今日は山本卓眞さんの誕生日(1925)
元富士通の会長さんです。2012年に亡くなっています。
でも、富士通と言う大きなコンピューター会社の会長さんだったから…と言うような甘い理由で紹介したりしません。
元々たたき上げの技術者で、日本のコンピューター黎明期に、独自のコンピューターを設計したチーム(たった3名!)の一人でした。
話は 1950年にさかのぼります。
日本は第2次世界大戦中、1945年に原爆を落とされて無条件降伏を行っています。
この後、戦後は混乱と貧困の時代でした。
しかし、1950年に、朝鮮戦争が起こります。
北朝鮮にはソ連が、韓国にはアメリカが支援を行い、この際アメリカは日本を基地として使用しました。
これにより特需が起こり、日本経済は一気に回復へと向かいます。
この際、株式市場では計算が間に合わなくなり、パンチカード会計機の導入が検討されます。
この際に、富士通にパンチカード会計機を作ってみないかという誘いが来ます。
当時の富士通は電話交換機を作るメーカーでしたが、電話交換機で使われるリレー回路で計算が行えることは、多くの技術者が知っていました。
富士通も、小規模な計算機を作成して多少のノウハウは持っていました。
富士通には池田敏雄という「天才」技術者がいました。
彼は以前からコンピューターに興味を持っており、独学でアメリカから取り寄せたENIACの回路図を元に、小さな回路を動作させたりしていました。
彼を設計の中心として、交換機の設計などを行っていた山口詔規さんと山本さんが補佐として付けられました。
この3人で設計を行うことになります。
池田さんについては、いつかまた書きたいと思うのですが、いろいろ逸話の多い人です。
とにかく、日本のコンピューター黎明期を一人で支えた大天才。
山本さんは池田さんが思い付きのままにどんどん作り出す回路…基本回路だけで5000種類以上一人で短期間に書きあげたそうですが、これらをまとめ上げていく作業を行っていたのだとか。
ただ、池田さんは締め切りのことなど気にせず、面白そうなアイディアをどんどん形にしていくため、最終的にこの計算機は納期に間に合わず不採用。
(厳密に言えば、納期の時点で動作する形にはなったが、信頼性が十分でなかった)
しかし、これにより富士通のコンピューターの「基礎」が出来上がり、続けて富士通初のリレー式計算機となる FACOM の設計に入ります。
この際も、山本さんは中心メンバーの一人を務めています。
FACOM は、最初はリレー式計算機として、後にはパラメトロン(これもいつか詳細を書きたい電子部品)、そしてトランジスタ式のコンピューターへと発展していきます。
池田さんは後にくも膜下出血で急死します。
ここに書いてある内容の多くが「池田敏雄」の物語であることがわかるように、富士通の(そして日本の)コンピューター黎明期を牽引したのは、池田さんでした。
山本卓眞氏は「チームの一員として手伝った」のにすぎません。
しかし、山本さんは富士通の要職についてから、最も近くで見てきた者として、「天才池田敏雄」の存在を伝える語り部のような役割を自ら担って来ました。
山本さんがいなければ、池田さんの物語を詳細に知ることもなかったという点で、山本さんもまた重要人物だと思うのです。
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