2015年07月20日の日記です


高校部活の同窓会  2015-07-20 14:55:01  その他

高校の部活で同窓会をする、という通知が来た。


主催は、僕の4つ年下の代。4つ年下だから、当然知らない。

でも、自分たちを中心とした上下の世代を幅広く誘ってくれている。

顧問だった先生方も3人も来るという。


これはいかねばなるまい。

風邪気味で直前まで迷っていたのだけど、思い切って出席してきました。




顧問のうち1人は、毎年のようにあっているので、今回はほっといて(笑)、残るお二方と話をしたいと思う。


うち一人は、実は3年の時の元担任。

沢山ご迷惑をおかけして怒られたこともあり、話しかけづらい気もしていたのだけど、せっかくなのでそちらから。



担任の先生、顔はわかってくれたようだけど、すぐに名前が出てこない。

そりゃそうだ、自分の学年だけでも500人近かったのだ。何年もの教師生活で、数千人(もしかしたら1万以上?)の教え子がいただろう。


名前と、卒業年を言ったら徐々に思い出したようだけど、「怒られた」いろいろなことは、全然覚えていない。


なによりも、僕は頭が悪い生徒だった。

先生の担当教科は数学だったが、数学のテストで2点(100点満点中)を取ったこともある。


授業中にPC-E500で通信実験やっていてあきれられたこともあります。


でも、これらの話をすると、「えー、そんなことあったっけ。非常に頭の良い奴だった、という印象しか残ってない」と。


好きな教科は点数が良くて、苦手だと点数が非常に悪いという状況でした。

数学は好きだったけど、得意ではなかった。特に漸化式は全くダメで、2点というのも漸化式の小テストでのこと。


定期テストの点数はそこまで悪くはなくとも、赤点ギリギリ、という感じでした。




先生は進学相談の担当もしていて、僕の将来を心配して、僕が得意な「プログラム」を活かした受験ができる大学を見つけてきてくれた。

いわゆる、AO入試、当時は「一芸入試」と言われていた奴です。


同じ部活・同じクラスだった奴(この日も、隣で一緒に先生と話をしていた)と一緒に受験し、僕だけ受かります。


これが実のところ、他の大学の一般入試よりずっと早い段階だった。

先生は、できの悪い僕がいち早く大学に合格したことを喜び、「●●君、▲▲大学合格おめでとう」と、黒板に大きく書いた。


他の生徒を奮起させる目的もあったのでしょうが、周りから「なんで成績悪いやつが真っ先に合格すんだ」と、やっかみ半分で恨まれた。

先生余計なことをしてくれたな、というのが当時の正直な感想なのだけど…


この話も、先生全く覚えてなかった。

ただ、一芸入試できる大学を探してきたなぁ、というのはさすがに覚えていました。




話をしているうちに、どんどん当時の思い出がよみがえる。


先生が担任していた3年生の時、男子クラスでした。

3年になると進路希望によって「理系」「文系」に分かれるのだけど、男女比に偏りが出て男子のみ・女子のみのクラスができてしまうのね。


高校では、毎年クラス対抗の合唱コンクールがありました。

そこで、男子クラスは下位の常連。


ところが、僕らの年は、なんと優勝。

これは音楽の先生もすごく喜んだし、担任の先生は舞い上がっちゃって、クラス全員に「なんかおごってやる」と言って、ラーメンと餃子を振る舞ってくれた。


ただ、全員が入れるような大きな店もなく、先生が出せるお金の範囲で、と店を探して延々歩き回ったので、最後まであきらめずについていったのはクラスの半分程度だったのだけど。



この話をしたところ、「あの時は、学年の最初から、なんか熱い奴がいたんだよ」とのこと。それは覚えていなかった。

合唱コンクール担当のリーダーを決めようとしたら、4人くらいやりたいと言い出して、その4人が選曲して練習も熱心にやったと。


#確かに、練習を嫌がる奴に対して、「男子クラスだから最下位当然なんて悔しいだろ?」とか、熱く説得していた覚えはある。


選曲したのは、黒人霊歌の Soon Ah Will Be Done。本来男女混合で歌う曲ですが、全体にキーを下げ、思い切ってソプラノパートは無くしてしまった。


ハーモニーの良さで勝負することは難しいので、リズムをしっかり刻むこと、音の強弱をはっきりさせることなど、男性でないと出せない迫力にこだわり、会場を圧倒して優勝したのでした。


#この時の中心人物の一人は、社会人になって数年目に自動車事故で死んでいる。

 中心人物が死んだ、というのはショックだった。




男子クラスと言えば、先生学年の始めの頃に、男ばっかじゃ寂しいだろうと、1年の女の子とフォークダンスする機会作ったよねー。


これも先生は覚えてなかった。体育の授業の際に、時間をうまく調整して、1年生の女子と合同でフォークダンス踊ったんです。


えーと、はっきり言って有難迷惑。

名前も知らない女の子と踊れ、と授業の際に急に言われても…


先生なりに気を使ってくれたんだろうけど、どうも空回りしている。

でも、僕の受験できそうな大学を探してくてくれたこともそうなんだけど、何かできることは無いか、常に考えてくれているいい先生でした。




先生と話していたら、あっという間に一次会の時間が終わり。

2次会にも出席し、もう一人の先生…今度は国語の担当だった先生に話しかけます。


先ほどのクラス担当と一緒に座っていたので、クラス担当の先生も相変わらずいるのだけど。


僕は、なんか国語の成績良かったのね。苦手教科だったのに。

数学は好きな教科だけど成績は悪く、国語は苦手教科だけど成績が良かった。


定期テストで、国語で学年5位に入ったことがありました。

理系クラスにいたのに、文系を差し置いて上位を取った、というので非常に褒められた思い出があります。



また、教科書に「赤い繭」(阿部公房)が載っていて、感想文を書く課題を出されたことがあります。

この時書いた文章も「物語を非常に良くとらえている」と、読み上げられたことがある。


「赤」を共産主義、家を持たぬ主人公を無産階級と捉え、プロレタリア文学の文脈でとらえた論を書いたのですが、詳細は覚えてません (^^;;


#確か、最終的に繭=家となった主人公は無産階級ではなくなり、自分の財産を守ろうとするものは共産主義でもない。赤と言いつつ形だけの、取るに足りない存在。これが「玩具箱に入れられた」に象徴されているのではないか、とまとめたと思う。



国語…特に、文法構造とか漢字の書き取りとか、細かなことは嫌いだったのだけど、本や物語を読むのは好きだった。

だから、自分の読んだことある本などの知識の断片から感じた通りに書いただけなのだけど、それが非常に褒められた。



それまで文章を書くのもどうも好きではなかったのだけど、この頃から好きになりはじめたように思います。


#この頃、自分用のワープロ(HALNOTE)を入手していて、漢字変換などに慣れるために日記を書いていました。

 これも、文章を書くことは案外楽しい、と思い始めたきっかけだと思う。

 同時期に国語で褒められていたので、文章を書くこと自体がうまくなり始めていたのかもしれない。




この話をしたら、国語の先生が言うには、「国語嫌いの生徒を出さないようにはしたかった」とのこと。


好きにならないでもいいけど、嫌いだという子は出さない。

そのために、あまり重箱の隅をつつくような問題ではなく、物語の内容を楽しんだり、そういう授業を心がけていたみたい。

特に理系クラスに対しては。


なるほど、僕が国語で嫌いだったのは、まさに重箱の隅をつつくような部分だったし、理系クラスではそういう部分は極力避けていたのか。

おかげで、あの頃苦手だったはずの国語に自信を持てるようになりました。ありがとうございます。




担任の先生と国語の先生で話をしていて、修学旅行の話になった。

長崎のどこで…みたいな話をしているけど、僕らの代だけ、長崎ではなかった。


そのことを言うと、お二人とも急に思い出したように、「そうだった、あれは××が悪いんだよ」と、別の先生の悪口。


毎年長崎に行っていたのだけど、僕らの代だけスキー旅行だったんです。

これが全く面白くなくて、翌年から元に戻った。


その××先生がスキー旅行を強く希望して、責任をもって旅程なども組んだのだけど、不評だったので1年で終わったとのこと。




他にもいろいろな話が出た。

もう一人の顧問、当時からすでに定年退職後の非常勤だった先生は、すでに亡くなったそうです。


そちらの先生はボーイスカウト活動もしていて、ジャンボリーなどの時にバッタリ会ったこともあった。

思い出がいろいろあったので、お会いできれば楽しかったのだろうけど、残念。




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