今日はカシオミニが発売された日(1972)。
名前は有名ですが、もちろん僕は実機を使ったことも、CMをリアルタイムに見たこともありません。
年がばれるけど、この世にはいたけど物心ついてない頃。
カシオミニは、ポケットに入るサイズの電卓です。
電卓というのは、「電子卓上計算機」の略です。卓上、つまりはデスクトップです。
その卓上計算機が、ポケットに入るサイズになるまでには激しい競争がありました。
「卓上」計算機になる前の話から始めましょう。
1950 年代、計算機と言えばタイガー計算機でした。
桁ごとにレバーが付いていて、その位置で 0~9 の数字を表します。
そして、クランクを回して歯車を動かすことで計算を行います。
足し算引き算はクランクを1回まわすだけ。
掛け算の場合、クランクを「かけたい数」だけ回します。
つまり、足し算を繰り返せば掛け算になる、という原理です。
ただ、大きな数をかけたいときにはこのままでは大変ですから、桁をずらすことで「筆算」と同じ原理で高速に計算できました。
割り算はもう少し複雑になりますが、おおむね掛け算の逆の考え方です。
1937年には、電動式のタイガー計算機も開発されていますが、高価で普及はもう少し後です。
電動式では、桁をずらす部分まで含め、自動的に掛け算・割り算を行ってくれました。
1950年代になると電動式も普及し始めますが、手動式でも高価なものだったので、一般的だったわけではありません。
コンピューターは「計算機」に自動制御機能を追加したものですから、電気式計算機もコンピューター以前からありました。
初期のものはリレー回路を使用していて、非常に巨大で、遅いものです。
それでも歯車式よりも高速で動作したため、特に膨大な計算が必要な組織で使用されていました。
この頃の計算機は、数値の入力も歯車式の計算機を模していました。
桁ごとに 0~9の数値を選ぶ、という方式です。10桁の入力がができるなら、10桁それぞれに 0~9 の数字が必要で、数字だけで 100個のキーが必要でした。
これを「フルキー方式」と呼びます。
カシオ計算機は、もともとはこの「リレー式計算機」を作成する企業でした。
まだ計算機と言えばタイガー計算機のような歯車式が中心で、リレー式計算機なんて作られていない頃のこと。
樫尾4兄弟の次男の発案で、リレー式の計算機を作り始め、1957年に「14-A」計算機が完成します。
カシオ計算機は、この機械の利益で作られた会社です。
使いやすさを考慮し、フルキー式ではなく、世界初の「テンキー式」を採用した計算機でした。
テンキー式とは…いうまでもなく、今の我々が知っている「計算機」の入力方法です。
10個のキーで 0~9 の数値を入力し、キーを押すごとに以前に入力した桁が上の桁に送られていきます。
表示に関しては、各桁ごとに 0~9 を示すランプがついていました。
まだ現在のような7セグ表示(いわゆるデジタル数字表示)はありませんし、それ以前につかわれた、数字の形の電極が重なるように入れてある「ニキシー管」も普及前です。
14-A は歯車などの機械部分を持たない「純電気式計算機」であり卓上計算機ではありません。
一見、机の上に置かれているように見えるのですが、その机こそが本体。上に載っているように見えるのは、入出力を行う操作盤です。
価格は 48万 5千円でした。
大学卒の初任給が1万円未満、あんぱん1個が12円の時代です。
#当時の「大学卒」は、非常に限られたエリートだったことに留意。今の大卒と違って高給取り。
今の感覚でいえば、1000万円近い機械でしょうか。
1964年 7月、シャープが「電子卓上計算機」コンペット CS-10A を発売します。53万 5千円。
フルキー方式でしたが、カシオのものよりもずっと小さく、机の上に乗せることができました。
なによりも、リレーと違いトランジスタを使用していたため、高速でした。
カシオはまだリレー式を作っていたのですが、トランジスタ式の研究も開始し、いや応なく切り替えていく形になります。
ここにきて、電卓市場に乗り出してくる会社が相次ぎ、後に「電卓競争」と呼ばれる状態に突入します。
各社機能と安さを競うようになり、どんどんコストパフォーマンスが上がっていきました。
1966年 7月に、日本計算器販売の発売した Busicom 161 が、競争の中で一歩抜き出ます。
数値の記憶部分に高価なトランジスタを使うのではなく、安価なコアメモリを使うようにした製品でした。
値段は 29万 8千円。たった2年で、電卓の値段は半額近くまで下がったことになります。
同社は、製品名のほうが有名になったために、後に「ビジコン」と社名変更します。
この頃、電卓の機能競争は、購入する各社ごとに必要な計算を行いやすくする「アプリケーション」の競争に入っていきます。
銀行に納入するなら複利計算などがすぐできるように。設計事務所に納入するなら構造計算がすぐできるように。
レンズメーカーに納入するなら、光の屈折計算がすぐできるように…
これらをすべて、トランジスタの論理回路で実現していくのです。
値段は下げなくてはならない一方、このカスタマイズ作業が非常に大変で、電卓メーカーの収益を圧迫し始めていました。
また、トランジスタを使った回路ははんだ付け個所も非常におおく、工場での組み立てコストも悩みの種でした。
1969年、シャープが QT-8D を発売します。
世界初の、LSI によって論理回路を実現した電卓でした。
基本演算部分を集積回路にし、アプリケーション部分は別に作り込めるようにすることで、はんだ付けのコストを大幅に減らしています。
値段は 99,800円と、10万円以下を実現しました。
ビジコンも追随し、LSI を1つだけの「ワンチップ化」に成功。BUSICOM LE-120A。
これにより、電池駆動でポケットに入るサイズを実現します。89,800円。
とはいえ、これは小さすぎるため、アプリケーションの作り込みなどはできないものでした。
ビジコンの次の一手が、「アプリケーションを回路の組み合わせではなく、ソフトで実現する」という 141-PF でした。
値段は 159,800円と少し高めですが、計算結果をプリントアウトできる高級機種でした。
この 141-PF を作成する過程で、世界初の「1chip CPU」である i4004 が作られています。
こちらは過去に 4004の発売日 で書いているので、興味のある方はお読みください。
ところで、1960年代は「所得倍増計画」が実行された年代でもあります。
池田勇人内閣総理大臣の打ち出した政策で、10年間で国民の所得を倍増させる、という計画。
実際は所得は4倍に増えています。好景気の時代でした。
先に、1957年ごろの大学卒初任給が1万円未満、と書きましたが、1970年代頭には 4万 6千円ほどになっています。
ちなみに、あんぱんの値段も 12円から 40円に値上がりしています。
生活に余裕ができ、レジャーブームが起こったころでもあります。
特に、ボーリングは簡単な運動で誰でもでき、屋内なので天候にも左右されないなど、いいことづくめで大ブームを起こします。
カシオ計算機の中でもボーリングはブームでしたが、当時のボーリングはすべての計算を手で行います。
(今みたいな、自動計算はない時代ですから)
ボーリングの計算は結構複雑です。
ストライク(1回の投球で的をすべて倒す)、スペア(2回の投球で的をすべて倒す)を出すと、その後の2回、1回の投球の点数がボーナスとして加算されます。
さらに、この頃はブームですから上手な人もいて、ハンデなども考慮した計算が必要です。
ここで、カシオ4兄弟の四男が、「ボーリング用の電卓があれば売れるのではないか」と発案します。
ボーリングの点数は最大で300点なので、数ゲームやって集計しても4桁あれば十分。
その分値段を下げ、ポケットに入るサイズにして…
早速技術者が仮計算してみると、1万円を切る販売価格で作れそうです。
四男とその技術者の二人だけで、他の人には一切内緒で完成させてしまいました。
作成の過程で、8桁になると製造コストが上がるが、4桁と6桁では大して変わらないことが判明。
表示は6桁になります。
従来、1桁ごとに1つの蛍光表示管(広義の真空管の一種)を使っていたのを、6桁を封入した大きな蛍光表示管にすることでコストを下げます。
#ただし、当初からそのように設計したというだけで、初期型には1桁ごとの普通のものが使われた。
6桁封入した管を特注すると、計画が他社にばれてしまう恐れがあったため。
表示は6桁ですが、6桁×6桁=12桁の掛け算性能を持ちます。
この際、上位6桁だけが表示され、下位6桁はボタンによる表示切替で見ることができました。
ボタンにはそれまで使われていたスイッチ(リードスイッチ)と違い、パネルスイッチを採用します。
パネルスイッチとは、基板に「途中が途切れた線」が作り込まれていて、スイッチ側の導電体を押し当てることで電気を流す仕組み。
今では当たり前に使われていますが、当時としては新しいコストダウン技術でした。
完成した電卓を重役会議で披露すると、兄弟の中での反応は上々。
しかし、部長クラスの重役になると「こんなおもちゃみたいなもの、売れるわけがない」という反応もあり、意見は分かれます。
当時の電卓は事務用品ですから、事務用品店の経路で販売されていました。
しかし、カシオミニは個人消費を狙った低価格商品です。
全く新しい流通網として、文房具屋に卸すネットワークを構築します。
そして、個人向けにテレビCMが作られます。
「答え1発! カシオミニ!」
当初の予定を超え、12,800円になってしまったのですが、それでも当時は驚くほどの低価格。
カシオミニは大ヒットします。
生産が間に合わず、営業の仕事は客に謝ってまわること、と言われたほどでした。
月産10万台で、10か月後には100万台。
1年近くたっても生産量が下がらず売れ続けていたのですから、本当の大ヒット商品です。
海外にも多く輸出されていました。100万台のうち 20万台は海外輸出だったそうです。
当時の電卓は、高い計算力を持つ「兵器」の一種だという考え方で、業界では海外への輸出の自主規制が行われていました。
ただし、ここで定義される「電卓」とは、8桁以上の計算能力を持つもの。
カシオミニは、6桁しかないためこの規制も潜り抜け、自由に輸出できたのだそうです。
ここに「電卓戦争」の時代は終結します。
カシオミニはその後も改良が続けられ、まずは定価は据え置きで製造コストの削減・使い勝手の向上を、ついで値下げを行っていきます。
3年後には、4800円と5千円を切りました。
シリーズ累計では1000万台を超える売り上げ台数となったそうです。
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