今日は何の日2ページ目の日記です

目次

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2013-10-02 ENIACの運用が終了した日(1955)
2013-10-04 ジョン・アタナソフ誕生日(1903)
2013-10-05 シーモア・クレイの命日(1996)
2013-10-06 ジョン・ワーノックの誕生日(1940)
2013-10-07 バーコード特許成立の日(1952)
2013-10-08 デジタルミレニアム著作権法成立の日
2013-10-11 マイケル・ストーンブレーカー誕生日(1943)
2013-10-12 ジャック・デニスの誕生日(1931)
2013-10-13 町口浩康さんの誕生日(1960)
2013-10-14 ブノワ・マンデルブロの命日(2010)
2013-10-15 富一成さんの誕生日(1960)
2013-10-16 追悼:やなせたかしさん
2013-10-16 ディズニー社の創設日(1923)
2013-10-18 チャールズ・バベジの命日(1871)
2013-10-19 タツノコプロの設立日
2013-10-21 MSX規格のコンピューター発売日
2013-10-22 スタンレー・メイザーの誕生日(1941)
2013-10-24 ジョン・マッカーシーの命日
2013-10-25 石井洋児さんの誕生日
2013-10-26 襟川陽一さんの誕生日
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ENIACの運用が終了した日(1955)  2013-10-02 10:08:48  今日は何の日

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今日は、ENIACの電源が落とされた日。


1946年2月に公開され、その後何度か移転や改良のために運用停止しましたが、使い続けられます。

そして、1955年の今日、午後11時45分に運用を終了し、電源が落とされました。


10年近く使われていたのですね。



ENIACについてはすでに書いているので、そちらを参照していただけるといいな、と思います。

たまには、説明が短い日があってもいいでしょ? (^^;


ENIACのその後はABCマシンの方にあります。


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別年同日の日記

02年 サーバー不調

02年 Write Once ...?

14年 レイ・トムリンソンの誕生日(1941)

15年 アンドリュー・グリーンバーグの誕生日(1957)

17年 中二病

23年 忙しかった週末


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

ジョン・アタナソフ誕生日(1903)  2013-10-04 11:29:42  コンピュータ 今日は何の日

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今日は ABCマシンの設計者として知られる、ジョン・アタナソフの誕生日(1903)。


ABC は、Atanasoff-Berry Computerの略。アタナソフが計画しましたが、実際の作成にはクリフォード・ベリーが協力しているため、二人の名前がついています。


このABCマシン、ENIAC 以前に作られた、世界最初のコンピューターと呼ばれるものの一つですね。

コンピューターの定義が難しいところですが、私見ではこれはコンピューターではなくて計算機です。


かなり昔に僕が書いたABCマシンの記事があるので、詳細はそちらに譲ります。


ただ、この記事かなり古く、その後知った情報が盛り込まれていません。

記事では「完成しなかった」と書いたのですが、出力ができない以外は動いたのだそうです。

計算結果を出力できないというのは、結局未完成だと言うことですけどね (^^;;




ちょうど良い機会なので、コンピューターと計算機の違いについて、僕の思うところを書いてみます。

最初に言っておきますが、私見ですし、多くの人にとってはどうでも良いことです。


計算をするための機械は計算機です。これは誰もが納得するところでしょう。


ただし、計算に使う道具は計算機ではありません。

古い計算機の話になると算盤を挙げる人がいるのですが、あれは計算を補助する道具であって、計算を行うのは人間です。

同じ理由でネイピアの骨(計算棒)も計算機ではありません。


パスカルの計算機が現存するものとしては一番古いと思いますが、それ以前にもシッカルトが作成したという記録がありますし、アンティキティラ機械も計算機だった可能性があります。


アンティキティラ機械は、紀元前に作られたと推測される歯車機械です。1901年に発見されました。

ここまでは事実。


発見時からぼろぼろの状態で、どうやら失われた部分も多いようです。

研究を行った学者により、おそらくこれは太陽や月、惑星の運行を計算する機械だったろう、となっています。ここは推測であり、事実かはわかりません。


ところで、アンティキティラが出たついでに、「計算」の定義も書いておきましょう。


計算と言うと、数値を入力すると、なんらかの処理をして数値を出力する、というものを想像しがちです。

でも、計算するものは数値とは限りません。


アンティキティラ機械では、おそらく日付を何らかの形で入力すると、その時点での天体の位置を出力します。

現代にも残る類似のもので言えば、星座早見版だって日付を示すと星座の配置を出力します。これだって計算です。

同様に、年月日を示すとその日の月の満ち欠けがわかる、という仕組みもあります。

(星座早見盤の裏についていたりします)


第2次大戦中に日本軍が作った「計算機付」の高射砲は、敵機の位置をスコープが捕捉するように機械を動かし、別に測定した予測高度、航行速度を入力すると、高射砲が「適切な射的位置」に向くようになっていたそうです。

あとは、任意のタイミングで打つだけ。命中率がものすごく高かったとか。


この場合、スコープで捕捉することが「入力」で高射砲の向きが「出力」ですが、計算機です。




さて、計算機の話だけで長くなりすぎました。


ともかく、計算が行えれば計算機。

この計算の内容がある程度複雑な場合、コンピューターと呼ばれます。


「複雑」というのがまたあいまいですが、大体の基準はあって、


1) 繰り返し演算が必要で、ある条件が満たされたときに、自ら計算を終了できること

2) 1 の計算内容や条件を変更できること

3) 2 で複数の計算内容を設定しておき、1つの計算が終わったら次の計算に移行できること

4) 3 のプログラム自体を計算処理対象にできること



1 を満たしただけでも、コンピューターと呼ばれる場合はあります。

現代的には 4 を満たさないとコンピューターとは呼びません。


タイガー計算機は足し算・引き算を繰り返すことで掛け算・割り算を行います。しかし、繰り返し操作は人間が行うため、「自ら計算を終了」できません。

そのため、コンピューターではありません。


後に、タイガーは電気式で自動で掛け算・割り算を行う機械も作っています。

これは、 1 の定義は満たしますので、コンピューターと呼ぶことも可能です。


電動タイガー計算機は、「掛け算」と「割り算」を選べました。計算内容と終了条件は、この設定により変わります。なので、2を満たす、と言えなくもありません。


ちなみに、ABC はガウス消去法を行うマシンだったので、2も満たしません。完全に 1 のみです。



3 をみたせば、ありとあらゆる計算ができることになります。

ENIAC はこの段階です。


4 は、プログラムを内蔵すること。計算するためのデータと、プログラムの間にたいした違いはありません。

プログラム内蔵型になると、プログラムを自己生成して動作することが可能になります。

自己生成と言うとなんだかすごそうですが、コンパイラとかもそうです。



コンピューターと言う言葉はあいまいで、この 1~4 のどの段階でも「コンピューター」と呼ばれてしまいますが、機能は雲泥の差です。


僕は ABC マシンも ENIAC も世界最初のコンピューターだと認めない立場をとっています。

その理由は、一般的に「コンピューター」と呼んだ時、多くの人が 4 を満たしたものを想像するためです。


もっとも、上の理由に「多くの人が想像する」とあるように、重要なのは多数の人の認識だと思っています。

そのため、世界最初のコンピューターを尋ねられた時は ENIAC を挙げたうえで、実際には少し違うことを説明します。

ENIAC は現代的な意味ではコンピューターではないのですが、重要な一歩であり、最初と呼んでも差し支えない、という程度には認めているのです。




もう一つ、ABC が世界最初だと主張する人の根拠の一つが「裁判所が認めた」なのですが、そんなもの、どうでもいいです(笑)


裁判所はなんらかの紛争を裁定する場所であって、技術的な事実を確認する場所ではないですから。

その裁判所すら、ENIAC の特許無効を裁定した時に、先行技術としての ABC を認めただけであって、ABC が最初のコンピューターだなんて言っていないのです。


とはいえ、この裁判で ABC が有名になったのは事実。僕もこの裁判の話として、ABC を知りました。



2進法のデジタル計算機としては最初期のものだったのも事実です。

ENIAC では2進法は採用されなかったとはいえ、ENIAC 完成前に ENIAC の設計者たちに ABC の技術は説明されており、EDVAC 以降現代まで続く2進法コンピューターに影響を与えているのも事実でしょう。


ABC がなければ現代コンピューターはなかった、と言っても間違いはありません。


(2進法の採用はツーゼの Z3 の方が先でしたが、戦時中のドイツで作成されたため、現代のコンピューターに影響を与えてはいません。)



では、最後にもう一度。

今日は、この ABC の設計者、アタナソフの誕生日です。


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シーモア・クレイの命日(1996)  2013-10-05 10:39:00  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、コンピューター業界の大物2人の命日。


シーモア・クレイの命日(1996年)と、スティーブ・ジョブズの命日(2011年)です。


…ジョブズは有名すぎて、うかつなこと書いたら突っ込みの嵐になりそう。

僕が書かないでも誰かが書くでしょうし、クレイについて紹介しましょう。




シーモア・クレイは、CRAY-1 コンピューターの設計者です。

これ以前から、計算力を誇る「スーパーコンピューター」は存在したのですが、CRAY-1によって一躍有名になったと言ってもよいでしょう。


1970年代、コンピューターはまだまだ高価なものでしたが、1950年代のように科学計算専用ではなくなっていました。

中小企業では手が出るものではありませんが、大会社では、商品開発や事務でもコンピューターが活用され始めます。


そして、当たり前ですが科学計算でもコンピューターの重要性は増していました。

より高速なコンピューターが求められるようになり、量産品ではなく、特注、もしくは受注生産のような形で「超高速」のコンピューターが作成されます。大抵は数台程度しか作られないものでした。



シーモア・クレイは、そのようなスーパーコンピューターを作っていた会社 CDC (Control Data Corporation)で働いていましたが、携わっていたプロジェクトが失敗、CDC でスーパーコンピューターを作り続けることができなくなります。


まだコンピューターの設計を続けたかったクレイは CDC を辞め、1972年に新たな会社、クレイ・リサーチを設立し、1975 年に CRAY-1を発表します。(実際の1号機納入は 1976年)




さて、この CRAY-1がどんなに速かったのか、当時の他のコンピューターと比べてみましょう。


まず、少し後の 1977 年に発売される VAX-11。

これは、当時安くて人気のあったミニコンピューター PDP-11 の後継機で、大ベストセラーとなったコンピューターです。

実は、その後のコンピューターの速度の基準の一つ、 MIPS は VAX-11 の速度を基準としています。


一応、MIPS は「1秒間に100万回の命令を実行できる」という意味の英語 Million Instructions Per Second の頭文字なのですが、実際には命令ごとに実行速度も違いますし、機種を超えて単純な比較はできません。

そこで、VAX-11 が速度基準となるのです。VAX-11 の速度が 1MIPS です。



1974年、インテルは 8080 を発売します。

これ以前から 4004、8008 という CPU を発売していましたが、これらは主に電卓などに組み込む用途が想定されていました。


8080はコンピューターを作成できる性能を持った初めての 1chip CPU で、これで世界初のパソコンが作られています。


この 8080 が、0.64MIPS でした。


当時の IBM は、System/370 と呼ばれるシリーズを販売しています。これは大ベストセラーとなった System/360 の上位互換で、CRAY-1 より5年も前の、1970年発売でした。

値段と性能でいろんな機種があるのですが、この最高機種が 1.89MIPS でした。



もっと性能が欲しい場合、CRAY-1 以前にもスーパーコンピューターが存在しました。

ただ、この当時のスーパーコンピューターは希少品過ぎて、速度を測定した資料が少ないようです。


また、スーパーコンピューターは科学計算で使用されることが多いため、整数演算性能を示す MIPS ではなく、浮動小数点演算性能を示す FLOPS で表現されます。


MFLOPS で、1秒間に100万回の浮動小数点計算ができることを意味します。


クレイが以前に勤めていた CDC 社が 1973年に発表した STAR-100 は、50MFLOPS 。

ただし、これは設計上の速度で、実際にはそれほどの性能が出なかったようです。


Texas Instruments の Advanced Scientific Computer (TI-ASC) は 1972年に発表されています。

…5台しか作られなかったそうで、性能を測定した値が見当たりません。一部資料では STAR-100 より性能がよかった、となっています。


STAR-100 の半分のクロック速度で動作しますが、STAR-100 の倍の同時演算性能があります。

これだけで見ると性能は同程度ですから、性能が良かった、というのが事実として、STAR-100 の設計性能通りの 50MFLOPS くらいでたのではないかな、と思います。


イリノイ大学が作成した ILLIAC IV は、1964年に開発が開始された並列コンピューターです。


256個のプロセッサが同時に動作し、性能はなんと 1000MFLOPS! …を目指していたのですが、実際には開発が難航し、プロセッサは 64個に減らされ、予算は4倍に膨れ上がり…


1976年にやっと完成した時には、設計上で 100MFLOPS、実際にはそれを下回る性能になっていました。

量産は考慮されていなかったため、作られたのは1台のみです。



さて、下は 0.64MIPS から、上は 1.89MIPS 。

スーパーコンピューターだと、 50MFLOPS から 100MFLOPS。


これが、CRAY-1 が発売された当時の、他のコンピューターの性能でした。


そして CRAY-1 は、160MIPS/160MFLOPS。

これは設計上の速度で、実際には 150MIPS/80MFLOPS 程度だったと言いますが、それでも性能がとびぬけているのがわかって貰えるでしょうか。


スペック的には、ILLIAC IV と性能が同程度、完成も同時期です。

ただし、ILLIAC が量産を考慮していなかったのに対し、CRAY-1 は量産可能でした。


CRAY-1 の反響は非常に大きく、第1号機は奪い合いとなりました。

クレイは1ダースも売れれば十分…と考えていたようですが、結果として80台以上を売る大ヒットでした。




CRAY-1 は、円筒型の印象的なデザインが特徴です。

(右図:Wikipedia より引用。実際には後継機の CRAY-X MP のもの。クリックで拡大ページを開きます)

これ、速度を上げることと非常に密接な関係があります。


速度を上げるためには、単純に言えばCPUのクロックを上げる必要があります。

しかし、クロックを上げようとすると、信号線の「乱れ」が問題となり始めます。


クロックは、処理を開始するきっかけです。よく指揮者に例えられます。

コンピューター内では、処理開始時には、その処理の材料となる電気信号が揃っていなくてはなりません。

そして、処理中に電気信号が変化します。この電気信号の変化がすべて終わり、各所に電気信号が届いてから次の処理を開始する必要があります。


つまり、クロックの速度は、最悪の、一番遅い信号切り替わりのタイミングよりもゆっくりでなくてはならないのです。

一部の命令を速くしただけではクロックを上げることはできず、全体の速度は変えられないのです。



そのため、設計上は出来るだけ信号の変化タイミングを合わせる必要がありますし、それらの信号が速やかに届くように、信号線は出来るだけ短くする必要があります。


…そこで、円筒形です。

円筒形の周囲には様々な機能を実現する回路が入っていますが、それらの回路同士の連絡は、円筒形の中央で行われるようにしてあります。

一旦中央に集められた信号が、適切な周囲の回路に渡される。これなら、信号線は最短にできます。


ちなみに、速度に関係しない電源と、表面積を大きくしたい冷却機構は、一番外側に円筒を取り囲むように配置されています。

ちょうど椅子くらいの高さで、円筒部分が背もたれに見えるために、CRAY-1 は「世界で一番高価なソファ」という愛称(?)で呼ばれていました。



愛称も含め、特徴的なデザインはやはりみんなの目を引いているわけですが、これは性能を追い求めた結果生じた機能美なのです。




話は脱線しますが、後に NEC がスーパーコンピューターの開発に乗り出し、1983年に SX-2 を発表、世界で初めて 1GFLOPS (1000MFLOPS)を超え、世界で初めてアメリカ以外の国で作られたコンピューターが速度世界一となりました。


この時、設計者たちは 5ナノ秒で電気信号が到達する長さの棒(定規)を作って、すべての信号線の長さがその棒よりも短くなるように設計図を描いたのだとか。

この棒を「5ナノ棒」と呼んでいた、と当時設計に携わった人に聞いたことがあります。



また別の脱線。昔 Ah! Ski というパロディコンピューター雑誌があり(ASCII の別冊として、毎年エイプリルフールに発行されていた)、この中に「人柱コンピューター」と言う話が載っていました。

円筒形より速度を上げるには球形配線しかないが、技術者は内部で配線を行わなくてはならないため、最後はコンピューター内部で即身仏になる、というネタ。




さて、最後に現代の CPU の性能をちょっとだけ。

パソコン用では、1994年発売の Pentium 90MHz で 150MIPS に到達しています。

これ以降のパソコンは、みな「かつてのスーパーコンピューター」並みの性能を持っているのです。


2011年の Intel Core i7 Extreme 3960X (6core) は 187250MIPS / 115740M(115G)FLOPSとなっています。CRAY-1 の千倍以上の速度です。



さて、今日はクレイの命日であるだけでなく、ジョブズの命日だとも書きました。


ジョブズは Apple 設立の起案者ですが、1981年に追放され、1996年に復帰しています。


1999年発売の PowerMac G4 は、「スーパーコンピューター」であると宣伝していました。

根拠は、共産圏に武器輸出を禁じるココム協定では、1GFLOPS を超えるコンピューターをスーパーコンピューターと定義しているから。

PowerMac G4 に使われた PowerPC G4 プロセッサは、パソコン用として初めて 1GFLOPS に到達していました。


ところで、ココムはソ連の崩壊を受けて実際には 1994年に解散しています。

1GFLOPS がスーパーコンピューターである、と言う規定も 1994年当時のものとなります。


先に書いたように、1983 年に NEC が作った SX-2 が初めて 1GFLOPS を超えたマシンです。スーパーコンピューターは高価なために10年程度は使い続けられることが多く、10年前の性能を定義の指標に使っていたのでしょう。


ジョブズの遺作となった、2011年の iPhone4S 。

この CPU である A5 は、336MIPS / 141MFLOPS の性能を持つそうです。

2コアですから、1コアで考えると…ちょうど、 CRAY-1 と同じくらい。


クレイがつくったスーパーコンピューターは、ジョブズによって皆が持ち歩けるようになったのです。

そして、今日はその二人の命日。天国でどんなお話をしているのでしょう?


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ジョン・ワーノックの誕生日(1940)  2013-10-06 10:31:35  コンピュータ 今日は何の日

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今日はジョン・ワーノックの誕生日。

アドビ・システムズの共同設立者で、ポストスクリプト言語の設計者です。


…ごめんなさい。僕、この人詳しく知りませんでした。

「今日は何の日」で何書こうかな~と探していて見つけただけ。


もっとも、ポストスクリプトの開発裏話とか、アドビ社の略歴程度は知っていましたが。


以下に書くことには間違いがある可能性が高いです。

読み物として楽しむ程度なら問題ありませんが、資料として読む場合は他の資料も調べることをお勧めします。




ワーノックは1940年にユタ州に生まれました。数学の苦手な子供だったそうです。

しかし、高校時代に良い数学の先生に出会い、急に数学に興味を持ち、ユタ大学に進学します。


しかし、ワーノックは数学に「興味はあった」のですが、依然として「苦手」だったようです。

(僕もそういうタイプなのでよくわかります (^^; )


大学を卒業した後は勉強を続けようとはせず、IBM で働いたり、数学の教師になったり、結婚したりしています。まぁ、大学卒業後の普通の生活ですね。


しかし、なにかに目覚めたようで、1968年、ふたたび大学院に戻る決意をします。

働いた後に大学院に進むのは、欧米ではよくある話。大学院にはギリギリの成績で滑り込んだようです。


大学では数理哲学を学びましたが、大学院はコンピューター科学を専攻しました。

ユタ大学院には、当時珍しいコンピューターの学科があったのです。

アラン・ケイも1966年にユタ大学院に進学しています)


そして、大学院在学中に当時のコンピューターグラフィックス界の未解決問題であった、隠面処理アルゴリズムを開発します。


…ここ、彼について書かれたネット上の資料(特に日本語の物)を読んでいると「数学の未解決問題を解いてしまった! 天才だ!」というようなニュアンスになっているのですが、違和感があるので詳細に解説。


彼がこのアルゴリズムの研究で博士論文を書いたのが、1969年。


ところで、世界初のコンピューターグラフィックソフトとされる、サザーランドのスケッチパッドが、TX-0 の後継機種 TX-2 で作られたのが 1962年です。


スケッチパッド当時のコンピューターは、科学計算や爆弾開発時のデータ解析など使用される、膨大な計算力を持った「兵器」です。

コンピューターをお絵かきに使おうなどと言うのは、当時異端の研究でした。研究者も多くはありません。

コンピューターグラフィックスが学問分野になるのは、もう少し後の話。


で、サザーランドは1968年からユタ大学で教授を務めています。

ワーノックが直接サザーランドに教えを受けたかどうかはわかりませんが、研究内容についてサザーランドの示唆があったのではないかなぁ、と思います。


だとすれば、その内容は「研究者が少なく、時間が足りなくて未解決だけど、じっくり取り組めば大学院生でもなんとかなると思う」レベルの問題を研究させているでしょう。


最初にアルゴリズムを開発したのは事実ですし、ワーノックはその問題を解けるだけの能力はありました。

でも、誰も解けないような「数学の未解決問題」ではなくて、単に研究者がいなかっただけの問題で、解けたから天才、と言うものでもありません。




さて、サザーランドは大学教授の傍ら、1968年に会社を設立しています。

ワーノックは大学院で研究を続けていましたが、76年にサザーランドの会社に移っています。


この会社では、3Dグラフィックデータベースのための「記述言語」の研究を行っていました。


これについても、説明を加えたほうがよいでしょう。

当時、コンピューターは黎明期で、コンピューターごとに表示能力は大きく異なっていました。


どのコンピューターでも使えるデータを作る際、重要なのは、デバイスへの依存性を無くすことです。

たとえば、現代的に画像ファイルとして使われる JPEG ファイルは、縦横の表示ドット数などが固定されていて、「デバイス依存」です。


ずっと昔、640x480 の表示が当たり前だった時代に、WEB 表示用に小さな画像を作っていたとして、それを現代の画面表示で見ると小さすぎる、と言うようなことだってあるでしょう。

(当サイト内には、そうした画像が多数あります (^^;; 1996年からやっているもので)


このようなデバイス依存性をどうやれば無くせるか、というのは一つの重要なテーマでした。

記述言語を利用する場合、実際の表示サイズとは無関係の「仮想的な」画面を想定し、その画面の中で絵を描くための手順を記述します。


実際の表示の際には、計算によってデバイスに適したサイズに数値が変換され、表示を行います。

これならば、どのコンピューターでも、そのコンピューターごとの最適な画像を得ることができます。


これが、グラフィックをデバイスに依存しない形で記録する「記述言語」です。



記述言語には、もう一つの利点があります。

通常、解像度が高いデバイスで表示するためのデータは、非常に大きなものになります。


しかし、記述言語では描くための手順だけを記録すればよいため、小さくて済むのです。


Apple は Apple II 用の Pascal で「記述言語」の概念を取り入れた方法でグラフィックを扱っていましたし、LOGO などは記述言語そのものです。

1980年代には、NAPLPS とかキャプテンシステムとか、記述言語を使って画像通信を行うのが流行しました。




ワーノックは、1978年にXerox のパロアルトリサーチセンター(PARC)に移籍します。能力を買われ、引き抜かれたそうです。

ここで、レーザープリンター用の「ページ記述言語」を開発します。


そして 1982年、PARC の同僚チャールズ・ゲシキと一緒に、アドビシステムズを企業。

PARC で研究したページ記述言語をさらに洗練させ、PostScript 言語を完成させます。


アドビと言う会社名は、シリコンバレーのワーノックの自宅そばに流れていた川から取られた名前です。


良く知られているように、アドビとは日干し煉瓦のことです。シリコンバレーのあたりは雨が少なく、1800年代後半の調査では、この周辺に住んでいたインディアンはみな日干し煉瓦の家に住んでいました。

そのことから、この周辺は「アドビ」と名付けられ、そこに流れる川はアドビ川となったのです。

(川の名前の由来をインディアンの言葉、とする資料もありましたが、エジプト語由来のスペイン語から英語に取り入れられたようです)



ところで、1984年に Apple が Macintosh を発売します。

Mac は、Apple Pascal に源流をもつ「画面記述言語」で画面を描画するシステムを採用していました。


最初の Mac は白黒だった、と言うのは有名ですが、実は画面記述言語のレベルでは、カラーに対応しています。


Mac は、最初から印刷を強く意識したコンピューターでした。

当時はカラープリンタが珍しく、そのことも画面を白黒にした理由の一つでした。

(もちろん、カラー表示用の RAM を無くすことでコストを抑えたのも大きな要因です)


画面のサイズは、1ドットが 1/72 inch になるように決められていました。

最初に発売された専用ドットインパクトプリンタも、1ドットが 1/72 inch でした。

これ、印刷業界でいう「1ポイント」のサイズを基準にしています。


そして、Apple はアドビの持つ PostScript 技術を購入し、レーザープリンターを発売しました。


画面表示用の記述言語(QuickDraw)から PostScript に変換しなくてはならず、本来の性能が引き出せないと言う問題はありました。しかし、QuickDrawは元々デバイスに依存しない方法で表示を行っていたため、十分に綺麗な印刷が可能でした。


実は、PostScript プリンタの発売前から、Appleとアドビは、第3の別会社に接触していました。

これがアルダス社で、アルダスは PostScript を前提とした印刷ソフト、「ページメーカー」を作成します。

ページメーカーは PostScript を前提としていたため、QuickDraw からの変換は不要でした。PostScript プリンタの本当の性能を引き出すことができます。


グラフィカルな画面を持つ Mac と、綺麗な印刷を行うための PostScript 、そしてその架け橋となるページメーカー。

これは、それまでのパソコンでは想像もつかなかった新しい環境でした。

ここに、デスクトップパブリッシング (DTP)のブームがおこります。



その後、ジョブズが Apple を追放され、NeXTコンピューターを作成する際には、画面表示にも PostScript の亜種、Display PostScript を採用しました。

これで、特別なソフトがなくても、画面表示と印刷結果が「完全に」一致します。


PostScript は「言語」ですので、ファイルに記録することができます。

カプセル化された(Encapsulated) PostScript の略で、 EPS ファイルと呼ばれます。


EPS は、PostScript 形式のファイルを扱うソフト間で使用されるデータ形式でした。

アドビでは EPS のフォーマットを改良し、PostScript プリンタ「以外」でも印刷したり、画面に表示したりできるソフトを開発します。


つまり、このソフトがあれば、PostScript プリンタがなくても PostScript ファイルが印刷できるのです。なんという軽業でしょう!

このソフトは「アクロバット」と名付けられ、アクロバット用に改良されたファイル形式は PDF (Portable Document Format)と呼ばれました。


PDF ファイルでは、PostScript の機能を一部削除し、あらゆるデバイスで扱いやすいようにしています。


現在の Mac で使用されている OS (MacOS X)は、NeXT のOS をベースに開発されましたが、画面表示は Display PostScript ではなく、PDF 形式を採用しています。(画面表示システムの、Apple 社での技術名称は Quartz)




PostScript は「言語」なので、ジャンプ命令やサブルーチンコールもあります。ハノイの塔を解決するプログラムは何種類も作られていて、PostScript プリンタに送り付けると、解決手順を延々と印刷します。


一方で、「言語」であるが故のセキュリティホールもあります。

PDF で機能を一部削除したのは、このセキュリティホールを無くすためでもあります。


もっとも、言語とは言っても直接テキストエディタで記述する人は多くないでしょう。

PostScript を「直接記述」したいのであれば、普通はアドビ社の販売しているソフト、「イラストレーター」を使います。

Draw系のグラフィックソフトですが、事実上 PostScript のデータ形式を直接操作しています。

イラストレーターでは EPS や PDF も読み書き共に対応しています。


今ではアドビ社と言えば「フォトショップ」のイメージがありますが、これは 1988年に外部から購入し、1990年に発売したソフトです。

イラストレーターは 1986年には発売されているので、歴史的にはこちらの方が長いです。


アルダス社のページメーカーは、DTPのブームでライバルが登場した際に、十分に対応できずにシェアを大きく奪われました。

ライバルが次々と新機能を搭載し、便利になっていくのに、ページメーカーは古臭いまま取り残されていたのです。


その後アルダス社はアドビに売却され、ページメーカーもしばらくは販売が続けられましたが、2001年のリリースを最後に開発を終了しています。

(ページメーカーに代わるソフトとして、現代風に新規に作られたソフト、InDesign を販売しています。)


Flash の内部は PostScript ではないのですが、イラストレーターのライバル(?)ソフトであったスマートスケッチが起源ですし、アドビは PostScript の会社なのだなぁ、と改めて思います。


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バーコード特許成立の日(1952)  2013-10-07 13:46:19  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日はバーコードの特許登録が成立した日(1952)。


今ではどこでも見かけるバーコードや QRコードですが、その基本的な仕組みの特許は、1952年の今日成立しています。


話は 1948年にさかのぼります。


フィラデルフィアのスーパーマーケットチェーンの社長が、地元のドレクセル工科大学に相談にきました。

お客さんがどのような商品を購入したのか、レジで自動的に確認できるようなシステムは作れないか、と言う相談でした。


大学院生バーナード・シルバーは、偶然この相談内容を知ることになります。

すぐに友人のノーマン・ウッドランドとともに、システムの開発に取り掛かります。


ここで、このシステムが求められている背景について説明しておきましょう。


1900年代初期の商店は、カウンター販売が普通でした。

お客さんは店の人に欲しいものを伝え、店員がカウンターケースから取り出したり、店の奥から在庫を持ってきたりします。


1916年、アメリカで「お客さんが自分でほしい品物を探し、出口で店員が清算して料金を払う」という新しいシステムの店舗が出来上がります。


この方式ですと、品数を増やし、在庫を置く棚が増えても、品物を探すための店員の数を増やす必要がありません。

お客さんの方としても、1つの店で多くの品物をそろえることができるためメリットが大きく、この方式の店舗はあっという間に全米に広まります。

(最初の店舗の考案者はこの方式を特許出願しており、フランチャイズ店を増やしていきました)


1930年代には世界恐慌により店舗側もコスト削減を余儀なくされ、従来型の店舗に打撃を与えました。これがスーパーマーケットをさらに普及させることになります。

たとえば、Kroger は従来型店舗を持つチェーン店でしたが、この時期にスーパーマーケットへと転換しています。


また、それまでのスーパーマーケットでは「在庫できる品物」を中心に扱っていたのが、肉や野菜などの生鮮食品も扱うようになってきます。


これにより、お客さんのまとめ買い需要は増え、レジでの清算時間が延びる、と言う問題が生じました。

待ち時間が伸びたならレジを増やせばよいのですが、ライバル店が増えたためのコスト削減競争や、生鮮食料品が増えたための「売れ残り」のリスクによるコスト増もあります。


スーパーマーケット方式は、コストを増やさないでレジを増やすための方策を求めていたのです。

これが、「商品を自動的に確認できるようなシステム」の開発相談に繋がっていました。




さて、大学院生のシルバーとウッドランドは、試行錯誤の末に一つのアイディアにたどり着きました。

品物の1つ1つに、目に見えないインクで印をつけて置き、それを特殊な機械で読み取ればよい、と言うものでした。


目に見えないインクとしては、当時まだ高価だった紫外線蛍光インクを使用します。

通常の可視光下では見えませんが、紫外線ライト(ブラックライト)を当てると光を発します。


しかし、実験してみるとこの方法は使えないことがわかりました。

インクが高価すぎてすべての品物に印刷するには不向きだったうえ、強い光を当てるとインクが「色褪せ」を起こしてしまうため、時間がたつと紫外線を当てても光らなくなってしまうのです。


しかし、アイディアは悪くないように思いました。

シルバーとウッドランドは、「目に見えない印」である必要はないと考え、白黒印刷のシールを品物に貼ることにしました。


シルバーは、モールス信号が「・」と「-」で文字を表すように、縞模様を印刷すれば品物の種類を表せるに違いない、と考えました。

どのような角度で品物を示されても読み取れるように、同心円状の縞模様を印を考案します。これはブルズアイ(牛の目)コードと呼ばれました。


試験すると、500W の強い電球の光の下で、RCA社の光電子倍増管を使用すると、この印を読み取ることができる、と判りました。


シルバーとウッドランドは、1949 年にこの装置の特許を出願します。

特許は 1952年の今日認められました。



特許出願から登録成立までの間の1951年、ウッドランドはIBMに就職しています。

ウッドランドは「品物コードの読み取り装置」の研究をつづけたくて IBM にアイディアを披露。

IBMとしての結論は、興味深いし将来性はあるが、商売にするには少し早い、というものでした。


IBM は、特許成立後に、この特許を買い取りました。しかし、結局商売にはならない、と考え、1961年に RCA に売却しています。




1966年、RCA はこの特許の活用を狙います。全米フードチェーン協会(NAFC : National Association of Food Chains)に「自動精算機」のアイディアを披露し、会議を開催したのです。

kroger は、チェーン展開する店舗での実証実験に名乗りを上げます。


1970年代に入ると議論は一気に加速し、商品をどのようにコード化するか、ブルズアイ以外に良い形式の印刷はないか、などが次々検討されていきます。ここで、11桁の「全米統一コード」が開発されます。


1971年、RCA はカンファレンスで、ブルズアイコードを使った実証実験を行います。

これは非常に話題になり、RCAのブースには人だかりができました。


この時、このカンファレンスに出席していた IBM の人間が、RCA のシステムはウッドランドの特許のものだと気づきます。

ウッドランドはまだ IBM の社員でした。IBM はウッドランドを支援し、このシステムの開発に参加することを決めます。


1972年の7月、Kroger の1店舗で半年の実証実験が開始されました。

ここで、ブルズアイが「思ったより使えない」ことがわかります。


コードの印刷の際には、紙が送り出されます。これによりインクが紙の移動方向に滲んでしまい、実際の印刷が綺麗な同心円にならないのです。


ウッドランドは、これを受けてすぐに新しい印刷形式を考案します。


ブルズアイは、最初のシステムが「目に見えない」コードを使用していたことの名残でした。

目に見えないのであれば、機械をどの角度で使っても読み取れるようにしなくてはなりません。


しかし、すでに印刷されるコードは「目に見える」ものになっています。

ならば、どのような方向でも読める、ということは諦め、印刷が一方向に滲んでも良いように、最初から「帯状の縞」にするのです。


ブルズアイに対し、たくさんの「棒」が並んでいるように見えるこの印刷は「バーコード」と呼ばれました。

ここに、現代でも使われているバーコードが完成します。


IBM が考案したこのコードは NAFC の会議で採用され、1974年に、実用第1号機がスーパーマーケットに導入されます。

1974年の6月26日、第1号機で「10パック入りフルーツガム」が購入されました。この際に印刷されたレシートとガムは、現在スミソニアン博物館に展示されています。


その後、NAFC の働きかけによって、商品にはあらかじめバーコードが印刷されるのが普通になります。

全米統一コードが制定されたことにより、「商品にシールを貼る」というコストも削減できるようになったのです。


さらに、もう一つの利点がありました。

バーコード以前から、売れ筋商品の管理などの概念は登場していたのですが、管理の手間が大きすぎて実用にはならない状態でした。

これが、バーコードによって手間がほぼなくなり、実用に至ったのです。販売時点情報管理…いわゆる POS (Point of Sales) システム です。


これにより商品在庫の管理が容易になり、さらにスーパーマーケットはコスト削減に成功します。


もちろん、POS にはコンピューターが必須ですから、IBM も…つまりは、元のアイディアを考案したウッドランドも儲かっています。


考案から実用化まで長い時間がかかったシステムは「考案者が報われない」ことが多いのですが、バーコードはなんだかいい話です。


特許の有効期限は 20 年なので、特許を買い取った RCA は結局権利を行使できず、発明者においしいところを持っていかれたという、かわいそうな話でもあります (^^;


#でも、バーコードは光学的な読み取りに「RCA の光電子倍増管」を使っていたので、それほど損してないのかな?


#バーコードの仕組みとか、デザインバーコードの話も書こうと思っていたのだけど、歴史だけで長くなりすぎた。

 またそのうち、忘れなければ…書きたいところ。


 →翌年書きました


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デジタルミレニアム著作権法成立の日  2013-10-08 10:44:01  コンピュータ 社会科見学 今日は何の日

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今日はデジタルミレニアム著作権法成立の日(2000年)。


アメリカの法律だから、日本に住んでいれば直接の関係はない…?


いや、ネット上には、アメリカにサーバー・本社があるサービスが沢山あります。

これらは、アメリカの法律の影響を受けます。


また、この法律自体がもうすぐ日本にも来る…かもしれません。これについては後で書きましょう。




1990年代後半、アメリカの著作権法は世界の趨勢から見て遅れていました。

その修正が主な目的で 2000年に改正されたのですが、単なる改正にとどまらず、1990年代末に起こっていた新たな問題の解消を同時に盛り込んだのですね。


1990年代後半…そうです。インターネットのブームです。

インターネットの急速な普及により、書籍の内容や音楽、果ては「他人の WEB をコピーしただけで自分のページだと言い張る」など、多様な形の著作権侵害が起きていたのです。


コンピューターを使った新しい著作権問題(デジタル)に対応し、ミレニアム(2000年)に成立したから、デジタルミレニアム著作権法。わかりやすいです。まぁ、これは愛称なので、わかりやすくて当然なのですが。

でも、長いので以下「米著作権法」と表記します。


さて、この米著作権法で先進的だったのは


・著作権保護技術の解除を行う方法の公表も、著作権侵害とする

・著作権侵害を親告罪ではないものとする

・故意・過失がなくとも罰せられる


というような部分です。


以下、順次説明していきましょう。

なお、僕は法律の専門家ではないので、間違いがあるかもしれません。

この点はご容赦いただきたいと思いますが、指摘に関しては大歓迎です。




まず、保護技術解除について。いわゆる「リッピング」のことです。

DVD などでは、著作権保護のための暗号化が施されています。この暗号化方法自体が、技術の問題だけではなく「著作者の権利の一部」と認められ、暗号化を解除してコピーする方法を公開することは「著作権侵害」とみなされます。


ただし、公開することが侵害となるだけで、その情報を知ったものが自分の使用の範囲内でコピーを行うことまで禁じるものではありません。

というか、もしも自分の利用の範囲でのコピーも禁じるような契約があった場合、ユーザーの利益を損なう異常な契約なので、その契約自体がおかしい、という判断になるようです。


日本のHDDレコーダーなどでは、コピーワンス、コピー10などの制限がありますが、こういう制限自体がおかしい、と言う意味です。

ただし、日本の著作権法は現在穴だらけなので、著作権者の権利を守るためには日本の方式は評価できます。(詳細は後ほど)


もっとも、保護技術の解除が本当に著作権侵害なのか、アメリカでも判断の分かれるところです。

解除方法を見つけ、公表することは「言論の自由」でもあるためです。


米著作権法の成立後、DVD の暗号化解除方法を見つけた人が、裁判所で「公開の禁止」を命じられました。

しかし、4年後に「公開の禁止は言論の自由に違反するものである」として命令が撤回されています


もっとも、これは「公開の禁止」という命令が違法である、と言うだけの判断。

解除方法の公開自体は、米著作権法で禁止されたままなので、これで公開が行えるようになった、と言うわけではありません。




親告罪でないものとする、について。

著作権と言うのは、著作者が主張するものです。このように、本人が主張することで罪が成立するものを、親告罪と呼びます。

しかし、親告罪の場合、いちいち著作権者が侵害の事実を発見し、申し立てを行わない限り侵害が認められないことになります。


初期の YouTube の事例になりますが、著作権侵害のビデオが続々とアップロードされました。

主に、テレビで放映された内容を録画し、「面白かったから」他人にも見せようとするものでした。


YouTube では、当初は著作権者からの申し立てに応じて削除を行っていました。これは「親告」によるものです。

(YouTube の設立自体は米著作権法の成立以降です。それでも親告で対応していたのは、単にシステムが未整備だったため)


この後、YouTube ではシステムを整え、放映された内容などと同じ内容のビデオを自動的に検出し、公開を停止するようになりました。

この措置は「親告罪ではない」ために行えるものです。著作権者でなくとも、侵害を見つけた場合は措置を取って良いのです。


ただし、これが例えば日本で適用された場合「コミケは存続できない」という主張があります。

これはその通りでしょう。今は親告罪なので、漫画家さんが訴えないだけです。


訴えない理由は2種類あり、ひとつはいちいち訴えるのは面倒くさいからで、もう一つはコミケのような場所を認めているためです。

認めるというのは、つまりは最終的な利益となる、ということ。


自分の作品のファンが楽しんでいるのだから、その活動が広まれば自分の作品の人気にもつながる、と言う「狭い利益」の部分と、コミケは文化の裾野なので、その中から新たに業界を支える人材が出てくる、という「広い利益」の両面があるでしょう。

ちなみに、アメリカにだって同人活動(fun make)は存在します。

ただし、fun make の多くは、日本と違って「小説」である、という点は大きいです。


絵柄は明らかに著作物で、類似の絵柄で違う話を作るのは2次著作物としての侵害、となります。

しかし、小説は文字で構成されます。文字は著作物ではありませんし、登場人物の名前や舞台設定も著作物ではありません。


コミケは著作権侵害の集団になってしまいますが、fun make は著作権を何も侵害していないのです。

ただし、ゲームの fun make などは微妙。絵柄などを「真似する」どころか、そのまま使うことも多いですから。




最後、故意・過失がなくても罰せられる。


これ「違法とは知りませんでした」という言い逃れは効かないよ、と明記しています。

でも、普通の法律は、悪意の有無にかかわらず「行為」に対して「罪」が発生します。もともと明確なものを、なぜ明記しているのか、というところを読み解かねばなりません。


インターネット時代の著作権侵害は、インターネットプロバイダの怠慢によって被害が拡大します。

誰かが WEB サーバーに著作権侵害コンテンツを置いた時、このコンテンツを消去できるのは、アップロードした人か、サーバーを持っているプロバイダのみです。


アップロードした人は、最初からこれが違法であることを知っている可能性が高いです。

その場合、プロバイダとの契約も偽名を使い、足が付かないようにアップロードを行っているでしょう。

本人に「消して」と言おうにも、連絡すらつかない可能性が高いです。


この時、プロバイダに連絡を取って消してもらうことになります。

ここでプロバイダが面倒くさがって消さなければ、被害ははるかに増大してしまうわけですが…


事実として、米著作権法改正前は、そういう事例が多かったのです。

ここで、「言い逃れは効かない」と明記することで、サーバーを使って著作権侵害物を配布している「プロバイダ」も、罪に問えることにしたのです。


もちろん、プロバイダにとってはリスクが高まります。そこで、米著作権法では、同時に次のような規定を作っています。


・著作権が侵害された、と連絡を受けたプロバイダは、速やかに該当コンテンツを削除しなくてはならない。

・この際、コンテンツが本当に著作権侵害であるかどうかの調査は不要。

・コンテンツの保有者(アップロード者)に対する確認もいらない。


削除する際は、復活できるようにしておいて、保有者に警告を行う必要があります。

この警告により保有者は申し立てを行えます。申し立ての結果、侵害物でないと認められれば、コンテンツは復活されます。


プロバイダは、とにかく機械的な削除作業のみを行う義務があるのです。

もしもこの義務を怠った場合は、著作権侵害物を配布したという罪に問われることになります。




非常に論理的に構成されていて、ネット時代に即した著作権法です。

ネット時代は、アメリカだけで著作物を保護しようとしても無理があるため、アメリカはこれと同様の規定を作ってほしい、と各国に呼びかけています。実際、導入に向けて動いている国も多いようです。



日本では、2001年に3番目の規定に近い「プロバイダ責任制限法」を作っています。

ただ、これは米著作権法とは無関係で、日本で研究して作られたものです。


こちらではコンテンツ保有者の権利を重視していて、プロバイダが削除を行うには、一定の面倒な手続きが必要となります。

ただ、この手続きさえ行っていれば、保有者のコンテンツを勝手に削除した、として保有者から訴えを起こされることはありません。(プロバイダ責任制限=プロバイダは、責任を問われることはない、と言う意味)


日本では親告罪のままなので、著作権者がプロバイダに対して申し立てを行う必要があります。

また、著作権者側にも面倒な手続きがあり、いきなりプロバイダに申し立てはできませんし、プロバイダに無視されても、プロバイダをすぐに罪に問うことはできません。


著作権侵害裁判を起こせば罪に問えますが、日本では著作権侵害の裁判を起こすには、侵害された側に対してかなり不利なのです。




ところで、僕の WEB ページの内容を丸コピーされたことがあります。

少なくとも2度は僕自身が気づきました。もっとあるかもしれないけど、それは知らない。


1つは、ブログページの主に苦情を言ったら削除されました。

侵害になる、と言う意識がなかったようで、それはそれで問題ですが対応が速かったのでよしとします。


もう1つは、苦情を出してもまったく反応がありません。

このように、直接交渉ができなかった場合に限り、「プロバイダ責任制限法」が使えますので、ブログの運営会社に連絡しました。

しかし、こちらも反応がありません。大会社の提供するブログシステムなのですが、「プロバイダ責任制限法」を無視する意向のようです。


この場合、僕が取りうる手段は裁判に訴えることです。

しかし、訴状を作るには、侵害によって実際に生じた損害金額を、根拠に基づいて推定する必要があります。


僕の場合趣味でやっているだけで、「コピーされるのはむかつく」以上の損害はないので、訴えを起こすことはできません。

日本では、著作権は侵害する側に有利なのです。


…これはもう4年も前の話でしたが、最近になって google に申請すれば google 八分にできる、と知りました。

google はアメリカの会社なので、米著作権法の規定に従い、申請を受ければ削除を行う必要があるのです。


#google はWEB サーバーのサービスを行っているわけではないが、検索結果から表示を消すことで、ネット上からも「事実上抹殺」できるようにしてくれているのでした。


この手続きは非常に簡単で、google も速やかに対応してくれました。

…まぁ、侵害物が無くなるわけではないのですけど、多くの人が目にしなくなるのならそれでいいでしょう。




ところで、アメリカの著作権には「フェアユース規定」と言うものがあります。

これはかなり重要な概念で、著作権の侵害になる事例でも、それが世の中的に正しいことであると思われる場合は罪にならない、と言うものです。


米著作権法は、規定だけをみるとかなり厳しそうに見えますが、フェアユース規定があるためにバランスが取られています。


日本では「個人の使用の範囲で」コピーを取ることを認めた条項がありますが、これはアメリカではフェアユースの一種と考えられています。


では、学校の体育祭で応援の看板を作った際に、人気キャラの絵を描いたとしましょう。

日本では、これは「個人の使用の範囲」を超えているため、著作権侵害です。

著作権者が訴えなければ罪にはなりませんが、侵害しているのは事実です。


アメリカでは、この程度は「フェアユース」の範囲です。小さなコミュニティで楽しむために、ちょっと絵を描いた。

この程度は社会的に正しいことなので許容されるのです。


先に fun make のゲームの例を挙げましたが、これも仲間内で楽しむ程度ならフェアユースです。

コミケみたいな場所で小規模に売ったとしても、まだ小さなコミュニティの範囲ですからフェアユースでしょう。


でも、人気が出たからネット上でダウンロード販売を始めたら著作権侵害になります。

どこからどこまでがフェアユースかは、裁判所が個別に判断することになります。アメリカでは裁判は陪審員性なので、「世の中的に正しい」かどうかが、一般人の感覚で決定されることになります。


日本では「親告罪」であることによって、「作者が見てなければOK」な著作権侵害が多いです。

侵害はしていて、訴えられるかどうかだけの、チキンゲームになっているのです。


しかし、アメリカでは「フェアユース規定」によって、著作権侵害ではない範囲をかなり広げています。

余程悪いことを考えない限り「フェアユース」なので、そもそも侵害がありません。


逆に言えば、この規定があるからこそ「親告罪ではない」としても大丈夫なのです。

日本でそんなことやったら、侵害だらけで大変なことになります。


#先に書いた HDDレコーダーの例も、日本では「10回」などの明確な規定で制限しなくてはならないが、アメリカではフェアユースかどうか、が重要になるので制限は不要になる。

 ただし、コピーしまくって配布、などしていると、誰かが著作権違反であると密告するかもしれない。

 アメリカでは親告罪ではないので、回数の制限はないが周囲の目によって監視されているのだ。




さて、最初に書きましたが、日本でも同様の著作権法が作られる可能性があります。

TPP (環太平洋戦略的経済連携協定) のためには、参加国がある程度法的な手続きをすり合わせる必要があるためです。


漫画家の赤松健氏が、かなり以前から問題提起していて、コミケ文化を守るための同人マークなどを提唱しています。


僕自身プログラマーで、ある意味「著作物を売って生活している」のですが、現状の日本の著作権法は穴だらけだと感じています。

でも、米著作権法を形だけ真似したら、今度は別の問題が起こる。フェアユース規定から真似できればいいけど、これは法律の問題ではなくて一般市民の生活態度から変えなくてはならない。

(フェアユース、っていうのはそういうことなのです)


なかなか悩ましい問題だとは思います。


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えーと、かなりマイナー目の人です。データベース研究者。

現在のすべてのデータベースソフトは彼の研究成果をどこかしら取り入れて作られている、といって過言ではありません。

でも、データベースソフトと言う存在自体が、プログラマでないと使わないかも。




コンピューター以前からデータベースは存在していました。


コンピューター以前のデータベースとは、たとえば「カード」です。

図書館などでは、カードに書籍の情報を書き、簡単にソート(並び替え)できるようにしてありました。


カードの上部に穴を開け、ここをさらに切り取ると「切り欠き」になります。

この「穴」か「切り欠き」かで情報を示すと、カードを簡単に並び替えたり、探し出したりできます。


ややこしい話なので、詳細は別の方が書いた説明に譲ります。



ただ、この方法では、1種類の方法でしかソートできません。


IBM がパンチカード分類機を作って以降、「複数の方法で」ソートすることが可能になりました。

パンチカードにいくつか穴を開け、残りの部分に情報を書いておけばよいのです。

必要な時に、必要な情報で分類したり、抽出したり、集計したりできます。


カードにあいた穴で分類する、と言う意味で、これは先に書いた「切り欠きのあるカード」と変わりません。

しかし、これはもう現代的な意味での「データベース」と言って良いものでした。




さて、コンピューターが登場しても、初期のころのデータベースは、パンチカードを模倣した「カード型」データベースでした。

一連のデータに、ソートや抽出などのための「キー」を設定しておきます。


住所録などを作るにはこれで十分なのですが、実は少し規模の大きいデータを扱い始めると、問題が生じます。


たとえば、蔵書目録を作っていたとしましょう。タイトルや著者名、出版社名などを記録していきます。


出版社名や著者名は、複数の書籍について、同じものが記録されます。

個々のデータとしては「文字として」記録するのが普通です。そうしなくては読めないためです。


しかし、同じ文字列をたくさん記録してあるのは、記憶容量の無駄となります。

記憶容量を無駄遣いする、と言うことは、扱わねばならないデータが増え、検索も遅くなります。


効率よくするには、出版社や著者ごとに「コード」となる数字を割り振り、数字で管理すればよいのです。

コンピューターは数字の扱いは得意ですから、もっとも効率が良い方法となるでしょう。


ただ、この場合人間にとってはわかりにくいことこの上ないです。




せっかくデータベースがあるのだから、「著者コードのデータベース」や「出版社コードのデータベース」を作って、「蔵書のデータベース」と組み合わせることで、内部的には数字として扱いながら、人間に対してはわかりやすい表示を行う…

これは誰でも考えるアイディアです。

しかし、このアイディアを実際に使える形にするには、大変な努力が必要でした。


カード型データベースは現実を模倣しているので、使い方もイメージしやすいです。

しかし、複数のデータベースを自動的に組み合わせて適切な処理をしてくれるデータベースって、どうやれば実現できるのでしょう?


このように、複数のデータが密接に連携したデータベースを、リレーショナルデータベースと呼びます。

リレーショナルは「連携する」と言う意味です。


IBM は System R と呼ばれるプロジェクトで、リレーショナルデータベースを実現する方法を研究しました。

(おそらく R は Relation や Research の意味だったのでしょう)


ややこしいものを表現するにはカードのような「図」のイメージでは無理があります。なんらかの方法を記述する…プログラム言語が必要でした。


結果は SEQUEL という新しいコンピューター言語として得られました。


SEQUEL は Structured English Query Language の略と言うことになっています。

でも、英単語の sequel …何かによって生じる「結果」を導き出す、ということでしょうね。


SEQUEL は別の会社が商標を持っていることがわかり、後に名前を SQL と改めています。

これが、現代までデータベース言語として使われている、SQL です。




さて、今日の話の主役、ストーンブレーカー教授の話をしましょう。

System R は開発中から論文などで学術的な成果の発表が行われていました。


ストーンブレーカー教授は、「データベースを操作する言語」というアイディアを見て、独自実装を作り上げます。

この過程で、現代的な「性能の良いデータベース」を作るうえでの設計技法である、リプリケーションやBツリーなどのテクニックも開発します。


この成果が、Ingres と呼ばれるデータベースシステムでした。

System R が実際に完成し、提供が開始されたのは 1977 年ですが、Ingres は1974年にはプロトタイプが動き始めています。


独自に作ったため System R の SQL とは互換性がありませんでしたが、IBM の System R が大型コンピューターでしか使えなかったのに対し、Ingres はミニコンピューターでも使うことができました。


この後、ストーンブレーカーは Ingres の商用化を行いますが、商用化がひと段落したところで、ふたたびデータベースの研究に戻ります。



#Ingres のソース自体は公表されていたため、数多くの派生商品が生み出されました。

 データベース大手の Sybase はストーンブレーカーの教え子が興した会社で、Microsoft と提携して MS SQL Server を作っています。




さて、研究に戻ったストーンブレーカー教授、今度は Postgres を作ります。

「post」とは、後に来るものの意味。Ingres よりも優れ、後を継ぐものだという名前でした。


Postgres は、 Ingres の文法を拡張し、非常に多彩な機能をもったデータベースでした。

目標の一つに「SQL では表現できないデータベースの実現」があり、完成したものは優れた性能を示したようです。


…が、Postgres が完成するころには、SQL はデータベース問い合わせ言語の標準となっていました。

どんなに優れたものでも、SQL ではないデータベースでは使われにくい状況になっていたのです。


Postgres も Ingres と同じようにオープンソース化され、各種派生ソフトを生み出します。


そのうちの一つが、フリーソフトで配布され、Postgres の言語部分を SQL に置き変えた「Postgres95」でした。

Postgres95 は、さらに名前を変えて PostgreSQL となります。




ストーンブレーカー教授はこの後もデータベースの研究を続けています…が、実際僕は詳しくないです (^^;;

なので、最後は僕の思い出話。


大学時代の恩師が、その昔データベース研究をしていたことがあり、Bツリー分割アルゴリズムの最適解を数学的に求めた、という話(自慢話?)を聞いたことがあります。


…えーと、いきなり専門的な話で申し訳ない。

データベースとは、「データの塊」を相手に、いかに上手に処理を行うか、というプログラムです。


Bツリーと言うのは、処理をしやすくしたデータの塊で、ここにデータを追加していきます。

データの塊の中にはわざとたくさん隙間が設けてあり、データを追加する際にはこの隙間をうまく使います。


データは塊の中で「綺麗に並んでいなくてはならない」決まりがあり、入れるべき場所を見つけたら、近くのデータを「スキマに寄せて」目的のデータを追加します。

こうすることで、データ追加のたびに他のメモリを操作しなくてはならない量を最低限に抑えます。


しかし、スキマはだんだん減っていきます。

どこかでデータの塊を「分割」して空き容量を増やす必要があるのですが、分割が遅すぎると処理速度が低下し、分割が速すぎるとメモリを無駄遣いします。


経験則では、大体データが7割を超えたら半分づつに分割するのが良いとされていました。

大学時代の恩師は、さまざまな計算の結果、これが数学的には 1/√2 で表現される、と解き明かしました。


…およそ 0.707ですけどね。経験則の7割と言うのは当たっていたわけですが、その数学的裏付けにはちゃんと意味があり、データベースの教科書などには大抵、教授の名前と共に簡単な証明が載っているそうです。

(もう20年も前に聞いた話で、その後技術はどんどん増えているので、今でも載っているのかは知りません)




Postgres95 は会社員時代に使ったことがあり、PostgreSQL も独立後に使おうと勉強しました。

当時はフリーのSQLデータベースは他になく、PostgreSQL はちょっとしたブームになっていました。


しかし、当時の PostgreSQL は「データを削除しても、実際にはメモリを使ったまま」という仕様があり、時々実際の削除を行う「VACUUM」が必要でした。


これにかかる時間が見積れないのが問題で…会社員時代は、会社の備品記録に使っただけなので問題ありませんでしたが、独立後は WEB プログラマをやっていたので「24時間無停止」が求められていました。


で、代わりに見つけたのが、当時はまだそれほど有名ではなかった MySQL。

PostgreSQL は、多少の問題はありましたが「完全な SQLデータベース」でした。

ところが、MySQL は SQLデータベースの「一部機能だけを」搭載したものでした。


しかし、そのかわりに MySQL は非常に高速に動作しましたし、無停止運用も可能でした。

今でも使っています。今ではずいぶん高機能になりましたね。


MySQL 自体はストーンブレーカー教授の作品ではありませんが、Ingres で実験した「性能の高いデータベース」を作るための成果は、ちゃんと盛り込まれています。


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あきよし】 指摘ありがとうございました。Ingress だとゲームになっちゃうのか…。修正しました。 (2015-04-20 19:08:53)

【azip77】 文中の Ingress Postgress の表記は、 Ingres Postgres に改めたほうがよいかと思います http://ja.wikipedia.org/wiki/Ingres (2015-04-20 16:00:05)

ジャック・デニスの誕生日(1931)  2013-10-12 05:35:19  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、二人のデニスに関係する日。

ジャック・デニスの誕生日と、デニス・リッチーの命日です。


1か月前のデニス・リッチーの誕生日でリッチーのことはお伝えしています。

今日はジャック・デニスの方を書きましょう。




ジャック・デニスは…完成後のTX-0の話で登場していますが、その後の話は書いていません。


まずは TX-0 関連のダイジェストから話を始めましょう。


デニスは 1931年生まれ。

1950年代初頭、彼はマサチューセッツ工科大学(MIT)の学生でした。

在学中はテック鉄道模型クラブ(TMRC : Tech Model Railroad Club)に在籍し、鉄道模型を自由自在に走らせるための、複雑怪奇な電気回路を見事に改良できる、凄腕の「ハッカー」でした。


ハッカーとは、当時の MIT の隠語で、用意周到な計画と大胆な行動で人を驚かす能力を持った人のことです。

現在では非常に高いコンピューター技術を持った人の意味で使われますが、これは後に隠語が転化したものです。


彼は大学卒業後は MIT の大学院に残り、教員となります。

そして、1958年、彼は TX-0 というコンピューターの管理を任されます。


TX-0 は、MIT 関連施設の「リンカーン研究所」で開発されたコンピューターでした。

性能は良かったが非常に巨大だった Whirlwind を、当時最先端で高価だったトランジスタを使用して小型化したマシンです。


TX-0 は MIT の電子工学研究所に無償・無期限貸与されました。


当時のコンピューターは非常に高価で、たとえ購入したとしても、触ることはできません。

IBM のコンピューターを購入すると、保守契約も同時に結ぶことになり、毎日オペレーターが通ってくるようになります。

コンピューターを使いたいときは、このオペレーターに頼んで操作してもらうため、購入したとしても触れないのです。


そんな時代に、TX-0 は教員などに無料で開放され、申請すれば「自由に」使ってよいことになりました。

使いたい人は多数いますから、スケジュール調整が必要です。

これは、ジャック・デニスに一任されました。…というか、まだ新人教員だった彼に丸投げされた、と言うことでしょう。


デニスも忙しかったので、TMRC の後輩たちに仕事を丸投げします。

この際、見返りとして「誰も TX-0 を使っていないときは、自由に使ってもよい」と約束します。


こうして、誰もコンピューターが触れない時代に、TMRC のメンバーは学生でありながらコンピューターに触る権利を得ます。

そして彼らは電気回路をいじる天才、ハッカー達でした。


電気回路で「ロジック」を組むのも、プログラムで「ロジック」を組むのも同じことです。

つまりは、やりたいことを十分に分解して、組み合わせで表現できる能力があればよいのです。


TX-0 では次々と…遊びが目的の、役に立たないプログラムが作られました。

オペレーターに頼まないと何もできない IBM のコンピューターなら、絶対にゲームなんて作れなかったでしょう。

でも、TX-0 ではゲームが多数作られているのです。


それらは「世界初のテレビゲーム」と呼ばれています。


1980年前後のパソコンブームの熱狂を、MITでは20年も前に体験していました。

この熱狂を引き起こしたのが、ジャック・デニスなのです。


#TX-0 のゲームが本当に世界初かどうか、に関しては議論の余地があります。

 デニスの話からはそれますが、興味のある人は世界初のテレビゲームって結局どれなの?もどうぞ。




デニスは Multics プロジェクトでも重要なアイディアを出しています。


Multics は、ARPA の資金援助により、AT&T、GE、MIT の3者が集まって研究した OS です。


デニスは、この OS の最重要技術の一つ、単一レベル記憶のアイディアを出しています。

メモリもディスクも同じ「メモリ」として考える…今でいう、仮想記憶のアイディアです。


Multics で取り入れられた数々のアイディアは、後に UNIX に取り入れられ、現代の OS の基盤技術となっています。

Multics 自体は失敗した…とよく言われていますが、現実にはこれも風説にすぎず、現代でも Multics から派生した上位互換 OS は使われ続けています。

(NEC が大型コンピューターで使用している ACOS は、Multics の上位互換にあたります)


2021.12.2 追記:上の記述間違い。ACOS は Multics とは別のものでした。

すぐ上の Multics の説明リンク先では訂正していたのに、こちらの記事を訂正していませんでした。


デニスは、1969年には教授となり、1987年に退職しています。ただし、今でも MIT の名誉教授です。

その後、並列計算の研究などを行っています。


単純に言えば、マルチコアなどのコンピューターで効率的に計算を行う方法の研究ですね。

複数のコンピューターを使って計算を行う、と言う手法はこれ以前からありましたが、大抵は「職人芸」によって成り立っていました。


それを、計算機言語や OS のサポートにより誰でも使えるようにする、という研究をしたのがデニスです。

この研究を受けて、プロセッサを 100個以上使うような「超並列計算」のブームが起きたのは 1990年代初頭。


現在では、多くの PC もマルチコアで動いていますし、超並列計算をパソコンで行うための拡張ボードなども市販されています。



デニスは、2013年の「IEEE ジョン・フォン・ノイマンメダル」の受賞者です。

また、1984年の「IEEE エッカート·モークリー賞」も受賞しています。


この二つはコンピューター科学に関する比較的大きな賞です。

両方貰っている人も結構いますが、やはりコンピューター科学に対する多大な功績がなくてはもらえません。


他にも、多数の賞を取得していますが、これらは「コンピューター科学者」としての偉業をたたえたもの。



テレビゲーム好きの僕としては、デニスの最大の功績は TX-0 を後輩たちに開放したことです。

これにより、コンピューターは武器からホビー(おもちゃ)に変わってしまいました。


この転換こそが、コンピューターの歴史の中で一番の事件だったと思っています。


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町口浩康さんの誕生日(1960)  2013-10-13 11:08:32  コンピュータ 今日は何の日

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今日は町口浩康さんの誕生日(1960年)。

グラディウスのゲームデザイナーです。


詳しく存じませんが、ヒット作はこのシリーズのみ。

もっと言えば、シリーズは後になるほどマニア化するため、多くの人にとっては「初代」のみが記憶されているでしょう。


でも、この一本はゲーム史に輝く金字塔です。これ1本だけで、十分すぎる良い仕事だと思います。




グラディウスは語りつくされている感があるため、僕が新たに付け加えるようなことはありません。

概略だけを示しておきましょう。


1981年、コナミは「スクランブル」というゲームを発表します。


1981年に発売されたテレビゲームと言えば、ドンキーコングやギャラガ、フロッガーなど。いずれも画面固定、1ボタンのゲームです。

この当時に、スクランブルは横スクロールのシューティングゲームで、2つのボタンで空中と地上の攻撃を使い分ける、と言う内容で大ヒットしました。


大ヒットすれば模倣する、というのがゲーム業界の常。

ナムコは、「スクロールして、地上と空中を2ボタンで攻撃」という部分を真似して、1983年にゼビウスを発表します。

キャラクターごとに7色しか使えなかった色を、ほとんど灰色のグラデーションで使い切り、立体的な陰影を表現する、という思い切ったグラフィックと、「たかがシューティングゲーム」なのに深遠なストーリーを感じさせることが評判となり、大ヒットとなります。


これを受け、コナミでは「ゼビウスを超えるゲームを作る」プロジェクトが始まります。

(ちなみに、ゼビウスがスクランブルを模倣して作られた、と言う打ち明け話はもっと後になって出てきたもの。当時はコナミの人は知りません)


各種ゲームを調査した結果、ゲームのベースはやはりスクランブルとなり、「スクランブル2」の作成が開始されます。これが発売時には「グラディウス」と言う名前になります。


ところで、スクランブルにはあったのに、ゼビウスではなくなっているものがあります。

まぁ、違うゲームなので細かなことを言えばいくらでもあるのですが(笑)、「多彩な面構成」はゼビウスに引き継がれなかったもの。


ゼビウスは、面が進むことで難易度は上がりましたが、基本的には同じことの繰り返しでした。

しかし、スクランブルは、次々と面構成が変わるゲームでした。


山岳地帯に作られたミサイル防衛網を抜け、洞窟をくぐり、ビルの合間を抜け、最深部の要塞を破壊する…ドラマティックな展開ですが、単純にそれだけではなく、面の構成方法が全然違うため、攻略法も変わってくるのです。


グラディウスでも、このような多彩な面構成は残されています。




グラディウスの発表は 1985年5月ですが、「開発期間は1年くらい」あったそうです。

この間の 1984年7月には、ナムコが「ドルアーガの塔」を発表しています。


ドルアーガの塔は、「パワーアップ」の概念を導入したゲームでした。


これ以前にも、パックマンのパワー餌やポパイのほうれん草、ドンキーコングのハンマーなど、「パワーアップして立場逆転」の要素は存在しましたが、いずれも一定時間のみの要素でした。

継続的に主人公がパワーアップし、複数のパワーアップを重ねていける、というのはドルアーガの塔が最初ではないかと思います。


グラディウスでも、独自のパワーアップシステムを取り入れました。

当時他にも「ゼビウス風ゲーム+パワーアップ」と言う作品は発売されています(Bウィングなど)。


しかし、グラディウスが優れていたのは、先に書いた「多彩な面構成」とパワーアップを見事に融合させていることです。

どちらか片方しか選べないレーザー/ダブルのどちらを使うか、いつバリアを使うか(状況によっては、背景の障害物にバリアがぶつかり、あっという間になくなってしまう)、オプションをどのように配置するか、などなど。

スクランブルでも面構成に合わせた攻略は必要でしたが、その一部として「パワーアップ」の選択が綺麗に組み合わされているのです。


さらに、ゼビウスはランダム性の入っているゲームでしたが、グラディウスは完全にパターンゲームでした。

敵の出現位置などを覚えてしまえば、出現と同時に倒せる、と言うことになります。


これにより、グラディウスはシューティングゲームでありながら、パズルのような試行錯誤を必要とするゲームとなっていました。


グラディウスがパズルである、というエピソードの一端として、発売から数年後にゲーメスト誌で連載された「グラディウス4周目以降の復活パターン」を挙げておきます。


グラディウスでは死んでしまうとパワーアップが失われますが、その状態から完全パワーアップまで「復活」させるための手順を、詰将棋のように解説した連載でした。


#ゲーメストが現在手元にないため、発売からどれくらいたっていたか、正式タイトルがこれであっているか不明。知っている方は教えてください。




バブルシステムにも少しふれておきましょうか。

グラディウスは、バブルシステムと呼ばれる基板で供給されました。


このシステムには、磁気バブルメモリが採用されています。

このメモリ、一時期は「将来の有望メモリ」だったのですが、今ではすっかり消えてしまいました。


まぁ、簡単に言えばカセットテープやディスクと同じような、磁気記録メディアです。

磁気メディアでは、磁気記録された媒体を動かすことで、周囲に電場を発生し、読み取りを行うのが普通です。しかし、媒体を動かさなくてはならないと言うことは、モーターなどの可動部品を使うことになります。

可動部品は壊れやすく、メンテナンスが欠かせないため、いろいろと面倒も多いです。


そこでバブルメモリ。

詳細はややこしいので省きますが、磁気バブル現象と言うものを使用したもので、記録媒体を「変化する磁場」の中に置くと、磁場が変化するたびに「磁気記録」が一方向に移動します。


読み取りは移動先の端で行い、読み取った結果は逆の端に書き戻します。

こうすることで、可動部品がないのにカセットテープのようなシーケンシャル読み出しが可能となります。


パソコンでは、FM-8/11 や BUBCOM 80 で記録メディアとして使われています。

しかし、先に書いたようにカセットテープと同じような原理なので遅く、あまり普及しませんでした。


ならば、毎朝1回の起動時だけ使えればよい業務用に…とグラディウスにも採用されたのだと思いますが、これは「磁気記録メディア」であることを忘れてはなりません。

当然周囲の磁場に弱いのですが、ブラウン管は強い磁場を発生します。そして、業務用ゲーム機は、狭いスペースにブラウン管と基板を格納してあるのが普通です。


バブルメモリは壊れやすく、問題が多かったようで、グラディウスでは後に ROM 版も作られています。




グラディウスは、シューティング史に輝く金字塔ですが、シューティングを衰退させた戦犯でもあると思っています。


業務用ゲームでは、「長くプレイされないこと」はかなり重要です。

しかし、グラディウスの大ヒットで、類似したゲーム性のシューティングゲームが増えました。


グラディウスは先にあげたようにパターンゲームの側面を持っていたため、最初のうちこそ売り上げがよいのですが、徐々に一部の人が占有する形で売り上げが落ちていきます。


シリーズを重ねるうちに、難易度を上げるなど対応を図りましたが、今度はマニア以外には難しすぎて人気の出ないゲームになっていきます。


シューティングは一定の需要があるためにゲームセンターでは買ってくれますが、決して複数台を導入するようなものではなくなっていきます。


かわりに人気が出たのは、対戦格闘でした。

もちろん、面白かったからファンが増えた、というのはありますが、対戦格闘では「お客さん同士が潰しあってくれる」ために、プレイ時間が非常に短く、ゲームセンターで導入しやすいという側面もあったのです。


面白ければゲームが売れる、というのはある種の幻想です。

もちろん、回すために面白さは重要な要素ですが、ビジネスとしてうまく回らないものは、どんなに面白くても除外されていきます。

(それを跳ね除けるほど強烈な面白さを持つ作品、というのも時折存在しますが)


シューティングゲームは、グラディウスのヒットによって、残念ながらこのサイクルから外れていき、その空席に対戦格闘がうまくはまったのです。


バーチャファイター2など、ゲーム開始5秒でリングアウトに追い込む、と言うようなプレイスタイルもありましたからね。

100円入れて、15秒しか遊べなかったとしたら、普通のゲームなら2度と遊ばないでしょう。

しかし、対戦格闘では「くやしい」と言ってもう 100円入れてくれる。ゲームセンターにとっては夢のような商材でした。




インベーダーゲームの流行の後、ギャラクシアンなどの類似ゲームが出た後で、パックマンが出ます。

この後は「キャラクターがコミカルに動くゲーム」が流行し、「もうシューティングのアイディアは出尽くした」と言われました。


でも、上に挙げたスクランブル、ゼビウス、グラディウスでシューティングは再び見直され、対戦格闘のブームで「シューティングのアイディアは出尽くした」と言われました。


でも、その後もレイフォースのシリーズとか、レイディアントシルバーガンから斑鳩の流れとか、雷電系から首領蜂系の流れとか、大ヒットには届かなくても、新しいタイプのシューティングを作ろうとする人たちはいます。

まだまだアイディアが出尽くすなんてことはないのです。


シューティングはテレビゲームの中でもかなり古いゲームジャンルです。

つまりは、原始的に人間が面白いと思う感覚にかなうものなのです。


いつかまた、新しいタイプのシューティングが出てきて、「出尽くしたなんて言ったの誰だよ」と笑って言えると良いな、と思っています。


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ブノワ・マンデルブロの命日(2010)  2013-10-14 09:28:17  コンピュータ 歯車 今日は何の日 数学

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ブノワ・マンデルブロの命日(2010)

今日はブノワ・マンデルブロの命日。


2010年に亡くなりましたね。もう高齢だったからいつか死ぬのは当然でしょうが、死んだときはちょっとショックでした


氏の偉業をちゃんと解説したい…と数学(算数?)ページなんて作りましたが、忙しくて頓挫したまま。




マンデルブロ氏の偉業は、数学に「フラクタル」と呼ばれる一分野を開拓したことです。

しかし、この話、案外深いのです。


話は1900年ごろにまでさかのぼります。


1800年代(19世紀)は数学が急速に発達した時代でした。

しかし、世紀が変わってこのままでよいのか、という問題提起が、多くの数学者からなされています。

そのうち一つに、次のような疑問がありました。



数学は、もともと古代エジプトで自然と共に暮らすために生まれた知恵でした。


毎年氾濫するナイル川は、氾濫により豊かな土壌をもたらしてもくれます。

そのため、古代エジプトの人々は、氾濫することがわかっている地域で農業を営んでいました。


問題は、毎年の氾濫後に、どこの土地が誰のものかがわからなくなってしまうこと。

この混乱を避けるために、最初の幾何学が生まれました。

土地を区画整理し、毎年同じように農業が営めるようにしたのです。


その後数学は発達しました。

しかし、その発達とともに、自然からは乖離したように見えます。


人類は、微分積分を手に入れました。しかし、それで美しい雲を、森の木々を、蝶の模様を、表現することはできたのでしょうか?




数学において、「連続性」は非常に重要な意味を持ちます。

連続性とは、すべての点で微分可能、と言い表すこともできます。


…難しいですね。もっと簡単にいえば「どこを見ても滑らか」ということです。


ところが、自然物はそうではありません。葉っぱは大抵先端がとがっていますし、枝もいたるところが尖っています。雲は全体にとらえどころがありません。

極論すれば、どこひとつ滑らかな場所なんてないように見えます。


このような対象を、微分積分を究極の武器とする(当時の)数学で表現することはできない、というのが、1900年ごろの数学批判の根底にありました。


僕は数学史には詳しくないので間違いもあるかもしれませんが、おそらく上記の「問題提起」をうけて、多くの学者が自然の記述方法を考案しています。


鍵は「非連続性」にありました。

…数学者っていうのは極端で、「どこでも滑らか」ではダメだ、となると、「どこをとっても滑らかな場所が見つからない」ようにしようとします。

(どちらも「すべての場所が均質で特別な場所がない」と言う点では同じで、極端に走ったわけではないのですが)


1900年の初頭ごろ、世界中で多くの数学者が「どこをとっても非連続」な図形を考案しています。


ダフィット・ヒルベルト(1862~1943)が1891年に発表した、ヒルベルト曲線

高木貞治(1875~1960)が1903年に発表した、高木曲線

ヘルゲ・フォン・コッホ(1870~1924)が1904年に発表した、コッホ曲線

ヴァツワフ・シェルピンスキー(1882~1969)が1915年に発表した、シェルピンスキーのギャスケット

NASA物理学者らのグループが1967年に発表した、ドラゴン曲線

などなど、他にもたくさんあります。


これらは、ただ非連続なだけでなく、「どこを取り出しても、全体と同じような形をしている」という特徴を持っています。

このことを「自己相似性」と言います。


この新しい概念は、自然を表現するための一歩目でした。

たとえば、コッホ曲線を組み合わせると、コッホ切片と呼ばれる雪の結晶のような形が出来上がります。


コッホ曲線は、ただの「直線」に、一定の操作を繰り返すことで得られる図形です。

同様の操作を行うことで、木を表現したり、シダの葉を表現したりできることが知られています。




同時代の数学者に、ガストン・ジュリアがいます。

恐らく、彼も同じような作図を試みたのではないかと思うのですが、彼の手法は少し変わっていました。


先にあげた図形は、すべて「図形に対し、繰り返し操作を加える」ことで描かれます。

しかし、ジュリアは「座標をパラメーターとした数式を繰り返し計算する」と言う方法で図形を描いたのです。


もう少し詳しく説明しましょう。

グラフには、縦軸と横軸があります。グラフ上のある一点は、縦座標と横座標、という「二つの数値」で表現できます。


このとき、この二つの座標を、一定の方法で計算します。計算し続けます。

すると不思議なことに、計算のたびに「数が大きくなっていく」点と「あまり変わらない」点の二つに分かれるのです。


二つに分かれるのは、「ある計算」が自乗を含むためです。

1よりも小さな点を自乗すると、どんどん 0 に近づきます。

1よりも大きな点を自乗すると、どんどん 0 から遠ざかります。


点の座標でいえば、単純に近づく、遠ざかる、と言うのではなく、位置を変えていくことになります。

図形を計算することで別の図形を作り出すことを「写像」と言いますが、ジュリアの計算では、計算のたびに写像を作り出すことになります。


そして、この写像は「中心(0)からどんどん離れる」場合と「中心の周囲を動き回る」場合があるのです。


ジュリアは、遠くなる点は捨て、いつまでも周囲を動く点をプロットしました。

1つの点について「遠くならない」確認のために 100回程度の計算を行い、それを縦横 100地点くらいづつ…100*100*100 で百万回くらい計算を行うと、やっと一つの図形が完成します。


完成した図形(ジュリア集合と呼ばれます)は興味深いものでした。

「計算のたびに中心の周囲を動き回る」ということは、中心付近の点にはなんらかの類似規則があることになります。

図形にはこの規則がはっきりと表れ、全体と一部が似た形になる、「自己相似性」を持っていたのです。


しかし、ジュリアの手法は時間がかかりました。

面白い研究ではありましたが、何かの役に立つわけでもなく、世の中から忘れ去られます。




1950年代、ブノワ・マンデルブロは、経済学を研究していました。

ここで、株価の動きには「全体を縮小したような動きが細かな部分に見られる」という自己相似性に気づきます。


彼は 1900年代初頭に行われた研究を再発見し、これらをまとめ上げる研究を行います。

どこをとっても不連続であり、全体と一部が似ている…こうした図形に「フラクタル」と名前を付けます。

(フラクタルとは、「細かな破片」の意味をもつラテン語に由来する造語)


1970年ごろ、彼はジュリアの手法にも興味を持ちました。

ジュリアの時代には手回し計算機しかありませんでしたが、マンデルブロの時代にはコンピューターがあります。

コンピューターの圧倒的なパワーでジュリア集合を計算してみようとします。


経緯は省きますが、マンデルブロは最初に「ジュリア集合世界の俯瞰図」を作ろうとしました。

当時のコンピューターでは、100万回の計算はまだ時間がかかるもので、手始めに面白そうな場所を探し出そうとしたのです。


しかし、この「俯瞰図」こそが新しい発見でした。ジュリア集合の数式を少し変化させ、特徴の出やすい点だけを試算したカタログを作ろうとしたのですが、このカタログはジュリア集合以上に興味深い図形となったのです。


ジュリア集合は、6つの計算パラメーターを持ちます。どのパラメーターを変えても違う画像を生じるため、全体の把握は簡単ではありません。

しかし、マンデルブロの作った図形(マンデルブロ集合)は、パラメーターが2つしかないにも関わらず、ジュリア集合と同じような挙動をしめし、細かな部分を見るとジュリア集合にそっくりの図形が現れていたのです。




ジュリアは、「繰り返し計算しても0から離れない点」に注目しました。

しかし、マンデルブロはむしろ「0から離れる点が、何度目の計算で離れていったか」に注目して、その回数を示したグラフを描きました。


一般的には、本来の(0から離れない)マンデルブロ集合を黒で、周囲の「数回の計算で離れた」場所を、計算回数に応じた色で塗り分けた図形となります。

色で表現する代わりに「高さ」として3D描画すると、険しい山に囲まれた湖のような画像となります。このような画像は、マンデルブロ湖と呼ばれます。


マンデルブロ集合もまた、ジュリア集合と同じような自己相似性を持ちます。

マンデルブロ集合は「ひょうたん型」をしていますが、湖(中央の黒い部分)の縁のあたりを拡大していくと、無数のひょうたんが見えてきます。

ひょうたんの周囲にはまたひょうたんが…コンピューターの計算精度の問題がなければ、無限に拡大し続けられます。


これは、計算中に「点」が中央付近を動き回り、無数の写像を作り出しているためです。

全体の写像が細部に現れるための自己相似性です。

(ただし、計算式は厳密な写像を作り出すものではないため、場所によって思わぬ形に変形します。これが余計に興味深い結果を生み出しています)



最初に挙げた問題提起ですが、「森の木々」は、1900年代初頭の試みでも描けるようになっています。

雲や蝶の羽の模様、燃え上がる炎の様子などは、マンデルブロの研究によって描けるようになりました。


他にも、現代の 3D CG や映画に使われる SFX などで、フラクタルの概念は欠かせないものになっています。


マンデルブロがフラクタルの研究を始めるきっかけとなった「株価の動き」ですが、こちらは「1/fゆらぎ」という現象名で知られています。

1990年代などに流行し、リラックスできる音楽とか、扇風機に「1/fゆらぎ」を名乗るものがありました。


自然界のいろいろな場所で1/fゆらぎが見られる、というのはマンデルブロの研究以前から知られていましたが、現代では「フラクタル」の一種としてとらえられています。




参考リンク:

気軽にマンデルブロ集合の描画を試せるサイトをリンクしておきます。

The Mandelbrot Set in HTML5 Canvas & JavaScript


昔、MSX2 のBASIC で、横256ドットの解像度で3日くらいつけっぱなしにして画面描画した覚えがあります。

X68k で「怪しい高速マンデルブロ」というプログラムがあり、機械語でテクニックを駆使して、1画面を10秒程度で描いていて驚きました。


今なら Javascript でも高解像度で一瞬です。

すごい時代だなぁ…


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富一成さんの誕生日(1960)  2013-10-15 11:29:55  コンピュータ 今日は何の日

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今日は富一成さんの誕生日(1960)。


夢幻の心臓、ソーサリアン、スタートレーダー、LUNAR ザ・シルバースターストーリーなどに携わった人。作品によってプログラマーだったりシナリオライターだったりするみたい。


…ごめんなさい。すごい人なのだけど、僕は語る資格を持ち合わせていません。

ほとんど遊んでないから。




いや、LUNAR はセガサターン版遊んだな。でも、よく覚えていない (^^;

それほど RPG 好きでないから記憶に残っていないのかもしれません。


特にソーサリアンは、今でも「遊んでおきたかった」ゲーム。

各パソコン版が発売されて話題になった当時は MSX2 ユーザーで、発売されなかったのです。


後に MSX2 版が発売されたのですが、その時には X68k ユーザーでした。

遊んでみたかったけど、なんか巡り合わせが悪かった。



夢幻の心臓は、知人が購入して遊んでいるのを見たことがあります。

当時、近所の本屋がパソコンソフトも扱っていて、店の一角に「貸しパソコン」がありました。

たしか、PC8801、PC9801、IBM-PC JXが置いてあり、1時間1000円で借りることができました。


知人も僕もパソコンはもっていませんでしたが、夢幻の心臓を購入してプレイ。

…わけがわかりませんでした。夢幻の心臓は、ドラゴンクエストよりも2年も前に発売された RPG。

僕も知人も RPG というものをちゃんと理解しておらず、話題のゲームだから遊んでみた、程度だったのです。


RPGは時間をかけて遊ぶものなので、1時間程度の貸し時間で楽しもうというのが無理。

この後、知人がソフトをちゃんと楽しめたのかは不明。


ただ、自分はこの時に始めて、片鱗でも「RPG」と言うものを知りました。

なんだかよくらないままに真似したゲームを BASIC で作り、別のパソコンを持っている知人に見せたところ「RPGっていうのはそうじゃねーよ」と、RPGの何たるかを教えられ、自分の無知を恥じました (^^;;


#これ、当時の商用ソフトでもあった話なのですが、RPG なのにパラメーターなど無視で「一発死」する地点があったりした。

 当時はアドベンチャーゲーム全盛で「選択を間違えたら死」というのに違和感がなかった時代です。




と、毒にも薬にもならない思い出話のみで今日は終了。

(最近話がどんどん長くなっているから、たまにはこういう日があっても…)



1年後の追記 2014.10.16

ゲームタイトルに多数の誤記がありました。「夢幻の心臓」を「無限」と書いていたり、LUNAR の綴りが LUNA だったり。

この記事が短いのも含め、昨年書いたときに忙しくて、半ば書き殴りだった覚えがあります。

それにしても、紹介したいと思う程度には敬意を持っているのに、記事の扱いに愛がなさすぎる。


関係者の方々申し訳ありませんでした。

そして、指摘してくださった方、ありがとうございます。



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追悼:やなせたかしさん  2013-10-16 05:46:35  今日は何の日

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昨日のうちに、13日に亡くなったと訃報を知って、追悼文を書こうかどうか悩んでいた。

アンパンマンは結構好きなのだけど、僕のページは基本的にパソコンページだし、追悼を書いたものかどうか、と。


…でも、個人的な思いのみで追悼することにします。




子供のころにアンパンマンの絵本を見た世代です。

音楽の教科書に「手のひらを太陽に」が載っていた世代です。


厳密にいうと、最初の絵本って全然売れてなかったよね。直接見たか記憶が定かではない。

やなせさん自身もそう語っている通り、あまり評価されていなかった。


アンパンマンを初めて見たのは、記憶の限りではテレビ番組「ママと遊ぼう!ピンポンパン」の、おねえさんが絵本の読み聞かせをしてくれるコーナー。

毎週見ていた覚えはあるのだけど、絵本コーナーの記憶はこの時のみだ。「アンパンマン」のインパクトは、それだけ強かったのだろう。


これは幼稚園の頃の話。作者名なんて気にしていない。

小学生になり、音楽で「手のひらを太陽に」を習った。なんか僕はこの歌が気に入って、よく口ずさんでいたように思う。


特に好きだったのが「手のひらを太陽にすかしてみれば」と言う歌詞。

よく太陽に手を向け、「本当に赤く見える」と、そんなことで喜んでいたように思う。


実は、これ、高校や大人になってからも時々思い出してやっていた。

子供の薄い手のひらだと「透かす」ことができるのだが、大人の厚い手だと真っ黒で、赤くならない。

作詞時に当然大人だったやなせさんが、こうした「子供の感覚」を持ち合わせていたことは素晴らしいと思う。



中学か高校の頃、月に1度新聞社(朝日だったかな?)から配布される冊子に、「リトルボオ」という1ページ漫画が載っていた。

1ページだから大したことは起こらない。基本的にほのぼの話なのだが、これが結構好きだった。


この時に、はじめて母から「アンパンマンと手のひらを太陽にと、リトルボオが同じ作者」だと教えてもらったと思う。

それまで、この3つを結び付けて考えてはいなかった。

ここで初めて、別々に好きだったものが「やなせたかし」の名のもとに一つにまとめられた。


アンパンマンのアニメが始まったのは大学生の頃か。

当然、見てはいない。でも、やっているのは知っていた。


Oh! X のライターが編集後記で「力に頼らず、顔を分け与えるのがアンパンマンだと思っていた。パンチを繰り出すテレビアニメはイメージと違う」と書いていたのを覚えている。

あぁ、そうなんだ。僕らが好きだったアンパンマンではないんだ。でも、商業的にはわかりやすい勧善懲悪が必要なんだろうなぁ…と寂しく思ったものだ。



#後日追記:リトルボォは、高島屋の通販カタログ裏の漫画だったそうです。




後のインタビューで、やなせさん自身は「子供向けだけはやりたくなかった」と語っている。


でも、どの分野に行っても自分より才能がある奴がいて、誰も自分を認めてくれない。そこで別の分野に逃げ出す。

それを繰り返しているうちに子供向けに行き着いてしまったが、そこでも誰も認めてくれない。

ところが、絵本の発売後に子供たちが喜んでくれた。これで「3歳の子は認めてくれる」と感じて、結局そこが安住の地になってしまった…とのことだ。


認められなかったのは、氏が反骨精神を持っているからだろう。

そもそも「認められたい」と思い続けていること自体が、自分をアピールしたい精神の表れでもある。


その反骨精神が、いわゆる勧善懲悪ではないヒーローの創出だったのだろうと思うが、20年もたってアニメ化されるときには勧善懲悪を盛り込んだのは、その年月の間にある程度認められたことで「大人」の対応ができるようになっていたのか。




アンパンマンとの再会は、会社員になってからだった。

務めていた会社で、アンパンマンのキャラクター商売をやっていたのだ。


もっとも、僕は全然違う部署で、あまり関係がない。でも、再度アンパンマンに注目するには十分だった。

…と同時に、愛社心みたいに思われるのが嫌で、アンパンマンを多少避け気味にもなった。まぁ、どちらにせよ意識してた、ってことだ。


会社を辞めて独立し、子供ができたら、当然のように子供はアンパンマンを見始めた。

先に書いたように、避け気味だったのと、Oh!X で読んだ「暴力に頼り過ぎ」という言葉を思い出して少し躊躇した。

でも、子供が見たがるなら親のエゴを通すよりも、子供の好きにさせたい。一緒に見始めた。


…悪くない。面白い。それが初期の感想。偏見が解け始めた。

週一度のアンパンマンでは子供が満足しなかったので、BSで毎日やっている再放送も見てみた。


第1話からしばらくの間は、アンパンマンは暴力をふるわない。

バイキンマンの相手をするときも、石鹸を付けて洗っちゃったりする。


弱って嫌がるバイキンマンを見て笑ったりしているので、「いじめ」を感じさせる問題表現ではある。しかし、少なくとも暴力に頼った解決はしていない。

ちなみに、最初期のアンパンマンは顔が濡れても大丈夫。雨の中でも飛んでるし、海にも平気で潜る。


最初の頃は「アンパンマンとバイキンマンがじゃれあっているだけ」な内容なのだけど、メリハリをつけるためにアンパンマンの弱点(顔が完全でないと弱い)を設定し、その弱点を克服すると使える必殺技(アンパンチ)を設定したのだろう。


多分、初期の話のままでは20年も続かず飽きられていたと思う。アンパンチは「安易に暴力に走った」のではなく、アンパンマンの人気を維持し、精神を広めるための苦渋の決断だったのだ、と思う。


今でも、4歳の次女がアンパンマンを好きだ。昔ほどの頻度では見なくなったが(以前は毎日見ていたが、最近はプリキュアやアイカツも好き)アンパンマンはやはり好きだ。




横浜にアンパンマンミュージアムができた時、生まれたばかりの長女を抱いて、長男を連れて行った

長女の適齢期にも行ったし、次女の誕生日にも行った


無料エリアがあるので、知人にはもっと子供を連れて行っている奴もいるが、うちからは微妙に遠く、それほど頻繁にはいけない。


適齢期の子供にとっては、アンパンマンの世界に入り込める、というのはそれだけで鉄板でウケる。

もっとも、「ミュージアム」であって遊園地ではないので、適齢期を過ぎると急に面白くなくなる。


これは微妙なところ。遊園地だと、3~5歳の子供には遊びづらいだろう。見て、ちょっとだけ触って楽しむ、と言う程度でちょうどよいのだと思う。


今年の春に行ったとき、次女は「また行きたい」と言っていた。

でも、そのころは毎日見ていたアンパンマンは、最近では週に一度だ。適齢期を過ぎつつある。もう一度行くかは不明だ。




震災の時、「アンパンマンのマーチ」が何度もラジオで流れていた。

うちは NHK を聞いていたが、TOKYO-FM が最初に流したようだ。(同局は東北のFM曲にもネット配信している)


それまで歌詞の内容を深く考えてなかった、という人も多いようだけど、僕はこの歌は好きだったので、あまりにも的確な選曲に感心した。


NHK でこれが最初に流れた時(震災からずっとつけっぱなしだったので、最初だと思う)、リクエストの内容は「不安を抱えている子供も多くいるので、子供向けの、元気が出る曲をお願いします」だった。

このリクエストだったら、NHK的には「100%勇気」(忍たま乱太郎の曲)が順当だと思う。実際、この曲は阪神大震災の時にラジオで繰り返し流され、多くの子供を勇気づけたのだ。


にもかかわらず、NHK はアンパンマンのマーチを選んだ。他局アニメの曲を選んだのは英断だ。

おそらくは、TOKYO-FM が流したことを知っていた(もしくは、読まれなかっただけで、リクエストした人は TOKYO-FM で聞いて、この曲を指定していた)のだと思うが。


その後も、ラジオではテーマが繰り返しかかっていた。うちの子供が喜ぶから、かかるときにはわざわざ呼んでいた。

やなせさんも「アンパンマンが子供に勇気を与えている」と知って、その後東北支援に乗り出す。



あの時、アンパンマンはヒーローだった。

暴力をふるわず、人々に寄り添う…やなせさんが当初思い描いた通りのヒーローだった。


ただ一つ違うのは、お話の中のヒーローではなく、本当に困っている人々を勇気づけていたことだった。


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ディズニー社の創設日(1923)  2013-10-16 10:27:34  コンピュータ 家族 今日は何の日

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今日はディズニー社が創設された日。1923年。


厳密に言えば、現在のウォルト・ディズニー社の源流となる「ディズニー兄弟漫画スタジオ」(Disney Brothers Cartoon Studio)の創設日です。


最初からミッキーマウスなどがいたわけではなく、初期の作品は「アリス・コメディ」シリーズでした。

アニメの中に実写の女の子が入って冒険を繰り広げるシリーズで、アニメでも実写でもない、実験的なシリーズ作品でした。


…ごめん。さらりと書いているけど、今調べて知りました。

ディズニーは実験的な作品や、その当時の最先端技術を使った作品が多いと思っていましたが、最初からなんですね。




他のページに書いてあるような受け売りを書いていてもつまらないので、後は僕の好きなように書きます。


実験的な作品、で思い出すのは「101匹わんちゃん大行進」。

僕が子供の頃には、すでに「古き名作」でしたね。今調べたら1961年の作品。


でも、古いからこそテレビとかでやっていることがあって、子供のころに見た覚えがあります。


原作は 1956年に発売された本です。まぁ、ちょっと話題になった本を映画化、とかよくある話。

でも、この本の映画化は、当時の技術を考えると「とても無理」な話でした。


101匹もの犬が出てきて、走り回る。実写では、犬同士がけんかしてしまって不可能です。

じゃぁアニメで…と考えても、101匹の犬をひたすらアニメーターが描き続けないといけないなんて、悪夢のような話です。


しかも…じつは、この直前の映画「眠れる森の美女」は500人ものアニメーターが参加し、作成に金がかかりすぎました。

このため、次回作はアニメーターを 100人に削減する必要がありました。


ただでさえ厄介なものを、少人数で作る。とんでもないデスマーチプロジェクトです!



ところで、1961年と言えば Xerox 社ができた年。後に Alto などを作り、コンピューター業界にも影響を与えた会社です。

もっとも、1961年は実際には社名を変更しただけで、会社の歴史は 1906年まで遡るのですが、このタイミングで社名変更したのにはわけがあります。


その直前の 1959 年「ゼログラフィ」技術を使った世界初の普通紙複写機、Xerox を発売しているのです。いわゆる「世界初のコピー機」です。

この製品が大ヒット。よく知られるようになった商品名に合わせて社名を変更した、というわけ。


そして、ディズニー社では、この最新鋭の機械を使った実験作を作ります。それが 101匹わんちゃん。

作成開始は 1959年。Xerox が出てすぐです。


先に書いたように、アニメーターが101匹の犬の動きを描き続けるのは悪夢のような作業です。

しかし、Xerox は、この作業を「十分に実現可能」なものにしました。


アニメーターはまず、各種パターンの動く犬の輪郭だけを描きます。

犬の登場シーンでは、この「元のパターン」を Xerox でコピーします。2匹同時に登場するなら2匹分、10匹なら10匹分コピーすれば、ひたすら描き続ける必要はありません。


最後に、犬の違いを示す「ぶち模様」を塗り分けます。この模様は、ちゃんと101匹分設定されていました。

適当に描かれているのではありません。細部にこそリアリティが宿るのです。こういう細かな部分に凝るのはディズニーの真骨頂。




それまでのアニメでは不可能だった表現をしたこの作品は大ヒットしました。

でもこの話、これで終わりじゃないですね。1996年には実写版(101)も作られています。


こちらもまた、新たな技術が可能にした映画です。

動物映画ではよくある話ですが、1つのシーンを撮影するために「動きを覚えさせる」のには非常に時間がかかります。

しかも、101 では「子犬」を使っています。一つの演技が終了すると、子犬は成長してしまい、次のシーンでは使えないのです。


実際には、101では20匹の成犬と、230匹の子犬が使われたそうです。しかし、そうなると今度は別の問題が出ます。

シーンごとに、犬の模様が変わってしまうことになるのです。


この問題を解消したのが、当時はまだ最先端だった CG 技術。

…まぁ、PhotoShop みたいなもので、すべてのコマをレタッチした、と言うだけですけどね。

技術的には 1990年代初頭には可能になっていたでしょうが、実用になったのはこの頃だと思います。


もう一つ、最後のシーンでは 101匹の犬が勢ぞろいします。

これも実際に犬を使うのはとても無理。そんなに集まったら、喧嘩したりじゃれあったり…とても撮影どころではありません。

もちろん、数匹の犬に演技させたものを何重にも重ね、数を多く見せているのです。


101匹わんちゃんは、アニメと実写の2回、「ありえない」ような映像を我々に体験させてくれたことになります。



これ、ディズニーを語るには「ほんの一例」ですね。同じような話は、他の映画にもたくさんあります。

「トロン」とか「ファンタジア」とかも実験的な作品で、僕は大好きです。


常に最新の技術を取り入れながら、でも技術に溺れることはない。

言うのは簡単だけど結構大変なことです。


#今は子会社になってしまったピクサーも、多少実験的過ぎて技術に溺れた話がありますね。




話変わって、ディズニーランドの話。こちらも僕、結構好きです。

小学生のころにできて…じつは、家族で初めて行く約束だった日に熱を出して僕は留守番になったのですが、その後も何度か行きました。


千葉の大学に通っていたため、その頃はディズニーランドにもよく行きました。

パスポート買って常連化しているのもいたけど、そこまでは出来なかったな。


先から「細部にこだわってリアリティを出す」話をしていますが、ディズニーランドにもそういう面があります。

そして、一番好きなのが、アトラクションごとの「トラブルの対処」。


ホーンテッドマンションは、全ての乗り物が同じベルトの上に並んでいるので、誰かが乗る際に転んだりするとすべてが停止します。なので、比較的トラブルに遭遇しやすいです。

この時には「我々の仲間がいたずらをしたようだ…少し待っていてほしい」という、オバケからのアナウンスがあります。トラブルもアトラクションの一部として織り込み済み。


スペースマウンテンでは、複数台のジェットコースターを同時に動かしているので、発進にトラブルがあった際、後続車両は「緊急用の」プラットフォームに導かれます。

この際も、「緊急離脱! 本船は危険回避のため本来のコースから外れ、付近の惑星に緊急着陸する」というようなアナウンスが流れるそうです。(これは僕は未体験で、先に書いたパスポートを持っていた友人に聞いた話)


スターツアーズでは、個室ごとに独立しているために、トラブルには遭遇しにくいようですが、機器の故障などで動かなくなることがあります。

この際は「まことに申し訳ありませんが、本船は機材故障のため近くの惑星に緊急着陸いたしました。代替便を用意いたしましたので乗り換えをお願いいたします」というアナウンスになります。


いずれも、「トラブルは起こるもの」と考えたうえで、そのトラブルさえも雰囲気を壊さないで楽しめるようにする演出がなされています。


もっとも、社会人になってから遊びに行った際、「ロジャーラビットのカートゥーンスピン」で遭遇したトラブルは、この「想定内トラブル」さえも超えるものだったようです。

薄暗くしてある館内にすべて明かりがともり、用意されたアナウンスではない肉声で「機械トラブルが起きたため、回復にしばらくかかるかもしれない」と詫び、「お急ぎの方は出口に案内するからこれから巡回する係員にいつでも声をかけてほしい」という内容でした。


ディズニーランドでもこういうことがあるのか、とむしろ驚いたものです。

結局ほとんど誰も出口には向かおうとせず、15分くらいで回復しました。




その大学生の頃、友人と一緒に新年のカウントダウンパーティに行きました。

この日だけ特別で、たしか夕方5時から入れて夜通し営業、翌日の閉園である夜8時までいられます。


…いや、ずっといる、というのはただの馬鹿がやることです。でも、大学時代はみんな馬鹿だった。27時間耐久ディズニーランドを楽しみました。

ずいぶん昔に書いた話ですが、「寒いときにはチキルーム」とか「スプラッシュマウンテンふもとのレストラン(グランマ・サラキッチン)はトイレも空いているし、寝られる」は、この時の体験で得た知識。


また遊びに行きたいけど、子連れだと案外動きが重くて、なかなか行ってやれません。


#大人なら日帰り距離なのだけど、子連れだと一泊が必要な距離になってしまって、高くつくのです。



ディズニーランドもまた、ディズニー映画と同じものを感じます。

細部にこだわることでリアルを演出している。技術を惜しみなく投入するけど、技術に溺れていない。


エンターテイメントとして大切なことです。




そして、エンターテイメントとしては自分の土俵である、ゲームの世界。


ディズニーのキャラクター物は、ゲームでも人気ありますね。特に任天堂とは仲が良いように感じます。

(任天堂プラットフォームへの提供、も含めて)


任天堂自体、ディズニートランプで大きくなった会社で、ゲーム&ウォッチでもディズニーキャラを使っていたからかな?


しかし、思い出話として語れるのはセガ社のメガドライブのこと。

人づてに聞いた話で真偽のほどは定かでありませんが、メガドライブでミッキーのゲームを出す時、ディズニージャパンの版権管理の人に「ダメ出し」をされたのだとか。

理由は、ミッキーの目が四角かったから。ドット絵の都合で 2x2 ドットで黒目を表現しなくてはならなかったのですが、「ミッキーの目は丸ですから、四角で表現するのはダメです」とのこと。

コンピューターゲームの表現ではどうしても仕方がないのだ、と丁寧に説明し、拝み倒して許可してもらったそうですが、ディズニーの品質管理の厳しさがわかります。


でも、後に同じセガ社から、UFOキャッチャー景品としてキュービックマウスが出てましたけどね。


#今では人気のシリーズですが、UFOキャッチャー景品が最初で、その後グッズ展開されました。


先のゲームとは20年近くあいていて、その間にディズニーの管理方針が変わったようです。

「面白そうなら積極的にコラボ」という方針に変わっていたようで、企画を持って行ったら「面白そうです。やりましょう。」とすぐ許可が出たとか。


…ディズニーはクオリティに厳しい、と信じていたのだけど、この話を聞いたときはちょっとショックでした (^^;

まぁ、「常に新しいことに挑む」のもディズニーの伝統ですので、「新たな境地に入った」と好意的に考えておきましょう。


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チャールズ・バベジの命日(1871)  2013-10-18 06:06:35  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日はチャールズ・バベジの命日(1871年)。


みんなはチャールズ・バベジ卿を当然知っていると思うけど…

あ、知らない。そうですか。まぁ、僕が大好きだからと言って、普通の人は知らないよね。


以下に簡単にまとめます。もっと詳しく知りたい人は、記事中に示されるリンク先を読んでください。




歯車計算機が最先端の機械だった時代に、階差機関という超歯車計算機を作ろうとした人です。


当時の歯車計算機は、四則演算を行うのがやっと。なのに、バベジは平方根や立方根、累乗などの関数を計算させようとした。

しかも、計算結果は自動的に活字を組んで、数表をつくって「印刷」できる。

これで本を出版すれば、間違いが一切ない数表の本が出版できる、と言う寸法です。


当時は船を使った貿易が盛んな時代。

数表を使って観測結果から現在位置を求め、進路を決定します。

ところが数表にミスがあったため船が座礁して、国家予算をつぎ込んだプロジェクトが水の泡…なんて事例が実際にあったのです。


数表の本も、別冊に分厚い正誤表が付いていて、さらにその正誤表に数枚の正誤表が挟まれている…というのが当たり前の時代。

だって、ひたすら数字だけで数百ページ、とかって本ですから。計算ミスもあれば誤植もある。

そして、その小さなミスが命取りで国家予算が水の泡と消える。


バベジは、これをどうにかしようとした熱血漢なのです。




彼は若いころから熱血漢で、イギリスの誇る大天才、アイザック・ニュートンの仕事を否定しようと頑張ったことがあります。


ニュートンの当時、イギリスのニュートンと、ドイツのライプニッツが、同時に微分・積分学を確立します。

ところが、当時はニュートンの方が有名人でした。ライプニッツは「盗作だ」と非難されます。


いまではライプニッツはニュートンと独立に微分・積分学を確立した、と認められています。

それどころか、ニュートンの作った微分・積分学は使用する記号など、記述方法が論理的でなく、他の数式と組み合わせにくい、という問題点を持っていました。


バベジの頃、大陸側の数学者は使いやすいライプニッツ式記述を使用し、イギリスの数学者だけが、「母国の誇り」であるニュートン式記述を使用していました。

そして、この使いにくい記述方法のせいで、イギリスの数学界は大陸側に比べて遅れていました。


バベジは、過去の栄光を守ることで現在の地位を失っている、という馬鹿馬鹿しさに腹を立て、ニュートン式の記述を棄てさせる運動を開始しました。

若気の至りもあったのでしょうが…仲間数人と「ニュートン式は使用しない」ことを決め、過去に書かれた文献などもライプニッツ式に翻訳する活動を開始します。


後に、イギリスでもライプニッツ式の記述が主流になりました。

そして、バベジはかつてニュートンが務めた、イギリス数学界の最高栄誉、「ルーカス教授職」を務めるようになります。

ニュートンの否定をした人がニュートンの後継者となる、というのは皮肉なものです。




ところで、先に階差機関としてリンクしたページは自分が書いたものですが、バベジを変人気味に扱っています。

まぁ、天才と言うのは大抵変人なのも事実ですが、興味を持ってもらいたくて面白おかしく書いているのもあります。


ルーカス教授職、と先ほど書きましたが、バベジやニュートンの他に、近年ではディラック(量子力学を発展させた人)やホーキング博士(「車椅子の物理学者」として知られる)も務めています。


ルーカス教授職は数学界の最高栄誉ですが、量子力学のディラックや、物理学のホーキング博士が入っているように、「数学だけ」を専門とするような人は務まりません。幅広い知識が求められるのです。


バベジも自分の目で確かめなくては気が済まない性格で、高温が生物に与える影響を調べるために高温の部屋に入って火傷したり、火山の詳細を調べるためにガスが噴き出す噴火口に降りて行って死にかけたり、まぁ、エピソードには欠かせない変人でした。


…あ、しまった。また変人扱いしてしまった。

しかし、これも強い好奇心があるからこそ。そして、その好奇心こそが天才のゆえんなのです。



統計学の父としても知られています。郵便料金制度の考案者、近代的生命保険の考案者としても知られています。


統計調査の結果、郵便物を配達する際に一番コストがかかるのは窓口業務と個別宅配業務でした。


特にコストがかかるのは、郵便物を送る距離を調べ、距離に応じた料金を算出する処理。

長距離を送る部分は、多くの郵便物をまとめて運ぶため、コストは微々たるものでした。


…では、距離に応じた料金を算出する部分を無くせば、一番コストが削減できます。そこで、バベジは全国均一料金制を提案したのです。


この方法は、世界中で使用されました。

日本の現在の制度でも、全国均一料金で郵便物が送れるのは、バベジの考案した方法を受け継いでいるためです。



生命保険は16世紀ごろ、大航海時代に生まれたと考えられています。

この頃の船旅は冒険で、出発した船が戻らないことも多く、「次に出航する船は帰ってこれるかどうか」が賭け事の対象になっていました。


そこで、船員は「自分の船が帰ってこない」方に財産をかけ、受取人を家族にすることがありました。もちろん自分が死ぬことを望んではいませんが、万が一自分が死んだ場合は、家族に財産を残すことができます。


また、問題なく自分が帰ってくれば、冒険に成功して金持ちになれるでしょうから、多少の掛け捨て金は惜しくないのです。


…これは生命保険のはじまりとされる一説にすぎませんが、実際ありそうな話です。

そして、バベジの時代まで、生命保険と言うのは「賭け事」にすぎませんでした。



バベジは、統計によって年齢ごとに残り寿命がどの程度であるかを予測する表(生命表)をつくり、掛け金と死亡リスクのバランスをとるための、年齢ごとの掛け金を算出しました。


これによって、生命保険は驚くほどの発展を遂げました。

一か八かの賭け事ではなくなり、多くの人が許容できるコスト(掛け金)で、安心を手に入れられるようにしたのです。




さて、話を階差機関に戻しましょう。


彼が考えた「ややこしい関数を自動的に計算し、印刷までしてくれる機械」は、荒唐無稽なものではありませんでした。

バベジは天才です。ちゃんと自分で設計図面(論理的な図面で、工作のための設計ではないです)を引き、理論上間違いなく動作することを確認して実際の作成にかかっています。


しかし、理論上動作することと、それを作れることは違いました。

当時はまだ、何かを作成するときはネジから手作りしていた時代。


バベジの構想が大きすぎるので、やとわれた職人は「ネジの規格化」から始める必要がありました。

とにかくネジが大量に必要なので、一定の規格を決めて大量生産することにしたのです。


このような「工業の規格化」は現在では当たり前ですが、世界初の概念でした。

その作業を行ったのはやとわれた職人ですが、バベジの影響でもあります。



で、そんなことやっている間に、バベジは階差機関に飽きます(笑)


というか、「もっといいアイディアを思いついた! 仕様を変更する!」と言う状態。階差機関は完成しないまま頓挫しました。



そのアイディアが、解析機関

よく、階差機関を「歯車でできたコンピューター」と表現する人がいるのですが、階差機関はただの計算機だからね。


バベジを「コンピューターの父」と呼ばしめているのは、この解析機関の方。


階差機関は、ただひたすら計算を行い続ける装置でした。

しかし、解析機関には「アルゴリズム」が導入されました。一定の計算手順に従って、計算を続けるのです。


アルゴリズムはパンチカードで指定されました。これがいわば「プログラム」。

プログラムが可能な計算機になって、はじめて「コンピューター」と呼ばれるわけです。



しかし、階差機関も作れない段階で、解析機関は無理難題でした。

階差機関は国家予算を使って作られていましたが、その完成も見ずに投げ出してしまったバベジに対し、新たな予算も降りるわけがありません。


階差機関は、近年になって設計を元に作成され、実際に動くことが確かめられました。

しかし、解析機関は、いまでも夢想された機械のままです。


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タツノコプロの設立日  2013-10-19 09:42:41  今日は何の日

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今日はタツノコプロの設立日(1962年)。


僕は子供のころからあまりアニメを見なかったので、それほど思い入れはありません。

でも、「それほど見なかった」と言いつつ、タツノコ作品で見た覚えがあるものを挙げると…


マッハGoGoGo

ハクション大魔王

いなかっぺ大将

樫の木モック

科学忍者隊ガッチャマン

けろっこデメタン

昆虫物語 新みなしごハッチ

てんとう虫の歌

タイムボカン

ポールのミラクル大作戦

ヤッターマン

風船少女テンプルちゃん

機甲創世記モスピーダ



…マジで? こんなにあったよ (^^;;

アニメ好きではなかったと言いつつ、幼稚園~小学校低学年は普通には見ていたからかな。


数回しか見ていないもの、幼少の頃だったので内容を覚えていないものを含みます。

一方で、1回は見たけど数回見た覚えがないものは入れていません。


1970年代のタツノコは、アニメ制作会社の中でも特別な地位を築いていたように思います。

その頃に幼少期を過ごした人にとっては、ちょっと懐かしい名前なのではないかな。




上には入れていませんが、「崖の上のポニョ」の作画も協力しているのですね。

一応DVDもってます。特に好きなわけではない。


「超時空要塞マクロス」も製作協力程度だそうですが、こちらは数話見た覚えがある。

話の全容をちゃんと理解していなかったけど、友人数人が変形ロボット買って遊んでいて、一緒に遊ぶために買いました。(今でも保管してあります)


「赤い光弾ジリオン」もタツノコだったようで。

こちらも、ゲーム好きだったので「セガがスポンサーのアニメ」として話題になったのを覚えていますが、多分一度見ただけ。


みなしごハッチは確実に(多分第1作の再放送も含め)見ていたのですが、当時「みつばちマーヤの冒険」との区別がついていませんでした。

新ハッチの放映は 1974年。マーヤは 1975年。


しかも、ハッチには「アーヤ」という妹が登場するんですよね。

当時の幼稚園には、両者の区別がつかない子が多数いたはず。



テンプルちゃんが入っているのは、妹と見ていたから。


♪テンプルちゃんがタクトをふれば タムタム坊やがリズムをとるよ

…ってフレーズは今でもメロディ覚えてます。




特に覚えているのは、タイムボカンとポールのミラクル大作戦。

覚えている、と言っても「よく見ていた」記憶があるだけで、話の内容などは曖昧。


ポールの方は、ちょっと怖くてあまり好きではなかったんですよね。

でも、幼稚園で仲良かった近所の子の家に遊びに行くと、そこのお母さんが見せてくれるの。

(夕方だったので再放送だったのだと思う。「トムとジェリー」と連続枠でした。)


でも、ポールが乗っているミラクルカーとか、武器のメカヨーヨーは好きだったかな。

陸海空行ける自動車、というのが、子供心にかっこよかったのでしょう。


小学生のころにテレビゲームが好きになり、「ミラクルカーをあやつってヨーヨーで戦うシューティングゲーム的なもの」を構想(というより夢想)した覚えがあります。



タイムボカンでは、ドタバッタン(バッタ型メカ)が好きでした。

なんでだろう…多分、カブトムシやクワガタ虫よりも、バッタの方が身近だったからではないかな。



と、取り留めのない話で今日は終了です。


僕の土俵のゲーム関係でも、アニメパートを担当していたり、「タツノコファイト」という格闘ゲームがあったりするのだけど、僕は遊んだことないのばかりなので…


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MSX規格のコンピューター発売日  2013-10-21 11:44:48  コンピュータ 今日は何の日

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1983年の今日、「コンピューターの統一規格」である、MSX 規格に沿った最初のコンピューターが発売されました。


三菱電機製の ML-8000。


…えーと、初期過ぎて僕は実機を知りません (^^;;


三菱電機の MSX と言えば、LETUS(レタス)シリーズの広告なんかは覚えているのだけど、ML-8000 は LETUS シリーズには入れられていないのかな。


#LETUS って名前も、きっと Apple の影響+「さぁ、みんなで」の意味だったのだろうなぁ、と思ってます。

 本当の植物のレタスの綴りは Lettuce だけどね。


MSX は規格がまず 6月27日に発表され、それに沿った機械が発売されるまでに4か月ほどかかっているのですね。




当時の僕は小学生で、コロコロコミックなんて読んでいる年代でした。

(かなり年齢が特定されるな…)


で、「ゲームセンターあらし」の すがやみつる が、コンピューターに興味がある子向けの「どのコンピューターを買えばいい?」と言う内容の漫画を読み切りで書いていたのを覚えています。

(掲載は別冊コロコロだったかもしれません)


当時のコンピューターですから、PC-6001 や M5 を勧めていたように思います。

その値段はもう、小学生の自分には縁がないと思わせるのに十分でした。



さらに追い打ちをかけるように「ディスクドライブ装置を買えば、アドベンチャーゲームも遊べる」とか書いていました。確か、すがやみつる さんは当時アクションゲームに飽きたのか、アドベンチャーゲームに熱心だったはず。

(「マイコン電児ラン」もアドベンチャーゲームの話が多かったように思います。先に進めないからプログラムリストをダンプして攻略、って、ゲーム攻略としてアリなのかと子供心に思いました)


で、その「コンピューター購買の勧め」の漫画の中で、心に残った機種が「一番安い」MAXMACHINE と、「今年の秋には発売予定」という MSX。


MSX 規格制定の経緯も簡単に漫画化されていて、ビルゲイツとか西和彦って名前もこの時初めて知ったように思います。


多分、規格発表を受けて書かれた漫画だったんじゃないかな…と今になれば思います。

だとしたら、他のパソコンは「高すぎる」と子供心に思わせ、MSX に注目させるのが目的だったのかも?


まんまと策にはまりました(笑)



結局、発売直後の MSX は高すぎて買えず、僕が入手したのはファミコン。

でも、やはり MSX は興味があり、友人の MSX とファミコンを1か月交換したりしました。


その後も中学生になって MSX1 を、高校生になって MSX2 を入手しています。





2018.11.6 追記


文中に書いていた、すがやみつる 氏の漫画ですが、過去に公開されたものが wayback machine にありました。


あらしマイコン百科「くるぞマイコンの新しい波」


同時期に、やはりコロコロコミックで公開されていた漫画もあります。


マイコンの神様 ビル・ゲーツ物語

最高のゲーム「アップルII」

アップルIIストーリー


いずれも、画像読み込みが遅くて表示されないことがあるようです。

データとしては archive されていて、読み出しが遅いだけのようなので、リロードすれば表示されます。



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スタンレー・メイザーの誕生日(1941)  2013-10-22 17:04:06  コンピュータ 今日は何の日

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今日はスタンレー・メイザーの誕生日。


4004 の開発者4人の中で、唯一のソフト屋です。

プログラマーの観点から便利な命令を提案し、実際にテストプログラムなども作成しました。



4004の開発者、というと、日本では嶋正利さんが有名です。

嶋さんはビジコン社に勤めていたエンジニアで、ビジコンは電卓を作成していました。

今でこそ電卓は安いものになりましたが、当時は今のパソコンよりも高価な、会社でないと導入できないような機械だったとお考えください。


そして、今のパソコンと同じように、会社ごとの業務内容に合わせて機能をカスタマイズする、という商売も存在していました。

パソコンだったらソフトで実現するのですが、まだコンピューターが高価な時代です。

カスタマイズは、回路の変更で行われました。納入先会社の要望に従って、新たな計算式を実現する回路を作り、組み込むのです。


さて、電卓は当時数社が作っており、激しい開発競争がありました。

より速く、より安く、より高機能に…悪く言えば、開発コストが回収できない消耗戦に突入していったのです。



1969年、シャープが世界初の LSI 電卓を発表します。

LSI は当時の最新技術で、大量生産することで生産コストを引き下げることができたうえ、完成した製品も非常に小さく、使用電力も少ないという優れものでした。


ビジコンでも、LSI 電卓の開発を開始します。

しかし、LSI 電卓には一つ欠点がありました。


LSI は、生産コストは低いのですが、開発コストが非常に高いのです。

開発コストは、製品1個当たりのコストに分散されます。言い換えれば、大量生産すれば開発コストは相対的に下がります。


しかし、LSI は「中の回路をカスタマイズする」ということはできません。

これでは、先に書いたように会社ごとの要望に応えるカスタマイズはできないのです。


この問題に対し、ビジコンは全く新しいアイディアを思いつきます。

電卓の中心機能である四則演算だけを LSI で実現し、追加機能は「プログラム」によって生み出せばよい、と言う考えでした。


プログラムと言っても、パソコンのように電卓にプログラムできるというわけではなく、あらかじめプログラムを作って ROM に入れて置く、と言う形です。


この時点では、10進数で10桁を計算できることが想定されていて、36bit の四則演算器と、そのプログラム機能を作る予定だったそうです。

どのような機能が必要か、と言う要求仕様書をまとめ、嶋さんのグループは渡米します。


渡米したのは、生産してくれる会社を探すためでした。

…ところが、どこも契約してくれません。36bit の演算器というのは、当時の電卓業界としては当たり前のものだったのですが、小さな LSI にするには規模が大きすぎ、どこの会社でもそんな注文は受けられなかったのです。


ところが、インテル社だけは協力してくれることになりました。

この当時、インテルは設立から間もなく、DRAM を作る小さな会社でした。新しい仕事になるのであれば、どんな仕事でも欲しかったのです。




嶋さんたちは「要求仕様書を渡したら、相手がその LSI を作ってくれる」と考えていました。

しかし、拙い英語でやり取りしていたためにちゃんと意思が伝わっておらず、インテルの思惑は「設計図が持ち込まれたら生産設備を貸すよ」でした。


どんな目的の回路だろうが、それを「現状の生産設備で」作れるような回路にするのであれば、インテルとしては生産に何の問題もありません。

でも、設計するのはインテルではなく、ビジコンでした。ところがビジコンには LSI 設計ができる技術者は一人もいませんでした。


何度かのやり取りのあと、インテルも事態に気づき、テッド・ホフを担当につけてくれます。

ホフはインテルの中でも頭の切れる人間で、回路設計も、プログラムも、その応用分野も理解していました。


ただ、それだけに彼の仕事は忙しく、「担当に付いた」といっても具体的に設計などをする時間はありません。ホフのアドバイスの下、嶋さんが設計を行うことになります。


とはいえ、36bit の四則演算回路は、当時のインテルでは生産不可能でした。

どのように設計すれば生産可能な図面になるのか、まったくわかりません。


ここで、インテル社が二人目の担当社員を付けます。

それがスタンレー・メイザーでした。


嶋さんの書いた書籍「マイクロコンピュータの誕生」によれば、メイザーは『どちらかというと功名心の高いところが見受けられるが、非常に親切な男で、アイデアこそうまく出せなかったが、人のアイデアを早く理解でき、それを人に文書にして伝える技術を持っていた』そうです。


彼はこの能力を活かして、忙しいホフに替わり、ビジコンと密接な打ち合わせをおこないつつ、必要な事項はまとめてホフに連絡する、という仕事をしています。

嶋さんの通訳も務めた…と書籍にはありますが、これは「下手な英語を言い直してくれた」というような意味合いでしょう。メイザーが日本語ができたわけではないと思います。



メイザーが間に入り、ビジコンとインテルの間でなんども折衝が行われます。

とにかく、ビジコン側要求仕様をまとめ、インテルに何度も説明しますが、インテルとしては生産可能なものからはあまりにかけ離れており、まったく興味を示しません。


そんなある日、ホフが新たなアイディアをもたらせます。


プログラム可能、と言うのが前提とするならば、四則演算自体もプログラムで処理すればよい、と言うものでした。

4bit あれば、10進数一桁は表現できます。なので4bit の足し算・引き算だけ作れば、これを並べることで何桁でも計算ができます。

足し算引き算ができれば、繰り返すことで掛け算、割り算もできますし、さらに複雑な計算も可能です。


ビジコンの当初の計画とは全く異なるものでしたが、これなら要求する機能は満たし、生産することも可能です。


ビジコン側も、当初の計画とは異なっていたとしても、とにかく機能が満たせる LSI が作れるなら文句はありません。

インテル側も、4bit であれば実際に生産できる規模になりそうだ、と言う判断でした。


ここでやっと開発の契約がまとまります。(ここまでは、インテルは「協力」しているだけでした)


インテルは「生産」だけを受け持ち、開発はビジコンでした。

ただ、ビジコンには LSI 設計ができる技術者はいなかったので、インテル社からもう一人の担当が付くことになりました。それがフェデリコ・ファジンです。



電卓用チップの開発は、嶋正利、テッド・ホフ、スタンレー・メイザー、フェデリコ・ファジンの4人で行うことになりました。


嶋さんは発注側の人間なので、最終的な判断を下すチーフ格です。

ホフはインテル側のチーフで、嶋さんをサポートし、全体方針を定めます。

LSI の設計はファジンと嶋さんが協力して進めます。


そして、今日の主役であるメイザーは、4人の中で唯一のプログラマーでした。

嶋さんが決定する命令セットを使ってプログラムを作成し、命令セットの問題点などを指摘、よりよい命令にするためのアイディアを提案する役割でした。


そして完成したのが、世界初の1チップ CPU 、4004 を含む電卓用チップセット、「4000ファミリー」でした。

4001 が ROM、4002が RAM、4003がシフトレジスタ、4004が CPU というファミリー構成でした。




現在では CPU といえばインテルで、4004 開発メンバーの4人のうち3人がインテル社員でした。

なので、アメリカで CPU開発者と言うと、嶋さん以外の3人が想起されることが多いようです。


1995年ごろだったと思いますが、インテル社が初めて CPU の歴史をWEBに公表した際に、4004 の製作者として、嶋さんの名前が載っていなかったようです。

「インテルは、日本人が大きな寄与をしたことを無くそうとしている」と(少なくとも日本では)騒ぎになり、すぐに嶋さんの名前も載せられましたけどね。

これはどうも、社員ではなかった嶋さんが「社史」には乗っていなかっただけ、と言うことらしいです。



でも、日本だとメイザーは忘れられがち。

4bit 、と言うアイディアはホフのものだし、実際の設計はファジン。それに比べると、メイザーの仕事は…なんというか、地味なんですよね。地味でも大切な仕事なのだけど。


嶋さんの書籍はちゃんと読んでいるのに、実は今日の記事を書くまで、メイザーの存在を忘れていました (^^;;


アメリカでは嶋さんが忘れられがちで、日本ではメイザーが忘れられがち。

でも、3人ではなくて4人でやった仕事です。お忘れなく。




4004 では、インテルは生産のみを担当しています。

…つまり、4004はビジコンのものでしたが、後にビジコン倒産の危機となった際にインテルに権利を売却しています。つまり、4004は現在ではインテルのものです。



4004 を開発したインテルの3人は、次に 8008 を開発しています。

しかし、これはあまり良い設計ではなく、期待したほど売れませんでした。


その後、嶋さんがスカウトされてインテルに入社しています。

ふたたび嶋さんをチーフとして設計したのが 8080 で、これは大ヒット CPU となります。



その後、ザイログ社が設立され、嶋さんとファジンはザイログに移籍します。

ホフとメイザーはインテルに残りました。


ザイログは Z80 を開発し、8bit 時代の覇者となります。

MSX も SEGA も、MZ シリーズも X1 も Z80 を搭載していました。


…PC8801 は Z80 互換でしたけど、ザイログのライセンスを受けずに勝手に作った NEC 製 CPU です。

そして、ファミコンゲームボーイZ80 ではありません(笑)



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ジョン・マッカーシーの命日  2013-10-24 10:44:30  コンピュータ 今日は何の日

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今日はジョン・マッカーシーおじさんの命日。


…なのだけど、彼についてはもう書いていますね。

「今日は何の日」を書き始めたきっかけは、彼のことを調べていたら、たまたまその日が誕生日だったので記事にした、というものでした。


というわけで、今日は過去の日記へのリンクのみ。


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石井洋児さんの誕生日  2013-10-25 10:52:01  コンピュータ 今日は何の日

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今日は石井洋児さんの誕生日。


えっと、誰? ごめんなさい、僕知りませんでした。

この「今日は何の日」シリーズこんなんばっかしね。自分の無知を恥じ入ります…


石井洋児さんは、ゲーム開発会社「アーゼスト」の社長


というより、セガ時代に「ファンタジーゾーン」「ハングオン」「アウトラン」「ナイツ」「パンツァードラグーン」「サクラ大戦」などにかかわった人、と言ったほうがわかって貰えるでしょうか。


前三作はアーケード版ね。企画・ディレクションだったそうです。当時だから企画1~2名のチームだろうな、とおもうと、それなりの重要地位だったのでしょう。

ナイツ以降に書かれている、セガサターンのソフトに関しては開発責任者だったそうですよ。


おぉ、すごい人だ。サクラ大戦は遊んだことないのだけど、それ以外は全部楽しく遊びました。


パンツァードラグーンは特に好きだった。

ゲームなのにゲームじゃない、竜の背中に乗って周囲の風景を楽しみながら飛ぶ、不思議な世界への旅行ができるソフトでした。

敵が出てくるところはしっかり忙しくてゲームらしかったのだけど、この緩急の付け方が非常にうまかった。


続編の「ツヴァイ」では難易度が上がり、ゲームらしくなってしまって残念だった覚えがあります。



ナイツもそんな感じがありましたね。世界を飛び回って楽しむソフト。

飛ぶときの爽快感を演出するためでしょうが、「失敗」して地上を歩かないといけない時のつまらなさと言ったら…

特にゲームに慣れていない初期の頃は散々歩かされて、これでこのゲームを嫌いになった知人を知っています。


他にもいろんな要素を詰め込み過ぎて、雑然とした感じだった。正直なところ、世間は(と言うよりセガは)高く評価しすぎだと思いましたね。よく出来ているけど、ものすごくよく出来ているわけではない。


と、批評をするけど嫌いじゃないです。

というか、批評したくなるほどやりこんだクチです (^^;



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襟川陽一さんの誕生日  2013-10-26 09:29:09  コンピュータ 今日は何の日

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今日は襟川陽一さんの誕生日(1950年生まれ)。


本名よりもペンネームの方が有名で、シブサワ・コウと言ったほうがわかって貰えるんじゃないかな。

コーエーテクモゲームスの社長さんで、元はコーエー(光栄)の創業者。


信長の野望や三国志などの歴史シミュレーションジャンルを作り出しました。

シリーズはたくさん出ているから、どれか一つくらいは遊んだことがある人が多いのではないかな。


シブサワ・コウ名義に関していえば、当初は「架空の人物」で、信長の野望以降のすべてのコーエーのソフトのスタッフクレジットに入っているのだそうです。

途中から襟川さんのペンネーム、ということになったのだけど、襟川さんがまったく参加していないゲームにもクレジットされるなど、いまでも曖昧な存在の模様。


MSX2 がメインマシンだったころかな、「シブサワ・コウの作品」ということでコーエーがやたら宣伝していて、そこでは信長の初期からメインプロデューサーだったことになっていました。

その一方、その数年前の雑誌などに乗っていた襟川さんのインタビューでは、一人で信長とかを作ったことになっている。このシブサワ・コウって人物はいったい誰なんだ? と思った覚えがあります。

架空の人物だと知ったのはずっと後。




Wikipedia によれば、信長の野望以降の「歴史シミュレーション」にしかこの名前は使われていないようです。

ということは、以降ではあっても、「オランダ妻は電気ウナギの夢を見るか?」にはクレジットされていないのでしょうね。残念。


#公開後の追記:これ、Wikipedia の記述を僕が勘違いしていました。詳細は最後に描きます。



僕は当時のアダルトソフトはあまり興味がなくて遊んでいません。

男だからエロに興味がないわけではないよ。でも、若さゆえの気恥ずかしさと、ゲームとして面白そうでなかったのでやらなかった。


で、コーエーは日本初のアダルトソフトを作った会社、ってことにもなっています。

先に書いたように興味のなかったジャンルなのであまり事実関係は裏を取れていませんが。


で、そのアダルトソフトが「ナイトライフ」。コーエーのアダルトソフトはナイトライフと「団地妻の誘惑」、それに先に書いた「オランダ妻~」の3本だけで、…まとめて歴史の闇に葬られています。


葬られて、というのは無視されて放置されているという意味ではありません。

広報の人が公式に「なかったことに」と言っているそうなので、積極的に葬りたいのです。砂漠にでも埋めるか (^^;


#一応注釈をつけると、この3本以外にも、コーエー以外のブランドから出したソフトもあります。それもまとめて歴史の闇へ…



でも、「ナイトライフ」は闇に葬るには惜しいですよ。なんせ日本初です。

しかも、いわゆる「エロゲー」ではなくて、正しい意味で「アダルトソフト」なのです。


…夫婦の夜の生活を支援するソフト、と言えばいいでしょうか。パートナーがいることが前提で、夜の生活を楽しむためのソフト。

体位を解説していたり、安全日の計算機能もあったそうです。


長崎大学医学部の教授が感謝状を送った、というエピソードもあるようですね。


これ、体位を解説する書籍を発売して物議をかもしたことがある人かな。今情報を検索しても見当たらないので正確なところがわからないのですが、昔新聞の記事で読んだことがあります。


うろ覚えの内容で申し訳ないのですが、新聞の記事を解説すれば、次のような内容。



日本人は性をタブー視しすぎるので、正しい性生活の知識も広まらない。

だから正しい性知識ももたないまま初体験して、ぜんぜん気持ちよくなれないし、望まぬ妊娠をして堕胎しなくてはならない女性もいる。そのまま性交渉が怖くなり、男性恐怖症になったりする。


これを憂いた産婦人科の医師が、正しい性知識を伝える書籍を企画する。正しい、というのは医学的知識だけでなく、「性を楽しむための」知識と言う意味も含む。


そこで、体位などの解説も写真付きで掲載しようとしたのだけど、これは猥褻図画に相当するのではないかと出版社がしり込みする。

警察も交えて相談し、デッサン用の人形を使って体位を取らせ、写真として説明するのであれば猥褻ではないだろう、と事前了承をとりつける。

ところがデッサン人形と言うのは思ったより思い通りに動かないもので、苦労しながらやっと写真を撮影し、書籍の発売にこぎつけた。


この書籍は物議もかもしたが、真意が理解されて「もっと性を語らなくてはならない」という風潮が社会に生まれる。

今では当時ほど性はタブー視されなくなったが、書籍を企画した医師は現状はまだ不十分、と考える。


まだ、強姦された被害者が、風評被害を恐れて泣き寝入りしないといけないような状況がある。

そんな理不尽で女性が泣いてはならない。性に対するタブー視を無くすために頑張らなくては、と…



…と、たしかそんな内容だったと思います。


で、ナイトライフに感謝状が送られたとすれば、上の話の流れに関係するような気がするのです。

この書籍を作った人が送ったか、もしくは同じ憂いをもった人が送ったのではないかと。


ナイトライフは、性をタブー視するのではなく、後のエロゲーのように男性の妄想を炸裂させるのでもなく、「正しい知識を与えようとした」のですから。



そんな素晴らしいソフトを作成した襟川陽一さん、誕生日おめでとうございます!


#信長も三国志も結構好きだったし、語ろうと思っていたのに自分でも思わぬ方向に話が進んでしまった。

 まぁ、そちらは僕が語るまでもなく名作なので、他の方に任せます(笑)




公開後追記

本文中に、シブサワ・コウを「歴史シミュレーションにしか使われていない」と書きましたが、誤りでした。

Twitter で情報をいただきました。ありがとうございます。



Wikipedia の記述を引用すると


『信長の野望』『三國志』各シリーズなど、数々の歴史シミュレーションゲームにクレジットされるプロデューサー。


となっています。これで「歴史シミュレーションだけ」と思ったのですが、この記述は「歴史シミュレーションにクレジットされている」ことを意味するだけで、「それ以外に使われていない」とは書いていませんね。これは僕の早とちり。


さて、Wikipedia の同記述によれば、シブサワ・コウ名義が使われるのは初代信長以降。

発売日の関係で「団地妻」の方がわずかに後なのはわかっていたのですが、わずかな時間では開発順ではないかもしれない(発売タイミングと開発順は必ずしも一致しない可能性がある)ため、ネタとしては「オランダ妻」を使用しました。


でも、Twitter での指摘にあるように、「団地妻」でちゃんと使われているとのこと。

当時の雑誌、ほとんど処分してしまったなぁ…。ネットで調べたら、画像がありました。


「レトロゲームでピッコピコ」と言うサイトの「キョーレツだったタイトル」と言う記事。かなり下の方にあります。


探すのが大変、と言う方のために「団地妻の誘惑」の広告画像を直接リンクさせてもらいます。

でも、元記事結構面白いから、ぜひ読むべき、と書いておきます。


#この人、エニックスのエロゲには「黒歴史」と書いているのに、「団地妻」がコーエーとは気づいてないのね。




…で、問題の広告。たしかに、Twitter での指摘通りの宣伝文句です。まさにこれなのでしょう。


自信作だったのですね。なんで闇に葬りたいんだろ。

株式上場時のイメージ…というのはわかるけど、もう大会社なんだから、その原点を素直に認めてもいいと思うのに。


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