2015年07月の日記です

目次

01日 A Dark Room , Candy box! , Cookie Clicker.
07日 どぜう
10日 ファイナルアーチ
10日 ニコラ・テスラ 誕生日(1856)
11日 僕の担当部分
12日 実装の苦労
13日 【追悼】岩田聡さん(任天堂社長)
13日 収益を考える
14日 ジェイ・フォレスター 誕生日(1918)
14日 厄介なバグ
15日 ファミコン・SG-1000の発売日(1983)
15日 海外版
16日 原爆実験の日(1945)
16日 バーチャファイター・リミックス
17日 NECの創業日(1899)
17日 エジホン探偵事務所
20日 高校部活の同窓会
21日 インディ500
23日 夏風邪
24日 マイコプラズマ肺炎
28日 マイコプラズマ肺炎:治癒報告
29日 モニ太とリモ子のヘッドオンチャンネル


A Dark Room , Candy box! , Cookie Clicker.  2015-07-01 18:41:51  コンピュータ

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日記でゲームのことを書くことはめっきり減りました。

子供が生まれる前は良く書いていたのだけど。


で、今日書きたいのは A Dark Room

無料で遊べる、Javascript のゲームです。


海外では 2013年後半ごろに話題になったようで、作られたのは5月ごろみたい。


でも、当時は英語版しかなかった。

このゲーム、文章がかなり重要なので、日本人にはハードル高くて、それほど話題にならなかったようです。


今は日本語対応しています。

でも、もう旬を過ぎたのであまり遊んでいる人いないみたい。

やっぱり、日本では話題になっていない。




ゲームを始めると、ブラウザの左上にそっけない文字が書かれています。


火は消えている.

部屋は凍える寒さだ.

暗い部屋
火をつける

これだけ。

火をつける、は枠が描かれていてボタンなのかな、と思えるので、押してみましょう。


左側に新たな文章で状況説明が出ます。


火は燃えている.

火の光は窓から暗闇にこぼれだしている.


「火をつける」は、色が薄くなり、「薪を燃やす」に変わります。

背景に縮む帯が出て、ボタンが押せなくなる。


…これ、行動制限を示しているようです。帯が縮み切れば次の行動を出来る。




非常に簡単なゲームなので、多くは説明しません。

ちょっと驚く仕掛けが次々と現れるので、自分で体験してみてください。


どんどんできることが増えて、仲間が増えて、村を作り、冒険に乗り出すことになる。

でも、自分が出来ることは基本的に「押すとその後しばらく押せなくなるボタンを押す」ことだけ。


いや、後半は別の操作が中心になるかな。

でも、やっぱりボタンを押すことは大切。




すべての状況は、短い文章で表示されます。

これが非常に良い雰囲気。文章と文章の「行間」を感じさせて、足りないところは自然に想像がはたらき、自分が物語世界を感じていくのがわかる。


このゲームは全て、「感じ取る」ことが重要なようです。

最初に「火をつける」のボタンを押す際も、何の説明もありません。ボタンに見えるから押したくなるだけ。


どんどん新しい状況になり、表示が追加されても、それが何を意味するのか、一切説明はありません。

自分で想像し、ルールを把握して行くことが中心のゲーム。



最初はなにも明かされていませんが、だんだんこの世界が何であるかわかってきて、最終目的が見えてきます。

最終目的を達成できればゲーム終了。


でも、ゲームはそれで終わりではありません。2周目が始まる。

先に書いたように、「ルールを把握する」ことが大切なゲームなので、2周目はつまらない…


なんてことはない!

2周目になって初めて起きるイベントもあります。

何度も遊んでみないとわからない仕掛けが沢山。


これは、話題になった理由もわかります。

日本語化された今、是非遊ぶべきゲームです。




さて、ネタバレするとつまらないのでこのゲームについてはこれ以上書かない。

ゲーム名で調べると攻略ページなんかもあるけど、このゲームは「ルールを自分で把握する」のが楽しみの8割なので、ネタバレはゲームをつまらなくするだけ。


…と書いておきながら、別のゲームの話題を書きます。

別のゲームと言っても類似点があるので書くわけで、それ自体がネタバレになるかもしれないのだけど。



同時期に、Cookie Clicker というゲームが流行しました。こちらは8月発表、らしい。A Dark Room が話題になった後だね。


こちらは文章はさして重要ではないゲームだったので、日本でも異常な盛り上がりを見せました。

パロディもあったくらい。


僕も Cookie Clicker は遊んでみて、衝撃を受けました。

テレビゲームを作っていた人間として、あんなゲームの作り方があるなんて思いもしなかったから。



元ネタともいえる A Dark Room や、後で書く別のゲームを知らなかったから、余計に衝撃が強かった。

でも、最近 A Dark Room を知ったので、Cookie Clicker はいきなり現れたわけではないと理解できました。




一応、当時の騒ぎを知らない、もしくは知っていても遊んだことは無い人のために、簡単な解説をしておきましょう。


Cookie Clicker は、クッキーをクリックするだけのゲーム。


表示されているクッキーをクリックすると、クッキーが1個生産されます。

生産枚数は数字で表示されていて、押すたびにカウントが上がっていく。


このクッキーを増やしてどうするのかというと、クッキーを自動生産するアイテムなどが買える。

生産してアイテムを買い、それで増えたクッキーでさらに高価なアイテムを買う…というゲーム。


特定条件で開示される「実績システム」とか、最近のゲームによくありがちな仕掛けがちゃんと入っている。

やることは「クッキーを作る」だけなのに。


そして、このゲームがすごいのは、「リセット」が重要な事。

ゲームをリセットすると、もちろん最初からやり直しなのだけど、先に書いた「実績」は残っている。


さらにリセットするともらえるボーナスもある。

これらの「実績」や、ボーナスは、クッキー生産時に「倍率」としてかかってくるので、リセットするたびに自分が強くなる。


このゲーム、かなり時間を使うから、リセットすると「それまでの時間が無駄になる」気がして最初は怖いのだけど、リセットしてからが本当の意味でのゲームスタートだと思います。


何回もリセットしていると、1クリックで1京(10の16乗)のクッキーが生産できるようになります。

これ、リセット無しだと絶対たどり着けない。リセットしてからが本番、というのもそのためです。



「クッキーを作るだけ」という根幹システムの単純さに比して、周辺の仕掛けが大がかりです。

アイテムなどのグラフィックも併せ、このトチ狂った世界観がウケて大ヒットしましたが、ゲームとしてもよく出来ています。


ゲーム制作側にいた人間としては、「おまけ」だったはずの実績システムなんかをゲームのメインに持ってきたところや、恐ろしいほどの点数のインフレに衝撃を受けたのね。




さて、A Dark Room と Cookie Clicker は、どうも共通の「祖先」を持つようです。

話題になったベースを元に、別々の人間が、別の方向で洗練させたのが2つのゲーム、という意味ね。


元になったのは Candy box! というゲーム。

1秒に1個、勝手に Candy が増えて行って(数字表示のみ)、「食べる」「投げ捨てる」というボタンだけが表示されているゲーム。


これも、ある程度キャンディを溜めると、別のアクションができるようになっていきます。

遊んでみると、なるほど、共通の祖先だ、ということがよくわかる。


Candy box! は、基本的に文字だけです。でも、アスキーアートは結構使っている。

文字と簡単なアスキーアートだけ、というのは、おそらくは UNIX 初期のアドベンチャーゲームみたいなのを作ろうとしたのではないのかな、と想像します。


というのも、このゲームは「アドベンチャーゲーム」だから。

キャンディを集めるところから始まるのだけど、最終的には順番にフラグを立てていく、その過程を楽しむゲーム。

(僕はアドベンチャーゲームが好きではないので、残念ながらあまり面白いと思えなかった)


ただ、普通のアドベンチャーゲームと違ったのは、「増えていくキャンディ」を通貨としていること。

その過程で、キャンディを使ってキャンディを生産する、錬金術のようなシチュエーションが登場します。



A Dark Room は、アスキーアートも排して極力文字だけで表現しています。

この文字だけの世界が、ゲームというより「物語」を感じさせる。


体裁としては Candy box! と似た始まり方なのだけど、こちらはアドベンチャーゲームではないです。

刻々と変わる状況を乗り切る、シミュレーションに近い感じ。Candy box!のような「生産活動」もあるのだけど、錬金術ではなくてもっと経済的。


アドベンチャーゲームではないのだけど、状況が言葉で説明されるし、言葉の選び方が巧みなので物語を感じさせてしまう。

ちょうどこの頃、「ナラティブ」って言葉がゲーム業界で流行したんだよね。

物語を「語る」のではなく、「感じさせる」ゲーム。A Dark Room もそういう流行と無縁でないように思います。



Coockie Clicker は A Dark Room とは逆方向の進化。全てを美しいグラフィックにしました。

世界観は先に書いた通り、狂っている。不条理とかのレベルではない。

Cookie を使って Cookie を作り出す、という錬金術こそがこのゲームのすべて。


実のところ、 Cookie Clicker は Cow Clicker というゲームに対する皮肉として生まれたのだそうです。

Cow Clicker というのは、ネットサービスでユーザーをつなぎとめるための「ポイントを貰える」だけの存在。

1日1回だけクリックできて、ポイントが溜まります。


この、面白くもなんともないものを、提供会社が「ゲーム」と呼んでいたので、クリックするだけで本当に面白いゲームを作ろうとしたのが Cookie Clicker なのだとか。


でも、Candy box! の影響は強いように思います。

お菓子を農場に投入して(種として植えて)、結果お菓子がすごい勢いで増える…なんて、まったくそのまま。


A Dark Room の影響もうけているのではないかな。Candy box! 程の影響は感じないけど。




Cookie Clicker は、β版も公開されていて、「実験中」のプログラムなどが入っていました。

結局公開版に統合されなかったけど長い間実験されていたものに、「ダンジョン」がありました。


Rogue みたいに自動生成されるダンジョンがあって、その中で自動的にキャラクターが冒険し、クッキーを持ち帰るの。


実は、candy box! にも自動的に行われる「冒険」があって、それを取り入れたかったみたい。

ネタバレになりますが、A Dark Room にも類似のものがある。



日本では Candy box! も A Dark Room もあまり知られていないので、この手のゲームは「Cookie Clicker 系」と呼ばれています。


でも、アメリカでは「Candy box! like game」らしい。

なるほど、3つとも遊んでみたら進化の過程がわかりました。

結果として全然違うものになっているのだけど。



というわけで、3本のゲームを紹介してみました。

関係性があるし、ゲーム的にも似ているのだけど、面白さのポイントは全く別。



遊んでみたい方は、以下へどうぞ。


Candy box!

A Dark Room

Cookie Clicker



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名前 内容

どぜう  2015-07-07 15:10:32  料理 家族

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どぜう

先日、土曜日(4日)の出来事。


今年の梅雨は雨が多く、7月に入ってから連日雨。大雨警報が出る日もある。


でも、土曜日は…曇り、または小降りという感じ。

前日は大雨で、外で遊べなくてつまらなかった長女(8歳)、多少降っていても「外で遊ぶ!」と家を飛び出していった。




我が家の目の前に、小さな川がある。

農業用水で、すぐ上流は田んぼ。


川と言っても非常に浅くて、大人用の靴ならそのまま入っても靴底しか濡れないくらい。


田んぼは農薬を使っていないのは知っていて、水も非常に綺麗。

クレソンとか生えてたこともあるし。(これも、上流で育てていたのが一部流れてきて自生したのだ)


夏になると子供たちはこの川で遊ぶのが大好き。

先に書いたように流れは非常に浅いので、危険もない。


「外で遊ぶ」と飛び出した長女は、この川に降りて遊んでいた。

次女(6歳)も、すぐそばで川には入らずに、長女と話をしていた。




長女が、バケツ貸して、と戻ってきた。

川に何かいたから捕まえたいらしい。アメリカザリガニなどいるのは知っているので、まぁそのたぐいだろうと思ってバケツを貸す。


しばらくたって「ドジョウがいたー!」と戻ってきた。

僕も思わず見に行く。


そういえば、長女の同級生の男の子が、保育園の頃によくこの川で遊んでいて「ドジョウがいる」と言っていたな。

実際に、非常に小さなドジョウを見せてもらった覚えもある。


でも、この時長女が捕まえたのは、立派なサイズのドジョウ。


長女が見せに来た時点で2匹。

その後、1匹に逃げられたがまた捕まえ、さらに1匹。合計3匹になった。


どうも、上流の田んぼから大雨で逃げ出したらしい。



次女が「ドジョウって食べられるんでしょ? 食べてみたい」と言い出す。


うーん、料理は可能だろうけど、そこらへんの川で捕った奴食べて大丈夫かな。

この時妻は保育園のPTAで外出していたのだけど、「あとでお母さんにきいてごらん」と言っておく。




長女はさらにドジョウを見つけ、5匹になった。


妻の帰宅後、「お母さんにも見せる」と話していたが、その後次女が「お母さん、ドジョウ食べたことあるって。私も食べたい!」と報告に来た。


妻の許可が出たのであれば覚悟を決めよう。




妻に、どうやって食べる? と聞くと、「え、あれ食べるの?」と驚いた様子。

次女に「食べられるか」と聞かれて食べたことはあると答えたが、自分で料理したわけではないそうだ。


そのうえ、「そこらへんで捕ったの食べて、寄生虫とかいない?」と心配そう。


どうも、次女が自分の都合のよいように僕に話を伝えたようだ。



しかしまぁ、昔の人は田んぼのドジョウはご馳走として食べていた。大丈夫だろう。


さばき方を調べると、素人がさばくのは危険らしい。

丸ごと煮て食べる方が簡単なようなので、そうやって食べることに決定。


…というわけで、料理方法は料理ページに書いてみた

もし、お子さんがドジョウを捕ってきて「食べたい」と言い出した人がいたら参考にしてください。


#そんな状況にはならないと思う。




食べたいと言い出した次女、いざ食卓に出てくると、怖がりはじめる。


捕ってきた長女に、「一番大きいの食べていいよ」というと、こちらもちょっと怖いらしく、長男(10歳)に一番大きいのを譲った。


長女は「真ん中サイズ」というリクエストで、次女は「一番小さいの」。


僕が2番目、妻が4番目を貰いました。



食べたら非常においしい。泥臭い、とよく言われるけど、全然そんなことない。

大きいサイズ3位までは、お腹に卵入っていました。



妻も「卵食べてみたい」というので僕のを半分分けました。

次女も食べたいというので、長女が分けてくれました。


美味しいとわかったら、次女は一番小さいのを選んだのを後悔しはじめ、「もっと食べたい」と言い出します。

僕の残っていた身をわけました。



一番小さな次女のものはほとんど骨で食べるところがわずかだったんですね。

骨は非常に固かった。


食べてから調べたら、料理屋なんかでは4時間くらい煮込んで骨まで軟らかくするのだそうです。

しかし、5匹しかないのを4時間も煮込めない (^^; まぁ、骨を残すので正解。


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ファイナルアーチ  2015-07-10 12:29:09  業界記

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さて、そろそろ昔話を再開しよう。


1995年の夏、ST-V用のゲーム、「ファイナルアーチ」がリリースされました。

自分では正確な日付は覚えていないのですが、ネットの情報では6月~7月発売ということになっているようです。

なので、そろそろ 20年たったことになる。



一応「ファイナルアーチ」を説明しておくと、世界初のポリゴン3D野球ゲームです。

それほどヒットしたわけではないので、知らない人の方が多いでしょう。


あまり動画が無いようですが…手相は1本も動画が無かったのに、1つアップされていたのに感謝。


でも、動画アップしてくれた人、はじめてプレイしたようで上手ではない。

というか、説明書もないしジョイスティックの調子悪いそうで、ずっとぼやき続けているだけで、失礼ながら見ていても特に面白くない。


一応、「世界初のポリゴンゲーム」ということは、従来のゲームの延長から抜け出せていない、ということでもあります。

ファミスタなんかと同じく、ボールを見るのではなく「ボールの影」を見て位置を把握し、バットを振らなくてはならないのですが、理解していただけていない御様子。




さて、以前書いたように、僕は2月ごろまで「手相占いちょっとみせて」を作ってました。


当時は、AM1研はゲームを作るごとにチーム編成していました。

手相のチームは、役目を終わって解散。

すぐには次の仕事も決まらず、主にテストプレイなどの雑用仕事していたと思います。


次に入ったのは、先日まで「The J League 1994」を作っていたチーム。

今度は ST-V で野球ゲームを作っているけど、人手が足りないので入って、とのことでした。



その前に作った Jリーグは、それほど売れませんでした。


日本でサッカーのプロリーグができて盛り上がっているから、とゲームを作ったものの、新し物好きで、人と一緒に騒ぐのが好きな人が盛り上がっているだけだった。

ゲームセンターに来る、一人で遊ぶ方が好きな人には全くウケません。


店舗からは、暇つぶしに来るサラリーマンのために、サッカーよりも野球の方が受け入れられる、という意見。

じゃぁ、誰か野球作れ、という上層部判断で、サッカーを作ったチームが引き受けることになったのです。




でも、サッカー作ったチームの人たち、それほどスポーツに詳しくない。

というか、チームスポーツが得意なプログラマーって、それほど多いと思えない。


#黙々と山登りが好きな人、とかはそこそこいるのですが。僕も結構そうだし。


サッカーも企画の人が一生懸命ルールとか調べながら作ったのですが、野球もよくわからない。


詳しく知らないのですが、どうも企画の人は野球好きな人に変わったみたい。

と言っても、野球のテレビ中継が好き、という程度で、元野球部だったとかいう話ではない。


後の話になるけど、モーションデータ作っていて、重要な点を見落としていても気づかない程度。


それは上層部から仕事を請け負って来た部長も同じで、「野球もサッカーも似たようなもんだから、メインルーチン流用で作れるだろ?」発言だったようです。

そういわれてメインプログラマーの人も納得してしまったのですが、全然違って1から作り直しだった、と後でぼやいていました。




それはさておき、リクエストは「野球ゲーム」だったのですが、ただ作るのでは面白くない。

時代的に、作るなら ST-V 用でしたし、ポリゴン出るハードなのだから(と、この頃はまだ思われてました)、3Dで作れ、となったのです。


着想としては単純。でも作るとなると大違い。


1研では人型ポリゴンなんて動かしたことありませんでした。

どうやって動かせばいいの? というところから始まります。


ややこしいプログラム作っている時間もないし、アニメーションの頂点データ全部持ってしまって、それらを読み出しながら再生しよう…なんてことも行われたようです。

でも、あっという間に膨大なデータ量になる、と判明して取りやめ。


結局、AM2研で開発途中だった、SGL の非常に初期のバージョンを使わせてもらえることになります。

そして、やっと画面の上でポリゴンの人が投球動作を始めた…というところで、僕が投入されました。


ポリゴンになると、今までのゲームとデータ量が桁違いになってきます。

データ整理だけで一苦労なので、誰か新人頂戴、とリクエストされたようで、そこに僕が手が空いたし、手相占いで「データ整理が速い」と言われていたので投入された、という経緯だったようです。





この話、長くなるので何回かに分けます。

のんびりと書いていく予定。



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名前 内容

ニコラ・テスラ 誕生日(1856)  2015-07-10 16:24:39  歯車 今日は何の日

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ニコラ・テスラ…名前は有名なのですが、何をした人かさっぱりわからん、という人も多いでしょう。


え? それ以前に名前も知らなかった?

電気自動車会社で有名なテスラ・モーターズとか、磁石の強さ(磁束密度)の単位「テスラ」とかに名前を残すのですが…


テスラ・モーターズは名前を貰っただけで関係ないし、磁石の強さの単位としては、一般的に「ガウス」が用いられます。

(10ガウス=1ミリテスラ)




この人、すごい発明しているのに不遇なのです。

まず、交流電流。これが彼の最大の発明。


交流発電機で電気を起こし、変圧器を使って送電し、交流モーターを動かせます。

また、交流は放電に向いているので、蛍光灯を点けることができます。


彼の発電機はナイヤガラの滝に設置され、発電を行いました。



電気関連の発明では、エジソンが有名。

エジソンは、直流を使っていました。


でも、交流発電機の方が構造が簡単でエネルギー効率も良い。

交流の方が変圧も簡単。変圧することで送電時のエネルギーロスも減らせるし、モーターも交流の方が効率が良い。


そして何よりも、交流から直流を作り出すのは簡単だけど、直流から交流にするのは大変。


交流の方がいいことばかりなので、現在世界中で交流が使用されています。


実は、テスラはエジソンに憧れていて、エジソンの作った会社に入社しました。

そこで研究を行い、交流の方が優れていることを見つけたのです。




しかし、エジソンは直流にこだわりました。

直流の電気回路は小学校の理科でも学ぶくらい、単純なものです。しかし、交流はいろいろとややこしい。


エジソンは優れた発明家でしたが、学はありませんでした。小学校中退、というのはあまりに有名なエピソードです。

交流回路を正しく理解するには、刻々と変わる電圧を把握するため、微積分の知識が必要になります。


どうも、学のないエジソンにはこれが理解できなかった。

交流の方が良い、と強く主張するテスラを、会社から追い出しています。



テスラは自分の会社を興し、交流送信網を構築しようとします。

しかし、エジソンはこれを執拗に妨害します。


エジソンは当時から大発明家・実業家として知られていました。

一方、テスラは今でこそ評価が高いのですが、当時は無名です。勝負は見えていました。


エジソンの発明品の中に、電気椅子があります。

実は、これは交流の普及を防止するためのもの。


死刑囚に高電力の交流電流を流すと死ぬ、ということを見せつけ、交流を「危険でとても使い物にならないもの」だと印象付ける作戦でした。


実のところ、問題は「高電力である」ことで、交流かどうかはあまり関係ありません。


テスラもそれはわかっていて、エジソンの主張を逆手にとって「交流電流を人体に通してもなんともない」というショーを行ったそうです。




テスラの名前をもっとも有名にしている発明と言えば、テスラコイルでしょう。


…すみません。僕、電気回路詳しくないのでよくわかりません。

以下、間違えているかもしれないので鵜呑みにせぬようお願いします。


テスラコイルは、変圧器の一種です。

変圧器というのは、電圧を変えるための仕組み。先に少し書きましたが、交流は電圧を簡単に変えることができます。


テスラコイルは、超高圧・高周波電流を作り出します。電圧が上がる代わりに電流は少なくなるため、危険性はそれほどありません。


しかし、あまりに高圧・高周波になるため、激しい放電を起こすのが特徴です。

というか、テスラコイルの真の目的は変圧にあるのではなく、「放電」というパフォーマンスを見るためにあるように思います。



電線がぐるぐる巻きにされた武骨な鉄塔から、激しく青白い電気を放つ姿は…マッドサイエンティストのイメージそのものです。

というか、それは因果関係が逆。


あまりに異様なその姿から、テスラコイルは、映画などに登場する「マッドサイエンティスト」必携の道具となっているのです。

現代人である我々は、そのイメージでテスラコイルを見てしまうため、マッドサイエンティストに感じる、というわけ。





さて、先に「人体に交流電流を通すショーを行った」と書きました。


どうも、このテスラ・コイルを応用したものだったようです。

変圧器で電圧を挙げると、その分電流が減ります。


(電力)=(電圧)×(電流)


となっていて、電力は常に変わらないのです。


ところで、電圧が高ければ、遠くまで電気が届きます。

また、「高周波」になると、導体…電気を流す経路の「表面付近」にのみ電流が流れるようになります。



つまり、テスラコイルで昇圧した電気を体に流すと、身体の表面だけを電気が通ります。

元々電流は小さいですし、心臓などの電気に弱いところを電気が通らないのですから、問題は出ません。



テスラはこれらの現象をちゃんと研究したうえで、高電圧・定電流の電気を自分の体に通して、ショーを行いました。

このショーで使われたのが、彼が改良した「蛍光灯」です。


実は、特定のガスの中に電気を放電すると輝く、というネオン管の原理はすでに知られていました。

「放電」ですから、テスラコイルの電流と相性はいいです。


テスラは、これを改良し、さらに輝くようにしてショーに利用したようです。



ところで、蛍光灯は、実はわずかな電気で輝きます。

冬、セーターを脱ぐ際の静電気で点灯できるくらい。


エジソンの作った電球を点灯するのであれば、人間の体を通した電気で…というのは難しかったかもしれません。

でも、蛍光灯ならできました。テスラはそれをショーに利用したのです。


彼の蛍光灯は、1893年のシカゴ万博でも展示されています。


#現在の蛍光灯は、紫外線を発生させて、管の表面に塗った蛍光物質を光らせています。

 しかし、彼がショーで使用した蛍光管は、どうもネオン管に近いものみたい。

 蛍光灯、と言ってよいかわかりませんが、一応蛍光灯の元祖ということにされているようです。



#なお、この時、可視光線だけではなく「透過性のある謎の光線」も同時に出ていることに気付き、研究を行っています。

 後にレントゲンが発見する「X線」なのですが、テスラはこの時は存在に気付いたものの、有用性に気付かなかった様子。




1888年にドイツのヘルツが「電波」を発見し、離れたところに信号を送れることを示しました。

ただし、この時点での伝送距離は、ほんの数メートルです。


テスラも電波送信に興味を持ち、1901年に大きな電波塔を建て、実験を開始しています。


電波は、交流電流の一種です。

交流であれば、テスラのお手のものでした。



…が、実験は失敗します。

当時は、周波数が低いほうが遠方への伝送に適している、と言われていました。

(現在、この知識は間違っていることがわかっています)


テスラもそれに倣ったのでしょう、非常に低い周波数を利用したのですが、現代から見るとこれは誤りだったのです。


そうしているうちに、イタリアのマルコーニが、無線の遠距離通信に成功します。



テスラはこれを悔しがり、マルコーニの手法の中でテスラの特許が多数使用されているのを見て、特許料の支払いを求めて裁判を起こしています。




さて、伝記としては、大体以上…だと思います。


ところでテスラさん、発明家である以上に「研究者」で、非常に多岐にわたる科学研究をしています。

頭もかなり良かったご様子。


でも、同程度の学力を持っていないと相手に意図が伝わらない、という経験は、痛いほどしたみたい。

なによりも、憧れていたエジソンが数学などを全く理解していなかったのが、かなりショックだった様子。


その後の言動では、深い理論を言わないと理解してもらえ無さそうな話や、彼自身にもよくわからない話になると、たとえ話で相手を煙に巻いて終わることが多いようです。


たとえば、「宇宙人と交信してる」とか、「地球も破壊できる」とか言ったらしいのね。


宇宙人との交信は、電波通信の実験の前段階として、宇宙線(宇宙からくる電波)の受信研究があったため。

当時は、宇宙線は存在も明らかになっていませんでした。(発見は 1912年で、テスラが研究していたのは 1897年ごろ)


宇宙からくる謎の電波を説明するのに「宇宙人と交信している」以上に適した言葉があるでしょうか?



「地球を破壊する」は、高周波の振動を与えると大きなものでも瓦解する、という実験から。


構造の全体を高周波で揺らすと、各部にきしみが生じて、大きな力を与えなくてもやがて瓦解します。

超音波を利用した汚れ落としなどはこの応用。


地球全体に高周波を与えられるかどうかは別問題として、同じ原理で「地球でも破壊できる」というのは、適切な言葉のように思います。



以上、頭がおかしかったわけではないですが、テスラコイルの持つ強力なイメージと結びついて、「マッドサイエンティスト」に仕立て上げるのには格好の素材。

今では、彼の言葉は針小棒大にとらえられ、すっかりおかしい人だったことになっています。




逆に、彼が不遇の人で、認められていないけど、実は現代生活の多くが彼の発明によるものだ…という説明も多数。

こちらも針小棒大。


長距離無線の実験はしましたが、成功したのはマルコーニです。

長距離ではなく「短距離での」無線は成功しているのですが、これは他の人の実験を追試して、応用しただけ。

(無線操縦でボートを動かす公開実験をやっています)


でも、テスラが無線やラジオ、ラジコンやリモコンを発明したのだという主張は多いです。



また、彼のやろうとしていたのは無線ではなく、「ワイヤレス送電だった」とする説も多数。


それだったらマルコーニが成功した時に悔しがって裁判起こしませんよ。

明らかに、事実を捻じ曲げて先進的に見せようとしているだけ。



軍艦をワープさせたけど、実験に失敗して多数の怪死者がでた、というオカルト話もありますが、これも完全に否定されています。

ワープしたことになっている軍艦の、当日の「通常業務」の日誌が残っているからね。




でも、冷静にとらえて「交流の発明」、特に発電機・変圧器・モーター・蛍光灯の4点セットは、その後の世界を大きく変えました。


これだけでも、偉大な発明家であることに間違いないです。


ちなみに、交流電流の存在は「テレビ」の発明に大きな影響を与えています。

60Hz(NTSC) ・ 50Hz(PAL)でテレビ電波が送信されたのは、それが交流の周波数だったから。


当時は、家庭用機器で気軽に使える「クロック信号」としても交流周波数は重要だったのです。

交流が普及せずに、エジソンの主張する直流が普及していたら、テレビは生まれなかったかもしれません。



彼の晩年、1915年に、IEEE (アメリカの電気・電子学会)から最高栄誉であるエジソンメダルを送られます。


が、彼はこれを辞退。

彼は本当にエジソンのことが嫌いで、エジソンの名前の付いた賞など貰いたくなかったのです。


このため、1915年は「該当者なし」となり、翌年改めて受賞を打診されます。


IEEE としては、テスラの業績を認め、彼が受け取らないのであれば他に該当するものなどいない、という態度でした。

テスラが受賞しないのは、テスラ一人の問題ではなく、他の科学者にも迷惑をかけることになります。

また、丁度この頃に無線実験の失敗が確定的となり、テスラの生活は困窮していました。


IEEE としては、どうしてもテスラに受け取って欲しいから、生活の困窮という「弱みに付け込んだ」形です。

テスラもこれに折れ、1916年にエジソンメダルを受賞。



さらに、1930年にノーベル賞候補に推薦されますが、この時は「エジソンと同時受賞」という条件でした。


エジソンの「名前がついている」だけならまだしも、壇上で一緒に、にこやかに受賞しなくてはならない。

彼はこの条件を拒否し、候補を辞退。これにより、エジソンもノーベル賞を逃しています。


翌 1931年、エジソン死去。

テスラは、ライバルの死に際してインタビューに来た新聞記者に対し、「エジソンは、本で学習することや、数学の知識を軽視していた」と厳しい批判をしています。


とにかく、テスラは生涯エジソンを許さなかった様子です。



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僕の担当部分  2015-07-11 18:28:52  業界記

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さて、ファイナルアーチ…開発初期は「ポリゴン野球」と呼ばれていただけだと思いますが、そのチームに配属になってから。


手相の時とはハードも違うし、2Dと3Dの違いがあるのでデータの整理方法も違います。

とはいえ、すでにデータ加工ツールは存在しているし、あとはひたすらデータ整理をするだけ。


仕事の内容を一通り理解したところで、早速自動化します。


手相の時は awk を使いましたが、awk では限界を感じていました。

実は、手相の途中で perl の勉強を始めたのですが、無理やりとはいえ動いているツール群を修正する必要も感じられず、「勉強」どまりでした。


#この時、近くの席にいた先輩に perl の本貰いました。ありがとうございます。まだ大事にしてます。


ファイナルアーチでは、perl で整理ツールを作ります。

…このツールが、いつの間にか他のチームの人も使うようになっていた奴ですね。バグ入りだったのに。




ポリゴンデータ作る人も、まだ慣れてません。

ある時、貰ったモーションデータでは、腕が左右逆についてしまっていました。


おかしいですよ、と指摘するも、画面上で正しく動いているし、データがおかしいわけがない、と言われます。

仕方ないから、自分の作った整理ツールで特別扱いして、左右反転するようにして切り抜けました。

でも、なんかスッキリしない。


しばらく後になって、その人が「ごめん、ポリゴンデータが渡した奴と違ってて、結果的にモーションおかしくなってた」と謝ってきました。

正しいデータを貰い、特別扱い処理のプログラムを消して、問題解消。




手相の時と同じく、データ整理が自動化されると手が空きます。

「データ整理要員」で入ったのですが、プログラムを手伝い始めました。


この時問題になっていたのが、ポリゴン数が多すぎること。


バーチャファイターなら、画面上に出る人は2人です。


野球だと、守備側9人に、攻撃側最大4人。審判も表示しないとおかしいので、最低4人。(各塁審)

打つまではキャッチャー・バッターをクローズアップして表示していますが、打った瞬間どちらにボールが飛んだか示すために、球場全体を表示するようにカメラを動かします。


つまり、画面上に17人を表示しなくてはならないのですが、ST-V にはそれほどの能力はありませんでした。



方針はすでに定まっていました。

アップに耐えられる「フルポリ」と、遠景用に頂点数を減らした「マッチ箱」、さらに板1枚の「書割」と呼ばれる3種類のキャラを用意して、切り替えます。


審判なんて、真っ先に書割にしても構いません。

でも、ボールが飛んでいく先の人は注目されるから、できればフルポリで出したい。


これらを、違和感がないように切り替える処理が欲しいのですが、試行錯誤で作り出すしかありませんでした。

試行錯誤は時間がかかるのでメインプログラマーの仕事ではない。そこで、僕がこの仕事をやることになります。




フルポリゴンは200頂点位だったかな。

やせ気味、太り気味、上半身筋肉太り、下半身筋肉太り…など、何種類かの体型が作られていました。


マッチ箱、と呼ばれるローポリゴンは、たしか64頂点。

腕・足はそれぞれ三角柱2つで表現。体と頭はそれぞれ直方体で表現。

腰をひねることもできませんが、モーションデータは共通なので、「透明の腰」があるように動きます。


書割、と呼ばれた、人の絵を描いた板もありました。

板だけど、4頂点ではなく1頂点。板の表示位置だけ決めて、その位置にスプライトを表示しているからです。



たしか、人の合計で 700頂点位しか表示する能力がなかった。

画面上に最大17人、と先ほど書きましたが、フルポリゴンでは3人程度しか出ない。


画面上のキャラクタ配置を元に、どのキャラをどのモデルで表示するか自動調整する必要がありました。

これも、僕が担当した部分。




まず、カメラ位置から各キャラクタの表示サイズの概算を計算する。この表示サイズが優先順位になります。

ただし、キャッチャーとバッター、球が飛んでいく先の野手には手心を加えて、ポリゴンになりやすくする。

審判にも手心を加え、優先順位を落とす。



画面上の表示人数をカメラ位置から求めて、まずは全員マッチ箱に出来るか、頂点数を計算する。


全員マッチ箱に出来るなら、「余った」頂点数で、優先順位が高い奴からフルポリ指定する。

全員マッチ箱が無理なら、優先順位が高い奴からマッチ箱にして、頂点数が足りなくなった時点で、あとは書割に。



たしか、実際にはもっと細かな処理を入れ、見た目が破綻しないようにやっていたはずです。

でも、頂点数を守らないと処理落ちするため、やむを得ず「巨大マッチ箱人間」が登場することもありました。


もっとひどいのが、移動するキャラが「書割」になった時。

「待ち構えている」絵柄しかないので、静止したポーズのまま横滑りしていきます。


#そもそも、バッティング時のセンター外野手を書割にする、程度の使い方を想定していたのです。




他に何担当したかな…

と考えていて思い出しました。地味だけど、「砂煙」の表現を作りました。


ST-V では半透明が使えないので、メッシュ半透明。

ボールがバウンドしたり、スライディングしたりすると、砂煙が上がります。


ところで、ゲーム中では選択したチームによって、球場などが変わりました。

その中の一つに「河川敷球場」という設定のものがあります。


河川敷の土手の下にある、という草野球のような球場。プロなのに。

外野スタンドは芝生で、レジャーシート敷いて座っているお客さんが少しいる程度。


外野席の上は土手で、自動車とか停まっている。



ポリゴンモデルなどを入れた後で、急に「ホームランで自動車にぶつかったら、壊れて煙出すことにしようよ」っていう謎の話が…

これ、メインプログラマーの人と話をしていた覚えはあります。

でも、勝手に入れたのか、企画者の人も巻き込んだのか覚えていません。


僕がそのプログラムを担当して、かなり広めに「あたり判定」を取って、ぶつかると煙を出します。

でも、そもそもホームランは出にくいし、バットの振り具合で飛球の方向は変わるのですが、狙い通りのところにはなかなか飛びません。


偶然出した人はいるかもしれませんが、狙って出すのは難しいと思います。



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実装の苦労  2015-07-12 11:23:59  業界記

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世界初、というのは何気ないことで苦労するものです。

ファイナルアーチの場合、モーションデータをどのように使うか、でメインプログラマーの人が悩んでいました。


普通の野球ゲームなら、ボールが飛んできて、野手のスプライトにぶつかったら「捕った」という判定で構わない。

でも、3Dでこれをやると動きが不自然です。手を動かしてないのに、いきなりボールを持っていることになる。


ぶつかってから「捕った」モーションデータを再生するのも不自然。


どうしたものかなぁ…と相談を持ち掛けられたので、「ボールが2つある」というアイディアを出しました。


内部計算のために、ボールを飛ばします。あたり判定はこちらのボールに、かなり大きめにとっておきます。

野手に「当たった」ら、当たった位置に応じてモーション開始。


そのボールを追いかけるように「表示されるボール」が存在していて、たとえばジャンプキャッチするモーションがあると、丁度飛びついたところにそのボールがぶつかる…という寸法。


ボールの処理は結構ややこしいのだけど、2個計算するの? と言われたので、実際は内部バッファを持っておいて、グラディウスのオプションのように追いかけてくる。1秒遅らせて表示するだけで計算はしない…と提案。


実際には捕球動作ごとにモーションデータの長さが違うなどの問題もあり調整が必要だったようですが、この方式は採用されました。


3Dのスポーツゲームはまだ珍しく、応用も利くだろうということで特許出願もされました。

(すでに20年たって失効しているはずです。)



実は、「グラディウスのオプションのように」と表現しましたが、Cometの尻尾を思い出して提案したのだったりします。

「後ろをついてくる動き」って、フリッキーのころから好きで、ファミベでもよく作っていたし、Comet もそういう動きの試作から生まれたゲームなので。





当初は、打ったタイミングにより角度などを計算して打球を飛ばしていました。


でも、これだと慣れないとうまく打てないのね。

逆に、慣れると簡単になってしまう。


業務用では、一定時間楽しんでもらう、というのが前提です。

ユーザーの操作にゲームの流れを任せていると、時間調整ができない問題があります。


そこで、途中で手心を加えるようになりました。

ゲームの流れを見て、まだ時間があればもう少し楽しんでもらえるように、取られにくいところに落ちるように打球を「微調整」します。

逆に、そろそろ終わって欲しければ、Out になるところに微調整します。



金をとるために難しくしていると取られると心外なのですが、下手なプレイヤーに対してはサポートする方向に働きます。

また、当たり具合で調整の確率を変えるようにもしているので、腕前はそれなりにゲームに反映されます。




このような「手心を加える」プログラムが入ったことで、解決した問題がありました。


インフィールドフライ問題。


ゲームが作成される少し前、1991年にプロ野球で起こっていました。

プロ選手のほとんど誰もが知らない、非常に複雑なルールでプレイが混乱し、勝敗が決した珍事。


これを企画の人が資料を漁っている最中に発見。ちょっとした議論になったのです。


#ちょうど、昨年も24年ぶりにこのルールが適用されて話題となった試合があったようですね。



そのルールとは、次のようなものです。


ランナーが1・2塁にいる状態(満塁含む)で、アウトが2ではない際に、内野フライを上げた瞬間に打者はアウトになります。


この規則が無いと守備側は確実に2アウト取れてしまいます。

(フライが上がったので走者が塁にとどまった場合、わざと落球して3・2塁と送球すれば2アウト。

 それを避けるため1・2塁走者が走った場合、確実に捕球してから2・1塁に送れば3アウト。)


このルールを知った時点で、どう処理するか議論になりました。

結論は「プロも知らないルール、お客さんも知らんだろう。その状況にならないようにした方がよい」ということで、該当条件を満たすと内野フライが上がらないようになっています。


インチキかも知れません。

でも、野球シミュレータを作っているのではなく、楽しんでもらうためのゲームを作っているのです。




ルールと言えば「反則投球」問題。


選手の動きは、本当の野球選手(無名の、2軍選手だったと思います)に頼んでモーションキャプチャしていました。

これをポリゴンに与えて「再生」することで、動かしています。


まぁ、普通の作り方。何もおかしなところはないし、みんな「あぁ、ちゃんと動いている」という反応。


ある時、企画の人が気づきました。

投球動作の最中に、ピッチャーの足がプレートから離れてしまっている。


野球では、投球動作中はピッチャーはプレートを踏み続けなくてはなりません。

「既定の距離から投げる」ことを徹底するためのルールね。


これを怠ると、反則投球となって打者は1塁に進みます。


キャプチャ時には、もちろん選手は正しく動いてくれていました。

しかし、キャプチャって万能ではないのね。かなり誤差が出るので、「参考」程度にしかならなくて、デザイナーの人が補正する必要がある。


でも、デザイナーの人、野球のルールに詳しくありませんでした。

投球動作中の足の動きが、本来とは少しずれてしまった。このずれが「プレートから離れる」動きになってしまったのです。


そして、プログラマも野球のルールに詳しくなかったので、その動きを見ても問題だとは思わなかった。

周囲の人も、誰一人詳しくないため、誰も問題だと思わない。


唯一ルールを知っていた企画の人は、ゲーム全体の流れなどを見る必要があってそんな細かな部分を見ていなかった。


最終的に企画の人が気づいたわけですが、誰一人野球に詳しくないから、こんな基本的なことを見逃していたのです。


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【追悼】岩田聡さん(任天堂社長)  2015-07-13 09:42:58  今日は何の日

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今朝、任天堂の岩田さんの訃報を知りました。11日に亡くなったそうです。


HAL研究所でHALNOTEの開発を率いました。

僕は HALNOTE …当時はあまり売れなかった、MSX 用の「統合環境ソフト」に心酔し、高校生の時にお小遣いをはたいて購入しましたし、関連書籍なんかも買いあさりました。


別売りだった表計算や、「直子の代筆」は購入しませんでしたけど、ワープロとドローが同じ感覚でつかえる、というだけでも大満足でした。


世の中には、まだ MS-Office とか存在しない頃の話ね。

その頃に、同じようなことを、8bit 機でやっていた。


岩田さんの名前は当時知らず、任天堂の社長になった時にやっと知った程度。


それ以前に HALNOTE の記事を書いていたのだけど、社長になった時にやはり岩田という名前は無名で、2ch で「HALNOTE を作った人」という説明で僕のページがリンクされていた。

これで初めて、HALNOTE を作った人なんだ、という認識ができた。


でも、2ch の話だから裏付けがないと自分のページには書けない。

情報として追記しつつ、「裏が取れません」と長い間書いたままでした。


今年になってから、やっと当時の雑誌の写真をツイートしている人を見つけ、裏が取れました。




任天堂とHAL研は仲が良くて、ファミコン初期の作品もずいぶんと作っています。


僕が持っていたもので…あとで岩田さんの作品だったと知ったのは、ゴルフとピンボールくらい。


ピンボールは、非常に動きが良かった。

ずいぶんと遊びましたし、あのゲームで「本物のピンボール」を好きになった。


#岩田さんと関係ないけど、BANZAI RUN が大好きでした。



ゴルフは僕の兄が遊びたがって買ってきたものだったのだけど、こちらも非常に細かな計算をしていました。

ゴルフって、ボールの飛び方が非常に大切だから、そこにこだわらないと面白くならない。


あと、友達から借りてずいぶんと遊んだゲームでは、バルーンファイト。

あれも動きの良いゲームでした。



「社長が訊く」で明かしていましたがバルーンファイトは小数点以下を計算して滑らかな動きを出しているのだそうです。

恐らくは、ピンボールも、ゴルフもそう。


ファミコンの画面サイズは 256x224 で、横座標も1バイトに収まります。

これをあえて、2バイト使って計算して、上位の1バイトだけを表示に使っている。

「小数点」というとややこしそうだけど、種明かしすれば「なーんだ」という程度のテクニック。


でも、こういう細かなテクニックを知っているかどうかというのが、ゲームを作るうえでは非常に大切でした。




天才プログラマだった、という評価が多いですが、一流ではあるが決して天才ではないとは思います。


新しいアルゴリズムを編み出したり、人の思いもよらないものを作りだしたりするタイプではない。

でも、上に書いたように、必要な方法をちゃんと知っていて、キッチリ作ることができる。



凡百のプログラマではなかった、というのは事実でしょう。

僕もプログラマ経験長いですが、凡百ではない、というだけでプログラムの業界ではどんなに貴重な事か。


そのうえ、やらざるを得なくなってHAL研の社長をやったことで、経営センスも身に付いた。

プログラマーで高い経営センスの持ち主って、非常に珍しいと思います。


#ビル・ゲイツもそうでしたね。



HALNOTE の頃から一貫して、スペック競争を嫌っていたように思います。


HALNOTE は、8bit 機の小さなメモリとフロッピーディスクだけで今の Windows みたいなことをやっていた。

当然非常に遅くて、世間的な評価は「使い物にならない」だったようです。僕は好きだったけど。


これに対する反論が「ただ遅いだけ」でした。

遅いことが最大の問題だけど、そんなことよりも出来ることの可能性に目を向けてほしい、というメッセージでした。


実際、HALNOTE は MSX-VIEW と名前を変え、16bit 化して高速になった MSX-TurboR の OS (オプション)となります。

速度の問題は時間が解消するのです。



任天堂社長になってからも、NintendoDS 、Wii で一貫してスペックの公表を拒みました。


前社長である山内氏の時に、ゲームキューブでスペックを公表したところ、「ゲームの面白さ」よりも「スペックの数字」で比較されてしまった事への反省でした。


実際 Wii はスペックが低く、同時期の他のゲーム機と「同時移植」をしようとすると問題になったようです。

そのため、大作タイトルが Wii だけでない、という状況もしばしば起こり、徐々に失速しました。


でも、Wii のゲームがつまらなかったかというと、それは別問題。

当初は Wii にしかなかった「モーションコントロール」という概念をすぐに他社が真似したのも、そこにゲームを面白くする可能性があったためです。


ただ、Wii も元気があったのは初期だけで、だんだん他のゲーム機で人気のあるタイプのゲームを作るうちに、独自性が薄れていったのは事実。


スペック競争にしないのであれば、別のところで競争しなくてはなりません。

でも、結局スペック競争の土俵に引きずり込まれていって、苦戦する形になった。




独自路線を歩もうと思ったら、鉄の意思と、根回しの力が必要です。


岩田氏の場合、プログラマーとしての経験と社長業としての経験、両方が一級だったからいろいろな要求を突っぱねることも出来たし、社内の技術者を説き伏せることも出来た。


任天堂は決して大メーカーではないので、他社との正面からの競争はできないでしょう。

しかし、正面衝突を避ける経営は、他の人ではなかなか難しそう。


任天堂だけの問題ではありません。


「遊び」っていうのは多様性が重要なので、「正面衝突を避ける」、つまりは多様な市場展開をするのは、業界全体を支えるために必要なことです。


でも、正面衝突を避けようとすると、新たな商品を開発する必要があって時間も資金も必要になります。

これは、会社経営としては悪い判断。


あえて衝突しに行けば、安易な物まねで済みます。時間も資金も節約できて、市場も大きいためリターンの可能性も高いのです。こちらの方が経営判断として良いのです。



それでも、岩田氏は常に「正面衝突を避ける」方向で物事を考えていたように思います。

実際、それが経営判断として適切だったかどうかはわかりませんが、業界全体のためにはそういう心掛けは重要だと思います。


まだ若い(享年55歳)のに、業界を担う重要な人を亡くしました。



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今日は何の日

別年同日の日記

07年 サーバー交換

12年 強力な武器

17年 ルビク・エルネーの誕生日(1944)


名前 内容

収益を考える  2015-07-13 11:59:53  業界記

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ファイナルアーチの話の続きです。


野球って、9回表裏、18ターンの攻防で終わる、長丁場です。

これを業務用のゲームにする場合、100円でどこまで遊ばせるか、という問題が付いて回ります。


ファイナルアーチ以前のゲームでは、「1回が終わった時に、コンピューターより点数を取っていれば続行できる」というルールが標準でした。


しかし、時代的に「対人対戦」が求められていました。

対人の場合、「コンピューターより」というルールは成立しません。


長い議論の末、ファイナルアーチでは「100円で2回の攻防。4連続でプレイしてくれたお客さんには、サービスでもう1回つける」となっています。

つまり、100円1プレイですが、決着をつけたいと思えば400円が必要です。


どんなに腕を磨いても、中途半端なところで強制コンティニュー。

これにはチーム内の反発もありましたが、商売を考えると妥当な落としどころかもしれません。


ところで、「対人対戦」には、もう一つ注文がついていました。乱入可能とすること。


乱入された場合どうなるのでしょう?

終了後、点数を入れたほうが続けられるとして…それまでやっていたプレイ内容は引き継ぐの?


遊んでいた人が勝てば引き継いでもいいのですが、負けた場合は?

知らない人のプレイを引き継いでも面白くないので、「なし」と決まります。


となると、遊んでいた人は「再乱入で取り返す」こともできない。

苦労は水の泡です。


今度は、これをどうするか激論になります。

チーム内で出た意見は、2回100円は良いとして、乱入対戦は無しにしたい、というもの。


しかし、会社の偉い人との交渉の結果、この意見は受け入れられません。

ゲームセンターにとっては「乱入対戦」はゲーム機の稼働効率を上げる優れた方法であり、絶対入れなくてはならなかったのです。


社内の偉い人と、チーム代表者で激論が交わされました。


お金も時間もかけて乱入にされたら、暴力沙汰に発展しますよ、というチーム代表の脅し(?)に対し、偉い人はこう言い捨てます。

「それは作成者が考えることではない。店舗が対策する問題だ」


サラリーマンが時間つぶしに遊べるような野球ゲームを、というのは、店舗営業から上がってきた意見でした。

そしてまた、乱入対戦が欲しいというのも店舗からの意見です。


ならば、両者を盛り込むことで起こる問題は、店舗の方で解決してもらおう、ということでした。


交渉に臨んだチーム代表者は、この言葉に「お客さんのことを考えてない!」とブチ切れてましたが、仕方なく製作を進めるうちに冷静になったようです。

「店舗の問題」というのは、つまり「乱入禁止」などのポップを用意してもらうしかない、ということでもあります。


これ、当時の対戦格闘ゲームではごく普通に行われていたことでした。


#もう少し時代が後になると、乱入禁止スイッチなどが付きます。




この頃のセガは…というか、ゲーム業界全体で、ゲームの中に広告を入れようという試みがありました。


ゲームが3Dになり、表現力を上げるためにハードウェアが複雑化し、それを扱うためにソフトウェアも複雑化し、データも膨大になり…

とにかく、製作費用が膨れ上がっていく時期。


そのままでは販売価格が跳ね上がってしまうので、広告を入れることで少しでも収入を増やし、安くするのが目的でした。


セガでも、広告を入れられないか、すべてのゲームで積極的に考えるように、という通達がありました。

野球ゲームなんて、元々野球場は広告だらけですからうってつけ。


…ところが、急に広告を入れようとしても、未知のメディアに対して「広告主」が見つからないのですね。

営業が広告を取ってこようと努力はしたようなのですが、結局1本も広告は入っていません。



ところで、当時「進め!電波少年」という人気深夜番組がありました。

この番組の中でも、ゲームに広告が入っていることを捉え、「番組の宣伝をゲームに入れたい」という企画が出ます。


この番組、とにかくプロデューサーが無茶振りして、タレントが体当たりでこなす、というスタイルを広めた番組。

(今でもそういう番組はそこそこありますね)


セガにも急にタレントの松村邦弘がやってきて、広告を入れたいとお願いされたようです。

その時、丁度「ファイナルアーチ」が完成間近で、営業が広告を獲得しに回って…いるけど、全然取れない状況でした。


で、ファイナルアーチに電波少年の広告を入れることになります。


他に広告無いから、一番いい場所に入ることになりました。

いくつか球場があるのですが、ドーム球場のスコアボード左横に入っています。


先日も紹介したコチラの動画だと、32秒めと42秒目くらいに、一瞬写っている。




ちなみに、それ以外の広告はほとんどがスタッフの名前を入れた適当な広告になっています。

締め切りまでに広告が間に合わなかったから、デザイナーが短時間ででっち上げた。


スタッフロールとか入るゲームではなかったからね。

僕の名前も、先ほどの動画の中で確認できます。


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07年 サーバー交換

12年 強力な武器

17年 ルビク・エルネーの誕生日(1944)


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ジェイ・フォレスター 誕生日(1918)  2015-07-14 12:00:26  今日は何の日

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今日は、ジェイ・フォレスターの誕生日(1918)。


Whirlwind I の開発発案者です。まだ御存命のようでなにより。


2017.7.14 追記

昨年、2016年の 11月16日に亡くなられています。


詳しくは Whirlwind I のページに書いていますが、ざっと略歴を。




第2次世界大戦中、MIT でサーボ機構の研究開発を行っています。


サーボ機構というのは、いまでいえば「フィードバック制御」のこと。

レーダーで敵機を捉え、捉えた敵機の動きに応じて、常にレーダー探知の「中心」にとどまるように、レーダー自体を動かします。


同時に、この敵機の動き・距離などを勘案し、「撃ったら弾が飛んでいき、当たる」と思われる向きに砲塔を向けます。

今で言えば「ロックオンされた」状態。後は引き金を引けば敵にあたります。



当時はコンピューターが開発される以前なので、全部アナログ回路で動かしていました。

微妙なノウハウの塊で、ジェイ・フォレスターはその第一人者でした。




ある日、彼の元に「訓練用のフライトシミュレータを作れないか」という相談が舞い込みます。

サーボ機構のノウハウを使い、空気抵抗などをシミュレーションして操縦するシステムを作るのですが、シミュレーションが要求された精度に全然届きません。


ここで発案されるのが、Whirlwind プロジェクト。「つむじ風」という意味です。


当時のコンピューターは、1bit の計算回路しか持たないのが普通でした。

1bit でも、繰り返し計算すれば大きな数を計算できます。

ちょうど、人間が大きな数の足し算をするときに、筆算を使って1桁づつの計算に分解するような感じです。


当時は、1bit の計算を繰り返して、36bit ~ 72bit 程度を一度に計算するのが主流でした。

これを、計算回路の幅が 1bit で、計算対象の幅が 36bit ~ 72bit 、と呼ぶようにします。


Whirlwind はフライトシミュレータのために、もっと計算速度が必要でした。

そこで、計算回路の幅を 16bit にして計算します。…これは、当時としては恐ろしく複雑な回路となりました。


計算対象の幅も 16bit です。当時は「対象の幅が大きいほど良い」風潮がありましたから、16bit では話にならない、という人もいました。

しかし、フォレスターはわかっていました。速度が速ければ、ソフトウェアで 16bit の計算を繰り返すことで、32bit にも、64bit にもできます。




計算回路が速くなればコンピューターが速くなる…というほど話は単純ではありません。

実は、当時一番の問題はメモリ。普通は水銀遅延管…超音波という「物理動作」が、電気回路よりも遅いことを利用して、この「遅さ」を記憶として使う方法でした。


実のところ、1bit づつ計算を行う当時のコンピューターは、水銀遅延管を使っていたことに由来します。

水銀遅延管は遅いため、1bit づつ計算するのにも、「メモリを待つ」状態になってしまうのです。



16bit を一度に取りだせて、超高速で動作するメモリが必要でした。

Whirlwind プロジェクトでは、新しいメモリを開発しようとしますが、結果的には失敗。


もう、なんでもいいからメモリとして使えそうなものを片っ端から試す、という状況になります。


ここで見出したのが、コアメモリでした。

非常に単純で、非常に安くて、なのに超高性能…と、中国系移民の発明者は言っていました。


もう、明らかに怪しすぎるし、当時はあまり相手にされていなかったようです。


でも、Whirlwind I は本当に片っ端からメモリを試す状況でした。…使ってみたら本当に理想的なメモリ。


Whirlwind I で採用されて以降、コアメモリはコンピューターメモリの花形となります。

1970年代に、集積回路でメモリを作ろう、というベンチャー企業…インテルが登場するまでは、メモリと言えばコアメモリでした。


#コアメモリは、非常に小さなビーズを入れて、細いワイヤを「編む」必要がある。

 小型化に貢献したのは、手先の器用な日本人だった。かなりの量の生産を行い、アメリカに輸出していたらしい。


2017.7.14 追記

コアメモリの発明に関する話、少し勘違いがありました。

中国系移民の発明者が考案したのを使った、のではなく、中国人発明者のの見つけた「記憶効果」を応用し、WhirlWind I のチームが、

「コアメモリ」として発明しています。




高速なフライトシミュレータを作るのであれば、状況をすぐに図示する装置も必要です。


実は、Whirlwind I は、世界で初めて「画面表示」を採用した機械でもあります。

ベクタースキャンディスプレイで、何度か装置が交換されていますが、最終的には 2048x2048 の解像度を持ちます。

また、簡単に文字を表示する機構も備わっていました。


まだ作成中の初期段階で、画面に「弾むボール」を表示するデモプログラムが作られています。

スイッチを使って様々な係数を変更し、いろいろとボールを弾ませることができる。


特にゲームではないのですが、テレビ画面とコンピューターを使ったもっとも初期の「遊び」とされます。




プロジェクト最初の成果物、Whirlwind I (1951)は、現代のコンピューターの直接の「始祖」となるものです。

それ以前のコンピューターとは明らかに構造が異なっている。


本当は、I は性能を確認する実験機にすぎず、つづけて II が作られるはずでした。

しかし、I だけでも予算をはるかに超え、II は作成されません。


I を元にした量産機は、軍事用コンピューターとして多数作られました。

画面を表示するだけでなく、光を感知する「ライトペン」を使って、画面にタッチすることで操作できます。


コンピューターは元々計算用の機械でしたから、入力機器として文字を入れる「キーボード」が普通になるのは、もっと後の話。

キーボードより先に、画面にタッチして操作する、という入力方法が使われていたのです。


#もっとも、Whirlwind I では、タイプライターも接続されています。

 キーを使った入力もできたようですが、主に出力のための「プリンタ」としての利用でした。




さて、もう一つ、APT の話も書いておきましょう。

こちらは、ジェイ・フォレスターが直接指揮を執ったわけではありませんが、彼の研究室で作られたもので、「サーボ技術」…最初に書きましたが、フィードバック制御の実績を買われて持ち込まれた相談でした。


コンピューターを使って金属の削り出し加工ができないか、というのがその相談。

当時、旋盤の刃を数値に従って動かす機械はあったのですが、金属の「固さ」に負けて、本当に必要な部分まで削ることができずに誤差が出るのです。


フィードバック制御ができれば、本当に必要なところに刃が達したことを確認でき、誤差のない加工ができるのではないか…というのが相談の内容。



こちらは、機械はほどなくしてできたのですが、その機械を制御するコンピュータープログラムの開発が難航しました。


最終的には、APT …Automatically Programmed Tool (自動プログラム装置)として完成します。(1959)

形状定義ファイルを入力すると、加工機を制御するためのプログラムを生成してくれるプログラムです。


これ、デジタルで形状を作り上げると、手に取れる形にしてくれる「3Dプリンタ」の元祖です。



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16年 監視ユーザーの問題回避


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厄介なバグ  2015-07-14 16:47:55  業界記

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ファイナルアーチの話の続きです。


完成間近になって、エージングが行われます。


エージングとは、長時間ほったらかしで止まらないことを確認する作業。

業務用ゲームって、1日中電源入っていますからね。止まるようではお話にならない。


…数日置いといたら止まりました。

画面真っ黒で、どこで止まったかもわからない。


数時間で止まるなら、まだ対策もできます。ビデオにとっておいたりして、止まる瞬間を捕まえられますから。

でも、「数日」というのが手におえない。


時間もないので、プログラマー全員で原因究明、となりました。


普段は僕は「他人の領域には手を出さない」ことにしているのですが、こういうときは別。

先輩方が作ったプログラムも、片っ端からチェックします。


しかし、情報が少なすぎてなかなか原因がわからない。


#他人の領域に手を出さないのは、大学の頃に読んだ新聞記事の影響。

 人の担当部分を見たら、バグの原因となりそうな処理があったので指摘したところ、相手のプライドを傷つけてしまい職場の人間関係にひびが…というような内容。

 そういうトラブルは起こしたくないので、基本的に人のプログラムは見ないことにしています。

 でも、バグ取りが「仕事」になれば、大義名分を得たことになるので他人の部分まで突っ込みます。




とにかく停止バグを捉えること、というので、一応ビデオも回しつつ、エージングを続けます。


すると、やっと停止の瞬間を捉えました。

デモ画面の途中、場面転換しようとした瞬間に停止しています。


メインプログラマー氏、その近辺の処理のプログラムを探し始めます。



それとは別に、ひたすらテストプレイも行われていました。

こちらでも、乱入したら停止した、という報告が。


えー、デモ画面と乱入した時では、全然違うことやってるよー。

全然違う個所なのに同じような停止バグを引き起こす。

原因のめどもつかず、一番厄介な状態です。




メインプログラマー氏は、自分のプログラムの何かがおかしいのだと考えて一生懸命チェックしています。

でも、僕としては、全然違う場所で同じようなバグが出るのだから、もっと深いルーチンがおかしいのではないか、と考えました。


でも、深いところにあるルーチンは、呼び出される頻度も高い。

なのにほとんど停止せず、ごくまれに停止するということは…



ヒントを求めて、ハードのバグなどの「追加仕様書」を片っ端から眺めます。

仕様書はプログラマーは全員手元にファイルを持っているのですが、後からの「追加」は、必要と思われるものだけがコピーされます。

完全版は、部内でファイルされたものが一冊あるだけ。



…怪しいものを発見しました。

追加仕様書に、サターンの CD用バッファから VRAM に向けて一定サイズ以上の DMA 転送を行ってはならない、という仕様がありました。


これ、ややこしい技術話ですが、面白いので書きます。


ST-V はサターンと同機能のボードです。

そして、サターンは3つのバスを持っていました


CPU のメインバス、VRAM やサウンドが接続された A バス、CD-ROM 等が接続された B バスです。


メインバスは、命令実行のために CPU に頻繁に使われます。

VRAM やサウンドは、画面や音楽の出力のため、画面出力回路に頻繁に使われます。

そして、CD-ROM などは低速デバイスなので、バスを占有しがちです。


これを1つのバスに混ぜていると、信号がぶつかり合って、頻繁に「待つ」ことになります。

なので、3つに分離した設計。


でも、3つのバスでのデータやり取りは必要ですから、System Control Unit (SCU)という LSI で接続されています。

SCU はバスの利用を引き受ける回路で、DMA 転送も担当していました。


DMA とは Direct Memory Access の意味で、CPU を使わずにメモリアクセスをすることです。

一般的に、ある程度のサイズの内容をコピーする機能(DMA 転送)として使われます。


DMA を使わないと VRAM にアクセスできない、という意味ではありません。

VRAM には CPU からアクセス可能なアドレスが割り振られ、直接操作することは可能でした。

それでないと、画面を作れませんから。


つまり、SCU は CPU バスに流れる信号を検知し、VRAM に流すべきであれば自動的に A バスに転送します。

しかし、そうでない場合は VDP と CPU のバスを切り離し、それぞれ頻繁にバスアクセスしても、問題を起こさないのです。

巧妙な設計でした。




ところで、CPU には RAM リフレッシュ機能がついています。

RAM はしばらくほおっておくと記憶内容を「忘れる」ので、それを防止する機能です。


命令しなくても、CPU が勝手に「古くなりそうな」RAM 内容を読出し、改めて書き込みます。

これで内容が「リフレッシュ」され、記憶が消えるのを防ぎます。


さて、本題。

SCU が DMA 転送を行っている間、SCU がバスを占有します。


A バス・B バス間の転送であれば CPU バスは無関係に思えますが、CPU からのアクセスは SCU がどのバスに流すべきか判断するため、アクセスが生じた時点で CPU も待たされることになります。


CPU は内蔵キャッシュがあるので、DMA 中も命令を読み込み、同時稼働することは可能でした。

…が、リフレッシュ機能は、外部アクセスを必要とします。



結果として、DMA 転送の時間、リフレッシュは待たされます。

余り期間が長いと、「消えそう」な RAM の読出しが間に合わず、実際消えてしまいます。


普通は十分に時間に余裕をもってリフレッシュするため、致命的にはなりません。

しかし、何百回に1回は、間に合わずに RAM が消えてしまうこともあります。


これが、追加仕様にあった「CD用バッファから VRAM に向けて一定サイズ以上の DMA 転送を行ってはならない」の真意でした。




追加仕様書の記述は「CD用バッファ」だったため、CD-ROM を使用しない ST-V では関係のない話、と思われていたようです。

この仕様は、誰も気にすることなく、部内のファイルに埋もれていました。


しかし、ST-V カートリッジも B バスに接続されるので、これは CD-ROM と同じ扱いです。

これが原因ではないかと考え、メインプログラマー氏に詳細を報告します。


ここで「禁止」されていたデータサイズは、CD-ROM を前提とするのであれば、あまり問題にならないサイズでした。

読み込みバッファ全部を使いきるようなサイズでの転送を行わないと、禁止事項に触れませんでしたから。


しかし、ST-V ではカートリッジを使い、このバッファよりずっと大きなメモリを転送できます。

そして、まさにそれをやっていました。VRAM 上のテクスチャを、全部一気に転送していたのです。


デモ中の画面転換シーン、乱入されたとき…停止した場所は、特に画面が急変するため、多くのテクスチャを送っているシーンでした。


メインプログラマー氏は、DMA 転送の指示を分割し、1回で転送していたのを 10回程度に分けるようにしました。

この程度であれば、速度の低下はほとんどありません。


そして、この後はエージングしてもバグは再発しませんでした。

どうやら、推察した通りの原因だったようです。



でも、こういうバグって、原因も「多分」だし、治ったかどうかも、確率問題だから確認しようがないんですよね。

締切も近かったので、本当にこれで正しいのか不安だった記憶があります。



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ファミコン・SG-1000の発売日(1983)  2015-07-15 10:31:04  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、任天堂のファミリーコンピューター、およびセガのSG-1000・SC-3000(上位互換期)の発売日(1983)。

32周年です。0x20周年です。区切りの年です、と無理やり言っておきます。


ちなみに、SC-3000はSG-1000にキーボードが付いた「パソコン」ね。

中学の時に友達が持っていて、しばらく借りてプログラム作ったことがあります。



ほんの数年前まで、ファミコンもSG-1000も、発売が「1983年7月」というだけで、正確な日付まではわかっていませんでした。

でも、30周年を前にして日付を特定しようと一部の方々ががんばって、共に15日の新聞に「本日発売」と広告が出ているのを見つけ出しました。


素晴らしい成果です。

僕もコンピューター関係の歴史調査を趣味にしているので、そういう素晴らしい成果を出したいとは思うのですが、なかなか難しい (^^;;




2年前に、30周年を祝う話は書いていますし、その関連でいろいろな話題を書きました。


なので、過去の記事へのリンクをまとめておくだけにします。忙しいので手抜きです(笑)


#結構語りつくしたので、もう書きたいことが無い、というのが実情なのですが。


祝30周年

ゲームの歴史・ファミコン以前

→さらにその後掘り下げて書いた、世界初のテレビゲーム


80年代の画面表示技術

基礎知識

MSX編(SG-1000は、MSXと同じ画面表示回路を使っています)

ファミコン編



6502は遅かったのか?

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ファミコンとMSXはどちらが速いの? という内容で書いた一連の記事。

MSXとSG-1000のCPU・クロックは同じですので、ゲーム機のライバル対決と読み替えていただいても。


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13年 祝30周年

13年 ゲームの歴史・ファミコン以前


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海外版  2015-07-15 17:16:59  業界記

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ファイナルアーチの話は、これで最後。


このゲーム、Super Major League というタイトルでアメリカ版も発売されました。

もちろん、球団や選手名などは、アメリカのメジャーリーグのものになっています。


「データ変えるだけだから簡単でしょ?」って言われて対応することになったのですが、これがまた、一苦労。


アメリカの球場って、日本の球場みたいに左右対称になっていないのが普通なのね。

立地条件などの都合で、いびつな形になっていて、右に打てば簡単にホームランになるけど、左だとダメ、とかなってる。


日本人はこういうのを見ると「公平じゃない」と考えてしまうのだけど、元々野球はショースポーツ。

公平かどうかなんて、どうでもいいんです。大切なのは、ショーとして盛り上がるかどうか。


形がいびつだから、球場ごとに選手の得手不得手が出る。

ピンポイントに狙って打つ技量のある選手が、ちゃんとホームランになりやすい方向に狙って打ったりすると観客は盛り上がります。



でもね、ファイナルアーチでは、球場は左右対称、という前提でポリゴンデータを削減していた。

いびつな形の球場を入れるために、データ構造から見直す必要が出ました。


さらに、日本ではユニフォームは「ホーム」と「アウェイ」の2種類しかないのに、メジャーリーグだと「オルタナティブ」を含めて3種類ある。


プロ野球は、それぞれ自分の所属するチームの球場を持ちます。

自分たちの球場でプレイする場合は、ホームのユニフォームを、他の球場に遠征するときはアウェイのユニフォームを着ます。


これが、大リーグではもう一種類あるのです。

基本的に「ホーム」の扱いなのですが、イベントの際に特別に着たり、相手チームのアウェイユニフォームと柄が似ている時に着たり。


地元球団の試合を良く見に行くファンにとっては、地元球団は「いつも同じユニフォーム」になりがちです。

それを、時々変えてファンを楽しませる。こんなところも、ショービジネスであることを徹底しています。


#最近は、日本でもオルタナティブユニフォームを用意する球団が増えているようです。


これはどうしたのだっけかなぁ…

結局、ゲーム上では「特別イベント」などは存在しないから、入れなかったかもしれない。

実は各球団のユニフォームを変えるのが一番テクスチャ量として多かったので、入れたとしたらデータ容量が跳ね上がっていたでしょう。


ただでさえ、メジャーリーグの球団数は日本よりも多いですから。




そういえば、メジャー版を作るときには、球団数が多いのも問題になっていました。

ファイナルアーチには「トーナメントモード」というのがあって、何試合もして優勝を目指すストーリーになっているのね。


たしか、同じリーグ内の他の球団と戦う。

最初から戦うと大変なので、8回表、3-2で負けているところからスタート、とか、シチュエーションが決まった状態からの戦い。


日本の場合、6球団で戦って、3回勝ったら優勝、ではなかったかな。

(勝ち進んでも、コンティニューになる。最後までに300円必要)


ところが、アメリカだとアメリカンリーグで14球団、ナショナルリーグは16球団あるのですね。

トーナメントを作るにしても、5試合こなさないと優勝できないことになる。


…と思ったら、メジャーでは同じリーグでも「地区」が別れていました。

それぞれが、西・中・東の3地区に分かれ、同じ地区・同じリーグの球団と戦うのが基本。


そんなわけで、戦う必要のあるチームは、6~4球団でした。

これで、日本とほぼ同じ設定が使えました。




結構調整個所が多くて、ファイナルアーチは6月にはリリースしていたのに、米国版は冬になってしまったような覚えがある。


シーズン終わっちゃったよね、という話をしていて、でもアメリカは冬でも野球をやっているらしいから大丈夫、と企画の人が言っていました。

なんでも、冬に行われるリーグは「ストーブリーグ」と呼ばれるらしい、と…


今考えると、完全に勘違いしていますね。

今は「ストーブリーグ」って日本でも使う用語だけど、20年前はそんな言葉使われてなかった。


これ、試合のない冬に、ファンがストーブに当たりながら、来期はどうなるのか想像を膨らまして楽しむ…という意味合い。

実際のリーグ戦を行うわけではありません。


繰り返しになりますが、誰一人野球に詳しくなかったんですよ。まして、メジャーリーグなんて知らない。

野茂がメジャーに移籍して話題になったのが 1995年(このゲームの発売年)でしたが、まだ「日本人がアメリカで通用するわけがない」って冷やかにみられていたんですから。


#野茂は1995年にもそれなりに活躍して、野球好きの間では話題になりつつあった。

 でも、快進撃で誰もが知る存在になるのは翌年から。




ファイナルアーチ、家庭用には出なかったので、手元に置いておきたいなぁ。

人気あったわけでもないし、結構安値で中古販売されているのね。


でも、ST-V 基板って…案外高いな。基板だけあっても、筐体かコントロールボックスが無いと動かないし。

基板買う勢にはあまりなりたくないのだけど…



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13年 祝30周年

13年 ゲームの歴史・ファミコン以前


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原爆実験の日(1945)  2015-07-16 14:18:03  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日はアメリカ軍がアラゴモード砂漠で、プルトニウム原爆の爆発実験を行った日です。


トリニティ実験、と呼ばれています。

この日以降、世界は「核の時代」に入った、とされます。


…気の重い話題だ。日本人として、特に気が重い。

でも、主にコンピューターの歴史で「今日は何の日」を書いている以上、触れないわけにはいかない話題だと思うのです。



原爆の開発プロジェクトが「マンハッタン計画」と呼ばれているのは有名です。


当時、核物質が強いエネルギーを持っていることはわかっていましたが、爆弾に応用可能かどうか、は未知でした。

そのため、爆弾を作成するのであればどんな核物質が適切か、というところから研究が始まっています。


主な対象となったのは、すでに知られていた核物質である「ウラン」と、見つかったばかりの核物質である「プルトニウム」。


ウラン型の爆弾は、論理計算のみで製造がおこなわれました。

一方、プルトニウム型の爆弾は、爆発実験が行われました。


1945年の今日行われたのは、このプルトニウム型の爆発実験。

実験は成功し、後に長崎に投下されています。

(広島に投下されたのは、ウラン型でした)




当時はまだ、電子計算機は作られていません。ENIAC は開発が進んでいましたが、完成は大戦終結後です。


でも、Harvard mark I (ASCC) はありました。

原爆の理論を完成させるには膨大な計算が必要で、ASCC ではその計算の一部が行われています。

(ASCC で計算されたのが、ウラン型・プルトニウム型のどちらのものだったのかはわかりません。)



良く言われる、コンピューターが「戦争の道具として開発された」というのは適切ではありません。

どちらも、学者が「面倒な計算を行ってくれる道具」として着想したものです。


しかし、それが戦争の道具として「利用」されたのは事実です。


日本が「精神論」で戦争に勝とうとしていたことは、たびたび批判されます。

しかしそれは実は日本だけではなく、アメリカも第1次世界大戦中は同じで、非常に多くの死者を出したのです。


そこに目をつけ、ヴァネバー・ブッシュが戦争に「知見」をもたらします

実は、体よく予算をぶんどって大学・学者にばら撒くのが目的だった節はあるのですが、ともかくアメリカは知力を結集して戦争に望みました。



原爆等という想像を超えた兵器を着想したのも学者ですし、そのために計算力が必要となれば、ASCC のような計算機も利用されています。

間に合わなかったとはいえ、ENIAC のような新型計算機の開発にも予算が配分されました。

Whirlwind I だって戦時中に軍が予算を付けて開発を開始したものです。


戦争ですから、まさに「殺るか殺られるか」の世界。

わずかでも計算速度が遅ければ、敵の攻撃を受けて終わり、かもしれません。

とにかく、速度の速い計算機が求められました。ENIAC などは、その延長上にあるアイディアだったから予算が付いた、とも言えます。


今でも、計算機は速度が最重視されているように思います。

1980年代のパソコンなど、速度以外にも多様な評価軸があったように思うのですが。




話を核爆弾の実験に戻しましょう。


ウラン型とプルトニウム型は並行して作成されていましたが、プルトニウム型だけが爆発実験を行っています。


実験に先立ち、1通の報告書が大統領に提出されました。

報告書の作成者は、マンハッタン計画に参加したジェイムス・フランクを中心とした7人の学者。

このことから、報告書は「フランクレポート」と呼ばれます。


既に、核爆弾を日本に対して使用することは決定されていました。


#これに関してはいろいろあります。

 開発開始時にはドイツを標的にしていたようですが、チャーチル英首相とルーズヴェルト米大統領の会談で、ドイツ降伏前・原爆完成前から日本を標的とするようになっています。

 陸続きのヨーロッパで強力な兵器が使われてはかなわないので、島国で…という意図もあったかもしれません。


しかし、フランクレポートでは、その前にデモンストレーションとして実験を行い、それを使用することを日本に通告するほうが良い、としていました。


このレポートでは、各国が核兵器を持ち、互いに疑心暗鬼になる「冷戦」状態が戦後に生じる危険性を示唆しています。

技術はやがて普及するものですから、各国が核兵器を持つのは時間の問題。


冷戦を避けるためには国際協力が不可欠で、アメリカが率先して国際的な信頼を得なくてはならない、としています。

そこで、日本に対して核兵器使用を通告し、降伏を促す、という紳士的な態度が重視されるのです。



この報告書を受け、実験は行われました。

ただし、その実験成果をどのように世界に公表するかは、あらかじめいくつものシナリオが考慮され、実験結果を見てから決定されることになりました。


シナリオには、その破壊力を日本に見せつけて降伏を促すためのものから、「不慮の事故によって多数の科学者が死亡した」と伝えるものまで、複数あったようです。

実験結果は十分な破壊力であったものの、一部の科学者の予想ほどの破壊力はありませんでした。

結果として、成功はしたものの「火薬庫の事故で爆発があったが、死傷者は無い」と公表するにとどまりました。



日本に対して降伏を促さなかったのは、核爆弾を作るには高い技術が必要で、フランクレポートが危惧する様に、「すぐに他国が持つ」ようにはならないだろう、という考えもあったようです。




7月16日に実験が成功して、8月6日には広島に未実験のウラン型を、8月9日には長崎に実験と同様のプルトニウム型を使用します。


これに関しては、アメリカは公式に「戦争の終結を早め、無駄な死者を避けるためだった」としており、多くの人が…アメリカ人に限らず、日本人もその公式見解を信じています。

ただ、先に書いたフランクレポートの関係もあり、事はそれほど単純ではないようです。

戦争の終結を早めるなら、実験を公表するだけでも十分だったのですから。


日本では、1944年11月以降、首都東京に対する度重なる空襲…特に、3月~5月にかけての空襲と、5月に同盟国であるナチスドイツが降伏してしまったことで、敗戦ムードが濃くなっていました。


しかし、負けを認めるにしても、どこまで良い条件を引き出せるか…なかなか、すぐに降伏、とはいきません。

実のところ、当時アメリカと同盟国ではあるが、日本とは戦争していなかったソ連を通じ、アメリカとの和平工作を働きかけています。


こうしたこともあり、アメリカは日本が夏まで持たずに降伏するかもしれない、という情報を入手していたようです。

「既に降伏が近いと知っていた」ことは、「原爆が戦争の終結を早めた」とする公式見解と異なります。



アメリカにとっては、むしろ「降伏される」ことの方が困る状況でした。

やっと完成した新兵器の威力を見せ付けるには、実験だけでは不十分で、実戦での使用の方が衝撃が大きいのです。


また、砂漠での実験だけでは、実際の市街地への投下でどの程度の破壊力かを知ることができません。

是非、実戦で使用したい、というのがアメリカ側の思惑だった様子。



このため、アメリカは慌てて新兵器を投入した、というのが近年の歴史学者の見方。

もちろん、学者によって見解は異なりますが、アメリカの学者でもこの見解を支持する人が多いようです。


#念のため書いておきますが、僕は広島・長崎の補償を今からアメリカに求める…というような考えは持っていません。

 被害にあわれた方としては、「実験」目的で何万人も殺した、というのは許しがたいことだと思いますが、元々国のエゴがぶつかり合うのが戦争。

 ただ、過去にあった事実を、個々人が記憶しておくことは大切だと思います。二度と同じ過ちを繰り返さないためにも。




以下余談。


実のところ、日本は原爆を落とされてもなお、無条件降伏ではなくソ連を通じた和平に期待をかけていたようです。


ところが、 8月 9日にソ連が日本に対して宣戦布告。

これに慌てた日本は、 翌日 8月10日に、ポツダム宣言受諾の準備があることをアメリカに伝えます。


そして、8月 14日に正式に受諾通告。8月 15日に無条件降伏することを国民に周知。



ただし、これは「国民に対して周知した」というだけで、戦争は終わっていません。

局所的な戦闘は 8月下旬まで続き、 9月 2日に昭和天皇が正式な文章としての降伏文書に調印。


これによって戦争が終結します。




戦争終結からわずか4年後…1949年 8月 29日には、ソ連が核兵器の開発に成功します。


これは、アメリカの思惑とは違うものでした。フランクレポートにあるように「すぐに他国が核兵器を持つ」ということは考えられない、と思っていたようですから。


実際、核兵器の開発は非常に高いノウハウと、技術力が必要でした。ソ連も、普通なら短期間で開発することはできません。

しかし、軍事スパイが情報をもたらしたために、短期間での開発が可能となったのです。


このスパイ事件は後に映画になり、映画の中で SSEC が使用されています。

また、戦時中にフライトシミュレータを作るために開発されていた Whirlwind I は、ソ連軍の核攻撃からアメリカを守るための SAGE システムへと変貌します。


この後、フランクレポートが危惧したように、世界は冷戦へと進んでいきます。




この頃のコンピューターには、戦争や血なまぐさい話が付きまといます。

しかし、戦争だからこそ命がけで開発が行われ、急速に性能が上がっていったのも事実。


いま、平和にコンピューターを利用できる我々も、そういう歴史を知っている必要はあると思うのです。


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バーチャファイター・リミックス  2015-07-16 15:22:08  業界記

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さて、もう20年が過ぎている、1研で作っていたゲームの話を。

以前も書いたけど、同じ部署で作っていたと言っても僕は近くで「見ていただけ」なので、それほど詳しくは知らない。


まず、バーチャファイター・リミックスから。

1995年4月にはリリースされているようです。


サターン版は、「非売品」として、100万台達成記念のキャンペーンとして本体に同梱され、6月 16日から販売されています。


基本的にバーチャファイターと同じソフトですし、欲しい人はもう持っているはず。

だから、同梱だけで十分…というのは、悪くない判断に思える。


でも、単体発売してほしい、という声も多く、7月14日に単体販売されています。




サターン(以下SS)に移植されたバーチャファイター(以下 VF)は、AM2研によるものでした。

ハードの最終仕様の「詰め」と同時並行でプログラムしていったようで、開発期間も短い中で良く作ったと思います…が、SS の機能を活かした、とはちょっと言い難い。


当時の雑誌記事によれば、V60アセンブラのソースから SH2 に変換するコンバータを作り、MODEL1 には存在してサターンには存在しない「3D変換器」部分を、サブ SH2 で肩代わりするようにしたものをベースに、さらに細かなチューンを施していったもの、でした。



十分出来は良いのだけど、テクスチャ貼ればもっときれいに出来るはずだよね、という話題が、重役会議で出たようです。

ST-V は「NEO-GEO と同じ市場を狙う」という計画も当時はあったので、駄菓子屋向けVF、という狙いがあったようです。


当時すでに MODEL2 の VF2 が出ていましたが、基板が非常に高かった。

大人気ゲームだったけど、とても駄菓子屋には置けない。でも、駄菓子屋は NEO-GEO の格闘ゲームが人気だった。

じゃぁ、VF2 っぽい、安いソフトがあれば売れるだろうという読み。


ハングオン Jr. …って思い出した人は、大体そういう考え方であってます。




もちろんそんなもの、AM2研は作りたがらなくて、「会社が必要とすればやりますよ」の AM1研が引き受けることになりました。


SS 版 VF は、ポリゴン数を減らしたと言っても、まだ「ポリゴンで」細かな表現をしていました。

これを、さらにポリゴンを減らし、代わりにテクスチャで表現するようにします。


ここら辺は主にデザイナーの仕事。


最大にポリゴンを減らせたのが、ステージ。床の部分です。

SS 版は業務用と同じように、細かなポリゴンの組み合わせで表現されていました。

しかし、SSの能力ではポリゴンが表示しきれないことがあり、床という大きなものが欠けて表示されるのは性能が低い印象を与えていました。


SS には、回転 BG 面があります。

以前に書きましたが、「回転」と呼ばれているだけで、実は自由変形可能。

でも、制御できることが多すぎて、当初は使いこなされていなかった機能です。


VF リミックス作成にあたり、床を回転BG で作り直しました。


これ、元の SS 版 VF には全く存在していなかった機能を追加したわけで、プログラマーは結構大変だったみたい。

回転BGだけだと、床の端の処理で破綻することがわかってポリゴン追加したり、試行錯誤してました。


SS版 VF は、本体と「同時発売」と決まっていたため、開発期間が十分でなく、バグが多数残されていました。

もちろん、ゲーム進行上問題となるようなバグは残っていませんが、そうでないバグは多数あったのね。


テクスチャマッピングしただけでなく、これらのバグを全て解消し、処理の無駄をなくしてブラッシュアップしたのが、VF リミックスでした。




VF リミックスは駄菓子屋用に作ったはずなのだけど、結局駄菓子屋ロケには進出していません。


作った物だから売らなくてはならなくて、ゲームセンターで VF2 の隣に置かれたりしました。

VF2 は 200円、リミックスは 100円、という値段設定ね。安いからリミックスで遊ぶかというと、高くても VF2 で遊ぶ人の方が多い。


これは、社内体制がちぐはぐだった為の悲劇だと思っています。

重役は「駄菓子屋などを開拓する」と息巻いているのだけど、そのための体制づくりは何一つやらなかったのね。


それ以前から、営業には売り上げベースで重いノルマが課されていました。

駄菓子屋ロケを苦労して開拓しても、安い ST-V を1つ仕入れて終わり。ゲームの交換なんてしてくれないでしょう。


それよりも、高価な MODEL2 を購入してくれるゲームセンターに売り込んだほうがいい。

ST-V も、新たな販路を開拓するわけではなく、ゲームセンター向けの販路を活用して売った方が効率が良いのです。




VF リミックスを作った人たちが、そのままサターン版も作成していました。


そして、サターン版完成後に、「PAL 版も作って」というリクエストが来たようです。

なんだか古い感じのテレビ(PAL信号入れられるのがそれしかなかったようだ)を持ち込んで、調整していました。


ヨーロッパでは当時は家庭用の放送が PAL (50Hz) でしたが、ゲームセンターでは日本やアメリカと同じ NTSC (60Hz)の機械を使います。

ST-V だって、ヨーロッパで 60Hz のまま動いている。でも、サターンはさすがに PAL なのですね…


60Hz で動いていたものが 50Hz になるので、全体にスローモーションになっていました。

そして、画面解像度は少し上がります。ポリゴンは元々計算で出しているので良いとして、ビットマップで書かれた文字などが、みんな微妙に引き延ばされて汚くなってる…



納得いかないけど、開発費用も余りかけられないし、これで完成、と言ってました。


…今気になって調べたら、元の VF も PAL 対応してますね。


文字などが汚くなってスローモーション、というのは、実は元の SS 版 VF PAL 版の仕様なのかもしれない。

ここのところ、詳細は知りません。



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16年 ダン・ブルックリン 誕生日(1951)


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NECの創業日(1899)  2015-07-17 15:22:54  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、NECの創業日(1899)。

創業したの、19世紀ですよ。ギリギリだけど。

コンピューター企業として有名だけど、もちろん当時はコンピューターなんてありません。


IBMだって20世紀になってから創業した会社(1911)。

まぁ、日本にはテレビゲーム会社なのに 1889年創業、という任天堂もいるのですが。


#アメリカにだって、エジソン電気照明会社(1878)を母体とするGE(ゼネラルエレクトリック社)があるけど。




日本は1856年に日米修好通商条約を締結し、1859年に横浜・長崎を開港します。

鎖国政策の事実上の終了でした。


とはいえ、まだ外国人の行動は制約され、居留地から外に出るには特別な許可を必要としました。


歴史の授業でよく出てくる話ですが、この頃の日本と外国の立場は「不平等条約」です。

外国と「条約」を結ぶのに慣れていない日本が、一方的に騙されて不利な条約を結んでしまった。



1894年には、イギリスとの間に日英通商航海条約が締結されます。

不平等条約の中心であった領事裁判権(外国人が事件を起こした際、その国の領事が裁く。当然、外国人に有利な判決が出た)を撤廃するのと引き換えに、居留地以外に居住し、自由に活動することが認められます。


但し、この条約は、締結から発効までに5年の猶予期間がありました。

イギリスとの条約締結を皮切りに、他の諸外国とも同様の条約が締結されます。




米国のウェスタン・エレクトリック(多数の合併を経て、現在、フランスのアルカテル・ルーセンス社)は、日本で外国人の活動が自由化されるのを見越して、日本に会社を設立しようとしていました。


支社ではなく、日本の会社との合弁会社が希望でした。

まだ当時日本で電気事業を行っている会社は少なく、沖電気工場(現在の沖電気工業)が有力な合弁先でした。


岩垂邦彦が代理人となって交渉を行いますが、結局条件が折り合いません。


そこで、岩垂邦彦自身が会社を興し、その会社を提携先としてウェスタン・エレクトリックの合弁企業を設立します。日本初の、合弁会社の設立でした。


会社名は、「日本電気」。Nippon Electric Company (NEC) です。

設立は、外国人の自由な活動を認める条約が発効した、1899年の、7月17日でした。



当初は、電話交換機などの通信機器の製造を行います。


日本電気はやがて住友財閥に経営委託され、第二次世界大戦でウェスタン・エレクトリックとの関係が続けられなくなると、「住友通信工業」となります(1943~1945の期間のみ)。


#NEC の歴史もコンピューター企業としては古いほうなのだけど、住友も非常に古い。

 1590年に銅の精錬技術を開発したことから住友財閥(戦後は財閥解体され、現在は住友グループ)が興っている。

 400年以上というのは、財閥として世界最古だそうだ。


#ちなみに、話に関係ないけど世界最古の会社は、大阪にある、寺社仏閣建築の「金剛組」。

 578年創業で、創業から 1400年以上になる。




戦後再び「日本電気」として活動を開始すると、NEAC コンピューターの開発を始めます。

(これ以前にもアナログコンピューターを開発していたらしい。詳細不明)


NEC は、元々電話交換機を主軸とした会社でした。


電話交換機は、多数の回線を、自由自在に、「電話番号」という信号に従って瞬時に接続する必要があります。

これは、多数の計算回路を、自由自在に、「命令」という信号によって接続するコンピューター技術と、ほぼ同じものなのです。





電話交換機というのは、「多数の電気回路を、自由自在につなぎ変える」必要があり、コンピューター技術と非常に近い位置にある技術です。


1977年には「コンピューターと通信の融合」という、C&Cを会社のスローガンとします。

これまでは、「電話交換機の会社」のイメージが強かったのですが、ここからNECはコンピューター会社として成長していきます。


この頃の主力機種は、ACOS シリーズ。

GEのコンピューター部門(後にハネウェルと合併し、現在は Bull)の作った GCOS シリーズを元に作成したものです。



NEC は「オフィスコンピューター」(オフコン)も販売していました。

ACOS は汎用機にもオフコンにも使用されていますが、やがてオフコン用はより知識がなくても使用できる独自 OS になっていきます。


私事で恐縮ですが、1978年発売のシステム100/80 をうちの父の会社で導入していました。

NEC が初めて「8インチ標準フロッピーディスク」を採用した機種の一つで、「大容量固定磁気ディスク」もついていました。たしか8メガバイトではなかったかな。


リース終了後に買い取ったのを自宅に持って帰ってきたので、1990年ごろに使ってみた記憶があります。

お世辞にも使いやすいとは言えなかった…(12年前の技術なのだから、少し割り引いてあげないといけないとは思いますが)




さて、コンピューターでNECの話なら、当然出さなくてはならない話。


1976年に、半導体事業部が TK-80 を発売します。


半導体事業部、ですからね。パソコンとして作ったつもりじゃない。

それまであまり知られていなかった「CPU」という新しい LSI を、どのように使うか技術者に知ってもらうための、トレーニングキットでした。


でも、これが大ヒット。

コンピューターに興味を持っていた人たちにまで広く普及しました。


しかし、あくまでも半導体のトレーニング用です。自分で半田付けをする必要がありましたし、完成したってプログラムを機械語で直接入力しなくてはならない。

普通の人が使えるようなものではありません。


そこで、別売り拡張キットとして、TK-80 BS が作られます。

このキットを追加すると、キーボードがついてベーシックが使えるようになりました。



しかし、元々パソコンとして使う予定ではなかった製品では、対応に限界があります。

ちゃんとしたパソコンを作ろう、と、半導体事業部が頑張って作ったのが PC-8001(1979)。


しかし、NECには先に書いたように、オフコンや汎用機を扱うコンピューター事業部があります。

半導体事業部からコンピューターを出すことには問題がありました。



そこで、PC-8001 は、子会社の新日本電気が生産し、NECが販売することになりました。

新日本電気は、主に家電の製造販売を行っている会社でした。


形の上では、NECは「販売だけ」で、コンピューター事業部以外ではコンピューターを扱いません。玉虫色の解決策でした。




驚いたのは子会社の新日本電気。

実は、TK-80 のヒットを見て、自社製品として安価で TK-80 よりも性能の良い機械を設計していたのです。

PC-8001 とほぼ同じ構成でした。


当初は搭載する BASIC を互換品にし、PC-8001 互換として売り出すつもりでした。

しかし、PC-8001 互換でより安いのであれば、PC-8001 の存在意義が無くなります。


親会社のNECとも何度も交渉が行われ、性能を落とし、家庭用としてテレビ出力などを備え、プログラムの交換をしやすくするため ROM カートリッジなどを備えた、PC-6001(1981) として販売されます。


こちらは、新日本電気の製造・販売で、家電品ルートに乗せられました。




半導体部門は相変わらずコンピューターの設計を続けていて、PC-8001 はやがて PC-8801(1981) に進化します。


そして、当初危惧した通り、コンピューター事業部の市場に食い込み始めました。



そこで、コンピューター事業部でも PC-8801 の互換機が作成されました。


ただし、PC-6001 が「設計変更を命じられ、非互換になった」のを見ていたので、極秘裏にプロジェクトが進みます。


コンピューター事業部の威信をかけたものだったので、16bit になりました。

当初はベーシックをマイクロソフトに頼んだのですが、マイクロソフトは 16bit のベーシックは「統一ベーシックにする」構想を持っていたため、断られます。

そこで、オリジナルの互換ベーシックを開発しました。


これが、PC-9801(1982)です。

シリーズは、後に「国民機」と呼ばれるほどに普及しました。




増えすぎたパソコン事業に対し、NECは「8bit は家電品として、新日本電気が扱い、16bit はビジネス用としてコンピューター事業部が扱う」という切り分けを行います。



これにより、ブームを作り出した半導体部門は作るものを失ってしまいます。


でも…もう一つの道が残っていました。

8bit でも、ビジネス用でもない「16bit の個人用コンピューター」を作るのです。


こうして生み出されたのが PC-100(1983)。

当初計画では、マウスでグラフィックを操ることで操作するOSを搭載する予定でした。


…が、依頼されたマイクロソフトで開発が難航し、納期に間に合いません。

本来は Windows 1.0 が搭載される予定でしたが、急遽普通の MS-DOS マシンとして発売されます。


PC-100 は、グラフィック高速化の仕組みなどが搭載されていて、非常に高価なマシンでした。

しかし、できることは PC-9801 と同じ、MS-DOS マシンとして発売されたのです。


シリーズは続かず、すぐに終わった不遇の機種でもあります。




他に、PC-6001 の上位互換期である、PC-6601 シリーズもあります。

PC-8001 もそうですが、上位互換期が登場しても、廉価機種としてシリーズが続く、というのが悩ましい。



PC-6001、PC-6601、PC-8001、PC-8801、PC-9801 。

NEC では、主にこの5つのシリーズが展開され、1980年代中期には「月刊NEC」とすら言われるようになります。


大体、半年ごとにマイナーチェンジした新モデルを出すんですね。

5機種あるから、それだけでも本当に、ほぼ月刊ペースになる。


そこに加えて、PC-100 とか、PC-8201 とかの「非互換機」もでる。


選択肢が多いのは良いことなのですが、いつ買ってもすぐ新機種が出て自分の愛機が古く見えてしまう、というのは悩ましいものでもありました。


#1990 年代に入ると、PC-6001などが無くなる代わりに、PC-H98 や PC-9821 など、別のシリーズが増える。




PC-8001 は、マイクロソフトのBASICを採用しました。

これ、国内では最初の MS-BASIC 。

以降、MS-BASIC が大きなシェアを持ちます。


PC-9801 では独自 BASIC を使ったけど、あまりにも互換性が高かったために著作権違反の可能性が指摘され、MS にライセンス料を払っている。



PC-8801 の時代、OSというのは特に存在しませんでした。

ディスクがあっても、フォーマットはアプリごとにバラバラ。

PC-9801 になっても、その時代に倣ってOSなんて存在しない、という状態がしばらく続く。


実はアメリカでも似たような状況でした。

IBM PC は PC-DOS(MS-DOSのOEM)が標準 OS でしたが、独自OSを使うようなソフトも多数。

だって、独自フォーマットにしないと簡単にプログラムをコピーされちゃうじゃん。



西和彦が思い切って「MS-DOS のOS部分だけなら無料で配布してよい」とソフト会社に持ちかけたことから、MS-DOS が急に標準OSとなっていきます。

実は PC-9801 がきっかけ。


すでに書いた通り、Windows も元々は PC-100 のために予定されたものでした。

マイクロソフトが躍進した裏には、たびたびNECとの関係があります。


だから、ビル・ゲイツはNECに特別の親近感を持ってくれていた。

1998 年の「Windows 98」の発売の際は、NEC の PC98-NX で Windows 98 を動かそう、というキャンペーン、「98で98」をやってくれた。


もっとも、PC98-NX は PC-9801 の互換機ではなく、名前だけを引き継いだ PC/AT 互換機。

(実は、PC/AT 互換機としても完全互換ではない)




今ではパソコン事業はすっかり縮小してしまった感じですが、汎用機・スーパーコンピューターではまだすごいです。

地球シミュレータとか、NEC製だからね。



そもそも、アメリカ以外の国が作ったスーパーコンピューターが世界最速になったのは、NECのSX-2が最初。


SX-2の設計者の一人が、後にV60設計の一人で…という話題は、過去に書いたので、興味ある方はそちらを読んでください。



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名前 内容

エジホン探偵事務所  2015-07-17 17:32:02  今日は何の日

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この年は 7月にまとめていくつかソフトを出していたようです。

まぁ、夏休み前だから投入タイミングではあった。


「エジホン」は、Popteen という女子高生向け雑誌で人気のあったページ。

単行本化もされています。


絵の中に字を入れている。絵に対してお話が書いてある「絵本」ではなく、絵の中に字が入った「絵字本」というわけです。


絵は毎回有名アーティストが書いたもの。字は基本的に同じ1字をちりばめてあるのですが、1つだけ「似ているけど違う字」が入っています。


「金」の中に「全」がはいっていたりね。



まぁ、確かに面白いのですが、これを「ゲーム化」と言われて、割り振られた企画者は頭を抱えました。

雑誌の1コーナーとしては十分だけど、100円払ってもらうゲームになるのでしょうか?




企画者は同期で、割り振られたプログラマも同期。デザイナーも同期でした。

つまり、簡単そうなゲームだから若手だけで作れ、ってそういうことですね。


#絵が中心のゲームなので、後からデザイナーは増強されベテランも入りましたが、中心となったのは同期


でも、企画者は上手に「100円の価値があるゲーム」を作り出した。

今でも「結構好き」という人は多いゲームです。



まず、元は「本」だから、間違っているところは常に同じ。

テレビゲームなので、遊ぶたびに間違っているところが変わるようにしました。


とはいっても、絵に溶け込んだような手書き文字が多いので、完全に自由に変えられるわけではない。

1枚の絵について5か所位づつ、間違いの場所が変えられるようになっているだけ。


ゲーム自体の難易度は低めなのですが、2人プレイで競うのが楽しいようにしました。

間違いを見つけたら、カーソルを合わせてボタンを押すだけ! という簡単操作なのですが、このカーソルが「ぶつかる」のですね。

相手にぶつけて邪魔したり、単純に見つける以外の部分でテクニックを要求される。


そして、ゲームの合間にミニゲームが入っています。

こちらは、タントアールのような単純なミニゲーム。


AM1研はタントアールで、「ミニゲーム集」の先鞭をつけた部署です。

でも、実はタントアールって、相手との直接的な対決はありません。


タントアールは「パズル&アクション」です。

直接対決するようなものではなく、時間内にパズルが解けたかどうかを競うだけ。

それでも十分盛り上がるのですが、エジホンは、先に書いたようにカーソルがぶつかったり、ミニゲームでも必ず「勝敗」が決まったり、直接対決の色合いを濃くしています。


エジホンはその「気軽さ」でタントアールと良く比べられるのですが、違った面白さを求めた作品でした。




完成したゲームが「エジホン探偵事務所」。

Youtube に実況ムービーがあったので、引用させてもらいます。



上のムービーを再生するとデモ画面から始まるのだけど、このデモの「絵柄が怖い」という人多数。


企画者によれば、元々単行本に載っていた絵が個性に溢れすぎていて、それらをまとめるキャラとしては「どれよりも濃いもの」を必要とした、とのこと。

そのために、何か濃い絵柄のタッチで絵を描いてみて、とデザイナーに頼み、デザイナーはまずデモ画面に出てくる絵を油絵で描いてみた…と言うところから始まった模様。


#何度も書きますが、直接知っているわけではないので多少間違いがあるかも。


テモナ君、メル子ちゃん、ラフランチ・モショ郎先生…って、名前も謎すぎる。


モショ郎ってフランス人? と企画者に訊ねたことがあります。

ラフランチ、って名前がそれっぽかったし、金髪だし。


「え? どう見ても日本人に決まってるじゃん!」と、明確な答えが返ってきました。

どう見ても、って、分からないから聞いたのだけど。


いや、コイツのセンスは好きなのだけど、いつも常人には理解しがたい設定を持ってくる。


デカリスの人です。




ゲームシステムが大体完成したところで、本から画像を取り込んで、修正したりする作業は多くのデザイナーが参加します。


そして、デザイナーの何人かは、オリジナルの絵も描いて入れました。

「エジホン」の絵はどれも個性的なので、思いっきり自分の絵柄を出してよい、という条件で。


この時、ファイナルアーチにも参加したデザイナーの先輩のオリジナル絵柄を初めて見ました。衝撃だった。

男らしい人なのだけど、すごくかわいらしい絵を描くの。

ネットで多少人気のある絵師(当時はこの言い回しは無かったけど)だった、と後で知りました。




エジホンが後のサターン版では「ゲームウェア」という雑誌に入れられた、というのもまた有名な話。


なんか、サターンをメディアとする雑誌を作りたい、という相談があって、部長が「自由に使っていいよ」と快諾してしまったんですね。


企画者は、サターン版が発売されると思っていたので、ちょっとかわいそうだった。


でも、結果的に多くの人に遊んでもらえたのかな。

「雑誌」という扱いで、単体発売するより安くできたから。



ゲームウェア、エジホンが遊びたい人が結構買ってくれたようで、売れたようです。

でも、第2号は全然売れない。エジホンが入ってなかったから。


そこで、急遽エジホンは「連載」となります。

3号以降、絵を差し替えて発売されたようです。


でも、こちらは元ゲームの開発者はノータッチ。


エジホンが好きな人のページによれば、1が一番面白い、とのことで、やっぱ企画者の手元を離れて、別の作業者が絵を差し替えるだけでは魂が入っていなかったのかもしれません。



さらに、セガカラ…サターンを使ったカラオケシステムにもおまけゲームとして作られています。

こっちは、元ゲームの開発者が作業していましたよ。


「マイクを奪い合うゲーム」を入れただけだけどね…

本編にあった、賞金を奪い取るゲームのキャラクター変えただけね (^^;




余談:


ラフランチ・モショ郎先生は、初級編ゲームの最後で謎の踊りを踊っています。


初めて見た時に、「なに? この変な動き」と言いながら動きを真似したら、企画者にとても驚かれます。


「人にはできない奇妙な踊り、ってリクエストして描いてもらったのに、完璧な動きだ!」と。


そして、僕は「ラフランチ・モショ郎を名乗ってよい」と企画者から公式に許可を与えられました。

一度も名乗ったことは無いけど。



2016.11.27追記

サターンを十数年ぶりに引っ張り出して、エジホンを遊びました。

で、急に思い出したので追記。


エジホンでは、プレイヤーは間違いを探すカーソルを動かします。

このカーソル、探偵が使う拡大鏡(ルーペ)という設定なのだけど、1P側のカーソルは「アヒルーペ」という名前だった。


…どうみても、アヒルではなくてヒヨコなんだけど。

上に書いた通り、謎のキャラ設定をしてくる奴が作ったゲームなので、こんな部分も意味不明。


ちなみに、この名前は企画者が設定していただけで、多分どこにも公表されていない。



2P側はお花(チューリップ)なのだけど、この名称が思い出せない…

誰かご存知の方(公表もされてないのに)いましたらご連絡ください。




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02年 冷蔵庫に乾杯

14年 続・世界初のMML


名前 内容

高校部活の同窓会  2015-07-20 14:55:01  その他

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高校の部活で同窓会をする、という通知が来た。


主催は、僕の4つ年下の代。4つ年下だから、当然知らない。

でも、自分たちを中心とした上下の世代を幅広く誘ってくれている。

顧問だった先生方も3人も来るという。


これはいかねばなるまい。

風邪気味で直前まで迷っていたのだけど、思い切って出席してきました。




顧問のうち1人は、毎年のようにあっているので、今回はほっといて(笑)、残るお二方と話をしたいと思う。


うち一人は、実は3年の時の元担任。

沢山ご迷惑をおかけして怒られたこともあり、話しかけづらい気もしていたのだけど、せっかくなのでそちらから。



担任の先生、顔はわかってくれたようだけど、すぐに名前が出てこない。

そりゃそうだ、自分の学年だけでも500人近かったのだ。何年もの教師生活で、数千人(もしかしたら1万以上?)の教え子がいただろう。


名前と、卒業年を言ったら徐々に思い出したようだけど、「怒られた」いろいろなことは、全然覚えていない。


なによりも、僕は頭が悪い生徒だった。

先生の担当教科は数学だったが、数学のテストで2点(100点満点中)を取ったこともある。


授業中にPC-E500で通信実験やっていてあきれられたこともあります。


でも、これらの話をすると、「えー、そんなことあったっけ。非常に頭の良い奴だった、という印象しか残ってない」と。


好きな教科は点数が良くて、苦手だと点数が非常に悪いという状況でした。

数学は好きだったけど、得意ではなかった。特に漸化式は全くダメで、2点というのも漸化式の小テストでのこと。


定期テストの点数はそこまで悪くはなくとも、赤点ギリギリ、という感じでした。




先生は進学相談の担当もしていて、僕の将来を心配して、僕が得意な「プログラム」を活かした受験ができる大学を見つけてきてくれた。

いわゆる、AO入試、当時は「一芸入試」と言われていた奴です。


同じ部活・同じクラスだった奴(この日も、隣で一緒に先生と話をしていた)と一緒に受験し、僕だけ受かります。


これが実のところ、他の大学の一般入試よりずっと早い段階だった。

先生は、できの悪い僕がいち早く大学に合格したことを喜び、「●●君、▲▲大学合格おめでとう」と、黒板に大きく書いた。


他の生徒を奮起させる目的もあったのでしょうが、周りから「なんで成績悪いやつが真っ先に合格すんだ」と、やっかみ半分で恨まれた。

先生余計なことをしてくれたな、というのが当時の正直な感想なのだけど…


この話も、先生全く覚えてなかった。

ただ、一芸入試できる大学を探してきたなぁ、というのはさすがに覚えていました。




話をしているうちに、どんどん当時の思い出がよみがえる。


先生が担任していた3年生の時、男子クラスでした。

3年になると進路希望によって「理系」「文系」に分かれるのだけど、男女比に偏りが出て男子のみ・女子のみのクラスができてしまうのね。


高校では、毎年クラス対抗の合唱コンクールがありました。

そこで、男子クラスは下位の常連。


ところが、僕らの年は、なんと優勝。

これは音楽の先生もすごく喜んだし、担任の先生は舞い上がっちゃって、クラス全員に「なんかおごってやる」と言って、ラーメンと餃子を振る舞ってくれた。


ただ、全員が入れるような大きな店もなく、先生が出せるお金の範囲で、と店を探して延々歩き回ったので、最後まであきらめずについていったのはクラスの半分程度だったのだけど。



この話をしたところ、「あの時は、学年の最初から、なんか熱い奴がいたんだよ」とのこと。それは覚えていなかった。

合唱コンクール担当のリーダーを決めようとしたら、4人くらいやりたいと言い出して、その4人が選曲して練習も熱心にやったと。


#確かに、練習を嫌がる奴に対して、「男子クラスだから最下位当然なんて悔しいだろ?」とか、熱く説得していた覚えはある。


選曲したのは、黒人霊歌の Soon Ah Will Be Done。本来男女混合で歌う曲ですが、全体にキーを下げ、思い切ってソプラノパートは無くしてしまった。


ハーモニーの良さで勝負することは難しいので、リズムをしっかり刻むこと、音の強弱をはっきりさせることなど、男性でないと出せない迫力にこだわり、会場を圧倒して優勝したのでした。


#この時の中心人物の一人は、社会人になって数年目に自動車事故で死んでいる。

 中心人物が死んだ、というのはショックだった。




男子クラスと言えば、先生学年の始めの頃に、男ばっかじゃ寂しいだろうと、1年の女の子とフォークダンスする機会作ったよねー。


これも先生は覚えてなかった。体育の授業の際に、時間をうまく調整して、1年生の女子と合同でフォークダンス踊ったんです。


えーと、はっきり言って有難迷惑。

名前も知らない女の子と踊れ、と授業の際に急に言われても…


先生なりに気を使ってくれたんだろうけど、どうも空回りしている。

でも、僕の受験できそうな大学を探してくてくれたこともそうなんだけど、何かできることは無いか、常に考えてくれているいい先生でした。




先生と話していたら、あっという間に一次会の時間が終わり。

2次会にも出席し、もう一人の先生…今度は国語の担当だった先生に話しかけます。


先ほどのクラス担当と一緒に座っていたので、クラス担当の先生も相変わらずいるのだけど。


僕は、なんか国語の成績良かったのね。苦手教科だったのに。

数学は好きな教科だけど成績は悪く、国語は苦手教科だけど成績が良かった。


定期テストで、国語で学年5位に入ったことがありました。

理系クラスにいたのに、文系を差し置いて上位を取った、というので非常に褒められた思い出があります。



また、教科書に「赤い繭」(阿部公房)が載っていて、感想文を書く課題を出されたことがあります。

この時書いた文章も「物語を非常に良くとらえている」と、読み上げられたことがある。


「赤」を共産主義、家を持たぬ主人公を無産階級と捉え、プロレタリア文学の文脈でとらえた論を書いたのですが、詳細は覚えてません (^^;;


#確か、最終的に繭=家となった主人公は無産階級ではなくなり、自分の財産を守ろうとするものは共産主義でもない。赤と言いつつ形だけの、取るに足りない存在。これが「玩具箱に入れられた」に象徴されているのではないか、とまとめたと思う。



国語…特に、文法構造とか漢字の書き取りとか、細かなことは嫌いだったのだけど、本や物語を読むのは好きだった。

だから、自分の読んだことある本などの知識の断片から感じた通りに書いただけなのだけど、それが非常に褒められた。



それまで文章を書くのもどうも好きではなかったのだけど、この頃から好きになりはじめたように思います。


#この頃、自分用のワープロ(HALNOTE)を入手していて、漢字変換などに慣れるために日記を書いていました。

 これも、文章を書くことは案外楽しい、と思い始めたきっかけだと思う。

 同時期に国語で褒められていたので、文章を書くこと自体がうまくなり始めていたのかもしれない。




この話をしたら、国語の先生が言うには、「国語嫌いの生徒を出さないようにはしたかった」とのこと。


好きにならないでもいいけど、嫌いだという子は出さない。

そのために、あまり重箱の隅をつつくような問題ではなく、物語の内容を楽しんだり、そういう授業を心がけていたみたい。

特に理系クラスに対しては。


なるほど、僕が国語で嫌いだったのは、まさに重箱の隅をつつくような部分だったし、理系クラスではそういう部分は極力避けていたのか。

おかげで、あの頃苦手だったはずの国語に自信を持てるようになりました。ありがとうございます。




担任の先生と国語の先生で話をしていて、修学旅行の話になった。

長崎のどこで…みたいな話をしているけど、僕らの代だけ、長崎ではなかった。


そのことを言うと、お二人とも急に思い出したように、「そうだった、あれは××が悪いんだよ」と、別の先生の悪口。


毎年長崎に行っていたのだけど、僕らの代だけスキー旅行だったんです。

これが全く面白くなくて、翌年から元に戻った。


その××先生がスキー旅行を強く希望して、責任をもって旅程なども組んだのだけど、不評だったので1年で終わったとのこと。




他にもいろいろな話が出た。

もう一人の顧問、当時からすでに定年退職後の非常勤だった先生は、すでに亡くなったそうです。


そちらの先生はボーイスカウト活動もしていて、ジャンボリーなどの時にバッタリ会ったこともあった。

思い出がいろいろあったので、お会いできれば楽しかったのだろうけど、残念。



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名前 内容

インディ500  2015-07-21 19:24:14  業界記

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3Dゲームの初期ヒットタイトルは、自動車を運転するレース・ドライブものでした。


ポールポジション、TX-1、アウトラン、ファイナルラップ、ウィニングラン、ハードドライビン…


「3Dシューティング」も常に同時代の技術で作られてきましたが、大抵最初はレースもの。

人間にとって、自由空間を「飛行」するよりも、重力に縛られて「走行」する方が、ゲーム内容が把握しやすいためです。


さて、MODEL1 の最初はバーチャレーシング、MODEL2 の最初はデイトナ USA でした。

この2つは大ヒットゲームとなり、他の部署にも「それぞれレースゲームを作れ」という命令が下ります。


#正確なところは知らない。

 もしかして各部に命令が下ったのではなく、2研に続いて3研も「セガラリーチャンピオンシップ」をヒットさせたので、1研もなんか作れ、となったのかもしれない。




インディ 500 は、アメリカで人気のあるレースイベントです。


舞台は「インディアナポリス・モーター・スピードウェイ」。

単純な楕円形コースで、ドライブテクニックは活用できませんが、単純だからこそ高速で駆け抜けることができます。


一周2.5マイルのこのコースを、200周すると 500マイル。

これがインディアナポリス 500マイルレース。通称「インディ500」です。


テクニックではない、とにかくマシンパワーの勝負。

もちろん、パワーに負けない強靭なドライバーも必要ですし、パワーのあるマシンを作るメカニックの腕も必要。


長距離の勝負なので、燃料補給やタイヤ交換も重要。

日本では、モータースポーツは「ドライバー」の腕前に注目が集まりがちですが、インディ500は、パワーのあるマシンを作り上げ、使いこなすチーム戦が見どころなのです。




インディ500はビッグイベントで、多くのお客さんが集まります。

それを目当てとした移動遊園地なども来ますし、仮設のゲームセンターなんかも作られます。


そこで、バーチャレーシング(VR)が「インディカーゲーム」として置かれていたのだそうです。

VR は F1 で、インディとは厳密には違うのだけど、車の形は似たようなものだからね。


でも、これを見たセガのアメリカ法人から「正式にインディ 500のゲームを作ったほうがよい」というリクエストが来ます。


先に書いたように、各部でレースゲームを作れ、という命令と組み合わさって、AM1研がインディ 500 のゲームを作ることになりました。




でもね、先に書いたように、インディ 500 ってマシンパワーと、そいつを扱える強靭な肉体を競う側面があるのよ。

「小手先のテクニックではない」ので、小手先のテクニックを競うテレビゲームにはしにくい。


ゲームのインディ 500 では、インディ 500 と言いながら、楕円以外のコースも入っています。

そうでないと、ゲームとして面白くないもの。


インディ 500 なので最高時速は高め…といっても、これもゲーム上では数値が変わる程度で、あまり体感しにくい。

何もかも、バーチャレーシングの焼き直しみたいに見えてしまう。


実際、あまりヒットはしていません。よく出来たゲームではあったのですが。



バーチャレーシングが1992年8月発売。インディ500は1995年7月発売。


VRはわずか3年前で、まだ店舗でも稼働していました。


しかもその3年で、デイトナUSAと、セガラリーも発売になっています。ナムコからもリッジレーサー、リッジレーサー2、そしてインディ500と同時期に、レイブレーサーが発売されています。


レースジャンル市場自体が飽和していました。

そこに食い込むには、アメリカでは人気だけど日本では知名度が足りないレースのゲームは、ちょっと難しかったと思います。





好きだった人は多いようで、Youtube には沢山の動画があります。

でも、エミュレータ動画ばかりなんだよね (^^; 実機から録画、というのは無いみたい。


そして、エミュレータだとまだ再現度が低いようで、文字などのテクスチャ部分が、結構チラつきます。

本物はもっときれいに表示しているのだけど。



その「チラつく」部分のテクスチャは少し特殊なのですが、Indy 500 は、MODEL2 のゲームとしては「あり得ないほどたくさんの特殊テクスチャを表示している」らしい。

僕、MODEL2 のプログラムやったことないのでよくわからないのだけど。


インディカーレースはスポンサーもついているので、車体に沢山ステッカー貼ってたりします。

その雰囲気を出すために、車体に沢山ステッカーを張ってあるのだけど、これが地味に MODEL2 としては高等技術。



MODEL2 って、実はテクスチャがモノクロです。色の濃淡は付けられるのだけど、1枚のテクスチャの中で全く違う色は使えない。

そこで、違う色を付けたい個所には、テクスチャを重ね張りします。


実は、この「重ね張り」は、透明が使える特殊なテクスチャ。テクスチャ容量が小さく、多くの種類を描くことはできませんでした。


インディ500ではこの特殊テクスチャが非常に多く使われている…と、開発中にたまたま画面を見た、別の部署の方が驚いたのです。

それはもう、画面を見て驚くくらい、あり得ない量が出ていたらしい。


たまたま近くの席にいたのでこの時の説明が聞こえたのだけど、ドラクエの文字と同じようなことをしていたらしい。

つまり、16階調…4bit のテクスチャを、2bit * 2枚が重なっている、と考えて使いまわしているのです。


これで、定義量を2倍確保できる。


ちょっと聞こえた程度で詳しいことは知らないのですが、このテクニックは説明していた人が使い始め、後に他の部署でも使われていたみたい。




インディ 500の発売後しばらくたって、本社でファンイベントが行われました。

僕は関係ないんで、会場の外からちらっと覗いただけだったような気がするな。

あまり内容覚えてない。


確か、そこで大会が行われたはずです。

腕に覚えのある人(各地のゲームセンターで予選とかやったのかな?)を集めて、イベント用設定でのレースをやった。


8台対戦、負けている人へのサポートなしの「実力勝負」で、最大周回数の20周勝負、だったと思う。

本物みたいに 200周はできないけど、一番本物のレースに近い設定。


実は、この設定での対戦は、そのイベントの時まで1度も試されていませんでした。悪い予感しかしない…



一応、走っている間にタイヤがすり減ることをシミュレートしています。

すり減るとグリップが悪くなる。カーブが曲がりにくくなるし、スピードを落とした後の立ち上がりも悪くなる。


だから、どこかの段階でピットインしてタイヤ交換した方が、交換時間のロスを考えても有利になる…はず。


この事は、チームの人からもレース前に説明されていました。



本物のレースなら、ピットインしなければ燃料も無くなりますし、タイヤバーストの危険もあります。

でも、ゲームでは燃料は考慮してないし、タイヤバーストもない。

それだと、ピットインしなくてはならない、という強い理由が存在しない。



結果どうなったかというと、誰もピットインしようとはせず、滑りやすいタイヤで何とかカーブを曲がりきる、というチキンレース展開になりました。

オーバルコースを慎重に走るだけで、駆け引きのない盛り上がらない展開。


それでも、優勝者には何か記念品が渡されたはずです。確か。




バーチャフォーミュラ筐体用の特別バージョンも作られました。


バーチャフォーミュラは、バーチャレーシングの特別仕様。

本物のフォーミュラーカーを模した筐体に乗り込んで遊び、カーブなどでは筐体が動きます。


多少小さく作られているとはいえ、座席だけでなく「車」そのものを並べることになるので、非常に広い面積が必要。

筐体自体もバカ高く、ほとんど売れなかったはず。

(8台通信筐体で、およそ1億円。八景島シーパラダイスにあったのは覚えているのだけど、ネットで調べても他に存在した情報が見つからない)


にもかかわらず、MODEL2 が発売されてしまうと、MODEL1 で作られたバーチャフォーミュラは見劣りしてしまい、稼働率が下がっていました。

すごく高価なものを購入した店舗からは、何とかしてほしいという悲鳴が届いていました。


そこで、MODEL2 のインディ 500に変更できるようにしたのです。

基板が変わるからそれなりに高価なのだけど、1億円の機械の改造費だと思えば…


#MODEL2 1台 100万円ちょっとしたので、8台通信なら改修費1千万円程度。



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【まつしま】 バーチャフォーミュラ、4台通信バージョンだったら当時バイトしていたSEGAのゲームセンターで扱ってました。料金設定が高額だったこともあってほとんどプレイされてなかったのが悲しかったです。 (2015-09-08 20:25:46)

夏風邪  2015-07-23 15:25:42  家族

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どうも夏風邪のようで、一向に治りません。


なんか風邪っぽいな、と思ったのは先週の月曜日、13日。

それ以前からなんか体調不良だったのだけど、これはいよいよ風邪かな、という感じでした。


とはいえ、別に熱は出ない。


熱が無いから仕事をしていたら、どんどん体が辛くなる。

でも、仕事をしないわけにいかない。辛くなったら寝る、という感じで、効率は悪いけど仕事をしていた。


これはいよいよ駄目だな、と思ったのが週の後半。

すでに書きましたが、日曜日に高校の部活同窓会がありました。


卒業以来会っていない先生も来るというので、ぜひ会いたかった。

仕事のない土曜・日曜、ほぼ寝て過ごします。

おかげで少し回復し、同窓会には出られた。


月曜日(海の日:祝日)も調子よかったし、これは治ったかな、と思ったのですが…




それとは並行して、金曜日に次女が熱を出しました。


夕方保育園に迎えに行ったら、すごい熱だった。

でも元気に遊んでいたようで、先生たちは気づいてなかった様子。


家に帰り熱を測ると、38度後半。顔も真っ赤だし、目も充血している。

「首の後ろが痛い」と言います。


夏だし、ヘルパンギーナや手足口病を疑いますが、目の充血と高熱以外にそれらしい症状なし。

(これらの病気は、のどの強い痛みや、発疹が特徴です)


もう夜で病院もやっていないし、様子見。

子供用の風邪薬を飲ませ、寝ます。

寝る前に、ちょっと顔色が良くなったので熱を測ったら、39度行ってました。


#帰ってすぐに測ったのが計測が怪しい。

 今時の体温計は予測で表示するので、誤差が結構あります。




翌日、顔色もすっきりして、もう体もそれほど熱くない。

でも、熱は相変わらず 38度前後。


充血もなく、のどの痛みもない。

首の後ろの痛みもずいぶんよくなったようです。



首の後ろに関しては、髄膜炎になりかけていた可能性あり。

髄膜炎になると、首の後ろを痛く感じるようです。


しかし、痛みが引いたというので様子見。

熱がある以外に悪い個所が無いので、医者に行ったところで様子見と言われて終わりでしょう。


#かかりつけのお医者さん、無暗と薬を出すのは嫌がる人で、こういう場合は様子見になるのがわかっています。




さて、どうも僕は体が弱っていたので、次女の風邪が感染したようだ。


月曜日には治りかけていたのに、火曜日から少し違う症状で風邪っぽくなってきた。

一度は引いたのどの痛みが、また復活した。

そして、先週はほとんど熱が無かったのに、微熱が出るようになった。


昨日はのども痛かったが、今日はずいぶん楽になった。でも、微熱は収まらない。



次女はだんだん喉が痛くなってきて、月曜日の夜に咳が激しくて眠れなかった。

そこで、休み明けの火曜日に小児科に行き、薬を貰って来ました。


これで明らかに体調改善はしていて、火曜日の夜も咳は出たけど、昨夜(水曜)はぐっすり眠れた。

熱もだんだん下がっていて、37度台に落ちてきている。


でも、木曜日の今現在、まだ熱はあるので保育園はお休み。

夏休みなので休むのは良いのだけど、今週末の土日は、林間保育でお泊りになっている。


お泊りは年長さんの1回だけ。この機会にしかできないので、是非行かせてあげたい。

明日中には熱が下がると良いのだけど。




実は僕と次女だけでなく、妻も風邪ひいたっぽいし、そもそもこの風邪を持ってきたのは長女・長男の疑いが濃い。

まぁ、家族が多ければ持ち込まれる病気の経路も多いし、家の中の全員に感染するのも仕方がないことで、それは構わないんだ。


ただ、長引きやすい風邪だから、妻と僕が同時にダウンするといろいろと問題が…

夏休みで子供は家にいるし、ご飯も作らないとならないので。


翌日追記

この風邪、マイコプラズマ肺炎でした。

翌日の日記に詳細書いています。



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マイコプラズマ肺炎  2015-07-24 18:18:24  家族

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昨日書いた次女の風邪、マイコプラズマ肺炎でした。

というか、自分が長引いていたのもこれなのだろう。


熱も鼻水も特に出ず、咳と倦怠感だけが自覚症状で、3週間くらいで自然治癒する病気だそうです。

僕はまだ完治していないけど、まさにそんな感じ。


しかし、次女は熱を出していました。

これ、子供だから重症化していたみたい。




次女は火曜日に小児科にかかっているのだけど、その際に「金曜になっても症状が治まらなかったらまた来てください」と言われていたそうです。

伝聞調なのは、妻が連れて行ったため。


で、今日は妻が忙しかったので、僕が小児科に連れて行きました。

そうしたら、薬が効かないようであればすぐ精密検査した方がよい、と言われ、大病院への紹介状を書いてくれました。




すぐに大きな病院へ。

昼休みの時間にかかってしまうから、救急外来扱いで来てください、とお医者さんが取り計らってくれて、待ち時間も大してなく、すぐに見てもらえます。


とはいえ、精密検査なので時間がかかります。6歳の次女にとっては、大病院もはじめての経験です。

レントゲンを撮るときは、部屋に一人ぼっち。これだけでも不安だったようです。


で、採血。

「お父さんは、ちょっと部屋を出てください」と言われ、検査中は外で待ちます。


インフルエンザの注射も嫌いな次女、採血の注射はもっと針が太い。大泣きです。

この後、点滴の予定があったので、針は一度挿したら固定し、採血からそのまま点滴へ。


大泣きが2回あった、と思ったら、鼻の粘膜も採取したようです。あれ、痛いんだよね。


もう入っていいですよ、と言われ入ると、泣いて顔をぐしゃぐしゃにした次女が点滴を受けていました。

よく頑張った。

しばらく横について、頭をなでていたら、やがて寝てしまいました。




採血の結果が出てからでないと点滴が決められない、と言っていたハズなのだけど…と思ってよく見ると、ただの生理食塩水でした。


点滴に詳しくないけど、開始用、と袋にあるので、薬品の前には必ず生理食塩水を入れるのかな?



かなり時間がたって、結果が出たと医者が戻ってきました。

次女は寝ているので、僕だけ説明を受けます。

(次女が聞いても、よくわからないでしょうけど)


レントゲン結果から肺炎は間違いありません。

採血結果や鼻の粘膜の結果から、マイコプラズマ以外の考えられる細菌類も出ていません。


ただ、困ったことに、マイコプラズマも出ていません。陰性。

検査には必ず偽陰性はつきものなので、他の値から総合的に判断して、マイコプラズマで間違いないだろう、との判断です。


で、原因が確定したとして、今後の治療方針で相談。



本人がぐったりしていて重傷であれば、入院して、点滴をし続ける、という方針になります。

でも、うちの子はまだ元気で、入院の必要は無さそう。


今使っている薬は、本来3日以内に効果が出るもの。

それが効果が無いとなると、少し強い薬を使うことになります。



ただ、強い薬は、8歳未満非推奨のもの。リスクがあります。

どんなリスクかというと、永久歯が作られている時に使うと、その歯が少し黄色くなってしまう。

なので、8歳未満非推奨となっているけど、すべて永久歯に生え変わっていない子には非推奨のものです。


黄色くなると言っても、使う期間の長さにもよるし、真っ黄色になるわけでもない。

血液検査の値次第では、医者の方から強く薦めるのだけど、それほど値が悪くないので親御さんと相談です、とのこと。




様々なリスクについて質問したうえで、今の薬を来週月曜日まで継続し、そこでもう一度判断しよう、ということにしました。


3日以内で効果が出るはず、と言っても、まだ今日が3日丁度。

結論を出すには速すぎると思ったのが理由の一つ。


今すぐ強い薬を使っても、次女が楽しみにしている明日の保育園のお泊り会には出られません。

現状元気で、すぐに根治治療が必要なほどでもありません。

ならば慌てることは無い。リスクのある薬なら、もう少し待っても良いだろう、というのがもう一つの理由。



お医者さんから、弱い薬を続けるのであれば、マイコプラズマを押さえきれず、急に重症化するかもしれない、という説明がありました。

その場合は、夜でもすぐに連絡して救急外来に来てください、とのこと。


そういう体制で臨んでくれるのがありがたいです。




…と、非常に深刻な話のように書いているのだけど、次女はかなり元気で、のんきなもの。

熱は微熱とはいえ常にありますし、毎日夜になると 38度以上にあがります。

(この日は、病院で測ったら 38.5度でした。昼から高熱を出すのは珍しいのだけど、ちょっと疲れたみたい)



かかりつけの小児科で大病院へ、と紹介状をもらったとき、「お昼ご飯食べれないだろうから、車の中で少し食べよう」と、すぐにコンビニに入りました。


これがたまたまローソンでした。夏休み期間中、ローソンではプリキュアのスタンプラリーをやっています。


次女、見つけて大喜び。スタンプを1個だけ押します。

病院に行く途中でもローソンを見つけるのだけど、病院に行くのが先決なので、「帰りに寄ってあげる」とだけ約束。


病院に付くと…大病院なので売店があるのですが、これがまたローソンでした。


全て終わったら午後3時。昼ご飯も軽かったし、病院の売店でおやつを買って食べます。

この際にスタンプ2個目ゲット。


帰り道、約束通り3個目ゲット。


プリキュアのスタンプラリー、4個集めるとシールがもらえるのですよ…

4個おきに、12個まであるのだけど。


3個まで集めたら、4つ目も欲しがる。今日は次女は頑張ったので、ご褒美を何かあげたい。

ちょっと遠回りして、4個目ゲット。そのコースだと、もう一店舗ありました。5個目までゲット。



4個区切りの中に同じスタンプが無ければ良いそうなので、来週月曜日にまた病院に行く際に、8個目のシールまではもらえると思います。



もう一つ、病院近くの調剤薬局で、子供が来ると小さな「消しゴム」をくれるようです。

ランダムにくれるみたいなのだけど、次女が貰ったのは、卵の殻に入った状態のヒヨコ。(卵から取り出せる)


可愛くて、気に入ったみたい。病院の検査は嫌だったようだけど、いろいろ手に入って喜ぶ次女でした。



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マイコプラズマ肺炎:治癒報告  2015-07-28 11:29:44  家族

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さて、先日来書いている、マイコプラズマ肺炎について。

一応治癒して全容がわかったので、後学のために記録を残しておきます。


どうも、家族中かかったので大人・子供の記録を幾例かづつの形です。




まず発端。6月頭くらいに、長男が長い間咳こんでいました。

咳は出るけど熱は出ない。それ以外に症状は無い。


少しだるい、と言っていたけど、食欲が落ちるなどのこともなかったし、客観的な症状がない。

医者にはいかなかったのですが、どうもこれがマイコプラズマ肺炎だったようです。



マイコプラズマ肺炎は感染します。

潜伏期間が1~2週間と結構長い。そして、主な症状は咳で、3週間くらい続く。


長男の後、長女がやはり咳こんでいました。

ただ、こちらは比較的早期に治りました。人によって症状の違いはあるみたい。




6月終りごろ、自分の体調不良を感じます。

時々急に苦しくなることがある、という程度で、数秒で戻ります。


激しい病状は出ない潜伏期間でも、多少前兆があったのかな、と今になって思っているのですが、これは医学的な裏付けは無し。


7月の頭には多少だるさを感じるものの、普通に生活できていました。風邪気味かな、という程度。


7月の13日、週明けの月曜日ですが、咳も出て本格的に風邪だと感じたのを覚えています。

(週明けで、子供を保育園に連れていくのもつらかったので)

喉も多少痛くて、飴玉なめてました。



その週の後半がだるさのピークでした。咳も出るし、体が疲れて何もする気が起きない。

すぐに寝なくてはならない状態で、起きていてもぼーっとしてる。仕事にならない。


医者に行くべきか迷いましたが、咳とだるさ以外に症状が無い。

だるさ、というのは客観的に測れないので、医者に説明しづらいと思って寝てました。



週末になると、少し熱も出るようになりました。とはいえ、37度にも達さない程度の微熱。

週末なので仕事は休んで寝ていよう…と心がけたら、だるさは少し収まった。

3連休でしたが、日曜日には夜同窓会に出席してもいます。



翌週に入ると(21日)、もっとはっきり熱が出ましたが、体のだるさは減りました。

鼻水も少し出る状態に。もしかしたら、体が弱っているので別の風邪にも日和見感染したかも。

寝てたら改善し、24日には「治ったかな」と自分で思える状態に。


今日28日。まだ喉に違和感があり、咳が出ることがありますが、ほぼ完治した状態です。




上の自分の病状と並行して、次女が感染。

自分が一番つらかった13日の週に、次女も時々咳をするようになっていたのを覚えています。

感染しちゃったな、と思いつつ、それほどひどくないし、熱もなく、元気に保育園に言っていました。


その週の金曜日、17日に、夕方保育園にお迎えに行くと、すごい熱を出していました。

ただ、熱よりも「首の後ろがいたい」ことが本人の訴え。


体温計で測ると、38度台後半。恐らく、実際の体温は39度行っていたのではないかと思います。


というのも、使っている体温計が30秒で「予測」するタイプのものだから。

(現代的にはごく普通のタイプ)


正確に測りたければ5分かけて測れるのですが、この時は「高熱だ」と判った時点でそれ以上の情報を求めなかった。


あとで、明らかに熱が下がった状態で測ったら、38度台後半でした。

これが、最初にはかった時点では39度行っていたのではないか、という根拠。



恐らくは、何らかの理由で髄膜炎を起こしかかったのだと思います。

髄膜炎になると、首の後ろが痛くなる。ただし、これは後知恵です。

この時は最初にヘルパンギーナあたりを疑った。夏風邪で高熱が出ますからね。



夜ですでに病院は閉まっているし、熱以外には問題はなく元気だったので様子を見ることにします。


で、翌朝には熱は下がってしまった。とはいえ、37度はあったけど。

首の後ろの痛みもほぼ治まった、というので、医者にはいかずに様子を見ることにします。



この時は3連休。土曜日は医者はやっていますが、日月はお休み。

様子を見る、というのもリスクがあるのですが、熱を出してすぐに医者に行っても、判断材料がそろわず、結局「様子見」になることも多いのをわかっていました。

ならば、連れ出して疲れさすより、家で寝ていようという考えです。




その後、本人はいたって元気なのだけど、夜になると高熱が出る、という状態が続きます。咳もある。

連休明けの 21日に小児科に行き、マイコプラズマの疑い、と診断され、薬が出されます。


ところが、薬を飲み続けても状況が改善しない。

夜になると高熱が出て、咳こむ。自分の咳で深夜に起きてしまい、眠れない。


保育園で、25・26の土日にお泊りがあったので、24日になってもう一度病院に行きます。

薬を飲んでも効かないのであれば、精密検査委した方が良いかもしれない、と大病院を紹介されます。




聴診・レントゲン撮影・血液検査。

マイコプラズマで間違いはないだろう、という診断でしたが、飲んでいた薬は本来 48時間以内に効き目が出るもの、だったそうです。


その薬を飲み続けるか、本来6歳児には推奨されない強い薬を使うか、入院して点滴治療するか、という選択肢を示され、現在の薬を飲み続けることにしました。



当日は疲れたのか、夜を待たずに昼から熱を出していました。

しかし、翌日土曜日には夜には熱を出したものの、「高熱」ではなく、日曜日には咳で目は覚ましましたが、熱は出ませんでした。


そして、週明けの昨日、再診。

聴診・レントゲン撮影で、共に回復の傾向が認められる、とのこと。

時間はかかりましたが、薬は効いたようです。本来 48時間で利くものを、1週間飲み続けたことになる。


ただ、病原菌であるマイコプラズマが消えただけで、肺炎で壊れた細胞がすぐに再生するわけではない。

今後も1週間程度は咳が続くでしょう、ということで、咳を軽減するお薬はいただきました。




さて、これらの間に、長男に再感染したようです。

週末の土日、23日あたりから咳が出るようになった。日曜日には体のだるさも訴えます。


また、長女もくしゃみと鼻水が出る。…こちらは、別の風邪のようです。


これは、家族中から菌を消し去らなくてはダメだ、と判断。

昨日僕が次女を大病院に連れて行っている間に、妻に長男・長女を近所の小児科に連れて行ってもらいました。


長男は、マイコプラズマでしょうとの診断。

貰って来た薬、菌を殺す抗生物質の種類が、次女と違う。恐らくは、次女には使わなかった「強い薬」なのかな。


それ以外は基本的に同じ薬のようなのですが、次女は粉薬でもらったけど、長男は錠剤。

最大の違いは、粉は数種類を混ぜて「1包」になっているのに、錠剤は混ぜられないので、薬の種類が非常に多い。


現在、5種類の薬を飲んでいることになります。

朝夕に飲むのが3種類、夕方だけ飲むのが1種類、昼に飲むのが1種類。結構ややこしい。



長女は、普通に風邪薬が処方されました。




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モニ太とリモ子のヘッドオンチャンネル  2015-07-29 16:59:04  業界記

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こちらは発売しなかったゲーム。ロケテストは、1995年の早いうちではなかったかな。

手相のリリースよりも後にロケテストやったような気がする。


ロケテストにもいろいろな目的があるのだけど、「開発途中で感触を確かめる」ものではなく、完全完成後の、どの程度お金が入るかの調査。

だから、途中で開発中止と言うのではなく、完全に完成していたのに発売中止。


開発開始の経緯がそもそもよくわかっていないのですが、重役が「最近のゲームは複雑すぎるから、昔のゲームみたいに、もっと単純なものが必要ではないか」と仰ったようです。


それが、上から下に伝わる間に伝言ゲームが発生し、「昔のゲーム」が具体的に「ヘッドオン」になり、末端に伝わった時には「ヘッドオンのリメイクを作れ」になっていた。


冗談みたいだけど、時々こういうことが起こる会社でした。



グラフィック1名、プログラマ1名、企画は掛け持ちで1名、だったかな。

「ミニマムプロジェクト」だと言われていました。


#音楽は、開発終盤になって割り当てられ、短期間で仕上がりますから、ここには数えていません。


作っていたプログラマの人、上司から「次は夢の一人プロジェクトを」なんて冗談も言われていました。


#いや、これ言われていたのは別の人だったかもしれない。記憶が定かでない。

 実際、この当時は企画で、同人誌描く程度には絵が上手かった人が、後でプログラムに転向してんだよね。

 その人なら一人プロジェクトも可能だったかも。




基本内容はヘッドオンです。リメイクだからね。


パックマンみたいにドットを全部取るゲームなのだけど、パックマンほど自由に動けない。


自機は車なので勝手に前に進みます。速度を上げることは出来る。

そして、ところどころにある「車線を変えられる」ゾーン以外では、道を変えることもできません。


同じくヘッドオンを元に作られている、ドットリ君よりももっと不自由です。




当時タントアールが売れていましたし、狙いもタントアールと同じ「あまりゲームを遊ばない層」でした。

だから、タントアールと同じノリで作られています。


面ごとにサブタイトルが付いていて、全部ダジャレ。

このダジャレが、有名テレビ番組のパロディになっているので、「ヘッドオンチャンネル」。


モニ太とリモ子の、っていうのは、2人同時プレイできて、車に男の子と女の子が乗っている絵になっていたのね。

もちろん、テレビネタなので「モニター」と「リモコン」にかけています。


各面のサブタイトルはよく覚えていないのですが、たしか、爆弾を全部拾わないといけない「大量に燃えろ」(元ネタ:太陽にほえろ)とかあったな。


たしか、ドットも、1度でとれるわけではない。

通るたびに状態変化して、最後にやっととれたりするのではなかったかな。


「大量に燃えろ」の面では、爆弾に火がついていて、1度通ると消える。そして、2回目で回収される、という感じ。


サイコロの目がカウントダウンして行って、1の後に消える面がありました。

これ、「転がって別の目になる」アニメーションがあって、通った後に連続して動くのが美しかった覚えがあります。



システムC2(メガドラ互換基板)を使っていて、小気味よく動いていました。

ゲームとしては悪くない…いや、面白いゲームでした。




同期の企画がふたり、このゲームを延々とテストプレイしていました。

このゲーム、先に書いたように二人同時プレイできたのね。


そして、昔のヘッドオンと同じく、パターンの組めるゲームでした。

二人でひたすらパターンを組み上げていった。



ロケテスト前には、完全なパターンを完成していました。


二人同時プレイで、30分弱で全面ノーミスクリアできます。

得点も、ボーナスなどすべて取り、理論最高得点だと思われた。


時間的に、昼休みに遊ぶのにちょうどよく、良く遊んでいたのを横で見ていました。


#上手な人のプレイは横で見ていても面白い。



ロケテストの結果が悪くて発売中止が決まった時、作成したチームの人はもちろん、この二人もガッカリしていました。

えー、こんなにおもしろゲームなのに、なんで発売できないの? と。


発売中止と決まってからも部署内のテストプレイ筐体にしばらく入っていたので、名残惜しそうに二人で遊び続けてました。




しかし、やっぱパックマンより古いゲームは、どんなにリメイクしても「古臭い」のですね。

100円出して遊ぶなら別のゲームを、ってなっちゃう。


それに、パターン組んだら延々と遊ばれてしまう、というのも本当は良くないのです。

1プレイ平均3分、というのが基本でしたから。


ロケテスト前のわずかな期間で攻略パターンが組めてしまう、と見せてしまった二人は、実は発売中止に加担してしまったのかも。



家庭用のミニゲーム集の中の一つだったりしたら「良いゲーム」だったのでしょうけどね。



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