目次
07日 異臭症のその後
09日 めがね
15日 町内ウォークラリー
20日 料理コラム
25日 グノーシア
30日 i-mode終了
コロナ療養のその後。
7月下旬〜8月上旬、コロナの「第5波」とされる最初期の頃にコロナに感染し、まだ後遺症が続いています。
半月ほど前に、嗅覚異常はほぼ治った、と書いたのだけど、どうも治っていなかった。
今回はメモ書き程度のその話。読んでためになることは何もない。
嗅覚異常は、最初は「匂いがしない」だった。
ハッカ油やマニキュアの除光液のような強い匂いでも、全く感じなかった。
その後、すこし匂いを感じるが、代わりに常に「なにか違う匂い」を感じる状態に。
これが治って変な匂いを感じなくなった、と書いたのが半年前。
でも、「常に違う匂いを感じる」がなくなっただけで、「特定の場合に違う匂いを感じる」状態になっていた。
なんらかのフルーツ香に、ゴムのような匂いが混ざるのね。
ぶどうジュース、りんごジュースとか、マロンケーキを食べてもゴムの匂いが感じられる。
変わったところでは、醤油の香りにもゴムの香りが混ざった。
甘い匂い+醤油、ということで、バニラ香をご認識するのでは? とおもってバニエラエッセンスを嗅いでみたが、これは純粋にバニラの香りだった。違うようだ。
(問題点に仮説をたて、問題の切り分けをしようとするあたりはプログラマの職業病)
家族に話したところ、同じくコロナで嗅覚異常があった長女が、すこし前に同じ症状だった、とのこと。
長女の嗅覚異常は、ほぼ治ったようだ。
家族で嗅覚異常の話になったついでに、嗅覚の感覚検査。
ハッカ油や香水など、匂いの強いものをいくつか嗅いで見る。
今一番嗅覚異常の残っている長男でも、これほど強い匂いは「すこし感じる」そうだ。
治癒のきざしはある。
かなり治った、と思っている僕だが、匂いを感じる力が弱まっている、とは思った。
ハッカ油の匂いが、結構近づかないと感じなかったから。
以上、病気って治ると詳細を忘れてしまうので、今のうちにメモしておく、という日記。
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この1か月くらいの話だが、老眼鏡を本格的に使い始めることにした。
目が悪くなったな、と思って眼医者に行ったら「老眼です」と言われたのは、4年前のこと。
それ以前に、目が悪くなり始めたと感じたのは、以前ソシャゲの作成に参加していたころなので…
このあたりだな。7年前か。
このころは忙しかったので疲れ目だと思っていたのだけど、目が悪くなり始めた。
7年かけて老眼はじわじわと進んでいた。
先日、自分で仕事中に目を細めているのに気づいた。
無意識にそうしないといけないほど視力が低下している、ということだ。
メガネは慣れていないので普段使いしておらず、必要な時だけ使っていた。
でも、普段から目を細めているのなら「必要な時」ということだろう。使うことにした。
4年前に眼医者で老眼と言われたときに「100円ショップの眼鏡で十分ですよ」といわれ、その足で買いに行った。
今でもそれを使っていたが、居間と仕事場の両方にあると便利なので、買い足した。
4年前は、少し使っていると頭が痛くなった。
まだ老眼の度合いが低く、一番弱い老眼鏡でも強すぎたのだろう。
でも、今はちょうどいいというか、老眼鏡をかけないと手元の細かな文字が読めないので、かけている方が楽だ。
自分の老いを認めるのは気恥ずかしくもあるが、事実なので受け入れよう。
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住んでいる地域の町内会では、例年近隣の町内会対抗の運動会が開かれる。
といっても、参加者はそれほど多くなかった。
参加者が少なくても、市から「市民の健康のためのスポーツ振興」名目で補助金が出ているので、何かやらないといけないのだ。
昨年、コロナで密を避けるために、運動会を取りやめて「ウォークラリー」とした。
チェックポイントを近隣の町内会で用意するので、そこを回る。
健康増進が目的なので、無理に全部回る必要はない。いくつか回った参加者には記念品が出た。
で、これが大好評。運動会と違って、他の人とチームを組むような面倒くささもないし、好きな時間に少し参加すればいい。
今年も昨日の日曜日に行われ、盛況だった。
僕は町内会の役員なので主催する側なのだが、参加者を増やすため、子供を連れて参加するように要請された。
小6の次女と、妻と僕の3人で参加。
(役員はお年寄りが中心なので、小学生を連れて参加、とかできる人材が少ないのだ)
次女は「全部回る」と張り切っているが、次女の体力では不安だ。
スタートとゴールは自分の町内の町内会館だが、それ以外はコース取りも自由。
なので、前半にバス通りから離れたところを回り、後半バス通り沿いを通ることにした。
これなら、途中で疲れてもバスに乗って帰れる。
近隣の町内会合同イベントだが、うちの町内会は中央に位置する。
最初にバス通りから離れた新興住宅地を回り、1時間ほどでいったん戻る。
そこから、バス通り沿いの、鎌倉時代からの寺社などが並ぶエリアを通る。
(そうした寺社がチェックポイントになっている)
全部で7カ所のチェックポイントを回るところまでは、次女の体力は大丈夫だった。
でも、そこから町内会館に戻る間に弱音を吐き始めた。
実のところ、僕も少し足が痛い。
時間にして2時間少し、10km くらいだ。
コロナ以前なら当たり前に歩いていたのだが、コロナで外出できない間に足腰が衰えている。
しかし、無事帰還。
全部回った人(小学生以下のみ)には特別賞があるので、受け取る。
参加賞のおかし詰めあわせももらう。
特別賞と言ってもたいしたものではないが、「全部回った」という達成感の方が大切なのだろう。
午前中にウォークラリーに参加し、午後は足がだるかった。
しかし筋肉痛になることもなく、もう回復している。
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先日、過去に料理コーナーに書いた、「料理文化と火の使い方」のコラムを面白いとツイートしてくださっている人がいた。
古い記事だが、おほめいただきありがたい。
料理コーナーには、あの1記事だけを書くために、「料理コラム」というサブコーナーを作ってある。
実は、他にも書きたい話題があったから別コーナーを作ったのだ。
でも、自分の料理知識のなさに気づき、書こうとしたことが正しいかどうかすらわからなくなった。
そのため公表できないままだ。
ところで、僕はこのWEBサイト作成に当たり、できるだけ信頼性を担保するようにしているのだが、日記だけは別、と以前から公言している。
日記は思ったことを書く場所で、信頼性を担保しない。
というわけで、書こうと思ったことの概要だけでも示してみよう。
1つめ。万能調味料について書きたかった。
ここで、万能調味料とは、醤油、ウスターソース、トマトケチャップの3つのこと。
これらが万能調味料だ、というのは僕が子供の頃に思ったことで、とくに裏付けがあるわけではない。
しかし、日本料理は大抵醤油で味を調えられるし、洋食はウスターソースで何とかなる。
トマトケチャップも、洋食や中華の多くの料理の味付けで中心的に使われる。
こうした万能調味料はそれほど多くない。
独特の万能調味料を作り出した料理文化はすごいなぁ…と、子供だからそう思っていたのだ。
魚醤という調味料がある。魚を発酵させたものだ。
イワシなどは、死ぬと自らの消化酵素で溶けてしまう。この時に、腐らないように十分な塩を入れて殺菌しておくと、たんぱく質が分解されて適度にアミノ酸が生成され、とてもおいしくなる。
でも、たんぱく質が分解されたものって、とても臭い。美味しい一方で嫌われる。
なので、西洋では一旦廃れた。
日本では宗教の関係もあり、魚ではなく豆を発酵させた味噌が作られるようになり、さらにそこから「醤油」が生まれる。
醤油は、魚醤の発展形だ。
魚醤は西洋では一旦廃れたと書いたが、17世紀ごろ、東インド会社を通じて東洋から西洋に伝わたる。
ただし、非常に高価な輸入調味料だった。西洋人には作り方もわからなかった。
このころの西洋には、発酵調味料という概念がなかったようなのだ。
なので、発酵に頼らずに似たような味を作ろうと頑張った。
多くは、自然の状態でアミノ酸がたっぷりなキノコ類に、スパイスなどを混ぜたソースとして作られたようだ。
そういうソースはたくさん作られた。
その一つが、イギリスのウースターで生まれた「ウスターソース」だ。
これもキノコや野菜を中心とした数多くの食材にスパイスを混ぜたものなのだが、決定的な違いは「発酵」にあった。偶然から生まれたものなのだけど、ここで発酵調味料を再発見したのだ。
ただ、イギリスのウスターソースは、日本でいうウスターソースとは全く別のものだ。
万能調味料ではなく、料理の際に味に深みを出すために少しだけ入れるもの。
スパイスたっぷりで辛いしね。
それがなぜ、日本で醤油と並ぶ万能調味料になったのかは、よくわからない。
多分、醤油を使い慣れた日本人にとって、「食卓で自由に使える調味料」が西洋料理にも欲しかったんじゃないかと思っている。
ともかく、ウスターソースと名付けられているだけの全くの別物が、日本で独自に発展した。
だから、ウスターソースが万能調味料ですごい、という話は、根本が間違っていたのだ。
日本のウスターソースは、醤油のように使うものとして発展したから、醤油に似ている。ただそれだけのこと。
しかも、本来のウスターソースも、魚醤を真似しようとしたものだった。
似ているのも必然なのだ。
ところで、ウスターソースがまねようとした魚醤は、中国に起源をもつものだ。
「鮭汁」という。
鮭というのは、現代日本でいう鮭のことではなく、川魚の意味だ。淡水魚で作る魚醤だな。
そして、「鮭汁」のベトナム読みは「ケィ チァプ」となるらしい。
(ベトナムは現在ではアルファベットを使うが、漢字文化圏だ)
鮭は日本語でも「ケイ」と読むね。汁は日本では「ジュウ」なのだけど、広東語で「ジャプ」らしい。そして、ベトナム語は上に書いたように「チァプ」だ。
西洋には、KE-CHAP として伝わっている。
さて、先に書いたように、西洋人は鮭汁を知り、模倣し始める。
多くはキノコ類でアミノ酸の味を出そうとした、というのもすでに書いた通り。
後にアメリカ大陸が発見され、トマトが西洋文化にもたらされる。
(食べるまでに紆余曲折あるが、その話は今回はどうでもいい)
トマトは、野菜としてはアミノ酸がかなり多い方だ。
そこで、アメリカの人たちは、キノコではなくトマトを使った鮭汁モドキを作り始める。
これが、トマト ケィ チァプ…トマトケチャップだ。
そんなわけで、トマトケチャップもまた、魚醤を頑張ってまねようとしたものだった。
「トマト」と頭につけるのは、今でもキノコやフルーツから作られるケチャップも作られ続け、人気があるから。
日本ではケチャップといえばトマトだけどね。
この話のまとめというか、書くのを断念した理由。
そもそも万能調味料スゲー、という発想が日本のお子様だった。
食材の味を最高に引き出すためにはそれぞれに最適なソースを、という料理文化では、万能調味料なんて考え自体が許しがたい。
ソースやケチャップを万能調味料だと感じているのも、結局慣れ親しんだ醤油と方向性が似ているので「国内では」そのような使われ方をした、というだけの話。
ケチャップをスパゲティにからめたナポリタンとか、ご飯にからめて卵で包んだオムライスとか、日本で発案された料理。
まぁ、中華にもケチャップ炒めがあったり、カナダではケチャップ味のポテトチップが人気だったり、比較的多様に使われている調味料だとは思う。
2つめ。
料理文化の発展って、その地域の地理的条件とか、歴史とかと切り離せない。
そういうことを知ると、料理を食べるときにも味わい方が変わってくるなぁ、という話を書きたかった。
しかし、話題がとっ散らかりやすくてまとめられず、断念。
こちらも概要だけ示す。
フランス料理は、全体に均一に作らなくてはならない。
ソースはできるだけ均質に。付け合せのじゃがいもも、どれをとってもすべて同じサイズに。
フランス料理は貴族社会での政策の道具として発展した歴史があり、テーブルに着いたすべての人に同じものを提供できなくては問題を生じるのだ。
中世のフランスは飢饉が度々起きるような土地だった。
だから、何でも食べるように工夫した。時間をかけて食材を下処理し、臭みや硬さなどをなくし…言い換えれば素材の持ち味を消し、ソースの濃厚な味付けを楽しむような料理が発展している。
日本料理は不均一さをあえて作り出す。
卵焼きを作るのに卵を混ぜすぎてはならない。白身部分と黄身部分で味が違うのが、食べていて飽きないアクセントとなる。
これは、素材そのものを楽しもうという考え方だ。煮物を作るにしても、味付けは薄めにして、それぞれの食材の味を楽しもうとする。
場合によっては、生の魚を切っただけで提供する。味付けも何もしない。
それでも、数種の魚を盛り合わせると、それぞれの味の違いを楽しめる料理、刺身盛り合わせとなる。
中国は国土も広く、食材の流通も大変だった。
そのため、乾物を作り、料理する技術が発展している。
乾物ではなく生の素材が入手できたとしても、鮮度を保証できない。
だから、必ず火を通して料理した。そうしなくては、食中毒の危険性があるためだ。
刺し身のような料理はとても受け入れられない。
基本的に中華料理は「皆で同じ食卓を囲む」ことで連帯感を感じさせるもので、大皿で提供される料理を各自で取り分けるようになっている。
各自の裁量で取り分けるため、フランス料理のような、提供時の「均質さ」はない。見た目もあまり気を使わない。
均一さを良しとする文化、不均一を良しとする文化、生に近い食材をありがたがる文化、絶対に火を通さないと危険と考える文化…
料理に対する文化は色々とあり、相容れない部分も多い。
そうした文化をすこしでも理解していると、料理を食べるときにも味わいが深くなるように思う。
…しかし、こうした話も「伝統的には」というくらいで、今はそうでもなかったりする。
ヌーベールキュイジーヌは、和食の考え方を取り入れた、現代フランス料理の潮流だ。
味付けは薄め、不均一さを楽しみ、素材の味を引き出そうとする。
ヌーベルシノワは、ヌーベルキュイジーヌに影響された、現代中華の流儀だ。
料理は一人分づつ提供され、料理人によって盛りつけされた皿は見た目にも美しい。
料理の提供順も考えられたコースとなっていて、自由に食べる従来の中華とは大きく異なる。
最近は、中国でもサラダのように「火を通さない」料理に抵抗がなくなってきているそうだ。
もっとも、卵かけご飯はまだゲテモノ扱いのようだけど。
(日本からの輸入卵の鮮度を知った一部の人達が食べ始めている。)
逆に、日本ではカエルとか虫とか、ホビロン(孵化しかけの卵)とかはゲテモノ扱いされる。
美味しいと食べている人たちがたくさんいるのだから、美味しいのだと思うのだけど。
(僕はカエルやホビロンは食べたことない。虫の料理は何種類か食べたけど、おいしかったよ。)
中華料理って大皿から取り分けるけど、基本的に「各自の取り分け皿」はずっと同じものを使う。
中華はソースがかかっているものも多く、味が混ざってしまうと日本人は嫌がるのだけど、中国の人たちは「美味しいものが混ざりあえばもっと美味しくなる」と考えるようだ。
同じ理由で、日本人は丼を食べるときも、上に乗った具材を崩さずに下のご飯を食べたりする。混ぜることが下品とされるのだ。
韓国のビビンパプはご飯に具材が乗った状態で提供されるため、丼のような食べ方をする人も多いのだが、本来あれば「混ぜご飯」だ。よく混ぜて食べた方が美味しい、とされる。
これらの料理は日本でも気軽に食べられるのだが、文化を理解しないと味わいも変わってきてしまう。
…などなど。最初に書いたとおり、とっちらかってまとまらない。
料理文化を理解して食べないといけない、ということでもない。
食は個人の愉しみなのだから、自由に食べればいい。
ただ、せっかく外国料理を食べるのであれば、本来の味わいを楽しみたいと僕は思うのだ。
(最初に書いたとおり、ここに書いたのは「僕がそう思っている」というだけで、信憑性が担保できない。料理文化についても専門家ではないし、現地に足を運んで料理を食べたこともない。多分に間違えている可能性があるので、鵜呑みにしないようにお願いします)
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別年同日の日記
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Nintendo Switch のゲーム、グノーシアを購入した。
発売したのは昨年の4月、そもそもこれは移植版で、最初に作られた PS Vita 版は2019年発売だそうだ。
しかし、数日前までこの作品の存在を知らなかった。
たまたま読んだ記事で紹介しており、「すごく面白そう」と思って早速購入、遊んでみたのだった。
購入は火曜日、勤労感謝の日だったのだが、その日に2時間ほど遊んだ後、仕事が忙しくて遊べていない。
しかし、子供たちが Switch に新しいゲームが入っていることに気づき、遊び始めて熱中している。
1人用のゲームなのだけど、周りで見ている人も参加できるようなものなので、他人のプレイでも口を出してしまうのだ。
先に書いたように古い作品なので、レビューは検索すればいくらでも出てくる。
だから詳細は書かないでおこう。そもそも、先に書いたように2時間しか遊んでいないので深い話は書けないし。
ゲーム内容は人狼だ。
あの「心理戦」を、コンピューター相手に行う。
人狼とか、人狼をモチーフにしたゲームはそこそこ遊んだことがあるが、嫌いじゃないけど面倒くさい、と思ってしまう。
心理戦だから人数が必要だし、人数が増えると時間がかかるし、長時間の心理戦は消耗する。
で、グノーシアはコンピューター相手の一人用ゲームなので、自分のペースで進められる。
1ゲーム 15分あれば終わるし、終わったらすぐに次のゲームが始まるのでテンポよく遊べる。
そして、1ゲーム終わるたびに、このゲームの世界の断片情報が、少しづつわかってくる。
ゲーム自体はランダム要素が強いのだが、ストーリーがあるのだ。
いや、ストーリーというよりも、一時期流行した言い回しだと「ナラティブ」ってやつだな。
語るのではなく、感じさせる世界観。
先にランダム要素が強いと書いたが、運ゲーという意味ではない。
毎回配役がランダムに決まる、というだけで、その後の心理戦は妥協がないのだ。
コンピューター相手なのに、心理戦がリアルに感じられる。
というのも、インタビュー記事などを読むと、内部に膨大なパラメーターを計算しているらしいのだ。
キャラクター間の仲の良さがあり、それとは別に誰がグノーシア(人狼に相当)か、という疑念の値がある。
また、議論で発言しすぎれば目立ち、黙り過ぎても目立つ。
仲が悪ければそれだけで疑われるし、グノーシアだと思われれば当然疑われるし、目立っても疑われる。
ここに、キャラクターごとの強烈な個性が加わる。
嘘を見抜くのがうまい人、嘘をつくのがうまい人、人を扇動するのがうまい人、理性的に導くのがうまい人。
人間相手の人狼だと、人間関係がこんがらがってくることもあるだろう。
グノーシアでは、だれがどんなことを言った、という簡単なログが記録され、いつでも参照できる。
(詳細な言葉も、直近のものは記録されている)
これらを勘案し、考え始めると…
コンピューターのプログラムにすぎない「キャラクター」が、本当に心を持っているかのように活き活きしてくる。
心理戦がリアルに感じられる。
でも、先に書いたように、相手はコンピューターだ。
自分のペースで話を進められる。
じっくり悩んでもいいし、直感で決めてもいい。
先に書いたように、テンポよくゲームが進む。
人間相手の面倒くささは一切ない。
作った作者がゲームを楽しめる、というのが開発の指針としてあったそうだ。
だから、どのようにゲームが進むかは、作者すら想像つかない。
作者すら考えないような神がかった展開になって驚くこともあった、とインタビューで答えている。
ランダムに話を進めながらも整合性を保てるように、シナリオを管理するプログラムも分散処理で、100以上のロジックが動いているという。
僕もゲーム業界にいた人間として、よくぞそんな方法でバグも出さず…
と思ってしまうが、バグは出てもいいんだそうだ。
全く支離滅裂な話の展開になっても、そういうものだ、という世界観が設定してあるらしい。
まだそんなにやり込んでいないから、それがどういうことかわからないけど。
まだあまり遊んでいないが、子供たちが遊んでいるのは少し見ている。
これだけでも非常に楽しい作品だ。
以前も書いたが、僕はゲームレビューを書くときは、人に勧められることを基準にしている。
だから、普通は2時間程度あそんだだけではレビューを書かないのだが、もう勧めたくてしょうがないのだ。
この作品は間違いなくお勧め。
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本日をもって i-mode のサービス終了、らしい。
ついさっきネットのニュースで知った。
もっとも、まだ継続していたのか…という気持ちの方が強い。
仕事上の秘密事項もあってあまり多くは語れないが、i-mode は人気が出る前から、公式サイトの構築などをさせていただいた。
フリーのプログラマーになって、最初の「儲かった仕事」だった。
(それ以前は食い扶持を稼ぐのに必死)
上にリンクした記事でも、ピークが 2010年ごろと書いてある。
僕もその頃までは、i-mode …僕の場合は EZweb の方が仕事の中心だったのだけど、携帯コンテンツを作っていたように思う。
2018年に、これらの携帯コンテンツから手を引いた。
メンテナンスコストの方が、儲けより大きくなったためだ。
それから3年ほどで i-mode 自体が終了したことになる。
一つの時代が終わった気がする。
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