2019年03月18日の日記です


COMPET CS-10A 発表日(1964)  2019-03-18 18:01:55  今日は何の日

今日、3月18日は、COMPET CS-10A の発表日(1964)


世界初の、オールトランジスタ計算機です。

開発は早川電機工業。現在のシャープです。




当時は、まだタイガー計算機が当たり前に使われていた時代。

モーターで歯車を回すタイガー計算機もありましたが、「電気計算機」と言えばそんな感じ。


しかし、今回の話の主役である CS-10A の少し前に、歯車を使わない、純粋な電気計算機が登場しています。

樫尾製作所(現在のカシオ計算機)製の、カシオ 14-A でした(1957)。


14-A では、リレー素子を使って計算を行います


なので、「電気」計算機ではありますが、「電子」計算機ではありません。

物理的な動作が伴うのです。

とはいえ、歯車よりは、はるかに高速。


サイズも、机ほどの大きさがありました。

というか、わざと机型にしてあり、書類などを上に置いて事務を行うようになっています。



この後も、カシオは次々と計算機を開発します。

タイプライタと連動し、計算結果を表として出力できる機械(TUC 1961)や、計算手順を交換可能な専用歯車としてプログラムできる機械(AL-1 1962)など、日本の計算機業界をリードします。




1963 年、イギリスで「アニタマーク8 (Anita mark8)」という計算機が登場します。


物理動作を伴うリレーではなく、純粋に電気の流れのみで計算を行える真空管式の計算機でした。

特筆すべきはその大きさで、机の上に置けるサイズでした。電子卓上計算機、現在でいう「電卓」です。


#もっとも、当時から電卓と呼ばれていたわけではありません。


日本でも数社が、この計算機を購入し、分解して構造を調べたそうです。

そして、翌年のビジネスショーでは、いくつもの電卓が「発表」されます。



まず、ビジネスショーの前に新聞紙上で発表したのが、早川電機とソニー。

共に、1964年の 3月 18日でした。


シャープは開発中の5号機、「MD-5」を発表しています。

ただし、シャープはまだ開発中で、他社がビジネスショーで電卓を発表するという噂を聞いて、牽制のために新聞発表しただけでした。


今日の話の主役、CS-10A は、開発は終わり、量産段階に入っていました。

実際、夏には発売されています。日本初の電卓であると同時に、世界初のオールトランジスタ電卓でした。




そのほか、キャノンカメラ(現在のキャノン)は、キャノーラ 130を発表しています。


カメラのレンズ設計は、非常に計算の多い作業です。

日本初のコンピューターである、FUJIC も、富士写真フィルムが社内で使用するために開発したものでした。


キャノーラ 130も、社内向けの開発で、開発自体は前年の夏には終わっていました。

しかし、社内用に使うための開発で、市販の意思はありませんでした。


それを、「電機メーカーがこぞって電卓を発表するらしい」という噂を聞きつけ、同時発表になったものです。



大井電気は、アレフゼロ 101 を発表しています。

パラメトロンを使った電卓でした。


パラメトロンは、日本人後藤英一さんの発明による、計算可能な電子素子です。

トランジスタよりもはるかに安く作れ、安定性も高かったため、一時期は国産コンピューターに多く採用されていました。


しかし、急に高性能化するトランジスタに追いつけず、コンピューターでもすぐに使われなくなります。

計算機も同じで、アレフゼロはあまり受け入れられずに消えていきます。




シャープ、ソニー、キャノン、大井電気と、4社から一斉に電卓が発表されたのが、1964年でした。

後に言われる「電卓戦争」が緩やかに始まった年です。



シャープの CS-10A は、この4社の開発のきっかけとなった「アニタマーク8」によく似ています。


キーは、1桁ごとに 0~9 が並んでいます。

10桁の入力が可能なので、数字だけでキーが 100個も並んでいるのです。


他の4社は、テンキー入力でした。

カシオが開発した入力方式で…つまり、今の電卓と同じ形式です。



出力は、キャノン以外はニキシー管でした。

ガラス管にフィラメントを封入した真空管の一種ですが、フィラメントを数字型に成型してあり、10本のフィラメントが入っているために数字1桁を表示できます。


ニキシー管は、真空管なので高い電圧を必要とします。

結果として、消費電力が大きいのが欠点でした。


そこで、キャノンは、アクリル板に横から光を当てて数字を表示する、という方式を採用しています。


アクリル板に、点描するようにくぼみを空けて、数字を描きます。これを 0~9まで重ねて配置します。


アクリル板に横から光を当てると、光は板の表面で反射し、中に閉じ込められるように進みます。

しかし、くぼみからは光が漏れ、正面からは光っているように見えるのです。


光学メーカーである、キャノンならではの発想でした。




さて、4社の発表を受け、「計算機の覇者」であったカシオも、社内的にトランジスタ計算機を試作していることを、慌てて開示します。

開発中でまともに動かない機械ではあったものの、その後開発に力を入れ、翌年には正式な発表にこぎつけます。


さらに、日本計算機(後のビジコン)からも、1966年にビジコン 161 が発表になります。


さらに、ソニーが MD-5 を改良し、SOBAX ICC-5500 として発売したのは、1967年でした。


この6社で、激しい争いが繰り広げられることになり、日本の電卓はあっという間に高性能・低価格化していきます。


最初の CS-10A は、53万5千円でした。

当時は会社の部長決済では、50万円までの買い物ができるのが普通だったそうで、50万円を切るのが目標額でした。


実際には目標額を達成できなかったわけですが、何かと理由をつけて1割引きにすれば部長決済で購入してもらえる、というぎりぎりの値段だったようです。


#ちなみに、当時の自動車もこの程度の金額だったそうです。



ちなみに、カシオの 14-A は、48万5千円。

この時すでに「古い機械」になっていますが、まだ販売は続いていたようです。

シャープの値段は、高速・小型なのだから高くても売れる、という強気の設定でもあります。




先に書いたように、カシオが翌年に発表した電卓は、38万円でした。


さらに、ビジコンは29万8千円。

急に値段が下がりすぎたため、「ダンピングではないか」と疑われ、業界他社からいろいろな圧力がかかったようです。


ここに、電卓戦争が本格化します。

ソニー、大井電気、キャノンは、激しい競争になったため、早々に撤退しました。




この後、電卓の性能競争の中で、計算回路を効率よく作るアイディアが次々出され、ついには世界初の「CPU」のアイディアにまでこぎつけます。

そう、CPU は、日本の電卓戦争が生み出したものなのです。


この話は以前に書いていますので、興味があればお読みください。






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