2015年07月16日の日記です


原爆実験の日(1945)  2015-07-16 14:18:03  コンピュータ 歯車 今日は何の日

今日はアメリカ軍がアラゴモード砂漠で、プルトニウム原爆の爆発実験を行った日です。


トリニティ実験、と呼ばれています。

この日以降、世界は「核の時代」に入った、とされます。


…気の重い話題だ。日本人として、特に気が重い。

でも、主にコンピューターの歴史で「今日は何の日」を書いている以上、触れないわけにはいかない話題だと思うのです。



原爆の開発プロジェクトが「マンハッタン計画」と呼ばれているのは有名です。


当時、核物質が強いエネルギーを持っていることはわかっていましたが、爆弾に応用可能かどうか、は未知でした。

そのため、爆弾を作成するのであればどんな核物質が適切か、というところから研究が始まっています。


主な対象となったのは、すでに知られていた核物質である「ウラン」と、見つかったばかりの核物質である「プルトニウム」。


ウラン型の爆弾は、論理計算のみで製造がおこなわれました。

一方、プルトニウム型の爆弾は、爆発実験が行われました。


1945年の今日行われたのは、このプルトニウム型の爆発実験。

実験は成功し、後に長崎に投下されています。

(広島に投下されたのは、ウラン型でした)




当時はまだ、電子計算機は作られていません。ENIAC は開発が進んでいましたが、完成は大戦終結後です。


でも、Harvard mark I (ASCC) はありました。

原爆の理論を完成させるには膨大な計算が必要で、ASCC ではその計算の一部が行われています。

(ASCC で計算されたのが、ウラン型・プルトニウム型のどちらのものだったのかはわかりません。)



良く言われる、コンピューターが「戦争の道具として開発された」というのは適切ではありません。

どちらも、学者が「面倒な計算を行ってくれる道具」として着想したものです。


しかし、それが戦争の道具として「利用」されたのは事実です。


日本が「精神論」で戦争に勝とうとしていたことは、たびたび批判されます。

しかしそれは実は日本だけではなく、アメリカも第1次世界大戦中は同じで、非常に多くの死者を出したのです。


そこに目をつけ、ヴァネバー・ブッシュが戦争に「知見」をもたらします

実は、体よく予算をぶんどって大学・学者にばら撒くのが目的だった節はあるのですが、ともかくアメリカは知力を結集して戦争に望みました。



原爆等という想像を超えた兵器を着想したのも学者ですし、そのために計算力が必要となれば、ASCC のような計算機も利用されています。

間に合わなかったとはいえ、ENIAC のような新型計算機の開発にも予算が配分されました。

Whirlwind I だって戦時中に軍が予算を付けて開発を開始したものです。


戦争ですから、まさに「殺るか殺られるか」の世界。

わずかでも計算速度が遅ければ、敵の攻撃を受けて終わり、かもしれません。

とにかく、速度の速い計算機が求められました。ENIAC などは、その延長上にあるアイディアだったから予算が付いた、とも言えます。


今でも、計算機は速度が最重視されているように思います。

1980年代のパソコンなど、速度以外にも多様な評価軸があったように思うのですが。




話を核爆弾の実験に戻しましょう。


ウラン型とプルトニウム型は並行して作成されていましたが、プルトニウム型だけが爆発実験を行っています。


実験に先立ち、1通の報告書が大統領に提出されました。

報告書の作成者は、マンハッタン計画に参加したジェイムス・フランクを中心とした7人の学者。

このことから、報告書は「フランクレポート」と呼ばれます。


既に、核爆弾を日本に対して使用することは決定されていました。


#これに関してはいろいろあります。

 開発開始時にはドイツを標的にしていたようですが、チャーチル英首相とルーズヴェルト米大統領の会談で、ドイツ降伏前・原爆完成前から日本を標的とするようになっています。

 陸続きのヨーロッパで強力な兵器が使われてはかなわないので、島国で…という意図もあったかもしれません。


しかし、フランクレポートでは、その前にデモンストレーションとして実験を行い、それを使用することを日本に通告するほうが良い、としていました。


このレポートでは、各国が核兵器を持ち、互いに疑心暗鬼になる「冷戦」状態が戦後に生じる危険性を示唆しています。

技術はやがて普及するものですから、各国が核兵器を持つのは時間の問題。


冷戦を避けるためには国際協力が不可欠で、アメリカが率先して国際的な信頼を得なくてはならない、としています。

そこで、日本に対して核兵器使用を通告し、降伏を促す、という紳士的な態度が重視されるのです。



この報告書を受け、実験は行われました。

ただし、その実験成果をどのように世界に公表するかは、あらかじめいくつものシナリオが考慮され、実験結果を見てから決定されることになりました。


シナリオには、その破壊力を日本に見せつけて降伏を促すためのものから、「不慮の事故によって多数の科学者が死亡した」と伝えるものまで、複数あったようです。

実験結果は十分な破壊力であったものの、一部の科学者の予想ほどの破壊力はありませんでした。

結果として、成功はしたものの「火薬庫の事故で爆発があったが、死傷者は無い」と公表するにとどまりました。



日本に対して降伏を促さなかったのは、核爆弾を作るには高い技術が必要で、フランクレポートが危惧する様に、「すぐに他国が持つ」ようにはならないだろう、という考えもあったようです。




7月16日に実験が成功して、8月6日には広島に未実験のウラン型を、8月9日には長崎に実験と同様のプルトニウム型を使用します。


これに関しては、アメリカは公式に「戦争の終結を早め、無駄な死者を避けるためだった」としており、多くの人が…アメリカ人に限らず、日本人もその公式見解を信じています。

ただ、先に書いたフランクレポートの関係もあり、事はそれほど単純ではないようです。

戦争の終結を早めるなら、実験を公表するだけでも十分だったのですから。


日本では、1944年11月以降、首都東京に対する度重なる空襲…特に、3月~5月にかけての空襲と、5月に同盟国であるナチスドイツが降伏してしまったことで、敗戦ムードが濃くなっていました。


しかし、負けを認めるにしても、どこまで良い条件を引き出せるか…なかなか、すぐに降伏、とはいきません。

実のところ、当時アメリカと同盟国ではあるが、日本とは戦争していなかったソ連を通じ、アメリカとの和平工作を働きかけています。


こうしたこともあり、アメリカは日本が夏まで持たずに降伏するかもしれない、という情報を入手していたようです。

「既に降伏が近いと知っていた」ことは、「原爆が戦争の終結を早めた」とする公式見解と異なります。



アメリカにとっては、むしろ「降伏される」ことの方が困る状況でした。

やっと完成した新兵器の威力を見せ付けるには、実験だけでは不十分で、実戦での使用の方が衝撃が大きいのです。


また、砂漠での実験だけでは、実際の市街地への投下でどの程度の破壊力かを知ることができません。

是非、実戦で使用したい、というのがアメリカ側の思惑だった様子。



このため、アメリカは慌てて新兵器を投入した、というのが近年の歴史学者の見方。

もちろん、学者によって見解は異なりますが、アメリカの学者でもこの見解を支持する人が多いようです。


#念のため書いておきますが、僕は広島・長崎の補償を今からアメリカに求める…というような考えは持っていません。

 被害にあわれた方としては、「実験」目的で何万人も殺した、というのは許しがたいことだと思いますが、元々国のエゴがぶつかり合うのが戦争。

 ただ、過去にあった事実を、個々人が記憶しておくことは大切だと思います。二度と同じ過ちを繰り返さないためにも。




以下余談。


実のところ、日本は原爆を落とされてもなお、無条件降伏ではなくソ連を通じた和平に期待をかけていたようです。


ところが、 8月 9日にソ連が日本に対して宣戦布告。

これに慌てた日本は、 翌日 8月10日に、ポツダム宣言受諾の準備があることをアメリカに伝えます。


そして、8月 14日に正式に受諾通告。8月 15日に無条件降伏することを国民に周知。



ただし、これは「国民に対して周知した」というだけで、戦争は終わっていません。

局所的な戦闘は 8月下旬まで続き、 9月 2日に昭和天皇が正式な文章としての降伏文書に調印。


これによって戦争が終結します。




戦争終結からわずか4年後…1949年 8月 29日には、ソ連が核兵器の開発に成功します。


これは、アメリカの思惑とは違うものでした。フランクレポートにあるように「すぐに他国が核兵器を持つ」ということは考えられない、と思っていたようですから。


実際、核兵器の開発は非常に高いノウハウと、技術力が必要でした。ソ連も、普通なら短期間で開発することはできません。

しかし、軍事スパイが情報をもたらしたために、短期間での開発が可能となったのです。


このスパイ事件は後に映画になり、映画の中で SSEC が使用されています。

また、戦時中にフライトシミュレータを作るために開発されていた Whirlwind I は、ソ連軍の核攻撃からアメリカを守るための SAGE システムへと変貌します。


この後、フランクレポートが危惧したように、世界は冷戦へと進んでいきます。




この頃のコンピューターには、戦争や血なまぐさい話が付きまといます。

しかし、戦争だからこそ命がけで開発が行われ、急速に性能が上がっていったのも事実。


いま、平和にコンピューターを利用できる我々も、そういう歴史を知っている必要はあると思うのです。



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