。エミュレートだから仕方がありません。

これはエミュレータ部分の設計がまだ未熟だったせいもあり、後に OS がバージョンアップされると、実機より速くなりました。



初期の PowerPC は、CPU ごとの互換性が良くありません。

最初の PowerPC 601 で搭載された命令が、後の CPU でなくなったりもしています。


その命令がなければもっと安く、もっと速くできる、というような判断で、もし該当命令が使われた際には、OS 内部でソフトウェアエミュレートします。



IBM / Motorola / Apple の3社で開発したものなので、チップ製造は IBM と Motorola が行いました。

といっても、PowerPC は PowerMac 以外にはほとんど使われません。


PowerPC を利用した PC を、多くの会社が作れるように CHRP という仕様が作られました。

IBM-PC における「互換機」をどこの会社でも作れるようなもので、CHRP が普及すれば CPU の市場が広がります。


しかし、PowerPC で動作する OS は、事実上 Apple の MacOS しかありません。


そこで、Apple も MacOS を CHRP で動作するように改良し、互換機市場を立ち上げようとするのですが…



この頃、低迷していた Apple に Jobs が復帰。

MacOS 互換機は許さない、と方針を転換し、CHRP 発売に向けて動いていたメーカーも、仕方がなく開発を中止します。


IBM / Motorola は PowerPC を作り続けるのですが、事実上顧客は Apple だけ。

当然のことですが、熾烈な値下げ競争となり、Apple だけが得をする状況になります。



CPU 製造には、製造量に関わらず、大規模な工場が必要です。


IBM も Motorola も PowerPC のために投資をしているのに、市場は広がらずに苦しい状態。

どうしても、値下げするとしても限界になります。


その結果、今度は Apple は PowerPC を捨て、Mac を Intel 系に移行するのです。




最初に書きましたが Wii / PS3 / XBOX360 の頃は、PowerPC はまだゲーム機に生き残りの道を見つけていました。

しかし、それもすでに過去の話。


元々の設計が良いので、今でも十分パワフルな CPU ですし、性能のわりに回路規模が小さいので、基板上の専有面積も小さく、無駄が少ないので省電力で発熱も少ない。


と言っても、これは PowerPC の特徴ではなく、真の RISC の特徴。

今、この特徴を活かして市場を席巻しているのは、PowerPC ではなく ARM です。


PowerPC の前途は多難なようです。


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ダン・ブルックリン 誕生日(1951)  2016-07-16 18:46:01  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、ダン・ブルックリンの誕生日(1951)。

表計算ソフト、Visicalc の考案者です。


後でもう一度書きますが、僕は VisiCalc はパソコンソフト最大の発明品だと思っています。

こんなに応用の利く仕組みは、汎用機時代にもなかったし、その後も現れていない。



ただ、それ以前にも表計算は存在したそうです。


まず、「表計算」という概念自体が、経済学の世界にありました。

紙の上に数値を書いていき、計算結果をもとにまた別の計算をし…というようなものですが。


自分で確定申告とかしたことがある人なら、単純な「事実」の数字をいくつも書き込んだうえで、「(1)と(2)のうち大きい方」とか「(3) に1.2を乗じたもの」とか、紙に書かれた指示の通りに単純な計算を繰り返したことがあるでしょう。

あれが、まさに表計算です。


その表を埋めて財務書類を生成する、という意味での「表計算ソフト」なら、汎用機にもあったという話も目にしました。

ただ、それは VisiCalc のような汎用性があるものではない。




1978年の春、ダン・ブルックリンは、ハーバード・ビジネススクールで、教授が黒板に書いていた計算式の一つで計算を間違えたことに気付き、以降のすべての計算をやり直すところを目撃しました。

その時に、こんな単純な計算はコンピューターに任せられればいいのに、と考えたのだそうです。



ダンは、学校にあったタイムシェアリングシステムで、考えをプログラムしてみます。

表の「マス目」に対して、他のマスとの関係性を示す数式を設定しておきます。


そして、いくつかのマスに数値を入れると、即座にその数値で計算が行われ、マス目が書き換わるのです。




しかし、タイムシェアリングシステムは、使用する時間に対して課金されました。


表を書き換えながら計算する…なんてソフトは、わかりやすいけど操作に時間がかかります。

タイムシェアリング向けではありません。


ダンは、このプログラムを誰でも使えるように、当時発売されたばかりの Apple II で作ろうと考えました。

しかし、問題が一つ…


ダンの考えていた表計算プログラムでは、表のどこでもすぐに書き換えられるように、縦横に自由に動くカーソルが必要でした。

ダンは Alto の存在を知っていて、同じようにマウスを備えたシステムを夢想していました。

しかし、Apple II にはマウスはありません。


代わりに、ブロック崩しを遊べる「ボリュームコントローラー」が付いていましたが、これだと左右、または上下の動きしか表現できません。


何とかキーボードで操作しようとしても、Apple II のキーボードには、左右の矢印キーしかありません。

これでは上下に動けません。


結局、矢印を押すと左右に、スペースを押しながら矢印を押すと上下にカーソルが動く、という操作にしたのだそうです。




ダンの友人のボブ・フランクストンがプログラムを担当し、プログラムが形になります。

最初は「Calculedger」(カルキュレジャー)という名前だったそうです。


このソフトを販売しようと、彼らは Apple 社に持ち込みます。

しかし、Apple では、Apple II の売れ筋ソフトを、ホビー向けの、ゲームとプログラム言語だと考えていました。

「ビジネス向けに使える」なんていう、数字を計算するだけのソフトには興味がありません。


マイクロソフトにも持ち込んだそうです。

しかし、こちらでも同じような反応。


当時はパソコンはホビー向けで、ビジネスに使おうなんて人は誰もいなかったのです。



ダンが教授たちにプログラムを見せてみると、多くの人は感心してくれました。

しかし、それ以上の興味は示しません。


教授たちは、必要があれば計算を学生に任せていました。

だから、「学生がやってくれる」が、「コンピューターがやってくれる」に変わったとしても、それほど大きな変化はなかったのです。



教授の一人は、企業では財務処理に汎用機が使えるのだから、パソコンでビジネス向けの計算を扱うものなどいない、とアドバイスをくれます。


しかし、その教授が、1年上の学生を紹介してくれます。

すでに卒業し、パソコン向けソフト販売の「パーソナルソフトウェア」社を興していた。ダン・フィルストラでした。


(名前が同じなので、以下は彼のことは「フィルストラ」と呼びます)




フィルストラはダンと契約し、Calculedger の販売に力を貸すことにします。

まずは、名前をわかりやすく変更します。


表計算は、計算過程を見えるようにするものです。

Visible Caliclator (見える計算機)。


だから、これを縮めて「VisiCalc」というのが、フィルストラの考案した名前でした。

ダンの考案した開発時の名前…Calculedger は不採用で、販売時には VisiCalc という名前が使われます。



フィルストラは VisiCalc をコンピューターフェアで発表しますが、やっぱり当初は売れません。

発売付きの販売本数は、500本程度だったそうです。


しかし、手ごろに買える値段のパソコンで、ビジネスに必要なややこしい計算が可能だという噂が広まり、人気は急上昇します。

1年半後には、1か月の販売本数は1万2千本に達していました。




パーソナルソフトウェアは、VisiCalc の会社、ということで「VisiCorp」と社名変更します。

そして、VisiCalc と一緒に使うと便利な、連動ソフトを開発し、販売していきます。


計算結果をもとにグラフ化したり、現在の売り上げデータをもとに今後の推移を予測したり…と言ったソフト。

このときに依頼されて作成したのがミッチ・ケイパーで、彼に莫大な資産をもたらしました。


その後、ミッチ・ケイパーは Lotus 1-2-3 を作ります。

表計算ソフトの世代交代でした。 VisiCalc の売り上げは落ち、Lotus 1-2-3 は大人気となります。



売り上げが落ちた VisiCorp はソフトの改良を怠ったせいだとダンを訴えます。

ダンは VisiCorp から VisiCalc の版権を引き上げようとフィルストラを訴え、フィルストラはさらに、VisiCalc の名称は自分が考えたもので、勝手な販売はさせないと返し…


泥沼になっていた二人の仲を取り持ち、和解させたのはミッチ。

Lotus 1-2-3 で参入してライバルにはなっていたのですが、そもそも VisiCalc の周辺ソフトで儲けた恩を忘れていませんでした。


ここら辺の話は、ミッチ・ケイパーの誕生日に書きましたので、そちらも参照してください。




さて、最初に書いたけど、VisiCalc が最大の発明だという話。


VisiCalc は、おそらく最初の「考えるための道具」としてのソフトウェアでした。


汎用機では、計算時間は課金対象でした。

データを流し込み、計算させて、結果を得る。計算を操作しながら試行錯誤する、というような考え方はありません。


ミニコンピューターはもう少し計算機の使い方を自由にしましたが、基本的には同じでした。

コンピューターを使うときに、ゆっくり考えていると、どんどん課金されてしまう。

だから、あらかじめ考えておいた操作を一気に行い、結果を得る。それが普通の使い方です。


でも、VisiCalc は Apple II という「パソコン」の上で作られました。


パソコンには、ゲームが多数ありました。

まさに、コンピューターを「操作しながら考える」ことを楽しむソフトです。


VisiCalc は、ゲームとは違ってビジネスに使える実用ソフトでした。

しかし、ゲームのように時間を無駄遣いすることが許されました。


その結果、とにかく集められたデータをもとに、試行錯誤しながら考える、という使い方が可能となったのです。




以下は僕の経験話。


ゲームを作っている時に、企画屋から鉛筆で書いたラフな線画を見せられながら、「こんな感じに難しくなっていくゲームにしたいのだけど、どういう式にすればいいかな」と相談を受けたことがあります。


僕は、彼に表計算ソフト(VisiCalc ではありませんでしたが)の使い方を教えて、大まかな計算式の必要パラメーターを自由にいじれるようにして、結果が即座にグラフに反映されるようにしました。


あとは、このパラメーターを思う存分いじって、理想のグラフができたところが「目的の式」です。


これを教えてから、その企画屋は表計算をゲーム作成のツールとして便利に使い始めました。



これ、ゲームに限らず、どんな業界でも応用可能。

将来こうしたい、という目標があれば、その目標に向かって何を揃えていけばいいのか試してみることができる。


状況をシミュレーションするための数式が考案できること、というのが条件ですけど、ある程度大雑把な数式であったとしても、何も指標がないよりもずっといい。




あらかじめ決められた計算をする、という使い方ではなくて、どんな計算がいいのかを試行錯誤して考える。

「計算機」のパワーは十分に生かしつつ、その真の目的は「計算」ではなく、考えることにあります。


もちろん、ただの高機能計算機として使うこともできる。

VisiCalc の登場で、計算機は「計算する機械」から、「考えるための道具」に変わったのです。


VisiCalc が売れ始めたのは、ビジネスユーザーがこのことに気付いたからです。



パソコンには多くのソフトがありますが、「考えるための道具」として使用できるソフトは、そう多くはありません。


エディタやワープロは考える道具なのですが、元はタイプライターの模倣から始まっています。

PhotoShop や Illustrator も考える道具ですが、紙の模倣から始まっています。


しかし、「表計算」は、コンピューターを計算機として使う延長上にありながら、考える道具となった最初のソフトなのです。


パソコンがないと生み出すことができなかった、パソコンらしい考える道具。

今でも、表計算ソフト以外に、このようなソフトは無いように思います。



#ただし、いわゆるプログラム言語は除外して考えています。

 後で書きますが、表計算も「プログラム」ではあるので、ちょっとずるい基準です。




途中で書いた通り、ジョブズもゲイツも、このソフトが持ち込まれたときに興味を持ちませんでした。

いや、作者のダン・ブルックリンすらも、このソフトを「経済学のわかる人向けのビジネスソフト」として準備していたのです。


その応用性の高さに気付いたのは、VisiCalc を購入したビジネスユーザーでした。

評判は広まり、VisiCalc が使いたいから Apple II を購入する、というユーザーが急増します。

まさに、パソコン業界最初の「キラーソフト」と言っていいでしょう。



Lotus 1-2-3 が出たときは、このソフト欲しさに IBM-PC を購入する人が急増しました。


Mac 用として開発された、最初の Excel が発売されたときは…「Mac の画面は狭すぎる」と不満が出たようです。

ソフトは魅力的でしたが、ハードウェアが追いついてなかったのですね。


しかし、Excel は Mac のキラーソフトとして初期の Mac を牽引しましたし、Windows が順調になってからは Windows のキラーソフトとなりました。




表計算は、プログラム環境の一つです。

セル間のつながり、という形で処理を書き込んでいき、条件判断なども交えたアルゴリズムを表現し、最終的に結果を出すのですから。


プログラム覚えたいけど、難しくて挫折、という話はよく聞きます。

いわゆるプログラム言語は、最も簡単だと言われるような初心者向けのものでも、それなりに難しい。


でも、表計算ならそれほど難しくありません。

「計算」しかできないために、目的が明確でわかりやすいのです。

それでいて、「計算」というのは数字の操作にとどまらず、非常に多くのことができます。


表計算の機能だけで自由なプログラムが作れるか、と言えば、作れません。

しかしそれは「プログラム言語ではない」という意味ではありません。

計算目的に限って言えば、非常に簡単に目的を達成できる良いプログラム環境です。



会社員時代、勤怠表を書くのに使っていたな。

何年何月、と入れておくと、曜日計算してカレンダーを生成してくれるの。


そして、そこに出勤時刻と退勤時刻を書いていくと、1か月に何時間働いて何時間残業、って出してくれる。

おそらく、こういう使い方をすることは、ダン・ブルックリンは想定していなかった。

でも、実際できてしまう。まぁ、進化の中で関数が増えたおかげでもあるのだけど。




表計算はデータベースにもなります。

何万件もデータがあるような大規模データベースには使えませんが、数千件レベルであれば、十分実用的に使えます。


データベースとして使う場合は「計算」は行いませんから、表計算と呼ぶのはおかしいかもしれませんが、言葉の意味を超えて使えてしまうほどの汎用性があるというのはすごいことです。



Google Forms って仕組みがあって、WEB アンケートを簡単に作れるのね。

このアンケート結果は、Google Spreadsheet っていう表計算のファイルとして蓄積されます。


アンケート結果だからデータベースに入れるべきなのだけど、データベースとして表計算を使っているのね。

そして、このデータを自由に「計算」して、アンケートの結果を集計してグラフ書いたりできます。



その Google Spreadsheet なのだけど、WEB ブラウザで表計算ソフトが動くようになっていて、誰とでも共有できる。

仕事で便利に使っています。


アプリを作る際に各国語版を作りたくて、「日本語」のメッセージ一覧を表計算にほおりこんだ。

そして、英語の翻訳は他の人に任せた。


実際のデバッグ時に「ちょっとニュアンス違うな」なんて思ったら、誰でも修正できる。


これ、日本語・英語と、システム内で使っている「文章の意味を示したタグ」が並んでいます。

そして、このタグは、アプリ内の文章を表示したい部分に同じものが埋め込んである。


実際に動作するときは、タグの部分に日本語・英語の文章が表示されるのです。


そのため、アプリに文章をまとめた「言語ファイル」を組み込まないといけない。

ここが Google Spreadsheet を使う最大のメリットで、アプリビルド時に、最新データを取得して言語ファイルを作るのを自動化できる。


Excel だったら、最新ファイルを扱いやすい CSV で吐き出して処理して…とか必要なのですが、Google Spreadsheet は WEB アプリなので、特定の URL にアクセスして CSV をダウンロードできるのですね。

あとは、テキストファイルなので perl なり ruby なりで処理して必要なファイルにしてしまえばいい。


そんなわけで、表計算はプログラムに必要なデータ整理ツールとしても欠かせません。




Excel を使ってドット絵を描く人や、Excel をワープロとして使うような人もいますね。

これ、よく「やめてくれ」って批判をきくのですが、僕としては構わないと思っています。


間違った使い方だという人もいるし、それは事実かもしれない。

でも、想定を超えた使い方ができて、それなりに使えてしまうというのは、それだけ汎用性が高い環境であることを意味しています。


そして、汎用性が高いから、ゲーム作成の際に事前シミュレーションをしたり、各国語ファイルを生成するデータ整理ツールにしたり、アンケートフォームの自動集計用にしたりできるのです。



もし「変な使い方しないでまともに使う」人ばかりだったら、こんなに応用が利くソフトに育たなかったと思うよ。


今後の表計算ソフトには、もっとお絵かきしやすい仕組みや、ワープロとして使いやすい仕組みが備わっていくかもしれない。

だって、そうやって使う人がいるのだから。そして、それらの機能が充実することで、さらなる応用が可能になる。



どんどん無駄なことやればいいんです。


元々「計算機資源の無駄遣い」が可能だと気づいたところから VisiCalc が始まっているのだから。



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亡くなってからもう一年。まだ一年。


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今日は、ドナルド・ミッキーの命日(2007)


ディズニーキャラじゃないよ。計算機学者で、人工知能学者。

ブレッチレーパークのメンバーだった、というのだから筋金入りの天才。


ちなみに、命日は7月7日ですが、誕生日は11月11日です。




ミッキーはイギリス人ですが、イギリス領だった時代のビルマ(ミャンマー)で生まれています。


第二次世界大戦中、ビルマは日本軍によって激しい攻撃にさらされました。

この頃、ミッキーはイギリス本国にいましたが、諜報員になろうと考え、日本語を学ぼうと考えます。


…が、大学の諜報員向け日本語コースは定員オーバーでした。

仕方がなく、同じ諜報員向けの暗号解読コースに入ります。


そして、そこで才能を発揮し、ブレッチレーパークに配属されるのです。




ブレッチレーパークは、イギリス軍の暗号解読部隊。


その活動内容はトップシークレットでした。

今ではある程度秘密解除になり、活動が明らかにされているのですが、詳細はわかりません。


わからないから、よく小説なんかのネタになります



それはさておき、現代コンピューターの父とされるアラン・チューリングもブレッチレーパークのメンバーでした。


ミッキーは、ローレンツ暗号…当時はフィッシュ暗号というコードネームで呼ばれたそうですが、この解読に携わっています。


話すと長いのですが、本題ではないのでざっと。

ドイツの暗号と言えば、エニグマ暗号が有名です。


エニグマは、タイプライター風の機械のキーを押すと、上にある文字のランプが点灯する、という形で、一文字ずつ別の文字に置き換えていく暗号機です。

まず通信文を作り、エニグマで暗号化し、モールス通信で暗号文を届け、再びエニグマで復号化し、通信文を入手する…と言った形で運用されました。


多くの人が間に入り、そのたびに「文字の書き写し間違い」などの可能性が入り込みます。

何よりも、緊急の通信時に煩雑な過程を経なくてはならない、というのは弱点でした。


もう一つ、エニグマ暗号は、回転する歯車上に作られた電気回路を使い、「一文字ごとに電気回路が組み変わる」ことで暗号を作り出すものでした。


電気回路なので、「入力と同じところに戻る形の出力は作れない」という決定的弱点があります。

A を暗号化すると、必ず A 以外の文字になるのです。これは大きな特徴であり、暗号解読の手がかりでした。




ローレンツ暗号は、この二つの問題点を克服しています。


まず、無線テレタイプを改造した暗号機でした。

テレタイプは 19世紀には使われ始め、第二次大戦の時には無線テレタイプもありました。


この、通信部分に暗号回路を挟み込んだのです。

傍受しても暗号文になっていて意味不明なのですが、送信者がキーを押すと、受信側にその文字が印字されます。


テレタイプは、文字(厳密には、押されたキー)を二進数で表現して記録・通信していました。

そこで、暗号化はこの「二進数」に対して、複雑な仕組みで作り出される二進数を XOR することで作り出されています。


この方式だと、A を暗号化した結果 A になることもあります。暗号解読の手がかりを与えない方式なのです。




エニグマでは、なんでもいいから1つの暗号文を解読して通信文を得ることができたら、「通信文」を「暗号文」に変換できるエニグマ暗号機の設定方法を自動的に見つけ出す機械がありました。


これによって鍵を見つけ出してしまえば、他の暗号も簡単に解読できます。


36台のエニグマが自動的に並列に動き、正しい鍵を見つけ出すまで処理を続けるものでした。

エニグマは歯車によって暗号を作り出しますから「歯車式計算機」と言えます。


ローレンツ暗号に対しても、同じような機械を作ろうとしました。

先ほど、二進数を XOR して暗号にする、と書きましたが、この二進数はエニグマと同じような歯車で作り出されています。

しかし、ローレンツ暗号はエニグマより複雑で、機械式では計算時間が現実的ではない、と予想されました。

そこで、論理的に同じことをする「電子回路」を作り出すことになります。


真空管により、通信文を正しい暗号に変換できる鍵を「計算」して求める機械です。


これがコロッサスで、ENIAC よりも古い、真空管によってつくられた計算機でした。



ミッキーはこのプロジェクトにかかわっていたようです。




本題ではない話でずいぶん長く書いてしまった…

今日の本題はここからの話。


ブレッチレーパークに勤めていたころ、チューリングと昼ごはんを食べながら、機械が知性を持つことはあるか、という談義をしていたそうです。


コロッサスの計算力なら、機械が人間のように考えることも可能かもしれない。

そうした「思考実験」です。


チューリングは、1953年にはチェスを打つアルゴリズムを考えて論文にまとめています。


もっとも、このころはまだコンピューターは非力です。

アルゴリズムを人間が「機械的に」真似て、対局などが行っていました。


そして、ミッキーは 1960年に論文を公表します。

人工知能に関するものでした。


ミッキーの論文も同じように、コンピューターを使用しないでも実行できる方法でアルゴリズムを示しています。



その名も、Machine Educable Noughts And Crosses Engine


Educable は「学習できる」。

Noughts And Crosses は「○と×」の意味。

日本語では「マルバツ」、英語で Tic-Tac-Toe と呼ばれる、三目並べのことです。


三目並べを対戦し、その結果から学習することで育つ人工知能です。

最終的には、絶対に負けないプレイヤーとなります。


略称は、正式名称の頭文字をとって MENACE 。「厄介な相手」という意味です。

絶対負けないプレイヤーに育つ、厄介な相手だということです。



これ、実は今までも僕のページで何度か紹介しています。

MENACE 以上によく知られた名称は「マッチ箱エンジン」。


特徴は、大量のマッチ箱が積み重ねられただけの「マシン」だということ。

中には色とりどりのビーズが入っています。そして、これが自己学習する最強プレイヤーなのです。




仕組みについても過去に書いていますが、改めて書きましょう。


装置を簡略化する都合から、MENACE は必ず「先手」で○を打つことにします。

そして、マッチ箱を 304 箱と、九色のビーズを、各 304 個…できるならもう少し、400個くらい用意します。


箱には、1つづつ3目並べの「局面」の絵を描いておきます。

MENACE は先手ですから、まず「何も描かれていない」局面があります。


続いて、MENACE は9カ所のどこかに○を描き込みます。さらに、人間は残る8カ所のどこかに×を描き込みます。

その次が MENACE の手番です。

9*8 = 72 通りの局面のどれかになっているはずです。


ここで、マッチ箱を減らすためにちょっとしたトリックを許可します。

最初の「9手」は、隅、辺、中央のいずれかですから、実際には「3手」とします。


続く人間の手は…数えるしかないのですが、論理的に同じ形であるものは同じとすると、人間の手が終わった時点で 12通りの局面があります。


以下、同じようにすべての局面を数えていきます。

途中でどちらかが3目並んだらそこでゲーム終了ですから、続く手は数えません。


こうやって数え上げると、全部で 304 通りの手があるそうです。

(この数字は受け売りで、面倒なので僕は数えてません (^^; )

これを、すべてのマッチ箱の表面に描いておく必要があります。



参考:海外で MENACE を再現した人の写真集

この人は、ビーズの代わりに豆を利用しています。




さて、最初はすべてのマッチ箱に、9色のビーズを1つづつ入れておきます。

MENACE 先手ですから、「局面に何も描かれていない」絵柄のマッチ箱を取り出し、中からビーズを1つ取り出します。


この取り出したビーズの「色」は、9カ所のマスのどこに手を打つかを意味しています。

では、○を描き込みましょう。ビーズは元のマッチ箱に戻してください。


続いて人間がどこかに×を描き込み、MENACE の番です。

やはり、局面の絵柄の箱を探し、ビーズを取り出します。


ビーズは最初に9個入れてしまっているので、「すでに描かれている場所に○を描く」指示が出るかもしれません。

このときは、ビーズは捨てます。この手は打てない、と MENACE に学習させるのです。


これを繰り返していくと、MENACE はゲーム終了までの手を打っては来るでしょう。

…ただし、学習前はうち筋はランダムで、人間に負けると思います。


負けたら学習しましょう。

最後に打った手は、人間に負ける悪手です。そのビーズを取り出して捨てます。

MENACE はこの手を2度と打ちません。


もし勝つことがあったら、最初からすべての打ってきた手が良かった、ということになります。

ご褒美として、途中で使ったマッチ箱すべてに、取り出したビーズと同じ色のビーズを加えます。

次から、同じ手を良く打つようになります。これも学習です。


こうして、MENACE は勝ちにつながりやすい手は積極的に打ち、負けた手は2度と打たないように成長していきます。

最終的には絶対に負けないプレイヤーに成長するでしょう。




馬鹿馬鹿しいというなかれ。これは立派な「人工知能」です。


MENACE 以前から、マルバツの人工知能は作られています。

1952年には oxo が作られている。


でも、この二つは、人工知能としてのタイプが全然違います。


oxo は、1980年ごろに再流行する古いタイプ。

人間はどう考えているのだろう? と考えて、その考え方をアルゴリズムで示したものです。


このやり方は、模倣です。本物である人間を超えることはない。

つまり、アルゴリズム考案者を超えることは出来ない、頭の悪い人工知能です。


例えば、将棋はこの方法で「そこそこ強い」人工知能が作れました。

(現在の将棋が強くなったのは、別の方法を組み合わせています)


でも、囲碁ではこの方法は使えなかった。

だから「囲碁は難しい」と言われるようになった。



MENACE はこれとは違い、自己学習する人工知能です。


人間は、すべての局面に対して対応方法を丸暗記する…なんて方法は取りません。

明らかに、人間の考え方とは違っている。


でも、人間とコンピューターは違うのです。

考え方が違ったとしても、結果として正しい答えが導き出せるのであれば「人工知能」と呼んで差し支えないはずです。


今流行しているディープラーニングは、MENACE の遠い子孫に当たるものです。

仕組み自体は大したものではありません。


とても考えているとは思えないような、ランダムな配線の集合体。

マッチ箱と似たようなものです。


でも、学習させるととてもいい結果を出す。…こともあります。


ディープラーニングを使い、将棋より難しい囲碁で、AIが人間に勝った、と騒がれています。

でも、これは間違っている。


囲碁が将棋より難しい、というのは、先に書いた「人間の思考を真似るタイプの人工知能では」という話です。

囲碁はマルバツと同じように、盤面に記号を並べていくゲーム。MENACE と同じように自己学習向き。


そこで自己学習を適用したらうまくいった、というだけで、将棋とは全く別の世界。

「将棋より難しい囲碁」という言葉が間違えていて、自己学習AIにとっては将棋のほうが難しいです。



このことが理解できれば、「やがて人工知能が人間を支配する」なんて言説は噴飯ものだとわかるでしょう。

人工知能は確かに実用になるほど研究が進んでいますが、まだ特定の守備範囲を持つもので、臨機応変な対応が可能な人間に変われるようなものではないのです。


#逆にいえば、特定の守備範囲内ではAIは普及するだろう、ということでもあります。

 臨機応変さを持たない人間なら不要になるでしょう。不要と言われないように頑張りましょう。




ミッキーはこの後も人工知能の研究を続け、自然言語処理なども研究しています。


最後は事故死。「元妻」と離婚後も仲が良く、一緒に自動車で移動中の事故でした。



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PHSサービスが始まった日(1995)  2016-07-01 19:10:57  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、PHSサービスが始まった日。

1995 年の今日、NTT の子会社である NTT Personal(現在は docomo に吸収)がサービスを開始しました。


PHS は、Personal Handy-phone System の略称。

「個人用の持ち歩ける電話」の意味です。


この当時、携帯電話はありました。

でも、とても高価なもので、会社の重役など、いつでも連絡する必要性がある人が会社から貸与されて使う、というようなものでした。


それに対して、「個人用の」安価なシステムを作ろうというのが PHS でした。



以下の歴史話は、昔読んだ新聞の記事などの知識を「記憶で」書いているものです。

すでに手元に資料はないため、細かな部分は間違えているかもしれません、とお断りしておきます。




1980 年代の後半、日本は好景気でした。

電話の通信料は、まだ3分10円が基本。30分も話をしていれば100円になってしまう。


1980年代が始まったころには、100円というのはそれなりのお金だったように思います。

でも、後半に入るころには、100円くらいはどうということのない、安いお金になっていた。


それどころではありません。

電話を引くには、7万6千円の権利料が必要でしたが、大学生くらいになれば自分のお金でこの権利を買える程度の好景気。


それで、女子大生あたりを中心に、自分の部屋に専用の電話を引いて、友達と電話で毎日何時間もおしゃべりする、なんていう人がたくさんいました。



1987年に電話機の「無線化」が認可されます。

家の中で、電話回線に接続した親機との間に、電波で通信できる「子機」を作れるようになったのです。


そして、当時は電波法も今とは違っていました。

何も遮蔽物がないところで、100m 程度まで届く電波は認められています。


家の中で使うはずの「子機」を、家の外に持ち出せました。

といっても、電話をしながらゴミ出しをできる、程度の簡単な外出でしたが。




こうした使い方の延長として、「親機」を 100m 程度置きに設置すれば、子機をどこまでも持ち出せるのではないか、という技術的アイディアが出てきます。


携帯電話は、2km 程度の距離で電波を飛ばさなくてはならなかったため、電波局としての認可も必要となり、高価なものになっていました。

しかし、100m 程度であればずっと安く作れるのです。



このころ、すでに日本の電話の基幹線は光ファイバー化されています。


NTT が埋設した ISDN で、1本のケーブルで 64K の回線を2本と、制御信号用の 16K の回線を1本使えました。

まだ各家庭までは光ファイバーは届いていませんでしたが、「公衆電話」など、NTT が管理する設備では積極的に光ファイバー化が行われていました。


すでに日本全国に埋設されたケーブルがあり、そこには通話可能な 64K の回線が2本も入っているだけでなく、制御信号用の別の線もある。

もちろん音声回線の1本は公衆電話用だとしても、もう一本を PHS で使用して、親機から親機に渡り歩く際にも「制御信号回線」を使えば…


もう、事実上システムは完成していたのです。あとは組み合わせて仕上げるだけ。

これが PHS という構想でした。




当時は電話を使ったパソコン通信でも、33.6Kbps 程度の速度の時代。

ISDN は 64K ですから、PHS でも最大 64Kbps が出る、しかもどこでも通信できる、というので、パソコンマニアからも期待されていました。


後で書きますが、PHS の主要なシステムは、NTT の子会社である NTT Personal が開発し、サービスを行う各社はこのシステムを使っていました。

そのシステムでは、最初の通信速度は 32K から。


DDI Pokect は、独自の技術で「みなし音声通信」を行い、モデムと同等の 33.6Kbpsを可能としていました。

後には 56Kbps での通信も可能とするのですが、そのころには NTT Personal のシステムでも 64Kbps になっています。


PHS は安かったため、女子高校生などに支持されました。

これ以前はポケベルで連絡を取り合っていた世代。

PHS のサービスが始まるころには、携帯電話もずいぶん安くなってきていて、女子大生などは携帯電話を使っていました。


PHS とかいて「ピッチ」と読む読み方も、女子高生世代が広めたように思います。




さて、NTT は NTT 法で縛られており、国は一番の大株主でした。

PHS 構築は国の指導の下で行われ、NTT にも協力が求められました。嫌とは言えません。


その一方で、NTT は携帯電話のサービスも行っていました。

普及させようと頑張り、やっと量産効果でコストが下がり始めたところでした。


ここで、わざわざ携帯電話を自ら潰しにかかる、対抗サービスを始めよというのです。


しかし、大株主でもある国には逆らえません。

NTT は、国の求めに応じて子会社である NTT Personal を設立し、PHS の研究を開始します。



PHS には多くの期待が集まりました。


当時はまだ、携帯電話の電波網も、今ほど細かくありません。

地下やビルの中では電波が届かず、通話できないこともありました。


でも、PHS はもともと安い基地局を大量に作る方式です。

地下やビルの中にも基地局が設置され、携帯電話よりも通話範囲が広い、とされていました。


さらに、最寄りの基地局の位置を取得することで、100m 程度の誤差で「現在地」がわかります。

いまでいう GPS みたいなものですが、携帯電話などでこうした「位置情報」が使えるようになるのは、ずっと後のこと。


こうした特性を活かしたサービスも想定されていました。



しかし、運用後半年程度で「安かろう悪かろう」だという風評が広がります。


基地局が頻繁に切り替わる方式ですが、その際に2~3秒通話ができない、という問題があったのです。

歩いているだけならまだしも、車や電車の中ではとても使い物になりませんでした。


すぐにシステムの改修が行われ、半年程度で問題は軽減しますが、「PHS は安物だ」と印象付けるには十分でした。


一方で、携帯電話はどんどん安くなり、0円端末も現れるようになります。

その分月額料金が高いのかと言うと…通話プランを吟味すれば、それほど高いわけでもない。


PHS の人気が無くなるのに、そう長い時間はかかりませんでした。


独自路線の DDI Poket は頑張りましたが、それ以外の PHS 会社は、「さっさと」撤退することになります。

NTT Personal も、早々に NTT DoCoMo に吸収されました。



技術的な面はわかりません。

最初の「基地局を渡り歩く際の通話ができない問題」は、本当に技術的な不具合だったのかもしれません。


しかし、その一方で、これは最初から NTT の策略だった、国は NTT にまんまと騙されたのだ、という噂もあります。


国は NTT に無理を言って PHS の研究を始めさせました。

NTT は、国の命令だから仕方がなく子会社まで作り、研究をする「ふりをした」だけ。

最初から、「事業が成り立たない」という形を作って DoCoMo に一本化するつもりだったのだと。




NTT って、実はこういうこと繰り返しています。


それが悪いというのではないよ。所詮は一企業で、利益を追い求めるのが本来の姿。

なのに、国に採算に合わないことを命じられて、仕方がなく「やったふり」をして終わりにする。


シティフォンとか、覚えている人いますでしょうか?

それまで使っていなかった新しい電波帯域を実験的に DoCoMo に割り当てて、仕方がないから作られたサービス。


使ってなかった帯域だから、電波網を全部再構築しないといけない。

そんなことを今更新しくやっても採算に合わないから、大都市でだけサービスした。(だから「シティ」フォン)


都市部でしか使えない携帯電話なんて魅力がないから売れるわけがない。

そして、「採算に合わないから撤退します」という終わり方になる。


誰が悪いのかと言えば、NTT ではなくて、国だと思う。

新しい事業を研究できるほど体力のある会社として NTT を使いたい意向もわかるのだけど。




以下思い出話。


HP200LX を使っていた時、NTT Personal の Paldio 321S 使っていました。

知る人ぞ知る、当時の「名機」ですね。


2つ折りの携帯電話なのだけど、下側のカバーを外すと、PC カードになっているの。

(PC カード自体、すでにわからない人も多そうだ…)


HP200LX は PC カード使えましたから、そこに携帯電話を直接差し込んで、通信ができる。

電車の待ち時間にパソコン通信のログをダウンロードして、電車内で読んで返事書いたりしていました。


(返事は、次回接続時にアップロードする。そういうスクリプトを書いて運用)



そのころ、今の妻とネットで知り合って付き合い始めたのだけど、妻も DDI Poket の PHS 使っていました。


最初に書いたけど、PHS はもともと「家庭用の無線子機」を外に持ち出す発想だった。

そして、この頃の DDI Poket の端末は、「家庭用子機モード」が付いているものがあった。


家で対応する親機を使っている場合、PHS を親機に接続できるの。


外に行くと公衆網に繋がるから電話代が割高になるけど、家では安く通話ができる。


いまの、スマホを家では WiFi で使うような感じ。



SL-Zaurus …いわゆる「りぬざう」を使っていた時は、bitwarp でした。

So-net のやっていたサービスで、通信発信専用の PHS 端末なのだけど、月額料金で使い放題なの。


この通信端末は、CF カードサイズだった。

…これも説明が必要だな。PC カードのサイズを切り詰めて小さくしただけの、拡張カードね。


りぬざうでは CF カードが使えたから、差し込んだらそのまま通信できた。



そして、W-Zero3 も持ってました。[es] と Advance ね。

これは PHS 端末にパソコン機能を付けたもので、国内初の「スマートフォン」という触れ込みだった。


#国内初、とされるのは W-Zero3 の初代機ね。

 僕が持っていたのは、2代目の [es] と、3代目の Advanced [es]



スマートフォンって、バズワードね。都合によって意味が変わる。

ここでいうスマートフォンは「キーボードを備えたパソコンとして使える端末」の意味。

当時、海外でもそういう端末が流行し始めていて、W-Zero3 は国内初のものだった。


ちなみに、最初に「スマートフォン」という言葉が出てきたときの定義は、インターネットとデータのやり取りができる端末。

メールだけでもいいけど、簡易な WEB ブラウザが付いているとなおよい。


というわけで、この意味での「国内最初のスマートフォン」は i-mode だったりします。

実は世界初でもある。


海外では「スマートフォン」と言って憧れの的だったものが、日本人にはごく自然に生活に溶け込んでいた。

だからこそ「憧れのスマートフォン」として、日本ではキーボードが付いていることが条件にされたのだけど。




最後に関係ないネタ。


PHS が話題になっていた当時、Apple は Macintosh 互換機を許可する戦略をとろうとしていました。

この互換機のリファレンスハードウェアを CHRP (チャープ)と呼びます。


また、当時はやっとインターネットが一般に普及し始めたころでもあります。

職場や家庭内で LAN を構築することが流行しはじめていました。



そこで「PHS で CHRP 端末を結び、LAN を構築する」という「ネタ話」が出来上がるのです。

真面目そうな話として話しておいて、最後に


♪ピッチピッチ チャープチャープ ランランラン


と歌って落とすんですけどね。


ただの駄洒落なんだけど、この小話好き。

今となっては PHS も CHRP も理解されないので、とても披露できませんね。


#って、どさくさ紛れに披露したわけだけど。



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コンピュータ

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14年 NOP 命令が作られた日(1960)

15年 A Dark Room , Candy box! , Cookie Clicker.


名前 内容

【通りすがり】 懐かしすぎるw 当時H"の通話品質に感動した覚えが有ります。(携帯がハーフレート化して更に酷かったですから) CHRPはRadiusの互換機に憧れましたね(笑) (2016-07-03 17:29:27)

【訃報】長谷川五郎さん  2016-06-24 09:24:46  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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昨日の報道ですが、オセロ考案者の長谷川五郎さんが、20日に亡くなったそうです。

すぐに何か書こうと思ったけど、昨日は忙しくて書けませんでした。




僕は氏のことを全然知らない。


オセロの開発話は本やテレビで何度か見たことがあるし、それなりには知ってる。

でも、氏に対しての思いは特にない。


それで訃報を書くのもどうかと思うのだけど、オセロに関して思うところはいろいろある。

ちょうどよい機会だし、偉大な方だと思うので、自分の思い出を少し書こうと思う。




テレビゲームが子供の遊びの主役となる前、どこの家にも将棋やオセロなんかがあったと思う。


人生ゲームなんかもあるのだけど、あれは大人数で遊ぶ時用。

オセロなら、2人いれば十分で、しかも短時間で遊ぶことができた。


僕は兄弟が多く、兄や姉とよく遊んだのだけど、大抵は負ける。

小学校低学年の頃だったから、まだ論理性が身についていない。


オセロは、「多くとれる」ところを責めると、自分の色の駒がたくさん並んだ状態を作り出してしまう。

それは、とりもなおさず相手にとって「多くとれる」ことを意味する。


だから、闇雲に攻めちゃいけない。でも、そんなこともわからずに闇雲に攻めていたのだった。




小学校4年生の頃だと思うが、ゲームセンター向けにオセロのゲームがあった。

白黒画面で、○と×で駒を示しているやつ。


それを見たときは、「コンピューター相手にオセロができるんだ」とは思ったのだけど、お金を出してまでやろうとは思わなかった。

小学生にとって 100円は大金だし、オセロだったら家に持っているから。


#注:まだゲームセンターに小学生が言っても問題なかった時代。

 よく、金もないのにゲームセンターに入り、人のプレイやアドバタイズを見るだけでわくわくしていた。



そして、小学校6年の頃だったと思う。

オセロの販売元のツクダオリジナルが、オセロを遊べる家庭用テレビゲーム機を発売していた。


実はセガ SG-1000 の互換機で、カートリッジを入れないときはオセロが起動するようになっている。

おもちゃ屋の店頭に、遊べる状態で置いてあったのだけど、この「人工知能」に対して…確か、強さを選べて、一番弱い場合だったとは思うのだけど…必勝法を見つけ出した。


コンピューターは、こちらが同じ手を出せば、全く同じ手を出してきた。成長がなかった。

それで、5~6手進めただけで、すべて自分の色になってゲーム終了、という手順があった。

この手順を発見して、その店の店頭を通るたびに、わざわざ「完勝」して、誇示するようにその画面のままにして去ったのだ。


コンピューター相手にオセロをやったのは、たぶんこれが初めてなのだけど、「コンピューター、馬鹿だな」と思っていた。




中学生になり、ファミリーベーシックを入手した。

面白くもないゲームを作ることが楽しかったのだけど、ある日ベーマガに「オセロ」のプログラムを見つけた。


他機種用。でも、人工知能ってとても高度なもので、BASIC で簡単に組めるとは思わなかった。


興味を持って、プログラムを読んでみるのだけど、何をしているのかどうも意味が分からない。


プログラムのほとんどは、オセロのルール…挟んだらひっくり返るとか、ひっくり返せない場所にはおけないとか、そういう細々したことを実現するためのものだった。

人工知能らしい、高度な部分はない。



人工知能の思考ルーチンはと言うと、盤面の中で「駒を置ける場所」を見つけたら置いてしまう、と言うだけ。

ただし、置ける場所の順番は示されていて、単にマス目を端から見ていくのではない。



ふーん、すると、この順番に何か秘密が隠されているんだな。

ファミリーベーシックに移植して遊んでみる。


そのプログラムは、それほど強くはなかったけど、適当に相手をしても勝てない程度には強かった。


石を置く順番…取るべき優先順位は簡単な話で、盤面の四隅は最優先。

その隣は、最も優先順位が低かった。


オセロでは「駒を挟むとひっくり返せる」というのが最重要ルールだ。

でも、隅にあると絶対に挟めないから、自分の駒を置くと相手にとられない。

安全地帯なのだから、何よりも優先して確保しなくてはならない。


そして、相手の駒を挟む形でしか新しい駒は置けない。

隅の隣に駒を置かなければ、相手に隅を取られることはないことになる。

だから、隅の隣を迂闊に取るのは悪手。優先順位を下げないといけない。



でも、単純に優先順位をつけるだけでは、「多くとれるところ」を見逃すことにもなりかねない。


プログラムを改良して、位置の情報に「優先順位」フラグを付けた。

置ける場所が見つかっても、同じ優先順位のところがまだあるなら、そちらにも置けるか試す。


一番多くの駒をひっくり返せるところの位置は覚えておいて、同じ優先順位の場所が無くなったところで、「一番良いところ」に駒を置く。


ちょっとした改良で、ちょっとだけ強くなった。

これを友達に渡して遊ばせたら「何度か遊んだけど一度も勝てなかった」と言われた。


僕が遊ぶと、アルゴリズムを知っていることもあって、これでもかなり弱い。

一度も勝てないはお世辞じゃないかと思ったけど、そいつは思考ゲームは嫌いだったので、適当に遊んだら勝てなかったのかもしれない。




まがりなりにもオセロの思考ルーチンを考えたことがあったので、興味を持ってはいた。

その後、たしか雑誌の「ログイン」で、森田和郎さんが「森田オセロ」の解説をしていた。


森田和郎さんというのは、当時の有名プログラマで、オセロとか将棋を作るのを得意としたのね。


もっとも、ゼビウスに類似したゲームを、当時の非力なマシンで作り上げて、ナムコの許可を得て販売したりもしている。

アクションゲームも十分作れるし、複雑な思考ゲームも作れる。凄腕のプログラマだった。


話がそれたけど、森田オセロでは、もちろん「駒を置く位置」も考慮しているけど、それでいくつの駒をとれるか、置いた駒の周辺に空きマスはないか(空きマスがあれば、そこに相手が駒を置くことでひっくり返されやすい)、など、多くのパラメーターに点数をつけることで複合的に置く場所を決めているという。


そして、何より大切なのが「先読み」だった。


駒を置ける可能性のある場所はいくつもある。

その中でどこに置くかを決めるのに上に書いたように点数を使うのだけど、一番高得点のところに置けばいいというものではない。


そこに置いたとしたときに、次に相手はどんな戦略をとれるか。ここでも得点を出し、一番高得点のところに置くとする。


じゃぁ、それに対して今度は自分は…これを数手繰り返せば、先読みができる。

たくさんひっくり返したけど、その次の手でそれを全部取り返される、なんて間抜けな手を打たなくなる。



森田和郎さんの記事では、αβ狩りも説明されていた。

ややこしいので詳細は省くけど、先読みの範囲を絞り込んで、効率よく最善手を見つけ出すための方法。




実は、先読みまでするオセロを試作したことはあるのだけど、未完成なまま飽きた。


大学の時に Lisp 言語を入手したのね。

Lisp なら人工知能だろうって、当時の浅い知識で短絡してオセロを作り出した。


先読みルーチンを作るには、「今の盤面の状態」を記憶したまま、次々と「先読みした盤面」を作り出す必要がある。


具体的にいえば、先読みのために1階層深くサブルーチンを呼び出すたびに、新しいメモリを確保して盤面を保持した配列をコピーしないといけない。


関数に対して配列が渡せれば簡単なのだけど、C言語ではそのようなことは出来ない。

もちろん、BASIC でもできない。そもそも BASIC にはサブルーチンはあっても関数はない。


でも、Lisp は元からそういう言語構造だった。

データは呼び出しの際にコピーされる。だから先読みプログラムを作りやすい。



で、先に書いた通り、未完成なまま飽きた。

Lisp に慣れておらず、何か処理しようとするたびに方法を考えないといけなかったし、そもそも Lisp は「人工知能のアセンブラ」と言われるくらい、アセンブラのように命令が貧弱だった。

(…という考え方が間違っているのは、今ではわかっている。でも当時の僕はそう思った)



それ以降、こうした思考ルーチンは面倒くさくて作ってない。

興味はあるから、それなりに話を追いかけてはいるけれど。




もう、長谷川さんの訃報とはほとんど関係なくなっているね。

以上、オセロに関する僕の思い出話でした。




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名前 内容

コンピューターが初めてプログラムを実行した日(1948)  2016-06-21 12:50:21  今日は何の日

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今日は The Baby が初稼働した日(1948)。

ということは、ノイマンアーキテクチャマシン上で初めてプログラムが動作した日です。



プログラム可能な機械はこれ以前にもあるし、電子計算機もこれ以前にあります。


でも、ハーバードマーク1は電子計算機ではなかったし、ENIAC のプログラムは配線を繋ぎ変えるものでした。

SSEC は電子式だったし、柔軟なプログラムができたけど、パンチカードによる外部供給式でした。


当時はまだ、高速な計算機があれば膨大な計算力が手に入る、と考えられていた時代。

プログラムは、必要上作らないとならないものではありましたが、簡単に作れると思われていました。


ところが、実際に計算機ができてみると、プログラムこそが一番重要な問題だったと気づきます。




ENIAC を作成したエッカートとモークリーは、ENIAC 建造中にこの問題に気づきました。

そこで、次に作る機械ではプログラムを作りやすくする工夫を盛り込もうと計画します。


それが、数値などの計算に必要なデータと共に、計算手順も数値としてメモリに搭載するという方法です。

ENIAC プロジェクトは国防上の機密事項でしたから、この設計も秘密裏に行われています。



ところが、プロジェクトを視察に来た天才数学者、フォン・ノイマンが、このアイディアを気に入ってしまいます。

彼は、次世代計算機 EDVAC の概要を、自分の名義で公表してしまいます。


まぁ、国防の機密をいきなり公表してしまうほど彼は馬鹿ではありませんし、裏でいろいろあったようなのですが、その話は今回は置いときます。


ともかく、世界中で「ノイマン型」アーキテクチャのコンピューターの開発競争が始まります。




そして、完成第一号は、イギリスの The Baby


これは愛称で、正式名称は Manchester Small-Scale Experimental Machine 。SSEM と呼ばれます。

当時はまだ理論上のものだったノイマン型コンピューターが本当に動くことの確認と、そのために必要な新型メモリである「ウィリアムス管」の動作試験を兼ねた実験機でした。


実験は成功し、すぐに Manchester Mark I の設計が開始されます。

さらに、Manchester Mark I は量産され、Ferranti Mark 1 として市販されます。




さて、その The Baby ですが、新型メモリのウィリアムス管の動作確認が最大の目的でした。


当時のメモリはシーケンシャルアクセス…今のような「ランダムアクセスメモリ」(RAM)ではなく、非常に遅いものでした。


ウィリアムス管は、ブラウン管を利用したメモリで、ランダムアクセスが可能なうえ、理論通りで行けばビット密度が上げやすい、夢のようなメモリでした。



ただし、この時点ではまだ実験中のため、ビット密度が低いです。

そのため、搭載メモリは 32bit を 32word だけ。1024bit ですね。


命令は1ワード1命令。だから、たった 32命令のプログラムしか作れません。



最初に実行されたプログラムは、2の18乗の最大の真の約数を見つけ出すプログラムでした。


…ある整数 n があった時、この n を割り切れる数を「約数」と言います。

ただし、1 と n で割れることは当然です。そうではない約数を「真の約数」と呼びます。


その中で最大のものを見つける、というプログラムです。


…えーとね、2 の累乗だから、必ず偶数ね。半分に割れる。

だから、半分に割った数が最大です。電卓があればすぐ計算できる。


つまり、事実上 2で割るだけのプログラムなのだけど、実験用の機械なので割り算は出来ない。

引き算と、符号による条件分岐くらいしか命令がないんです。


そこで、ひたすら引き算を繰り返し、結果が 0 になれば「割り切れた」と判断します。

疑似的に書くとこういうことです。


for(i=(1<<18)-1;i--;i>0){
  j=1<<18;
  while(j>0){
    j -= i;
  }
  if(j==0){
    answer(i);
    exit();
  }
}


実際には、「符号を調べる」しかできないから、0チェックとかもややこしいのだろうけど。



このプログラムは、命令 17word、データ 8word の 25word で作られていました。

32word しかメモリがないのだから、これ以上複雑なことは出来ない、というギリギリレベル。


そして、52分かかって正しい結果を出したそうです。

ウィリアムス管という新しいメモリが、1時間近くも正常に動作した、ということでもあります。



これがノイマンアーキテクチャで実行された最初のプログラムです。

1948年の今日、6月21日の出来事でした。



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