2016年04月25日の日記です


ゲームの面白さ  2016-04-25 17:05:59  その他

ゲームってなんで面白い? をテーマにした GAME ON 展なのだけど、特に答えはない。


元々答えだせるようなものではないからね。

答えがない問いというのが悪いわけではなくて、みんなが考えるきっかけになると面白い。



少し前から、別の問題として「ゲーム性」という言葉を考えていた。

こちらも、よく使われる言葉だけど定義はない。曖昧で無意味な、便利な言葉として使われているだけ。


ゲーム性ってなんだろう、と考えるとこちらも答えの無い問だ。



でも、僕はゲーム開発者の端くれなので、ゲームの面白さとか、ゲーム性について突き詰めて考えたことはある。

ここらへんでちょっとまとめたくなった。


最初に断っておくが、本気で説明し始めると本が一冊かけてしまうと思う。

ここで書くのは、ざっくりとした概論だけだ。


それも、「僕の考え」というだけで、一般性がないことに注意。

そのつもりで読んでほしい。




まず、ゲームの定義。


「ルールの中で勝敗を決めるもの」



テレビゲームに限らず、勝敗がないものはゲームではない。


いわゆる「テレビゲーム」でも、勝敗がないものは多数ある。

例えば「どうぶつの森」には勝利条件がないし、ゲームオーバー条件もない。

これらはゲームではない。


ただし、後で書くけどこれらがゲームであると認められる要素もあるので、ゲームと呼んで差し支えはない。




ルールは、プレイヤーに均等に勝利の機会を与えるものであることが望ましい。

望ましい、と言うだけで、偏ることを否定するものではないし、実は機会が均等すぎると面白くない。


「戦争」というトランプのゲームがある。

各自配られたカードを山にして置き、一番上をめくるだけ。

一番大きな数のカードを出した人が「勝ち」で、出されたカードをすべてもらい、山札に追加できる。

カードが無くなった人は負け。


このゲーム、恐ろしくつまらない。

勝利の機会は均等で、このゲームが「上手な人」も存在しない。


つまりは、運のみで、戦略要素は全くない。



ゲームは、習熟したものが強くなる方が面白い。

努力して勝つから楽しいのだ。


ルールの言っている「均等」は、努力まで否定して均質化するものであってはならない。




勝利することがゲームの目標で、勝利できなければ「負け」となる。

簡単に勝利できてしまってはつまらないし、どんなに頑張っても勝利できないのもつまらない。


ゲーム性とかゲームバランスと呼ばれるものは、このさじ加減に過ぎない。


このさじ加減の中で、どれだけの要素を盛り込み、プレイヤーを楽しませることができるか。


トランプのゲームでは、1ゲーム中に小さな勝負を繰り返すことが多い。


たとえば、大富豪では手持ちのカードからルールに従って順次カードを出す。

1周したところで一番強いカードを出した人が、次の回の最初のカードを出せる。


ここで、小さな勝利があるわけだ。この勝利を積み重ねることで、最終的な勝利を手に入れたい。

たとえ最終的に勝てなかったとしても、小さな勝利を積み重ねれば楽しむことは出来る。


大富豪の場合、ゲームの勝利は次のゲームに影響を及ぼすため、連続したゲームを行うのが普通だ。

つまり、最終目標であるはずのゲームの勝利すら、もっと大きな流れの中の小さな勝利に過ぎない。



こうした、勝負の多重構造の中で、負けた人であっても小さな勝利を何度も経験できるようになる。

勝負は多重構造になっていたほうが楽しめる人が多い。




1人用のゲームでは、誰かに勝利する、ということが無い。

代わりに、目標を設定し、目標を達成すれば勝利、達成できなければ負け、と考えることが多い。


テレビゲームも1人用である場合はこの考えに従う。


近年のゲームでは、1人用でもゲームが終了する勝利条件を決めていることがあるが、昔のゲームはユーザーが負けるまで終了しなかった。


つまり、ゲームの結果は最初から「ユーザーの負け」とわかっている。

普通に考えたら面白くない構造だ。


ここで、ユーザーは自分で目標を設定してゲームを始めることが求められる。

前回プレイよりも先に進みたい、高得点を取りたい。それらを達成できれば勝利であり、達成できなければ負けとなる。


ゲームの得点を友人たちと競う、という遊び方もある。

これは、特定のゲームを「ルール」として、そのルールに従って競争を行う、というより大きなゲームを作り出しているんだ。


ここでも、勝負の多重構造が見られる。ゲームAの外側で別のゲームBを始めているのだけど、そのゲームBへの参加資格は、ゲームAに「勝利すること」なんだ。


ここで注目すべきなのは、ゲームBの競争で盛り上がるためには、ゲームAが面白い必要は全くない、ということだ。

ゲームの面白さは、そのゲーム単体で語ることは出来ず、周囲を取り巻く環境まで考慮しないといけないことになる。




スペースインベーダーには「レインボー」と呼ばれる技がある。


この技、ゲームの得点には全く関係がない。

ただのバグで、インベーダー描画に失敗して画面が崩れる、と言うだけだ。


しかし、スペースインベーダーが流行していた当時、このバグを引き起こせることが、インベーダー上級者のステータスの一つだった。

ある程度習熟すると狙ってバグを出せるけど、慣れていない人には難しい。そういう類のものだからだ。



ここにもまた、ゲーム外の面白さがある。

無意味に難しいことをやって、成功させることを勝利条件とするのだ。


もしくは、周囲を感嘆させて、優越感に浸る。ゲームの勝敗には無意味でも、ゲームを楽しんでいることになる。



ここでもまた、ゲームの周囲の環境要因で、ゲームの面白さや楽しみ方が大きく変わることになる。




最初に書いたが、勝敗がないものはゲームではない。

しかし、勝敗はなにも、ゲームのルールに組み込まれたものだけではない。


周囲の環境も含めてゲームは存在する。

プレイヤーが人間であり、社会とは切り離せない生き物である以上、ゲームの周囲の環境を無視することは出来ない。


よりダイレクトに周囲の環境をゲームに取り込んだ、対戦ゲームやMMORPGが流行したのも納得できるし、ソーシャルゲームが人気なのもそういうことなのだろう。



そして、周囲の環境をゲームに取り込もうとすると、その環境からプレイヤーをはじき出す、つまりは「勝敗を決める」ことが邪魔をし始める。

いつまでもゲームの世界にとどまり、周囲と関わり続けられた方が、ゲームとして面白いことになる。


ここで、最初に書いた「ルールの中で勝敗を決めるもの」というテレビゲームの定義が破綻する。



どうぶつの森だって、ザ・シムズだって、ゲーム内には勝利条件もゲームオーバー条件も設定されていない。


でも、自分で勝利条件を決めながら遊べばいい。

化石をコンプリート。虫をコンプリート。


好きな住民の好感度を上げ続けて、引っ越しさせないようにとどめておく、というのだって勝利条件になりうる。



実は、世界最初のテレビゲームとされる SPACE WAR だって、勝利条件なんてない。


「破壊されたら負け」は多分みんなが感じるのだけど、そこで3回勝負にしたってかまわないし、3回破壊される間に1回でも破壊したら勝ち、というハンデ戦だって構わない。


ゲームに勝利条件が必要、ということと、それをプログラムとして組み込んである、ということは違うんだ。




ここまで、ルールの話だけをしてきた。

ゲームはルールの中で勝敗を決めるもの、という定義で話を展開していたからだ。



しかし大前提として、ゲームは、「遊び」の中の一分野に過ぎない。

そして、遊びは4つの要素に分解できる。


競争と運の2つは、ゲームにも重要だ。勝敗は競争の結果だし、時の運もある。


そして、模倣と眩暈(めまい)。

初期のゲームはともかく、最近のゲームはこの2つを積極的に取り入れ、「あそび」としての質を高めてきた。


スペースインベーダーは、宇宙戦争のヒーローになるゲームだ。

しかし、遊ぶ人はみんな「ゲーム」として遊んだだけで、模倣…ごっこ遊びだとは思わなかっただろう。


でも、ポールポジションは本当にレーシングカーに乗っているように思わせてくれたし、アフターバーナーは戦闘機乗りの気分にさせてくれた。

ATARI の STAR WARS は、宇宙戦闘機のパイロットの気分で、スペースインベーダー以上に「宇宙戦争のヒーロー」を体験させてくれた。


この、日常とは違う体験というのが、眩暈そのものだ。


これらの延長上に、3DでHDでVRなゲームがある。




模倣と眩暈は非常に楽しいし、ゲームに欠かせないものだ。

でも、それを「ゲームの楽しさ」と呼ぶのは少し違うと思っている。


模倣と眩暈「だけ」なら、映画などでも作り出せるからだ。


僕らが余暇を楽しむとき、映画ではなくゲームを選んだのであれば、それは映画とは違う、ゲームの面白さを求めていることになる。


大きな物語に身を投じるという「模倣」を楽しみたいのであれば、映画を選ぶのも良いだろう。


ゲームを選んでも、模倣の要素がいらないと言っているのではない。

でも、映画にはない競争や運を楽しみたいと思っているのは間違いないんだ。


ゲームをゲームにしているのは、競争と運の要素であり、そこにゲーム独自の楽しさの本質がある。

模倣と眩暈は重要な要素だけど、ゲームの楽しさの中で、比率としては小さい。




眩暈とは「日常ではないこと」や「意表を突かれること」だ。

繰り返していると、やがて日常になってしまうし、予期できるようになってしまう。すると眩暈は消えてしまう。


だから、眩暈の要素は時代と共に過激さを増していく。


当初はアフターバーナーにこれ以上ないリアルを感じていたはずなのに、3Dポリゴンでないとダメになる。

バーチャファイター1に驚いたはずなのに、今3を振り返ると「全然リアルではない」と感じてしまう。


模倣も眩暈も、一過性のものだ。



ゲーム自体が流行性の商品なので、一過性のものを取り入れるのは当然のことだし、悪いことではない。

でも、この部分を中心に据えてしまうと、5年後には価値を完全に失うことになる。



「競争と運」を軸とした強固なルールを組み上げるのが、ゲームの面白さの本質だと思う。


とはいえ、先に書いたように、ゲームは周囲の環境と切り離せない。

競争が、「仲間との競争」だったりすると、数年後には競う仲間がいなくなってつまらなくなったりする。


これは、いつまでも楽しみ続けられるゲームは存在しない、という意味になる。

実際には、いわゆる「思い出補正」などもあり、昔のゲームでもそれなりに楽しめるのだけど。




僕は、限られた条件の中で、戦略を考えて勝利を目指すタイプのゲームが好きだ。


対人対戦は、考えても勝利が見えないジャンケン状態に陥ることがあるので好きではない。

また、対人対戦は、流行によって相手を見つけられないことがあり、好きなタイミングで遊べないので好きではない。


もっと言えば、単純なルールで複雑な状況を作り出す、非リアルタイムのゲームが好き。

1プレイの時間が短いのも重要。


倉庫番も ROGUE も、30年以上前のゲームだけど、今でも新鮮に楽しく遊べる。

最近やってないけど、大戦略シリーズも好きだった。




でも、これは僕個人の趣味。

他の人がどのようなゲームが好きかを否定するものではないし、他のゲームがつまらないということでもない。


ゲームの面白さって、結局は自分の中にある。

面白さを分析することもできるし、その分析を他のゲームを作るときに活かすこともできるのだけど、最後は遊ぶ人次第だ。



最近のゲームはつまらない、という人がいる。

その人は、ゲームとちゃんと向き合ってないんじゃないかな。


楽しもうという心がないとゲームは楽しめない。

最初から「最近のゲームはつまんない」と思いながら遊んだら、そのゲームの面白いところを見落とすだけだ。




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