今年で50周年だそうです。
1975 年 4月 4日に設立した、ということだね。
ただ、これは正確かどうか、ちょっと疑問だ。
というのも、法人登記どころか、この日付を示す書面などの物的証拠が何一つ残っていないから。
ただわかっているのは、「マイクロソフトという名前は、1975年の夏に思いついた」という、命名したポール・アレン本人の記述であり、少なくとも4月時点ではマイクロソフトの名前は使っていない。
とはいえ、のちにマイクロソフト BASIC と呼ばれるものの最初のバージョンを作り上げたのは、このくらいの時期だったはず。
マイクロソフトは Altair 8800 に BASIC を供給する際に作られた会社。
Altair 8800 は「世界最初のパソコン」と呼ばれるものなのだけど、自分で組み立てるキット式だった。
これが発表されたのが、1975年の 1月。
すぐに注文が殺到したのだけど、そんなに注文が来ると思ってなかったので量産体制が整っていない。
1台も出荷していないうちに、「BASIC を開発中だから買い取らないか」という電話がかかってくる。
出荷していないのに対応ソフトを作ったって?
俄かには信じられないが、Altair 8800 の作者は、とにかく電話の相手と会ってみることにした。
しかし、作成したという相手は、まだ完成には時間がかかるからと、2か月後の日付を指定した。
電話をしたのは、ビル・ゲイツと仲の良かった、ポール・アレン。
ビル・ゲイツは BASIC を自分で作ったことがあり、ポールアレンは学校のコンピューター上に、8008 CPU のエミュレータを作ったことがあった。
だから、8008 の後継である 8080 上の BASIC は作れるはずだ、と確信していたのだ。
とにかく2月後に商談だ、というので、ここから Altair 8800 の CPU である 8080 エミュレータを開発し、そのうえで動作する BASIC を作る。
…この話、詳細は以前に書いたエド・ロバーツの誕生日と、ビル・ゲイツの誕生日を読んで欲しい。
1月に Altair 8800 が発表されて、少し間があって、2か月後には BASIC を見せて…
BASIC を見るために3月に会う約束をした、とされている記述が多いのだけど、そうなると4月4日とは何だろう。
BASIC を見せた「返事」をこのあたりでももらったのかもしれない。
それは製品が初めて売れ、会社を続けていくことになった日ということで、マイクロソフトの第一歩、と言えなくもない。
この後、口約束で「ソフトを供給する」契約を結び、さらに改良して実際に発売するのは夏。
この時に契約するために「マイクロソフト」という会社名を考え出したのだと思われる。
さて、上に書いたように「世界初のパソコン」に BASIC を供給することからマイクロソフトが始まる。
だから、マイクロソフトの話をまともに書くと、パソコンの歴史を全部書くことになってしまう。
ところで、当時の BASIC は「言語」ではなく、OS の役割も果たしていたことに留意。
Altair の BASIC は、紙テープから本体にロードされた。
紙テープからロードするためのソフトウェアは、ユーザーがトグルスイッチを使って、2進数で RAM に直接書き込んだ。
いまから見るととても面倒だが、当時の常識なのでどうということはない。
でも、のちには BASIC は ROM に搭載され、パソコンの電源を入れれば動くようになっている。
最初に動くのが BASIC で、BASIC で書かれたプログラムはもちろん、そうでないプログラムを動かすときも、BASIC の命令を使ってプログラムをロードすることから始まる。
だから、BASIC は言語というよりも、パソコンの作業環境そのもの、OS の役割を兼ねていた。
そして、マイクロソフト BASIC は、カスタマイズされたものが各社のパソコンに供給されていた。
当時、コンピューターの互換性はなかったが、マイクロソフト BASIC は少なくとも「文法が似通っている」ため、移植が行いやすかった。
IBM が IBM-PC を発売することになり、IBM もマイクロソフト BASIC を欲しがる。
それほど、当時は BASIC といえばマイクロソフトだった。
ただ、他の会社と違い、IBM は BASIC を ROM で搭載しようとはしなかった。
メインフレームで使われる言語なども供給したいので、OS を用意して、その OS 上で BASIC を動かす、というのが IBM の意向だった。
…ところが、この OS が決まらない。
これに商機を見出し、マイクロソフトは OS も自分たちで作る、と申し出る。
ビル・ゲイツは及び腰だったそうだ。BASIC 以外にも FORTRAN、COBOL、PASCAL を提供する契約で、これ以上の開発はとてもできない。
でも、これはチャンスだからやらなくてはならない、と強く主張したのは、当時マイクロソフト副社長だった西和彦。
小さな会社が作成した OS を、その開発者込みで知っており、これを開発者ごと買収しようという計画を立てた。
果たして、OS もマイクロソフトが提供することになる。
これがのちの MS-DOS で、互換性のない各社 PC でも共通して MS-DOS を搭載するようになっていく。
…BASIC の時と同じパターンを、時代を超えて繰り返すのに成功したわけだ。
ここら辺の話は、IBM PC の発売日や西和彦 誕生日に詳細を書いた。
あと、MS-DOS は、当時 8bit 機で普及していた OS 、CP/M を独自に 16bit 化したものだ。
この CP/M の話は、アラン・シュガートの誕生日とか、か、vi は世界初のスクリーンエディタか?とかに断片的に情報を書いているが、まとまった記述をしていなかったな…
重要な話なのでどこかでまとめておきたい。
マイクロソフト 50周年の WEB ページを見に行くと、歴史は MS-DOS から始まった感じになっている。
いまとなっては OS の会社として知られているので、MS-DOS からというのがわかりやすいのだろう。
先に書いた通り、BASIC は言語であるとともに、当時は OS でもあった。
でも、これは詳細を知らない人に説明しずらいからね…
以降は、MS-DOS を拡張する形で Windows が作られ始め、3.0 になってやっと「まともな」プラットフォームへと成長する。
それ以前は、発表はしたものの実用にならなかったのだ。
さらに、より強固な OS を求めて、倒産した DEC 社から買収した OS 作成チームが、独自のマイクロカーネル上に Windows の互換環境を作り上げる。
これが Windows NT だ。DEC の OS である、VMS を「一歩進めた」システムとされている。
(VMS をアルファベットで1文字進めると WNT になる)
XP 以降は Windows NT をベースとして、32bit OS から 64bit OS への転身も遂げた。
今でも OS としては標準の座にある。
Windows の 1 と 2 は使い物にならなかった、と書いたが、たとえ製品的に失敗であっても、諦めずに技術開発を続けるのがマイクロソフトの強みだと思う。
Windows for WORKGROUP とか、Windows for PEN Computing なんていう「派生版」もあった。
物珍しく話題にはなったが、実際にはそれほど売れていないだろう。
でも、そこで「特別に」作られた機能は、のちの Windows に取り込まれている。
製品が売れなくてもちゃんと技術は活かされているのだ。
PEN の延長として、Origami プロジェクトというのもあった。
小型 PC を普及させようというプロジェクトで、OS から「小型 PC に必要なもの」を作ろうと模索していた。
Windows CE の存在も忘れてはならないだろう。
小型機に組み込みで使うための OS として開発されていたが、日本国産 OS であった TRON への対抗でもあった、ということはあまり知られていない。
(TRON は製品の中に組み込んで使用するものなので、あまり一般に知られていないのだが、RTOS と呼ばれる特定分野でのシェア率は20年以上、TRON がトップを走っている。現在世界シェアで 60% 程度。
Windows は RTOS ではないが、Windows CE は RTOS として作られていた。)
Windows CE は携帯電話に組み込まれ、iPhone よりも前の「スマートフォン」として使われたりもした。
後に Origami と Windows CE の「スマートフォン」が融合するような形で Windows Phone というのが作られたが、これも全く売れませんでしたね。
でも、マウス操作ではなくタッチ操作がしやすい環境、というのが研究されて、今の Windows Tablet などに活かされている。
なんか話が雑多になってしまったけど、すでに書いたように、マイクロソフトの歴史を語るのはパソコンの歴史を語ることに等しい。
最後の方は自分が書きたいことをまとめておいたが、詰め込み気味になってしまったことをお詫びしておく。
今はコンピューター産業が成熟したからこそ、マイクロソフトの存在感も以前より薄れている。
しかし、今後も業界をリードし続けるのだろう、とは思う。
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