今日は何の日11ページ目の日記です

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2015-11-09 太陽暦採用記念日
2015-11-15 追悼:ジーン・アムダール
2015-11-16 デイビッド・パターソン 誕生日(1947)
2015-11-17 ハーマン・ホレリス 命日(1929)
2015-11-27 エイダ・ラブレイス 命日(1852)
2015-11-29 PONG 発表日(1972)
2015-12-26 チャールズ・バベジ誕生日(1791)
2016-01-14 トーマス・J・ワトソン 誕生日(1914)
2016-01-17 山本卓眞 命日(2012)
2016-01-18 森公一郎 命日(2015) レイ・ドルビー誕生日(1933)
2016-01-19 マーシャル・カーク・マキュージック 誕生日(1954)
2016-01-21 ポール・アレン 誕生日(1953)
2016-01-22 デビッド・ローゼン 誕生日(1930)
2016-01-29 【追悼】マービン・ミンスキー
2016-01-30 ダグラス・エンゲルバート 誕生日(1925)
2016-02-03 ガストン・ジュリア 誕生日(1893)
2016-02-04 ケン・トンプソンの誕生日(1943)
2016-02-05 ノーラン・ブッシュネル 誕生日(1943)
2016-02-06 やなせたかし 誕生日(1919)
2016-02-07 アン・ワング 誕生日(1920)
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太陽暦採用記念日  2015-11-09 11:28:23  天文 今日は何の日

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今日は太陽暦採用記念日。


つい1か月ほど前、10月15日に、「グレゴリオ暦の制定日」というのを紹介しました。

グレゴリオ暦…今のカレンダーと同じものを、ローマ教皇グレゴリウス13世が制定した日(1582)。


でも、これはローマ帝国内だけで通用する暦でした。

これがよくできているから、徐々にほかの国にも浸透していきます。



1752年9月14日にはイギリス帝国が導入。

アメリカを含む、イギリス領の植民地も一緒に導入となります。


だから、アメリカ生まれの UNIX で cal コマンドでカレンダーを表示すると、1752年 9月には面白い表示が見られる。


そして日本では、1873年の元日からグレゴリオ暦(日本では、単に「太陽暦」とも呼ばれます)を導入することにして、1872年の 11月 9日に「太陽暦の採用」を発表したのです。



…この 11月 9日って、旧暦ですね。太陰暦。

でも、現在の 11月 9日が「太陽暦採用記念日」ということになっています。


まぁ、記念日なんていい加減なものだしね。


ちなみに、1872 年の旧暦 11月 9日は、えーと…現在の 12月9日にあたりますね。




本当は、発表と同時に太陽暦の導入、としたかったようです。


当初の案では、本来 29日で終わりの旧暦 11月を 31日までに延長し、11月の終わりで年を終わりにする、というものだったとか。


上に書いたように、このときは運よく新暦と旧暦が「1か月違いの同じ日付」でした。

だから、新暦 12月と同じように、31日までにしてしまえば、そのままスムーズに新暦に移行できる。



でも、さすがに発表即導入、というのは反対意見も出て、「12月3日を翌年の元日とする」ことになったそうです。


それでも、告知から導入まで23日しかありません。非常に混乱したようです。



ちなみに、このときに「六曜カレンダー」が発行され始めます。


六曜って陰陽道などで使われた、と思っている人がいるし、それは事実その通りなのだけど、一般には浸透していなかった。

陰陽道だって、平安時代にブームになった程度だしね。



江戸の末期にはお手軽な「占い」としての六曜が流行するのだけど、暦に書き込んだりはしません。

この日はいいことあるよ、とか、気を付けて、とか書かれた紙を神社仏閣で配布しただけ。


おみくじと変わらないレベル。まぁ、気軽なエンターテインメントです。



この六曜、旧暦を使っていれば、非常に簡単に計算できるようになっていました。

逆にいえば、六曜がわかると旧暦の日付がなんとなくわかります。


さて、明治時代に入り、新暦導入に当たって、旧暦を使ってはならないことになりました。

カレンダーを作るのも禁止です。


でも、六曜までは禁止されていない。

そこで、カレンダーに六曜が併記されるようになります。

事実上、禁止された旧暦カレンダーを作っているのと同じ。


それでも、庶民がこれが「旧暦を知るのに役立つ」と思って使っていただけ。

いまでも、平成の年号を「昭和」換算する人がいますが、それと同じこと。


たまたま江戸時代に流行した占いと同じ言葉が書いてあるだけで、そこに深い意味はありません。



…でも、時代が経って、今でも六曜が印刷されたカレンダーはあって、すでに旧暦なんて誰も使わなくなっている。

この六曜は何のために書かれているんだ? と、知らない人が江戸時代の占いを持ち出して、その日は縁起が悪い、とか言い出す始末。


昭和の中期に非常に流行し、弊害もたくさん出ました。

最近は多くの人が「根も葉もない迷信」だと理解してきたけど、まだ結婚式や葬式の日程で六曜を気にする人がいます。

(だからカレンダーにも印刷されているのですが)




話を変えます。


わずか1か月足らずの告知で太陽暦を導入した理由ですが、「諸外国に合わせる」という必要性もありました。

でも、給与支払いのため、という側面もあった模様。


江戸時代は、士官する武士には録が与えられました。これ、今でいえば「年棒」のこと。

1年間いくら、という契約なのですね。


でも、明治になって月給制に変わりました。

そして、太陰暦では「閏月」があります。1年が13か月になる年があるのです。


1873年が、ちょうどその年でした。

そのままでは、13か月分の給料を払う必要があります。でも、太陽暦に移行すれば12か月分で済みます。

1か月分の給料が浮くのです。


さらに、最初に書いたように「11月を 31日までとして、12月をなくす」方法で太陽暦を導入すれば、1872年も1か月分が浮きます。

なんと、2か月分も給与支払いが無くなってしまう。


これが、1か月足らずの告知で強引に太陽暦を導入した理由だったようです。




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追悼:ジーン・アムダール  2015-11-15 18:32:22  コンピュータ 今日は何の日

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アムダール氏が11月10日に亡くなられていたらしい。


IBM System/360 の設計主任を務めた方。


IBM の機械は、科学計算用、事務処理用、などとラインナップが分かれていた。

これは当時のコンピューターとしてはごく自然なこと。


科学計算用なら速度が重視されるし、事務処理用なら正確さが重視された。


今でもコンピューターの計算は正確だ、と思っている人がいるけど、正確なんかじゃない。

科学計算なら、宇宙を表現するような大きな数値も扱えないといけない。その一方で、科学の世界には「有効桁数」という概念があり、ある程度の桁数が保証できれば、計算が正確である必要はない。


#むしろ、話は「正確とは何か」という哲学的領域になる。

 機械的にただ計算をすることを正確だとは、決して言わない。


正確さは不要で、速度だけが重視されるので、コンピューターが得意な2進数で計算を行う。



その一方で、事務処理用では国家予算を扱えるほどの大きな値も、1セント単位の細かな値も、どちらも正確に扱える必要がある。


話が複雑化するので詳細は省くが、コンピューターは「1セント」を正確に表現できない。

小数点以下を表現する「2進数」は、小数点以下を表現する「10進数」に正確に変換できないためだ。


#1セントは、0.01ドル。


そのため、事務処理機では、コンピューターが苦手な10進数で計算を行うように作ってある。

コンピューターは2進数で計算している、と現代では言われるが、そうではない時代もあったのだ。


とはいえ、コンピューターの苦手な方法で計算をしているので、当然速度は遅い。

でも、事務処理用では、小数点以下の10進数も正確に計算できることのほうが大切だった。




System/360 (1964) は、こうした「専用機」ではなく、汎用の計算機を目指して設計された。

浮動小数点演算も、BCD 演算も両方とも使えるように設計されていた。


それまでのコンピューターは、1バイトが 6bit のものも多かった。英語の文章を記述するには、これで十分だからだ。


しかし、System/360 は1バイトを 8bit とした。

System/360 自体は 32bit を1ワードとして動作し、最大4ワード(128bit)までを一度に計算できた。



System/360 は大ヒットし、それ以降のコンピューターを規定してしまった。

今の PC も、浮動小数点と BCD の演算を両方とも行えるように設計され、8bit を1バイトとしているものが多い。


その意味では、アムダール氏の考案したコンピューターの子孫だ。




どんな世界でも、新しい世界を切り拓くのには予想外の困難が待ち受ける。


この時代、まだコンピューターはハードウェアを直接プログラムして計算を行うものだった。

でも、「なんにでも使える」 System/360 は、非常に幅広い要求にこたえるため、システムを扱いやすくするためのソフトウェアを必要とした。


後の世にいう「OS」、オペレーティング・システムの誕生だ。


アムダール氏とは直接関係ないが、System/360 用の OS である、OS/360 の開発は困難を極めた。

これまでは、コンピューターとはハードウェアを作るものであり、ソフトはおまけのようなもの、簡単に作れるものだと考えられていた。


OS/360 の開発は従来考えられていたものよりも、はるかに困難だった。

ここで初めて、コンピューターにとって一番重要なものは、ハードウェアではなくソフトウェアだ、という認識が生まれる。


OS/360 の開発困難は、後に原因などが整理され、書籍「人月の神話」として刊行される。


これ、今でも役立つ話が多い。

プログラマ向けの話ではなくて、プロジェクトマネージャー向けの話だし、もっと言えばコンピューター業界に限らず、あらゆるプロジェクトにおいて参考になる。


一言でいえば、「知的生産活動は、工場で製品を作るような人月計算で見積もれるものではない」ということを解説している。


なんだ、そんなことわかっているよ、経験しているよ、という人も多いかもしれないけど、当時も「なんとなく肌で感じていた」という人が多くても、理論だってなぜそうなるのかを解説している本はなかった。

いや、今でも少ない。


そして、この本では「じゃぁ、どうやって見積もればよいか」ということもちゃんと解説している。

プロジェクトが見積もり通りに進まずにデスマーチ進行になった、という経験を持っている人は、この本を読むべきだ。


ちなみに、デスマーチプロジェクトから「自分の身を守る」方法を知りたい人は、「デスマーチ」も併せて読むこと。

「デスマーチ」は人月の神話を読んでいることを前提に書かれているのだけど、もう一歩話を踏み込んで、失敗しそうなプロジェクトを立て直す方法と、「巻き込まれて自分がひどい目に合わないように」するための方法を書いている。




さて、話を戻す。

アムダール氏は、System/360 を設計した後にさらに良いコンピューターの提言を IBM に対して行ったのだけど、この提案は却下された。


当時の IBM は、コンピューターを作りたかったわけではない。

IBM はビジネスに役立つサービスを提供する会社で、コンピューターはそのための道具に過ぎなかった。


この考え方は、非常に大切だ。今だって重要だと思うけど、多くのコンピューター会社はコンピューターそのものを目的としている。

それで何をするか、というのはユーザーの責任で、コンピューター会社は知ったこっちゃない。


ともかく、IBM では、コンピューターは道具に過ぎなかった。

コンピューターが安定していることを重視したし、そのためには新製品を矢継ぎ早に出す必要はなかった。



アムダールは IBM をやめ、アムダール社を作る(1970)。

そして、System/360 互換でもっと良いコンピューターを作り始める。互換機ビジネスだ。


そのころ、日本では国策として IBM 互換機を作ろうとしていた。

正確にいえば、コンピューターを作る技術を持った会社6社を、政府主導で3グループに分け、どのようなコンピューターを作るか政府が決めた。


1グループは、独自アーキテクチャのもの。

1グループは、IBM 互換機。

1グループは、IBM に対抗しうる会社の互換機。



IBM 互換機グループは、富士通と日立が割り振られた。

互換機とはいえ、IBM の回路を真似してしまうと IBM との訴訟になる可能性がある。


同じソフトが動くようにしつつ、独自設計をする必要があった。




富士通は、アムダール社と提携する。

アムダール氏は System/360 を設計し、回路が何を目的としているか熟知していた。


そこで、アムダール社では、IBM の回路とは違う形で、全く同じ目的を実現するように設計を行っていた。

そのアムダール社と提携するのであれば、IBM との訴訟問題はおこらない。


後にアムダール社は富士通の子会社になるが、そのずっと前に、アムダールは自ら興した会社を去っている。




アムダール氏は、「アムダールの法則」の提唱者としても知られている(1967年提唱)。


プロセッサの数を2倍に増やしても、性能は2倍にはならない、とする法則。

今なら誰もが当たり前に知っているが、昔は計算装置が増えれば、増えた分だけ性能は増加する、と考えられていた。


これを、論理的に「そうじゃない」と示したのがアムダールの功績。

一時期は過大に評価され、マルチプロセッサ化は全く無駄だ、という主張も聞かれていた。


後にジャック・デニスが超並列を研究し、マルチプロセッサ環境で速度を上げるための方法論を示している(1990年代)。


これを受け、最近ではマルチプロセッサが流行している。

もちろんアムダールの法則は今でも有効だが、性能を上げるための方法論がかなり進み、十分マルチプロセッサを有効活用できるようにはなったようだ。




なんかとりとめのない話になった。

アムダール氏は、名前は知っていても、それほど詳しいわけではないし、どうしても話が散漫としてしまう。


コンピューター業界にとって重要人物の一人ではあった、と認識している。


氏のご冥福をお祈りいたします。



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デイビッド・パターソン 誕生日(1947)  2015-11-16 12:29:41  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、デイビッド・パターソンの誕生日(1947)


RISC と RAID の生みの親、とされています。


一般に RISC のほうが功績とされるのですけど、僕はへそ曲がりなので(笑)RAID から説明しましょう。

というのも、RAID のほうが必要としている人多いと思うから。




ハードディスクは安いけど信頼性が低い。

信頼性が低いというのは「いつか壊れる」ということです。まぁ、当たり前。


当たり前なのですが、壊れると致命的で困ります。

ディスクが壊れてデータを失った、という経験、誰にでもあるのではないでしょうか。


これ、SSD の時代でも話は同じだと思ってね。

ハードディスクのように物理動作が無くなった分、壊れにくくはなっている。でも、いつか壊れます。



パターソン博士と、共同研究者は「壊れないハードディスク」を開発しました。


といっても、当たり前だけど機械は必ず壊れます。

開発したのは、壊れたとしてもデータを失わないで済む方法。


これが RAID です。論文発表は 1988年。



複数台のディスクを組み合わせ、「冗長性」を持たせてデータを記録します。

冗長性って、同じことを複数のディスクに書き込む、ということね。


どれか一台が壊れても、ほかのディスクにも同じ内容が書いてあります。

だから、壊れても復活できる。


2台が同時に壊れたりするとダメだけど、そこは確率問題だから。

1台壊れてすぐに「元の状態に復旧」していれば、2台が故障することは減らせる。



この冗長性の計算には、できるだけ容量を無駄遣いせず、でも信頼性を上げるために複雑な数学を使っています。

一番わかりやすいのが、数学を一切使わずに「同じ内容を2台に書き込む」ことですけどね。


2台に書き込んでいると、片方が壊れてももう片方から読みだせます。

その代わり、2台あるのに容量は1台分。容量としては最大の無駄遣い。


この「2台に同じ内容を書く」のが RAID 1 。



本当は、RAID の目的は「データ保全」だけではない。

物理的な動作のあるハードディスクを、高速に使用する、なんてことも考えられている。


目的によって RAID 6 まで考えられています。

速くてデータ保全もできる方法は費用もかかったり、費用を抑えて高速にするとデータ保全性が悪かったり。



データ保全性を考えた際には、RAID 1 を使うのが良い、とデータ復旧会社の人は言っています。

容量の半分無駄になるから、経済性は悪いのだけどね。


RAID って、複雑な数式を使うから、データとしては暗号化されたような状態。

RAID 1 は単純に2台に同じデータを書き込むだけだから、最悪状況からの復旧もやりやすいのだそうです。


「人間の目で見てわかるデータ」も冗長性として重要、ということか。




つづいて、RISC の話。

こちらは、パターソン博士以前にもう基礎的な考え方は始まっていて、博士の仕事は状況を整理し、その有用性を広めた部分になります。



黎明期のコンピューターは、非常に低機能でした。

計算機として作られたため、計算機能はそれなりにある。でも、決して使いやすくはありません。


以前に書いた記事ですが、Whirlwind のアセンブラや、FORTRAN の実行制御命令を見てみるとよくわかります。

条件分岐、はあっても、サブルーチン呼び出しはありません。


サブルーチン呼び出しするためには、呼び出す前に変数に「戻り先」を入れて置き、呼び出された側で最後のジャンプ先を自己書き換えして、呼び出し元に戻す、というような技法が必要だったのです。



名著「ハッカーズ」に、PDP-6 (1963) の制作話が出ています。

PDP-6 は DEC 社が作成したものですが、商業的には失敗でした。


ただ、この機械の設計段階で、MIT のハッカーたちに何度も意見を聞いています。

設計担当者が、MIT 出身の先輩だったのです。


結果として作り上げられたマシンは、当時のコンピューターとしては非常にプログラムしやすいものでした。


レジスタを16本も持ち、スタック構造を作り出すための命令があります。

レジスタ内の値をアドレスとしてアクセスを行う、というような命令もありました。


これらを使うと、サブルーチンを簡単に呼び出すことができましたし、以前なら何ページ分ものプログラムが必要だった「10進数プリントプログラム」を、ほんの数命令で作れるようになりました。



PDP-6 自体は失敗でしたが、こうした「アセンブラでのプログラムの作りやすさ」は、この後の PDP シリーズに受け継がれていきます。

最終的には PDP-11 (1970) で、究極の命令セットと言われるようになるのです。




PDP-11 の命令セットが「究極」とまで言われるのは、直交性が非常に高いためです。

この「直交性」自体が現在では死語ですが、命令とデータの使い方を、自由に選べることを言います。


これ、非常にプログラムが作りやすいんです。…アセンブラでは。


IBM も、System/360 (1964)では、直交性の高いシステムを作り上げています。

(スタック構造が入れられるのは、1970年の System/370 から)



しかし、1970年代の半ばに、System/370 で実際に使われているアプリケーションを詳細に調べたところ、意外なことがわかります。

ほとんどがコンパイラが作り出したプログラムでしたが、直交性の高さはほとんど活かされておらず、ほんの一部の命令の組み合わせしか使っていないのです。


これはある意味、コンパイラの「癖」でした。

人間ならば、生成されるコードの速度よりも、記述しやすさを優先したくなることがよくあります。

そのため、直交性の高さが役立ちます。


しかし、コンパイラはたとえ複雑な記述になったとしても、速度やメモリ効率を優先します。

その結果、使いやすくても遅い命令はあえて使わない、一部の命令の組み合わせを好んで使う、などの偏りが現れたのです。


逆に考えれば、コンパイラが使わない命令を、苦労して回路にくみ上げる必要はありません。

一方、「よく使う」とわかっている命令は、できるだけ高速に実行できるようにしたほうが良いです。



IBM はこうした実験として、IBM 801 (1976) を作り上げています。

狙い通り、回路規模は小さいのに高速に動作するコンピューターとなりました。


ただし、これは実験プロジェクトであり、製品として世に出たわけではありません。


#のちの POWER 命令セットになります。XBOX 360 や Wii U などが使用している PowerPC もこの命令セットを採用したプロセッサの1つ。



IBM 以外でも同じような動きはあり、コンパイラが普通に使われる世の中で、直交性にこだわって設計を複雑にすることにどれだけの意味があるのか…設計者が懐疑的になり始めていました。




各社がまちまちの方法で「直交性よりも良い設計指針」を求めていた中で、これをまとめたのが今日紹介する、デイビッド・パターソン博士でした。


カリフォルニア大学バークレイ校で、バークレイ RISC プロジェクトを開始します(1980)。


このときに「RISC」という言葉を作り出しました。

Reduced Instruction Set Computer の略。「簡略化された命令を持つコンピューター」と訳しましょうか。


これに対し、パターソン博士は従来の CPU 命令を「CISC」と命名しました。

Complex Instruction Set Computer の略。「複雑な命令を持つコンピューター」です。



…この言葉、翻訳では表現できない恣意的な語彙選択をしています。

自分がこれから作ろうとするものを「素晴らしいもの」に見せるための言葉選びがうまい。


Complex って、単純に「複雑」というような意味なのですが、いわゆる「コンプレックス」や「嫌悪」のような負のイメージのある言葉です。

それに対し、Reduced というのは、小さくした、とか簡略化した、という意味合いなのだけど、「方程式を解く」とか「征服する」とか「ダイエットする」というような、物事を良い方向に導くイメージのある言葉。


CISC と RISC は、冒頭の部分以外同じ言葉になっています。

だから、この2者の比較は、「Complex と Reduced のどちらがいい?」と聞いているのと同じ。


そんなもの、誰だって Reduced って答えます。悪いイメージの言葉と良いイメージの言葉を並べているんだから。



かくして、RISC プロセッサの大ブームが起こります。


パターソン博士の定義では、RISC とは1クロック実行できる程度の簡略な命令だけを持ち、使い方の区別がない多数のレジスタを持ち、すべての命令が同じ長さで…というようなものでした。


これ、いわゆる「RISCプロセッサ」がみな取り入れた特徴。

こうすることで、CPU の設計が非常にすっきりとするので、回路も単純で実行速度を上げられるのです。


でも、RISC ブームによって、Intel の…CICS の代表みたいな CPU も、「RISCだ」と言い出した。

Pentium の時に、RISC の特徴を大幅に取り入れたのね。一番重要な部分は今まで通りだったのだけど、これによって「RISC」を名乗りだした。


今ではなし崩し的に…RISC か CISC か、って論争自体がどうでもよくなった感はあります。




ちなみに、パターソン博士が作った「バークレイRISC」は、その基本設計を元に SUN が SPARC プロセッサとして商用化しました(1985)。


SUN はその後無くなってしまいましたが、富士通と提携していました。

SPARC の後継である SPARC64 は、今でも富士通がスーパーコンピューターなどに使っています



その SUN は BSD を商用化することを目的に作られたベンチャー企業でした。

BSD とは、「Berkeley Software Distribution」の略。バークレイ校が改造して広めた UNIX の一種でした。


そして、CPU までバークレイ RISC の流れを汲むものにしたわけです。


SUN のワークステーションの信頼性はすごくて、何年も電源入れっぱなしで動いてる…とか、UNIX の信頼性を高める伝説を多数作っています。


#Linux の話として一時期語られることが多かったのだけど、SUN 由来。

 この話がよく使われたころの Linux はそんなに信頼性高くなかった。今ではずっと良くなったけど。



SPARC プロセッサ、「リングレジスタ」という非常に面白い特徴を持っていて、速度の遅いメモリへのアクセスを極力減らしています。


特に、C言語のような「関数呼び出しでスタックを多用する」言語では効果絶大。

というか、C言語の呼び出しを前提に考えられたような機構。


解説すると長いのでここには書きません。興味を持った人は調べてみてね。



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ハーマン・ホレリス 命日(1929)  2015-11-17 11:02:08  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日は、ハーマン・ホレリスの命日(1929)


あえておかしな説明をすると、コンピューターの画面の横サイズが 640ドットを基本としている…SXGA 解像度だとこの2倍の 1280ドット、フル HD 解像度だと3倍の 1920ドットとなっているのは、ホレリスの影響です。




アメリカでは、10年に一度、西暦の末尾が「0」の年に国勢調査が行われます。

19世紀中ごろ、アメリカには次々と移民が押し寄せ、10年で 1.3倍程度のペースで人口が増えています。

それに伴い、集計にも時間がかかるようになっていきました。


1880年の国勢調査の結果が出たのは、1889年でした。


1880年の国勢調査の集計に手間取っている間に、次の…1890年の国勢調査は10年以内に集計が終わらないだろう、という予測がたっていました。

それでは、何のための国勢調査だかわかりません。


1888年、国勢調査局は、国勢調査の統計作業を効率化するための発明コンテストを開きます。




ホレリスは、1879年にコロンビア大学を卒業しています。

その後、国勢調査局でしばらく助手として働き、この大変な集計作業を知ることになります。



1882年、ホレリスは MIT で教員の職を得ます。

そして、その間にパンチカードを使ってデータの集計を行う機械を試作します。


当時、パンチカードはよく使われた技術であったことに注意してください。

パンチカード自体は彼の発明ではありません。


パンチカードで音楽演奏を行うオルガニートは、1860年には発明されているそうです。

音楽用のパンチカードは、1848年ごろに発明されているそうですし、1725年にはパンチカードによって模様を作り出す織機が発明されています。

(とくに有名なジャカード織機は 1801年発明)



ホレリス自身、電車の車掌が切符に穴をあけているのを見て、パンチカード集計機を着想したと言っています。

車掌が切符に穴を開けるのは、日本でも 1980年代中頃までは、普通に見られた風景でした。


#行き先を変えたくなった際、車内で車掌から切符を買うことができた。

 その切符は路線図の書かれた大判のもので、出発駅と目的地に穴を開けて使用した。



1884年にはこの機械で特許を得て、再び国勢調査局に戻ります。

そして、1888年に先に書いた発明コンテストが行われ、ホレリスの機械が選ばれます。


1890年の国勢調査で、早速ホレリスの機械が使われました。

ホレリスの機械により、2年で集計が終わる、と見積もられました。


実際には予定より早く、1年半で集計作業が終わっています。

しかも、この集計作業は2回行われ、誤りがないことの確認まで終わっていたのでした。




1896年、ホレリスは「タビュレーティングマシン」社を興します。


タビュレーティングマシンというのは、「集計機」の意味ね。タビュレートには、作表、という意味があります。


先に作った機械は、国勢調査専用のものでした。

しかし、ホレリスはこれを改良し、配線板を組み替えることで自由な集計が行えるようにしました(1906)。

「プログラム可能な計算機」としたのです。


当初、販売ターゲットとしては世界の国勢調査局を考えていたようですが、同じように膨大なデータ処理を必要とした保険会社などにも販売が広がります。


1911年には、類似の機械を作り始めた別の4社と合併し、会社規模を大きくします。

1920年には、集計結果を自動的に印刷できる機械を開発。


そして、1924年には社名を変更し「インターナショナル・ビジネス・マシーン」…頭文字をとってIBMとしています。




最初の国勢調査で使われたパンチカードは、24の項目について、12の選択肢から選べるように作ってありました。


1928年、項目を 80まで対応したパンチカードが作られます。

選択肢は 12まででしたが、このうち 10個を使って数字を選ぶことで、連続した項目を使って「00から99まで」のような選択も可能としました。


このパンチカードはコンピューター時代になっても入力装置として使われ、12の穴あけ位置に複数同時に穴を開けることで、文字を表現することも可能となります。



FORTRAN は、このパンチカードを使ってプログラムをするように想定しています。

そのため、1行は 80文字でした。


その後、コンピューターに CRT が接続されるようになると、パンチカードと同様の情報が表現できるように、横に 80桁表示できる、というのが普通になります。


80桁の文字を、横 8ドットのフォントで表現するのであれば、横は 640ドットとなります。

また、この倍数であればフォントを工夫することで 80桁の表示が可能です。


このことから、今でも横方向のドット数は 80の倍数であることが多いです。




ホレリスは、1929年の今日、心臓発作で亡くなっています。

彼自身は、コンピューターの登場以前に生きた人であり、コンピューターとは無関係です。


しかし、コンピューターの発展に大きな影響を与えた人物だと思います。


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エイダ・ラブレイス 命日(1852)  2015-11-27 09:32:26  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日は、エイダ・ラブレイス伯爵夫人の命日(1852)。


「世界最初のプログラマ」と呼ばれる女性です。

今では勘違いとわかっているけど、初期の「プログラム」に多大な功績をしたのは事実。


その功績から、「エイダ」は、プログラム言語の名前にも使われています。



以前、誕生日に記事を書いているため、詳細はそちらをご覧ください



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PONG 発表日(1972)  2015-11-29 11:31:03  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、世界最初のビデオゲーム、「PONG」が発表された日(1972)。


発表といっても、プロトタイプは8月には完成して、地元のバーに置いてもらっていたそうです。

そこでお客さんに好評だったので量産体制を整え、1972年の今日、正式発表。



ポン以前、ビデオゲーム市場は存在しませんでした。

「テレビゲーム」が存在しなかったわけではなく、市場が存在しなかったのね。


しかし、ポンは大ヒット。それまでピンボールなどを置いていたバー(酒場)を中心に、多くの店がゲームを置きます。

非常に単純なゲームで対戦型だったため、酔っ払いが気軽にお金を出して遊ぶことができました。



ポンの類似ゲームを各社が作り出しますが、ポンの作者であるノーラン・ブッシュネルは特に訴えませんでした。

ポンの売れ行きが良く、生産・販売で忙しく、訴える時間が惜しかったのです。


ポンの販売台数は正確に把握されていませんが、およそ1万台。

コピーゲームを含めると10万台程度売れたとされています。


ポンのコピー商品を作ることで、ビデオゲーム会社が乱立し、流通網も出来上がり、「ビデオゲーム市場」が形成されます。


2年後、ポンの生産は終了します。さすがに市場にポンとその類似商品があふれかえり、売れなくなったのです。

(人気が衰えたわけではなく、お店に置かれた台はまだ人気がありました)



この状況は他社も同じで、それぞれが「次のゲーム機」を工夫して作り始めます。

これによって、多種多様なゲームが生み出されていくことになるのです。




最初に「世界最初のビデオゲーム」と書き、その数行下に「テレビゲームが存在しなかったわけではない」と書きました。


実際、家庭用テレビゲームの元祖である「オデッセイ」は、ポンより先に発売されています。

…それどころか、ポンはオデッセイで遊べたゲームのうち一つを、より面白く作り直したものでした。


それでも、ポンは世界最初のビデオゲームなのです。

なぜなら、「ビデオゲーム」という言葉が、ポンを表現するためにノーラン・ブッシュネルが考案したものだから。



ポンは日本でも発売されているし、コピー品を作っていたメーカーもあるのですが、それほどメジャーな存在にはなり切れていませんでした。

酒場でも遊べるように極度に単純化した「ポン」を、エレメカ中心で複雑な内容が多い日本の遊技場においても、見栄えが悪かったのかと思います。


このため、ビデオゲームという呼称は日本では普及していません。


#日本には、酒場にゲームを置く習慣はありませんでしたし。

 遊技場は主に遊園地の一角や観光地の片隅、デパートの屋上などにありましたが、それほど人が来るところではなく、注目度は低いです。



ところで、オデッセイは「テレビゲーム」と銘打っています。


日本では、オデッセイを発売したマグナボックス社の協力の元、エポック社が「テレビテニス」を発売しています(1975)。

これが多くの日本人にとっては最初の「テレビゲーム」となり、テレビゲームという呼称が一般化するのです。


ただ、家庭用としては非常に高価だったため、認識はあっても「遊んだ」ことのある人は多くありません。



そのあと、タイトーが「テーブル型筐体」を開発し、それまで遊技場にしか置かれていなかったテレビゲームを、喫茶店に設置できるようにします(1976)。


当初は、ポンから派生したゲームである「ブロック崩し」が入れられました。

ポンはヒットしなかったけど、これはヒット。


気軽に手の届く範囲にある、ということが大切なのです。遊技場はそれほど人の来る場所ではなかったからね。

欧米での「酒場」に相当する場所が、日本でもやっと見つかった格好です。


この直後、タイトーがブロック崩しと、当時のSF映画ブームをヒントに作り出した「スペースインベーダー」(1978)が大ヒット。

日本でも業務用ゲーム市場が形成されることになります。




ポンは、世界最初のビデオゲームであり、市場を形成した重要な作品でした。


でも、これ以前にもテレビゲームはたくさんある。

興味を持った方は、「世界初のテレビゲーム」も併せてお読みください。


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チャールズ・バベジ誕生日(1791)  2015-12-26 10:51:04  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日は、チャールズ・バベジの誕生日。


コンピューターの父、と言われる人です。

19世紀末に、歯車で、プログラム可能でなんでも計算できる機械を作ろうとしました。


当時の技術の未熟さと、彼自身の持つ完璧主義のせいで完成には至りませんでした。


しかし、後に世界初のプログラム可能計算機とされたハーバード・マーク1は、バベジの自伝に触発されて設計されています。


IBM はハーバード・マーク1に関わったことで自動計算器の技術を深め、後に SSECIBM701 のような「プログラム可能な自動計算器」を作り出します。



バベジにはほかにも多くの業績があります。

特に、数学の一分野である統計学を創始しています。


統計学って、現代社会の基礎をつくる重要な学問です。

19世紀までは、社会の仕組みを作るのは、一部の人が頭の中だけで考えて「こうするといいのではないか」と、エイヤっと決めていた部分があります。


でも、バベジはこのやり方に異を唱え、綿密なデータを集め、最も効果の上がる方法を事前に予測する、という学問を作り出したのです。

現代社会では、何をやるにしてもこのやり方が使われています。



詳細は、以前命日に記事を書いていますので、そちらをお読みください。



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トーマス・J・ワトソン 誕生日(1914)  2016-01-14 16:36:11  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、トーマス・J・ワトソンの誕生日(1914)


IBMの2代目社長です。

ちなみに、初代社長は彼の父、トーマス・J・ワトソン。


わー、なんだそれ。子供に自分と同じ名前付けるな。

ややこしいので、一般に父親は「シニア」または「ワトソン」、子供は「ジュニア」または「トム」(トーマスの愛称)と呼ばれます。


(この文章、父親の話題を書いたときの使いまわし)




シニアは、汚い手を使っても商売を成長させる、やり手でした。

とはいえ、IBM 社長になってからは社員を大切にし、悪いことはしなかった。


ジュニアは…父の名前を継がされ、ゆくゆくは会社経営を引き継ぐ御曹司でした。


でも、そんなのは父が勝手にやったこと。

彼自身は後を継ぐのを嫌がり、反抗的で、無気力な学生時代を送っています。


成績は悪くて、遊び歩いてばかりで、酒におぼれる日々だったのね。


父親の意向でIBMに入社すると、周囲が「跡継ぎ」とみる傾向はさらに強まり、彼にとっては苦痛となります。

この頃第二次世界大戦がはじまり、陸軍でパイロットとしての腕を磨きます。


彼はとにかく、自分の道を見つけたかった。がむしゃらに訓練し、少将付きの副官となります。

当時の彼は、少将に気に入られることだけが喜び。上へのごますりばかりで、部下から反感を持たれたりもしました。


でも、彼は事態を収拾し、部下から認められるようになります。

人心を掌握することの難しさと、大切さ…この経験は、後に彼の役に立ちます。



やがて戦争は終結し、進路に悩む彼に、少将はIBMに戻るよう助言をします。

そして、彼は今度は自信をもってIBMに戻るのです。




IBMはこの時点ではまだ「ビジネス向けのサービス」を売る会社でした。


機械を売るのではなく、ビジネスへの助言なども含めた「サービス」全体を売るのね。

パンチカード集計機を、その複雑なセッティングを行うサービスマンと共にリースする、という商売です。


このサービスマンのことを「コンピューター」と呼びます。

複雑な計算処理をする人、という意味の英語です。


IBMは非常に多くのコンピューターを抱え、この人材を大切にすることは、シニアの重要な経営哲学でした。



世の中には電子計算機が作られ始めていました。これらも「コンピューター」と呼ばれます。

しかし、それらは「計算機」にすぎず、IBMの抱える「コンピューター」のように、ビジネスで利益を出すための方策を考えてはくれません。


IBMは、ビジネス向けサービスを売る会社でしたから、自動化された「コンピューター」に手を出そうとはしませんでした。

何よりも、労働組合がそれを許さず、人材を大切にしたいシニアも手を出さなかったのです。


事実上「コンピューター」である SSEC が、IBM公式には「計算機に過ぎない」のも、そのためです。




ところが、UNIVAC 社が世界初のコンピューターの販売を開始すると、パンチカード集計機のサービスは解約・返品が相次ぎます。

ちょうどそのころ、ジュニアは2代目社長の座に就きます。


ジュニアが2代目を継いでも、まだシニアは健在でした。

人材を大切にしろ、という厳命が残されていました。


しかし、ジュニアはコンピューターの開発に乗り出します。


もちろん、労働組合が黙ってはいません。

機械としての「コンピューター」が導入されたら、人材の「コンピューター」は解雇されてしまうかもしれません。


しかし、彼は具体的な案を示して説得します。

今までは、「コンピューター」の仕事は、パンチカード処理機のリース先の企業に赴いて、その企業で必要な計算を行うことでした。

データを収集し、処理するための手順を考案し、機械にその手順を設定し、パンチカードを処理するのです。


機械としての「コンピューター」は、非常に高価なので、パンチカードのように多くの企業が導入することができません。

数カ所の計算センターに置かれ、使われることになるでしょう。


企業からはパンチカード集計機が消え、計算センターに処理を頼むことになります。

この点だけを見ると、IBMは解雇を行う、と思えるかもしれません。



しかし、相変わらず機械の扱いは複雑で、手順の設定はパンチカード以上に複雑になります。

今後のIBMの主要業務は、この複雑な手順を設計し、多くのお客様に、満足する計算結果を届けることになります。


この複雑な手順の設計には、今までパンチカード処理機を扱ってきた「コンピューター」の能力が必要です。

そのためにも、解雇は行わない。業務内容は多少変わるが、IBMは今後も彼らの能力を必要としています。



最終的に、労働組合は納得しました。

そして、IBM 701 (1952) …IBM最初のコンピューターが作られることになります。




IBM 701 は、非常に高価な計算機でした。

たとえ計算力があっても、これほど高価なものは売れないだろう…シニアはそう考えていたようです。


開発開始前、需要は5台、と見積もられ、リース料金などはそれに合わせて金額設定がなされました。


しかし、実際に発売してみると18台の注文が入ります。

最終的には、もう一台追加して19台が販売されました。



IBM 701 は、別名「国防計算機」と呼ばれています。

購入した顧客の多くが、軍を中心とする政府機関だったためです。


発売となった 1952年は、朝鮮戦争の最中でした。

そのため、軍は膨大な計算力を必要としていたのです。



5台売れれば儲けが出るつもりで値段設定したら、19台も売れた。

IBMにとってうれしい誤算でした。


これにより、IBMはさらにコンピューターを作るための資金を手にします。



この後も軍はIBMにとって良い「お客様」でした。

Whirlwind I を軍用に改良した SAGE (1958) も、IBM によって量産されています。


SAGE は、たった1台のコンピューターのために、4階建てのビルを建てる必要がありました。

もちろん非常に高価なのですが、軍はこれを数十カ所に建設したのです。


もちろん、IBMは莫大な利益を手にし、その資金を元に地位を固めていくのです。




シニアは、IBM以前にはずいぶん卑怯な手を使って商売を大きくしています。

ジュニアにもその血が受け継がれていました。


IBMは UNIVAC とライバル関係にありましたし、他の企業も続々とコンピューター業界に参入してきました。


新しい企業は、魅力的な新製品を大々的に発表します。

まだIBMが今ほどコンピューター業界の巨人ではない頃の話です。IBMは何度もピンチを迎えます。


そのたびに、ジュニアは「魅力的な新製品が開発中で、もうすぐお目見えする」ことを発表しました。

たとえ、そんなものは開発していなかったとしても、です。


現在のIBMの機械よりも魅力的なライバル社のマシン…そこに、IBM はそれ以上の魅力のものを約束するのです。


IBMの機械はリース契約でしたから、いつ契約を打ち切ってライバル社に乗り換えてもかまいませんでした。

しかし、リース契約である、ということは、新マシンが発売されたらアップグレードも可能である、という事でもあります。

わざわざライバル社に乗り換えて、契約変更の面倒をかける理由は無くなります。


もちろん、約束したマシンはちゃんと開発します。

IBMにはそれだけの開発力がありました。




そして、決定版ともいえる IBM System/360 の開発(1965)。

ジュニアが社長の時代の、最大のヒット商品です。


すぐ上に書いたように、当時のコンピューターは「ビジネス向け」「科学計算向け」など、用途に応じて設計が違っているのが普通でした。


しかし、System/360 は、360という名前が示す通り「全方位」に向いているマシンでした。

どんな用途にも使えるような、贅沢な構成になっていたのです。


今となってはあまり言われませんが、昔はコンピューターの種類を示して「大型汎用機」という言葉が使われました。

この「汎用機」という概念は、System/360 のために作られたものでした。


これが大ヒットし、IBMはコンピューター業界で、確固とした地位を築き上げます。




1970年、ジュニアは心臓発作を起こします。

大事には至りませんでしたが、これで体力的な限界を感じ、翌 1971年に社長を引退します。


その後は政治の世界で活躍し、1993年に79歳で亡くなっています。



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山本卓眞 命日(2012)  2016-01-17 11:31:19  コンピュータ 今日は何の日

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今日は山本卓眞さんの命日(2012)


富士通の元会長さんで、コンピューター黎明期に日本独自のコンピューターを設計したチーム(3名)の1人でした。


その設計チームの一人に、池田敏雄さんがいました。

今でも、黎明期の大天才として知られる人。富士通の社員でしたが、日本のコンピューター産業全体を牽引したといってもよいでしょう。


ただし、若くして亡くなっています。


山本卓眞さんは、自分の役割は池田敏雄さんの存在を伝える語り部だ、と言っていました。

富士通の会長になっても、富士通をコンピューターの大企業にしたのは、池田さんの存在があったからこそだ、と感謝し続けていたのです。



山本卓眞さんについては、誕生日記事で書いています

詳細はそちらをご覧ください。




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森公一郎 命日(2015) レイ・ドルビー誕生日(1933)  2016-01-18 09:55:46  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日は、LSI-C 、 MSX-C の作者である森公一郎さんの命日(2015)


そして、音響研究者レイ・ドルビー博士の誕生日(1933)



いずれも、過去に記事を書いています。


森公一郎さんは、よく知らなかった人なのですが、LSI-C はお世話になったので、訃報記事を書いています


もっとも、僕がお世話になったのは LSI-C 86 試食版ですね。

今でも入手可能な無料のC言語環境です。MS-DOS 用ですけど。


LSI-C ・ MSX-C は、CP/M ・MSX-DOS 用のC言語。

8ビット機で動作して、非常に今品質なコードを生成します。



ドルビー博士は、命日に記事を書いています


音響関係でいろいろな発明をしているのですが、今なら ac3 拡張子のファイル形式、ドルビーデジタルが有名かな。

mp3 よりも高品質なデジタル圧縮技術です。



いずれも、詳細はリンク先をお読みください。

この日記は、日付を記録するためのものです。



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マーシャル・カーク・マキュージック 誕生日(1954)  2016-01-19 11:27:39  コンピュータ 今日は何の日

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マーシャル・カーク・マキュージック 誕生日(1954)

今日は、マーシャル・カーク・マキュージック (Marshall Kirk McKusick) の誕生日(1954)


といっても、この人のこと、僕はあまり知りません。

ネットで探してみても、Wikipedia で書いてある内容がほぼすべて。


本人のページもありますが、こちらは大学で彼が持っている講義の案内や、趣味のワインの話などが中心。




さて、マーシャル・カーク・マキュージック…以下「カーク」と呼びますが、彼はBSD初期のプログラマの一人です。


彼はビル・ジョイと一緒に、初期BSDを作り上げ、その後も関わり続けています。


特に、BSD初期に使われていたファイルシステム FFS (Barkeley Fast File System) は彼の作品です。

また、FreeBSD で使われていた UFS2 も彼の作品です。(FFS を改良したもの)

さらに、UFS2 を「急に電源が落ちてもファイルシステムが壊れないようにする」改良(soft updates と呼ばれます)も行っています。



余談になりますが、UFS とは「Unix File System」のことです。

ユニックスで使われるファイルシステム、という意味の言葉なのですが、実際に UFS と名付けられたシステムは存在しません。


UNIX にはいろいろなファイルシステムがありますが、全部を総称して UFS 、と呼ぶこともあります。


初期の UNIX では、ファイルシステムは、単に FS と呼ばれていました。

しかし、本家 UNIX の FS なのだからと、これを UFS とする一派もいます。


しかし、一番多いのは、FS を改良した FFS …カークの作ったものを UFS とする場合です。

UNIX の普及期において、BSD の存在が大きかったためです。


カークは先に書いた通り、 UFS2 を作っています。

BSD ユーザーの間では、UFS と言えば UFS2 のことです。



ところで、Linux は MINIX のファイルシステムである ext を改良した、ext2 を初期に使っていました。

この ext2 は、FFS を参考に ext を改良したものです。


ext2 はその後も改良が続けられ、ext4 として近年まで使われていました。

なので、Linux ユーザーであってもカークと無縁ではありません。




しかし、カークの一番有名な業績は、「BSDデーモン」というかわいいマスコットキャラクターを作り上げたことではないかと思います。

(この日記冒頭の画像。クリックで拡大します。)


BSD なんて興味ない、という人でも、一度くらいはこのキャラを見たことがあるのでは?

このキャラクターは、現在も彼が著作権を保有していますが、「著作権を有している」と主張する以上の権利行使をする気はないようです。



すぐ後に追記


キャラクター自体は徐々に作られていったもので、彼が作ったものではない、という指摘をいただきました。

誤った情報を公開したことをお詫びするとともに、追跡調査をいたしました。



先に、カーク自身のページがあると書いたのですが、その中に詳細を記したページがありました。


これによれば、最初に描かれたのは、BSD のバージョンが 4.2 だった時に発行されたマニュアルの表紙だったそうです。



基本的に、UNIX のマニュアルはオンラインの man コマンドで提供されます。


しかし、本の形で情報がまとまっているほうが読みやすいです。

今でも詳細を書いたマニュアルを発行する会社は存在していますし、4.2 BSD マニュアルもそうした本でした。


4.2 BSD マニュアルを発行したのは、USENIX。

UNIX ユーザー・研究者の団体です。



1984年に、USENIXがマニュアルを発行し、注文を受け付けた際のメールが残っていました


この最後の部分で、マニュアルのレイアウト作業を手伝ってくれた人への感謝が述べられています。

そして、協力者の中に「ルーカスフィルム」が入っていて、カバーデザインは「ルーカスフィルムの、ジョン・ラセターが行った」と書かれています。


…僕も、ジョン・ラセターが BSD デーモンを描いた、という話を聞いたことはあったのですが、綺麗に描き直しただけだと思っていました。


どうやら、原画から彼のものだったようです。


ただし、この時点では BSD デーモンは白黒でした。

1989年の冬、カンザス州立大学の UNIX 好きのグループが、おそろいのTシャツを作ろうとしました。


このときに、マニュアルの表紙の白黒デザインに色を付けています。

また、白黒デザインでは素足だったのが、スニーカーを履くようになっています。




BSD の新しいバージョン、4.3 BSD が作られ、「4.3 BSD UNIX OS の設計と実装」という本が出版されました。

複数著者による本ですが、カークも著者の一人に名を連ねています。


この際に、スニーカーを履いたカラーバージョンのデーモンを元に、再びラセターが表紙の絵を描いています。


詳細はわからないのですが、どうやらこのときに表紙の絵を依頼したのがカークのようです。

そして、この絵はカークの著作物となり、現在も著作権を保持している、ということのようです。


#著作権は、著作を行ったものに自動的に発生する権利で、譲渡することはできません。

 しかし、依頼されて著作を行った際、原著作者の同意の元、依頼者が著作権の行使権利を留保することが可能です。



Wikipedia のカークの項目に「BSD デーモンの公式キャラクター画像の著作権を保有」と書かれていたのを見て、彼が作ったものだと僕が早合点した、というのが今回の誤りの原因でした。




ところで、カーク自身は USENIX の会長を務めたこともあります。

1990~92年と、2002~04年に会長職にありました。


4.3 BSD はラセターが描いた、と彼のページに明記していますが、4.2 BSD については誰が描いたのか触れていません。


4.2 BSD のために絵が描かれたのは 1984年で、その時点ではカークは USENIX の役員ではなかったようです。

そのため、誰が描いたのか確信が持てなかったのかもしれません。


先にリンクしたメールによれば、4.2 BSD もラセターが描いたことになっています。




なんで、ルーカスフィルムのラセターが、BSD のマニュアルの表紙なんて描いているんだ?


という疑問もあるかと思います。


ネットで情報を探しても見当たらないので記憶の話になるのですが、間違った記述をしたお詫びもかねて書いておきましょう。

(記憶で書くので、これがまた間違えているかもしれませんが…)



以前に書いた話なのですが、ルーカスはスターウォーズの特殊効果を作り出すために、コンピューターを作っていました


コンピューターというより、今でいうグラフィックボード、フレームバッファですけどね。

この機械の名前が Pixer 1 。後の「ピクサー社」の由来です。


当初は、複数のフィルム画像を取り込み、美しく合成する、という用途で使われていました。


しかしやがてコンピュータープログラムで3D計算を行い、アニメを作り始めます。実験的なものでしたが。


1984年には、その第1作目、「アンドレとウォーリーB.の冒険」が公開されています。

実験的なものなので、劇場公開とかではなくて、CG学会での上映ね。


このときの監督が、ジョン・ラセター。

そして、3Dの計算などは Cray X-MP と VAX11 でやった、と作品の最後に出てきます。




使用「機材」は書かれていても、OS まではわかりません。

しかし、Cray X-MP は Cray 版の UNIX で動きます。


VAX11 のほうは、「PROJECT ATHENA に 10台借りた」と書かれています。

これ、分散コンピューティングの初期の例です。


1983年に始まっているのですが、UNIX を使っていたことがわかっています。

Cray も VAX11 も UNIX を使っていて、接続して作業分担したのかな、と思います。



しかし、VAX11 用の UNIX は、正式には 1984年リリース。

PROJECT ATHENA には VAX11 製造元の DEC も参加していたので、リリース前のバージョンを使えたのでしょう。


しかし、リリース前となると、マニュアルもまだ整っていなかったと思われます。


…いや、大丈夫。VAX11 の UNIX は 4.2 BSD ベースでした。

4.2 BSD のマニュアルがあれば、大体使えます。


そして、この頃 USENIX は、BSD のマニュアル本の出版のために準備をしていたはずです。

まだ出版前だけど、4.2 BSD のマニュアルはすでに存在しているわけです。



ここらへんに、ルーカスフィルム、ジョン・ラセター、USENIX 、4.2 BSD マニュアルのつながりがありそうです。


以下は推測ですが、ルーカスフィルムの技術陣が、マニュアルが必要で USENIX に草稿段階のものを見せてもらったのではないでしょうか。


そして、草稿を読みながら、わかりにくい点などをどんどん質問します。

もっとこう書いたほうがわかりやすいのでは? というような意見も出します。


これが反映される形でレイアウトや記述内容などが見直され、協力者に「ルーカスフィルム」の名前が入ります。

そして、ついでに表紙の絵をラセターが描いた、というわけです。




追記のほうが長くなりました (^^;


しかし、世の中狭いな、という感想。

アンドレとウォーリーBは、以前に見ていて「VAX11 と Cray XP 使ったって書いてある」ことが心に残ってました。


#そういう、古いコンピューター大好きですからね。


以前に Pixar 1 の話書いたときも、別にこんな話を展開しようとは思っていなかった。


でも、思わぬところで話がつながりました。



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ポール・アレン 誕生日(1953)  2016-01-21 11:01:32  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、ポール・アレンの誕生日(1953)

マイクロソフトの共同創業者です。


ビル・ゲイツとは、シアトルの名門校、レイクサイドスクールにともに通いました。

ビルが2歳年下。


2人はまるで違う性格でしたが、コンピューターに興味がある、という共通点がありました。

ポールは物静かで、注意深く物事を進めるタイプでしたが、ビルは常に周囲を「挑発」していて、思い付きで行動するタイプ。


ビルは負けず嫌いで、自分が何でもできるように周囲に思われたくて仕方がありません。

しかし、そのために何かをやり始めると、驚くような集中力を見せました。


しかし、そんなビルも、兄貴分であるポールのいうことには耳を傾けました。

ポールは人当たりもよく、様々な「仕事」を見つけてきます。


それらは金儲けであることを超えて、彼らにとって面白い「挑戦」でした。




詳細はビル・ゲイツの誕生日に書いた記事を読んでもらうことにして、ざっと書いていきましょう。


まず、彼らはレイクサイドスクールが時間借り契約していた PDP-10 を使いすぎて、年間の接続予算を使い切ってしまいます。

すると、無料で使えるバグを発見し、使い続けるのです。


これが発覚し、アクセス禁止措置を受けると、ポールは PDP-10 の提供会社に掛け合います。

バグを修正できるし、そのほかの PDP-10 のプログラムのバグを探す手伝いもできる。

だから、その仕事と引き換えに PDP-10 を使わせてほしい。


こうして、彼らは PDP-10 ハッキングを続けます。



数年後、ポールの発案で、「トラフ・オ・データ」社を設立します。

交通量調査を請け負う会社でした。


当時、交通量調査は人海戦術で集計されていました。

トラフ・オ・データは、コンピューターを利用することで、安価で正確、迅速な集計を行いました。


さらにその後、インテルが 8008 を発表。

彼らは、交通量自動測定機の作成を思いつきます。


しかし、この時点でまだ 8008 は発売されていません。スペックシートの公表だけです。


ポールは、スペックシートを元に、PDP-10 上で 8008 エミュレータを作ります。

そして、ビルがそのうえでプログラムを作ります。


もっとも、この機械は成功しませんでした。

交通量調査自体も、後に合衆国政府が無料で行うようになったため、トラフ・オ・データは廃業しています。




さらに数年後、インテルは 8080 を発売し、エド・ロバーツが「アルテア 8800」を発売します。

ポールはこれを商機ととらえ、PDP-10 の 8008 エミュレータを改造、8080 エミュレータを作り上げます。


そして、ビルがその上で BASIC を作り上げるのです。

エドに BASIC を売り込むために作った会社が、「マイクロソフト」社でした(1975)。


その後 IBM に BASIC と MS-DOS を供給するようになったのをきっかけに、マイクロソフトは急成長します(1981)。


#負けず嫌いなだけで小心者のビルと、慎重派のポールは、IBM 相手に、やったこともない OS 開発なんて請け負う気はなかった。

 これを、ぜひやるべきだ、と説得して動かしたのは、西和彦。




その後ポールは、病気の治療のためにマイクロソフトを離脱(1983)。

これは誤診だったと後にわかり、マイクロソフトに復帰します(1990)。


最初に離脱した段階で、マイクロソフトはもう大企業の仲間入りをしていました。

創業者であるポールは、十分な富豪でした。


1986年には、慈善団体「ポール・G・アレン一族財団」を設立しています。

その後も各方面に寄付を行ったり、慈善事業を続けています。


また、ベンチャーキャピタルもやっています。

こちらは慈善事業ではなく、ベンチャー企業に出資し、成功すればきっちり回収する。


でもリスクも大きくて、やっぱり富豪でないとなかなかできないこと。



一方、趣味である「第2次世界大戦時の兵器」の収集にも力を入れています。

昨年…2015 年の 3月3日には、フィリピン沖で、日本軍の沈没した戦艦「武蔵」を発見しました。


8年前から、武蔵が沈んだあたりの捜索を続けていたそうです。



ポールはトレジャーハンターとして武蔵を探していたわけではなく、発見の権利を強くは主張しない、と表明しています。

戦死した乗員にも追悼の意を示し、今後の扱いは日本政府と協議するそうです。



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デビッド・ローゼン 誕生日(1930)  2016-01-22 09:52:49  コンピュータ 今日は何の日

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別にそれほど有名人ではないので、知らない人のほうが多い気がします。

セガの初代社長です。


初代、ってのがみそね。

以前にセガ初期の歴史書いたけど、創業者ではない。


というか、セガという会社は複数の会社が合併して出来上がっているので、どこが「創業」かはよくわからない。

ローゼン氏も、ローゼン・エンタープライズという会社の社長で、「セガ」という商標を使っていた会社と合併しました。


そして、社名が「セガ」となった時に、初代の社長となったのです。




ローゼンは、米空軍の軍人として朝鮮戦争に参加し、中国、韓国、そして沖縄に配属になっています。


沖縄配属中に、日本に「ローゼン・エンタープライズ」社を設立(1953)。

その後退役となり一度ニューヨークに戻りますが、すぐに日本を再訪しています。


ローゼンは、写真技術に詳しかったようです。

そして、占領下の日本がアメリカに比べて人件費が低いことに目をつけ、写真と芸術を組み合わせた商売を行うつもりでした。


ビジネスとしては単純で、「安い肖像画を提供する」ものでした。

絵描きを雇って肖像画を描いてもらえば、それなりの金額を支払わねばなりませんが、日本の安い人材を使えば、安く提供できます。


しかし、アメリカ人の肖像画を日本人が描くために、わざわざ旅費をかけていてはかえって高くなります。

そこで、アメリカで写真を撮影し、その写真を元に日本で肖像画を描こう、というのです。

これならば安い肖像画を作り出せます。


この頃、アメリカでは写真技術に革命が起きており、写真はそれまでよりもずっと安く撮影できるものになっていました。

安くなった「写真」そのもので商売することは難しいのですが、そこに肖像画という付加価値を付ければ儲けられるかもしれません。




しかし、日本を再訪したローゼンは、もっといい商売に気づきます。


米軍占領下の日本では、物資が困窮しており、米などの食料は配給制になっていました。

そして、その配給をもらうためには、本人を証明するカードが必要でした。このカードには、証明写真がつけられていました。


電車に頻繁に乗る人は、定期券のために証明写真が必要でした。

まだ職も少ないこの時期、就職するための履歴書にも証明写真が必要でした。

学校に通うものは、学生証のための証明写真が必要でした。



とにかく、証明写真の需要はたくさんあったのですが、先に書いた「アメリカでの写真革命」はまだ日本に入ってきていませんでした。


日本では、写真が必要であれば写真館で撮ってもらうのが普通でした。

そして、250円という当時では高いお金を払った上に、3日も待たないと写真が出来上がらないのです。


#うどん一杯20円、あんぱん1個10円の時代です。



彼は当初、アメリカで商売することを考え、そのための安い人材として日本を利用しようとしていました。

しかし、アメリカで安くなった技術が、日本ではまだ珍しいものであることに気づいたのです。


彼はビジネスプランを変更し、アメリカでの「写真革命」を、日本で提供する方法を考え始めます。




アメリカでの写真革命…Photomat は、今でいう「証明写真撮影機」のはしりです。

椅子に座って 25セントを入れると、4ポーズ・4枚の顔写真を撮影し、2~3分で現像済みの写真を出してくれます。


ローゼンは、これで撮影した写真を日本に送り、肖像画を描かせようとしていたのです。


#当時は固定相場で、1ドル=360円。25セントは 90円になります。



証明写真用としてこれを日本で展開すれば、確実に人気になる。

ローゼンはそう考えたのですが、1つ問題がありました。


Photomat で撮影した写真は、やがて色褪せはじめ、2年程度で消えてしまうのです。


とはいえ、たった 25セントで撮影した、ちょっとしたお遊び。

アメリカでは、2年で消えてしまうことを問題視する人はいませんでした。


しかし、日本で証明写真用とするには問題がありました。

食糧配給のための証明カードで自分を証明でき無くなれば、食糧が手に入らなくなることを意味します。

そんなもの、とても売れません。



退色問題は、現像工程の温度管理に問題がある、とわかりました。

写真現像は化学的な現象で、温度により反応速度が左右されるのです。


そこで、ローゼンは Photomat の古い機械を安く入手し、温度管理機構を付け加えます。


彼は、改良された機械を「Photorama」と名付けました。

そして、日本へ輸出・設置を行うのです(1954)。




ローゼン・エンタープライズは、Photorama を1回150~200円の値段設定で提供しました。

写真館よりも安く、2~3分後には写真が手に入ります。


当時は「2分写真」と呼ばれ、大人気となったようです。

設置個所もどんどん増え、1年で 100カ所以上になりました。



「2分写真」の人気の陰で、怒ったのは街の写真館です。

収入の柱であった、証明写真の需要をまるっきり取られてしまったのですから。


当時の日本は米軍の占領下にありましたが、法的にはアメリカ人も日本人も平等です。

しかし、Photorama はローゼンエンタープライズが開発し、ローゼンエンタープライズが販売する、独占商品でした。


写真館の人々は連名で、アメリカ領事館に対して抗議を行ったようです。

米軍占領下とはいえ、アメリカ人の独占商売を野放しにしておくのは、アメリカ人に対する優遇なのではないか。


当時、米軍は占領政策をとるとともに、日本人が米軍に対して不満を抱かないように苦慮していました。

この苦情は、すぐにローゼンエンタープライズに伝えられ、改善要求が出されます。


そこで、ローゼンエンタープライズでは、Photorama の機械を一般に販売することにしました。

これまでは、自社で設置を行ってきたのですが、今後は日本人に販売し、日本人が設置するのです。


これは、ローゼンエンタープライズの管理できる範囲を超えて、Photorama が普及することを意味しました。

自社設置の100カ所に加え、さらに100カ所に設置されたと言います。


ところで、Photorama を運用するには、印画紙や現像液などの消耗品を必要とします。

これらの消耗品は、ローゼンエンタープライズから購入する必要があります。


「直接商売」ではなくなったとしても、利益を上げ続ける構造があるのです。


いわゆる「フランチャイズ制」ですね。

米国ではすでに良くあるビジネス形態で、ローゼンもそれを元に考案したようです。


日本で展開されたフランチャイズ・ビジネスとしては、最初期のものでした。


#1954年の Photorama 提供から1年ほどでフランチャイズに移行したらしいのだけど、正確な時期は不明。

 一般に、日本初のフランチャイズは、1956年にコカ・コーラ社が始めた、とされるのですが、ローゼンのほうが早かったようです。




フランチャイズ制とすることで、ローゼンには暇ができました。

後はほおっておいても利益が上がります。



彼はまた、アメリカでは珍しくもないが、日本にはまだあまりないものを見つけ出し、日本への輸入を始めます。(1957年ごろ)

…コインを入れると一定時間遊べるゲーム、いわゆる「アーケードゲーム」でした。


すでに、サービス・ゲームズ・ジャパンがスロットマシンを輸入していました。

太東貿易や、レメーヤー&スチュアートなど、ジュークボックスを輸入する企業もありました。


これらの「コインオペ機」は、アメリカでの人気が下火になりつつあったのを、安く買って日本で提供しています。

そして、アーケードゲームも同じく、アメリカで人気が落ちつつある産業でした。


スロットは、非合法な賭博として、酒場などで遊ばれていました。

ジュークボックスも酒場や、人の多く集まるところで提供されていました。


ローゼンがアーケードゲームを提供する場所として目を付けたのは、映画館の待合ロビーでした。

ジュークボックスではうるさすぎるけど、次の上映まで暇を持て余す人の多い場所です。


特に、東宝や松竹とは契約を結び、映画館のロビーに機械を置いていきます。

この戦略は大当たりでした。当時、映画は重要な娯楽で、映画館は日本全国にあったのです。



ローゼンは、証明写真機に続いて、アーケードゲーム市場を切り拓きました。

まだ誰も手を付けていない、ライバルのいない市場です。


でも、順調に商売できたのは2年ほどです。

すぐに太東貿易や、サービスゲームズ社が名称変更した日本娯楽機械が、アーケードゲームの輸入に乗り込んできます。




Photorama は、その後同種の機械を日本の企業も作り始め、激戦となります。

ローゼンは、1960年代の初頭にはこの商売から手を引いています。


そしてまた、アーケードゲームの競争は激化しつつありました。


戦後の何もない日本では、商売は楽でした。ライバルがいなかったからです。

しかし、日本が豊かになるとライバルが増え、商売は楽でなくなりました。


ローゼンは、自分の事業を売り払うことに決め、ライバルであった日本娯楽機械と交渉を持ちます。

その結果、ローゼン・エンタープライズと、日本娯楽機械は合併することになります。


新会社名は、セガ・エンタープライゼス(1965)。


日本娯楽機械は、前身である「サービスゲームズ」の時代から、頭文字をとった「セガ」ブランドを使っていました。

そこに、ローゼン・エンタープライズの名前を組み合わせたものです。

(エンタープライゼスは、エンタープライズの複数形。会社が合併したのだから)



社長には、ローゼンが就任します。

ここに、セガが誕生するわけです。


以降は、以前に書いたセガの歴史を読んでください。


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【追悼】マービン・ミンスキー  2016-01-29 10:35:16  コンピュータ 今日は何の日

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マービン・ミンスキーが、1月24日に亡くなったそうだ。


26日にはニュースになっていたようだけど、僕は27日になって妻から聞いて知った。

今週ちょっと忙しくて、ネットの情報をそれほど見ていなかったのだ。だから、追悼文もすぐ書けなかった。


もっとも、ミンスキーをそれほど強く記憶していたわけでもない。

妻に「ミンスキーって人が亡くなったらしいよ」と聞いても、すぐに誰だか分らなかった。


ミンスキー? と問い直して、AIの研究家だそうだよ、と言われた。

…で、思い出した。マービン・ミンスキーか。ミンスキートロン作った人だ!



と、すぐに思い出したのがこれくらい、というので、僕がたいしてミンスキーに詳しくないのがわかる。

そんな僕が追悼文を書いたところで、駄文にしかならない。



僕の知識の多くは、「ハッカーズ」という書籍からきている。

コンピューター黎明期の、わくわくするような冒険譚。僕にとってはジュブナイル小説のようなものだ。


まぁ、冒険譚といってもトムソーヤのようなことはしない。実際の山を駆け巡るわけではなく、彼らはコンピューターというフロンティアを切り拓いた。

「ハッカーズ」には、若さゆえのいたずらっ子がたくさん出てきて、誰も見たことのない地平を切り拓く。これがジュブナイルでなくしてなんであろう。


そして、ジュブナイルには「子供の成長を見届ける大人」が必要だ。

ハッカーズの第一部では、その一人がジョン・マッカーシー…ジョンおじさんだ。


マービン・ミンスキーは、ジョン・マッカーシーの同僚で、ともにAI研究の創始者のひとりだ。

ただ、ハッカーズにおいては、ミンスキーはマッカーシーよりも扱いが小さい。

というのも、当時のミンスキーは、マッカーシーの弟子で最大の理解者、というような位置づけだからだ。


#とはいえ、無視できない重要人物なので、それなりに出てくるのだが。



マッカーシーは「若者がコンピューターに熱中している」ことを知り、彼らのやりたいようにやらせただけだった。

ハッカーが少しでも速度の速い、少しでもステップ数の短いプログラムを作ろうと工夫していても、それはバイクで速度を出して喜んでいるようなもの…若さゆえの楽しさだろうけど、ほとんど意味はない、と考えていた。


ミンスキーは、若者の中に飛び込み、自らも一緒に熱中した。

小さなプログラムを作ることには大きな意味があるし、直接プログラムをしたものにしかわからない「体験」があると感じていた。


当然、ハッカーたちはミンスキーのAIの講義には必ず出席したらしい。

ミンスキーはハッカーとして尊敬を集めていたし、その偉大なノウハウの一端を学べるのだから。




ある日、ミンスキーは PDP-1 の画面上に渦巻き曲線を描こうとしていた。


直線を描くのは簡単だ。だけど、整数演算しか使えない PDP-1 では、曲線を描くのは難しかった。

だけど、「渦巻き」がかけるプログラムは、すでにハッカーの間で作られていた。


こんなプログラムだ。

当時はアセンブラだけど、わかりやすいようにC言語風に表記する。



while(1){
  Y' = Y;
  X' = X;
  Y = Y' - (X'>>4);
  X = X' + (Y'>>4);
  pset(X,Y);
}


つまり、一個前の座標から新しい座標を生成して、そこに点を打っているのだな。

ちなみに、PDP-1 の座標系は、ディスプレイ中央が (0,0) になっている。



ミンスキーは、これをちょっと間違えて、最後の Y' を Y としてしまったらしい。

直前の行で Y を書き換えているので、「1個前の座標」にならない。


実をいうと、それ以外の Y' X' は無意味だ。

「一個前」と明示するために最初に X Y を保存しているのだけど、そもそも書き換えの影響を受けるのは最後の Y' だけ。

そこを書き間違えた。


つまり、次のプログラムを実行したことになる。



while(1){
  Y = Y - (X>>4);
  X = X + (Y>>4);
  pset(X,Y);
}


これが、偶然からの大発見だった。

描かれる線は、渦巻きではなく正円になった。


正円が描けるということは、SIN / COS の三角関数を生成できる、ということ。

ミンスキーは偶然から、整数演算のみで三角関数を導き出すプログラムを作ってしまったのだった。



これはすごい発見だったのだけど、ミンスキーはこれで終わりにしなかった。

この、偶然見つけたアルゴリズムの「意味」を数学的に検証して、「3つの円」を表示するプログラムを編み出した。


当時、ハッカーの間で、ディスプレイに興味深い画像を表示する、短いプログラムを作るのが流行していた。

Hacks 、もしくは HAX (読み方はどちらも「ハックス」)と呼ばれる。


3つの円を表示する、といっても、単純に表示するのではない。

表示に関係するパラメーターを、コンソールの2進スイッチにより与え、あえて「円を崩して」表示できる。


これによって3つの円は非常に複雑な形状へと変化し、パラメーター次第でいろいろな図形が描き出される興味深いプログラムとなった。



3つの円を描きだすので、ミンスキーはこれを「Tri-pos」と名付けたのだけど、ハッカーたちは「ミンスキートロン」と呼んだ。


#リンク先のミンスキートロンはエミュレータで再現されたもの。

 上のメニューで何か選ぶと、2進スイッチが「お勧めの設定」になっていろいろな図形を描いてくれる。

 もちろん、自分でスイッチをいじって変化を楽しんでもいい。




ジャック・デニスの話を以前に書いたことがある。


デニスも、マッカーシー、ミンスキーと共に、MITのハッカーを導いた人だ。

ただ、マッカーシーとミンスキーは当時すでに偉い人だったけど、デニスは当時は新米だった。



だから、マッカーシーとミンスキーは「師匠」であり、デニスは「兄貴」だった。


それはともかく、3人ともMITのハッカーたちと共に過ごし、コンピューターに対する先進的な考え方を持っていた。


当時のコンピューターは、バッチ処理が普通。

パンチカードの束をセットして、後は結果が出るのを待つだけ、という使い方だ。


でも、3人とも、コンピューターはいつも人間が使える状態にあって、対話的に使えたほうが良いと考えた。


当時のコンピューターは非常に高価なので、1人1台、なんてことはできない。

コンピューター1台で、同時に複数のプログラムを走らせる方法…今なら当たり前の、マルチタスクの研究を始めた。



最初は、PDP-1 を使った小さなシステムだった。


これが成功し、成果を ARPA に報告すると、さらに研究を行うために ARPA が資金提供してくれることになった。

その額、300万ドル。


#どうも、文献によって金額が違うのだけど、後からの追加などもあったためだと思う。



ARPA は、この資金を「コンピューターをマルチタスクで使うための研究」に拠出した。

でも、マッカーシーやミンスキーは、この資金を元に「プロジェクトMAC」を立ち上げた。


このプロジェクトは、コンピューター科学の研究プロジェクトとされた。

「マルチタスク」もその一つではあるのだけど、他にもいろいろな研究をする。



それまで、マッカーシーらは年間 10万ドルの予算しか与えられていなかった。

ところが、いきなり 300万ドルが使えるようになったのだ。


そして、ミンスキーはこの「マルチタスク研究のための資金」の 1/3 、100万ドルを使い込んだ!

マルチタスクで各個人がコンピューターと「対話」できるようになれば、対話するためにコンピューターが人間を理解する必要がある。


じゃぁ、人工知能はマルチタスクでできることの研究として重要だ。

マルチタスク研究の一環なのだから、お金を使って何が悪い!



使い込んだといっても、別に私腹を肥やしたわけじゃない。

優秀な学生ハッカーたちを雇い入れて、プログラムを作らせたのだ。


ハッカーたちは、ほっといてもプログラムを作る。それが楽しいからだ。

例えば、世界最初のテレビゲームの一つとされる、Space war! を生み出した。


でも、ゲームをしたかったんじゃない。それを作ること自体が楽しかったのだ。


だから、プログラムの目的はなんでもいい。

ミンスキーが、バイト代を出すから人工知能の研究を手伝ってくれ、というのであれば、喜んで参加した。



ARPA は怒らなかったのか?

大丈夫、デニス(というより、その師であるコルバト)がちゃんとマルチタスクの研究をやっていたから。


デニスは後に Multics のプロジェクトに参加するのだけど、最初はそんな大掛かりではない。

IBM に協力してもらって…IBM は乗り気ではなかったようなのだけど、IBM 7094 というコンピューターを改造して、マルチタスク機能をつけてしまった。


ミンスキーが 1/3 を使った、という分け方の「根拠」は僕は知らないのだけど、マッカーシーとミンスキー、コルバトで3等分したのではないかと思っている。




この後、プロジェクトMACは、MITのハッカーが集う場所になっていく。

研究内容は多岐にわたった。当時としては最先端の実験、というものが多かった。



今回、訃報に触れたときに、ミンスキーが「LOGO や Lisp の開発にも携わった」という評伝があった。

恥ずかしながら、僕はそれを知らなかった。


パパートが書いた「マインドストーム」という本があって持っているのだけど、ずっと前に読んだ切り、内容はほとんど覚えてない。

もう一度読み返してみた。



プロジェクトMACには、後にシーモア・パパートがやってきて、「コンピューターを使った教育」の実験を始める。

パパートは、本の中でこの頃を振り返って、二人の「強い影響を受けた人物」を挙げている。


1人がミンスキーだ。最も重要な人物、としてあげられている。


パパートは教育心理の専門家で、子供の心に詳しかった。

ミンスキーは人工知能の専門家で、人工知能がどのように学習するかに詳しかった。


この二人が、実際に子供の教育現場に立ち会いながら、子供がどのように学習していくかを、時に心理学の見地から、時に「学習機械」としての見地から、意見を出し合って理論として固めていったのだ。


これはパパートにとって最も重要な経験だった、と回顧させているのだけど、LOGO の開発自体に手を貸したわけではないようだ。

もっとも、LOGO は子供の教育に使える言語として考えられたわけで、「意見交換」を LOGO の開発だとみなすのであれば、そう言えなくもないけど。



ミンスキーは、計算理論が、単に「数学の計算方法」ということではなくて、その人の世界観を形作るための重要な存在である、とパパートに示したそうだ。

これが、何よりもパパートの考え方を変えたとのこと。


ちなみに、もう一人の「影響を受けた人物」はアラン・ケイ

ケイはパパートの元で学んだ弟子のような位置づけなのだけど、「子供のことを考える」という点で、誰よりも強い情熱を注いでいたそうだ。


Lisp も LOGO と同じような感じで、Lisp 自体はマッカーシーが考えたものだ。

でも、マッカーシーとミンスキーは常に近い位置にいたので、いろいろと意見交換はしているみたい。

どこまでが「開発に携わった」といってよいのかわからない。


ただ、一つ言えることは、ミンスキーは恐ろしく頭が良くて、意見を求められれば畑ちがいの分野であっても、喜んで飛び込んで実のある意見を出せた、ということ。

関係した誰もが、ミンスキーはとても頭が良かった、と振り返っている。


そして、何よりも面白がりで、いたずら好きだったらしい。

ハッカーと仲良くなれたのも、そういう子供っぽいところがあったからなのだろう。




ミンスキーは、パパート共に「ニューラルネットワーク」の研究もしている。


たくさんの電線に可変抵抗(ボリューム)をつないだ、配線のお化けだ。

でも、これは人間の脳のニューロン構造を模倣している。


脳は、ニューロン間の接続の「強さ」を可変させることで物事を学習する。

同じように、電線間の接続の「強さ」を、可変抵抗で調整していけば学習する機械になる。


ただ、ニューラルネットワークは、恐ろしく可変抵抗が多い。

何をどう回せばよい学習になるのかわからない。学習することはわかっていたのだけど、扱うのは職人芸だった。


1958年に手法が示され、60年代に流行したのだけど、ブームの初めの頃は、「人間の脳を模倣しているのだから、すごいに違いない」という期待論が上回った。

でも、先に書いたように、学習方法すら確立していなかったのだ。


これに対し、1970年代に、ミンスキーとパパートがニューラルネットワークの数学的な解析を行う。

これで、能力の限界がわかった。

「上手なプログラムを作れば分類できる」ものを分類できる、というのが能力の限界だった。


実は、これはすごいことだ。

上手なプログラムを作れば…というけど、それは職人芸だ。

でも、ニューラルネットワークは、学習することができる。プログラムする必要はない。


ただ、この時点では学習手法が確立しておらず、学習も職人芸だった。

ブームは急速にしぼんでしまった。



1986年に、ニューラルネットワークが再注目される。

結果を見て、「誤差」をフィードバックすることで学習する、という手法が確立するのだ。


これでニューラルネットワークの「第2次ブーム」が起きる。



僕はこの頃大学生だったのだけど、研究室の先輩が興味を持って、「脳を模倣するらしい」とプログラムを自作していた。

そしたら、研究室の教授が、何やら英語の論文を持ってきてくれた。


しばらくして、ゼミで先輩が論文の内容を発表した。

フィードバック学習の手法と、その限界についての論文だった。


フィードバック学習方法では、ニューラルネットワークをあまり複雑にできない。

これは、「脳を模倣する」と言いながら、脳ほど複雑にはできないことを意味する。


ミンスキーの結論も一緒に書かれていた。

上手なプログラムで分類できる程度のものしか分類できない。

…ただし、これは「十分に複雑なニューラルネットワークがあれば」というのが前提だ。


この二つを組み合わせると、出てくる結論は一つ。

ニューラルネットワークでは、下手なプログラム程度の結果しか出せない。


先輩は急に興味を失って、作るのをやめてしまった。



#念のために書いておくと、この後もニューラルネットワークは研究され、現在「第三次ブーム」と言われている。

 ディープラーニングと呼ばれる手法で、上手なプログラムと同程度以上の成果を、上手なプログラムを組むよりも低いコストで実現できるようになった。

 ただし、ここでいう「低コスト」はプログラム時間に関することだけ。

 学習のための膨大な「教材」と、膨大な学習時間が別に必要。


#関係ないけど、2000年ごろに「サポートベクタマシン」という自動学習手法が流行した。

 これも、最初は理論が未完成で期待されていたのだけど、理論が完成すると「上手に組まれたプログラム並みの能力しか出ない」ことがわかり、ブームが過ぎた。

 もちろん、適材適所で、普通のコンピューターが良いところ、ニューラルネットワークが良いところ、サポートベクターマシンが良いところは違うのだけど。




ミンスキー、調べれば調べるほど、逸話が次々と出てくる。


とても書ききれないので、手持ちの「ハッカーズ」と「マインドストーム」から、面白いところだけ抜粋して、ついでに自分の大学時代の、ミンスキーに関係しそうな思い出話を書いた。


今後も機会があったら、少しづつ業績を紹介していきたいと思う。




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ダグラス・エンゲルバート 誕生日(1925)  2016-01-30 11:38:31  今日は何の日

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今日は、ダグラス・エンゲルバートの誕生日(1925)


マウスの発明者、とよく言われるのですが、これはあまりにも過小評価…という話を以前書きました。




まだコンピューターが計算機にすぎず、ディスプレイは接続されていてもグラフ表示を想定したものだった頃に、彼は「ディスプレイ上で文章を編集する」ことを思いつきました。



これが、世界初 (1968年) のワープロです。

もっとも、今ではワープロの中でも特殊な位置づけの「アウトラインプロセッサ」に近いものです。


これ以前は、接続されたディスプレイは、グラフ表示に適した「ベクタースキャンディスプレイ」でした。

しかし、ベクタースキャンディスプレイは高価だったので、エンゲルバートは工夫して普通のテレビを接続します。


普通のテレビは、ベクタースキャンディスプレイよりもずっと安いですし、何よりもコンピューターから遠いところでも表示ができる、という利点がありました。

ベクタースキャンでは、コンピューターがディスプレイを直接制御していたのですが、テレビなら「放送」で画面を送れます。


これにより、同じ画面を遠く離れた複数の人が見て、文字や音声で会話をしながら文章をまとめ上げる、というようなビデオ会議システムが実現します。

これは同時に、オンラインチャットシステムでもありました。



マウスは、このシステムで使われた、入力機器の一つにすぎません。

エンゲルバートを「マウスの発明者」とするのは、あまりにも過小評価だと言えるでしょう。


ここら辺の話、詳細は追悼記事に書いています




エンゲルバートが作ったシステムは、現代の WEB にも影響を与えています。


それ以前に、MEMEX と呼ばれる、関連する文書間にリンクを張って保存しておける、という「構想」がありました。


これは、構想だけで実現できてないのね。

コンピューター以前のもので、マイクロフィルムを使うことになっていた。

技術的にそれぞれをどう実現したらよいか…というところまで踏み込んでいましたが、実現はされなかった。


この MEMEX を作りたいと思っていた人が、エンゲルバートのシステムをみて「コンピューターで作ろう」と考えます。

そして、こんなシステムがあったら世界はきっとよくなる、という文章を書いて広め、資金提供者が現れるのを待ってシステムを作り始めるのです。



でも、このシステムは最初に大きなことを考えすぎた。

当時のコンピューターは性能が低くて難航します。


難航している間に、文章を見た人が一部機能だけを取り出して作ったのが、現在の WEB システム。

その間にコンピューター技術が進んだ、というのも大きかったのだけど。



ここら辺の経緯は、追悼記事から1年たった命日の記事に書いています。


このときは、なんと MEMEX 構想を考えた人の命日と、MEMEX 構想が発表された日と、エンゲルバートの命日が3日連続していたので、歴史の流れを追いながらゆっくり話ができた。


さらに WEBが作られた話は別のところにありますけどねー。


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ガストン・ジュリア 誕生日(1893)  2016-02-03 09:32:04  コンピュータ 今日は何の日 数学

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ガストン・ジュリア 誕生日(1893)

今日は、ガストン・ジュリアの誕生日(1893)。


添付している画像は、節分なので鬼のお面…ではなくて、今日紹介するジュリアが考案した、ジュリア集合図形の一種。

(CC BY-SA 3.0)


この複雑な図形、たった一つの数式で描かれている。

描き方は後で紹介しよう。




ジュリアは19世紀末に生まれた、20世紀初頭の数学者だ。


19世紀の数学は、微分・積分を究極の武器として発達した。

20世紀初頭には「違う方法での数学アプローチ」が求め始められていて、あらゆる部分で微分「不可能」な図形が多数考案されたりしている。


微分とか積分とか聞くと拒否反応を示す人もいるので、簡単に説明しよう。

微分可能、というのは、言い換えれば「滑らかだ」と言っているだけだ。


微分すると、結果としてその「滑らかさ」の度合いを知ることができる。

でも、ここでは結果はどうでもいい。可能かどうかだけを聞いているのだから。

これは、「滑らかか」と聞かれているだけだ。


直線はどこまでもまっすぐで、滑らかだ。円周もどこまでも滑らかだ。

これらは微分可能だ。


でも、三角形の角は滑らかではない。ここを「微分不可能な点」と言ったりする。

じゃぁ、あらゆる部分で微分不可能、とはどういうものだろう。




多くの数学者は、「線」の定義を変えることで微分を不可能にした。


コッホは、直線の定義を「2点の間を3分割して、両端は直線に、中央は三角形の残りの二辺の直線を描く線」と定義しなおした。

…おっと、ここで注意しなくてはならない。コッホは直線を定義したはずなのに、その定義の中に直線が入っている。


この定義には「分割」が入っている。定義の中に定義自身が入ることで、無限に分割され、無限の「三角形の角」を生み出す。

先に書いたように、三角形の角は微分不可能だ。


そのため、コッホの考案した、この「コッホ曲線」は、あらゆるところで微分不可能となる。


19世紀の数学は、微分・積分を究極の武器とした。

その事実から考えると、「あらゆるところで微分不可能」というのは、非常に恐ろしく、非常に興味深い図形だ。




ジュリアは、ここに虚数を組み合わせた図形を考案した。


虚数!


…あぁ、また「難しそう」と思う人がいそう。

この際、虚数の計算方法はどうでもいい。これが興味深いものであることだけを示そう。


普通の数は、「数直線」の上に表すことができる。小学校で習うね。

同じように虚数も、虚数の数直線の上に表すことができる。この点では、普通の数と何も変わらない。


ただ一つ違うのは、虚数の数直線は、普通の数直線と「直角に」交わっている、ということだ。


この世界に、虚数は存在しない。数学者の頭の中だけに存在する、と言われる。


実は、物理学的にも虚数は存在していると考えたほうが都合がよい…つまりは、実際にも存在しているのだけど、少なくとも我々の誰も、その虚数を感じ取ることはできない。

たとえ、虚数の「計算方法」を知っている物理学者であったって、その存在を実感することはできないんだ。


なんでかというと、我々は数直線に落ちた「影」を見ているから。


数直線の上にある、と思われている数は、実は数直線の上ではなく、自由な位置にある。

ただ、その位置から数直線に向けて、まっすぐに「影」を落としている。そして、我々はこの影しか見ることができない。


だから、世界に虚数があったとしても、誰一人として感じ取ることはできない。




さて、数が自由な位置にあり、数直線に影を落としているだけだとしたら、本当の数はどこにあるのだろう?


先に書いたように、虚数は普通の数と直角に交わったもの、と考えることができる。

となると、自由な位置にある…普通の数だけでは表現できない数も、虚数を組み合わせれば表現できる。


これが、「複素数」と呼ばれるものだ。

普通の数と虚数の、二つの数直線を使って「平面」を示すとき、これは複素数平面と呼ばれる。


混乱しないように書いておくと、普通の平面なら、(X,Y) の二つの数字で点を示すことができる。

複素数平面は、 X が普通の数で、 Y が虚数だというだけ。これ自体特別なものではない。


ジュリアの研究は、この複素数の奇妙な性質を調べるものだった。


先に複素数を「自由な位置にある数」と呼んだ。

複素数自体は、普通の数と虚数の組み合わせで示されるけど、決して二つの数ではなく、これで一つの数だ。


1つの数なので、計算ができる。


そこで、こんなことを考えてみよう。


1) 複素数 z に対して、最初の位置 z0 を与える。

2) z に対し一定の操作をしたうえで、複素数 c を足す。

3) 2 でできたものを新たな z として、何度も 2 を繰り返す。

4) 発散したかどうかを、z0 の位置ごとに記録する。z0 を変えながらひたすら繰り返す。



「一定の操作」というのがわかりにくいのだけど、自乗とか3乗とかが一般的だ。

なんでもいいのだけど、「一般的」なものは、面白い挙動が見られるからよくつかわれる(一般的である)。


複素数 c も、なんでもいい。ただし、これは一連の計算の間は固定の値だ。


で、一連の計算というのは、 3 でひたすら繰り返すし、4 で 1 の条件を変えながらひたすら繰り返す。

ものすごい数の計算をしなくてはならない。


4 で「発散したかどうか」とあるのだけど、ここは注意深い説明が必要だ。

なぜなら、ここに複素数の奇妙で興味深い振る舞いが現れるから。




普通の数…まぁ、整数としておこう。整数なら、自乗すれば大きくなる。何度も繰り返せばどんどん大きくなる。

0~1 の範囲の数だと、何度も自乗すれば小さくなる。今度はどんどん小さくなる。


どちらにしても、どんどん一つの方向に向かって数が動き続ける。


でも、複素数はそうじゃない。虚数は、自乗すると「マイナスの数になる」という性質があるからだ。

計算方法はややこしいので書かないけど、大きくなろうとする普通の数と、それを引き戻そうとするマイナスの数がせめぎあって、あちこちを行ったり来たりすることになる。


さらに、複素数 c を足しているので、この振る舞いは非常に興味深いことになる。


ただ、ある程度複素平面の原点 (0,0) から離れすぎてしまうと、すごい勢いでどこかに飛んで行ってしまうことはわかっていた。

数学的には、すごい勢いで数が離れていくことを「発散した」という。なので、原点から離れると発散する。


ジュリアは、この「興味深い」動きを調べようとした。

z0 を少しづつ変えながら、発散したかどうかを記録し続けた。


先に書いたように、ものすごい数の計算が必要だ。


ジュリアの時代には、手回し計算機があったので、手で計算していた時代に比べれば高速に計算できたから、こんな手間のかかることをやろうとしたのだろう。

とはいえ、現代の…コンピューターの計算力を知っている我々から見ると、なんとも気の遠くなる作業だ。



結果は、非常に興味深い。最初に与える z0 が原点に近ければ発散しない、というような単純なものではない。

発散した点とそうでない点を塗り分けると、非常に複雑な図形が出現する。


そして、その境界は非常に微妙だ。

発散した点だらけのあたりで適当に取った点は、やはり発散する。

発散しない点だらけのあたりだと、やはり発散しない。


でも、境界線当たりでは、ほんのわずかに数値を動かしただけで、挙動が変わってしまう。

つまり、「どんなに細かく見ても、境界線を見極められない」。


これこそ、すべての点で微分不可能である、という、最初に書いた図形の一種なのだ。

おそらくジュリアは、複素数の興味深い振る舞いを調べたかったのだろうけど、20世紀初頭に流行した図形のバリエーションを…非常に独創的な方法で作り出したことになる。




ちなみに、最初に示した「鬼の面のような画像」は、 z^2 * exp(z) + 0.21 、という操作で作られている、そうだ。

Wikipedia で CC BY-SA 3.0 ライセンスのものを、ライセンスに従って使わせてもらった。


本来のジュリア集合は、この図の「黒い部分」である。


発散してしまった場合、発散するまでの計算回数を元に、点に色を付ける。

すると、美しいグラデーションが現れる。近い点は、同じ程度の計算回数で発散しやすいためだ。


しかし、見てわかるように、単純なグラデーションとはならない分断面も多数ある。

こうした複雑さがジュリア集合の面白さになっている。




ジュリアの時代には、計算力が足りなかった。

ジュリアは方法論を示して後の世に影響を与えたけど、時代が早すぎた。


ずっと後の話になるのだけど、マンデルブロがこの「ジュリア集合」に興味を示す。

その時にはコンピューターがあったので、簡単に計算を行うことができた。


先に書いた通り、ジュリア集合は原点 (0,0) 付近を離れない点の集合だ。

関係するパラメーターはいくつもあるのだけど、計算するごとに足し続ける値、c は非常に重要になる。

この c の値によっては、初期値が原点の場合ですら発散してしまうことがある。


そこで、マンデルブロはまず、ジュリア集合世界の「見取り図」を作ろうとした。


まず、計算を単純な「自乗」だけに限定した。

初期値 z0 を、原点である (0,0) にして、c の値を変えながら、ジュリア集合と同じように繰り返し計算を行った。

そして、c の位置に応じて、発散したかどうかを複素平面に描いていく。


マンデルブロの目的は、「興味深い振る舞いをしそうな c の値」を探し出すことだった。

原点ですらあっという間に発散するようでは、その c の値に見どころはないからね。


しかし、この「見取り図」こそが、ジュリア集合以上に興味深いものだった。


見取り図を作ることが目的だったので、ジュリア集合よりもずっとパラメーターが少ない。

にもかかわらず、ジュリア集合と非常によく似た振る舞いを示し、細かな部分にジュリア集合と類似のパターンが現れた。


マンデルブロが作成した「見取り図」を、マンデルブロ集合と呼ぶ。

今となっては、マンデルブロ集合はジュリア集合以上に有名だ。


ジュリア集合、マンデルブロ集合、を含み、先に書いたコッホ曲線など、「微分不可能な数学」の一分野を、マンデルブロは「フラクタル幾何学」と名付けた。


今では、このフラクタルの概念も拡張され、いろいろなところで役立っている。

そう、なんだか難しい話に思えた人も多いと思うけど、身の回りで役に立てられている技術だ。



マンデルブロとその業績については、マンデルブロの命日の記事に書いているので、興味がある人はそちら読んでほしい。


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ケン・トンプソンの誕生日(1943)  2016-02-04 13:58:15  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、ケネス・レイン・トンプソン (Kenneth Lane Thompson)

…通称、ケン・トンプソンの誕生日(1943)


ケンは何度も書いた覚えがあったのだけど、いろんな話題に出てきただけで、まとめた紹介記事にはしてなかった。

他の記事とかぶる部分も多いのだけど、ざっとまとめていこう。


ケンは、カリフォルニア大学バークレイ校の出身だ。

そして、AT&Tベル研究所に入る。




早くも話は横道に入るのだけど、先日マービン・ミンスキーの追悼文を書いた。

マサチューセッツ工科大学… MIT に所属していた人工知能の研究者だ。


第2次世界大戦のあと、コンピューターは MIT がけん引している。


ENIAC を作ったのはペンシルバニア大学なのだけど、ENIAC の技術をみて、MIT ではすぐに Whirlwind I を作り始める。


ENIAC は最初のコンピューターとされることが多いし、別にそれは間違ってはいない。

でも、近代的なコンピューターとは全然設計が違う。

現代のコンピューターの設計は、どちらかと言えば Whirlwind I の後継となっている、と言ってよいかと思う。


Whirlwind I は、当時としては超高性能なコンピューターで、IBM が量産して軍に収め、全米を守るレーダー網の要として使われた。



その後、Whirlwind I をトランジスタで作り直した、TX-0 が完成する。これも MIT が独自に作成し、しばらく後に学生に開放した。

「計算機」を学生に開放したらどんなことに使うかな、という実験の一環でもあったのだけど、学生たちは計算なんてやらずに、ゲームなど、想定もしなかった用途に使い始める。


楽しそうにコンピューターを使う学生を見て、TX-0 の設計者の一人が、これは商売になると確信する。

デジタル・イクイップメント社(DEC)を創業し、TX-0 をプロトタイプとして PDP-1 というコンピューターを作成する。



同じころ、MIT の教授の一人、フェルナンド・J・コルバトが、IBM 7094 を改造して、マルチタスク実行可能なシステムを作り上げる。

このような技術を、「タイムシェアリングシステム」、略して TSS と呼んだ。


コルバトの作った CTSS は、世界初の TSS だった。


この研究がもとで、ARPA が開発資金を提供する。

1台のコンピューターを同時に複数人数で使える、という TSS は、コンピューターが非常に高価だった時代には、夢のようなシステムだった。



ミンスキーの追悼文でも書いたけど、この研究資金のいくばくかは、ミンスキーが「流用」して自分の研究に使っている。

でも、TSS の研究はちゃんと行われ、MIT とゼネラルエレクトリック(GE)社、そしてAT&Tが参加する、Multics プロジェクトへと変わっていく。


単に TSS だというだけではなく、学術的な面からも、技術的な面からも「使いやすいシステムとはどういうものか」を考えた、非常に有意義なプロジェクトだった。




さて、話を戻そう。


AT&Tのケン・トンプソンは、会社から MIT に出向して、Multics プロジェクトに参加していた。


まだ作成中の Multics は、それでもいくつかのコマンドがちゃんと動作していた。


ケンは、この上で「宇宙旅行ゲーム(Space Travel)」を自作していた。

太陽系の惑星の動きや引力をシミュレーションし、その中を宇宙船で旅行するゲームだ。


当時のコンピューターは、計算を「依頼」して、後で結果を受け取るのが普通だった。

しかし、タイムシェアリングなら個人でコンピューターを直接使用できる。


計算の途中結果を見て、対話的にパラメーターを変化させる、ということもできる。

…つまり、ゲームで遊ぶこともできる。


これは、タイムシェアリングでないとできない、贅沢な使い方だった。

単にゲームを作った、というのではなく、Multics でないと体験できない「キラーアプリ」を作成していた、ともいえる。



ところが、AT&Tは、Multics プロジェクトから撤退を決めてしまう。

プロジェクトは予定よりもずっと遅れており、予算もオーバーしていたため、AT&Tとしてはこれ以上の資金を提供しないことにしたのだった。



ケンはAT&Tに戻るが、宇宙旅行ゲームで遊びたかった。


そして、AT&T内で使われずに埃をかぶっていた中古の PDP-7 を見つけてきた。

先に書いた、MIT の TX-0 をプロトタイプとしたコンピューター PDP-1 の後継機種だ。


#DEC は、PDPに、開発順に番号を付けていた。

 2,3 は 1 と互換性はなく、4 は 1 の低価格版(命令は増えたが性能は落ちた)、7 は 4 の性能を上げた、1 の正当な後継機。



ケンは、宇宙旅行ゲームを PDP-7 に移植した。

しかし、PDP-7 には OS と呼べるものはなく…今でいえば、Z80 よりも低性能の CPU 上で、2進数を使って直接プログラムするような状態だった。


当初は、GE の機械を使って、クロスアセンブルしてプログラムしていたらしい。


しかし、ゲームの移植にあたり、「存在してほしいサービスルーチン」などを順次作りためることで、徐々に OS のようなものが形作られていく。

最終的には、ゲームを動かす基盤としての、最低限の OS も一緒に作り出すことになった。



宇宙旅行ゲームは、もともと Multics で動いていた。

PDP-7 の上に作られた OS は、当然のように Multics とよく似た機能を持つようになっていった。


ただし、個人で使うものだから、高度な機能はいらない。

簡単に作れて便利そうな機能は作りこまれていたが、あれば便利だけど作るのが大変な機能は省略されていた。


そして、この OS は Unics と名付けられた。Multi (複数の) に対し、Uni (1つの) という洒落だった。


#Multics は商標でもあったので、この「明らかに類似した名前」は危険だったらしい。

 でも、個人で使うものだから、その危険さも含めてネタとして名付けられた。

 後に、全く違う名前にするために Unix となっている。



後に、Unix は PDP-11 に移植される。

先に書いたけど、PDP は型番と互換性がわかりにくい。11 は、非常に先進的な設計をしたマシンで、それまでのどの機種とも互換性がなかった。


しかし、先進的な設計だからこそ、パワフルだった。


PDP-7 上では、Unix はアセンブラで使われていた。

しかし、PDP-11 とは互換性がない。今後のことも考えて、移植性のある高級アセンブラ、C言語が考案される。

各種ツールも、Unix 自身も、C言語で書き直された。



パワフルなマシンでは、姑息なテクニックを使用する必要もなかった。

そして、「高級言語」で書かれたプログラムは、従来のものよりも読みやすかった。




AT&Tは、電話業界の大会社、寡占企業だった。


これが問題視されて後に分割されるのだけど、この時点ではまだ「新規事業への参入禁止」という措置を受けているだけだった。

ケンはコンピューターのOSを作ったけど、商売にはできない。


AT&Tは、教育目的に限る、という前提で、Unix を無償開放した。ソースプログラムの入手までできる。


この後、ケンは、1年間の休暇を取って母校である「カリフォルニア大学バークレー校」に出向いている。

そして、Unix のインストールから使い方の講義、ソースリストを参考に、使われているテクニックの解説まで行ったらしい。


先に書いたように、Unix は他のOSに比べて、ずっとプログラムが読みやすかった。

しかも、制作者が直接やってきて、テクニックなどを教えてくれたのだ。


学生たちは、Unix を理解し、自分たちのものとし始める。


ケンが帰ったあと、バークレイ校独自の Unix 、BSD が生み出されることになった。

精力的に拡張され、ネットワーク対応した最初のOSとなった。


#これ以前に ARPANET は存在したが、コンピューター上に「ネットワークのためのソフト」を動作させて接続する、という形式。

 BSD では、OSにネットワーク対応を組み込んでしまった。


#当初は BSD Unix と呼ばれていたが、後にAT&Tが商標権などで訴えを起こし、Unix と名乗らなくなった。




時系列を少し巻き戻そう。


おそらく、ケンは Multics の開発プロジェクトに出向した時…まだ Multics が動き出す前に、CTSS を使っているのではないかと思う。

資料不足でここの関係性がはっきりしないのだけど、CTSS 上で動くエディタを作成しているのだ。


元は別の人が作った、テレタイプ用のラインエディタだった。

CTSS にそれを移植した、という形なのだけど、この際にケンは非常に先進的な機能を一つ、追加していた。


それが、文字列の一部があいまいなまま検索を行える、という機能だ。

通常、文字列を検索するのであれば、当然のことながら検索したい文字列を入力してやらなくてはならない。


しかし、ケンは、形式言語理論で使用される、学術的な表記方法を導入することで、文字列の一部があいまいな状態でも検索ができるような仕組みを作った。

これが、後に「正規表現」と呼ばれるものだ。



ここでは言語理論には立ち入らない。無駄にややこしい話になってしまうから。

ただ、形式言語理論では、書かれていることの意味を解釈する機械的な方法を定義することができて、その際には「文の終わり」を、$ という記号で表す。


これ、「終わり」という意味の記号ね。文字としての $ とは別のもの。


そして、正規表現で検索を行う際は、文の終わりを $ で示す。

他にも「どんな文字でもよい」を . (ピリオド)という「記号」で示したり、直前の文字の繰り返しを * という記号で示したり。

すべて、形式言語理論で使われる表記方法だ。


今では、正規表現は元の言語理論から離れて、コンピューター世界で便利に使えるように拡張されている。

しかし、学術的な表記方法をコンピューターに持ち込んだのが、ケンだったのだ。



ケンは、このエディタを当然のように Unix にも移植している。ed と、sed だ。

両方とも正規表現が使える。


この方法は便利だったので、正規表現を使うさらに多くのソフトが作られていった。

こうして、学術的な元の意味を知らない人にも正規表現が広まっていく。




完全に余談なのだけど、MS-DOS では、「文字列を表示する」というファンクションコールがある。

このファンクションコール、文字列の最後を $ で示す。


だから、金額とか表示できない。Just price $10 なんて表示しようとすると、$ の手前で表示が終わってしまう。


なんでこんな使いにくい仕様に、とおもうのだけど、実は CP/M という 8bit OS を真似したためだ。

同じく 8bit の MSX-DOS も、CP/M 互換にしてあったので当然 $ が文字列の終わりだった。


CP/M の作者、ゲイリー・キルドールは、マイクロソフトが MS-DOS で CP/M の真似をした、と怒っていた。

そして、ただ真似しただけで内容を理解していない、嘘だと思うなら、ゲイツになんで文字列の最後が $ なのか聞いてみるがいい、と言っていた。


キルドールがどういうつもりだったのかは知らないけど、ゲイツは「言語理論から取った」と言えばいい。

正解なら、一般的に知られた表記法を使っただけなのだから、真似した証拠にはならない。

違うなら、違うのだからなおさら証拠にはならない。


まぁ、MS-DOS が CP/M を真似した、というのは歴史上の事実なのだけど、一因はキルドールにもある

文句を言う筋合いではないだろう。


いずれにしても、MS-DOS のファンクションコールは非常に使いにくかった。

みんな別の文字列表示ルーチンを組んで使っていたのではないかな。


余談終わり。




ケンは、UTF-8 の考案者としても知られる。


AT&Tでは、Unix の後継となるOS、Plan-9 を開発していた。

このOSは結局頓挫するのだけど、1980年代に研究が始まり、2000年代に入ってもまだ研究が続いていた。


1980年代なんて、まだ文字コードが 8bit だった時代だ。

…いや、日本ではすでに JIS コードがあったのだけど、UNIX の世界では 8bit と共存できる EUC が使われていたし、Plan-9 で考慮していたとは思えない。


ところが、世界的に Unicode を制定しようという状況になり、Plan-9 も Unicode に対応することにした。

今では Unicode は 32bit まで対応しているのだけど、当初は 16bit にすべてを収めようとしていた。


そこで、Plan-9 では、今まで作った 8bit を前提としたシステムを変えずに、文字コード体系を工夫することで 16bit を表現できるようにしよう、という指針が決められた。


そこで、実際にその「工夫したコード体系」を設計したのがケンだった。

16bit の文字コードのうち、最初の 128個は 8bit で表現できる。…これで、ASCII に関しては今まで通り使える。


続く 1920個…文字コードでいえば、128~2048の範囲は 16bit 、さらに 65536までは 24bit で表現できる。


16bit ということは、8bit を1バイトとしたときに2バイト使うのだけど、コードは ASCII の 128文字とは絶対に重ならないように工夫されている。

(複数バイトにまたがるとき、必ず最上位ビットが 1。また、複数バイトの先頭文字は必ず上位 2bit 目が 1で、続くバイト列は 0 になっている)


だから、コンピューターにとって意味を持つ記号が入って混乱する、というようなこともない。複数バイトの際も扱いやすい。

(ShiftJIS では、2バイト目にアスキー文字が入ることがあり、混乱が起きた。2バイトの前半後半の見極めも難しかった)



この表現方法は、最初は Plan-9 のための物だったけど、後に公式に Unicode 規格の一つとなった。


UTF-8 は、非常に単純で強力だったので拡張しやすかった、

今では Unicode は 32bit に拡張されているけど、やはり UTF-8 の6バイトまでで表現できる。




他にもいろいろな功績があるのだけど、だんだん些細な話になっていくので今回はここまで。


現在は Google で、Go言語を作っているらしい。

僕はまだ使ったことないのだけど、評判のいい言語みたいですね。



後日追記 2016.2.9


そういえば、ケン・トンプソンのバックドアを書いていなかった。

というか、僕がちゃんと理解していなくて、調べて書かなくては、と思ったまま調べてすらいなかったのだけど。


調べてみたらあまりにも興味深い。


だらだら説明するより、概要を手短にまとめたページがあったのでリンクしておこう。



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ノーラン・ブッシュネル 誕生日(1943)  2016-02-05 17:46:42  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、ノーラン・ブッシュネルの誕生日(1943)


ビデオゲームの会社、アタリ社の創業者だ。

…というより、ビデオゲームを発明した人。



ブッシュネルは、子供のころから数学や電気工作が好きで、遊ぶことも好きだった。

子供の頃に父親が死ぬが、保険金が下りたので生活は苦しくはなかったらしい。


とはいえ、お小遣いはもらえなくなった。

(彼が子供のころからギャンブル好きで、お金を渡すとすぐ使ってしまったからだ、という話もある)


そこで、ブッシュネルは得意の電気工作の腕を活かして、電気修理などをして自分で稼いだ。



1961年、ユタ州立大学に入学。さらに後に、ユタ大学に転学している。

ややこしいけど、実はユタ大学も州立。ユタ州立大学と、州立ユタ大学だ。


どちらもユタ州北部にあり、120km くらいしか離れていない。

そして、その中間に「ラグーン遊園地」という老舗の遊園地がある。


ユタ州立大学は、毎年5月16日を「物理の日」として、この遊園地で物理学のイベントを行っている。

遊園地は物理の大きな実験場だ。物理学、という観点から見てみると、とても興味深いものも多い。




ユタ大学にいつ転学したのか、調べてもよくわからなかった。

でも、1968年に卒業している。


ユタ大学は、当時まだ珍しかったコンピューターを持っていた。どうやら、PDP-1 もあったようだ。

このコンピューター目当てで、1966年にはアラン・ケイが大学院に入っている。


また、MIT 出身のアイバン・サザーランドが 1968年に教授として着任している。

ブッシュネルとちょうど入れ違いなのだけど、サザーランドは「コンピューターグラフィックス」という概念を作り出した人だ。



ブッシュネルは、ユタ大学在学中に、先に書いたラグーン遊園地で働いている。


普段は週末だけの勤務で、主な仕事はゲームコーナーの接客だった。


この頃のゲームコーナーというのは、射的とか、ボールを使った的当て、一定時間内にバスケットボールをゴールに何回入れられるか、なんていうゲームが多かった。

電気式でタイマーと得点がカウントされていて、一定の得点を挙げれば景品がもらえた。

ブッシュネルは、こういう接客をやったわけだ。


そして、時々機械の調子が悪くなると、電気工作の腕前を活かして修理をしていた。



ある夏休み、ブッシュネルは毎日働いた。

すると遊園地のほうでも働きぶりが認められ、ゲームコーナーの運営にも意見を出せるようになった。


お客さんにより楽しんでもらうために、どうすればいいのか。

ちょっとした工夫によってお客さんの笑顔が増え、売り上げも上がる。


ブッシュネルは、このときに「アーケードゲーム運営の面白さ」を知ったという。




ブッシュネルは、コンピュータープログラムの授業を受けて、PDP-1 に触れる機会があったようだ。

このときに「SPACE WAR!」で遊び、その面白さに感銘を受ける。


自分でもプログラムをしてみて、いくつかの簡単なゲームを作っているようだ。

しかし、先に書いたラグーン遊園地での経験と合わせ、このゲームをゲームコーナーで提供したら、絶対に儲かるはずだと考え始める。


しかし、コンピューターはまだ非常に高価な機械だった。



ブッシュネルはエンターテインメントで働きたかったようで、大学卒業後はディズニー関連の会社で働こうとしている。

しかし就職先が見つからず、AMPEX に就職する。ビデオテープレコーダーの会社だ。


しかし、これが幸運を招き入れた。

ビデオテープの会社だから、テレビ信号などに詳しい技術者が多数いたのだ。



1969年、ブッシュネルは会社で働きながら、同僚と共に新しい会社 Syzygy 社を設立した。

惑星直列を意味する単語だけど、SPACE WAR! をまねたSFっぽいゲームを作るつもりだったし、変わった単語なので誰も使っていないだろう、と思ったのだ。

(しかし、実際には同じ名前の会社の存在が後でわかる)


ここで「ビデオゲーム」の開発を開始する。


SPACE WAR! はコンピュータープログラムとして作られていたが、同じような内容を電気回路で実現すればもっと安くできる。

画面には高価なベクタースキャンディスプレイではなく、安価なテレビ受像機を使えば安くできる。


ブッシュネルは電気工作が趣味ではあったけど、テレビ信号を扱うような機器を作るほどの腕前ではなかった。

ビデオゲームの開発は主に同僚に任せ、ブッシュネルは同僚に給料を支払う方法を考えなくてはならなかった。



そこで、ラグーン遊園地でやっていたように、ゲーム機器の修理の仕事も見つけてくる。

これは同時に、ゲーム機器の製造販売をしているメーカーを探す目的もあった。


そして、2台のピンボールマシンを修理し、ナッチング・アソシエーツとコネを持つようになる。


1971年、完成したゲーム「COMPUTER SPACE」がナッチング・アソシエーツから発売になった。


よく「SPACE WAR! と同じゲーム内容」としている紹介があるのだけど、参考にしているだけでゲーム内容は全然違う。

SPACE WAR! は二人で対戦するゲームだけど、COMPUTER SPACE は宇宙船で UFO を落ち落とすゲームだ。


一定時間遊ぶことができて、UFO を破壊した数と、自分の宇宙船が破壊された数をカウントする。

時間切れの際に UFO の破壊数が上回っている場合は、時間が延長されて遊び続けられる。

(詳しくは、過去に書いた記事を読んでほしい)




このゲームは売れなかった。

1500台生産したのだけど、売れたのは 500~1000台程度だった。


300万ドルの売り上げだったらしいけど、全く新しいタイプのゲームなので生産コストもかかっている。

材料費と生産コスト、ナッチング・アソシエーツの取り分を引いたら、Syzygy にはわずかな額しか入ってこなかった。


作成に2年もかけていることを考えたら、採算に合っていない。商業的に失敗だった。


ブッシュネルとしては、面白さに自信を持っていた。もっと売れるはずだ。

売れないのは、ナッチング・アソシエーツの売り方が悪いせいだ。



次のゲームはもっと大きな会社に任せないといけない。

ブッシュネルはそう考え、ATARI 社を設立する。


「あたり」って囲碁の用語だ。ブッシュネルは囲碁が大好きで、世界で一番面白いゲームだと考えていた。

わざわざ新しい会社にしたのは、Syzygy が別の会社が使っている名前だと知ったかららしいのだけど、もしかしたら Syzygy のゲームはナッチング・アソシエーツが扱う、というような契約を交わしてしまったのかもしれない。



ナッチングアソシエーツの売り方が悪い…と言いながら、ブッシュネルはラグーン遊園地で学んだことを忘れていなかった。

お客さんを笑顔にするにはどうすればよいのか。実際に COMPUTER SPACE の遊ばれ方を観察した。


主に酒場の片隅に置かれ、酒を飲みながら遊ばれていた。

片手にグラスを持っていたいのに、宇宙船の操縦と発射ボタンで両手を使わないといけない。


それに、酔っぱらって遊ぶには、内容が難しすぎた。



よし、次のゲームはもっと簡単にしよう。

なじみのないSFではなく、誰にとってもなじみのあるテーマを使う。


ドライブゲームを作ることにして、新たなエンジニア、アラン・アルコーンを雇い入れる。




しかし、そのころマグナボックス社が、家庭用の「テレビゲーム機」オデッセイを発売した。

ブッシュネルはこの機械を見て、もっと単純でも面白いゲームは成立する、と気づいた。


オデッセイのゲームは単純だけど、いくつかの内容が遊べた。

ブッシュは、その中でもテニスゲームはよくできていると思った。


そこで、アランにテニスゲームの内容を伝え、同じようなものを作るように依頼した。

出来上がったゲームは、オデッセイのものともまた少し違っていた。


…オデッセイのものよりも面白いゲームになっていたのだ。


このゲームは PONG と名付けられる。


PONG は、片手でダイヤルを回すだけで遊べた。もう片手には、グラスでもサンドイッチでも持っていられる。

ただ相手側から飛んできた球を受けるだけ。単純だけど、受けた位置によって球の方向をコントロールできたから、戦略性があった。


酒場に置くのに申し分のないゲームだった。



試しに酒場に置いてみたところ、すぐに「壊れてしまった」と連絡が来た。お金が入れられないという。

慌てて店に行って筐体を開けると、コインがあふれるほど入っていて、投入口をふさいでいた。


これを見て、「次はもっと大きな会社に生産を任せよう」と考えていたけど、全部を自分たちでやることに決める。

このゲームは確実に売れる。話題になる。


ならば、宣伝力はいらない。中間に別の会社を入れて売り上げを分けるよりも、自分たちでやったほうがいい。



そして、PONG は大ヒットする。


アタリ社はまだ零細企業で、生産記録なんて残していなかった。

なので、実際の販売台数はわからない。しかし、いろいろな証拠から、1万台程度売った、と考えられている。


でも、それよりもデッドコピーが多く売られた。

本物と合わせて、全世界で10万台が売られた、と推計されている。



ブッシュネルは、デッドコピー業者を訴えなかった。

訴えている時間がもったいないほど PONG が売れていたし、資金に余裕ができたので次のゲームも考えたかったのだ。


デッドコピー業者は、ビデオゲーム市場のうまみを知り、後には自社でも開発に乗り出したところが多い。

日本ではタイトーもセガも、PONG のコピーを作っていた。


これにより、それまでは存在していなかった「ビデオゲーム市場」が一気に立ち上がる。



「ビデオゲーム」というのは、PONG を宣伝するために作り出したキャッチコピーだ。

それまでにない、全く新しいタイプのゲームだったから新しい言葉が必要だった。


余談になるが、同じ意味に使われる「テレビゲーム」という言葉は、先に書いたオデッセイで使われている。

だから、この記事の冒頭ではブッシュネルを「ビデオゲームの発明者」と書き、オデッセイは「家庭用のテレビゲーム」と書いた。




ブッシュネルは PONG の類似ゲームをどんどん作る。

特に転機となったのが、一人用の PONG 。


基本的に、PONG は対人対戦ゲームだ。それを、一人でも遊べるようにしたかった。

PONG はテニスゲームだけど、一人で壁打ちテニスを遊ぶようにした。


ただし、ボールが当たるたびに壁が崩れる。崩した壁によって点数が入り、点数を競うゲームにした。


刑務所の囚人が、所内レクリエーションとして壁打ちテニスをするふりをしつつ、壁を壊して脱走を企てる…

そんなストーリーで「BREAK OUT!」(脱獄の意味)と名付けられたゲームは、日本では「ブロック崩し」として知られている。


後には、このブロックを動かしたら面白いだろう、という発想で、タイトーで「スペースインベーダー」が開発されるきっかけになっている。



それはともかく、ATARI が BREAK OUT! を作っているとき、アルバイトを雇って基盤の回路を簡略化させた。

開発時は、とにかく動くことを目指す。でも、大量生産時には、同じ動作を保てるようにしながら少しでも回路を簡略化し、生産コストを下げるのが普通だった。


この仕事を請け負ったのが、後にアップル・コンピューターを創業するスティーブ・ジョブズだ。

ジョブズは、やはりアップルを共同創業するスティーブ・ウォズニアクに仕事を丸投げした。


ウォズニアクは、天才的なセンスを発揮して、回路をものすごく簡略化して見せた。

確かに元の回路と同じ動作はするのだけど、切り詰めすぎて理解が難しい回路になっていた。


生産コストは下がるのだけど、万が一何か問題があったときに修正するのも難しい。

ブッシュネルの注文で、ウォズは不本意ながら回路を「冗長に」作り直さなくてはならなかった。


ジョブズは、この仕事でブッシュネルから 5000ドル受け取っている。

でも、ウォズには嘘をついて 350ドルしか渡していない




ブッシュネルは家庭用ゲーム機を発売しようと考えたけど、そのためにはもっと資金が必要だった。

そこで、ATARI は、ワーナー・コミュニケーションズの傘下に入る。


ブッシュネルは相変わらず社長だったし、この身売りによって億万長者になった。


そして、ゲーム機 ATARI VCS が発売される。大ヒットだった。



しかし、しばらくして ATARI の株が急落する。

VCS が飽きられた、という説もあるけど、これは単に経営上の問題で、まだ VCS は人気だった。


しかし、これが原因でブッシュネルは社長を降板することになり、ATARI を去った。


以降、ATARI は業績が徐々に悪化し、会社は3分割されて売られる。



ATARI の業務用ゲーム部門は、一時期ナムコが所有していましたね。

S.T.U.N. Runner が近所のキャロットハウス(ナムコ直営ゲームセンター)に置いてあって、大好きだった。

ひるいなきスタンランナーズ。コインいっこいれる。ほし20こで あショックウェイブ。




ATARI の子会社も、囲碁用語を取ったものがある。


SENTE 社は、ブッシュネルが始めた子会社。

「先手」から取った。

ゲームのレンタル業だったらしいけど、あまりうまくいかずに廃業。


TENGEN は、ブッシュネル退社後に作られた会社。

囲碁盤の中心を意味する「天元」から取っている。

コンシューマー(家庭用)部門のゲームを作っていた。



ATARI 以外にもブッシュネルはいろいろな仕事をやった。

上に書いた SENTE もそうだけど、ピザ屋を経営したり、コンピューター周辺機器を作ったり。


でも、結局どれもうまくいかず、すべての事業から手を引いた。


今は、各種団体のメンバーに名を連ねていて、自家用ジェット機2台でアメリカ中を飛び回っているけど、自称「忙しい失業者」だ。



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それ以前は「メモリ」といえば、真空管で構成する、水銀遅延線を使う、ウィリアムス管を使う、のどれかでした。

逆にいえば、この3種類がどれも一長一短で、決定的な方法がなかった、という事でもあります。


コアメモリは、この3つのどれよりも優れた特徴が多く、コンピューターのメモリを席巻しました。

発明以降20年間主要メモリとして使われ続け、40年後の1990年代でも、一部で実用的に稼働していたのです。



インテル社が、コアメモリに変わる新しいメモリを開発・実用化する、ということを目的に設立された会社であることを知っている人も多いかもしれません。

昔のコンピューターにおいては、コアメモリの存在はそれほど大きかったのです。


コアメモリについて、詳細は、アン・ワング博士の命日記事に書いています。

興味がある方は、そちらも併せてお読みください。



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