今日は、ロジェ・カイヨワの誕生日(1913)
フランスの思想家・哲学者です。
実のところ、僕はよく知りません。
よく知らないけど、彼の本を一冊だけ持っている。ずいぶん前に読んで、内容をちゃんと覚えてないけど。
「ゲーム」を作る立場なら、この本を読んでおく必要はあるだろう、と思ったのです。
「遊びと人間」
彼の一番有名な著書です。
キリスト教社会において、怠惰は罪でした。
何の生産性もない「遊び」に興じることもまた、怠惰なことであり、罪です。
そのため、長い間遊びについて研究されることはありませんでした。
「遊び」そのものは、どんなに禁止しようとも一向に無くならないのに。
一石を投じたのは、オランダの文化史家、ヨハン・ホイジンガでした。
彼は著書、「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人、という意味の造語)の中で、歴史的に見て遊びこそが文化のすべてを生み出してきたのだ、と主張します。(1938)
当時としては新しい考え方でしたが、今では認められています。
「生産性のある仕事」を突き詰めて考えると、つまりは「生きていくために最低限必要なこと」であり、それだけでは文化は生まれません。
文化というのは、衣食足りて生活に余裕が生まれ、「遊び」始めたから生まれたものです。
そして、文化を持つことこそが、人間の、もっとも人間らしい部分なのです。
ただ、彼も旧来の価値観から完全に脱却したわけではない。
ギャンブルは悪いことだ、という概念にとらわれており、ギャンブル性のある、言い換えれば運の要素のある遊びを「低俗で悪いもの」、チェスのような運の要素のないものを「高尚で良いもの」としています。
カイヨワは、この主張を受け、さらに研究を進めました。
遊びが文化を形作ったとして、人間はなぜ「遊び」に惹かれるのか。
ここで彼は、多くの遊びを蒐集し、似た要素を持つものを分類します。
そして、「カイヨワの遊びの4要素」と呼ばれる体系を作り出すのです。
遊びは、以下の要素に分類されます。
競争 (Agon:アゴン)
偶然 (Alea:アレア)
模倣 (Mimicry:ミミクリー)
眩暈 (Ilinx:イリンクス)
後で詳細に説明しますが、「偶然」とは運の要素を持ったゲームのこと。
ホイジンガが「低俗な遊び」と否定したものを、カイヨワはむしろ遊びの本質だと考えたのです。
また、この4要素とは別に、遊びは2つの極性を持ちます。
即興と歓喜 (Paidia:パイディア)
規約と従属 (Ludus:ルドゥス)
4要素と2極性の組み合わせで、8つのカテゴリが出来上がります。
先に極性から説明しましょう。
即興と歓喜は、ルールが明確に決まっていない遊び。その場で「面白いからそうしよう」というように、どんどんルールが変わります。
ここで何よりも大切なのは「楽しいこと」。楽しいから遊ぶのです。
先日、早口言葉について書きました。
早口言葉って、何をもって「早口言葉」とするのかのルールもない。
そちらの記事では、最後の方「早口言葉ではない」と明記しながらも類似する言葉を出したりしていましたが、境界は曖昧です。
でも、いいんです。楽しければ。
遊びって本来そういうものですから。
それに対し、規約と従属は、ルールが定まった遊び。
「ゲーム」と呼ばれるの物は、普通これです。
ルールの中で成功条件も失敗条件もあり、成功を目指して頑張る。
楽しいから遊ぶ、はずなのに、ここでは好き勝手は許されません。
場合によっては、遊びなのに「楽しくない」ことにもなる。
しかし、好き勝手が許されないからこそ、全員が公平な立場に立てます。
遊びの種類によっては、これは非常に重要なことです。
この二つは「極性」にすぎず、間に無段階なグラデーションがあることに注意してください。
例えば、UNO 。有名なカードゲームです。
購入するとルールブックが付いてきます。
でも、誰もルール守らないんだよね。独自のローカルルールで遊んでる。そのほうが楽しいから。
とはいえ、ゲームの前にプレイヤーで示し合わせて、各自の考えるルールの「すり合わせ」は行うでしょう。
公式ルールではないものを、その場の即興で決めはするが、1回のゲーム中ではルールを固定して動かさない。
全体としては「規約と従属」側の遊びですが、比較的柔軟な例です。
では、4要素。
これらも「要素」であり、多くの遊びは要素の組み合わせでできていることに注意してください。
競争は、順位をつけられることを前提に、1位を目指す遊びです。
徒競走だって、テストの順位だって、スイカの種とばしだっていい。
誰かと比べて「勝った」とか思った瞬間、競争という遊びを感じているのです。
徒競走は普通厳密にルールを定めますが、スイカの種とばしは突発的に始まるものでしょう。
このそれぞれが「規約」と「即興」の極性になります。
偶然は運を楽しむ遊び。
ホイジンガは、運の絡むゲームはギャンブルであり、悪い遊びだと否定しました。
しかし、カイヨワは、偶然を遊びの重要な要素だとして、むしろギャンブルを肯定しています。
偶然の要素は、例えばサイコロを転がす。辞書を適当に開き、載っていた言葉でお話を作ってみる。雲を見て「クジラみたいに見える」と笑う。
サイコロを転がしただけでは面白くありませんが、先の「競争」と組み合わせ、大きな数を出したほうが勝ち、とかで競えば楽しくなります。これは「規約」。
雲の形をなにかに見立てて遊ぶ、なんていうのは何のルールもありません。
それでも、親しい人とやっていると案外楽しいもの。これは「即興」の極性です。
模倣は、何かを真似る遊びです。
シミュレーションゲームや R.P.G. は、言うまでもなく模倣です。
子供のごっこ遊び。物語を本で読み、主人公の気分に同化すること。砂のお城を作ること。
テレビゲームでも、ストーリー性を感じるのであれば「模倣」しているのです。
ピンボールゲームにすら、ストーリーが設定されている。(好きな人しか判らないかもしれませんが)
例を挙げるときりがありません。
模倣の要素が入っていない遊びのほうがむしろ少ないんじゃないか、とさえ思います。
テレビドラマを見た後に、ふと自分が主人公の立場だったらどうするだろう、と考えてしまう。
こうした瞬間、結構楽しいものです。「模倣」の遊びで、「即興」の極性です。
「電車でGO!」というテレビゲームがあります。
電車の運転士になる…いわば「電車ごっこ」なのだけど、時刻表を守って駅の間を運行しないといけない。
一切の自由は許されず、正確な操作だけが求められます。
非常に窮屈なのだけど、これもまた楽しい。「規約」の極性です。
眩暈…「めまい」と読みます。
これが一番説明しづらいのだけど、僕は遊びで一番重要な要素だと思っています。
「何が何だかわからない楽しさを感じること」だとも言えます。
よく例に出されるのは、ジェットコースター。何が何だかわからないけど、楽しい。
これ、「身体的眩暈」とも言われます。
子供がぐるぐる回って、本当の眩暈を起こして「たのしー」ってなっているのとか、まさにこれ。
でも、遊びとしては「精神的眩暈」のほうが効果的に使われるように思います。
先日早口言葉を書いたときに挙げた例ですが
「裏庭には2羽 庭には2羽 鶏がいる」
「にわ」という音の連続ですが、この音が「庭」だったり「2羽」だったり、接続詞の「には」だったり、「鶏」だったりする。
同じ音の連続なのに目まぐるしく意味が変わる。これを面白いと感じるとき、精神的な眩暈を起こしています。
ジェットコースターは、乗ったら受け身でいるしかない。「規約」の極性。
弾幕シューティングとかで、考えるより先に体が動くような、精神的にハイになっている状態も「眩暈」で、これもルールに従って動いているので「規約」の極性。
早口言葉…は例として適切でないのだけど、会話の途中にとっさに挟まれる言葉遊びなんかは、「即興」の極性かと思います。
さて、一通り説明し終わったところで、僕の思うところをつらつらと。
思ったことを書くだけの、ただのポエムです。
遊びの4要素は大学生の頃に知って、ゲーム会社でゲームを作っている時には何度も考えることがありました。
テレビゲームに限定して考えても、ゲームごとに4要素の配分はかなり違うのね。
絶妙な配分にされるとやっぱり面白いし、悪くないのに面白くないゲームなんかを見た際には、配分を分析してみると理由が見えてきたりする。
「遊び」というのは自由なものですが、「ゲーム」というのはルールの中で競うもの。
この時点で「競争」の要素は欠かせません。
純粋なパズルゲームには、「偶然」も「模倣」も「眩暈」もないけど、制作者との知恵比べはある。
だから、競争だけでもゲームは成り立ちます。
#本当によくできたパズルは、解決方法が巧妙に隠されていて、見つけた瞬間に、自分の想像を超えた巧妙さに眩暈を感じられたりもしますが。
ミニゲーム集ってあります。
任天堂の「メイドインワリオ」シリーズとか。古くは、セガの「タントアール」。
あれ、1つ1つのゲームは大して面白くない。でも、連続してどんどんやらされると、妙に面白くなる。
ゲーム内容が詳しい説明もないまま切り替えられて、即座にルールを把握して対応していくことに対して「眩暈」を起こしているのですね。
テトリスとかコラムス、落ち物パズルなんかも、だんだん速度が速くなることで、自分が何をやっているのかわからなくなる。
自分の理解を超えたところで勝手に連鎖とかおきはじめると、うれしい反面何が起きているのか理解できません。
強い眩暈により楽しませるタイプのゲームなのですね。
偶然の要素は大切です。
何回も遊ぶテレビゲームでは、何度遊んでも同じ、だとすぐに飽きてしまうから。
だけど、運の善し悪しだけで結果が決まってしまうゲームはつまらない。
「偶然」と言いながらも、プレイヤーの腕前次第で運の要素を小さくできるものが望ましいです。
インベーダーゲームの UFO は、「ランダムな点数」と言いつつ、規則がありました。
この規則を理解した人は、常に UFO で最高得点を取ることができました。
落ち物パズルなんかでも、落ちてくるブロックはランダムでも、それをどう積み上げるかはプレイヤー次第。
多くのテレビゲームがこうした構造を持っていると思います。
模倣は、テレビゲームでは実は使いどころが難しい概念。
ブロック崩しにだって、スペースインベーダーにだって「ストーリー」(というか設定)があったので、実は最初から模倣の要素は取り入れられていたのだけど。
模倣の意味を取り違えると、窮屈なゲームになります。
シミュレーションゲームとか、慣れれば面白いのは事実だけど、窮屈で嫌う人も多い。
R.P.G. も、当初は面白かったのですが、だんだん物語が壮大になりすぎて、エンディングまで遊ぶだけで 50時間、とか言われると手を出すのに躊躇します。
広い意味では、Wii の登場は、テレビゲームにおける「模倣」の意味を広げてくれました。
コントローラーをゴルフクラブに見立てて腕を振る、とか、それまでのゲームではあまり見なかった。
#皆無だったとは言わないけど。
ただ、「あまり見なかった」という眩暈感が相乗効果を生んでいたのは事実で、Wii はすぐに飽きられました。
眩暈って、やがて慣れてしまって楽しさが消えてしまいますから。
これも模倣は使いどころが難しい、という理由。
模倣すると言っても、突飛な方法を取ると、それは模倣ではなく「眩暈」の楽しさになってしまうのです。
Nintendo Switch 、今日発売なんですが、どうなんでしょうね。
「あまり見なかった」ゲームがたくさんあるので面白そうなのですが、眩暈を感じるのは最初だけです。
気になってはいるのですが、今すぐ買う予定は立てていません。
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