2017年02月の日記です

目次

01日 些細な綴り間違い
02日 内藤時浩さん 誕生日(1963)
07日 レスリー・ランポート 誕生日(1941)
08日 ゲーム会社の仕事
08日 ボブ・バーマー 誕生日(1920)
10日 西和彦 誕生日(1956)
11日 リチャード・ハミング 誕生日(1915)
13日 ウイリアム・ショックレー 誕生日(1910)
16日 パソコン通信が生まれた日(1978)
18日 ハンス・アスペルガー 誕生日(1906)
20日 ケン・オルセン 誕生日(1926)
20日 続・家の10年目メンテナンス
21日 在庫処分
23日 早口言葉
28日 コアメモリ特許 成立(1956)


些細な綴り間違い  2017-02-01 12:43:47  コンピュータ

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お仕事で、とあるWEBサイトの内容修正を手伝った。


スマホと PC で同じ html で動作して、それぞれの環境にあった見栄えになるように作られている。

いわゆるレスポンシブデザイン。


ところが、スマホで表示すると、本来画像が出るはずの部分で消えてしまうという。

僕への依頼は、このバグを解消することだった。




PC の Chrome には、開発者モードがあって、表示中の html などを調べたり書き換えたりできる。

また、この際スマホをエミュレートするモードがある。


スマホの時だけうまくいかない、というので PC 用のページとスマホ用ページを見比べる。


同じ html のはずなのに、読み込んでいる画像のファイル名が違う。

でも、「ファイル名が間違っていて読み込めない」とかではない。読み込みエラーは出ていない。


画像に対する style 指定で、width:0px が指定されていた。

なるほど、画像は表示されているけど、小さすぎて見えないのか。


いったいどこでそんなことをしているのか…

と、読み込んでいる複数の javascript プログラムを探してみると、見つけた。




スマホでは「物理ピクセル」と「論理ピクセル」が一致していない。

文字の大きさとして 12px と指定された文字は、24px で美しく描画される。


というのも、初期の iPhone などでは、12px は 12px だったのだ。

Retina ディスプレイが搭載され、解像度が2倍になった時に、過去との互換性のために「解像度は2倍だが文字の大きさは変わらない」仕組みがとられた。

そのため、12px は 24px で描画される。


横方向が 120px の画像があれば、240px に引き伸ばして描画されることになる。

解像度をあえて落とす表示だ。


問題となるプログラムでは、この問題を解消するために、画像サイズを半分にして表示しようとしていた。

そのために、画像サイズの半分のピクセル数で表示するように、style 指定を行う。


ここにバグがあり、必ず 0px になってしまうようだった。




まぁ、WEB プログラム経験がある人なら「画像のサイズを半分にして設定」でどんなミスをしたかわかるだろう。


問題のプログラムでは、jQuery を使い、$(document).ready イベントで画像の width を指定していた。思った通りだ。


WEB ページは、まず HTML が読み込まれる。

読み込まれた後でタグの内容などの「解釈」が行われ、img タグがあれば、その src を読み込む。


読み込み終われば、img 部分を読み込んだ画像サイズに整え、ページ全体を配置し、表示する。

もっと細かな話もあるが、これが大まかな流れだ。


そして、$(document).ready は、「HTML を読み込み終わり、まだ画像など関連ファイルは読み込み終わっていない」段階でプログラムを動かす。

関連ファイルの読み込みって遅いから、遅い作業を待たずに必要な処理を始めることで、全体の速度を上げるためのものだ。



もうわかると思うが、元のプログラムでは、「画像サイズを半分に設定」しようとする時点で、画像がまだ読み込まれていない。

画像サイズの半分を設定するが、そもそも画像がないので 0 になってしまう。


解決方法は簡単で、$(document).ready ではなく、$(window).load を使えばいい。

前者は、HTML を読み込み終わったら実行されるが、後者はページに関連するすべてのファイルを読み込み終わったら実行される。




プログラムでは、スマホか PC かを見分けて、違う画像を読み込ませる仕組みも用意されていた。


…と、説明しようと思っていい例がないか探したら、こちらのページで紹介されているプログラム、ほぼそのままだった。


HTML を読み込んだら、画像を読み込む前にファイル名を加工してしまう。

違う画像にしたい場合に与える class まで同じだ。


こちらはうまく動いている、と思ってたのだけど、検索してコピペしただけだったのか。


…あー、なんかわかった。わかっちゃった。

「画像サイズを半分にするプログラム」も、これと同じだと思って改造したんだな。


だから、$(document).ready をそのまま使っていて、$(window).load なんてそもそも知らなかったのか。




ところで、プログラムでは、半分サイズにしたい画像を指定できるようになっていた。

画像の class として、 harf という文字列を与えておけばよい。


…半分にするのだから half じゃないかと思うのだけど、プログラムは harf と指定していた。

そして、HTML 内にも当然のように harf という class が大量に…


もうね、この時点で「このプログラムは信用できない」と考えていいと思うよ。


この class 名は、「なんだっていい」ので、綴りをミスしたこととプログラムは関係ない。

でも、こんな単純な単語を綴りミスして、人様から見える HTML 内に大量に書き込んでいるという時点で、かなり注意力の低い人であることがわかる。


「些細なミス」だけど、バグというのはもともと些細なミスなのだ。

些細なミスを残す人のプログラムというのは、些細なバグもいっぱい残っているに違いない。


とりあえず、この仕事は「1時間程度で解決できないようなら保留で」と言われたくらい締め切りが短かったので、他の部分は見なかったけど。

(余計な仕事が増えそうなので見たくもない)


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内藤時浩さん 誕生日(1963)  2017-02-02 16:51:32  今日は何の日

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今日は内藤時浩さんの誕生日(1963)。


ハイドライドを作った人です。


ハイドライドについては、以前すこし触れています

僕が初めて見た「フロッピーディスク」のゲームで、当時主流の記憶装置であったカセットテープに比べ、アクセスが桁違いに速いので驚きました。


…こちらの記事では、パソコン周辺事情が主眼だったので、「フロッピーディスクに驚いた」という話だけで、ハイドライドが何か書いてませんね。


とにかく、当時の大ヒットゲームでした。

パソコン持っている人ならみんな遊んでたのではないかと思うし、以前の記事に書いた通り、友達はパソコンを持っていないのに買った。


僕もパソコン持ってなかったけど、友達と一緒に楽しみながら、エンディングまで見たと思います。



当時のパソコンゲームは、単純な内容が多いのね。

ゲーム的にも、技術的にも。


キャラクターなんかも、XOR で描いたものがあったりする。


XOR って、「ビットの反転」の意味ね。色を表現するビットを反転します。

反転なので、2回描くと元に戻る。背景があっても壊さずに画面を描ける半面、表示は多少おかしくなります。


BASIC で自作したゲームなどだとよく使われたのだけど、さすがに市販するにはお粗末。

それでも、初期の市販ゲームでは XOR で描かれたものはありました。



よくできたゲームだと、キャラクタを普通に描いた後、元に戻すときは背景を描き戻します。

当時のパソコンは 1dot を 1bit で表しているので、8dot 単位で絵を書き換える。


だから、キャラクタの周りは、黒く四角く抜けたり、キャラが重なるとちらついたりします。

でも、色がおかしくなったりはしない。



そして、もっとよくできたゲームだと、背景との重ね合わせをちゃんと計算します。

キャラクタの部分を 0 、周囲を 1 にした「マスク」を and して、さらにキャラクタを or します。


キャラクタが重なっても、ちゃんと計算しているからおかしな表示はならない。

移動するときは、重なっているキャラを識別したうえで、背景もキャラも描き戻す必要があります。


計算が面倒なだけでなく、いちいちこんなことをしていたら当時の非力な CPU では処理が遅くてゲームにならなくなる。

それでもゲームとして成立させられるのは、プログラマーの腕がいい場合だけです。


ハイドライドは、これにさらに「背景による特殊重ね合わせ」を持っていた。


藪の中や水の中を歩くときは、下半身が背景に隠れるのです。

まぁ、上半身しか描かない、というだけなのだけど、当時のパソコンゲームとしては画期的な表現でした。


#ハイドライドの場合、キャラ同士の重ね合わせはなかったように思う。

 描画ルーチンが対応していないという意味ではなく、ゲーム的に重ならないルール。




当時はゲームの花形はアクションゲーム。

ギャラガやドンキーコング、ゼビウス、そして「ドルアーガの塔」が流行していた時代。


しかし、パソコンはゲームを遊ぶには非力で、出来の良いアクションはそれほど多くありませんでした。

代わりに流行していたのが、じっくり考え、物語を楽しむアドベンチャーゲーム。


R.P.G. は一部の人は知っていましたが、まだ新しいゲーム過ぎて受け入れられていない状態。


こんな時代に作られたハイドライドは、ヒットゲームであるドルアーガの塔の雰囲気を取り入れ、アクションゲームでありながらアドベンチャーゲームのようなストーリーを持ち、R.P.G. の「主人公が育つ」仕組みを導入した、欲張りなゲームだったのです。


大ヒットしたのも当然というか、2年間も売れ続けるロングセラーにもなりました。




内藤さんは DAIVA も作った…と Wikipedia にあるのだけど、STORY 1 は PC-8801mkIISR 用だったので僕は遊んでないです。


当時は互換性のないパソコンがたくさんありましたが、DAIVA はそれぞれの機種に「別々のストーリー」を作るという変わったゲームです。

ゲームシステムは一応統一されているのだけど、単純な移植ではない。


ゲーム内容はシミュレーションゲームで、一部アクションゲームです。

ハイドライドは当時普及していなかった R.P.G. を、アクションゲーム風にすることで遊びやすくしたものでした。

そして、同じようにあまり普及していなかったシミュレーションゲームを、アクションゲーム風にすることで広めようとしたのです。



僕はファミコン版の STORY6 を買って遊び、ユーザー年齢層に合わせてシミュレーション部分が大幅カットされていることにがっかりして MSX 版の STORY5 も買いました。


シミュレーションで育てた「艦隊」をパスワードの形で他の環境に持って行けたりしたので、友達と楽しんで遊んだ覚えがあります。



しかし、ストーリーについては覚えていないな…

全機種のストーリーを統合すると、壮大な一本の話になったらしいのですけど、当時全部遊んだ人なんていたのだろうか。


#今は、プロジェクト EGG で全話セットなんてのがあるそうです。




最初に示した以前書いた記事のリンク、ハイドライドを含む「当時の周辺事情」の話だけでなく、後半に「当時のプロテクト技術」の話があります。


そして、この記事を書いておいたら、数日後に内藤さんご本人からコメントをいただきました。

これも、記事の後半に追記しています。


そんなわけで、ここのページは「ご本人に知られている」ので、あまりいい加減なこと書けません (^^;

間違えたこと書いたら申し訳ないので、今回はここらへんで終わりにしておきます。



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レスリー・ランポート 誕生日(1941)  2017-02-07 11:06:18  その他

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今日は、レスリー・ランポートさんの誕生日(1941)


現在マイクロソフトリサーチに所属する、分散コンピューティングの研究者です。

チューリング賞受賞のほか、多くの業績があります。


でも、僕としては LaTeX の開発者、として紹介したいです。

LaTeX の La は Lamport の La。




TeX は、ドナルド・クヌース教授が開発した組版システムです。


組版、ってのがまた知らない人にはわからない世界なのだけど、印刷物の直接の原型を作る作業です。

原稿があって、それを活字を組み合わせて印刷できる「版」を作る。

昔は「植字工」と呼ばれる人の仕事でした。


クヌース教授が数学の本を書いたところ、植字工は高等数学の知識がなかったため、数式に間違いが多々ありました。

そこで教授は「コンピューターで組版をするシステム」を見つけてきて使おうとするのですが、これは単に文字を並べるだけで、美しい本になりませんでした。


ならば自分でシステムを作ってしまえ、と作られたのが TeX 。

古今東西の組版技術を調査し、コンピューターで扱いやすい、美しい文字からデザインしました。


あらかじめ「本を作る際の体裁」…上下の余白は何インチ、右ページと左ページのそれぞれで、左右余白は何インチ、ページの上左右には章のタイトルを何ポイントのフォントで表示…などをテンプレートとして記述します。


そして、そこに「原稿」を流し込むことで、自動的に美しい組版を行います。

ただ、この原稿も、タイトル前だから改ページ、この部分はタイトルだから何ポイントのフォントで…など、自分で指定する必要がありました。


システムとしては素晴らしいものだったのですが、使いこなすには高度な組版の知識が必要でした。




ランポートさんは、この TeX を誰でも使えるものにしました。


TeX には、組版中で繰り返し行われる「記述」を自動化するための、マクロプログラムの機能がありました。

その機能を活用して、組版の知識が無くても使えるようにしたのです。


このマクロによるシステムを、LaTeX と言います。


予め、「書籍」「論文」など、いくつかのテンプレートを用意し、目的を選ぶだけで体裁が整うようにします。

そのうえで、原稿は「意味」をタグ付けしながら記述するようにします。


ここは章のタイトル。ここは小見出し。ここは引用。ここは数式…というように。


すると、タイトルは大きな文字で、小見出しは中くらいの文字で表示されるうえ、それらを手掛かりに自動的に目次まで作り上げてくれます。


… HTML っぽい、と思った人もいるでしょう。


ただ、LaTeX が作られたのは 1985年。

HTML は、1989年。


LaTeX が HTML っぽいのではなくて、HTML が LaTeX っぽいのね。


#もっとも、文章中に「意味」をタグ付けする、という考えの元祖である GML は 1979年に作られている。

 GML が SGML となり、その亜流として HTML や XML が作られている。




昔はともかく、今は MS-Office があるから、ややこしい方法で文章を作らなくても、見栄えする文章作れるよ? と考える人もいるかもしれません。


実際、上手に Office で作った書類と、LaTeX で作った書類だったら、それほど見栄えは変わらない。

Office だって、今は数式入力機能あるし、章立てを元に自動で目次を作る機能だってある。



でもね、LaTeX の目的は「見栄えのする文章を作る」ことではありません。

見栄えの良い文章を作ろうとして調整を繰り返すような無駄な時間を減らすこと、が目的。


文書作成には、自分の使いやすいテキストエディタを使います。

これだけで MS-Office よりもうれしい、という人だっていそう。

いや、Office だって、テキストエディタで書いてからコピペ、という人多いかな。


そして、ある程度タグ付けしながら文章を作ったら、コンパイル。


文字の折り返し位置が気に食わないとか、章の終わりがページの区切りに収まりそうで収まらないとか、そういう気持ちの悪い部分が出ないように、一生懸命自動的に調整を繰り返してくれる。


具体的にいえば「禁則処理」を行ってくれているのです。

禁則(禁足)というと、行頭に「、。」などが来てはならない、という規則を思い出す人もいるかもしれない。

でもそれだけではなくて、1行の文字数を変えてはならないとか、1ページの行数を変えてはならないとか、その一方で1ページに1~2行だけしか書かれていないページがあってはならないとか、いろいろある。


それらの優先順位を定めておけば、自動調整してくれるのです。

例えば、1ページに1行しかないページがあったら、前のページに行を無理やり押し込んでくれる。


でも、そうすると1ページの行数が守られなくなるから、何とか他の行に文字を詰め込んで、行数を合わせてくれる。


もちろん、Office だって同じことできますよ。

でも、自動ではやってくれないから、手間をかけて調整しないといけない。

ここは LaTeX のすごいところです。




もっとも、長い文章を書く人でなければ、Office 使っているほうが気楽で良いと思います。


僕は大学時代に論文を書くのに LaTeX 使っていたけど、X68000 にはまともなワープロが無く、LaTeX を使わざるを得なかった、という理由もありました。


その後で HTML が流行した時に、すぐに理解できたから、決して経験は無駄ではなかったけどね。


でも、今でも時々 LaTeX 使いたくなることあります。

てきとーに書いた、遊びで脚注とか入れまくった文章を、すごく美しく整形してくれるのが気持ちいんだよね。


これは、経験してみないとわからない楽しさです。



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ゲーム会社の仕事  2017-02-08 09:58:55  家族

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長男が、学校の課題で「自分の人生をまとめる」ということをやっている。


もちろん小学6年生の過ごした「人生」なんて短いのだけど、今後のことは想像してある程度大人になるまで作るらしい。

つまりは、もうすぐ中学生になる子供に対して、将来について考えるきっかけを与えるのが狙いなんだな。



で、長男から「インタビュー」された。


今、長男が興味を持っているのは、テレビゲームで遊ぶことと、Scratch でゲームを作ること。

将来の職業を「ゲームプログラマー」にしたいのだけど、どんな仕事か実感がわかないらしい。


僕は実際にゲームプログラマーだったので、仕事がどういうものか教えてほしい、とのことだった。




ある程度は教えたのだけど、雰囲気とかは簡単に伝えられるものではない。

そこで、アニメ「NEW GAME!」を見せてみることにした。


放映されたのは半年ほど前だね。原作は読んだことないから知らない。

僕自身は、Amazon Prime Video で無料で見れたので、3か月くらい前に見た。



大人向けの深夜アニメなので、子供向けでない表現もある。

と言っても、女性のパンツ姿が出てきたり、その程度。まぁ、見せてもいいだろう。


流行したアニメだからこそ、いろいろと批判している人もいる。

でも、「基本的に男性がいない世界」であることを除けば、ゲーム会社のお仕事としては大体あってる、という認識。

(多少時間の流れに疑問はあるけれど、些細なこと)



人物描写とか、極端な人物が多いのだけど、いちいち会社に実際にいた人の名前が思い浮かぶ感じ。

だからこれも「ゲーム会社にいる人としては、大体あっている」という認識。


机の下で寝袋で寝てる人はいたし、机がおもちゃだらけの人もいた。

天才肌で、自分と同じようにできない人を見下す態度の人もいた。


僕が知っているのは全部プログラマーだけども。



長男の宿題の都合もあって、12話を1週間で見なくてはならなかった。

で、わからないと質問された部分とか、ここはゲーム関連の仕事として掘り下げて説明したほうがいいな、と思った部分とか、1話見終わるごとに説明を加えた。




長男の課題では、将来の職業を漠然と書くのではなく、それがどういった仕事なのかも細かく掘り下げないといけないらしい。

ゲーム会社の仕事の内容を大体理解した長男は、そうしたことを説明したうえで、自分はプログラマーになりたいと作文した。


そしたら、先生から「プログラマーの仕事」についてもう少し掘り下げるように、という指摘が入った。

それで、長男にまたインタビューされる。プログラマーの仕事を一言で表すと、どういうこと?


「コンピューターに作業の手順を教える仕事、かな」



…と答えたのだけど、しばらく後に、この答えは間違えていると思ったので、訂正した。


コンピューターに作業の手順を教えるのは、プログラマーではなく、コーダーの仕事だ。


「コンピューターの作業手順を考える仕事」


これがプログラマーの仕事。「教える」のではなく「考える」ことが大切。


そして、プログラマーが考えた作業手順を、コンピューターに教えるのがコーダーの仕事。

だけど、これは非常に古い仕事の区分で、現在ではコーダーの仕事もプログラマーの仕事の一部になっている。




「教える」のか「考える」のか。この違いは、プログラマーとして非常に大切だ。

そして、この違いを理解できないといろいろな勘違いが起きる。



数年後、日本ではプログラム教育が必修化される。

ここでの目的は、子供たちに「考える」力を養わさせることだ。


しかし、プログラムを「教える」ことだと思っている人たちが、勘違いしている発言を度々見かける。


Cか Python か Scratch か、なんてどうでもいい。それはコーダーの技術だ。

学校で教えたいのは、処理手順を「考える」ことで、それこそがプログラムの本質だ。



先日「コピペプログラマー」の話を書いた。

こちらは、プログラマーだと呼ばれてしまうから違和感があるだけで、コーダーだと思えば何の問題もない。


処理を考えることはできないけど、教える技術はちゃんと持っている。

だから、どこかにあるコード断片を拾ってきて、正しく改造して、目的通りのものを作り上げられる。


「考える」ことは出来なくても「教える」ことができるのだから、コーダーと考えればしっくりくる。




長男からは、ゲームプログラマーをしていて、何が一番うれしかったか、という質問ももらった。


「笑顔が見たい」からゲームを作っていた、と答えた。

どんな仕事でも、最終的にはお客さんの笑顔を見たくてやっているのではないかな。



でも、これ実は微妙な話だ。


大学の頃は、大学祭にゲームを出品して、お客さんの反応を見ることができた。

それがうれしくて仕事にしたのだけど、仕事だとお客さんから直接の反応をもらうことは難しくなった。


それでも、ゲームセンターで自分が作ったゲームを遠巻きに観察していたり、ゲーム雑誌の読者投稿で自分の作ったゲームのことを触れてくれる人がいたりすると嬉しかった。


今だって、ネットで昔作ったゲームのことが書かれているのを見つけると、嬉しくなる。

それがたとえ悪口でも構わない。本当に嫌いなら、わざわざ労力を割いて話題にしないだろうから。



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ボブ・バーマー 誕生日(1920)  2017-02-08 10:05:55  コンピュータ 今日は何の日

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今日はロバート・ウィリアム・バーマーの誕生日(1920)

愛称は「ボブ」。Robert は一般に Bob になります。


#Rob なのだけど、R の音は発音しにくいので、変化させて B になる。




さて、ボブは ASCII の父として知られています。



以前、世界で最初に { } (弓括弧)を使えたマシンは何だろう、という疑問を調べたことがありあす。


今は、非常に多くのコンピューター言語が、{ } を使います。

これらの最初は BCPL という言語だ、ということになっています。


だけど、昔のマシンでは { } は使えませんでした。

BCPL は { } を使ったというけど、その時代のマシンでなぜ { } が使えたのか? という謎を追ったのでした。



実は、この過程で昔のコンピューターで使える文字セットに興味を持ち、言語との関係や変遷をまとめたのだけど、まだ記事にしていません。

いつか記事にしたいのだけど、タイプライターと文字セットと言語と…と、密接な話題が入り組んで整理しにくいの。




それはさておき、昔のコンピューターにはタイプライターが接続されていました。

そして、タイプライターは活字を持たなくてはならない都合上、それほど多くの文字を扱えませんでした。


これらのタイプライターは「テレタイプ」と言って、操作を紙テープに残せました。

このため、「文字コード」も持っているのですが、各社でバラバラ…いや、場合によっては同じ会社でも互換性がありません。


そこで、統一コードが作られます。これが ASCII です。


当時のタイプライターの紙テープは、5~6bit 記録でした。

しかし ASCII は 7bit として制定され、今までよりも多くの文字を使えるようになったのです。



そして、ボブ・バーマーは ASCII の定義委員の一人でした。

彼は { } や \ (バックスラッシュ)、制御コードとしての「ESC」など、多数の文字を入れるよう提案を行っています。


これらの文字は、単に「入れたいから入れよう」というような話ではなく、よく考えて決められています。


当時は、ALGOL が「最良の言語」でした。そして、 ALGOL では、論理演算に ∧ ∨ という数学記号を使います。

だから「それらの文字を入れるべきだ」という意見も出ていました。


しかし、ボブは、すでに入っている / (スラッシュ)に \ を組み合わせれば、論理演算記号を表現できる、と提案したのです。


一部の言語しか使わない文字ではなく、より普遍的に使える文字を入れる。

長く使われる「標準セット」には大切な考え方でした。



そして、ESC は特に重要な提案でした。


ASCII では、「文字コード」を定めようとしていましたが、それは各社のタイプライターの差がなくなってしまうことでもありました。

タイプライターメーカーとしては、新機能を搭載しづらい…業界の進歩が止まってしまうことになります。


ASCII を決定したとしても、いつか新機能を搭載したがったメーカーが「新しい文字コード」を使い始めるかもしれません。

それでは標準コードの役に立たないのです。


ESC は、この問題を解決する素晴らしいアイディアでした。

ESC 文字コードが送られてくると、タイプライタは、ASCII 文字コードから「ESCAPE」…脱出できます。


ESC に続いて送られてきたデータを自由に解釈し、タイプライターメーカー独自の機能を追加できるのです。



ビデオ端末が登場すると、この機能により自由な位置に「カーソル」を動かしたり、文字に色を付けたりできるようになりました。

これによって、初期のテレビゲームや、ワープロなど…「グラフィカルな」ソフトウェアが作られ始めます。


もし ESC が無かったら、端末は文字しか出せないままで、コンピューターの利用用途はずっと限られていたでしょう。



このことから、ボブは「ASCII の父」と呼ばれるのです。


彼は 2004年に亡くなっていますが、彼の作っていた WEB ページはそのまま保持されています。


そのページから、写真を引用させてもらいます。

彼の乗っていた車のナンバーは「ASCII」でした。


#2018.10.15 追記

 さすがにページが消えたようです。

 webarchive に、2018.5.11 時点のアーカイブが残っていましたので、リンク先を変えました。

 ナンバープレートも同様です。




ボブは、IBM 、ハネウェル、UNIVAC など、コンピューター黎明期の大メーカーを転々としながら働いています。

ASCII コードの定義委員をやっていたのも、IBM の代表の一人として。


IBM が FORTRAN (1956) を発表した後、ボブは彼自身のプログラム言語を考案しています。


FORTRAN は科学者向けの「数式 ( FORmula) を変換する (TRANslate) 」言語でした。

これに対し、仕事 (COMmercial) でつかえる言語、COMTRAN (1957) を作ったのです。


COMTRAN は普及しませんでしたが、これをベースとして COBOL (1959) が作成され、広く使われるようになりました。




この当時、メモリは貴重でした。

そのため、日付などを入れる際に、1957 年を 57 というように表記するのも当たり前でした。


しかし、これは良いやり方ではない、とボブは気づきました。

このままでは、上の桁が変化する 2000 年には、多くのソフトが誤動作するに違いない。



この指摘を行ったのは、1971 年でした。

2000年問題の危険性の指摘でしたが、当時としては「30年も先に、今作っているプログラムが使われているわけがない」と誰も相手にしなかったようです。


実際には、古いシステムは「誰も完全な動作を把握できていない」ために更新されることなく、使われ続けました。

そして、彼の指摘通り、1990年代後半に社会的な問題となるのです。



彼はこのときにも、2000年問題の対処を再び考えています。

すでにソースコードが失われ、実行バイナリしかないソフトに対してパッチを当て、「50以下は +100 してから比較することで、年の順序を間違えないようにする」というような解決方法でした。


…実際に、これで延命された古いシステムが多数あります。

2050 年に問題が起きるかもしれません。


#さすがにそれまでにはシステムが更新されている…と思いたいが、彼が指摘した 30年後に、実際に 2000年問題は起きたのだ。

 2050年も、あと 33年しかない。



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西和彦 誕生日(1956)  2017-02-10 09:40:30  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、西和彦さんの誕生日(1956)


日本のパソコン黎明期を支えた人です。

日本のみならず、世界的な影響も与えているのだけど。



とにかく、行動力があります。動かなくてはならないタイミングを逃さない。


日本で TK-80 が発売されたとき、数年前にアメリカでおきた「Altair 8800」と同じ現象が起きる、と直感します。


知人らと共にアスキー出版を設立し、パソコン情報誌の「アスキー」を創刊。

そして、次に必要なのは BASIC だと考えます。


すぐにアメリカにとび、Altair BASIC を作っていたビルゲイツをつかまえ、自分をマイクロソフトの極東代理店に認めさせてしまう。

…ゲイツの証言によれば、英語が下手で会話にならない日本人がやってきて、「とにかく俺を日本担当にしろ」の一点張りなので、とりあえず帰ってもらうために承諾したのだとか。強引です。


西は、「アスキーマイクロソフト」を設立。社長になります。

さらにその後、マイクロソフトの副社長も兼任します。


でも、これでマイクロソフトは「アメリカの小さな企業」から、世界企業へはばたく足がかりを得ます。

西が、日本で次々と BASIC 開発の仕事を取り付けてきたのです。


日本電気(のちの NEC)の PC-8001/8801、新日本電気(のちの NEC ホームエレクトロニクス)の PC-6001、富士通の FM-8/7 、日立 BASIC MASTER 、沖 if800…


日本のパソコン黎明期に登場したライバル同士ですが、「マイクロソフトの BASICを搭載する」という共通点がありました。


#他にもありますが、代表的なものだけ。

 なお、SHARP の MZ / X1 は独自の BASIC を搭載していました。



PC-8001 などは、NEC の作成する機械に対して BASIC を供給する契約でした。

しかし、if800 などでは設計方針などの重要な会議にも参加していますし、後のハンドヘルドマシン、NEC PC-8201 / Tandy TRS-80 Model 100 などは、設計からすべてを行い、京セラが製造し、販売会社を見つけて売り込んだものです。


#NEC と Tandy のマシンは、ほぼ同じハードウェアで、BASIC などには違いがある。


これだけでも、当時の西の影響力の大きさがわかります。




マイクロソフトを本当に大企業に押し上げたのは、IBM への BASIC と OS の供給でした。


当時のマイクロソフトは、ほぼ「言語専門」の会社。

IBM からの依頼は、BASIC でした。しかし、FORTRAN と COBOL と Pascal も必要としている、と知り、それら全部を供給する契約を結んだのです。


まだ小さなマイクロソフトにとって、これだけでも期日に間に合うか不安な契約。

でも、さらに IBM が OS の供給先を探していると知った時、西がその契約もマイクロソフトで取ろう、と言い出します。


ビル・ゲイツは猛反対したようですが、最終的に西の熱意に負け、IBM に「OS も供給できる」と連絡を入れます。



現在マイクロソフトは巨大企業ですが、このときに西が副社長をやっていなければ、そうはならなかったわけです。




西は日本のパソコン業界に顔が広く、多くのパソコンの構想に関与しました。

先に書いたように、PC-8201 / Tandy TRS-80 Model 100 などは、マイクロソフトとアスキーが設計し、京セラが製造し、各社のブランドで販売されました。


このようなOEM(相手ブランドでの製品供給)の先に、基本設計を共有しながら各社が特色のある互換機を作る、という構想が生まれます。


MSX パソコンの登場です。もちろん、BASIC はマイクロソフト製でした。

もっとも、マイクロソフトは名前を貸しただけで、ほとんどアスキーで作成したそうですが。


#マイクロソフトは、このころすでに 16bit 向け BASIC に軸足を移しつつあり、今更 8bit をやるつもりはなかった。

 ただ、MSX の成功を「傍観」したことで、標準化ビジネスの旨味に気付き、以降 OS の機能拡充により「機種差を吸収し、標準化する」戦略を取り始める。




その後、マイクロソフトの株式公開を機に、西はマイクロソフト副社長を解任されます。


西はマイクロソフトが半導体事業も手掛けるべきだと考えていて、一方ゲイツはインテルと盟友関係にあるので、インテルの市場には手を付けるべきではないと考えていました。


アスキーもマイクロソフトもともに大企業となり、「企業として競合関係にある」ことも兼任を難しくしていたようです。


アスキーマイクロソフトも、マイクロソフトの日本代理店ではなくなりました。

大きな仕事を失ったことで、この後親会社のアスキーにも影響を与えます。




この後はパソコンの歴史というよりは「アスキーの顛末」になってしまうので、話はここらへんで終わりにしましょう。



西さんの人生については、ご自身のページで書かれている年表が詳しいですし、失敗談なども赤裸々に書かれていて面白いです。


また、西さんのページには作成に関わったパソコンなどの一覧もあります。



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リチャード・ハミング 誕生日(1915)  2017-02-11 16:10:54  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、リチャード・ハミングの誕生日(1915)


プログラミング…というより、情報理論をやったことのある人は、「ハミング符号」を聞いたことがあるかもしれません。

その考案者です。


他にも、ハミング距離やハミング重み、ハミング窓やハミング数など、彼の名がついた概念は多数。


ハミング符号については後で説明しようと思いますが、ハミング距離・重みは、ハミング符号に関連した概念。


ハミング窓は、通信における周波数特性などの問題改善に役立つ概念。

(応用は幅広いのですが、例えばインターネットで高速な通信ができるのは、こうした概念のおかげです)



ハミング数は、1,2,3,5 の掛け算だけで作られる数。

1,2,3,4,5,6,8,9,10,12,15... などです。


10,12,60 などを含むため、よく使われる「 n 進法」との相性が良い数値になります。


実は、昔からこれらの数は特別視されていたのですが、ハミングが「効率よくこれらの数字を作り出すアルゴリズムを求めよ」という問題を出したため、ハミング数とも呼ばれるようになりました。


#この問題に対する最初の一般解は、ダイクストラが出したようです。




さて、ハミング符号について説明しましょう。

大学の時に情報理論の講義でこれを知って、感動しました。



1980年代のパソコン少年にとって、「チェックサム」は見慣れたものでした。

雑誌に載っているプログラムには数値データが延々と続く場合があって、入力の際にどこか1カ所間違えただけで、プログラムは動かなくなってしまう。


でも、人間だから打ち間違いは当然生じます。


このミスを防ぐのがチェックサム (check sum) で、当時の雑誌プログラムではお馴染みでした。

sum は「集計」の意味。数値を全部足したものです。


例えば、メモリ上の 16進数を延々と打ち込むのだとしたら、16byte ごとに「全部足して、下1byteだけを取り出した数値」がついている。

数値を打ち込むためのツールの方にもチェックサムを表示する機能があるので、合っていれば打ち間違いはありません。


でも、打ち間違いがある、とわかった時には、どこが間違っているのかを自分で探し、訂正する必要がありました。




同じように「パリティ」という概念もあります。

こちらは、1byte とか 1word の範囲内でのチェックサムのようなもの。


1byte は 8bit ですが、この 8bit を、すべて XOR します。


XOR っていうのは、「2つのビットが違っていれば 1、同じなら 0」という単純な計算で、回路も簡単に作れます。

これを、8bit 分全部行います。


結果は「8bit 中、1のビットが奇数個あれば 1、偶数個なら 0」です。

この結果を「パリティビット」と呼びます。9bit 目として保存しておきます。


再びこのデータを使うときにも、同じようにデータ部分からパリティビットを求め、保存してあった結果と比較します。

合っていれば、データは壊れていません。大丈夫。


壊れていたら? …コンピューターに異常があった、と信号を出して、緊急停止でしょうね。

計算はやり直しですが、間違った計算を延々と続けて気づかない、というよりは良いでしょう。



このやり方だと、8bit のデータごとに 1bit のパリティが必要になります。データを保持する、という意味では、1/9 の無駄。

でも、16bit で 1bit のパリティ、でも構いません。それなら無駄は 1/17 です。


ただし、間違いが起きた個所を特定したい、と考えたときには、「8bit のどれか」まで絞り込めるか、「16bit のどれか」になるか、という違いがあります。

無駄を少なくすると、場所の特定はしにくくなるのです。




ここら辺までは「間違いがないかチェックしよう」という話です。

でも、ハミングが考案した「ハミング符号」(1950)はちょっと違いました。


「間違いがあるなら、直すところまでやってしまおう」というのです。


ハミング符号では、全体の長さに決まりがあります。

必ず、2^m-1 bit にならなくてはなりません。


7 とか 15 とか、今のパソコンで扱うにはちょっと中途半端な単位。

そして、この長さの中に「データ」と「誤り訂正符号」が入ります。


誤り訂正符号の長さは、m です。ということは、全体から mを引いたのが、使えるデータ部分。


全体が 7bit の場合、データが 4bit 、全体が 15bit なら、データは 11bit になります。




話を簡単にするために、ここでは 7bit で考えてみます。


データは 4bit あるので、それぞれのビットに小文字で名前を付けます。

abcd 、としましょう。


誤り訂正符号は 3bit なので、ABC とします。


誤り訂正符号は、全体の中の 1,2,4,8 ... 番目に入っているとします。

全体のビットの並びはこうなります。


ABaCbcd


これで 7bit です。



a は、3番目、2進数で書くと 011 番目に並んでいます。

b は、5番目、2進数で書くと 101 番目です。

c は、6番目、2進数で書くと 110 番目です。

d は、7番目、2進数で書くと 111 番目です。


A は、並び順の最下位ビット…1の位が 1 だった部分のビットのパリティです。

B は、2の位が 1だったビットのパリティ、C は、4 の位が 1 だったビットのパリティです。


XOR を + で表現することにすると、


A = a+b+d

B = a+c+d

C = b+c+d


となります。


これで計算終了。簡単です。




データの 4bit が、 1010 だったとしましょう。

全体の 7 bit は、次のようになります。


1011010


どこか 1bit がおかしくなったとしましょう。

例えば、先頭がおかしい。


先頭は誤り訂正符号ですから、データ部に影響はないです。

そして、データ部から「誤り訂正符号」を求め直すと、パリティ A が間違っている、ということが分かります。


ここで、A が 1の位、B が 2の位、C が 4の位の2進数(つまり CBA と並んでいる)と考えます。

「違った部分」を 1 、正しい部分を 0 として考えると、2進数で 001 という数値が現れます。


これが「1番目のビット」、つまり A が誤っている、という意味になるのです。



今度は、データ部分である a が間違っている、と考えましょう。

誤り訂正符号の計算式をもう一度書きます。


A = a+b+d

B = a+c+d

C = b+c+d


a の部分がおかしいのですから、A B が変化します。

すると、誤り訂正符号は 011 番目…つまり3番目のビットがおかしいことを示すようになります。


3番目のビットというのは、まさに a のことです。

bit の値は 0 か 1 しかないので、「誤っている」のであれば、反転すれば訂正できます。


これで訂正完了。

同じように、どこのビットを変えても、正しく誤りの位置を示します。




数学的に検証してみると、A B C はそれぞれ、ただのパリティにすぎません。

しかし、パリティを取る bit を巧妙に絞り込んであります。


そのため、A B C の誤り検出が、そのまま誤りの「位置」を示せるようになっているのです。

これにより、ハミング符号では、1bit が間違えていても正しく訂正できます。



ここでは、全体が 7bit でした。

誤り訂正符号は 3bit だから、8つの状態があるのだけど、エラーがない場合は「0」になるので、位置を示すのには使えない。


だから、残りの「7つ」の状態で、7bit の位置を示すのです。

これが、全体が 7 とか 15 とか、中途半端に見える長さになってしまう理由。



2進数の性質をうまく使い、非常に巧妙にできています。

大学生の時にこれを知り、ちょっと感動しました。




ちょっと話は違うのですが、室町時代から伝わる手品で、「目付字」というものがあります。

後から知ったのですが、これが、2進数の性質を巧妙に使ったもので、知った時に「ハミング符号」を思い出しました。


本当に、全く目的は違うし、やっていることも違う。

だけど、2進数の性質を同じように応用したトリック。


詳しく知りたい人は、上のリンク先を読んでみてください。

こういう数学トリックを思いつく人はすごいなぁ、と思います。




ハミング符号では、2bit 以上間違えると、誤りを訂正しようとして失敗します。


これを防ぐ「拡張ハミング符号」というのもあります。

「1bit のパリティを付加し、誤りが 1bit か 2bit かを検出できるようにしたもの」です。


長くなるので詳細は省きます。これ以上知りたい人は自分で調べて。



今ではハミング符号よりも巧妙でよくできた誤り訂正符号もあります。


でも、誤りの「検出」しか考えられていなかった頃に、最初に「訂正」という概念を作り出したのは、ハミング符号なのです。

最初にやってみせた、というすごさは、いつまでたっても変わりません。




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ウイリアム・ショックレー 誕生日(1910)  2017-02-13 09:59:09  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、ウィリアム・ショックレーの誕生日(1910)


トランジスタ効果の研究により、ノーベル物理学賞を受賞した人です。


トランジスタは、今ではコンピューターの最も基礎的な回路に使われる素子。

彼が研究所を設立した地は、周辺に同業他社が増え、今では「シリコンバレー」と呼ばれています。




ショックレーの伝記とか見ると、どうもアスペルガーだった印象を受けます。

大天才なのだけど、変人で扱いにくい。常に自分が正しいと思い込んでいる。


トランジスタの発明者、として知られているのですが、実は発明者は別の人です。

彼は、発明者もいたグループの「マネージャー」で、彼自身の提案による実験は失敗していました。


でも、自分の失敗したアイディアを改良して成功したのだ、と言い張り、自分こそが発明者だと言い張った。

これで世間からも彼が発明者だと思われるようになってしまい、一緒に研究していた科学者は、彼の元を去っています。


もっとも、誰が発明したかはともかく、それを使いやすく改良し、「現代の形の」トランジスタを作り上げたのは、彼の業績です。

ノーベル物理学賞は、一緒に研究していた科学者との共同受賞でした。




さて、時間を巻き戻して最初から話を進めましょう。


第二次世界大戦は、「無線機」が活躍した戦争でした。

それまでは情報は伝書鳩などで伝えられていましたが、無線によって通信されるようになったのです。


#無線電波は敵側にも簡単に傍受されてしまうので、暗号技術も進みました。

 こちらの話も面白いのだけど、今は関係のない話。



さて、第二次大戦中に問題となったのは、無線機の中で使われる「真空管」の扱いにくさです。


真空管は、無線にとって必要な「整流器」と「増幅器」の両方で使われます。

しかし、ガラス管で作られていて、大きく重いうえに、割れやすいのです。


整流器に関しては、「ゲルマニウムダイオード」の発明により、真空管ではなく、小さな素子をつかえるようになりました。

しかし、増幅器は相変わらず真空管が必要でした。



第二次大戦後、整流器をダイオードに置き換えられたように、増幅器も小さな素子に置き換えられないか、と研究が行われます。

ショックレーの率いるチームでもこの研究を行っていました。


しかし、ショックレーの試してみた方法では、増幅作用はおきませんでした。

その後、別の研究者が、ダイオードに対して3本目の電極をわずかに接触させることで、増幅作用を生むことを発見します。


今では「点接触型トランジスタ」と呼ばれるものなのですが、大発明でした(1947/12)。

大きくて重く、動作電圧が高くて動き始めるまでに「暖機運転」が必要な真空管と同じような動作を、小さく軽く、低い電圧で、すぐ使えるのです。



先に書いたように、ショックレーはこれを自分の発明だと主張します。他の人が発明したのに。

…結局、ベル研究所としてはこの主張を認めず、彼は特許書面に名を連ねることができませんでした。


その後の彼は、いつか自分単独の名前でトランジスタの特許を出す、と公言し、さらなる改良に励みます。



そして、僅か 5週間後に、接合型トランジスタを発明します(1948/1)


点接触型トランジスタは、針が「わずかに接触する」ことが大切です。

作るのにも微妙な感覚が必要で、使っていても壊れやすいものでした。


それに対し、接合型トランジスタは、量産も簡単で壊れにくいものでした。

彼の望み通り、単独の名前で特許出願が行われています。



トランジスタは無線用に開発されたものでしたが、数年後にはコンピューターが作られ始めます

いわゆる「第2世代コンピューター」です。




先に書いたように、ショックレーは人の気持ちを考えない強引な性格で、一緒に研究していた科学者は彼の元を去りました。

マネージャーとしては失格です。ベル研究所でも、彼は昇進できずにいました。


ショックレーは、友人に支援されて「ショックレー半導体研究所」を設立します。


しかし、ここでも彼は傍若無人にふるまいます。

すぐに部下を疑い、脅し、信頼しようとはしません。

そんな環境で良い研究が進むわけがありません。


研究所では、シリコン基板の上に半導体を生成する技術…「集積回路」の作成方法について研究が行われていました。


これは非常に難しい挑戦で、なかなかうまくいきません。

とはいえ、研究者たちの間では「あと一歩で成功する」という確信がありました。


しかし、ショックレーはこの研究の打ち切りを決めます。

これに反発し、8人もの研究者が一斉に研究所を辞め、新たな会社を近くに作りました。


これが、世界初の集積回路を生み出した会社、フェアチャイルド・セミコンダクターです。

この顛末は、ロバート・ノイスの誕生日に書いています。




晩年のショックレーは、人種差別主義者でした。


具体的にいえば、優生学…子孫を残すに値する、頭の良い人間だけが子孫を残せるようにし、頭の悪い人間を去勢すべきだ、という考え方です。


これ自体は「頭の良さ」だけが指標であり、「人種」差別的ではありません。

もっとも、頭の悪いやつは子孫を残すな、と言っていること自体が差別的で、人権無視ですが。



彼は持ち前の科学的な分析能力を使い、さらに論を展開します。


それによれば、子供の数と知能指数の間には相反する関係があるそうです。

つまり、「頭が悪い人ほど子供を多く残す傾向にある」というのです。


さらに、職種や人種による子供の数を比較し、黒人は子供が多い、つまり頭が悪いのだから積極的に去勢すべきだ、という論に繋がります。



これ、統計データとしてはおそらく正しいと思いますが、その理解はおかしいです。

今の日本もそうですが、社会的な地位を高めようとするとキャリアを積む必要があり、晩婚化が進みます。


また、差別や偏見によって地位を高めようがない場合、キャリアを積む必要もないので早婚になり、子供を多く残します。


そして、知能指数は絶対的な「頭の良さ」ではなく、そうしたテストに対する経験も影響します。

キャリアを積んだ人は数字が高く出がち、というだけのこと。



でも、ショックレーはこの主張を行うことが自分の生涯の務め、と信じて、いろいろなところで論を展開しました。

ノーベル賞学者の論ですから、雑誌などでも面白おかしく紹介されるのですね。

もちろん、その考え方がおかしい、ということの揶揄も含めて。


ショックレーはどんどん孤立していき、妻以外の家族と疎遠になっていきます。

彼が死んだとき、彼の子供ですら、死んだことをマスコミの報道で知ったのだそうです。



最初に書いたように、おそらくはアスペルガー症候群。


知能は非常に優れ、世界を変えるような天才性を発揮します。

その一方で、自分だけが正しいと信じ、人の気持ちを察するなんてできない。


世界を変えた人なのに…いや、名声が高まりすぎたが故の、寂しい末路に思います。


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パソコン通信が生まれた日(1978)  2017-02-16 10:21:54  コンピュータ 今日は何の日

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今日は「パソコン通信」が生まれた日(1978)


当ページでは、古いコンピューターの話題も多数取り上げています。

だから、いわゆる「コンピューター通信網」は、これよりずっと前からあったよ、と言わないわけにいきません。


でも、1978 年の今日、「パソコン通信」が生まれたのです。




インターネットの前身となる ARPANET は、1969年には生まれています。


「テレタイプ」同士を電話線で繋げて通信を行うのはもっと昔からありました。

そして、テレタイプはコンピューターの入力機器としても使われました。当然、電話越しの利用もありです。


DEC の PDP-10 は1966 年に出荷されたマシンで、タイムシェアリング…複数のプログラムを同時に動かせる機能が特徴でした。


#今では複数のソフトが同時に動くなんて当たり前の話ですが、1990年代初頭までは一般的ではなかったのです。


このタイムシェアリング機能と、電話線越しのテレタイプ接続を使って、コンピューターを時間貸しするサービスが 1968年には存在しています。

1980年代には世界最大手のパソコン通信会社だった CompuServe も、1969年に創業したコンピューターの時間貸しサービスの会社でした。


とはいえ、コンピューターに電話線で接続してできることは、コンピューターのアプリケーションを利用すること、だけでした。




1975年、Altair 8800 が登場します。世界初の「パーソナルコンピューター」でした。


Altair は…作った MITS 社自身が売れるとは思っておらず、量産体制を整えてなかったため、入手困難な人気商品になりました。

そして、回路をほぼ丸ごと真似した「互換機」が大量に発売されることになるのです。


Altair の設計の特徴は、すべてを…CPU すらも、「周辺機器」と考え、それらを結び合わせるバスを巧妙に設計したことにありました。

このバスは S-100 バスと呼ばれ、互換機は S-100 コンピューターと呼ばれます。



シカゴに住むワード・クリスチャンセン (Ward Christensen) は、こうした互換機の内の一つを入手しました。


ワードは、近所のコンピューター愛好家の集会に顔を出すようになります。


Cicago Area Computer Hobbyists' Exchange、略称で CACHE と呼ばれる集会で、ランディ・スース (Randy Suess) と知り合います。

二人は打ち解け、仲の良い友達になりました。



1960年代末から普及し始めた「コンピューターの時間貸しサービス」は、電話回線越しにテレタイプやコンピューターを接続するための「モデム」を、一般的な電気製品にしていました。

コンピューターショップに買いに行けば、誰でも手に入れることができるのです。


ワードとランディは、この面白い機械を使えば、CACHE に顔を出して紙テープの受け渡しをしないでも、コンピューターのプログラムを交換できると考えました。



この頃の通信網というのは、それほど品質が高くありません。時々電気ノイズにより、ビットに「誤り」が起きるのです。

コンピューターの時間貸しを行っているだけであれば、それらは「文字が化ける」ことになります。


結果の数字が運悪く別の数字に化けたりすると困りますが、そんなに都合よく化けることはあまりなく、アルファベットなどに化けるので「おかしい」ことが分かります。

おかしいと思えば、再度計算させて確認することもできます。


しかし、コンピューターのプログラムで 1bit 間違える、というのは致命的です。

品質の悪い回線で、絶対にデータを間違えない転送方法を考案する必要がありました。



ワードは、300bps のモデムでデータ転送を行うための「MODEM」というプログラムを作り上げます。


128byte 転送するごとにチェックサムを送り、相手が「正しい」と信号を送ってくれば次を送ります。

もし「再送」という信号が来れば、同じ 128byte を送り直します。


これを最後まで繰り返せば、間違いなくバイナリプログラムを送ることができるはずです。



このプログラムは仲間内で話題となったようです。

それまで、パソコンは単体で使うもので、「電話線越しに接続する」なんて試みはなかったのですから。


やがて、パソコン同士を接続できるのであれば、みんなに伝えたいことなどを記録しておき、誰でも好きな時に確認できるシステムは作れないだろうか、という構想に発展していきます。


パソコンを相手とした留守番電話、というイメージでした。

ただし、メッセージは留守番電話の持ち主だけでなく、誰でも見ることができるのです。



とはいえ、構想だけでなかなか作成には入れなかったようです。




1978年1月中旬、シカゴは猛烈なブリザードに襲われました。

家の外に出るのもままならない状態。もちろん CACHE の集会にも顔を出せません。


しかし、家にいなくてはならないこの時間は、以前から考えていたプログラムを作る良い機会でもありました。



留守番電話のようなコンピューターを作るのであれば、普段使っている物とは別に、電話番専用の機械が必要になります。


ランディは、新しい S-100 コンピューターを組み立て始めました。

ワードは、MITS の 8K BASIC (ビルゲイツが作った Altair 用 BASIC)で、プログラムの試作を開始します。


試作段階では、メッセージはメモリ上にのみ残されました。

しかし、想定していたシステムは順調に動くようです。


ランディはさらにディスクドライブを入手して機械に取り付け、ワードは試作したプログラムを、アセンブラで作り直しました。

メッセージをディスクに残すために、CP/M 上のアプリケーションとなりました。


作業開始は、1月16日。

当初は2週間のつもりで作業していましたが、完成度を高めるためにさらに2週間の追加作業を行います。


そして、1978年の 2月 16日、システムは完成し、お披露目が行われました。


パソコン同士を接続し、メッセージを読んだり、新たなメッセージをみんなに見せたりできる。

コンピューター化(Computerized)された掲示板(Bulletin Board)のシステム(System)です。


頭文字を取って、CBBS と名付けられました。

世界で最初の、いわゆる「パソコン通信」 BBS と呼ばれるものです。



#C を、彼の属していたサークル CACHE の意味とする説もあるらしいが、彼自身が「CACHE は関係ない」と明言している。




ワードとランディは、自分たちの作成したシステムの概要を、Byte 誌に投稿します。

この記事は、11月号に掲載されました。


記事のタイトルは Hobbyist Computerized Bulletin Board。

記事中では、表記ゆれで Computerized Hobbyist Bulletin Board System になったり、単に Bulletin Board System になったりします。


実際に動作している画面イメージでは CBBS/CHICAGO とあります。


どうやら、これで「Bulletin Board System」、略して BBS 、というのが一般的な認識となったようです。


この後、BBS を名乗るシステムが多数同時発生します。

「パソコン通信」の時代が始まったのです。




ワードの作成したプログラム転送機能、MODEM は、後にプロトコルなどが改良されて XMODEM と呼ばれるものになりました。


後にもっと改良されたプロトコルが作られても、「パソコン通信ソフト」には、XMODEM で転送を行う機能があるのが普通でした。

パソコン通信のホスト側も、クライアント側も、すべてが対応する「最低限の共通プロトコル」だったのです。


#1990年代にはモデムが高機能化し、通信回線の品質も高まっていたので、Flying XMODEM とかありました。…何もかも懐かしい。



多くのパソコン通信は、インターネット接続が一般化した 1990年代にサービスを終了しています。

CBBS も、そのころ運用を終了しました。


しかし、BBS の精神は無くなっていません。

元々 BBS は、「草の根」と呼ばれる、友達や地域の人と話をするための小さなコミュニティが中心でした。


大手企業が運営しているものはあっても、それが文化の中心ではなかったのです。



インターネット時代には、小さなコミュニティは「CGI 掲示板」などの形で残され、現在の SNS にも影響を与えています。




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ハンス・アスペルガー 誕生日(1906)  2017-02-18 17:30:52  今日は何の日

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今日は、ハンス・アスペルガーの誕生日(1906)


今日は珍しく、コンピューターとは関係なさそうな話題。


アスペルガーはオーストリアの小児科の医師で、特に精神的な発達障害、今でいう自閉症を研究しました。


当時すでに「自閉症」の研究は始まっていました。

しかし、今ほど理解が進んでおらず、自閉症の原因は知的障害で、言語能力などが発達していないためにコミュニケーションが行えないのだ、と考えられていました。



しかし、アスペルガーは自閉症児との交流の中で、そんなに単純ではないことに気付きます。


通常の…精神病に分類されない人々も、知能の高い人と低い人、言語能力の高い人と低い人がいます。

そして、自閉症の子供にも、同じように知能や言語能力の高低があると理解するのです。


ただ、自閉症児は、振れ幅が非常に大きいのです。

…いや、振れ幅が非常に大きく、通常の人の枠組みを超えるから「精神病」に分類されるのかもしれません。


ともかく、自閉症児は知的障害を持つ、と考えられていたのは誤りで、場合によっては非常に高い知能・言語能力を持つのです。


彼は、こうした例に興味を持ち、多くの症例を論文で報告しました。


しかし、多くの論文は、ドイツ併合下のオーストリアで発表されたものでした。

他の言語に翻訳されることもなく、彼の仕事は世界的にはあまり知られることがありません。


アスペルガーは 1980年10月21日死去。

その直後、1981年に彼の論文をイギリスの精神科医、Lorna Wing が英語翻訳し、彼の報告した症例は「アスペルガー症候群」として世界に知られることになります。




アスペルガーは小児科医で、子供を非常にあたたかな目で見守っていたようです。

彼がアスペルガー症候群を報告し続けたのも、子供を守るためだった、という側面があります。


というのも、先に書いた通り当時のオーストリアはドイツに併合され、ナチスの支配下にありました。


ナチスは優生思想…優れた人間だけが子供を残すことで、悪い遺伝子を排除して、よい社会を作り上げる…を政策に取り入れていました。

ユダヤ人の大量虐殺も、「ユダヤ人は劣っている」という差別意識から行われています。


そして、同じように「先天性の精神疾患は、悪い遺伝子である」という考えから、やはり大量虐殺が行われています。

知的障害者である、というだけで殺されてしまう世の中だったのです。



しかし、アスペルガーは、自閉症の子供の中に「そこら辺の大人よりも優れた知能を持っている」子供がいることを示しました。

しかも、そうした子供も見た目の上では自閉症の…他の知的障害を持った子供と同じなのです。


これは、自閉症の子供を虐殺から守る効果がありました。

専門知識を持たないものが自閉症の子供を殺すことは、もしかしたら「将来の国の宝」を失うことになるかもしれないのです。



オーストリアは、「SOS子供の村」という、世界的な NGO活動団体の発祥の地でもあります。

何らかの都合で幸せな生活を送れない多くの子供を保護する活動で、現在では 100以上の国で 100万人以上の子供がサポート下にあります。


設立者、ヘルマン・グマイナーから要請を受け、アスペルガーも活動に協力しています。

もちろん、彼の専門である小児科医として。


彼はウィーン大学小児病院の理事もしていましたから、多忙でした。

それでも、「子供のために」そうした活動に参加しているのですから、非常にやさしい人だったのだろうと思います。



参考:アスペルガーの生涯(ドイツ語サイト)





さて、ここからは自分の話。

僕は以前に、自分も子供の頃アスペルガーだったのだろう、と書いたことがあります。


アスペルガー医師が研究したのは、ある程度「重度の」子供たちだったのだろうけど、こうしたものは軽度から重度までグラデーションがあるからね。

僕は多分、軽度のアスペルガー。


子供の頃はこんな区分なかったよね、と思っていたのだけど、上に書いたように世界に紹介されたのが 1981年。

日本で知られ始めたのは、1990年代の半ば過ぎだったのではないかと思います。



アスペルガー症候群の問題点…人とのコミュケーション下手は、大人になるにつれて多少改善します。

と言っても、「病気が治る」とかの意味ではないよ。症候群、と言われているけど、別に病気ではないし。


ただ、普通の人なら当たり前にできるコミュニケーションを、何度も失敗しながら覚えていくだけです。

上手くできないと言っても、失敗を繰り返せば覚えざるを得ない。

アスペルガー特有の記憶力の良さがあるから、徐々に「普通」を理解していきます。


僕は今でもコミュニケーション苦手です。

ツイッターやっているけど、あまり人と会話しないし。

WEB ページ作っているのも、これなら一方的に言いたいことを発信できるから、というだけ。



で、自分もそうだからよくわかるのだけど、アスペルガーは非常にプログラマーに向いてます。

研究者一般向いていると思うのだけど、僕はプログラマーだったからね。


…と、ここで普段コンピューターの話を書いている「今日は何の日」で、アスペルガー医師を取り上げた理由が出てくるわけです。




重度のアスペルガー症候群とか、そうでなくても子供のころから「頭が良いから」という理由で、ちょっと変わり者であることが許容されてしまった人とかは、人とのかかわりで失敗して「普通」を覚える機会が失われてしまいます。


これは非常に残念なこと。

先日書いたウィリアム・ショックレーとか、明らかにアスペルガーの悪い面が出てしまっている。


ショックレーはトランジスタを発明したチームのマネージャーで、彼自身も重要な改良発明を行っており、ノーベル賞を受賞し、後にシリコンバレー発展の種となる研究所まで作った。

でも、自分の部下を信用することもできず、周囲のすべてを敵に回してしまうのです。


超が付くほどの天才なのでアスペルガーとしても重度だったのかもしれませんし、天才と持ち上げられることが多かったために、周囲と折り合いをつける方法を学べなかったのもあるように思います。



先に書いたように、僕が子供の頃は「アスペルガー」なんて概念もありませんでした。


しかし、今は理解が進み、軽度の症例でも簡単に「アスペルガー」だと診断されます。

小学校のクラスに一人はいるような、ごく普通の存在。


「クラスに普通にいる」というのが大事ね。

知的障害を伴う自閉症児は、特別学級に入れられることも多いです。


でも、アスペルガーは知的レベルには何の問題もない。

だから、普通に学校に通えます。

ただ、人づきあいが下手だから、いじめにあったりするだけで。

(僕もいじめられたクチなので、本当によくわかるのです)



必要なのは、周囲の大人の理解です。小学生レベルだと、親が気付いてサポートするのが良いでしょうね。


付き合い下手かもしれないけど温かく見守って…でも決して甘やかさないで。


先に書いたように、衝突して失敗すれば徐々に覚えるから、甘やかしちゃいけない。

ただ、失敗しても「ちゃんと学ぶ」ように導いて、失敗のことは水に流してあげてほしいのです。


そして、その子が興味を持ったことは否定せず、とことんサポートしてあげて。



「そんな趣味役に立たない」と考えるのは、大人の偏見です。

子供時代に蓄えた知識は、必ず将来役に立ちます。


僕も子供の頃、クラスに「東海道線の駅名を全駅言える」なんて奴がいた。

それは何の役にも立たないです。でも、駅名を言うことで周囲に受けたのでどんどん他の線の駅も覚えて行って…


最終的に、中学の頃には暗記科目がすごく得意な奴になりましたよ。

なんか、覚えようと思ったことを確実に覚えられるメソッドを、自分なりに獲得したみたい。



僕は小学校の時にコンピューターに興味を持って 4bit マイコンを買ったり、中学の時にはファミリーベーシックを買ったりしました。


御多聞に漏れずコミュニケーション下手だったので、中学では部活にも入らずさっさと家に帰り、自分でゲームを作ってばかりいました。

それをベーマガに投稿するのが楽しかったのだけど、成績が落ちて親に「そんなことをしていても将来役に立たない」と怒られたりもしました。


でも、その時は一時的に禁止されたのだけど、その後勉強もちゃんとやって節度を持つなら、プログラムを組むことを許してくれた。

「役に立たない」なんて言いながら、理解はしてくれていたのです。


おかげで、今では独立してフリーのプログラマでやっていける程度の腕にはなっています。

ちゃんと役に立った。




アスペルガー症候群って、精神病の一種と考えられているから、この症名を聞くと取り乱す人が多いみたい。


でも、これは「周囲から浮いてしまうほど頭が良い子供たち」につけられた症名です。

「この子は天才肌だ」と言われているのだと思ってください。悪いことじゃないんです。


事実、アスペルガー医師自身が、そうした子供に敬意を払い、「小さな教授」と呼んでいたのだから。



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ケン・オルセン 誕生日(1926)  2017-02-20 10:24:11  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、ケネス・ハリー・オルセン、通称「ケン・オルセン」の誕生日(1926)


コンピューターを大きく変えた会社、DEC の創業者です。

しかし、DEC 創業以前から、コンピューターを大きく変えるようなプロジェクトに多数関わっています。




「デジタル計算機」がすべて歯車式だった時代、デジタルは正確ではあるが遅いものでした。


いや、当時の計算機の一番重要な任務「弾道表」の作成に関しては、デジタルは遅いうえに不正確、でした。


弾道表の作成では、様々な条件で、多数の弾道を計算する必要があります。

そして、1本の弾道の計算だけで、動く弾の位置計算を、時間に沿って繰り返し何度も行う必要がありました。


速度が遅い、という理由から、少しでも計算を早くするためには、計算する「時間」の精度を荒くする必要がありました。

しかし、そうするとわずかな誤差が溜まってしまい、最終的には大きな誤差となるのです。


このため、第2次世界大戦中には「微分解析機」というアナログ計算機が開発され、活躍していました。



デジタルでも速度を上げれば十分な精度の計算ができるはず、と ENIAC が作成されますが、終戦には間に合いません。




まだ戦時中、アナログ全盛の時代に、マサチューセッツ工科大学(MIT)に海軍から「パイロットの養成のために」航空シミュレータの作成が依頼されます。


もちろん最初はアナログで作成しますが、要求された「本物の飛行機のような感覚」には程遠いものでした。

もっと複雑な計算を行う必要がありました。


しかし、アナログ計算機は「複雑な計算」においては、役に立ちません。

そして、デジタル計算機は「計算の速度」において、役に立たないのです。



このとき、まだ作成中だった ENIAC の噂が聞こえてきます。

デジタルでありながら、歯車を使わずに電気回路で計算を行う機械。

しかし、その予想される速度であっても、航空シミュレータの必要とする速度には足りません。


まだ完成もしていない ENIAC の技術面を参考にし、さらに高速化のための工夫が編み出されます。



最初に作られたプロトタイプが WhirlWind I でした。


真空管時代のものですが、いまでは「あたりまえ」とされるような技術を、多数最初に編み出したマシンです。

それ以前は、コンピューターは今とはかなり違うものでした。

WhirlWind 以前と以降で、コンピューターの姿が変わってしまったのです。


当時、ケン・オルセンは海軍研究局に在籍し、海軍の立場から WhirlWind I の作成プロジェクトに参加しています。




WhirlWind I は当時最高の性能を持つコンピューターでしたが、ただの「計算機」ではありませんでした。

グラフィックディスプレイとライトガンを備え、画面に図示した情報を「タッチ」することで操作できたのです。


航空シミュレーターを作る必要性からグラフィック機能が備えられたのですが、当時の「計算機」の概念を超える、対話できる機械でした。


ただ、このコンピューターを実現するための回路規模は膨大でした。

最終的に海軍ではなく空軍で使われるようになるのですが、量産された WhirlWind I … SAGE と呼ばれたシステムは、1台のコンピューターを「建設」すると、4階建てのビルが出来上がりました。



戦後、トランジスタが発明されると、真空管と同じようにトランジスタでもコンピューターが作れるのではないか、という可能性が示唆されます。

ただ、最新鋭の電子素子であるトランジスタは、非常に高価でした。



ケン・オルセンは、海軍を退役してMITリンカーン研究所に在籍していました。

そして、彼が参加した WhirlWind を参考としたマシンを、トランジスタで実現するプロジェクトの責任者となるのです。


しかし、先に書いたように、トランジスタでコンピューターが本当に作れるのか、まずはその確認から始める必要がありました。


そこで、最低限の機能だけに縮小したプロトタイプ機、TX-0 を作成します。

最低限…命令が、たった4つしかありません。でも、ちゃんとプログラムできます。



これはプロトタイプですから、狙いどおりに動作することが確かめられるとすぐに TX-1 の作成に掛かります。

…が、TX-1 は野心的過ぎて失敗。


責任者は交代して最終的に TX-2 が出来上がります。

実は、TX-2 ももう人間の手には負えない設計で、設計段階から TX-0 の計算力を必要としています。


そして、TX-2 の完成時点で、TX-0 は用済みになりました。

しかし、この「用済みのコンピューター」こそが、ケンの人生を、そして世界を変えていきます。



#TX-2 は、世界初の「コンピューターグラフィックス」を実現したことで有名です。

 詳細はサザーランドの記事へ。




用済みの TX-0 は、MITに無償で貸し出されました。

MITにはすでに研究用の計算機として IBM 904 がありましたから、 TX-0 は学生が自由に使ってよいマシンとなりました。


そして、学生たちは TX-0 で自由に遊び始めます。

「計算機」のはずなのに、計算などさせず、絵を描いたりゲームを作ったり音楽を演奏したり。


ケンにはこのことが驚きでしたが、同時に「十分安くて自由に触れるのであれば、コンピューターの用途はずっと広がる」と気づきました。



ケンは、DEC社を設立。


当初は「装置」の名前通り、TX-0 や TX-2 の周辺機器をオーダーメイドで作っていました。

しかし、その裏で開発を進め、TX-0 を元としたミニコンピューター、「PDP-1」を作り出します。


ところで、DEC は Digital Equipment Corporation 、PDP は Programmed Data Processor の略です。

コンピューターを作っているのに、どこにも「Computer」の文字が入っていません。


これは、まだ広く知られておらず「一般人には関係のないもの」と考えられていた「コンピューター」の名前を使うことを、会社設立資金を提供したオーナーが嫌がったためです。


しかし、PDP-1 は明らかにコンピューターでした。

よく「世界初のテレビゲーム」と呼ばれる、「Space War!」は、この PDP-1 で作り出されています。




DEC は作る機械に順次番号を割り振っています。


そして、互換機もあれば、互換性のない機械もあります。

軍のオーダーで作られ一般販売しなかったものや、試作だけで終わったものもあります。


そのため、型番からでは互換性が分かりません。


PDP-1 は 18bit マシンで、4 7 9 15 が後継機。

PDP-3 は 36bit マシンで、6 10 が後継機。

PDP-5 は 12bit マシンで、8 12 が後継機。

PDP-11 は 16bit マシンで、後継機はシリーズ名も変わる「VAX-11」となります。


18 / 36 / 12bit って、今のコンピューターに慣れていると奇異に見えますが、当時は 1byte が 6bit です。

だから、3 / 6 / 2 byte を 1word とするマシン、ということになる。


でも、ASCII 文字コードが制定されると 1byte が 8bit になり、それ以降に作られた PDP-11 では 16bit / 2byte が 1word になっています。



このうち、特筆すべきは 1 7 8 10 11 …あたりかな。


7 は、初期の UNIX が作られた機械です。

後に、互換性のない PDP-11 に移植が行われ、その際に「アーキテクチャを問わないアセンブラ」として開発されたのが C言語です。


8 は 12bit で廉価だったのに加え、時代的にもコンピューターになじみが出てきたタイミングで発売されたため、大ヒットしました。

自動車を買うのと同じ程度の値段で買えた、と言いますから、現代の感覚からすればまだ高いのですが、当時としては「個人で所有できる唯一のコンピューター」でした。


商用としてはかなり初期のコンピューター音楽演奏システムなんかにも使われています。

「ミニコンピューター」「ミニコン」という言葉は、このあたりから出てきたもの。



10 は、電話回線でテレタイプを接続して時間貸し、というシステムでよく使われました。

ビル・ゲイツが初期のハッキングを楽しんでいたのもこのマシン。


11 は、当時のコンピューター命令セットとしては最も美しい設計だとされ、後の多くのマイクロプロセッサに影響を与えています。

6800/6809 や 680x0V60、Tron-chip なんかも PDP-11 の影響を受けて設計されているそうです。



最も、PDP-1 以降はケンの手を離れています。

PDP-4,5,6 それに 11 は ゴードン・ベルが作っています。




PDP-11 から VAX-11 に機能が拡張されます。

VAX は Virtual Address eXtension の意味で、「仮想メモリ」をサポートしました。


また、この機能を活用した VMS という OS が作られました。


…使ったことがないので迂闊なことは書けない。

でも、UNIX に対する「回答」として作られた節があって、どの部分をとっても UNIX に似ていて、しかしそれよりも良いものだったそうです。



たとえば、UNIX ではすべてを「ファイル」として考えます。

そして、ファイルの入出力ですべてが行えるようにするのです。


キーボードは読み出し専用のファイルです。

プリンタは、書き込み専用のファイルです。


ディスク全体も特殊なファイルとして考えられますが、その中に実際のファイルが入れられ、これは読み書き共にできます。


しかし、UNIX でも「メモリ」まではファイルにしていませんでした。

プログラムが入っているメモリは、OSにとってはちょっと特別な場所。


VMS では、「仮想メモリ」によって、搭載している以上のメモリ空間を扱えます。

そして、足りなくなった際にはメモリの一部はファイルとして保持するのです。

ここで、ファイルとメモリも統一が行われたのです。



さらに、UNIX ではファイルはディスク上に置かれていることが前提でしたが、VMS では「ネットワーク」を前提としています。

ネットワークされたコンピューターのどこかにファイルがあれば、その保存形態は問いません。



今では UNIX にも、仮想メモリや NFS (ネットワークファイルシステム)という概念があります。

しかし、これらは VMS から取り入れた概念なのです。




VAX には公式 OS として VMS が提供された一方で、PDP-7 / PDP-11 で育った UNIX もまた、VAX に移植されていました。


だからこそ、UNIX を超える公式 OS を作ろうとしたのでしょうが、普及したものに対して「よりよいもの」で追うという戦略は、大抵うまくいきません。

VMS も例にもれず、普及しませんでした。



UNIX 上では、「グラフィカルな操作環境」として X-Window というシステムが作られています。

この開発者は、後に DEC に在籍していました。



VMS の UNIX に対する優位点は、先に書いたように仮想化やネットワーク化が OS 自体に組み込まれている点です。

UNIX は、後付けのソフトウェアで実現しているため、設定・管理が煩雑でした。


そこで、いっその事、VMS を大きく作り直して、X-Window も取り込んだ次世代のグラフィカル OS を作ろう、というプロジェクトが始まります。

一歩先ゆく次世代 OS として、V M S の文字をそれぞれアルファベット順に一つすすめた、コードネーム WNT 。


しかし、作成中に DEC が破産します。

WNT は、マイクロソフトが買い取り、大幅に手を加えて、後の Windows NT となります。


現在も広く使われている Windows は、 Windows NT の後継です。




さて、もしもケンがいなかったら、どうなっていたでしょう?


TX-0 は作られず、コンピューターが「計算」以外の仕事を始めるのは、控えめに言って、もっと遅くなったでしょう。


個人で所有できるコンピューターの実現にも時間がかかったでしょうし、当然コンピューターゲームの誕生だって遅れます。

Windows だって存在しません。


ケンの存在は、今の世の中に大きな影響を与えているのです。




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続・家の10年目メンテナンス  2017-02-20 11:17:17  住まい 家族

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家の10年目メンテナンスの話の続き。


前回「1か月くらいの予定」と書いたのだけど、メンテナンスするうちに木部が傷んでいるのが見つかって取り換えたり、予想以上の出費になっている。


そもそも非常に高かったので、木部塗装は自分でやることにした。

10年ごとのメンテナンスでしか塗らない…という家も多いらしいのだけど、一応2~3年おきには自分で塗っていたし。


#メーカー推奨は1~2年での塗り替えなのだけど。



すでにほぼ工事が終わったのだけど、足場をばらすのは少し延長してもらっている。

その間に、普段塗りにくいところでも塗装しなくては。




我が家にはパーゴラ(いわゆる藤棚)があって、藤の枝が這っている。

園芸好きの妻が管理していて、普段の塗装も妻任せだ。


でも、足場があるときくらい僕がやろう…と言ってみたのはいいが、足場はあくまでも壁を塗る職人さんのためのもの。

パーゴラを塗るには、足場からパーゴラに降りる必要があった。


降りた足場などを手で持ち、体を支えることはできる。

でも、パーゴラの細い枠を踏み外せば落ちる。枠の感覚でしか足を広げられず、それすらも伸びた藤の枝に制約される。


態勢を維持しているだけで、普段使っていない筋肉を使うのがよくわかる。

その体制の中で、すべての木部を塗っていくのが非常に難しい。


筋肉痛…とまではいかないが、今日は体中の筋肉がだるい。

いつも妻がよくこれをやっているな、と感心する。感謝せねば。


#僕はパソコンオタク一直線の青春時代を過ごしていたが、妻はスポーツ少女で身体能力が高い。

 大工仕事なども得意だし、園芸知識もあるし、我が家の外構に関しては完全に妻の才に負っている。




ペンキを塗っていると、いつも「空手が強くなってしまう」などと思う。


ベストキッドの中に、そういうエピソードがあるのよ。


「空手を学びたい」という主人公に対して、老師が家の雑用を命じる。

その雑用の対価として教えてもらえるのかと思ったら、来る日も来る日も雑用ばかり。


でも、実は「ペンキ塗り」などの動きこそが空手の型を習得するための訓練で、何も教わっていないのに型は身についていた、という話。


妻に言ったら「端的に行って、頭悪い」と言われました。

もちろん本気で思っているわけじゃないけれど。




子供が保育園に行っていたころは、子供が遊んでいてもすぐに親を頼るので、木部塗装をやろうと思ってもなかなか時間が取れなかった。


しかし、今は子供同士で遊んでいてくれる。

今後はもう少し頻繁にメンテナンスができるといいなぁ、と思う。



#木部の傷んでいた部分は、塗装がおろそかになっていたからではなく、一日中日が当たらない部分だったためです。

 修繕した際には、単に元に戻すのではなく、「雨が降っても乾きやすいように」など工法を工夫してくださったので、今後は大丈夫…と思いたいです。



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在庫処分  2017-02-21 18:07:44  コンピュータ

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古いコンピューター関係のいろいろを、思い切って処分することにした。


世間的にはゴミです。ガラクタです。

そんなもの勝手に処分しなはれ、って話なのだけど、自分的には宝物だったりしたので、何か書き残しておきたいのだ。


X68k のゲームが数本と、マイコン BASIC マガジンが数十冊、Oh!X が数十冊。

あと、会社員時代に先輩から「いらないから上げる」ともらってから一度も遊んでなかった(ソフト持ってないから)NEO GEO 本体と、人から譲り受けた、自分で持ってなかったパソコンのゲームソフト数本。


まだある。

昔バンダイが発売して話題になった「Let's TV Play Classic」の4本セット。

定価 1本 3,500円だったから、これだけで 14,000円。


でも、1本 10円の 40円で入手した

リンク先の昔の日記は「入手報告」だけだけど、その後ケーブル自作してちゃんと遊べたよ。




僕は古い PC が好きだ。僕の子供時代、1980年代の8bit機とかだな。

このページを見てくれている人は知っていると思うし、今でも好きなまま。


でも、上に挙げたものは、基本的にここ 10年箱に入りっぱなしのものだった。

「いつか何か書くときの資料に」と思って置いてあったのだけど、そんな機会はなかった。


数年前から Twitter を始めて、同好の士の存在を知った。

僕よりすごい知識量の人や、コレクションが多い人はざらにいる。


がっぷり四つになっても太刀打ちできない。


そんなわけで、最近は「自分が生まれる前のコンピューター研究」に興味が移っている。

昔より資料が入手しやすくなって、面白いんだ。



で、部屋の整理している時に、もう10年も開けていない箱は、処分してしまおうと決めた。

ただ、捨てるのはもったいない。価値があることを僕自身がよくわかっているから。


欲しい人がいたらただで持って行って、という状態なのだけど、引き取り手を探すのも面倒くさい。

何よりも、処分すると決めたら、決意が鈍る前にやってしまいたい。


そこで、買取り業者に任せることにした。




箱詰めして送ったのが先週中ごろだったかな。

先ほど査定の返事が来たのだけど、驚くほどの高値だった。


たぶんあまり公開しないほうが良いことなので、詳しくは書かない。

雑誌は、1年分揃っていると高く売れるようだ。


古いカセットテープのソフトなどは、案外高いようだ。動作するものが少なくなっているからだろう。


TinyXEVIOUS mkII があったのだけど、予想しなかった高値が付いた。

当時の人気ソフトで、中古もだぶついて安いだろうと思っていたのに。


別のテープソフトは、読み取れなかったからジャンク扱い、と言いながらも 3桁の値段がついている。

箱・説明書までそろっていれば、遊べなくても価値があるということだろう。



X68k ソフトでは、悪魔城ドラキュラが「箱に傷あり」の難あり品で、グラディウスIIは美品だったのだけど、ドラキュラのほうが高値だった。


グラIIは当時から人気が高く、ドラキュラより売れていたはずだし、今でも各種移植がある。

つまり、入手しやすいうえに、X68k 版にこだわる必要もない。


でも、X68k ドラキュラはマニア評価が高いにもかかわらず、他への良い移植がない。

そうした違いでドラキュラのほうが高いようだ。



先に書いた Let's TV Play Classic 、なにぶんワゴンセール品だったのでベタベタとバーコードやら盗難防止シールやら貼られていて状態は良くない。


にもかかわらず、入手金額よりずっと高い値段が付いた。

いや、入手値段が安すぎるだろ、って話でもあるのだけど。



雑誌は、ベーマガは高い。Oh!X は安い。ASCII とかは十把ひとからげ

まぁ、当時のベーマガは別格だし、ASCII は技術情報誌なので、古くなると価値がなくなる。

納得の査定だろう。




何でもかんでも売ったわけではなく、個人的においておきたいものはちゃんと手元にある。



僕の売ったものは近いうちに店舗に並ぶのだろうけど、買取金額がアレだということは、店舗での額はかなり高くなるのだろう。


その高値でも買ってくれる人は、価値がわかっている人だ。

そういう人に譲り渡したいから買い取り業者に任せた、という側面もある。



手放したのは多少寂しくはある。だからこんな日記書いているのだ。

でも、価値あるものが、その価値を判ってくれる人のところに収まってくれるなら、段ボール箱の中に入れっぱなしになっているよりも良いことだと思う。



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16年 おゆうぎ会

19年 ファミリーベーシック V3(1985) ディスクシステム(1986)の発売日


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早口言葉  2017-02-23 14:16:06  その他

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次女が小学校の課題で、「早口言葉教えて」と言ってきた。

長男、長女も国語でやった「言葉遊び」の単元なんだけど、上の子たちはそんなこと聞いてこなかった。


でも、次女の先生は「早口言葉を知っている人がいたら聞いてくるように」と宿題(?)を出したらしい。




当WEBサイトではコンピューターやテレビゲームの話が多いのだけど、僕はゲーム全般が好きだし、ゲームに限らず「遊び」が好きだ。


言葉遊びももちろん好きで、WEBサイト作成初期には「言葉遊び」のコーナーを作ろうと思ったくらいだ。


だけど、言葉遊びって、せいぜいが集めて列記する程度で、それを面白いと感じるかどうかは個人のセンスによるものになってしまう。

それは誰にでもできることで、「僕」がやる必要はない。


やるなら、その言葉遊びがどう面白いのか、どこら辺に鑑賞ポイントがあるのか…など、踏み込んで解説したかった。

ただ何となく面白いと思う、というポエムから、誰もが納得できる科学的解説へ。

それなら、わざわざ書く理由がある。



でも、これも、しばらく考えていたらある程度の「類型」が見えてきた。

つまり、類型ごとに解説したらおしまいになってしまい、わざわざ「コーナー」を設けても、わずかなページ数で終わってしまう。

そんなわけで、言葉遊びコーナーは作らなかった。




さて、そんなわけで、いい機会なので早口言葉をある程度解説しながら書いていこうと思う。


おそらく、中には「著作権のある早口言葉」もあると思うのだけど、僕が記憶している形で書くので、申し訳ないのだけど出典を示せない。

もしご存知の方がいたら指摘してほしい。



まず、前説から。


早口言葉の意義から言えば「言いにくい」ことが大切だとは思う。

だけど、それだけで早口言葉とするのは、僕個人としては好きではない。


言葉遊びなのだから、「遊び」の部分が欲しい。

言いにくいだけでは、活舌をよくするための練習文句なだけで、実用性一辺倒な気がするから。


ただ難しい言い回しを集めただけではなく、全体に文章になっていたり、ストーリー性を感じられるとより良い、と思う。

言いにくい言葉でストーリーを作るなんて言うのは、ある種のダブルミーニングであり、作者のセンスを感じられる。




§破裂音を活かしたもの


口から息を吐きだしながらも、口腔内のどこかで空気をふさぎ、圧が高まったところで開放することで音を出す。

こうして作られる子音を「破裂音」と呼ぶ。


「た」行の子音 t は、舌の先を歯茎に押し当てて空気をふさぐことから「無声歯茎破裂音」と呼ぶ。

「か」行の子音 k は、舌の根本を上あごの喉の付近の柔らかい部分(軟口蓋)に押し当てて空気をふさぐことから「無声軟口蓋破裂音」と呼ぶ。


舌の先と元の部位で、「圧に耐える」程度のしっかりとした力で、似て非なる動きをしないといけないので、交互に並べられると発声が難しい。

ここに「母音」を示すための口の形をコロコロと変えてやると、舌も口の形も忙しいことになり、かなり難度の高い早口言葉になる。


隣の 竹垣に 竹 立てかけたのは 竹 立てかけたかったから 竹 立てかけたのです

(となりの たけがきに たけ たてかけたのは たけ たてかけたかったから たけ たてかけたのです)


古くから知られる早口なのだけど、長い時代を生き残るだけある傑作だと思う。


竹立てかけた (take tate kake ta) は、子音 t k と母音 a e の組み合わせを変えながら畳みかけるフレーズになっている。

これを中心に文章を組み立てながら、全体として「自分のしたことを言い訳している」ようなストーリーを作り出している。



神田鍛冶町 角の乾物屋で 買った勝栗 固くて噛めない 返しに行こう

(かんだかじちょう かどのかんぶつやで かったかちぐり かたくてかめない かえしにいこう)


こちらも同じように、k の音を中心にまとめてある。

でも、t の畳みかけのような「攻撃」はなく、早口言葉としての難易度も低め。


でも、こちらの楽しさは、フレーズのアタマが「か」で揃えられていることだろう。

非常に調子が良くて、言っていて楽しい。


ちなみに、最後を「返しに行こう」で終わらせずに、


「返しに行ったら 勘兵衛のカミさん 帰ってきて カリカリ噛んだら カリカリ噛めた」


というのも聞いたことがある。


勘兵衛って急に登場した人物が何者かわからないし、「カリカリ」に至っては無理やり「か」の多い音を集めただけにも思える。

そんなわけで、後半のこの部分があると、かえって言葉遊びの面白さを失っている気がする。


僕としては、「返しに行こう」で終わるほうが好き。



隣の客は よく柿食う客だ 客が柿食や 飛脚も柿食う 飛脚が柿食や 客も柿食う 客も飛脚も 柿食う 客飛脚

(となりのきゃくは よくかきくうきゃくだ きゃくがかきくや ひきゃくもかきくう ひきゃくがかきくや きゃくもかきくう きゃくもひきゃくも かきくう きゃくひきゃく)


最初の2フレーズで終わっているのが普通だと思うのだけど、「飛脚」の乱入によって急に難易度が増す。


もっとも、いたずらに引き伸ばしているだけの感じもしなくはない。

早口言葉は「言いにくい」ことが面白いのであって、言えない場合に「長すぎて覚えられない」という別の理由があるのは美しくない。



東京 特許 許可局

(とうきょう とっきょ きょかきょく)


これも有名なもの。短いのだけどよくできている。


先に書いた「長すぎて覚えられない」とは言わせない。

それでいて十分言いにくいし、言葉としても非常に自然なものだ。


もっとも、「特許庁」は存在するが「許可局」というものはないし、「東京」のように地域ごとの機関もない。

それでも「ありそう」な言葉だから面白みがあるのだけど。



さらに続けて「局長 今日 急遽 休暇許可 却下」と続けるのを見たことがある。


これもよくできているが、「東京特許~」に関しては、シンプルなのに十分難しいことも評価ポイントだと思うので、個人的には短い方が好き。



空虚な 九州空港 究極 高級 旅客機

(くうきょな きゅうしゅうくうこう きゅうきょく こうきゅう りょかくき)


今から 30年近く前だったと思うのだけど、深夜のラジオ番組で、新作早口言葉を募集したらしい。

毎週リスナーからのハガキが寄せられ、DJが一生懸命早口を読み上げる。


僕はそのラジオ番組を聞いていないのだけど、秀逸な「新作早口言葉」も生まれている、ということが新聞のラジオ・テレビ欄の囲み記事になっていた。

そこで紹介されていたものが、上の早口言葉。


だから、これを考えた人か、ラジオ番組が著作権を持っていると思う。



バックグラウンドまで説明すると、当時は「九州に国際空港を作ろう」という計画があった。

それを取り入れた時事ネタでもある。


ちなみに、ラテ欄の記事でもう一つ覚えているのは「ゴルバチョフ書記長の子 子ゴルバチョフ書記長」というものだ。

こちらも時事ネタ。




§摩擦音を活かしたもの


口から息を吐く際に、空気の流れる部分を非常に狭くしてやると、流れる空気と周囲との摩擦によって音が出る。

これを摩擦音という。


さ行の子音「s」は、舌の先と歯茎の間にわずかな隙間を作って発声することから「無声歯茎摩擦音」と呼ぶ。


日本語では子音の後には基本的に母音が来るため、さ行の発音の際には、「わずかな隙間」を作った後に、母音の発生のために「解放する」必要がある。

さ行の音が連続すると、わずかな隙間…塞ぎすぎても、開きすぎてもダメだという難しい舌の位置を繰り返し作らなくてはならなくなるため、発声が難しくなる。



新春 シャンソン歌手 山村 シャンソンショー

(しんしゅん しゃんそんかしゅ さんそん しゃんそんしょー)


短いフレーズだけど、よくできた早口言葉だと思う。

摩擦音に加え、「ん」という鼻音を混ぜている。


鼻音は鼻に息を抜くことで出す音なので、口で出す摩擦音の s と合わせると、空気の流れの制御がややこしくなる。

(実際には、ややこしすぎるため鼻に息を抜ききらず、喉の奥で空気を止めるくらいで発音することになる)


「山村」を入れずに「新進シャンソン歌手」にしたり、いろいろなバリエーションがあるのだけど、シャンソン歌手がショーを行う、というストーリー性がある。



猪鍋 猪汁 猪丼 獅子シチュー 以上 猪試食 審査委員 試食済み 新案 猪食 七種中の 四種

(ししなべ ししじる ししどん しししちゅー いじょう ししししょく しんさいいん ししょくずみ しんあん しししょく しちしゅちゅうの ししゅ)


僕個人としては、最高傑作だと思っている早口言葉。と言っても難易度はそれほど高くない。

「七種中の四種」は言いにくいけど。


最高傑作だと思うのは、よくもこれだけ「し」を並べてストーリー性のある文章を作ったな、という感心。



これは、子供の頃(多分1979年)東京タワーに行ったときに、NEC の出店していたブースでもらった下敷きに書いてあった。

早口言葉をたくさん書いた下敷きで、楽しいので長い間大事にしていた。

紙下敷きだったので、最後にはボロボロになって捨てたけど。


出典となる書籍名も書いてあったので、蒐集した昔からの早口言葉と、著者の方による新作があったのだと思う。

そして、上記はおそらく新作と思われる。


実は「神田鍛冶町~」のロングバージョンと、「隣の客は~」のロングバージョンも、この下敷きで知った。

こちらは、根幹部分が古いものなので、バリエーションを蒐集したのではないかな、と思っているのだけど、著者による追加かもしれない。



だとすれば、著者の方に著作権があるはずなのだけど、すでに情報がないのでよくわからない。

ここでは「引用した」ことにしたいのだけど、引用であれば元の書籍の情報を書かないといけない。


情報知っている方がいましたら、教えてください。

(古本が入手できそうなら読んでみたいし)




§言葉自体が面白いもの


早口言葉の体裁は取っていながら、その言葉自体が面白いだけで、早口としては難易度低い、というものも多い。

だけど、「言葉遊び」なので、それもまた面白いと思う。


この釘 憎い釘 引き抜きにくい釘 憎い釘 引き抜く

(このくぎ にくいくぎ ひきぬきにくいくぎ にくいくぎ ひきぬく)


これ、コント 55号の萩本欽一さんが、コントでやっていたと思うんだ。

どんなコントだったかは忘れた。舞台上で次郎さんに、いろんなセリフを教えた通りに言わせるのだけど、その中に急にこれが混ざるの。


次郎さんは、急に言われたことに対して「え?」ってなるのだけど、欽ちゃんが感情を込めて一語一語を説明して覚えさせ、無理やり言わせる。


釘を抜こうとしたけど、上手く抜けなかったことで釘を憎むのね。

でも、最終的にはその釘を引き抜く。…というストーリー。


だから、最初の「憎い釘」と、2番目の「憎い釘」では、感情が違う。

最初は、引き抜けなかったからちょっと憎んでいるだけ。でも、最後は憎さの感情が募り、思い切って引き抜いてしまう感じ。



生暖かい 肩叩き機

(なまあたたかい かたたたきき)


一応発音しにくい t や k の音を混ぜてるのだけど、早口言葉というより「想像するとなんか嫌」なものを想起させる遊びが含まれている。


これは、大学時代に友人から教わった。



お綾や 親に お謝り

(おあやや おやに おあやまり)


これ、何の漫画で読んだんだったかな…昔少女漫画にあったフレーズ。

ストーリー上は、マイフェアレディっぽく、訛りを矯正させる訓練ではなかったかな。


#マイフェアレディでは、「スペインの雨は主に平野に降る」

 "The rain in Spain stays mainly in the plain." を練習するシーンがある。

 早口言葉というより、ai の発音が悪かったので、rain Spain stays mainly plain という ai (ay) を多く含む文章を作ったもの。


「親」ではなく「八百屋」にするものも多いようです。

でも、「親」のほうがなんか緊迫した事情がありそうで、そんなことを想像するのもまた楽しい。




バス ガス爆発

(ばす がすばくはつ)


これ、子供の課題だったのでここで止めましたけど「ブス バスガイド」って続けるのも有名だと思います。


t k の連続と同じで、b も g も破裂音なのでそれなりに言いにくいです。




§同音異義語を混ぜる


同音異義語というのは、同じ音を言うだけなので、早口言葉としてはそれほど難しくありません。

でも、そこに「同じ音なのに意味が違う」という、感覚の崩壊(眩暈)が入る。


この眩暈は、言う人よりも「聞かされる人」の方に強く出るように思います。

早口でまくし立てて、同じ音がいろんな意味で出てくる言葉を聞かされる。


冷静に考えれば意味が分かるのだけど、早すぎて意味が分からない。その混乱を楽しむわけです。

早口言葉と言っても、聞く方が意味を取れるかどうかを試すものになっている。


言葉遊びとしては面白い。


瓜売りが 瓜売りに来て 瓜売れず 瓜 売り売り帰る 瓜売りの声

(うりうりが うりうりにきて うりうれず うり うりうりかえる うりうりのこえ)


「瓜」と「売り」を組み合わせて「瓜売り」。

そして、そこからストーリーを展開しています。


覚えてしまえばいうのは簡単。でも、瓜売りの寂しそうな後姿が思い浮かぶと、何とも言えない哀愁があります。

結構好き。



スモモも桃 桃も桃 桃も スモモも 桃のうち

(すももももも ももももも ももも すももも もものうち)


「も」って、連続するとそれなりに言いにくいです。

口を閉じて開いて、を繰り返さないといけないからね。


でも、それ以上に、同じ音の連続を楽しむ意味合いが強いかと思います。


接続詞の「も」と、「桃」を組み合わせて意味のある文章にした感じ。

意味を出すために「スモモ」も組み合わせていますが、この「す」をできるだけ感じさせないように最大限離して配置してあるわけです。



母の母は ハハハ 母は ハハハハと笑う

(ははのははは ははは ははは ははははとわらう)


こちらも同じく、接続詞の「は」を活かした遊び。

実際には「わ」という発音になるので、発音するよりも文字に書いたほうが面白いです。



裏庭には二羽 庭には二羽 鶏がいる

(うらにわにはにわ にわにはにわ にわとりがいる)


こちらは、文字を見るとかえって面白くないかも。


一応有名な早口言葉ではありますが、「にわ」の音の意味がどんどんずれていく。

その眩暈を楽しむものかと思います。



裏に鰐・埴輪 庭に埴輪 …って、さらに意味をずらして描かれたイラストを見たことがあります。


これは早口言葉ではなく、意味をずらして遊ぶゲーム、という本質をとらえていると思います。


貴社の 記者が 汽車で 帰社した

(きしゃの きしゃが きしゃで きしゃした)


これは早口言葉というより駄洒落の範疇か。

「ハイカラさんが通る」に出てた気がする。


ワープロの性能がまだ十分でなかった頃は、文字変換のテストなんかにもよく使われた文句です。

文法解釈・意味解釈まで入り込んでいると正しく変換できるけど、単に文字を見るだけだと、こうした同音異義語は変換できないから。




§早口言葉のゲーム性


早口言葉の紹介としては、ここまで。


子供の課題に付き合って思い出した(書き出した)フレーズを元に書いたので、マイナーどころを中心にそろえています。

あまり有名なもの「坊主が屏風に~」とか「蛙ぴょこぴょこ~」、「赤巻紙~」とかは入ってない。



4つに分類したけど、漠然と思っていたことについて、書きながら分類してみた程度なので、あまり厳密性はない。

だいたい、「早口言葉」というものの定義すら曖昧なので、厳密に分類すること自体に無理があるだろう。


以降は分類とはまた違う話。



ある程度の長さを持つ早口言葉の場合、見事言えた際に「調子が良い」ことは大切だと思う。

調子のよい言葉って、言っていて気持ちいいのだ。声に出して読みたい日本語。


「神田鍛冶町~」とかは、頭が「か」で揃えられていて、読んでいてリズムが出て気持ちいい。

でも、簡単には言えない。気持ちいいのが途中で言い淀むと、「失敗した」感が出る。


何度かやって、最後までやり通せれば、「やり切った」感が出る。



以前どこかで書いたけど、僕は、「目的」に対して「障害」が設定されたら、それはもうゲームだと思っている。


早口言葉は「調子のよい言葉を気持ちよく言い切る」ことに対し「舌が回らない」という障害がある。

十分ゲームの要素を満たしている。



でも、だからこそ「いたずらに長く、覚えるのが難しいだけ」とか「調子が悪く、言えたとしても気持ちよくない」ようなものは、あまり面白くないと思う。


ストーリーがあることを面白いと感じるのも、本質的にはストーリーによって「覚えやすさ」も出来上がるし、調子も良くなるからだ。



落語の「寿限無」や「ん回し」なんかも、同じような構造だと思う。

ただ、これは「調子がいい」のだけど、長くて覚えにくく、言いにくいわけではない。


だから、「早口言葉」とはまた違うものだ。

同じ「言えるかどうか」のチャレンジでも、記憶力が試される。



まぁ、これも厳密に区別する必要はない。

全部ひっくるめて「言葉遊び」だし、遊びというのは本来自由なものなのだから。




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コアメモリ特許 成立(1956)  2017-02-28 13:46:27  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、コアメモリの特許が成立した日(1956)



最初に誤りの訂正から入らないといけませんね。

以前に、アン・ワング博士がコアメモリを発明した、という記事を書いたことがあります。


これ、間違いではありません。一般的にワング博士がコアメモリを発明したと言われます。

でも、今日の記事を書くために詳細を調べたら、実際には少し違っていました。




ワング博士が発明したのは、米特許番号 2708722 「Pulse transfer controlling device」です。

訳すなら「パルス転送制御装置」。

1949年に出願し、1955年に特許成立しています。



電話のダイヤルなどは「パルス」を発生し、自動交換装置はこのパルスで動作します。

電話パルスには、1秒間に10回のパルスを送る 10pps と、もっと高速に 20回のパルスを送る 20pps の2つの規格があります。


どうも、ワング博士が発明を行ったのは、新しい規格への移行期のようです。

交換機が新型で、高速パルスに対応していれば問題はありません。低速のパルスでも、同じように動くことができます。


しかし、交換機が古いのに電話機が高速だったら…交換機が速度に対応できません。

このため、「一度パルスを受けて、記憶した後で改めて速度を変えて送り出す」ような装置が必要だったのです。



当時は、真空管を組み合わせて記憶させたり、磁気ドラムを使って記憶させたりしていました。

しかし真空管は電気食いで放熱も大きく場所を取るし、磁気ドラムは物理動作を伴うので故障しやすい。


ワング博士は、ここに磁石などに使われる「フェライト」を使うことで、パルスを記憶させる装置を作り上げるのです。


この時点では、パルスを覚えればいいだけなので、フェライトコアはシーケンシャルに並び、シフトレジスタ(ビット列を順次ずらしていける装置)として動作させています。




以前書きましたが、WhirlWind I コンピューターが制作される際に、当時としてはあり得ないほど高速なコンピューターを目指したため、演算装置とメモリ装置を同時開発しました。


演算装置は、今でも使われる様々な工夫により、超高速なものが作られました。

しかし、メモリ装置は開発に失敗し、低速でした。演算装置の足を引っ張るくらいに。



そこで、いったん完成した後にメモリシステムの改良がおこなわれます。

多くのメモリを試し、その中でワング博士の特許が見出されます。


ただのフェライトコアで記憶ができてしまう!

しかも、特許によれば磁気の強さがある閾値を超えることで記憶ができます。


このことから、電線を縦横にクロスし、交点にフェライトコアを置くことで、多数のコアを少ない電線で制御する…という方法を考え付いたようです。



こうして作られたコアメモリは、非常に高速に動作するのに安く、駆動するのに必要な電力もわずかという、夢のようなメモリでした。


WhirlWind I の開発責任者、ジェイ・フォレスターの名前で特許が出願されています。


米特許番号2736880、「Multicoordinate digital information storage device

訳すなら「多軸デジタル記憶装置」でしょうか。


出願は 1951 年で、特許成立は 1956年の 2月 28日でした。




特許の白眉は Multicoordinate、「多軸」の部分にあります。


先に書いたように、電線を縦横にクロスし、交点に記録を行う。つまり「多軸」による記録。


これ以前のメモリ装置は、基本的には 1bit に対して1組の配線が必要でした。

そのため、容量が増えれば線形にコストが増えます。


#ランダムアクセスメモリの場合の話。

 当時の主流は、コストが安いが低速なシーケンシャルメモリだった。



コアメモリでは交点が重要です。

16本 × 16本の電線を用意すれば、交点は 256カ所もあるのです。


一般にはコアメモリは2次元に作られます。

しかし、フォレスターの特許では「3次元」の可能性についても言及しています。

コアの物理特性はある程度変えられますし、3本の線に電流が流れなくては反応しないコアを作ることも可能でしょう。

この場合、 16x16x16 の電線を用意すれば、交点は 4096カ所になります。



こうした特性により、コアメモリでは、容量が増えてもコストの増加を抑えられます。

ビット単価で考えれば、容量を増やすほど安くなるのです。


これが、特許の中心概念となっている「Multicoordinate」の意味です。



この考え方は現代の DRAM にも引き継がれ、容量が上がるほどビット単価を割安にしています。




ワング博士が特許を出願したのは 1949年。

その後コアメモリが 1951 年に発明され、特許出願。


ワング博士の特許成立が 1955年、コアメモリの特許成立が 1956年です。



これに対し、IBM がコアメモリを使用した IBM 704 を発売するのが 1954年。

704 作成時点では特許は成立していないため問題ありませんでしたが、特許成立後にトラブルとなります。


IBM は、対価としてワング博士に 50万ドル、フォレスターの所属する MIT に 1300万ドルを支払っています。


それぞれへの支払いの経緯も違いますし、この額の差がコアメモリに対する発明の寄与度だ、というつもりはありません。

どちらの発明が無くても、コアメモリは生まれなかったのですから。


しかし、コアメモリを完成させたのは MIT の WhirlWind I 作成チームで、ワング博士はその基礎となる、フェライトコアの物理特性などを研究したに過ぎない、というのは、ある程度事実でしょう。



最初に書いた通り、一般的には、コアメモリはワング博士が発明した…とされています。

しかし、ワング博士の特許ではなく、フォレスターの特許成立の今日を「コアメモリ特許が成立した日」とするのは、間違いではないと思うのです。




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