2017年11月01日の日記です


千客万来  2017-11-01 10:41:53  業界記

セガにいる間に、何度か著名人が訪れたことがありました。

大会社だから、いろいろな人脈がありますよね。今回はそういうお話。




僕が入社する直前、当時「世界最速の男」と呼ばれたF1ドライバー、アイルトン・セナが訪れたのだそうです。


当時のセガの副社長、入交正一郎氏は、前職がホンダの副社長でした。


ホンダはF1にエンジンで参戦しています。

当初はセナが在籍していたロータスへエンジンを供給し、セナがマクラーレンに移籍すると、マクラーレンにエンジンを供給しました。


入交氏はこの頃にセガと親交を厚くしたそうで、新しい会社に移ったと聞いての表敬訪問だったようです。



入交氏がセガに入社したのは1993年の6月。

セナがレース中の事故で死去したのが 1994年5月1日。


僕はセナがセガを訪れたのがいつか知らないのですが、この間の出来事なのでしょう。


セナが訪問した際、本社入口にロビーに、「スーパーモナコGP」(1989年のアーケードゲーム)を置いて、開発者と対戦したのだとか。

結果は開発者の勝ちで、「世界最速の男より速い男」の栄冠を得たそうです。



#最初に書いた通り、僕が入社する前の話なので先輩からの伝聞です。

 なお、入交氏がホンダから持ってきて、このときにセナからサインを書いてもらったという本物のF1カーは、セガの倉庫に置いてあったのを見ています。




マイケル・ジャクソンがセガを訪れたのは、たしか…「人相占い」のプロジェクトが発足したものの、何もやることが無くて暇だったころ


マイケルはセガのゲーム大好きで、時々お忍びで日本にも来てましたし、日本に来た時にはセガを訪れていました。


このときも、そういう感じでセガに来たらしいです。

でも、いつもよりも時間があったようで、ゲーム作成現場の各部署を案内してもらっていた。


#ゲーム開発現場は社外秘だらけですから、普通は急にやってきたお客さんになんて見せません。

 マイケルだから特別扱いです。



世界的スーパースターが職場にやってきた、というので周囲は騒然としていました。

とはいえ、そこは仕事中。浮かれて野次馬をするわけにもいかず、みんな自分の仕事を黙々と続けます。


今作成中のゲームなどを一通り見た後で、「最近は日本ではこれが人気なんですよ」と、プリント倶楽部を見せます。


#プリント倶楽部はアトラスのものですが、AM1研でも関係が深く、部署内に置いてありました。

 詳しいことはまたそのうち。



作成中のゲームをいろいろと見せてもらい、自分の顔写真をシールにしたものをお土産にもらい、にこやかに部署を出ていくマイケル。


…この後、一斉に野次馬が動き出します。

プリント倶楽部では、「コンティニュー」することで、直前に作ったシールを追加印刷できるのです。



次々とシールが印刷され、ミーハーな人達で部署内はちょっとしたお祭り状態。

シールの用紙が無くなり、補給して印刷していたので、かなりの枚数が作られたのではないかな。




飯野賢治さん。

たしか「ここらでコラムス」を作りはじめた頃だったと思いました。1996年の10月ごろかな。


その時のプロジェクトチームの席が部長室に近かったため、部長室から出てきて去るまでの間を、ちょっと見かけただけ。


飯野さんはその後亡くなっていますが、天才ゲームデザイナー、ともてはやされ、雑誌などにもよく出ていました。

ここでいう「天才」というのは、ゲームが面白かった、というようなことではないです。残念ながら。


むしろ、ゲームは万人受けしない、強烈な個性のものが多かったように思います。だからゲームとしての評価もそれほど高くない。

しかし、その個性的な内容が同業者…他のゲームデザイナーなどに評価され、対話してみるとゲームに対する深い造詣・ゲーム愛を感じる、などのことから「天才」と呼ばれていた模様。

雑誌などによく出ていたというのも、こうした対話が面白かったため、インタビューなどが良く行われたためのようなのですが…


多分、一緒に酒でも酌み交わさないと理解できないタイプの人です。

当時の僕は率直に言って、「天才」と呼ばれているけど、作るゲームは大して面白くないし、メディアに祭り上げられているだけの人、と思っていました。


プレイステーション陣営のゲームショーで、「次のゲームの対応ハードは、プレステから予定を変更し、セガサターン専用」と大々的に発表し、話題となったのが 1996年3月27日。


部長室に来ていたのは、その衝撃がまだ冷めやらぬ頃です。

なんの話をしていたのかは知りません。

話題の人がサターン陣営に入ったわけで、そのまま ST-V などにも展開できないか、というような話があったのかもしれません。


#当時のセガは、サターンと ST-V が互換機版であることを活かして、家庭用で人気のゲームを業務用にも展開できないか模索していました。



最後、部屋を出ていくところを見ただけですが、体躯も大きく怖そうな人…プロレスラーや暴力団員を想像する威圧感がありました。


亡くなったずっと後に飯野氏がまとめたインタビュー集などを読んで、結構繊細で、ゲームを作るのが本当に好きな人だったんだな、と知りました。




田尻智さん。

こちらも「ここらでコラムス」を作っている時でした。結構遊べる形になっていたから、11月頭頃かと思います。

(中旬には、「ここらで」は打ち切られ、「コラムス97」の作成に入るので)


ポケモンの発売が同年 2月27日ですね。

ポケモンは当初全然売れず、ベスト 10 入りしません…が、常に 20位以内には入っていました。


そのまま数か月「ベスト 20位入り」を続ける、というおかしな売れ方のソフトになっていきます。

普通のソフトは、発売後1か月くらいで極端に売れ行きが落ちるのね。


これで「変な売れ方をしているソフトがある」と話題になり始めるのが夏ごろ。

「コラムス97」の企画者Mが、僕に「ひとりで遊んでも面白くないらしいので、一緒に買って遊ぼう」と持ち掛けてきます。


僕はこれでゲームボーイ本体から購入したのですが、当の本人は1週間くらい遊んだところで「自分の好きなタイプのゲームではなかった」と投げ出しやがった。ひどい奴だ。


…まぁ、それは余談。



本当にポケモンが話題になるのは冬頃からで、この段階では田尻さんはそれほど有名ではありません。


#まぁ、「知る人ぞ知る」タイプの有名人ではありましたが。



ここで田尻さんは仕事から一時解放されているわけです。

そして、1994年にはセガで「パルスマン」を作ってもいます。


多分、セガに来たのはまた仕事ができないか、というような相談だったのでしょう。

で、飯野さんと同じく、サターンで仕事をするなら ST-V でも何かできないか…というような流れではないかと。



部長室での会談が終わって出てきてから、近くで動いていた「ここらでコラムス」に興味を持っていただけたようで、少し遊んでもらいました。


非常に腰の低い、丁寧な方で、演出面の効果などよくできている、と褒めていただきました。

以前に書いたように「ここらで~」はお蔵入りになってしまったので、社外の人で遊んだのは田尻さんだけだと思います。



また余談:

コラムスの企画者Mは、結構ゲーム関連の同人誌とかを持っていて、このとき机の引き出しの中にゲームフリーク版「ゼビウス1000万点への解法」が入っていたのだそうです。

でも、このときはほんの数分の出来事で、そんなことに頭が回りませんでした。


後になって「サイン貰えばよかったー!」って悔やんでました。


#ゼビウス1000万点~は、「うる星あんず」氏が作った同人誌。コピー本。

 あまりに有名になり、日本全国から「買いたい」という問い合わせが殺到したため、田尻さんが主宰するサークル「ゲームフリーク」で改訂版を発行する。同人誌だけど合計で約1万部を売り上げ。

 さらにその後、マイコンベーシックマガジン付録の「スーパーソフトマガジン」で、この内容を再編集したものが3回にわたり連載される。

 この本は、「世界初のゲーム攻略本」ともされている。




スティーブン・スピルバーグ監督がセガを訪れたのは、コラムス97のサターン版のための「残務処理」をしている頃でした。



スピルバーグ監督の映画会社「ドリームワークス」とセガは、1996年3月に、アメリカでテーマパーク事業を展開する「ゲームワークス」を立ち上げます。


セガはアミューズメントテーマパーク構想をぶち上げ、「各都道府県に1つづつのテーマパークを作る」としていました。

…が、すぐに頓挫。言っちゃ悪いけど、「テーマパーク」なんて言いながら、実情はゲームセンターに過ぎなかった。



ナムコは同じ頃に同じようなことをしていましたが、こちらはもっと「遊園地」らしさがありました。

セガは技術力はあるのですが、どうもそこに頼りすぎて、遊園地らしい雰囲気を作り出せず、ゲームセンターになってしまうのです。



そこで今度は、スピルバーグが監修を行い、セガの技術的なノウハウを活かして、アメリカでテーマパークを展開しようとしたのです。

このための会社がゲームワークスでした。


…で、1997年の1月に、スピルバーグがセガを訪問したわけです。

マイケルの時と同じように、各部署を案内されて回っていました。



スピルバーグ監督、男の子を連れてきていました。多分お子さん。

開発中のゲームを見る際も、この男の子が興味を持ってみていた感じ。多分ゲーム好きなんでしょうね。


最後に、みんなで記念写真撮りました。

「1月」と時期を明示できるのは、この写真の中にカレンダーが写っているため。



…プライバシーもあるのでとても写真は公開できないのだけど、部署全員が写っているわけではないな。

どういう基準でこのメンバーになったのだろう。


撮影場所は、コラムスチームのブースだったはず。

ゲーム作り終わった後で、ブースに「空き」があったので、みんなが集まって撮影できそうな広さがあったのだと思う。


カメラマンが僕の机の上に立って撮影したのも覚えています。


多分そのせいで、僕はかなりいいポジションで写真に写っています。

最前列、ほぼ中央。ちょっと右より。

僕の隣、ちょっと左寄りには、男の子…監督のお子さんがいます。


そして、最前列中央の二人に手をかけるような形で、監督が後ろに立っているのです。


#男の子の方には手を載せているが、僕の方には別に載せてません。そういう位置、というだけで。




これ以外に、タレントの松村邦洋さんが来たことは知っています。会っていないけど。


セガは、当時ゲームの中に広告を入れる、というビジネスモデルの実験をしていました。

これを受けて、テレビ番組「進め!電波少年」の企画で、ゲームの中に広告を入れてもらおう、もちろんタダで!という企画があったのです。


松村邦洋さんが来て、セガの広報の人を拝み倒して、何かのゲームに広告を入れる、と決まります。

で、当時僕が参加していた「ファイナルアーチ」に広告を入れたので、後日テレビ局スタッフがゲーム画面の撮影に来ました。


そんなわけで、「会ってないけど来たことは知っている」です。



もう一人、声優の千葉繁さんが来ていますね。こちらも会ってません。


手相占い ちょっとみせて」のナレーションは千葉さんです。企画の先輩がアニメ好きで、千葉さんの大ファンでした。

なので、地位を利用して千葉さんに仕事を発注し、会ってサインをもらってきていました。


AM2研にあったサウンドのスタジオで収録していたので、サウンドの人と企画の先輩は会っていますが、僕は姿を見ていません。




と、これが僕が知っている範囲のすべて、かな。

もちろん、会社としてのセガでは、もっとたくさんの人が来ているはずです。


というか、一緒に働いていた人達でも、たびたびメディアに出ている人とかいましたし、外の人から見たらセガ自体が著名人だらけだったのだろうなぁ…




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