2016年09月20日の日記です


パラリンピック  2016-09-20 18:08:21  その他

パラリンピックが閉会した。

オリンピックに引き続き、子供と楽しく見させていただいた。


選手、ならびに関係者の皆様、お疲れ様でした。



僕は運動が苦手だし、野球やサッカーを観戦する趣味もあまりない。

なんか、どこかのチームや団体に思い入れる、ということができないのね。冷めてる。


でも、良く組み立てられたルールのゲームで、熟練したプレイヤーが戦うのは、見ていて面白い。

見ているこちらとしてはそれほどルールの知識がないので、最初は何やっているんだかわからない。


だけど、意味不明と思っていた行動の理由を考えていて、解説者の言葉などでルールを知った時に全てがつながると、非常に面白く感じる。




パラリンピックでは、車椅子ラグビーのルールの巧妙さに唸った。


ラグビー、と言っていたのに、ラグビーらしくない。むしろバスケットボールのようなゲーム性を感じた。

でも、試合運びはバスケットボール程激しくない。ほぼ常に「1点差」か「同点」の状態で、この1点差も常に同じ側がリードしている。


ずっと追いつ追われつでだらだらとした試合展開。あまり面白くないよ? と思いながら見ていたけど、第1ピリオドの終わり間際になって、このゲームの見どころがわかった。


車椅子ラグビーは「時間調整」が元も重要なゲームだった。

ボールを持つと、だいたい15秒程度で点数を入れることができる。

それだけでなく、40秒以内に得点を上げられないとペナルティになる。


相手からボールを奪うことが難しく、ゴール後は相手ボールで始まるため、1点差か同点、という状態でゲームが進行する。


じゃぁ、どこで勝負をかけるかというと、「ピリオド終了時に1点差を守るか、同点にするか」の勝負になる。

一番良い方法は、ピリオド終了1~2秒前にゴールを決めて1点差にすることだ。


これを逆算すると、55秒目で1点差のゴールを決める、というのがセオリーとなる。


(その後、相手が速攻で同点にしても、10秒程度はかかる。残り45秒で、40秒以内にゴールする決まりなので、時間いっぱいまで使って1点差にすれば、相手には5秒しか残されていない。

 また、相手が40秒いっぱいに使って同点のゴールを入れた場合、残り15秒あるので十分点数を入れることができる)


ゲームの全ては、この時間調整のために回っている。

ゴール前で攻撃側がわざと動きを止めたり、それをわざわざ守備側が押してゴールさせたり。

「相手に得点を取らせることが重要な戦略」なんてゲームは、なかなか無いように思う。


ボールを持っているのにも制限時間があるのだが、選手がいつでも使える「タイム」によって、この時間をリセットする、という戦略もある。

ただし、タイムは試合全体を通じて、4回しか使えない。(1試合は4つのピリオドで構成される)

このタイミング配分も重要なカギとなる。


戦略が理解できてくると、非常に興味深い、面白いゲームだ。




ゴールボールも面白かった。ボッチャも…面白そうだから見てみたかったのだけど、残念ながら放送に出会えなかった。

(局によっては放送したのかもしれない。いくつかの時間帯を適当に録画していたが、ゲームの説明と試合結果しかやらず、試合自体を見られなかった)


いずれも非常に戦略的なゲームで、見ていて面白かった。



ゲームというのは、制限の中でどのような戦略を立てるかが見どころだ。

パラリンピックの場合、身体の障害といった「制限」があるわけだけど、それをゲームのルールに組み込んでしまえば皆平等になる。


正直なところ、遊べる機会があるならゴールボールはやってみたい。

ボッチャもやってみたいのだけど、このゲームはすごく難しそうだ。というか、上級者のレベルが高すぎて歯が立たなさそう。




足に障碍がある人々の重量挙げも見た。


もちろん、普通に重量挙げを行うのは無理なので、ベンチプレスで行う。

ルールが違うので一般の重量挙げと比較することは出来ないのだけど、少なくとも僕はあの重さを持ち上げられない。

足の障碍があったとしても、あの人たちは僕よりずっと健康体だろう。


重量挙げなので、体重別のクラスに分かれている。

だけど、この「体重」って、普通の人なら足の重さも入るけど、両足切断の人は足の重さがないわけだよね。


その分、上半身の筋肉をつけても良いことになる。

先に書いたように、普通の重量挙げと比較はできないのだけど、普通の重量挙げよりも有利な条件かもしれない。



同じく足に障碍がある人達の、走り幅跳びも見た。


リオオリンピックの金メダルは、8.38m だ。

パラリンピックは、8.21m 、オリンピックに出場していたとしたら、5位だったそうだ。


この金メダル選手は、オリンピックに出場したいと交渉したのだけど、「義足が有利に働いていない」と証明することが条件とされ、この証明ができなかったために諦めた。

(ちなみに、彼の作った障碍者世界記録は 8.40m で、走り幅跳びの世界記録は 8.95m だ)


障碍者の走り幅跳び選手の上位記録者は、みな義足で踏み切っている。

つまり、義足の弾力を効果的に利用すれば、少なくとも障碍者の中では記録を伸ばすことができる。


でも、障碍者はそもそも身体の左右バランスがとれておらず、走るときもうまく走れないし、着地もきれいではない。

義足はジャンプするうえで有利かもしれないが、義足をつけないといけない体は不利だろう。

有利な点も不利な点もあるのに「有利でない証明」だけを求めるのはフェアでないように思う。



そして、僕はこれは見てないのだけど、車椅子マラソンは非常に高速だ。

通常の記録は 2時間 2分 57秒。


これに対して、車いすマラソンは 1時間 18分 25秒、または 1時間 20分 14秒。

細かなルールの問題で2つの記録が存在しているが、いずれにせよ健常者よりもはるかに速い。




多くの人が知っていると思うので詳細は省くけど、パラリンピックに先駆けて、障碍者が「感動ポルノ」に使われている、と問題視される件があった。


そのため、パラリンピックをどのように見てよいかわからない、という人も少なからずいたようだ。


僕は競技内容にのみ興味があったので、淡々と中継(もしくは録画の放映)をするものを見ただけだ。

スタジオでの解説などがある番組では、多少は練習の難しさなどの「感動話」を伝えるものもあったかもしれないけど、全体としてお涙頂戴に仕立てるような感動ポルノはなかったと思う。


でも、これって見る側の心の持ちようでもある。

淡々と試合を放映をしているだけでも「かわいそうに、この人たち体不自由なのに、頑張ってるんだ」と勝手に感動ポイントを作りながら見ようとする人もいる。



体不自由なのに、とかは余計な情報だ。

障碍は関係なしに、単に自分ができるか考えてみればいい。


200kg のバーベルを持ち上げられるか?

アイマスクをしたまま、音と触覚だけを頼りに球技ができるか?

8m のジャンプをできるか?


変な感動ポイントを作ろうとせずに、目の前にいる人のすごさをそのまま見ればいい。

「かわいそう」で感動するのではなく、「この人すごい」と感動するのは、感動ポルノではない。



#もっとも、感動ポイントを勝手に作りたい人の心情もわかる。

 「自分にできるか」を考えるためには、自分を含め、一般的な能力がどの程度かを理解していないといけない。

 そんな理解がない人…残念ながら頭も悪く、普段から生活に注意を払っていないために、状況を自分に置き換えた想像もできない人は、競技内容や記録で感動することができない。


 そんな時、「代わりに」目が見えないとか、足がないとか、わかりやすい身体的特徴で話をするしかないのだ。

 こうした頭の悪さ、感受性のなさ、想像力のなさもまた、ある種の障害ではある。

 障碍者への理解を考えるのであれば、障碍者を理解できない人への理解も同時に考えないといけない。




話を少し戻して、「義足が有利でない証明」の話。


彼にとって、義足は靴のようなものだ。

じゃぁ、オリンピックに出ている陸上選手の「靴」が有利でない証明は出来るのか、という問題のようにも思う。


義足を「履いて」いることが問題になるなら、オリンピックでもみんな素足で競技をすればいい。


実際、靴は非常に重要だ。

競技場の床はゴム樹脂のチップを固めて作ってあり、スパイクを履けば足は滑ることなく、すべての力を前に進む力に使うことができる。


靴がなければ足は滑ってしまい、記録は落ちるだろう。


オリンピックが「参加することに意義がある」というクーベルタン男爵の精神を受けついているのであれば、義足の選手であっても、一定の基準に達していれば出場を認めるべきだと思う。



でも、一方で車いすマラソンの問題がある。

同じマラソンだと認めてしまうと、車椅子に乗っていない選手は出場できなくなるだろう。


それは「マイノリティにのみ権利を認める」ことになってしまい、「参加することに意義がある」オリンピックの精神に反することになる。

障碍者をどう扱うか。認めない場合も、認める場合も、オリンピックの理念を壊す可能性が大きいのだ。


結局、「義足が有利でない証明」は、パンドラの箱を開けないための苦渋の決断だったのではないかと思う。




また別の問題もある。


義足の選手がオリンピックに出ることを認めたとして、じゃぁオリンピックに統合しましょう、となってしまうと、パラリンピック選手のほとんどは出場できなくなり、活躍の機会を失ってしまう。


これは本意ではないだろう。多くのマイノリティに活躍の機会を与えることが、パラリンピックの目的の一つだ。


でも、パラリンピックとオリンピックが分断されていれば、マイノリティはいつまでたってもマイノリティだ。

マイノリティが認められる社会を目指すと言いながら、分断し、差別を続けることに繋がってしまう。



そこで、2段階に考えることは出来ないだろうか、と思う。


まず、パラリンピックとオリンピックは、今のまま分離した大会とする。

その上で、「直近数年間の記録を元に、健常者と障碍者の競技レベルが僅差である」と認められる場合にのみ、パラリンピック側の希望選手がオリンピックに出場することを認める。


「僅差である」というのは、言い換えれば「義足などが有利に働いていない」ということだ。

ただ、選手に証明を求めるのではなく、競技団体などが基準を作って判断する。


あくまでも「直近数年間」をもとに判断する。

車いすマラソンのように、明らかに差ができてしまったらそれは別の競技と考える。

(車いすマラソンだって、最初は健常者より遅かったのだ)


たとえば、次回の東京オリンピックでは、障碍を持つ走り幅跳び選手は出場できるかもしれない。

でも、その20年後に…義足がさらに進化し、障碍者のほうがはるかに良い記録を出しているようなら、出場を認めるわけにはいかない。



また、オリンピックでは一緒に競技することを認めるけど、これはあくまでも「お祭り」としてのものだ。

記録自体は別集計、が望ましいと思う。

将来障碍者の記録のほうが伸びたときに、過去の記録も疑いがもたれて後から抹消、とかややこしい話にならないように。




なんだか話が雑多にとっ散らかってしまった。


いろいろ書いたけど、言いたいことはただ一つだ。


いつの日か、オリンピックとパラリンピックの垣根なんてなくなって、それぞれ「性格の違う大会」ではあっても、同じようにみんなが…選手も、見る側も、楽しめればいい。


そのためにも、選手が相互に(もしくはパラリンピックからオリンピックに)乗り込んでくるような交流があっていいと思うし、見る側も障碍者を特別視するのではなく、普通の人として見ないといけない。


そこまで行っても、パラリンピック選手は「すごい技の持ち主」だから注目してもらい、普通に扱ってもらえるのかもしれない。


全ての障碍者が、普通の人、当たり前の隣人だと社会に受け入れられるようになる日が、早く来るといい。




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