今日は何の日12ページ目の日記です

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2016-02-07 アン・ワング 誕生日(1920)
2016-02-14 クリストファー・レイサム・ショールズの誕生日(1819)
2016-02-15 ニクラウス・ヴィルト 誕生日(1934)
2016-02-17 トーマス・J・ワトソン 誕生日(1874)
2016-02-22 スティーブ・ブリストー 命日(2015)
2016-02-24 クロード・シャノン 命日(2001)
2016-02-29 ハーマン・ホレリス 誕生日(1860)
2016-03-01 シーモア・パパート 誕生日(1928)
2016-03-07 【訃報】レイ・トムリンソン
2016-03-09 クララ・ロックモア 誕生日(1911)
2016-03-11 オーレ・キアク・クリスチャンセン 命日(1958)
2016-03-14 アレクセイ・パジトノフ 誕生日(1956)
2016-03-20 ロビン・ミルナー 命日 (2010)
2016-05-12 NORAD 設立日(1958)
2016-05-19 大川功 誕生日(1926)
2016-06-06 テトリス完成(1984)
2016-06-07 アラン・チューリング命日(1954)、ドナルド・デービス誕生日(1924)
2016-06-09 8086 発表日(1978)
2016-06-20 顔文字 (^_^) の生まれた日(1986)
2016-06-21 コンピューターが初めてプログラムを実行した日(1948)
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アン・ワング 誕生日(1920)  2016-02-07 17:54:41  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、アン・ワング博士の誕生日(1920)


コア・メモリを発明(1949)した人です。


それ以前は「メモリ」といえば、真空管で構成する、水銀遅延線を使う、ウィリアムス管を使う、のどれかでした。

逆にいえば、この3種類がどれも一長一短で、決定的な方法がなかった、という事でもあります。


コアメモリは、この3つのどれよりも優れた特徴が多く、コンピューターのメモリを席巻しました。

発明以降20年間主要メモリとして使われ続け、40年後の1990年代でも、一部で実用的に稼働していたのです。



インテル社が、コアメモリに変わる新しいメモリを開発・実用化する、ということを目的に設立された会社であることを知っている人も多いかもしれません。

昔のコンピューターにおいては、コアメモリの存在はそれほど大きかったのです。


コアメモリについて、詳細は、アン・ワング博士の命日記事に書いています。

興味がある方は、そちらも併せてお読みください。



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17年 レスリー・ランポート 誕生日(1941)


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クリストファー・レイサム・ショールズの誕生日(1819)  2016-02-14 23:07:40  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日は、クリストファー・レイサム・ショールズの誕生日(1819)


およそ1年前、命日の際に取り上げています。

命日が誕生日の3日後なのね。


詳しくはそちらを見てもらうとして、QWERTY 配列キーボードを考案した人です。

これ、数字の下の段のキーが、左上から順に QWERTY という順に並んでいるのでそう呼ばれます。


別の並びとしては DVORAK 配列とか有名だけど、僕は使ったことはありません。

(別に DVORAK の順に並んでいるわけではなく、配列考案者の名にちなむ)




詳細は命日記事に譲るので、もう余談です。


今でもコンピューターのキーボードは QWERTY 配列になっていますが、記号類などは昔とずいぶん変わっています。

ここ数日、昔のキーボードには { } とかの記号ないよね、って話を書き続けています。


この話書くために、すごく膨大な数のキーボード画像見ました。

いやー、いろいろある。昔は今ほど「標準」がしっかりと決められていなくて、本当にバラエティに富んでいる。


今では、US 配列は数字の 2 の SHIFT 状態が @ になっています。

日本で使われる JIS 配列は、ここが " になっている。


US 配列は当時一般的に使われていたキーボードを元にした…ということになっているのだけど、1970年前後に一般的だった ASR33 端末なんか、むしろ JIS 配列に似ていたりする。

それ以上古くなると、今度は記号類が極端に減って、SHIFT しても記号なんかでなかったりするはずなんだけど、なんで記号の配列が「あまり使われていなかったもの」に変わってしまったのかと思うと興味深い。


#JIS 配列は ISO 配列を元にしているのだけど、この配置は SHIFT 状態で ASCII コードを +32 ないし +64 すればよいだけなので論理的に作りやすい、という説がある。

 でも、むしろ話は逆で、当時一般的に使われていた ASR33 のような配列を元に ASCII を制定したのではないかと思う。

 よく調べてないから鵜呑みに信じられても困るけど。




Space-cadet keyboardなんていうのも見つけた。


3日前の記事に書いた、TX-0 に後からつけられたキーボード…リンカーン Flexowriter の延長線上にあるのではないかと思うのだけど、詳しい由来はよくわからない。というか、そこまで調べていない。


MIT で作成された、Lisp machine で使われていたキーボードで、奇妙な記号がいろいろと使える。

括弧なんか ( ) [ ] { } に加えて、〈 〉も使える。< > (大なり小なり)と区別がつかないで困ったりしなかったんだろうか。


☜☞ (環境によっては見にくいかも。人差し指で左右を示す形)に加えて、👍👎(環境によっては表示されないかも。親指を立てる、親指を下に向ける)まである。


リンカーン Flexowriter は、ASCII 時代になって記号が増えることで消えてしまった時代の仇花なのだと思っていたから、思わぬ後継機種があることに驚いた。


まぁ、結局一般化はしなかったわけだけど、今なら Unicode があるからこれらの文字を入れられないでもない。

その記号が入るからと言ってあまり便利にならないのだけど、洒落でどこかの会社が復活させないだろうか。

値段次第では買ってもいいのだけど。


#あ、でも僕は記号類の配置が US 配列だとイライラしてしまうので、ダメかも。




BCPL と { } の話は、まだ気になる部分があって調査しているのでもう1回くらい書くと思います。

面白い話のタネを提供してくださった、ツイッターで会話していたグループの方々に感謝です。



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ニクラウス・ヴィルト 誕生日(1934)  2016-02-15 16:01:04  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、ニクラウス・ヴィルトの誕生日(1934)


Pascal(1970) や Modula-2(1978) を作った人です。


Modula-2 は、一時期もてはやされていて憧れがあったのだけど、僕は使ったことがありません。

基本的に Pascal の後継(である、Modula の)改良版だそうです。


Pascal って、よくできていたし「将来のコンピューター言語はこれだ」というように言われたのだけど、欠点も多々あった。


それを解消しようとした意欲作が Modula で、でも意欲作であるが故の無理もあったみたい。

開発途中で無理に気づいて開発をやめてしまったため、詳細は明らかになっていません。


そして、無理な部分を修正したのが Modula-2 。

Pascal の良さは継承しつつ、悪いところはきちんと修正されていた。

だからこそ、熱狂的にもてはやされた。


でも、よくできているものが普及する、とは限らない。

Modula-2 は普及せず、今ではほとんど忘れ去られています。




Pascal のほうは、一定の普及を見ましたし、僕も使ったことがあります。


以前に少し書いたことがあったな。

大学で DOS 版の TurboPascal (Borland 社の作った、Pascal実装の一つ)を使っていました。


Pascal はコンパイル型言語なのだけど、TurboPascal はコンパイルがむちゃくちゃ速い。


当時、BASIC では F5 キーに「RUN」というコマンドが定義されているのが普通で、プログラムを作ったら F5 キーを押せば動き出します。

TurboPascal もこれに倣っていて、F5 キーを押すとコンパイルして、すぐに実行される。


この待ち時間が、事実上無いの。

インタプリタである BASIC のように実行できて、コンパイラなので速度は速い。


TurboPascal の実装が良かった、というのもあるのだけど、Pascal 自体の言語設計が上手だった。

構文解析がしやすいように巧妙に文法が定められていて、頭から終わりまで解析すると、その時点でコンパイルが終了していたのね。


#普通、コンパイラは1回目で変数名や関数の定義を把握し、2回目で命令を生成します。

 Pascal は、命令の生成と定義の把握を同時に行える文法にしてあった。




Pascal は、P-code と呼ばれる中間言語を生成します。

実行する際は、P-code インタプリタと呼ばれる仮想 CPU を使って、この中間言語命令を実行してやる。


だから、直接 CPU に命令を出すコンパイラに比べると遅いです。


でも、P-code 形式の良さもある。

まず、コンパイラの移植が簡単です。ターゲット CPU ごとに作り変える必要はないのですから。


#もちろん P-code インタプリタを作る必要はあります。


仮想 CPU なので、暴走しても停止させる、なんて芸当も可能です。

先に TurboPascal が F5 ですぐ実行できた、と書きましたが、実行中に停止することもできたので、本当に BASIC と同じ感覚で扱えました。


そして、十分にデバッグができたら、P-code から実際のターゲット CPU の命令に変換すればよいのです。

そうすれば、高速に動作させることができました。


これらの特徴はすべて、Pascal が教育用として考えられていたから。


教育用でありつつ、十分に強力で実際に役立つアプリケーションも作れる。それが Pascal の特徴でした。

実際、Pascal は Pascal で作られています。




先日から調査して書いている、BCPL (1967) と似てますね。


BCPL は、中間言語を生成して、インタプリタや、実際の CPU 命令へのコンバータを使って実行します。

実は、BCPL のこの中間言語は O-code と呼びます。呼び名も似ています。


BCPL が先に考えた、というのではなく、当時こういう形式が流行したのです。

ヴィルト自身、Pascal の前に Euler (1965) という言語を作っていて、その時にも同じように中間言語形式を使っています。


#パスカルにオイラー…偉大な数学者の名前です。


しかし、ヴィルトが Pascal を作った際に「P-code」という呼び名を広めたため、現在ではこうした形式を一般に P-code と呼んでいます。


P が何の意味か…は不明なのですが、ヴィルトが Modula-2 を作った時には M-code と呼んでいます。

ということは、P は Pascal の略なのでしょう。


しかし、今では P-code という呼び方が一般化してしまったため、pseudo (仮想的な)や portable (可搬性のある)の略とされます。




Pascal が当時どれほどの人気を持っていたか、示しておきましょう。


Apple II には、純正の Pascal 処理系が発売されていました。

Lisa も、Macintosh も Pascal でプログラムを作ることを前提として内部のプログラムが用意されました。


IBM が PC を作成したとき、必要としていた言語は、IBM の大型機でも使用されていた FORTRAN と COBOL 、それに家庭用 PC なら絶対必要な BASIC 、そして Pascal でした。

これらをすべてマイクロソフトに依頼し、マイクロソフトはこの4つに加えて DOS を開発しています。


TurboPascal は、当初 CP/M 用から開発されたので、Pascal は Z80 / 8080 マシンでも使えました。

もちろん、CP/M 互換の MSX でも使えます。


他にも、移植されたマシンは数知れず。

みんな、これが BASIC の次に来る言語だ、と心から信じていましたし、実際 Pascal はよくできたシステムでした。




WEB 上で動く、TurboPascal エミュレータがありました。


Borland 社が、TurboPascal の DOS 版の「コンパイラ部分」のみをフリーウェアとして公開したことがあります。

そのコンパイラ部分を使用したエミュレータです。


TruboPascal は先に書いたように、プログラム作成中に F5 を押しただけですぐに実行できました。

上のエミュレータでは、そうした統合環境を試すことは出来ませんが、雰囲気くらいはつかめます。


「D」を押すと、用意されているサンプル一覧を見ることができます。

「W」を押すと、ファイル名を聞いてくるので、上の一覧で見られるファイル名を、拡張子まで入れてください。


「R」を押すと実行できます。

実行中でも、何かキーを押せばすぐに元の状態に戻れます。


「E」を押すと、ソースファイルを編集できます。

このエディタは、ブラウザ上の TEXT 入力にすぎません。コピペも可能です。

セーブはない(S コマンドが画面上に表示されているが、実装されていない)ので、保存はコピペでローカルファイルにしてください。


エディタ使用時は、左下に「Close Editor」という表示が出るので、クリックすれば終了します。




TurboPascal にはグラフィックライブラリがあり、上で公開されているサンプルでもグラフィックを使用しています。


Apple II の Pascal にも、グラフィックライブラリを作ろうとしたことがあったようです。

でも、Apple II の VRAM って、非常に複雑なのね。

ハードウェアから見ると非常に美しい、よくできたものなのだけど、ソフト側から見ると難解。


ここに、理想的なグラフィック環境を作り上げるにはどうすればよいか、社内でもなんとなく競っていたようです。


ビル・アトキンソンが、Apple II のグラフィックはどうせにじむのだから、「点線」を描いても「直線」に見える、というテクニックを駆使して、非常に高速なラインルーチンを書いた。


これ、高速だから「QuickDraw」と名付けていたらしい。この頃は正式名ではなかったらしいけど。


…元の話、どこかで読んだのだけど探しても見当たらない。

ウォズが「アトキンソンはずるをしたけど、ジョブズは見破れず気に入ってしまった」と証言しているのは、手元にある「Apple II 1976-1986」に載ってました。



後に Lisa を作るときに、このライブラリが流用され、さらに Macintosh でも使用されます。

これらのマシンは白黒だけど、Apple II 用の QuickDraw はカラーを考慮していたので、内部的にはカラーを扱えるようになっていたらしい。


QuickDraw は「理想の」描画環境を目指したので、解像度に依存しないし色数にも依存しない。

(0,0) から (0,100) まで直線を引くと、100 ドットの線が引かれる。数学的に正しいです。


これ、昔の BASIC とかだと 101 ドットの線が引かれるからね。


QuickDraw は数学的に正しいから、他の解像度の環境に持って行っても、適切に倍率を掛けて描画して、同じ結果を得られた。

画面とプリンタでは解像度が全然違うのに、同じ結果が得られたのは、裏にこういう仕組みがあったからです。


今だと、PostScript が同じような仕組みを使っているし、Mac の画面描画も PostScript ベースになっているのだけど。




Macintosh … 今の MacOS X 搭載のやつじゃなくて、Classic と呼ばれる OS 9 までのやつね。

その ToolBox と呼ばれる ROM に搭載されたプログラムも、Pascal 前提でした。


だから、Cで扱おうとするとやりづらい。

Pascal とCでは、文字列を扱う方法が違うんです。


Cでは、文字列の最後に NULL (キャラクタコード 0 の文字)を置く。

Pascal では、最初の1バイトに文字列長を入れる。文字列長がわかっているので、最後に NULL などを置く必要はない。


たしか Mac 用のC言語では、文字列をそのまま Pascal 文字列に変換してくれるような仕組みがあったと思うのだけど、よく覚えていない。

仕組み上、Pascal では 255文字以上の文字列は扱えない。




なんか Pascal から連想するいろんな話をつらつらと書き連ねただけになってしまいました。

まぁ、時にはこういう回があっても。



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トーマス・J・ワトソン 誕生日(1874)  2016-02-17 12:14:06  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日は、トーマス・J・ワトソンの誕生日(1874)。


IBM の初代社長です。起業した人かというとちょっと違うのだけど。

ちなみに、2代目社長となるトーマス・J・ワトソンはこの人の子供。


わー、なんだそれ。子供に自分と同じ名前付けるな。

ややこしいので、一般に父親は「シニア」または「ワトソン」、子供は「ジュニア」または「トム」(トーマスの愛称)と呼ばれます。


…というわけで、この文章ネタはもう3回目。


シニアの命日と、ジュニアの誕生日で使ってます。




ややこしいので改めて書いておくけど、今日はシニアのほうの誕生日。


凄腕のセールスマンだったけど、販売のために使った手法が法に抵触していて逮捕、一度は有罪に。

しかし、その後控訴して無罪を勝ち取ります。


その後、晴れて無罪となったので、手腕を買われて雇われ社長に。

パンチカード集計機やタイプライターなどを売っていた会社でした。


このときに社名を International Business Machines に変更。

意味は「国際事務機器」かな。略称で IBM と呼ばれます。


シニアは、この会社を大企業に育て上げました。



でも、シニアは IBM を「コンピューターの会社」にはしていない。

機械を売るのではなく、ビジネスソリューションを売るサービス会社でした。


サービスのために、多くの社員を抱えていた。

社員は家族同然と考える彼にとって、コンピューターを導入して「人手を減らす」なんて言うのはやってはならないことだった。


とはいえ、コンピューターと呼ばなかっただけで、SSEC という、演算部分が真空管で、当時としては最高速度のプログラム可能計算機を開発させているのだけど。


僕が調査している中では、一番古い「NOP命令」を搭載したマシンでもあります。

コンピューターじゃないけど、NOP は持っているのね。




詳細は、先ほどもリンクした命日記事に書いてますので、そちらをお読みください。


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スティーブ・ブリストー 命日(2015)  2016-02-22 11:42:59  コンピュータ 今日は何の日

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今日はスティーブ・ブリストーの命日(2015)。


昨年訃報を見たときにはじめてこの方のことを知りました。

いや、名前くらいは見かけていたはずなのですが、ちゃんと興味を持っていなかった。


ATARI のエンジニアで、スプライトを考案した人ですね。


リンク先では特許書面がリンク切れになっていますがこちらにあります




以前、ATARI の設立者の、ノーラン・ブッシュネルの話を書いたことがあります。

そこで「ブッシュネルのアイディアを元に、コンピューター・スペースを作り上げた同僚」というのが出てくるのですが、このうちの一人がブリストーです。


ちなみに、ATARI 最初のヒットゲームである PONG! は、別の人。

やはり AMPEX 時代の後輩技術者、アラン・アルコーンが作っています。


アルコーンは、PONG! の大ヒット後、ブッシュネルに誘われて ATARI に移籍しています。

その後、ブリストーも ATARI に移籍。


ブッシュネルは、技術者としてはアルコーンよりもブリストーのほうを高く評価していたようですから、実際ブリストーの腕前は大したものだったのでしょう。

その後、続々とゲームを作り出します。大ヒットとなった Break out! もブリストーの作。



スプライト開発の経緯は、先にリンクしたページが詳しすぎて、ここで改めて(丸パクリで)書くのもはばかられるので、そちらをご覧ください。

まぁ、簡単に書けばアメリカン・フットボールのゲームを作りたくて、多数のキャラクターを表示する方法を考案したようなのです。


これで作成された ATARI Football は、アメリカでは大ヒット。

日本ではあまり知られていない…ということなのだけど、僕このゲーム知ってるわ。


アメフトって、フォーメーションをどのように決めるかがすごく重要なゲームで、局面に応じて適切なフォーメーションを選択し、そのうえでボールを適切にコントロールする…つまり、アクションゲームとなる部分があるわけです。

頭脳プレイも必要、アクションプレイも必要、このバランスを絶妙にそろえたゲームでした。…だったようです。


というのも、このゲームを見たことはあるのだけど、アメフトのルールを知らないものにとってはあまりにもハードルが高いゲームなのです。

フォーメーションを定めて、そのフォーメーションごとに定められた「最適な動作」を行うことが重要なのだけど、アメフト知識がないと全く何してよいのかわからないのね。


日本で売れなかった理由、よくわかります。

でも、近所のお店にはこれ置いてあったんだよね…




さて、ブリストーは後に「キーゲームス」の技術者も務めています。

これ、今日調べていて初めて知った。


Wikipedia に書いてあったのだけど、非常に面白い話なのに、書き方が悪くて伝わりにくい。

かみ砕いて説明しようかと思います。


#Wikipedia を見ただけで、そもそもの出典を僕が読んでいません。

 なので、勘違いがあったらごめんなさい。



まず、ゲーム業界の商習慣の話を十分に知らないと理解できないのに、それらは全く書いてない。

そこの説明から。



ゲーム商売は、「メーカー」と「ディストリビューター」「オペレーター」に分かれています。


メーカーは、ゲームを作る会社。ATARI 社なんかもそうですね。

オペレーターは、ゲームセンターなどの運営者。お客様に触れる、一般に一番目にするところです。


その間に「ディストリビューター」があります。

ゲーム会社からゲームを大量に仕入れ、オペレーターに卸す流通業。


さて、アメリカの場合、州ごとに各種の規制などが異なります。

なので、ディストリビューターも州内の流通だけを受け持ち、他州にまでは手を出さないのが普通。


そして、1つの州の中にも、当然複数のディストリビューターがいて競業しています。



ATARI 社創設当時のアメリカでは、商習慣として、メーカーは「1つのゲームにつき、1つの州で、1つのディストリビューターとだけ契約する」ことになっていたようです。

ゲームごとに流通独占契約を結ぶのですね。


PONG は大ヒットゲームで、コピーが公式の 10倍も作られた、と考えられています。

これも、ATARI がある会社と契約してしまうと、州内の別のディストリビューターは契約できなかったため。


ゲームが大ヒットしていて、扱えば莫大な利益があるのに、契約できないから諦める…なんて物わかりのいい話はありません。


出来が多少悪くても、似たようなコピー品があり、契約できるなら扱うのです。

会社を維持するための努力ですから、綺麗ごとは言っていられない。




ブッシュネルは、これを馬鹿馬鹿しい商習慣だ、と考えました。

なんとか、ATARI 社が複数の会社と契約できるようにしたいと考えました。



そこで、たまたま近所に住んでいた keenan さんに掛け合って、ダミー会社の社長に据えます。


愛称 kee さんのゲーム会社なので kee games 。でも、会社のマークは key (鍵)のような形にしてあります。

ここで重要なのは「ATARI のマークとは全く違う」ということ。ATARI とは別会社であることが重要なのです。


重役は、ブッシュネルと、アルコーン。でも、これは「経営重役」なので、あまり名前を表に出しません。

そして、技術者は、ブリストー。「ATARI から寝返って別の会社に就職した」という噂を広めました。



ATARI 社がゲームを作ると、それを元にすぐにキーゲームズも「コピー品」を作ります。

事実上2社は同じ会社なのですから、そっくりで高品質のゲームを作るのは簡単でした。


そして、1つの州で最大手のディストリビューターと、ATARI は契約します。

2番目の規模のディストリビューターは、「そっくりのコピー品を作る」キーゲームズが契約します。


これで、ディストリビューターはほとんど抑えられてしまう。


その他のコピー品を扱うところもあるかもしれませんが、流通にあまり乗らなければ儲かりません。

儲けがなければ、そのうちコピー品を作る業者もいなくなるでしょう。


もちろん、キーゲームズは事実上 ATARI と同じ会社ですから、利益は全部 ATARI に入るのです。



ブリストーが独自にゲームを作ることもあり、その時は ATARI がコピー品を作ります。

とにかく、2つの会社をうまく使って、商習慣を気にせずにゲームを流通させることが大切でした。




同じようなゲームが複数流通し、「独占契約」に意味がなくなったことで、徐々に商習慣は崩れていったようです。

後には、ディストリビューターの独占契約自体が無くなってしまいました。


これでキーゲームズも役割を終えました。ATARI 社に吸収合併されます。

でも、ATARI 社としては取り立ててこの事実を公表することもなく、両社は「何か関係がありそう」だと推測される程度にとどまっていました。


関係が明るみに出たのは、結構最近になってからなのだそうです。



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クロード・シャノン 命日(2001)  2016-02-24 11:56:55  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、クロード・シャノンの命日(2001)


誕生日記事を書いているので、詳しくはそちらをお読みください。

この記事は、命日を記録する目的のみ。



実は今日は、スティーブ・ジョブズの誕生日(1955)でもあるのだけど、こちらはまだ書く気がせず。

どうも、死んでから神格化されてしまっていて、迂闊に書けない雰囲気なのだよなぁ。


うめさんの漫画もあるし、映画化もされるし。

とっても酷い人で好きなんですけどね。


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今日は、ハーマン・ホレリスの誕生日(1860)


閏日の誕生日です。珍しい!

今日の紹介を逃すと、次は4年後になってしまいます。


まぁ、普通は28日か、3月1日を「誕生日」の扱いにするのでしょうけど。




ハーマン・ホレリスは、パンチカード集計機を作成し、計算・集計事務に革命を起こした人です。


「計算する機械」は歯車式でそれなりに作られているのだけど、「データを処理できる機械」というのはそれまでなかった。

今だって、コンピューター仕事で何が重要かというと、計算よりも「データ処理」です。


ホレリスが作った集計機は、10年以上かかると見積られた集計作業を、たった1年半で終わらせています。

しかも、1年半の間に「2回集計して間違いがないことを確認する」作業まで終わらせているのです。


それまでの10倍以上の作業効率。

これを革命と言わずに何と言いましょう。




たとえば、国勢調査の場合でいえば、1人の人に関する様々なデータを、1枚のカードに入れておくのね。


そして、集計機を使うと、まず「分類」ができる。

年齢別にいくつかの山にカードを分けたりできます。


そして、枚数を数えられる。年齢別に分けた山ごとに枚数を数えれば、年齢ごとの人数分布がわかる。


集計ができる。

年収が書かれていたとしたら、年齢ごとの年収を全部足し合わせられます。

すでに人数がわかっているのだから、計算すれば年齢ごとの平均年収がわかります。


まぁ、こんな感じ。

今のコンピューターのように完全自動ではないけれど、分類したり集計したりを繰り返せば、望むデータを手に入れられるのです。


例えば、最初に年齢で分類するのではなく、家族構成(子供の人数)で分類することもできます。

すると、年収と子供の数の関係性を調べたりもできる。



これ、今のデータベースでも、「カード」が「レコード」という単位に変わっただけで、ほぼ同じ概念。

コンピューターのデータベースが広く普及したのって 1990年代後半だと思うのだけど、その100年前に同じようなものを作り上げていたのです。


#まぁ、パンチカード集計機を元にコンピューター化したのがデータベースだ、ともいえるのだけど。




IBMのパンチカード集計機は、カード1枚に 80桁の数値情報を入れられました。


後に、パンチの穴の組み合わせで文字も表現できるようにしています。

1枚 80文字です。これが、後に「1行 80桁」というコンピューター画面の基準となります。


今では画面上に自由なサイズの Windows を開けるので、1行が 80桁というイメージはないかもね。

でも、画面サイズで 640dot が基準とされやすいのも、横 8dot の英字フォントで 80桁を表示すると 640dot 必要になるためです。




もっと詳細を知りたい方は、以前に命日記事を書いていますので、そちらも併せてお読みください。



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シーモア・パパート 誕生日(1928)  2016-03-01 11:49:49  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、シーモア・パパートの誕生日(1928)。


LOGO 言語を作り出した人です。


誕生日を間違えていました! 本当は、前日の2月29日だったそうです。


日本語で書かれた情報の多くには、3月1日と書かれているのですが、英語の情報はみんな 2月29日と…

大変申し訳ありませんが、記事の日付を変えると URL が変わってしまうため、このまま残します。


ちなみに、2月29日はハーマン・ホレリス(パンチカード集計機の発明者)の誕生日でもあります。


パパートは数学者であり、児童発達心理学者でした。

そして、数学者として、マービン・ミンスキーと一緒に論文を作成したことがありました。


マービン・ミンスキーは以前も書きましたが、MIT が進めていたコンピューターに関するごった煮プロジェクト、「Project MAC」の中心人物の一人です。


Project MAC には MIT 以外にも多数の参加企業がありました。

Bolt Beranek and Newman (以下 BBN)もその1社です。


BBN は MIT の教授が創始した会社で、音響設計のコンサルタントを業務内容としていました。

音響設計というのは、非常に高度な計算力が必要となります。そのため BBN では初期のころからコンピューターに積極的にかかわっています。


そして、その高い技術力から、ARPA (米国防高等研究計画局)からも信頼される軍事企業でもあります。

インターネットの初期プロトコルの設計にも多数関わっていますし、最初のウィルスも、 BBN の「遠隔地のコンピューターにプログラムを届ける」実験として作られています。




さて、Project MAC の一環として、コンピューターを子供に教えるためのプロジェクトがありました。


当初は既存の言語を使って教えていたようなのですが、どうも子供に教えるには概念が難しすぎる。

子供が楽しく学べる言語はないものだろうか?


Project MAC の一環として、新しい言語が構想されます。


ミンスキーの紹介で、児童心理発達学者でもあるパパートが、子供にとって学びやすい言語を設計します。

そして、その実装は BBN に任されました。



MAC の主要人物の一人、ジョン・マッカーシーは、LISP という言語を設計していました。

設計時は、FORTRAN しか言語がなかった時代ですが、FORTRAN とは全く違う概念で作られていました。



FORTRAN は「手続き型言語」と呼ばれます。今でも、大多数の言語が手続き型です。

しかし、LISP は「関数型言語」と呼ばれます。プログラムとは何か、という概念から違うものになっています。



ただ、LISP は非常にシンプルで強力な言語なのですが、シンプルすぎて、何をするのにも1から面倒をみる必要がありました。

ある程度最初からいろんなことができる状態に整えてやって、子供でもすぐ始められる LISP を作ればよいのではないか。


これが最初の LOGO のアイディアでした。



この段階ですでに LOGO という名前がついています。文字デザインの「ロゴ」の意味。

名前の由来は、大雑把な見た目が重要であり、細かな部分は些細な問題に過ぎない、と示したかったため、だそうです。


コンピューターは計算機です。

そして、子供に「計算」と言えば、学校の算数のテストを思い起こさせてしまいます。


算数のテストでは、正確でないと点数をもらえません。

でも、ここではプログラムを動かす楽しさを知ってほしい。正確さは二の次でいいから、大雑把に動かして楽しんでほしい。


そう考えられていたのです。




ここで、パパートの最大の功績は、「プログラムを教える」という概念を捨て去ってしまったことです。


LOGO はもともと、コンピュータープログラムを子供に教えるために構想されたものです。

目的はプログラムの教育。計算機を使いますが、「計算」をさせたいのではありません。


パパートはこれをさらに推し進め、プログラムを教えるのではなく、「コンピューターを友達ととらえ、一緒に楽しむ」ようにしたのです。



子供の脳は非常に柔軟です。

公園で遊んでいて、知らない子がやってきたとしても、すぐに打ち解けて一緒に遊び始めたりします。


来たのが自分よりずっと小さな子で、同じ遊びができないとしたら?

その時は遊びの内容を変えるでしょう。柔軟にルールを変化させ、小さな子も遊びの輪に加われるようにします。


その子が自分とは違う言葉をしゃべっていたら?

それでも、子供たちは身振り手振りで意思を伝え、一緒に遊ぼうとするでしょう。

その子の使う言葉を、少しづつ学ぼうとするかもしれません。



では、相手がロボットだったら?

ロボットと遊ぶのが楽しければ、子供はロボットの言語を学びます!


誰かがプログラムを教えようとはしなくても、子供が自分からそうするのです。




パパートは MIT に移籍し、本格的に LOGO のプロジェクトに参加します。


この際、まずは LOGO で制御できるロボットを実際に作ってもらい、ロボットが簡単な絵を描けるようにしました。

子供たちは、ロボットに絵の描き方を教えることができます。


「コンピューター」という捉えどころのないものではなく、「ロボット」という具体的な相手を設定したことが大切でした。


絵が思ったように描けないとき、子供たちはロボットの気持ちになって、自分の体を動かしながら考えます。

そして、わずかに動く角度が間違えていたことや、図形の組み合わせの順番を勘違いしていたことに気づくのです。



「対象物をよく観察する」ことの必要性に、子供が自分自身で気づいていく、という過程が重要です。

大人が「教えてあげよう」と口を出さないことが大切。


自分なら紙の上にすらすらと描けるものを、何も知らない「他の人」に伝えるにはどうすればよいか?


うまくいけば、綺麗な絵が描けるはずです。

うまくいかなくても、何かがおかしい絵が描かれるので、改良のヒントは与えられる。


結果をもとにフィードバックしながら自分で解決していく。

パパートは、この過程こそが一番大切だと考えていました。




知識を「知っている」ことと「理解している」ことは大きく違います。

大人でも、勘違いしている人は非常に多いです。


専門家がせっかく解説してくれているのに、「あぁ、知ってる」で済ませてしまう大人のなんと多いことか!

「知ってる」いう言葉で自分の知識の多さを自慢するつもりなら、全く無意味なことです。



知っている、というのであれば、それを誰かに伝えるつもりで文章にまとめてみるとよいでしょう。

細かな部分が矛盾していたり、説明に詰まったりするところがあれば、「理解していない」のです。


そして、ちゃんと伝えようと細部を調査する。観察する。それを通じて理解が進む。

これが、学問の基本姿勢です。学問に限らず、社会で生活するうえで常に必要となる技術です。



LOGO では、自分なら簡単に描ける図形を、ロボットに描かせようと試みることになります。

そのためには、手順を文章…つまり、プログラムとしてまとめる必要があります。


描いてみたら間違っていた。じゃぁ、どこかが違う。細部を調査し、観察し、誤りを見つけ出す必要があります。


子供は、いつもと違う方法で「お絵かき」することが楽しくてやっているだけです。

しかし、やっていることは学問上の「研究」や、社会での仕事の進め方と何も変わりません。



結果として学ぶのは、LOGO のプログラムの仕方、ではありません。

何かを研究し、その内容を人に伝えるためにまとめ上げる力…つまりは「人間社会で生きる力」を学ぶのです。




パパートが LOGO 研究をしたのは 1960年代から。

当時はテレタイプの時代でしたが、後に「ビデオ端末」が作られ、画面にグラフィック表示ができるようになると、ロボットを使わずに画面上に図形を描けるようになりました。


そして、特別なロボットが不要となったことで、LOGO 言語は普及を始めます。

1980年に「マインドストーム」というパパートの著書で、コンピューターを使った学習方法として紹介されたのも大きな要因でした。


ロボットは「タートル」と呼ばれていたため、今でも LOGO の方法で図形を描く方法を、「タートルグラフィック」と呼びます。

実際のロボットではありませんが、「画面上のキャラクターに動きを教える」形で図形を描くため、子供でも学習しやすい図形の描画方法です。



今では、「タートルグラフィック」は様々な初心者向け言語に取り入れられています。

LOGO にヒントを得て作られた Smalltalk や、Smalltalk で作成された Scratch は、LOGO の「正当な後継者」と言えるでしょう。


Microsoft も、初心者向け教材として Small Basic を作っています。

この中でもタートルグラフィックが使えます。


つい先日知って遊んでみたのだけど、Scratch なんかに比べて、無駄にロボットらしくゆっくり動くアニメーションで楽しいです。


#もちろん、アニメーションをカットして高速に絵を描くことも可能。



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【訃報】レイ・トムリンソン  2016-03-07 11:47:39  コンピュータ 今日は何の日

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レイ・トムリンソンが3月5日に亡くなっていたそうです。


現在の電子メールの考案者で、「ウィルスとワクチン」を作り出した人でもあります。


どちらにしても、ネットワークを介して、情報やプログラムを送信できることを示しました。


以前、誕生日記事を書いているので詳細はそちらを参照。




ウィルス・ワクチンに関しては、彼の功績を示しにくいのだけどね。


元となるプログラム「クリーパー」を作ったのは同僚で、彼はそれに「いたずら」を加えただけ。

いずれも、作られたのは 1970年ごろ。



元のクリーパーは、コンピューターからコンピューターへと、渡り歩くものでした。

AからBにプログラムをコピーし、Bで稼働を開始したらAのプログラムを消去する。


これは、通信とプログラムの関係性で何ができるか、という実験だったのね。



でも、レイはいたずらして、「Aを消去する」部分を失くします。

これで、改造クリーパーは無限に増殖することになった。


しかし、無限に増殖するプログラムは困ります。

そこで、これを駆除するプログラムも一緒に作った。


こちらは「リーパー」(死神)と呼ばれます。



ここで、現代のウィルス・ワクチンらしくなる。

でも、名前はクリーパーとリーパーです。




ウィルス・ワクチンと名付けたのは、おそらく HARLIE

1972年に発行されたSF小説です。

この中で「クリーパーとリーパー」の話が、「ウィルスとワクチン」という名前で使われている。


こちらの名前のほうが実態に即していたし、わかりやすい。

でも、当時はまだコンピューターが一般的ではなかった時代。これは「笑い話」として広まります。



本当にパソコンに感染する「ウィルス」が発見されるのは 1982年。10年もあとの話です。

このときには「ウィルス」と呼ばれていますから、HARLIE の影響があったのでしょう。




そんなわけで、レイ・トムリンソンは、ウィルスとワクチンを最初に作った人でもあるのだけど、こちらは言いにくい。

言ったとしても、ウィルスって社会的にいいイメージ無いしね。


でも、「電子メールの人」だけじゃなくても、もっといろんなことしているのです。




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クララ・ロックモア 誕生日(1911)  2016-03-09 10:26:48  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日は、クララ・ロックモアの誕生日(1911)


この人は知っていたのに、そう言えば誕生日を調べていませんでした。

今朝、Google Doodle になっていて知った。


電子楽器の始祖とされる「テルミン」の最高の演奏者であり、その楽器の作成者であるテルミン博士の一番の理解者でした。


テルミンについても、その最高の奏者であるクララさんについても、テルミン博士の誕生日に詳しく紹介しています。


詳細はそちらをお読みください。




テルミンって、古臭い、奇妙な楽器…ではないですよ。


テルミンの原理を元に、モーグ博士が世界最初のシンセサイザーを作っています。


その後類似のシンセサイザーを作るメーカーがたくさん現れるけど、ヤマハはデジタル化した。

FM音源ですね。その音源を搭載したキーボード、DX-7は今でも名機と呼ばれます。


で、同じくヤマハが開発した、歌うシンセサイザー技術「ボーカロイド」を商品化する際に、DX-7 を擬人化したイメージのイラストが使われた。

これが初音ミクです。


ほら、ちゃんと現代に繋がった。


#お、当時のクララ = 現代のミク という妙な図式が思い浮かんだ。

 僕のイメージするクララはおばあちゃんなのだけど、若いころはきれいな人だったそうです。




楽器としてのテルミンや、テルミン博士についてはいろいろと知られているのですが、クララさんの生涯についてはあまり情報がありません。


まぁ、Wikipedia とか見れば少しは情報はあるのだけど、本当に少し。


以下、細かな情報と、僕の記憶(怪しいもんだけど)をつなぎ合わせて、クララさん視点で追ってみます。




テルミン博士はロシア生まれ。

電気工学の博士で、テレビなどの開発も行っています。


人が近寄ったことを感知する「近接センサー」の開発中に、これで音楽を奏でられることに気が付きました。


その後、ヨーロッパへの演奏旅行を経て、アメリカへ。




アメリカで研究所を設立し、電子楽器の研究を続けます。


ここで、クララ・ライゼンバーグと知り合う。

ライゼンバーグは、クララの旧姓ね。



クララは子供の頃にバイオリンを習っていましたが、病気がもとで断念しています。

でも、優れた音感の持ち主でした。


テルミンは演奏が難しい楽器ですが、自由な周波数…音階ではなく、自由な音が出せるという点でバイオリンに近いです。


実際、多くの人がテルミンをバイオリンのように扱います。

しかし、クララはテルミンの演奏法を独自に研究し、テルミン博士に改良を要請し、テルミンでないとできない素晴らしい演奏を行うまでになります。




テルミン博士は、彼女に何度かプロポーズしたそうです。

でも、クララは博士とは結婚していません。


だって、博士はすでに結婚していたのですよ!

ソ連で結婚して、家族一緒にアメリカに来ているのです。



しかも、どうも博士は女癖が悪かったらしい。


電子音楽に興味を持ち、博士にコンタクトを取ったバレエ団がありました。

このバレエ団のプリマドンナ(看板バレリーナ)と恋仲になり、妻と別れて再婚しています。


アメリカにもソ連人を中心としたコミュニティがあり、博士はそのメンバーでもありました。

そして、プリマドンナとの結婚に周囲は反対していて、結婚後はコミュニティから半ば離脱した状態に。



クララは、法律家のロバート・ロックモアと結婚。

クララ・ロックモアを名乗り始めたのはこの後です。



そして、テルミン博士はある日急に姿を消します。

皆にお別れを言うでもなく、本当に音信不通。


そのまま 50年の時が立ちます。




テルミン博士は、ソ連の秘密組織 KGB に拉致され、ソ連に強制送還されていました。


…となっているのですが、博士が借金で苦しんでおり、自分から送還を望んだのだという話も。


ここら辺、はっきりしないです。多分どちらも本当なのだろうね。

KGB は、優れた工学博士であるテルミン博士を連れ戻したかったし、テルミン博士は戻っても良い頃合いと感じていた、ってところなのでしょう。



今の若い人にはわからないかもしれないけど、当時のソ連は恐ろしい国でした。


技術力は高かったのよ。民間主導のアメリカと違って、何かをやるときは国が一丸となって達成する。

だから、当初の技術力は非常に高いのです。


当時のソ連は、すべてを国が主導する。民間主導のものなんて、基本的にない。

この結果、企業間競争もないので、だんだん技術力が落ちて行ってアメリカに抜かれるわけだけど。


そして、「国のため」という大義名分のためには、平気で人を拉致するし、歯向かう人は抹殺されるし、それでいて外には全然情報が出てこない。



だから、テルミン博士がどこに消えたのか、誰もわかりません。

ソ連に帰ったのかどうかすらわからない。もしかしたら、ニューヨークの路地裏でたまたまチンピラに絡まれて殺されてしまった、というだけかもしれない。




たしか、映画「テルミン」を撮った監督は、クララの親戚だったか、親戚の友達だったか、ともかくクララとたまたま接点のあった人なのだそうです。


すでに「テルミン」という楽器も忘れされれていたけど、クララの演奏を見る機会に恵まれた。

そして、すでに演奏者はほかになく、演奏すること自体が難しく、年老いたクララだけがこの楽器を守り続けているのだ、と知ります。


そして、このスゴイ事実に巡り合えた幸運を喜び、映画作品としてクララさんの演奏を残したい、と考えます。



記録映画とするために、古い写真と当時を知る人も証言をもとに、テルミンの歴史などを再構成。

もちろん、最高の演奏者であるクララさんの演奏も途中に挟まれます。


そして、当時ペレストロイカ(情報公開政策)を進めていたソ連から、テルミン博士を探し出し、クララさんと再会を果たします。


「テルミンのことを記録したい」という動機で気軽に作られ始めた映画が、50年間音信不通だった博士を探し出し、再会を果たすという、作る側も予想しなかった結末へと進んだのです。




この映画が公開される前に、テルミン博士は亡くなります。

そして、5年後にはクララさんも亡くなります。


日本で映画が公開されたのは、アメリカでの公開から8年後。

お二人とも亡くなった後でした。


しかし、亡くなる前に再開を果たせてよかった。

心からそう思います。


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オーレ・キアク・クリスチャンセン 命日(1958)  2016-03-11 17:12:09  歯車 今日は何の日

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今日は、オーレ・キアク・クリスチャンセンの命日(1958)


LEGO 社の創業者です。


2年前に誕生日記事を書きました

なので、どんな人かはそちらの記事参照。


その記事の最後で、LEGO とデュプロの互換性について「解説はまた別の機会に」と書いたままになってました。



というわけで、解説したいと思います。

…が、この話、言葉だけではうまく伝わらない。


写真があっても、接続すると接続部分は内部に隠れてしまうので、伝えられない。


上手なイラストがあればわかるかもしれませんが、僕はそういう絵は描けない。


…というわけで、かなりわかりにくいと最初に謝っておきます。




まず、前回の話のおさらいから。


LEGO ブロックは、いくつかの基準サイズがあり、各部がこの基準に従うように、非常に厳密に作られています。


たとえば、ブロック上の凸部。レゴを裏返した時に見える「パイプ」の中の穴と同じサイズです。


といっても、レゴはパイプの穴と凸が組み合わさって組み立てられるわけではないですよ。

なので、このサイズは直接的には無関係。


でも、穴に入れること「も」できる。

凸1個分しかないサイズのブロックを使えば、普通とは少しだけずらした位置にブロックを置ける、ということを意味します。


レゴの人形の手の外側の径は、凸と同じです。

なので、人形がブロックを持っている、という演出もできる。


裏のパイプの外側の径は、凸を2×2に並べたときの、中央にできる隙間にぴったり収まるサイズです。

というか、もともとそこにパイプがハマることでレゴは固定されます。


レゴブロックには、凸1個分のサイズの小さなブロックの円筒形もあります。

この円筒形の底の部分は、パイプと同じ構造。凸にはめることもできるし、凸の間にはめることもできる。



ちなみに、凸の間の隙間は、薄いブロックの厚みとも同じ。

だから、薄いブロックを凸に挟む、なんていう、普通とはちょっと違うつなぎ方もできます。




他にもいろいろと「思わぬところに繋げられる」面白さがあるのですが、ここら辺は以前も書いたこと。


今回は、デュプロとプリモ(ベビー)についても書きましょう。



デュプロは、レゴの2倍サイズのブロック。

デュプロとは、Double 、2倍の意味です。


縦の大きさが2倍。横の大きさも2倍。高さも2倍。体積では8倍ですね。



デュプロは、レゴとは少し見た目が違います。

凸部が、単純に出っ張っているのではなくて、円筒形になっているの。


それと、薄いブロックが本来の高さの半分になっている。

LEGO は3分の1なのね。このため、薄いブロックを凸部の隙間に立てる、という繋げ方は出来なくなった。



厚みが変わったのは、実は内部構造が少し違うためです。

LEGO は、裏に入っているパイプが、ブロックの底のぎりぎりまで来ています。


でも、デュプロでは、パイプが少しだけ短い。その短いパイプに届くように、凸部が少し高い。

結果として、3分の1の薄さにはできない構造になっている。



単純にサイズを2倍にしただけのはずなのに、なぜこんな細かな違いが?

…ここが、デュプロの良くできているところです。



凸部の円筒形の穴の中の径は、LEGO の裏のパイプの外の径とぴったり同じです。

これにより、2x4 の、一番標準的な LEGO ブロック(裏のパイプは、凸の隙間に入るため2本)を、デュプロの凸2つの部分の上に載せるように接続できます。


また、デュプロブロックの「壁の厚み」は、LEGO ブロックの高さの6分の1になっています。

3分の1の高さの薄いブロックは、LEGO の凸の隙間に入るのでした。じゃぁ、6分の1は?


「LEGO の凸の隙間に、壁が2枚入る」で正解。

裏のパイプは、少し長さを短くしているため、LEGO の凸には干渉しません。


これによって、LEGO の上にデュプロを載せて接続できます。



言葉で説明すると長いし、写真を出したところで理解しにくい。

(つながっているときは、巧妙な部分は隠されているから!)


でも、非常に巧妙な方法で、LEGO とデュプロは相互接続可能な互換性を保っているのです。


全然サイズが違う商品だし、最初からこうした仕組みを考えていたわけではない(デュプロはずっと後に発売された)のに、最初から単位系をしっかり考えていたからできた芸当だと思います。



じつは、デュプロのさらに2倍サイズでデュプロと接続できる「クワトロ」というのも一時期発売されていました。

1歳の赤ちゃんでも遊べる、という触れ込みだったけど、そもそも「ブロックを接続して形を作る」というのは、1歳の子が興味を持つことではない。


そんなわけで、今は発売していません。僕も見たことありません。


LEGO 、デュプロ、クワトロを接続した写真が出ているブログを見つけたので紹介しておきます。




さて、クワトロは1歳の子が興味を持つような遊びではなかったのだけど、LEGO ベビーという1歳児向け玩具もあります。


以前は「プリモ」という商品名だった。「最初の」という意味の言葉ね。

プリモはブロックおもちゃだったのですが、ベビーのブランドは、プリモを含む赤ちゃんおもちゃ全般です。


なので、ここではベビーブランドの中のブロック製品、という意味で、旧称のプリモで呼びます。




プリモの基本サイズは、デュプロの2倍、です。

つまりはクワトロのサイズなのですが、プリモではあくまでも「基本」というだけ。


というのも、プリモは、3か月の子供でも遊べるように、できるだけ丸く作ってあるのです。

なので、2倍サイズだけどきっちり2倍ではない。ブロックのように組み合わせて形を作ることは考慮していない。


基本的には円筒形。そして、円筒の頭に、半球型の凸があります。

円筒の底に、この凸を入れる形で組み合わせられます。


もうね、ブロックではないです。

組み合わせられるといっても、1歳未満児向けが遊べるように、かなりゆるゆる。形なんか作れない。

逆さまにすれば落ちるし、ただ積み上げていても途中から曲がってくる。


でも、基本的な円筒形ブロックは、中にビーズが入れてあって動かすとカラカラ音がするの。


子供と遊ぶ時は、親が積み重ねてあげる。

それを子供が軽い力で叩けば、緩い接続なので、すぐ崩れてバラバラになる。

中にビーズが入っているのですごい音がする。


赤ちゃんって、こういうの大好きです。

まだ手足を動かすのも自由ではなくて、狙った通りのことが起きるだけでうれしい段階。

「崩すぞ」って思って崩せるだけで大喜びです。


やがては、自分で同じ遊びをしようとして積み上げ始めます。

目的は崩すことなので、高く積み上げられずに崩れても楽しい。

ちゃんと「最初のブロック遊び」の導入として、赤ちゃんが楽しめるように作ってあります。


他にも、円筒形ではない、いろんな形のブロックを、同じ形の穴の開いた箱に押し込む「ぽっとん遊び」とかができるセットもあります。




そしてデュプロと接続できます。


デュプロの上にある凸部の、 2x2 の部分が、プリモの円筒の内側にぴったり内接するように作られているの。


ただし、「繋げられる」だけで、構造物に組み込もうとするのは難しい。

先に書いたように、キッチリ2倍ではないので、周囲のブロックと干渉しやすいから。

面白い形を一部に入れて、飾りに使う程度に考えておいた方がいい。


逆に、プリモの上にデュプロを載せることもできます。

…けど、これはちょっとおもしろくない。プリモの円筒の上に、デュプロの凸をつけてある特殊ブロックがある、というだけの話。


相互に互換性があるのではなくて、変換コネクタがあるということですね。


デュプロの上にプリモ、は互換性があるけど、プリモの上にデュプロ、は変換コネクタが必要、という一方向の互換性です。






今回の話、写真などではなくて、実物を見て自分で組み合わせながら読まないと理解できないな (^^;;


ずっと以前から書きたかったのだけど、どんな方法で書いても伝わりにくいと気づいて書かなかった、という話でもあります。


まぁ、細かなことがわからなくても、LEGO ブロックってよくできているんだな、ということが伝わってくれればいいです。



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アレクセイ・パジトノフ 誕生日(1956)  2016-03-14 15:56:32  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、アレクセイ・パジトノフの誕生日(1956)


テトリスを作った人です。


他にもいろいろ作っているけど…どうでもいい!

テトリスだけで十分偉人。多分、それ以外のことを言い始めるとかえって名誉を貶める(笑)


テトリスによって「落ち物パズル」というジャンルを創出し、この延長上に誰でも気軽に楽しめる、いわゆる「カジュアルゲーム」と呼ばれるジャンルがあります。

これを作ったのが彼だ、というだけで、もう十分。



テトリスについての説明はいらないでしょう。

誰もが知っているゲーム。


1988年ごろ、世界中で大ヒットしました。

いろんな会社が作って、少しづつルールが違ったりするんですけどね。


日本でも、BPS 、任天堂、セガが作っています。


BPS はパズルゲーム色が強く、任天堂は対戦ゲーム、セガはアクションゲームと、同じ名前で基本ルールも一緒なのに、全く違うゲーム。




パジトノフがテトリスを作ったのは、1984年。

当時、西側諸国では COCOM (対共産圏輸出統制委員会)という組織があり、共産圏であるソ連に対して、16bit CPU を持つパソコンやゲーム機を輸出することは出来ませんでした。


でも、ソ連にはちゃんと IBM-PC があるんですよね。

一般に売られてはいないので、入手は困難。でも、必要な人にはちゃんと IBM-PC が与えられた。


パジトノフは、当初は PDP-11 のソ連製クローンである「エレクトロニカ60」でテトリスを作ったそうです。

このバージョンでは白黒。


でも、1985年にはパジトノフ自身の手で IBM-PC に移植されています。

ここでカラー画面になったそうです。



僕の記憶では、当時は「心理学の研究のために作った」とされていました。

選択の自由はあるが時間は限られている、という状況で、人はどのような選択をするか、という研究。


心理学の研究ですから、多くの被験者に、他の影響を出さないためにできるだけ単純なテストをしてもらう必要があります。

「テトロミノを組み合わせる」「横に揃えると消える」「上まで積み上がったらダメ」という単純なルールのゲームを用意したのだとか。


他に、職業適性検査だった、軍人の忍耐力を試すものだった、というような話もあります。

「単にゲームを作りたかった」からテトリスを作った、という話も見ました。



ソ連では計画経済で、勝手にゲームを作ったりは出来なかったはず。


職業適性訓練や軍人の忍耐力も含めて、心理学的な検査が求められていたのは事実かと思うので、それを理由にして好きなようにゲームを作った、などが真相かもしれません。




計画経済の当時のソ連では、「テレビゲーム」なんて言うジャンルの商品はありませんでした。

だから、コンピューターで作られたゲームに価値がある、なんていう概念がない。


価値があると思っていないので、自由にコピーされました。

1985年の夏に、パジトノフが友人に IBM-PC 版のコピーを渡しました。

それ以降のことはよくわかっていません。


ともかく、2週間でモスクワのすべての PC で遊べる状態になり、その後ソ連中に広まり、気づいたらヨーロッパ中に広まっていた…そうです。


これで、「フリーウェア」としてのテトリスがまず出回ります。

ここまでの時点で結構時間がかかっている。


すでにテトリスは「出所不明」になっています。




当時共産圏であるハンガリーに、「アンドロメダソフト」というソフトウェア会社がありました。


共産圏と言っても、一枚岩ではありません。

ハンガリーは、当初からソ連の支配に反発し、最終的に共産圏全体の崩壊を招いた国。


共産主義の時でも、比較的自由経済をとりいれていて、ソフト会社もあったのです。


このアンドロメダソフトが、テトリスを商品化しようとしました。

そこで、ソ連の科学アカデミー計算機センターに、商品化についての問い合わせを行います。



先に書いたように、ソ連ではソフトウェアが商品価値を持つとは考えられていませんでした。

問い合わせの意味が分からず、とりあえず作者であるパジトノフをハンガリーに送ります。


パジトノフは、ただ送り込まれただけで、何も事情を分かっていません。

しかし、アンドロメダソフトの社長は、パジトノフが作者であることを知り、だから彼が全権を持っているのだと考え、交渉を行いました。


そして、テトリスに関する全権利を彼から譲り受けます。

もちろん、パジトノフはテトリスに価値があり、その価値に対する権利がある、ということを理解していません。

権利を譲り受けた、ということ自体が、アンドロメダソフト側の勘違いです。


しかし、アンドロメダソフトは、テトリスをさらに面白くするように作り直し、各種パソコン向けに移植します。



とはいえ、比較的自由と言えども、ハンガリーは共産圏です。

テレビゲームはハンガリー国内では商売になりません。




ハンガリー、チェコスロバキア、ポーランド、ルーマニアに囲まれた国境地域に、カルパチア・ルテニア地方という場所があります。


この地域は戦争のたびに別の国に併合される、という歴史がありました。

チェコスロバキアの一部だった時代があり、独立運動により独立国家となったわずか2日後に、ハンガリーに攻め込まれて併合されています。


ハンガリーはドイツの同盟国であり、ユダヤ人に対する迫害も行っていました。


さて、チェコスロバキアに生まれたユダヤ人、ロバート・マックスウェルは、ハンガリー人となり、迫害で家族を失い、難民となってイギリスへ逃れます。


そこで事業を起こして成功し、資産家となります。

会社を大きくし、次々とメディアを買収して、イギリスのメディア王となります。

国会議員にもなり、政治の世界にも影響力を強めます。



多数持っているメディア会社の中に、2つのゲーム会社、イギリスのミラーソフトと、アメリカのスペクトラム・ホロバイトがありました。



ハンガリーでテトリスを作ったアンドロメダソフトは、ハンガリー出身者の会社であるミラーソフトに、作成したテトリスの販売を委託します。


ミラーソフトと経営者が同じスペクトラム・ホロバイトも、アメリカでのテトリス販売権を得ます。

イギリスのミラーソフトが販売するゲームの、アメリカでの販売権、という形ですが、社長が同じなので事実上同じ権利を持っていました。


1987年にイギリスとアメリカで発売され、大ヒット。

10万本が販売されたそうです。




ATARI は、自社製の家庭用ゲーム機にテトリスを販売しようとします。

そこで、ミラーソフトと契約を行いました。


このとき、ミラーソフト自身の商売の邪魔とならないように、「PC以外」をライセンス条件としたようです。

ATARI は、これにより業務用ゲーム機の販売権も得ることになりました。



ところで、当時のナムコファンならば、ATARI がナムコの傘下に入っていたことを覚えているでしょう。


ATARI は、業務用の作成に当たり、まず親会社のナムコに相談をしたようです。

しかし、ナムコはテトリスを作るつもりはない、と返事をしました。


そこで、ATARI の子会社であるテンゲンに業務用の権利を移行し、テンゲンが業務用を作ります。



そして、この頃になると、アメリカで大ヒットしたゲーム「テトリス」の噂は日本にも届きはじめていました。




ここで、BPS を紹介しておきましょう。この後、非常に重要な役割を果たします。


今は解散した会社なので知らない人もいるかと思いますが、パソコン黎明期から活動していた有名なメーカーです。


社名は「Bullet Proof Software」の意味。「防弾ソフト」という意味ですが、それほど強固な、バグのないソフトを作る、という意味合いです。


日本の会社ですが、社長はアメリカ人のヘンク・ブラウアー・ロジャース。



BPS は、国産初の RPG と呼ばれるブラックオニキスシリーズで有名になりました。

その後は、社長がアメリカの事情に詳しいのを活かし、海外でヒットしたゲーム、アーコンやM.U.L.E.、ボールブレイザーなどの移植で知名度を上げていきます。


そして、テトリスもいち早く発見しました

社長のヘンクが、スペクトラム・ホロバイトと交渉を行い、日本のパソコン向けの権利を獲得します。



一方、セガもテトリスを業務用に出そうとしました。

テンゲンが業務用のライセンスを持っていることを知り、テンゲンから許可を取り付けます。



正確な発売時期がわからないのですが、BPS の PC 向けが 1988年の初頭、セガの業務用は夏、ファミコン版は12月だったようです。



また、任天堂は BPS に許可をもらい、ゲームボーイ版の作成を開始します。

ゲームボーイ発売時に、「通信ケーブル」を使ったキラータイトルとなるものです。


こちらは、ゲームボーイと同時発売で、1989年4月。




ここにきて、ソ連は価値に気づきます。

テトリスはソ連の資産であり、海外貿易に使えるものです。


ソ連政府は、コンピューター資産を外国にライセンスするための新しい部署「Elektronorgtechnica」を作ります。

Electron org technica …電子技術組織、の意味です。略称 ELORG。


活動を開始したのは、1988年の前半。最初の仕事は、アンドロメダソフトとミラーソフトに対し、警告を送ることでした。


「テトリスの正式なライセンス契約がなされていない、契約を結ぶように」



5月になって、アンドロメダソフトの社長が ELORG と会談を持ちます。


アンドロメダソフトは、ELORG の持ってきた契約書にサインしました。

しかし、契約金の支払いを拒みます。


すでにパジトノフと契約はしてある。

組織が変わったということであれば、書類に再度署名はするが、契約金を払う必要はない、というのです。



10月になっても問題は解決せず、ELORG は権利関係の再調査を行います。

この段階で、ヘンク(BPS の社長)が権利関係がこじれていることに気づきました。



1989年2月、ヘンクはロシアへ向かいます。

英語しかできない彼はロシアでは右も左もわからず、すぐには ELORG にたどり着けません。


ロシアの政府機関にも顔が利く通訳をやとい、やっと ELORG にたどり着いて交渉を開始します。



この動きを知り、アンドロメダソフトの社長と、ミラーソフトの代理人も ELORG に向かいます。

お互いの動きはわかりませんが、同じ週に相次いで ELORG との交渉を持ちました。


ミラーソフトの代理人は、社長であるロバート・マクスウェルの息子、ケビン・マクスウェル。

メディア王・政治家の息子として育った彼は、各国の習慣にも詳しい、国際交渉のエキスパートでした。



ヘンクは、ファミコン版を発売していたことを ELORG に告げました。


正式にライセンスを受けていないが、ライセンスを受けたものと勘違いし、すでに発売してしまった。

ファミコンは世界で最大のシェアを持ち、テトリス発売に当たっては任天堂のバックアップもあった。

事後になってしまうが、ちゃんとした権利を買い取りたい。



一方、ケビンは、ファミコン版が権利を得ていない海賊版だ、と ELORG に訴えました。

家庭用ゲーム機の権利は我々が保有しており、ATARI に権利を委譲している。

にもかかわらず、ファミコン版を発売したのは許されない行為である。



ELORG は、ヘンクの態度を好ましく感じました。

ミラーソフトはライセンス料を支払っていないにもかかわらず、権利を保有していると主張している。

それに対し、ヘンクは勘違いがあったことを謝罪し、事後になるがちゃんと権利を得るための支払いをしたいと申し入れているのです。


このとき、ヘンクはパジトノフとも会談し、今後のテトリスについてアイディアを出し合っています。

ヘンクとパジトノフは、この後も友好的な関係を保ちます。




ELORG は、ヘンクのためにミラーソフトに対するライセンス契約書を書き換えることにしました。


すでに署名だけされていた契約書は、全権を与えるもので、契約金が支払われれば契約が締結される状態でした。



新しい契約書は、ミラーソフトに与えるライセンスの区分が、次のように書き換えられていました。


「プロセッサ、モニタ、ディスクドライブ、キーボードとOSを持つコンピューター向け」


コンピューターゲームのライセンスなのですから、コンピューター向けに決まっています。

しかし、よく読むと、ディスクドライブやキーボード、OSを持つ…つまり、ゲーム機は除外され、PCに限定される内容となっています。


この書き換えと同時に、再三警告しているにも関わらず支払いがないことに対するペナルティとして、契約金を値上げします。



ケビンは契約金が上がってしまったことに驚き、契約が遅れるとさらに値上げされるかもしれない、と慌てて契約を締結します。

権利条項の書き方が変わったことには気づきましたが、それが巧妙に「PC限定」となっていたことには気づきません。



BPS には、家庭用ゲーム機に対する権利を与える、という契約書を作りました。

そのうえで、任天等が新しい「携帯ゲーム機」を作っていることを聞いていたので、新たなライセンス分野としてハンドヘルドゲーム機の分野も加えます。



ヘンクは、交渉をうまくまとめました。

しかし、この契約金は BPS には払いきれないもので、任天堂が支払います。


任天堂は、BPS からライセンスを受ける形でゲームボーイ版の開発を始めました。

しかし、最終的には任天堂が権利を持ち、BPS は任天堂の権利下でファミコン版続編の開発を続けます。




さて、ここで ATARI の権利が消滅しています。


ATARI は、ミラーソフトが持っている権利から、PC 以外のものを委譲されています。

しかし、そもそもミラーソフトは PC 向けの権利しか持っていないことになったのです。


ATARI から業務用の権利を委譲されていたテンゲンも、さらにその権利を認められたセガも、一緒に権利を失いました。



セガは、任天堂との交渉で発売を中止。

発売したばかりのメガドライブ用のキラータイトルとして移植を行っていたようですが、まだカートリッジ生産前で、今やめてしまえば損失は少ない、と判断したようです。


業務用でも、テトリスは大ヒットタイトルでした。

過去に作ってしまったものに対しては、済んでしまったことなので遡って契約金を払ったようです。


しかし、この後は続編を作れなくなります。

ブロクシード、フラッシュポイントなどの名前で続編を作ってはいますが、「類似ルールのゲーム」に過ぎず「テトリスを名乗らない」ため、ゲームのどこにもライセンス表記がありません。



ATARI はすでにゲームを発売していました。

新聞の全面広告まで使い、大々的に宣伝費をかけています。


テトリスはヒットゲームとなっていて、ATARI はカートリッジを増産していました。



任天堂は、そんな ATARI を相手に販売差止請求を行います。

ELORG が唯一認めた家庭用ゲーム機ライセンスは任天堂が保有しており、ATARI の販売行為は違法である、というものです。

裁判所命令により、ATARI は販売をやめなくてはなりません。


ATARI は、確かにミラーソフトから家庭用ゲーム機向けのライセンスを購入していました。

ちゃんと権利を持っている、任天堂の訴えこそ違法なもので、販売差止によって失った機会損失を補填せよ、と逆訴訟を起こします。


この裁判は、1989年の11月に判決が出ています。

ミラーソフトは、そもそも家庭用ゲーム機のライセンスを持っておらず、ATARI にライセンスを与えられない。

任天堂の持つライセンスだけが、正当なものと認められる。というものでした。



ATARI としては、ミラーソフトと、その社長であるマクスウェルに責任を取らせなくてはなりません。



しかし、この頃ロバート・マクスウェルの「メディア帝国」は崩壊し始めていました。

彼はメディア王でしたから、自分自身に関するスキャンダルを抑え込んでいました。


しかし、違法行為を含む不正行為で事業を拡大し、会社を私物化し、社員が給与から積み立てた年金を横領するなど、彼の行ってきた悪事が次々と暴かれ始めていたのです。


ロバート・マクスウェルは、姿を消しました。

ミラーソフトは名前だけの、倒産寸前の会社でした。


こうして、テトリスの権利をめぐる世界的な争いは、BPS と任天堂の勝利に終わるのです。



マクスウェルは、この直後、1991年にヨットから転落して水死しています。

彼の帝国が崩壊する最中だったため、自殺したとする説もあります。


1992年には、彼の帝国の企業が次々と破産し、息子ケビンも借金を抱えて破産申請します。




ソ連の崩壊が進む中の1991年、パジトノフはヘンク(BPS 社長)のつてでアメリカに移住し、一時期はマイクロソフトでゲーム作成を行います。



1995年、ヘンクがハワイに「ブルー・プラネット・ソフトウェア」(以下、新BPS と略記)を設立。

ゲーム作成を開始します。


すでにテトリスのブームは去り、各会社に与えられたライセンスは失効していました。

ソ連が崩壊し、ELORG は民間会社となりましたが、まだテトリスの権利を管理していました。


ヘンクは、ELORG から独占ライセンスを得て、新 BPS に集約します。


そして 1996 年、パジトノフと共に、新 BPS の子会社として「The TETRIS Company」を設立。

世界中に向けて、テトリスの版権管理を行います。



その後、パジトノフは「原権利者として」ELORG からテトリスの権利自体を買い取ります。

そして、権利を管理する会社として「TETRIS holding」を設立します。


現在、パジトノフの TETRIS holding と、新 BPS が半分づつ出資する子会社として、The TETRIS Companyが存在する形です。

TETRIS holding は権利を持っていますが、その権利の管理は The TETRIS Company が行っています。



ややこしいかな?

紆余曲折あったけど、テトリスが再びパジトノフのものとなった、ということ!



そんなわけで、2000年ごろから再び、いろいろな会社がテトリスを作れるようになっているのです。


#ところで、日本の BPS は 2001 年に解散しています。




以上、主に日本語資料英語資料2つを元に書いています。


食い違うところが多々あるので、インターネット上の多数の資料を調査しながら、信ぴょう性のありそうな情報をまとめましたが、正確性を保証するものではありません。



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ロビン・ミルナー 命日 (2010)  2016-03-20 11:35:50  コンピュータ 今日は何の日

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今日はロビン・ミルナーの 命日(2010)


OCaml や Caml という言語があります。

ML という言語から派生したものなのですが、この ML を作ったのがミルナーです。


プログラムリスト見ると普通の言語っぽいのだけど、関数型の言語なのね。

Lisp などのなかま。


一般的な BASIC や C などの「手続き型」の言語が、ただ処理の手順を並べただけだとすれば、関数型の言語はもっと数学的な美しさによって処理をくみ上げていく。



ミルナーはまた、数学の定理を証明するプログラム、というものも作っています。

あー、やっぱ数学系なのだな、数学者なのかな、と思います。



でもこの人、博士号とか一切持ってません。

イギリスのコンピューター会社、フェランティ社のプログラマーだった、というだけの人。




イギリスマンチェスター大学で、世界で最初に稼働したノイマン型コンピューター、The Baby MarkI が作られました。


これは、当時新開発されたメモリ部品、ウィリアムス管を使って本当にコンピューターを作れるのかを試験するための機械。

一応コンピューターではありますが、実用品ではありません。


しかし、実験に成功したので実用コンピューターを作ります。

マンチェスター MarkI と呼ばれます。


さらに、このコンピューターをプロトタイプとして、互換機が量産されました。

レーダーや通信機器などを作る民間軍事企業の、フェランティ社が量産を担当し、「フェランティ MarkI」と名付けられました。


世界初の商用機、と呼ばれるものの一つです。


#UNIVAC I も世界初と言われます。

 完成は UNIVAC のほうが早く、顧客への納入はフェランティのほうが早かったようです。



フェランティ社はこの後もコンピューター企業として成長するのですが、ミルナーもその会社のプログラマーだった、ということ。


まぁ、当時はコンピューターなんて科学者でないと使いませんし、マンチェスター大学の優秀な学生がフェランティ社に入社した、とかだと思うのですが。




博士号は持っていませんが、ミルナーは多くの大学を渡り歩き、計算機科学科の学科長まで勤めています。


詳細は、ミルナーの誕生日記事にも書いてあるのでそちらを参照してください。



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NORAD 設立日(1958)  2016-05-12 10:55:50  コンピュータ 今日は何の日

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今日は NORAD が設立された日(1958)


Whirlwind I (以下 WWI) という、コンピューター黎明期の機械があります(1948年作成開始)。


当時のコンピューターは1ビットづつ計算するのが普通だったのですが、WWI では 16ビットを同時に計算します。


当時のコンピューターのメモリは、速度は遅いが容量の大きい水銀遅延管か、速度は速いが容量の少ないウィリアムス管のどちらかでした。

しかし、WWI では「コアメモリ」という全く新しい、高速で容量が大きく、値段も安いメモリを使用します。


当時のコンピューターは、紙テープなどでプログラムし、動き出したら結果が出るまで待つのが普通でした。

しかし WWI にはキーボードとディスプレイが供えられ、ディスプレイを直接触れることで動作を指示することが可能でした。


とにかく、コンピューターの常識を作り変え、現代のコンピューターの基礎を作り上げた機械でした。


ただ、設計が予定より遅れたため、当初の作成目的を失ってしまいました。

作成開始早々に予算援助が打ち切られ、作成中止の機器に見舞われます。




そのころ、アメリカに続いてソ連が核兵器の開発に成功します。

実はアメリカの核開発陣にソ連のスパイがいて、研究データなどがソ連に伝わっていたためでした。


アメリカはこれに慌てふためきます。

もし、ソ連がジェット爆撃機に核を積んで、低空からアメリカ領土に侵入したらどうなるでしょう?


レーダー基地が機影を捉え、本部に伝達され、本部から最寄りの空軍基地にスクランブル発信が命じられ、迎撃に向かう…

これだけで10分以上かかるでしょう。ジェット爆撃機なら、その間に都市を一つ壊滅させています。


空軍はかつてない危機に戦慄します。この状況を救う手立てはないものか。多くの学者に研究を依頼します。



ここで、WWI の存在を知る学者が、WWI を使って「自動化」を行えば、スクランブル発信までの時間を劇的に短縮できるだろう、と進言します。


アメリカの海岸線に多数のレーダー基地を多数作り、それらの情報を WWI に集約します。

異常を感知すればすぐにオペレーターに警告し、同時に最寄りの空軍基地に発進への準備を通知します。


実際にオペレーターが危機を確認すれば、すぐにスクランブル発進が可能となっています。



このシステムは、SAGE と名付けられます。

半自動式防空管制組織 (Semi-Automatic Ground Environment) の頭文字を取った名称です。


アメリカを守るためには、よりソ連に近いカナダも包括的に防御する必要がある、と考えられました。

そのため、SAGE はアメリカ空軍の組織ではなく、カナダと共同で運用される独立組織である必要がありました。


そこで設立されたのが、北米航空防衛司令部 (NORth american Air Defense command) 、通称 NORAD です。


その後、宇宙からの攻撃の可能性も出たため、組織名の air (航空)の部分は aerospace (航空宇宙)に変更となっていますが、組織自体は存続しています。




ところで、WWI をベースとして TX-0 という機械が作られています。

当時はコンピューターの使用には「1分いくら」という高額料金が課せられる時代でしたが、TX-0 は試作機だったこともあり、学生に無料開放されます。


様々なゲームが作られるのですが、そのうち一つに Tic-Tac-Toe があります。いわゆるマルバツ。


そして、このゲームは単に「テレビゲーム」なのではなく、人工知能研究黎明期の成果の一つです。

こんな単純なゲームであっても、コンピューターが人間と同じように考え、ゲームの相手をできるということが驚きだった時代です。



WWI という機械があり、その機械をベースとした SAGE を NORAD が使用しています。

同じく WWI をベースとした TX-0 は人工知能研究に使われ、マルバツゲームが動いていました。


そして、NORAD は核戦争を未然に防ぐための防衛組織です。


核戦争と、マルバツと、人工知能。

ここに三題話が生まれます。「マルバツに勝者がいないように、核戦争にも勝者はいない」と悟る人工知能!


1983 年公開の映画「WAR GAME」の舞台は NORAD です。

これを見た当時は「そのオチはないだろう」と苦笑いしたのですが、今なら事実に基づいたストーリーだとわかります。




WWI を作ったのは MIT なのですが、SAGE のために大量生産したのは IBM です。


当時の IBM は、コンピューターの作成を始めたばかり。

UNIVAC I を作った UNIVAC 社の方が有名で、大手でした。


しかし、当時としては最先端の技術を多数盛り込んだ WWI の量産を請け負います。

これにより最先端のコンピューター技術を得るとともに、莫大な利益を上げます。



この頃から IBM はコンピューター大手になっていきます。




NORAD といえば、毎年サンタクロースの追跡を行っていることで有名です。


NORAD の設立前、アメリカ空軍に Continental Air Defense Command (中央防衛航空軍基地)、通称 CONAD という組織がありました。


1955年12月24日。CONAD の司令部に間違い電話がかかってきます。

サンタクロースとお話がしたい、という子供からでした。


電話を受けた司令官は、ここは空軍の基地でサンタはいないと子供に伝えましたが、子供の夢を壊さないようにこう付け加えました。


「空軍のレーダーはアメリカ上空を飛ぶものをすべて捉えている。

 サンタクロースのソリは、現在○○にいるよ」と。



その後も続々と間違い電話がかかってきます。どうやら間違いではなく、明らかに CONAD 充てに電話をかけてきているようです。

調べると、老舗スーパーマーケットチェーンのシアーズの新聞広告に「サンタクロースと話ができる」電話番号が掲載されており、ミスプリントで CONAD の司令部の電話番号になっていることがわかりました。


司令官は、子供の夢を壊さないように、サンタクロースの現在位置を教え続けるように部下に命じます。


このときは、誤植による1回きりの「イベント」でした。


しかし翌年、AP通信社とUPI通信社が、CONAD が今年もサンタクロースを追跡するのを待っている、と伝えてきたのです。


彼はこの要望に応え、CONAD 公式の「サンタクロースの追跡報告」を発表しました。


1958年、CONAD を母体として NORAD が生まれます。

サンタクロースの追跡任務も NORAD に引き継がれました。



…個人的な意見としては、最近はちょっとやりすぎかな、と思います。

翌日になって新聞とかに公式発表として「サンタクロースは全米中を飛び回って、何件の家にプレゼントを配っていった」とか載せるのは夢があるけど、Google Map 上で現在地を表示し続けたりするからね。


気の利いた洒落っていうのは、控えめだから楽しいのであって、調子に乗りすぎるとすべてをぶち壊してしまう。


まぁ、上に書いたように「ぶち壊し」な悪乗りだけでなく、電話スタッフが「サンタさん」として子供たちと通話したりもするそう。

スタッフは主に NORAD 勤務の軍人なのだけど、みんなボランティアで任務外の仕事。


軍人が、こういう平和な活動をできる世の中が続くといいと思います。


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大川功 誕生日(1926)  2016-05-19 18:55:15  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、大川功さんの誕生日(1926)


セガの元会長、と説明するのが、一番手っ取り早いかと思います。

ドリームキャスト時代をご存知の方なら、氏の名前を付けたインターネットプロバイダ、isao.net も知っているかも。


まだコンピューターが一般的でない頃から「情報化社会」を予期し、起業した人です。

そして、コンピューターが子供の明るい未来を拓くと信じ、子供のコンピューター教育にも真剣に取り組んだ人。




大川氏は、1962年に IBM のパンチカードシステム (PCS) の講習を受けます。


パンチカードシステムというのは、コンピューターではない。

でも、情報をデータベース化し、ソートや検索、集計などを自由に行えるようにします。


この頃多くの人の認識では、PCS は「集計機」で、事務会計などをやってくれる機械、でした。

しかし、大川氏は情報処理の可能性を感じ取り、これを仕事にしようとします。


1968年、コンピューターサービス株式会社設立。

誰もやったことのない、全く新しい職種です。

従業員を集めるのにも苦労して、仕事内容を説明しても勘違いされたとか。


この時代はまだ大型コンピューターも高価な時代です。

コンピューターというのは、「電子計算機」ではなくて、「計算する人」を意味していた言葉。


PCSを事務に役立てるにしても、ノウハウが必要です。

最初はそうしたノウハウをサービスする会社でした。

もちろん、事務用コンピューターが一般化してからは、いち早くプログラムをサービスする会社に変わります。


富士通などと違い、個人向けには手を出さず、ビジネス分野の会社でした。

そのため一般の知名度は低いのですが、ソフトウェアの大手企業でした。




1980年、情報サービス業初の、株式公開。

さらに1982年に株式上場。


今なら上場企業になるのもそれほど難しくありませんが、当時は厳しい審査を受ける必要がありました。


それまでにはなかった職種なので、証券取引所に対して説明するのが大変だったようです。

しかし、財務状況などを改めて説明する中で、会社の中に足りないもの、無駄なものなどを再認識します。


コンピューターが安価になり、ホビー用途にも使われるようになった時代にも重なります。

これでさらに会社が成長。


1984年に、セガ・エンタープライゼスを傘下に収めます。大川氏は会長に。

これは、買収したというよりもセガ側から依頼された形。




さて、すみません。ここまで、ある程度記憶で書いています。

大川氏の著作の「予兆」は読んだのだけど、今探したら見当たらないので。


なので、このあたり後に本が見つかったら大幅修正するかと思います。

特に、CSKが初めて求人広告を出した時の「社長の十八番(オハコ)は クラブでゴーゴー!」の絵は是非見つけ出したいところ。




僕は「予兆」が発売になった時に、ちょうどセガに在籍していました。

ある朝会社に行ったら、全員の机の上に本が置いてあるのですね。


CSK って、会社名は知っていたのですが、それほど知名度もないし、技術力の低い会社だと思っていました。

というのも、大学の先輩で CSK に就職した人がいて、プログラマーのレベルが低すぎる、という話を聞いていたから。


FM-Towns のアフターバーナーとか CSK が作ったものですが、出来が悪かった。

先輩の話と、このアフターバーナーの出来を見て、CSK はちょっと馬鹿にしていた。


だから、会長が出した本を全員の机に置いてあるなんて言うのも、何やってんの? と冷めた目で見ていたわけですよ。

でも、せっかくだからちょっと読んでみることにした。



…考えが改まりました。


会社が大きいので、従業員全員の技術レベルが高いわけではないかもしれない。

(セガだって、比較的技術者のレベルが高かったとはいえ、低い人はたくさんいました)


でも、少なくとも大川氏の考え方は非常に先見の明があったし、偉い人だった。

「予兆」というタイトルも、この先見の明を表したもの。



しばらく後で、「『予兆』読んだ?」って職場のなかまにも聞きました。

誰一人読んでませんでした。やっぱ、会長が出した本を配布した、という行動を馬鹿にして、誰一人開いてもいなかったの。




さて、ここからは「予兆」が書かれた以降の話。


大川氏は個人資産も非常に多く、世界的な影響力もありました。


1995年、G7 の情報通信閣僚会議に、日本の民間代表として出席します。

この頃には、「子供の未来のために何ができるか」を真剣に考えていたみたい。


G7 の際に、大川氏の提唱がもとで、世界中の子供を集めて意見を聞く「ジュニアサミット」が東京で開催されます。

このときは1回限りで、大川氏が提唱しただけあって、ネットワーク技術の活用やデジタルディバイド問題などが話し合われました。


1998年に MIT で同様の会議が行われ、一応はこれが「第2回」と位置付けられたようです。

ただ、サミットというよりは長期間にわたり、世界中の子供の意見を聞く会になった模様。

139カ国から、3000名が参加したそうです。



その後、ジュニアサミットは 2005年~2009年に G8 サミットと同時開催されました。

このときの主催者はユニセフで、貧困や教育、性差別問題などが話し合われています。


2008年には北海道の洞爺湖でサミットが行われ、ジュニアサミットも支笏湖で行われています。


2015年から再びユニセフ主催の形で復活し、今年日本で行われる伊勢志摩サミットでもジュニアサミットが行われます。

大川氏が提唱し、日本で最初に行われたものが、再び日本に戻ってきた格好です。




1998年、個人資産から 35億円を MIT に寄贈。

MIT は子供のコンピューター教育を 1960年代から研究しています。


MIT は、この寄付金により 「未来の子供のための大川センター」を建造することにします。

完成したのは 2010年で、早速「子供にプログラムを教える」ための活動が積極的に展開され始めます。


この頃から、アメリカで「プログラム教育」が盛んになっていくのね。

もちろんそういう時代の流れでもあったのでしょうが、大川センターが時代の後押しはしたように思います。



日本では今年になって、プログラム教育を義務教育化しようという議論が起きているのですが、いまだに勘違いが拭いきれないままです。


日本人が「子供のために」と私財を提供してアメリカの子供が恩恵を受けているのだけど、日本では大人がその考え方を拒否している状態。


残念な気がします。




大川氏は、大川センターの完成を見ずに、2001年3月16日に亡くなっています。

その少し前に、業績の悪化したセガの社長に就任し、資産のほとんど、850億円をセガに寄付しています。


亡くなった時、CSK の名誉会長で、セガの会長兼社長でした。


その後、セガはサミーと合併、CSK も住商情報システム株式会社に吸収され、SCSK と社名変更になっています。



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テトリス完成(1984)  2016-06-06 13:52:45  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、テトリスが完成した日。


1984年の今日、最初のバージョンが完成した…のだそうです。

最初のバージョンは、ソ連製コンピューター、エレクトロニカ60の上で動いた、白黒のものでした。

エレクトロニカ60 は PDP-11 のクローン。


しかし、どうも証拠らしいものが見当たらない。

25周年の際にロイターがそう伝えた、という記事があって、それがほぼ唯一のソース。



ソ連の計画経済の中で、「仕事」の一環で作られたものなので、作業日誌でもつけていた可能性はあります。

でも、心理学の実験で使う予定のプログラムだから、必要ならいつでも手を加えたはず。

特定の日に「完成」なんて、決められないように思います。


だから多分、パジトノフがそう言ってたよ、って程度の世間話。

まぁ、1984年のこの頃に最初のバージョンが作られた、というのは事実だと思います。




当時は「対共産圏輸出統制委員会」(ココム)が存在していて、共産圏に 16bit 機は輸出できません。

ファミコンは輸出できるけど、メガドライブはだめ、なんて話もあったし、ソ連で MSX が普及した理由も同じ。


でも、翌年 1985年には、IBM-PC に移植されます。パジトノフはちゃんと IBM-PC を持っていた。


そして、夏ごろに知人にこのコピーをあげたら、いつの間にかヨーロッパ中の IBM-PC で遊ばれていた。



…ここからの話が、驚くほど壮大。

秘密のベールに包まれたソ連と、イギリスで暗躍するメディア王…ユダヤ人で、家族を虐殺された苦い過去を持つ男が強大な力をふるいます。


ATARI と、当時親会社だったナムコも絡み、セガと任天堂のテトリス権利問題も勃発する。


その一方で、日本の BPS 社長は孤独な戦いを始める。

彼は作者であるパジトノフと交流し、信頼を得ます。

ソ連政府も彼を信じて一計を案じる。



…そして、事態は急展開を遂げます。

ソ連の崩壊。メディア王の没落と、謎の多い死…



最後はパジトノフの手にテトリスの権利が戻ってくる。

壮大で、ハッピーエンドな物語。


くわしい話は、パジトノフの誕生日に書いていますので、そちらをご覧ください。




この話、すでにBBC作成のドキュメンタリーはあるのだけど、映画化の話も出ているみたい。


リンクした BBC のドキュメンタリーは、英語力がないので僕は見られていません。

映画化した際には、字幕でいいから日本語版を作ってほしい。ぜひ見たい。



テトリスの映画、と言っても SF映画とは違いますよ!

(これはこれで興味あるのだけど)




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コンピュータ

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11年 PC購入

13年 次女のぬいぐるみ

14年 フェルディナント・ブラウンの誕生日

17年 キャベツ料理

18年 凄腕プログラマ


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

アラン・チューリング命日(1954)、ドナルド・デービス誕生日(1924)  2016-06-07 14:34:11  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、アラン・チューリングの命日(1954)で、ドナルド・デービスの誕生日(1924)


この二人、関係が深いので一緒に紹介しましょう。

といっても、チューリングは誕生日の時に詳しく書いている。今日はデービスを中心とします。



チューリングはコンピューターの基礎概念を作った、と言われるのですが、計算機と概念はどちらが先か、微妙なところです。


計算機の自動化がある程度進められた時代背景があり、そこで「計算するとはどういうことか」を、仮想的な計算機を用いて説明しただけ。

この結果、どういう計算機を作れば汎用性が高いかが示され、それを目指して実際の計算機が作られていく…という流れ。


すでに職人芸で作られていたものに、学問的なお墨付きを与えたとでも言いましょうか。

チューリングマシン(1936)は重要な概念ではありましたが、「そのアイディアを基礎として計算機が作られた」わけではないのです。


#ツーゼZ1の開発は1935年から、ABC の開発は 1937年から。

 タイガー計算機は 1931年にはすでにあったし、その原型となるオドナー計算機は1874年に公表されている。




さて、時代的に計算機が作られ始めていましたから、チューリング自身、コンピューターに関する仕事もやっています。


1946年2月、チューリングはイギリス国立物理学研究所 (NPL)に、コンピューター製造計画の論文を提出します。

Automatic Computing Engine … ACE と名付けられたそのコンピューターは、人工知能を目指す計画でした。


これは、8月の ENIAC 公開よりも前に計画されたことでした。

もっとも、ENIAC は作成期間も長く、噂くらいは耳に入っていたのではないかと思いますが。



ACE は国家プロジェクトとなり、チューリングはその最高責任者でした。


そして、計画参加者の中にドナルド・デービスがいました。


デービスは、チューリングがチューリングマシンを想定した論文に、重要な誤りがあることを指摘しました。


詳細は、残念ながら僕は知りません。

「チューリングマシン」に与えるアルゴリズムによってあらゆる数が計算できることを示す部分で、アルゴリズムに穴があったようです。

「世界初のバグ」とも呼ばれています。


多少の穴があっても、そこは論文の本筋ではありませんが、「最高責任者」としての権威が揺らぎます。

重箱の隅をつつくようなことを言うデービスに対して、チューリングは不快感を示しました。



しかし、これは二人の性格の違いを示す、重要なエピソードのように思います。




ACE プロジェクトは、計算機にとって重要な「本質」を追い求めすぎ、肥大化します。

しかし、まだ当時の技術では、そんなに構想が肥大化したものは作れないのでした。


プロジェクトは頓挫しました。

チューリングは失望してプロジェクトを去りました。


しかし、これは国家プロジェクトです。止めるわけにいきません。

「作成技術」という現実を見ずに夢を膨らませて、うまくいかずに逃げ出したチューリングは無責任です。


その後、ジェームズ・ウィルキンソンが ACE プロジェクトを引き継ぎ、規模を縮小した「Pilot ACE」を作り上げます。


ドナルド・デービスは、Pilot ACE のプログラムを担当しました。

天才の論文に対しバグを指摘し、厳密さを重視する彼は、適役だったように思います。


デービスは、ロンドンの交通状況シミュレーションなどのプログラムを作っています。


Pilot ACE は後に量産され、1950年代に一番売れたコンピューターとなったそうです。




1950年ごろ、MIT でタイムシェアリング・システムが開発されます。

これにより、コンピューターに電話回線などでテレタイプを接続し、「時間貸し」ができるようになります。


また、コンピューター同士のネットワークも考案されていました。

コンピューター A にコンピューター B が接続するときは、時間貸しの端末と同じように、電話線を使って接続します。

A と C が接続するためにも電話線が必要で、B と C が接続するのにも電話線が必要です。


コンピューターがこのまま増えると、必要な線はどんどん増えることが予想されました。

コンピューター自体が高価なものでしたが、通信コストが馬鹿になりません。


しかも、これらの回線のほとんどは、「いつ通信があるかわからないので接続している」というだけで、ほとんどの時間、なんのデータも流れていないのです。


多数のコンピューターを、もっと少ない回線で結ぶことは出来ないか?

回線の利用効率をもっと高めることは出来ないか?


ドナルド・デービスはこの方法を考えます。



彼がたどり着いたのは、「パケット通信」と名付けた方法でした。

先の例でいえば、3台のコンピューター A B C が通信するには、 A-B 間、A-C 間、B-C 間の3つの回線が必要でした。


でも、A と C は、ともに B に接続しています。A-B と B-C の2つがあれば、B を介して A から C に通信ができるはずです。


それまでは、電話線の先にあるのが1台のコンピューターだったので、通信したいデータだけを送っていました。

でも、パケット通信では、一定のサイズのデータに区切り、それぞれのデータに「通信相手」を明記して送ります。


A から C に送るとき、途中で B が受け取りますが「C 宛」と書かれたデータはそのまま C に向けて再送信します。

もちろん、「B 宛」と書かれていれば受け取ります。


コンピューターが3台なら、3つの回線が2つに減っただけです。

でも、もっと多数のコンピューターがあったら…?


直接通信だと、10台で45本の回線が必要になります。

パケット通信なら、9本で十分です。



この通信方法は、現在のインターネット技術の基礎となっています。

ドナルド・デービスは、「パケット通信の父」なのです。


詳しい話はポール・バランの誕生日に書いていますので、そちらも読んでみてください。



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8086 発表日(1978)  2016-06-09 12:01:30  コンピュータ 今日は何の日

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今日は 8086 の発表日(1978)。


16bit 時代の覇者です。

僕としては、1980年代はまだ 8bit の時代だったイメージがあるので、70年代末にはすでに開発されていた、ということが驚きです。


8bit 時代の覇者は Z80 。

これはインテルの 8080 をベースに改良されたものですが、インテルからスピンオフした技術者が作ったザイログ社のものでした。


インテルとしては、あくまでも 8080 の「上位互換プロセッサ」として 8086 を作成します。




上位互換とはいっても、バイナリレベルでの互換はありません。


1978年の時点では、まだパソコンは普及しておらず、ソフト資産もないからね。

自分が作ったプログラムを、自分が作ったのだから理解していることを前提に、「ちょっと改良したら動く」で十分だった。


8bit から 16bit になっているのだから全然違うのですが、アセンブラのソースプログラムがあれば、レジスタ名や命令などを一括置換して再アセンブルすれば、8割がた動く、というあたりを目標に設計されたようです。

現実的な落としどころのように思います。


8bit CPU と互換性を持たせるため、メモリの構造に特徴があります。


8bit CPU では、8bit のレジスタを2本くっつけた 16bit のレジスタで、メモリアドレスを指定するのが普通でした。

この方法だと、64KByte のメモリ空間を持つことができます。


そして、8086 でも、16bit のアドレスレジスタでアドレスを指定します。

ただし、別のレジスタで「64KByte の起点となるアドレス」を指定できました。


これで、1MByte のメモリ空間の中から、任意の 64KByte を自由にアクセスできる、という構造を作り出しています。

ベースアドレスはプログラム中で変更可能なので、多少工夫すれば 64KByte を超えるデータだって扱えます。


8bit 資産も引き継げますし、16bit らしい大容量も扱える。

非常にうまい方法でした。




1978年の時点ではメモリも高価で、64KByte を超えるようなメモリを搭載する、ということがあまり現実的ではありませんでした。


1981年に発売された初代 IBM-PC は、16KByte のメモリしか搭載していません。


でも、あっという間にメモリは安くなり、大容量を搭載できるようになります。

90年代に入ると、64KByte 以上のメモリに連続アクセスできない、というのは足枷にすぎなくなります。


…もっとも、これはインテルだけの責任ではありません。



1985年には、後継の CPU 80386 が作られています。

8086 と、その後継の 80186、80286 までは、互換性を持つ 16bit CPU でした。


しかし、80386 は新規設計の 32bit CPU で、8086 互換モード「も」持っています。

互換モードでは、単に高速な 16bit CPU として動きます。


本来の能力を発揮すれば、メモリ空間も 4GB の連続アクセスが可能となりました。


インテルとしては、時代の要求に応えたものは作った。

これを使ってくれれば問題解決、というわけです。



でも、ここで「互換性」の問題が現れます。

8080 から 8086 に移行した時は、互換性とは「移植しやすければよい」という程度のものです。


しかし、時代は変わり、ソフトは買ってくるものになりました。

今までお金を払ったソフトを捨てないと 80386 には移行できないのです。



80386 を搭載したマシンは徐々に発売されていきますが、過去の資産を活かすため、単に高速な 8086 として使われていました。




ここで登場するのが Windows 。


3.0 の登場を覚えている人はいるでしょうか?

サポートする CPU 80286 以上でした。つまり、3.0 はまだ「16bit」で、8086 の呪縛を引きずっています。



アプリケーションを作るにも、16bit の呪縛が残っています。

だったら、Windows よりも普及している MS-DOS 用に作ったほうが、多くの人に使ってもらえるだけマシです。



それが、3.1 になった時に、80286 のサポートを打ち切り、80386 専用になります。

見た目はあまり変わらないのですが、80386 の性能を活かせる OS として作り直されていました。

アプリケーションを作りやすくなったのです。



#勘違いがありました。指摘感謝。

 僕は日本語版しか使ったことが無かったのですが、3.1が386以降専用となったのは、日本語版だけだそうです。

 英語版では、8086で動かなくなったものの、80286でもまだ動きました。



ところで、Windows 3.1 は、まず MS-DOS を起動し、MS-DOS 上から Windows 3.1 を起動する、という構成でした。

内部に MS-DOS を持っているのです。


これを利用し、Windows 3.1 のアプリケーションの一つとして、仮想的な MS-DOS を実行することができました。

互換性は完全ではありませんでしたが、最悪の場合、Windows を終了すれば MS-DOS に戻れます。


先に書いた「過去の資産」問題への対策もできているのです。


このために、Windows 3.1 は大ヒット。

見た目の上ではあまり変わりませんでしたし、バージョン番号も 0.1 しか違いません。

しかし、やっと 8086 の古い設計から逃れられるようになったのです。




現在は、8086系統の CPU は、さらに改良されて 64bit になっています。

とはいえ、基本的に互換性を確保しながらの改良なので、設計が古いところは多数あります。


メモリが貴重だった時代、命令の必要性に応じて、データの量を可変にする「可変長命令」はいいアイディアでした。


しかし、現在となっては可変長命令は命令の取り込みをややこしくし、実行速度を低下させます。

Intel の CPU では多くの工夫によって速度低下を防いでいますが、「互換性」さえ気にしなければもっと簡単に速くできるのです。


命令セットも、時代に合わせてつぎはぎに拡張を繰り返した結果、複雑怪奇になっています。



スマホなどでは、過去の資産がないところから始まったため、8086 系の CPU を使う理由もなく、主に ARM が使用されます。

設計が簡素で強力…だったから使われ始めたのですが、こちらもすでに拡張を繰り返し、複雑化しつつあります。




8086 の設計は、すでに 40年近くも前のものです。

今のプロセッサに 8086 互換機能はないのですが、基本部分はバイナリ互換性を保ちながら拡張されてきました。


2016.8.3追記


まだ完全互換を取り続けていました。指摘くださった方、ありがとうございます。

言い訳ついでに説明すると、リアルモードと呼ばれる動作モードに入ると、8086完全互換になります。

ただ、この機能を使うと最新の CPU の機能(たとえば膨大なメモリ空間)も使えなくなるため、普通は仮想 86モードを使用します。


仮想 86モードは、基本部分は互換なのですが、完全互換ではありません。

Windows では、MS-DOS のソフト資産を仮想 86 モードで動かし、完全互換でない部分に関しては、ソフトウェアで違いを吸収していました。


しかし、WindowsNT が導入されたとき、この「ソフトウェアによる 8086 互換の努力」は無くなりました。

Windows 95 系列との互換性のほうが重要になったためです。


このときに、すでに完全互換ではない、という記事を読んだ記憶が、最近の CPU は 8086完全互換ではないのか、というふうに記憶の中に残っていたようです。


現在の Core i7 でも、8086互換のリアルモードは残っていますので、8086 互換機能はまだあります。


そして、8086系列は今もまだ主流であり続けています。

おそらく一番「長寿」な CPU アーキテクチャのように思います。





公開後すぐに追記

IBMのメインフレームのほうが長く互換性保ってますよ、と教えていただきました。


メインフレームは使ったことないので不勉強でした。

IBM なんだから、途中で POWER に移行しているのだとばかり思っていた。


1年前の記事ですがIBM のメインフレームが50年間互換性を保証している、と書かれていますね。


インテルの CPU と同じように改良・拡張もあるのだろうけど、PCほど激しい競争のある世界でもないから、それほど汚いことにはなっていないのかな…と予想。


インテルの CPU は、誰もが言うけど汚い。

ただ、どんなに罵られようとも、実用性が高いのも事実です。


汚くなっているから設計コストだって馬鹿にならないだろうし、事実インテルは過去に何度も「新設計の CPU に移行」を試みては失敗しているので、もうやめたい気持ちだって大きいのでしょう。


それでも続けているのは、ある意味立派だと思います。



#マイクロソフトも過去製品のサポートを続けていて立派だと思っていたのだけど、Win10 への移行で「もうサポートしたくない」という態度をはっきりさせた。


 インテルもいつか「非互換です。嫌なら使うな」という態度をとるかもしれない。

 というか、一度そういう態度をとったら AMD に美味しいところかっさらわれて、慌てて追いかけたのだけど。


 いつかインテルが互換性を取るのに限界を感じた時、混乱なく事態を収拾できるだろうか?


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申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

あきよし】 ところで、間違えていたことは申し訳ないとお詫びしつつ、間違った駄文はこれからもどんどん書く予定です。
書かないことには何も始まらないから
勉強は精進しますが、限界もありますし、間違い指摘があれば素直に受け入れます。
 (2016-08-03 12:11:31)

あきよし】 気付くのが遅れましたが、各種指摘ありがとうございます。
80386サポートは、当時僕が98版しか知らなかったための勘違いでした。
また、8086互換性について、仮想86モードが完全互換ではないことと混同がありました。
以上、記事中にも追記しています。
 (2016-08-03 11:38:28)

【名無し】 Windows 3.1は80286もサポートしています。80386以上専用になったのはMSKKが販売していた日本語版では? (2016-06-19 00:50:35)

【6809】 初めてコメントを書かせて頂きます。他の方も軽く指摘していますが,思い込みや知識不足によると思われる誤りが散見されます。 多くの誤りがあるのでいちいち指摘はしませんがせっかくこうして書かれるのであればx86とWindowsについてきちんと勉強をして書き直しをされたらいかがでしょうか。このままではちょっと恥ずかしいです。 (2016-06-17 21:39:43)

【G-SHOES】 あれ、今のプロセッサにも8086の互換機能はあると思いますよ。 (2016-06-10 09:57:13)

あきよし】 メインフレームはあまり知らなかったのですが、互換性保ち続けていたのですね。
IBMだから、POWERに変わっているのだと思っていた。不勉強でした。
http://japan.zdnet.com/article/35065282/
 (2016-06-09 13:17:52)

【m.ukai】 長寿なのはIBMメインフレームでは? s/360から現役のzまで互換を保ちつつ拡張されてますよね。(s/360 と 370 の互換の程度は実は知らないんですが s/370 以降は上位互換) (2016-06-09 13:13:27)

顔文字 (^_^) の生まれた日(1986)  2016-06-20 09:42:31  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、日本式の顔文字 (^_^) が生まれた日(1986)。


一応、欧米式の顔文字、:-):-(1982 年に提案されています。


アメリカでは、1960年代から、テレタイプ端末を電話回線でコンピューターに接続して時間貸しするサービスがありました。

その延長で、いわゆる「電子掲示板」も早くから普及しています。



1970年代の末頃には家庭用のコンピューターも普及し始め、電子掲示板を使用するユーザーも増えます。

そして、ユーザーの急増に伴い、それまで数の少ないユーザーの間では「常識」で済んでいたことが、通用しなくなり始めたのです。



簡単に言えば、冗談を書き込んだのに真に受ける人が出始めた。

これはいけない、と、冗談の最後には「冗談だよ」という意味で、笑い顔のマーク :-) をつけようという提案がなされたのです。





さて、今日は日本の顔文字の話。


日本ではアメリカと違い、電話は国営でした。電電公社だけに許されたサービスだった。

その電話回線に接続する「電話機」もまた、電電公社の所有物で、レンタルでした。


電話料金と共に、毎月のレンタル料を支払う制度。

そして、その電話機以外の機械を電話回線に接続することは許されなかったのです。



この制度が変わったのが、1985年。

電電公社が民営化されてNTTとなり、同時に電話機自体も、認可があれば別の会社が作れるようになります。


日本の「パソコン通信」時代の夜明けはこの後で、300bps のモデムとかで通信ができるようになります。

まだ漢字を使えるマシンも少ないころで、アルファベットとカタカナだけで通信をやっていました。


#と書いているけど、僕がパソコン通信を始めたのは 1990年代なので、この頃の話は伝聞。

 一応、これ以前からも、通常の電話機にマイクとスピーカーを密着させる「音響カプラ」でのパソコン通信は行われている。


さて、1985年には、パソコン雑誌で有名だったアスキーが主催する形で、パソコン通信の「アスキーネット」がいち早くサービスを開始しています。



日本式の顔文字が生まれたのは、1986 年、アスキーネットでのこと。

お祝いメッセージの中で、喜びの表現として (^_^) という組み合わせが使われました。


この時点では、自分の気持ちを表現するものなので、文末に自分の署名とともに入れる形です。

でも、「顔文字」という概念もないので、誰も顔だと気づいてはくれなかったとか。


その後は、「自分らしい署名」の一部として使用されます。

欧米での使われ方のような、感情表現とは違うものです。



しばらく後には爆発的な普及を見せ、各自が工夫したバリエーションが増えていきます。




ここら辺、考案者である「わかん」さんに、メールでお伺いしたことがあります


当時は日本ではパソコン通信は「新しいもの」で、海外のパソコン通信を知っている人はほとんどいません。

存在程度は知っていても、実際使ったことはない、という意味ね。



だから、海外の顔文字は全く知らず、無関係だったそうです。


1980年前半のパソコンはグラフィックが使えないものも多く、ゲームなどを作る際に文字の組み合わせで形を作る「アスキーアート」を駆使していました。


これらは、ベーマガなどを読んでいた人にもお馴染みだったと思います。

しかし、わかんさんは視覚障碍をお持ちで、当然ながらこれらのゲームも知らないし、雑誌のプログラムを読んだこともないそうです。


つまり、全くのオリジナルアイディア。



今では、海外でも日本式の…横倒しになっていない顔の書き方は人気がありますし、Unicode によって文字のバリエーションも増えたため、驚くほど多くの表情を作り出せます。


時々、凝りすぎていて使い道がわからない顔文字も見かけますけど。




僕は文章の中に顔文字を入れすぎるのは好きではない。読みにくくなるから。

でも、時々 :-) や (^^; は使います。


前者は、英語的な表現と同じ「just joke」な感じ。


後者は、ちょっと照れ笑いを浮かべているような、なんと言ってよいか困っているような表現ね。

改めて説明しようと思うと的確な言葉が見つからないのですが、だからこそ顔文字で表現するしかない。



文章を書くプロであれば、微妙な表現でも的確な言葉を見つけないといけないでしょう。それがプロの仕事だから。


でも、今は素人でも書いた文章を人に見てもらえる時代。

上手い言葉を見つけ出せない時に、顔文字などで感情を伝えようとするのも、悪くないかと思います。

そこに「伝えたい」という気持ちがあるのであればね。


先に書いた「凝りすぎた顔文字」というのは、絵としての面白さはあるけど感情が乗らないようなものね。

絵を作り出した努力は認めますし、素直に面白いと思うものもある。


でも、顔文字が感情表現の一環であるならば、非常に使いづらい。




パソコン通信やメールでは顔文字が多用される、ということを前提に、DoCoMo が i-mode を作り出したとき、顔文字を1文字で表現するような「絵文字」が考案されました。


i-mode の初期の頃って、横幅が8文字分しかないんですね。顔文字の途中で改行されてしまう可能性は高いし、そんなことになったら絵として見られなくなる。


だから、1文字の幅の中で、笑い顔や泣き顔など、いくつかの顔を入れてしまった。

それでも、アスキーアートの延長だったので、絵としては非常に簡素なものでした。


その後、他社も真似して絵文字を入れていく過程で、完全に顔の絵になってしまった。

さらに表情も増え、それがそのまま Unicode に取り込まれた。



Unicode の策定に関わっている多くの人達が、「文字」ではないものを取り込むことに対して、強く反対したそうです。

そして、取り込むことを決めても、今度は日本生まれの「絵文字」が日本文化に根差しすぎていることが問題となった。


日本の文字なら日本文化に根差しているのは当然。

でも、絵文字は一見して「世界中誰でも理解できそう」だからこそ、その表現が日本文化だけに根差していることに問題があったのです。



非常に多くの議論が行われ、文字の形などが変更され、やっと取り込まれます。


実際取り込んでみたら大人気で、欧米のユーザーも喜んで使い始めた。

今では欧米からも、積極的に新しい絵文字の提案が出されています。



しかし、公式に「文字」の一部として顔の絵が使えるようになっても、なお新しい「顔文字」が作られ続けています。

組み合わせて自分で作る、という遊びが面白いという側面もあるのでしょうし、そもそも顔文字が「文字で表現できない微妙な感情を表現しよう」とするものだからでもあるでしょう。



公式にいくつかの顔が作られてしまえば、その中にない新たな表情を作りたくなる。

たぶん、顔の絵がどんなに増えても、「顔文字」が無くなってしまうことはないのだと思います。



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コンピューターが初めてプログラムを実行した日(1948)  2016-06-21 12:50:21  今日は何の日

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今日は The Baby が初稼働した日(1948)。

ということは、ノイマンアーキテクチャマシン上で初めてプログラムが動作した日です。



プログラム可能な機械はこれ以前にもあるし、電子計算機もこれ以前にあります。


でも、ハーバードマーク1は電子計算機ではなかったし、ENIAC のプログラムは配線を繋ぎ変えるものでした。

SSEC は電子式だったし、柔軟なプログラムができたけど、パンチカードによる外部供給式でした。


当時はまだ、高速な計算機があれば膨大な計算力が手に入る、と考えられていた時代。

プログラムは、必要上作らないとならないものではありましたが、簡単に作れると思われていました。


ところが、実際に計算機ができてみると、プログラムこそが一番重要な問題だったと気づきます。




ENIAC を作成したエッカートとモークリーは、ENIAC 建造中にこの問題に気づきました。

そこで、次に作る機械ではプログラムを作りやすくする工夫を盛り込もうと計画します。


それが、数値などの計算に必要なデータと共に、計算手順も数値としてメモリに搭載するという方法です。

ENIAC プロジェクトは国防上の機密事項でしたから、この設計も秘密裏に行われています。



ところが、プロジェクトを視察に来た天才数学者、フォン・ノイマンが、このアイディアを気に入ってしまいます。

彼は、次世代計算機 EDVAC の概要を、自分の名義で公表してしまいます。


まぁ、国防の機密をいきなり公表してしまうほど彼は馬鹿ではありませんし、裏でいろいろあったようなのですが、その話は今回は置いときます。


ともかく、世界中で「ノイマン型」アーキテクチャのコンピューターの開発競争が始まります。




そして、完成第一号は、イギリスの The Baby


これは愛称で、正式名称は Manchester Small-Scale Experimental Machine 。SSEM と呼ばれます。

当時はまだ理論上のものだったノイマン型コンピューターが本当に動くことの確認と、そのために必要な新型メモリである「ウィリアムス管」の動作試験を兼ねた実験機でした。


実験は成功し、すぐに Manchester Mark I の設計が開始されます。

さらに、Manchester Mark I は量産され、Ferranti Mark 1 として市販されます。




さて、その The Baby ですが、新型メモリのウィリアムス管の動作確認が最大の目的でした。


当時のメモリはシーケンシャルアクセス…今のような「ランダムアクセスメモリ」(RAM)ではなく、非常に遅いものでした。


ウィリアムス管は、ブラウン管を利用したメモリで、ランダムアクセスが可能なうえ、理論通りで行けばビット密度が上げやすい、夢のようなメモリでした。



ただし、この時点ではまだ実験中のため、ビット密度が低いです。

そのため、搭載メモリは 32bit を 32word だけ。1024bit ですね。


命令は1ワード1命令。だから、たった 32命令のプログラムしか作れません。



最初に実行されたプログラムは、2の18乗の最大の真の約数を見つけ出すプログラムでした。


…ある整数 n があった時、この n を割り切れる数を「約数」と言います。

ただし、1 と n で割れることは当然です。そうではない約数を「真の約数」と呼びます。


その中で最大のものを見つける、というプログラムです。


…えーとね、2 の累乗だから、必ず偶数ね。半分に割れる。

だから、半分に割った数が最大です。電卓があればすぐ計算できる。


つまり、事実上 2で割るだけのプログラムなのだけど、実験用の機械なので割り算は出来ない。

引き算と、符号による条件分岐くらいしか命令がないんです。


そこで、ひたすら引き算を繰り返し、結果が 0 になれば「割り切れた」と判断します。

疑似的に書くとこういうことです。


for(i=(1<<18)-1;i--;i>0){
  j=1<<18;
  while(j>0){
    j -= i;
  }
  if(j==0){
    answer(i);
    exit();
  }
}


実際には、「符号を調べる」しかできないから、0チェックとかもややこしいのだろうけど。



このプログラムは、命令 17word、データ 8word の 25word で作られていました。

32word しかメモリがないのだから、これ以上複雑なことは出来ない、というギリギリレベル。


そして、52分かかって正しい結果を出したそうです。

ウィリアムス管という新しいメモリが、1時間近くも正常に動作した、ということでもあります。



これがノイマンアーキテクチャで実行された最初のプログラムです。

1948年の今日、6月21日の出来事でした。



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