2013年10月28日の日記です


ビル・ゲイツの誕生日(1955)  2013-10-28 12:35:19  コンピュータ 今日は何の日

今日はジョン・ロメロの誕生日(1967)。ビル・ゲイツの誕生日(1955)。


ジョン・ロメロって、Wolfenstein 3D や Doom を作った人ね。現在では FPS と呼ばれているジャンルのゲームの創始者。

これはこれで書いて面白そうなんだけど…僕 FPS あまりやったことないんです。

そもそも人と対戦するゲームが苦手。世の中には強すぎる人が多すぎて…



というわけで、今日の話はビル・ゲイツ。


…と言ったところで、それほど知りませんよ。

あまりにも有名な、マイクロソフトの創始者。誰でも知っているからあまり語ることがない。




ビル・ゲイツ…本名はウィリアム・ヘンリー・ゲイツ・三世。

この本名を見ただけで、いいとこのお坊ちゃんだとわかります。


ビルっていうのは、英語圏ではよく「ウィリアム」の愛称として使われる名前ね。本名ではありません。


実際中学・高校はシアトルの名門校、レイサイドスクールに通っています。

そして、ここでビル・ゲイツの2歳年上の「兄貴分」であるポール・アレンと出会うのです。

二人は仲が良く、よく遊んでいました。


レイサイドスクールには、当時非常に高価だったコンピューターに接続できるテレタイプ端末があり、ゼネラル・エレクトリック(GE)社のコンピューターと接続されていました。

接続は「時間貸し」だったわけですが…ビルはコンピューターの面白さに目覚めます。


彼は数学の成績が非常に良かったため、コンピューターを使っている方が数学の勉強になる、と数学の授業を免除され、テレタイプ端末の前に常にいるような状態になりました。

この時には、当時話題の言語だった BASIC を自作してみたり、Tic-Tac-Toe を自作してみたりしたようです。


しかし、これによってコンピューターを借りるための予算は、あっという間に使い果たされます。


ポール・アレンとビル・ゲイツ、それに仲間の2人を加えた4人は、Computer Center Corporation (CCC)社の持つ PDP-10 に対し、テレタイプ接続がただでできるバグを発見します。いわゆる「ハッキング」です。

でも、これはすぐに見つかり、4人はアクセス禁止措置を受けました。彼らは CCC 社に交渉し、CCC 社の扱うソフトのバグを発見・修正する仕事と引き換えに、自由にコンピューターを使用できる権利を獲得します。


これでまた、コンピューター三昧の日々が戻ります。




ところで、当時、交通量調査は大変な仕事でした。

道路を通る車をカウントする機械はあり、時間ごとの交通量を記録することはできます。


しかし、このデータを処理する仕事が大変だったのです。時間ごと・道路ごとに交通量をまとめ、そこから車の流れを読み、道路の拡幅や整備の優先順位を決め、レポートとしてまとめる必要がありました。


これは大抵民間企業がやっていましたが、ポールが高校生、ビルが中学生の時にこの仕事を請け負う会社を設立します。これが「トラフ・オ・データ社」でした。(Trafic of Dataの意味)


彼らは CCC のコンピューターを使えましたから、データはコンピューターで処理すればよいのです。

ただ、元となる記録データは直接コンピューターで読み込める形式ではありませんでした。


二人は、コンピューター用パンチカードにデータを転写する作業をクラスメートに発注し、人海戦術でこなします。

結果としてそれまで請け負っていた企業よりも、安く、速くデータを処理することができました。



その後、ポールは 1972年に大学に進学します。

この年、8008 CPU が発表になりました。


トラフ・オ・データでは、8008 を使えば直接コンピューターで交通量の測定ができるのではないか、と考えます。そうすれば、人海戦術でパンチカードに穴を開ける必要はなくなります。


早速 8008 を使った小さなコンピューターの設計が始まりました。

同時に、まだ設計中のコンピューター上で動かすソフトの開発が始まります。


まだ形もないコンピューターのソフトをどうやって開発するのか?

これは、ポールの大学にあった PDP-10 が役立ちました。ポールは PDP-10 上で 8008 エミュレータを作り、そのエミュレータ上で 8008 のプログラムを開発したのです。


やがて機械は出来上がり、州政府に売り込みを行いました。

しかし、デモンストレーションの際にはうまく機械が動きません。…でも、それが些細な不具合で、改良すればうまくいくことはわかって貰いました。


ためしに試作機を買い取ってもらうことは出来ましたが、それだけでした。大量生産されて大金を手にする、というのが夢だったのですが。




さて、ここで以前に書いた エド・ロバーツの話が登場。

簡単言えば、エドは 1975年に「アルテア 8800」というコンピューターを発表します。


電子ホビーストたちは大騒ぎでした。誰もがアルテアを手に入れたがったけど、誰も手に入れられません。

だって、エドはこんなに騒ぎになるとは思わなくて、大量生産できる体制を整えていなかったのですから。


この時、ポールは商売のチャンスを感じ取り、ビルに「アルテア用 BASIC を作る」と持ち掛けます。

すぐにエドに電話をかけ…注文電話で混雑してなかなかつながりませんでしたが…BASIC を開発した、と嘘をつきます。


この時、エドはまだ1台もアルテアを世に送り出していませんでした。

なのに、アルテア上で動く BASIC を作った、という奇妙な電話が来たのです。


ともかく、そんなものがあるのだったら見てみたい、という興味はありました。

ポールは2か月ほどしたらエドに会いに行くことを約束し…大急ぎで BASIC の開発が始まりました。


ビルは、中学時代に BASIC を自分で作ったことがあります。構造は判っていますから。それを 8080 で動くようにするだけです。

アルテアは手に入りませんが、トラフ・オ・データの時に作った 8008 エミュレータがありました。これを改造し、8080とアルテアの機能をエミュレートするようにします。



2か月後、ポールはビルが書いた BASIC の紙テープを持って、エドを訪問します。

アルテアは…まだほとんど出荷されておらず、紙テープリーダー・テレタイプ・4KByte メモリという「フルセット」が接続された機械は、エドの元にも1台しかありませんでした。


ポールがこの機械に紙テープを読み込ませると、BASIC は見事に動作します。

実は、エドはアルテアを設計はしましたが、その上で「何かの役に立つ」ソフトが動いているのは、この時初めて見たと言います。


ポールとビルはエドの会社に雇われ、アルテアの BASIC を供給することで合意します。

その一方で、他のコンピューター用にも BASIC を供給するためにマイクロソフトを設立します。


これが、マイクロソフトの第一歩でした。




結構長くなったのでここで一区切り。

マイクロソフトのこの後の話もいろいろと面白いけど、それはまた別の機会に。





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