2016年03月05日の日記です


1988年のパソコン事情  2016-03-05 16:47:18  コンピュータ

前回は1985年ごろ、というつもりで書いたのだけど、多少突っ込みを見受けたので釈明。


1985年にはもうディスクは一般的だったのでは、と言っている方がいました。

たしかに、一般化し始めていたからこそ、ハイドライドのディスク版なんかも発売されたんでしょうね。


だけど、まだ高価だったのは事実で、中学生への普及率は高くはなかった。

先に書いたように、そもそもパソコンを持っているだけでも珍しい。興味はあるけどパソコンすら買えず、もっと安いポケコンで、というやつだっていた。


#前述の、家にパソコン持っていないのにディスクのゲームを購入した奴は、ポケコンなら持っていた。


あと、1985年「ごろ」なので、それほど話が厳密ではないです。

今でもそうですが、コンピューターを取り巻く状況は急激に変わる。


中学1年の時には、パソコンを持っていることが珍しかったのに、3年の時には PC-8801mkII SR を持っていたのは何人かいたようにも思いますし。


いずれにしても、一般化された話ではなくて「僕の周辺の」話です。

今回はもう少し後の時代を書くのだけど、これも僕の周辺に限った話。




1988 年ごろ…ちょっと前から話を始める。


ファミコンブームはひと段落するけど、ブームの中でゲーム機はファミコンの一人勝ちになっていた。

多数の機種がひしめいていたパソコンも、PC-8801mkII SR の後継機 (以下 88SR)が主流になっていた。


この間に挟まれたのが、MSX 。

MS はマイクロソフトの意味。マイクロソフトの名を冠した、8bit パソコンの決定版!…という触れ込みで発売されていた。


今ではどこの会社が発売した PC でも互換性があるけど、当時は会社が違えば互換性がないのが当たり前。

それを、会社の垣根を超えて互換性を確保しよう、という統一ブランドだった。


でも、先に書いたように、ゲーム機ならファミコンが、パソコンなら 88SR が強くなってきて、MSX はどっちつかずの状態。

MSX を発売しているメーカーにも撤退が相次ぐ中、カシオ計算機が思い切った機能削減により、他社のパソコンの10分の1の値段で発売を開始した。


これで、ゲームをやりたいわけではなくプログラムに興味があり、でも 88SR を買うほど金を持っていない貧乏人の間で、MSX は普及し始める。




僕が MSX2 を購入したのは、この状況から少したって、MSX が安定した勢力になりつつあった頃。

MSX2 は MSX の後継の仕様。カシオの MSX に引きずられる形でどんどん低価格化して、フロッピーディスク付きでも5万円程度で変えるようになっていた。


この当時、88SR を買おうと思ったら、専用ディスプレイ込みで20万円くらい。他社の機械でも同じくらい。

MSX2 は普通のテレビに接続できたので「ディスプレイなし」の値段なのだけど、非常に安かったのがわかると思う。


88SR は同時に8色しか出なかったけど、MSX2 は 256色出せた。

88SR でアクションゲームを作ろうと思ったら大変だったけど、MSX2 はスプライト機能(ゲーム向けの、小さなキャラクタを動かすハードウェア)を持っていた。


メインメモリ容量も同じ 64KByte だったし、MSX2 は全然 88SR に負けていなかった。

いや、当時の MSX ユーザーは、「負けていない」と思いたがっていた。



まぁ、実際には MSX2 の CPU 速度は 88SR の半分だったし、グラフィックが 88SR より荒いのでワープロなどには向いていなかったし、勝負になっていなかったのだけど。




僕は MSX2 でゲームを作ろうと思ったのだけど、なかなか難しかった。


ファミリーベーシックは 4KByte しかなくて、キャラクターはあらかじめ決められた「マリオ」などを使うだけ。

MSX2 は、64KByte 使えたし、キャラクターも自由に作れた。音源もファミコンより高機能だった。


ファミリーベーシックは、何かをやろうとしても「できない」ことのほうが多すぎて、妥協しながらメモリいっぱいになるまでプログラムを組んだら完成、だった。

でも、MSX2 は妥協しないでもいろいろできてしまう。プログラムの完成がいつになるかわからず、モチベーションが続かなくなる。



そして、MSX2 には誘惑が多かった。


ファミリーベーシックには、ゲームなんてなかった。ゲームをやるならファミコンのカセットを買えばいいのだから。

そして、カセットはコピーすることが難しかった。


中学生の頃は、先に書いた通り友達の間でも持っている機種がバラバラ。

コピーが当然の時代で、レンタルソフト屋があった話も書いたけど、そもそも中学生にとってはレンタル代金だって安くない。



MSX2 を買ったときにはある程度機種が淘汰されていて、同じ MSX2 ユーザーが周辺に何人かいた。

ゲームをコピーするにしても、友人経由で無料で回ってくる。必要なのは、生ディスクの代金だけ。


#MSX2 は各社から発売されたため、フロッピーディスクを制御する LSI である、FDC の種類が決まっていなかった。

 このため、プロテクトはかかっていても非常に弱いもので、コピーが簡単にできた。


ゲームを作ろう! と考えていても、面白いゲームが目の前にある。

これがモチベーションを低下させた。


結局、小さなゲームは数本作ったけど、「ゲーム作りが楽しかった」という思い出は、この頃にはない。




話が急に逸れるようだけど、当時は BASIC でプログラムするのが当然。

BASIC では、命令ごとに「行番号」が付くのだけど、これは処理の「とび先」を示すなどの言語機能以上に、大きな役割があった。


長いプログラムの「どこを」編集したいのかを示すのに、行番号を使うのだ。


10 INPUT A


と書いてリターンキーを押せば、この行を「10」という行番号と共に記憶してくれる。


20 END


と書いてリターンを押せば、新たな行を「20」として覚えてくれる。


間に行を入れたいときはどうするか?


今のエディタなら、行の間に空行を作って、新しい行を挿入する。

でも、BASIC ではそうはしない。


全く新しく、


15 PRINT A


と書く。画面上の順序としては、10 20 15 の順に行が並んでいることになる。


でも、LIST 命令で覚えている内容を改めて表示すると


10 INPUT A

15 PRINT A

20 END


と、行番号の順に並び替えられて表示される。


行を消したければ、行番号「だけ」を入れてリターンすればいい。

行の順序を入れ替えたいなら、LIST で表示された行番号を入れ替え、各行でリターンすればいい。



#リターンは今のように「改行」を意味するのではなく、「カーソルのある行を記憶」という指示だった。

 なので、2つの行を入れ替えた際には、両方の行でリターンしないといけない。

 もっとも、この作法も機種により異なり、富士通系ではリターンすると「画面上のすべての行を」記憶した。




この「行番号による編集」は、BASIC のものなのだけど、これを応用して動作するアセンブラなんかもあった。


BASIC が「記憶する」内容は、命令などが解釈された中間形式でメモリ上に置かれる。

でも、「コメント行」は、当たり前だけど解釈が行われない。そのままメモリに入る。


これを利用して、メモリ上に置かれた BASIC のコメント部分を解釈してアセンブルする、というアセンブラがあったのだ。

アセンブラ自体は、BASIC からメモリに機械語を置いて呼び出す形で使う。


1) BASIC で書かれたアセンブラプログラムを入力し、実行する

2) すると、BASIC を拡張し、「アセンブル」命令が使えるようになる

3) BASIC のプログラムを消去し、コメントの形でアセンブラソースを入力する

4) 2 で追加された「アセンブル」命令を使うと、メモリ上に機械語プログラムが生成される


ファイルなどを仲介せず、すべてメモリ上で行われている。

当時は、まだディスクを持っていない人もいたためだ。


当時は BASIC が BIOS であり、OS だった。

すべてをここから実行する。だから、今みたいな「エディタを起動」なんて概念がない。


でも、BASIC は、行番号によるエディタ機能を備えていた。

アセンブラなどのプログラムが作られたとき、このエディタを利用するのはごく自然なことだった。




1988年ごろには、ゲームとプログラムだけではなく、ワープロとかグラフィックソフトとか、他の使い方が一般化し始めた。


この頃、MSX-C というC言語のソフトもあって、僕は BASIC 以外の言語に興味を持っていた。

でも、C言語には行番号がないという。いったい、行番号なしでどうやってプログラムを入力するというんだ?


今から見ると笑い話みたいだけど、当時の僕には本当に見当が付かなかった。



パソコンで文章を書く、ということに興味を持ってワープロソフトを購入し、そこで初めて疑問が解けた。

画面上で文章を編集する、なんていう世界があったなんて!



とはいえ、C言語とかを使うのはまだ先の話。

当時は、この「画面上で文章を編集する」ということが、面白くて仕方がなかった。


#今も、文章を書くこと自体が大好きだ。

 だからこんな駄文を書いている。



それまでは高価な周辺機器だったプリンタも、このころ急激に安くなり始めている。


#裏には、ワープロ専用機のブームがある。

 BASIC ではなくワープロソフトが動くようにしたパソコンと、数行しか表示できない小さな液晶モニタと、プリンタを一体型にした機械だ。



これ以前のプリンタは、ドットインパクトが主流だった。

縦に何本か並んだ細い「針」を、横に動かしながらインクリボン越しに紙に打ち付けて印字する。


カーボン紙を挟んで2枚の紙を置いておけば、正副2枚の書類が作れる。

会社などでは便利だったからこのプリンタが主流だったのだけど、騒音が激しいし、可動部分が多くて作るのも大変なので高かった。


ワープロ専用機では、熱転写方式が主流となった。

プラスチックのリボンの表面に、薄く熱で溶けるインクが塗られている。

この上から、小さなヒーターで文字の形に加熱し、インクを溶かして紙に転写する。



ドットインパクト方式では、インクリボンは布でできている。

打ち付けた後も周囲のインクがにじんでくるため、長期間使えた。

また、上下に2本のインクリボンがついていて、「赤と黒」など、色が使えるものも多かった。


しかし、熱転写では、一度印字に使った個所は、まだインクが残っていても使えなくなる。

そんな形式なので、色を使えるようにすると、ものすごい無駄が出る。


本体は安く、静かだったけど、むちゃくちゃ印字コストの高い方式だった。



僕も、MSX2 用の熱転写プリンタを購入してワープロで作ったものを印刷して遊んでいた。


高校でパソコン部にいたので、みんなに呼び掛けて部誌とか作ってたんだけど、目的は部誌を作ることよりも、当時流行しつつあったDTPの真似ごとをしたかっただけだ。


でも、印字コストが高いので、主に「感熱ロール紙」を使った。


これは、熱に反応して黒くなる薬剤が塗布された紙。

鉛筆の裏で表面をこすると摩擦熱で黒くなる、というくらいの反応性で、長期保存には適さない。


でも、インクリボンを使うよりも、この特殊紙を買う方がずっと安かった。




MSX2 は、ファミコンのようなカートリッジによって、様々な拡張ができた。


今のPCよりずっと優れていて、ハードウェアとデバイスドライバが一体化している。

本当に、カートリッジの差し替えでなんにでも変身したんだ。


先に「ゲームはコピーしたものが回ってきた」というようなことを書いたけど、カートリッジで発売されるゲームも少なくなかった。

本当に欲しければ、お小遣いを貯めて買った。


先に書いたワープロも、漢字ROMなどが必要となるため、カートリッジになっていた。

高校生のお金で買うには高かったのだけど、本当に欲しかったので思い切って買った。


貧乏だと言いつつ、機能拡張には結構お金を使った覚えがある。




なんか、MSX2 の話ばかりになってしまっているけど、当時はそれなりに MSX2 ユーザーの勢力があって、僕が「MSX2 のコミュニティ」内にいたためだ、


あと、中学と違って高校は友達の家が遠いので、友達の家に行って別のマシンで遊ぶ、とかができない。

88SR 持ってた友達もいるけど、数回遊びに行った程度であまり思い出がない。


当時は、BASIC が使える、電卓を巨大化させたような「ポケットコンピューター」もあった。

中学の頃のポケコンは、プログラムができる電卓、という程度の低機能なものだったのだけど、高校の頃には低性能なパソコン程度の力は持っていた。


テトリスが流行した時、ポケコンでテトリスを作ったらクラスで流行してしまい、休み時間になるたびにクラスメイトがポケコンを借りに来たのを覚えている。



あぁ、そうだ。大事な話を忘れていた。


中学の頃は、パソコンはマイナーな趣味だけど、それほど悪いイメージはなかった。

でも、高校の頃には「オタク」や「ハッカー」という言葉が社会的に浸透し始め、パソコンで遊んでいたり、プログラムを作るだけで後ろめたい雰囲気が醸成されていった。


つまりは「パソコンが無視できないものになりつつあった」ことの裏返しなのだけど、多くの大人が、この新しいメディアをどのように捉えていいのかわからなかったんだ。


結果として、もちろんそのコミュニティにもよるとは思うのだけど、パソコンが趣味だというだけで蔑視されたとか、暗い思い出を持っている方も少なからずいるように思う。



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