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2015-04-27 サミュエル・モールス 誕生日(1791)
2015-04-29 ポール・バラン 誕生日(1926)
2015-04-29 「オセロ」 発売日(1973)
2015-04-30 クロード・シャノン 誕生日(1916)
2015-05-01 ハロルド・コーエンの誕生日(1928)
2015-05-01 BASIC言語 初稼働日(1964)
2015-05-07 エドウィン・ハーバード・ランド 誕生日(1909)
2015-05-08 八景島シーパラダイス 開業日(1993)
2015-05-11 コンピューターが、チェスの世界チャンピオンに勝った日(1997)
2015-05-12 世界初の「プログラム可能な機械」発表(1941)
2015-05-14 ジョージ・ルーカス 誕生日(1944)
2015-05-14 ルーカスの作ったもう一つの会社
2015-06-03 ロバート・ノイス命日(1990)、ジョン・エッカート命日(1995)
2015-06-03 セガ創立日(1960)
2015-06-19 トーマス・J・ワトソンの命日(1956)
2015-06-22 IBM 産業スパイ事件(1982)
2015-06-26 バーコードが初めて使われた日(1974)
2015-07-10 ニコラ・テスラ 誕生日(1856)
2015-07-13 【追悼】岩田聡さん(任天堂社長)
2015-07-14 ジェイ・フォレスター 誕生日(1918)
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今日は、サミュエル・モールスの誕生日(1791)
職業は、画家です。
画家としても結構高名なのですが、今日取り上げるのは画家としてではありません。
彼の名前は、むしろ画家としての活動とは別に考えだした発明品として残っています。
モールス信号です。
モールスは早熟な天才で、14歳で大学に入学しています。
イタリアのボルタが電池を発明(1800)した頃で、電気学が急に発達し始めていました。
モールスも、電気学を学びますが、その学費を稼ぐために、画家としての活動を始めています。
絵を描くだけでなく、彫像なども作りました。
卒業後は両親の反対を押し切ってイギリスに留学、画家としての頭角を現し始めます。
展覧会で金賞を受賞したり、批評家に絶賛されたり。
アメリカで米国デザインアカデミー(現在の、米国アカデミー博物館)の設立に尽力し、その初代学長にもなっています(1826)。
その前年、モールスが画家としての仕事で出張中に、彼の妻が危篤に陥りました。
彼の元に駅馬車(当時の最も早い郵便システム)で手紙が届けられ、彼もすぐに家に帰ったのですが、帰宅は妻の埋葬後となりました。
モールスは、この事件をきっかけに、「郵便よりも早い連絡手段」を考え始めます。
事件の5年前、1820年に、電流が磁界を発生させることが発見されていました。
彼が学んでいた電気学は「電磁気学」となって発展していました。
1832年、モールスは船旅の最中に、電磁気学に詳しい、チャールズ・トーマス・ジャクソンと出会います。
彼は、前年にジョセフ・ヘンリー博士が発明した「電磁石」の話をモールスにします。
モールスも電気学を学んでいましたし、電気と磁気の関係が発見された(1820)ことは知っていました。
しかし、それを強くし、電磁石として使う方法が発見されたことを知り、連絡手段に使えそうだと思いつきます。
ジャクソンとモールスは、船旅の間に「電信機」の詳細をまとめました。
電磁石によって鉄板が動き、その動きを紙テープに記録します。
このテープに、点と線で符号化された「コード」を記録することで、文章を伝達するのです。
ただし、この時点では「単語をコード化する」アイディアでした。
どんな単語をあらかじめ準備しておけばよいのか、あらゆる単語を想定してコードを割り振る、という作業は難航します。
この問題は、1838年になって共同研究者のアルフレッド・ヴェイルが「文字単位でコード化する」ことを思いついて解決します。
この際に、文字の使用頻度などを調査し、一番良く使われる E には短い符号を、あまり使われない Q などには長い符号を…と割り振って、モールス信号と呼ばれるものが完成します。
#実際には、この初期のものをベースにさらに改良され、現在のモールス信号になります。
話が前後しますが、文字単位のコード化に移行する前年まで、モールスの電信機は、すぐ近くにしか信号を送ることができませんでした。
コードを最大に伸ばしても、せいぜい2マイル…歩いても1時間、馬なら5分程度で走れる距離です。
この時点では、モールスの電信機はあまり遠くまで信号を送ることができませんでした。
電気は通信に使われる電気コードの抵抗を受け、あまり距離が長くなると届かなくなってしまうのです。
これも、電磁石の発明者であるヘンリー博士が考案した第2の発明、「リレー装置」によって解決します。
ヘンリー博士も、電気コードが長くなると電気が通らなくなることに気付いていました。
そこで、電気が届く範囲の遠方にある「スイッチ」を、電気で操作することを思いついたのです。
スイッチのもっとも簡単なものは、ばねのようにしなやかな鉄板があれば作れます。
鉄板を押せば接点にくっつき、電気が流れます。離すとばねのように戻り、スイッチが切れます。
これは鉄板ですから、接点の下に電磁石を用意して、引きつけることができます。
これが、電気で操作可能なスイッチ、「リレー装置」です。
スイッチが入れば、電気が流れます。これは別回路ですから、そこからまた2マイル程度は電気が流れます。
そして、またスイッチを動かします。これを繰り返せば、理論上は無限に遠くの装置を操作できます。
「電気」は2マイルしか届かなくても、その電気による「信号」は、はるか遠方に届くのです。
ヘンリー博士は、この装置の特許を申請しませんでした。
彼は、科学の発展のために、発明は広く使われるべきだという主張を持っていたため、モールスの電信機にも無料で特許を使用させているだけでなく、技術的な助言なども行っています。
これで、やっと電信装置が完成します。
情報を瞬時に送れるというのは大発明で、モールスの電信機と、その電信機を使うためのモールス信号は世界中で使われ始めます。
1849年時点では、アメリカに20の電信会社があり、その電信線の総延長は12000マイルに達しました。
1852年にはイギリス海峡を渡る海底ケーブルが埋設され、ロンドン・パリ間の電信も始まります。
1854年、モールスの電信機の特許が成立します。電信を使う世界中の会社は、モールスに特許使用料を支払うようになりました。
もっとも、モールスは特許料が支払われなかったとしても、相手を訴えなかったそうです。
ヘンリー博士の影響もあったのかもしれませんが…彼自身、画家としての地位もあり非常に裕福だったため、お金にこだわらなかったようです。
1856年。モールスは、小さな電信会社を集め、「ウェスタンユニオン」を設立します。そして、世界中に電信ケーブルを埋設していきます。
1858年には大西洋横断ケーブル、1861年には、アメリカ大陸横断ケーブルが完成します。
しかし、1865年には大西洋横断ケーブルが障害を起こし、使えなくなります。
すぐに別のケーブルの埋設を始めますが、2/3が埋設された時点で事故を起こし、使えなくなります。
結局、翌年最初のケーブルを引き揚げ、修復が行われました。
その頃から太平洋横断ケーブルの埋設が始まりますが、1868年までかかる難工事となっています。
1871年、モールスの偉業をたたえる像がニューヨークのセントラルパークで披露されます。
モールスは、ここから世界中に電信で「Farewell」(丁寧な別れの挨拶)を送ります。
そして、1872年4月2日モールスは81歳で死去しています。
信号線埋設などで多額の私財を投げだし、慈善活動などにも多額の寄付をしていたそうですが、遺産は50万ドル。
現在の日本円にして、10億円程度でした。
現在でも、モールス信号は使用されています。
長・単・無だけの組み合わせで表現できるため、電気信号だけでなく、音や光でも情報を伝達できるためです。
モールスの死後、無線通信が普及し、そこでもモールス信号が使われます。
無線通信の発明者であるマルコーニが、船の救難信号を国際的に定めようと提案し、CQD という符号を提案。採択されます。
しかしそのわずか2年後、1906年には、船の救難信号として「SOS」が国際的に使用されることが決定されます。
これは、単にモールス信号で「わかりやすい」組み合わせを拾っただけです。
・・・---・・・が SOS の組み合わせになります。
1912年、タイタニック号が、マルコーニ式の電信機では世界最初の「SOS」を打電します。
この際には、CQD と交互に打たれました。
1999年、船の遭難信号としては、SOS は廃止となり、国際的に GMDSS と呼ばれる仕組みに移行しました。
このシステムでは、GPS や通信衛星も使用し、即座に救助が行えるような信号を自動発信します。
しかし、これは「船の遭難信号として」モールス信号は使われなくなった、というだけで、モールス信号が不要になったわけではありません。
電気の ON / OFF で情報を伝達する、という考え方は、この後テレタイプに受け継がれ、ASCII コードの制定に繋がっていきます。
もちろん現在も、コンピューターは電気の ON / OFF で動いていますし、通信はモールスが埋設したのと同じように、海底ケーブルによって世界中を繋いでいます。
その意味で、150年も前の彼の時代を想像するのは難しくありません。
ここ20年で起きたような「情報革命」が、全く同じような筋書きで、彼の時代にも起こったのです。
モールスの電信機が特許を取得してから、世界中に電信網がいきわたるまで、やはり20年程度。
ただ一つ違うのが、これが世界で最初の「電気通信革命」だったことです。
彼のやったことのインパクトは、インターネットの普及よりもはるかに大きかったでしょう。
余談:
モールス信号で Farewell …
とあるゲームのエンディング音楽の中で使われていたような。
多分、エンディングだから Farewell にしただけで、モールスの1871年のメッセージとは無関係と思うのだけど…
そのうち作曲者に聞いてみよう。
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別年同日の日記
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今日はポール・バランの誕生日(1926)。
…この人も知りませんでした。
「今日は何の日」のネタが無いかな、と探していて知る人多数。
偉そうな記事を書いているのに、実際には非常に無知で恐れ入ります。
もっとも、ポール・バランに関しては知らなかったのも道理で、非常に重要な研究をしていたにもかかわらず、その研究は結局日の目を見ていません。
彼は、エッカート・モークリー社(同名の ENIAC 設計者が設立し、後にレミントン・ランド社に合併され、UNIVAC I を設計した)に入社したコンピューター学者です。
後に転職して、ヒューズ・エアクラフト(億万長者のハワード・ヒューズの持つ航空機会社)に入社します。
そしてさらに転職。航空機の知識も持ち、コンピューターの知識を持つ彼は、米空軍のシンクタンクであったランド研究所にスカウトされます。
1961年、彼は空軍からの依頼で「核攻撃に会っても停止しないコンピューターネットワーク」の研究を行います。
空軍は SAGE という「核攻撃に備えた」レーダーネットワークを持っていました。
(1958年から構築開始)
このネットワーク自体を破壊される、ということを恐れたのかもしれません。
この報告書をまとめたのが翌 1962年です。
報告書に書いた内容は、大体次の通り。
・中央コンピューターは設けず、複数のコンピューターが分散・協調動作する。
・通信経路は近くのコンピューター同士を結ぶ形で複数用意し、状況に応じて適宜使用される。
・データは小さな単位に分割して送り、それぞれが独立に複数の通信経路を経由し、受け取った側で再構築する。
何のことを言っているか、今の我々なら容易に想像がつきます。
しかし、当時はこの考え方は新しすぎました。
なにせ、1台のコンピューターが非常に高価で、通信線1本を準備するのにも大変な費用が掛かったのです。
1964年には一般の雑誌にも要約が発表されます。
しかし、そのまま忘れ去られることになりました。
同じような問題は、アメリカとは独立してイギリスでも研究されていました。
ただし、こちらでは「多数のコンピューターを結ぶ際に、最も安く回線を引くにはどうすればよいか」という問題として。
当時のコンピューターを通信させるには、「中央コンピューター」を用意するのが普通です。
このコンピューターと、各端末を回線で結びます。端末が 100台あれば、回線は 100本必要です。
その上で、端末 A と端末 B でデータを送受信したければ、A から中央コンピューターを経由して、 B と接続を行います。
中央コンピューターに関係のないデータの送受信でも、中央コンピューターが監視するため、速度低下にもつながります。
これは大変な事でした。
もっと安く回線を用意できないものでしょうか?
無駄に中央コンピューターの速度を低下させない方法は無いのでしょうか?
イギリスのドナルド・デービスは、この問題に答えを出しました。
・中央コンピューターは設けず、複数のコンピューターが分散・協調動作する。
・通信経路は近くのコンピューター同士を結ぶ形で複数用意し、状況に応じて適宜使用される。
・データは小さな単位に分割して送り、それぞれが独立に複数の通信経路を経由し、受け取った側で再構築する。
全く異なる問題を考えていたのですが、ポール・バランと結論は同じでした。
デービスは、最後の「小さな単位」をパケットと呼びました。現在のパケット通信の語源。
この論文の発表は、1968年でした。
ポールバランの報告書からわずか6年後。
でも、この6年でコンピューター技術は大きく進んでおり、依然として先進的ではあるものの、「実現可能な技術」になりつつありました。
アメリカでの、ARPANET …現在のインターネットの前身が計画されたのは 1966年でした。
ただし、この時点では、どうすれば大規模ネットワークが作れるのかわからず、問題が山積みでした。
1968年、デービスの論文に解決方法を見出し、ARPANET の計画が急に進み始めます。
最初のシステムが稼働し始めたのは 1969年12月でした。
ただ、ARPANET に触れた人の中で、いくらかの人は、ポールバランが 1964年に雑誌発表した論文も見ていたらしいのね。
ここから、「ARPANET は核攻撃に耐えられるネットワークとして実験が始まった」という都市伝説が興ります。
今でも、この話を信じている人は結構多いのではないかな。
たしかに、システムのアイデアはほぼ同じものでした。
でも、別々の問題への対処を考えた結果、同じような結論に達しただけです。
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アラン・チューリング命日(1954)、ドナルド・デービス誕生日(1924)【日記 16/06/07】
別年同日の日記
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今日は、ボードゲーム「オセロ」の発売日(1973)。
オセロの起源については、諸説あってどれが本当だか(僕には)よくわかりません。
大きく分ければ、リバーシの影響を受けたか否か、なんですけどね。
オセロ以前からリバーシというゲームがあったことはわかっていて、日本でも紹介されていたことがわかっている。
でも、それほど有名だったわけではない。
オセロの考案者の証言では、白黒の碁石を使った単純な遊びとして「挟み碁」を考えた、となっています。
最初は、挟まれると碁石を取り換える、という遊び方だった。
でも、これが面倒くさいから牛乳瓶のふたで「両面が白と黒」のコマを作って、挟まれるとひっくり返されるゲームになる。
…この話だと、リバーシの影響は受けていないように思います。
その一方で、オセロはリバーシで決まっていなかった詳細を決定してルールを厳密化したゲームで、リバーシが元になっている、という説明もよく見る。
オセロ以前から日本に紹介はされているのだから、考案者は知っていたはずだ、という見解ですね。
いま Wikipedia を調べたところでは、オセロのページでは後者の説を、考案者長谷川五郎のページでは前者の説を紹介していました。
いずれにせよ、世界的にそれほど有名ではなかった「リバーシ」を、「オセロ」の名前で有名にした功績はあります。
現在ではオセロは非常に有名なゲームです。
1977年からは、毎年世界大会も開かれている。
一方で、有名すぎて「真似をした」ゲームも多数発売されている。
ゲームって、ルールには権利主張できないのね。
オセロの場合、名前の商標だけが取られている。
だから、真似をする場合には「リバーシ」を名乗って、ルールをオセロのままにすると、法的な問題なしに真似できます。
ただ、一つ書いておきましょう。
本来のリバーシでは、最初のコマの打ち方のルールが少し違います。
オセロでは白黒2枚づつを中央4マスに、市松に置いた状態から始まります。
リバーシでは、中央4マスが埋まるまでは両者そこに置かなくてはならない、というルールがあるだけで、何もない盤面から始まります。
あと、コマや盤の色もリバーシでは定められていない。
リバーシはチェス盤を使って遊ばれることが多かったそうで、とすれば盤面は緑ではなく、市松模様です。
コマはチェスと同様に白黒が多かった、とのことですが、特に日本国内では紅白が多かったとのこと。
(紅白合戦、というのは日本人的にイメージしやすいのでしょうね)
一方、オセロは、白黒のコマと緑の盤面です。
ルールと、盤面の色。
「リバーシ」を名乗りながら実はオセロの知名度にタダ乗りしようとしているゲームを見極める際に役立ちます。
オセロって、思考プログラムを作る際の題材にもよく使われたと思います。
ベーマガにも、よくオセロのプログラム載ってました。
僕もその思考ルーチンを参考に、ファミベでオセロを作ったことあります。
#コマの色は白・水色でした。ファミベのテキストキャラに、白と水色の塗りつぶし四角があるから。
ベーマガによくあったプログラムは、コマを打つ位置が、優先順位順にデータ化されているだけ。
順次調べて行って、打てる条件に適合すれば、そこに打ちます。
オセロ知っている人には自明だけど、オセロでは角のマスを取るのは非常に重要なのね。
角だと、どこからも挟まれないから、絶対ひっくり返されなくなる。
逆に考えると、「角の隣」を打つのは非常に危険です。
だから、角を囲むマス…全部で12マスは、優先順位を最低にする。
この考え方で、マスごとに優先順位を付けてあるのです。ただそれだけ。
これは流石にあんまりだ、と思ったので、僕はデータの並びを優先順位とするのではなく、「同じ優先順位」を意味するフラグを設けました。
同じ優先順位の中で、一番多く取れる場所に手を打つ。
…先読みは無いから、これでもまだ非常に弱いんですけどね。
でも、友達に遊ばせたら、これでも「強い」と言われた。
ということは、この方式でもオセロ苦手な人には十分な強さだということだ。
コンピューターで「思考ルーチン」作ってみたいと思っている人は、このレベルからお試しあれ。
多分、ツクダオリジナルから発売になっていた「オセロマルチビジョン」だと思うのだけど、おもちゃ屋さんでオセロが遊べるテレビゲームが試遊展示されていました。
コンピューター相手にオセロを遊べるのね。
なんかね、それを一定の手順で打つと、比較的最初の方で全部のコマを裏返せた。
全反転したら、その時点で終了ね。
初めて遊んだ時は、たまたまそうなったの。
「えっ!」って驚いて、思い出しながら同じ手順を再現すると、必ず全反転で勝てる。
人間相手なら、そんな馬鹿な状態にはなかなかならないのだけど、これが楽しくて同じ手を延々繰り返して遊んだような記憶があります。
市販オセロですら、非常に弱かった時代の思い出です。
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アラン・チューリング命日(1954)、ドナルド・デービス誕生日(1924)【日記 16/06/07】
別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
今日はクロード・シャノンの誕生日(1916)。
シャノンは…偉大すぎて、とても1回では語れないです。
この人がいなければコンピューターは存在しなかっただろう、というくらいすごい人。
世界で最初のコンピューター、とされるのは ENIAC(1947) ですが、それ以前から「電気回路による計算機」は存在していました。
そして、電気で計算ができる、と最初に示したのが、クロード・シャノンが 1937年に発表した修士論文でした。
この論文では、スイッチの組み合わせで OR と AND が作れることを示し、OR と AND があれば2進法での計算が可能であることを示しています。
スイッチで…と言っても、人間が操作する、いわゆるスイッチのことではありません。
修士論文のわずか2年前、ジョセフ・ヘンリー博士が、電気によってスイッチを動かすことができる「リレー装置」を発明していました。
つまりシャノンは、リレー装置を使えば、歯車計算機と同じ計算を、もっと高速に行うことができると示したのです。
デジタル理論の始まりでした。
これからしばらくは、リレー式計算機の時代でした。
ENIAC だって、基本的には「真空管は、リレーより早いスイッチとして使える」という発想で作られているのです。
そして、実は今でも、「トランジスタは真空管より安定したスイッチとして使える」という考え方で、コンピューターは作られています。
シャノンが今のコンピューターの基礎を作った、と言われるゆえんです。
#実は、シャノンの前年に日本人の中嶋章が同様の論文を発表していますが、アメリカのリレー計算機に大きな影響を与えたのはシャノンの論文です。
シャノンの論文が中嶋論文の盗作である、という説もありますが、リレーの発明を受けてその論理性を考察した、と考えると、同時期に類似の論文が独立に発表されても不思議はないと思います。
シャノンはまた、情報理論という数学理論を作り上げました。
よく「映像は情報量が多い」とか言う人がいるのですが、実はこの言い回し、間違っています。
情報量というのは、元々情報理論で使われる専門用語でした。
そして、その定義は「2つの選択肢があり、どちらか一方を選ぶのに十分な情報を、1bit の情報量とする」というものです。
4つの選択肢の中から、どれか1つに完全に決められる情報があるなら、その情報量は 2bit です。
逆に、2つの選択肢があり、A だと思うのだけど、B の可能性も捨てがたい…などという場合は、0.5bit のように小数点以下の値となります。
たとえば、A と B のどちらかを選ばないといけない時に、全く情報が無いと、0bit です。
情報を調べたところ、「A を選ぶと良い」という情報が得られたとします。これは 1bit の情報です。
さらに情報を得ると「B を選ぶと良い」という情報が得られたとします。
ここで、どちらを選べばよいかわからなくなり、 0bit に戻ります。
情報は増えたけど、情報量は減るのです。
さて、最初に書いた「映像は情報量が多い」という話。
正確に言えば、情報が多いのです。
耳だけで感じる「音」よりも、目で感じる「映像」は情報が多い。
止まっている「画像」よりも、動く「映像」は情報が多い。これは事実です。
でも、それが「情報量が多い」ことにはなりません。
ただのノイズを延々と見せられたら、多分「情報」は多いのだけど、情報量は 0bit 。
何の参考にもなりません。
言葉遊びの屁理屈をこねているわけではないし、コンピューター関連の話でもありません。
何かを作る、クリエイターの人は情報理論を肝に銘じておく必要があります。
自分の想いを詰め込み過ぎると、「情報」が多くなりすぎて「情報量」は減るのです。
適切に薄めて、情報量が高いものを「お客様」に届けると、一番喜ばれます。
#…と自分で書いておきながら、海より深く反省。
僕のサイトは情報詰め込み過ぎです…
シャノンは、自ら作った「デジタル理論」と、「情報理論」を組み合わせ、次々と新しい概念を作り出しました。
通信に於いて、伝送中にノイズが載ることを考慮し、適切にデータ転送する方法を数学的に考察しました。
これにより、情報通信理論の基礎が固まりました。
これまでは「経験則」で電話やモールス信号の電信線を設計していたのが、適切な設計方法などが数学的に示されたのです。
そして、シャノンはこの「ノイズが載る可能性がある伝送路」で、ノイズの影響を打ち消しながら通信を行う方法も考案します。
エラー訂正符号と呼ばれるもので、今のインターネットでの通信はもちろん、ハードディスクのような情報記録媒体でもこの理論が使われています。
情報記録が「未来への通信」だと思えば、やはりノイズ(時間劣化)の影響は受けるのです。
シャノンは「デジタル理論」を専門としますが、もちろん自然界はアナログです。
この、アナログの量をデジタルに変換して扱いやすくするための方法、「サンプリング理論」もシャノンが始めた学問です。
たとえば、音は空気の波として表されます。
これをマイクで拾って、電圧の波に変えることもできます。
CD の記録の場合、この電圧の波を、65536段階、16bit に区切って記録しています。
これをビットレートと呼びます。
そして、この「電圧の測定」を、1秒間に 44100回行っています。
こちらはサンプリング周波数と呼びます。
ビットレートが 16bit で、サンプリング周波数が 44100回。
この数字、どちらも大きくすればするほど、音は良くなります。
でも、電圧を細かくとろうとすると測定に時間がかかってしまって、サンプリング周波数が落ちる。
周波数を細かくすると、電圧測定の時間が取れなくて、ビットレートが落ちる。
もちろん、その時代の技術の問題もあるのですが、両立は難しいのでバランスよく決める必要があります。
その「バランス」を決める際に役立つのが、サンプリング定理。
記録しようとする周波数の、2倍のサンプリング周波数が無いと記録できない、という定理です。
CD の場合、人間は 22Khz より上の音は聞こえない、という理論をもとに、44.1KHz のサンプリング周波数が設定されています。
#実際には、CD は当初 48KHz で 60分記録の予定でした。
これが 44.1KHz で 74分記録、という中途半端な数字になるには、裏でいろいろあったそうです。
サンプリング理論と言うとわかりやすいから CD の話になりがちだけど、デジカメとかも同じね。
画像だって、デジタルで記録するにはサンプリング定理の影響を受けるのです。
その昔、パソコンの画面にたくさんの線を引くと、本来の線とは別の模様(モアレ縞)が見えることがありました。
サンプリング定理では、周波数の半分を超える周波数の信号が入ると、本来の周波数と異なった周波数のように記録されます。
これが「モアレ縞」の正体で、本来存在しない周波数のことを、サンプリング理論では「エイリアス」と呼びます。
英語で「別名」の意味ね。
Mac ユーザーならファイルの「エイリアス」を作ったりすることもあるでしょう。
(Windows ではショートカット、UNIX ならソフトリンクと呼ばれる機能です。)
さて、画像の「エイリアス」は、「アンチエイリアス」で消すことができます。
仮に、本来のサンプリング周波数よりも細かい…グラフィック画面よりも細かなドットの画面があるとして、そこに線を描きます。
それから、本来のグラフィック画面に「平均値を取りながら」変換するのです。
平均値を取ったのでところによって絵がぼやけますが、エイリアスは消えます。
アンチエイリアスとか、グラフィックやっている人にはお馴染だと思うけど、これもシャノンが始めた理論によるものなのです。
もっと専門性の高い話もありますが、あまり書くと混乱するので今回はこの辺で終わりましょう。
(詰め込み過ぎは情報量を落としますし!)
興味を持った方のためにざっくりとだけ書くと…
暗号を数学的に扱ったのもシャノンが最初でした。
ゲーム理論の基本的戦略の一つである、ミニマックス法もシャノンが考案したものです。
「コンピューターグラフィック」を創始した、アイバン・サザーランドはシャノンの最後の教え子でした。
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「人工知能」の生まれた日(1955)【日記 16/08/31】
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別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【あきよし】 知ってますよー。本文中に書いた通りなのでよくお読みください。違い(盗作ではない)の詳細については、論文の共同執筆者である榛澤さんの証言が「計算機屋かく戦えり」に書かれています。 (2016-08-03 12:36:19) 【ちょっといいですか?】 あきら なかしま が switching circuit 理論 を打ち立てたのは1935年、すなはちc.e.s.の2年前だ。s.は完全に盗作をしているんですよ。 (2016-07-03 01:54:13) |
今日は、ハロルド・コーエンの誕生日(1928)
この人よりも、この人が作ったプログラムの方が有名でしょう。
アーロン。コンピューター画家として知られ、「創造的な」人工知能だと言われます。
もっとも、コーエンはアーロンに創造性があるなんて、ちっとも認めてません。
見た人が勝手にそういっているだけ。
コーエン自身も画家なのですが、何が人間の創造性を左右しているのか、その限界を見極めようとしたところに彼の独自性がありました。
アンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタインは、およそ「芸術としての創造性」なんて感じられない、広告ポスターや漫画雑誌を主題とした作品を、芸術作品として作っていました。
ピエト・モンドリアンはもっと前の時代の人ですが、キャンバスをただ直線で区切って色を塗っただけで、創造性を感じさせました。
コーエンも、おそらくはここら辺の作品に影響を受けているのでしょう。
「無作為に描かれた線」による作品群を作り、有名になります。
無作為…って、芸術の大切なテーマの一つなのですが、その無作為をどう作り出すかが問題。
彼は、紙をくしゃくしゃに丸め、それを再び伸ばし、しわの上に線を引いていきました。
他のしわと交わる交点では、あらかじめ決めたルールに従い、線が進む方向が決まります。
とにかく、ルールだけがあり、後は一切が偶然。
コーエンの意思はルール決定においてのみ入っており、芸術作品には意思が入り込まない。
それを「創造性」と呼べるかどうか…これが彼の作品のテーマでした。
当初は線画だけでしたが、後にはこれを拡張し、色を塗ったりもしています。
もちろん、色を塗る際もあらかじめ決めたルールに従って塗っているだけです。
彼は、このルールを決める作業を「初めてのプログラムだった」と語っています。
あらかじめ、起こり得る現象に対して、網羅的に対応できるルールを決めておく。
そして、偶然を元にルールを適用し、完成作品を見る。
彼は、さらに作品が「彼の考える、良いもの」になるようにルールに手を加えます。
この繰り返しで、作品自体は偶然性に支配されながらも、彼が思うような絵が描かれるようにルールを整えるのです。
この作業は、当然のように「機械化」の方向に進みます。
1971年、データ・ジェネラル社の後援を受けて、彼はコンピューターに絵を描かせるプログラムを展示します。
…プログラム自体には、1~2年かかったそうです。コーエン自身がプログラムを行いました。
この時の絵は、非常に単純な抽象画です。しわくちゃの紙をなぞる代わりに、ランダムを元に線を引いていきます。
当時のコンピューターにはまだ高精細なディスプレイはありませんから、ペンを持ったロボット自動車…LOGO の「タートル」に相当するものが絵を描きます。
#タートルは「かわいすぎて、みんなが絵ではなく、タートルの動きに注目してしまう」という理由で、後にプロッタプリンタに変更されます。
さらに翌年には、こうして描かれた絵の展示会を行います。
多くの絵が飾られ、その中には、絵を描くマシン自体の展示もありました。
マシンは少しづつ絵を描き進め、会期の終わりごろには見事な抽象画が完成しました。
この「機械」も含め、コーエンの芸術作品なのです。
絵を描く機械を見た人々は…この機械に「知性」を感じました。
左側でしばらく絵を描いていたかと思うと、急に右の方にペンを動かし、そちらでも何かを描き始めます。
これを見た人たちは「左に何かを描いたから、右にも描き入れて全体バランスを取っているのだろう」と話をします。
でも、コーエンによれば「単に、描くスペースが無くなったので中断して、別のところにスペースを見つけただけ」なのだそうです。
コーエンは、何も考えずに動くだけの機械を見る人々が、「機械が考えている」と想像する現象を、興味深く感じました。
そして、プログラムによって絵を描く機械に、大きな魅力を感じ始めます。
彼は、「プログラムが、絵を描くよりも楽しくなってきた」のだそうです。
1973年、コーエンは、妻と旅行中に、洞窟の岩肌に描かれた、原始時代の壁画を見ます。
これは、彼にインスピレーションを与えました。
そして、彼はアーロンを作りはじめます。
非常に単純な、原始時代の洞窟壁画のような絵を描く、コンピュータープログラムです。
アーロンは、とにかく「閉鎖空間」を描こうとします。ゆがんだ楕円だったり、ジャガイモのような形だったり。
描いている最中に他の絵とぶつかりそうであれば、線を曲げて、絵が重ならないようにします。
そして、時にはこの閉鎖空間から線を伸ばします。
その線は足のようにもみえ、まるで原始人が狩猟対象の動物を描いた、洞窟壁画のようでした。
この、「動物らしく見えるもの」からスタートして、コーエンはアーロンに様々な規則を教え始めます。
同じ閉鎖空間でも、描き方によっては雲にも、太陽にも見えます。
そして、次の大きな段階へ。
コーエンは、アーロンに、動物に「骨格」があることを教えました。
棒を繋げるような形で、胴体と4本の脚、首と頭、尾が繋がっていることを教えたのです。
この時点では、アーロンが知っているのは、棒状に体が繋がっていることだけでした。
棒同士は、接続箇所の角度を変えられます。でも、この角度も「可動範囲」があり、あり得ない形状にはなりません。
アーロンは棒を描くのではなく、その周りに適切に「肉付け」された形状を描きます。
ただ、この肉付けの際のパラメーターは、アーロンがランダムに生成します。
これにより、「洞窟壁画らしさ」が増しました。
コーエンはさらに、人間の形状を、木の形状を、部屋の構造を教え、遠近法や、重なった際の印面処理などをアーロンに教えます。
形状も、当初は2Dで表現していましたが、3D形状を透視変換して2Dに出来ることを教えました。
そこまで行くと、ただの3Dモデルを動かして、レンダリングするだけのプログラムになりそうです。
しかし、アーロンは3Dモデルを動かし、それを参考にして、その形状を「デッサン」するように線を描くのです。
参考にしかしていないので、なんとなく人間の形になったとしても、やはり線はいびつで、ただの3Dレンダリングとは異なります。
なにか、芸術としての肖像画の側面を持っているのです。
アーロンは創造性を持っているのか?
コーエンは、この問いにきっぱりと「持っていない」と答えています。
アーロンが創造的に見えるのは、アーロンが描いているところを見る我々が、アーロンに人間的な何かを感じてしまうためです。
実際には、その内部ではランダムを生成し続けているだけで、何も考えてはいません。
ただ、アーロンはコーエンの考える「芸術性」を教え込まれています。
アーロンが創造的ではなくとも、コーエンは創造的で、アーロンはコーエンを真似しているのです。
以前は、人工知能の研究者で、コーエンの支援も行っているレイ・カーツワイルが、アーロンの「Windows 移植版」を有償で配布していました。
しかし、今探したところ、配布は辞めてしまったようです。
ずっと Windows 95 用のままだったからね。64bit 時代になって動かなくなったのかも。
そんな、アーロンの描いた作品は、芸術作品として認められ、高値で取引されています。
これももちろん、アーロンを道具としてコーエンが描いた作品、としての価値があるためです。
実のところ、アーロンが描いた絵は沢山あって、販売されているのは「コーエンが認めた」作品だけです。
この時点で、高値で取引される理由はちゃんとあるんですけどね。
先に書いたソフトを入手したとしても、それで描かれた絵が全部高価な価値がある、というわけではないのです。
機械は知性を持ちうるか否か?
これは17世紀から続く、哲学の大きなテーマです。
時代的に「機械」がコンピューターに変わり、チューリングがチューリングテストを提唱したことで、「人工知能」は「対話可能であること」が重視されるようになりました。
しかし、コーエンはそれとはまた違った方法で、アーロンという「画家の人工知能」を作り上げました。
多くの人が、アーロンが絵を描いているのを見て「考えている」と感じるようです。
対話は行っていませんが、多くの人が知性を感じれば、それは知性があるにほかならない。
コーエンは、アーロンは「多くの人に考えていると感じさせることで、チューリングテストには合格している」と言っています。
事実、2000年ごろには、米国人工知能教会の会長も「現時点での最高水準の人工知能」のひとつとしてアーロンを挙げています。
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今日は、BASIC の生まれた日(1964)。
厳密に言えば、ちょっと違うかな。
いわゆる「BASIC」としてなじまれた環境が、最初に動くようになった日と言うべきか。
1964年の早いうちに、ダートマス大学で、BASIC という「言語処理系」は完成していたのだそうです。
パンチカードにプログラムを打ち込み、バッチ処理でコンパイルを行い、コンパイル済みのバイナリを実行できる環境として。
この点では、FORTRAN とそれほど変わりませんね。
でも、BASIC の目標点はそこではなかった。
この、バッチ処理コンパイル版の BASIC を元として、「対話処理」が組み込まれ、はじめて稼働したのが今日、5月1日とされているのです。
対話型というのはどういうことか?
パンチカードにプログラムを打ち込むのではなくて、テレタイプライターでタイプすると、即座に動作するのです。
PRINT 2 + 2
と打ち込むと、その瞬間に「PRINT 2 + 2」をコンパイルし、完成したバイナリを即座に実行します。
結果、「4」とタイプライターに出力されます。
この時点では、まだ BASIC 言語の処理部分はコンパイラのままでした。
入力が数字から始まる場合…つまり
10 PRINT 2 + 2
という形式である場合、一連のプログラムの、行番号「10」番目の断片だと見做し、内部メモリに格納します。
どのような順序でプログラムを入力しても、内部では行番号順に並び替えられます。
同じ行番号を上書きすれば前のものは消去されますし、行番号だけ入れれば、その行自体が削除されます。
そして、RUN という命令が実行されると、即座にプログラム全体がコンパイルされ、動き始めます。
80年代の BASIC を使った人にも、BASIC に行番号は必須だと思っている人が多いのだけど、そんなことは無いです。
行番号は、あくまでも「編集に」必要なだけ。
もちろん、GOTO などで行番号使いますよ。
だけど、これだってラベルが使える BASIC 環境だってあった。
行番号でジャンプする FORTRAN でも、とび先以外の行には行番号を付けなくていい。
行番号がなくたって何とかなる。
でも、BASIC が作られた当時はテレタイプで、ディスプレイはありません。カーソルを動かすことはできないのです。
その環境でプログラムをしようと思ったら、編集する位置をすぐに指定できる方法が必要。
行番号は、主にそのためのものです。
#FORTRAN はパンチカードなので、正しく並べることを前提に、行番号が不要だっただけ。
でも、この行番号による編集が、BASIC を大成功に導いたように思います。
行番号があれば、それを内部メモリに格納する。
行番号が無ければ、直接実行する。
この単純な規則で、意識せずにモードを使い分けられます。
ちょっと実験したいときは直接命令を動かしてみて、動作を確認してからプログラムに組み込む。
BASIC は元々「プログラムの学習用」でしたから、こうした、コンピューターになじめる環境全体を作り出すことが重要だったのです。
ダートマス大学で BASIC はどんどん改良されます。
ダートマス BASIC は、行列を扱う計算も出来ました。
この当時は、ダートマス BASIC を元に、別実装された BASIC でも行列計算が当たり前についています。
1970年代には、低価格で大ヒットした PDP-8 にも BASIC が作られていますし、PDP-11 ではグラフィックが扱えるものや、命令を非常に増やしたものなど、多数の BASIC が作られています。
そして、コンピューターの時間貸しサービスでよく使われた PDP-10 にも、BASIC はありました。
これらのマニュアルを読む限りでは、内部的にはダートマス BASIC と同じように「即時コンパイル」だったようです。
コマンドによって、コンパイル結果をファイルに書き出したりもできました。
BASIC で作っていても、コンパイル結果は BASIC 環境無しに動かすことができます。
PDP-10 で BASIC を学んだ人と言えば…後にマイクロソフトを設立する、ビル・ゲイツもその一人でした。
彼は中学校にあった PDP-10 の時間貸し端末を使って BASIC を遊び倒し…一人で、1年間分の「時間貸し」の料金をあっという間に使い果たし、怒られています。
仕方がないので、時間貸しサービスを「ハッキング」して無料で使って、サービス提供会社にまた怒られ、接続を無料にする条件として、その会社でソフトのバグを見つけるアルバイトを始めます。
#その会社では、PDP-10 を DEC から購入した時に「バグが見つかり続けている間は支払いを猶予する」という条件を貰っていたのだそうです。
ゲイツたちが各種ソフトのバグを探してくれれば金を払わないで済む、というメリットがありました。
この頃、ビル・ゲイツは BASIC 自体を自分でも作ってみているのだそうです。
そして、それが Altair 8800 発売時に、作ってもいないのに「BASIC を作った」とハッタリをかました自信へと繋がります。
Altair 8800 は…実際には入手困難だったので、互換機の IMSAI 8080 などは、多くの人にとって「初めて触るコンピューター」でした。
しかし、これらのコンピューターは2進数でプログラムを組むようになっていて、非常に使いにくいものでした。
ゲイツは Altair の製造元である MITS 社に BASIC を提供しながら、「マイクロソフト」名義の会社を設立して、同じ BASIC を IMSAI などにも販売しました。
マイクロソフトが作った BASIC は、コンパイラではなく、インタプリタでした。
命令をひとつづつ解釈し、その命令を動作させるためのサブルーチンにジャンプします。
コンパイラと違って動作が遅いのですが、マイクロソフト BASIC の場合は、プログラム格納時点で命令解釈を半分終わらせることで、高速に動作するようにしてありました。
#字句解析までは終わらせ、単語単位で「中間コード」に変換しています。
マイクロソフトの BASIC では、行列演算の機能が削除されていました。
それ以降…家庭用パソコン向けの BASIC では、みんな Altair 8800 の BASIC に倣ったようで、行列演算機能は基本的にないものとして扱われました。
一方で、マイクロソフトの BASIC では、「?」は PRINT と同じ中間コードに変換されるようになっていました。
このため PRINT 2 + 2 の代わりに ? 2 + 2 と書くことができます。
これが…地味に便利です。
ちょっとした計算をしたいときに、? の1文字だけで、後は計算式を入れれば結果を教えてくれるのですから。
現状では ? は Altair 8800 用の BASIC に存在したのは確認されていますが、マイクロソフト以前にあったのかどうかは不明です。
(PDP の BASIC には存在していません)
現在でも、BASIC には根強い人気があり、マイクロソフトも Visual BASIC を作り続けていますし、プチコンや IchigoJAM のような環境もあります。
僕自身は今では BASIC を使いたいとはあまり思わないのですが、初心者や、サンデープログラマ向けとしては今でも良い環境だと思ってます。
構造化なんて、職業プログラマの発想で、最初は難しすぎてついてけないよ。
最初は BASIC で初めて、必要なら後で「卒業」すればいい。
もちろん、卒業しないで万年初心者だってかまわないと思います。
仕事では使えないかもしれないけど、十分楽しい言語。
まぁ、「後で卒業すればいい」という意味では、BASIC にもこだわらないのだけどね。
子供には Scratch 薦めてます。
#Scratch も、コマンド単位でダイレクト実行できたりする「対話環境」で、BASIC と考え方が非常に似ています。
もちろん、初心者向けに何が重要かを研究したうえで作っているのだろうけどね。
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今日はエドウィン・ハーバード・ランドの誕生日(1909)。
カメラで有名な、ポラロイドの創立者です。
でも、彼の最初の発明品は、有名なインスタントカメラではない。
「ポラロイド」という名前の薄い板が最初の発明で、大ヒットした際に社名を商品名に合わせたのです(1937)。
ポラ、というとどうもカメラが思い浮かんでしまうのですが、「ポーラー」(Polar)です。
北極や南極も polar なのですが、これは極性の意味。
そして、光の偏光も polar です。
当時、光が波であることはすでに知られていて、この波の方向が偏っている(偏光)ことも知られていました。
偏光している光は、偏光の向きが合った偏光板(偏光子)を通り抜けますが、向きが合っていないと通り抜けられません。
向きは物理的なものなので、偏光板を通して普通に見えていたものが、偏光板を 90度回すと、真っ暗で見えなくなる、ということです。
でも、この「偏光子」が非常に高価なものでした。
偏光子として使える結晶を、大きく育てる必要があったためです。
ランドは、結晶を育てる必要などなく、小さな結晶を上手に方向をそろえてセルロイドで固めてしまえば実用になる、と気づきました。
そうしてできたのが「ポーラーロイド」。偏光子として使えるセルロイド板です。1929年に特許取得しています。
その後、ポラロイド社は「現像処理時間と手間を劇的に短縮したカメラ」でもう一度大ヒットを飛ばすのですが、今回取り上げたいのは、この偏光板のほう。
現代のパソコンには欠かせないものになっています。
まず、偏光の基礎知識。ざっくりとだけね。
偏光のない光を「偏光板」に通すと、偏光します。
偏光板を2枚重ねて見ると、組み合わせを90度回すたびに明るくなったり暗くなったりします。
1枚目の偏光板で、たとえば「縦」だけに偏光した光が、2番目の偏光板が「縦」なら通れるし、「横」なら通れなくなるため。
でも、実はまったく偏光のない光というのは無くて、屈折したり、反射したりすると光は偏光します。
ミツバチは、空の空気の乱反射を偏光で見える目を持っていて、この偏光具合で、太陽が直接見えない場合でも太陽の向きを察知します。
水面を反射した光は偏光しますが、この偏光の光だけをカットするサングラスを作ると、水の表面の光をなくし、水の中が見やすくなります。
釣り人用のサングラスなどに利用されています。
同じように、濡れた路面で光が反射してまぶしいのだけを消すこともできます。
こちらは、トラックやタクシーの運転手などに利用されています。
さて、まずは、パソコンとしてはちょっと古い話。
その昔、MO…光学磁気ディスク、というものがありました。
今も放送業界では使われていたりするそうですが。
この「光学磁気」という言葉が微妙。実は、磁気をもつ物体に反射した光の偏光角度が、磁気極性によって違う、という特性を利用しているのです。
磁性体は、熱くなって「キュリー点」と呼ばれる温度を超えると、磁性を失います。
冷えると、再び磁性を得ます。この際、強い磁場の中で冷えると、周囲の磁場の影響を受けた極性を持ちます。
なので、まず強い磁場(ハードディスクのヘッド程度の磁気ではなく、永久磁石程度)の中で連続してレーザーを当て、キュリー点越えの温度にした後で冷やします。
すると、その時の磁石の向きの極性を持ちます。
つづいて、磁石を逆にして、記録したい情報に従って断続的にレーザーを当てます。
これで、元々あった極性と、新たに書き込んだ逆の極性の組み合わせで、情報が記録できます。
読み取るときは、弱いレーザーを当てます。この際、偏光板を通して、偏光させておきます。
反射した光は、反射面の極性によって偏光の向きがわずかに影響を受けます。
再び偏光板を通すことで、このわずかな影響を、「暗い」「明るい」で検出します。
CD では、反射面に凹凸を付けて、反射率を変えることで、反射光の明暗を作り出して情報を検出します。
CD-R では、反射面に色素を持たせておき、強い光で色素を破壊することで、光の吸収率を変化させ、反射光の明暗を作り出して情報を検出します。
MOは単純に「明暗」ではなく、偏光板を2枚追加することで明暗を作り出します。
この点では、CD と CD-R は同じ読み取り装置で使えるけど、MO の仕組みは読み取り装置も変えないといけない。
でも、読み取り装置に安い偏光板2枚用意しておけば、あとはほぼ同じ仕組み。
MO の方式は、将来的には「書き換え可能な CD」への技術が応用できる…と期待されました。
実際、MD は、情報記録に関しては MO とほぼ同じ技術で作られています。
でも、すでに普及したものに対し、「偏光板2枚の追加」は思った以上に難問だった。
この後出てきた CD-RW や DVD-RW など書き換え可能な光学メディアは、偏光を利用しない別の方法を使っています。
#CD-RW などは、パソコン用メディアとしては失敗した PD と同じ方式です。
過去の再生機でも再生できる互換性を持つ一方で、書き換え可能回数は MO よりずっと少ないです。
偏光板と言えば3Dメガネ、と思う人もいるでしょう。
映画館のように、スクリーンに投影し、大勢の人が見る場合によく使われます。
2台の投影機で、それぞれ偏光板を通して投影を行います。
観客は偏光板の眼鏡を通してみるのですが、右目と左目で偏光が 90度異なっているため、別々の映像を見ることになります。
この、左右それぞれで違う映像を見ることにより、視差を感じて立体的になるのです。
#偏光が「90度」ではなく、円偏光という別の方法の場合もあります。
この方式の利点は、2台のプロジェクターの画像を1つのスクリーンに投影しても、後でちゃんと分離できることです。
解像度も、コマ数も犠牲になりません。
#たとえば、任天堂 3DS の視差バリア方式では、解像度が犠牲になります。
昔ファミコンで発売された液晶シャッター方式では、コマ数が犠牲になります。
ただ、この方法は家庭用ではなかなか使えません。
今家庭で普及している液晶テレビでは、偏光の制御ができないためです。
というのも、液晶テレビは最初から偏光していることが前提なのです。
液晶ディスプレイでは、結晶が 90度ねじれた状態になっている「液晶」を使用します。
このねじれに従って、透過する光も 90度曲がります。
この液晶を、90度回転させた2枚の偏光板で挟んでやります。
90度回転した偏光板では普通は光を通しませんが、液晶が光の偏光を 90度曲げるため、光を通すことになります。
ところが、です。
液晶は電圧をかけると配列が変わる特性があります。
電圧をかけた時は、光を素通しするようになります。すると、90度回転した偏光板を光がそのままとおろうとする形になり、光はとおりません。
これにより、白と黒を表現できます。
白と黒が表現できれば、色のフィルタを用意することで三原色を表現できます。
電圧によって、すべての分子が一斉に配列を変えるのではなく、一定の範囲でばらつくように出来れば階調表現もできます。
これが液晶テレビ、液晶モニタ、スマホの画面など、様々な場所で使われている液晶ディスプレイの原理です。
ディスプレイから光が出た時点で、偏光しています。
先に書いた偏光板方式の3Dとは、相性が悪いのはそのため。
偏光板はいろいろなところで使われているわけですが、最後にもう一つだけ、あまりお目にかからない例を。
今は閉館していますが、千葉に麻雀博物館というところがあります。
僕は麻雀全然やらないのだけど(ルールくらいは知ってる)、テレビゲームに限らず「ゲーム」が好きなので、見に行ったことがあります。
そこに、イカサマ牌が展示してあったのね。
裏面が、金粉散らしたような豪華なラメ模様になっている。
ラメの上には透明樹脂が盛られているのだけど、実はこの中に偏光板が置かれています。
偏光板は牌の表の文字と同じ形が刻まれています。
色が変わって見えないように、90度ずらした別の偏光板を組み合わせ、完全に1枚の板にしてあります。
とはいえ、そのままでは切込み部分は少し見える。これを、背景をラメにすることで見えなくしているのです。
ラメにはもう一つの役割があって、偏光板を通して入ってくる光を乱反射させています。
これによって、偏光を打ち消している。そして再び、偏光板を通して出てきます。
つまり、周囲の人の目には、「文字の形」になった偏光が届いている。
ここまでくれば、お膳立ては整っています。
あとはイカサマをしたい人が、偏光板で出来た眼鏡をかけるだけ。
昔、業務用麻雀ゲームのアイテムとして「透視メガネ」というのがありました。
相手の牌が透けて、表に刻まれた文字が見える、というもの。
それの実物です。実在したのです。
ただ、これは偏光メガネが珍しかった時代だから使えたのだろうとも思います。
いまだと、普通に偏光メガネ使われていたりするからね。
先に書いたように、釣り人用・運転手用の眼鏡とか、普通に出回っているから、万が一にばれることを考えると怖くて使えないでしょう。
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エドウィン・ハーバード・ランド 命日(1991)【日記 17/03/01】
別年同日の日記
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今日は八景島シーパラダイスの開業日(1993)。
普段コンピューター関連の「今日は何の日」をやってますが、基本的には「僕の興味に従って」書いているだけです。
今日はパソコン関係ではありません。ご了承ください。
でも、ゲームやアミューズメントに興味がある人なら、ここは興味深いことがわかってくれるかもしれません。
八景島は、横浜市の所有する公園です。遊園地ではありません。
そこに、横浜市の許可をもらって、株式会社横浜八景島が各種施設を置いている、という形式になっています。
1990年代の前半から、ディズニーランドの成功やバブル景気を受けて、遊園地が沢山作られました。
#バブル景気は 1990年代には終わっているのだけど、バブル景気のうちに計画が進められ、そのまま建造されていた。
それらの遊園地は、規模がそれほど大きくない、という特徴があります。
遊園地としての規模は大きくないので、それだけでは人を呼べない。
でも、ショッピングモールやレストラン街など、付随施設を作って、総体として人を呼ぶ。
遊園地の遊具も、大きなショッピングモールの店舗の一つだ、と言えばいいでしょうか。
多分、流れの最初の一つは、みなとみらい地区にある「横浜コスモワールド」。
遊園地を作るつもりはなかったのに、横浜博覧会(YES '89)で使われた観覧車を「シンボルとして残してほしい」という要望があり、急遽遊園地化したもの。
そういう経緯なので、非常に狭く、入場料を取るほどのものではありませんでした。
現在はいろんな経緯で拡張されていますが、無料のままです。
八景島の場合、全体としては公園なので入場料はいらず、中にはレストランやショッピングモール、水族館やヨットハーバー、潮干狩りが出来る海岸などもあります。
食事だけして帰っても「入場料がもったいない」ということは無い。
遊園地として遊ぼうと思うと、入場料が無い代わりに遊具が高いのですけどね…
その後の流れとしては、東京ドームシティや、ディズニーランドに併設されている「イクスピアリ」などがあります。
東京ドームシティは元々は「後楽園遊園地」で入場料が必要だったのですが、東京ドームを含めた総合施設の一部として無料化されています。
イクスピアリは、ショッピングモール部分だけが無料で遊園地は有料なのですが、遊園地とショッピングモールをまとめてアミューズメント施設と捉えていく発想は同じものだと思います。
八景島シーパラダイスができたのは、僕が大学の頃。
早速みんなで遊びに行った覚えがあります。
僕、横浜から千葉の大学通っていたのね。
それが「シーパラ行こうぜ!」となって、友達の車に分乗して横浜まで遊びに来る。
で、その後千葉まで戻って、解散。僕は横浜に電車で帰るのです。何やっているのだか。
当時は、ブルーフォール(フリーフォール)が人気でした。1回遊んだだけで千円だった気がするけど、面白かったので2回乗った。
大学生だったから金遣い荒かったのもあるし、まだバブルの感覚が残っていた時代でもありました。
でも、あくまでも「遊園地」ではなくて、「遊園地施設を置いた総合公園」なのね。
広い敷地をぐるっと回って、みんな最後はカーニバルハウスに吸い込まれていく。
カーニバルハウスは、当時はセガが運営していたゲームセンター。
今はセガが撤退し、八景島直営になっているそうです。
遊園地遊具の料金が高い割にそれほど楽しめないから、じゃぁ最後はゲームで締めるか…となっちゃうのですね。
まだゲームセンターが人気アミューズメントとして機能していた時代でもありました。
遊園地内ロケだからこそ、大型体感ゲーム機とか置いてあったしね。
#たしか、AS-1 とか、バーチャフォーミュラとか置いてたのじゃなかったかな。
共に、普通のゲームセンターには置けない、超大型&超高価マシンでした。
この遊園地、セガが運営しているときは、風俗営業法を無視していたそうです。
これは最近知った情報で、当時は未確認。
まぁ、ゲームセンターが風俗営業法の8号営業になるのは、そこが「遊園地」として認められない時だけですからね。
遊園地内のゲームコーナーであれば風俗営業ではありません。
ただ、八景島直営になってからは、風俗営業法を守って運営しているようです。
八景島は、今でも数年に一度行っています。
僕は湘南地区に住んでいるけど、湘南では潮干狩りはあまり出来ない。
八景島近辺はできるので、潮干狩り目的で行ったりね。遊園地でも遊びますが。
あと、子供の保育園の遠足先に、数年に一度なります。
この時は団体行動なので、水族館見て終わり、ってなることが多い。
(八景島は結構広いので、園児の足で歩き回るのには向かない)
八景島のオープン後に、水族館ブームが来たので水族館が増築を繰り返しています。
現在では4つに分かれちゃってる。
水族館を全部見たければ、あっちこっち移動することになります。
まぁ、一部だけ見て終わりでもいいんだけどさ。
そういえば、高校の後輩の女の子が結婚した時、ここのレストランで「友人向けの披露パーティ」やってたな。
呼ばれたので行きました。
花火を打ち上げる時間帯にパーティを設定していて、窓から見える花火が印象的でした。
これは、遊園地としてではなく、パーティ会場としての使い方。
公園なのでお弁当持ってきて食べてる親子連れがいたりもするし、広い芝生でキャッチボールしているような人もいる。
楽しみ方は自由です。
いろいろな使い方が出来る、面白いアミューズメント施設だと思います。
別年同日の日記
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今日は、ディープ・ブルーがカスパロフを破った日(1997)。
ガルリ・カスパロフはチェスの元世界チャンピオンです。
その世界チャンピオンが、IBM が作成したチェス専用コンピューター、ディープブルーに敗北したのです。
これは非常にセンセーショナルな出来事でした。
チェスは、西洋では知力を測る物差しのひとつだと考えられてきました。
チェスでの勝敗は、そのまま頭の良さの優劣と捉えられるのです。
もちろん、ゲームですから「時の運」もあり、正しく勝敗を決するには、何度かの勝負を行います。
今でも、チェスは頭脳のスポーツだと言われます。
冷戦下の米ソ間では、どちらがチェスの世界チャンピオンを輩出できるかで争った時代もありました。
もっとも、これはソ連側が一方的に仕掛けた戦いで、アメリカは相手にしていなかった。
当然、ソビエト人が世界チャンピオンの時代が長く続きます。
アメリカ人ボビー・フィッシャーが「チェスの天才」だと言われ始めた時から、ホワイトハウスもこの競争に乗り出し、チェスは国家の威信をかけた代理戦争となります。
たかがゲーム、ではなく、チェスが国を動かした時代もあるのです。
ケンペレンが「チェスを指す人形」を作った時も、機械がチェスを指すというので大評判となったのです。
後にバベジも、実際にチェスを指す機械を構想しています。
これは、構想だけで複雑さに気付き、製作には至りませんでした。
チューリングも、チェスを指すプログラムを構想しています。
こちらも、アルゴリズムを考察しただけで、当時のコンピューターでは実現できませんでした。
コンピューターが作られ、進化し、ただの「計算機」ではなくなって、やっと最初の「人工知能」研究が始まります。
その題材の一つは、やはりチェスでした。
「人工知能」という言葉を作ったのも、その一環としてチェスを研究したのも、ジョン・マッカーシーです。
彼は教え子たちにチェスのプログラムの作成を示唆しますが、1960年ごろのコンピューターでは、まだ難しすぎました。
完成はさらにコンピューターが改良されてからになります。
カスパロフはソ連生まれで、22歳の時、史上最年少でチェスの世界チャンピオンになります(1985)。
そのあと、15年間チャンピオンの座を維持し続けます。
チェスをコンピューターに教える研究はソ連でも行われており…それどころか、アメリカよりもソ連の方が進んでいました。
カスパロフのチェスの師匠、ミハイル・ボトヴィニクはソ連におけるチェス研究の第1人者で、そのためにカスパロフもコンピューターチェスの研究を推進する立場でした。
1988年、アメリカのカーネギー・メロン大学で、カスパロフに勝利することを目的としたチェスプログラムが作られます。
それが、「ディープ・ソート」でした。
#名前は、不条理SFの金字塔である「銀河ヒッチハイクガイド」に出てくるスーパーコンピューターの名前に由来。
1990年、ディープ・ソートとカスパロフが初対戦します。
コンピューターチェスに理解があるカスパロフが世界チャンピオンだったからこそ実現できた、夢の一戦と言って良いでしょう。
でも、ディープ・ソートは大敗を喫します。
ところで、「ディープ・ソート」の名前の由来となった「銀河ヒッチハイクガイド」では、ディープ・ソートは自分を超えるコンピューターを自ら設計し、建造します。
そのコンピューターの名前は、ディープ・ブルー。
チェス・コンピューターのディープ・ソートは、その後関係者が IBM に迎え入れられ、IBM のプロジェクトに変わります。
IBM の企業イメージカラーは青。そして、プロジェクトが作る、チェス専用コンピューターの名前は「ディープ・ブルー」となります。
ディープ・ブルーは、1996年にカスパロフと対戦。この時は、6戦してカスパロフが3勝1敗2引き分けで勝利しています。
そして、翌 1997 年5月、再戦。6戦して勝ち越したほうが勝者、という勝負で、最後の対戦が11日でした。
それまでの戦績は、1勝1敗3引き分け。最終日を制した方が勝者です。
カスパロフは、チェスのプログラムの弱点を「創造性のなさ」であると見抜いていました。
長年コンピューターチェスと向き合ってきたうえでの結論です。
コンピューターは高速化し、人間よりも正確に先を読むようになりました。
しかし、「先」を読んだとしても、そこにまちうけているものの「意味」を読み取るのは、コンピューターは苦手です。
たとえば、ある手を打てば確実に相手のコマを取ることができ、自分は何の損もない。
この手は是非打つべきでしょう。
別の手を打つと、確実に自分のコマを失い、相手のコマを取ることはできない。
この手は避けるべきです。
でも、しばらく先を読んでも、そのどちらでもないことは往々にしてあり得ます。
そんな時、どのような局面に持っていくのが有利で、どのような局面が不利なのか。
これは、コンピューターの苦手とする形勢判断です。
一応、コマの位置関係などを元に点数を付けてあり、コンピューターは自分が有利になると思うように、「点数を取りに行く」ように動きます。
でも、チェスは非常に複雑なゲームで、簡単に点数化できるものではありません。
ここに、コンピューターの弱さがあります。
人間であれば、一見自分が不利に見える状況を罠として用意し、罠にかかったら一気に逆転させる、というような、点数だけでは解決しない戦略も準備できます。
ところが、1997年の対戦の早いうちに、ディープ・ブルーはそうした手を打ってきていました。
自らのコマを一つ犠牲にし、その後に続く自分の戦略をカムフラージュして、相手をミスリードさせる…
後から振り返った時、非常に洗練された手で、多くの専門家がコンピューターの繰り出した手とは思えない、と口をそろえていました。
これ、15年たってやっと技術者が明らかにしたところによれば、「バグだった」そうです。
パラメーターの調整に矛盾があり、どうして良いかわからなくなった時に、停止してしまうと「試合放棄」なので、とりあえずランダムに打てる手を打つようにしてあったそうです。
もちろん、そんな状況にならない方がいい。でも、この時はパラメーターに問題があり、その状態になってしまった。だから「バグ」です。
ランダムなのでおかしな打ち筋です。しかし、それが「後の手を隠すようにカムフラージュした」ように見えたわけです。
コンピューターに創造性はないはず。
そう確信するカスパロフは、もしかしたらディープ・ブルーは自分の知りえない、とんでもないコンピューターかもしれないと、心のどこかで思い始めていました。
そして、運命の6戦目。
カスパロフは、前日までの5回の対戦で、コンピューターの癖…どのような局面に、どのような点数付けが行われているかを大体読み切っていました。
先に上げた「洗練された1手」のようなものもありましたが、それ以外はやはりコンピューターらしい打ち筋です。
そこで、最終日は、罠を仕掛けます。コンピューターに明らかな「点数」をちらつかして、罠を仕掛けようというのです。
コンピューターには創造性はありません。美味すぎる話に「罠だ」と気づくこともなく、引っかかってくれるでしょう。
ところが、コンピューターがここで予想外の動きを見せます。
前日までの勝負で読み切ったと思っていた「点数付け」なら、当然動くであろう動きを見せないのです。
コンピューターはカスパロフの全く予想していなかった打ち筋で攻めてきました。
コンピューターに創造性は無いはず。なのに、なぜそれまでとは明らかに違う手を打ってきたのか?
カスパロフの心によぎった結論はただ一つ。
ついに、コンピューターは創造性を身に付けたのです。
普段は「コンピューターらしい」打ち筋でも、ここ1番という時にはとんでもない手を繰り出してくる!
実は、1997年の対戦では、ディープ・ブルーは、1戦終わるごとにパラメータを「微調整」されていました。
対戦後、戦いを振り返って悪かった手筋を見つけだし、その手筋に至った原因である「戦局の点数付け」パラメータを調整します。
コンピューターに創造性はありませんが、プログラマーには創造性があり、反省して修正することができたのです。
カスパロフは、コンピューターチェスのパラメータが、非常に微妙なバランスの上に成り立っていて、調整に長い時間が必要だと知っていました。
そして、それが故に「対戦期間の間、打ち筋が変わることは無い」と考えていました。
しかし、ディープ・ブルーは IBM が威信をかけて行っているプロジェクトでした。
調整したパラメータが適切かどうか、内部で自分同士で対戦を行うことで検証できましたし、チェスの専門家も同行していて、パラメータにどのような問題があるかを指摘することも出来ました。
このため、毎日パラメータを変更することが可能になっていたのです。
「洗練された1手」はバグでしたが、打ち筋が変わったのは、1晩でパラメータ変更を行えるチームワークがあったのです。
コンピューターが創造性を身に付け始めている!
これは、カスパロフにとって…コンピューターを良く知っているからこそ、驚愕の事実でした。
この事にカスパロフは恐れ、思考がまとまらなくなります。
そして、十分勝てる勝負を途中で打ち切り、敗北を宣言してしまうのです。
1997年 5月11日のことでした。
これにより、ディープ・ブルーの2勝1敗3引き分けとなり、ディープ・ブルーが「史上初めて、チェスチャンピオンに勝利したコンピューター」となります。
カスパロフは、後で「パラメーター調整が行われていた」事実を知り、再戦を申し込みます。
しかし、IBM はディープ・ブループロジェクトを解散。再戦は適いません。
IBM にとっては、これは「IBM コンピューターの優秀性」を示すデモンストレーションであり、目的を達成したらそれ以上お金をつぎ込む意味はなかったのです。
恐らく、もう1回戦っていたら、カスパロフが勝っていたでしょう。
心理的な混乱がなければ、十分勝てた勝負だったのですから、「種明かし」があれば負けなかったと思います。
しかし、歴史に「もしも」はありません。
すでに、コンピューターチェスの世界では、すでにコンピューターが人間を上回ったことになっています。
そして、より難しいゲームである、将棋や囲碁にターゲットが移っています。
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今日は、ツーゼが Z3 を発表した日(1941)。
コンラッド・ツーゼは(Zuse)はドイツの工学者。
建築と土木を学び、航空機の設計技師をやっていました。
ところが、この仕事ひたすら計算に次ぐ計算。
彼はこれが嫌になって、「自動的に計算を行う機械」の開発を始めます。
1号機である Z1 は 1938年完成。
歯車ではなく、カチャカチャと動く「機械式の」2進数計算機でした。
(金属製の薄い板で計算します。)
しかし、これは上手く動きません。
2号機である Z2 は、 軍の協力もあって 1939年に完成。
機械式ではなく、リレー回路を使った電気式に置き変えていますが、基本的に仕組みは Z1 と同じ。
2号機がうまく動いたため、商売化するために自分の会社を設立し、3号機 Z3 を作りはじめます。
Z2 と同じ方法で、もっと汎用性を高めた改良機でした。
これが完成し、発表されたのが、1941年の 5月12日。
ENIAC の5年前のことです。
Z3 は、パンチテープによって計算の手順を指示できました。
「プログラム可能」なのです。
ENIAC は、電気回路を繋げることでプログラムできましたが、いわゆる「ソフトウェア」のような柔軟なものではありませんでした。
じゃぁ、Z3 が柔軟だったのかと言えば…全然柔軟ではありません。
使える命令は、次の9種類。
・キーボードを読み取る
・結果を印字する
・メモリを読み取る
・メモリに書き込む
・足し算
・引き算
・掛け算
・割り算
・平方根
たったのこれだけ。
ちなみに、メモリアドレスは 6bit 。64個の「一時データ置場」を持っているだけです。
#データは特殊な浮動小数点表現で、符号 1ビット、指数部 7ビット、仮数部14ビットの 22ビットでした。
プログラムはパンチテープで指示されるので、ジャンプ命令はありません。
条件分岐は当然できませんし、そもそも「条件判断」自体がありません。
コンピューターとしては、Simon みたいな構成です。
Simon の方がずっと後ですが。
ただ、Simon よりは記憶容量も大きいし、掛け算や割り算があるだけずっと良いです。
#Simon は 5bit 整数の 足し算と引き算しかできなかった。
これを巧妙に使えば、現代でいうようなプログラム…ジャンプや条件分岐が必要なアルゴリズムも実行できる、と示した人がいます。
その前に、BASIC 時代に「論理演算」と呼ばれるテクニックがあったのをご存知でしょうか?
たとえば、
10 S=STICK(0);
20 IF S=1 THEN X=X+1
30 IF S=2 THEN X=X-1
というプログラムがあったとしましょう。
ジョイスティックからデータを読み込み、変数 X を増減しているのね。
IF 文で条件判断する、という非常に普通のプログラム。
これを論理演算で書くと、こうなります。
10 S=STICK(0)
20 X=X-(S=1)+(S=2)
行の最初の = は、代入式となります。変数 X に、右辺の値を入れる、という指示。
以降の = は、 IF 文の中と同じ、条件式です。
ところで、BASIC では、条件が真なら -1 、偽なら 0 となります。
#BASIC のメーカーによっては、真が 1 でした。
そのつもりで読むと、IF 文で書いたのと同じプログラムが、IF 文無しで書けているのがわかります。
Z3 で条件分岐を使うのは、これに類似のテクニックです。
メモリ上に、条件判断に使いたい値を巧妙に記録しておきます。
この際、その値は 0 か 1 になるように正規化しておきます。
あとは、条件分岐で飛ばしてしまいたかったプログラムの「結果」と、この数値を掛け合わせます。
0 なら結果は「無かったこと」になりますし、1 ならそのままです。
プログラムをジャンプで飛ばしたわけではないけど、実行後に「無かったことに」するのです。
これだと条件判断できるだけで、「ループ」はまだ作れません。
でも、ループはもっと簡単。
パンチテープにプログラムが書かれているのだから、物理的にテープを糊付けして、頭とお尻をくっつければいい。
これで、永久ループの完成です。
…永久ループだから、プログラムが終了しませんね。
Simon と似ていると書きましたが、Simon を与えられたサザーランド兄弟は、Simon に「条件停止」機能を追加しました。
これにより、Simon では不可能だった「割り算」がプログラムできるようになりました。
プログラムでは、条件が整うまで繰り返す、ということがよくあります。
「条件が整った」時に停止するのは、プログラムに必要な機能なのです。
Z3 には、実は「条件停止」が最初から備わっていました。
割り算命令で、0 による除算を行うと、エラーとなって機械が停止します。
先に書いたように、メモリに巧妙に値を置くことで条件分岐とほぼ同じ結果を得られました。
同じように、値が 0 になったら停止する、というプログラムを作れることになります。
さて、これで Z3 が「現代のコンピューターと同じようにプログラムができた」ことを示すことができました。
素晴らしい!
もちろん、これは詭弁だと思います。
僕としては、これを現代的な意味での「コンピューター」だとは認めません。
しかし、2進法の採用やプログラム能力など、これをもって「Z3 は ENIAC よりも先に作られた、ENIAC よりも近代的なコンピューターだった」という主張をする人は、事実としているのね。
というわけで、簡単な反証を。
1942年の ABC マシンは、完成しませんでしたしプログラムできませんでしたが、2進数を使用していました。
1943年に作られたコロッサスは、長年軍事機密のために存在が隠されていましたが、ある程度のプログラム機能があったことがわかっています。
2進数を使う真空管式の計算機でした。
1944年には、Harvard mark I というリレー式計算機が作られています。
これは Z3 と似たような構成で、紙テープでプログラム可能でした。
Z3 をコンピューターと認めるのであれば、これらも ENIAC 以前の、ENIAC よりも近代的なコンピューターとして認めなくてはなりません。
でも、そんなことを言いだす人はいないのね。
明らかに能力不足だからです。
Z3 は、コンピューターの発展に大きく影響する、イギリス・アメリカ以外の国で作られたコンピューターです。
だからこそ、ツーゼはほぼ独学で Z3 を作り上げていますし、Z3 の存在は現代のコンピューターに、ほぼ何の影響も与えていません。
ここら辺の話が…独学で優れたものを作りながら、誰にも認められていないというのが、人情話として面白いのは事実なのね。
しかも、Z3 は戦火の中で破壊されています。
「可哀想な話」をさらに加速するエピソード。
これらが、Z3 を特別扱いさせ、「世界初のコンピューターだった」という伝説を生んでいるように思います。
じゃぁ、Z3 はどうでもいい機械だったかと言えば、もちろんそんなことはありません。
非常に限られた能力だったとはいえ、プログラム可能な機械として完成した、世界最初のものです。
#構想だけなら「解析機関」以降、数多くありました。
先に書いたように、Z3 は第2次世界大戦中に破壊されてしまいますが、ツーゼは続いて Z4 を作成。
これは市販され、ヨーロッパでは影響を持つマシンとなりました。
ただ、「市販されたコンピューター」としては、BINAC に次いで2番目。
また、Z4 は相変わらずリレー式だったため、ENIAC 以降としてはインパクトも弱い。
ここら辺で、Z4 は Z3 ほど「面白いエピソード」が無い。
これも、Z3 が本来の能力以上に伝説的にされる要因かと思います。
戦後は、コンピューターはアメリカとイギリスが競争するように発展していきました。
Z4 以降もツーゼはコンピューターや周辺機器を作り続けているのですが、「時代に影響を与えたか」と言えば、あまり影響はなかったように思います。
Z3 は 1941 年完成で、ドイツとアメリカ・イギリスは敵国同士です。
これも、影響が少ない理由でしょう。
#噂程度の影響は与えたかも知れません。
参考:Simulating Konrad Zuse's Computers
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別年同日の日記
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今日は、ジョージ・ルーカスの誕生日(1944)。
超有名映画監督ですね。スターウォーズが代表作。
スピルバーグ(激突!、ジョーズで注目され、未知との遭遇、ジュラシック・パークなどのヒットがある)ともよく混同されるけど、インディー・ジョーンズなんかは二人とも仲良くかかわってる。
お互い混同されないようにしよう、と一緒にインタビューされたときにわざと同じような格好をして言うのもネタのうち。
さて、僕のページで取り上げるのだから、映画監督としてではなく、コンピューター関連の人として紹介します。
ルーカスはテレビゲームも大好きで、ルーカスフィルム・ゲームズというゲーム作成会社を持っていたのね。
#後に複雑な経緯を辿って「ルーカスアーツ」になり、現在ディズニー・インタラクティブに吸収合併。
アメリカでは、たくさんのゲームを出していて、大ヒット作もある。
でも、残念ながら日本人好みする作品は少なくて、国内ではそれほど発売されていなかった。
このルーカス・フィルム・ゲームズ、1982年の5月に設立されていますが、日付が残念ながら不明。
「今日は何の日」で扱えないので、日付も近いルーカスの誕生日に書かせてもらう次第です。
以下は、僕が覚えている物のみ紹介します。
ファミコン版が出ていて、結構好きでした。
今見ると、移植元に比べて動き悪いね。
これ、意味わからん、クソゲー、っていう人と、面白かったという人で意見が分かれる。
ゲーム内容は、サッカーに似た球技です。
ただ、近未来だという設定になっていて、乗り物に乗って1対1で戦う。
乗り物は高速で動くので、サッカーなのに1対1でもなんとかなる。
ゲーム画面も、当時としては非常に珍しかった、3Dの上下分割。
…この時点で、理解できない人には付いてこれない。
「珍しい3D」なのに、「高速で動く」のですから。
しかも、この視点で球技って、今でもあまり見ない。
3Dだけど、上ボタンを押していれば「目的地に向かう」ようになっています。
ボールを持っていなければボールに近づき、ボールを持っていればゴールラインに向かう。
方向転換は自動。
左右で横にスライド移動できるけど、ボールにより早く近づいたり、相手にフェイントかけるのに有効。
バスケットボールみたいに、ゴールにシュートした位置で得点が変わります。
遠くからシュートすると3点だけど、ゴールは常に動いているので、外れることも多くなる。
基本的に、友達と対戦するためのゲームです。
友達相手だと、フェイントかけたり、心理戦が重要になってくる。
上押していれば目的地に突進するゲームなので、フェイントも利かないコンピューター相手にやっていても面白くない。
アドベンチャーゲームです。
こちらもファミコンに移植されていました。
安くなっていたのを買ったのだけど…難しすぎて解けなかった。
ルーカスフィルムは本来映画会社ですから、映画的な演出を狙った内容でも、アメリカでは大ヒット。
後に続編も作られていますし、今でもこのゲームが好きだ、というファンが多数いるようです。
アドベンチャーゲームと言えば、絵が表示されてコマンドをキーボードから入力して…という時代に、このゲームではカーソルを使って、コマンドと「場所」を指定する方式です。
指定されると、実際に画面上をキャラクターが動いて、指示されたことをやろうとします。
ここら辺の演出が「映画風」だったわけです。
#細かな見た目の問題だけでなく、ストーリーの作り方なども映画風だったわけですが。
使用できるキャラクターがやたらと多く、その中の2人を選んでゲームを開始するのですが、それぞれ得意なことなどが設定されていて、出来ることが違う。
それでも、できることを組み合わせてキャラに合わせた展開で先に進まないといけないようになっていて、どのキャラでもちゃんとゲームを終えられるようになっている…らしいです。
(僕は最後まで行けなかったから、詳しくは知らない)
これは多分国内移植されてないよね?
僕も遊んだことありませんが、かなり話題になって、当時いくつかのテレビ番組やゲーム雑誌で紹介されていました。
「フラクタラス」という惑星に残された友軍兵士を助け出すために、敵の攻撃をかいくぐりながら惑星に降下しなくてはならない…という内容。
基本的には、コックピット視線の3Dフライト・シューティングです。
レーダーに友軍兵士の位置が映るので、その近くに着陸すれば、兵士はこちらに向かってくる。
…ただし、異星人が偽装している場合もあります。
敵だとわかったら射殺。味方と確認すればエアロックオープン。緊張感があります。
移動中も、敵兵から撃たれるのをかわしながらこちらからも攻撃したり、割と忙しい。
惑星全体が山岳地域となっていて、飛んでいても山を避けないとならないし、敵も周囲のどこに潜んでいるかわからない。
このゲームがすごいのは、惑星上空を自由に飛び回れることです。
自由に飛んで、地形はどこまでも続いているし、近づいてもそれらしい山の稜線が設定されている。
この地形を、当時の 64Kbyte しかメモリ空間のない 8bit 機で表現しているわけです。
実のところ、地形はランダムだったようです。
フラクタル理論を応用して山を作ってあり、近づいて詳細が見えてくると、リアルタイムに詳細部分を生成する。
フラクタルだからこそ、できる芸当。
オンライン上の架空の街で架空の生活を楽しむゲームです。…ゲーム?
ハビタットは壮大な実験で、これがゲームだったかどうかすらわかりません。
見た目の上では、マニアックマンションとシステムが似ています。
何をするか指示をすれば、キャラクターが動き回る。
ただ、アドベンチャーゲームのような既存のシナリオは無く、同時に複数のプレイヤーが同じ世界を遊んでいます。
プレイヤー同士は会話も可能です。
持ち物を交換することも出来るので、お金を渡して品物を受け取ることも可能。
武器もありましたので、殺人も可能。
殺された人は自分の家から再スタートしますが、持ち物は殺された現場に残ります。
自分の家を持つことも出来ました。
ハビタット内での殺人が横行した時は、現実世界での神父さんが教会を建て、「武器を捨て、穏やかに生きる」信者が沢山集まったそうです。
今ではこういうシステムも珍しくありませんが、おそらくは、その最初のシステム。
ただ、当時はインターネットは普及しておらず、電話回線で遊びました。
電話代もかかるし、それとは別にハビタット自体が時間課金。
ゲームの世界に入り浸ってものすごいお金をつぎ込んでしまう人など、現在の問題も先取りして、たった2年間の実験を終了します。
一番の問題は、自由すぎてこの世界で暮らすユーザーの「常識」が成立しなかったこと。
たかがゲームだ、と考えるユーザーは殺人を楽しむし、架空とはいえ生活だと考えるユーザーには、これが我慢ならない。
アンケートを取っても五分五分で意見が真っ二つだったそうです。
その後、富士通がこのシステムを買い取って日本版なども提供しましたが、自由すぎるがゆえの問題と、お金がかかりすぎる問題はそのまま、こちらも短期間で終了。
以上、他にもいっぱいゲーム出してました。
富士通の FM-Towns は海外ゲームの移植が多くて、移植されたものもあったはず。
「アイドロン」は、レスキュー・オン・フラクタラスのシステムを、洞窟探検のファンタジーアドベンチャーに応用したもの。
「マニアックマンション」以降のアドベンチャーゲームシリーズは定評が高く、長く続きました。
モンキーアイランドはメガドライブ(メガCD)でも日本語版出てました。
最初に書いた通り、現在はディズニーに吸収合併されています。
既にディズニーからスターウォーズのゲームなどが発売されていますが、過去のシリーズの続編が出るかなどは不明。
#親会社であるルーカスフィルム自体が合併され、映画スターウォーズの新作などはディズニーが作成予定。
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ルーカス絡みで、思い出したのでもう一つ話題を書いておきましょう。
こちらは、記憶のみで資料が無い。昔、雑誌の「ログイン」に載っていた記事の記憶なのだけど。
ルーカスは、スターウォーズの第1作目(エピソード4)を撮影したときに、ものすごい手間をかけて画像合成を行い、宇宙空間を表現しました。
こうした「特殊効果」を行うための会社まで設立します。それが、インダストリアル・ライト・アンド・マジック。(ILM: 光と魔法の工房、という意味)
さて、この ILM が、コンピューターを使った画像合成を行おうと考えました。
たしか、エピソード6で使われたのではなかったかな。
エピソード6の公開年は 1983年。
同年発売の PC-8801 を例にとると、パソコンでは 640x200ドット、8色程度がせいぜいの時代です。
この時代に、映画館で見ても違和感ないほどのドット数(横2千ドットくらい?)で、色数も24bit カラーの機械を作ってしまったのです。
この機械、当時としては「コンピューター」としてログインに紹介されていました。
ただ、演算能力は無くて、画面表示ができただけだそうです。
つまり、いまでいえば「グラフィックボード」に近いものですね。
当時の技術では、ボード1枚になんて収まらず、パソコンですらなく、ミニコンピューターレベルのサイズなのですが。
どうやら、この機械を別のコンピューターに接続し、画像合成などを行ったらしいのです。
今で言えば Photoshop みたいなものなんでしょう。明らかに時代の先取りでした。
コンピューターの画面表示で、最小単位の1ドットのことを「画素」と呼びます。
英語では Pixel 。Picture と、 Cell (小さく区切られたもの)から作られた造語です。
そして、とんでもないほど高精細な Pixel を表示できるこの機械、名前を Pixer 1 と言いました。
「画素化1号」とでも訳せば良いでしょうか。
ILM は、わざわざルーカスフィルムとは別会社として作られ、ルーカス以外にもいろいろな会社の「画像処理」作業を行っていました。
当然、このグラフィックコンピューターもそうした作業に使われたと思われます。
当時としては、先進的過ぎる、魔法のような機械だったと思います。
後に、どうやら Pixer 2 が作られたようです。
(もしかしたら、P-II が正式名かもしれません。ネット上に P-II という記述があったので)
ILM からさらに Pixer Image Computer という会社が設立され、Pixer 2 を量産販売し始めます。
主な顧客は、政府機関や医療関連、映画会社など。ディズニーも顧客だったようです。
…ところが、この戦略が失敗。
このコンピューターは先進的過ぎましたし、他の機械から操作する「出力機械」でしかありません。
全体をそろえようとすると、あまりにも高価だったうえ、それを適切に扱うソフトウェアもなかったのです。
ここで、Pixer 社はルーカスフィルムのグループから離脱することになります。
お金を出して買い取ったのは、当時 NeXT 社のスティーブ・ジョブズ。
コンピューターの販売は辞め、名前をピクサー・アニメーションスタジオに変更して、アニメを作りはじめます。
最初は、非常に簡単なアニメから。
それでも、「全編をコンピューターで作ったショートムービー」は非常に新しいものでした。
やがてレイトレーシングを使い、人間を登場させ…表現力を高めていき、長編アニメ「トイストーリー」で、商業的にも成功をおさめます。
あとは、多くの人が知っている通り。
ピクサーは、ルーカスのグループ企業から始まりましたが、一足先にディズニーの傘下に入っています。
その後、ルーカスフィルムもディズニー傘下に入ったのは、先に書いた通りです。
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今日は…
ロバート・ノイスの命日(1990)。
ジョン・エッカートの命日(1995)。
ノイスは、シリコンバレーの市長、と呼ばれた人です。
あ、シリコンバレーって、地域の通称で市ではないし、正式な地名ですらないからね。
世界初の IC を開発したフェアチャイルド社と、インテル社を創業した人でもあります。
詳しくは誕生日に書いた記事を読んでね。
ジョン・エッカートは、最初のコンピューターとされる ENIAC の回路設計をした人です。
その後、UNIVAC I も設計し、コンピューター時代を切り拓きました。
こちらも、詳しくは誕生日に書いた記事を読んでね。
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…らしいです。公式見解としては。
以前にセガの設立までの歴史を調べていますが、1960年が設立というのは、どうも中途半端に感じてしまう。
ただ、現在のセガの登記上は、1960年に「日本娯楽物産」として行われているようです。
それ以前に「サービス・ゲームズ・ジャパン」としての会社があるはずなのですが、分社したのはどうもケンカ別れのようなので、どちらかが「跡を継ぐ」のではなく、古い会社は解散して別々の会社を設立した形を取ったのかもしれません。
もしくは、「サービス・ゲームズ・ジャパン」は違法な賭博機器を扱っていた会社でもあるので、公的な届を出していなかったか。
今となっては調べることもできないと思いますが、現存している会社の登記の最初が1960年の6月3日である、ということなのでしょう。
というわけで、日付としては中途半端だなー、と思いながら、公式見解のようなのでここに記しておきます。
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今日は、トーマス・J・ワトソンの命日(1956)。
IBM の初代社長です。起業した人かというとちょっと違うのだけど。
ちなみに、2代目社長となるトーマス・J・ワトソンはこの人の子供。
わー、なんだそれ。子供に自分と同じ名前付けるな。
ややこしいので、一般に父親は「シニア」または「ワトソン」、子供は「ジュニア」または「トム」(トーマスの愛称)と呼ばれます。
#日本では名前はややこしくないようにするものだけど、欧米では親の名前を「受け継がせる」のもごく普通。
先日から、ハーバード・マーク1と IBM SSEC の話を書いてきました。
どちらも、IBM 公式には「自動計算機」ですが、それらはシニアの時代に作られています。
一方、IBM 701以降の「コンピューター」は、ジュニアに社長交代してから。
公式にどう呼ぶか、というだけの問題で、SSEC が事実上コンピューターと呼んでも差支えが無い機械であることは、SSEC の話題として書いています。
シニアの生涯…を語ったところで、Wikipedia と似たような記述になってしまうので、詳細を知りたい人はそっちを見てください。
英語記事の忠実な翻訳のようなので、それなりの信頼性はありそうですが、検証したわけではないので保証はしません。
ざっくりとだけまとめておきます。
田舎者だったシニアは、成人しても良い職に就けずに転職を繰り返します。
でも、やっと得たミシンのセールスマン(当時はミシンは高価で実入りの良い商品だった)の職を、酒の失敗でクビに。
さらに、この失敗が知れ渡り、どこも雇ってくれなくなります。
仕方なく自営の肉屋を始めますが、これも失敗。
商店を始めるために分割で購入したレジスター…当時としては最新の「計算機」…を処分するために販売元の NCR を訪れ、とにかく職も金もなく支払いが続けられないことを相談したことから、NCR に入社します。
ここで…ライバル社の機械を使っている店に行って、こっそり「破壊する」という汚い方法を使い、売り上げを伸ばします。
これでシニアの地位は上がり、中古レジスターの販売会社を任されると、そこでも「ダンピング販売してライバル店を潰す」という汚い方法を使い、トップシェアを奪います。
ただ、行き過ぎた販売行為に 1912年に独占禁止法で起訴され、一度は有罪判決に。
(これは、アメリカで初めての、独占禁止法による企業起訴でした)
シニアは上告し、様々な主張を行います。
政府は、控訴審の手間を惜しみ諦めます。これで無罪に。
NCR をトップシェア企業にし、訴えられたとはいっても結果は「無罪」となったシニアは、CTR 社に好待遇で迎え入れられます。
CTR は「コンピューティング・タビュレーティング・レコーディング」の意味で、パンチカード集計機の始祖である、タビュレーティング・マシーンズ社を元とした企業です。
さらに CTR 社で社長となったシニアは、社名を「インターナショナル・ビジネス・マシーン」社に改名。
これが IBM の名前の由来となります。
大会社のトップとなったシニアは、もう以前のような荒くれ者ではありませんでした。
汚い方法を使うようなことはありません。
IBM は、CTR の頃と同じようにパンチカード集計機を商売の中心としています。
ただし、ただ「販売」して終わるのではなく、その機械を商売の中でどのように使用し、どのように利益を出していくか、コンサルタントのような業務も行いました。
機械を販売するのではなく、機械を使って業務を改善する「サービス」を販売する。
そのサービスを買って良かった、と思えるほどの利益を出して見せる。損したとは言わせない。
そのためには、サービスを行う従業員を大切にしなくてはならないし、従業員はお客様の利益を第一に考えなくてはならない。
この頃に彼が掲げた IBM の標語「Think」は、お客様のために従業員の一人一人が何を出来るか考えよ、という意味です。
とにかく、シニアは従業員を家族のように大切にしたようです。
自身が若いころに酒で大失敗していたため、社員にも細かな飲酒規則を定めたようです。
これも、彼なりに社員を思っていたのでしょう。ジュニアはこれに懐疑的だったようですが。
多くの社員が協力した IBM ASCC が…勝手に「ハーバード・マーク1」と名前を変えられ、IBM の協力があったことを一切語られなかったことに激高した、というのも理解できます。
ASCC の雪辱を晴らすべく SSEC を作った時に、これを「コンピューター」と呼ばなかったのも、当時「コンピューター」は IBM の社員の肩書だったためでしょう。
社員が誇りをもって行っている仕事を、決して機械なんかに奪わせたりはしない。社員を大切にする、という意思の表れのように思います。
こちらも、想いは立派でも当時の世相としては、IBM を時代遅れにしかねない考えだったため、ジュニアに代替わりしたらすぐに IBM 701 「コンピューター」を発表しています。
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別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
今日は IBM 産業スパイ事件の発覚した日(1982)。
日本のコンピューター業界を震撼させた事件でした。
今となっては日立と三菱がスパイをやった、という程度の、企業が行き過ぎただけの話だと思われているけど、これ「国策」の一環が暴走したのです。
日本のコンピューター開発は…どこまででも遡れますが、FACOM 100 の話から始めましょう。
富士通の池田敏雄が設計し、1954年に完成したコンピューターで、リレー式でした。
名前は似ていますが別会社の富士写真フィルムは、1956年に FUJIC を完成します。
これが、日本で最初の真空管式コンピューターでした。
技術者であった岡崎文次が、レンズの設計のために独自で開発したもので、会社としての関与はありません。
IBM の SSEC の影響を受けています。
1959年には、東京大学が中心となり、東芝・日立が協力し、TAC が完成します。
実は、FUJIC よりも先に開発が開始された、国の予算をつぎ込んだ国家プロジェクトでしたが、目標が野心的過ぎ難航、何度も設計変更を繰り返しています。
その影響もあり、完成した時にはすでに時代遅れでした。
こちらは EDSAC の影響を受けています。
1964年には、通産省の予算で富士通・沖電気・日本電気が共同で FONTAC を作成。
この頃から、各社が「コンピューターの作り方」を理解し、独自開発を開始します。
日立の HITAC、富士通の FACOM、日本電気の NEAC、東芝の TOSBAC 、三菱の MELCOM、沖電気の OKIMINTAC…
通産省は、この状況に危機感を持ちます。
コンピューターは、これから確実に産業の中心となる、というのは誰の目にも明らかでした。
1970年代初頭、IBMが巨大メーカーに成長しつつありました。
日本国内だけで6社も互換性のないコンピューターが乱立していては、これらの大企業に潰されてしまいます。
そこで、通産省では、「国内で、IBMに対抗できるコンピューターを育てる」ための対策を行います。
方法は3つ。
1) IBMと技術提携を行わない、IBM互換機路線
2) IBMに対抗できる大企業の互換機路線
3) 日本独自路線
2 の大企業とは、事実上ハネウェル社です。
1960年代、アメリカには8つのコンピューターメーカーがあり、「IBM と7人の小人」と呼ばれていました。
ハネウェルはその一つでありながら、1970年に MULTICS の技術を持つGE社と合併し、力を伸ばしていました。
通産省の指導の元、国内の各社は上のいずれかの道を選び、提携することが求められました。
まず、富士通と日立はすでにIBM互換機を作成していたため、互換路線を選びました。
日本電気はすでにハネウェルと提携していました。
東芝も、すでにGEと提携していましたが、GEがハネウェルに吸収合併されました。
そこで、日本電気と東芝も提携し、ハネウェル互換路線を選びます。
三菱・沖電気は「取り残された」形で提携し、独自路線を歩むことになりました。
さて、時間を一気に進め、産業スパイ事件の話へ。
富士通と日立は提携し、技術的な交流は図りつつもお互い独自に、IBM System/370 の互換機を作成していました。
これ、互換性を持つ機械を独自技術で作成している、という形で、IBM との技術提携はありません。
ただし、IBM で System/360 (370の旧世代機)を設計した技術者で、後に独立したジーン・アムダールの会社と富士通は提携し、技術的ノウハウを得ていました。
1981年、IBM はこうした「互換機」が世界中で増えていたため、設計を一部変更して、性能を上げるとともに互換機を作りにくくした、System/370-XA を発表します。
日立はこの「設計変更」の詳細を入手しようとして、IBM のおとり捜査に引っかかり、1982年の今日、社員5名が逮捕されます。
#この時、日立社員5人と共に、三菱社員1名も逮捕されています。
三菱は当初は「独自路線」グループでしたが、この頃には余りに強くなった IBM の互換機を作ろうとしていました。
この刑事事件は、司法取引により決着。しかし、IBM から、民事損害賠償訴訟を起こされます。
System/370-XA は、各種回路が特許で守られていたうえ、それまでは後から読み込まれるソフトウェアであった「OS」の一部を、ハードウェア内に持つようになっていました。
(現在でいう、BIOS に相当するもの)
System/360 や 370 の頃は、同等の機能の回路で置き換えも可能でしたが、370-XA の特許は強力で、簡単には回避できません。
また、BIOS に関しては単純な回路ではなく、プログラム…著作物です。
著作権の場合「類似したもの」を作ったとしても、盗作としてアウトです。
#少なくとも、この時点では IBM はそのような認識で動いていた。
ずっと後に、IBM・コンパックが BIOS の著作権を争い、現在は違う認識となっている。
結局、日立は IBM の許可を得ずに機械を販売しないこと、訴訟費用は全部日立が負担すること、ソフトウェアやインターフェイスなどに関して、使用する対価を払うこと…などを条件に和解します。
日立からすれば、IBM 互換路線に「お墨付き」を貰った格好で、この後も互換路線を進みます。
富士通も日立の訴訟に危機感を持ち、同様の取引を結びますが、徐々に IBM 互換路線から非互換路線にシフト。
いずれにしても、通産省の狙った「独自技術による互換」という路線は無くなってしまったことになります。
この頃は、IBM が強くなりすぎてハネウェル社もコンピューターから事実上の撤退。
特に、吸収合併したGEの互換機は消滅し、GE互換だった東芝も撤退、同じグループだった日本電気にコンピューター部門を売却しています。
独自路線だった三菱・沖も、先に書いたように三菱がIBM互換路線に進もうとして、スパイ事件に発展。
沖電気は、コンピューター本体は断念して、周辺機器製造に特化しています。
国策だった3グループ化は大失敗。日本のコンピューター産業は死んでしまう…。
「IBM産業スパイ事件」とは、そうした危機的な状況を意味する事件だったのです。
翌1983年、日本電気がスーパーコンピューターの新シリーズ、SX-2 を発表します。
(シリーズ最初の機種が 2 で、後に廉価版の 1 を発売)
この SX-2 は、世界で初めて GFLOPS を超えたコンピューターで、同時に初めてアメリカ以外のコンピューターが速度で世界一になった機械でした。
日本のコンピューター産業復活の狼煙、でした。
…この後、急に力を付ける日本のコンピューター業界にアメリカが危機感を感じ、1980年代後半から90年代前半の貿易摩擦につながっていきます。
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今日はバーコードが初めて使われた日(1974)。
バーコードが作られるまでの長い歴史と、その仕組みは過去に書いています。
ちなみに、基本アイディアの発明者は学生だったけど後に IBM に入社し、特許を IBM に売却しています。
IBM はさらに RCA 社に特許転売。特許の中で、読み取り装置にどうしても RCA 社の部品が必要だったためです。
RCA 社は特許活用を狙いますが、特許で出されていたアイディアそのままではうまく使えませんでした。
ふたたび、特許出願者も参加して(つまり、IBM も参加して)実用にすべく改良がおこなわれます。
結果として、現在の「バーコード」を考案したのは IBM です。
もちろん、最初の読み取り機付レジスター…POS 端末、と後に呼ばれることになるものも、IBM 製。
で、今日はその「バーコードシステム」が初めて市場で使用されるようになった日。
バーコードを使用する第1号店は、オハイオ州のスーパーマーケットでした。
最初に購入されたのは、「10パック入りフルーツガム」。購入時刻は朝8時1分でした。
このガムは、購入時のレシートと共にスミソニアン博物館で保管展示されています。
この少し前から、食品業界は「バーコード」を正式採用し、いくつかのメーカーではバーコードを商品パッケージに直接印刷していました。
10パック入りフルーツガムも、そうしたバーコード印刷済み商品の一つ。
でも、まだ印刷されたない商品も数多くあります。
そんな商品には、1枚づつシールにコードを印刷して店員が貼っておく必要があります。
バーコードは、元々こうした「簡易印刷機」で扱いやすいように工夫されたコードでした。
元々線で構成されていますから、用紙が「引っ張られる」方向に線を引いておけば、多少滲んだとしても線の幅は変わらないのです。
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ニコラ・テスラ…名前は有名なのですが、何をした人かさっぱりわからん、という人も多いでしょう。
え? それ以前に名前も知らなかった?
電気自動車会社で有名なテスラ・モーターズとか、磁石の強さ(磁束密度)の単位「テスラ」とかに名前を残すのですが…
テスラ・モーターズは名前を貰っただけで関係ないし、磁石の強さの単位としては、一般的に「ガウス」が用いられます。
(10ガウス=1ミリテスラ)
この人、すごい発明しているのに不遇なのです。
まず、交流電流。これが彼の最大の発明。
交流発電機で電気を起こし、変圧器を使って送電し、交流モーターを動かせます。
また、交流は放電に向いているので、蛍光灯を点けることができます。
彼の発電機はナイヤガラの滝に設置され、発電を行いました。
電気関連の発明では、エジソンが有名。
エジソンは、直流を使っていました。
でも、交流発電機の方が構造が簡単でエネルギー効率も良い。
交流の方が変圧も簡単。変圧することで送電時のエネルギーロスも減らせるし、モーターも交流の方が効率が良い。
そして何よりも、交流から直流を作り出すのは簡単だけど、直流から交流にするのは大変。
交流の方がいいことばかりなので、現在世界中で交流が使用されています。
実は、テスラはエジソンに憧れていて、エジソンの作った会社に入社しました。
そこで研究を行い、交流の方が優れていることを見つけたのです。
しかし、エジソンは直流にこだわりました。
直流の電気回路は小学校の理科でも学ぶくらい、単純なものです。しかし、交流はいろいろとややこしい。
エジソンは優れた発明家でしたが、学はありませんでした。小学校中退、というのはあまりに有名なエピソードです。
交流回路を正しく理解するには、刻々と変わる電圧を把握するため、微積分の知識が必要になります。
どうも、学のないエジソンにはこれが理解できなかった。
交流の方が良い、と強く主張するテスラを、会社から追い出しています。
テスラは自分の会社を興し、交流送信網を構築しようとします。
しかし、エジソンはこれを執拗に妨害します。
エジソンは当時から大発明家・実業家として知られていました。
一方、テスラは今でこそ評価が高いのですが、当時は無名です。勝負は見えていました。
エジソンの発明品の中に、電気椅子があります。
実は、これは交流の普及を防止するためのもの。
死刑囚に高電力の交流電流を流すと死ぬ、ということを見せつけ、交流を「危険でとても使い物にならないもの」だと印象付ける作戦でした。
実のところ、問題は「高電力である」ことで、交流かどうかはあまり関係ありません。
テスラもそれはわかっていて、エジソンの主張を逆手にとって「交流電流を人体に通してもなんともない」というショーを行ったそうです。
テスラの名前をもっとも有名にしている発明と言えば、テスラコイルでしょう。
…すみません。僕、電気回路詳しくないのでよくわかりません。
以下、間違えているかもしれないので鵜呑みにせぬようお願いします。
テスラコイルは、変圧器の一種です。
変圧器というのは、電圧を変えるための仕組み。先に少し書きましたが、交流は電圧を簡単に変えることができます。
テスラコイルは、超高圧・高周波電流を作り出します。電圧が上がる代わりに電流は少なくなるため、危険性はそれほどありません。
しかし、あまりに高圧・高周波になるため、激しい放電を起こすのが特徴です。
というか、テスラコイルの真の目的は変圧にあるのではなく、「放電」というパフォーマンスを見るためにあるように思います。
電線がぐるぐる巻きにされた武骨な鉄塔から、激しく青白い電気を放つ姿は…マッドサイエンティストのイメージそのものです。
というか、それは因果関係が逆。
あまりに異様なその姿から、テスラコイルは、映画などに登場する「マッドサイエンティスト」必携の道具となっているのです。
現代人である我々は、そのイメージでテスラコイルを見てしまうため、マッドサイエンティストに感じる、というわけ。
さて、先に「人体に交流電流を通すショーを行った」と書きました。
どうも、このテスラ・コイルを応用したものだったようです。
変圧器で電圧を挙げると、その分電流が減ります。
(電力)=(電圧)×(電流)
となっていて、電力は常に変わらないのです。
ところで、電圧が高ければ、遠くまで電気が届きます。
また、「高周波」になると、導体…電気を流す経路の「表面付近」にのみ電流が流れるようになります。
つまり、テスラコイルで昇圧した電気を体に流すと、身体の表面だけを電気が通ります。
元々電流は小さいですし、心臓などの電気に弱いところを電気が通らないのですから、問題は出ません。
テスラはこれらの現象をちゃんと研究したうえで、高電圧・定電流の電気を自分の体に通して、ショーを行いました。
このショーで使われたのが、彼が改良した「蛍光灯」です。
実は、特定のガスの中に電気を放電すると輝く、というネオン管の原理はすでに知られていました。
「放電」ですから、テスラコイルの電流と相性はいいです。
テスラは、これを改良し、さらに輝くようにしてショーに利用したようです。
ところで、蛍光灯は、実はわずかな電気で輝きます。
冬、セーターを脱ぐ際の静電気で点灯できるくらい。
エジソンの作った電球を点灯するのであれば、人間の体を通した電気で…というのは難しかったかもしれません。
でも、蛍光灯ならできました。テスラはそれをショーに利用したのです。
彼の蛍光灯は、1893年のシカゴ万博でも展示されています。
#現在の蛍光灯は、紫外線を発生させて、管の表面に塗った蛍光物質を光らせています。
しかし、彼がショーで使用した蛍光管は、どうもネオン管に近いものみたい。
蛍光灯、と言ってよいかわかりませんが、一応蛍光灯の元祖ということにされているようです。
#なお、この時、可視光線だけではなく「透過性のある謎の光線」も同時に出ていることに気付き、研究を行っています。
後にレントゲンが発見する「X線」なのですが、テスラはこの時は存在に気付いたものの、有用性に気付かなかった様子。
1888年にドイツのヘルツが「電波」を発見し、離れたところに信号を送れることを示しました。
ただし、この時点での伝送距離は、ほんの数メートルです。
テスラも電波送信に興味を持ち、1901年に大きな電波塔を建て、実験を開始しています。
電波は、交流電流の一種です。
交流であれば、テスラのお手のものでした。
…が、実験は失敗します。
当時は、周波数が低いほうが遠方への伝送に適している、と言われていました。
(現在、この知識は間違っていることがわかっています)
テスラもそれに倣ったのでしょう、非常に低い周波数を利用したのですが、現代から見るとこれは誤りだったのです。
そうしているうちに、イタリアのマルコーニが、無線の遠距離通信に成功します。
テスラはこれを悔しがり、マルコーニの手法の中でテスラの特許が多数使用されているのを見て、特許料の支払いを求めて裁判を起こしています。
さて、伝記としては、大体以上…だと思います。
ところでテスラさん、発明家である以上に「研究者」で、非常に多岐にわたる科学研究をしています。
頭もかなり良かったご様子。
でも、同程度の学力を持っていないと相手に意図が伝わらない、という経験は、痛いほどしたみたい。
なによりも、憧れていたエジソンが数学などを全く理解していなかったのが、かなりショックだった様子。
その後の言動では、深い理論を言わないと理解してもらえ無さそうな話や、彼自身にもよくわからない話になると、たとえ話で相手を煙に巻いて終わることが多いようです。
たとえば、「宇宙人と交信してる」とか、「地球も破壊できる」とか言ったらしいのね。
宇宙人との交信は、電波通信の実験の前段階として、宇宙線(宇宙からくる電波)の受信研究があったため。
当時は、宇宙線は存在も明らかになっていませんでした。(発見は 1912年で、テスラが研究していたのは 1897年ごろ)
宇宙からくる謎の電波を説明するのに「宇宙人と交信している」以上に適した言葉があるでしょうか?
「地球を破壊する」は、高周波の振動を与えると大きなものでも瓦解する、という実験から。
構造の全体を高周波で揺らすと、各部にきしみが生じて、大きな力を与えなくてもやがて瓦解します。
超音波を利用した汚れ落としなどはこの応用。
地球全体に高周波を与えられるかどうかは別問題として、同じ原理で「地球でも破壊できる」というのは、適切な言葉のように思います。
以上、頭がおかしかったわけではないですが、テスラコイルの持つ強力なイメージと結びついて、「マッドサイエンティスト」に仕立て上げるのには格好の素材。
今では、彼の言葉は針小棒大にとらえられ、すっかりおかしい人だったことになっています。
逆に、彼が不遇の人で、認められていないけど、実は現代生活の多くが彼の発明によるものだ…という説明も多数。
こちらも針小棒大。
長距離無線の実験はしましたが、成功したのはマルコーニです。
長距離ではなく「短距離での」無線は成功しているのですが、これは他の人の実験を追試して、応用しただけ。
(無線操縦でボートを動かす公開実験をやっています)
でも、テスラが無線やラジオ、ラジコンやリモコンを発明したのだという主張は多いです。
また、彼のやろうとしていたのは無線ではなく、「ワイヤレス送電だった」とする説も多数。
それだったらマルコーニが成功した時に悔しがって裁判起こしませんよ。
明らかに、事実を捻じ曲げて先進的に見せようとしているだけ。
軍艦をワープさせたけど、実験に失敗して多数の怪死者がでた、というオカルト話もありますが、これも完全に否定されています。
ワープしたことになっている軍艦の、当日の「通常業務」の日誌が残っているからね。
でも、冷静にとらえて「交流の発明」、特に発電機・変圧器・モーター・蛍光灯の4点セットは、その後の世界を大きく変えました。
これだけでも、偉大な発明家であることに間違いないです。
ちなみに、交流電流の存在は「テレビ」の発明に大きな影響を与えています。
60Hz(NTSC) ・ 50Hz(PAL)でテレビ電波が送信されたのは、それが交流の周波数だったから。
当時は、家庭用機器で気軽に使える「クロック信号」としても交流周波数は重要だったのです。
交流が普及せずに、エジソンの主張する直流が普及していたら、テレビは生まれなかったかもしれません。
彼の晩年、1915年に、IEEE (アメリカの電気・電子学会)から最高栄誉であるエジソンメダルを送られます。
が、彼はこれを辞退。
彼は本当にエジソンのことが嫌いで、エジソンの名前の付いた賞など貰いたくなかったのです。
このため、1915年は「該当者なし」となり、翌年改めて受賞を打診されます。
IEEE としては、テスラの業績を認め、彼が受け取らないのであれば他に該当するものなどいない、という態度でした。
テスラが受賞しないのは、テスラ一人の問題ではなく、他の科学者にも迷惑をかけることになります。
また、丁度この頃に無線実験の失敗が確定的となり、テスラの生活は困窮していました。
IEEE としては、どうしてもテスラに受け取って欲しいから、生活の困窮という「弱みに付け込んだ」形です。
テスラもこれに折れ、1916年にエジソンメダルを受賞。
さらに、1930年にノーベル賞候補に推薦されますが、この時は「エジソンと同時受賞」という条件でした。
エジソンの「名前がついている」だけならまだしも、壇上で一緒に、にこやかに受賞しなくてはならない。
彼はこの条件を拒否し、候補を辞退。これにより、エジソンもノーベル賞を逃しています。
翌 1931年、エジソン死去。
テスラは、ライバルの死に際してインタビューに来た新聞記者に対し、「エジソンは、本で学習することや、数学の知識を軽視していた」と厳しい批判をしています。
とにかく、テスラは生涯エジソンを許さなかった様子です。
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今朝、任天堂の岩田さんの訃報を知りました。11日に亡くなったそうです。
HAL研究所でHALNOTEの開発を率いました。
僕は HALNOTE …当時はあまり売れなかった、MSX 用の「統合環境ソフト」に心酔し、高校生の時にお小遣いをはたいて購入しましたし、関連書籍なんかも買いあさりました。
別売りだった表計算や、「直子の代筆」は購入しませんでしたけど、ワープロとドローが同じ感覚でつかえる、というだけでも大満足でした。
世の中には、まだ MS-Office とか存在しない頃の話ね。
その頃に、同じようなことを、8bit 機でやっていた。
岩田さんの名前は当時知らず、任天堂の社長になった時にやっと知った程度。
それ以前に HALNOTE の記事を書いていたのだけど、社長になった時にやはり岩田という名前は無名で、2ch で「HALNOTE を作った人」という説明で僕のページがリンクされていた。
これで初めて、HALNOTE を作った人なんだ、という認識ができた。
でも、2ch の話だから裏付けがないと自分のページには書けない。
情報として追記しつつ、「裏が取れません」と長い間書いたままでした。
今年になってから、やっと当時の雑誌の写真をツイートしている人を見つけ、裏が取れました。
任天堂とHAL研は仲が良くて、ファミコン初期の作品もずいぶんと作っています。
僕が持っていたもので…あとで岩田さんの作品だったと知ったのは、ゴルフとピンボールくらい。
ピンボールは、非常に動きが良かった。
ずいぶんと遊びましたし、あのゲームで「本物のピンボール」を好きになった。
#岩田さんと関係ないけど、BANZAI RUN が大好きでした。
ゴルフは僕の兄が遊びたがって買ってきたものだったのだけど、こちらも非常に細かな計算をしていました。
ゴルフって、ボールの飛び方が非常に大切だから、そこにこだわらないと面白くならない。
あと、友達から借りてずいぶんと遊んだゲームでは、バルーンファイト。
あれも動きの良いゲームでした。
「社長が訊く」で明かしていましたがバルーンファイトは小数点以下を計算して滑らかな動きを出しているのだそうです。
恐らくは、ピンボールも、ゴルフもそう。
ファミコンの画面サイズは 256x224 で、横座標も1バイトに収まります。
これをあえて、2バイト使って計算して、上位の1バイトだけを表示に使っている。
「小数点」というとややこしそうだけど、種明かしすれば「なーんだ」という程度のテクニック。
でも、こういう細かなテクニックを知っているかどうかというのが、ゲームを作るうえでは非常に大切でした。
天才プログラマだった、という評価が多いですが、一流ではあるが決して天才ではないとは思います。
新しいアルゴリズムを編み出したり、人の思いもよらないものを作りだしたりするタイプではない。
でも、上に書いたように、必要な方法をちゃんと知っていて、キッチリ作ることができる。
凡百のプログラマではなかった、というのは事実でしょう。
僕もプログラマ経験長いですが、凡百ではない、というだけでプログラムの業界ではどんなに貴重な事か。
そのうえ、やらざるを得なくなってHAL研の社長をやったことで、経営センスも身に付いた。
プログラマーで高い経営センスの持ち主って、非常に珍しいと思います。
#ビル・ゲイツもそうでしたね。
HALNOTE の頃から一貫して、スペック競争を嫌っていたように思います。
HALNOTE は、8bit 機の小さなメモリとフロッピーディスクだけで今の Windows みたいなことをやっていた。
当然非常に遅くて、世間的な評価は「使い物にならない」だったようです。僕は好きだったけど。
これに対する反論が「ただ遅いだけ」でした。
遅いことが最大の問題だけど、そんなことよりも出来ることの可能性に目を向けてほしい、というメッセージでした。
実際、HALNOTE は MSX-VIEW と名前を変え、16bit 化して高速になった MSX-TurboR の OS (オプション)となります。
速度の問題は時間が解消するのです。
任天堂社長になってからも、NintendoDS 、Wii で一貫してスペックの公表を拒みました。
前社長である山内氏の時に、ゲームキューブでスペックを公表したところ、「ゲームの面白さ」よりも「スペックの数字」で比較されてしまった事への反省でした。
実際 Wii はスペックが低く、同時期の他のゲーム機と「同時移植」をしようとすると問題になったようです。
そのため、大作タイトルが Wii だけでない、という状況もしばしば起こり、徐々に失速しました。
でも、Wii のゲームがつまらなかったかというと、それは別問題。
当初は Wii にしかなかった「モーションコントロール」という概念をすぐに他社が真似したのも、そこにゲームを面白くする可能性があったためです。
ただ、Wii も元気があったのは初期だけで、だんだん他のゲーム機で人気のあるタイプのゲームを作るうちに、独自性が薄れていったのは事実。
スペック競争にしないのであれば、別のところで競争しなくてはなりません。
でも、結局スペック競争の土俵に引きずり込まれていって、苦戦する形になった。
独自路線を歩もうと思ったら、鉄の意思と、根回しの力が必要です。
岩田氏の場合、プログラマーとしての経験と社長業としての経験、両方が一級だったからいろいろな要求を突っぱねることも出来たし、社内の技術者を説き伏せることも出来た。
任天堂は決して大メーカーではないので、他社との正面からの競争はできないでしょう。
しかし、正面衝突を避ける経営は、他の人ではなかなか難しそう。
任天堂だけの問題ではありません。
「遊び」っていうのは多様性が重要なので、「正面衝突を避ける」、つまりは多様な市場展開をするのは、業界全体を支えるために必要なことです。
でも、正面衝突を避けようとすると、新たな商品を開発する必要があって時間も資金も必要になります。
これは、会社経営としては悪い判断。
あえて衝突しに行けば、安易な物まねで済みます。時間も資金も節約できて、市場も大きいためリターンの可能性も高いのです。こちらの方が経営判断として良いのです。
それでも、岩田氏は常に「正面衝突を避ける」方向で物事を考えていたように思います。
実際、それが経営判断として適切だったかどうかはわかりませんが、業界全体のためにはそういう心掛けは重要だと思います。
まだ若い(享年55歳)のに、業界を担う重要な人を亡くしました。
別年同日の日記
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今日は、ジェイ・フォレスターの誕生日(1918)。
Whirlwind I の開発発案者です。まだ御存命のようでなにより。
2017.7.14 追記
昨年、2016年の 11月16日に亡くなられています。
詳しくは Whirlwind I のページに書いていますが、ざっと略歴を。
第2次世界大戦中、MIT でサーボ機構の研究開発を行っています。
サーボ機構というのは、いまでいえば「フィードバック制御」のこと。
レーダーで敵機を捉え、捉えた敵機の動きに応じて、常にレーダー探知の「中心」にとどまるように、レーダー自体を動かします。
同時に、この敵機の動き・距離などを勘案し、「撃ったら弾が飛んでいき、当たる」と思われる向きに砲塔を向けます。
今で言えば「ロックオンされた」状態。後は引き金を引けば敵にあたります。
当時はコンピューターが開発される以前なので、全部アナログ回路で動かしていました。
微妙なノウハウの塊で、ジェイ・フォレスターはその第一人者でした。
ある日、彼の元に「訓練用のフライトシミュレータを作れないか」という相談が舞い込みます。
サーボ機構のノウハウを使い、空気抵抗などをシミュレーションして操縦するシステムを作るのですが、シミュレーションが要求された精度に全然届きません。
ここで発案されるのが、Whirlwind プロジェクト。「つむじ風」という意味です。
当時のコンピューターは、1bit の計算回路しか持たないのが普通でした。
1bit でも、繰り返し計算すれば大きな数を計算できます。
ちょうど、人間が大きな数の足し算をするときに、筆算を使って1桁づつの計算に分解するような感じです。
当時は、1bit の計算を繰り返して、36bit ~ 72bit 程度を一度に計算するのが主流でした。
これを、計算回路の幅が 1bit で、計算対象の幅が 36bit ~ 72bit 、と呼ぶようにします。
Whirlwind はフライトシミュレータのために、もっと計算速度が必要でした。
そこで、計算回路の幅を 16bit にして計算します。…これは、当時としては恐ろしく複雑な回路となりました。
計算対象の幅も 16bit です。当時は「対象の幅が大きいほど良い」風潮がありましたから、16bit では話にならない、という人もいました。
しかし、フォレスターはわかっていました。速度が速ければ、ソフトウェアで 16bit の計算を繰り返すことで、32bit にも、64bit にもできます。
計算回路が速くなればコンピューターが速くなる…というほど話は単純ではありません。
実は、当時一番の問題はメモリ。普通は水銀遅延管…超音波という「物理動作」が、電気回路よりも遅いことを利用して、この「遅さ」を記憶として使う方法でした。
実のところ、1bit づつ計算を行う当時のコンピューターは、水銀遅延管を使っていたことに由来します。
水銀遅延管は遅いため、1bit づつ計算するのにも、「メモリを待つ」状態になってしまうのです。
16bit を一度に取りだせて、超高速で動作するメモリが必要でした。
Whirlwind プロジェクトでは、新しいメモリを開発しようとしますが、結果的には失敗。
もう、なんでもいいからメモリとして使えそうなものを片っ端から試す、という状況になります。
ここで見出したのが、コアメモリでした。
非常に単純で、非常に安くて、なのに超高性能…と、中国系移民の発明者は言っていました。
もう、明らかに怪しすぎるし、当時はあまり相手にされていなかったようです。
でも、Whirlwind I は本当に片っ端からメモリを試す状況でした。…使ってみたら本当に理想的なメモリ。
Whirlwind I で採用されて以降、コアメモリはコンピューターメモリの花形となります。
1970年代に、集積回路でメモリを作ろう、というベンチャー企業…インテルが登場するまでは、メモリと言えばコアメモリでした。
#コアメモリは、非常に小さなビーズを入れて、細いワイヤを「編む」必要がある。
小型化に貢献したのは、手先の器用な日本人だった。かなりの量の生産を行い、アメリカに輸出していたらしい。
2017.7.14 追記
コアメモリの発明に関する話、少し勘違いがありました。
中国系移民の発明者が考案したのを使った、のではなく、中国人発明者のの見つけた「記憶効果」を応用し、WhirlWind I のチームが、
「コアメモリ」として発明しています。
高速なフライトシミュレータを作るのであれば、状況をすぐに図示する装置も必要です。
実は、Whirlwind I は、世界で初めて「画面表示」を採用した機械でもあります。
ベクタースキャンディスプレイで、何度か装置が交換されていますが、最終的には 2048x2048 の解像度を持ちます。
また、簡単に文字を表示する機構も備わっていました。
まだ作成中の初期段階で、画面に「弾むボール」を表示するデモプログラムが作られています。
スイッチを使って様々な係数を変更し、いろいろとボールを弾ませることができる。
特にゲームではないのですが、テレビ画面とコンピューターを使ったもっとも初期の「遊び」とされます。
プロジェクト最初の成果物、Whirlwind I (1951)は、現代のコンピューターの直接の「始祖」となるものです。
それ以前のコンピューターとは明らかに構造が異なっている。
本当は、I は性能を確認する実験機にすぎず、つづけて II が作られるはずでした。
しかし、I だけでも予算をはるかに超え、II は作成されません。
I を元にした量産機は、軍事用コンピューターとして多数作られました。
画面を表示するだけでなく、光を感知する「ライトペン」を使って、画面にタッチすることで操作できます。
コンピューターは元々計算用の機械でしたから、入力機器として文字を入れる「キーボード」が普通になるのは、もっと後の話。
キーボードより先に、画面にタッチして操作する、という入力方法が使われていたのです。
#もっとも、Whirlwind I では、タイプライターも接続されています。
キーを使った入力もできたようですが、主に出力のための「プリンタ」としての利用でした。
さて、もう一つ、APT の話も書いておきましょう。
こちらは、ジェイ・フォレスターが直接指揮を執ったわけではありませんが、彼の研究室で作られたもので、「サーボ技術」…最初に書きましたが、フィードバック制御の実績を買われて持ち込まれた相談でした。
コンピューターを使って金属の削り出し加工ができないか、というのがその相談。
当時、旋盤の刃を数値に従って動かす機械はあったのですが、金属の「固さ」に負けて、本当に必要な部分まで削ることができずに誤差が出るのです。
フィードバック制御ができれば、本当に必要なところに刃が達したことを確認でき、誤差のない加工ができるのではないか…というのが相談の内容。
こちらは、機械はほどなくしてできたのですが、その機械を制御するコンピュータープログラムの開発が難航しました。
最終的には、APT …Automatically Programmed Tool (自動プログラム装置)として完成します。(1959)
形状定義ファイルを入力すると、加工機を制御するためのプログラムを生成してくれるプログラムです。
これ、デジタルで形状を作り上げると、手に取れる形にしてくれる「3Dプリンタ」の元祖です。
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