2015年03月の日記です

目次

01日 イチダントアール
02日 ワンサガン
03日 クールライダーズ
03日 Winファイル共有で「別のマシン」に繋がるトラブルの解決
04日 スタックコラムス
05日 安藤百福 誕生日(1910)
05日 登龍門
06日 ぷよぷよ通
07日 ゴールデンアックス・ザ・デュエル
08日 1994年のそのほかのゲーム
09日 10年目点検
09日 ガルボとジョイポリス
10日 カラオケ
11日 4年目の朝に
11日 ロケテストの話
11日 ヴァネバー・ブッシュ 誕生日(1890)
12日 残業の話
12日 WWW の提案日(1989)
13日 夢の中でデバッグする話
14日 手相開発時の技術話
15日 手相開発時の技術話(2)
15日 さよなら遠足
16日 ドットリ君
17日 ジョン・バッカスの命日(2007)
17日 手相開発時の技術話(3)
18日 手相開発時の技術話(4)
21日 スティーブ・ファーバー 誕生日(1953)
24日 山猫料理店
24日 ぎーちさんにお会いした
25日 ベーマガに出会うまで
25日 ゲームの条件
26日 作り棄てる日々
26日 ゲームのルール
27日 ベーマガ投稿
27日 名刺
28日 ファミベ、MSX、X68k
28日 家庭用と業務用
28日 X68000発売日(1987)
31日 春の家族旅行
31日 ペンション とうてんぽーる
31日 バナナワニ園
31日 ぐらんぱる公園
31日 帰り道


イチダントアール  2015-03-01 10:15:14  業界記

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イチダントアールは、WING WARと同時期の発売だったと思います。

続編なのでその前から説明した方がいいでしょうね。


1993年に、AM1研から「タントアール」というゲームを発売しています。


キャラクターが探偵風だったから、タントって探偵の意味合いだと思ってた。

でも、単に「たんとある」(沢山ある)だったのですね。


その名の通り、たくさんのゲームが入ったミニゲーム集です。


#ちなみに、キャラクターは「ボナンザブラザース」(1990)のイメージを引き継いでいます。



これ以前にも、家庭用ゲーム機には「ミニゲーム集」というソフトはありました。

でも、単にいくつかのゲームが1つのタイトルに入っている、または順次遊べる、という程度で、ゲーム間のつながりは重視されてないのね。

Puzzle Panic(1984)、ナゾラーランド(1987)、クニちゃんのゲーム天国(1991)など)


タントアールは、数秒で終わるミニゲームがたくさん入っていて、1つのゲームが終わったら次のゲーム、と次々とクリアしていくスタイルでした。


次々と違うルールのゲームが出てくるのを、瞬時に把握して対応していかなくてはならない。

ここに適度な混乱が生じて、自分でも思わぬ凡ミスをしてしまうのが面白い。

でも、1つづつのゲームは単純でそれほど難しくないし、非常にテンポがいい。


今では、ミニゲーム集の多くがそういうつくり方になってます。

その元祖となるのが、タントアールでした。




1個づつのゲームは単純で把握しやすいけど、テンポよく遊んでいくと適度に混乱して難しい。


一つのゲームをやり込みたいゲームマニア向けではありません。

主にゲームマニアの視点で語られがちな「ゲームの歴史」では、それほど注目されない作品。


でも、実は大ヒットでした。

ゲームセンターに来た一般客からすると、1個づつのゲームが簡単で、ルールが把握しやすいゲームは好まれたのです。


特に、2人用で対戦した時の盛り上がりはすごい。

ゲームが単純なだけに、負けると自分が「簡単なこともできないダメ人間」みたいなのね。

ものすごく悔しくて、絶対負けられない雰囲気。


この雰囲気が嫌だからこのゲームやらない、って人もいましたけど。


#ミニゲーム集全般にいえることですね。



当然続編が企画され、それがこの「イチダントアール」です。

たんとある、に対して、一段とある、っていうわかりやすい名前。


ちなみに、ゲーム内のミニゲームには全て名前が付いていますが、こちらもダジャレばかり。

くだらないダジャレばかりなのですが、テンポ良く出されるとなんか面白く感じるんだ。


「デートなUFO」なんて、BGMもデイトナUSAのアレンジになってる。

「ベートー弁当、うんめぇ~」とか「機関車トーマラズ」とか、ダジャレとして結構好き。



ミニゲームの内容・タイトルを、企画全員で考えていたように思います。

こういうのって、一人で考えていてもなかなか出てこないから、とにかくみんなで考えて、数ある中から面白いものを採用、っていうスタイル。


ただ、イチダントアールの発売は6月のようですから、部署に配属されたときにはすでに最終段階だったはず。

さらに続編の「2度あることはサンドアール」と記憶が混ざっているかも。




イチダントアールのマスターアップ前日、手の空いているものはテストプレーに参加していました。

そんな時、大バグが…


たしか、最後のボスとの対決の最中に、おかしな現象が複数同時に起こったのではないかな。


「うわー、締切直前なのに大変だ」と僕が言ったら、企画担当の人が「いや、こういうのは案外1つの原因で、簡単に直るもんだよ」と。


実際、メインプログラマー氏が15分後くらいに「差し替えるよー」と新しいロムを持ってきました。

ロム焼くのにも時間がかかるから、ほんの数分で直したのではないかな。


これで、バグはちゃんと治ってました。


部署配属直後のことだったので、さすがプロだなぁ、と感心したのですが、そのうち自分でも同じようなことを良くやるようになります。


#バグは出ない方がよいのだけど、簡単に直る単純なバグを良く出したのね…





関係ないけど、同じAM1研作品のゲームで「クイズ宿題を忘れました」「クイズ廊下に立ってなさい」というものがありました。


僕が入社するより前のもので、ゲーム開始時に生まれ年を入れ、その人の「小学生時代」の流行などに関する問題ばかり出す、という変わったクイズゲーム。

絶妙に懐かしい問題ばかり出てくるのが楽しい、というゲームでした。


後にサターン版が発売されたとき、タントアール・イチダントアールとカップリングになったのね。

4つのゲームを、2つのタイトルにまとめて出した。


そのタイトルが「宿題がタントアール」「廊下にイチダントアール」。


4つのタイトルをくっつけて、2つに分割し、なんだかつながった文章にしてしまう。

ここにもすごいダジャレ力を感じました。



ついでに書いときます。

上の2つのクイズゲームの問題だけ流用して、1994年に別のクイズゲームが作られてます。


「クイズゴーストハンター」ってやつ。

サードパーティの作品で、1研ではサポートしただけ。


クイズゲームって、問題を作るのが一番手間がかかる部分なのね。

それでいて、グラフィックやストーリーは見てもらえるのに、問題はあまり気にしてもらえない。


だから、サードパーティに問題データを渡して、手間を省いたようなのですが…


このゲーム、プレイヤーの年代聞かないで、問題を完全にランダムで出すんだよね。

年代ごとに用意された、他の年代だと全く意味の解らないような問題を、全年齢にランダムで出す。


クイズとしては、面白くもなんともないし、不条理すら感じるものになっていました。



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ワンサガン  2015-03-02 09:27:28  業界記

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ワンサガン…このゲーム、世に出ていません。

ロケテストまでは行ったのだけど、成績が悪くて「開発中止」と判断されたゲーム。


でも、ネット調べるとそれなりに知っている人いるのね。

「ガンバレットもどきだった」という評価で、真似したけどうまくいかなくて辞めたんだろう、という人も。


これ、勘違いですよ。

ナムコのガンバレットは、1994年10月発売。

ワンサガンは、僕が入社した直後にロケテストやって「開発中止」になったので、1994年初夏頃にはある程度開発が終わってます。




1991年のナムコの「スティールガンナー」、1992年のコナミの「リーサルエンフォーサーズ」によって、ガンシューティングゲームのブームが起きつつありました。

そこで、各部署にもガンシューティングを作れ、という社内命令が出ていたようです。


#AM2件からも、1994年にバーチャコップが発売されています。


ところで、先に「イチダントアール」で書いたように、1993 年にAM1研から「タントアール」を発売しています。

ミニゲーム集の元祖であり、ヒット作でした。


じゃぁ、タントアール風のガンシューティングミニゲームを作ろう、と考えだされたのがこのゲーム。

「たんとある」(沢山ある)に対して、「わんさかある」ガンシューティングでした。



「ミニゲーム集」と「ガンシューティング」のブームは業界にいれば誰でもわかるでしょうから、ガンバレットと内容がかぶっているのも不思議はありません。

上に書いたように、ワンサガンの方が少し先に開発しているようですが、ガンバレットが真似した、というわけでもありません。




部内でテストプレイを何回かやりましたけど、結構テンポがよくて楽しいゲームだったように記憶しています。


タントアールもそうなのだけど、ミニゲーム集の場合、次々ゲームを出してくるテンポが結構大切。

すでにヒットゲームを出しているので、そこらへんは上手でした。


部内の開発では、メガドライブ(メガCD)用の「リーサルエンフォーサーズ」用の光線銃が使用されていました。


でも、この光線銃「KONAMI」って刻印入ってるんだよね。。

ロケテストに際して、この銃を使うわけにいかない。


そこで、筐体などを作成しているAM4研に、ロケテスト用の仮筐体つくって、とリクエストが飛びます。

ミニゲーム集なので、「拳銃らしい」デザインよりは、もっとかわいらしい銃をお願いします。



4研の方で、何やら非常に古いゲームで使われていた銃の部品を見つけてきたようです。

何のゲームかわからないけど、昔のエレメカで、銃が筐体に固定されていたタイプだったみたい。


固定されていた銃だから、非常に重いです。取り回しのことなんて考えていません。

ゲーム自体のテンポが良いだけに、銃を左右に振り回さないといけないようなゲーム内容もあります。

銃が重いと、とてもついていけない。



さらに不運が重なります。

古い銃だから電子部品がすでに劣化していたようで、開発部署内で試験していたときにはちゃんと遊べたのに、お店ではちゃんと動かないのです。


これは、お店のご厚意で「せっかくロケテストなのだから、目立つところに置きましょう」と、入り口近くの明るいところに置いてくれたせいでもありました。


光線銃は画面からくる走査線の光を認識しているので、周囲が明るいとうまく動かないのね。



誰一人悪意はありません。だけど、全部が悪い方向に動いてしまった。




「誰か手の空いてる新人~」といういつもの声に上司のところへ行くと、工具一式持って上野行ってきて、と言われます。

わけのわからぬまま上野のゲームセンターへ向かうと、ワンサガンの企画の人が筐体の近くで弱り果てていました。


全然うまく銃が反応しないので、仕方がなく「調整中」張り紙を貼っている、とのこと。

工具が届いたので何とかならないかと、いろいろと調整するのですが、結局どうにもなりません。


その後、一緒に電車で会社に戻りましたが、企画の人は弱り果てていてかける言葉も見つかりません。


結局、その後も店舗では「調整中」のまま、予定を切り上げてロケテストは1日で終了したようです。


#夜になって暗くなったら少しくらい遊べたのかな?


当たり前のことですが、お金は全然入りません。

企画者はハードウェアの不調でどうしようもなかった、と説明したようですが、そのまま開発中止が決まりました。


この後も、いくつも開発中止のゲームを見ていますが、入社した直後だったこともあり、ここまで完成していて「開発中止」があるとは思ってませんでした。


社会の厳しさを教えてくれました。




補足しておくと、「機械の不調」というトラブルが理解されないで開発中止になった、という単純な話ではないと思います。

開発費はそれなりに投じているのだから、上層部だって発売して資金を回収したい。


中止の真意がどこにあるかはわかりませんが、店舗でトラブルが起きたという事実を重く見れば、ハードウェアに問題があるのでソフトが完成してもすぐには出せない、ということだったかもしれません。

で、延期している間にガンバレットが出て、内容がかぶっているから完全に発売中止、とかね。



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クールライダーズ  2015-03-03 09:30:01  業界記

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クールライダーズの発売はいつ頃だったかな…

ネット上の資料を見ると、発売時期が1994年4月説と、1995年4月説があるようです。


でも僕、入社(1994年4月)後にテストプレイしてたよ。どんどん改良されて面白くなっていく過程も見ている。

1995年までは食い込んでいなかったはず。タイトルのコピーライト表記も1994だし。


お盆休み明けにはまだテストプレイ筐体が置いてあったけど、秋にはもうなかった気がする。

夏の終わりごろに出たのかな。



#後日追記

 クールライダーズの販促チラシに、1995.4 という表記があるようです。1995年4月説はおそらくこれが元。

 でも、画面には 1994のコピーライト表記がある。1994年4月説は「4月」を信じた上で、年だけをコピーライト表記に合わせたのでしょう。

 実際には、チラシが作られたのと発売タイミングは違っていた、というだけかと思います。





ゲーム内容ですが、拡大・縮小スプライトを使った…つまり、2Dハードで作られた3Dレースゲームです。

アウトラン(1986)とか、ラッドモビール(1991)みたいなゲームね。


系統としてはアウトランナーズ(1992)の続編にあたります。

見比べてみるとゲームの核の部分はだいたい一緒、ということがよくわかります。


ちなみに、アウトランナーズ自体AM1研の作品。


#アウトランは、部署が1つしかなかった頃の作品。AM1でも2でもないです。



そういうゲームを1994年に出す、というのは、すでに時代遅れでした。


ポリゴンハードウェアが出てきた初期の頃は、まだバーチャファイターのような人型を動かすゲームは難しく、主なゲームはレースゲームでした。

クールライダーズが作られていたのは、そんなポリゴンレースゲームが次々発表になっている頃。


真面目にレースゲームをやりたい人は、もうポリゴンで作られたものしか眼中にありません。

なので「真面目なレース」を求めていない層に向けて作られました。



もうね、めちゃくちゃなの。激しく抜きつ抜かれつしながら、世界中を数分間で走り回ってしまう、という内容。

この「世界中」も、ナイアガラの滝の上を走ったり、イギリスならネッシーが首を出すネス湖のほとりを、中国なら自転車の交通ラッシュの中を、日本なら忍者が走り抜ける座敷の中を、って、明らかに間違った世界イメージをわざと打ち出している。


詳しくは、こちらのページこちらのページを読んだ方がいいでしょう。


「クソゲー」とか「馬鹿と紙一重」と言いながら、クールライダーズが愛されていることがよくわかります。

どちらの方も、このゲームの世界観を非常に良く伝える文章です。




このゲーム、使用基板がとても変わっています。H1ボード。テレビゲームで使われたのはこれ1作だけ。


#後にコインゲームで使われていたはずですが。


H1のHは Hi-Vision のH。当時は「ハイビジョンの時代が来る」と言われていて、ハイビジョン対応で開発された基板です。

でも、ハイビジョンの時代はまだまだ先だった。


はっきり言ってしまえば、「その時」に備えて、ハード作成者が技術を習得するための試作品でした。


試作品といっても、開発して終わりじゃない。

それが十分量産可能であることを確かめないといけない。


つまりは、ハイビジョン時代なんて来てないのに、ハイビジョン対応基板をたくさん作ってしまったのですね。

作ったからには使わないといけない。


「この基板の機能を活用できるゲーム、なんか作って」と注文が来るわけです。



#当時、各社がこぞって「ハイビジョン対応ゲーム」を試作・発表していました。

 ちなみに、今の「デジタルハイビジョン」とは違う、アナログハイビジョンね。


 1993年には、ハドソンがハイビジョン対応ボンバーマン作って、かなり話題になりました。




ハイビジョンはモニタが非常に高いです。

そこで、H1では、もう少し解像度を落とし、 24KHz モニタ2画面の同時出力モードも持っていました。


1枚で2画面の「対戦ゲーム」が作れます。

ついでに、通信機能もついていましたから、それも活用すれば最大基板4枚、8人同時プレイに対応できます。


#1枚で2画面出力・通信もできる、というのは System 32 multi が持っていた機能。

 その基盤の出力解像度を上げた、と考えることもできます。



ただし、まだ最新ボードで、製造コストに加えて開発コストが上乗せされてるため、ボード単体でも高価です。

そこにゲーム開発コストを載せて、十分値段に見合うゲームを作らないといけない。


でもこのボード、ポリゴン3Dが普及しつつある時代に、スプライトの機能が充実した2Dボードでした。

だって、「ハイビジョン対応」が新しいチャレンジなのに、さらにポリゴンなんて最先端機能入れたら収集付かなくなるもの。



まぁ、それは開発側の都合。

一般的に見れば、値段はバカ高いのに時代遅れの基板、というだけです。


ゲームなんか作っても、普通に考えてお店は買わないよね。


それでも納得して買ってもらうためには、他にはない強烈な個性を出さなくてはならないわけです。

3D全盛の世の中に、2Dじゃないとできない! すごい! ってゲームを作る。


その答えが、バカバカしい、「ありえねー」と笑いながら遊べるノリのゲームなのでした。

実際、クールライダーズは非常に強烈で、遊んだ人の記憶に強く焼き付いているようです。


上に書いたような理由で、お店があまり買ってくれなかったから、そもそも遊んだことある人少ないだろうけどね。




開発の中盤、部内でテストプレイ位は出来るようになったけど、まだまだゲームバランスなどは取れていなかった頃は、グラフィックが強烈なだけで、案外普通のレースゲームでした。


ただ、順位効果がすごく強いのね。負けてる人ほど速く走れる。

だから、抜きつ抜かれつのレース展開になるようにはなってました。


真面目にタイムアタックするようなレースゲームではなくて、みんなで楽しむゲームだ、ということですね。

この方向性は最初から定まっていたようです。



ある時、分岐点に大量の「矢印を持ったお兄さん」が配置されました。

この人たち、ぶつかるとポコポコ音を立てて吹っ飛び、道に転がります。


なかなか衝撃的な絵でした。

全体に実写の取り込みで作られているから、人が立っていたら人だと思うわけです。


でも、ぶつかったらポコポコ飛んでいく。

2Dゲームだから、この人たちただの板です。その板が実物である、というゲーム中の了解をあえて破り、ただの板のように扱ったのです。



それ以降、どんどんそんなノリが増えていく。

わけのわからんキャラクターが画面狭しと暴れまわるようになっていく。


で、ある時急にゲームの展開が激しくなりました。

どうやら、自分の「速度」にたいして、画面上の進む距離を倍にしたようでした。


きっと、いろんなステージをすぐに回れるように、デバッグ用の設定なのだろう…と誰もが思ったら、企画者から「これが正常な速度だよ」と。

あり得ないような展開、テンポの良いゲーム運びを実現するために、倍速で動くようにしたら面白いからこのままいく、という判断でした。


最初は違和感を感じたけど、慣れると実際テンポのいいゲーム展開なんですね。

その昔、アマチュアCGアニメーションコンテストの入賞者が、「自分で作った動画を2倍速で回すとテンポが良くなる」と言っていたのを思い出しました。


自分で苦労して作ると、ゆっくり細かなところも見てほしいと思ってしまう。

でも、あえてそこを2倍速にするくらいでちょうどいい、という話。



2Dスプライトの拡大縮小で3Dを表現している、というのも上手に使っています。

つまりは、計算で3Dを出しているわけではない「嘘」があるのですが、この嘘によってすごいスピード感を演出しているのです。


ちゃんと計算すると、遠くのものはゆっくり動きます。これは当たり前の話で、ゆっくりなのでスピード感は出ません。

WING WARが飛行機の激しい空中戦なのにのんびりしているのはそのため。


でも、アフターバーナーは「嘘の」3Dなので、すごいスピード感です。

本当なら遠くでも見えるはずなのに、ある程度から先は見えないことにしているの。


だからゆっくり動くことはありません。スピード感を演出できます。

ポリゴンでやったら、急に敵が出てきておかしいわけだけど、2Dならごまかしも利く。



クールライダーズは、見事にその時主流だった「ポリゴンレースゲーム」ではできない世界を作り上げて見せたのです。




詳細は知らないのですが、今になって思うと、開発コストを下げるのは至上命題だったのかな、とも思います。

先に書いたように、基板が時代遅れなのに高いから、ゲームの開発コストを下げないと売れない。


CPU が違うから、アウトランナーズのプログラムをそのまま使うことはできなかったはずです。

でも、ほぼ同じシステムを移植することから初めれば、少なくともゲームの調整は「ある程度できている」ところから始められる。コストが削減できます。


そして、グラフィックは基本的にすべて実写取り込みでした。

全部描くよりも、取り込んでちょっと調整する、というだけに留めれば、グラフィック作成効率を上げられます。



当時、セガの重役が「アメリカではモータルコンバットが売れている。どこが面白いのかわからないが、ヒットに学ぶ必要はある」と言っていたのを覚えています。


もしかしたら、実写取り込みは上層部の指示であった可能性もあります。



この実写取り込み、参加する「ライダー」などはプロのモデルさんも頼んだけど、ある程度は社内・部内の人だったはず。

この記事書いていて思い出したけど、たしか一人は「ちょっとみせて」の最後に参加して絵を手伝ってくれた同期。


#「ちょっとみせて」のスタッフロールでも、彼はクールライダーズの格好・音楽で登場していたのを思い出しました。



たしか、トライク(3輪バイク)に乗っている親子の子供の方は、部長のお子さんじゃなかったかと思います。

別に部長が子供を出したがったとか親ばかな理由ではなくて、モデル事務所に子供がいなかったのだと思う。


#子役って、普通は子役専門事務所になる。


先に「親子連れ」ってイメージがあったので困って部長に相談したら、じゃぁうちの子連れてくるよ、とかそんなの。




バカバカしいものって、実はかっこいいものよりも作るのが難しいです。

ストーリー漫画よりナンセンスギャグマンガの方が難しい、というのと一緒。


ここら辺、作る現場の人でないとわからないかもしれないけど。



その点において、クールライダーズをまとめた企画の人は、すごい力量の持ち主でした。

こんな無茶苦茶なものを、ちゃんと面白いゲームとしてまとめ切っている。


細かなテクニックなんて不要です。

ガンガン障害物にぶつかってもすぐにゲームに復帰できますし、どんなに他のプレイヤーと離れても、順位効果が強いからすぐに追いつける。


それじゃぁ大味なゲーム展開になるのではないか、とおもいきや、実はちゃんとテクニックがある人は速く走れるようになっている。

順位効果は強いけど、先頭が「見える」範囲まで近づいたら後はテクニックが物を言う世界。

障害物にぶつからずに走れる人が、結局1位を取るんです。

ここでも、「初心者でも勝てるチャンスがある」けど「努力は評価される」といううまいバランスを作っている。


そして、こんなレースをやっている間に、世界中の名所が、あり得ないビジュアルで目まぐるしく移り変わる。

ゲームに集中していても、その世界が異常だと気づくくらい異常。


ナイアガラの滝とか、滝のすぐ上を走っていくんだけど、落ちても大丈夫。

落ちると空中をどんどん落ちて行って…ドスンと落ちると、またコースの上です。一体どうなっているの?


深く考えてはいけません。「なんじゃこりゃ、ありえねー」と笑いながらゲームを続行するのが正しい。



こんなゲーム、なかなか作れるものではありません。

この世界観を「最初から」目指して作っていたら、多分悪ふざけが過ぎるだけのクソゲーになるよ。


先に書きましたが、途中のテストプレイ段階では、十分に普通のレースゲームだった。面白かった。


でも、そこから世界観が無茶苦茶になるようにあえてゲームを壊し、速度を倍にするような危険も犯しています。

一度完成したものを壊していくって、作る側としては本当に怖いよ。


そして、ゲームの根幹部分はちゃんと「面白い」まま残して、見た目だけでも笑いを取れるゲームに仕上げる。


これが、ただの悪ふざけとは違う部分です。

企画者の腕が良くないと作れない。



WING WARは別の企画者ですが、似たような部分があります。

シリアスなはずの空中戦なのに、どこかコミカルなゲームでした。


タントアールだって、ダジャレ満載だし、ゲーム内容単純すぎるし、ふざけているように見せかけて結構熱いゲームになっている。


こういうノリ、当時のAM1研が最も得意とするところでした。


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Winファイル共有で「別のマシン」に繋がるトラブルの解決  2015-03-03 23:39:24  コンピュータ

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QNAP をしばらく前に導入したわけだけど、なんだかうまく共有できないことがあった。


おかしいなぁ、と思いながら、僕は使えていたので気にしていなかった。

でも、妻のマシンから QNAP にアクセスできない。


僕のマシンでも、ごくまれにうまく接続できないことがある。不安定。



時間がなくてなかなか追及できなかったのだけど、やっと原因がわかった。


多分レアケースで、同じようなミスをする人がそれほどいるとは思えない。

でも、そんなこともあるんだ、って例として書き記しておこう。




まず、最初に環境について。


仕事のために Linux サーバーを立ててある。

この Linux サーバーには samba が入っている。


samba っていうのは、windows のファイル共有を Linux でも使うようにするソフト。

実は、QNAP の中もこれで動いている。


一時は、ネットワーク上に2つの samba サーバーを共存させるのに何か相性問題とかあるのか、と疑ったのだけど、最終的にこれは関係なかった。


Linux サーバーは、家庭内 DNS サーバーとしての役割もある。


DNS は基本的に各マシンを登録してあるのだけど、登録していない名前でアクセスが発生した時は、Linux サーバーの IP アドレスを返すようにしてある。


仕事で WEB アプリを作ることが多く、Apache に仮想サーバー設定することが多いためだ。


適当な名前でアクセスした際、Apache がサーバー名で動作を変える。

この時、いちいち DNS 設定の変更なしに新たな仮想サーバーを作れると便利だ。




以前、I/Oデータの Landisk シリーズを NAS として使っていた。


これ、確か初期設定でサーバー名が landisk-1 となっていた。

じゃぁ、って DNS にも landisk-1 で登録した。


QNAP を導入した際、置き換えだったので同じ IP アドレスを割り振った。

同じ IP アドレスにしたのは、もし IP アドレスが変わったことで問題が出るような環境があると嫌だったから。


もっとも、QNAP と Landisk は共有ディスク名などが違ったので、IP アドレス一緒でも同じファイルパスでアクセスできなかったのだけど。



で、QNAP がホスト名を決めろ、と言ってきた時に、ここは「NAS」とした。

landisk じゃないのに landisk-1 と呼ぶのもどうかと思ったし、今後 NAS を買い替えることがあっても、NAS という名前ならそのまま使えるだろうと思ったから。


で、動かしたら動き始めた。問題ない。

Windows からネットワークを見ると、NAS というサーバーが見えている。


ところが、僕の環境ではアクセスできたのに、なぜか妻の PC からアクセスできない。

NAS を開くと、どういうわけか、Linux サーバーの方の samba に接続してしまうのだ。


これが解決できなかった。




今日、(妻がたまたま出かける用事があったので)妻のマシンを長時間借りて調査。

妻の環境でだけおかしいので、妻のマシンの設定を疑ったのだけど、それほどおかしそうなところは無い。


すぐに Linux サーバーに接続してしまうので、試しに Linux サーバーの samba を停止してみる。

すると、QNAP に接続するようになった。


ありゃ。もしかして、samba を同一ネットワークに置くとおかしくなるのか?


でも、前の Landisk だって samba だった。

なにか、ネットワーク上で同居しやすい設定とかあって、そこが微妙に違うのかな?


ここから、samba の設定お勉強タイム。

実のところ、Windows のファイル共有には詳しくないのだけど、一つだけ分かったことがある。


windows の共有の仕組みは、基本的に「何も考えないで良い」ことになっている。

でも、Linux で windows の共有に参加しようと思うと、かなり細かな設定が必要。


そして、設定を間違えても気づきにくい。

windows 側で、それなりに「おかしな設定」でも吸収してしまうようなのだ。さすが windows 、よく出来てる。


でも、おかしいものはやっぱおかしい。

エラーにならないでそれなりに動くからこそ、不具合部分が何に起因するのかなかなかわからなかったりする。


…ということを解説しているページがあって、根が深そうだと暗い気持ちになる。




Linux の samba を止めればうまくいくのだから、何か設定を間違えているのだろうなぁ。

そう思って、samba の設定ファイルをいろいろと変えてみる。


でもうまくいかず。


他にももっと何かないか…と思っていたら、samba のトラブルシューティング方法を書いた HowTo 文書を見つける。

(Linux の世界には、技術を初心者に教えるための HowTo と呼ばれるテキストが数多く残されている)


ここで初めて、体系だった方法で悪い部分を見つけ出すことができるようになった。

順次トラブルシュート手順をこなしていく。


11の手順が示される中の、8番目の手順。

Windows 側から、コマンドラインで \\NAS に接続しようとすると、そんなマシンは存在しない、と怒られた。


#\\NAS 、というのは、Windows のネットワーク共有をコマンドラインから指示するとき、NAS と名付けられたサーバーの意味。


これに対する対応方法も書いてあるのだけど、それは「NetBIOS がおかしい」ことを前提としたものだ。

どうもそうではない。NetBIOS はおかしくない。でも、何かがおかしい。


Windows は、ネットワークの一覧に NAS を表示している。でもそのマシンがどこにあるかがわからない。

認識しているマシンが認識できない、という言葉にするのもおかしな状態になっている。


いろいろ試していて、気まぐれに IP アドレス指定してみると、見えている。

じゃぁ、と思って \\landisk-1 を指定すると、これも見えている。


でも、ネットワーク一覧の中では landisk-1 は出てこない。NAS が出てくる。


えーと、つまり、ネットワーク一覧に NAS として認識されるけど、landisk-1 を指定しないとアクセスできない、と、そういうこと?




DNS に NAS を登録していなかったことを思い出し、landisk-1 の別名として登録する。

これ、後で登録しなくちゃな、と思ったまま、なんとなく動いていたから忘れていた。


これで動くようになった。



さて、一体何が起こっているのか、samba と DNS にどんな関係があるのか、情報を整理しておこう。




samba のそもそも論から入ろう。


Windows では、SMB (Server Message Block)というプロトコルでファイル共有を行う。

これを UNIX からも使用できるようにするためのソフトが、samba だ。


SMB は「ファイル共有」だけを行う。UNIX でいうと、NFS (Network File System)に当たる部分だ。


NFS の場合、ファイル共有は相手サーバーの名前を指定することで行うが、ネットワークは「名前」では接続できない。

このため、名前を IP アドレスに変換する必要が出てくる。これを名前解決と呼ぶ。


UNIX では、リゾルバと言う仕組みで名前を解決する。

リゾルバでは、ローカルファイルに書かれているデータベースか、ネットワークに存在する DNS と呼ばれるデータベースの仕組みを使って名前解決を行う。


Windows の場合、名前解決には NetBIOS という仕組みが使われる。

UNIX の DNS の場合、データを集中管理しているので仕組みが簡潔な反面、管理が結構面倒だ。


NetBIOS では、各マシンに名前を付けるだけで良い。

あとはマシン同士が勝手に、うまいことやって名前を解決してくれる。とても便利だ。

その反面、DNS よりも仕組みが複雑になる。複雑さを反映して、速度が遅かったりもする。


#Windows で「ネットワーク」を開いても、すぐに目的のマシンが表示されなかったりしたこと、ありません?



samba では、 SMB と NetBIOS を、それぞれ smbd と nmbd という二つのソフトで扱う。


smbd は、SMB プロトコルを、nmbd は、NetBIOS プロトコルを解釈する。



ファイル共有と名前解決の方法を、それぞれ持っている。

だから僕は、samba は DNS とは無縁だと思い込んでいた。




NetBIOS は設計が古く、インターネット時代に対応できていない。

普通のネットプロトコル… TCP/IP と共存できないのだ。


そこで、現在は NetBIOS over TCP/IP と呼ばれるプロトコルに移行しているらしい。

面倒なので、これも NetBIOS と呼ばれてしまう。


そして、samba のサーバー側でなく、クライアントの Windows マシンの方では、もう NetBIOS だけには頼っていない。

名前解決の方法は複数ある。これを、一番ユーザーにとって扱いやすいように、ミックスして使う。


先に UNIX では、ローカルファイルと DNS の2つの方法で名前解決する、と書いた。

Windows では、これに加えて WINS と NetBIOS を混ぜ、4つの方法で名前解決する。


#上に「DNS」と書いたのは、実際には UNIX のリゾルバ相当の意味で、ローカルファイルと DNS サーバーを適切に組み合わせる。

 そのため、「ローカルファイル」は、NetBIOS 用とリゾルバ用の二つがあることになり、都合5つの名前解決方法がある。



さて、どのようにミックスするかは非常にややこしい。

しかし、基本的に速度の速い方法から順にためし、解決できなかったら次の方法を試してみる、という動作を繰り返す。


ここで、僕が家庭内 DNS の設定として、登録されない名前は Linux サーバーに向かう、としていたことが問題となる。

DNS に何を問い合わせても、とりあえず解決してしまうのだ。


そのため、NetBIOS の出番は無くなり、DNS 設定されていないが NetBIOS は認識している、という名前が正しく処理されなくなる。


これが、「ネットワーク」の一覧に出てくるホストに接続すると、別のサーバーに繋がってしまう、という現象の正体となる。



ちなみに、WINS サーバーは NetBIOS の遅さを解消する仕組み…だと思う。我が家では使っていないし、使ったことないから正確なところがわからない。

DNS みたいなものだけど、NetBIOS の仕組みを使っているので、自動的に名前を収集して設定が手間いらず、というようなものだと思う。



妻のマシンではアクセスできなくて、僕のマシンではアクセスできたとか、Linux のsamba 止めただけで、名前解決できないはずの QNAP にちゃんと接続できたとか、よくわかってない部分もある。


Windows が非常にややこしい方法で、ユーザーが何も設定しないでもつながる仕組みを作ってくれているので、トラブルが起こった場合は何が起こっているのか推察するのが難しい。


#文句を言っているのではない。問題は正しくない DNS 設定にあったのであって、Windows は悪くない。




原因を見つけるのに時間がかかったが、原因がわかれば後は簡単。

NAS を DNS に登録した。これで完全解決。


知らない名前は全部 Linux サーバーへ、という設定も、本当は良くないのだろう。

でも、開発で気軽に名前を作れるのはありがたいので、この設定は変更できない。



全く同じ問題に遭遇する人は、おそらくいないと思う。


でも、Windows の共有設定は NetBIOS で名前解決するので、DNS は関係ない、と思っている人は結構多いのではないかな。

DNS サーバーが混ざっていて、設定が絶妙だとハマることがあるよ、という情報は、ほんの一部の人にとって役立つかもしれないので、ここに記録しておく次第です。



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スタックコラムス  2015-03-04 10:01:21  業界記

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たしか、1994年の秋ごろに出たのではなかったかな。


スタックコラムスはコラムスの続編なので、歴史の流れから、ざっと説明しましょう。

僕が入社するずっと以前の話なので、間違っているかもしれませんが。


1988年にテトリスが発売になります。作成はAM1研。というか、まだAM全体で1部署だったと思う。


この業務用のテトリスが大ブームとなりますが、ファミコンやパソコンで発売されたBPS版テトリスと、ゲームボーイで発売された任天堂テトリスの3社を比べると、ルールがかなり違うのがわかります。


共通するのは、「7種類のテトロミノを横10マスのフィールドに積み上げ、横1列揃うと消える」ということだけ。


BPS版では、25列消すと次の面へすすむ、面が進むと最初から「ゴミ」がつみあがっている、というアレンジでパズル性が強くなっていました。

任天堂版は、ゲームボーイの特性を活かすため、対戦できるようになっていました。


そして、セガ版はアクションゲームの側面を強く出していました。

ブロックの落ちる速度の「最高速度」は非常に速く、その代わりにブロックが接地してから固まるまでの時間的猶予があります。


さらに、この接地時でも回転できるように、ブロックの回転は数学的な意味での「回転」にはなっていません。

また、速度が遅い際にブロックを「速く落とす」指示をしても、一気に接地するわけではなく、単に高速度で落下するだけです。


#原作では、早く落とす指示は一気に接地する。

 PC版などでもこれと同じ操作になっていた。


…細かな点はいろいろあるけど、これらはセガのテトリス独自のルールでした。

しかし、以降の落ち物パズルでは、みなセガのテトリスに準じたルールで作られます。



セガからも、テトリスのヒットで続編が作られます。フラッシュポイントとかブロクシードとかね。


フラッシュポイントは、パズル性を強く打ち出した作品。

ブロクシードは、対人対戦できるようにした作品です。


でも、根本的に「テトリス」の版権が不明瞭で、任天堂とトラブルになったのは結構有名な話




コラムス(1990)は「続編」というか、落ち物パズルを展開するうえでセガが完全に権利を買い取ったゲームです。

テトリスで権利の管理が甘くて問題が出たから、ちゃんと権利を買い取ったんだね。


ちなみに、原案はヒューレットパッカードに勤めていた、Jay Geertsen が 1989年に考えたゲーム


原作時点ではそれほどゲームとして面白くなかったようですが、テトリスと同じようなアレンジを加えて、アクションゲームとして洗練させました


#原作は X-window 用に作られたようだけど、比較的忠実移植と思われる 最初期の DOS 版は入手可能

 DOSBox を使えば今でも遊べます。

 「面白くない」ことを確認するために遊ぶにはちょっと準備が大変ですが、興味ある方は是非。


#2016.2.10 追記

 上記リンク、ページが消えたようで、アーカイブページにリンクしています。

 ブラウザで遊べる初期バージョンのエミュレートもありました。

 上に書いた最初期のものではありませんが、セガが手を加える前のコラムスの…イマイチ面白くない感じは味わえます。



コラムスの魅力は「連鎖」が起こること。これはテトリスには無い要素だけど、やはり今の落ち物パズルではなくてはならない要素。


コラムスはテトリスほどのブームを生み出せなかったけど、実は地味に支持され続けたゲームです。


後の話になりますが、1995年ごろには、業界紙に毎月集計されていたコストパフォーマンスの良いゲームのランキングで、ぶっちぎりで1位を独走していました。

元々安価な基板で作られているけど、95年ごろには中古で本当に安くなっていて、でも人気があるのね。


購入代金なんてすぐに稼ぎ終わって、後は置いとくだけで儲かりつづけた。

爆発力は無いけど抜群の安定感がある、ゲームセンターに信頼されたゲームでした。



…と、それは後の話ですが、発売した直後からちゃんと人気はありました。


ヒットしたので続編も作られ、同じ1990年のうちに「コラムス2」が発売になります。


これは、テトリスに対するフラッシュポイント・ブロクシードのようなもの。

コラムス2には、パズルと対人対戦の2つのモードが入っていました。



でも、テトリスもコラムスも「単純なアクションゲーム」という側面がヒットの理由です。


フラッシュポイントもそうだったけど、パズル要素を打ち出すと全然売れない。

また、対人対戦は一緒に遊ぶ人が必要で、落ち物パズルの主な顧客層である「一人で黙々と遊びたい人」には人気がありません。


コラムス2もウケませんでした。これでコラムスの続編は一旦終了。




テトリスのアレンジを担当した企画者の下には、次に「ぷよぷよ」が持ち込まれます。

コンパイルが作ったゲームですが、最初の MSX2 版作った時から「テトリスやコラムスのパクリ」って公言してましたからね。


コンパイルとしては是非業務用を出したい、とのことだったようです。

でも、テトリスやコラムスと同じく、そのまま業務用にするにはいろいろと問題があった。

大きく作り変えるアレンジを施します。


元の「ぷよぷよ」は、対人対戦ができました。ブロクシードやコラムス2を真似したらしい。

しかし、落ち物の対戦は業務用では受け入れられない、と、ブロクシード・コラムス2でわかっていました。


でも、ぷよぷよは対戦が面白いゲームに仕上がっていた。

これを一人で遊べるように、CPU対戦を入れるといいのではないか。

その際に、せっかく豊富な敵キャラクターを持っているのだから、それらの個性を打ち出すと良いのではないか。


#注:ぷよぷよは、「魔導物語」というコンパイルのRPGの世界観を使った遊びでした。

 そのため、世界観の中には個性的なキャラクターが多数いましたが、MSX2版では特に使っていませんでした。


入社前なので詳細は知らないのですが、これらがセガ側から出された提案だったようです。

業務用は1991年に発売になりますが、このアレンジが成功して大ヒットしたのはご存知の通り。




その後、家庭用の部署で勝手に「コラムス3」が作られます。これは、AM1研とは全く関係ないもの。

ぷよぷよのような対戦をコラムスで行う、というゲームシステムでした。


初代コラムスは、まだ地味にヒットし続けていました。

そこで、コラムス3を作ったなら業務用にも発売せよ、という命令が下ります。


でも、やっぱり家庭用をそのまま業務用では出せないんです。

家庭用ゲームはゆっくり楽しむもの。それに対し、業務用ゲームは短時間に面白さを凝縮する必要があります。


そこで、システム・プログラムなどは基本的に活かしたまま、大きなアレンジを加えたゲームを作ります。

それがスタックコラムスでした。


最初のコラムスが作られた部署に戻ってきたわけだけど、企画は別の人。

同じ部署内で作っていた、というだけで詳しく知らないので、詳細は分からないのだけど。




コラムス3とスタックコラムスは、遊んだ人にはわかると思いますがほぼ同じシステムです。

だって、そのまま発売せよ、という命令だったのだもの。


コラムス3にはRPG風味のストーリーがあるのだけど、説明なしに短時間で遊べないといけない業務用では、複雑なストーリーは難しい。

そこで、非常にわかりやすい「トーナメント大会に勝つ」というストーリーに変えられ、ストーリーに合わせてグラフィックも描き直されます。


ゲーム自体は、後出し有利で戦略性が薄い、とよく言われます。

うん。その通りだと思う。


弁護するなら、コラムス3のシステムには、テトリスやコラムスの企画者が関与してないからね。

コラムス3のアレンジ担当者があまり上手なアレンジができなかった、ということではないかな。


#元々対戦を考えていなかったゲームを無理やり対戦にする、というのは非常に難しいのだけど。



ストーリーに関しては…

なんでしょうね。どういう経緯でこういうストーリーを考えたのかは、僕は知りません。

知ってたらそれ自体が面白い逸話だったと思うのですが。


同時期にずんずん教が部署内に置いてあったから、感化されたのか?


#多分そんな理由でストーリー作らない




ところで、原作となったコラムス3の音楽は結構好きな人が多いらしいですね、と唐突に書いておきます。

小学校以来の友人で、コメットの音楽を作ってくれたKER君の作です。


#彼も一時期セガにいたのです。




2015.4.3追記

スタックコラムスの元である、コラムス3の関係者から証言が得られましたので追記しておきます。

えーと、リーク情報で迷惑がかかるといけないので、匿名ってことで。


コラムス3は、メガドライブのマルチセレクター セガタップを発売することになり、同時発売する対応ソフトを作れ! という掛け声で短い期間で作られたのだとか。


クイズゲーム(パーティクイズメガQ)とコラムス3、どっちがいいかと聞かれてコラムス3を選んだのだとか。


そういえば、タップの試作品を見せてもらった覚えがある…



あぁ、このページはコラムス3の話題ではなく、スタックコラムスでした。

それらしい話題も書いておきましょう。


スタックコラムスの音楽のいくつかはコラムス3のアレンジになっていたそうです。

そのうち1曲が低音のノリを活かしたものだったのに、肝心の低音をカットするアレンジをされて意味不明の音楽になっていたとか。


以上、匿名氏からの情報でした。



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安藤百福 誕生日(1910)  2015-03-05 10:04:12  料理 今日は何の日

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今日は安藤百福さんの誕生日(1910)。


google doodle で知りました。

パソコン関係の人の誕生日とかはチェックしているのだけど、百福さんはノーチェックだったわ。


世界で初めてのインスタントラーメンを発明し、後にカップラーメンも発明した、日清食品の創業者ね。


僕は、人は一生に一度大ヒットだしたらすごい、と思っています。

大ヒットって、周囲の評価の問題ではなくて、その人が自分で自信をもって言えることがあればそれでいい。


その意味では、インスタントラーメンは超ド級の大ヒット。

その後にインスタントラーメン、インスタント食品と言う巨大市場を生み出してしまったのですから。


これだけでも十分凄い話なのに、その後にカップラーメンの開発をしている。

これがまた超ド級で、「料理」という概念を根底から覆してしまったし、ラーメンを食べる習慣のなかった世界中の人たちにまでラーメン文化を普及させた。



1つの大ヒットがあれば十分なのに、超ド級の大ヒットを2つも作りだした人は、ものすごい人だと思います。




基本パソコン関係の「今日は何の日」なのに百福さんを取り上げるのは、ハッカー(凄腕のプログラマ)にはインスタント食品の愛好家が多い、と信じているから。


夜中にプログラムしていて、ちょっと腹減ったからインスタント食品食べる、というのは基本かと思います。



あと、ハッカーなら自分で食事作れなくてはならないよ。

手順を整えて手際よく仕上げる、というのはプログラムと通づるものがある。


不慣れだから料理できない、という人は、まぁそれでもかまわない。


でも、よく料理しているにもかかわらずおいしいものが作れない、という人は信用しない。

そんな奴の作るプログラムは、食えない不味いものであるにきまっている、と思っている。


プログラムにも、料理にも関わらず、手際が悪い奴っていうのは何をやっても手際が悪いもんです。




さて、google doodle で百福さんだったからあわてて取り上げた、と思われるのも面白くないので、過去の日記を紹介して終わりにしよう。


上のような考え方を持っていたので、すでに「チキンラーメンの誕生日」(1958/8/25)は紹介しています。


あと、「今日は何の日」ではないのだけど、カップヌードルミュージアムに行った日の家族日記もある。


この二つの日記で、百福さん絡みの語りたいことはほぼ語りつくしているので、今日はこの程度でおしまい。



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登龍門  2015-03-05 14:57:37  業界記

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登龍門

登龍門って、どのくらいの人が知っているのだろう。


落ち物パズルゲームです。

サードパーティ作品で、AM1研がサポートして世に出したもの。


いつごろ出荷されたのか記憶が定かでないです。

でも、1994 年の夏の終わりか、秋くらいだったんではなかったかな。



なんでも、セガの偉い人の知り合いのやっている会社が持ってきた企画なのだとか。

「手伝ってあげて」とAM1研に回されたものの、その会社はゲーム開発の経験が浅かったようで…



この頃、「落ち物パズルなら簡単そうだし、作れるだろう」って考える小さなソフトハウスが多くありました。


落ち物パズルの「処理」自体は確かに非常に簡単なことが多いです。

でも、そんなに甘くないよ。落ち物パズルって、ある程度形が決まっているからこそ、アイディア勝負になる。


そして、アイディア勝負っていうのは、何よりも難しいのです。


また、落ち物パズルは操作感が非常に大切。

これって、経験がものをいう部分なのね。こちらも甘くはない。




登龍門は、「ぷよぷよみたいなゲーム」を最初から目指していたようです。

ゲーム見たことある人ならわかるね。コンピューターのキャラクターが出てきて、漫才やって、対戦する。


でも、その企画書の時点で、ゲーム内容破綻していたのね。

仕様通りに作られた最初のバージョンはゲームになってなかった。


落ち物パズルゲームなので、基本的には「消し方」が重要です。

このゲームでは、四角いブロックの4隅に、1/4の円の模様が「ある」場合と「ない」場合があります。


これを組みあわせて円を作ると、その円を作った4つのブロックが消えます。

4つ組み合わせると消える、というぷよぷよの亜流になっている。


自分が操作する、上から落ちてくるブロックは、これもぷよぷよのように2つ組です。

ぷよぷよと同じように回すことができ、横向きに置くと切り離されて落ちることがある。


まぁ、全体的にぷよぷよの真似です。ただ、落ち物で一番重要な「消し方」は違うものにしてある。

企画書を見るだけでは、それほど問題があるようには見えません。




実際作ってみると、問題点が多いことがわかります。


ぷよぷよでは、ブロック全体の「色」だけが重要でした。

でも、登龍門では4隅が重要なのです。


ブロックの「4隅」を回転させないと、円を作るように模様を配置することはほぼ不可能です。

そこで、ブロック回転時には、模様も回転するようにしました。


しかし、模様だけでなく、2つ組のブロックが一緒に回転します。

ブロック「全体」を置きたい形にすれば模様が好きな形にはできず、模様を好きな形にすると、ブロックを置く場所が制御できません。



「積みあがった」ブロックを消す方法がほとんどないのも問題でした。


ブロックは4隅のうちどこかの「模様」を4つそろえると消えます。


極端な話、模様が1つもないブロックがあれば、絶対に消せません。

模様が1つしかついていないブロックがあって、うっかり模様を壁側に押し付けて置いたら、これももう絶対に消せなくなる。


消せないブロックは壁と同じなので、どんどん壁を増やして、永遠に消せないブロックだらけになります。



もちろん、「連鎖」なんて狙えません。理論上は連鎖が出来るはず、というルールなのですが、現実問題として連鎖はおろか、1つのブロックを消すことすら大変なのです。




問題の根源を考えていくと、ブロックの組み合わせが問題であることがわかります。


ぷよぷよでは、ブロックは6色ありました。これが2つ組で落ちるので、6*6=36パターンのブロックがあります。

「切り離す」ことができるため、36種類ありますが、「待つ」際には1/6の確率で良かったりもします。


テトリスでは、4つのブロックがくっついて落ちますが、この形は7パターンでした。

「待つ」場合も、1/7の確率です。


登龍門では、1つのブロックの4隅の模様の「ある」「なし」の組み合わせでブロックが形成されるので、16種類あります。

(ある、なしの「2つ」のパターンが、4隅にあるので2*2*2*2 = 16種類となる)


これが2つ組で落ちてくるので、落ちてくる際のブロック形状は256種類あることになります。


切り離せたとしても、待ち確率が 1/16。実は、「隣接する模様」が大切なため切り離しが上手く使えない局面も多く、ひたすら待つことになります。


そして、待つ間に積み上げたブロックは、先に書いたように自由に消すことが難しいのです。



AM1研担当者は、最初のバージョンが来た時点で「ゲームになっていない」として、何が問題か詳細に示したレポートを返したようです。




担当者が期待していたのは根本的なルールの見直しだったようなのですが、次のバージョンでは、難易度を大幅に下げるルール改変が行われてきました。


ブロックを消した際、消える4ブロック(必ず四角くなっている)に隣接する8マスのブロックには、消すために作られた円に最も近い位置に、それ以前の状態に関係なく1/4円が発生します。


言葉で説明するのはわかりにくいので、図を出しましょう。


右の図で、右端の矢印部分のブロックが新たに落ちてきたものとします。

ピンク色のブロックと組み合わさって「円」ができ、ブロックは消えます。


この時、緑色のブロックには、ピンク色のブロックと同じような「半円」が生じます。

上の水色のブロックの右下角にも「1/4円」が生じます。



これにより、連鎖を組むことが非常に容易になりました。

ゴミを詰めておいても半円が生じることがわかっているので、残りの半円だけを、連鎖するように組んでおけばよいのです。


いま説明に使った図では、縦に4段積んでおり、上の2段には左向きの半円を作ってあります。

下の段は、円はピンク色のブロック以外存在しません。どのようなブロックでも構わない、いわゆる「ゴミ」で構わないという意味です。


先に書いたように、ピンクが消えると、緑がピンクと同じ状態になります。

そして、ピンクが消えたのですから、上から水色が落ちてきます。


その結果、また円が出来上がります。緑の隣がまた半円になり、緑の上の半円が降ってきます。

以下繰り返しです。



このゲームの目的は「円」を作ることですが、ほとんどは「半円」で十分なのです。


半円を作れるブロックが来たら上に積み、それ以外のゴミは下に詰める。

最後に、1か所だけ円を作れば、後は勝手に連鎖します。


この時のバージョンでは、この戦略でエンディングまで延々と遊べました。

気付いてしまえば、誰でも100円で30分遊べる。


ブロックを組んでいく、というパズル性は失われ、非常に作業感の強いゲームになりました。

簡単に言い直せば「つまんない」ってことですが。



また担当者が頭を悩ませ、レポートをまとめます。


業務用のゲームでは、1回たったの100円しか入れてもらえません。

店舗の採算を考えると、100円での平均プレイ時間は3分間が望ましい、とされていました。


1ゲームがだいたい3分で終わるように、難易度調整をお願いします。




これに対しての返答は驚くべきものでした。


「3分で終わらせるっていうのは、タイマーを用意して3分で強制終了でいいでしょうか?」


そんなのゲームじゃねぇって。

担当者氏、あきれ果てて何を言ってよいものやら、周囲に愚痴りました。


#僕はこの時点で経緯を聞いたので、これ以前の記述は間違えているかもしれない、と断っておきます。

 これ以降だって、20年前の記憶によるものだから間違ってるかもしれないけどね。


結局、業務用ゲームにとって難易度調整がいかに重要なものか、難易度調整を敵の強さで行うのだ、という当たり前のことから延々と解説し、理解してもらえたようです。




次のバージョンでは、勝ち進むとだんだん敵が強くなるようになっていました。


…ただ、先に書いたようにこのゲーム、パズルとしては破綻しているのですね。

パズルじゃないから、「敵のあたまがよくなる」ことでの難易度調整はできません。


どうやったかというと、敵側のフィールドだけルールが変わる。


どう変わるのか詳細は覚えてないのですが、自分はある程度連鎖を組まないと攻撃ができないのに、敵は1個消すごとにものすごい数の「お邪魔」を降らせてくるんじゃなかったかな。


これにもまた担当者氏は頭を悩ませていたのですが、やがて吹っ切るように、もういいや、って言ってました。

結局、これ以上はゲーム内容には意見せず、要求仕様(コイン周りの動作など)が正しいか、致命的なバグが無いかなどの確認だけ終わらせて発売したはず。




このゲーム、企画時点で売れないと思われていたのか、「システム16の在庫整理」名目でした。

そんなこと、申し訳ないから作成会社には伝えてないと思うけど。


ゲーム基板って、ある程度まとめて作って、その上にゲームの ROM を載せて販売します。

場合によっては ROM 交換だけ、というのもあります。


で、新しい基板に主力ゲームが移行していくと、古い基板の在庫が残るので一掃しなくてはなりません。

こういう時は、「企画時点であまり売れ無さそうなゲーム」を作って、在庫数が無くなった時点で販売終了にするのね。


登龍門は残る在庫基板の分だけ生産され、全部を売り切って不良在庫になることもなく、特にヒットするわけでもなかったために再生産がかかることもありませんでした。


#在庫整理目的でも、ゲームがヒットしてしまえば基板から再生産することがあります。手相占いがそうだった。

 基板はある程度の単位でまとめて作るので、また在庫が残ることになるのだけど。



システム16は、1985年が第1作だったそうなので、登龍門まで9年間も現役で活躍していたことになります。

(もっとも、機能的に類似だが互換性のない、A/Bの2種類がありました)


古い基板だったから多分販売価格も安く、「ぷよぷよみたいなゲーム」ということで買ってくれたお店もあると思います。


でも、大半はセガの直営店に卸すことで消化したのではないかな。

当時はセガの運営するゲームセンターだけで3千店くらいあったから、そういう調整が可能でした。



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ぷよぷよ通  2015-03-06 12:49:01  業界記

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スタックコラムス登竜門につづいてぷよぷよ通。

落ち物パズル話3連続です。


実際、相次いで発売されたはず。

落ち物パズルが流行している時期でした。



今回の話、きな臭いから最初に注意を書いときます。


僕、当時は新入社員で全体像がよくわかってませんから、書いてること間違っているかもしれません。

特に今回の話、有名なサードパーティの作品なのでセガ側で、しかも詳しくない傍観者の意見だけで「事実」と思われても困る。


間違ってるかもよ、と言いつつ書く理由は、最初に表明したとおり。

自分の知っていることは少しでも記録に残し、記録の妥当性評価などは他の人に任せるためです。



明らかに誤っている、正しい資料を提示できる、もしくは当事者として証言できる、という方がいた場合、記述を変更します。

(この項目に限らず、一連の記事全てそのつもりで書いています)




スタックコラムスの話で少し書きましたが、テトリス・コラムスは原作ゲームがあります。

だからあれはセガが作ったゲームというわけではなくて、セガは発売しただけだ、っていう人もいる。


でも、テトリスの業務用とPC用を見比べれば、全然違うゲームになっているとわかる。コラムスも同様。

同じ素材でも、アレンジ次第で面白さは全然違ってきます。


#PC用がつまらないというのではないよ。違うものを目指していて、違う面白さがある。

 でも、それは同じ原作でも違うゲームだ、ということ。ただ発売しただけではないのです。



セガの作ったコラムスはいろいろなパソコン・ゲーム機に移植されています。

MSX2・FM-TOWNS 版はコンパイルが移植していて、コンパイルは落ち物パズルゲームを作るノウハウを得たようです。


コンパイルは翌年には「ゴルビーのパイプライン大作戦」を作っているのですが、これはちょっとルールが複雑すぎた。

(登竜門と同じような失敗をしています)


でも、実は「2つのブロックがくっついて落ちてくる」「接地すると切り離されて落ちる」という、ぷよぷよの元になるアイディアが入っています。


そして、翌年のぷよぷよへと続くのです。



#ちなみに、「ゴルビー」とは、テトリスの生まれ故郷でもあるソ連(現在のロシア)の当時の書記長(最高指導者)、ゴルバチョフの愛称。


 ソ連の旧態依然とした体制のままでは国がダメになる、と思い切った政策転換を行い、冷戦下にあったアメリカと歩み寄ろうとした。

 (つまり、アメリカとのパイプラインを作ろうとした)


 このゲームは、日本からモスクワまで、パイプライン(水道管の…)を作る落ち物パズルです。




ぷよぷよは、テトリス・コラムスのパクリ、と MSX2 版で製作者がマニュアルで公言していたゲームです。


ゴルビーの失敗に学んだ…のかどうかは当事者でないとわかりませんが、非常に簡単なルールでした。

特に、対人対戦がよく出来ていました。


落ち物パズルで対人対戦、というのは、おそらく任天堂のテトリスが最初。

セガでも、テトリス続編であるブロクシードや、コラムス2で対人対戦を作っていました。


でも、ゲームセンターでは対人対戦はあまりウケなかった。


コンパイルはぷよぷよを業務用にしたいと考えました。当然のように、テトリス・コラムスを出していたセガに持ち込みました。

その結果テトリス・コラムスのアレンジをしたAM1研に持ち込まれ、テトリスのアレンジをした人がぷよぷよの業務用のアレンジアイディアを出しました。


コンパイル側は、テトリスやコラムスのように、一人で延々と遊ぶ…いわゆる「とことんモード」を中心に考えていたようです。

でも、落ち物パズルのブームで、ライバルは多数ありました。


そこで、セガ側から対戦モードをメインに持ってくる、という案が出ます。

とはいえ、ゲームセンターでは対人対戦は受け入れられなかった、悪しき実績があります。


そこで、対人ではなくCPUと対戦する、というアイディアが出ました。


このアイディアが非常に重要だったと思います。

ぷよぷよを、テトリスやコラムスのような「とことんモード」だけで発売していたらヒットにはつながらなかったでしょう。



アイディアを出すのは簡単でも、作るのは大変だったと思います。

落ち物パズルでCPUを相手に対戦、なんて初の試みだったのだから。


この、大変なプログラムを実際に作成したのはコンパイル。

セガはその後もゲームバランス調整とかで細かな意見を出す等、二人三脚で作られています。



セガは契約上は「販売を行う」だけで、アイディアなんて出す必要はないんです。


でも、販売を行うというのは流通経路を貸すだけの問題ではありません。

よりたくさん売れるように、いいゲームに仕上げることが「販売を行う」ということなのです。


そして、ぷよぷよは大ヒットします。




二人三脚だった、というのはセガの言い分にすぎず、法的には作成者であるコンパイルに全権利があります。

セガは、権利上は発売しただけでした。


なので、その後コンパイルがぷよぷよを何に移植しようとも、文句は言えません。

業務用が発売され、メガドライブ版が発売され、ゲームギア版とPC98版が発売されました。


ここまでは特に問題無し。


でも、その後にコンパイルはスーパーファミコン版を発売しました。

セガとしては一番のライバル会社のマシンです。


このことに企画者は怒りました。

アイディアの権利は法的に主張できないとはいえ、恩義を忘れているのではないか。


その後、部署の方針として正式に、コンパイルには今後協力を行わないことが決定されます。


ただし、ぷよぷよを開発した際に、業務用の発売を代行し、流通経路を貸す契約は結んでいます。

ならば、そのための最低限の仕事だけはします。それ以外は一切、アイディアを出すなどの協力をしないように、という命令が下りました。


「どの機種に発売しようが、法的に問題は無い」に対して、「契約外のサポート業務を放棄しても、法的に問題は無い」という対抗措置でした。



先に書きましたが、僕が入社したころから、徐々にサードパーティのサポートに手間を割かないようになっていきました。

理由の一つは、各部署ごとに売り上げノルマが課せられたため、売り上げに直結しないサポート仕事に手間をかけられなくなったことがあると思います。


でも、もう一つの理由は、おそらくはこれでした。

アイディアを出したりゲームバランス調整に力を貸したりして、おもしろいゲームを作るようにしても、セガにとって権利が主張できません。

それでライバル会社のゲーム機に発売されてしまうのでは、もうサポートするメリットが無いのです。




スーパーファミコン版は、1993年の12月に発売されています。

僕が入社したのは1994年の4月。「通」は部署配属直後に見ています。


スーパーファミコン版の発売よりも前に「通」の開発は始まっていて、改良アイディアはその時点で出していたようです。

「相殺」はそのアイディアの中心となる物。



ぷよぷよの対人対戦がちょっとしたブームになっていました。

そして、高い実力を持った人なら、最短手順で5連鎖をくみ上げるのが当たり前になっていました。


ぷよぷよでは「5連鎖」は相手フィールドを完全に埋めつくせる攻撃力です。

相手がどんなに努力しても、負けを回避できない。これ以上組むことに意味がない。


一瞬でも速く5連鎖をくみ上げたほうが勝つ、というのがぷよぷよの戦いでした。

このため、最短手順が研究され、パターン化し、上級者同士の戦いでは両者が全く同じ動きをすることもしばしばありました。


両者が同時に同じ攻撃を発動し、同時に画面が埋め尽くされる。

この時、処理判定の都合で、1プレイヤー側が勝ったことになって終わりです。


「相殺」は、これを回避し、対戦をより深みのあるものにするための追加ルールでした。



ちなみに、「通」の対戦ルールでもう一つ重要な追加要素、「全消し」はコンパイルが独自に出したアイディアのようです。

2個先のブロックがわずかに見えている、というのもコンパイル側のアイディアではないかな。


#どちらのアイディアも、当時セガ側担当の人が「ほぉ、こんな風になってんだ」と言っていた気がするので。




入社してすぐのころに、ぷよぷよ通の初期バージョンがロケテストに出たと思います。

ロケテスト前にずいぶんとテストプレイをしました。


この頃には、漫才デモも残っていましたし、エンディングも発売版とは違っていました。



それからずいぶん長い時間が開いて…

たしか、次のバージョンを見たのは8月の下旬だったのではないかな。


漫才無くなっちゃって、ぷよぷよの重要な要素であった「キャラの個性」を感じにくくなっていました。

これが無いと、ただひたすら「勝ち進む」だけの、作業感の強いゲームになってしまいます。


対戦相手を、だんだん遅くなるルーレットみたいな方法で選ぶようになっていましたが、キャラの個性がないから相手が変わることの面白みがない。

ある程度慣れると敵の強い、弱いがわかってきますが、そうなると今度は遅くなるのを待って確実に目押しで止められるのでルーレットの意味がない。

いちいち遅くなるのを待たれるとプレー時間が延びるのも、業務用としては問題がありました。


デモ画面にも、なんか勝手にいろんなロゴ入れてました。

(Act Against Aids とかのロゴね)


デモ画面中にこういうロゴ入れるの、本当はいろんな規定があって了解を取るのが難しいんです。

政治・宗教的な主張は入れてはならないことになっているから。


#「ずんずん教の野望」も発売に際して時間がかかったのは先に書いた通り。



たしか、このバージョンではロケテ版とも発売版とも違うエンディングが入ってました。

負けると対戦相手が「下に落ちる」動きがあるのだけど、エンディングでは塔の下の方から、落とされた相手の恨み節が聞こえる。


「ちっくしょ~~」って大きな文字が飛んでいくんです。



…チック症って病気あったよね。

その患者とかから、馬鹿にしてるってクレーム来ないかな、と担当者氏が心配していました。



とにかく、問題点が多々あった。ヒットゲームの続編だけに、問題点は指摘していいゲームにしたい。

でも、部署として「協力しない」ことが決められている。


しばらく悩んでいた担当者氏、このまま行こう、と肚を決めます。


#元の担当企画者は激怒したので、ぷよ通担当者は交代し、登竜門と同じ担当者になっています。



たしか、この頃背景のデザインに六芒星が入っている面がありました。

これは明らかに宗教的なものと認められてしまい、特に海外では規制で販売できなくなる国もあります。


なので、ここは無くしてね、と、リクエストします。

「セガが販売する」契約があるので、ちゃんと各国で売れるようにしておかなくてはならない。


リクエストは、こういう最低限の事務仕事のみ。ゲームをより良くするアイディアなどは、一切なしです。



その後、発売版の最終ロムが送られてきます。

エンディングは変わっていました。六芒星も五芒星(星型)になっていました。


致命的なバグなどが無いことだけ確認して、そのまま発売されます。




残念ながら、コンパイル側の事情は一切知りません。

作っていたほうも、「通」は納得して発売したのではないと思います。


漫才デモ、家庭用発売の際には作り込まれていましたね。

多分、締め切りの都合とかでやむを得ず無くしたのではないかな。




2016.9.6 追記


当時コンパイルでSFC版ぷよぷよのプログラムを作った、じぇみに広野さんが、当記事を読んだうえで Twitter で思い出を語ってくださいました。

許可をいただけましたので、引用させていただきます。



たしかに、相殺は誰でも入れたくなるアイディアかもしれません。

どちらが言い出したではなくて、当然入るべきものだったのでしょう。


そして、クイックターン。申し訳ありません。「通」での、ものすごく重要な改良点なのに書き忘れていました。


落ち物パズルの始祖であるテトリスは、ブロックが接地するとその時点で操作ができなくなりました。

しかし、業務用テトリスでは、落ちてからも一定時間操作が可能です。

これにより、どんなに落ちる速度が上がっても操作して消すことが可能になり、アクション性もパズル性も上がります。


ところが、ぷよぷよでは「幅1の、縦に長い穴」に落ちてしまうと、何もできなくなるのです。

左右に動けないのはもちろん、回転するのにも「幅2」の場所が必要ですから。


これを解決したのが通で導入された「クイックターン」で、ボタンを2連打することで 180度の回転を行います。

ぷよぷよでは2つのぷよがくっついて落ちてくるので、回転というより「色の入れ替え」ですね。


これにより、最後の瞬間まであきらめずに戦うことができるようになりました。



僕としては、通のルールは、シリーズ中で一番バランスのとれた、過不足のない物だったと思っています。


本文書いた時にはなにか批判的な書き方になってしまってますが(この話書いてよいものだろうか…と悩みながら書いたので文体が固い)、AM1研部署内にも、ぷよぷよが好きな人は多くいました。


ぷよぷよでは、とにかく速く5連鎖組んだ方が勝ち、という戦いになってしまうので、達人域になると全く同じ動きをしていました。


でも、通では戦略に幅が出ました。

我慢して粘って6連鎖を組んだり、さっさと5連鎖組んだうえでさらに連鎖組んだり、個性が出て見ているだけでも面白いものでした。


開発中のテストプレイの頃から多くの人が対戦を楽しみ、よりよくするための意見なども多数出ていました。

しかし、本文中に書いたような理由により、それらの意見が伝えられることはなかったと思います。



そしてコンシューマー版での展開…

僕も御多分に漏れず好きだったので、サターン版は買っていますがほかの機種用は見ていません (^^;;


調べてみたら、漫才デモのわずかな差をまとめたページがありました。参考まで。


#僕自身は、高校の頃に MSX2 を持っていて、DiskStation も創刊準備号から買っていました。

 もちろん、元ネタに当たる魔道物語も遊んでいます。

 キャラクターが好きだったので、漫才デモがコンシューマー版で復活したことが本当にうれしかった。



個人だと許容できることが、個人より大きな組織…会社だとか国家だとかが絡むと、許容できなくなることがあります。


先に書いたように、部署内の人はぷよぷよが好きでしたし、関係がこじれてからも、いいゲームにしたくて意見を出したりしていました。

でも、上層部としては「職務上の判断」として、利益を求める必要があり、SFC版を問題にしないわけにはいかなかったのでしょう。



しかし、「利益を求める必要」はコンパイル側にもあります。

SFC版を出すのは、営利企業として当然の判断だった、と思います。


不幸なのは、ぷよぷよがこれほどのヒットになるとは思わず、後の移植などに関しての取り決めを最初の契約時に交わしていなかったことなんでしょう。


大金を目にしたとたん、仲が良かった人が喧嘩をし始める…という話は、世の中にいくらでもあります。



この記事を書いたのは、誰かが残さないと忘れ去られてしまいそうな話を記録しておきたいためです。

どちらが悪い、という話ではありませんので、読んだ方には、勘違いのないようお願いしたいです。




じぇみにさんは、これ以外にもぷよぷよ開発の面白い話題をツイートしてくださっていますが、ここのページに関係しそうな部分だけ引用させていただきました。


一連のツイートは、こちらから読むことができます


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ゴールデンアックス・ザ・デュエル  2015-03-07 10:23:14  業界記

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ゴールデンアックス・ザ・デュエルはいつ発売したのかな…

ST-Vのソフト第1号。1994年、ってことにはなってますけど、詳細時期を覚えていません。


部署内のテストプレイ筐体で遊んだ覚えも、ほとんどない。

ということは、自分の配属プロジェクトである手相が忙しくなったころか。

1994年だとすれば、年末ごろだと思います。


#サターンは年末発売なので、ST-Vも同じころに出荷だったと思います。




当時流行っていた対戦格闘は、セガの苦手分野でした。


セガって、3Dは得意でしたけど、3Dだと絵は少なくて済むんですよ。

ポリゴンゲーム機はもちろん、2Dでも拡大縮小でどうにかしちゃうから。


でも、2D対戦格闘は、滑らかなアニメーションが勝負になっていました。


ものすごく大量に絵を描かないといけないのですが、セガにはそれほど大量の絵を扱える業務基板がありませんでした。


AM2研から発売された、アラビアンファイトバーニングライバルは「動きが悪かった」とよく言われます。

まぁ、同時期の他社の格闘ゲームに比べて見劣りしたのは事実。


でも、ここらへんハードの制約によるものが大きいです。

2研がアニメを描くのに手抜きしたわけではない。


スペックで言えばシステム32の方が性能が良いのですが、アニメーションに関してはネオジオに負けています。

ネオジオの「100メガショック」は伊達じゃないのです。



ST-Vでは、ネオジオに負けないほどのアニメーションが可能になりました。

じゃぁ、その第1弾として格闘ゲームを、というのは当時の市場から見て自然な流れ。


AM1研のヒットタイトルであったゴールデン・アックスの世界観を使い、対戦格闘を作ったのがこのゲームです。




同期のプログラマーでは一番仲の良かった奴が配属されていました。


仕事は主にデータ整理。対戦格闘って、とにかく絵が多いし、その絵を繋げて表示するためのデータも多い。

あたり判定データも絵ごとに用意しないといけない。データの山なので、整理するだけで一苦労。


プログラマーって、同じことを延々と繰り返すの苦手な人が多いです。

そういう仕事はコンピューターに任せたいからプログラマやっているの。


でも、データ整理はひたすら単調な作業を繰り返さないといけない。


仲の良かった同期、疲れると僕の席に息抜きに来て愚痴っていたように思います。




先に、セガは2Dは苦手だった、と書きました。


特に2研は3Dに特化して研究していたので、グラフィックの人数少なかったのではないかな。

(モデリング出来る人は多かったろうけど)



でも、AM1研はそれなりに2Dのゲーム作ってましたし、ドット絵が上手な人が多く在籍していました。


グラフィックのベテラン社員が、油絵もフィギュア作成も上手で、ゴールデンアックスの世界のイメージを広げるために、デス・アダー(最終ボス)のイメージを油絵で描いたり、フィギュア作ったりしていました。


油絵は、このゲームのハイスコア一覧の背景に使われています。


ゴールデンアックスのシリーズは、この「ザ・デュエル」が最後だったのだけど(その後別の会社で作られているけど)、ずっと後まで油絵やフィギュアはその社員の机に置いてあったのが心に残っています。


#ちなみにこのベテラン社員の方は、たしかテトリス(1988)の猿のドット絵を描いた人でもあります。

 自分が描いた中で一番有名なもの、と言っていたように思う。




そういえば、開発初期の頃は、やたらおおきな基板…というか、ボックスを使って開発していたように思います。

ST-V第1弾だから、基板も作成中だったのね。


いわゆる「フルタワーPC筐体」の、一番長い辺を一辺とした立方体。

…というのは、基板を納めていた筐体の話で、実際にはその中に3枚くらい基板が刺さっていたかな。スカスカだった。


機能ごとに分割した基板になっていて、開発状況に応じて差し替えられるようになっているのね。

筐体が大きいのも、余裕を持った設計でスロットがいっぱいついているからで、そのすべてに基板が刺さっているわけではない。


これが、基板の開発が進む間にあれよあれよと小さくなって、最後は発売されていた ST-V の基板よりも少し大きいだけの「開発ボード」になるんです。

家庭用のサターンはもっと小さな基板だったからね。集積回路化すれば小さくなる、って頭ではわかっていても、すげーなぁ、と思ったものです。



名前も、当初は「タイタン」だったのに、紆余曲折あってST-Vに。

ここら辺の話は過去に書いたので割愛。



そういえば、ST-Vのマニュアルなんかでは、このゲームがカートリッジとして刺さっている前提になっている例ばかりでした。

第1弾タイトルだから、マニュアル書く時点で他になかったのでしょうね。


ST-V英語マニュアルの場合、7,8,18,20ページの画面イメージが GOLDEN AXE DUEL を例としています。




先に書いた通り、このゲームは僕はあまりテストプレイしていないし、同じ部署内で作っていたから知っている、程度の知識しかない。

非常に短いですが、特に書くこともないのでこれで終わりです。



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1994年のそのほかのゲーム  2015-03-08 08:20:13  業界記

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AM1研の1994年の発売ゲームをいろんな資料から探したのだけど、僕がよく覚えてないのもあるのね。

長く書くほどではないので、残りはまとめて…



▼THE J LEAGUE 1994


サッカーゲームです。


Jリーグの発足が 1993 年。すぐに契約して、選手の実名などを使ったサッカーを作ろうというのだから動きが速いです。

動作ボードは System32 。拡大縮小スプライトを使い、画面奥に向かって攻め込むゲームになっています。


サッカーゲームって、左右にゴールがあることが多いので、前後に動くというのはなかなか珍しい。


確か、発売は年末。

自分の配属プロジェクトである手相が忙しい時期に部内テストプレイをやっていたので、画面は見ましたがあまり遊んでいません。



Jリーグ発足直後ではありましたが、「新しいスポーツのプロリーグができた」ことに世間が注目しているだけで、実はサッカー人気はそれほど高くなかった。

テレビで見て応援している人も、実はルール判って無かったりね。


だからこの時期たくさんのサッカーゲームが出たのだけど、どれもそれほど売れなかった。

このゲームも、枚数出回っていないはずです。いま情報探しても、動画とか見当たりませんでした。


#海外版も作られて、そちらはそれなりに情報がある。

 海外のサッカー人気は安定しているからね。



…あれ、今書いてて気づいた。

手相うらないは「System32 の在庫処分」で作られたはずだったのだけど、このゲーム同じ System32 で、同時期に作ってる。


最初からあまり売る気なかったのかもしれません。

もしくは、サッカーは売れるだけ作って、その残りで手相生産して終わりのつもりだったのかな。


いずれにせよ、僕が開発を知っている System32 のゲームは手相とサッカーの2つだけ。

在庫処分のはずの手相がヒットしてしまったので、基板再生産になってしまったのは先に書いた通り。



System32 の最後のゲームは Slipstream だそうです。たった今知った。

カプコンから販売になっていて、北米地域でたった150枚しか販売されなかった幻のゲーム…だそうです。


どういう経緯でカプコンが扱ったのかわかりませんが、150枚だけだったのは明らかに在庫処分だったためでしょう。

手相で再生産抱えた後、System32 のゲームをさらに作れ、という話にはならなかったけど大丈夫だったのかなー、と少し思っていたのですが、こんなことになってたんですね。


#ゲーム業界では、他社の基板使ったり、ゲーム作ってもらうことも珍しいけどたびたびある


#在庫処分だとすると、大量生産できないこと確定だから作成コスト抑えたいし、今後使わない知らない基板のノウハウを学ぶ手間もかけたくないから、過去のゲームのソースを渡して好きなように改造してもらったとか…

 そもそもカプコンは販売だけで作ったのは別会社かもしれません。

 本当に事情を知らないので邪推ですけど。





▼アストロノミコン


大阪ATCガルボに作られたアトラクションですが、これはAM1研とAM6研の共同作品でした。


#AM6研は、ジョイポリスのアトラクションなどを作っていた部署。

 後に社内再編に伴って番号などは変わる。


ガルボって、セガが展開していたジョイポリスと同じような屋内遊園地ね。

詳細は長くなるのでいずれ書きますが、大阪ATCガルボが開店第1号。


企画の人が一人、大阪に長期出張して作ってました。

アトラクションだから、現場で調整しないといけないのね。


短期集中で作らなくてはならなかったため、1か月の残業時間数が250時間、とか言ってた気がする。

これ、異常な数字よ。僕も1度 180時間やったけど、これがほぼ限界の数字だと思う。


#1か月間休みなしで、朝8時から夜11時まで働くと250時間くらいになります。

 ちなみに、同じ条件だけど週1日は休む(家に帰る)、だと180時間。


内容は「スターライトフォーチュン」を下敷きとした占いらしいのですが、劇場のようになっていて、多数の人を一気に占います。

と言っても、劇場では多くの質問を出され、各自が YES/NO で答えていくだけ。


その後、別の部屋で一人づつの占い結果の詳細プリントアウトを貰えるそうです。


…と書いたところで、僕はもちろん遊んだことも、見たこともありません。



▼所さんのまーまーじゃん2


麻雀ゲームです。所さんの描いた自画像キャラが出てきたように思う。

外注で作らせていたはずです。

2というには1(無印)もあるのだけど、それは入社前なので全く知らない。


これも、あまり記憶していないのだけど、部内テストプレイはやっていたように思います。

入社直後だったような気がするから、初夏の頃ではないかな。


わくわくソニックパトカー

わくわくトーマス

わくわくタマ&フレンズ

▼わくわくマリン


部内では「わくわくシリーズ」と呼ばれてました。

子供用ライド(固定されていて、揺れるだけの乗り物)に画面を付けたものです。


筐体を作成するAM4件と共同開発した形になるのかな。



…これ、AM1 研が後に分社化した際の「セガワウ」のWEBページのアーカイブを参考に書いているのですが、かなり間違えているようです。


どうも、トーマスは 1993 年の作品のようです。

これは、版権の都合でバンプレストから発売。


絵を描いた人の机に、参考資料として購入した、トーマスのダイキャストモデルシリーズがたくさん置いてありました。

バンダイから発売されていた「トーマスエンジンコレクションシリーズ」かな。今はもう売ってません。


後で聞いた話ですが、AM4研の人が参考資料としておもちゃ屋さんにダイキャストモデルを買いに行った際、シリーズ全てを1個づつ、という買い方をしたのだそうです。

まぁ、参考資料だから網羅するのは当然ね。


でも、このシリーズ、1個づつが結構高かったのよ。

子供のおもちゃと言うには精巧に出来ていて、それほど大きくないのに千~3千円くらいする。

これを、シリーズの十数体まとめ買いしたので、その場にいた子供たちが騒然としていたそうです。


子供にとっては「いったい、どんな子にプレゼントするのだろう」と羨望のまなざしですよね。


さて、そのうち数体は、なぜか現在うちにあって、長男が保育園の時は喜んで遊んでました。

(保育園の頃は乗り物大好きだった。別にトーマス好きではなかったけど)


そもそも、これはAM4研の人が買ってきたので、AM4研のもの、のはずだったそうです。

でも、絵を描いた人が返そうとしたら「もうちょっと持ってて」と言われたまま、買ってきた人がセガを辞めてしまったとか。


で、絵を描いた人がそのまま持っていたのだけど、ずっと後にセガを辞める際に、「もう誰の所有物かわからないから」と、仲良かった人に1つづつ配ったの。

その時一緒に仕事をしていた僕が、「残り全部」を引き受けたので、数体あるのです。


ちなみに、わくわくトーマスを遊んだ時に払い出される、おみやげのカードもたくさんある。100枚くらいあったかな。

これもその時に一緒にもらったもの。



タマ&フレンズは、後に一緒に仕事をするプログラマーの先輩が、一人でこつこつプログラムしてました。

手相のメインプログラムやってた先輩と仲がよかったので(タマ&フレンズの人の方が後輩)だったので、作ってるところ見せてもらった気がする。

(僕、タマ&フレンズのキャラ好きだったので)


マイクに向かって「たまー」って呼びかけるとこっち向くのね。ほのぼの仕様。

ちなみに、違う名前読んでもこっち向きます。原作に忠実



パトカーは 1991 年の作品のようです。マリンは不明。

この二つは、ゲームセンターで見たことはあります。


#マリンもパトカーも、よく見ると 1994 年に「スペイン版」が出たと書いてあるな。



▼ふわふわプレーン

▼ドラえもんのどこでもドア


なにこれ…知らない。


ふわふわ…は名前からすると「わくわく」のような子供向けライドかな。

ドラえもんはプライズ機(ゲームをやって勝てば景品が出てくる)だったようです。


わくわくと同じように発売年が間違えているのかもしれませんし、僕が覚えてないだけかも。




1994 年にはAM2研からバーチャファイター2も出てますね。


作成中バージョンがAM1研に持ち込まれて、部内テストが行われたことがありました。

どうやら、AM2研内のテストではみんなが上手になってしまったので、「まだ遊んだことが無い人」の動きが見たかったみたい。


この時のバージョンでは、リングのテクスチャが非常に不自然だったのを覚えています。

ロケテストまでに修正されたようですが、MODEL2 のテクスチャって、作るのがいろいろと厄介だったのね。


テクスチャが使える、と言いつつ、描く上での制限が非常に厳しいのです。

初期の MODEL2 の絵はダンボールのようだとか、プラスチックのようだとか言われるのはそのため。


後に MODEL2 で綺麗な絵を作る技法が確立され改善するのですが、その話はまたいずれ…


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10年目点検  2015-03-09 15:12:20  住まい

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SWHは建築後、定期的な点検を行ってくれている。


日記を読み返したけど、過去には全く書いてなかったようだ。

一応、3か月目、6か月目、1年目、2年目、4年目、7年目、10年目に点検が来る。


法的に、住宅メーカーには、主要構造部分については10年間の瑕疵担保責任がある。

瑕疵担保責任て難しい言葉だけど、「保証しなくてはならない」ということね。


だから、点検で見つかった問題点は無料で修理してくれる。

ただし、これは「主要部分」についてのみね。柱や壁、屋根とかに問題があれば保証してくれるけど、ベランダの手すりが壊れた、とかは保証範囲外。


#実際、いま壊れています。しばらく前にも壊れて自分で修理した。




今日の午前中に10年目の点検が行われた。


窓の下に「水きり」という部品がある。

窓に当たった水滴が落ちてきたのを、外部に逃がす部品ね。


SWHは窓枠が木なので、濡れて腐るのを防いでいる。


この部品の左右端はコーキング材(シリコンゴム)で止めてたけど、古くなってほとんどひび割れている。

これは修理しないといけないですね、とのこと。これは経年変化で仕方がないし、主要部分ではないので保障外。


実のところ、コーキング材は持っていたりする。

勝手に修理してしまうのもいいかもしれない。



あと、10年たったから外壁の塗装が劣化してきている。

これも、そろそろ塗り直しの時期だな、と自分で気づいてはいた。


窓が数か所、経年変化で開け閉めが固くなっている。

これは後日無料で修理してくれることになった。


屋根材が何か所かひび割れている。

見える範囲だけで確認できたが、2階の屋根の上は確認できないので、後日梯子を持ってきて再確認するという。


これも無料保証範囲のようだ。




SWHの人と一緒に、シロアリ駆除業者の人も来て、同時に床下点検。


7年目までは、床下点検する場合でもSWHの人がやっていた。

10年目は、床下に撒いたシロアリ駆除剤が薬効を失うころなので、専門の業者に念入りに見てもらうのだそうだ。


こちらの点検は異常なし。

ただ、駆除剤の薬効は切れているので、今後のことを考えると再散布をオススメします、と言い残して帰って行った。


詳細な調査報告と、再散布の見積もりは、後日SWHの報告書とまとめて届くらしい。




SWHは、10年目を超えても、5年に一度の無料点検がある。


ただし、今後は無料保証はない。修理の度に有償となる。

(希望すれば、今回有償になる部分もすべて修理したうえで、10年間の延長保証もある)


今のところ、最長で50年までは無料点検、となっている。

SWHでこの最長期間を超えた家はまだないはず。だから、50年を超えたら後はどうなるのか…はまだ不明。


なんか、そのまま無料点検続けそうな気もする。



なかなか自分ではできない点検を定期的に行ってくれる、というのはありがたい。


もちろん、有償での補修など、利益が見込めるからやっているのだろうけど。



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ガルボとジョイポリス  2015-03-09 15:36:03  業界記

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前回ガルボ、って名前が出てきたので、書いときましょう。


ナムコが「ワンダーエッグ」という遊園地を期間限定でやったら、これが結構大人気。

セガも負けてられるかと「ジョイポリス構想」をぶちあげます。


ディズニーランドほどの集客力は見込めない。

でも、ディズニーランドよりずっと安くて、小さなスペースで作れる。


だから、各都道府県に1個づつつくって、誰でも県内のジョイポリスに気軽に行ってもらえるようにする。

沢山作ればアトラクションの開発コストも抑えられるし、気軽に遊んでもらえる値段で提供できるようになる。


…と、そんな構想でした。


ジョイポリス構想をぶち上げたら、大阪ATC(アジア太平洋トレードセンター)が誘致に来ました。

大きな複合施設です。目玉として、是非内部にジョイポリスを作っていただきたい。


でも、ジョイポリス構想として考えていたほどの敷地は取れなかった。

いきなり構想が修正され、大型屋内遊園地のジョイポリスと、小型屋内遊園地のガルボの2系統となります。


そして、「ジョイポリス構想」にもかかわらず、第一号店として大阪ATCガルボがオープンします。

構想の第2号で「ジョイポリス」の第一号店が横浜ジョイポリスとなります。




横浜ジョイポリスは…オープン前に一度だけ行ったのですが、遊園地だと言っているけど大きなゲームセンターじゃん、と思った印象だけ残ってます。

とにかく感じたのはノウハウ不足。セガらしさを活かす、と言えば聞こえは良いけど、結局ゲームセンターとあまり変わらなくなってる。


一応「テーマパーク事業」には興味があったので、趣味の範囲で他社の「屋内遊園地」にも遊びに行ったりしています。

ナムコのナンジャタウンが出来たのは 1996年なのですが、こちらはちゃんと遊園地だと思いました。

(出来た当時の話。今は遊園地ではなくなってしまった感じがあります。)



余談ですが、1995には、大船に「鎌倉シネマワールド」って屋内遊園地ができました。

松竹撮影所が作ったもの。


自宅近くだったので、こちらもオープン前に招待されて入りましたが、酷かった。

遊園地ではないし、ゲームセンターですらない。


せめて「太秦映画村」みたいならよかったのだけど、それとも違う。

人を楽しませようというノウハウが全くないまま作られた、できの悪い展示物を「せっかく作ったから見てってよ」と強制的に見せられる、高校の学園祭のようなところでした。


まぁ、わずか3年で潰れてしまったので、今では見ることもできませんが。



#ずっと最近の話ではピューロランドとか、遊園地とも違う不思議なところで楽しかった。




横浜ジョイポリスの話に戻りますが、その前に非常に個人的な話を書いてきます。


オープン前にスタッフ教育のために、関係者だけを入れて本番と同じように営業するテストが行われました。

行きたいと言えば入れたし、多少知り合いも連れて行って良いということだったから志願したのね。


で、大学時代の友達に、誰か一緒にいかないかとパソコン通信で声をかけてみた。


#当時はインターネット普及以前。

 仲間が集まる草の根BBSがあったのです。


そしたら、大学時代の同期から「女紹介してやるからデートしてこい」という指令が…

知り合いの女の子が失恋した直後だから、紹介してやるというのです。


同時に「大学時代に浮いた噂の一つもなかったのだから、遊園地デートくらいやってみろ」と。



そんなわけで、ジョイポリス前で知らない人と待ち合わせて、デートする羽目になったのです。

どうしてよいやらまったくわからず、楽しむどころの話ではなかったので内容をよく覚えてないのです。


だから、以下の話は記憶違いなどが多々あるかもしれません。




とにかく記憶が曖昧なのですが、一つだけ覚えている。

「ゴーストハンターズ」というアトラクション。



ナムコの「ゴーリーゴースト」(1990)というガンシューティングゲームがあります。


エレメカの動く「模型」とテレビゲーム画面をハーフミラーで重ねていて、同期して動くの。

エレメカでもない、テレビゲームでもない、不思議な感覚のゲームです。


ゴーストハンターズは、同じアイディアを大掛かりにしたようなもの。


遊園地のレールに乗って動く乗り物の前に、ガラスのスクリーンがあります。

それで、風景の中に出てくるお化けを撃つゲーム。


途中までに一定の点数を取れると、レールがボスのいる部屋に「分岐」します。

ここら辺、遊園地とゲームをうまく融合できている。



でも、ゲームとして面白かったかというと…いまいちだった。

初見プレイで何やればいいのかわかりにくかったように思います。


特に、ボス部屋で戸惑った覚えがある。

それまで敵は各自のガラスに映っていたのに、ボスは向こうにある大画面スクリーンに映っている。


このスクリーン、実はただのムービーで、撃っても反応しない。

撃ててないのかな、まだデモ中なのかな、と思って攻撃を止めてしまったら、実はここで沢山撃っておかないといけなかった。


ゲームの途中で断りもなくルールを変える、というのは一番やってはならないことです。

でも、それをやってしまっている。


ゲームのつくり手として、いろいろと理解できるのですが、プレイヤーとしては納得のいかない部分です。




アトラクションの壁などが、非常に安っぽいハリボテ感が漂っていたのも覚えています。

まぁ、これは仕方のないところ。


たしか、ジョイポリス全体(1か所)で20億円程度と言っていたと思います。

ディズニーランドだったら、アトラクションひとつで「最低」20億円じゃなかったかな。



横浜ジョイポリスを実際に見るまでは、社長の言っているジョイポリス構想スゲーな、って思ってたのだけど、実物を見てダメだと思いました。

その時は構想に無理があるのかな、と思ったのですが、後にナンジャタウンを見て「セガが下手なだけだ」と確信しました。


社長の頭の中では、ちゃんと遊園地が作れる計画だったのでしょうね。

でも、命令して出来たのは、ただの巨大ゲームセンターでした。


事実として、当初の「各都道府県に」という構想はすぐに頓挫したし、開業したジョイポリスも次々と閉鎖しました。

単に大きなゲームセンターというだけでは、お客様に受け入れられなかったのでしょう。


まだ残っている店舗もありますが、東京を除いて「大きなゲームセンター」と化しているようです。


#逆説的だけど、遊園地って「そこだけでしか体験できないこと」を求めてくるものなので、現在東京の1か所しか残ってないことでやっと遊園地らしくなったのだと思う。




横浜ジョイポリスのオープン前テストの後日談。

「関係者ばかり」なのですから、当然会社の先輩なども多数いたようです。


「彼女とデートしてた」という噂はあっという間に広まりましたが、彼女じゃない、って説明しても理解してもらえない。

ずいぶんと冷やかされました。


後日、女の子から「失恋したばかりで次の恋愛を始める勇気がない」というお断りが来ました。


僕としても彼女が欲しくてデートしたわけではないので、それで構いません。

初めて会った人なので、特に惜しいとも思いませんでした。


#なんか、全然業界記ではない「青春の一ページ」になってるな (^^;



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カラオケ  2015-03-10 11:46:44  業界記

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セガサターンの発売と同時期に、サターンを制御部分に使用した通信カラオケ事業を始めています。


Prologue 21 という機種でした。愛称としては「セガカラ」。


AM1研からも、一人そちらの部署に異動になりました。

この人が時々1研に遊びに来て仲の良かった人と話をしていたので、近くで話だけ聞いてたとか、伝え聴き程度の話しか知りません。


当時のセガは、とにかく「ゲーム業界他社」がやっていることにはなんでも手を出しました。


ナムコがテーマパーク事業をやっている、というのでジョイポリス作りましたし、ST-Vもネオジオへの対抗策の側面があります。


そして、タイトーが通信カラオケやっている、というのでセガカラを始めるわけです。




ところで、タイトーが何の会社かご存知の方はどれくらいいるでしょう?


スペースインベーダー作ったゲーム会社でしょ、という人が多いかと思いますが、元はジュークボックスを扱う太東貿易。


セガの元となったレメーヤー&スチュアート社と、V&V社をあわせて「ジュークボックス界の三大企業」だった時期もあります。


レメーヤ―&スチュアートは、後のセガ・エンタープライゼス(の一部)です。

その歴史の中で、「SEGA-1000」という初の国産ジュークボックスを作り出しています。


タイトーは、ゲームが大ヒットしてもジュークボックス、後には「ジュークカラオケ」と呼ばれる機械を作りつづけました。


V&V社がどうなったのか不明ですが(おそらく消滅)、V&V社の中で「ジュークボックスに未来はない」と考えた社員…中山隼雄がエスコ貿易という別会社を興しています。


後に「セガ・エンタープライゼス」がエスコ貿易を吸収しますが、中山隼雄はセガの社長となりました。



つまり、ジュークボックスの三大企業のうち2つからセガが興り、残りの1つはタイトーになっています。

タイトーはジュークボックスを作り続け、セガは「ジュークボックスに未来はない」と考えた人の元、ジュークボックス事業からは手を引きました。


そして、タイトーが通信カラオケを考えだし、成功しているとみると「うちもやれ」と命じるわけです。ジュークに未来はないと言っていた人が。

タイトーよりずっと技術力あるから、いいもの作れるだろう、というのですが、技術力はあってもノウハウが全くないのです。



…まぁ、時代の判断で、1970年代にジュークを続けなかったのは悪くないと思います。

実際、やるならノウハウを溜めるためにじっくりと、とは考えていたようですし、今でもカラオケ事業は存続しています。




当初のセガカラはマニアックな選曲が多かった、という評価のようです。


つまりは、一般受けしない曲ばかりだったのです。

「どんな曲を入れればみんなに歌ってもらえるか」という重要な市場リサーチができていなかったためです。


通信カラオケの場合、楽曲をMIDIデータ(デジタル楽譜)として作り上げる必要があります。

これは、実はちょっと職人芸を要する世界で、セガ社内ではとてもできませんでした。


そこで外注するのですが、職人芸だからこそ、外注してもレベルがまちまち。

それでも、短い準備期間でそれなりの曲数をそろえる必要がありましたから、出来が悪いからと作り直す時間もありません。


任される方も、なんでも作れるわけではありません。

アイドル曲が得意な人、バラードが得意な人、ロックが得意な人…といろいろな人がいます。


そして、MIDIの打ち込みなんてやっている人は、みんな音楽マニアです。

「一般受けする」曲よりも「自分の好きな」曲を作っている方が楽しいです。


仕事なのだから、一般受けする曲を多めに、という制御をしなくてはなりませんでした。

でも、できるものならどんどん作ってもらう、という中では、それぞれが得意ジャンルに走るのも無理はありません。


それが高じると、仲間内での「ネタ合戦」になり、「世界の兄貴達」なんて曲も入り始めるわけです。




セガとしては、外注に作ってもらった曲は1曲いくら、で買い取ります。


カラオケボックスは1時間500円程度で、その間に10~15曲歌えてしまいます。

その金額の中でカラオケボックスの利益があり、楽曲使用料があり、通信した「1曲の料金」があるのです。


実際いくらかわからないのですが、1曲歌ってもらっても数円だよね。

1曲が何万回リクエストされたらやっと儲けが出る、という損益分岐点があるのですが、あまりにもマニアックな曲では、絶対に採算ラインに乗りません。



作ってもらった曲が全然採算に合わない、と気づくまでに、開始から数か月かかっていたようです。

最初はとにかく「曲数をそろえる」ことに精いっぱいで、儲けが出ているかどうかちゃんと考えていなかったのね。


気付いた時点で部員には「趣味に走らずもっと一般受けする曲を入れろ」と檄が飛んだようです。




実際行ったことないのでどこかで聞いた話ですが…

(たしか、当時のなにかの雑誌に載っていた)



セガカラの選曲リモコンは、曲の検索機能が付いていました。

他社は「本」として楽曲一覧があったけど、セガカラは当初リモコンですべての機能をまかなおうとしたのね。


#閲覧性の悪さに気付いて後で本も提供したようですが。



このリモコン、中身は 98HA だったそうです。

セガと NEC 、結構仲良かったんだよね。


これ、初期のセガカラだけだったそうで、98HA ユーザーとして一度は実機を見ておきたい、と思ったまま無くなっていきました。




また別の話。

翌1995年の話ですが、AM1研で作ったゲームがセガカラで遊べるようになっています。


これは、公知の事実だから書いちゃっていいかな。「エジホン探偵事務所」ね。

セガカラ専用のミニゲームが入っていたはず。


#ゲームの最後で、2人で「賞金」を奪い合うゲームがある。

 あれを「マイクの奪い合い」に変えただけのゲーム。


…今調べて知ったけど、AV女優が出演するアダルトゲームが入ったゲーム集の中に入っているのね。狙っている客層が全くわからん。



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4年目の朝に  2015-03-11 09:10:15  住まい 家族

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東日本大震災から4年目の朝です。


特に何かがあるわけではないのだけど、何かを書かずにはいられない。

そんな感じで書いています。


Twitter とか見てても、同じ気持ちの人は多い様子。

何か書こうとして、でも特に何かが書けるわけではない。


それでも、何かを書きたいという気持ちは、寄り添う気持ちがあるという意味かと思います。




東京電力が少し前に、事故のあった原発の屋上から流れた雨水が汚染されていた、ということを発表しました。

把握から発表まで時間がかかったことで、裏切りだ、事実隠しだと糾弾する声が多い。


実際事実を隠せるものなら隠したかったのでしょう。


ただ、「隠さねばならない」状況にしているのは、世間の雰囲気のせいではないのかな、と思います。


東京電力による廃炉工程は工程表よりもずっと遅れていて、遅い、もっと早くやれという声も聞こえます。

そういうことで糾弾されている限り、工程表外の突発的な事項には対応しづらいし、できることなら事実ごと隠したい、となってしまうのではないかな。


4年前、事故の翌月には発表された工程表を見て、僕は「この工程表は遅れるものとして見守るべきだ」と日記に書き記しました

最大で10倍まで遅れる可能性を、理由と共に明記しています。


実際、今はどの程度遅れているのか知りません。

最大で10倍、と僕は考えましたが、同時に3倍程度の遅れで済むのではないかな、とも思っています。


でも、遅れないなんて絶対にありえません。




昨年、福島のスパリゾートハワイアンズに家族旅行してきました。


少しでも東北地方にお金を回したい、という気持ちでした。

千円やそこらの寄付をするよりは、家族旅行で動くお金を丸ごと地域に回わせれば、経済に役立つかもしれない。


さらに、興味を持っている人の背中を押して、多くの人が東北を訪れるといい。

そう思って、ハワイアンズに行きたい人へのまとめも書いて公開しています。



1日目、ハワイアンズが立ち直ってよかった、ある程度復興は遂げられている、と思いながら遊びました。

翌朝、ホテルのロビーで朝刊を読んで、復興には程遠いと思い知りました。


関東に住んでいると報じられない、数多くの震災後ニュースが、現地の新聞には書かれています。


東北に旅行に行く方は、是非新聞に目を通してもらいたい。



今年も東北旅行に行きたい、とは思ってます。

詳細はまだ全然詰めていないし、どうなるかわからないけど。




最近、新聞で、津波に流された地域の高校生の発案で「木碑」を建てた話を読みました。


津波の記憶を風化させないために、石碑を建てよう、という話があったのだそうです。

石なら風化しない。100年だって持つ。


でも、この高校生はそれに違和感を持った。

昔の津波の記憶は、いたるところに石碑として残っていた。でも、見慣れた風景となり、意識の中では風化していた。


「物」が風化しなければいいんじゃない。「記憶」の風化を止めるにはどうすればいいか。



その発想が「木碑」という形で実現されたのだそうです。

木は朽ちてしまうから、4年ごとに建て替える、という計画で、向こう4回分(16年間)の建て替え費用はすでに寄付で集まっているとか。


建て替えの際には、簡単なセレモニーを行います。

定期的に過去を思い出す機会を作り、定期的に風景を変えることで、記憶の中の風化を防ぐ。


非常にいいアイディアです。




我が家では、地震直後に始めた「非常用飲料水の汲み置き」を、いまだに続けています。

家族5人が3日は暮らせるように、1日1人3リットルとすると、45リットルが必要です。


…実際には、少し足りない程度しか確保できていないのですが、ペットボトルに小分けにして、古いものから料理などに消費するようにして鮮度を保っています。


はっきり言って、馬鹿らしい。いつまで続けるのだろう、と自分でも思います。

区切りがあるたびに、もうやめようと思い続けてきたのですが、これを辞めたら自分の中で記憶が風化してしまいそうで、続けています。




特に震災の影響が強かったのは東北ですが、関東でも輪番停電が行われるなど、間接的な影響がありました。


なので、僕はこれは、東北だけでなく関東全域の人が「被災」したのだと考えています。

程度の違いこそあれ、被災した人は本当に多数いる。


それらの人は、過ぎ去ったからもう大丈夫、ではなく、今後も起こる問題として考え続けなくてはならない。



しかし、関東にいると、ずいぶん記憶が風化しているとも感じます。

先に書いたように、水の確保などで自分も記憶が風化するのを恐れつつ、生活から緊張感は無くなっていきます。



風化させてはならない、と思う一方で、後ろ向きでは何も始まらない、風化を恐れず新しい生活に移行しなくてはならない、とも思っています。



阪神大震災のことも、今でも時々思い出します。

でも、こちらは流石に「そういうこともあった。気を引き締めねば」という程度の記憶で、ことあるごとに思い出す、というほどではなくなっています。


誤解を恐れずに言えば、個別の事柄は、いつか記憶の彼方に押し込まれてもいいと思う。

「東日本震災」としての記憶が、いつか風化しても構わない。



ただ、いつでも有事は起こり得る、その時のためにどう行動するか、その時自分は何ができるか…

これらを考える気持ちだけは、風化させてはならないのだと思います。



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ロケテストの話  2015-03-11 09:52:46  業界記

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とりあえず「20年たったらいいだろう」で1994年の話を書いてきましたが、大体出尽くした(笑)


ここからは、思いつくままに書き留めます。

それが終わったら一旦終了にして、次の「自分が参加したゲーム」の20年後くらいまでお休みかな。

(たしか、1995年の秋ごろだったと思う。)




ここまでに書いた話の中で、たびたび「ロケテスト」という言葉が出てきています。

ゲームマニアなら知っているかもしれませんが、発売前のゲームをロケーション(店舗)に置いてテストすることです。


ただ、発売前のゲームを試してもらうイベント、とかではない。

近年はそういう側面が強くなっているようですし、ファンイベントとしての意義は否定しないのですが、少なくとも当時は違いました。


そこで、当時の雰囲気も書き記しておこうと思います。




ロケテストには2つの意味がありました。


一つは、作成途中段階でのゲームの方向性が正しいかどうか、お客様の反応を見るものです。

完成度がまだそれほど高くない、ゲームがとりあえず動くようになったし、本来の方向性が理解できる程度までは作られているけど、まだまだ十分作り込まれていない段階で行われます。


未完成のものを見せるのですから、ある程度お客様には「未完成品である」ことを納得してもらう必要はあります。

そのため、「ロケテスト中」と書いたポップを置いたりしました。


ただ、ロケテストが行われていることは秘密事項です。

ロケテストの噂を聞きつけて集まるのはゲームマニアだけですが、ゲームセンターのゲームは広く一般のお客様に遊んでいただく商品です。


ここで、マニアの意見ばかりが反映されると、そうでない人が遊びにくいゲームになってしまうことがあります。

だから、ロケテストが行われることは秘密。

マニア間のネットワークで察知され、人が集まる前に引き上げるため、期間は2日程度。

これが鉄則でした。


ロケテストの期間中、外回り営業が多い昼、学校が終わった学生の増える4時ごろ、会社帰りが増える7時ごろ、など、いくつかの時間で1時間位づつ、様子を観察します。

これも、「観察されている」ことがばれるとお客様の反応に影響が出るため、遠くからそれとなく見ているだけです。

遊んだお客様ごとに、プレイ開始時刻、終了時刻、インスト(説明書)を読んでいたかどうか、デモ画面を見ていたかどうか、ゲームはどこまで進んだか、演出に納得している様子だったかどうか…など、詳細を記録していきます。


場合によっては、遊んだあとのお客さんに直接感想を聞くこともありました。



とにかく、できる限りデータを集め、後でその意味を解釈してゲーム作成に反映することが目的でした。

場合によっては、この時だけの特別なプログラムを仕込み、ゲーム上のデータを記録する場合もありました。


#バーチャファイターでは、ロケテストではありませんが、初期の開発時にどのようにボタンが押されるかを記録して、押されやすい組み合わせを元に技を作っていった…などの話があります。


手相占いでは、こちらの目的のロケテストのみを行ったように思います。




もう一つのロケテストは、完成したゲームの売り上げ調査です。


普通にゲームセンターにゲームを置いておき、どの程度の売り上げになるかを調査します。

こちらの場合、「普通に置いておく」ことが重要なので、ロケテスト中などのポップは厳禁。



ゲームマニアにとっては面白いゲームが良いゲームです。

しかし、ゲームセンターにとっては、お金が入るゲームが良いゲームです。


そして、「業務用ゲーム」は、ゲームセンターに買ってもらうことで商売が成り立ちます。

お金が入るゲームを作り、買っていただく。開発者は、これで飯を食っているのです。


実は、ここには「遊ぶ人」の視点はありません。

もちろん、楽しいゲームを作らなくてはお金を入れてもらえないでしょう。


でも、「マニアの求める楽しさ」ばかりを追求すると、ごく狭い層にだけ訴求してしまい、全然遊んでもらえないことは多いのです。


マニアが「あんなゲームつまんね」と見向きもしなくても、ちゃんと遊んでいただけるゲームというものは存在します。

そういうものを作るのが、プロとしての開発の仕事でした。


以前も書いたけど、セガがコラムスを繰り返し作ったのも、ここら辺が理由でした。

 初代コラムスの「償却率」はすごかったのよ。ゲームセンターはそういうゲームを求めていた。



さて、ゲームセンターにゲームを買っていただくには、ゲームセンターのオーナー様が購入判断をするための材料を提供しなくてはなりません。


ゲーム内容、筐体サイズ、価格などは当然ですが、その価格に見合うだけの売り上げが見込めるかどうかというのは、非常に重要な資料です。

この「実績に基づく資料」を用意するのが、完成後のロケテストの目的でした。



この部分では、絶対に嘘を付いてはなりません。

嘘を付いて販売したとして、その後思ったような売り上げがなければ、それは詐欺です。



ロケテストなどのポップは厳禁、というのも、そのような意識からです。


ただし、もちろん売上が良くなるような条件を選びます。

そのゲーム内容に合わせて、そのゲームが最も遊ばれそうな店を選び、もっとも遊ばれそうな期間設置するのです。


マニア向けのゲームであれば、マニアの集まるゲームセンターで、週末に置くのが良いでしょう。

カップル向けの占いなどは、デートスポット内のおしゃれなお店に、やはり週末に置く。


一方、外回りの営業が時間つぶしに遊ぶようなゲームは、駅前の小さなゲームセンターで平日テストするほうが良いです。


重要なのは、ロケテスト条件を明示することです。

どこの店で、何月何日にテストした結果、売上いくらとなった。


もちろん購入するお客さんが注目するのは売上金額ですが、条件を提示することで「自分の店にも合いそうか」を判断していただけるのです。




ただ、僕が新入社員の頃は、このロケテストの方法も過渡期にあったようです。

AM1研では、上に書いたような「古い考え方」が支配していました。


でも、別にそれを守らないといけない決まりは、どこにもないんですよね。

別の部署では、ロケテストが行われる、という情報をそれとなく広めてから行ったりしていたようです。


この結果、常識的にあり得ないような売り上げを記録する。

もちろんマニア受けするゲームであることは前提で、つまらないゲームではありません。


でも、実際に購入したゲームセンターでは、全然期待していた売り上げにならないわけです。



別の会社でも事情は同じようで、部署内のホワイトボードに「○○社、△日に□□でロケテスト予定」なんて情報が掲示されることがありました。

どうも、パソコン通信などで「こっそりと」情報が出回ることがあったようなのです。


開発者としてはせっかく作ったゲームはやはり売れてほしいです。

でも、先に書いたようにこのやり方は本来許されない。

だからこそ、公式には秘密だけど、非公式に「誰かがばらしてしまった」形で情報を出すのです。


だんだんそのやり方が支配的になり、ゲームセンター側も「そういうものだ」と考えて資料を読むようになりました。

今ではもう、公式にロケテスト告知が出たりすることもあります。



資料を読む側もそれで当然だと考えるようになってきているので、いまなら特に問題は無いように思います。



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ヴァネバー・ブッシュ 誕生日(1890)  2015-03-11 17:46:29  今日は何の日

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今日はヴァネバー・ブッシュの誕生日(1890)



わー、忙しくて忘れてた。何も書く暇ない。


でも、この人は過去の日記で何度か紹介しているので、そちらへリンクしときます。


命日(6/30)


我々が考えるように(7/1)




オーレ・キアク・クリスチャンセンの命日(1958)でもあります。


LEGO ブロックで有名な、LEGO 社の創始者。

こちらも、過去の日記へリンクしておきます。


オーレ・キアク・クリスチャンセンの誕生日(4/7)


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残業の話  2015-03-12 10:22:06  業界記

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当時のセガには、仮眠室がありました。

「バーチャファイターを創った男たち」って漫画にも、仮眠室の存在が描かれていたな。


たしか漫画では和室なのだけど、実際は狭い部屋に2段ベッドが並んでいる。

布団は敷きっぱなしだけど、半月に一度くらい業者の人が入れ替えてくれるので、それほど不潔にはならない。


#知らん人が寝た布団なので、多少臭くは感じます。


仮眠室の奥にはシャワールームもついていました。



仮眠室一番奥のベッドには、レーザーLAN装置が固定されていました。

無線 LAN とか無い時代、レーザー光を使って離れた場所をつなぐための装置ね。

たまたま仮眠室が装置を置くのに一番いい条件だったんだって。


セガはいくつかのビルに分かれていたのだけど、ビル間の LAN はこれで繋がってました。

速度は 4Mbps。社内 LAN が 10Mbps だった時代だから遅すぎるということは無かった。


時々寝ぼけて蹴っ飛ばす人がいて、LANが繋がらなくなりました。




仮眠室があった、と書くと、「泊まり込みが当然のブラック企業」なんて言われそう。

(というか、2chなんかでそう書かれていたのを見たことがある)


セガがブラック企業ではない、と言うつもりはありません。

今はどうか知らないけど、当時はいろいろ労使問題も起こしていた。



でも、ゲームを作るのが楽しかったから、僕は楽しんで残業していました。

ちゃんと残業代も出してくれてたし。(この頃はね…)


僕の場合家が遠かったので、締切近くでは帰るよりも会社に泊まりたい時があった。

そんな時に、仮眠室がある、ということはありがたいのです。


ちなみに僕は、通勤時間を節約するために泊まるだけで、徹夜して仕事、とかはしませんでした。


会社に泊まりこんでも、夜12時前には仮眠室に行って寝てしまう。

で、翌朝6時くらいに起きてきて続きをやる。


徹夜すると思考力が落ち、仕事効率も落ちてしまいます。

先に書いたように、僕は「好きだから」残業してまで仕事をしていたので、効率が落ちるのは本意ではない。



徹夜して仕事する人もいましたよ。

プログラムって集中しないとできないけど、集中の仕方って人それぞれなのね。


僕は、集中するときとそうでない時を結構簡単に切り替えられる。

でも、集中に入るのに長い時間がかかる人もいます。

そういう人は、せっかく入った「集中」モードが続く限り仕事する。


徹夜して、翌日は仕事効率が落ちます。

でも、どうせ「集中」が一度途切れると効率は落ちるのだから、これはこれで悪くない仕事のやり方。



あと、ネットワーク管理していた人は、みんなが帰った夜中でないと仕事ができないことがあったので、夜中に仕事して昼間仮眠室で寝ていたな。


これは特殊事例。




僕は、机の引き出しにボディシャンプー置いてました。

泊まり込んだ日は起きたらすぐシャワーを浴びて、それからファミレスに食事に行く。


食事から帰ってきたらすぐ仕事を始めます。

誰もいなくて静かなのではかどる。


セガでは、確か朝8時くらいに社歌が流れました。若い力、ってやつね。

これを聴くの、そんなに嫌いじゃなかった。


#泊まり込んでしまい、この歌を聴くのが嫌いだった人もいます。




入社当時は、コアタイム制でした。


朝の10時から、午後の3時までは「コアタイム」で、この時間にいないと遅刻扱いになります。

(ただ、有給の半日分を使うことで、午前中休み、午後休みとできました。遅刻した人は午前中休みにしてしまったりする)


出勤時間が人によって違うので、朝礼などはできません。

代わりに昼礼がありました。基本的には会社からの必要事項の伝達だけですけど。



働く時間は1日8時間。コアタイムには絶対にいるとして、その前後をどう使うかは各自の裁量です。


僕は、通常の日でも早めに来て、早めに帰るのが好きでした。

8時半に来て5時半に帰る、くらいの時間帯だったかな。


ほとんどの人が、10時に来て7時に帰っていたように思います。




後の話になりますが、女性デザイナーが「もっと働きたいのだけどできない」と嘆いていました。


法律上の問題があって、女性は深夜残業できなかったし、泊まり込みも許されなかった。

その人は会社のすぐ近所に一人暮らしで、帰ってもつまらないからみんなと楽しく仕事している方が良いという。



僕は男女平等論者ですが、性差があることは認めますし、そこに起因する権利の違いはやむなしと思っています。

でも、実はこの件は今でも時々頭をよぎる深い問題です。


女性に深夜までの残業を認めるべきではない、と思います。

夜道の暗がりで性犯罪被害にあいやすいのは女性だから、深夜残業は危険に直結する。


しかし、男性だけ深夜残業が許されて女性が許されないのは、確かにずるい。

となると、男性も深夜残業なんか認めず、全員帰宅させるべき?


でも、仕事の都合上残業が発生するのはアリだと思っています。それが深夜であっても。

ちゃんと残業手当を出すこと、睡眠時間は確保できるよう仮眠室を用意することなど、いくつかの条件が満たされていれば構わないでしょう。


#以前書いた、月250時間残業、なんてのは禁止すべきだと思います。体壊すよ。

 深夜残業とは別枠で、月の残業時間の上限があってもいいのではないかな。



こう考えていくと、良い解決方法が見当たらないのです。

「男女の権利平等」を考えるとき、すぐにこの女性の言葉が思い出され、簡単な話ではない、と気を引き締めるのです。




猛烈に働いていたように思われるのも心外なので注釈を。


泊まり込んでまで働くのは、締切前の1か月がせいぜいです。

大体ゲームは6か月くらいで仕上がるのですが、最初の3か月くらいは、気軽に有給休暇とったり、仕事時間終わったらさっさと帰れる。


中盤は多少残業することもありますし、休みづらい感じになってくる。

で、最後の1か月は残業が増え、場合によっては泊まり込みです。


「ドラクエ休み」とか「ダビスタ休み」とか…新しいゲームの発売日に休む人も多かったですね。

プロジェクトが暇なら、そんな理由で休んでも誰も文句は言わない。




ところで、法律上「会社は社員に有給休暇を与えないとならない」ことになっています。


でも、年度末にプロジェクトが忙しいと、休む暇がない。

たしか、有給は年度をまたげないシステムでした。


AM1研には有能な事務の女性がいまして、この消滅を防いでくれました。

特に頼んでおかないでも、気づいて先回りして処理してくれるので、みんなから感謝されていました。


#AM1研のお母さん、と言われていました。

 若くて非常に美人な人でした。年上・同世代から「お母さん」と呼ばれるのは少し嫌だったみたい。


消滅しそうなら、適当な日に有給を取ったことにするのね。

でも、実際にはその日は働いています。だから、その分残業が発生する。


セガでは、残業時間8時間で、別の日を「振替休暇」とすることが可能でした。

有給の日に残業を発生させると、法で禁じられている「有給の買い上げ」と見做されてしまうのだけど、別の日に休暇を取るなら問題ない。


これで、有給は振替休暇に代わり、消滅を免れます。

ただ、制度上振替休暇は「残業時間を休暇に振り返る」と宣言してから6か月以内に行使しないと、消滅してしまうことになっていた。


…大丈夫。こちらも、消滅しそうだと気づくと、同じ方法で作り変えて、期間を延長してくれました。


これを繰り返していると、1か月くらい休んでも大丈夫なくらい有給が溜まってしまうことがある。

まとめて海外に長期旅行に行ってしまう、というような人もいました。


その人が暇なときなら、これも別に文句は出ないのね。




プロジェクトが忙しいときでも、残業はしないポリシーでさっさと帰る人もいました。


一度だけ一緒に仕事したことある。

毎日8時に来て、5時には帰ってしまうの。


これは流石に珍しかったけど、有能な人だったので文句は出ません。



ともかく、いい意味で能力主義。

自分の仕事をちゃんとやっていれば特に働き方で文句を言われることは無い。


でも、「ドライな社風」ではありませんでした。

「自分の仕事」と書きましたが、割り振りは大抵決まってません。


プロジェクトの中で発生した仕事は、その時に出来る人がやる。

他の人の仕事が滞っていたら、別の人がカバーする。


ただし、すでに着手している仕事は、やっている人の分担。

そこまでカバーする義理はありません。


だから、さっさと帰れる人は、その日必要な仕事を片っ端から潰してしまえる人なのね。

それで時間内に終わらせる。これだと、他の人が残業に突入しても、帰って問題ない。




当時のセガは部署ごとに雰囲気が全然違い、「社風」というよりは「部署風」だったように思います。

だから、ブラックだった部署もあるかもしれません。


でも、僕が知っていたセガはそうではないので、ブラックだったと言われると違和感を感じるのね。



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WWW の提案日(1989)  2015-03-12 17:08:02  今日は何の日

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今日は、WWW … World Wide Web の発明された日。


厳密に言えば、システムの概要を示し、提案された日ですね。


提案者はティム・バーナーズ・リー。




ティムは、コンピューター界のサラブレッドです。

コンピューターの黎明期に活躍した男女のコンピューター数学者の間に生まれ、子供のころから、まだ当時は珍しかったコンピューターに触れて育ちます。


そして、大人になってコンピューターのコンサルタント業を始めました。


1980年に CERN (欧州原子核研究機構)から「各国から研究者が集まり、使用するコンピューターも、ソフトも、各国の事情に合わせてバラバラな研究所の中で、情報を迅速に共有できる方法は無いものか」と相談を受けています。


しかし、これが難題。すぐには解決できません。

CERN とのコンサルタント契約はたった6か月だったのですが、その後もこの問題を考え続けます。


その後 1985 年にも CERN を訪れるのですが、この時もこの難問を解決できません。


そして、1989年、3度目の CERN 訪問の際に、ついに解決策を見出します。


時代が変わり、ネットワークの構築が簡単に出来るようになっていました。




ティムが考えたのは、3つの仕組み。


ルネサンス期の「3大発明」になぞらえて、ティム・バーナーズ・リーの3大発明、と呼ばれます。


1) Uniform Resource Locator


どこのパソコンの、どこのディレクトリに、どのような形式でアクセスすればデータを取得できるのかを、1行で書き記す方法。

URL と略されます。


この頃のインターネットでは、FTP や NetNews、Gopher など、いろいろな形式でデータが配布されていました。

さらに、それらの形式ごとに、データの位置を表す方法も異なっていました。


これらを統一する方法を考え出したのです。


2) Hyper-Text Transfer Protocol


URL でデータの位置を統一指定できるようになりましたが、それらは主に「ファイルをやり取りする」方法でした。


ティムは、ファイルを取得するのではなく、中身の情報を簡単に引き出して読むことができる通信形式を新たに考案しました。

HTTP と略されます。


新たに、といっても、当時すでに広く使われていた mail プロトコルを参考にして、すぐにでも作れる簡単な形式にしてあるところがミソです。


3) Hyper-Text Markup Language


中身の情報を引き出したとしても、その情報の形式が各国で違っていては混乱します。

そこで、統一的に文章の構造を記述できる方法を作りました。


HTML と略されます。


HTML は、一般に HTTP で配布され、その配布位置は URL によって示されます。

ただし、これらの3つは異なる概念であり、必ずしもセットで使わなくても構いません。


#HTML ファイルを zip で圧縮し、FTP で配布することだって可能です。



この3つの発明により、単純な「テキストファイル」ではなく、美しく整形された文章を配布することが可能になります。


さらに、この HTML の中には、他の文章の位置を URL によって記述し、リンクする形式が定められていました。

実のところ、このシステムの白眉はこの部分でした。




逆に考えてみましょう。


HTML だけがあって、配布形式が ftp 等だったらどうなるでしょう?


FTP は、必ず「ログイン」が必要です。

もし、URL で別の文章の位置を指定したとしても、リンクをたどるたびに「ログイン」を求められることになります。


なによりも、FTP はアクセスの度に「接続」に結構時間がかかります。


HTTP は、公開を前提としているのでログインは不要ですし、FTP よりもずっと早くアクセスできます。



もし、URL が無かったらどうなるでしょう?

それでも、HTML/HTTP 専用のシステムは作れたかもしれません。


しかし、先に書いたように、当時は多くのプロトコルでファイルの配布が行われていました。

それらの「過去の資産」に簡単にアクセスできることは、非常に重要でした。


普段は HTTP で高速に情報を引き出し、必要なら多少遅くとも、ログインが必要でも、FTP を同じ枠組みで使える。

これなら、不便はそれほどありません。



この3つの発明は、セットで発明されるだけの「必要性」があったのです。




提案に従って、最初の HTTP サーバーと WEB ブラウザ(クライアント)が作られたのは、1990 年のことでした。


詳しい歴史の流れは、ティムの誕生日に書いた記事に譲ります。




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夢の中でデバッグする話  2015-03-13 09:48:41  業界記

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先に書いた話題の関連話として。

その昔、「バーチャファイターを創った男たち」という漫画がありました。


この中で、AM2研部長の鈴木裕氏が、仮眠室で寝ている間に(夢の中で)デバッグをしていた、というエピソードがあったと思います。

これ、すごいことのように書かれていたのですが、プログラマなら誰でも経験済みの普通の話。


でも、プログラムしたことのない人には、なかなか理解してもらえない。特殊技能だと思われている。

ちょっと解説してみようと思います。


#これが特殊ではないと、どこまで伝えられるかわかりませんが。




プログラムって、小さな部品を積み上げて、非常に巨大な構造物を作る作業です。

レゴブロックを組んで、部品点数50万個の巨大作品を作る、というのを想像してみると、同じようなものかな。


#50万個だと、実際に動く自動車が作れるそうです。



作る際には特に正解は無く、自分が作りたいように作っていい。

ただ、目的はある程度決まっている。「自動車を作れ」と言われているのに家を作っちゃダメ。


さらに、使えるブロックの数とか完成時の大きさとか色とか、いろんな制約はあって、その制約をどうかいくぐり、目的を達成するかに工夫が必要。



プログラムの場合、時には、作ったプログラムが思い通りに動かないことがあります。

いわゆる「バグ」。


このバグには、2種類あります。

1つは、単純な記述ミスによるもの。

こんなもの、悩むことはありません。大抵すぐ直ります。


もう1つは、アルゴリズムの根本を勘違いしていること。


これが根が深い。

本人にとって、「あたりまえ」だと思っていることが、勘違いだったりするのが主な原因です。


当たり前の部分を全部疑う必要がありますが、そんなこと不可能です。

だって、プログラムって、無数の「当たり前」を集めて作っているのですから。



当たり前を疑わなくてはならない…

使っているブロックは全部レゴだと思っていたら、後から「1つだけニンテンドーブロック(レゴの互換品)だったから外して」と言われたようなもの。


#ニンテンドーブロック、サイズはレゴ互換だけど、当時は特許継続中だった「パイプ」部分を違う構造に変えてあります。

 そのため、ブロック間の保持力が弱いです。巨大構造物に入っていたら、そこが弱くて作品崩壊の恐れ。


50万個のブロックを使った大作から、たった1つのブロックを探し出して除去しないといけないのですが、どれがそうなのか、全くわからないのです。

「あたりまえ」を疑え、と言われてもねぇ。




「アルゴリズム」というのは、動作の手順の意味です。

パソコンに向かって記述している「プログラム」は、そのアルゴリズムを専用の言語で書いたもの。


上に書いたように、バグの原因がアルゴリズムにあるのであれば、プログラムを見ていても解決しません。

ですから、この時点でパソコンに向かっている必要はない、ということになります。


ただ、現実には、勘違いがありそうだと思ったら、実際のプログラムを動作させながら、どこを勘違いしているのか検証する作業を始めるでしょう。


関係ありそうな部分を順次疑い、機能単位でひとつづつ動作を確認していきます。


場合によっては、ここでバグの原因が判明します。



…でも、いくら探しても見当たらない。

いよいよもってわからない。


こうなると、もうパソコンの出番は終わりです。

全ての条件は出尽くしていて、後は自分がその解釈を間違えているだけだ、ということになるから。


自分と向き合い、どこが勘違いなのかをじっくり考えないといけないのです。




ところで、自分の勘違いなら、他人に見てもらうとわかりやすいのではないか? という疑問もあるかもしれません。

実際、人に見せるとたちどころにバグが解消する、という場合もあります。


プログラム中に「常に」勘違いをしていないかチェックする、という、ペアプログラミングと言う技法もあります。

二人でプログラムを考えることで、勘違いの混入を防ぐ技法ね。



でも、大抵はプログラムは一人で組んでいるうえに、非常に複雑に入り組んでいます。

この構造を把握している人…つまりは、自分だけがバグを見つけ出せるのです。


だから、他人は助けにならないのです。




気分転換を図るため、「飯食ってきます」とか言って席を離れるのも良さそうです。

頭の中では問題を考え続けていますが、そんなに簡単に答えは見つかりません。


考え続けているときは、「ここら辺に問題があるはずだ」などの意識があって、他の部分を見てないのですね。


でも、考えているうちに十分に条件が把握できて、確実な部分と不確定な要素が分離出来てくると…

ふと考えるのを辞めた時に、それまで気にしていなかった別の部分が問題なのではないか、など、急にひらめくことがあります。



そして、この「考えるのを辞める」条件には、寝ることも含まれます。

そうした瞬間に、急に何が問題かわかることがある。


これが、「夢の中でデバッグする」と言われる状態です。

ちなみに、飯食ってるとき、トイレ行ってるとき、風呂入ってる時、なども急にひらめきやすいときです。



実は、プログラムに限りません。沈思黙考が大切な職業の人は、かなりこれを経験している。


絵を描く人なら、一旦離れて遠くから見てみることが重要、というかもしれません。

音楽を作る人なら、「アイディアが下りてくる」とか「神が乗り移る」とかいうかもしれません。


風呂場やトイレが一番アイディアが思いつく、とも言われます。

エジソンも、研究室にベッドを置いていたのは有名な話。



プログラムって、パソコンに向かってやる物でしょ? と思っている人に「夢の中でデバッグ」というと、すごい特殊技能のように思われがち。


だけど、実際にはプログラムのほとんどは「沈思黙考」の時間です。

他のクリエイターと同じ。コンピューターなんてなくても大丈夫。




当たり前のことですが、プログラムの中で問題解決している「量」は、パソコンの前に座っている時の方が多いと思います。

でも、どうしてもわからない問題と言うのは、先に書いたようにパソコンを離れた時に解決することが多い。


そのアイディアの99%が勘違いだったとしても、1%は本当に夢の中でデバッグしたことになる。


これは、プログラマにとっても印象深い出来事となるので、後で人に話すことがあります。

すると「すごい特殊技能」のように思われる。


と、こういうカラクリです。

別に特殊技能でもなんでもない。




まぁ、プログラム自体が特殊技能だ、というのはあるとは思います。

だから「プログラマには当然」の話が普通に理解されなくても、そこは仕方ない。


僕から見ると、絵を描ける人や音楽を作れる人のほうがよほど特殊技能の持ち主です。

結局、自分の持ってない技能はなんでも特殊に見えてしまう、というだけの話です。





公開半日後の大幅追記


公開してすぐに「夢の中じゃなくて、布団の中なのではないか」という趣旨のツッコミを頂いたので解説。

ツッコミをくれた方も、寝る前に布団に入っても考えていたら急に気づいた、という経験はあるようです。


上の文章中で、「論理的でない」時になぜデバッグが出来るのか、を書いていたのですが、「寝た」状態での話、および「寝る」ことの定義をしていませんでした。

これがおそらくは、ちゃんと伝わっていなかった原因かと。



僕の場合、と断ったうえでですが、単に布団に入っただけではなくて、就寝後です。

ただ、おそらくは体は寝ているが意識は起きている、半覚醒の状態。


そういう時に見る夢って、特殊です。

「あぁ、これは夢だな」って自分でもわかっていて、コントロール可能な部分もあるのだけど、不可能な部分もある。

いわゆる「明晰夢」というやつです。



だから、「夢の中ではないのではないか」というツッコミは、ある意味正しくて、ある意味違っている。

定義していなかったので申し訳ないのですが。


僕の何度かの経験だと、確かに寝ているし、夢を見ているのだけど、その夢の中で意識ははっきりしています。




ただ、やっぱり夢の中なので、意識ははっきりしていてもおかしなことが起こります。


この「おかしなこと」が…また、妙にリアルなのね。

現実に起こっていたバグではないのだけど、変なバグが起きて悩んでいたりする。


そして、夢の中でもデバッグしているから、このおかしな現象は何だろうと考える。


そうすると、「あぁ、この関数が特殊状況下であぁなって、このバグが起きるのか」とか、ちゃんと論理性のある答えを導いてしまう。



で、起きてソースリストを確認してみると、実際にそうなっていたりするわけです。

現実的には起きていなかったバグが、夢の中では起きていて、確認すると潜在的なバグがあったりする。


さらに、この「潜在バグ」こそが、実際に悩んでいたバグの原因だっりする。



こういうのが、「夢の中でデバッグする」と書いた現象になります。




改めて先に書いたことに当てはめれば、頭の中に「主要な関数の動作」は全部叩きこんであって、それが特殊状況下で動かないことに気付いていないだけなのです。


気付いてないのは、「ここは一度チェックしたから動くはずだ」という先入観があるから。

特殊状況で動かないとしても、動くものだと思ってそれ以降のチェックを行わなくなってしまう。



ところが、夢の中では「ここ、最近チェックしてないけど本当に大丈夫?」と教えてくれるらしい。

心のどこかに、「チェックしたけど、本当に大丈夫なのかな」という不安感があって、夢に出てくるのでしょうね。


論理性は頭の中に叩きこんであるから、「そこがもしおかしいと、こんなことになるよ」と、変なバグの夢を見せてくれる。


で、今まで調べてなかった「特殊状況」のチェックをしてみると、バグが見つかるという寸法です。



夢の中では「不安感」が顕在化しただけで、厳密性は無いのに注意。

この「不安感」が必ず的中する、ということはありません。


起きて見直したけど、やっぱあってた、というパターンの方が多い。

先に書いた「99%は勘違い」というのは、そういうことを言っていたつもりでした。




補足しておくと、多くの人が「特殊技能」だと感じているのは、これが「夢の中」だからというよりは、「パソコンが無いのにプログラムしている」行為なのではないかと思っています。


だから、追記する前の文章では、バグの原因の大半がロジック部分にあり、コードではないことを書いていました。

コードはパソコンが無いと確認できないけど、ロジックはパソコンなしにデバッグできる。



そして、ツッコミをくれた方は「布団に入って考えていたら気づく」という経験をお持ちなので、プログラマーでない人から見たら同じ特殊技能の持ち主ではないかと思います。


実際寝てしまった後なのか、寝る直前なのかはあまり問題ではない、五十歩百歩の部分です。




余談ですが、明晰夢って、訓練すると当たり前にみられるようになります。


大学時代に、ちょっと「夢診断」に興味を持った時があって、朝目覚めて夢を覚えていたら、忘れないうちに書き留めるようにしていました。


そしたら、夢を覚えていることが多くなりました。

やがて、明晰夢を見ることが増えました。


…これ、「デバッグ時」と同じで、面白いから夢を覚えておこう、書き留めておこう、と強く思っているから、寝ても覚えておけるように半覚醒状態になっているのです。


最初の頃は、夢の荒唐無稽さが面白くて書き留めていたのですが、明晰夢を見るようになったら理性が働いて変な夢を見なくなったので、つまらなくなってやめました。



もしかしたら、「夢の中でデバッグする」経験も、この際の「夢を覚える訓練」の延長上にあるかもしれません。

(入社間もなくの頃に僕も経験しているので、「夢を記録する」訓練を…望まずに…やってしまってから、数年後です)



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手相開発時の技術話  2015-03-14 10:47:44  業界記

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一般受けしそうな話は尽きた(笑)


でも、実は僕としてはここからの話の方が書きたいかも。

プログラマしか楽しめない技術話です。



手相うらないは、System 32 で作られました。CPU は V60 。

実は、大学時代の研究室の教授が設計した CPU です。


まさか就職して、恩師の作った CPU でプログラム組むとは思ってなかった。




手相占いのプログラムは、すべて V60 アセンブラで書かれていますが、「オブジェクト指向」でした。


当時の僕は、アセンブラとC言語、それに AWK と BASIC と…まぁ、手続型言語は使えましたが、オブジェクト指向は理解できていませんでした。


と言っても、オブジェクト指向のことは知っていて、それを扱える処理系を触ったことがなかっただけ。

その一方で、「オブジェクト指向はプログラムスタイルであって、言語ではない」という話も読んでいました。


#Oh!X で、1987年12月から、「オブジェクト指向のゲームプログラミング」という連載があったそうです。

 ただ、僕はこれは読んでいません。Oh!X 買い始めたの、1990年ごろからなので。

 でも、後の記事の中に「過去の連載にあった」「アセンブラでもオブジェクト指向は出来る」と書かれていたのです。


頭では理解できました。

たとえば、再帰処理を行うのにローカル変数は必要ありません。BASIC でも再帰は行えます。


でも、多くの人が BASIC では再帰はできない、と思っています。

その理由は、再帰を正しく理解できていないから。それだけです。


#再帰って、処理の中から自分自身を呼び出す処理方法。C言語では再帰が「簡単に」できます。

 でも、Cでないとできない、と思っている人が多数います。簡単でないだけで、BASIC でもできるのに。


そして僕はこの時、オブジェクト指向を正しく理解できていませんでした。

「オブジェクト指向言語を使わないでもオブジェクト指向に出来る」は、頭で理解できてもどうやればよいのかわからなかったのです。


その答えが目の前にありました。

すでにアセンブラでオブジェクト指向を行うための「フレームワーク」は組みあがっていて、そこに新たなプログラムを追加していけばいいのです。


#フレームワーク、なんていうとかっこいいけど、前回作である「スターライトフォーチュン」の部分流用です。

 もっと言えば、System32 の初期の作品から、プログラムは脈々と流用され続けてきたのでしょう。


それまでオブジェクト指向がどうも理解できていなかったのですが、非常に低レベルなアセンブラで経験したため、その後は C++ を見ても Java を見ても、内部でどのように処理しているのか…が理解できるようになりました。


C言語覚えた時も、アセンブラでどのように出力されるかを見て「理解」したのだよな (^^;

どうも僕は、アセンブラまで一度落とさないと理解できないようです。




それまで、僕は「ベーマガで覚えた」スタイルでゲームを作っていました。


敵の数だけ座標などの変数を用意し、自分の座標の変数と、自分の撃った弾の座標の変数を用意する。


それぞれのキャラクターが「生きている」か「死んでいる」かを判断するフラグもあり、それらを見ながら、座標を操作し、それぞれを表示し…

というのを、ループ内で延々と書く。


これでゲームは作れます。

ベーマガに載っていたゲームなんてほとんどこうだし、昔は市販ゲームでもこうでした。



でも、手相で使ったフレームワークはそうではありませんでした。


キャラクターは全て「オブジェクト」として扱います。

オブジェクトは、大きく分けて画面表示を伴うものと、そうでないものに大別されます。


各オブジェクトには、64バイトのメモリ空間が与えられています。

表示キャラクタの場合、座標データや、表示キャラクタの番号、表示優先順位などはこのメモリの、決まった位置に置かれます。


残りのメモリは自由に使って構いません。

キャラクターの移動速度だったり、向きだったり、ゲームに必要な内部的な値です。



各キャラクタを「うごかす」ためのプログラムは、実は64バイトのメモリ空間内の、特定位置に開始アドレスが書かれています。

そして、そのアドレスは毎フレーム(1/60秒)毎に、必ず呼び出されます。


呼び出されたら座標などを移動し、最後に「表示ルーチン」を呼び出します。

先に書いたように、表示パラメータは 64バイトのメモリ空間内の固定位置に入っていて、表示ルーチンはこれを解釈して表示を行います。


敵でも自機でも弾でも、「処理した後で表示ルーチンを呼べばよい」という流れは同じ。



この「64バイトのメモリ空間」は、処理プログラムが呼び出される際に、アドレスがレジスタのうち1本に入れられています。

なので、このレジスタからの相対アドレッシングを行えば、簡単にアクセスできます。


敵が複数表示されるときも、プログラムは一つだけで大丈夫。

メモリ空間が自動的に変更され、同じプログラムを繰り返し呼び出すことで、複数の敵を処理できます。



「ほぼ共通だけど、一部違う」ような処理が必要な場合、違う部分の処理だけを分離しておき、「処理アドレス」をメモリ空間内に書いておきます。

処理プログラムの中で、そのアドレスにジャンプするようなプログラムを書いておくことで、共通部分は使いまわしたままで、キャラクタごとに違う処理を行えます。



ベーマガ式にプログラムを組んでいると、キャラクタごとに「生き死に」の判定が必要です。

しかし、オブジェクトで処理する場合は、死んだキャラに関してはメモリ空間を開放してしまいます。すると、処理プログラム自体が呼び出されなくなります。


新たなキャラを生成する場合は、メモリを確保し、適切な初期値を書き込みます。

これで、以降は処理プログラムが呼び出されるようになります。



ちなみに、64バイトのメモリ空間のうち、最初の 8byte は、管理用の固定で使用されていました。

まず、「次のメモリ」を示すためのアドレス 4byte 。そして、「処理アドレス」を示すための 4byte 。


これにより、次々と「次のメモリ」を探し出し、処理アドレスを呼び出すのです。


メモリ空間の開放や、新たなメモリ確保は、次のメモリアドレスを書き変えることで行われました。


#いわゆるチェーンリスト構造。




この環境でプログラム組むのが、とにかく楽しかった。


ゲーム作成経験者じゃないと分かってもらえないかもしれない。

ベーマガ式にプログラム組んでいくと、だんだん「管理しないといけない変数」が増え続けてしまって、規模が大きくなるにつれて辛くなるのね。


それを、すべてのキャラや処理をまとめて「オブジェクト」と捉え、その処理ルーチンを用意しただけで、変数管理から解放される。

オブジェクトの生成や破棄など、いくつかのルールを守っているだけで、後は処理するプログラムだけに注意を払えばいいんです。


後の話ですが、サターンで使用されたSGLも、C言語のライブラリとして作られていましたが、同じような構造を前提として作られていました。



ところが、このフレームワークを「オブジェクト指向」だと気づいてない人の方が多かったようなのですね。

ゲーム開発の現場って、みんなゲーム好きだけど、それほど言語マニアは集まってません。


C言語しかできない、アセンブラしかできない、とかそういう人が多い。



ずっとのちの話になりますが、ある先輩が「C++勉強してみたら、いつも使っている環境をプログラムしやすいことに気付いた」と言うのです。

「オブジェクト指向とゲーム制作は相性が良い」と。


僕としては、オブジェクト指向「言語」を使っていなかっただけで、作り方はオブジェクト指向だと思ってました。

だから、これは発見でもなんでもないのだけど、その先輩もゲーム一筋の人で、言語にはそれほど興味がなかったので大発見だったみたい。


ただ、この先輩すごいプログラム能力の持ち主で、「これはいい!」って、一気に必要なライブラリ全部 C++ で作っちゃったのね。

それで、部内で C++ の布教活動初めて、自分のプロジェクト内は C++ で開発することにしちゃった。


行動力と実力が伴っていました。素晴らしい。

でも、この話の詳細は、20年たったころに


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手相開発時の技術話(2)  2015-03-15 10:17:00  業界記

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手相開発時の技術話(2)

先に書いた話の続きです。


手相は、V60 のアセンブラで書かれました。


このコードは、HP-UX (ヒューレットパッカードの UNIX)マシンでクロスアセンブルされ、最終的に Intel HEX 形式のバイナリとなりました。

Intel HEX というのは、組込みプログラムではよく使われる、ROM の内容データをテキストファイルで記述したものです。



この Intel HEX データは、シリアルケーブルでデイジーチェーン接続された「ROMエミュレータ」に送り込まれます。

ROM エミュレータはセガが独自に開発したハードウェアで、名前の通り、RAM によって ROM をエミュレートするものでした。


普通なら、アセンブルするたびに ROM ライターと言う機械を使って EP-ROM にデータを書き込み、ROM を差し替えて動作させます。

しかし、ROM エミュレータでは基板に挿したまま内容の書き換えができましたし、書き込み速度も EP-ROM よりもずっと早く、快適に作業できました。



基板には、この ROM エミュレータが多数刺さっています。

グラフィック、サウンド、プログラムなど、ROM に書かれる部分は全て ROM エミュレータが使われるので、20本くらいあったように思います。



通常の ROM 程度のサイズで、ROM の代わりに基板に挿しこまれる「下駄」と呼ばれる部品と、そこの上に垂直に「立てる」本体基板がありました。

本体基板は、サイズこそ下駄の上空に収まるように作っていますが、非常に背が高いです。


そのため、ROM エミュレータは基板上に「林立している」という言葉がしっくりきます。


これらの ROM エミュレータは、先に書いたようにシリアル接続でデイジーチェーン接続され、一気に書き込みが可能です。


デイジーチェーンだけど、各 ROM エミュレータに DIP スイッチによる ID 設定が可能で、個体識別できるのね。

20本くらい同時に使っているのだから、ID は少なくとも 5bit はあったはず。



通常は変更があった部分しか送り込みませんが、全部送っても3分程度だったように思います。

ROM を作ることを考えると圧倒的に速い。




System 32 の V60 部分は、ICE に置き換えられていました。

ICE というのは、CPU の動作をそっくりまねた上で、内部のレジスタの状態などを自由に見たり書き変えたりできる機械ね。

デバッグには欠かせません。


この ICE を制御するのに、MS-DOS の PC-9801 を使っていました。


98は本当に、ICE 専用。DOSだからシングルタスクで、他のことできないしね。

でも、ネットワークには接続されていたはず。デバッガはシンボル情報を理解していて、逆アセンブル時にジャンプ先ラベルなどがわかりやすく表示されます。

この情報を得るために、HP-UX とファイルを共有しているのね。


System 32 は、アストロシティ筐体に接続されていて、画面などはそちらで確認できました。



というわけで、改めて開発機材を書くと、こうなります。

(大きなものだけ)


・HP-UX マシン(HP 製 UNIX マシン)と、そのモニタ

・PC-9801 とそのモニタ

・System 32 基板と、そのモニタに相当するアストロシティ筐体

・V60 ICE


アストロシティ以外は、すべて机の上に乗っています。

横2m位の長机で、その机の上と、その前の部分が自分のスペースです。


「自分のスペース」にすべてを納めるため、アストロシティ筐体は机の前に、片隅に寄せるように置いてあります。

机の前の逆隅に椅子を置き、そこに座った時に使いやすい位置に、HP-UX を置きます。


そして、残るスペースに PC-9801、System32、V60 ICE を詰め込みます。


#右に概略図を示します。こんな感じ、というだけで縮尺などはいい加減。



System32 は、開発機材を多数接続しているため、アストロシティ筐体には入りません。

JAMMA ハーネスの延長ケーブルを自作してあるので、机の上から接続できます。



PC98はアストロシティに半分隠れるような置き方なので、操作しづらい。

でも、基本的に ICE の「実行」「停止」ができれば良いので、それほど問題は無い。


System32 のテストモード操作などが必要な時は、手を伸ばさないといけないけど、これはそれほどやらなくていいから問題なし。

そんな感じの操作環境でした。




都合3台のモニタに囲まれています。

この頃のディスプレイモニタは、ブラウン管です。電磁波を出していました。


さらに、机は多数並んでいるので「隣の人」「前の人」「後ろの人」…などからの電磁波も浴びるわけです。


これが健康に悪い、という噂がありました。



入社して1年目くらいの話ですが、女性も多いデザイン課では、電磁波遮蔽エプロンが配られました。


鉄板が入っていて重たいエプロン。

電磁波が生殖細胞に影響があり、不妊になる、という噂があったためです。


ちなみに、男性の場合も不妊になりやすく、特に男児が生まれにくくなる、という噂もありました。

でも、女性の少ないプログラム課では、特にエプロン配られませんでした。


#一応、プログラム課にも同期に女性が1名いました。

 当時のセガ全社員の中で、女性プログラマは3名だけだったそうですが…




ちなみに、アストロシティ筐体を使っていたのは、入社時点で一番手に入りやすかったから。


一緒に手相を作った先輩はエアロシティを使っていましたし、後に入ってくる後輩はブラストシティ使っていたと思います。

その時、一番入手しやすい筐体が支給される、っていう、それだけの話。


#エアロシティ、アストロシティ、ブラストシティは、セガが販売していた業務用ゲーム筐体です。

 アストロとブラストの間の時期に、バーサスシティと言うのもあったけど、それはまたそのうち書きます。



あ、そうだ…次回はドットリ君について書きましょう。

筐体の話をするなら、一緒に書いておいた方が面白い。



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さよなら遠足  2015-03-15 17:14:19  家族

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さよなら遠足

13日の金曜日に、次女の保育園のさよなら遠足があった。


前日に、次女が「おべんとうのなかみ」と紙に書いて、欲しいものをリストアップした。


おにぎり、おいなりさん、たまごやき、タコさん、イカさん、ペンギンさん、カニさん、きゅーりのつけもの。


お父さん、頑張って早起きして作りましたよ。

おいなりさんなんて、薄揚げ煮るところからやったよ。


タコ・イカ・ペンギン・カニはウィンナーのリクエスト。

だから、弁当の中ウィンナーだらけ。


卵焼きはハートの形に、ってリクエストだったので、それも実現。完璧。




さよなら遠足は、親は同伴しない。

本当の意味の「遠足」で、自分たちで歩く。


今年は、年長さんはいつもより遠くまで歩いたらしい。

例年の2倍くらい歩いたとのことで、詳しく知らないのだけどコースとか気になる。


次女の年中さんも、今年は年少さんと一緒に歩く。

例年は、学年別なのね。今年は、年中さんと年少さんが手をつないでいく、という形式で、年少さんが例年の年中さんペースで行ったみたい。


子供たち、頑張るなぁ、という感じ。




この日の朝、次女はなんか熱っぽかった。

2日くらい前から咳が出ていたので、あぁ、やっぱ風邪か、という感じ。


…でも、本人楽しみにしていたし、熱っぽいというと「熱測らないで」と懇願。

熱あったら保育園に行けない、ということをよくわかっている。


まぁ、有っても微熱と言う程度なので、申し訳ないけどそのまま保育園に預ける。


何事もなく終わったので何より。


で、後で気づいたのだけど、去年も当日に熱出してるのね。


僕も子供の頃、楽しみなことがあると気持ちが高ぶって、多少無理して、それが祟って当日に熱出すタイプだった。

次女も同じかもしれない。



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ドットリ君  2015-03-16 09:03:03  業界記

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新人に筐体を支給すると、「ドットリ君」(1990)というゲームがもれなくついてきます。

というか、ゲームセンターに筐体を出荷するときもそう。筐体にはドットリ君が付いてきます。


これが何者であるか…正しく認識できていない人も多いので、解説しておきましょう。



ドットリ君は、よく「テスト基板」と呼ばれます。


この言い方から、筐体の不具合などを確認するテスト用だと思う人がいる。

ドットリ君は音が出ないので、「それじゃテストにならないじゃん」なんて批判もある。


そうじゃないです。

たしかに、「テスト」のための基板なのだけど、それは筐体の動作確認の意味ではない。




電気用品取締法(当時)という法律では、電気用品のうち、通産省(当時)の定める形式の製品については、認可を得なくては販売できないことになっていました。

電気製品は、感電や発火などの危険があるため、これは必要なことです。


#現在は電気用品安全法、と名前を変え、経産省が形式を定めています。いわゆるPSE法。



ゲーム機は比較的新しい産業だったため、この「定める製品」リストに入っていませんでした。

しかし、時々このリストは見直しが行われます。


どうやら 1990年ごろ(正確な時期不明)に、新たに「電子応用遊戯器具」というカテゴリーが出来たようです。

これにより、ゲーム機の販売には国の認可が必要となりました。


ここでグレイゾーンとなるのが「ゲーム筐体」です。

実は、ゲーム筐体と言うのはそれだけを購入しても何もできないもので、ゲーム基板と組み合わせてやっと使用可能となります。



このため、ゲーム筐体は「未完成の電子応用遊戯器具」と見做されました。

未完成、つまり「製品」でないものは、認可が下りません。

筐体は販売してはならない、ということです。


これまでは、「筐体」と「ゲーム基板」を別々に販売し、お店で自由に組み合わせてもらう、というのがゲーム業界の慣習でした。

しかし、法律により、その商売は出来なくなるのです。


#とはいえ、自由に組み合わせられるようになったのは、ゲーム業界団体がコネクタ形状を定義した JAMMA 規格(1986)以降。

 これ以前は、ゲーム会社ごとに筐体と基板の接続方式が違っていました。簡単な改造で繋げられたけど。



ゲーム基板そのものは、筐体から電力を供給されて動作するだけなので、この「定める製品」リストには入っていませんでした。

そのため、お店としては、一度筐体を入手すれば、以降は基板交換できる、というのは今まで通りです。


しかし、筐体を販売するゲーム会社側としては、筐体の販売が難しくなります。

古いゲームを入れて売るわけにも行きませんし、ゲームが新発売になるたびに、筐体販売の認可を取るのは余計な手間となります。




そこで登場するのが、「ドットリ君」。


筐体は、「ドットリ君」というゲーム機として「テスト」され、販売認可を取ります。

ドットリ君として認可を取ったものですから、販売の際には、常に「ドットリ君」として販売される必要があります。


しかし、お店が基板を入れ替えることは問題ないのです。

ドットリ君は、「すぐに取り外され、捨てられる」ことを前提とした、不遇のゲームなのです。



ところで、筐体を買うと必ずドットリ君が付いているのかと言えば、そうでもなかったと思います。


バーチャファイター2のブームの時とか、最初からバーチャファイター2を入れた筐体で販売許可を取って出荷していたのではなかったかな。


当時、VF2は出荷が追いつかない人気商品ですからね。

「筐体込ならあるんですが」って言ったら、高くても買ってくれるお店があった。


手間をかけて新たに販売許可を得るだけのメリットがあったのです。




ドットリ君は、違法とならないために付属させるための物で、セガにとっては余計なコストです。

そのため、できるだけ安く作れるように工夫されています。


音が出ないのもそのため。画面はモノクロで、基板サイズは JAMMAコネクタ(筐体と基板をつなぐコネクタ)の横幅ギリギリしかありません。


ゲーム内容は、大昔のゲーム「ヘッドオン」(1979)に類似しています。

画面を周回しながらドットを取りつくすゲーム。


ヘッドオンでは、操作は速度変更と「車線変更」のみでした。後ろに戻ることはできない。

ドットリ君では、やはり後ろには戻れないのだけど、車線変更可能な場所では「Uターン」できます。

そのため、ちょっとパックマンっぽいところもある。



ゲームとしては、可もなく不可もなく、というところ。


遊べればいい、程度にしか作ってないから、決して「すごく面白い」というものではないです。

でも、まったく遊ばずに捨てるのはもったいない、くらいには遊べる。


実際、丁度1か月前、25年目にして世界初のドットリ君大会が行われて、結構熱い闘いが繰り広げられています。



ちなみに、ゲーム画面にも基板にも「ドットリ君」という名称は書いていないと思います。

でも、筐体買うと付いてくる納品書などに、「ドットリクン」と半角カタカナで書かれていたのではなかったかな。


この名称で販売許可を取っている、ということなのでしょう。


元が半角カタカナなので、情報を調べても「ドットリクン」「ドットリくん」「ドッ取り君」など、別表記をしている人もいます。

別に誰かが間違えているわけではなくて、元々名前なんてどうでもいいものだから(笑)




どんなゲームも、筐体に入れなくては遊べません。

なので、大ヒットゲームでも、世の中に出回っている筐体の数よりは少ない数しか売れていない。


その筐体は、少なくともセガ製の物は、ほぼすべて「ドットリ君」である、と考えると…

ドットリ君、実は世界一売れた大ベストセラーゲームです。


ベストセラー(たくさん売れた)というだけで、大ヒット(みんなが夢中になった)ではないのだけど。



誰が作ったのか、残念ながら僕は知りません。

入社前の話ですし、1990年だとAMは部署が別れていなかったのではないかな。


安い基板を目指して作っているので、基板設計部署は関係しているだろうし、筐体付属物なので筐体設計部署(僕がいた当時のAM4研)も関係してそう。

そして、プログラムなのでゲーム開発部署も開発しているかも。


一方で、簡単なものなので、基板開発者がそのままゲーム作っていたり、筐体設計部署で片手間に基板作っててもおかしくない、というレベル。


こんなに数多くの枚数が出た有名なゲームを誰が作ったのか、知っていたら話のタネくらいにはなりましたね。

(新人当時に聞いていたらわかったかもしれませんが、20年たった今となっては…)



ところで、ドットリ君と同じ理由で作られたゲームは、各社にあるようです。

ちょっと調べてみました。




タイトー「ミニベーダ―」(1990)


ドットリ君と同じく、音なし、モノクロ。

作られた年も同じなので、法律対策ですぐに作られたのでしょう。


タイトル画面もないので、本当の名称は不明。

みな「ミニベーダ―」と呼んでいるので、ドットリクンのように、この名称で認可を得ていたのかもしれません。


ゲーム内容は名前の通り、スペースインベーダーなのですが、陣形の違う全8面。

敵は弾を撃ってこないのだけど、やたら侵略速度が速い。


動画を見ていると、結構全面クリアは難しそうな熱いゲームです。


タイトーは、麻雀コンパネで操作する MINIJONG というのも作っていたようなのですが、詳細不明。



コナミ「モグラデッセ」(1991)


もぐらたたきです。

1991年、ということは、セガ・タイトーに比べて「ブランク期間」があります。


その間、筐体販売はしていなかったのかな?

もしかしたら…後で書きますが、別の基板を付けて販売していたかもしれません。



話をモグラデッセに戻すと、カラーで音も出ている。でも、スピード感は無くてそれほど面白そうではない?

遊んだことないので何とも言えませんが。


ドットリ君も、つまらなそうに見えて、本気で遊ぶと結構遊べる内容でした。

モグラデッセも、遊んだら面白いかもしれません。


2017.3.14追記

モグラデッセは、筐体に付属して販売されるテスト基板ですが、コナミは¥15,000.-で下取り回収し、また別の筐体に付属させていたようです。

そのため、出回っている量自体は少ないのだとか。


よくできている、と思っていましたが、使い捨てるにはコストがかかりすぎているということですね。


ソースはTwitterで見た情報ですが、許可を取ってないので引用はせずリンクのみ示します。



ナムコ「バタリアン」(1993)


なにこれ、面白そう。遊んでみたい。

カラーで音が出て、スクロールとか、文字の拡大縮小までする。スクロールや拡縮はソフトっぽいけど。


作られたのも 1993年と遅めです。

試験用の基板にこんなに手間をかけてどうすんのか、ってゲーム内容ですが、新人研修か何かで作ったのかな。


内容は…名前や画面イメージからタンクバタリアンというか、バトルシティーっぽいようにも思えるのですが、結構違う。

キャラクターが戦車ではなくて人。壁を撃っても壊せない。


同内容で、基板が新設計で新 JAMMA 対応になったバージョンもあるそうです。

(ってことは、かなり後まで作っていたということだ)



コナミ「ターゲットパニック」(1996)


モグラデッセよりも後に作られたのにモノクロです。

少しでも安く作らなくてはならない、って考えたら、自然にそこに落ち着くよね。


一応動画を見つけましたが、ゲーム内容よくわかりません…



他に、シグマも作っていた、という情報がありましたが、詳細不明。



会社によっては、在庫を抱えた古い基板をテスト基板代わりに使用して販売したりもしたようです。

コナミが一時期「Mr.五右衛門」(1986)を使って筐体販売していた、という証言は、Twitter 上で見つけました


もしかしたら、コナミの「モグラデッセ」がセガ・タイトーより1年遅いのは、この基板があったからかも。

不良在庫処分としては悪くない方法だよねー。




ところで、今調べていたらドットリ君にも「サービスモード」があることを知りました。

ゲーム基板についている、遊ばれた回数をチェックしたり、モニタ調整したりするためのモードね。


この中に、モニタの色調整モードがあるのね。

白黒基板だと思ってたら、カラー出るらしい…


ドットリ君にはバージョン違いがあり、ゲーム画面の色が変えられたり、上に書いたサービスモードがあったりするようです。

基板はほぼ同じようなので、ソフトの違いだけなのでしょう。



ということは、最初っから基板はカラー出せたのか。

20年たって初めて知った真実です。



2016.6.25 追記

スペインでブログを作っている方から連絡いただき、このページを引用させてもらいたいという。

テスト基板について記事を書きたいのだけど、情報としてまとまっているページが少ないから、とのことでした。


許可して翌日には素晴らしいページが作られていました。

BEEP! GAME CENTER --- セガ、タイトー、ナムコ、コナミのテスト基板


僕はスペイン語は読めません。機械翻訳に頼って読んでみました。


実際にお持ちの実機テスト基板についてまとめたもので、自分の書いた記事では謎だとした「ターゲットパニック」のゲーム内容にもふれています。


まず、「起動が遅くてカセットテープでも読み込んでいるようだ。6分待つ必要がある」。

コナミですし、バブルメモリ? …いや、基盤を見る限り、普通のROMで構成されています。

なんでそんなに遅いんだろう。


内容は、8方向レバーと1ボタンで、画面周辺8個ある「ターゲット」を撃つことです。

撃つためには、ターゲットがこちら向きに回転した時を狙いますが、めったに回転しません。

1分間に3つ程度、こちらを向くので、向いたらすぐに撃つ。


目標は50ターゲット撃つこと…なのかな。ひたすら待つだけの、作業感の強いゲーム。


「これはゲームではない」とも書かれています。




上記ページ、80~90年代の日本のゲームが大好きな方が書かれているようで、愛にあふれる内容です。

主な記事は、ゲーム紹介と、ゲーム筐体の紹介。


単に「好きだったゲームの紹介」とかじゃなくて、見たことが無い人にもその魅力を伝えようと、カタログや写真を

ふんだんに使って紹介している。


スペイン語ですが、翻訳に頼って斜め読みするだけでもなかなか楽しいです。


2016.7.5 追記


海外からの情報が続きます。

Twitter で、ドットリ君基盤で実験している人を見かけました。


@covell_chris さん。許可を得て引用します。



これがドットリ君だって!?


本文中にも書きましたが、ドットリ君にはちゃんと「サービスモード」が用意されていて、モニタのカラー調整モード…つまり、色を表示できました。


@covell_chris さんによれば、MSX のように「前景色」「背景色」を選ぶ形で、1ラインに2色が使えたそうです。

この組み合わせを、1ライン中に4回変えられます。つまり、最大では1ライン8色出すことができます。


CPU は Z80 の 3MHz …だそうですが、別の情報で 4MHz ってあったな。

間をとって、3.58MHzってところでしょうか。


#…と書いてから「引用したから確認してね」と送ったら、この件に関して画像つきの返事をもらいました

 Z80 自体は 4MHz で駆動されるが、VDP が画面描画中は wait がかかって 3MHz に速度が落ち、全体では結果として 3.54MHz になっている、とのことです。

 3.58MHz と書いたのは「基盤を安くするため、NTSC ドットクロックを使いまわしているだろう」という予想だったのですが、あくまでも 4MHz と 3MHz を行ったり来たりする結果 3.54MHz という「偶然にも近い値」になっているだけ。



おそらく、どれもゲームとして動くわけではなく、表示だけだと思います。


パックマン風画面、迷路が破線みたいになっているのは、ドットの存在するラインでは「ドットの黄色」「迷路の青」「背景の黒」の3色を1ライン上に出せないためですね。


そして、同じ理由でモンスターの近くに餌を置くともできませんし、モンスター同士が近づくこともできません。

そう考えると、この画像が制限の中で非常に上手に作られているのがわかる。

これが「表示だけ」と推察する理由。


3枚目、今度はカラーではなくゲームボーイ風の白黒画面ですが、128x96 の解像度があるよ、というもの。

NTSC 画面なのでこのドット数で正しそうに見えますが、ドットリ君基板の実際の表示は、左右の切れた「正方形」になります。

つまり、128x96 では、ドットが縦長につぶれている。


そのため、この画像では、普通なら 8x8 で描かれるブロックを 8x6 にしているのだそうです。


ちなみに、ゲームボーイは 160x144 の解像度があります。

CPU の機能的には Z80 よりも非力だけど、GB のほうは 4.19MHz 動作でドットリ君より速い。


GB の移植すら難しいのか…さすが低コスト基板。


@covell_chris さんは、まだいろいろと実験中のようなので、今後も何か面白い画面が見られるかもしれません。



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【●】 ドットリ君の初代は描画範囲外の背景色が白ですが(MAMEでは再現されません)コインスイッチを押すと全体の色がいくつかのパターンで順次変わります。ちなみに背景色は帰線期間も垂れ流しなので、AC結合のマトモなRGBモニタだとAGCが誤動作して画面が真っ暗になるため、メガロ50同梱版からROMが変わりデフォの背景が黒になりました (2016-08-20 04:06:57)

ジョン・バッカスの命日(2007)  2015-03-17 09:34:05  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、ジョン・バッカスの命日(2007)。


虎は死んで皮を残す。人は死んで名を残す。

ジョン・バッカスは、FORTRAN と ALGOL と BNF を残しました。




FORTRAN は、世界最初のコンピューター言語。


これ以前にもアセンブリ言語はあるし、わずかながらアセンブラ(アセンブリ言語で書かれたプログラムを、機械語に変換するプログラム)もありました。


でも、アセンブラは必要に駆られて作られた「表記法」程度のもので、言語と呼ぶのはちょっと違う感じ。

人間にとっては無意味な「機械語」と、1対1対応だからね。



そんな時代に、バッカスは数学者が書いた数式を、ほぼそのまま計算できる言語を作り出しました。

それが FORTRAN でした。


人間にわかりやすいような…機械語でない言語でのプログラムなんて不可能だ、と明言する学者もいた時代。

プログラム言語が「可能」であることを示すには、ただそれを作ってみせればいいだけでした。


これは非常に難しいチャレンジでしたが、FORTRAN は成功しました。

ただ、この時は「実証する」ことが最大の目的で、使いやすさとかは考えてません。




もっと使いやすい言語ができるはず。

多数の計算機学者が集まり、「美しい言語」の設計が始まります。


バッカスも、当時唯一の「実際に動く言語を作成した経験者」として、この会議に加わっています。


そこで策定された言語が ALGOL で、文法構造は非常にシンプルになっていました。


この、シンプルな文法構造の表現に使われたのが、BNF 。バッカス・ナウア・フォーム(バッカス・ナウア記法)の略です。

ナウアは、バッカスと共にこの記法の策定にかかわった人物。



BNF は非常にシンプルで強力なため、今でもいたるところで使われています。

特に、インターネットのプロトコルなどは BNF で書かれるため、現代プログラマの必須知識。




現代の言語の多くが、BNF で記述できることを前提に設計されています。

その意味では、どの言語も ALGOL の子孫。


中にはそうではない変態言語もありますが…

perl なんて、単純に BNF で記述できない言語のひとつ。


でも、BNF で書けない、というのが悪いことではない。

BNF で書くと、厳密で強固な言語となる一方、回りくどい書き方をしなくては記述できないことがあります。


perl は、その回りくどさを無くすために、あえて BNF で記述できない文法を採用している。

だから、ややこしい処理を非常に簡潔に書くことができます。


80年代の BASIC なんかも、BNF で書けませんでした。

BNF で書かれた言語って、プログラマから見ると美しい一方、あまり初心者向けではないように思います。




…と、ここでは、ざっくりした説明にとどめておきます。

バッカスについては、過去に書いた記事に詳しいので。


もっと知りたい方は、是非以下の記事も読んでみてください。


ジョン・バッカスの誕生日(1924/12/3)

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手相開発時の技術話(3)  2015-03-17 10:28:48  業界記

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手相では、CD-DA も使われました。

System32 から CD 制御して、音を流すのね。別に CD-ROM とかではなく、単に音楽再生しているだけ。


この事は以前に書いていますね。



企画の人から、占いの説明などをアニメっぽい動きで説明するから、音に合わせて動かしてね、と言われていました。

CD には、すでに音楽と一緒に、絵コンテに合わせたタイミングでナレーションなどが入っています。


#絵コンテには、アニメーションのタイミングを秒単位で指定してありました。




さて、音源が基板上にある物であれば、「音と映像」を同期させるのは、それほど難しくないです。


映像に音をあわせたいなら、効果音を出すようにサウンドドライバに指令を出すだけ。

逆に、音に合わせて映像を動かすなら、音楽の中に「タイミング」を示すデータを入れておいてもらって、サウンドドライバからタイミングを教えてもらいます。


でも、CD に合わせて、となると、タイミングの目安となるものがなにもありません。



安いポータブル CD プレイヤー買ってきて、音を聞きながら絵コンテに合わせてキャラを動かします。

何度も何度も、動かしながら調整していくしかない。


#この時点では、まだ CD を System32 から制御する基板を貰ってなかったように思います。

 だから、自分で CD プレイヤー買うしかなかった。


…デザインの人も、同じ絵コンテ見て絵を描いているのですが、どう考えてもこの動きが出来る絵ではないだろう、ということもしばしば。

どうやって動かそうと思ってました? と聞いても「え、特に考えてない。なんとなく動くかな、と…」。


しかし、このゲームやたらと絵が多かった。しかも、多数ある説明アニメの1枚で一瞬出てくるだけの絵、とかもある。

そういう絵にダメ出しして描き直させていたら、時間がもったいないわけです。


まぁ、そんな具合なので「無理やり動かした」ものも多数。

細かく動きを設定していると気になる、というだけで、普通に見たら普通に見られますので、問題ないです。



企画の方がアニメ好きで、同人誌なんかも描いている人だったので、それなりにわかりやすい絵コンテだったのが救いでした。

この時の、どんどん動きを作っていく作業は楽しいものでした。


#占いの内容に応じて、なので、数十種類作ったと思う。

 1か月くらい、ひたすらアニメの動きを作り続けていたのではないかな。




System32 から CD を制御できるようになってみると、思っていたのと少し違うタイミングで音が出てしまったりします。


「再生」を指示しても、そのタイミングですぐに音が再生されるわけではないのね。

読み取りヘッドがシークして、それから本当の再生が始まる。


ここで問題になるのが、シーク時間が一定ではない、ということです。

直前にかかっていた曲によって、ヘッドの位置が違うから、シーク時間も変わってくる。



これは、曲番号を指定して「再生」した後に、すぐに一時停止を指示することで解決しました。

一時停止が指示されても、シークは行われます。しかし、一時停止中なので演奏は始まりません。


0.5秒くらい待ってから一時停止を解除すると、すぐに曲が演奏されます。

その時点では、もうシークが終わっているから、すぐ演奏に入れるのですね。


これで、完全に曲と映像をあわせることができました。




企画の人のイメージでは、画面などは「全体にウゴウゴルーガっぽい感じで」でした。


#当時人気のあった、子供番組のふりをした番組。

 番組タイトルが、1993年の流行語大賞を受賞するくらい人気でした。

 ずっと後に、「日本のメディア芸術100選」にも選ばれています。



ウゴウゴルーガは、画面を常に「ガチャガチャとした動き」で動かしていました。


だから、これを目指して、アニメも余り滑らかすぎる動きをしない。

文字も常に動かし続ける。



先ほど書いた、アニメを無理やり動かした、という話も、この「全体の雰囲気」に助けられてます。

それじゃないと、不自然な動きはやっぱ不自然だもの。


文字は、ウゴウゴルーガでは手書きの文字を何枚も書いて動かしているのだけど、手間暇もかけられないし、時間もないので絵としては一つだけ。


ただ、常に座標を変えてガクガクと動かし続けています。

「読みにくくならない程度に常に動かす」のは、文字ごとにちょうどいい動きが違う。


最後の方には慣れて、見ただけでちょうどいいパラメータが思い浮かぶようになったけど、基本的に試行錯誤。




画面周りの技術面で、非常に細かなどうでもいい話。


System32 では、フレームバッファスプライトと、複数枚のスクロール画面が使えます。

サターンと似た構成


#サターンは、System32 の家庭用として開発が始まった、という噂もあります



この「スクロール画面」は、レジスタをいじると即座に(次のフレームで)位置が反映されます。

スプライトは、表示座標などを設定すると次のフレーム(1/60秒)で裏画面に描画し、さらに次のフレームで表示されます。


つまり、スクロールとスプライトは、1フレームずれて表示されるんだわ。

完全に表示を一致させたいなら、スクロール表示の設定を一時溜めるバッファでも用意しておいて、わざと1フレームずらせばいい。


でも、当時はそんな簡単なことを気付かず、やってません。

画面がカットインする(背景の上にキャラクターが乗ったものが、画面横から入ってくる)ような演出があるのだけど、スクロール時にスプライトが少しずれている。


まぁ、作った自分は気になっているけど、見た人は誰も気づかないだろう、という程度の問題です。



原因がちゃんと理解できていない時に、ずれるなー、なんでだろうなー、って何度も見ていたら、先輩プログラマ(手相の先輩とは別)に、「そういうハードだから合わせる方法は無い」って断言されました。


いや、合わせられないってことはないだろ。1フレームずれるだけだから合わせる方法はある。


常に1フレーム待って設定しようか、とか考えたけど、面倒なことになるからやめました。

後で考えると、バッファを数バイト用意すれば、それだけで済む話なんだけどね。



合わせる方法が無い、って言った人も、別に技術力が無いわけではないです。多くのゲームを作ってきた人だし。

ゲーム作るうえでは、こんな細かな話は「些細な事」で、気にする必要はあまりなかったというだけ。



同じ現象はサターン・ST-Vでもありました。

今は、スプライト+BGなんて環境が無くなったので、あまり気にすることは無いと思います。



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手相開発時の技術話(4)  2015-03-18 09:05:00  業界記

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先に、僕は当時 awk が使えた、と書きましたが、手相占いの作成の際には awk が大活躍しました。


新人の仕事は、データ整理であることがほとんどです。

プログラムは余り書かせてもらえません。というか、データが多すぎて整理だけで日が暮れます。


…セガは大手だから「プログラマーの」新人が沢山いて、データ整理は新人の仕事でした。

中小メーカーだと、プログラマーって貴重だから、雑用アルバイトの仕事です。

もしくは、「企画」という名目の、雑用の仕事です。


まぁ、誰がやるんでもいいのですが、コンピューター使っていて、コンピューターなら簡単に出来るはずの作業を、なぜか人が延々と繰り返さないといけない。




そんなのコンピューターでやってよ、と思うでしょう。


でも、ゲームプログラマーって、C言語とか、それに類する言語使っていることが多いです。

これで作成したプログラムは、非常に高速に動作する。ゲームを作るのには非常に良い。


その反面、プログラムを組むのが非常に面倒で、デバッグも手間取ります。


そんな言語で、データ整理プログラムを書くのは大変なのです。

誰かが1日かかればなんとかなる作業をするプログラムを書くのに、1日以上かかってしまう。


それに、プログラマーは貴重なので、その貴重な能力を別のことに1日割くことはできません。

結果として、誰かが不毛な作業を延々と繰り返すことになる。




awk で組んだプログラムは、動作が非常に遅いし、できることも非常に限られています。


その代り、「守備範囲」のプログラムであれば、非常に簡単に作れる

うまく動作しない時のデバッグも、すごくやりやすい。



今なら awk よりももっといい言語があります。

でも、当時は awk が「知る人ぞ知る」言語で、perl はまだマイナーでした。ruby は登場前。


awk(1977) も perl(1987) も UNIX 由来のプログラム言語。

 awk を元にして perl が作られ、さらに ruby(1995)が作られています。


 awk は DOS に移植され、スキモノが使ってました。

 perl は当時はまだ基本的に UNIX 用だったので、それほど普及してなかった。

 (もちろん、CPANなんてありませんし、Linux も普及前なので、一部の人しか触れなかったのです)




それはさておき、手相の場合、主な「データ整理作業」は画像の整理で、主に次のようなものでした。



まず、誰かが作った UNIX 用のソフトがありました。

これを使い、デザイナーが描いた画像1ファイルを処理すると、System32 が使えるデータの形式で出力します。


このデータは、2つの出力に別れていました。

まずは、キャラクタ ROM に書き込むためのデータファイル。


そして、このファイルの中身がどのようなものか、標準出力に表示される「画像サイズ」などのデータでした。




ファイルの中身は、アセンブラプログラムの断片になっていました。

ここに、ラベルなどを付けて「画像アドレス」がわかるようにしたうえで、アセンブルします。


画像の差し替えの場合は、すでにラベルが存在している場所を探し出し、中身を置き変えます。


その後、このファイルを「アセンブル」して、画像データの塊であるバイナリを得ます。

このバイナリは、ROM サイズごとに複数に切り分け (UNIX の split を使用)、Intel HEX 形式(ROM にデータを入れる際に使われる形式)に変換します。




「標準出力」に表示される画像サイズなどは、先の画像データにつけられた「ラベル」と一緒にまとめて、データテーブル化します。

これにより、画像のサイズ、データアドレスがわかるようになるので、画像を表示できるようになるのです。


さらに、アニメなどで一緒に使う画像をひとまとめにして、「アニメ用テーブル」を作ります。

このテーブルは、アニメーションする画像群の数だけ出来上がります。


キャラクタ番号何番を、オフセット座標いくつで、何フレーム表示、というのを列記します。



さらに、アニメ用テーブルをまとめるテーブルを作ります。これが「キャラクタ番号」でアニメを表示するためのテーブルとなります。


ただ、キャラクタを番号だけで扱っているとややこしいため、番号を分かりやすい名前で定義します。

Cなら enum で行うところですが、アセンブラなので define の羅列です。



…と、ここまでが「データ整理」の作業。大変です。

こんなことやっていたら、プログラムを作る時間は無くなります。




僕は、手順を理解したところで awk にやらせるためのスクリプトを組みました。


デザイナーから貰った画像を、アニメで一緒に使うグループごとにディレクトリに入れます。

この時、ディレクトリ名が「グループ名」となります。

画像のファイル名は「キャラ名」になります。



ここまで作ったら、あとは awk スクリプト起動。

多数のファイルを次々ツールにかけ、アセンブラを起動し、バイナリを Intel HEX 化し、キャラアドレス・キャラ番号まで作り上げます。


アニメのフレーム数などの指定は無いため、アニメーションテーブルは手で作っていたのではないかな。

値を調整して終わり、という程度の雛形は吐き出していたかも。


ともかく、大変な作業の8割は、awk で自動化できた。


人がやっていると、データの差し替えなんかでミスをすることもありました。

でも、「差し替え」なんて面倒なことを考えず、毎回全部作り直すようにしていたので、画像ディレクトリの中さえ整理をしておけば、間違いのないソースを生成してくれました。


ただし、毎回全ファイルを処理していたので、時間はかかりました。


それでも、15分程度で終わったのではなかったかな。



グラフィックの人から画像データを渡されて、30分後に画面で表示して「動きました」なんて見せると、仕事が速いと驚かれました。

普通、午前中にデータ渡したら夕方に画面に表示される、とかだったのね。




こんな作業もありました。


手相は占いゲームだったので、膨大な文章データがありました。

こちらも、アセンブラのデータの形でソース内に入れ込んで処理、ということになった。


ところが、このアセンブラが…特定の漢字が入ると、動作がおかしくなる問題があったのね。


まぁ、具体的に言えば Shift JIS の 2byte 目が 0x5c の場合、それ以降の文字が化けます。

アセンブラが日本語対応していないという、ありがちな問題。

解決するには、その特定文字を見つけ出し、後ろに \ を入れてやればいいです。


これもデータ整理の問題なのですが、テキスト内から 2byte 目が 0x5c の漢字を探し出して、\ を後ろに入れた上でアセンブラのソースにする、ってプログラム作ったと思います。


これは、絵のデータ整理ほど何回も使うものではなかった。

でも、awk だとこういうプログラムは組みやすいので、すぐに作れる。




あぁ、そうだ。こんなのもあった。


画面に結果を表示するため「JIS 漢字を全部画像として持とう」ということになりました。

とはいえ、当時は Font って、ものすごく高かった。権利買えません。


しかし、著作権の問題もあるから、そのまま使うわけにはいかない。

ベクターフォントを 16x16 で表示したのを並べて、違うフォントだと言えるくらいまで手を加えて、それで使おうということになった。


でも、それを「すべての漢字」についてやるなんて言うのは、気が遠くなる作業。


そこで、画面表示する予定の占い文章の文字を全て1文字づつ切り出して、集計し、使っている文字一覧を作った。

これをテキストファイルにしてデザイナーさんに渡し、Photoshop にテキストを流し込んで文字一覧の画像を得る。


これなら、使わない文字を作業する必要はない。

こんな集計作業も、awk なら簡単です。



出来た画像は、多数の漢字を並べて1枚にしたものですが、ここから 16x16 で切り出して1文字づつにする、という部分まで処理したと思います。

画像の元になったテキストファイルがあるので、どこから切り出したのがどの文字か、もちゃんと紐づけられる。




他にも、そういう「1回しか使わない使い捨てプログラム」を何度も書いたと思います。

awk だけじゃなくて、tcsh なんかも使ってました。適材適所で。


ファイルをまとめてリネーム、とかいう作業が生じた時は、tcsh が便利だった。


デザイナーさんから貰うファイルは、たびたびファイル名の英語がスペルミスしていたりしたので、tcsh でリネームしたりね。

先に書いたように、画像のファイル名を元にソースを自動生成していたので、スペルミスがソース内に持ち込まれると気持ち悪いのね。



手相の時は perl は使いませんでしたが、awk ではちょっと力不足、と考えて、次のプロジェクトの時には perl を覚えました。


今でも awk 好きですけどね。awk の方が適した作業、というのもある。

適材適所で使っています。




ゲームプログラマーを目指している人は、何かこういう「困った時の強力な道具」をひとつは覚えておくと良いです。

絶対に役に立つから。


当時は awk くらいしかなかったけど、いまなら perl や ruby でもいいと思います。

Excel が強力な武器となることもある。状況次第で使い分けられるように、いろいろ覚えておくといい。


企画を目指している人も、不毛な作業をしたくなければ覚えるといいよ。

プログラマーが「やりたくない」雑用仕事は、どんどん企画に回ってくるからね。


#最初のほうに書いた通り、プログラマーは貴重なので、無駄な時間を使わせたくないのです。


だから、企画であっても多少のプログラム能力は無いと、苦労をすることになります。



ところで、こういう道具を使う時は、8割の作業を目指すのがコツ。


データ整理は、目的ではなくて過程です。

過程部分で完璧を目指して苦労するのは無意味。8割できたら後は人がやる、くらいにしておいた方が苦労を最小に出来ます。





書きたいと思っていたことは、大体書き終わった。


また思い出したら急に書くかもしれませんが、次は7月上旬ごろにまとめて書く予定でいます。


業務用ゲームも、発売が多い時期があるのね。

夏休み前に発売したゲームに関わっていたので、そのゲームは7月上旬で20周年になります。



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スティーブ・ファーバー 誕生日(1953)  2015-03-21 11:00:58  コンピュータ 今日は何の日

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今日はスティーブ・ファーバー(Steve Furber)の誕生日(1953)。


最初に書いときます。僕、彼の業績ちゃんと認識していません (^^;

「今日は何の日」として調べてみたら出てきた、というのも紹介の理由ですが、彼が何をやったか知ったら、これは業績を理解していなくても紹介すべきだ、と思ったのです。


イギリスのコンピューター学者。BBC Micro と ARM CPU を設計しました。




まず「イギリスの」から解説。


コンピューターの歴史は、多くのマシンに彩られています。

世界初の電子計算機とされる ENIAC 、ノイマン型を最初に提唱したとされる EDVAC 、世界初の(成功した)商用コンピューター UNIVAC-I 、世界初の普及機種であった PDP シリーズ、世界でベストセラーとなった IBM 、世界初のスーパーコンピューター CRAY-I 、世界初の 1chipコンピューター Intel 4004、世界初のパソコン Altair 8800 、本格的な PC 時代をもたらした Apple II 、GUI の元となった Alto


などなど。

これらすべて、アメリカの機械。まるで、アメリカがコンピューターを作ってきたかのようです。



でも、イギリスもコンピューターの発展に大きく寄与しています。


最初に、「計算する機械」を夢想したチャールズ・バベジはイギリス人。

現代的コンピューターの基礎理論である「チューリング機械」を提唱したアラン・チューリングは、イギリス人。


チューリングの理論をもとに、ENIAC 以前にコロッサスと呼ばれる電子計算機が、イギリスで作成されています。


コロッサスは軍事機密であったため後まで存在が公表されず、ENIAC が世界初、とされました。

ちなみに、コロッサスも ENIAC も、現代的な定義ではコンピューターではありません。


現代的な定義での最初のコンピューター、とされる試作機 Baby Mark-1 は、イギリスのマンチェスター大学で作られ、これを元に「マンチェスターマーク1」が作成されます。

マンチェスターマーク1は、コンピューターのプログラム上非常に重要な機能である、「インデックスレジスタ」を導入した最初の機械です。


さらに、EDVAC の思想を元に、先に完成した「世界初のノイマン型マシン」である EDSAC はイギリスで作られています。



このように、コンピューター黎明期ではイギリスは非常に重要な役割を果たしているのですが、「実用」で出遅れてアメリカに押されてしまった感があります。今ではどうも影が薄い。


それでも、8bit PC の黎明期にはまだイギリス独自の機械を作っていたりします。


そんな会社の一つが、 Acorn 社でした。ちなみに、Acorn てドングリのことね。


IBM PC の開発名も Acorn でしたが、共に「corn」を com (コンピューター)の意味で、A を最初に来る・優れたものの意味で、さらに Apple よりも(アルファベット順で)前に出る、などの意味でつけているらしい。



2015.4.13 追記

Acron って、単に「ドングリ」というだけでなく、オークなど、勇気や威厳、知性の象徴とされる樹木の実を意味するものでもあるそうです。

ヨーロッパでは、特に北欧を中心として樹木信仰があり、その実は翻訳すれば「ドングリ」ではあるのですが、実際に感じるイメージは、日本人とはずいぶん違う、とのこと。


なるほど、この名前が人気がある理由がわかりました。




イギリスの 8bit マシンと言うと、シンクレア・リサーチ社の ZX スペクトラムとか有名です。

このシンクレア・リサーチ社の創業者(出資者ではない)が後に作った別の会社が、Acorn コンピューターです。


同じ創業者で、同じ分野の企業。ライバルで争っていました。

今日が誕生日の、スティーブ・ファーバーは、この Acorn に在籍する技術者でした。



ある時、イギリスの国営放送局 BBC が、小さなコンピューターが世界を変える、というドキュメンタリー番組を制作します。

これがイギリスで世論を動かし、政府議会でも話題となり、コンピューター教育に力を入れることになります。



国としての事業ですから、特定の団体に利益が誘導されるようなことがあってはいけません。

しかし、教育現場でコンピューターを扱うのですから、学校ごとに非互換も困ります。


シンクレアも Acorn も、このプロジェクト用のマシンとして自社の機械を売り込んだようです。

ここで、ファーバーが Acorn で開発中だった 6502 ベースの廉価機が選定され、BBC Micro という名称で発売されます(1981/12/1発売 £235~)。


BBC お墨付きのマシンですから、爆発的に売れました。

これを買わなくてはならない、という決まりはなかったのですが、ほとんどの学校が、コンピューター導入に際して BBC Micro を選んだそうです。


#BBC は国営放送ですから、これが「私企業の商売を国が妨害した」ことになり、後まで問題になったようです。




Acorn は、後に Acorn Electron という機種を発売します。

BBC Micro と互換で、さらに廉価にした機種でした、この機種も含め、イギリス国内では大きなシェアを持っていました。


Acorn では、設計時点ですでに 6502 は時代遅れで、速度が遅いことを認識していました。

しかし、廉価機種を作るには一番良い CPU でした。


そのため、BBC Micro には「CPU を追加してバージョンアップできる」設計を持たせていました。

後からデュアル CPU に出来るのです。その際には、6502 は入出力だけを担当し、追加したメイン CPU と協調して動く設計でした。


ところが、実際に強力な CPU を搭載しようとしたところ、想定していたような「都合のよい」CPU が見つかりません。

大きなシェアを持つ BBC Micro を、そのまま強力にすることはビジネス上必要な事でした。



無いなら作ってしまおう…ファーバーを中心として、新たな CPU の作成が始まります。

設計が簡単で速度の出る、RISC CPU となりました。


この設計が非常に面白い。




CPU が命令を実行するとき、いろいろな処理が行われています。


まず、メモリから命令を取得します。

次に、命令がデータを必要とするか調べます。

データが必要なら、そのデータをメモリから取ってきたりします。


必要なものが全部そろったら、命令を実行します。

実行結果は、またメモリに書き戻されます。


昔の CPU では、命令ごとにこれらの動作を全て行い、それから次の命令を実行していました。

そのため、1つの命令の実行に、複数の「クロック」が必要となります。


#クロックは、電子回路の動作を行うための時間単位。1クロックで1つの動作を行う。



1つの動作ごとに、別々の回路が動きます。

じゃぁ、命令の実行を待たないで、同時に複数の回路を動かせばいいじゃん。


この仕組みを「パイプライン」と呼びます。

1つの「命令」に注目すると、やっぱ複数クロックで実行されている。

でも、1つの「クロック」で何が出来るかを見ると、毎クロックごとに命令の実行が行われている。


現在の CPU では、この仕組みによって「1クロック1命令実行」を実現しています。

非常に高速に動ける。




でも、実はパイプラインには落とし穴があります。

パイプラインでは、「次のアドレス」の命令が順次実行されるはず、と考えて命令を取り込んでいきます。


ところが、プログラムの中には、非常に条件分岐が多いのです。


分岐すると、取り込んでいた命令は「無駄」となります。

せっかく読み込んだものは捨て、新たに読み込みから始めます。読み込んだ命令が「実行」に至るまでは数クロックかかります。


この間、1クロック1命令実行、ではなくなるのです。

普通のプログラムは非常に分岐が多いので、かなり処理速度が落ちます。



取り込んでしまった命令は、ジャンプしても実行する「遅延実行」という手法もあります。(SH など)


遅延実行の場合、分岐の後の数命令(すでにパイプラインに取り込まれた命令)は、分岐の有無にかかわらず実行されます。

ただ、実際には条件分岐の判断有無にかかわらず出来ること、ってあまりなくて「何もしない」命令が詰め込まれるのがオチ。


分岐が予測されるなら、過去の実績からどちらに進みやすいか、確率的に判断して「はずれ」を引くことを減らそう、という手法もあります。

これ、少しでも被害を減らすという考えであって、被害は必ず出る。

その上、予測精度を上げようとすればするほど、回路は複雑になる。


当時の Acorn は、CPU 設計の専門家集団ではありません。

そんな複雑な回路を作ることはできない。



そこでファーバーが考えたのが、「全命令に条件判断を付ける」でした。


どんな命令であっても、フラグの状態によって「実行」するかどうかを変えられます。

条件によって「分岐しない」だけでなく、「足し算しない」「メモリに書き込まない」などなど。なんでも条件を付けられる。


プログラム中、条件分岐は非常に多いのですが、それは「変数の値が限界を超えたらリセット」とか、「キーが押されたら1足す」とか、非常に小さなものです。

じゃぁ、分岐させるまでもなく、命令をスキップさせてしまえばよい。これで、条件分岐の大半を無くすことができます。


これで、パイプラインが無駄になる、という被害を無くすことができます。


非常にユニークな問題回避方法でした。


6502 は、非常にシンプルな命令でありながら、組み合わせ次第で強力なプログラムが組めるようになっていました。

Acorn が作った CPU も、同じように「シンプルな命令を組み合わせる」仕組みになっていました。


Acorn RISC Machine…この CPU は、 ARM と名付けられます。




Acorn はこの後業績が悪化し、オリベッティ(これもユニークなコンピューターを作っていたイタリア企業)に買収されます。


この後、CPU 作成部門だけを別会社化し、ARM CPU として発売されます。

Apple の Newton メッセージパッドで採用され、3DO の CPU にも使用されます。


でも、この頃はまだ「廉価な割に性能がいい」程度の位置づけだったと思います。

廉価の割に、というのがミソで、実際にはそれほど性能は良くありません。



ARM は、CPU 設計専業の会社となりました。

設計だけを行い、製造は別の会社に任せます。場合によっては更なる改良を許可します。


これにより、DEC や Intel の改良が入り、性能が上がりました。


SH-2 の台頭の際には、それまでの「32bit アーキテクチャ」に加え、16bit 命令を拡充しました。

これにより、プログラムが小さくないと使えない組込み分野にも強くなります。


16bit 命令は、Thumb と名付けられています。ARM(腕)に対して Thumb (親指)。

イギリス童話の「親指トム」など、Thumb には「小さい」という意味があります。名付け方が非常にうまい。


その後、さらにパワフルな 64bit 命令などの拡張もあります。



ARM は、現在では、数多くのスマートフォン、タブレット端末、その他の機器で利用されています。


iOS と Android の戦い、が注目されがちですが、CPU はどちらも ARM です。

スマホ対任天堂 3DS 、みたいな構図も言われますが、CPU はどちらも ARM です。


サーバー分野でも、クラウドコンピューティングなど「性能が低めでも多くのCPUを用意する」ことが重要な分野で、ARM が積極的に使われています。


Intel は、もはや「PC だけ」に押し込められた状況。

Windows も RT で ARM に対応しましたが、どうも人気が出ずに ARM に移行しきれない様子。


#と言いつつ、マイクロソフトは最近は常に ARM 向け Windows を意識した行動に出ています。

 昔は PowerPC 向けで頑張ってたよねー。




さて、話が長くなりました。


イギリスで教育用に普及したコンピューター BBC Micro と、現在世界中で数多く使われる ARM 。

この両方の設計の中心だったのが、今日誕生日のスティーブ・ファーバーです。


他にも業績多数、なのですが、最初に書いた通りちゃんと認識していません (^^;

それでも、上に書いた2点だけで紹介するには十分すぎる、と思っています。



先日、BBC が新たな機械 BBC Micro Bit を 100万台、イギリス国内の子供に無償配布することを決定しました。


名前からわかるように、BBC Micro を意識したもの。

以前の失敗(私企業の妨害と言われた件)を繰り返さないように、配布は一度きり、と決めているのだそうです。


もちろん、CPU は ARM です。

BBC Micro は、CPU はアメリカ製でしたが、今度は CPU までイギリス由来。



最初に書いた通り、コンピューターの歴史の中で、イギリスは重要な役割を担って来ました。

しかし、今は影が薄い。


イギリスは復権できるでしょうか?


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山猫料理店  2015-03-24 16:53:20  料理

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大船近郊に住んでいると、当然ながら大船のレストランにはそれほど入らない。

遠出した時なら何も考えずにレストランに入るのだけど、大船だったら「家帰って食べるか」となってしまうから。


でも、時々来客があった時に、おいしいお店には案内したい。


こういう時に使うお店は、大体二つある。


食事しながら話をしましょう、という時には、バロッコ

おいしくて落ち着いたイタリアレストラン。


店内にはアンティークのおもちゃなどが置かれていて楽しい。

誕生日の人は、誕生日だと告げるとオルガニートでお祝いしてくれる。


ちょっとコーヒーでも飲みながら、という時は、バナナフィッシュカフェ

地下にあるお店で、大きな水槽でアロワナが飼われているのが目を引く。


店内は広くないが、ゆったりとした雰囲気になれる空間。

もちろんコーヒーもおいしい。




お昼時にちょっとした来客があり、バロッコに案内しようと思った。

そしたら、今日火曜日は定休日だった。


ありゃー、他に昼ご飯食べられるいい店あったかな。

昔ならバレンシアに案内したのだけど、あの店は数年前にビルの建て替えに伴って、惜しまれつつ閉店してしまった。(本店が鎌倉にある美味しいお店)


むむむ、他にいい店は無いか…


ネットで探したら、「山猫料理店」を見つけた。

あぁ、そうだ。あの店、気になっていて行ってみたかったんだ。


ネット上での評判はいいらしい。よし、良い機会だから新規開拓だ。行ってみよう。




山猫料理店は、別に山猫を食べさせる店ではない。

…って冗談(?)は、ネット上では半ば常套句になっているようだ。


動物病院のすぐ隣にあって「山猫料理店」という名前だから、怪しさ倍増ですね。



「山猫」で「料理店」と言っているのだから、宮沢賢治ですよ。

「注文の多い料理店」という有名な童話の舞台は「山猫軒」と名乗る料理店だ。


山猫料理店は、小さいけどアットホームな雰囲気の定食屋さんで、メニューはわずかしかない。

「山猫御膳」1000円がお勧めらしいので、それを食べる。



お客様があった都合上、写真なんかは取っていない。

天ぷらとローストビーフ、お味噌汁に煮物、ひじき、そしてごはん。

微妙に和洋折衷なのだけど、非常においしい。



お客さんと話をするので長居すると申し訳ないかな、とも思っていたのだけど、来ているお客さんの多くが、ゆったりとおしゃべりの時間を楽しんでいたみたい。

小さな店だけど、席数はそれなりにありました。


店内の稠度もかわいらしい。ちょっと古風で、ちょっとおしゃれで、童話の世界に浸っている感じ。


うん、なかなかいいお店。

バロッコも好きなのだけど、こちらのお店もこれから時々こよう。


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ぎーちさんにお会いした【日記 15/03/24】

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02年 3/24

14年 アン・ワング 命日(1990)


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ぎーちさんにお会いした  2015-03-24 16:54:29  コンピュータ 業界記

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そんなわけで、はじめて入る山猫料理店で、ぎーちさんとお会いしてきました。


僕の意識としては「MSXマガジンのぎーちさん」です。

高校生の時に読んでいたら、ぎーちさんの4コマ漫画がよく載っていました。


だから年上の方だと思っていたら同じ歳でした。

当時のあれは、投稿だったのですね。


現在はテレビゲーム関連のフリーライターをしておられる。



何でそんな人と会って話をすることになったのだろう…





まずは、ぎーちさんのこちらのツイート。

話の流れを説明しないと、いきなりわからないかもね。


マイコンBASICマガジン、というのは、その昔存在した伝説の雑誌。

…いや、伝説とかいうと持ち上げすぎだし、全然説明になっていない。


パソコン黎明期は、パソコンと言う機械を買ってきて(もしくは部品のセットを組み立てて)、自分でプログラムして使うのが当たり前だった。

「ラジオの製作」という、名前の通り電子部品の組み立て趣味の人向けの雑誌でも、パソコンの記事がたびたび載っていた。


でも、電子回路がわかる、というのと、プログラムがわかる、というのは別問題だ。

コンピューターを手に入れたはいいが、どう使っていいかわからない、という人々が多数いた。


そこで、ラジオの製作では、プログラムの投稿を受け付けた。

パソコンを役立てられるプログラムを掲載すれば、「どうしていいか分からない」人たちに道を示せる。


これが大人気で、本誌には乗せられないほどのプログラムが来て、別冊として「マイコンBASICマガジン」が発売され、やがて独立した雑誌となっていく。



これ、アメリカのパソコン黎明期の、「PCC」「DDJ」と全く同じ構図だ。

ピープルズ・コンピューター・カンパニー(PCC)は、パソコンを自作する人たち向けの会報だった。

やがてプログラムが投稿され、1度だけ別冊で「ドクター・ドブズ・ジャーナル」(DDJ)が発行され、定期刊行化されていく…




マイコンBASICマガジン(以下ベーマガ)以外にも、プログラムを掲載する雑誌はあった。

それらの雑誌では、レベルの高いプログラム…時には市販ゲームのプログラムを掲載した。


ベーマガはそれらとは一線を画した編集方針を取った。

ベーマガのプログラムは、すべて素人が作ったもので、レベルも低く、非常に短かった。


荒削りで短い、というのは「改良の余地がいくらでもある」ということだ。

改良版、移植版、元ネタからインスピレーションを受けた別のゲーム、など次々投稿された。


当時のパソコンは、とにかくいろんな会社から出ていて、互換性がなかった。

ベーマガではありとあらゆる機種のプログラムを載せていて、50機種以上あったのではないだろうか。


とはいえ、基本的にどの機種も「BASIC」言語を搭載している。

文法やハードウェア性能などに違いはあるけど、根本的には似ている。

移植のテクニックなどを教える記事もあり、他にも機械語入門、ゲームを作るうえでのアルゴリズムの考え方など、様々な解説記事もあった。


「すごいプログラムに触れ、真似てみる」ことも奨励されている節があった。

そのため、普段見る機会の少ない海外のゲームの紹介記事や、業務用ゲームの紹介・攻略などの記事もあった。


ある時、「ゲームスタジオ」を解答陣に迎えた、ゲームプログラミング講座のページができた。


ゲームスタジオって、ゼビウス作った遠藤雅伸さんを中心として独立したゲーム作成会社ね。

素人が「こういう処理どうやんの?」とか、「ドット絵を動かすコツ教えて」とか質問したことに、プロが丁重に答えてくれる。


同じころ、誌上公開質問状、というページも出来た。

パソコンメーカーの営業や開発者に、疑問や質問を直接ぶつけられる。



プログラムの初歩から、プロが教えるコツまで。とにかく幅の広い雑誌だった。

もちろん、読者投稿コーナーもある。プログラムも投稿で成り立っているけど、漫画、イラスト、ネタ、なんでもこいだった。


充実したベーマガはもちろん大人気で、1980年代中盤から後半にかけ、黄金期を迎えたように思う。




さて、そんなベーマガも、今は休刊した。

休刊、というのは雑誌業界の方便で、「休んでいる」わけではない。休刊と言った場合、事実上は廃刊だ。


#廃刊にすると、雑誌発行に必要な ISBN コードというものを返却しなくてはならない。

 いろんな都合でこのコードを取得するのは大変なので、「休んでいるだけ」ということにして保持し、別の雑誌に使ったりする。


ところが、休刊したベーマガが復活するという。

いきなり雑誌になるのではなく、別の雑誌の1コーナーとして、だけど。



最近、電子工作がまた復権している。

ハードよりソフトの時代になり、電子工作を行う人は一旦減った。


しかし、現在では昔より高性能の部品が増え、簡単な工作で新しいものを作り出せる。

ハードとソフトは別の物ではなくなり、電子工作の一部としてのプログラム、もあり得るし、プログラムの一部としての電子工作もあり得る。


その昔、「ラジオの製作」で、自作したパソコンのプログラムを掲載し始めた時と状況は似ている。


海外に Raspberry Pi という電子工作キットがある。

非常に小さな基板だが、Linux を動作させられる。I/O ポートなどむき出しなので、LED やセンサーを繋いで、プログラムして遊べる。


同じような環境を、日本人が作りだした。 IchigoJam という。

Linux は実のところ初心者向けではない、という思想で、BASIC を搭載している。


同様に、Nintendo 3DS に「プチコン」というアプリケーションがある。


「初心者でも扱える言語」として BASIC を扱える。

こちらの BASIC は非常に強力で、3DS の機能をガシガシ扱えるし、即時コンパイル実行なので非常に高速に動く。


そして、先に書いたように、「電子工作マガジン」のコーナーとして、ベーマガが復活した。

まずは IchigoJam から、となっているが、プログラムの投稿を受け付けている。



さて、もう一度先ほどの、ぎーちさんのツイートを振り返ろう。



上に書いたように、ベーマガも復活し、「プログラムを作る」ことが再びブームの兆しを見せる中、ベーマガの投稿者の話を聞いてみたい、とのことだった。


僕はこのツイートに返信…はせずに、リツイートして自分のつぶやきとしてこう書いた。



ツイートに「お呼びでない」と書いた通り、冗談だったつもり。僕は常連ではなかったからね。


ベーマガ常連だった「Bug太郎」さんとか、アスキーから2005年に発行された PC-8001・6001 の懐古本にインタビュー載ってたね。

そういう記事を書きたいのだと思っていた。



…で、なぜか常連でもない僕が、今日ぎーちさんと会ってお話してきたわけです (^^;;




ぎーちさんは本当に「投稿者の話を聞きたかった」だけだそうです。


ぎーちさん自身、何度か載った投稿者で、他の人が自分と同じ気持ちで投稿をしていたのか、それとも違ったのか…などを確かめたかっただけだそうで。


僕もゲームプログラマーだった人間で、ぎーちさんもゲーム関連のフリーライターしている。

だから、サンプルとしては偏っているかもしれない。


それに、ベーマガの話とはどんどん脱線しつつ、いろいろと楽しい話をしてきました。


話が楽しかったので、サイン貰おうとぎーちさんの漫画が載っているMSXマガジン永久保存版3を持っていったのに、サイン貰い忘れました (^^;




自分でも半ば忘れていたような話も、人に話していると思い出したりするもんです。


ベーマガ投稿などの話は、いわゆる「ゲーム業界記」ではないのだけど、すでにゲーム業界記と言いつつ自分の昔話になっているので、今後少しづつ書き留めていこうかと思います。



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ぎーちさんにお会いした【日記 15/03/24】

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14年 アン・ワング 命日(1990)


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ベーマガに出会うまで  2015-03-25 18:01:29  コンピュータ 業界記

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ぎーちさんとの対談(?)の最初のテーマは「ゲームを作り始めたきっかけ」だったのだと思います。多分。


なんとなく話ししながら、自然な流れでそうなっていったので、特に質問があったわけでもないのね。

だから脱線しまくり。その後の質問でも、脱線したまま質問に答えてなかったりすることも多く、改めてぎーちさん宛ての返答も兼ねて、ここに書き留めます。




冒頭の質問。ゲームを作り始めたきっかけ。

これは、「ゲーム作り」と「プログラム」の両方の意味があるのと思いますが、分離できないのでごっちゃに。



覚えている最初は、小学校2年の時に東京タワーに連れて行ってもらったことです。

ここで、「コンピューター展」みたいなイベントをやっていた


発売直後の PC-8001 で動くゲームを見て、強い興味を持っています。

これが初めてパソコンを見た記憶。




小学校3年の時、友達の家に積んであった古本の中に、「初歩のラジオ」を発見します。

その頃、電気回路にも興味があった。


丁度発見した号は、小学生でもわかるくらい簡単な「電気工作」を楽しむ趣旨の特集が載っていて、古本で捨てるものだから、と譲り受けました。


この本を隅々まで読みました。その中に、丁度連載第1回の「BASIC 講座」がありました。

簡単な内容を何度も読み返し、興味を持ちます。




この頃、年の離れた兄と一緒に、はじめて「ゲームセンター」に行ったのではないかな。

テレビゲームってスペースインベーダーのこと、と思っていたのですが、もっとゲームの世界は広いと知ります。


ドンキーコングが最新ゲームだったはず。

兄が1度だけ遊ばせてくれたけど、面白いと思う前に終わったのじゃないかな。


その後、ゲームセンターに行かないでも駄菓子屋などにゲームが置いてある、と知ります。




小学校4年の時、貯金を使って学研の電子ブロック「FXマイコン」を購入。


上に書いたように電子回路にも興味がありましたし、パソコンにも興味があった。

それなりに遊んだのだけど、機械語だったので自分でプログラムなんて組めない。




確か同じころ、友達の家にゲームのテーブル筐体が持ち込まれました。

親戚の家が喫茶店やっていて、1台余ったから「しばらく置かせてくれ」と持ってきたのだとか。


日本物産のローリングクラッシュでした。


遊んだのは3度ほどだと思いますが、フリープレイだったので攻略して、ノートに「面クリアパターン」まとめました。

初めての「やり込んだゲーム」。




小学校5年の時、ファミコン発売。

これも自分の貯めていたお年玉貯金で購入。


すごく面白かったのだけど、ふと「あれ、コンピューターって、自分でプログラムできるじゃなかったっけ?」と気づきます。

ファミリー「コンピューター」のはずだけど、これはコンピューターじゃない。ただのゲーム機だ。




小学校6年の時、ファミコンは大ブームになっています。

欲しくても買えなかった友達が、親が代わりに MSX を買ってきました。


その友達は、本当はファミコンがやりたい。僕は、プログラムがやりたい。

利害が一致して、1か月くらいの間交換します。


これが、はじめての BASIC 。

それまで、憧れて書籍などを読んで勉強はしていましたが、急に使えるはずもない。


MSX-BASIC って、実行を途中で一時停止する機能あるんだよね。


3つの数字が適当に表示が変わるのを「一時停止」して、揃ったら成功、というスロットマシン作った覚えがあります。

一時停止するって、ゲームでもなんでもない。でも、自分としてはゲームを作ったつもり。


セーブする方法がなかったので、電源を切ったらプログラムが消えます。

翌日、改良案を思いついたら昨日と同じものを作ったうえで、改良する。


毎日毎日、同じようなプログラムを作りつづけました。

同じのつもりでも、「同じことを実現する、もっとスマートなやり方」とかを思いついて、改良されていく。


同じものを作るしかなかったから、自然に改良が進みました。

この時は「面倒くさい」って思ってたけど、今考えると非常にいいトレーニング方法。




中学1年で、ファミリーベーシックが発売されます。

誕生日の直前だった。お年玉貯金で…買うにはお金が足りなかった。

ファミコン発売以前は、お金って特に使わず貯金してたけど、ファミコン以降はゲーム買ってたから。


誕生日に、親が半分くらい援助してくれて、ファミリーベーシックを手に入れます。




BASIC の勉強になる本は無いか…探しに行った本屋でベーマガと出合います。

丁度「ファミリーベーシック発売」という速報が掲載されていて、サンプルプログラムがあった。(1984年8月号)


この号から購入を開始。

翌号からは投稿プログラムが掲載されていました。


ベーマガでは、ファミベ用はもちろん、他の機種用のプログラムも結構目を通していました。

面白そうなゲームは移植を試みたりね。




というわけで、冒頭の質問の答え。


僕の場合、ゲームとパソコン・プログラムは同時進行で好きになり、どれも十分に手を出せないまま、憧れている期間が長く続きました。

機械持ってないのに、BASIC の本だけ何度も読み返したりね。


中学1年でファミベを入手して、それを期にゲームのプログラムに一気にのめり込みます。

すでに知識はあるので、難しそうという意識はなかった。


ただ、それなりにまともなゲームが作れるようになるのは、もう少し後の話になります。



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ゲームの条件  2015-03-25 18:20:46  業界記

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ぎーちさんとの対談は、話があちこちに脱線しまくっていたので、答えられていない質問もいっぱいあります。

僕の現在の考えを記録する良い機会なので、昔話と並行して書いていきます。


個人の意見だから、読んでも何も役立たないよ、ということは先に断わっておきます。




質問の一つに「ゲームが成立する条件として、お金を払うことは必要と思うか」というものがありました。


質問意図としては、業務用にしろ家庭用にしろ、お金を払って遊ばないとゲームがつまらなく感じられる、ということかと思います。


スマホ時代になって、無料ゲームがよく配布されていますが、これがつまらないと言われることが多いです。

また、業務用のゲームなどで、イベントで「フリープレイ」(無料で何度でも遊べること)になった途端に面白く感じなくなる、という現象も、実際に存在します。




僕としては、ゲームに必要なものは2つだけだと思います。


1) 目的

2) 障害(目的を阻害するもの)


これが揃っていればゲームとなる可能性があります。

可能性だけね。揃っていても、バランスが悪いとゲームとして成立しない。


障害が適切でないと、ゲームがつまらなくなります。

敵が強すぎてクリアできる気がしない、敵が弱すぎてすぐクリアできてしまう、などね。




ところで、もっと根源的な問いを出します。

ゲームって何のために存在するのでしょう?


娯楽のため? 現代的にはそうでしょう。

でも、娯楽なんて行う余裕がない時代から、ゲーム自体は存在しています。


ゲームは、殺し合いを避けるために存在したのだという説があります。

僕はその説を支持しています。



腹を空かした原始人が5人いたとします。

協力して狩りをして獲物を得たのですが、2人分しかありません。


どうしましょう。協力したのだから、少しづつ分ける、というのも方法です。

でも、それだと分け前は少しで、空腹が収まりません。


殺し合いを初めて、3人減れば2人は満腹になります。

でも、自分が殺されるかもしれないリスクは避けたい。ここは穏便に行きたいところです。



そこで、平べったい石を見つけてきて、片側に動物の血で印を付けます。

一人づつ空中に投げ、落ちた時に血が付いた側が見えたら、獲物を貰う権利があります。

逆側が上になったら権利放棄。


権利者多数ならその中でやり直し。権利者が少ないなら敗者復活。

これで2人が獲物にありつき、残りの3人は別の獲物を探しに行きます。



上に書いたのは全くの想像だけど、おそらく初期の「ゲーム」とはこうしたものであったはずです。




外国のゲームセンターでは、一定の基準をクリアすれば景品を出す、というのが普通に行われています。

今でも、ゲームをやる動機として「成功報酬を得る」というのは、大切なのです。


日本でも、パチンコとか、競馬とか、成功報酬が得られるゲームはあります。


…が、なぜか風俗営業法で、テレビゲームは景品を提供してはならないことになりました。

ここで、日本のゲームは独自の進化を遂げます。


報酬を、物から情報に変化させたのです。


いわゆる「先の面が見たい」からゲームをする状態。

「ハイスコアを取りたい」「カンストしたい」でも、なんでもいいです。

景品もないのにゲームを遊びたくなる仕掛けを用意した。



大切なことは、報酬が情報に変わっても、これが「成功者に」与えられるものだったことです。




ところで、ある時テレビゲームに革命が起きました。


「コンティニュー」の登場です。ドルアーガの塔が最初だったんじゃないかな。


ゲームセンターにとって、ゲームは「商売」です。ゲームが面白いかどうかより、お金が入ることの方が大切。

本来、成功者への報酬だったはずの「先の面が見たい」は、お金で解決できる問題となりました。


これ、最初に書いたゲームの条件の一つとしては「障害」が軽くなった、ということですね。


でも、コンティニューにはお金が必要です。無限に続けることはできません。


しかも、途中から始めるということは、いきなり難しいところから続けるのです。

続けても続けても、遊べる時間はどんどん少なくなっていく…


「障害」の一つとして「有限のお金」がゲームのルールに組み込まれたのです。




さて、ここで最初の「お金を払うことは必要か」という質問に戻ります。


今、有限のお金がゲームのルールに組み込まれた、と書きました。

これが「お金を払わないでよい」となったらどうなるでしょう?


もはや、ゲームに障害は存在しなくなります。

誰でも目的に到達できるようになります。


これは、最初に書いた「目的と障害のバランスが悪い」状態で、つまらないゲームです。



でも、注意してください。

「無料になったからつまらなくなった」のではありません。


ゲームの大切なルールとして組み込まれていた「お金は有限」という部分を変更してしまったのがつまらなくなった原因です。


もっと端的に言えば、ゲームのルールに手を加えたらつまらなくなった、というだけ。

改造して無敵にしたらつまらなくなった、というのと同じで、当たり前です。




無料でも面白いゲーム、というのは存在し得ます。


情報としての報酬は、無料でも出すことができます。

ただし、「先の面が見たくなる」ような構成を行うには、それなりの開発資金が必要です。


どういう方法で資金回収するかは、開発側の問題。

ともかく、プレイヤーにとって面白いのに無料、は実現できるし、すでに多数存在しています。



ただ、これで面白いゲームは、おそらく遊ぶ人を選びます。万人受けするゲームではない。

コンティニュー不可、何度でも遊んでいいけど、腕が無いと先に進めない、というゲームになるから。


難易度は多少低めに設定して、練習すれば誰でも最後に到達できる、くらいにすれば万人受けするかな。

この場合、上級者でも楽しめる仕掛けを入れておくのを忘れずに。



誰でも最後まで行けるゲームは、ゲーム好きにとって簡単すぎてつまらない。

それでは「無料ゲームはやっぱつまらない」になってしまう。


でも、一見難易度が低くても、隠された「上級者向けの目的」に気付いたとたんに難易度が跳ね上がる、というゲームの作り方もできる。




初代ピクミンがそうだった。

気付かないプレイヤーには「簡単すぎる」「つまらない」と言われていたのだけど、一部の「気づいた」人は、非常に難易度の高い、攻略しがいのあるゲームとして遊んでいた。



ただ、ピクミンほど作り込んだゲームは、プロでないと作れないと思います。

そして、プロが作ったゲームを無料で遊ばせたら割に合わない。



お金を払わないゲームがつまらない、ということは無いと思っていますが、無料で遊ばせてくれる程度のゲームはつまらない、ということはあるかもしれません。



ところで、以下は完全に余談。


昨年末に、Amazon が Android 用の「チューチューロケット」を無料で配布していました。

Amazon アプリの広告の一環として、広告費でセガのゲームを無料配布したのね。


これは、「開発がどうにか資金回収し、ユーザーには無料提供」というモデルケース。

実はこのゲーム、昔遊びたかったけど、遊んでなかったんだよねー。


「すでに存在する」と書いた無料で面白いゲームの一つとして、これを想定していました。



昔は市販したクオリティのゲームの移植ですが、操作はスマホでやりやすいように改めています。

でも、ゲーム内容はまったくそのまま。良移植。


パズルゲームなので、じっくり考えられれば誰でも解ける。

考えて判らないなら、試行錯誤で何とかなる。


逆に言うと、解けない面があっても、お金払ってヒント貰ったりはできない。

その点ではやはり、昔風のゲーム。遊ぶ人を選びます。


#昔のゲームのそのままなので、すでに解答を書いたページも多数あります。

 でも、パズルなので「解答を見る」のはゲームをつまらなくするだけ。


 ゲームの外側にある「ゲームのルール」をどうするか、プレイヤーの心構えが問われます。

 そんな部分も、やっぱり遊ぶ人を選ぶ昔風のゲーム。



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作り棄てる日々  2015-03-26 20:00:14  コンピュータ 業界記

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昨日の続き。


ファミベ入手してからは、ひたすらプログラムを作り棄てていました。


作り棄てる、って変な言い方だし、当時は作り溜めていたつもりなのだけど、一度作ったゲームはセーブされ、2度とロードされない感じ。


ファミリーベーシックは、2Kbyte しかメモリがありませんでした。

この中で、作りたい内容を詰め込むと、1日でだいたいメモリいっぱいまで使ってしまう。


中学では部活はやらず、パソコン仲間とゲームを見せ合ったりしていました。

誰とも遊ばない日はゲーム作成。


だから、大体プログラム時間は3~4時間くらい。これでメモリ限界に達するほどメモリが小さい。



あのゲームみたいなの作りたいな、って思ったら、そのゲームの何が面白いのか、自分なりに考えてみる。


大きなプログラムは作れないから、作りたいゲームの中でも特定箇所に絞って真似してみる。

ファミベーはキャラクタは ROM で書き変えられないから、見た目は真似できない。動きをどう似せるか考える。

動きも BASIC で遅いから真似できないなら、遅くても実現できる方法を考える。


「考える」のはいつでもできるので、それこそ1日中。プログラム作業は上に書いたように3~4時間。

これで、ゲーム1本出来上がり。

出来が悪くても良くても、メモリ限界でそれ以上の改良はできません。



もう、毎日すごく小さな目標を立てて、それを実現してみる、というそれだけです。

作ったものは、ゲームのつもりだけどゲームになっていなかったりする。


毎日毎日作っているから、同じような処理もひたすら書き続けます。

写経みたいなもので、毎日書いているとより良い処理方法がわかってくる。


以前作ったゲームは大切に置いてあるのだけど、今日のプログラムより出来が悪いとわかっている。

だからロードして遊ぶことは無い。メモリ限界なので改良だってできないし。




自分でも覚えている、できの悪いゲームを書いておきます。


夢幻の心臓」をみて、へー、こういうの RPG っていうのか、と作ってみた。

内部的には大きなマップがあって、一部を表示してスクロールする…まぁ、後のドラクエと同じです。

(この時点ではドラクエ発売前)


時々敵が出てきて、戦ったり戦わなかったりする。

でも、この部分の処理がよくわからない。


なんか、敵と戦って自分が強くなったりするんだけど、適当にパラメータ決める。

敵も適当。戦いも、パラメータを元に乱数で「勝った」「負けた」って決める。


友達に遊ばしたら「おめー、RPG ってのはそうじゃねーよ」と。

マップの表示の仕方とか、見た目は真似しているのだけど、重要な部分が全然判って無い。



また別の物。

ロードランナーみたいな「アクションパズル」を作りたい。

でも、パズルって作るの難しい。じゃぁ、良く知られている名作パズルをアクションにしてみよう。


ペグソリティアをアクションゲームにしました。


ペグソリティアって、単純なルールなのだけどパズルとして非常に難しい「名作」ね。

そんな難しいものを、敵から逃げ回ったりしながら解かなくちゃならない。


自分は解き方をわかっていて遊ぶから面クリアできるけど、他の人は誰もクリアできない。

パズルをアクションゲームにすればアクションパズルなのではない、と知りました。



ゼビウスもどきの流行していた時期。自分も似たの作りたいと思いました。

でも、あんなスクロール BASIC じゃできない。


サイオン」というゲームがありました。

このゲーム、スクロールするのだけど、1画面しかないのね。画面下に消えたものが、すぐ上から出てくる。


これなら作れるんじゃないか。真似します。


BASIC でスクロールはできないけど、一番下の行に何か書けば、1行上にスクロールする。

一番上の行を一番下にコピーすれば、1画面がループスクロールする…


進行方向は本物の逆なのだけど、そんなことは些細な問題だ!


「サイオン」は、画面内の地上物(攻撃してこない)を全部撃つと面クリア。

この部分まで作りましたが、空中物を出す余裕がなくなった。


シューティングゲームなのだけど、地上物しかいません。敵の攻撃もない。



…ロクでもないゲームばっかだな。

それでも、ここら辺のゲームは1日ではできず、2~3日かかった「出来の良いゲーム」のはず。

じゃなきゃ、覚えているわけがない。


とにかく、作ることが楽しかった。出来上がったゲームの質なんて、どうでもよかった。




ベーマガは毎月買って、熟読していたように思います。

欄外の読者投稿欄、OFコーナーも読んでましたし、スーパーソフトマガジン(後にコーナーになる)も読んでた。


他機種のプログラムでも良く読んで、どうすればどんなことができるのか、研究していました。


ある日、FM-7 を持っている友人の家に行ったら、友達がベーマガのゲームを打ち込んでいたんです。

でも、動きがおかしい。エラーが出て止まるならその行に誤りがあるのだろうけど、何が悪いのかわからない。


僕は FM-7 は持ってなかったのですが、リストは読めました。

「おかしな動作」からどこら辺のプログラムが関連していそうかアタリを付け、その付近のリストをよく読みます。


それで、このあたりの変数が間違ってんじゃないかな…と、FM-7 に入っているプログラムと見比べます。


たしか、変数名の 1 と I が間違ってる、とか、すごくわかりにくい間違いだったともう。

持ってもいない機種のプログラムを読んで、バグ修正したので友達に驚かれた覚えがあります。




他に、Beep! も読んでいましたが、お小遣いの都合でこちらは「面白そうな号」のみを購入。後は好きなコーナーだけ立ち読み。

プログラムポシェットも注目していましたが、こちらはほぼ立ち読みのみ。


バックアップ活用テクニックも、ファミコン解析特集の号とかは買いました。今でも置いてあります。


いろんなプログラムを読んで、些細なテクニックに感心する。

それを繰り返して、技術を覚えていきました。



ある時、ファミリーベーシックに「V3」カートリッジが発売されます。

ベーシックは初期型の V1、いつの間にか更新された V2 があって、V3 は別売りだった。


テレビCMでは、V3 でマイク入力を使ったゲームをやっているのね。

すげー、そんなことできるんだ。お店でチラシを貰います。


ところが、チラシにあった命令一覧を見ても「マイク入力」を検知する命令は載っていない。

その、マイク入力プログラムの画面写真が載っていて、ちらっとプログラムも出ていました。


その中に、PEEK(&H4016) という一文があった。これなんだ?

PEEK は、メモリの内容を読み出す命令です。怪しすぎる。もしかしたら…


プログラムを作って実験したら、V2 でもマイク入力が読み取れることがわかりました。

CMを真似たゲームを作って、友達に見せて驚かせます。



プログラムポシェットのある号に、「マシンごっこ」というプログラムが載っていました。

BASIC からメモリに特定の値を書き込み、そこを実行している。名前の通りマシン語プログラムです。


このプログラム、なんと画面が滑らかにスクロールする、というもの。

「マシン語だからこんなことができる」と書かれていたように思います。


すごく気になった。この号に他に欲しい情報はなく、欲しいのは10byte 程度のマシン語の内容のみ。

メモ用紙に鉛筆で書き留めて、家に帰って解析しました。


#今考えると情報万引きです (^^; 当時その意識はなかったのだけど、真似してはなりませぬ。


当時はまだ、マシン語がわかったわけではありません。

でも、ベーマガの Dr.D のマシン語寺子屋に、6502 の主要命令など出ていたと思う。

バッ活の解析記事も参考にしたかもしれない。


結局このプログラム、単に POKE 命令(PEEK の逆)をやっているだけだと判明します。

BASIC で書けるのだけど、この機能の投稿者が、詳細不明のまま人を驚かせようとしてわかりにくい表現をしただけ。


こちらも、「マシン語だから出来る」に対し、BASIC で同じことをやってみせて友達を驚かせます。



とにかく、ファミベーでもそうでなくても、人のプログラムをよく読んだ。

そして、面白くもなんともないプログラムを良く書き散らかした。




プログラム上達のコツは、とにかくたくさんのプログラムを書くことだと思います。

大抵のプログラマーが、上達のコツを聞かれて同じように答えますけどね。


綺麗に書こうと悩むより、汚くても書いて動かしてしまう。

動いたら、もうそれは終わり。綺麗に書きなおそうとかし始めると、疲れるだけだからやらない。


より良い機能を作るより、新しい機能を作る。

1からくみ上げるのは楽しいのだけど、最後の仕上げをするのって疲れるから、楽しいところだけどんどんやっていく。


プログラムって、8割完成で止めておくのがいいです。

仕事だとそうも言ってられないのだけどね。


ファミリーベーシックはメモリが少なかったため、望まずにこれが実現できていたことになります。

当時はもっとメモリが欲しい、と思っていたのだけど、メモリが多かったら同じプログラムばかりいじり続けていて、プログラム上達しなかったかもしれません。



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ゲームのルール  2015-03-26 20:59:41  業界記

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昨日書いた「目的と障害があればゲーム」という話、ぎーちさんとの会談の際には、全く言ってないのね。


「課金しないゲームは成立するか」という質問に対して、昨日書いた話をおぼろげに思いつつ、先に例をあげた。

そしたら、その例の話から違う方に話が進んでしまった。


今日は、そちらの「例」の話を書いてみます。




その昔、「クイズ100人に聞きました」というクイズ番組がありました。

僕は、これをよく出来たゲームの例として真っ先に挙げたのです。


昔は、このクイズ番組を日本中の人が理解して、楽しんでいました。

もちろん全員が見ていたわけではないけど、知らない人はいないくらいに人気番組でした。


この番組、おそらく今放映したら「意味不明」と言われてしまうでしょう。

クイズなのだけど、すごく変わった番組構成だった。



番組は、視聴者応募の2チーム対抗によるクイズ戦です。

でも、早押しとかではない。2チームが非対称な立場になります。片方のチームは圧倒的不利、というのが普通。


まず、最初は早押しで先攻後攻を決めます。

ただ、早く答えればいいのではない。「より得点の高い答え」を出したほうが先攻権を取ります。


問題は全て、タイトル通り「100人に聞いた」アンケート結果です。

このアンケートで、多く出た答えを当てる。回答人数がそのまま得点となります。


先攻チームは、3回まで間違えてよく、全部で5~7個程度の正解を、どんどん当てていきます。

でも、重要なのは、当てた得点はまだ先攻チームの物ではない、ということ。



先攻チームの回答が終わった時点で、後攻の番です。

後攻チームが答える権利は、たった1回のみ。しかも、分かりやすい回答は先攻チームにあらかた答えられており、回答人数の少ない答えを当てなくてはなりません。


でも、これに成功すると、先攻チームの当てた回答の得点も含め、すべての得点が後攻チームの物になります。




大切なのは、先攻チームが頑張ればがんばるほど、後攻チームの得点が上がる可能性がある、ということです。

これはあくまでも「可能性」だけで、実際にはその得点を得る難度は上がります。


得点するという「目的」が達成できるチャンスほど、それを阻む「障害」も大きくなるのです。


良いゲームバランス、とはこういうものを言います。

クイズ100人に聞きましたは、ゲームのルールが非常に良くできていて、状況に応じて常にゲームバランスが保たれ続ける構造だったのです。



この番組が特別だったのではありません。

当時、こういうクイズ番組が非常にたくさんある。


「なるほど ザ・ワールド」では、解答席に1~4の順位が付いていた。

こちらでも権利が平等ではなく、1位の人から順に解答権があります。


1位が不正解なら2位に、2位が不正解なら3位に解答権が回ってくる。


4位の人には解答のチャンスがあまり来ません。

その代り、もしチャンスが回ってきた時には、1~3位の「間違えだった」回答がヒントになっている。


目的達成のチャンスが少ない人ほど難易度も下がる、という仕組みでゲームバランスを保っているのです。



ところで、正解すると上の順位に上がることができます。


「正解すると難易度が上がる」という、これもゲームバランスを保つ仕組みです。

最終的に1位の人が勝ちなのだけど、1位を保ち続けるにはノーヒントで正解し続けるしかない。


単純だけどよく出来ていました。



当時はこんな風に、番組のどこかに「ゲーム要素」を入れるのが当たり前だったのね。

視聴者もルールを理解して楽しめた。


ところが、今はそういうつくり方は流行しません。


頭が悪くなったとかではないよ。テレビを真剣に見る人が減ったから。

忙しい時代になって、途中から5分見ただけでも理解できる番組でないと、見てくれなくなった。



ぎーちさんにはポケットメイトの話もしました。

昔書いた話のままなので、詳細はそっちの日記参照。


昔の子供向けゲームって、ルールを自由に変えても構わなかった。

みんな面白いルールを考えて勝手に改変するのが普通だった。




昔は、テレビ番組を見ていても「巧妙なルール」があるし、ゲームで遊んでいてもルールを自分の好きなように変えられる。

当時の子供は「ルール次第で面白さが変わる」ことをどこかで知っていたように思います。


ところが、今のテレビゲームは自分でルール改変はできない。


これは、ゲームを自由に楽しむことを難しくしているのではないか?

そして、子供たちから考える力を奪ってしまっているのではないか?


…という趣旨でぎーちさんには話をしていました。


まぁ、趣旨としてはそれほど間違ってない。

今の子供…に限らず、現代日本人は、昔の人よりルールを作る能力が落ちている気がする。




ただ、昨日の記事を書いていて、ちょっと気が変わった。

文章にすることで、自分の考えが整理されたんですね。



テレビゲームでも、ルール改変できました。


ノーコンティニュークリアを目指す、ノーミスクリアを目指す、特定アイテムを使わない縛りプレイ…などなど。

これらは、自分にとって簡単すぎるゲームに対し、ルールを改変することで「難易度調整」をする遊び方です。


昨日も例に出したピクミンでは、「最短日数クリア」と「最少人数クリア」で、全然違う遊び方が必要になる。

30日でクリアしつつ、どこまで人数を増やせるかとか、1日での増加人数で競う方法もある。


「自分で決めたルール」によって、ゲームは全く違う顔を見せ始めるのです。




先日、世界初のドットリ君大会、という話を書きました。


…えーと、ここでお詫びしておきましょう。

ドットリ君ね、先日の記事では「面白いよ」と書きましたが、ゲームとしてはつまらないです(笑)


僕はつまらないゲームを見ると、すぐに「違う目的」を作るのね。そうすると面白くなる。

ドットリ君だと、4面クリア位を目指すと結構難しい、攻略しがいのあるゲームになる。


でも、そんなことしないでも、もっと面白いゲームは沢山ある。

「面白い」と書いたのを真に受けて遊ぶより、もっと面白いゲームで遊んだほうがいいです。



ドットリ君大会に話を戻します。

その大会では、「2台を使った対戦形式。1面クリアが速いほうが勝ち」という方法で遊んでいました。


これも、「違う目的」を掲げているのね。

「対戦相手に勝つ」というのが目的の新しいゲームを始めただけで、ドットリ君を楽しんでいるのではない。


ただ、このゲームに勝つためにはドットリ君の腕を磨かなくてはならないし、「腕を磨く」という目標ができると、ゲームはまた面白くなる。




ゲームは「目的」と「障害」があれば成立する、と昨日書きました。


この目的は、遊ぶ人の心構え次第で、いくらでも変えることができます。

そして、目的の設定次第で障害の強さも自由に変えられます。



昨日は「お金」がゲームの面白さに及ぼす影響を書きましたけど、それだけじゃないです。

テレビゲームだからって、プログラムの中で完結しているわけじゃない。


外側の世界とどうつなげるかで、面白さが全然変わってくるという、昨日と同じ結論です。


#だって、昨日と同じ話を違う切り口で書いているんだもん。




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ファミリーベーシック V3(1985) ディスクシステム(1986)の発売日【日記 19/02/21】

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申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

ベーマガ投稿  2015-03-27 19:30:17  業界記

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ぎーちさんからの質問。


「繰り返しベーマガ投稿した動機は何ですか?」

ぎーちさんの場合、「今月は載っているかな」というワクワク感だったそうです。


この質問を念頭に、前回の続きの話を書いていきます。




ファミベで作ったプログラムは友達に見せたりしてました。

ゲームとしてはつまらないのだけど、お互い作ったプログラムを見せ合う、というのが楽しかった。


特に仲良かった仲間が、持っている機種がバラバラ。

FM-7、PC8801、PC6001mkII、そして、ファミベが僕含めて2人。


時々遊ぶ仲間になると、MSX、88SR、FM77AV、X1、PC-1245(ポケコン)…ファミベは計5人くらい持ってたかな。

X1 持ってたやつが SC-3000 も持ってて、使っていないというのでしばらく借りた覚えもある。




それはさておき、仲良かった FM-7 持ちが、「みんなそれぞれゲーム作ってるんだから、統一ブランド作ろう」とか言い出します。


じゃぁ、言い出しっぺのお前が何か名前考えろ、と言ったら「アンタレス・ソフト」とか言ったんじゃなかったかな。

なんで? って聞いたら、海外にシリウスソフトってあるから、星の名前ならいいんじゃない? という理屈でした。


それだと物まねだから、違うものにしようと言ったら、「ベテルギウス、アルタイル、カペラ、ベガ」って、知っている星の名前を適当に言ってきます。


だから、それじゃ物まねだから星から離れようよ、と言ったら「オリオン」。

単に星の名前ではなく星座になった。まぁ、ちょっと離れた。


ただ、オリオンって…駄菓子みたいだし、あまりにも知られ過ぎてる星座でカッコよさが無い。


「じゃぁ、ペガスス」と言われます。うーん、まぁ、オリオンよりはいいかな。

…ということで、統一ブランドは「Pegasus soft」に決定。



ところが、この頃からファミコンブームが本格化して、みんなゲーム作るより、買ってきて遊ぶのに夢中になっちゃった。

統一ブランド、とか言い出した奴が、真っ先にゲーム作らなくなったように思います。


結局、この名前使っていたのは、僕ともう一人のファミベー使いの二人だけになりました。




ファミベ買ったけどプログラム組めない奴が、V3買ったら組めるようになるんじゃないかと期待して買いました。

でも、当然組めるようになんてならない。


半額でいいから買わない? と持ち掛けられ、喜んで買い取ります。


V3って、ファミベのバージョンアップ版ね。

命令も増えたけど、最大の違いは容量が 4Kbyte と倍増したこと。


倍増してもまだまだ狭いのだけど、その時の僕には広大な地平が広がったように思えた。

何か壮大なゲームを作ってやろう、と画策します。



なにかで、3D迷路のマップ表現方法を知りました。これ使ってみよう。

ただの迷路じゃ面白くないから、RPG風にして、アイテム拾いながらゴールを目指すことにして、戦闘シーンはアクションゲームで、ヒントを組み合わせる謎解き要素があって…


こういう壮大なことは、考えている時が一番楽しい。

作ってみると、4Kbyte ではとても収まりきらない。


でも、完成品を Pegasus soft の名前でベーマガに応募したら、掲載されました(1986年8月号)。




このゲームを、わざわざ打ち込んでニコニコ動画にアップしてくれている人がいました。ありがとうございます。


コメントでいろいろ書かれていたので、こんなところで返答。


・名前入力に INPUT 使ってないのは、ファミコンだからパッドで入力したかったんです。

 RUN した後はキーボードに触らせたら負けだと思っていました。


・名前入力プログラムは3行で書かれています。メモリはたいして使ってません。

 ハイスコア時に名前入力させたりするのを良く作ったので、非常に短く書けるようになりました。


・戦いが意味不明。僕もそう思います。

 先に書いたように、戦闘はアクションゲームにしたかった。でも、メモリが無い。

 少ないメモリで作るために、ファミベ特有の MOVE で動かして、それらしく仕立てたのだと思います。


・敵の HP を十分減らしてから「逃げる」と、敵を助けてあげたことになり、ヒントを貰えるのではなかったかな…

 ヒントは、プログラム入力中に見えてしまわないように暗号化されています。



ゲームとしては、実は自分でもつまらないと思ってた。

でも、いろいろ詰め込み過ぎて改良の余地はあまりなかった。当時の自分にとってはね。


プログラム自体は、Dr.D に「ファミリーベーシックのゲームのレベルもずいぶんとあがってきたものだ」と褒められました。




このプログラム、掲載されたものにバグがあります。

送ったプログラムとは違うものが掲載されている。1命令化けているんです。


ファミベにはプリンタはありません。

当初、ベーマガではリスト表示した画面を撮影し、何枚も縦に並べてリストとして掲載していました。


でも、別雑誌の Beep! では、FM-7 を使ってファミベのカセットテープを解析し、プログラムのプリントを行うプログラムを掲載し、使っていました。

ベーマガでも、ある時期からこのプログラムを使用する許諾を受けて使っていたはずです。


恐らく、このプログラムは「読み込んで印刷する」のですが、「読み込み時のエラーチェックは特にしていない」のではないかと思います。

だから命令が化けて印刷されてしまった。


掲載された号を見て、すぐに気づきました。

このバグ致命的で、そのままではゲームが終わらせられないはず。




ベーマガには、バグ修正の「で・ば・ぐ」というコーナーがありました。

きっと、来月の で・ば・ぐ に訂正情報が載るよね…と思っていたけど載らなかった。


遊んでくれた人がいたら、クリアできないのはおかしいと編集部に問い合わせるのではないか。

訂正が載らないということは、誰も打ち込んでくれてないのではないか。



載ったのに、誰も遊んでくれてないという推察で凹みました。

やっぱV3ユーザー少ないし、メモリいっぱいまで使ったからリスト長いし、よくなかったよなぁ…




またベーマガに投稿しました。

V2でも動作するゲーム。1行プログラム5本組。


5本とも、ベーマガの他機種のプログラムの移植です。

ただし、元はそれなりのサイズだったものを、大胆に単純化して、1行に納めている。


1行だったらみんなに遊んでもらえるだろう。


これは、別冊で発売された「ファミコン・プログラム大全集」(1987年2月)に掲載されました。

ただし、3本に減らされていた。


こちらも、ニコニコ動画にアップされています。先ほどと同じ方。ありがとうございます。


「これ入力したよ」というコメントもあった。

1行だったら入れてもらえるだろう、というのは目論見通りだったみたい。



このプログラムは、ゲームを作る、というより、作ることをゲームとして楽しみました。

1行に納めるって、制限きつすぎて、パズルみたいなプログラムになるのね。


今でもそういうプログラム楽しんでいる人はいますね。


…僕も時々やります




さて、冒頭の質問「投稿の動機は?」の答え。


僕にとっては、作ったゲームを見てもらえる、ということが最大の喜びでした。


それは、友達に見せているだけでもいい。

でも、もっとたくさんの人に見て、遊んでもらえるならもっと嬉しい。


ベーマガに載れば、全国の人が遊んでくれる。

そう思って投稿しました。


…だからこそ、「で・ば・ぐ」に訂正情報が載らなかったことで、誰も遊んでないのではないかと思うと凹んだのです。

2回目の投稿が1行プログラムだったのも、「これなら遊んでもらえるだろう」と思ったから。



2回投稿して2回載ったので、「ファミベはマイナー機種だし、投稿も少なくて狙い目なんだろう」と思いました。


#ぎーちさんのような「今月載るかな、というワクワク感」は味わってないわけです。


後で知ったけど、投稿少ないというのは、ものすごい勘違いね。投稿の多い、激戦機種の一つだったそうです。

だから別冊まで発売されていたらしい。


でも、ともかく当時は勘違いして、送れば載るだろうと考えた。

そして次の投稿の準備をします。


…その時、学校が休みに入って通知表が出た。

ものすごく成績落ちてました。家帰ればゲーム作っているし、授業中もゲームのアイディア考えているんだもの。


これで父にすごく怒られ、ファミコン禁止令が出ます。

これで、投稿も出来なくなりました。そうならなければもっと投稿していたと思います。




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名刺  2015-03-27 20:12:18  業界記

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名刺

今日は昔話が長くなったので、「今」の話はさらっと。

一応、昔話と今の考えの2本一組で毎日書いているのですが、今後も常に2本続けるかはわかりません、と断っときます。



ぎーちさんに渡した名刺、普段から使っている物なのですが、裏にこんな似顔絵が描いてあります。

僕は絵は全く描けないので、人に描いてもらったものなのだけど。


判る人にはわかりますね。

ベーマガ表紙のマイコン少年のパロディです。


ベーマガの話をしましょう、ってぎーちさんと会って、名刺交換して、裏にこんな絵が描いてあるのに説明し忘れた(笑)




画面に「LD A,n」とあるのは、ベーマガではなくて Ah!SKI のネタ。

今日はこちらを解説しようと思って書いてます。



Ah!SKI っていうのは、ASCII のパロディ版。1980年代に、毎年4月に発行されていました。

この内容が、かなりコンピューターに詳しい人じゃないと意味不明なネタが詰め込まれている。


1984年版に、「機械語で会話する少年現る」という小さなニュース記事が載っていました。


テレビ番組「びっくり人間大集合」のために来日した中国のキム少年は、生まれた時からコンピューターに囲まれて育ったため、人間の言葉よりも機械語を覚えてしまい、機械語でしか会話できない…とかいうネタだったと思う。


#探せば当時の雑誌があるはずなのだけど、今は正確性はどうでもいい。

 1984年は、パソコンはじめてすぐ。Ah!SKIをたまたま入手したのだけど、内容難しすぎてよくわからなかった。

 20年以上たってから読み返したら、すごい高度なギャグが満載で面白かったけど。



このネタはそれで終わり…だとおもったら、翌年の 1985年ではさらに大きな記事になります。

まさかの1年越しの連続ネタ。


「キム少年の&HFFFF人のマシン語会話」だったかな。

「早見優の100万人の英会話」のパロディ。


そこで、Z80 での会話が例文付き、イディオムの解説などもついて載っているのです。


#こちらは、見たのは大学生になってから。部室に置いてあった。

 その時には、ネタの意味が多少はわかるようになっていました。




LD A,n ; 私に n だけご飯をください。


LD B,n

LD A,B ; 私に n だけご飯を奢ってください。


SRA B

LD A,B ; 割り勘にしましょう


CP B

JR Z,3 ; 3軒先の店ではどうですか?


JR 2 ; 2軒先の店にしましょう


…だったかな。これも調べれば正確に書けるけど、雰囲気がわかってくれればいいです。

もっと長い、実際ありそうなシチュエーションの会話例として載っていた。



他にも、人に物を訪ねるときには肩を叩いて NMI 割り込みを起こしたうえで、


PUSH AF ; ちょっといいですか?


で会話をはじめ、もちろん最後は


POP AF ; ありがとうございました

RETN ; さようなら


で締めくくる、とか書いてあった気がする。



… Z80 を理解していないと意味わかりませんね。でも、このネタ大好き。

端の方に、コラムで 6809 方言ではここに注意、みたいなことも書いてあった。




在宅プログラマなのであまり名刺を使うことは無いのですが、他にもいろいろネタ仕込んでます

プログラマでないとわからない…いや、プログラマでもわからないようなのばかりだけど。


見てみたい人は、お仕事でご一緒出来れば名刺差し上げます。



LD A,n ; 私に仕事をください!



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ファミベ、MSX、X68k  2015-03-28 10:09:16  コンピュータ 業界記

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ここに書いている内容は、順を追って整理しています。

僕の昔話になってしまっているけど、小学生から始まって、中学生でベーマガに投稿した話まで書きました。


ぎーちさんとの対談の時は、こんなに順序立てていません。時代とか飛び回る。

最初に話したのが、今回の話。


#お店に入る前に、歩きながら話してた内容。




ツイッターで、ぎーちさんが「ベーマガ投稿してた人と話がしたい」と書いていたので、ファミベで投稿した話は先にしています。

そして、お会いした時にまず「ぎーちさん、とお呼びしていいですか?」と尋ねた。


これで、「あれ、もしかしてMマガ読んでました?」と言われました。

はい、その通り。読んでましたし、ぎーちさんの4コマ漫画好きでした。


#特に気に入っていた一つは、今でもその内容を言える。

 言ったら恥ずかしがられたのでここには書かないけど。


#MSXマガジン永久保存版3には、ぎーちさんの4ページ漫画と、4コマ2本が載ってる。

 サイン貰おうと思って持っていったのに、話が楽しくてサイン貰い忘れた!


さて、MSX も使ってた、という話からパソコン遍歴の話に。


僕は、ファミベの後 MSXMSX2 と進み、X68k を購入しました。

その隙間に、PB-100 とか PC-E500 などのポケコンも使っているけどね。


#前回書いたけど、父に怒られてファミコン禁止になった。

 ポケコンなら隠れてこそこそやれるから購入。



ぎーちさんは、SC-3000 から MSX に進んだそうです。

X68k は憧れではあったけど、高くて買えなかったって。


僕は、大学の夏休みをみっちりバイト入れて、その賃金を全部突っ込んで、1年型落ちの X68k を入手しました。

当時はパソコンってすごく高かったし、X68k はその中でも特に高かった。


一式およそ 50万。型落ちを通販の安売りで買っても 30万しました。




ファミベ、MSX(2/2+/TurboR含む)、 X68k 、と進んだ人はゲーム業界には多いようです。

ぎーちさんはゲーム業界でフリーライターをしていたのでそういう方に会っているようですし、僕の周囲にもいます。


なんででしょうねぇ、という話になった。


乱暴なあて推量をすると、お金持ちで自分でゲームを買える人は、きっとゲームで遊んだと思う。


貧乏でゲーム買えないのにゲームが好き、という人は、夢想しながら自分で似たようなものを作る。

この時に、高価なパソコンを使えるわけもなく、ファミベみたいな貧乏くさい機械になる。


じゃぁ、X68k は何なのさ、ということになるけど、成長後だからね。


僕もぎーちさんも、第2次ベビーブーム世代です。

この世代、すごく人数が多いから、商売のターゲットにされている。


ファミベも、MSX2 も、X68k も僕ら世代が「ちょうどよい」時代になったところに発売されています。


ファミコンが「小学校高学年」あたりをターゲットにして登場したのが小学5年生の時。

ちょっと背伸びしてパソコンに興味を持つ中学生の時に、ファミベが発売されました。


MSX2が急激に安くなって普及期に入るのが、そろそろ「ファミコンは子供っぽい」と思い始める高校の時。

パソコンは一式15万円くらいの時代に、5万円だったので高校生でも自分で買えました。


X68k は、欲しいもののためならバイトもできる大学生の時。

バイトしてバイクや車を買うやつだっていたのだから、パソコンくらい、なんてことない。



パソコン以外では、ガチャピン・ムックも、ガンダムのプラモデルも、コロコロコミックも、チョロQも、僕ら世代に売り込んできた商材。


もう、それは見事にカモられているわけですが、いろんなおもちゃが提供されて楽しかった世代でもある。




でも、すでに書いたようにファミベは入門には良い機械でした。

絵はお仕着せの物しか使えない。メモリは少ない。


だから、プログラムだけに集中して、辛くなる前に「限界」に達してしまう。一番面白いところだけのつまみ食い。


そこから、安い上に「ファミベと同じようにスプライトが使える」という理由で MSX2 に移るわけだけど、僕は出来ることが急に増えすぎて戸惑った。

プログラムはしたのだけど、ゲームはあまり作りませんでした。(小さなのは作ったけど)


X68k は、構造が「ファミコンを豪華にした」ような感じだった。

だから、ファミベ出身者としては懐かしい。これはものすごい使い込んだ。



でね、これらの機種の共通点である「スプライト」は、ゲーム作りたい人にとっては、本当にありがたい機能だった。


スプライトがなくたってゲームは作れるけど、細かなテクニックを駆使しないといけない。

もちろんそういう方向の腕を磨いた人もいるけど、それは技術者であってクリエイターではない。


ゲーム業界で「クリエイター」になった人が、ファミベ・MSX・X68k というコースをたどった人が多い、というのであれば、そういう理由があるのだと思います。




以下余談。ぎーちさんにも話したのだけど。


僕らの世代が「子どもが多いターゲット世代」だったので、5歳下は割りを食っています。

上の世代が遊んでいた面白そうなものは、その時にはまだ年齢が低すぎて遊べない。


でも、遊べそうな年代になった時にはブームも終わっており、入手も困難。

この繰り返し。面白いものが何もない。


仕方がないから自分たちで新しいことを始める。

その時は誰も注目しないのだけど、下の世代に受け継がれ、さらに3歳下の世代が「今子供たちにこんなことが流行っている」と注目される。


ずーっと、この「谷間」を歩いてきた世代が、第2次ベビーブームの5歳下世代。


この世代を示す言葉すらない。

実は彼らの世代は自分たちを示す言葉を「作り続けている」のだけど、この言葉もいつも3歳下に奪われる。


ちなみに、就職時期は一番求人比率が悪かったときでした。


でも、これも統計がまとまって「あまりに酷い」と問題視されるのは3年後で、3歳年下が同情されるんだよね。

その時にはもう状況が改善していたのだけど。



不遇の世代です。

彼らの世代に、もっと光を!


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家庭用と業務用  2015-03-28 10:31:11  業界記

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ぎーちさんとの対談は…対談と言うよりだべっていただけなので、どんどん脱線する。

ゲームとお金、という話から、業務用と家庭用で作り方が違う、という話になった。




僕は、業務用ゲームを作る部署に入る以前は、業務用のゲームは気軽に遊んでもらえるけど、家庭用は遊んでもらいにくい、と思っていました。

業務用は 100円で始められるけど、家庭用は5千円以上が普通だからね。


先日書いた通り、僕がゲーム作る動機は「僕が作ったものを遊んでもらいたい」でした。


だから、最初から遊んでもらいやすいと思っていた業務用を希望していたのではなかったかな。

それで業務用部署に配属された。


でも、入ってすぐに、業務用の方がずっと遊んでもらいにくいのだ、と教わります。

そして、実際その通りでした。




家庭用だと、買うまでのハードルは高いけど、買ってもらえれば、じっくり遊んでくれる。

多少複雑で奥深いルールがあったとしても、それを理解するまでやりこんで「面白い」と言ってもらえる。


だけど、業務用は気軽に100円をだし、ルールも読まないでゲームを始めます。

そして、3分程度でゲームオーバー。


この3分間が勝負です。

この間に、ゲームのルールを理解してもらって、「面白かったからもう1回」と思わせるくらい楽しませる必要がある。



断言しましょう。

人間は、はじめて見たものを3分で理解する、なんてことは、絶対にできません。


だから、「全く新しいタイプのゲーム」なんて業務用では作れない。

既視感…どっかで見たような感じ、というゲームだと理解が速いから、あえて物まねを作る。


オリジナルを作りたい、というプライドは、多分みんな持ってる。

でも、プライドでは飯を食えない。それよりは、売れたゲームを真似するほうが商売になります。



でも、そこに少しだけ、新しい「なにか」を付け加えます。ここが勝負どころ。

この、付けくわえられたものによって、「このゲームは新しい」と感じさせなくてはならない。



時代を切り拓いてきたゲームですら、全く新しい、なんてことはありませんでした。


パックマンの前にはヘッドオンがあったし、ゼビウスの前にはギャラクシアンがあった。

ストリートファイターの前にもイーアルカンフーがありました。


少しづつ、少しづつアイディアを加えることで、全く違うジャンルになったゲームでも、根は同じであったりします。


ドンキーコングは、パックマンのような「迷路を抜けていく中で、一発逆転もある」というアイディアだけど、横から見た形にして、重力を表現した。

いまではジャンプゲームの始祖とされます。


ヘッドオンも、「すべてのターゲットを消せば面クリア」という、インベーダーのブームの中で作られたもので、ターゲットの消し方を工夫したもの。

インベーダー以前からカーレースはあったから、うまく混ぜただけ。でも、今ではドットイートゲームの始祖とされる。


そのインベーダーも、「ブロック崩しのブロックが動いたら面白い」というアイディアから作られている。


ヒットゲームは、どんなに新しいものに見えても、「既視感」を大切にしています。

その既視感のバランスのとり方が難しくて、「知っているのに新しい」とヒットする。


「良く知ってる」だけだと物まねに思われて「知らないほど新しい」と拒否されます。




テレビゲームが好きな人には、ナムコの黄金期を懐かしむ人がいます。

ギャラクシアンから、ドルアーガの塔くらいまでのゲームかな。


出すゲーム出すゲーム、それまで見たことのないようなものだった。同じようなゲームは出さなかった。

その思いが今でも強くて、「最近のゲームは似たようなのばかり」と嘆く人もいます。


でも、今のゲームクリエイターが昔に比べて劣っているとか、アイディアを出せなくなったというのではない。


プレイヤーが昔のような「突拍子もないアイディア」を求めなくなったから作らないのです。

むしろ「このゲームなら遊べそう」と思える、既視感の強いゲームが求められている。



僕個人としては、またナムコの黄金期のような、突拍子もないアイディアを見たいのですが、それは「商売」としてはやりにくい。


これ、「プロには」作れない、というだけだよ。

そういうゲームを作っちゃだめだとか言うことでは全然ないし、むしろ作ればヒットする可能性がある。


自作ゲームを作る人には、狙い目のジャンルでもあります。


自作する人は、多分プロの作った作品、自分の好きな「あのゲーム」に憧れて真似することが多いと思う。

でも、そういうものを作っても、ライバルが多くて、苦労の割に注目されない。辛いだけ。


むしろプロが作れない「突拍子もないアイディア」を入れるといいです。

ライバルはいないし、出来が悪くても唯一無二の存在になれます。


君は、その世界での第1人者です。

もちろん、面白くなければやっぱり注目されないのだけど。


でも、ライバルが多いところに切り込んでいくより、よほどいいと思うよ。

もし大ヒットして「既視感」のあるものになった時には、真似をしたゲームが出てくるでしょう。


でも、君がそのジャンルを切り拓いたと自慢できるようになります。




家庭用なら新しいものが作れるかというと、やっぱり茨の道ですけどね。

ゲームの面白さって、遊んでみないとわからないのに、遊ぶために5千円払う必要があるのですから。


だから、こっちも「面白いとわかっているゲームの亜流」が増えます。


ただ、「後半グッとくるストーリー展開」とかは家庭用じゃないと作れないものですね。

ゲームシステムが、後半になってルールの巧妙さに気付く、とかいうのもそう。


…ただ、やっぱそういうのは評価されないんだよね。

家庭用は高いから、情報誌で事前情報を読んで購入を決める人が多い。


でも、記事を書く人も最後まで遊んで書く余裕はないし、遊んだとしても事前に「後半の展開」は書くわけにいかない。

だから、どんでん返しで面白いストーリーのゲームとか、売れないです。商売として成立しない。


ここでも、既視感のあるゲームの方が、評価は低くても商売として手堅いんです。




時折、商売っ気抜きで「面白いゲームを作るんじゃぁ!」ってやらかすクリエイターがいて、すごいものを作ってくれる。


これは、家庭用に多い気がします。

やっぱね、ルールやストーリーを複雑にするのが許されるのは、家庭用だけだから。


こういうゲーム、ファンはすごく高く評価してくれるけど、やっぱ儲からなくて、後に続く人はいなかったりします。



寂しい現実。実際問題として商売なのだし、儲からないと明日のご飯も食べられないのですが。


もっと、「ただ面白いだけ」のゲームが評価されるといいんですけどね。



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X68000発売日(1987)  2015-03-28 11:33:57  コンピュータ 今日は何の日

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ちょうど、ぎーちさんとの対談話X68k の話題を書いたところだったけど、今日は X68k の発売日でした。


これはもう、熱い思いを18年前に書いている


でも、18年も経つと、その後の思いも多少はあります。

ちょっと書かせてもらいましょう。




定価は 36万9千円だったそうです。

正確な数字がすぐに見つかる。18年前に書いたときはそこまで調べなかった。



当時のパソコンは、だんだん性能が上がってきていて、ビジネス用の PC98 で一式40万円くらいだったかな。

ホビー用の PC88 だと、一式 30万円くらいでした。


…これだけ聞くと、X68k は案外高くないように思えますね。

PC88 と違って 16bit 機だし、同じ 16bit の PC98 より少し安い。


でも、X68k は「一式」じゃなくて、本体価格だからね。


X68k は、テレビ事業部が作ったもので、「テレビの可能性を広げるパソコン」という思想がありました。


だから、専用ディスプレイはテレビとしても使える。チューナーが付いているんです。

テレビの画面にパソコンの画面を重ねることもできる。これ、パソコン側ではなく、専用テレビ側で制御していました。


せっかく画面を重ねられるのだから、ビデオに録画できるように、テレビに「出力」機能が付いている。


さらに、パソコン側からテレビのチャンネルを変えたり、音量を変えたりできる。

本体の電源を切っている時でも、キーボードでテレビを操作できました。



技術的なことを言えば、テレビは 15KHz の映像周波数で表示を行っていて、当時の一般的なパソコンは 24KHz の映像周波数を使っていました。

X68k は、他のパソコンより画面が細かかったので、31KHz を使っています。


専用ディスプレイは、この3種類の信号入力を適切に見分け、自動的に表示を変えるように作られていました。



なんだかすごいね。

この、専用テレビがめちゃくちゃ高い。


パソコン専用ディスプレイって、細かな文字を表示しないといけない都合もあって、一般にテレビより高いのね。


それが、X68k 専用だとディスプレイだけで 12万9800円。

パソコンの機能の一部を、ディスプレイ側に入れ込んじゃってあるからね。


合計で50万円弱。1987年だから、消費税導入前ですね。




「5年間は設計を変えない」と言った、ということにされていることが多いのですけど、ちょっと違うと読んだことがあります。


当時としては、ものすごい性能の機械だった。

発表会見に集まった記者たちが驚き、こんな高性能にして採算に合うのか、と聞いた。


それに対して「5年先を見越して設計しています」と答えた。

ただそれだけ。


今はすごい機能に見えるものでも、5年後には普通になるだろう。

だから、それを見越していろんな機能を入れてある、というだけで「設計を変えない」とは言っていない。


でも、「設計を変えない」と雑誌などに書かれ、ユーザーがそれを信じるようになった。


性能が高いマシンを発売したら、ユーザーに対する裏切り行為になってしまう。

進化の激しいパソコン業界で、5年間性能を変えるわけにはいかなくなった。



これで、X68k は「性能の低い機械」となって、パソコン業界の中で取り残されていきます。

やっと5年が過ぎて、性能を上げた機械を出しても手遅れ。




まぁ、設計を変えられたのか、というと難しかったとも思います。

5年目のマシンも、ただ CPU を高速化しただけだったし、その高速化も周辺が遅いからあまり活かされなかった。


設計が美しすぎた、というのが X68k の弱点だったと思います。


全てが一体となって設計され、一分の隙も無かった。

だからこそ、後から改良を入れる余裕もなかった。設計した時点が「最高」で、その後の展開がなかったんです。


IBM-PC なんて、最初から設計が汚かった。つぎはぎだらけだった。

その代り、ツギハギ部分を叩き切って、別の機能に挿げ替えることも簡単だった。


結果として、時代に合わせて変わりつづけられました。




実は、「美しいものははかない」って、このページの開設当初からの隠しテーマなんだよね。

今は使われない昔の機種・機械を紹介しているけど、やっぱ紹介する機械は、僕なりの「審美眼」で選んだものだけになっている。


でも、その「美しいもの」はもう使われていないのです。

大抵は、設計が美しすぎて改造できず、時代に取り残されたものなのね。



僕は、大学生の頃までは「美しいことは正義」だと思っていた。

でも、そうじゃない。時代を超えるには清濁併せ持たねばならないのだ、と教えてくれた機械が X68k でした。


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春の家族旅行  2015-03-31 21:35:53  旅行記 家族

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春の家族旅行

春休みなので、3月29(日)、30(月)の2日で、家族で伊豆旅行へ行ってきました。


僕は、伊豆は20年くらいぶり。

なんか、大学からの距離だと「ちょうど良い旅行先」のようで、大学生の時にサークルで2度、研究室で1度、OBになってからも2回ほど来てます。


で、伊豆は楽しいところ、と思っているのですが、この楽しさは観光地としての物であって、遊園地のようなところとは違うとも思っていました。

「見て楽しむ」のには、ある程度の知識ベースが必要。遊園地は、知識がなくても楽しめる。


この差で、我が家の子供たちが小さいうちは来ませんでした。

でも、そろそろ良いかな、と思っていたところに、この冬、我が家で「バナナワニ園」の話が(経緯は忘れたけど)でまして、じゃぁ春休みになったら行こう、約束したのです。




3月29日。旅行の1日目。

前日のうちに、子供には「持っていくもの」を準備させてあります。

主に、道中の暇つぶしおもちゃだけど。


僕は朝4時半起床で準備。そんなに早く起きる必要はなかったのだけど、なんか目が覚めてしまったので。


子供たちは5時半起床。起きたらすぐ、着替えて歯磨き。

これで、6時には車に乗って出発です。


家の一番近所のマクドナルドのドライブスルーで朝ごはんを購入。

実は、ドライブスルーって初めて。車に乗ったまま買い物ができて、そのまま車の中でご飯を食べる、という「普段ない体験」に子供たちは喜びます。



ここからは、ひたすら車を走らせます。

道はあらかじめ大体調べてあるけど、Google ナビまかせ。

ところどころで、「大学時代にこのコンビニ入った」とか「この道走った」とか思い出す。


伊豆に近づくと、それだけで春の風情。

実は、僕としては今回の旅の目的は「春を見に行く」ことでした。


街路樹の桜が咲き乱れる中を走り、雑草のように道端に菜の花が咲いている。

これだけで期待が高まります。



2時間ちょっと、8時半ごろには「さくらの里」に到着します。




さくらの里は、シャボテン公園の目の前にある公園。

広くて駐車場もあるのですが普通の公園の扱いで、入場料も駐車料金もいりません。

でも、観光バスも来るような観光名所。


園内には多種の桜が植わっています。種類が違うから一斉に咲いたりはせず、「満開の桜」はたのしめない。

そのかわり、夏と真冬以外はいついっても桜が咲いています。



以前に来た時は、一面の菜の花が咲いていたはず…と園内を歩くのですが、どこにも咲いていません。

いま情報を調べると、この付近の菜の花は早めに咲くので、2月~3月中旬くらいまでが見ごろ、とのこと。

むむー、ちょっと残念。またいつかこよう。


公園内は大室山の裾に広がりますが、この山の火山活動でできた溶岩洞穴などが見られます。

ただ桜が綺麗と言うだけではなく、地質学の勉強にもなります。


#妻は地学を専攻していたので、子供たちにいろいろ解説していました。




9時を過ぎ、シャボテン公園もオープンしたはずなので移動。

ここも何度か来ているはずなのに、内容はほとんど覚えていない…


ただ、かなり変わったようだ、ということはわかります。


シャボテン公園、という名前からは、サボテンがいっぱいある植物園を連想されるかもしれません。

でも、ここは今風なら「メキシコ村」とでもいうような施設。


サボテンも、メキシコあたりにいる動物もいます。そして、園内のいたるところに、アステカ文明やマヤ文明の遺跡のレプリカが置かれています。


変わっているのが、動物が放し飼いだということ。

檻に入っている物、池の中の島に閉じ込められて事実上逃げ出せないものなどもいますが、その気になれば触れる、というのが基本。

ただ、中には危険な動物もいるため、「指を出さない」ようにいたるところに書かれています。



ただ、以前来た時よりも動物の数がずっと増えているようです。

昔から飼っていた「カピバラ」が大人気になり、それを目的の観光客が増えた、というのもあって、動物を拡充したようです。


メキシコではなく、オーストラリアのゾーンも出来ていました。

(これも、昔は無かったとおもう)


もちろん、カンガルーは放し飼いなのですが、人間立ち入り禁止のエリアの中にいることが多いようです。

カンガルーの方が人を恐れて近づいてこない、という感じ。


#でも、おびえて逃げているわけではなく、人が入ってこないとわかっているところでのんびり暮らしている。




カピバラの温泉浴は大人気。

多くのお客さんがこれ目当てで来ています。


うちの長女も「カピバラさん」のぬいぐるみを持っていて大好きです。


でも、丁度その近辺に行ったときに、あと15分ほどで始まるのですごいお客さんが待っていました。

あえて先へ進みます。


カピバラの温泉浴自体、「カピバラがあきるまで」の時間限定イベントですが、だいたい1時間くらいは見られるらしい。

ならば、お客さんが減ってから見に行っても十分です。


先に進むと、クジャクや馬やリクガメがいる。全然お客さんいません。

ゆっくり見られました。



ゆっくり見ていると、急にお客さんが増え始める。

ということは、そろそろカピバラがひと段落したな、ともどります。

まだ結構混んでいましたが、人ごみの中に入っていけるくらい。よく見られる場所を探します。




次女が、見られないから肩車してほしいとせがむ。

長女も周りが大人ばかりなので背が足りなくて見えず、ずるいというのですが「順番」の約束で次女を肩車します。


そしたら、次女が上で「んー!んー!」と騒ぐ。ちゃんと喋らずに「んー」だけで何かを伝えようとするのは次女の悪い癖。

ちゃんと喋りなさい! とか言っていると、上からなにか、ほおにぽたりと落ちてくる。


…次女、鼻血だしてました。

おおあわて。実のところ、この2日間の旅で最大のトラブルだった気がする。

(つまりは、今回の旅は非常に順調でした)




次女の服にも、僕の服にも血が付きました。

子供は服を汚すこともあるだろう、と多少着替えがあるので、次女は服を脱いで洗います。

綺麗に落ちなくても、濡らして置けば血は固まらない。


僕の服は替えが無いので、仕方がない。そのままです。

幸い赤いシャツに赤いしみ。気にしなければわからんだろう、くらいのつもり…



対処している間にカピバラ周辺の人混みもなくなり、でも、カピバラの方はまだイベント中。

飼育員の人、いろんなことを小出しにするので、実は最後の方に見ていたほうがよかったかも。


最初は「ただお湯につかって気持ちよさそうにしているだけ」だったのが、薔薇湯にして(薔薇を食べちゃったりするのがまたかわいい)、さらには餌に笹をあげたらおいしそうに食べていたり。


長女も次女も、かわいいかわいいと見てました。




最初にもらう園内案内図の裏に、代表的な動物を描いた「チェックリスト」があります。

見たらチェックしよう、というのだけど、子供たちがゲームの様にチェックしている。


…ちゃんと「見て」チェックするのならいいのだけど、見てもいないのに見たと言い張ってチェックしようとしたり。


でも、このリストのおかげで、飽きずに園内を廻ることができました。

ひとつづつ、動物を見ては「これなに?」と観察しながら聞いてくるからね。




11時過ぎ。

12時になったらごはん食べるところは混むだろうから、先に昼ご飯にします。


長男と僕はサボテンカレーを食べます。

長女はパンケーキのバニラソフトクリーム添え。

次女は焼き立てパン、妻はブラックカレー。


サボテンカレーとバニラソフトは、入り口で宣伝を見て食べたかったものの二つ。

ソフトクリームは、非常に濃厚でおいしいです。


カレーは、まったく癖がなくておいしい。…というのがちょっと残念。

サボテンらしさってよくわからないけど、特に何も感じないのね。


#実はサボテンが癖がなくて何にでも合うことは知っているのだけど、合いすぎてつまらない、というか。




昼食後も少し歩くのですが、その間に雨が降り始めます。

あとちょっとで園を一周して、入り口にもどれるところだったので、ちょっと早足で進みます。


入り口付近に戻ったら、入り口から園を横断する道を通って、対角側へ。

実は、昼ご飯を食べたあたりなんだけどね。


この横断する道には、屋根が付いているので雨には濡れません。

そして、その端から地下道に入れるようになっていて、これも濡れません。



地下道を通ると、いくつかある温室を廻ることができます。

こちらはシャボテン温室。


20年ほど前に来た時には、地下道で繋がっていなかったように思うのですが…記憶違いかもしれません。


そして、以前は「金鯱」(という名前のサボテン)だけがものすごく沢山植わっている温室があったように思います。

余りにもたくさん植えてあるので驚いた気が。


というのも、金鯱というのは、非常に長生きで成長の遅いサボテンだから。

今回も、推定160歳のサボテンを筆頭に、100歳越えと思われるものが多数ありました。


しかし、以前の「温室中全部金鯱」はやめたようです。

判らん人には、全部おんなじ物だけ植えてあるって面白くないから、賢明な判断なのでしょう。

でも、あの「異常な状況」が面白かった。




まだ回ってないところがありました。

「バードパラダイス」というエリア。これも、20年前にあったか覚えてない。


しかし、雨が強くなってきました。

貸し傘(無料)を借りて、雨の中の見学です。


楽しくはあったのだけど、次女が片足水たまりに突っ込んでしまって、気持ち悪いと文句を言い出す。

実は、はしゃぎすぎて疲れ、もう眠いのです。



バードパラダイスを見終わって、これでシャボテン公園は全部回りました。終わりにすることにします。


時間は3時半ごろ。

「おやつの時間すぎた! お腹空いた!」と長女が言うので(昼ご飯にパンケーキしか食べてないのだもの)、帰り際に喫茶店で間食。


というか、最初から予定していたのだけどね。


サボテンソフトクリームと、サボテンバーガーと、サボテンの実のジュース。


サボテンをソフトクリームに入れると、流石に少し青臭さを感じます。

でも、普通に食べられる感じ。悪くない。


サボテンバーガーは、刻んだサボテンをピクルスの様に入れてあります。

これも、元々味に癖が無いので、食感を楽しむ感じ。


ジュースは美味しい。サボテンの実って、ドラゴンフルーツとかもそうで、普通にフルーツです。



というわけで、シャボテン公園は終了。時間は予定より早いのですが、今夜の宿に向かいます。



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ペンション とうてんぽーる  2015-03-31 21:36:31  旅行記 家族

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ペンション とうてんぽーる

春の家族旅行記の続きです。



宿は、伊豆のペンション「とうてんぽーる」。


本当は、ホテルを取ろうと思っていました。

でも、家族旅行の計画が忙しくてなかなかたてられず、1週間前に慌てて予約しようと思ったら、結構値段の高いホテルしか残ってなかったのね。


ペンションじゃダメ、ということは無いのですが、個人経営であるペンションは、当たり外れがある。

ホテルより安い反面、はずれを引くと「安かろう悪かろう」になります。過去に、ここははずれだった、という宿にも何度も当たっている。


#安いし、ペンションのオーナーの人柄に触れるのも楽しいのでそれなりに使ってますが、子供もいると品質が安定していないといろいろ難しい。



いろいろ探した中で、評判も悪くないし、値段も高くないし、何よりも料理がおいしそうだったのでここに決めました。




この宿、大当たり。伊豆に行く人は使うといいよ。

まぁ、ペンションの当たりはずれと言うのは、オーナーと気が合いそうかどうかの問題なので、万人には勧めにくいのですが。


まず、ペンションと言いながら部屋はホテルみたいです。

食事をする家と宿泊する家が別で、宿泊棟の方はいくつかの個室に分かれている。


最大で4人部屋なのですが、うちは5人家族。

値段は変わらずに2部屋とってもらうこともできるのですが、「狭くても1部屋で」とお願いしました。

次女は添い寝でいいからと。


で、4人部屋と言いつつ、スペースは十分。

ベッドが4つしかない、というだけで、ちっとも狭くないのです。

移動式の簡易ベッドがあれば、6人でも入れるのにね、という感じ。


木造なので、周囲の部屋の人の足音などは多少響きます。

でも、その程度のことは全然問題ない、と言えるほど良い客室です。




宿泊棟の入り口には、みながくつろげる部屋が用意されています。

ボードゲームや漫画が多数置かれている。


知恵の輪もいっぱいあり、長男がチャレンジしていました。

ただ、力任せに外そうとする人がいたのか、壊れてしまっているのも多数。




風呂は部屋にもユニットバスがありますが、家族で貸切れる露天風呂があります。24時間使っていい。

ただし、時間など決まっておらず、入れたら中から鍵をかけてよい、というシステム。


混む前に入ってしまえ、と、夕食前に家族で入ります。


湯船の半分は屋根があるので、雨が降っていても大丈夫。

ただ、洗い場は露天です。冬は寒いと言いますし、春でも小雨が降っているとまだ寒かった。


脱衣場と風呂場の間にも特に仕切りは無いので、脱衣場にスマホもちこんで、夕食時間前に出られるようにアラームかけてました。

もっとも、脱衣場に時計があったので、風呂に入りながらでも時間分かったけど。


浴衣・寝巻類は無いので持ち込み。

僕は、次女の鼻血でシャツが汚れていたので、シャツを寝巻に着替えてしまいました。

シャツは部分洗いして、部屋に干しておく。




風呂を出たあとは夕食。


これが、非常にうまい。

季節ごとに手に入る美味しい食材で作るようなので、メニューは特に決まっていないようです。


この季節は、桜えびの釜めしと、魚料理が中心。刺身、スモークサーモン、イワシの甘露煮、焼き魚。

豚の角煮もつきました。


箸休めに、イカ明太が付いていたのだけど、イカも明太子も長男の大好物。

長女には明太子が辛かったようで、「いらない」というのを貰って食べてました。


こうした、箸休めの小鉢にいたるまですべてが美味い。



まだ保育園児の次女の分だけ、子供向けの別メニューを用意してくれていました。

エビフライにチキンライス、ハンバーグ…とおもったら、ハンバーグではなく、つみれを平たくして揚げたもの。

ちゃんと、伊豆の海の幸が楽しめるように工夫されていました。


次女もおいしい、おいしいと食べていましたが、結構量があるのでお腹いっぱいに。

というか、メロンとリンゴのもりあわせに、プリンまでついていたので、そっちの「デザート」を先に食べてお腹いっぱいになっちゃった。


残りは親が頂きましたが、非常においしく、片手間に作っているようなものではないとわかります。

ちゃんと子供向けでも手を抜いていない。



後で知ったのですが、宿のご主人が、元東京会館のシェフ。高級料理店出身なのです。

すべてがおいしいわけだ。


大人でも満腹になる量で、子供たちは食べきれません。

釜めしが余ったらおにぎりにしますよ、というので、おかずは全部食べ、ご飯は握っていただきました。


夜食に…というつもりで握ってくれたようですが、お腹いっぱいで食べられない。

冷蔵庫に入れて置き、翌日昼間に食べましたが、冷めても非常においしいごはんでした。



お茶などの飲み物を出してくれるタイミングも適切だし、非常に心地よい宿です。




食堂にはたくさんの魚の剥製が飾ってあります。

御主人が釣り上げたもの、とは公式WEBページを見て知っていました。


すごいねぇ、と子供と見ていたら、新聞の切り抜きが貼ってありました。

静岡の博物館が、深海ざめの剥製を作ったというニュース。


剥製を持っている人の顔、もしかして…?



魚の剥製を作る技術って特殊で、日本全国でも10人ほどしか作れないのだそうです。

飾ってある剥製もご主人が自分で作ったもので、その技術を買われて水族館の剥製を作ったのだとか。


すごい、多彩な技術をお持ちです。


関係ないけど、この家の長男はプロのレーシングドライバーになるのが夢で、すでにレーシングクラブに所属して活躍しているらしい。

雑誌記事の切り抜きなど、宿泊棟のくつろげる部屋に貼ってありました。


多芸な一家だ。




翌朝も、早めに起きて(5時半ごろ)、家族で朝湯につかりました。


風呂に入ろうとしたら、リスが慌てて逃げて行った。

リスは風呂には入りませんが、湯気で暖かいので屋根裏に隠れていたらしい。


露天ではありますが、落ち葉でお湯を汚さないために、天井にはネットを張ってあります。

このネットの隙間を、慌てながらも迷いなく潜り抜けて逃げて行ったので、あのリスは「常連」と見た。




朝風呂の後帰り支度をまとめ、車に積める荷物は積んでしまったうえで、朝ごはんまでの時間がまだあったので少し散歩。


宿は、「桜並木通り」のすぐそばにありました。

その道自体を初めて知ったのですが、今の季節、長い道路に沿って桜が満開で、昨日小雨の中を車で走っていてもとてもきれいでした。


今朝は晴れたので、ちょっと見に行ってみようという算段。


ところが、簡単に道に出れると思ったら道に迷ってしまって10分ほどうろうろ。

これが非常にいい散歩で、リスを何匹も見かけましたし、ウグイスも見ました。


桜並木を歩いていたら、脇道に入る部分に宿の宣伝看板があり、そこから入ったら1分もせずに宿に戻れました。


宿のご主人によれば、桜並木が綺麗なのは、1年でもこの10日ほどだけ、とのこと。

1週間程度は持つけど2週間は持たないというので、非常に良い時期に訪れたことになります。




宿の中庭に、木でできたブランコがあります。


そのブランコのそばに飛び石があるのですが、いわゆる「けん・けん・ぱ」になるように並んでいる。

長女が発見し、「けんけんぱ」で子供が遊び始めます。


これ、偶然かと思ったら、子供が喜ぶと思って先代のご主人が手作りしたものなんだって。

子供が見つけ、遊んでいたので喜ばれました。




朝ごはんもまた、おいしい。

焼き魚に味噌汁、温泉卵、サラダ、香の物、ごはん。他にもちょっとずつ、いろいろついてるので楽しめる。


豪勢ではないけど、丁寧に作られています。好感度高い。



ごはん食べ終わったらすぐ出発するよ、と子供に言ってあったので、食堂を出る際に「ありがとうございましたー」とあいさつ。

それはまだちょっと早い。宿泊費払ってないから。




最後に、宿の主人が子供たちに「じゃんけんしよう」、と言って来ました。


子供たちと一斉にじゃんけん。

次女だけ勝ちました。


すると、「どうぞ」とポケットからマーブルガムを取り出す。


もう一度やって、長女が勝ち、ガムを貰います。


長男のためにさらに勝負を続けるのですが、長男負け続け。

勝ったら「やっと勝ったか」と笑いながらガムをくれます。


後で次女が言ってたけど、「あのおじさん、グーしか出してなかったよー」って。

長男も気づいたので、わざとチョキを出し続けて、どんな反応するか見てたらしい。



この宿、子供向けに細かな配慮が多々見られました。

非常にいい宿です。


子供たちも気に入ったようで、また行きたい、次に伊豆旅行行くなら宿はあそこが良い、と言っています。


まぁ、伊豆ばかりでもつまらないので次の伊豆旅行は、早くても1年後でしょう。

でも、またこの宿に、というのは十分考慮してよいかと思います。



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バナナワニ園  2015-03-31 21:37:24  旅行記 家族

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バナナワニ園

春の家族旅行記の続きです。



宿を出たら、まず熱川バナナワニ園へ。

今回の旅行の目的の一つでしたから。


でも、実は計画中に、行くのやめようかとも思ったんですよ…

熱川は温泉地だから、温泉入ってバナナワニ園見る、というコースならそれもいい。


でも、近くに他の観光地は特にないのね。

それでいて、バナナワニ園はゆっくりしていても2時間程度で見終わってしまう程度のボリューム。



シャボテン公園の近くには、観光地がそれなりにある。

そのあたりからバナナワニ園まで、片道30分程度です。


2時間の観光のために、往復1時間が無駄になってしまう。

これがバナナワニ園を辞めようかと思った理由。



でも、宿泊したペンション「とうてんぽーる」は、中間地点に位置していました。

というか、そのあたりの宿を探したのだけど。


それで、2日目の冒頭にバナナワニ園を持ってくれば、それほど無駄なく回れることに気付きました。




そんなわけでバナナワニ園。

最初にワニを見たら、次女怖がる。


朝早かったせいか、ワニあんま動かないしね。ゆっくり見ずに、どんどん進む。


実は、端にいたオオバタンというオウムの仲間が一番人気だったかも。

「オハヨウ」って喋ってくれるのだけど、非常に気まぐれで、時々しか喋ってくれない。


後はすごい大声で啼くので騒がしくて、人が結構集まってくる。

人が集まってきて「しゃべるらしいよ」ってみんなが一生懸命話しかけて、やっと「オハヨウ」っていうとみんなが去っていく、という感じ。



ワニ園の端には、ワニワニパニックが置いてありました。

長男初プレイ。楽しかったようです。




バナナワニ園は3つの建物に別れています。

ワニ園を出たら移動のマイクロバスが待っていたので、乗り込む。


これでバナナ園へ。

名前の通り、バナナが沢山植わった温室があります。

そのほか、熱帯植物が沢山。


そして、レッサーパンダもたくさん。

20年前にはこんなのいなかったんじゃないかな?


…って思ったら、30年前からいるらしい。

日本で最初にレッサーパンダが来た動物園の一つだとか。


ちゃんと動物園として、レッサーパンダの中でも絶滅危惧されている種を飼育し、研究しているようです。



植物ばかりでは飽きるので、設定順路の途中でレッサーパンダがいたり、ワニがいたり、飽きさせないように工夫しています。




バナナ園で、「漫画に見るバナナワニ園」という特別展示をやっていました。


漫画で見る、と言いつつ、テルマエロマエとワンピースの2作品のみ。

バナナワニ園をモチーフにした場所が出てくるのだそうです。


…大学の頃に、友達が「バナナワニ園モチーフの漫画」の話をしていたのだけど、それは無い。

友達の彼女(=僕も入っていたサークルの仲間の女の子)が買っていた女性漫画雑誌に載っていたもので、シュールでブラックなギャグマンガ。


バナナワニ園としか思えない「ワニばかりいる動物園」の日々を描いたもので、毎回お客さんがワニに食べられる。

(直接的な表現は無く、ただ忽然といなくなっている)


そういう作品も是非周知してください。(無理)




バナナ園からは、またマイクロバスで戻ります。

もう一つの建物は、ワニ園の目の前でした。気づかずに移動しちゃっただけ。


そちらは、熱帯植物園。

バナナ園も熱帯植物だけど、主に南国フルーツなど。本園の方は、花とか食虫植物など。


妻がこういうの好きだから喜ぶだろうと思いきや、あれもこれも持っていたけど飼育が難しくで枯らした…と罪の意識に苛まされてました。

いやいや、温室でもないと難しい植物だから仕方がない。


睡蓮の温室前に、アイスクリームスタンドがあります。

この日は春の陽気で、温室の中は暑いくらい。アイスクリームを食べましょう。


バナナ・マンゴー・ココナツ・ドリアン・パパイヤの5種。

みんなどれが食べたい? ときいていたら、次女が「5人いるんだから、全部食べようよ」とまっとうな意見。


まぁ、最初からそのつもりで、一応誰がどれを取るか事前に決めていただけなのだけどね。


このアイス、その香りが付いているとか、果汁が入っているとかではない。すべて果肉入りです。

食感の違いまであって、どれも非常においしいし、食べ比べると楽しい。




そのほか温室を巡り、終わってからもう一度ワニ園へ。


10時前にはいり、2時間ほど見て、もうお昼でした。

ワニ園に簡単なスナックスタンドがあるので、そこでお昼ごはんにしてしまいます。


…してしまいます、ってやっつけで食べるみたいだけど、ここでしか食べれないものがあり、長男が食べたがっているの。


バナナカレー。

バナナ園でとれたばかりのバナナを入れたカレーです。長男カレー好きで興味津々。


あと、バナナソフトクリームもおいしいと評判。

さっきアイスを食べたばかりですが、ソフトクリームも食べます。確かにおいしかった。



カレーは、調理に少し時間がかかります、というので待っています。

まぁ、バナナとカレーって合うよね、位に思っていたら、調理しているのが見えて驚いた。


僕は、生のバナナをスライスしてカレーをかけるんだと思っていたのね。

そうしたら、バナナをフリットしている。衣をつけてあげているのね。


あー、すべて納得。生より絶対うまい。さすがに、バナナのおいしい食べ方を知っている。


バナナは加熱すると甘みがすごく増し、食感も非常に柔らかくておいしくなります。

カレールーの「柔らかさ」「暖かさ」「辛さ」に、フリットしたバナナの「柔らかさ」「暖かさ」「甘さ」で、渾然一体としながら違う味が混ざり合うのを楽しむ、と、そういう食べ方です。


長男が主に食べたわけだけど、一口貰ったらおいしかったよ。

ただ、作り方がわかれば自分の家でも作れるかもね。



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ぐらんぱる公園  2015-03-31 21:37:44  旅行記 家族

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ぐらんぱる公園

春の家族旅行記の続きです。



バナナワニ園から移動に30分。

ぐらんぱる公園についたのは1時前でした。


この公園、20年前はそれほど人気なかった。

難度か遊びに行ったことあるけど、いつでも空いていて伸び伸び遊べるのね。


もっとも、遊ぶものもそれほどない。

お金を出すとパターゴルフとかできるけど、のんびり時間を過ごす、というのが主な楽しみ方だったような…



20年ぶりに来たら変わっていました。

平日だというのにすごく人が多い。大人気スポット。

入園料はそれほど高くないのだけど、中で有料のアトラクションがいっぱいあります。


こりゃぁ、有料アトラクション入らないわけにいかないな、と15枚つづり券を購入。

子供たちは「あれやりたい」「これやりたい」と好き放題言っているので、一人券三枚はつかえる、と伝えます。


有料だと知ったら、どれをやるか悩み始める子供たち。

「少しだけど無料の奴もあるから、それは好きなだけ遊んでいいよ」と伝えます。


じゃぁ、まず無料の奴やる、というのでトランポリンへ。




トランポリンでビヨンビヨン跳ねる。


すぐ飽きるかと思ったら、子供は延々とあそんでいます。

「お父さんもおいでよ」といわれて少し跳ねてみると、なるほど、これは面白いわ。


というか、これは20年前にもあって、やっぱずいぶん遊んだ覚えがある。

20年前は…この近くに、垂直落下する「フリーフォール滑り台」があったのだけど、それは無くなったようだ。

あれも無料で面白かったのに。




ずっと遊んでいた長女が、急に「次の奴行く」と言い出す。

次の無料は、110mのローラー滑り台。


3回ほど乗ったのだけど、カーブが多くて速度が出ない。

家の近所(と言っても車で30分はかかる)の滑り台はもっと速度が出るので、「次いこう」となる。


ローラー滑り台の隣に「おもしろ自転車」があって、長女がそれに乗りたいというので、まずはチケットを使ってそちらへ。


一人チケット2枚。未就学児童は1枚。合計9枚使います。20分乗り放題。


まぁ、内容的にはよくある「おもしろ自転車」なのですが、今まで見た中では、面白いものが揃っている方でした。


「5人で円形に繋がった自転車に乗り、こぐと同じところをぐるぐる回る」なんていう前衛芸術的なものもある。

自転車って移動手段のはずなのに、移動できないばかりか、あまり速度を上げると遠心力で振り落されるという、自転車の存在意義を問う作品。


6人で一緒に載れる自転車、なんてのもありました。

みんなで話をしながら楽しめるように2人づつ向き合うように乗るのだけど、進行方向は「横」なのね。

代表者が運転するのだけど、横向いてるから結構難しい。


乗るのが難しい自転車も一部あるけど、基本的にはどれも簡単。

おかしな操作を楽しむ、というものでした。




最後の無料スポットは、アスレチック。

これが本格的で、子供はまた一生懸命遊び出す。

最後まで行ったら2周目に入る。



遊んでいる間に、4時過ぎのアナウンスが入ります。

5時には閉園なので、チケットをお持ちの方はお早めに…


あと6枚残っています。

丸木舟で流れる水の上を流されていく子供向けライドが、1人だと2枚、2人で3枚でした。

なので、子供三人と妻で乗ります。


僕はビデオとってやろうと乗らなかったのだけど…

これが、非常にのんびり流れる。ゆっくりなので長男にはつまらなかったらしい。


ただ、園の方も「つまらない」という認識があるのか、申し訳なさげにおまけがついてくる。

出口の後に、トンネルをくぐって滑り台で降りる、という遊具が置いてありました。

丸木舟に乗った人しか遊べません。


これが楽しかったようで、何度も入っては滑りを繰り返してます。

まぁ、3~4回廻ったら飽きたみたいだけど。




「もう一度トランポリンやりたい」というので、余った時間はずっとトランポリン。

もう、お客さんも帰りはじめていて、空いてきたので思い切り遊べます。


そして、やがて「蛍の光」が鳴り始めて終了。

「当店は間もなく閉店いたします」ってアナウンスが流れてたけど、「当店」なんだ。


#「蛍の光」にアナウンスまで入れてあるCDでも売っているのだろうけど。



#どうでもいいけど、トランポリン近くにあった像があまりにもインパクト強かったので、写真添付。

 (写真をクリックすると大きな写真が見られます。)

 象の形の水道です。飲料水、と書いてあるから飲めるのでしょう。

 でも、水は鼻から出ます。鼻水です。しかも、鼻水を出すには、乳首をひねる必要があります。

 なんだ、このカオス感。



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帰り道  2015-03-31 21:39:27  旅行記 家族

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春の家族旅行記の最後です。



ぐらんぱる公園の隣は、昔から物産館がありました。


整備されて綺麗になって、道の駅になっていました。

でも、シャボテン公園、ぐらんぱる公園とおなじ「グループ」となっていた。


道の駅って、地方自治体とかが作っているのかと思ったけど、会社の「グループ」で作れるんだねぇ。知らなかった。


この道の駅ではお土産買って帰りました。



長男が、「夕ご飯どうするの?」と聞いてきます。

まぁ、遅くなったから帰りにどこかで食べるよ、と言ったら「昨日お刺身美味しかったから、回転ずしが良い」と。


あー、伊豆なら回転ずしでもうまいかもねぇ。

誰からも異論がなかったので、じゃぁ、お店見つけたら入ろうと約束します。


…走りはじめてすぐありました。2店並んでます。

ここで入っちゃいましたけど、その後もいっぱいありました。

この周辺、回転ずしだらけらしい。


回転と言っても、値段は安くありませんでした。

その代り、味も非常に良いものでした。


長男が宿の食事で気に入っていた、イカ明太のお寿司もありました。

どうも、このあたりでお土産物として売っているようで、瓶詰がカウンター近くに置いてありました。



帰りの車、長女・次女は疲れてすぐ寝てしまったのだけど、長男は流石に体力があってしばらく起きてる。


すごく楽しかった、というのと同時に、昨日同じ道走ってきたばかりなんだよねぇ、と。


1日目、さくらの里行って、シャボテン公園行って…このシャボテン公園が、午前中は動物園、午後は植物園として楽しんだ。

サボテンカレー、サボテンバーガー、サボテンの実ジュースなんて珍しいものも食べた。


そして、ペンションに行って露天風呂入って、非常においしいごはん食べた。

ちょっと散歩したらリスもいるしウグイスもいる。すごく自然豊かなところだった。


2日目も、バナナワニ園行って、バナナアイスとバナナソフトクリーム食べて、バナナカレーも食べた。

さらに、ぐらんぱる公園で思いっきり遊んで、隣の道の駅でお土産を選んだ。



非常に濃密な2日間でした。

これを思い出すと、昨日来たばかりとは思えない、というのもよくわかります。



また伊豆行きたい、というので、考慮しようと思います。早くても1年後とかだけどね。


伊豆には、まだまだ面白いところがいっぱいある。

今回は、はじめてだったから比較的「子どもウケ」するところを選んだだけです。



1回の旅行だと全部はとても回れません。

僕もまた行きたいです。



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