2013年09月の日記です

目次

03日 世界最初のテレビゲームって結局どれなの?
05日 ジョンおじさん
07日 余計なことをしたらしい。
08日 当WEBの執筆指針について
09日 デニス・リッチーの誕生日(1941)
10日 横井軍平の誕生日(1941)
11日 ポポー
13日 エド・ロバーツの誕生日(1941)
15日 カピバラに会いに
17日 Linux の初公開日(1991)
18日 ICANN設立日(1998)
19日 顔文字が誕生した日(1982)
20日 追悼:山内溥
23日 FireFox 初公開日(2002)
24日 みどりの窓口開設日(1965)
25日 シーボルト国外追放の日(1829)
26日 ワープロの日
27日 ラリーウォールの誕生日(1954)
28日 パソコン記念日
28日 小さな冒険
29日 CERN発足の日(1954)
30日 日本最初のホームページ開設日(1992)


世界最初のテレビゲームって結局どれなの?  2013-09-03 22:57:27  コンピュータ

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表題通りのページを公開しました。


公開は2日前。構想は…忘れた。夏休み前。


数年に一度、夏休みの終わるころになると「自由研究で調べているのですが、最初のコンピューターってどれですか?」というようなメールが来る。

だから、わかりやすくまとめた解説ページを書いてやろう、と思い立った。


でも、TX-0 ページを6月末に仕上げたばかりで、もうちょっと宣伝しておきたいな、と思った。

特に、「迷路のねずみ」はゲーム史の研究をしている人にはぜひ知っておいてほしい。

(日本ではほとんど言及されないし、アメリカでも内容について誤解が多かったから)


それで「世界最初のテレビゲーム」と題したページを作ったのが8月頭。


これ、書いておきながらちょっと罪悪感があった。

世界最初、というのは嘘だ。タイトルで釣っている。厳密に言えば、世界最初のテレビゲームのうちの一つ、と呼ばれるものなのだ。



というわけで、夏休み前に書こうと思ったのは「世界最初のコンピューター」の話なのだが、この罪悪感もあって、世界最初のゲームをちゃんと解説しなくてはならないと感じた。それはもう、強迫観念的に。


そこで世界最初のゲームを書き始めた…のだが、思ったより難航した。調べるのが面白かったのだ。

ある程度知っているつもりでいたのだけど、細かな部分で、調べれば知らない事実が出てくる。


世界最初のテレビゲームと呼ばれるものは、大体網羅したつもり。

Nimrod も歴史話にはよく出てくるのだが、これは明らかにテレビゲームじゃないし、話が枝道に迷い込むのを防ぐために割愛した。


同じ理由でチューリングのチェスプログラムも割愛。

話をすれば面白いのだけど、とにかく話が大きくなりすぎた。




よくあるテレビゲームの歴史話では、「SPACE WAR!」「BROWN BOX」「Tennis for Two」の3つは、何もないところからいきなり創作されたことになっている。


これ、自分が歴史紹介を書くのであれば、絶対に「何もないところから湧いて出る」のは避けたかった。

どんなものでも、歴史と言うのは前の時代から受け継いで、次の時代に受け継がれていくものだ。

「何もないところからいきなり」はあり得ない。


SPACE WAR! は、「迷路のねずみ」の影響を受けていることが、「ハッカーズ」に明記されている。

ただ、「迷路のねずみ」が長い間謎のゲームとなっていたために、SPACE WAR! がいきなり登場したように書いてある記述が多いだけだ。


Tennis for Two は、弾道計算機を応用したら自然とああいうゲームになるのが理解できる。

こちらは、弾道計算機の原理を知らない人が多いため、言及されにくいだけだ。


(今回、弾道計算機の原理をざっと説明したが、あれで理解いただけただろうか?

 もっと詳細な説明もしたかったが、これも話が枝葉に入ってしまうので避けた)


ところが、BROWN BOX がどこから出てきたのかが分からなかった。納得のいく説明ができない。

ライトガンがあったり、SPACE WAR! の弾や、ジョイスティックのようなアイディアがあったり、明らかに MIT のゲームの影響を受けているようだが、どこにもそれを示す資料がない。


ベアは軍需企業サンダース・アソシエイツでレーダーの仕事をしていて、MIT関連の MITRE はレーダー網 SAGE を整備した軍需産業。しかも、お互いの本社は隣町。

だから、ラルフ・ベアは MIT で作られたテレビゲームを知っていたのでは…というのが、最初に想定した説明。


でも、この想定は不自然。サンダース・アソシエイツと MITREをつなぐ線は、どんなに資料を漁っても出てこなかった。

ベアは確かにレーダーの仕事をしたが、サンダース・アソシエイツの専門はフレキシブル基板で、ベアの仕事は航空機に搭載するレーダー。SAGE は地上レーダーだから関係ない。


そもそも、ベアが MIT のゲームを知っていれば、BROWN BOX はもっと「まともな」ゲーム機になっていたはずだ。


ずっと悩んで、ベアは本当に天才で、すべてを一人で作り出したのかもしれない…と認めかかった時、「チーム3人目のメンバーであるラッシュは MIT 出身」という資料を見つけた。


これを見つけた時はすごくうれしかった。これでやっと納得のいく説明ができた。

ラッシュが MIT のゲームを知っていただけで、製作の指揮をとるベア自身はゲームを知らなかったのだ。

だから、それ以前のテレビゲームとは思想が分断されている。でも、技術は受け継がれている。




公開直後(数時間後)に、「COMPUTER SPACE は実際には結構人気があり、再生産されたのでは?」という情報をいただいた。

こういう情報はありがたい。早速再調査した。


結果から言えば、これは情報を下さった方の記憶違いだった。

再生産はなかったが、後に2人用が作られている。


しかし「人気があったから2人用も作った」可能性がある。もしそうなら、自分の記述は間違っている。


調査すると、COMPUTER SPACE の大ファンで情報を収集、分析している人(世の中にはそういう人もいるのだ)のページに、「2人用は売れ残った1人用を改造して作られた」と書いてあった。


2人用は、シリアル番号から考えれば少なくとも350台程度は生産されている。

(もしかしたら、650台かもしれないが、確率的には 350台の方がありえそう)


ということは、1500台生産して、350台以上は売れ残ったことになる。



というわけで、公開1日後にこのことを追記した。



頂いた情報が間違っていても、再調査によって最初は気づいていないことに気づく場合がある。

情報はどんなものでもありがたい。




他にも、ツイッターでいろいろな意見をお寄せいただいたり、呟かれたものを勝手に見せてもらったりした。

意見は前向きに取り入れている。本と違って、すぐに修正できるのが WEB のいいところだ。


「テレビゲーム以前のコンピューターゲームも知りたい」と言うような意見もあった。


それも結構面白いのだけどね。

実は、「コンピューター」の定義があいまいで、テレビゲーム以上に大変なことになる。


そう、まずは「コンピューター」の定義を探しに行かないとね。

世界最初のコンピューターを紹介するには、これを避けて通るわけにはいかない。


…「世界最初のコンピューター」は、夏休み中に公開するはずだったのに、まだ書きはじめてすらいないよ。


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ジョンおじさん  2013-09-05 16:16:59  コンピュータ 今日は何の日

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偶然知ったのだが、昨日(9月4日)はジョン・マッカーシー(アンクル・ジョン)の誕生日だったらしい。

そして、これも知らなかったのだが 2011年10月24日に亡くなっていたらしい。


誕生日祝いと、追悼を込めてすこし記事を書いておこう。


「人工知能」という言葉を考え出した人。

300万ドルもするコンピューターに、「チェスの相手をさせる」という無駄遣いをさせた人。

人工知能のアセンブラとも呼ばれる LISP を設計した人。

LISP で必要だったから「ガベージコレクション」という、今ではコンピューターに必須のアルゴリズムを考え出した人。


他にも数々の業績があるが、詳しくはWikipediaでも読んでくれ。


ともかく、彼がいなければ現代のコンピューターは全く違うものになっていただろうし、それは今の世の中が全然違うものだっただろう、と言うことを意味する。


「現代を形作った」レベルの偉人だが、コンピューター史にでも興味がない限りあまり知られていない。


ここでは Wikipedia ではあまり語られていない話を。




ジョン・マッカーシーは、MITでは学生から親しみを込めて「ジョンおじさん」(アンクル・ジョン)と呼ばれていた。


まだ TX-0 が設置される前、MIT に IBM 704しかなかった時に、学生向けにプログラムの講義を行って、実際に作ったプログラムが動かせるように取り計らってくれた人物だ。


おかげで、300万ドルもして、1分使うにも莫大な使用料が発生しそうなコンピューターを、学生は使うことができたのだ。


とはいえ、ここでいう「使う」というのは、プログラムを動かせた、というだけ。

実際に触ることは許されないし、IBM のオペレーターにパンチカードの束を渡したら、そこらへんで結果が出るまでぶらぶらしてきて、後でプリントアウトを受け取るという使い方。


それでも、ジョンおじさんの後押しもあって大学院生は IBM 704 に「少しだけ」触らせてもらえた。

彼らは、早速 IBM 704 に「ゲーム」を仕込んだらしい。


FX-マイコンのテニスゲームみたいな単純なものだけど。

(IBM 704 にはディスプレイは接続されていないが、動作状況確認のための1列のランプはあった)


後には IBM 709 が IBM から寄贈される。

(なんで寄贈したのかは知らない。MIT は SAGE や APT で IBM にずいぶん恩を売っていたし、当時は誰かがつくったソフトはみんなで共有するのが当たり前だったから、IBM としても開発力のある人々に機械を提供するのは有益だったろう)


すると、ジョンおじさんは、古くなった IBM 704 を改造して、複数人数が直接扱えるタイムシェアリング機能を付けてしまったらしい。

とにかく、コンピューターが高価で一般人は触ることも許されなかった時代に、「直接いじり倒す」ことにこだわっている。


#ジョンおじさんは、タイムシェアリングを最初に考えた人物ではない。

 でも、「自分で」タイムシェアリングの概念を考案し、学生たちを通じて後に大きな影響を与え、現在のマルチタスク処理の元となるものを作り上げた。




TX-0 が来てからも、学生たちはジョンおじさんの指導の下 TX-0 用 Lisp を作ったり、チェスプログラムを作ったりしている。

ハッカーズにも、他の歴史書(?)にも記述がないので不明だが、Tic-Tac-Toe だって迷路のねずみだって「人工知能」の応用なのだから、ジョンおじさんの影響は全くないわけではないだろう。

(もちろん、直接的にかかわってはいないだろうが)


だから、彼がいなければ PDP-1 の「SPACE WAR!」も生まれなかっただろうし、そうなればテレビゲームの歴史もずいぶんと変わっていたはずだ。

もちろん、時代の流れでコンピューターはどんどん安くなっただろうし、どこかで誰かが似たようなものを発明したとは思うが。




ある日、ジョンおじさんは学生たちに「ついにチェスのプログラムが出来上がりました」と、PDP-1 の前に座らされた。


当時のディスプレイ表示は「高度な技法」だったので、人工知能ではあまり使われない。

Qubic もそうだが、チェスのプログラムもチェスボードを横に置いて、どのように動かすかをキーボードからコンピューターに伝えると、コンピューターからもプリンタで「動き」を返してくる、と言う方法だ。


ジョンおじさんが1手目を指すと、プログラムがしばらく考えてから動きをプリントアウトする。

しばらく対局していても、なかなかいい手を指してくる。


しかし、ジョンおじさんはプリントアウトが1文字づつとゆっくりで、妙に間が空いているのに気が付いた。

チェスの「動き」は3文字で表現されるが、コンピューターがプリントアウトするなら、3文字を連続して出力するはずだ。


ふと気が付くと、PDP-1 から何やらケーブルが伸びている。

そのケーブルは TX-0 が置いてある隣の部屋へ続いていて…


ジョンおじさんが隣の部屋への扉を開けると、同じように TX-0 の前でチェスをしている、別の教授がいた。

学生たちは TX-0 と PDP-1 を接続して、二人の教授をだましたのだ。


学生たちが気軽にこういうイタズラをするところが、ジョンおじさんがみんなから慕われていた証拠だと思う。

仲の良い人でないと、イタズラなんてしないもの。


#チェスプログラムは、その後ちゃんと完成しましたよ。


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余計なことをしたらしい。  2013-09-07 10:28:06  コンピュータ

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メダル刻印機の中身はMSX!?という記事があった。


Twitter 見てたら、この記事の筆者の方が「どうも違うようだが、製作元に聞く勇気がない」とつぶやいていた。

製作元がどこかもわかっているようだし、WEBページへのリンクもあった。


そして、製作元のWEBページをみるとかなりフレンドリーな感じで、なんでも気軽に問い合わせてください、とメールアドレスもあった。

じゃぁ、問い合わせればいいじゃん、と勝手に問い合わせ。


そしたら返事が来た。MSX ではなくて独自基板ですよ、とのこと。

すぐに筆者さんに教えた。


すでに上にリンクしたページは製作元が独自基板と明かした、と言う情報も書かれている。




これが /.J の記事になったらしい


引用:ある勇敢な有志によって真実が明らかになったものの、MSXファンの夢がまた一つ失われた。


あれ?


引用:真実を調べちゃうなんて、夢がないなあ。調べたって誰も得をしないわけだし。


あれあれ?


なんか、余計な事しちゃった感じ?


えーと、申し訳ないので、MSXがらみの夢のある(?)ネタを提供します。




あれは確か 1990年の夏…だったと思う。

僕は X68k を購入するために、近所の工場でバイトをしていました。


この工場、当時は世界の光ファイバーの9割を生産している、というすごい工場でした。

まだ ISDN とか普及する前ね。実際には、ISDN は普及していなくても、NTT のバックボーンはどんどん光回線に置き変えられている最中。


ここで、生産管理に MSX が使われていたんですよ。(MSX2 の HB-F1XD でした)

まだ「次世代」だった通信網の生産拠点に MSX が活用されていたって、すごい話だと思いません?



…えーと、身もふたもない話をしてしまえば、安いから使われていただけだと思いますけどね。


仕事内容は、手作業での生産ペースを調べるべく、「1本完成したらスペースバーをたたく」という、生産速度の監視目的でした。

これで、生産本数とその時間を正確にディスクに書き込んでいき、あとで解析することで現場の生産能率などを割り出します。


そして生産管理に反映する、というだけ。ストップウォッチとカウンターでできそうな仕事だけど、仕事の邪魔をしないようにプログラム作ったんでしょうね。


#生産現場では、時々「治具」が改良されて生産能率が上がるので、時々現状の生産速度を測定する必要がある。



当時は僕も MSX ユーザーでプログラムを組んだりしていたので、興味をもって工場の人に聞いたところ、能率を上げるために時々いろいろな生産現場でこうしたチェックを行っていたようです。


生産内容に合わせてプログラムを多少変更したりすることもあって、BASIC でさくっとプログラムを組める MSX が便利なのだと言ってました。

もっとも、それほど作りこまれたプログラムではありませんでしたけどね。

(プログラムは「道具」に過ぎないので、肥大化させてデバッグが大変になるようだと本末転倒)




バイト中に作った光ファイバーケーブル、完成すると隠れてしまう部分にこっそり自分のサインとか入れたのが数本あるのだけど、今もどこかで活躍しているのかな…



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当WEBの執筆指針について  2013-09-08 11:02:12  その他

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Twitter でゲームの歴史関連で盛り上がっています。

ざっくりまとめると、ネットも本も嘘が多すぎる、なんでも鵜呑みにせずちゃんと調べて書け、ということになってます。



…えーと、すみません。僕のサイトでもコンピューターの歴史とか、ゲームの歴史とか書いていますが、嘘多いと思います。


盛り上がっていた方々は、僕も参考にさせてもらっている、本当に素晴らしいサイトを作っている方々ばかりです。

歴史研究の第1人者である彼らは、本当に多くの努力をしています。

世間に流布した「誤ったイメージ」を払拭するような話題を、根拠と共に示しておられます。


でも、残念ながら僕にはそこまでの能力がないのです。


会話をまとめたサイトを見た際に、自分のことを糾弾されているような気分になり、サイト閉鎖しようかと真剣に悩みました。

でも、一晩たってそれは違う、と思い直しました。


以下、サイトを続けていくためにも僕の考えを書いておきます。

ある種の言い訳です。言い訳は見苦しいのですが、考えを明らかにしておかなくてはサイトを続けるのが心苦しいので。




まず、僕は歴史の「真実」を知りません。

好きで古いコンピューターやゲームを調べていますが、その時代には生きていませんでしたし、それらの開発者たちとも友達ではありません。


真実を知らないので、書いていることは聞きかじった知識だけです。

聞きかじりなので、嘘がインプットされれば、そのまま嘘をアウトプットします。



書いている記事は、僕がいろいろ調べていて「面白い」と感じたことに限られます。

「面白い」というのは、あまり一般には知られていない事実、と言い換えても良いです。


この時、その「面白さ」が伝わるような記事を書きたいと思っています。


ただ、この場合の面白さって、見つけた事実だけ書いても伝わらないのです。

周辺の話題をある程度展開しないと意味が伝わりません。


この周辺話題を書く際には、手元にある本や、ネット上の資料を参考にしています。

「伝えたいこと」に関しては、間違いがないか入念なチェックを行っていますが、それ以外の部分のチェックは甘いです。

糾弾されているように「本やネットは嘘ばかり」なのであれば、僕はそれらに書いてあることをそのまま書き写しているだけになります。


ですから、この時点でふたたび嘘が混ざります。



もう一つ、僕がわかっていて嘘を書くことがあります。

伝えたい話題があり、その話題の周辺も伝えないとうまく伝わらない時、周辺の話題を掘り下げることになるのですが、それを伝えるためにさらに周辺を掘らないといけないことがあるのです。


こんな時、嘘を承知で端折ります。

大抵は、端折ったことがわかるように書いているのですが、上手く伝わらないこともあるようです。


(事実、1か月ほど前に書いた記事に関して昨日「違うよ」と指摘をいただきました。

 指摘をもらった場所は、事実を知っていながら嘘を承知で端折った場所だったのですが、これは端折ったことがうまく伝えられない僕の書き方が悪かったのだと反省しています。)


以上、3つの理由により、僕の書いた記事には嘘が混入します。




3つの嘘のうち、「わかっていて、話を単純化するために書く嘘」は、嘘であると読み手に伝わらないとなりません。

これがうまく伝わらないのは僕の文章力がないせいで、申し訳なく思います。


しかし、それ以外の2つに関しては、すくなくとも僕自身は嘘を書いている、と言う意識はありません。

事実と異なっていても、僕はそれを事実だと信じているわけです。


これを「誤れる事実」と呼ぶことにします。


僕自身、なにか文章を書くにあたって、嘘を広めようとは思っていません。すべてが事実のつもりで書いています。


しかし、「誤れる事実」が混入することはあります。

言い訳になってしまいますが、誤れる事実の混入をもって「嘘を広めるな」と言われてしまうと、僕は一切の文章発表ができなくなってしまうのです。



「間違えている」と言う指摘は大歓迎です。

先に書いたように、昨日も間違えの指摘をいただきましたし、そのしばらく前にもいただきました。


しばらく前にいただいた指摘は、実は指摘の方が間違えていました。

指摘者の考えていた事実が「誤れる事実」だったわけですね。


それでも、この指摘に関して裏付け調査する過程で、それまで知らなかった新たな事実が発掘できました。


先に書きましたが、僕にとって面白いと感じている「以外」の部分は、他の記事を読んで、僕の言葉に直して書くくらいのことしかしていません。

指摘によって興味を持ち、調査した結果新事実が発掘できる、と言うのは非常に嬉しいことです。


誤りの指摘はいつでもどうぞ。




「誤れる事実」に関しては、間違えの指摘は受け付けますが、間違えていると怒らないでほしいな…と甘えたことを言います。

書いた文章に責任を負う覚悟はあるのですが、その責任は誤りの修正を限度とさせてほしいのです。


そして、僕が甘えているのですから、僕も他人の「誤れる事実」に寛容であろうと考えています。


この寛容さはまた、僕自身が「誤れる事実」に立脚して文章を書いてしまった場合に、元記事に責任転嫁するのではなく僕が責任を負う、という態度表明でもあります。




もう一つ、他人の意見に寛容であろうとする理由を掲げます。


僕自身は、好きでコンピューターやゲームの歴史を調べています。

でも、こんなもん、普通の人にとっては「どうだって良いこと」だろうともわかっています。


これは、人の態度に寛容であろうとするときに、一番最初に心をよぎることなのです。


僕自身、たとえばパンについてそれほど知りません。


日記に「このパン美味しかった、最高」と書いたとして、詳しい別の方から「あれが最高じゃない。もっと美味しいのがあるのだ」と指摘されたとしても、嬉しいとは思いません。むしろウザいだけです。

だって、僕はパンにはそれほど興味がなく、その日たまたま食べたおいしいものを書きとどめたかっただけなのですから。


同じ理由で、「世界最初のテレビゲームは Tennis for Two」と書かれたページを見ても、それで構わないと思っています。

その人にとって、その時知った情報を書きとどめたかっただけです。それ以前のゲームがあるからと言って「それは最初じゃない」なんて言うのは野暮なだけです。



少し前に書いた「世界最初のテレビゲーム」の記事では、読んでくださったある方が「結局どれが最初なのか結論を出してない」と感想を呟いていました。


結論を出さない理由を説明しているのでもう少し読んでほしいな、とは思いましたが、結論を出さないのは上記のような理由もあってのことです。


僕は好きだから研究しているけど、その一方で「正直どうでもよい」と感じている、冷めた自分もいるのです。




寛容でありたいと言いながら矛盾した態度ですが、僕は時々「Wikipedia が間違っていると思う」ということを書きます。

これは、Wikipedia の影響力が無視できないからなのですが、そんなに言うなら僕が直せばよいのです。

Wikipedia は、誰でも編集に参加できるのですから。


しかし、それをやらないで指摘どまりにしているのは、先に書いたように僕が「新事実の発掘」が好きなためです。


新事実の発掘と言うのは、つまり誰もそれについて検証していないことを意味します。新しい主張では、嘘か本当かすらわからないのです。


Wikipedia では、「事実」だけを書くことを目的とするため、こうした「独自研究」の記述は禁じられています。


僕が一番好きなことが禁じられているのでは、編集に参加してもモチベーションが続きません。

これが、僕が Wikipedia の間違いを指摘しつつ、編集を行わない理由です。


#実は、新事実の発掘が好きな理由の一つは「誰からも嘘だと言われないから」でもあります。

 検証されていなければ、嘘だという人もいませんからね。

 僕は臆病で、嘘だと言われるのを恐れているのです。

 …だからこんな長い言い訳を書いているわけですが。




少し話が変わります。

冒頭に挙げた、歴史好きの方が盛り上がっていた話の中で、一次資料を当たるべき、と言うような話も出ていました。


多分、一次資料という言葉の意味も、人ごとに違うと思います。

ここで、「僕の規定する」資料のランクについて記しておきます。


一次資料とは、歴史の当事者が当時書いた書面です。

もしくは、当時撮影された写真です。

いずれも、「当時である」ことを示す日時などが入っていると良いです。


二次資料とは、歴史の当事者が、後に過去を振り返って書いた記録です。

当事者ですからある程度の正確性はありますが、記憶違いや、過去を美化している、功名心で美化しようとしているなど、事実とは異なる可能性が高くなります。


三次資料とは、一次資料・二次資料などを基に、他人が書いたものです。

三次資料を基に書かれた資料も三次資料とします。つまりは、信憑性の低いものです。



信憑性は一次資料が最も高く、三次資料が最も低いです。


しかし、歴史と言うのは「後世に名を遺したもの」によって構成されます。

まだ歴史に名を残すかわかっていない時点で、当事者が残した資料と言うのはかなり少ないです。

一次資料を当たれればよいのは当然ですが、一次資料だけでは歴史全体を構成できません。


また、一次資料に「誤れる事実」が混入する可能性もかなり高いです。

一次資料は信憑性が高いからそのまま信じる、と言うわけにもいかず、さらに裏付けが必要となるのです。


僕自身の現在の態度としては、できる限り信頼できる資料を参照したいとは思っています。

しかし、所詮趣味でやっていることなので、非常に高価な本を取り寄せたり、海外の図書館に調べに行ったりはしていません。


Whrlwind を調べていたときは、関連書籍が MIT の図書館に保管されていることはわかりましたが、残念ながら参照していません。

学術論文などでは、Paypal 払いができる論文配布サイトなどもあるのですが、1ページでも $10~$30 程度はすることがおおかったり、そもそも Paypal 払いに僕自身が対応できなかったりして、参照していません。


話を書くのに一次資料も参照しないとは何事か、とお叱りを受けるのであれば、全くそのとおりで申し開きできません。


一方で、ネットが普及して、以前なら入手できなかった一次資料も PDF などで配布されているのも事実です。これらは、知り得た限りではできるだけ目を通します。



#例として EDSAC の NOP の話題を挙げときます。

 一次資料を当たらなければ気づかなかった話です。



なお、この「できるだけ資料を当たる」と言う態度は、サイトを再始動させた昨年あたりから。

重要だと感じた資料は「参考資料」などの形で記していますが、それ以上に資料を読んでいます。


それ以前の記事…子供が生まれて8年くらいブランクがあるのですが、その前に書かれた記事は、ネットが今ほど便利でなかったころに書かれています。

そのため、持っている本を元に書いたりする程度で、信憑性が低いことを断っておきます。




信憑性についてもう一つ追記しておきます。


日記に書いたネタは裏付けがきちんと取れていない、と考えてください。

ちゃんと裏付けを取りながら書くと、短い記事でも2~3週間かかってしまうので。


旬なうちに書きたいネタとか、それほど興味を持っていないネタは、裏付けが不十分なまま「日記」として書くことがあります。




…と、見苦しい言い訳を長々と展開してみました。


嘘を書いてはならない、という気持ちで臨んではおりますが、以上に書いたような理由により、必然的に僕のサイトには嘘が混在しています。


読んでくださる方には申し訳ありませんが、嘘かどうかはご自分でご確認ください



僕としては、面白いと思ったこと…あまり知られていない事実の掘り起こしをこれからもやっていきたいと思っています。

「嘘か本当かもわからない」という、もっともタチの悪い文章の書き方でもあります。


嘘を許せない、と言う方には申し訳ありません。

ここは自分が趣味で作っているページですので、好き勝手やらせてもらう! と開き直ることにしました。


#最初に書いたように、サイト閉鎖まで考慮に入れて悩んだ結果の結論です。

 開き直って恥をさらさないと趣味なんてつづけられるか! と言うことです。



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デニス・リッチーの誕生日(1941)  2013-09-09 09:53:29  コンピュータ 今日は何の日

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今日(9月9日)はデニス・リッチーの誕生日。1941~2011。


デニス・リッチーは、今の僕たちの生活を作り出した偉人の一人…と言ってもあまり知られてないよね。


K&R の R のほう、と言えばわかるだろうか?

いや、K&R を知っている人がそもそも少ないか。


K&R は、コンピューター業界最大のベストセラー、と言われた書籍だ。

正式には「プログラム言語C」という本。

同様の題名の本がたくさんあるので、執筆者の名前をとって「K&R」と呼ぶ。


K&R にも1版と2版があるのだけど、特に狭義には1版を呼ぶ。

なぜなら、これが世界初のC言語の教科書だったためだ。


一部では聖書とも呼ばれる。僕の知人は、1版を旧約、2版を新約と呼んでたな。

古典であり、大ベストセラーであり、今でも売れてるロングセラーだと考えると「聖書」というのも言い得て妙だ。


C言語でなくてもいいから、プログラムをやってみようと思ったことがある人は、「Hello World!」って書くプログラムを最初に目にするんじゃないだろうか。


これは、K&R の最初のプログラムがそうだったから、と言う理由による。

聖書の最初に書かれた「光あれ!」みたいなものか。




K&R の話をしたいのではない。

リッチーはC言語の開発者だ。


リッチーを手伝ったのが、ケン・トンプソンとブライアン・カーニハン。

K&R の K は、カーニハンの方だが、彼の証言によれば、C言語はリッチーが一人で作ったのだという。


#先に書いた Hello World! というサンプルプログラムは、カーニハンの発案だそうだ。



もともとは、ケン・トンプソンが発端だ。

彼は Multics という OS で動作していたゲームが遊びたくて、個人用に Unics という OS を作る。

Multi (たくさん)に対して Uni (ひとつ)という洒落だ。これが後の UNIX になる。


彼はこの OS を知人に開放する。カーニハンやリッチーも知人だった。

みんなでよってたかって改良できたおおらかな時代。UNIX はどんどん高機能になった。


ある時、新しいコンピューターを入手して、そちらを使うことになった。


今まで皆で改良して使い慣れた UNIX を使いたい。

しかし、当時のコンピューターは、同じメーカーのものでも互換性なんて考慮されていないのが普通。

「良いコンピューターを作る」のに全力で、過去を振り返るなんてできない時代だ。


また一から UNIX を作り上げる…のは嫌だった。

なにより、将来別のコンピューターを買うたびに同じ作業が発生するのはごめんだ。


そこで作られたのが「コンピューターを限定しないアセンブラ」である、C言語だ。


アセンブラとは、コンピューターごとに全く異なる「機械語」(2進数)を、1対1対応で人間にわかりやすくした言語だ。

1対1対応だから、コンピューターが変わるとアセンブラの言語構造も変わる。

これでは、将来性なんて保証できない。


当時も FORTRAN や LISP のような高級言語は存在した。

しかし、高級言語は OS の上で動かすのが前提だった。OS そのものを作るのには使えない。


#ここでいう「高級」とは、ハードウェアを直接意識しないでも良いことを意味する。

 具体的には、メモリの使い方とか、周辺機器のアクセス方法を知らないでもプログラムが組めるという意味だ。


そこで、アセンブラのように「低級」で、しかしアセンブラと違ってコンピューターが変わっても大丈夫な言語を設計した。

これがC言語だ。


#当時知られていた BCPL という言語があり、これを単純化したので頭だけ取って B として、それを拡張したので C と名付けた、という逸話がある。

 ただし、これは言語開発の歴史を表現しているだけで、言語構造の移り変わりはそんなに単純ではない


UNIX はC言語で書き直され、C言語自身もC言語で書き直された。

さらに UNIX 上で作られていた数々のソフトもC言語で書き直され、最後にC言語は「新しい機械のプログラムを生成するように」改良された。


これで、UNIX の全ての環境が新しい機械用に作り上げられた。

同時に将来の保証も手に入れたことになる。


#C言語の誕生は1972年のこと、とされている。

 UNIX がCで書きなおされたのは1973年のこととされるので、ここら辺徐々に出来上がっていったもので、「どこかで完成」ではないだろう。




C言語は今では「古い言語」とみなされているが、まだまだ現役で使われている。

なぜなら、これがアセンブラだからだ。


本当にアセンブラでないと書けないプログラム、というものもあるが、大抵はC言語で事足りる。

でも、C言語でない言語ではダメだ。アセンブラレベルの「低級」なことができないから。


C言語は非常に卓越したバランス感覚で成り立っている、と思う。


C言語作成時には、すでに goto 不要論はあった。


しかし、C言語には goto がある。

goto 不要論を意識したのか、名前を変えた goto 命令も沢山あるし、switch なんて構造化の概念を崩しかねない危険なものまである。


高級言語なら、メモリ構造がどうなっているかなんて気にしなくてよい。

しかし、Cの配列や文字列型などは、メモリ構造がわかっていないと扱いづらい。

共用体などに至っては、CPU がメモリ上にどのように値を配置するかを考慮しなくては使えない。


なんでこんなことをしたかと言えば、アセンブラで当たり前のことが、C言語以前の高級言語ではできないからだ。


一見すれば高級言語のように見えるのだが、実はアセンブラレベルに低級。

これがC言語の特徴だし、他にこんな言語はない。


卓越したバランス感覚がなせる業だ。

リッチーは、このバランス感覚を持ち合わせていた稀有な人間だ。


そして、これがC言語が古いものでありながら今でも使われている理由だと思う。




もちろん、今では後継の C++ や Objective-C が使われることも多いだろう。

しかし、それらの言語だって、基本は C なのだ。

(実際、C++ を便利な C 言語程度にしか使っていない人は非常に多い。

 // って書くと、コメントの最後を閉じなくていいんだぜ!)


誤解を恐れず言ってしまえば、プログラム中に { } がやたら多い言語はC言語の子孫にあたる。

C# C@ なんかは名前も似ている。Java Javascript なんかもそうだ。

awk perl PHP などもそうだ。


#awk は開発者3人の名前を取った言語だが、k はカーニハンだ。

 perl は awk をパワフルにした言語で、PHP は perl から生まれた言語。


C言語と名前が似ている言語は、主にパソコンのプログラムに使われる。

Java や Javascript は WEB ブラウザでよく使われる。Flash でつかう ActionScript も javascript の仲間だ。

そして、perl や PHP は WEB サーバーでよく使われる。


ちなみに、iPhone アプリは Objective-C で作られ、Android アプリは Java で作られる。


PC、スマホ、WEBクライアント、WEBサーバーのすべてで、C言語の子孫たちが動いている。

つまり、僕らの生活はC言語とその子孫がないと成り立たない状況だ。


この言語を作り出したリッチーは、僕らの生活を大きく変えた人物だった、と判っていただけただろうか?



2016.9.9追記


今年の頭頃、別件調査中に、リッチーが作っていたWEBページが保管されているのを発見。


C言語が BCPL から作られたように言われているのがかなり心外なようで、BCPLの文法は全然違うことを一生懸命説明しています。


BCPL の作者が、C言語と文法が類似していることを示しているが、そんなのデタラメだ!

…というような内容なのだけど、リッチーの主張もかなりデタラメなのは、以前に書いたとおり



この関連話題、掘り下げると深かったので、どこかでまとめたいと思いつつまだ書いていません。



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横井軍平の誕生日(1941)  2013-09-10 09:29:51  コンピュータ 今日は何の日

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横井軍平の誕生日(1941)

今日は横井軍平さんの誕生日。1941~1997年。


この人は有名でしょう。任天堂を「花札とトランプの会社」から「おもちゃ/ゲーム会社」に変貌させた立役者。

軍平さんの好んだ「枯れた技術の水平思考」という言葉は、今でも時々引き合いに出されます。


十分に使われ、安価で信頼性が高くなった技術を工学分野では「枯れている」と表現します。

水平思考とは、本来の目的にとらわれず、広い視野で考えろ、ということ。


つまり、先の言葉は、安くて信頼性の高い技術を、本来とは違う分野で使えば新しい発見がある、という意味です。




ウルトラハンドのヒットは僕が生まれるより前の話だけど、僕が子供のころにはまだ「安い偽物」をよく見かけました。

駄菓子屋に安い偽物が出回るって、かなりのヒットだったってことだよね。


軍平さんは、ウルトラハンドを「暇つぶしで」作っていたのを社長に見つかって開発に引き上げられるのだけど、その後も多くのおもちゃを作り上げます。


手がけた作品は Wikipedia とかで見ることができるけど、多くのおもちゃは僕が生まれる前か、幼少の頃なので特に語れない。

N&B ブロックなら語れるが、これ自体は軍平さんの考案ではない。


というわけで、僕が知っていて語れるのはテンビリオン(冒頭写真のもの)あたりかな。


ルービックキューブが流行した時に作られたパズル。なぜか家に2個もある。

ルービックキューブの模倣品は山ほど出たのだけど、デッドコピーを除けば一番売れたのはこれではないだろうか。


ルービックキューブはかなり難易度が高いのだが、テンビリオンはしばらくいじっているとパターンが見えてくる。

じつは、ちょっと動きを複雑にしたスライドパズルで、動きの規則がわかってくると繰り返しパターンでなんとか解くことができる。


この「規則を発見すれば、時間はかかるが自分で解ける」という難易度が絶妙で、ドイツを中心としたヨーロッパで大ヒットとなったそうだ。


もっとも、軍平さん自身は仕組みを考えて「パズルとして成立するだろう」と言う程度で、自分では解けなかったらしい。

スライドパズルとの類似性は、発売後に明らかになっただけ。




テンビリオンの次の軍平さんのヒットは、「ゲーム&ウォッチ」だ。

電卓戦争を過ぎて電卓が一般化し、安く作れるようになった。じゃぁ、その技術でおもちゃを作ったらどうなるか? という発想。

「枯れた技術の水平思考」だ。


このシリーズを作る途中、ドンキーコングで「十字ボタン」という最大のヒットアイディアも飛ばしている。


ゲーム&ウォッチのドンキーコングはこのサイトで遊べるね。


#上のサイト、著作権問題微妙。ゲームは問題ないが、キャラクターなどの絵柄が…

 もっとも、真似して書いたのではなく写真を使っているため、「事実の報道」に近い立場で問題ないともいえる。


そして、十字ボタンのアイディアを引き継いでファミコン登場。

ただし、ファミコン自体は軍平さんの作ったものではない。


今でこそ左手の親指で十字ボタン、右手で各種ボタン、と言う操作が当たり前だけど、ファミコン当時のゲーム機はそうではなかった。


大体、業務用ですら「自分の移動は右手か、左手か」というのがよく議論されたものだ。

業務用でも中央にジョイスティックを置いて、左右に同じ機能のボタンを配置している場合があった。


このころの家庭用ゲーム機では、小さなジョイスティックが付属していることが多かった。


少し縦長の台を片手で持ち、もう片方の手でジョイスティックを操作する。

ボタンは台についていて、持っている手で押す。上位スティックの上についているタイプもあった。


当時は他にないから疑問には思わなかったが、あまり使いやすくはなかった。

ボタンを押すために台が揺れると、ジョイスティックが「傾いた」と判定されてしまうことがあるのだ。


これに比べると、十字ボタンは、現在押している方向がはっきり伝わる。

もっとも、初期の(四角ボタンの)ファミコンでは、押すための力が強めでなくてはならず、斜めに入れづらかった覚えがある。


当時は「そういうものだ」と思っていたのだが、後にファミコンが壊れて修理してもらったら丸ボタンに変わっていて、斜めに入れやすい程度のボタンの硬さに変わっていた。

ボタンの形はよく話題になるが、こうした地味な改良も行われていたのだ。



ファミコンの十字ボタンがあっという間に世を席捲したのは皆が知っての通り。

先に書いた「右手・左手論争」も、ファミコンの普及と言う圧倒的事実の前にいつか消えてしまった。


この十字ボタン、特許の絡みもあって他社は真似できない、とよく言われたが、セガもソニーもうまく特許回避して真似ていた。真似したくなるほど出来が良かったのだからたいしたものだ。

(もっとも、セガの「真似」は、斜めに入りやすすぎる問題があった。ソニーはうまく真似したし、今でも基本的な形が変わっていない)




軍平さんはその後、ゲームボーイやバーチャルボーイも作っている。

…バーチャルボーイは黒歴史だから忘れてやれって人も多いが、無視するのも不自然だろう(笑)


ゲームボーイは、任天堂のその後の屋台骨の一つですね。

軍平さん自身も自身の最高傑作の一つだと考えていたようだけど、実際すごくよくできている


これを真似したゲームギア(セガ)や Lynx(アタリ)はカラー液晶だった。

それをみて「(相手が)カラーなら勝てる」と言ったとか。


機能スペックではなく、「おもちゃ」としての全体バランスを重視していたエピソードだ。



そして、バーチャルボーイを最後に任天堂を退職。


#実際にはゲームボーイポケットが最後だけど、これはマイナーチェンジだ。


当初はバーチャルボーイ大失敗の責任を取った、みたいに言われたけど、事実は違うようだ。


ゲーム業界はこの頃から開発競争が激化し、最新技術を惜しみなく投入するようになった。

これは、軍平さんの好きな「枯れた技術」ではないのだ。つまり、任天堂にいても好きな仕事を続けることができなくなった。


また、50を超えたら好きなことをやりたい、と以前から思っていたともいう。これも事実だろう。


そして、株式会社コトを設立。

ワンダースワンなどを作るが、わずか1年で交通事故により死去。




今、コトはどうなっているのだろう?

と思って調べたら、ベネッセと仲が良いようで、チャレンジの教材などを作っている。

最新作は「漢字計算ミラクルタッチ」。


…うちの長男が持っている。今年の小学3年生が1年間使うために、4月号で届けられた教材だ。


3年生で習う漢字と、計算がすべて学習できるように作ってある。

学習時間などを測るタイマー機能もあるし、毎日の勉強時間が来ると教えてくれるアラームにもなっている。


白黒液晶だけどスマホ風のタッチパネルだし、ちゃんと勉強すればご褒美のゲームが遊べるようになる。

たまごっち的なキャラ育てゲームにもなっていて、勉強しないとキャラが育たない。


非接触通信なんかも搭載していて、友達と簡単な通信ゲームもできるようになっている。


特に突出した部分はないのだけど、いろいろなアイディアをそつなく盛り込んである。

まさに、「枯れた技術の水平思考」なのだろう。


基本的にはただの「お勉強タイマー」と考えてよいのだけど、時々イベントが起こる程度、というのんびりさ加減が上手いようだ。うちの子は結構楽しんでつかっている。


案外身近なところに軍平さんの遺志が継がれていることに驚いた。



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ポポー  2013-09-11 11:30:26  住まい

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ポポー

ポポーと言う木がある。

植えたのは家に入居して半年ほどたってから。


なので、もう8年くらいたつのだが、ぐんぐん伸びて立派なシンボルツリーになってくれている。

樹形は美しく、幅広の葉は夏に木陰を作ってくれている。


で、やっとその実がなった。


はじめて実がなったのは昨年なのだが、少ししかできず、その少しは台風の際にどこかに行ってしまった。

今年はたくさん実をつけ、期待していたのだが…


先日、長女が「実が落ちてる!」と報告に来た。

まだそれほど大きくならず、青いままの実が庭の路に転がっている。


ありゃりゃ、仕方がないな。と思いつつ拾い上げると、柔らかい。

妻に言うと「もっと大きくなるのだと思っていたけど、食べられるようになっても実は青いままだそうだよ」と言われる。


じゃぁ、食べてみよう。

探すと、全部で6つ落ちていた。大小いろいろあるから家族で分けた。


ポポーはカスタードアップルとも呼ばれる。

実がカスタードの味がするのだそうだ。

でも、流通しないので、庭で育てないと食べられない幻のフルーツ。


食べてみると、カスタード、と言う感じではない。

マンゴーとバナナを合わせたような味。パパイヤっぽさもある。

ナシのような、すこしすぅっと後を引く感じもある。


枇杷の種より小さく、スイカの種よりも大きい種が沢山ある。


美味でした。




流通しないのは傷みやすいから。

朝落ちているのを収穫し、夜には皮が黒ずんでいました。

なるほど、これは流通ルートに乗らないわけだ。


今調べると、落果してから数日後が食べごろ、とある。

すぐ食べてもおいしかったけど、しばらく置くほうが良かったのか。


まだいくつか実がついているので、今度はそのようにしてみよう。



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エド・ロバーツの誕生日(1941)  2013-09-13 10:07:09  コンピュータ 今日は何の日

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今日(9月13日)はエド・ロバーツ(1941~2010)の誕生日。


…先日から始めてみた「今日は何の日」シリーズ、選択が渋すぎて誰かわかる人がいるとは思えない日が多い。

エド・ロバーツの名前は知らなくても「アルテア8800の作者」と言えば…あれ? やっぱわからない?




話は唐突に CPU の歴史話に。


インテル社が 4004 という LSI を発売したのが 1971 年。

開発話は面白いけど、今回は趣旨違いなので割愛。この LSI 、世界初の 1チップ CPU だった。


もっとも、4004 は 4bit で、電卓用に開発されたものだ。プログラム可能な能力を持っていたが、その能力も電卓を作る程度が限界になる設計だった。


その後、8bit 化した 8008 が作られる。名前は似ているが互換性はない。

さらに 8080 が作られる。これも上記2つとの互換性はない。


しかし、互換性を切り捨てただけに 8008 よりずっと使いやすかった。

…ここでいう「使いやすさ」とは、この LSI を利用して回路を組むことが容易だった、と言う意味だ。


#以下、8008 と 8080 は似ていて読みにくいので、8oo8 8o8o と表記する。凸凹の違いでわかってくれ(笑)


8oo8 では、周辺に 20個程度の LSI を組み合わせる必要があった。

8o8o では、6個程度の LSI で動くのだ。ずっと回路を作りやすかった。


8o8o はプログラマーから見ても使いやすいように改良されていた。

8oo8 までは、電卓や組み込み危機に使うことを念頭に命令セットが決められていた。しかし、8o8o では汎用性を重視し、大ヒットしたミニコンピューター PDP-8 の命令を研究して作られていた。


そのうえ、回路の見直しにより、8oo8 の4倍以上の速度で動作した。


8o8oは、1974年2月13日に発表された。1個 350ドル。


8o8o が参考にした PDP-8 は、当時まだ廉価機種の販売が続いていて、5000ドル程度だった。

この値段の衝撃がお分かりいただけるだろうか?


#事実、PDP-8 は1970年代前半にはまだ売れていたが、この後急に売れなくなってしまう。




さて、エドの話に戻ろう。


彼は MITS 社と言う会社を持っていた。もともとはホビーロケット向けの道具を作っていたが、そこから各種センサーなどを販売するようになっていた。

さらには電子工作に興味を持ち、LED類や、それらを使ったデジタル時計のキット販売、ついには自分で計算機が作れるキットまで販売していた。


ところが、インテルが 4004 を発売したころから風向きが変わる。電卓が1チップで作れるようになり値下がりすると、わざわざ自分で計算機キットを作る人間はいなくなってしまった。

そして、MITS 社は倒産寸前まで追い込まれる。


エドは、ここで 8oo8 に目を付けた。


当時、マニアの間で 8oo8 を使った自作コンピューターの作成が流行しつつあったのだ。

事実、8oo8 を使用したコンピューターキットも、小規模だが売られてはいた。


しかし、8oo8 は扱えるメモリも少ないし、周辺回路も大規模で、キットを入手しても組み立ては大変だ。

きっとインテルは 8oo8 の改良版を出す、とエドは確信していた。その時が勝負だ。


…そして、インテルは 8o8o を発表する。

エドは、すぐにインテルと交渉し、すくなくとも 400個を買い取ることを条件に1個75ドルまで値段を下げさせる。


そして、発表から1年足らずで 8o8o を使用したコンピューターを完成させる。



エドは、ポピュラーエレクトロニクスという雑誌に、何度か寄稿したことがあった。

そのため、編集長に電話をかけ、新しいコンピューターを作ったことを伝えた。


編集長はぜひすぐにでもコンピューターを見たい、と言ったので、1台しかないプロトタイプを空輸した。

ところが、このプロトタイプは何かの間違いで、輸送中に行方不明になった。


仕方がないので編集長は、動作を確認できないまま、適当な箱にスイッチや LED を取り付けただけの偽物の写真を表紙に使った。




アルテアの名前の由来には諸説あるが、エドが名付けたのではないことは確かだ。

とにかく、エドはこのコンピューターにいかなる名前も付けていない。名無しだった。


名無しのコンピューターでは雑誌の表紙を飾りにくい、と編集長は考えた。何か名前を付けなくては。

ちょうどその時、12歳の娘がテレビでスタートレックを見ていた。編集長は娘に尋ねる。

「コンピューターに名前を付けたいと思っているのだが、スタートレックのコンピューターの名前はなんていうの?」


娘はしばらく考えて「コンピューター」と答えた。

どうもこの答えは父親の求めているものとは違うようだ、と気づいた娘は「アルテア、と言う名前はどう? そこは今夜エンタープライズ号が行くところなの」と別の名前を提案した。


別の説によれば、編集長は「ポピュラーエレクトロニクス」の頭文字をとって PE-1 と名付けようとしていた、とされる。

この名前はかっこよくないと考えた副編集長と雑誌ライターが「これはすごい(stellar)ことだから、星(stellar)の名前を付けよう」と、アルテアと名前を付けた。


ちなみに、アルテアとは日本ではアルタイルと発音される、七夕の彦星のことだ。


どちらの説が真実かはわからない。真実は別のところにあるのかもしれない。

いずれの説でも、8800 という型番の由来は不明だ。CPU は 8o8o なのに、なんで 8800 なんだろう?




アルテアの写真…先に書いたインチキ写真は、ポピュラーエレクトロニクスの 1975年1月号の表紙を飾った。

397ドルでキット販売されることも告知された。


メモリは 256バイトしかなく、入力は2進数トグルスイッチ、出力も2進数 LED しかないマシンだ。

コンピューターと言っても、何かができるわけではなく、CPU の動作が確認できる程度。

こんなもの、マニアでないと買わないだろう。


エドは、この機械が 400台くらいは売れるだろうと予想していた。

だんだん評判になって、半年で 400台くらい売れればいい。そうすれば、会社は倒産しないで済む。


ところが、雑誌の発売日の午後だけで、400台を超える注文が入った。


その後も電話が次々かかってくる。1か月たたないうちに、注文は4000台を超えた。

個人で買えば、CPU だけで 350ドルなのだ。それがキットで 397ドルなら安いものだ。


#8o8o を開発した嶋氏が当時アメリカで最初に住んだ「超々豪華なアパート」の賃料が月額 250ドルだったという。

 また、4ドルあればおいしい料理が腹いっぱい食べられたという。

 397ドルは、安いとはいってもかなりの額だ。


アルテアは爆発的なヒットになった。

しかし、実はこの時点で生産体制は整っていなかった。


たった1台のプロトタイプはどこかへ紛失してしまい、回路設計は完成しているものの、キットとして販売できるだけの準備がなかったのだ。

最初の注文者に実物がわたるまで、半年近くかかることになった。



アルテアは、メモリに好きな値を書き込む機能と、CPU を動作させる機能以外ほとんど何も持っていなかった。

ただし、拡張性には気を使っていた。

テレタイプを接続すれば、本格的なミニコンピューターとしても使える設計だった。




アルテアの「本体」は、実は CPU もついていない、スイッチと LED だけの回路だ。

ただし、よく考えられた拡張スロットが 18個もついている。


アルテア 8800 では、このスロットのうち1つに「CPU ボード」が取り付けられ、もう一つに「256バイトRAM」が取り付けられる。


メモリカードを取り換えればメモリ増設ができる。MITS 社は 4Kbyte RAM ボードの発売を予告していた。

また、後には 8o8o 以外の CPU に対応したアルテアも発売されている。


4K RAM ボード以外にも、MITS 社はアルテア用の拡張ボードを数多く計画していたし、動作するプロトタイプもあった。

しかし、本体の供給すら間に合わない状態では、拡張ボードの販売なんて夢にすぎなかった。


そこに目を付けた他社が、サードパーティー商売を始めた。

最初は、MITS 社がなかなか発売しない拡張ボードを作成し、販売を始めた。

そして、いつまでたっても本体の供給が間に合わないとみると、互換本体も売り始めた。


アルテアは、世界初のパソコンだった。

そして世界初の周辺機器メーカーが乱立し、世界初の互換機ビジネスが始まった。


これにより「パソコン業界」が一気に立ち上がる。




このアルテア、互換機、および 8o8o自作コンピューターのマニアたちを集めたのが、「ホームブリュー(密造/自家製の意味)コンピュータークラブ」だ。


このサークルからアップル社が生まれることになる。

また、マイクロソフトも、アルテア BASIC の作成から始まった会社だ。


これらの話も非常に面白いのだけど、今回は趣旨違いなので紹介だけにとどめておく。


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カピバラに会いに  2013-09-15 17:47:29  家族

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カピバラに会いに

ズーラシアに行ってきた。


完成前から存在は知っていたし、行きたいと思っていたのだけど、ずっと小さな子供を抱えていていけなかった。

次女が4歳になり、もう自分で歩けるだろうという判断で、今回初めて行った。


目的は、長女の「カピバラに会いたい」の思いのみ。

非常に多くの動物がいる、有名な動物園だけど、他の動物は「おまけ程度」なのです。




しかし、行ってみて驚いた。

動物園だと思って入ったら、入り口ゲートから度肝を抜かれる。


インディージョーンズにでも出てきそうな、丸太を組んで作った巨大な扉。

ここが「アジアの熱帯雨林」エリアの入り口だった。


入ってすぐにゾウがいた。ちょうど、水浴びショー(?)の始まったところだった。

いい時間に入ったようだ。



ズーラシアの動物は、エリアごとにわけて展示されている。

そして、これも驚きだったのだが、地図には「主要な」動物しか書いていない。

そのエリアに生息する小鳥なども展示しているが、これらは地図に書かれていないのだ。


理由は、多分「多すぎて書き切れないから」。


いろいろ見ながら結構歩くと、「ジャングルカフェ」と銘打った…フレッシュネスバーガーがあった。

歩き疲れてお腹空いた、と子供が言うので、少し早いがお昼ごはん。(11時半だった)


ごはんを食べながら地図を見る。結構歩いたし、1/4 くらいは見ているのかな…

確認して愕然。まだ、入り口から全然進んでいなかった。


ズーラシア、広いとは聞いていたけど半端じゃない。ものすごく広い。覚悟して突入しなくてはならない。




昼ご飯の後、長女は「早くいかないとカピバラに会えない」と、一つ一つの動物をゆっくり見ず、先に進もうとする。

まぁ、それくらいでもいいだろう。本当に珍しいものだけゆっくり見ればいい。


1つのエリアが終わるごとに、次のエリアを飛ばしてしまう「ショートカット」の道が用意されている。

順路は一本道で最後まで突き進む形なのだが、好きなところだけ見ればよいのだ。



そして、エリアが変わるごとに植物も、周囲のオブジェも変わる。

植物はちゃんと、その動物が棲むあたりの代表的なものが植えられていて、説明がつけられている。

ズーラシアは動物園だけど、植物園でもある。


そして、オブジェはそのあたりに住む、原住民の文化を色濃く反映している。

休憩所は、そのあたりの家のつくり方で作られるし、民族的なオブジェもたくさん置かれている。


ズーラシアは動物園だけど、民族の違いを楽しめるテーマパークでもある。


ただし、やはり「動物園」なので、植物や民俗学は、詳しい説明はない。

僕や妻はそういうのが好きなので、子供たちに歩きながら解説する。解説しているたびに、近くを通る親子連れなどが聞いているのがわかる。




途中、ショートカットのために「風の丘」エリアに入る。

ここには動物はおらず、広い草原が広がっている。たくさんの花の中を、少し高く作られた木製の通路が伸びている。


川も流れ、滝もある。…すごい。映画撮影できそうなジオラマセットになっている。

滝の上に架かった橋には、マイクロミスト装置が取り付けられていた。(多分夏限定)


橋が見えなくなるほどものすごい霧。

霧立ち込める滝壺、というのを、インディージョーンズ気分で進むことができる。




いろいろな動物を見ながら進むと、ついにカピバラを発見。


「もぐもぐたいむ」(おやつの時間らしい)が4分後だった。ちょうどいいタイミングだ。


しばらくして飼育員さん登場。カピバラもよくなついている。


「みなさん、カピバラがどんな動物の仲間か知っていますか?」という飼育員さんに、「モルモット」と答える長女。


飼育員さん、ちょっとひるんだ。せいぜい「ネズミ」という答えを期待していたようだ。


「そう、モルモット、ネズミの仲間ですね。

 日本語では、オニテンジクネズミ、と呼ばれます。テンジクネズミって何かご存知ですか?」


長女、また「モルモット」と答える。

飼育員さんは、後の質問の答えを先に言われていて困っていたようだ(笑)


長女はカピバラ好きなので、オニテンジクネズミと呼ぶことも、それが巨大なモルモットを意味することも知っている。

これでどうも、飼育員さんにおぼえられたようだ。




飼育員さんはその後、本来カピバラは家族単位で暮らすこと、しかし今はメス一匹しか展示していないこと、実はオスもいるが、まだカップルに慣れていないことなどを説明した。

最後に、「この後、男の子を出してみますが、嫌がったら無理には出しません」と断って帰った。


長女が見たいというので、そのまま5分くらい待機。

すると、もう一頭のカピバラが出てきた。


さらに、飼育員さんが檻の中ではなく観客側に出てきて、いろいろ説明してくれた。

やはり、長女の「カピバラ好き」が目立っていたのだろう。


最初は警戒していた二頭も、だんだん近寄って…でも、近寄るとメスが水に潜る。


「あれ、私はいないよ、って意思表示なんです」と飼育員さん。


しかし、その後オスが後ろから乗っかり、交尾態勢を取る…が、メスに嫌われる。

なんどか繰り返すが、メスは許さない。でも、積極的なアタックで、メスが心を開いて行っているのはわかる…


が、オスがメスのすぐ後ろにいるとき、なにか物音がしてオスが「びくっ」と動いた。

これにメスが驚き、腹を立て、喧嘩。


なかなかうまくいかないようだね。飼育員さんも大変だ。

子供が生まれた、と言うようなニュースがあったらまた見にこよう。


ということで、カピバラ終了。




この後、オカピを見て帰ろうと思ったら、非常に広い児童公園があった。

地図上に「広場」とは書いてあったけど、公園になっているとは。


これがまたすごい。


浅い砂場のそこに、コンクリートで「大きな骨の化石」がつくってある。

発掘ごっこをして遊べる。


近くには、トリケラトプスや首長竜の骨の形の遊具がある。(冒頭写真右側遠景・クリックで拡大)


他にも、巨大なオカピの滑り台(冒頭写真)や、ターザンロープなど。

子供たち大喜び。


ここが最大のようだけど、こうした広場が何か所かあります。

やっぱテーマパークだわ。




たくさん遊んで、終了。

やっぱ一日で全部見ることはできませんでした。


また行こうね、と子供たち。


そうそう、ズーラシアは横浜市営なので非常に安いです。


土曜日は高校生以下無料。大人は600円。

駐車場は、1日停めて1000円です。

お弁当などの持ち込みも OK。


うちからは車で1時間半くらいかかるのだけど、また行くのは全然問題ないです。






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Linux の初公開日(1991)  2013-09-17 06:17:00  コンピュータ 今日は何の日

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Linux の初公開日(1991)

今日は Linux の初公開日。

1991年、Linux カーネル 0.01 はインターネット上の MINIX ニュースグループに投稿されました。


当時は 80386 が出たばかり。

…って言ってもわからない人の方が多いだろうな。Intel の CPU が 16bit から 32bit になって、でも OS は DOS しかないから、みんな 386 を「16bit 互換モード」で動かしていました。


もちろん、386の性能を活かしきることなんてできません。どうしても性能を引き出したい人は、DOS 上から 386 のネイティブモードに移行してからプログラムを実行する「DOS EXTENDER」と呼ばれるソフトを使っていました。


FM-TOWNS でも、 RUN386.EXE を使ってましたね。

ほかにも GO386 とか EXE386 とか、いろんな会社から発表されていました。


でも、これは結局小手先のごまかしにすぎません。

パソコンマニアは、386 の性能を引き出せる OS を求めていました。




当時、MINIX という、8086 (16bit)で動く UNIX 互換の OS がありました。

(当時僕は大学生でしたが、先輩が PC9801 用の MINIX を入手して喜んでいたのを思い出します)


この OS はそれなりによく出来ているのですが、目的の一つが「OS の勉強用」だったため、できるだけ複雑な処理は行わないように作られていました。

そのため、簡素な 16bit 用につくられていて、32bit への拡張予定もありませんでした。


#当時の話。現在は 32bit 対応しています。


そして、Linus Tovals(以下、Linux と混乱しやすいのでリヌスと表記)は MINIX で OS を勉強し、新たに 32bit 対応の OS を書き起こします。

ある程度動くようになった最初のバージョンを発表したのが、1991年の今日、と言うことになります。


ちなみに、当時はまだ WEB はありません。

情報交換には、文字中心のニュースグループが使用されていました。まぁ、掲示板みたいなものだと思ってください。


リヌスは MINIX で勉強したので MINIX のニュースグループに投稿したわけですが、これはある意味「スレ違い」でした。リヌスの新しい OS は、MINIX ではないのですから。


ここで、MINIX の開発者であるタネンバウム教授と、リヌスの間で激しい議論が交わされます

後に「喧嘩になった」とされていましたが、実際にはお互いの思想の違いなどを説明し合い、お互い始終冷静だったと言います。


そして、お互いの考えは相容れないことがわかりました。


タネンバウム教授は教育用にお手本となる OS を求めていたため、誰でも使える古い CPU の機能のみで作る一方で、プログラム的には最新技術を取り入れていました。

一方で、リヌスは実用になる 32bit OS を求めており、最新技術を使うよりも、使い慣れた古い技術で作りたいと考えていました。


リヌスは MINIX とは袂を分かち、新しい OS を独自に育てることにしました。

この時、MINIX コミュニティの中でも、PC 上で動く実用になる UNIX を求めていた人たちは、リヌスについていきます。


#当時、まだ PC 用の BSD はありませんでした。

 PC 用 BSD の始祖である NetBSD の登場は 1993年。




OS に詳しくない人のために、説明しておきます。

一般的に、OS を購入すると、最低限必要な周辺ソフトも一式付いてきます。


しかし、狭い意味では OS は「コンピューターを制御する部分」のみです。

ユーザーの入力を受け付けるのは、OS の上で動く別のプログラム。


狭い意味での OS を「カーネル」、ユーザーの入力を受け付ける部分を「シェル」と呼びます。

さらに、シェルから呼び出されて動くアプリケーションなどがあります。


リヌスが作った Linux 0.01 は、カーネルのみです。

しかし、すでにフリーソフトとして存在したシェルを使うことで、一応ユーザーの入力に対して反応できる、と言う程度のものでした。

ちょっと複雑なアプリケーションを動かそうとすると、上手く動かずにハングアップします。


1か月後には 0.03 が作られ、コンパイラ(結構複雑なアプリケーションです)を使って、カーネル自身のプログラムをコンパイルすることが可能になります。


当時、UNIX は非常に高価なワークステーションで動くのが普通でした。

パソコンは 16bit 、ワークステーションは 32bit で、明確な棲み分けがあったのです。


MINIX は UNIX とはいっても 16bit ですから、アプリケーションを動かすのには、複雑な移植作業が必要でした。

しかし、Linux は 32bit です。多少の移植作業が必要なことはありましたが、多くのソフトがほとんどそのままか、簡単な手直しのみで動きました。


コンパイラが動くようになれば、多くのアプリケーションが移植されます。

リヌスが作ったのはカーネルだけですが、UNIX にはプログラムソースが公開されたフリーソフトが沢山ありました。


つぎつぎアプリケーションが移植され、カーネル開発も進み、Linux は「PC用の UNIX」としての地位を固めていきます。




UNIX には、大きく分けて SystemV と BSD の2つの系統がありました。


BSD には先進的な機能が次々実装され、多くの人が BSD を使った時代もあります。

しかし、Linux が出てきた頃は、SystemV が BSD に追いつき、総合力で上回ろうとしていた時でした。

リヌスは、Linux を SystemV 互換として作っています。

しかし、「少し前の時代」は BSD が全盛でした。フリーソフトの多くは、BSD 用に作ってあります。


移植しやすいように、Linux は BSD の機能も数多くサポートしています。

SystemV 互換だけど、BSD にもかなり似ている。この節操のなさが Linux が広まった理由に思えます。

主に BSD 互換のアプリケーションを使っているため、細かなコマンドオプションの違い(同じ名前のアプリケーションでも、BSD と SystemV ではわずかに使い方が違う)などは、ほとんど BSD 互換になっています。


これもまた、BSD を使い慣れたユーザーが移行するのによかったように思います。


OS としての全体が整うと、簡単にインストールできるようにまとめた「ディストリビューション」が登場します。

これによって、気軽にインストールができるようになると、Linux はますます地位を向上させていきます。




僕が最初に Linux に触れたのは大学のころ、FM-Towns 用の Slackware + JE でした。Laser5 で売ってたやつ。

(Linux は IBM互換機用でしたが、FM-Towns にはいち早く移植されていました。

 Slackware は、Linux を誰でもインストールできるようにした、最初のディストリビューション。

 JE は Japanese Extensions 、日本語を扱えるようにするための拡張パッケージです。

 Laser5 は CD-ROM 専門のソフトショップでしたが、このような独自の CD-ROM も作成して売っていました)


当時、日本の Linux 界には「タコは財産」という言葉がありました。

タコとは、どうしようもない初心者のこと。


今でも聞いてばかりの初心者に対して「ググレカス!」とひどい言葉を投げつける人がいますが、当時も同じような風潮はありました。


しかし、MINIX コミュニティに受け入れてもらえなかった、というところから始まる Linux では、どんな初心者であろうと「仲間を増やす」ことが大切だと考えられました。

初心者であっても、興味を持って続ければいつか上級者になる。そういう人を増やすことが大切だ…というわけです。


Laser5 の Slackware + JE では、おまけにシールが付いてきました。

「Linux inside」と「タコ」のシールでした。この頃はまだ TUX 君は Linux のマスコットではなく、日本での事実上のマスコットは、この「タコ」でした。


…シールを公開したいと思ったのですが、探しても見当たりません。もういらないと思って捨ててしまったのかなぁ。


後日追記 2015.1.12

タコシール発見し、この日記冒頭に表示しています。(クリックで拡大します)

また、リンク先のツイートで見られます。

追記終り。




僕は、Linux を導入しようとしたころ、まさに「タコ」でした。

大学で UNIX を使い始めたばかりだったので自宅にも…とおもったのですが、ただのユーザーと管理者ではやることが全然違います。

もっと言えば、大学の UNIX も、よくわかっていない大学院生が管理しており、非常に使いづらい状態でした。

当時は「UNIX の何がそんなに良いのだろう?」と思っていました。


その後会社に入って「よく整備された」UNIX ネットワークを使い、その後にふたたび、今度は移植ではない本来の Linux を使い始めます。

この時には RedHat を使用しました。もっとも、RedHat もまだ日本語対応していない時期で、RedHat + JE がやはり Laser5 から発売されていました。


また、この頃の RedHat は専用にパッケージされたアプリケーションが少なく、自分でアプリケーションを導入すると、独特のアプリケーション管理と相性が悪い、と言う状態でした。

後に、最初から日本語対応していて Slackware ベースの Plamo Linux に変更した覚えがあります。




今では、Linux の導入も非常に楽になりました。

僕は Linux 信者ではないので、Win と Linux を使い分けていますが、仕事内容によっては Linux だけで十分、という人もいるようです。


最新の Linux カーネルは 3.11 (2013/9/17現在)。

3.8 以降は、最初の目的であった「386用の OS」であることを捨てました。

…つまり、386 は古すぎるものとして、すでにサポートされていません。


MINIX が「単純化のため」古い CPU にしか対応していなかったのとは対照的です。

この、時代に合わせて変わっていくさまこそが Linux らしさなのでしょう。


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ICANN設立日(1998)  2013-09-18 10:34:53  コンピュータ 今日は何の日

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今日は ICANN が設立された日(1998年)。


ICANNは縁の下の力持ち。誰も知らなかったとしても、絶対にお世話になっているはず。

インターネットの IPアドレス・ドメイン名の割り当てを行う組織です。


設立が 1998年? と言うところで疑問を持ったあなたはスルドイ。

もちろん、ICANN 設立以前からインターネットは存在しました。


インターネットの前身となる ARPANET は 1969年に行われた実験から始まっています。

この実験は10月29日に行われているので(忘れなければ)その日に書きましょう。



ともかく、ARPANET に接続する大学・企業などは徐々に増え、ARPA が資金提供していない部分が大多数を占めるようになったため、「インターネット」と呼ばれるように変わっていきます。


ところで、インターネットの仕組みとしては、IP アドレスの割り当ては必須です。

これは、当初ボランティアによる人手で行われていました。


申請があれば、団体ごとにある程度まとまったひとかたまりの IPアドレスが払い出されます。

受け取った団体は、それを自分のところのコンピューターに好きなように…全てが異なるよう、責任をもって割り振ります。

団体に割り当てた範囲が重複せず、団体の中で重複しなければ、全体としても重複しない。

簡単でわかりやすい方法です。牧歌的な時代でした。


ARPANET の初期は直接 IP アドレスを入れて通信していましたが、不便なので hosts ファイルと言う簡単なデータベースが作られます。

これは電話番号帳のようなもので、相手の「名前」を入れれば、適切な IP アドレスに変換できました。


このファイルは、ダグラス・エンゲルバートの研究室に置かれ、ネット上ではファイルのある場所は「ネットワークインフォメーションセンター(NIC) 」と呼ばれていました。




ネットに接続する団体が増加するにつれ、IP アドレスやドメインの発行が、ボランティアでは間に合わなくなります。

ここに「IANA」が設立されます。


Internet Assigned Numbers Authority …ネットの数字割り当て局、とでも訳せばよいのでしょうか。


IANA は、数字(IPアドレス)だけでなく、ドメイン名も管理します。

(もっと言えばポート番号も。新たなサービスを作るときには申請が必要です)


そして、発行されたアドレス・ドメインは、hosts ファイルに記載され、NIC からネットワーク中に配布されました。



当初は、皆が最新の hosts ファイルを時々取りに行き、手動で更新していました。

(特定のメールアドレスにメールを送ると、自動的に返信が送られてくるので、その内容をマシンの特定の場所に、特定のファイル名で置く方法でした)


しかし、ネットに接続するコンピューターが増えるにつれ、hosts ファイルを取得するための手間も、取得される側の負荷も上がっていきます。


そこで、DNS が考え出されます。


hosts ファイルよりも、もう少しマシなデータベースとして管理を行い、サーバー同士で「知らないことは聞く」ことでドメイン名をIPアドレスに変換するシステムです。

これで、管理の手間・負荷の問題が解決します。


しかし、DNS のルートサーバー(一番重要なサーバー)は、まだ NIC にありました。

その後 NIC はエンゲルバートの研究室から別の会社に移管されたりしたが、基本的には同じ構成のままです。




インターネットは ARPANET から始まったものだったので、これまでは管理などにアメリカ国防総省が資金提供をしていました。


しかし、ネットワークへの接続は、アメリカだけでなく世界中に広まりつつあり、規模も増大しています。

もう、管理に米国の税金をつぎ込む時期を過ぎました。国防総省は資金提供をやめることにします。


ここで、当時のインターネットの最大の利用者団体である、アメリカ国立科学財団が新たなスポンサーとなります。

そして、IANA/NIC の業務を3つに分割し、競争入札で一番安い値段で仕事を請け負った3社に任せることにします。


1992 年、仕事の移管のために InterNIC が設立されました。

ARPANET の NIC ではなく、Internet の NIC だという意味の名前です。


この時の各社との業務委託契約期間は5年でした。


しかし、この5年間のインターネットの伸びはすさまじいものでした。

…1995 年、Windows 95 が発売され、空前のパソコンブームが起こります。


Win95 にはインターネット接続機能はありませんでした。

この頃すでにインターネットのブームは始まっていましたし、Mac ではネット接続機能は標準でついていました。

Win95 にネット接続機能がないのは、明らかに「時代遅れ」でした。


しかし、機能がなければサードパーティにとってはチャンスです。

多くのインターネット接続用ソフトが発売されましたし、プロバイダと契約すると無償提供される場合もありました。



その後、Win98 が発売されたときには、ネット機能は標準でついてきました。

3年で機能を標準化するほど、この時のインターネットは爆発的なブームだったのです。


InterNIC では、1995年以前はドメイン名などは無料で発行していました。

しかし、登録数の爆発的増加を抑える目的と、増えた手間に対する損失を埋め合わせるために、1995年からドメイン登録を有料とします。


…それでも手間は増える一方で、歯止めは利きませんでした。



5年目の契約終了日、InterNIC の一翼を担っていた AT&T が契約の更新を拒否します。

おそらくは、最初に考えていたよりも業務内容が増えすぎて、契約金がわりに合わなかったのでしょう。


実は、当初契約3社のうち1社は契約違反により途中で契約打ち切り、その仕事は AT&T が引き受けていました。

つまり、AT&T が辞めると、InterNIC は仕事内容の 2/3 を失うことになります。


インターネットは研究者が使う段階、マニアが使う段階を過ぎ、すでに一般市民が使う大事なインフラの一部になっていました。


当初は、残る一社がすべての作業を行う…と言う形で InterNIC の存続が決まりかけました。

しかし、これにストップをかけたのが、米国商務省です。


あっという間にインターネットが普及し、すでに生活に必須のものとなっています。

このネットワークの維持業務を1社に独占させるのは、独占禁止法違反になるというのです。


米国商務省は新たな組織の提案を行い、InterNIC 体制はわずか5年で終了します。




そして、InterNIC の仕事を引き継いだのが…1998年の今日誕生した、ICANN です。

業務内容は NIC / InterNIC と同じで、IANA が発行した各種資源の管理が中心です。


ただし、独占市場を作り出さないように、ICANN は非営利団体に指定されています。


実際の DNS の運用やドメイン名の登録作業は手間がかかる…つまり有料にする必要がありますが、これらは民間に委託する形で賄われています。


現在、ドメイン登録を行う「レジストラ」が多数あるのはそのためで、商務省の狙い通り、競争によりドメイン料は値下がりし、非常に安くなりました。



ただし、競争が起きているのは ICANN が直接管理しているドメイン名だけ。

たとえば .jp ドメインは、日本の JPNIC が管理し、ドメイン管理は日本レジストリサービスが独占しているため、料金は高止まりしたままです。


高止まりと言っても、別に JPNIC が利権に胡坐をかいているわけではないですよ。

日本では、安いことよりも安定していることが求められるから、JPNIC はその習慣に従っているだけ。


ICANN のドメインは誰でも取れるし、うっかり期限切れにして「乗っ取り」という怖さもあります。

JPNIC は名称を名乗る資格があるか審査されるため、乗っ取りも起こりにくいのです。


高いにはそれなりの理由があって、日本人がそれを求める限りは変わらないのだろう。


…僕としては ICANN の方式でいいと思っているけどね。

(だから wizforest.com ドメインを使っているのだけど。)


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顔文字が誕生した日(1982)  2013-09-19 10:48:22  コンピュータ 今日は何の日

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今日はネット上ではじめて顔文字が使われた日(1982年)。

去年が30周年でしたね。


表情の見えないネットでは、冗談を書いても本気に受け取ってしまう人がいる。

表情が見えないのが問題だから、:-) と :-( で表情を表そう!


…とスコット・ファールマン(Scott Fahlman) さんが提案したのが 1982年の今日。

少なくとも、提案者のコミュニティ内では顔文字を使う人はそれ以前にはいなかったし、提案以降は賛同者も多く、よく見るようになった、とのこと。


スコットさんの投稿は、その後長い年月を経て「発掘」され、1982年9月19日だったことが確定しています。

それ以前から使われていた、と言う主張もあるものの、今のところ証拠がありません。

そのため、スコットさんの提案が最初だったのだろう、と考えられています。


詳細はスマイリー30周年のサイトや、それのベタ翻訳であるギガジンの記事をお読みください。




日本の顔文字は、アメリカでの顔文字を全く知らない人が考案し、広まっています。

全く独立した文化として生じているのです。


理由も全く別のもの。 :-) が表情を示しているのに対し、 (^_^) は署名をより「自分らしく」するためのものだった。


詳しくは、考案した当人(わかん さん)のWEBサイトに詳細な説明があります。



ところで、1986年と言うのは、ちょっと微妙なところです。


アメリカではパソコン登場以前からパソコン通信や電子掲示板サービスがあるのですが、日本では電電公社が電話事業を独占していたため、電話線の音声以外の利用に制限がありました。


電電公社が民営化し、NTTになったのが 1985年。同時に、電話事業が自由化されます。

これでやっと電話線を使ったパソコン通信が自由化され、1986年ごろに大手パソコン通信サービスが続々と開始されます。


なので、1986年と言うのは「日本のパソコン通信では間違いなく最初の顔文字」だと思います。

しかし、すでにパソコンの利用はホビー用途としては普及しており、アスキーアートなどは数多く作られているのです。


ベーマガにはMZ-700用のゲームなどが毎月載っていましたが、グラフィック機能のない同機では文字を組み合わせてキャラクターを作るのは「当然のこと」でした。

また、プログラムの冒頭に署名を入れ、そこに「自分のマークとして」アスキーアートを入れるのも流行した技法でした。

「署名の一部として」の顔文字は、ここからきているのではないかと思っています。



ただし、大抵のアスキーアートは、縦に3~4行使うのが普通でしたし、ゲームのキャラクターなどに使うため、何かの全体像を表現していることが多いです。


いわゆる顔文字が、文章の後ろに感情を表すために「1行で」「顔だけを」書かれるのとは違います。


先に挙げたリンク先の説明でも、文字をどのように組み合わせたら顔になるかいろいろ試したことを書いていますが、1行に納めるということが当時としては珍しい試みだったのではないかと。


この意味において、わかん さんの使った顔文字は、確かに現代に通じる「顔文字」だったのだと思います。



後日追記 9.28

日記公開後に、わかん さんにメールでお伺いしました。

わかん さんは当時プログラム雑誌は読んでいなかったそうで、アスキーアートを使った署名は知らなかった、とのこと。

ただ、類似のものとしてはタイプライター画(タイプライターの文字で濃淡を表し、重ね打ちなども使って絵を描く技法)は知っていたそうです。


僕もタイプライター画は知っていますが、いわゆるアスキーアートとは異なるもので、着想のヒントになっていたようには思えません。


また「へのへのもへじは知っていました」とも(笑)

冗談半分だと思いますが、無意識下だとしても「文字の形だけに注目して絵を描く」と言う意味では、本当に原点かも知れませんね。


いずれにせよ、他の誰もが考えなかったことを独自に作り出した、というのはすごいことだと思います。




顔文字だけだと話が広がらないので(笑)、いろいろ雑文を。

上に挙げた(笑) という「記号」ですが、これもパソコン通信時代に登場したものです。


もちろん、それ以前から(笑)は存在しています。

雑誌などで対談記事やインタビュー記事があると、「笑った」部分に(笑)という表記が入るのですね。


しかし、パソコン通信ではアメリカ式の顔文字と同じように、感情を示すのに使用されました。

誰かが笑ったわけではなく、書いている自分の愉快な気持ち、もしくは本気ではない気持ちを示す記号として使われたわけです。


この場合、意味が本来のものと異なっていて、知らない人が見ると違和感を感じるわけですが、当時はむしろ「コミュニティの中でしか通じない違和感」、つまりは仲間意識を楽しんでいたように思います。

現在では、わざわざ(笑)が広まりすぎたため、 w と表記されたりします。

わざわざ変えているのも、やはり仲間意識を楽しむためなのでしょう。


#こういう例ははるか昔からあり、明治時代に「シャッポを脱ぐ」とか言っていたのもそうだし、徒然草にも「最近の若い者は、なんでも略しおって」と愚痴る内容が書かれている。


ただ、(笑) を w に変えてしまえば、インタビュー記事などの(笑)は元の意味を保ち続けられます。

その意味では w を使う人の方が、ネット上の(笑)のあり方に違和感を持つ保守層の可能性もあります。



この(笑)ですが、当時漫画家の いがらしみきお がいろいろと考察しています。

いがらしみきお は漫画家である一方思想家としての一面も持っていて、当時「IMONを創る」という壮大なパロディ本を上梓していました。


「IMONを創る」は、当時のパソコン関連書籍「TRONを創る」のパロディであると同時に、宗教に頼らずに人間を悩みから救う「人間のためのOS」を開発するための指南書でした。


…何言っているんだかわからない人も多いでしょう。自分だってこの纏め方であっているかわかりません。

「IMONを創る」は当時興味を持って立ち読みしましたが、当時の僕には高い本だったし、同じ金額出すならパソコン書籍を買いたかったので買いませんでした。

つまり、今手元にないので、本当に認識があっているかもわかりません。


幸いなことに、「IMONを創る」の概要を いがらしみきお 自身が解説した文章なら手元にあります。(翔泳社PC-PAGE 10号「パソコンを思想する」p.8~23 1990年)

これによると、IMON は「Itudemo Motto Omosiroku Naitona」の略で、パソコン側ではなく、人間側に適用する OSです。。


その三原則は


・リアルタイム

・マルチタスク

・(笑)


リアルタイムとは、いつでも最新の情報を取り入れて記憶である RAM を更新し続けること。

歴史は ROM だが、人間の記憶は RAM です。常に状況に合わせて更新し続けないといけません。

これが「リアルタイム」ということ。


つまりは、柔軟な態度を持ち、無駄なこだわりは捨てること。

いがらしみきお は、リアルタイムを「生涯学習のこと」とまとめています。



マルチタスクとは、すべての処理を均質化することです。

人生が破綻しそうな大問題を抱えていても、お腹がすいたらご飯を食べましょう。


マルチタスクなので、別の仕事をしているときに前の仕事を引きずってはいけません。

これにより、ごはんを食べているときは、大問題の悩みから解放されます。


人生にはバグがあって、永久ループにはまることがあります。いわゆる「くよくよする」状態。

そういう時は、マルチタスクでいったんループから離れた上で、永久ループ側の処理を強制ジャンプさせてループから脱出させます。

つまり、目前の問題から「逃げる」ことも時には必要。



そして(笑)。

やっと本題に入るが、いがらしみきお はこの(笑)を、インタビューなどの表記ではなく、パソコン通信で使われるやつ、と規定しています。


自分が書いている文章に対して「何言ってやがんだコイツ」と突き放した態度で(笑)と書くように、議論が真剣になりすぎて人間関係が破綻するのを(笑)で防ごうとするように、人生いつも(笑)を忘れてはなりません。



このIMON3原則を守れば、人生に悩みはなくなるし、楽しい人生を送ることができます。

つまり、IMON は OS であり、宗教であり、これを守れば人生安泰順風満帆。


そういえば、ラショウさんも、チキンとは食料でもあり、燃料でもあり、キリストでもあるという三位一体論を唱えていたなぁ。

あれも順風満帆に突き進む爽快感を求めたゲームでした。


#詳しくは「巨人のイタチョコの星のシステム」を読んでください。彼のファンだったのでサイン本持ってる。


…顔文字の話をしていただけなのに、何だか話がそれて壮大な人生論・宗教論になりました。

まぁ、余り最後の方は本気にしないように :-)


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15年 山内溥 命日(2013)

17年 母の誕生日


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追悼:山内溥  2013-09-20 10:40:29  コンピュータ 今日は何の日

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昨日、元任天堂社長、山内溥さんが亡くなった。85歳。


社長なので直接ゲームをつくったりしていた人ではないが、小さな花札・トランプ屋だった任天堂を大企業にした中興の祖だ。

もちろんビジネス的な手腕にたけていたのだろうが、それよりも「遊びの本質を捉えていた」ことの方が重要だったように思う。



父が駆け落ちで逃げているため祖父に育てられ、後継ぎとして大事に育てられた。

かなり贅沢もしているし、自由に育てられ、多くの経験をしたらしい。この経験は後で役だったのだろう。


実家は京都だが、早稲田大学に入りたい、と言えば下宿として東京に豪邸を建ててもらえる。

そして、そこを拠点に毎日遊び歩く。月に数度はステーキを食べ、ビリヤードなども熱中したという。


時は戦後すぐ。進駐軍の人間か、よほどの金持でなければそういう生活は出来なかったはずだ。

(山内氏自身、物資の横流しを行うヤミ屋と勘違いされていたそうだ。後に「組長」と呼ばれる迫力は、そういうところからきているのかもしれない)


しかし、祖父が死んで大学は中退。若いうちに任天堂の社長になった。

大学中退と言う、社内でもかなり若い人間がいきなりの社長。社内的な反発もあり、ストライキなど起きている。


しかし、遊び歩いて培った「遊びに対する勘」は鋭く、プラスチック製の高級感のあるトランプや、ディズニーとライセンス契約したキャラクタートランプなど、新たなニーズを掘り起こしてヒットを出すことで社内の反発は収まった。


さらに会社を大きくするために海外視察に出かけ、世界最大のトランプ会社を訪問した時、山内氏は衝撃を受ける。世界最大の企業なのに、オフィスは中小企業並みのサイズだったのだ。


これでトランプだけでは会社は成長しない、と危機感を持ち、非常にいろいろな方面に手を出すことになる。


ラブホテル経営までやっていた、というのはよく話題になるし、タクシーの運用や、お湯をかけるとごはんができる、インスタントライスなんていうのも発売している。


タクシーや食品は、たしかに迷走だったかもしれない。

しかし、そういう失敗があったからこそ、山内氏は「任天堂はゲームの会社だ」と強く認識するようになる。


ここでいう「ゲームの会社」は、ゲーム機をつくったりする会社ではなく、楽しみを提供する会社、と言う意味だ。

山内氏は、お客さんはゲームが遊びたいから「仕方なく」ゲーム機を買うんだ、と言う名言も残している。


その意味では、ラブホテルなんて言うのは「レジャーの提供」としてそれほど迷走ではなかったのではないかなーと僕個人は思っているのだが、どうなんでしょう?




先日横井軍平さんのことを書いたが、彼を見出したのも山内氏だ。

軍平さんの仕事は本来、設備機器の保守点検だった。開発とは関係がない。


ある時、軍平さんが暇つぶしで作っていたおもちゃを見て、山内氏は「後で社長室にこい」という。


就業時間中におもちゃなんて作っていたから怒られるかな…とこわごわ社長室に行くと「あれを商品化しろ」といわれる。

さらに、それがヒットすると開発課が新設され、軍平さんはそこに配属される。


その後も、軍平さんが電卓が安くなったのを見て「あれをゲームに転用したい」とアイディアを披露すると、すぐにシャープの社長に掛け合って生産の道筋をつけてしまうなど、とにかく動きが速い。


その一方で、慎重にならなくてはならないときは、とことん慎重だった。


ファミコンの開発やゲームボーイの開発では、技術的に限界と思えるところまで突き詰めても社長が「ダメだ」というので開発者が追い詰められた、という話が伝わっている。


また、ゲームボーイに関しては持ち運ぶものなので強度も考慮させるなど、ゲーム機としてよりも「おもちゃとしての」総合性を追求させている。


何かを生み出そうとするときは、いろいろな懸念事項があるが、それを即座に判断し、手早く済ますところはすぐに動き、慎重にならないといけないところは時間をかけてもじっくりと取り組ませる。

そういう采配の出来た人だった。




現社長の岩田さんを見出したのも山内さんだ。

もっとも、岩田さんは HAL研の社長になるよりも前から、ある程度有名人だった。


倒産しそうなHAL研を援助するときの交換条件が、岩田さんをHAL研の社長にすることだった。

岩田さんはもともとプログラマーとして腕の立つ人間だったが、これで経営手腕も身に着けた。


その後、任天堂の社長に指名したのも山内氏だ。


ただ、岩田社長下で大ヒットした DS は、まだ山内氏の指示で開発が始まったものだった。

Wii が岩田氏の本領が発揮されたことになる。


大ヒットではあったが、売れたのは本体だけで、実はソフトがあまり売れなかった、と言う事実もある。

完全に岩田体制で作られた Wii U 、3DS は苦戦している。


任天堂だけでなくゲーム業界全体が斜陽になりつつあるので、岩田さんが悪いわけではない。


軍平さんは、任天堂を「もともとスキマ産業の会社だった」と認識していたようだが、山内氏は「ゲーム会社だ」という。

ただ、どちらも「技術者は最先端技術を使いたがるが、消費者にとってそれは重要ではない」という視点は重なっている。


Wii U だって 3DS だって、別に最先端技術は使っていない。軍平さんの「枯れた技術」の思想は残っている。


だけど、消費者が本当に求めているものを送り出せているのか、と考えると少し疑問を感じる。

最後に厳しいことを言う、山内さんの役割ができていないような気がするのだ。




山内さんは京都の人間だ。

京都の企業人は、ちゃんと人を見る目を持っている、と思う。

軍平さんや岩田さんを見出したのだって、そういうことだろう。


「日本人は実績などばかり気にして人を見ない」とよく言われるのだが、京都の企業は案外人を見ているし、特に任天堂や京セラ、ロームなどは人を見ていると思うのだ。


今訃報記事を読んでいたら、任天堂の山内さん、村田製作所の村田さん、ロームの佐藤さんが、「京都の三大奇人」だそうだ。僕の認識していた京セラは入っていないが、まぁ同じような感じなのだと思う。


人を見ることができる人と言うのは、「そんなんダメだからやめろ」とは言わない。まずはやらせてみる。

やってみてダメならそこで諦めさせるが、いつでも再チャレンジ可能にさせて置く。

上手くいきそうなら、そこで叱咤して慢心させず、さらに良いものを作らせる。


人を使うときの理想だと思う。

一言でいえば「やってみなはれ」だ。


これは誰の言葉だったかな…と思って調べたら、サントリーウヰスキーの鳥井さんらしい。

正確には「やってみなはれ。やらなわからしまへんで」。


サントリーは大阪の企業で、鳥井さんも大阪出身らしい。

言葉は明らかに京都弁だけどな…とおもったら、鳥井さんは大阪でも、京都の文化が濃い地域で生まれ育ったらしい。


やっぱり、京都の人は人を見る目があるのだと思う。


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FireFox 初公開日(2002)  2013-09-23 10:44:24  コンピュータ 今日は何の日

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今日はFireFoxの誕生日。


♪あなたは もう 忘れたかしら~

 WEBブラウザが 有料の時代~


と、唐突に訳の分からない替え歌から。

いや、本当にどれくらいの人が、WEBブラウザが有料だった時代を覚えているのでしょう。


WEB が産声を上げたのは1990年。

多国籍の科学者の集まりである CERNでは、それぞれの所属する国や団体の制約で、科学者が使うコンピューターも、ソフトも、論文の管理方法もバラバラでした。

しかし、科学者同士で論文の交換もできない状態は、仕事に支障をきたします。


そこで、「あらゆるコンピューターで論文が閲覧できるシステム」の作成が行われます。

今回の話の中心ではないので割愛しますが、このシステムが現在の WEBです。



最初の WEB ブラウザは、テキストしか扱えませんでした。

当時のパソコンは、グラフィック機能は本当に千差万別でしたし、論文の閲覧と言う目的ではテキストで十分だったのです。


その一方、最初の WEBクライアント(パソコン側に入れるソフト)は、閲覧だけでなく、編集の機能もありました。

HTMLタグは、あくまでもデータ交換のための中間形式で、論文執筆者はタグを意識する必要はなかったのです。


ただ、最初の時点ではクライアントは NeXTstep (現在の Mac OS X の元になった OS)用しか存在しませんでした。

その後すぐに、目標である「あらゆるコンピューターで」論文が閲覧できるように、クライアントの各種移植が始まります。




初期には本当にいろいろなクライアントが作られましたが、後の方向を決定づけた有力クライアントは 1993年に作られた、Mosaic でした。


#米国立スーパーコンピュータ応用研究所(National Center for Supercomputing Applications)で開発されたため、NCSA Mosaic と呼ばれます。ここでは Mosaic と表記します。


Mosaic は、当初は NeXTstep 用のWEBクライアントを改造し、画像を表示できるようにすることから始まっています。

他にもいろいろな拡張がなされていますが、CERN が WEB を開発した意図を理解しないまま拡張しているため、いろいろ拡張方法に問題がありました。この問題は今でも尾を引いていて、CSSとHTMLの関係がややこしい一因にもなっています。


それはともかく「画像が表示できる」は大ヒットアイディアでした。

そのうえ、Mosaic は Unix / Mac / Win に移植され、本当の意味で「あらゆる環境で」使えるクライアントだったのです。


この Mosaic によって、WEB は一気に普及します。

日本では富士通が権利を取得して日本語対応版を作り、販売されました。


しかし、Mosaic の作者…NeXTstep用に各種改造を取り入れたマーク・アンドリーセンは不満でした。

彼は NCSA に籍を置いていましたが、改造は NCSA の業務ではなく、「面白そうだから」勝手にやっていただけです。

しかし、NCSA は Mosaic が金になりそうだとみるとアンドリーセンから Mosaic を取り上げ、改造を一つ加えるにも稟議を通さなくてはならない状態になりました。




ところで、シリコングラフィックス社(SGI)という会社があります。


世界初の、リアルタイムで3Dグラフィックスを動かせるコンピューターを設計し、NURBUS 曲面を実用化し、任天堂の Nintendo64 の設計も行っています。


この会社を設立したのは、コンピューターグラフィックスを研究していた大学教員、ジェームズ・クラーク。

彼は大学の教員である一方、実業家の側面も持っていました。


SGI は1990年に上場企業となり、彼は大金を手にして経営から離れていました。

そして、Mosaic に出会うのです。この市場はこれから大きくなる。実業家の勘でした。


クラークは、すぐにアンドリーセンに連絡を取ります。

そして、アンドリーセンが NCSA で Mosaic に失望していることを知ると、会社を興して Mosaic を超えるブラウザを作ろう、と持ち掛けます。


詳細は省きますが、これで作られたブラウザが Netsacape Navigator (以下 NNと表記)でした。

あらゆる面で Mosaic を超えるソフトで、あっという間に WEB ブラウザの代名詞となります。


特に、新たに作られた作表機能は WEB の表現力を根本から覆しました。

それまでは「論文のような」つまらない体裁だった WEB が、まるで雑誌の記事のように華やかになったのです。


#table タグを「見た目を整える」のに使うのは、現在推奨されない使い方です。しかし、当時は見た目のコントロールをする方法が他になく、誰もが使ったテクニックでした。



NNは有料のソフトで、パッケージで日本円では5千円程度で売られていました。


当時のパソコンでは、ネット接続の機能がない場合もありました。

しかし、NN を買えばすべてが付いてきます。ネットに接続し、WEB を閲覧し、FTP からファイルを取得し、ネットニュースを購読し、メールができる。

これらすべての機能が、たった一つのプログラムに納められているのです。


たとえ5千円を払っても安いものでした。NN は飛ぶように売れました。


その一方で、NN は利用者の裾野を広げることも忘れていませんでした。

ネット接続などのサポートのない、NN の本体だけの「評価版」は自由にダウンロードし、無料で使うことが出来ました。

ダウンロードできる人はすでにネットに接続できているのでしょうから、これで十分でした。

もっとも、雑誌の付録 CD-ROM などでも配布され、その場合はネット接続できない人は自分でネット環境を構築する必要がありましたが。





ところで、Mosaic の先進性に目を付けていたのはクラークだけではありませんでした。


マイクロソフトは、Mosaic に正式にライセンス料を払い、ソースコード一式を取得します。

そして、これを元に独自開発を進め、Internet Exploler (以下 IEと記述) を開発するのです。


IE は Windows 用しかありませんでしたが、無償で配布されます。

(のちに Mac版も作られました)


ここに、有名な「ブラウザ戦争」が起こります。


NN は、IE の持っていない機能を次々と拡張します。プラグインによる Java のサポート、Javascript のネイティブサポート、Blink タグ

IE は、NN の機能をできるだけ追随し、さらに独自拡張を加えます。Blink は採用されず Marquee を拡張しました。


ついには、似ているのに動作が違うタグが多発、Javascript (名称ライセンスの都合で、IE は Jscript)にも非互換が起き、「あらゆるパソコンで見られる」という WEB の理想が崩れそうになります。



矢継ぎ早の開発に、NN は失速していきます。

マイクロソフトとネットスケープ社では体力が違います。IE はバージョンが上がるごとに安定性が高まるのに対し、NN はバージョンが上がるごとに不安定になっていきました。


IE は当初 Windows とは別物でしたが、Win 98 ではついに OS の一部として組み込まれます。


#Win95からインストールすることで OS を拡張するようにはなっていたが、最初から組み込まれていたのは 98以降。


もう NN は限界でした。




ところで、先日 Linux の初公開日を紹介しました。


Linuxは PC で使える世界初の 32bit UNIX でした。PC 用の BSD は、Linux より後に作られています。

しかし、そのことを差し引いても Linux と BSD の普及には差がありすぎました。


この違いを説明する「伽羅とバザール」という論文が 1997年に発表され、話題となります。


伽羅(がらん)とは仏教寺院などの建築物のこと。厳密な計画によって建造され、建造中も形式に従った祈祷があり、各種チェックが入ります。

完成するものは確かにすばらしいものですが、とかく速度が遅く、完成した時には時代から取り残されていた、と言うことになり兼ねません。


バザールとは、とにかく人が集まる場所のこと。計画なんてなく、その場その場のノリで形成されます。

完成したものは、とりあえずの役には立ちますがひどい部分もあります。でも、そうした部分は時代に合わせて修正され、長い間存続します。


論文は、一部の人たちが完璧を目指して作る…BSD のようなソフトウェアは伽藍であり、ソースを公開してみんなで作るソフトウェア… Linuxのようなものはバザールである、となぞらえたうえで、オープンソースが有用であること、ソースを公開しても企業は収益をあげられることを示していました。


とはいっても、これは実際の企業にとっては机上の空論。

ソフトウェアのソースは、プログラムを販売する企業にとっては一番重要な企業秘密です。それをオープンにすることなどあり得ません。…多くの人がそう思っていました。




限界に来ていた NN は、思い切った起死回生策に打って出ます。

それが「NN のオープンソース化」でした。


営利企業が主力商品を無料にして、改造もできるようにする。当時は驚きを持って報じられました。


ネットスケープ社は、クライアントだけでなく、サーバー側も商品として作っていました。


クライアントを無料にし、オープンソースで開発すれば開発人員を削減できます。

その分を高性能なサーバー開発に割り振り、増大するインターネット需要の中で強固なサーバーを販売する…これが、ネットスケープの新たな販売戦略でした。



しかし、これには批判もありました。すでに肥大化しすぎ、どこに手を加えてもバグが出そうな NN を公開されても、開発者たちに「面白い」部分は残されておらず、失敗するだろう、と言うような批判でした。


オープンソース化の作業は慎重、かつ大胆に進みます。

肥大化したプログラムがバグが出やすく、保守しにくいのは事実です。


NN は解体され、切り刻まれ、単体の「メーラーソフト」と「WEBブラウザ」に切り分けられました。


一度は死んだ NN が復活する…ブラウザは Phoenix(不死鳥)と名付けられていました。



Phoenixの最初のバージョン、0.1 の公開日は、2002年の9月23日、今日でした。

最初に書いた通り、今日は FireFox の初公開日なのです。




あれ? FireFox じゃないの? Phoenix なの?


…そう思いますよね。でも、この名前紆余曲折あったのです。


Phoenixと言う名称、他社の商標を侵害するとわかったため、ver 0.5 までしか使われていません。その後は Firebird(火の鳥)と名前が変更されます。

不死鳥はその身を自ら焼き、炎の中から新たに生まれることで永遠の命を手に入れます。火の鳥と不死鳥は同義語なのです。


この時、同じ由来を持つメーラーも、Thunderbird と名称を変えています(これ以前は Minotaur だった)。

Thunderbird は、ネイティブアメリカンに伝わる雷の精霊です。


セットになっていることを意識した名称だったのでしょう。

火の鳥と雷の鳥、かっこいいじゃないですか。



…しかし、これまた Firebird という名前の別のオープンソースソフトがあることが発覚。

名前の一部を残し、名称は FireFox になります。Thunderbirdの方はそのまま。関連性が無くなりました。


ちなみに、FireFox とはレッサーパンダのこと。


だから、Phoenix = FireFox なのです。Phoenix 0.1 の公開日が、FireFox の初公開日。


その後の FireFox は、再び人気を取り戻し、IE に次ぐ2番手として頑張っています。


#ちなみに僕は FireFox 派ではなく、Chrome 派。

 仕事柄各種ブラウザをPCに入れてあって、用途で使い分けているけどね。


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みどりの窓口開設日(1965)  2013-09-24 10:49:47  コンピュータ 今日は何の日

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みどりの窓口開設日(1965)

今日はみどりの窓口が開設された日です。


みどりの窓口ですよ。さすがに、皆さん知っているでしょ?

今は JR ですが、国鉄時代からありました。指定席券を購入したりする窓口ね。


このみどりの窓口、日本のコンピューター黎明期と深いつながりがあります。

あまり資料がなくて、唯一手元にある資料「計算機屋かく戦えり」の要約みたいになってしまいますが、面白いので紹介しましょう。




話は1950年代にさかのぼります。

小野田セメント(現在の太平洋セメント)で、コンピューターの導入が画策されます。


なんで導入するかと言えば、社長が新しいもの好きだったから(笑)

まぁ、いろんな理由があったのですが、究極的にはこれに尽きます。


ただ、この社長ものすごい先見の明があるのね。

この当時、コンピューターは戦争の道具か、せいぜい先端科学で使われるものでした。

企業でもコンピューターを導入しているところはありましたが、科学計算が必要な研究を行うような企業ばかりの時代です。



小野田セメントは当時次々に全国のセメント会社を買収し、拠点を全国に広げていました。

それに伴い、各事業所の生産管理などの報告に時間がかかるようになっていました。


会社の全体像が把握できなくなれば、適切な経営はできません。

時間がかかるのが当たり前になれば、ノルマが達成できない時に「嘘の報告」を混ぜられても気づきにくくなります。


当時、アメリカではコンピューターを使ったオンラインシステムが、少数ながら動いていました。

適切なオンラインシステムを構築すれば、全国の現場の生のデータが届き、会社の運営に役立つに違いない。これが社長の読みでした。



しかし、先に書いたように、当時はコンピューターをこのような「事務作業」に使うなんて考えられない時代。

まず、IBM がコンピューターを売ってくれません。事務作業なら集計程度だろうから、パンチカードシステムで十分だろう、と言われます。

やっとコンピューターを手に入れても、現場との通信用の回線を電電公社が貸してくれません。電話線に音声以外のものを流して、他の回線にノイズが載ったらどうするのか、と断られます。


さらに、コンピューター本体だけで予算をオーバーしてしまい、全国の営業所に置く端末が開発できなくなります。


小野田セメントでコンピューター導入を行ったのは、当時入社したばかりだった南澤宣郎氏。

セメント会社でコンピューターをやるのは「出世できなくなる」と誰もやりたがらず、まだ社内の状況がわかっていない新入社員に仕事が回ってきたのです。




南澤氏は、難問をひとつづつクリアしていきます。


コンピューターは、IBM には断られたが UNIVAC から入手できました。


電話線が使えないのは、自分たちで専用線を引き、それを電電公社に「寄贈」しました。寄贈した以上は自分たちで引いた線なのに借り賃を払う必要がありますが、通信線の管理を専門の者に任せられることになります。


全国に多数ある事業所にテレタイプ端末を置き、現場からのデータを本社に集中させ、本社で処理したデータを各現場に直接送る、と言うシステムを構築します。


端末は、「開発した端末を他社に売っても構わない」という条件で、無料で共同開発してくれる業者を探します。(コンピューターを事務に使うことなど考えられない時代ですから、一般的な事務用端末も存在せず、開発から行う必要があったのです)


後には IBM や富士通にも同様の依頼を行ったそうですが、その際には「社屋建築の際にはセメントを提供する」という、コンピューターとセメントの物々交換まで駆使したとか。


当時、コンピューターを利用するとは、「報告されたデータを、本社で改めてパンチカードに入力して処理する」ことを意味していました。しかし、そんなことをしていては迅速な経営判断はできません。

現場がタイプしたらそのままコンピューターに入力される、と言うシステムを作り出したことで、生産性は向上します。


これが、日本で最初のオンラインシステムでした。




さて、小野田セメントのオンラインシステムは話題となり、新聞の一面で扱われたりもします。

会社の評判も上がり、この点でも受注は増え、うまく回るようになります。


そうなると、別の組織でもオンラインシステムを構築しようというところが出てきます。

日本で2番目のオンラインシステム導入は、国鉄でした。


当時の国鉄は、名前の通り国が運営していました。現在の JR と違って税金もつかわれています。

税金もつかわれるのだから、思い付きで新しいことを始めることはできません。オンラインシステムを導入するために、多くの学者を交え、国鉄事務近代化委員会が設立されます。


この時、学者に混ざって南澤氏も参画しています。

学者でもない民間人でも、日本でオンラインシステムを構築したノウハウを持つ、たった一人の人物なのです。



当時の国鉄は、座席予約を東京のセンターに集中させ、一括管理していました。

予約の電話は集中管理室に繋がれ、集中管理室では、回転する本棚の周りに10~20人の人が座っています。


本棚には、列車ごとのファイルが納められています。

予約電話が来たら、本棚から列車を探し、そのファイルを開いて空席を探し、そこにペンでチェックを入れて、電話先に座席番号を伝えます。


これで、日本全国どこからでも、間違いなく席の予約が行えます。

しかし、高度経済期で路線も増え、列車の利用者も増える中、このシステムは破綻寸前でした。




国鉄事務近代化委員会は、このシステムの改善をするための委員会でした。

もちろん、南澤氏はコンピューターオンラインシステムの専門家として呼ばれているわけです。


しかし、当時は真空管コンピューターの時代。

「壊れるかもしれないコンピューターを、激しい座席予約業務で使えるわけがない」という人がほとんどでした。


また、窓口の事務員からも反対意見が出ていました。


オンラインシステムが入って合理化されれば、人員が削減されて自分は職を失うかもしれない。

コンピューターのために数値で駅名を入れるなんて、間違いがあったら怖い。

コンピューターのキーボードと言うのはなんだかややこしくて使いたくない。


…などなど、理由は様々でした。


そこで、南澤氏は事務員に確約します。

もしオンラインシステムが導入されても、それは皆さんを激務から解放するためのものであって、人員削減はさせない。

駅名をコード化なんてしないし、キーボードなんてつかわない。今まで通りの作業が、ただちょっと楽になるだけのシステムにする。




南澤氏の考えたシステムはこうです。

それまでは、座席予約をすると切符に「ゴム印」で駅名を押印していました。


そこで、このゴム印の横にギザギザを付けます。

これが2進数のコードになっていて、コンピューターはゴム印を「駅のコード」として認識できるようにします。


事務員が予約を取るため、お客さんの要望を聞き、出発駅と到着駅のゴム印を選びます。

それをシステムに入れると、オンラインですぐに空座席が照会され、座席が取れたらプリントアウトします。


最後に、座席切符にゴム印を押印し、座席番号などを手書きします。

(まだこの時点では、切符にプリントアウトするようなことはできていません)


これなら、集中管理室と電話でやり取りする手間がなくなるだけで、いつもの事務内容とほとんど変わりません。




もう一つの反対意見、「コンピューターは壊れるかもしれない」に対して、南澤氏は「人間だって間違える」と反論します。

その通りです。機械にだけ絶対性を求め、人間には求めないのはおかしな話です。


そのうえで、南澤氏は対案を示しています。

間違えたらダメ、ではなく、間違えても問題がないシステムを構築しなくてはならない、と言うのです。


座席でいえば、各車両の一番前と一番後ろの座席は人気がありません。壁の近くは圧迫感があるためです。

ならば、その座席は予約時に売らないようにして、車掌が任意に割り当てて良い席とします。


もしも座席の二重発行が行われてしまい、座れないお客さんがいたら、車掌が任意の席に案内します。

お客さんが座席を予約するのは、その席でなくてはダメなのではなくて、座りたいからなのです。



…僕、この考え方大好きです。この話読んだの15年くらい前ですけど、その後ずっとトラブルを見るたびに「お客さんはシステムで何をしたいのか」と考えるのが癖になっています




国鉄のこのオンラインシステムは、マルス1と名付けられ、1960年から稼働します。

マルス1は試験的な運用でしたが、これがうまくいったため 徐々に端末を置く駅を増やします。


まずは、大幅にパワーアップされたマルス101。

この日記の冒頭の写真(別ウィンドウで開きます)は、上野の科学博物館に展示されているマルス101です。

写真の後ろ側に、ゴム印の入った棚も確認できます。


そして、1965年の今日、全国の152駅に端末が設置され、そこを「みどりの窓口」と呼ぶようになりました。マルスはバージョンアップされ、この時にはマルス102 となっています。




南澤氏はこの後もオンラインシステムの専門家として活動を始め、銀行のオンラインシステムを構築しています。

現在、日本のどこの銀行でも自分の預金を引き下ろせるのは氏のおかげです。



そうそう、銀行がオンラインシステムを導入する前は、日本各地で銀行の金利は違うのが当たり前でした。


小野田セメントでは日本の企業としては最初に全国の事業所をオンラインシステムで結んだため、この「金利情報」も時々報告させていたそうです。


そして、その時一番金利がよい銀行に、会社の資産を移動します。これだけでもずいぶん儲かり、他の効果と合わせて当時の金額で一億円を超えるコンピューターの導入をなんとか採算に乗せることができたのだとか。


ここら辺、銀行より先にオンラインを組んでしまった強みですし、その運用方法に気づいた南澤氏もすごいと思います。


後日追記 13.09.25

きしもと(@ksmakoto)さんより、国鉄側の状況資料いただきました。


最初に書いた通り、上に書いているのは「計算機屋かく戦えり」に書かれた情報がほとんどです。

そこでは、日本のオンラインコンピューティングの発達史を、南澤氏に直接インタビューしています。


そのため、「みどりの窓口開設日」の話にも関わらず小野田セメントの話や銀行オンラインの話も扱っているわけですが、その一方で肝心の国鉄の話が少ないというアンバランスになってしまっていました。


…で、資料いただいたので織り込もうと思いましたが、今の記述内容に織り込むと煩雑になってわかりにくくなるだけだと思ったため、資料だけ提示します。


興味を持った方は、ぜひこちらもお読みください。


国鉄座席予約システム MARS-1 における技術革新




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シーボルト国外追放の日(1829)  2013-09-25 10:56:38  歯車 今日は何の日

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今日はシーボルトが国外追放になった日。


知ってる人は知っている事件ですね。


長崎の出島に暮らしていたオランダ人医師、シーボルトが帰国しようとした際、船が座礁してしまい、事故の検分の中でシーボルトが「国外への持ち出し禁制品」を多数持ち出そうとしていたことが発覚します。

シーボルトはスパイの容疑がかかり検分を受けますが、その後国外追放となります。


1829年の今日が、その追放が決定された日。




しばらく前から始めた「今日は何の日」では、主にパソコンの歴史を扱ってきましたが、僕は歯車や古いガジェットも好きなのです。「当時の最新技術」が好きだと言ってもいいかな。


その関係もあり、伊能忠敬の話も好きです。

小学校の時に、尊敬する人はだれか尋ねられたら伊能忠敬と答えていたくらい。


#旧友がスポーツ選手や歌手の名前を挙げるのに対し、「好きだというのと尊敬は違う」と思い、歴史上の人物に答えを求めた結果です。

 実のところ、小学生の時は伊能忠敬の業績を正しく理解しておらず、理解できたのは大学生以降。



…話が飛びすぎて理解できませんね。すみません。


伊能忠敬は、江戸時代の末期に日本地図を作製した人です。

日本人は、太閤検地をできる程度には昔から測量技術を持っていました。でも、江戸末期に至るまで、日本の正確な地図は作られていませんでした。


理由はいくつかあります。

まず、田畑を測るのと違い、日本全国となると規模が膨大過ぎること。


昔は藩単位で地図を作ることはありましたが、あまり正確過ぎると他藩が攻め入る際の参考になるかもしれません。

地図が不正確でも、そこに暮らしている自分たちは詳細情報を知っています。

このため、「わざと」不正確にしていた、という理由もあります。


藩の思惑とは関係のない幕府が地図を作ろうにも、上記理由により藩から協力を拒まれることもあり、地図は作成できませんでした。


伊能忠敬は江戸時代の末期に地図を作ります。

明治の開国まではまだ間がありますが、幕府は諸外国が力をつけており、日本も外国からの侵略に備えなくてはならないことをわかっていました。


そこで、伊能忠敬が大役を仰せ使うのです。

忠敬たちは、他藩に警戒されないよう少人数で全国を回り、国防上必要だが、各藩の秘密には触れにくい「海岸線」だけを精密に測量します。


詳細は割愛しますが、この測量の際に、「当時の最先端ハイテク機器」と、「絶対に間違いの起こりえない原始的な方法」の両方を駆使しているのですね。

最新技術と枯れた技術を同時に使って信頼性を担保する、と言うやり方が非常に好きです。

(先に歯車好き、と書いたのはこのあたりのガジェットのことです)


ところで、弟子の一人が間宮林蔵です。彼は蝦夷地(現在の北海道)を測量してまわり、当時半島だと思われていた樺太が、島であることを「発見」しました。

今でも日本では樺太と大陸の間の海を「間宮海峡」と呼んでいます。


弟子たちが手分けして全国を回ったこともあり、日本全図は完成します。

この「伊能図」は驚くほど正確で、今の地図とほとんど変わりません。


#全く余談ですが、80年代のパソコンPC-8801用に「まみりん」というソフトがありました。

 2DのRPGを自作できるソフトで、後の「RPGツクール」に発展するソフトです。

 この「まみりん」は間宮林蔵のこと

 RPG作成ソフトなので「地図を作る」ことにくわえ、当時の蝦夷地が未開の地で「冒険する」必要があったため、間宮林蔵の名が付いたのです。




今日は伊能忠敬の話ではありませんでした (^^;

シーボルトが持ち出そうとした禁制品のなかに、伊能図の写しがあるのです。


先に書いたように、地図は攻め込む相手にとっては非常に重要な情報。

だからこそ幕府は持ち出し禁制品としていましたし、シーボルトはスパイの嫌疑をかけられて厳しく取り調べを受けることになります。



ところで、最初に「シーボルトが帰国しようとした際、船が座礁してしまい」と書きましたが、これは一般に信じられている話。事実は違うようです。(僕も、今調べていて知りました(笑))


間宮林蔵は蝦夷地の測量をしただけでなく、植物標本を採取して帰っています。

シーボルトは、帰国の土産としてこの標本が欲しかったようで、林蔵に贈り物をしています。


しかし、当時は異国人との付き合いは政府に許可がいる時代。林蔵は、この贈り物をもらってよいものかどうか、開封する前に幕府に届け出ます。


幕府が開封すると、シーボルトからの書簡と贈り物の布が入っており、書簡には、高橋景保がシーボルトに伊能図の写しを許可した、と言うことが書かれていました。


景保は伊能忠敬を援助し、伊能図完成に尽力した人物です。

彼は地図の完成を急ぐために樺太近辺の情報が載った書籍をシーボルトにもらい、そのお礼として伊能図を写す許可を与えていました。



これにより高橋景保は投獄され獄死、シーボルトも取り調べを受け、国外追放になったわけです。


#ちなみに、シーボルトはオランダ人を名乗って出島に暮らしましたが、実はドイツ人。

 当時の幕府は、オランダ人以外の異国人が日本に暮らすことを許していなかった。


間宮林蔵を描いた4ページ漫画。

 調査中に見つけて、上手くまとまっているのに感心したのだけど、話のネタバレなので最後に紹介(笑)




ところで、シーボルトの写した伊能図は、江戸近郊の海岸線の形がおかしいそうです。


これは、日本人の測量技術の精度を疑ったシーボルトが、独自に測量を行って描き変えたため。

自分の技術の方が正しい、と信じたのでしょうが、現在では伊能図の方が正確であったとわかっています。


シーボルトは医者であり、植物学者であり、博物学者でした。

当時の日本の資料を多数持ち出そうとしたのもそのため。


スパイ嫌疑が事実だったのかどうかは、すでに誰にもわかりませんが、僕は単に学者の好奇心だったのではないかと思っています。

(もっとも、シーボルトがスパイでなくとも、地図情報が外に持ち出されるのは安全保障上問題があります。この点は禁制品としていた幕府の意図は十分理解できます)


シーボルトは日本で見つけた美しい草、あじさいを「おたくさ」として海外に紹介しています。

後に日本の植物学者、牧野富太郎は、あじさいを「おたくさ」と呼ぶ地方は日本のどこにもないことを示し、これはシーボルトが日本で妻としていた「お滝さん」の名前を取ったのだろうと推測します。


シーボルトはおたくさを学名として付けましたが、日本のあじさいがヨーロッパのハイドランジアの近縁種と判ったため、現在では学名として残っていません。



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ワープロの日  2013-09-26 11:10:02  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、世界初の日本語ワープロが発売された日。

それを記念して、「ワープロの日」にもなっています。


…日本ローカルな機械なのに、世界初って言い方でいいのかな (^^;;


それはさておき、1978年の今日、東芝が日本語ワープロ JW-10 を発売しました。630万円。


もちろんその当時の機械ですからパソコンではありませんし、その後流行するような「パソコンの機能を限定したような」ノート型のワープロでもありません。


当時は、大型のコンピューターでも日本語の処理は難しいものでした。


だいたい、コンピューターで日本語を扱うための JIS 漢字が制定されたのが 1978年。

JW-10 はそれ以前から開発されていたので、独自の漢字コードを使用していました。




日本語が扱えるワープロとしていきなり JW-10 が現れたわけではありません。

これ以前にも、試行錯誤の歴史があります。


元々は「日本語タイプライター」の開発から始まっています。


話は明治維新にまでさかのぼります。

当時、鎖国を解いた日本人は、欧米に対して強いコンプレックスを抱きました。


新たに外国から入ってきたものは何でもありがたがり、日本の伝統は古臭いと捨てようとする動きが、非常に幅広い分野で起こります。

この動きの中で、日本人の中でも、欧米人は頭がよく、日本人は頭が悪い、と考える一派が生まれました。


彼らの主張によれば、欧米人が頭が良い理由の一因として、タイプライターの存在がありました。

タイプライターを使えば、非常に早く文字を記述できます。しかし、日本語では漢字も多く、筆記は遅いです。


このため、欧米人は短い時間で多くの文章を記し、考えることができます。日本人はゆっくりとしか文章が書けないため、思考速度も制限を受けます。

この「考えるスピードに合わせて文字を記述できる」ということが、思考スピードの差だというのです。


#この主張自体は大きく間違ってはいない。思考する際には記述することはかなり有効な手段だし、記述速度によって思考が制限を受けるのも事実である。


このため、日本人もタイプライターを使えば欧米人並みの頭の良さを持てるだろう、と考えられました。

しかし、このための方法論は大きく2つに別れます。


1つは、日本語が扱えるタイプライターを作ろう、と言う動き。

もう1つは、欧米のタイプライターを使えるように、日本語教育を全てローマ字にしよう、と言う動きです。


全てをローマ字にするなんて本末転倒でとんでもない! と思う人も多いかもしれません。

でも、これは当時真剣に議論されたのです。


考えても見てください。長い鎖国を経て、開国したら欧米の技術は非常に進んでおり、アジアには征服されて植民地になっている国もあったのです。

今すぐ日本を欧米並みにしなくては、日本も植民地にされてしまうかもしれません。




結局国語のローマ字化は見送られるわけですが、日本語タイプライターの開発は行われました。

1915年には最初の和文タイプライターが作られています。


ユーザーの操作する「ファインダー」と活字箱が連動していて、板の上に書かれた文字を探します。

活字箱の中から「1文字」だけが抜き出せる機構があるのですが、この1文字は、常にファインダーで示されている文字と一致するようになっています。


そして、ファインダーに付いたボタンを押し込むと、活字が抜き出されて紙に押し付けられます。

これで目的は完了。今でも保存してある博物館などがありますが、使ってみると巧妙な仕組みに感心します。


ところで、いきなり個人的な話ですが、僕の母が若いころに、会社の事務で和文タイプを使っていたそうです。

和文・英文両方できたと自慢されたことがあります。


熟練すると完全に文字の位置を覚えてしまうため、かなりの速度で打てたそうです。しかし、清書用の道具であり、タイプライターのような思考の道具ではありません。




最初期の日本語ワープロは、和文タイプと同じような考え方で作られています。

画像は、1970年の大阪万博で IBM が発表・展示した、日本語入力用キーボードです。

クリックすると、別ウィンドウで拡大画像を表示します。


#写真はWikipediaから引用。現在ドイツ博物館に保存されているそうです。

 発表が万博だった、というのはIBMのインタビュー記事のPDFの22ページより。


キーボードには18×12のキーが配置されて、1つのキーに12文字が印字されています。


和文タイプと同じ考え方で、文字を探し出してボタンを押す方法で入力します。

1ボタンの12文字は3×4に並んで書かれています。

左下のテンキー(実際には12キー)も3×4に並んでおり、併用することで指示された位置の文字が入力されます。


12通りのシフト方法があるので、多段シフトキーボードと呼ばれます。

文字の入力はできますが、もちろん清書用です。


#多段シフトキーボードのテンキー部分が「シフト」に相当する、というのは日本語入力シンポジウムのページの資料、

 HUMAN FACTORS RESEARCH OF JAPANESE KEYBOARDS

 の「その13」のページに書いてありました。




さて、和文タイプも多段シフトも、もっといえば JIS漢字コードも、漢字は音読みの順に並んでいます。

当時は、余りにも膨大な日本語の文字を扱うために、これが当たり前のやり方でした。


IBM が多段シフトキーボードを作成したころから、コンピューターでの文書作成の需要が高まり、各社がワープロの研究を始めます。

「普通の」キーボードで漢字を入力するには、どうすればよいのかが課題でした。


当初の方式は、漢字をカナ2文字で代表させる方法でした。

2ストローク式、と呼ばれます。

たとえば、「あい」と打鍵すれば「愛」と表示されます。50音の組み合わせとすれば、50x50=2500文字が入力できるため、実用性は十分です。


この場合「あい」は必ず「愛」です。「合」と出すには「こう」、「相」とだすには「そう」と入れる必要があります。

あまり使われない文字など、全く読みなどと関係ない入力が必要かもしれず、和文タイプ並みの熟練が必要になります。


そして、やっと今日の話題。JW-10 は「熟語変換」方式でした。

「じゅくご」と入れて変換ボタンを押すと「熟語」と出てきます。


「塾後」と出したいなら、これは2つの言葉ですので「じゅく」と「ご」を別々に入力します。


「あい」と入れて変換ボタンを押せば「愛」と出ますが、さらに変換ボタンを押せば「合」「相」…と、候補を次々出してくれます。



多段シフトでは、シフトを指定した後にキーを押すと、文字が入力されるというルールが決まっていました。

2ストローク式では、キーの数を減らした代わりに、すべてのキーがシフトになったようなものです。やはり2つキーを押すと文字が入力されるというルールが決まっていました。


いずれも、キーを押すと文字が入力される、と言う仕組みです。

ところが、JW-10 の熟語変換は、キーを押してもワープロには文字が入力されませんでした。もちろん、文字は入力されるのですが、ワープロではなく「変換バッファ」に入ります。

そして、変換バッファで漢字を選び、確定するとワープロに入力されます。


この、間に1段階を入れるというのが大発明でした。この発明によって、やっと日本語入力の諸問題は解決の糸口を見つけ、発展していくことになるのです。



…ところで、また個人的な話題。


僕、このワープロ少しだけいじったことがあります。発売から1年後、1979年のことです。

当時の僕は小学生で、家族で遊びに行った東京タワーで「コンピューター展」(名称は不正確)というイベントをやっていて、そこで触らせてもらえたのです。


自分の住所と名前を入力しました。

たしか、住所はひらがなで順次入力したら、そのまま漢字になりました。

名前は、苗字はそのまま出たように思います。下の名前は珍しいので、コンパニオンのお姉さんが別の読みで1文字ずつ出してくれました。


最後に、入力したものをプリントアウトしてもらいました。


…えーと、当時の自分はまだ子供で、これがすごいことだという気持ちはありませんでした (^^;

ひらがなを入れたら漢字になる。コンピューターはそんなこともできるんだなぁ、と言う、淡々とした気持ち。

今は知識があるから、当時の技術でこれをやることがいかに大変だったかわかりますけどね。


この「コンピューター展」では、ワープロだけではなく初めてパソコンに触り、興味を持ったから今の自分がいるのですが…

その話はまたいずれ。近いうちに書く予定です。




さて…「ワープロ」と言いながら、日本語入力の歴史を追っているばかりで、ちっともワープロの話をしていませんね。


実のところ、当時の「ワープロ」とは現代でいうエディタとそれほど変わるものではなくて、技術的にはそれほど難しくないのです。

問題は、アルファベットの文字種が 26文字、大文字小文字や記号を合わせても 7bit あれば収まるのに対し、日本語は 2000文字以上が必要な事。必然的に、ワープロ開発の最大の関心事は、日本語入力の方法だったのです。


もう一度「ワープロ」の定義に立ち返ってみれば、ワープロは「文書を処理する」ためのものです。

欧米人のような、思考を記述できる機械としてのタイプライタを! という願いから始まって、怨念のような開発の歴史により、やっと「清書用の機械」から脱出できたのが JW-10 になります。



その後オフィスコンピューターにもワープロの「ソフト」が作られるようになり、パソコン用にもワープロが作られれます。


1983年、PC-9801用に「松」、PC-100用に JS-WORDが発売されます。

このころ日本語は日本語ワープロの中でだけ使えるものでした。


1985年、JS-WORD のバージョンアップである「一太郎」がPC-9801で発売。

この時に「日本語入力」と「ワープロ」は切り離され、ワープロ以外でも日本語が入力できるようになりました。

この「ワープロ以外でも日本語入力ができる」ということのインパクトは、かなりのものでした。


ライバルの「松」も日本語入力部分を「松茸」として切り離しましたし、UNIX でも漢字変換のみをサポートする「Wnn」が開発されます。


ワープロ全体を作成しなくてよい、漢字変換だけ作ればよい、という方法論が出来上がると、さらにさまざまなアイディアの漢字変換ソフトが現れます。


#漢字変換ソフトは、当時は FEP(Front-End Processor:コンピューターの、一番人間側に位置する、と言う意味合い)と呼ばれました。

 現代では IM (Input Method:入力方法) とか、IME (Input Method Ediror:入力エディタ)と呼ばれます。


#興味ある方はこちらもどうぞ。日本語入力プログラムの歴史




ところで、和文タイプライタや多段シフトキーボード、2ストローク入力には、現代的な「漢字変換」にはない、非常に重要な特徴があります。


漢字変換では、目で見て文字を確定しなくてはなりません。構文解析や学習機能により、同じ読みを入力しても違う漢字が出ますので、確認は絶対必要です。


しかし、昔の技術は「直接漢字を選び出す」方法で作られているため、覚えるまでは大変ですが、覚えてしまうと確認なしに入力ができるようになるのです。


確認が必ず必要、というのは、速度の低下を招きます。

「思考のための機械」と考えた場合、思考を邪魔するかもしれません。



話題の締めとして、この問題を解決した漢字入力方法、「風」を紹介します。

多段シフトキーボードのアイディアを拡張し「超多段シフト入力」と呼ばれる方法を採用した漢字変換ソフトです。


基本は単漢字変換です。漢字の読みを入れて変換すると、漢字1文字に変換します。

同じ読みの漢字が複数あるばあい、通常ならリスト表示されて選択するわけですが、「風」では、この選択方法が「キーボードのキーに漢字が直接対応する」ことで行われます。


この際、学習機能などは一切なく、漢字は常に同じキーに割り振られます。

違う読みで呼び出した場合も、同じ漢字は常に同じキーになるように工夫されています。


非常に単純な機能ですが、同じ漢字を呼び出す方法は常に同じなため、覚えてしまえば高速に入力できるようになります。


「覚えてしまえば」なら2ストローク入力でいいじゃん…と言われそうですが、2ストロークとの違いは、読みを入れれば一応メニューは出る(仮想キーボードが表示される)ため、慣れない漢字でもちゃんと入力できることです。

メニューの表示までには少し遅延があるため、覚えている漢字を入力している限りはメニューは表示されず、快適に入力できます。



このアイディア、非常に面白いと思います。

…まぁ、僕はアイディアに感心しただけで、使ってはいないのですけど (^^;;


#MS-DOS 時代に知って、今はもうないのだと思っていたら、Windows でも販売されていました。

 詳細は、開発者のサイト風のくにへ。

 


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ラリーウォールの誕生日(1954)  2013-09-27 11:08:36  コンピュータ 今日は何の日

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今日は…いろいろありすぎ!

GNUプロジェクトが開始された日であり、Googleの誕生日であり、ラリー・ウォールの誕生日であり、アラン・シュガートの誕生日でもある。


アランシュガートは、ハードディスクの研究者で、フロッピーディスクの開発者で、Seagate の創始者ね。

彼がいなくては今の生活はないとは思うけど、僕の知識不足であまり語れることがない (^^;


GNU と Google は誰かが書きそうだから、僕はラリーについて書こう。

(もっとも、彼についてもそれほど知らないので、Perlの話と雑文だらけになるけど)




ラリーウォール(Larry Wall)は、Perlの作者だ。


プログラムの差分を配布する際に使用されるツール、patch の作者でもあるし、rn の作者でもあるし、国際難解Cコードコンテストで2回も入賞している。


簡単に言えば、「凄腕のハッカーだ」となる。



まずは rn から行こうか。僕は、rn の実物は使ったことがない…とおもう。

もしかしたら、大学のころに少しくらい使ったかもしれない。


その昔(今でもあるが)インターネット上には、「ネットニュース」と呼ばれるシステムがあった。

掲示板みたいなものなんだけど、どこかにホストがあるのではなく、分散してデータを保持していた。


rn は、このニュースを読んだり書いたりするためのソフト。

Usenet 用の…という表記をよく見るけど、Usenet とネットニュースが同一視されていた時代がある(いまも、WEBとインターネットを同一視する場合があるでしょ?)ために混同されているだけ。


Usenet は ARPANET とは「別に」インターネットの母体となったもう一つのネットで、いつか話をしたいところだけど今日は割愛。



そしてまた、ラリーは patch も作った。

これは、ソフトウェアを配布するときに、劇的な圧縮をかけてくれるツールだ。


…といっても、圧縮ツールではない。

2つのファイルの差を見つけ出し、出力してくれる、と言うソフトは以前からあった。

だから、ラリーはその逆をやったんだ。


差を見つけ出すソフトが出力したファイルを patch に入力すると、「以前のソフト」を元に「新しいソフト」を作り出してくれる。

プログラムを配布するときは、以前と変わった部分だけを配布すればよいことになる。

これは、劇的な圧縮方法だった。


patch は今でも UNIX の重要なツールとして使われている。




ところで、僕は rn のソースコードを読んだことはないのだが、「えぐい」ものだったらしい。

出来の悪いコードだという意味ではなく、感動的だったというのだから、おそらくは常軌を逸した方法で最適化されていたのだろう。


というわけで、ラリーのもう一つの顔、国際難解Cコードコンテンスト(The International Obfuscated C Code Contest : 以下 IOCCC と表記する)の入賞のお話に移ろう。


IOCCCは、C言語ハッカーたちのお祭り。Wikipediaによれば、お祭りと言っても「奇祭」だそうだ。


単にC言語でプログラムが組める、と言うレベルではなく、C言語の仕様の詳細まで知り尽くしたばかりか、その仕様の本当の意味を理解し、故意に変な書き方をしたプログラムを作る、というコンテストだ。

目的の一つには、Cの奥深さを引き出すことがある。別の側面としては、どうすれば「読みにくいコード」になるかを示すことで、読みやすいソースコードの普及を促す、という皮肉がある。

とにかく、単に難解なプログラムを書くのではなく、審査を行う凄腕ハッカー達をうならせるほどの技法を見せつけなくてはならない。


ラリーはこのコンテストで1986年と1987年に入賞している。

ソースコードも公開されているのだけど、見てもさっぱりわからない(笑)


ちなみに、ANSI C ができたのは 1989年なので、プログラムは K&R で書かれている。

1987年の作品は Linux 上の GCCでワーニングが出たがコンパイルできた。1986年のものは、コンパイルすらできなかった。

GCC は K&R のプログラムでもコンパイル可能なように作られているが、ここまで変態だと厳しいようだ。

そして、修正しようにも中身が理解できていないので修正できない (x_x)




1987年の作品、コンパイル後を wall と言う名前だとして


wall | bc | wall


として起動すると、ローマ数字計算機になる。

x*x (10*10の意味)を入力すれば c (100) と出るし、c^2 とすれば mmmmmmmmmm (1000*10)と出る。


ところで、UNIX コマンドの bc は計算機だ。つまり、wall はローマ字数字を算用数字に直しているに過ぎない。


じゃぁ、wall | bc とすると、今度は 100 、 10000 と普通に答えを出してくれる。

面白がって mcmlxxxvii と入れると、 1987 と出た。


#ローマ数字でこの文字列を思い出す人は、往年のナムコマニアに違いない。


ところで、最初の例を見る限り、wall は bc の値を受け取ってローマ数字に変換する役割も負っているようだ。


そこで、今度は wall だけを起動し、1987 と入力してみる。mcmlxxxvii と出力される。


なるほどなるほど。おそらく、入力がアルファベットか数字かで動作を変えているのだな、と推測し、再び mcmlxxxvii と入れてみる。


…あれ、何も出ない。x と入れても、 c と入れても何も出ない。

いったいどうなっているの?


実は、ここら辺が、このプログラムが入賞した理由。ローマ数字と算用数字の相互変換くらい、ちょっとしたハッカーなら簡単に作れるし、そのコードをあえて難解にするのも難しくはない。

それだけでは入賞なんてしない。


このプログラム、動作の切り替え方法がちょっと変わっているのだ。

入力された文字によって動作を切り替えるのではなく、標準出力がリダイレクトされているかどうかで動作を変えている。


だから、 wall | cat として x や c を入れると、何をやっているか見える。

ローマ数字から数字への変換はかなりスマートだが、こちらは bc への入力を前提にしているため、かなり強引だ。そして、この強引さを普通は見えないように隠しているわけだ。


すごいプログラムだ。でも、参考にしてはいけない。

IOCCC は、「やってはいけない」技法を競うコンテストなのだから。




さぁ、最後に perl の話をしよう。

少し前なら、perl はネット上のいたるところで使われていた。だから説明は不要だったけど、今だと少し説明した方がいいかな。


perl は、ラリーが作ったプログラム言語だ。

もちろん、IOCCCで入賞するような「イカレた」ハッカーが作ったものなので、普通ではない。


perl はテキスト処理のための言語だ。

たとえば、テキストファイルで書かれた、なんらかのデータベースがあったとする。

自分なりに書式を定めて作ったが、テキストなのでかなり自由に記述しているとしよう。


このテキストのデータベースから、特定の条件に合ったデータだけを取り出して、必要な部分だけをまとめたい。

テキストが小さければ自分でエディタで頑張ればいいのだけど、10万件もデータが入っていると現実的ではない。

そういう時、perl があればすごく役に立つ。


実は、同じ目的で作られた言語に awk がある。awk は非常に便利なのだけど、基本的に「1行1データ」で、「項目はタブやカンマで区切られている」ことを前提にしていた。

また、ファイルとしては1つだけ、を前提にしている。


実は、今でもこの前提に当てはまるときは awk の方がずっと簡単に処理ができるのだけど、制限を超えたとたんに awk では扱いが難しくなる。


perl は、そういう時に役立つ言語だ。




perl が「イカれてる」と僕が感じたのは、文法構造が無茶苦茶で、大胆な省略が可能なところだ。


perl は、様々なソフトから、便利だと思う機能を持ってきてくっつけてある。

その際、「機能を」追加するだけではなく、コマンドなどもそのまま持ってきてある。だから元のツールを知っていれば、習得時間が最小限で済む。


その反面、文法構造がツギハギだらけで無茶苦茶だ。それを強引にまとめ上げ、非常に強力な言語に仕上げているあたりがすごい。


さらにすごいのが、perl は省略がいろいろと可能だと言うことだ。

普通プログラムと言うのは細かな部分まで指定してやらないと動かない。コンピューターは基本的にバカなもので、教えたこと以外出来ないのだから。


でも、perl を使うと、当たり前にやっておいてほしいことは、省略して構わない。

省略された部分は perl の方で勝手に察して、よきに計らってくれる。


もちろん、これを使いこなすには省略のルールをある程度把握していないといけないのだけど、これが使っていて非常に便利なのだ。


今は少し下火になったとは言え、perl が一時期もてはやされたのは、強引にいろんな機能をまとめ上げ、大胆な省略を可能にしたセンスが非常によかったからだと思う。


#もちろん、WEB 黎明期の時流に乗った、という要素も大きいけど。




CPAN と perl 6 の話もしたかったけど、長くなりすぎたのでここらへんで一区切りにしよう。

今日はラリーウォールの誕生日祝いで、perl の話ばかりにしたいわけではないから。


これらの話は、またいつか。



公開から1時間後に追記


書こうと思っていた「プログラマ3大美徳」を書き忘れていた。

ラリーウォールが提唱したもので、次の3つのものは、プログラマが心がけるべき美徳である。


・怠惰

・短気

・傲慢


怠惰であれば、面倒くさいからコンピューターにやらせてしまえ、と考えてよいプログラムを作り出すし、後で質問が来るのを嫌がってドキュメントを残す。


短気であれば、今目の前にあるコンピューターの動作に怒り出し、「もっと良いもの」を作り上げるし、まだ起こってもいない問題を想定して将来性のあるプログラムを書く。


傲慢であれば、自分の作ったプログラムを素晴らしいと考えて公開するし、人に見せつけてやるつもりで保守性の良いプログラムを作り出す。


プログラマーはみな、怠惰で、短期で、傲慢であるべきだ。

僕がそうなれているかと言えば、なろうと努力しているけどなかなか難しいですね (^^;


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パソコン記念日  2013-09-28 06:04:54  コンピュータ 今日は何の日

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今日はパソコン記念日。


PC-8001の発売日を記念して定められた…と言うことになっているのですが、発売日は確定できないようです

まぁ、一応当時のNECの支配人の「記憶」ではこの日だったようなのですが。


リンク先に調査結果がありますが、すごいなぁ。

こうした細かなことを突き詰められる人、偉いと思います。


さて、以下の内容は、上のリンクを見る前に、数日前に今日発表用に書きあげてあったものです。

今日が発売日、ということで書かれていますが、ご容赦ください。




今日はパソコン記念日。

PC-8001の発売日を記念して定められました。


これは…僕なんかより語るのに適した人がいっぱいいるように思います。

古いコンピューターは好きだし、高校の部活で所有していたので PC-8001 もかなり使い倒したけど、当時所有はしていなかったので。

所有していた人は多い機械ですからね。その人たちの方が語るに適していると思います。




なので、ざっくりと…

NEC の TK-80 が日本で最初の「パソコン」なのは結構有名な話です。


これは、NEC のマイクロコンピューター販売部が作ったものでした。


マイクロコンピューター、とは、この当時まったく新しい半導体であった「1chip CPU」のこと。

まだ新しすぎて応用用途も思いつかないような、新しい半導体の販売を促進するための部署でした。


新しくて応用が思いつかないなら、まずはこの技術に慣れてもらおう、とまずは技術者向けの教材の販売を行うことにします。

これが TK-80 。TK という型番もトレーニングキットの略で、組み立ても自分で行うものでした。


これが予想外の(?)大ヒット。単に技術者向けの教材の枠を超え、パソコンを使ってみたい、と言う層に訴求します。

のちに、ベーシックを使えるようにする拡張セット TK-80BS を発売し、最初から BS 内臓で組み立て済みの COMPO BS/80 も発売されます。


しかし、COMPO BS/80 発売に至るまでの裏で、TK-80 を作った技術者たちは新しいマシンを開発していました。


そのマシンは、すでに組み立て済みで、BASIC が最初から使えるようになっていて、カラーも出力できる「パソコン」でした。

問題はここにあって、すでに販売促進のための部署が扱うようなものではなくなっていたのです。


紆余曲折があり、新しいパソコンは子会社の新日本電気の扱いとし、販売だけを NEC で行う形で発売にこぎつけます。

これ、まったく新しい商品を作って、大コケしたら新日本電気が倒産するだけで、NECの業績には影響がないように…という思惑です (^^;


これが PC-8001 でした。


COMPO BS/80 の発売は1979年の4月。そして PC-8001の発表は5月。

値段は PC-8001 の方が安いのに、性能は上でした。


この後も TK-80 のシリーズは発売されるのですが、市場は完全に PC-8001 に移行します。

9月28日に発売された PC-8001は大ヒット商品となり、人気は1年以上続きます。


TK-80 は、販売時期だけでいえば「日本初」です。しかし、誰もが扱える製品ではなく、部品を集めてあるだけの「半製品」でした。


PC-8001 は、買ってくれば誰でも使える製品でした。

さらに、この後に書きますが、PC-8001 をきっかけとして多くのコンピューターが作られていきます。


PC-8001 の発売日が「パソコン記念日」とされているのは、そのような理由からです。




実は、PC-8001 を任された時点で、新日本電気は独自にパソコンを設計していました。


せっかく PC-8001 を任されたのだからと互換性のある BASIC を搭載しようとするのですが、これには親会社である NEC の許可が出ません。


PC-8001 以上の性能を持つのはダメ。互換があってもダメ。廉価版もダメ。NEC から見れば、せっかく人気の出ている PC-8001 を脅かす存在はいらないのです。


最終的に、予定よりも大幅に性能を落とし、PC-8001 との互換性も切り捨て、値段を下げた「ホビーパソコン」として PC-6001 が発売されます。




一方で、同じ NEC 社内でも、大型コンピューターを作っていた情報処理部門も PC-8001 をほおっておくことはできなくなります。

人気のある安いパソコンがある、ということで、顧客からの注目も高くなっているのです。


しかし、大型コンピューターの端末として使ったり、単独でビジネス処理をさせるには、PC-8001 では力不足でした。

そこで、情報処理部門は、PC-8001 互換の BASIC を搭載し、よりパワフルな 16bit 機の開発を開始します。


これが後の PC-9801 です。


実は、PC-9801 の開発は、社内的に極秘だったと言います。


顧客からの注目を考えれば、PC-8001 との互換性は絶対に必要です。

しかし、PC-6001 が PC-8001 との互換を許されなかったように、事前に「互換性計画」がばれてしまえば、止められる危険性があるのです。


最終的には、完全な互換機として仕上がるまで社内的には極秘、さらに PC-8001 と、その後継機である PC-8801 の両機種と BASIC レベルで互換性を持つ、という機械に仕上がります。


完成後に社内でお披露目がされたときには PC-8001 を作った人たちは慌てたようですが、すでに完成したものを止めることもできません。そのまま発売となりました。

(ここらへん、社内的に情報処理部の方が力が強かったという事情もあるようですが)


1990年代は、完全に PC-9801 の時代でした。




あれ? 最初に TK-80 と PC-8001 を開発した人たちはどうなったの?


…大丈夫。PC-8001 の大ヒットで、NEC 内でも正式にパソコンの開発部署ができました。


ただし、PC-8001 と PC-6001 は、すでに新日本電気に任せています。

16bit 機は情報処理部門が設計しています。


パソコン開発部署は「この中間」の機械を作ることになりました。

家庭用だけど、ビジネスに使うこともできる程度の性能を持つマシンの開発です。


これで生み出されたのが、まずは 8bit ながら高性能の PC-8801。

これは PC-8001 以上の大ヒットで、1980 年代後半の標準的なマシンになりました。



そして、もうひとつ、16bit ながらホビー用途を志向した PC-100。

これは…多分ほとんどの人が知りませんね。

専用に開発された多数の LSI を搭載し、性能もすごかったけど値段もすごかったマシンです。


唯一の誤算は、マイクロソフトが担当した専用 OS が開発に失敗したこと。

専用 OS がないために本来の性能を引き出すことができず、MS-DOS で使うには PC-9801 と競合してしまうため、結果として葬り去られることになったのです。


マイクロソフトが作成していた専用 OS は、後に IBM PC で動作するようになり、Windows 1.0 の名前で発売されます。


#後に PC-8801 のシリーズも、新日本電気が改名した日本電気ホームエレクトロニクスに移されている。

 パソコン部署がどうなったのかは不明。今回の主な情報源にしている「パソコン創世記」では、PC-9801に至るまでの歴史が主題であり、そこまで追いかけていないため。




唐突に個人的な話を。


僕、多分なのですが、発売直後に PC-8001 を触っているように思います。


つい先日、ワープロの日に書いたのですが1979年暮(もしかしたら 1980年の初頭)に、東京タワーでパソコン展が行われていました。


この時に、NEC のブースで、パソコンのゲームを遊んでいるのです。

カーレースゲーム、と説明にあったのですが、車は上から下に向かって走っていました。


…表現的には、下から上にスクロールしていた、と言ったほうが良いでしょう。

カーレースと言いながら他の車はなく、障害物を避けるゲームでした。


普通は下から上に走るのに、なんで逆なのだろう、他の車は出ないのだろうか…などと思ったのですが、とにかくこれが初めて触ったパソコンでした。



おぼろげな記憶で、パソコンの形状などは正確に覚えていません。


高校生くらいの時になんとなくパソコンの歴史年表を見て、時代的に TK-80 かなぁ、でもしっかりした筐体に納められていたから、COMPO BS/80かなぁ…などと思っていたのですが…


今考えると、カラーが出ていました。となると TK-80 ではなく、PC-8001 です。


高校の時になぜ PC-8001 だと思わなかったのかは不明。年表に載っていなかったのかなぁ…

(PC-8801 が全盛の時代だったから、PC-8001 が無視される傾向だったのかも)




PC-100、PC-6001、PC-8001、PC-8801、PC-9801 …


以上が、1979年の今日発売された、PC-8001 をきっかけとして生み出されたマシンシリーズたちです。

PC-100 を除けば後継機もたくさん作られ、一時は「月刊NEC」と呼ばれるほど新製品を発表していました。


なるほど、「元祖」にあたる PC-8001 の発売日が「記念」されるわけです。


以上、もっと詳細を知りたい方は、パソコン創世記をどうぞ。現在は無料で公開されています。

(僕は Mac 版を買って置いてありますが、OldMac 用なのですでに読めません (^^; 無料公開は助かります)


先日亡くなった富田倫生氏の力作です。


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小さな冒険  2013-09-28 21:40:38  家族

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小さな冒険

目的地が決まっていれば「旅」だが、手段だけが決まっていれば「冒険」だと思う。


次女が、近所の高圧電線を見て「どこまで行ってるの?」と聞いてきたのは1か月ほど前。

じゃぁ、今度電線を追いかけて確かめてみよう、と約束した。


今日、家族で高圧電線を追いかける冒険に出かけてみた。


目的地は決めない。ただ高圧電線をたどっていくだけの、小さな冒険。


実は、子供には言っていないが、あらかじめ Google Map で調べてある。

どこまで追いかけてもきりがないことはわかっているが、適当に切り上げて帰ればよいだろう。



家族みんなで自転車で出かける。

長男は自分の自転車。長女と次女は、僕と妻の自転車に分乗。


最初のうちは近所だから、長男も自分で走りなれた道。

家の近所から電線を追いつつ、通いなれた保育園を通り、公園を通り…


いつもの知っている道でも、鉄塔を見つけながら、その鉄塔の番号を確認しながら進むのは新鮮だ。


長男が知らない道に入ってしばらく行くと、冒頭に示した写真の変電所があった。

結構家の近所なのだが、僕もここは知らなかった。(妻は知っていたらしい)


変電所がなには変わっていない長男に、変電所の役割を教える。

冒険旅行は社会科見学でもあるし、「電圧」とは何かを教える理科にもなる。




この変電所から家の近所まで電気が来ていることはわかった。

つづいて、この変電所にはどこから電気が来ているのか、追い続ける。


僕が小学生のころ住んでいた町に入る。

友人の家の前の抜け、友人が通っていた高校の前を抜け、長男が生まれた時に住んでいたアパートを抜け…


かなり走り、長男が疲れてきた。

電線はまだ続くが、この後は延々上り坂だ、と判っている。


旅の提案者の次女に聞くと、おなかすいたからもう終わりでもいいという。


コンビニで弁当を買い、近くの公園で食べる。

(昔住んでいた町なので、大きな公園があることも知っていた)


子供たちは、はじめて来た公園にはしゃいで遊んでいる。


とりあえず、旅の終わりは初めて見た公園。

「また遊びに来たい」と次女は言った。何かの機会があれば、それもいいだろう。


街の中でも、こういう無目的な冒険は楽しい。

今度は川沿いにひたすら走るとか、やってみようかな。



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CERN発足の日(1954)  2013-09-29 09:23:28  今日は何の日

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先週末にやっていた NHKスペシャル、「神の数式」を、1週間遅れでやっと見た。

録画はしてあったのだけど、見る時間がなくて。


専門にやっている方から見ると、あそこがちがう、ここが違うといろいろお叱りもあるようだ。


でも、テレビと言うものは事実を伝えるものではない、と思っている。

ちゃんと興味を持った人は自分で書籍を読んでもらうことにして、その「興味」の入り口を示す。


そういう意味では成功しているように…思う?

僕はもともと好きな分野で、多少断片的な知識があったので「断片が組み合わさった」面白さがあったのだが、妻には難しかったらしい。




神の数式の話は今回の主題ではない。


ざっと説明すれば、ミクロの世界の素粒子物理を追いかけ、ヒッグス粒子を提唱した人々の話が1日目。

マクロの世界である相対性理論をミクロの世界の1日目の式を合体させようと頑張った人々の話が2日目の、2回シリーズだった。


素粒子と相対性理論をうまく統合できた理論が超弦理論。

昔、大統一理論、って概念で呼ばれていたものと同一なのかなぁ。素粒子世界と相対性理論を統合する理論を学者たちが探している、という文脈で、中学のころに聞いていたような気がする。


高校から大学くらいには超弦理論がホットトピックだった気がするので、大統一理論を探し求め、超弦理論として見出された、と言うところか。


当時は、理論としては綺麗だけど確かめようがないから似非科学だ、と言う批判もあったようだけど、現在は実験での検証方法が提唱されて確認中のようだ。


非常に難解で、常識と乖離する式を確認するために、その確認施設もやたら大掛かりになる。




で、今日の話題。CERN 発足の日。

1954年の今日、欧州原子核研究機構(フランス語の頭文字を取り、CERN)が設立されました。


神の数式でも登場していた。

素粒子物理は主に理論(数式)が先攻し、それが正しいかどうかを実験で確かめる形で発展してきた。


ただ、この実験装置、やたら巨大で金がかかる。

各国が独自にやるのは無駄も多いので、主にヨーロッパの国が集まって研究施設を作った。

それが CERN 。今でも中心は欧州の国だけど、施設は世界中の国が利用している。


近年、「最後の素粒子」と考えられていたヒッグス粒子を検出して話題になりました。



この CERN 、様々な国の集まりなので、各国の予算や方針の問題から、科学者同士のコミュニケーションが取りにくい、と言う問題がある。


別に国家機密の壁とかではなく、科学者同士はフレンドリーに活発な議論を行っている。

でも、1980年代ごろ、各国が使うコンピューターが違うため、お互いの論文を見せ合うのも大変だ、と言う事態になった。


これで WEB が作られた、と言う話は先日やった。コンピューターを問わず、すぐに論文を取り出し、閲覧できるネットワーク。

CERN は素粒子の研究ばかりやっている縁遠い存在ではなく、今の我々の生活に直接影響を与えているのだ。



素粒子物理で使う巨大な道具(大型加速器、と呼ばれる)、CERN では近年ヒッグス粒子を発見したものを作ったばかりだが、すでに「もっとパワフル」なものが求められている。


CERN は、せっかく作った機械をもう少し使って研究を続けるつもり。

世界中の科学者が、別の国に作ろうよ、と話し合いで決めている。


アメリカには、すでに別の大型加速器がある。

でも、アジアにはまだ加速器がない。



じゃぁ、日本に作ろう、と言う話が出ている。

すでに国内の学者が検討を行い、東北地方(岩手~宮城)が地盤的にも、他の諸条件的にも良い、と提案している


もしそのとおりになれば、世界中の学者が研究のために集まり、それを支えるために超ハイテク都市が1つ東北に生まれることになる。

東北に雇用が生まれるし、外貨も獲得できるかもしれない。建設のために税金が大量につぎ込まれ、経済も回り始めるだろう。


でも、国内ではまだ全然議論が進んでいないし、こういう話が持ち上がっている、ということすら知らない人の方が多いだろう。

国としても、今後数年かけて検討することになっている。


税金をつぎ込んで、ちゃんと役立つ土木工事をやって、その経済波及効果と海外からの研究者の受け入れで落とされる外貨を見込んで、さらには日本が大きな技術を入手することを考慮して…


計算は大変そうだけど、だれかが投入コスト(税金)対入手できるものを比較し、メリットが上回るなら投資、というのが正しい手順なのだろうな。


多分、主に感情論で決定されそうな気がするけど。


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名前 内容

日本最初のホームページ開設日(1992)  2013-09-30 06:03:11  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、日本で最初のホームページが開設された日。


昨日書いたばかりのCERNWEBを開発したのが 1991年。

当初は、CERNに置かれたサーバーに論文などを置いておき、世界中の研究者がブラウザを使って閲覧できる、という利用方法でした。


しかし、このシステムが便利だとわかってくると、各国の CERN 関連組織でも独自にサーバーを立てるようになってきました。


日本でも、1992年の9月30日に、文部省高エネルギー加速器研究機構 計算科学センターにサーバーが作られます。

作業を行ったのは森田洋平博士。


そして、博士が作ったのが、日本最初のホームページとなりました。



この時点では、WEB 技術は使ってもよいものかどうか、実はまだグレーゾーン。

CERN で、世界中の科学者が使うために開発されたシステムですが、システムの利用ルールが明確になっていなかったのです。


科学者に対しては、もちろんシステムを使用するように CERN 側が呼びかけていました。そのために作ったのですから。


でも、個人が使ったら? 企業が使ったら?

後で特許料を請求される…と言う可能性あってありました。


この不安を払拭するため、1993年の4月30日、CERN は WEB技術がパブリックドメイン(公共に属するもの)であり、使用するのに特許料などを支払う必要はない、と明言します。


これを受けて Mosaic などの開発が行われ、WEB は急速に普及していきます。


以降の歴史は、FireFox初公開日に書いた通りです。




ところで、現代でも「ホームページ」ということはありますが、「WEBページ」という言い方も増えました。

昔は、みんなホームページって言ってましたね。


先にリンクしたページが「日本最初のホームページ」と書いてあるのも、このページが作られた当時は、ホームページと呼ぶのが普通だったためです。


厳密に言えば、WEBページの方が正しい言い方。

ただ、自分のWEBページ階層の一番上(本でいえば表紙)に「○○のホームページ」と書く人が非常に多く、これを見た人は「あぁ、こういうのをホームページと呼ぶのか」と理解したのではないのかな、と思います。


じゃぁ、初期にホームページと書いた人が間違えているのかと言うと、そうではないのです。

「誰かのホームページ」と言う概念はちゃんと存在しているのだけど、誰かを特定しないホームページは存在しない。

だから、単に「ホームページ」と呼ぶのは誤りで、その場合は WEB ページと呼ぶべきなのだけど、「僕のホームページ」は誤りではない。



…ややこしいですね。

この概念、UNIX のホームディレクトリから来ています。

最初の頃は、WEBサーバーは UNIX でしか動かなかったから。


ディレクトリ、というのは、ファイルをまとめて管理しやすくするための単位。

Mac や Windows ではフォルダ、と呼ばれる概念と、大体同じです。


#厳密には違うのだけど、今は厳密な話をしたいのではないので。


UNIX は、1つのマシンを多くの人が同時に使えます。

その際、各個人には「ホームディレクトリ」というものが与えられ、自分のデータはホームディレクトリ下に保存します。


UNIX では、概念的に「現在自分がいる(簡単に参照できる)ディレクトリ」と言うものが重要なのですが、その概念の上でもホームディレクトリは特別です。


コンピューターを使い始める(ログインする)と、まずホームディレクトリにいる状態から始まります。

そこから自由に移動することができますが、自分のホームディレクトリには、すぐに戻ることができます。


他の人のホームディレクトリも、ユーザーの名前で簡単に参照できます。

ユーザー名と、その人の所持するデータと、ホームディレクトリは密接な関係にあるのです。


ここで、「ホームディレクトリ」と言う言葉は、2つの意味を持っています。

ログインしたり、自分のホームに戻ったり、人のホームを参照したりするときに使われる「ホームディレクトリ」は、ある一点のみを示した、狭い意味を持ちます。


一方で、狭い意味のホームディレクトリの下に展開された、すべてのデータを示して「ホームディレクトリ」と呼ぶ場合もあります。

自分が管理している、自分の家、と言う意味です。




WEB のホームページも同様です。

ある人が管理する WEB ページの集まりがあり、それをその人の「ホームページ」と呼びます。

全体をホームページと呼ぶ場合もありますし、表紙に当たる部分のみを呼ぶ場合もあります。


いずれにしても、誰かが管理するものが、その誰かのホームページである、という概念は、ホームディレクトリーの概念から類推すれば、別におかしなものではありません。


ちなみに、UNIX 上のサーバーでは、各自のホームディレクトリ下の特別なディレクトリを、ホームページとして公開できるような設定が普通でした。

この意味においても、「ホームページ」と「ホームディレクトリ」は擬似概念でした。



「ホームページと呼ぶのはやめよう」という動きがあったのは…2000年代半ばまでだったように思うので、もう7年くらい前でしょうか。

ヒューレットパッカード 社(HP)が、ホームページ (HP) は紛らわしいからやめてくれ、と運動の先鋒を切っていたように思います(笑)


今でもホームページという言葉も使われていますが、WEBページが正しいという認識はかなり広まったように思います。


自分の管理しているページをホームページと言うのはおかしくないのに、うっかりホームページと言おうものなら「WEBページが正しい」と誤った突っ込みを受けそうなくらいです。



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