目次
01日 あけましておめでとうございます
04日 家系図
08日 【訃報】デビッド・ローゼン
10日 新書
21日 照れ臭い
あけましておめでとうございます。
今年のおせち。
写真左上から。
数の子入り松前漬け
菊(もってのほか)の酢の物
菜の花にしん(既製品)
梅水晶(既製品)
くりきんとん
上中央。
伊達巻
紅白かまぼこ(既製品)
にしん昆布巻き(既製品)
左下。
焼豚
煮卵
下中央
鶏ハム
蕪と京人参のなます
田作り(既製品)
右上。
煮〆
写真の段階で、黒豆(既製品)を出し忘れてる。
今年は、全部僕が作りました。
というのも、大晦日になって妻が風邪っぽい症状を示し、感染防止のためキッチンへの出入りを禁じたため。
忙しかったけど、やればできるもんだ。普段は妻に任せている料理をやってみたのは、面白い経験だった。
今年の鶏ハムは、28日から仕込んだ。
強めの塩で3日間漬け込んで、31日に半日くらいかけて塩抜きしてから茹でる。
いつも、28日が仕事納めで29日に買い物行って、それから作ると塩漬けの時間が短いのだよね。
しっかり塩漬けしたら、いつもよりずっと美味しいものになった。鶏ハムは塩漬けの期間が3日くらい無いと美味しくない。
(もともとの 2ch レシピではそうなっていたのだが、最近レシピ紹介しているサイトでは1日も付け込まないものが多い。それは「ハム」ではなく、塩ゆでした鶏の味になる。美味しいのだけど、違うもの)
妻の風邪症状は、どうも次女・長女の風邪がうつったようだ。
年末から、次女・長女の順に風邪を惹いている。そして、熱はそれほど出ずに、すぐに症状が治まることもわかっている。
なので、次女・長女はすでに免疫を持っているだろう、ということで、元日の朝は席替えして、妻の近くに長女・次女が入ることで対応。
家族そろって新年のおせちを食べた。
(妻の料理とりわけは、本人が取らずに長女・次女に依頼することで対応)
現在元日の夕方で、すでに妻の症状は回復気味。
とはいえ、しばらく感染力はある物と考えて対応したほうがよいだろう。
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2日に親戚が集まった。
僕は6人兄弟なのだが、長兄の家に集合。
兄弟は都合がつかない者もいて、3名参加。
でも、その3名は家族がいる。家族も集まった。
来た姪のうち、二人は配偶者と子供も来たし、別の姪は婚約者を連れてきた。
そんなわけで、参加者は赤ちゃん含めて17人に上る。
まぁ、この会はそれだけの話で、楽しかった。
長兄はいつも新年の集まりにカレーを作ってくれて、さらにお寿司をとって蟹もある。
美味しいので子供たちも楽しみにしている。
ただ、家に帰ってから「誰が誰かわからない」と子供に言われた。
まぁ、親戚多すぎな上に、新しく生まれた子供とか、新しくつれてきた婚約者とか、覚えきれんわな。
紙に家系図書きながら説明したが、今度は「さっき会った人の顔と一致しない」と言われた。
顔写真入りの家系図が欲しい、と。
なるほど、まとめてみるか。
昨日3日に、家系図を作るのによさげなソフトを探してみる。
家系図って、レイアウトとかややこしいので手書きで作っていると疲弊する。データが変わったら自動的にレイアウトしなおしてくれるようなソフトが欲しい。
Windows 上だと、エクセル家系図 というソフトが定番と知る。
微妙な分野だから、市販ソフトも少なく、無料で使えるのは事実上これだけなのだ。
エクセルのマクロで動作するアプリケーション。
当然だが「無料」と言っても、エクセルを持っていることは前提。
サンプルとしてサザエさん世界の家系図が入っている。磯野家だけではなく、婚姻関係のあるフグ田家の家系図なども同時に作りこまれているため、結構大掛かり。
しかし、その大掛かりなものを、入力データを基にして自動レイアウトできる程度の機能は持っている、という安心感はある。
懇切丁寧な説明書があるのだが、長いため最初の方を少し読んで、とにかく使い始めてみる。
まずはサザエさん家系図を削除してから、自分の兄弟などのデータから入れ始める。
…すぐ使い方に詰まった。色々とデータが不整合を起こしているようだ。
一旦なかったことにして、もう一度説明書を読んでやり直す。
エクセルシートとしては「入力」というシートがあるのでそこで入力したくなるのだが、ここは基本的に触ってはダメなところだった。
触っても良いのだが、このアプリケーションの動作に対する深い理解が必要だ。そうしないとデータ不整合を起こす。
入力はその隣、「個票」で行うのが前提だった。ちゃんと説明書にも最初の方に書いてあるのだが、「入力」というシートがあったらそこで入力したくなるじゃんか。
まぁ、一度失敗して、そこで改めて説明書を読む、というのはいつも新しいソフトを使いだす際に行っている儀式のようなものだから、気にしない。
しかし、「入力」シートをいじっている間に、一部の計算式を壊してしまったようだ。これが後で悩みの種になるのだが、この時点では気づいていなかった。
「個票」では、非常に UI が作りこまれていて、エクセルというよりは別種のアプリケーションとして動作する。
ある人に注目した時に、その人の配偶者や親、子供などが「簡易な」家系図ツリーで表示されている。
すでにデータがあれば名前が表示されるし、データがなくても空白の枠がある。
新しい人を登録したいときは、ここで空白の枠をクリックすればよい。
そうすると、そこに入るべき人の名前を聞かれる。
名前を入れれば、その枠に名前が入った状態で表示される。
最低限の操作としてはこれで完了。
さらにデータを埋めたい場合は、名前の入った枠をクリックすればよい。入力のためのシートが作られ、生年月日や性別などのデータを入れることができる。
これを繰り返せば、データは蓄積する。
全てを入れないでも、ある程度入ったところで家系図を描いてみよう。
家系図シートを開き、「家系図作成」ボタンを押すと、自動で家系図が描かれる。
ちょっと時間がかかるのでのんびり待とう。(高速化の方法もある)
僕の場合、ここで「一部の人が書かれない」バグが発生した。その人の子供は、別の人の子供として描かれてしまう。
1時間くらい悩んでいたと思うが、「入力」シートで直接入力をしていた時に、計算式を壊してしまっていたのを発見。周囲のセルからコピーして計算式を戻すことで、問題を解消できた。
入力シートは基本的にいじらず、「個票」で入力を行うこと。
この決まりを守っていれば、おかしなことにはならない。
ともかく、問題解消したら家系図を書けるようになった。
データを全部入れるのは大変なので、この日はここで一旦おしまい。
翌日、というのは今日の事だが、他のデータも記憶で埋める。
しかし、姪の旦那さんの名前とか覚えてない。まぁ、わからないところはわからないなりに埋める。
印刷して、妻に見せてみた。こんな感じだけど、わからないところ埋められる?
そうしたら、妻の方でも忘れないようにメモを取ってくれていたので、かなり埋まった。
そのデータを再入力。
さらに、母の葬儀の時の写真から、AI に顔を切り出してもらって個々の顔写真を作成する。
この写真を家系図の個々人のデータに入れていく。
これで家系図を作成してみると、かなりいい感じ。
葬儀の時に来れなかった人もいたので、別の写真を探して、だいたい埋めた。
それでも埋まらない人は、余り親戚の集まりに来ない人なので、今回の目的からすれば顔写真がなくても許されるだろう。
さらに、「子供が認識している」データを書いておく。
エクセル家系図だと、個人の右側・左側に、小さく箇条書きデータを入れられる。
ここに、住んでいる場所とか、「タバコのみ」とか書いておく。
タバコを吸う人は少ないので、子供はそれで個人を識別しているのだ。また、住んでいる場所が遠い人は余り集まりに来れない、と理解しやすい。
そうこうして、つい先ほど、写真入り家系図が出来上がった。
人数多すぎて、A4 一枚に収めようと思ったら、70% 縮小印刷が必要だった。
4世代38人が書いてある。(一番上の世代は父母で、もう鬼籍に入っている。それ以外の36人は健在なので、なにかの際には全員集まるだろう。)
だから写真とか豆粒のようでわかりにくい。でも、一昨日会ったばかりの人なので、識別の役には十分立ったようだ。
家系図、といっても、「会う親戚がどういう関係か知りたい」目的なので、基本的には生きている人だけ。
僕の父母の兄弟や、僕の従妹などの親戚もいるのだけど、実のところ僕も良く把握していない。
父は6人兄弟で、母も兄弟が多かった。
そして、父母とも関西出身で東京に出てきたので、遠方の親戚には時々しか会わなかった。
だから数人は覚えているのだけど、続柄とか僕もよくわかってないのね。
よくわからないけど親戚、と認識できている人が、子供のころはいっぱいいたのだ。
だから、今自分の子供が同じ状態になっているのがよくわかる。
年に数度しか会わないのでちゃんと覚える必要はないのだけど、「なんとなく」把握できれば十分だろう。
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セガ・エンタープライゼス初代社長の、デビッド・ローゼン氏が亡くなったそうです。
日本で報じられたのは昨日ですが、葬儀は1月2日に行われ、海外ニュースサイトでは同日に取り上げられています。
亡くなったのは、2025年 12月25日とのこと。
僕のページでは、10年ほど前にローゼン氏のことを記事にしていました。
ところで、先にリンクした海外記事、ローゼン氏をサービス・ゲームズ社の創業メンバーと勘違いしています。
セガ・エンタープライゼスの初代社長ではありますが、サービス・ゲームズ社の創業者ではありません。
そもそも、サービス・ゲームズは創業時の名前ですらありません。
しかしまぁ、Service Games の頭文字を2文字づつとって SEGA 、というブランドを使用していたのは事実。
そして、そんなサービス・ゲームズ社が日本に作った「サービス・ゲームズ・ジャパン」を…この会社、違法な「賭博」を生業としていたので紆余曲折ありまして、分社化したり名前が変わったり。
最終的に、ローゼン氏が作った健全な会社「ローゼン・エンタープライズ」が買収します。
この時に、有名になっていた「セガ」ブランドを社名につけ、「セガ・エンタープライゼス」とした際の初代社長がローゼン氏。
ここら辺の話は、セガ初期の歴史として過去にまとめています。
デビッド・ローゼン氏、面識はありませんが、僕も間接的に多大にお世話になった形になります。
ご冥福をお祈りします。
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次女が、学校の先生から「新書を読んで感想文を提出」という宿題を出されたらしい。
…新書? 新書を読む、とは?
いや、新書はなんとなくわかる。岩波新書とか、PHP新書というやつだ。
でも、これはシリーズのタイトルであって、改めて「新書を読む」と言われると、新書って何だろう、と思う。
すぐ上に書いた「新書はなんとなくわかる」ではダメで、読んでくるように言われたのだから、ちゃんと新書が何であるか理解する必要があるだろう。
しかし、残念ながら僕にその知識がなかった。
この時点で、僕のイメージとしては、新書とは「ちょっと専門的な知識を、初心者にわかりやすい読み物として教えてくれる書籍」だった。
ネットで調べてみる。
新書とは、出版業界の専門用語で、本のサイズを規定する言葉らしい。
え、内容関係ないの? ちょっと衝撃だった。
サイズ規定としては、新書と呼ばれることもあるが、より正確には「新書版」。
文庫版よりも少し大きいサイズ、ということらしい。
なるほど。家にある新書と、文庫本の小説の本のサイズを比べてみると、新書は縦に長い感じだ。
これに対して「単行本」という言葉もある。
こちらは、本のサイズではなく、出版の際の形式を言うらしい。
1冊だけを刊行するのであれば、単行本。
上下巻同時発売、とかいうときは、単行本ではない。
漫画の第3巻、とかが出る場合も、シリーズ物ではあるが刊行の際はこの1冊だけ。だから単行本。
漫画でも、「1、2巻同時発売」というのを見たことあるのだけど、この場合も慣習で単行本と言っているように思う。
このことに気付いて、手近にあった漫画を、先ほど比較していた文庫・新書に重ねてみる。
なるほど、サイズとしては単行本というものがあるわけではないのか。新書と同じサイズだった。
(実際には漫画のサイズもいろいろ。子供向け漫画には新書版が多いそうだ)
調べると、「新書」ジャンルには、教養書や小説などがある、という。
漫画はさすがに入っていないのか。活字じゃないとだめだとしたら、これは古い出版業界の悪習の気がする。
長らく、「年間で読んだ本の調査」などでは、活字本のみで漫画は除く、などと差別されていたから。
まぁ、そのことはいいや。新書で小説ってどんなのだ? と思って少し考え、すぐにピンときた。
子供が小学生のころ買っていた、「つばさ文庫」や「青い鳥文庫」を重ねてみる。
なるほど、新書版だ。「文庫」なのに新書なのだ。
つまり、新書には小説などもある、というのはこういうことらしい。
子供向け漫画が新書版なのと同じく、子供向けの本は新書版が多いのだな。子供の手に持ちやすいサイズ、ということだろう。
となると、「新書を読んでくる」というのは、子供向け小説もありなのか。
サイズだけが新書の定義であれば、漫画でもありなのか。
最初に、僕のイメージとしては「専門的な知識をわかりやすく」書いた本だと書いた。
現代的には同じサイズの本が当たり前すぎて、まさかサイズを規定する言葉だとは思っていなかったのだ。
まぁ、言葉遊びをしているわけでもないのでもう少し真面目に調べる。
つまりはこういうことなのだ。
岩波新書がはじめて「新書」と銘打って刊行されたのが、1938年。
ここで、新書というのは単に「今までの本とは違う、新しい視点でまとめた本のシリーズ」を示す、バズワードに過ぎなかった。
それまでは岩波文庫があり、これは古典文学などが中心だった。
これに対し、「古い因習や権威などにとらわれることなく、自分で考えられる日本人」を育てるために刊行したシリーズが、岩波新書だった。
(この目的は数回改定されているが、現代人に必要な教養を与えるシリーズ、という芯は揺るがないようだ)
この際、岩波新書は「新しい判型」を作り出した。これが、現代の「新書版」と呼ばれるサイズだ。
先に書いた「岩波文庫」は、「文庫版」というサイズを作り出したシリーズだった。
そしてまた「岩波新書」で、「新書版」を作り出したわけだ。
その後、岩波新書を真似した「教養書」が各社から出版される。
知性を見せることは出版社の品格なのだ。
辞書を編纂できることなどは出版社の力量の指標とされるが、新書を出すこともまた、出版社の力量を示すものなのだ。
かくして新書はブームとなる。各社から新書が刊行される。
一方で、新書が相次いで印刷されるということは、対応印刷機・製本機も普及するということだ。
これは便利な判型となり、小説などでもこの判型を使うものが出始める。そして、これもまた「新書」として扱われた。
その後、従来通りの狙いの内容を持つ新書は、わざわざ「教養新書」と呼ばれるようになる。
さて、この「教養新書」に、もう一度ブームが来る。
1990年代後半から、書籍としては雑誌しか扱わなかったコンビニで、文庫本や新書が置かれるようになるのだ。
教養新書、と言いながらも、気軽に読める軽いテーマを中心にした、いわゆる「コンビニ本」だ。
マメ知識や雑学、ビジネス書や自己啓発などを中心としたものではあるが、これらのシリーズが大ヒットする。
ここで、「教養新書」は「現代人に必要な教養を与える」という従来通りのものと、「話題作りの豆知識」程度の内容を書いたものに分岐したわけだ。
そして、より売れたのは後者だった。教養新書、というジャンルのイメージは、当然これらの「豆知識」本に引きずられることになる。
もっと言ってしまえば、こうした本の中には科学者が眉を顰めるような、似非科学を広めてしまうようなものもある。
本当の意味で「教養」を与えられるとは思えない。
しかし、読者にとって知らないことが書かれていて、読者が「知的好奇心」を満たせたのであれば、それはその読者にとっての「教養」なのだ。
また、これらの本の類型としては、知識人に気軽に語ってもらった「雑談」を示しただけの本などもある。
雑談のような内容で、「現代人に必要な教養」を与えるようなものではない。
でも、知識を持った人が自分の専門分野を語れば、面白いのだ。
娯楽としてはちょうどよいが、娯楽小説などではない。ジャンルとしては「教養新書」となる。
そして、実は教養新書として大ベストセラーとなった「バカの壁」は、この雑談ジャンルと言ってよい。
さて、最初の問題に立ち戻ろう。
次女が課題として出された「新書を読む」は、学校の先生が課題として出したくらいなので、教養新書の「現代人に必要な教養を与える」ようなものを1冊読んでこい、ということかと思う。
でも、新書としては雑学本もあるし、似非科学もあるし、小説や、形状だけでいえば漫画も含まれる。
判型だけでなく、シリーズとしても「新書」を銘打っているのがあるし、新書とすることに異議は挟めないだろう。
単に「新書」といった場合には、これらすべてが新書なのだ。
さて、学校ではどのような感想文が提出されるだろう?
先生の意図を汲める人ばかりであればよいのだが、「新書」と銘打ったトンデモ本の感想があったとして、それは課題の出し方が悪かっただけなので…
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まずは、なんとなくネット記事を読んでいた時に見つけた話。
ちょうど入試の時期で、国語の問題で「作者がどんな気持ちで書いたか」を問う問題があった…という話の流れがあったらしい。
作家さんが、X 上で、過去に自分の書いたエッセイを公開していたんだ。
リンク先にあるのがそれ。2023年のエッセイだ。後半有料だが、主旨は無料部分だけで十分伝わってくる。
この方の過去に書いたエッセイが難関中学の入試問題に使われ、解いてみたが正解がわからなかった、という話。
このエッセイの白眉は、作者の気持ちを問う問題を作者が答えられない、ということではない。
そんな話は過去に語りつくされており、改めて言うまでもないのだ。
重要なのは、「作者の気持ちを端的に伝える言葉」は、編集者によって選別されているのだ、という点。
言葉に現れる「作者の意図」を作者は理解できない。思うことを文章にしているだけで、意図を込めた気はないからだ。
でも、編集者はその文章から意図を汲み取り、より読者に届くようにするのが仕事だ。
ノイズを消し、わかりにくいところを追記するよう作者にアドバイスする。
結果、出来上がる「意図」は、作者のものではある。しかし、それを明示的にしたのは編集者なのだ。
なるほど。面白い。
僕の文章を含め、ネット上には筆者がそのまま書き散らかしているだけの駄文が膨大に転がっている。
こんなものは、無料であっても読む人はそう多くない。
しかし、編集者の手を経て、自分の視点だけでなく人の視点も借りて推敲された文書だけが、出版してお金を取れる珠玉の作品となるのだ。
まぁ、以前から「編集者の仕事って重要だよな」とは思っていたのが、思わぬ形で具体的事例を見せられた、という感じ。
どんな職業でも、トップもいれば底辺もいるわけで、すべての編集がこんなに素晴らしい仕事をしているわけではない、ということも知ってはいるが。
(過去に知人が、余りにもダメな編集者と仕事してひどい目にあったので)
さて、そんな素晴らしいエッセイを読んだのと前後して、エゴサーチしていたら当ページの事を書いてくれている方がいた。
このページを好きで読んでくださっているそうなので、書いた当人は自分の事だとすぐわかると思うが…。
Xで、プレミアム会員になって長文が書けるようになった記念として、「最初の長文」に、当ページの紹介を長々と書いてくれていたのだ。
いや、感想もらえるのすごくうれしい。でも褒められすぎて恥ずかしい。
嬉し恥ずかしがない交ぜになり、読んでいて顔がニヤける。
そして、文章の書き方なども意図があるかのように細かく絶賛してくれているのだが、そんな意図ないからね!?
先に書いた「作者の意図」と同じで、僕は自分の好きなように駄文を書き散らかしているだけで、文章に意図なんて込めているつもりはないのだ。
(逆接的に、作者が意識していなくても何らかの意図は入っているのかもしれない、ということではある)
元文章を示さないので、多くの人にとって何のことやら、わからないでしょう。
感想くれた人に、直接ではなく間接的に、公開で返事書いている感じ。
いや、だってあまり褒めてくれているから、リンクとかすると自分を持ち上げているみたいで照れ臭いじゃん。
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