今日は何の日8ページ目の日記です

目次

前のページ
2015-02-09 ビル・メンズチの誕生日(1945)
2015-02-12 フィル・ジマーマン 誕生日(1954)
2015-02-13 改正風俗営業法の施行日(1985)
2015-02-14 ENIAC公開日(1946)
2015-02-17 クリストファー・レイサム・ショールズ 命日(1890)
2015-02-17 手相うらない ちょっとみせて 発表(1995)
2015-03-05 安藤百福 誕生日(1910)
2015-03-11 ヴァネバー・ブッシュ 誕生日(1890)
2015-03-12 WWW の提案日(1989)
2015-03-17 ジョン・バッカスの命日(2007)
2015-03-21 スティーブ・ファーバー 誕生日(1953)
2015-03-28 X68000発売日(1987)
2015-04-01 ビッグエンディアンとリトルエンディアン(1980)
2015-04-01 エド・ロバーツ 命日(2010)
2015-04-02 祝一平 命日(1999)
2015-04-04 ジョン・ネイピア 命日(1617)
2015-04-06 アイザック・アシモフ 命日(1992)
2015-04-15 PC-E500 発売日(1988)
2015-04-18 エドガー・コッド 命日(2003)
2015-04-21 NCSA Mosaic 発表日(1993)
次のページ
ビル・メンズチの誕生日(1945)  2015-02-09 10:08:30  コンピュータ 今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

今日は、ビル・メンズチの誕生日(1945)。

モトローラで 6800 の設計に携わり、モステクノロジーで 6502 の基本設計を行い、ウェスタンデザインセンターで 65816 を設計した人です。


独特な、癖の強い設計で、ファンも多い CPU を作り続けた人。

「思想的な後継」としては現在でも ARM がありますが、設計者などは全然別ね。




実のところ、僕は 6800 をあまり知りません。

通り一遍の知識はあるけど、プログラムまではしたことが無い、という意味ね。


6800 は、PDP-11 を元に設計された、と言われている 8bit CPU です。


当時としては、PDP-11 は最高の CPU 設計。

でも、小さなマイクロチップにこれを押し込めるには、まだ時代が速すぎた。


A B 二つの 8bit アキュムレータ、X PC SP の3本あるアドレスレジスタ。そしてフラグ用に 8bit 。

これがレジスタのすべてです。


PC はプログラムカウンタなので、16bit は当然。

SP はスタックポインタ、X はインデックスでした。これらも 16bit あるので、メモリのどこでも参照できます。


設計はチームで行われ、CPU だけでなく周辺チップなども開発されています。

メンズチは、主に周辺チップの担当でした。



6800 は後に改良され、互換性のない 6809 として発売されます。

どちらかというと売れたのは 6809 の方で、6800 はそれほど売れていないはず。


6809 の方は、メンズチは関わっていません。

別の会社に移籍してしまったためです。




6502 は、この 6800 を思い切って簡素化し、値段をずっと安くした CPU です。

モトローラではなく、モステクノロジーで作成された物。


アキュムレータは A だけになりました。

PC は 16bit ですが、SP とインデックスレジスタは 8bit に縮小されました。


16bit のアドレス空間を、8bit でアクセスするのではアドレスの完全な指定ができません。


そこで、スタックは、アドレスの上位が 1 のアドレス空間に固定になりました。

256バイトしかスタックが無いことになりますが、工夫すれば乗り切れます。


インデックスレジスタを使用する際も、命令と共に上位8ビットは指定することになります。

このため、メモリ空間は 256byte ごとに区切られることになりました。


6502 では、この 256byte 単位を「ページ」と呼びます。

改めて書くと、スタックは1ページ目に固定されていることになります。



6800 を「貧弱にしただけ」では出来ることも限られてしまいます。

6502 は、大胆な方法で拡張された機能もあります。


まず、インデックスレジスタは X Y の2つになりました。

配列をコピーする際など、インデックスが2つ必要になる場合は多いです。

必要とされる機能を、ちゃんと用意したのです。


ただし、X Y の持つ機能は、微妙に異なります。

これも、利用される状況を考え、微妙に異なる機能を持たせた方が便利だからそうなっているのです。


アキュムレータは1本だけに減らされています。

アキュムレータとは「計算に使うレジスタ」なので、普通に考えると、必ず2本必要です。


6502 では、ここに設計の最大の特徴があります。

先ほど書いた「ページ」と組み合わせ、0ページ目の 256byte のメモリは、アキュムレータと組み合わせて計算しやすい命令が揃っているのです。


つまり、一見するとアキュムレータは1本ですが、実は +256 本ある、というような設計になっているのです。


6800 よりも設計が簡素化され、安くなっているにもかかわらず、機能は 6800 を上回る部分もある。

後に作られ、大人気となる Z80 と比べたって遜色ないのです。


ただし、癖が強いので使いこなすのには腕が必要です。


ウォズニアックはこの CPU を気に入り、Apple I に採用しました。

その後 Apple II でも採用され、爆発的なヒットとなったのは多くの人が知る通り。


さらに、ファミコンでも 6502 の一部機能を省略したものが使用されています。



設計はたった3人で行われ、メンズチは演算回路など、中心となる部分を作っています。




65816 は、Apple II の後継機を 16bit にしたかったアップル社の要望で設計された CPU です。

単純に 16bit CPU が欲しいのではなく、過去の 8bit 資産を完全に活かせることが重要要件でした。


モステクノロジーではなく、メンズチが設立した、ウェスタン・デザイン・センターで作成されています。


65xx シリーズで、8bit と 16bit の2つのモードを持つ。

それが 65816 の名前の由来です。


6502 では 8bit だった、アキュムレータ、スタックポインタ、インデックス X Y が、16bit に拡張されています。

やった! これで全メモリ空間を指定できる!


…のではなく、メモリ空間も 24bit に拡張されています。やっぱり 8bit 足りない。


そして、やっぱり「256byte をレジスタ代わりに使える」方式は残されています。

ただし、この 256byte はアドレス先頭に固定ではなく、新設されたレジスタで指定されたメモリから始まります。


サブルーチン内でローカル変数が欲しいときは、このアドレスを移動して、終了後に元に戻せば大丈夫。

同時に使えるメモリは相変わらず 256byte ですが、ひと手間かければ無限に増えるようになったのです。



設計は、メンズチ1人で行っています。

妹さんが雑用を手伝ったりはしたらしいけど。




そして、65816 の最大の特徴は、8bit と 16bit がモード切替だということです。


このモードは、基本的にレジスタ・メモリアクセス幅を変えるだけだと思ってください。

「16bit の拡張命令が増えた」のではなく、モードを切り替えて同じ命令を使います。


でも、そのことを除けば、基本的に機能は同じ。


これは、「16bit モードで 8bit のアクセスをする方法が無い」という意味にもなります。

読み込むときは、16bit で読み込んで、上位データを and 0 して消してしまえばよいだけ。


8bit を書き込むときは結構面倒なことになります。

でも、8bit / 16bit モードの切り替えは遅かったので、工夫した方が高速に動く。


高速にしたい場合、8bit アクセスを無くす、というのが一番良い方法でしたけど、遅くてもいいからメモリ節約したい場合もあった。



こう書くと使いにくいダメ CPU のようですが、メンズチは 6502 の時から一貫して「小さな回路規模で最大の効果」を念頭に設計しています。


命令は 8bit/16bit で共通で、データ幅だけを完全に切り替える、という設計は、この観点で見ると非常に素晴らしい割り切り方です。

256byte のゼロページアドレッシングを残しつつも、0ページの位置を変えられる、というのも、簡素ながら良く練り込まれた設計。


そもそも 6502 の設計が面倒くさくて使いにくい、という人には、65816 もダメでしょう。

その一方で、6502 の簡素な美しさが好きだという人は、65816 もきっと好きになれます。


そういう、癖の強い設計の CPU です。




先に書いたように、65816 は、16bit の Apple II を作るために設計されました。

実際に Apple II GS という名前で発売されています。


GS は Graphics and Sound の略。

Apple II 独特の、貧弱な画面とサウンドを大幅強化して、CPU も 16bit にして、OS も GUI にしたマシン。


もう Apple II じゃないじゃん、と言われそうだけど、ちゃんと互換性もある。

ちなみに、Mac 発売以降に作られていて、OS も Mac 風。


Apple II 部署と Mac 部署は仲悪かったはずだから、会社の方針で使い勝手の統一を図ったとかではなくて、「対抗心で作った」のではないかな、と思ってます。

もっとも、仲が悪かったのは Jobs のせいで、Woz は怒ってすでに会社辞めているし、Jobs も混乱の原因を取らされてクビにになった後に Apple II GS が作られているのだけど。


そして、実は ADB の採用第1号マシンです。


ADB … Apple Desktop Bus は、マウスやキーボードをコンピューターに接続するための規格。

これ以前は、周辺機器ごとに違う接続方法があり、直接コンピューターに接続するのが普通でした。


ADB では、今後機器を増やしても大丈夫な設計指針があり、デイジーチェーン(直列つなぎ)で機器を増やせたので、柔軟な周辺機器設計が可能になりました。


IBM 系の PC で、この ADB を真似しようとして後に作られたのが USB ね。

こちらも iMac が大々的に採用したことで普及したのだけど。




65816 は、6502 上位互換なのでスーパーファミコンにも搭載されています。

スーパーファミコンは、ファミコンとの互換性はありませんでしたが、開発時にはギリギリまで「上位互換」として作られていました。


その名残で、スーパーファミコンは起動するとまず 8bit モードで動作し、メモリなどもすべてファミコンとほぼ互換性を持った状態で見えるようになっています。

その後 16bit へ切り替える命令が実行されると、スーパーファミコンの全機能が利用できるようになるのです。


スーパーファミコンは画面モードとしても「ファミコン互換モード」を持っていたし、なぜ互換機路線をやめたのかは不明。

多分、将来の拡張性も考えた際に、カートリッジ形状を変えたかったのではないかとも思いますし、些細な部分で完全互換が難しくなったのかもしれません。



当初は「上位互換」として発表されたため、後に上位互換が無理だとわかっても「アダプタで対応」となりました。


ただ、この「アダプタ」は、スーパーファミコンとは独立した機械。ジョイパッドや電源アダプタなどを共有できる、というだけ。

つまり、新設計されたファミコンでした。


結局「アダプタ」という誤解を招く名称もなくなり、後に AV ファミコンとして発売になっています。



▲目次へ ⇒この記事のURL

同じテーマの日記(最近の一覧)

コンピュータ

関連ページ

次世代ゲーム機戦争

ジャングルウォーズ2【日記 15/02/12】

ジャングルウォーズ2【日記 15/02/12】

別年同日の日記

06年 Roomba を修理

12年 Android版ChromeのUserAgent


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

フィル・ジマーマン 誕生日(1954)  2015-02-12 17:00:32  コンピュータ 今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

今日はフィル・ジマーマンの誕生日(1954)。



僕はこのサイトで、時々「ハッカーズ」という書籍を引き合いに出します。

その書籍を書いた「スティーブン・レビー」というルポライターが書いた別の本が「暗号化」。


この「暗号化」の中で、特に重要な人物として描かれているのが、フィル・ジマーマンです。


彼は PGP …Pretty Good Privacy を開発した人物です。




彼が小学校4年生の時、テレビで子供向けの冒険番組を放映していました。


今でもよくあることですが、そのテレビ番組の中では、スポンサーの商品が効果的に使われていました。

番組中、時々「暗号文」が表示されることがあり、その内容は「暗号解読器」を購入した子供だけが知ることが出来たのです。


ジマーマンはこの暗号解読器を持っていませんでした。

しかし、画面に表示される数字をメモし、その規則性を解き明かして、ついには自分で暗号を解読できるようになったのです。



ジマーマンはこれ以降暗号に強い興味を持ち、子供向けに書かれた「暗号の本」と出合います。

その本に載っている暗号は単純なものでしたが、暗号を基礎から解説し、いくつもの暗号化のパターンを教え、その応用で無限に暗号が作り出せることを示していました。


ジマーマンは、暗号を作れると同時に、暗号を解読する基本的な手法も身に付けました。

中学の時には、「オリジナルの暗号を作った」という友人の挑戦を受け、頻度解析…換字式暗号の基本的な解読方法を駆使して、見事に解読しています。


換字式暗号とは、文字を別の文字に交換する暗号です。

たとえば、アルファベット表に従って1文字前にずらすと、IBM が HAL になる、等と言うのが有名です。


アルファベット表では簡単に見破られるかもしれないので、この「表」自体を複雑化する場合もあります。

アルファベットではない、不思議な記号にするものもあります。


ジマーマンが中学時代に挑戦を受けた友人の暗号は、すべての文字を、独自に作成した記号に置き変えたものでした。



しかし、元の文章が「英語」であれば、文字 e の出現頻度が一番高く、続いて t a o 等が多いことが知られています。

また、文字の接続にも、t の次には h が来やすい、などの規則性があります。


ジマーマンが使った頻度解析とは、こうした「英語の規則性に注目する」方法でした。


ジマーマンは、挑戦を受ける際に、「簡単ではつまらないから、長い文章にしろよ」と、友達を逆に挑発しています。

挑発に乗った友達は、思いっきり難しくしようと、長い文章を暗号化しました。


しかし実は、長い文章ほど頻度解析がしやすく、解読のための手掛かりが多いのです。

暗号の性質を良く知っているジマーマンの作戦勝ちでした。



ジマーマンの「暗号」への興味は、いわゆる中二病をこじらせたもの。

この頃を頂点として、中学卒業の頃には興味を失います。




彼は大学に進学し、コンピューターを学びます。

ここで FORTRAN と出会い、「乱数発生器を組み合わせた換字式暗号」を独力で開発します。


換字式暗号は、変換表に基づいて文字を変換します。

このため、e は必ず同じ記号、t は必ず同じ記号…と変換されてしまうため、頻度解析で解読できます。


ジマーマンは、コンピューターの乱数を使えば、1文字ごとにこの「変換表」を交換できるため、頻度解析ができなくなると考えたのです。


ちなみに、コンピューターの乱数は「擬似乱数」にすぎません。

人間からするとでたらめな数に見えるのですが、コンピューターは純然たる計算によって数字を作り出しています。


そのため、同じ条件を指定すれば、何度でも同じ乱数を作り出します。

乱数を使って暗号を作った場合でも、同じ乱数を使って元に戻すことができるのです。


これなら、暗号として使えます。


彼は、「これは最強の暗号で、誰にも解読できない」と考えました。

しかし、すぐ後に大学の授業でこの暗号の解き方を教わることになります。


自分が考案したと思っていた暗号は、遥か昔にすでに考案されており、それを解読する方法ももう考案されていたのです。

教授はこの暗号を「非常に基本的で解読しやすい暗号」として、受講者全員が解読してくるように、宿題を出したのでした。




その後、大学卒業の直前の1977年に、ジマーマンは RSA 暗号の論文発表を知ります。


ジマーマンの知る暗号とは、鍵を使って解読するものでした。

鍵を秘密にしながら、通信したい相手にだけ鍵を教える必要がありました。


これを「秘密鍵暗号」と言いました。

秘密にしないといけないのに、共有しないといけない。

これが暗号の最大のジレンマでした。


しかし、RSA は全く新世代の暗号でした。

鍵を公開してしまっても暗号として成立するのですから。


通信者は、お互いに「秘密鍵」と「公開鍵」のペアを持ちます。

秘密鍵は自分だけが知り、絶対に他人に教えてはならないものです。


その一方、公開鍵は誰が知っても構いません。


そして、この鍵のペアの一方で暗号化したものは、他方で解読できます。


AさんがBさんに通信したいとしましょう。


通信文をAさんは自分の秘密鍵と、Bさんの公開鍵で暗号化して、Bさんに送ります。

Bさんは、Aさんの公開鍵と、自分の秘密鍵で解読します。


もし、第3者に暗号を見られても問題はありません。

なぜなら、第3者はAさんの公開鍵は知っていても、Bさんの秘密鍵は知らないからです。



ジマーマンはこの暗号にショックを受け、すぐに論文の執筆者に連絡を取ります。


この暗号はコンピューターで処理できるのか?

RSA 暗号は非常に複雑なもので、コンピューターで処理できなければ、誰にも使うことはできません。


MIT では、すでにプログラムを作成中でした。

ただし、それは非常に高価なマシン向けで、誰もが使えるようなものではありませんでした。




ジマーマンは、当時発売されたばかりの Z80 マシンで RSA を実装しようと頑張ります。

しかし、RSA 暗号はあまりにも高度な数学であり、その数式の意味すら解りませんでした。


しかし、「誰もが気軽に使えるように、この暗号をパソコンソフト化する」というのは、ジマーマンの強い思いとなりました。


当時はベトナム戦争の後。ヒッピーブームの頃です。


政府は信用ならない。政府は人々の生活を監視し、人々を裏切る。

皆がそう考える時代の空気の中で、「政府に監視されないように、誰もが暗号を使える社会を」作ることが、ジマーマンにはとても大切なことに思えたのです。


Z80 は RSA を実装するにはあまりにも非力でした。



ジマーマンは、暗号によって政府から人々を守る、という目標が難しいと悟ると、反政府活動家へと変わりました。

反政府デモを行ったり、核凍結運動を行ったり。


その過程で、2度投獄もされています。

もう、立派な政治活動家でした。




ここに、チャーリー・メリットと言う別の人が登場します。

彼はジマーマンと同じように考え、Z80 に RSA を実装することに成功しました。


そして、この暗号化ソフトを販売し始めます。

アメリカ国内にはあまり需要は無く、主に海外で売れ始めました。


そして…政府の弾圧を受けました。

アメリカの諜報局である、NSA がたびたび彼の元を訪れ、すぐにソフトの販売を中止しなくては痛い目にあうぞ、と脅し続けたのです。


ただ、この際の脅しは「海外販売を辞めろ」というものでした。

当時の NSA としては、海外での諜報活動が中心でしたから、海外で解読不能な暗号が広まることを恐れたのです。



チャーリーメリットは、海外での販売が難しくなったため、なんとか国内で使ってくれる企業は無いか、片っ端から電話をしてセールスをかけ始めます。

そして、ジマーマンが設立した会社に連絡を取り、ジマーマンと知り合うのです。




メリットの思惑とは異なり、ジマーマンの会社で暗号製品の採用はありませんでした。


しかし、二人は密接に連絡を取り合うようになり、メリットはジマーマンに RSA 暗号を実装するのに必要な数学を叩き込みます。


ジマーマンは、RSA 暗号が複雑すぎて遅いことを理解し、この遅さを克服するアイディアを持っていました。


暗号化には従来型の秘密鍵暗号を使い、RSA 暗号は、この「秘密鍵」の交換のみに使用するのです。


秘密鍵暗号の弱点は、秘密鍵の管理にありました。

通信するたびに秘密鍵をランダムに生成し、通信の後は破棄してしまえば、管理の手間はいらなくなります。


そして、秘密鍵が通信する2者以外にばれないように、この交換にのみ、速度の遅い RSA 暗号を使うのです。



そして、二人で RSA 暗号を商売にしようとしていた RSA 社… RSA 暗号の考案者たちが作った会社にまで乗り込み、会食をしています。


この会食で、ジマーマンは「RSA 暗号の特許を無償で使う」ことに承諾してもらった、と考えています。

RSA 社は特許を商売にするために設立した会社なので、無償提供などあり得ない話なのですが、彼はこの「快諾」を受けて、本格的に暗号プログラムの作成に取り掛かります。





ジマーマンは、寝る間も惜しんで暗号ソフトを作ります。

時代は Z80 から 8086 にうつり、ターゲットは IBM-PC でした。


Pretty Good Privacy と言う名前も開発中に考えていました。

これは、RSA 社の関連企業である、Public Key Partners (PKP 社)をもじったものでもあります。


#本当はもっといろいろな意味が込められていますが



この間は仕事もせず、家のローンを払う金も失いかけ、半年たってやっと完成しました。


最初はこのソフトを販売しようとしていたジマーマンは、「誰もが安心できる社会を作り出す」という使命感にかられ、シェアウェア販売にしようと考え直します。


多くの人が無料で使えるが、価値を見出してくれた人だけがお金を払う。

それこそが使命です。だからこそ、RSA 社も特許の無償使用を快諾してくれたのです。


そう思って、いよいよ完成して公開できる段階に来た、と RSA 社に連絡を取ります。

実際に完成したソフトに、特許使用の正式承諾を貰うためです。


しかし、返事は「特許の無償使用の許諾など、ありえない」という当然の物でした。

ジマーマンが思っていたのとは違います。


RSA は大企業であり、政府と同じだ。

…信用には値しない。彼の直観がそう判断させました。


この問題は、無視することにし、ソフトの完成を急ぎます。




そんな時、新たな法律が可決されました。

1991年の初頭のことです。冷戦は終わり、世界はテロとの戦い、という新たな戦争に突入していました。


その中で、通信情報の暗号化禁止が盛り込まれた法律が可決したのです。

テロを防ぐために、政府が十分な情報を得られること。それが大義名分でした。


ジマーマンはこのことを知り、慌てます。

この法律が施行されてしまえば、暗号化を行うプログラムは世に出ることができなくなり、抹殺されるでしょう。


その前に、一人でも多くの人の手元にプログラムを届け、人々が自由に「暗号通信」を出来るようにしなくてはなりません。



ジマーマンは、急いで PGP を「使える形」に仕上げ、バージョン1として配布します。


完成を急いだため、それほど使い勝手の良いソフトではありませんでした。

しかし、一人でも多くの手に届くように、シェアウェアではなく、フリーウェアとして公開します。


これは、数年間の彼の努力を無料で公開する、というだけでなく、もう一つの意味がありました。


配布も自由なのです。

2次配布、3次配布…ジマーマンの許可を取る必要などないから、とにかく一人でも多くの手元へ!




インターネットでは、この「意味」を追記して配布するものが現れました。

とにかく、法律の「暗号化禁止」条文を無意味なものにすること。


今更政府が取り締まっても手遅れだ、というところまで PGP が普及してしまえば、法律はあっても全く無意味なものとなります。


事前に法律の意味に気付かず、可決されてしまった以上は、それが最善手でした。


さもなければ、みんなは生活をのぞかれることになるのです。

政府の横暴から身を守るために、できるだけ配布に協力お願いします。



この言葉は非常に効果が大きく、どんどん転載が行われました。

そして…ジマーマンの予想をはるかに超え、海外にまで流出しました。


国内での暗号化は、先に書いた法律が施行されるまでは合法です。

しかし、すでに海外への暗号製品の輸出は、武器輸出と見做され違法でした。


ジマーマンは、このことで犯罪者になってしまいます。



さらに、RSA 社からも追訴されました。

こちらは「PGP の配布を辞める」という条件で和解しましたが、ジマーマンは「配布はしないが作り続ける」という態度を取ります。


そして、配布は数名の協力者に任せることにしたのです。




実は、PGP の登場と、それを迎えたインターネットの盛り上がりに恐れをなし、法律の提出者は「暗号を禁止する」条文を、こっそりと削除していました。


この条文は、法律の提出者の本意ではありませんでした。

FBI から「このような条項を入れてくれ」と頼まれ、あまり深く考えずに追加しただけの条文だったのです。


アメリカ国内での PGP の配布は「暗号」の面から見て特に違法ではなくなりました。


しかし、ジマーマンはすでに…海外に「武器」を輸出した疑いで犯罪者です。


彼は家を捨て、協力者の家を転々としながらプログラムを作り続けます。

そうしないと、政府と RSA 社の両方の追手から逃げられないためです。


PGP 1.0 は慌てて公開したバージョンなので、いろいろと問題もありました。

そして、逃避行の中で PGP 2.0 を完成。誰が、どこから配布したかわからないようにするため、協力者数名が、音響カプラとノートパソコンを持って公衆電話からサーバーにアップロードします。



今度は、「海外用」として、ソースコードを印刷した書籍も出版しました。


暗号を扱う「ソフトウウェア」は武器として輸出が禁止されていましたが、ソースコードを印刷した書籍を武器と見做す解釈はさすがに出来ないためです。



結局、1993 年にジマーマンは FBI の捜査対象となり、裁判所に召喚されます。

ジマーマンは反政府活動家として、堂々と戦い…1996 年に、ついに政府は訴えを取り下げます。


1999 年には「暗号は武器である」という規制も弱まり、PGP の輸出は基本的に合法となります。



この話には後日談もあるのですが…

気になる人は、「暗号化」を読んでみてね。




さて、戦いは終わった…のでしょうか?


2013 年、NSA が Google や Yahoo 、Microsoft などの「WEBメールサービス」の内容をほとんど盗聴していることが発覚し、問題となりました。



PGP は、通信文を暗号化するツールです。

メールで使用するには、暗号化してからメールにコピー&ペーストし、相手は暗号文をコピー&ペーストで解読しなくてはなりません。


しかし、これは面倒なので、多くのメールソフトが PGP の自動暗号化に対応しました。

PGP で暗号化、というオプションさえ選んでおけば、勝手に暗号化・解読してくれます。



ところが、WEB メールにはこうした機能が無いのです。

ほぼすべてのメールが、暗号化されずに流通していました。


「暗号化してはならない」という法律は無くなりましたが、ほぼすべての人が、WEB メールの便利さの前で、喜んで暗号化の権利を放棄したのです。



その後、Google は GMail を https 通信で利用できるように変更しました。

NSA の盗聴に対する「自衛策」の一環です。



この闘いはジマーマンがいち早く開始し、彼の名前が有名となっています。

しかし、まだまだ戦い続けている無名プログラマたちが多数いるのです。



▲目次へ ⇒この記事のURL

同じテーマの日記(最近の一覧)

コンピュータ

関連ページ

ジャングルウォーズ2 発売日(1993)【日記 19/03/19】

別年同日の日記

03年 おしゃれなイタリア料理店で

04年 出血に驚く

19年 クッキーづくり


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

改正風俗営業法の施行日(1985)  2015-02-13 11:41:19  今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

今日は、改正風俗営業法の施行日(1985)。


あまりコンピューターの話と関係なさそうに見えますが、この日以降、ゲームセンターはいろいろと法律の規制を受けることになりました。


それまでは、別に子供が入ったって構わなかったわけですよ。

まぁ、「ゲームセンターに行くと不良になる」とか言われた時代で、学校ではゲームセンターに行くことを禁じていたりするのですが、入ることに法律的な罰則はなかった。


でも、1985年の今日以降は、法的な縛りができたのです。


…今調べたら、法的には「夜10時以降は18歳未満が入ってはならない」なのね。

でも、少なくとも僕の住んでいた地域では、12歳未満は午後5時、15歳未満は午後7時に追い出されました。



世はファミコンブームの中。

ゲームセンターでは、ゼビウスのブームで類似ゲームが雨後の筍のように出ていた時期。


僕はゲームが好きだったのでゲームセンターにはよく行っていました。

小学生でお金が無いから、見ているだけで満足する(せざるを得ない)のだけどね。


でも、そのささやかな愉しみも禁止されたあの頃。




風俗営業、と言うと、性風俗を想像する人がいます。

ゲームセンターは風俗営業法の縛りがあるんだよ、と言っても、にわかに理解してくれない人がいます。


でも、上に書いた通り規制対象。

風俗、という言葉自体が勘違いされているように思いますが、これは世の中の流行性の事柄を示す言葉です。


接待をするような飲食店、やたら暗めの飲食店、ディスコやダンスホールなども規制対象。


そして、雀荘、パチンコ店など、景品などを賭けて遊戯を行う場合がある店は7号営業、景品などを賭けることは無いが、競争などを目的とした遊戯をさせる店は8号営業と分類されています。


ゲームは、コンピューターとの、または人との「勝負」です。

なのでゲームセンターは8号営業。




ちなみに、多少のゲーム性があっても、遊園地は風俗営業には含まれません。

遊園地によくあるのですが、射的などで景品がもらえたとしても、7号営業にはなりません。



風俗営業法の規制を受ける店は、深夜12時を超えて営業することは認められません。

(客を追い出すのに時間がかかった、等の理由で深夜1時までは許容)


しかし、ディズニーランドはニューイヤーパーティで夜通し営業したりします。

これも、遊園地は風俗営業ではないから。



テレビゲーム会社にとっては、「風俗営業」の枠にハメられ、商売が自由に出来なくなったのは痛手でした。

1985年以前は、「終電無くなっちゃったからゲームセンターで夜を明かす」なんて人もいたんですよ。


遊園地なら終夜営業も認められるのに、風俗店の枠に入れられたから夜明かし客をファミレスに取られちゃった。



風俗営業に入るならはいるで、パチンコみたいに景品を出すことを認めてもらえれば、まだ別の道もありました。

でも、8号営業では景品の供与も禁止です。


これから10年間、ゲーム業界はなんとか「8号営業を抜け出す」方法を模索することになります。




その1。

積極的に、縛りが厳しいが利益も大きいパチンコ業界に割り込む。


パチンコはギャンブルではありません。

少なくとも法的な建前上はそうなっています。


#WHOの調査報告では、これはギャンブルだと断定されており、街中に必ずギャンブル場がある日本は「ギャンブル依存者が多い」と警告されています。


しかし、現実問題としてパチンコは大きな金が動き、儲けの出る商売です。



今では多くのゲーム会社が、パチンコ業界に何らかの形でかかわっています。

昔と違ってパチンコが進化し、CPU 内蔵でディスプレイを備えたものになりました。


ここは、ゲーム業界のノウハウが活かせる部分です。


ただ、利権の多い業界なので、不文律も多いのですよね…


良く出る話題に「CPU が Z80 でないといけない」というものがあります。

これ、そんなことは無いです。別の CPU で作ってはならない、という根拠はどこにもない。


ただ、どの CPU で作ろうとも、パチンコ店の監督省庁である警視庁にソースコード一式を提出して、承認を貰う必要はあります。

当たりの出る確率がやたら偏っていたりすると、射幸心を過度にあおってしまい、「ギャンブル」となってしまうためです。


この際、残念ながら警察では次々登場する新しい技術に、常についていくことはできません。

新しい CPU で作っても構わないのですが、それらの CPU のプログラムを十分に理解し、確率部分まで含めて承認を出せるのがいつになるか、保証はできません。


それよりは Z80 で、できることなら以前のプログラムを少し修正した程度で、提出すればすぐに認可が下りるのです。


結果的に、Z80 で作らなくては認可されないのですが、他の CPU はダメ、ということではないのです。



#実際には、Z80 ではなく、警察に協力している外郭団体のエンジニアが堪能な、Z80 を少しカスタムした CPU が一番速く認可されるらしい。

 これも、警察の協力者に判るエンジニアが多いのだから仕方がないね。


 そして、この Z80 カスタムを製造しているのは国内に1社だけで、警察 OB が多く勤める会社らしい。

 これも、「警察の認可が行いやすいようにわかりやすい命令セットの CPU を作っている」のだから仕方がないね。


 うん、全部スムーズに事務手続きを進めるために、善意で行われていることなんだ。

 全部噂に聞いただけで、詳しいことは知らないけど。




その2。

遊園地と認めてもらう。


遊園地とゲームセンターの違いは何なのか、と突き詰めていくと、特に違いが無いことがわかります。


1回遊ぶごとに金を払う?

遊園地だって、そういう形態の方が多いです。

むしろ、パスポートを買って後は乗り放題、なんてディズニーランドスタイルの方が少数派。


入場料金を取られる?

これも、八景島シーパラダイスや横浜コスモワールドなどのように、入場料金不要の遊園地はあります。


ゲーム性・インタラクティブ性の違い?

テレビゲームはインタラクティブ性の高いものが多いのですが、必ずしもそういうものばかりではありません。

そして、遊園地にだって、ちょっとしたゲームと考えてよい程度のインタラクティブなものはあります。


どうも、こちらも警察とも相談したようです。


一部の遊園地に例外はありますが、基本的に「入場料を払うなどしないと中に入れない閉鎖空間」は遊園地だ、ということになったみたい。



で、ナムコのたまご帝国、ナンジャタウンとか、セガのジョイポリスとかが作られるわけです。

事実上巨大ゲームセンターでも、ある程度ここにしかない遊具があり、入場料が必要ならゲームセンターではない、という扱いです。


これなら、景品を出すのにも何も問題はありません。

深夜営業だってできます。


ただ、遊園地の経営は、ゲームセンターとは異質の物でした。

現実問題としてこれらの策は長続きせず、まだ続いてはいるけど規模縮小気味。


この話題、以前も書きました。

興味あったらそちらも参照してね。




その3。

8号営業のままで、「ギャンブル」を始めてしまう。

景品を持ち帰らせる、ということですね。


パチンコは、成功すれば何か持って帰れます。

ゲームは、どんなに成功しても何も持ち帰れません。


この違いで「ゲームは金の無駄」と考える人は確かに存在します。

楽しい時間を過ごすためにお金を払った、とは考えてくれない。


じゃぁ、ゲームでも何か持ち帰ってもらいましょう。


ゲームセンターに、やたら「占い機」が流行した時代がありました。

あれ、結果用紙をお持ち帰りいただくことで、お金を出すことに対する満足度を上げようという策でもありました。


遊べば必ず出てくるのですから、この程度は「ギャンブル」ではありません。



でも、お持ち帰りいただく、ってすごく重要。

プリクラだって、シールを持ち帰れるからあんなに流行したのです。



そして、ここに「ゲーム性」を組み合わせれば、当然ながら遊ぶ人によって持ち帰れる景品のグレードが異なることになります。


UFOキャッチャー以前から、お菓子などを取るクレーンゲーム機は存在していました。

でも、大抵は割に合わなかった。100円入れて遊んでも、50円程度取るのがやっとだったりね。


これも「楽しい時間を過ごしてもらう」ためのお金なので、景品が割に合わないのは当然、と考えれば、まだギャンブルではありません。


流れが変わったのはUFOキャッチャーでした。

この機械も、元々はお菓子などを入れる前提で開発されたそうです。


ただ、「割に合わない」感じを無くすために、少し大きめのお菓子を取れるよう、アームを大きくしていた。

…これが、大失敗。アームが大きいからお菓子などの箱が抜け落ちやすく、全然取れないのです。


そんな時、セガの重役が視察で中国を訪れます。

(当時から、人口の多い中国は次のターゲットとして有望でした)


そこでたまたま見たのは、ぬいぐるみ縫製工場に積み上げられた返品の山。

日本の下請けで作ったものの、日本人の品質管理は厳しく、返品率が高かったのです。


これを安く大量に仕入れ、試しにUFOキャッチャーに入れてみたところ大ヒット。

当時、ぬいぐるみはまだ高価なものでした。小さなものでも千円とか当たり前。


でも、実際には買いたたいてきた不良品なので、1個 50円とかなのです。

100円入れて遊んでもらって、最大でも取れるのは1個 50円。これはギャンブルではありません。


でも、人気が出たら専用のぬいぐるみを作る必要ができました。

最初は1個100円から。100円でゲームをやって景品が100円なら、まだギャンブルではありません。


しかし、人気が出て、ライバルも増えれば差別化も必要。


警察と相談し、どこまでがギャンブルでないか自主規制することで対処します。

最初は 300円から。


しかしやがて、100円程度の安いぬいぐるみと、500円位するぬいぐるみを混ぜて「平均300円」にすることで、射幸心をあおりながらもギャンブルではない、という、ねじれた状態になります。


じゃぁ、ねじれているよりも「500円までは認めましょう」と。

そして、やがて「800円までは良いでしょう」と…


現在、UFO キャッチャーの景品は 800円まで「黙認」されています。

あくまでも黙認ね。8号営業で景品を出してはならないので、実際は違法行為です。



ただ、そもそもゲームセンターを風俗営業の枠組みに入れたのが適正だったかどうか、という論議もあり、これを「違法だ」と言い出せば、「8号営業にしたこと自体が違法だ」とやり返される可能性もあるのです。


#先に書いた通り、遊園地と本質的に変わらないものだからです。

 遊園地は規制がなく、本質的に変わらないゲームセンターに規制がある、というのは法の下の平等に反します。


そして、もし8号営業にしたこと自体が違法、となれば、ゲームセンターは風俗営業の枠を外れ、景品を出すことが違法でなくなります。


…えーと、ややこしいね。

つまり、警察としては景品を違法だと言い出しづらい状態があるのです。


規制から外れて過剰な競争になるより、業界が自主規制で800円に抑えてくれているなら御の字です。


#時々、UFOキャッチャーの中に「あたり」とか書いたボール入れて、プレステとか貰えるようになっているのを見かけます。

 これ、ゲームセンターでやっていたら違法です、ってのはずっと昔に書いたことがあります。


 でも、ショッピングモールの一角に置かれた機械だと、ゲームセンターではないから規制の枠外れるのかな…

 実際、近所にあるのですけど (^^;




実は、「ゲームの結果データ」の持ち帰りすら、7号営業に当たるのと考えられた時期もあります。


SNK はネオジオで、ゲームのデータをセーブできるカードを作りました。

家で遊んだ結果をゲームセンターに持っていけるし、ゲームセンターのデータをまた持ち帰れる。


でも、あまり積極的に活用された節はありません。


同様に、セガもドリームキャストと NAOMI で、ビジュアルメモリを使ってデータの交換を出来るようにしていました。

これも、「家で練習した成果」を持ってくることは出来たのですが、ゲームセンターの結果を持ち帰ることはできませんでした。


いずれも、データをゲームの結果貰える「景品」と考えると、7号営業になってしまうためです。

ゲームセンターでは景品の提供は許されていませんでした。



今は、ネット技術が進んだために玉虫色に解決できています。


持ち帰るのは、「鍵」だけです。

これは、占いの結果用紙と同じ。遊んでもらった結果に関わらず発行しているだけで、景品ではありません。


データはサーバーに置いてあり、どこのゲームセンターからでも「鍵」によって引き出せます。

家庭用にもゲームが提供されている場合、家庭でも使えるかも知れません。


そして、ゲーム結果のデータを再度サーバーに預けることもできます。


この場合、景品となりそうな「データ」は、決して持ち帰ってはいないのですね。

サーバー…つまりは、店が預かっている。


メダルゲームで沢山メダルが出た時に、店に預かってもらうのと同じ理屈です。

ただ、ネットの進化で、このデータをどこからでも引き出せる、というのが違うだけ。


これなら8号営業のままでデータを提供できます。




…などなど。

改正風俗営業法の施行日だというので、風俗営業法にまつわる話を、思いつくままに書いてみました。


ゲーム好きな人でも、ゲームセンターが風俗営業法の枠に入れられていることを知らない人も結構いるし、その枠の中でこんな努力をしていることはもっと知られていない。

結構面白い話なんですけどね。


(なんにせよ、知恵を絞って状況を打開しようとする話と言うのは面白いものです)




もっとも、僕も今はゲーム業界現役ではないので、知識が古かったり勘違いしている部分もあるかもしれません。



追記 2015.2.23

大切なことを書くのを忘れていました。


上に書いたのはすべて、ゲーム機を作ったりする開発側の視点。


後日、8号営業の枠をはめられた現場であるゲームセンターの努力を書きました。



▲目次へ ⇒この記事のURL

関連ページ

タタコット【日記 16/04/12】

ゲームの条件【日記 15/03/25】

八景島シーパラダイス 開業日(1993)【日記 15/05/08】

別年同日の日記

03年 オロブロンコ

16年 BCPLについて、訂正

17年 ウイリアム・ショックレー 誕生日(1910)


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

ENIAC公開日(1946)  2015-02-14 16:58:50  コンピュータ 今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

今日は ENIAC の公開日(1946)。


ENIAC は、戦時中の軍事機密として作成が開始されました。

そのため、完成してから公開までに時間がかかっており、公開は入念なリハーサルが行われたうえで、行われました。


ENIAC が完成したのは1945年の秋でした。

完成の報を受け、陸軍では「ENIAC の能力を見るために」当時の科学者たちを悩ませていた問題を用意します。


当時、原爆よりも強力な「水素爆弾」が考案されていたのですが、その内部状態の計算が出来ていなかったのです。

科学者たちの考えた方式で思ったような成果が出せるのかどうか、これが ENIAC に与えられた最初の計算でした。


この、非常に複雑な数式が ENIAC にプログラムされます。


プログラムが完成し、科学者・陸軍関係者が ENIAC の視察に訪れたのが1945年の12月。

結果は「考案した方式では、想定した結果にならない」でした。


これにより、水素爆弾の設計は見直されます。

ENIAC が無ければ、そのまま計画が進み、水爆の完成は遅れていたでしょう。



この頃、同時に ENIAC の完成・公開式典が計画されていました。

水爆の内部状態シミュレーションは…結果がよければ式典に使用されたのでしょうが、使わないことになりました。




公開式典では弾道計算シミュレーションの実演が行われることになり、新たなプログラムが作成されます。

しかし、このプログラムがうまく動作せず、プログラマたちは頭を悩ませます。


ENIAC のプログラマは、6人の女性でした。


6人の女性は、非常に数学の成績が優秀で、戦時中に弾道計算を行うために集められていました。

最初は、微分解析機などを使って弾道計算をすることが仕事でした。


そして、彼女たちは、ENIAC のプログラムを作ることを命じられます。

しかし、ENIAC の動作を示す資料は一切なく、あるのは複雑な回路図と、エンジニアと自由に話せる機会だけでした。


この頃、まだ ENIAC は完成しておらず、実機で試すこともできません。

そんな状態から ENIAC の動作を理解し、与えられた数式をプログラムする方法を考えなくてはならなかったのです。



ENIAC は、多数の計算回路の集合体です。

個々の回路は、掛け算だけ、足し算だけ、引き算だけ…などを行うように作られています。


プログラムは、この回路間を「結線」することで行われます。

結線により計算手順を示し、場合によっては複数の結果のうち、条件に適合したものだけを次の計算に使ったりするのです。


数式を与えられたとき、その数式を表現するために、どのような結線を行えばよいか。

これは、非常に難しい問題でした。


「結線を変えられれば自由な計算を行えるはずだ」という設計は間違えていないのですが、それがどんなに複雑なことになるかまでは考慮されていなかったのです。



彼女たちは EANIC のプログラム方法を自分たちで見つけ出し、複雑な数式もプログラムできるようになっていました。

完成後最初の計算である、水爆の内部状態遷移も彼女たちがプログラムしたものです。



しかし、それよりも簡単なはずの「弾道計算」はうまく動きませんでした。

公開式典はすでに日付が決められており、それまでにプログラムを完成させなくてはなりません。



恐らくは、世界初のデスマーチ・プロジェクトです。

彼女たちはこの問題にかかりきりで、何日も昼も夜も、何が悪いのか考え続けました。


式典の数日前、プログラマの一人である、エリザベス・ホリバートンは真夜中に目を覚まします。

何が悪いか、夢の中でひらめいたのです。


条件によって ON にならなくてはならないスイッチが、特定条件下では OFF のままでした。

これが計算を台無しにしていたのです。



#この話、デスマーチ経験のあるプログラマなら思い当たるはず。

 頭を悩ませていると、夢の中にまでその問題が現れるものです。

 そして、夢の中では「あたりまえ」だと思っていたことが邪魔せず、解決方法がひらめくことがあります。




そして、完成式典は 1946年の今日、2月14日に行われました。


世紀の大発明を公開する式典は非常に豪華なもので、晩餐会つきでした。


晩餐会のメニューは、ロブスターのビスキュイ(クリームスープ)、フィレミニヨンステーキ、サーモンステーキなどを含む5品だったそうです。


基調演説は、科学アカデミー会長で、原爆開発のマンハッタン計画にも一役買った、フランク・ジュウェットでした。



この完成式典は「完成」を伝えるためだけのものでした。

しかし、その衝撃は世界中に伝わり、ソ連からも「一台売ってくれ」と注文が来たそうです。


#この注文は断られました。

 アメリカに敵対する国に軍事上優位な装置は渡せない…というわけでもなく、「ENIAC は量産品ではなく、1台しかない」ことが主な理由です。



ENIAC の開発資金を提供した陸軍に納入されたのは、その数か月後。

余りにも巨大なので壁に穴を空け、まとまった回路ごとに分割して運び出され、陸軍に納入されました。


ENIAC の本格的な稼働はその後。

最初の計算は、設計し直された水爆の内部状態計算でした。




ところで、この完成式典を挟んだ数か月…水爆の最初の設計が正しくない、と示した時から、陸軍に納入されるまでの期間が後に争点となります。


ENIAC の特許が申請されたのは、1947年の6月26日。


アメリカでは特許申請は「公に使用されてから1年以内」と決められていました。

申請は、公の使用とは陸軍への納入である、と考えて、期限に間に合うように行われています。


しかし、後に ENIAC の特許を無効にしようと別のコンピューター会社が起こした訴訟では、「公の使用は、最初の水爆計算の 1945年12月である」と判断されました。


つまり、ENIAC の特許は申請期限を半年も過ぎており、無効。



この裁判の中で、ABC マシンが「ENIAC に先行して作成されたコンピューターである」という主張が行われています。

(先行する類似発明があると、特許は無効となります)


ABC マシンは ENIAC とは明らかに違ううえ、完成していません。

そのため、裁判ではこの件は判断されておらず、ABC が世界最初のコンピューターだとは判断されていません。


しかし、ENIAC の特許が認められなかった = ABC が最初と認められた、と主張する書籍が後に作られ、ABC が世界初である、と誤解が広まっています。




最後に、バレンタインデーらしい話を…


ENIAC のプログラマ6名が、マニュアルもない状態でプログラムを作らなくてはならなかった、という話を途中で書きました。


彼女たちは、参考に、エンジニアと自由に話をする機会を与えられました。

恐らくは、仕事のために何度も何度も、エンジニアに質問をしたことでしょう。


そのうちに仲良くなるエンジニアがいるのは当然のことです。


全員がエンジニアと交際していました。

そして、結局3組のカップルが結婚しています。



▲目次へ ⇒この記事のURL

同じテーマの日記(最近の一覧)

コンピュータ

関連ページ

ハーバード・マーク1

2D-APT II 発表 (1959)【日記 19/02/25】

クリストファー・レイサム・ショールズ 命日(1890)【日記 15/02/17】

クリストファー・レイサム・ショールズ 命日(1890)【日記 15/02/17】

別年同日の日記

03年 コメット入手!

05年 冒険百連発!

16年 クリストファー・レイサム・ショールズの誕生日(1819)


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

クリストファー・レイサム・ショールズ 命日(1890)  2015-02-17 11:29:28  コンピュータ 今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

今日は、クリストファー・レイサム・ショールズの命日(1890)。


PCをお使いの方は手元をご覧ください。

その、QWERTY配列キーボードを考案した人です。


実は3日前のバレンタインデーが彼の誕生日(1819)だったのですが、ENIACの公開日、という大ネタもあったので命日の紹介となりました。




彼は新聞編集者で、多数の新聞の編集長を務めています。

同時に、郵便局長・税関・土木事業局理事などの公職も歴任。


恐らくは、とても事務仕事が多かったでしょうし、とても多忙だったでしょう。

そんな中で、ペンを使って手で書くよりも早い筆記具を研究し始めます。


当初はピアノの鍵盤のような形状だったようです。

それが改良されて現在のQWERTYになっていく過程に関しては、Wikipediaを読んだ方が、僕が書くよりずっとわかりやすそうです。




1882 年には現在とほぼ同じ配列のタイプライターが完成します。

この発明はレミントン社に持ち込まれ、商品化されます。


このレミントン社、吸収合併の歴史の繰り返しもあり、簡単には説明できません。

これもWikipediaを見てもらったほうが良さそう。



レミントン社は後にレミントン・ランドとなり、ENIAC を作成したエッカートモークリーを迎え入れ、UNIVAC I を作り出します。

世界初の商用コンピューターでした。


もちろん、このコンピューターはQWERTY配列のキーボードで操作することが可能でした。




さて、一足飛びにコンピューターの話に入る前に、タイプライターの進化をざっと書いておきましょう。


話はモールス信号の実用化まで遡ります。

当初は、通信士が通信文をモールスに変換して送信し、受信側の通信士が元の通信文に戻していました。


しかし、これでは訓練された人員が両側に必要です。

訓練なしに文字を送れるように、「文字」を直接送れるようにした「テレプリンタ」がすぐに開発されます。


ピアノ状のキーボードを使い、押したキーに対応した文字が相手側で印刷される、という仕組みでした。

タイプライターは、当初はこのキーボード配列を流用し、後には独自に使いやすいキーボードを考案して作成されたものです。



タイプライターの発明時点では、キーを押すことで直接活字が動き、紙に印字する機構になっていました。


紙に活字を叩きつける必要があるので、結構力がいります。

人差し指で押すキーと小指で押すキーでは、力が違うのでインクの濃淡があり読みづらい、等の問題もありました。



少しして、キーボードは単に「スイッチの集まり」になり、電気の力で活字を打ち付ける方式が登場します。

電動タイプライタです。


こうなると、キーボートと印刷機が目の前にある、というだけで、テレプリンターシステムと何ら変わりのないものになります。

実際、遠隔地と結ばれた電動タイプは「テレタイプ」と呼ばれ、すぐにテレプリンタを置き変え始めます。




電動タイプには、入力したキーを紙テープに記録できる機種が作られ始めます。

この紙テープを「再生」すると、先の入力と同じように印字ができます。


タイプライターでは、間にカーボン紙を挟んだ複数枚の紙を使って、同じ文章内容の「複写」を作ることができました。

とはいえ、複写するときには特に強くキーを押す必要がありましたし、せいぜい2~3枚を同時に作成するのがやっとでした。


#カーボン紙で作られるコピーを「カーボンコピー」、略して CC と呼びます。

 電子メールで同時に複数人数に送る際の CC: 欄はこの意味です。

 念のため書いておくと、当時はコピー機の開発以前です。


紙テープによる再生は、カーボン紙を使わずに、同じ文面のコピーを可能にしました。

これなら、何枚でも同じ文面の書類を作ることができます。



紙テープの利点はそれだけにとどまりません。


タイプライターで1ページの書類を入力していると、当然「入力ミス」も発生します。

そんな場合はホワイトで消して修正するか、そのページを最初から入力し直すしかありません。


しかし、紙テープなら「間違えたところをハサミで切り取り、糊で繋ぎ合わせる」という編集が可能なのです。

紙テープが多少ツギハギになったところで、大切な「書類」にはその跡は残りません。


これは、書類作成事務を大きく変える大発明でした。




コンピューターが登場するのは、この紙テープタイプの普及後です。

「現代的な意味で」最初のコンピューターである EDSAC では、すでにタイプライターが活用されています。


…と言っても、電動タイプライタの印字部分を出力に使用できた、というだけです。

キーボード部分は一切接続されておらず、入力機器としては使用できません。


EDSAC では電話のダイヤルが取り付けられていて、0~9の数字が入力できました。


電動タイプライタの印字部分だけとか、電話のダイヤル部分だけとか、寄せ集め感満載です。


EDSACは大学が研究のために作ったもので、それほど潤沢な予算があったわけではありません。

だから、使えそうな民生品を流用して作った、という、それだけの理由でしょう。



ところで、先にリンクした Wikipedia のQWERTY配列のページでは、EDSAC にテレタイプが接続されていて、QWERTY配列だったことが書かれています。


テレタイプがプリンタとして接続されていたのは、上に書かれている通り本当です。

しかし、キーボードは使用されていないので、QWERTYであることは無関係です。


#Wikipedia の記述は資料に基づいたものなので、資料に誤りがあるのかと思います


#僕が勘違いしていました。記事の最後(15行くらい後)に訂正の追記を行います。




UNIVAC I がQWERTYで操作できた、というのは先に書いた通りです。

もっとも、こちらも基本的には EDSAC と同じで、紙テープの作成用と印字用、というのが中心的な使われ方。


それでも、キーボード部分が入力インターフェイスとして使えるように、UNIVAC I に接続されていたようです。

UNIVAC I は商用の、事務などにも使用されたコンピューターなので、文字の扱いも重視されていたようです。

(これ以前のコンピューターは主に科学計算用でした)


UNIVAC I 以前のすべてのコンピューターを調べたわけではありませんが、おそらくは UNIVAC I 以前にはQWERTYキーボードで操作できたコンピューターは無いのではないかと思います。



クリストファー・レイサム・ショールズがQWERTY配列を考え、レミントン社が権利を買い取り、普及させた。

そして、レミントン・ランド社になって、自社製のキーボードをコンピューターにも接続した。


どうやら、現在QWERTYキーボードがコンピューターに接続されているのは、こういう理由のようです。




2015.2.25 追記

上記、「資料に誤りがあるかと」と書いたところ、資料の著者の方から意図の説明がありました。



僕がちゃんと読み解けていなかった部分もありましたので、お詫びの上訂正し、解説します。


Wikipedia を改めて確認したところ、「インターフェイスとして用いた」という記述のみで、接続されているとは書いていませんでした。


これを読んで「EDSAC では接続はされていなかったはずだけどな」と思ってしまったのが僕の勘違いです。

EDSAC では、キーボードは接続されてはいなかったが、インターフェイスとして利用はされていた、というのが事実です。


実のところ、EDSAC に「接続された」タイプライタと同種のタイプライタが、別の用途で利用されていたこと自体は知っていました。

当初はその話も書いていたのですが、それは「EDSACの話」であり、この日記のテーマである「QWERTY」から外れすぎると考えて削除していました。



以下に詳細を書きます。

(EDSAC の話に偏ってしまいますが、不正確な記事の訂正のためですのでご了承ください)



EDSAC の命令コードは、1文字で表されます。

現代的に言えば、アセンブラのニーモニックです。


ニーモニックですから、コンピューターが理解できるバイナリコードに変換(アセンブル)しなくてはなりません。

しかし、EDSAC ではこのバイナリコードとして、テレタイプで文字をタイプした際に紙テープに記録されるコードをそのまま採用していました。


また、テレタイプで数値を入力すると、それはそのまま2進数表現となる文字コードになっていました。

1桁のみの2進数なので、BCD表記となりますが、BCDから2進表現への変換は、イニシャルオーダー(紙テープを読み込むためのプログラム)で解消されました。


つまり、アセンブリ言語で書かれたプログラムをタイプライターで紙テープにパンチすると、EDSAC で実行可能なプログラムとなったのです。



「インターフェイス」という言葉をどのような意味に捉えるかにもよりますが、これはQWERTYキーボードをインターフェイスとして利用してはいます。


ただし、紙テープの穿孔機としての利用であり、コンピューターに働きかけることはできません。

現代で考えるようなキーボード利用の方法とは、かなり性質の異なるものです。



いずれにせよ、Wikipedia の記述がおかしい、というのは僕の早合点でしたので、お詫びしたうえで訂正します。


2018.6.18

上の追記の指摘をくださった先生が、キーボードの成立過程を解説したページを作っていました。

面白いのでリンクしておきます




▲目次へ ⇒この記事のURL

同じテーマの日記(最近の一覧)

コンピュータ

関連ページ

クリストファー・レイサム・ショールズの誕生日(1819)【日記 16/02/14】

1991年のパソコン事情【日記 16/03/05】

オーラ写真倶楽部【日記 17/10/10】

オーラ写真倶楽部【日記 17/10/10】

ST-V事業のテコ入れ【日記 18/04/26】

別年同日の日記

10年 Netwalker 環境設定

13年 メレンゲ

16年 トーマス・J・ワトソン 誕生日(1874)


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

あきよし】 補足ありがとうございます。ご本人からの解説で痛み入ります。
元文献を読まずに違うのではないかと書いたことは軽率でした。お詫びいたします。
一応紙テープのことは知っていたのですが、本文が長くなりすぎることを避けて書いていませんでした。
ただ、結果的に誤りを書いてしまったことになるので、本文修正いたします。
 (2015-02-25 09:14:54)

【安岡孝一】 『The Preparation of Programs for an Electronic Digital Computer』(Addison-Sesley 1951)を読む限りでは、EDSACにはCreed Model 47を改造したキーボードが繋がっていたようです。ただし、電気的にではなく、もちろん紙テープを介してですけどね。 (2015-02-23 21:09:53)

手相うらない ちょっとみせて 発表(1995)  2015-02-17 13:22:43  今日は何の日 業界記

▲目次へ ⇒この記事のURL

手相うらない ちょっとみせて 発表(1995)

さて、20年たちました

そろそろ書いても良いかな、と思います。



1995年の2月…日程は正確に覚えていないけど、カレンダーを調べると多分2月の17日と18日。

幕張でAOUエキスポが行われました。


AOUエクスポって、業務用ゲーム機の展示・商談会ね。

17日はビジネスデーで招待客のみ。18日は一般入場も可能で、ゲームファンが集まる日でした。


僕が会社員になって初めて作ったゲームが、一般に初お披露目する機会でした。



そのゲーム機が、「手相うらない ちょっとみせて」。

名前の通り占い機です。


ゲーム好きの人からは「なんだ、占いか」なんて言われそう。

でもこのゲーム、当時の占いゲームの常識を塗り替える大ヒットでした。


半年後くらいには、同じAOUでデビューした、同じ分野の機械が社会現象になるほどの大ヒットとなったため陰に隠れてしまいましたけどね。


#日記冒頭の写真は店舗向けの宣伝チラシ。

 クリックすると全体が見られます。




僕がプログラマーとしてセガ・エンタープライゼスに入社したのは、1994年の4月。


当時はセガは新人研修に時間をかけていて、1週間ほど店舗営業を経験し、2週間ほど工場での作業を経験し、それから部署に配属になりました。


僕の配属された部署は第1AM研究開発部。俗にいう「AM1研」ですね。



部署に配属されてからも、しばらくは新人研修、ってことで雑用をいろいろやります。

よくロケテストでお世話になる店舗を廻って、単に遊ぶ場所としてのゲームセンターではなく「客層の違い」を見たりとか、ゲームのアイディアを書いて提出したりとか。


さらに、プログラム課に配属されて、それぞれに「先輩社員」が付けられます。

最初はその先輩に教えてもらえ、ということ。


最初の仕事は、プログラムではなく仕事に使う道具作りだったように思います。


JAMMA ハーネス…ゲーム基板とゲーム筐体を接続するケーブルの作成。

開発の際には、開発用基板を机の上に置き、筐体は机の横に置きますから、「基盤が筐体に内蔵される」際の一般的なケーブルでは短すぎるのです。


今は新JAMMA ってやつがあるけど、この頃はまだ旧 JAMMA 規格ね。

56ピンのコネクタで筐体とゲーム基板を接続します。この56のピンの延長ケーブルを作るので、両側合計 100か所ほどの接点をハンダ付けしなくてはなりません。


こんな作業をしている間に、課長からはプログラムの簡単な課題も出されたりもします。

どうも、技量を推し量られたようで、配属プロジェクトが決まります。




で、僕が配属されたのが、先に書いた手相占いゲーム。

他の同期は、当時発売前だった ST-V のゲームなどに割り振られていました。


アクションゲームが好きで入社したので、占いへの配属は多少不満もありました。

使用ボードは、すでに旧式となりつつある System32 。こちらも、最新ボードを使ってみたい気持ちがありました。


しかし、「仕事なのだから何を割り振られても全力でやる」と最初に考えていたので、とにかく良いものを作ろう、と気持ちを切り替えます。



この割り振り、後で知ったのですが、僕が一番実力がある、と認められてのものだったようです。

大きなプロジェクトでは、新人は「雑用のデータ整理」などが主な仕事なのですが、占いはプログラマー二人だったため、雑用仕事もこなしつつ、プログラムをかなり書く必要がありました。


また、System32 はアセンブラで作成する必要があり、Cだけでなくアセンブラも使えた僕なら…と割り振られたようです。

この時は知らなかったけど、非常に名誉なことでした。




この時に一緒にプログラムを作ったA先輩は、面倒見が良くて気さくで、人の輪の中心になるような人でした。

後にA先輩が退社するまで、いろいろとお世話になることになります。


手相占いは、A先輩が主に占いロジックや、周辺機器との I/O などの「複雑な部分」を担当。

ユーザー入力や画面表示など、ゲームの見た目を占める大部分は僕に任されました。


これ、A先輩としては「複雑な部分は新人では荷が重かろう」と考えたようなのですが、ゲームらしい部分を多数任されたので、作っていて非常に楽しいものでした。



この話、結構長いので少しづつ区切って出します。

続きは後日



▲目次へ ⇒この記事のURL

同じテーマの日記(最近の一覧)

業界記

関連ページ

クリストファー・レイサム・ショールズの誕生日(1819)【日記 16/02/14】

1991年のパソコン事情【日記 16/03/05】

オーラ写真倶楽部【日記 17/10/10】

オーラ写真倶楽部【日記 17/10/10】

ST-V事業のテコ入れ【日記 18/04/26】

別年同日の日記

10年 Netwalker 環境設定

13年 メレンゲ

16年 トーマス・J・ワトソン 誕生日(1874)


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

安藤百福 誕生日(1910)  2015-03-05 10:04:12  料理 今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

今日は安藤百福さんの誕生日(1910)。


google doodle で知りました。

パソコン関係の人の誕生日とかはチェックしているのだけど、百福さんはノーチェックだったわ。


世界で初めてのインスタントラーメンを発明し、後にカップラーメンも発明した、日清食品の創業者ね。


僕は、人は一生に一度大ヒットだしたらすごい、と思っています。

大ヒットって、周囲の評価の問題ではなくて、その人が自分で自信をもって言えることがあればそれでいい。


その意味では、インスタントラーメンは超ド級の大ヒット。

その後にインスタントラーメン、インスタント食品と言う巨大市場を生み出してしまったのですから。


これだけでも十分凄い話なのに、その後にカップラーメンの開発をしている。

これがまた超ド級で、「料理」という概念を根底から覆してしまったし、ラーメンを食べる習慣のなかった世界中の人たちにまでラーメン文化を普及させた。



1つの大ヒットがあれば十分なのに、超ド級の大ヒットを2つも作りだした人は、ものすごい人だと思います。




基本パソコン関係の「今日は何の日」なのに百福さんを取り上げるのは、ハッカー(凄腕のプログラマ)にはインスタント食品の愛好家が多い、と信じているから。


夜中にプログラムしていて、ちょっと腹減ったからインスタント食品食べる、というのは基本かと思います。



あと、ハッカーなら自分で食事作れなくてはならないよ。

手順を整えて手際よく仕上げる、というのはプログラムと通づるものがある。


不慣れだから料理できない、という人は、まぁそれでもかまわない。


でも、よく料理しているにもかかわらずおいしいものが作れない、という人は信用しない。

そんな奴の作るプログラムは、食えない不味いものであるにきまっている、と思っている。


プログラムにも、料理にも関わらず、手際が悪い奴っていうのは何をやっても手際が悪いもんです。




さて、google doodle で百福さんだったからあわてて取り上げた、と思われるのも面白くないので、過去の日記を紹介して終わりにしよう。


上のような考え方を持っていたので、すでに「チキンラーメンの誕生日」(1958/8/25)は紹介しています。


あと、「今日は何の日」ではないのだけど、カップヌードルミュージアムに行った日の家族日記もある。


この二つの日記で、百福さん絡みの語りたいことはほぼ語りつくしているので、今日はこの程度でおしまい。



▲目次へ ⇒この記事のURL

同じテーマの日記(最近の一覧)

料理

関連ページ

ぷよぷよ通【日記 15/03/06】

別年同日の日記

06年 危機一髪?

16年 1988年のパソコン事情

16年 1991年のパソコン事情

17年 レイ・トムリンソン 命日 (2016)


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

ヴァネバー・ブッシュ 誕生日(1890)  2015-03-11 17:46:29  今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

今日はヴァネバー・ブッシュの誕生日(1890)



わー、忙しくて忘れてた。何も書く暇ない。


でも、この人は過去の日記で何度か紹介しているので、そちらへリンクしときます。


命日(6/30)


我々が考えるように(7/1)




オーレ・キアク・クリスチャンセンの命日(1958)でもあります。


LEGO ブロックで有名な、LEGO 社の創始者。

こちらも、過去の日記へリンクしておきます。


オーレ・キアク・クリスチャンセンの誕生日(4/7)


▲目次へ ⇒この記事のURL

関連ページ

コラムス 97 に影響を与えたもの【日記 16/12/24】

ロケテストとショー発表【日記 15/02/19】

モニ太とリモ子のヘッドオンチャンネル【日記 15/07/29】

別年同日の日記

13年 プリキュアとオムライス

16年 なんでもない日おめでとう!

16年 オーレ・キアク・クリスチャンセン 命日(1958)

19年 イグニス 6か月点検


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

WWW の提案日(1989)  2015-03-12 17:08:02  今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

今日は、WWW … World Wide Web の発明された日。


厳密に言えば、システムの概要を示し、提案された日ですね。


提案者はティム・バーナーズ・リー。




ティムは、コンピューター界のサラブレッドです。

コンピューターの黎明期に活躍した男女のコンピューター数学者の間に生まれ、子供のころから、まだ当時は珍しかったコンピューターに触れて育ちます。


そして、大人になってコンピューターのコンサルタント業を始めました。


1980年に CERN (欧州原子核研究機構)から「各国から研究者が集まり、使用するコンピューターも、ソフトも、各国の事情に合わせてバラバラな研究所の中で、情報を迅速に共有できる方法は無いものか」と相談を受けています。


しかし、これが難題。すぐには解決できません。

CERN とのコンサルタント契約はたった6か月だったのですが、その後もこの問題を考え続けます。


その後 1985 年にも CERN を訪れるのですが、この時もこの難問を解決できません。


そして、1989年、3度目の CERN 訪問の際に、ついに解決策を見出します。


時代が変わり、ネットワークの構築が簡単に出来るようになっていました。




ティムが考えたのは、3つの仕組み。


ルネサンス期の「3大発明」になぞらえて、ティム・バーナーズ・リーの3大発明、と呼ばれます。


1) Uniform Resource Locator


どこのパソコンの、どこのディレクトリに、どのような形式でアクセスすればデータを取得できるのかを、1行で書き記す方法。

URL と略されます。


この頃のインターネットでは、FTP や NetNews、Gopher など、いろいろな形式でデータが配布されていました。

さらに、それらの形式ごとに、データの位置を表す方法も異なっていました。


これらを統一する方法を考え出したのです。


2) Hyper-Text Transfer Protocol


URL でデータの位置を統一指定できるようになりましたが、それらは主に「ファイルをやり取りする」方法でした。


ティムは、ファイルを取得するのではなく、中身の情報を簡単に引き出して読むことができる通信形式を新たに考案しました。

HTTP と略されます。


新たに、といっても、当時すでに広く使われていた mail プロトコルを参考にして、すぐにでも作れる簡単な形式にしてあるところがミソです。


3) Hyper-Text Markup Language


中身の情報を引き出したとしても、その情報の形式が各国で違っていては混乱します。

そこで、統一的に文章の構造を記述できる方法を作りました。


HTML と略されます。


HTML は、一般に HTTP で配布され、その配布位置は URL によって示されます。

ただし、これらの3つは異なる概念であり、必ずしもセットで使わなくても構いません。


#HTML ファイルを zip で圧縮し、FTP で配布することだって可能です。



この3つの発明により、単純な「テキストファイル」ではなく、美しく整形された文章を配布することが可能になります。


さらに、この HTML の中には、他の文章の位置を URL によって記述し、リンクする形式が定められていました。

実のところ、このシステムの白眉はこの部分でした。




逆に考えてみましょう。


HTML だけがあって、配布形式が ftp 等だったらどうなるでしょう?


FTP は、必ず「ログイン」が必要です。

もし、URL で別の文章の位置を指定したとしても、リンクをたどるたびに「ログイン」を求められることになります。


なによりも、FTP はアクセスの度に「接続」に結構時間がかかります。


HTTP は、公開を前提としているのでログインは不要ですし、FTP よりもずっと早くアクセスできます。



もし、URL が無かったらどうなるでしょう?

それでも、HTML/HTTP 専用のシステムは作れたかもしれません。


しかし、先に書いたように、当時は多くのプロトコルでファイルの配布が行われていました。

それらの「過去の資産」に簡単にアクセスできることは、非常に重要でした。


普段は HTTP で高速に情報を引き出し、必要なら多少遅くとも、ログインが必要でも、FTP を同じ枠組みで使える。

これなら、不便はそれほどありません。



この3つの発明は、セットで発明されるだけの「必要性」があったのです。




提案に従って、最初の HTTP サーバーと WEB ブラウザ(クライアント)が作られたのは、1990 年のことでした。


詳しい歴史の流れは、ティムの誕生日に書いた記事に譲ります。




▲目次へ ⇒この記事のURL

関連ページ

男と女とLGBT【日記 14/10/31】

ダイナマイト刑事【日記 16/10/27】

コラムス 97 余談【日記 16/12/26】

オーラ占いの企画【日記 17/10/11】

引っ越し作業【日記 17/11/02】

別年同日の日記

12年 D/A とガジェット

13年 シフォンケーキ


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

ジョン・バッカスの命日(2007)  2015-03-17 09:34:05  コンピュータ 今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

今日は、ジョン・バッカスの命日(2007)。


虎は死んで皮を残す。人は死んで名を残す。

ジョン・バッカスは、FORTRAN と ALGOL と BNF を残しました。




FORTRAN は、世界最初のコンピューター言語。


これ以前にもアセンブリ言語はあるし、わずかながらアセンブラ(アセンブリ言語で書かれたプログラムを、機械語に変換するプログラム)もありました。


でも、アセンブラは必要に駆られて作られた「表記法」程度のもので、言語と呼ぶのはちょっと違う感じ。

人間にとっては無意味な「機械語」と、1対1対応だからね。



そんな時代に、バッカスは数学者が書いた数式を、ほぼそのまま計算できる言語を作り出しました。

それが FORTRAN でした。


人間にわかりやすいような…機械語でない言語でのプログラムなんて不可能だ、と明言する学者もいた時代。

プログラム言語が「可能」であることを示すには、ただそれを作ってみせればいいだけでした。


これは非常に難しいチャレンジでしたが、FORTRAN は成功しました。

ただ、この時は「実証する」ことが最大の目的で、使いやすさとかは考えてません。




もっと使いやすい言語ができるはず。

多数の計算機学者が集まり、「美しい言語」の設計が始まります。


バッカスも、当時唯一の「実際に動く言語を作成した経験者」として、この会議に加わっています。


そこで策定された言語が ALGOL で、文法構造は非常にシンプルになっていました。


この、シンプルな文法構造の表現に使われたのが、BNF 。バッカス・ナウア・フォーム(バッカス・ナウア記法)の略です。

ナウアは、バッカスと共にこの記法の策定にかかわった人物。



BNF は非常にシンプルで強力なため、今でもいたるところで使われています。

特に、インターネットのプロトコルなどは BNF で書かれるため、現代プログラマの必須知識。




現代の言語の多くが、BNF で記述できることを前提に設計されています。

その意味では、どの言語も ALGOL の子孫。


中にはそうではない変態言語もありますが…

perl なんて、単純に BNF で記述できない言語のひとつ。


でも、BNF で書けない、というのが悪いことではない。

BNF で書くと、厳密で強固な言語となる一方、回りくどい書き方をしなくては記述できないことがあります。


perl は、その回りくどさを無くすために、あえて BNF で記述できない文法を採用している。

だから、ややこしい処理を非常に簡潔に書くことができます。


80年代の BASIC なんかも、BNF で書けませんでした。

BNF で書かれた言語って、プログラマから見ると美しい一方、あまり初心者向けではないように思います。




…と、ここでは、ざっくりした説明にとどめておきます。

バッカスについては、過去に書いた記事に詳しいので。


もっと知りたい方は、是非以下の記事も読んでみてください。


ジョン・バッカスの誕生日(1924/12/3)

「計算機言語」が生まれた日(1956/10/15)



▲目次へ ⇒この記事のURL

同じテーマの日記(最近の一覧)

コンピュータ

別年同日の日記

04年 誕生日?

08年 いろいろ書く

08年 下の子入院

11年 自宅待機

11年 「輪番」停電について

12年 windows8

17年 長男卒業式


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

スティーブ・ファーバー 誕生日(1953)  2015-03-21 11:00:58  コンピュータ 今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

今日はスティーブ・ファーバー(Steve Furber)の誕生日(1953)。


最初に書いときます。僕、彼の業績ちゃんと認識していません (^^;

「今日は何の日」として調べてみたら出てきた、というのも紹介の理由ですが、彼が何をやったか知ったら、これは業績を理解していなくても紹介すべきだ、と思ったのです。


イギリスのコンピューター学者。BBC Micro と ARM CPU を設計しました。




まず「イギリスの」から解説。


コンピューターの歴史は、多くのマシンに彩られています。

世界初の電子計算機とされる ENIAC 、ノイマン型を最初に提唱したとされる EDVAC 、世界初の(成功した)商用コンピューター UNIVAC-I 、世界初の普及機種であった PDP シリーズ、世界でベストセラーとなった IBM 、世界初のスーパーコンピューター CRAY-I 、世界初の 1chipコンピューター Intel 4004、世界初のパソコン Altair 8800 、本格的な PC 時代をもたらした Apple II 、GUI の元となった Alto


などなど。

これらすべて、アメリカの機械。まるで、アメリカがコンピューターを作ってきたかのようです。



でも、イギリスもコンピューターの発展に大きく寄与しています。


最初に、「計算する機械」を夢想したチャールズ・バベジはイギリス人。

現代的コンピューターの基礎理論である「チューリング機械」を提唱したアラン・チューリングは、イギリス人。


チューリングの理論をもとに、ENIAC 以前にコロッサスと呼ばれる電子計算機が、イギリスで作成されています。


コロッサスは軍事機密であったため後まで存在が公表されず、ENIAC が世界初、とされました。

ちなみに、コロッサスも ENIAC も、現代的な定義ではコンピューターではありません。


現代的な定義での最初のコンピューター、とされる試作機 Baby Mark-1 は、イギリスのマンチェスター大学で作られ、これを元に「マンチェスターマーク1」が作成されます。

マンチェスターマーク1は、コンピューターのプログラム上非常に重要な機能である、「インデックスレジスタ」を導入した最初の機械です。


さらに、EDVAC の思想を元に、先に完成した「世界初のノイマン型マシン」である EDSAC はイギリスで作られています。



このように、コンピューター黎明期ではイギリスは非常に重要な役割を果たしているのですが、「実用」で出遅れてアメリカに押されてしまった感があります。今ではどうも影が薄い。


それでも、8bit PC の黎明期にはまだイギリス独自の機械を作っていたりします。


そんな会社の一つが、 Acorn 社でした。ちなみに、Acorn てドングリのことね。


IBM PC の開発名も Acorn でしたが、共に「corn」を com (コンピューター)の意味で、A を最初に来る・優れたものの意味で、さらに Apple よりも(アルファベット順で)前に出る、などの意味でつけているらしい。



2015.4.13 追記

Acron って、単に「ドングリ」というだけでなく、オークなど、勇気や威厳、知性の象徴とされる樹木の実を意味するものでもあるそうです。

ヨーロッパでは、特に北欧を中心として樹木信仰があり、その実は翻訳すれば「ドングリ」ではあるのですが、実際に感じるイメージは、日本人とはずいぶん違う、とのこと。


なるほど、この名前が人気がある理由がわかりました。




イギリスの 8bit マシンと言うと、シンクレア・リサーチ社の ZX スペクトラムとか有名です。

このシンクレア・リサーチ社の創業者(出資者ではない)が後に作った別の会社が、Acorn コンピューターです。


同じ創業者で、同じ分野の企業。ライバルで争っていました。

今日が誕生日の、スティーブ・ファーバーは、この Acorn に在籍する技術者でした。



ある時、イギリスの国営放送局 BBC が、小さなコンピューターが世界を変える、というドキュメンタリー番組を制作します。

これがイギリスで世論を動かし、政府議会でも話題となり、コンピューター教育に力を入れることになります。



国としての事業ですから、特定の団体に利益が誘導されるようなことがあってはいけません。

しかし、教育現場でコンピューターを扱うのですから、学校ごとに非互換も困ります。


シンクレアも Acorn も、このプロジェクト用のマシンとして自社の機械を売り込んだようです。

ここで、ファーバーが Acorn で開発中だった 6502 ベースの廉価機が選定され、BBC Micro という名称で発売されます(1981/12/1発売 £235~)。


BBC お墨付きのマシンですから、爆発的に売れました。

これを買わなくてはならない、という決まりはなかったのですが、ほとんどの学校が、コンピューター導入に際して BBC Micro を選んだそうです。


#BBC は国営放送ですから、これが「私企業の商売を国が妨害した」ことになり、後まで問題になったようです。




Acorn は、後に Acorn Electron という機種を発売します。

BBC Micro と互換で、さらに廉価にした機種でした、この機種も含め、イギリス国内では大きなシェアを持っていました。


Acorn では、設計時点ですでに 6502 は時代遅れで、速度が遅いことを認識していました。

しかし、廉価機種を作るには一番良い CPU でした。


そのため、BBC Micro には「CPU を追加してバージョンアップできる」設計を持たせていました。

後からデュアル CPU に出来るのです。その際には、6502 は入出力だけを担当し、追加したメイン CPU と協調して動く設計でした。


ところが、実際に強力な CPU を搭載しようとしたところ、想定していたような「都合のよい」CPU が見つかりません。

大きなシェアを持つ BBC Micro を、そのまま強力にすることはビジネス上必要な事でした。



無いなら作ってしまおう…ファーバーを中心として、新たな CPU の作成が始まります。

設計が簡単で速度の出る、RISC CPU となりました。


この設計が非常に面白い。




CPU が命令を実行するとき、いろいろな処理が行われています。


まず、メモリから命令を取得します。

次に、命令がデータを必要とするか調べます。

データが必要なら、そのデータをメモリから取ってきたりします。


必要なものが全部そろったら、命令を実行します。

実行結果は、またメモリに書き戻されます。


昔の CPU では、命令ごとにこれらの動作を全て行い、それから次の命令を実行していました。

そのため、1つの命令の実行に、複数の「クロック」が必要となります。


#クロックは、電子回路の動作を行うための時間単位。1クロックで1つの動作を行う。



1つの動作ごとに、別々の回路が動きます。

じゃぁ、命令の実行を待たないで、同時に複数の回路を動かせばいいじゃん。


この仕組みを「パイプライン」と呼びます。

1つの「命令」に注目すると、やっぱ複数クロックで実行されている。

でも、1つの「クロック」で何が出来るかを見ると、毎クロックごとに命令の実行が行われている。


現在の CPU では、この仕組みによって「1クロック1命令実行」を実現しています。

非常に高速に動ける。




でも、実はパイプラインには落とし穴があります。

パイプラインでは、「次のアドレス」の命令が順次実行されるはず、と考えて命令を取り込んでいきます。


ところが、プログラムの中には、非常に条件分岐が多いのです。


分岐すると、取り込んでいた命令は「無駄」となります。

せっかく読み込んだものは捨て、新たに読み込みから始めます。読み込んだ命令が「実行」に至るまでは数クロックかかります。


この間、1クロック1命令実行、ではなくなるのです。

普通のプログラムは非常に分岐が多いので、かなり処理速度が落ちます。



取り込んでしまった命令は、ジャンプしても実行する「遅延実行」という手法もあります。(SH など)


遅延実行の場合、分岐の後の数命令(すでにパイプラインに取り込まれた命令)は、分岐の有無にかかわらず実行されます。

ただ、実際には条件分岐の判断有無にかかわらず出来ること、ってあまりなくて「何もしない」命令が詰め込まれるのがオチ。


分岐が予測されるなら、過去の実績からどちらに進みやすいか、確率的に判断して「はずれ」を引くことを減らそう、という手法もあります。

これ、少しでも被害を減らすという考えであって、被害は必ず出る。

その上、予測精度を上げようとすればするほど、回路は複雑になる。


当時の Acorn は、CPU 設計の専門家集団ではありません。

そんな複雑な回路を作ることはできない。



そこでファーバーが考えたのが、「全命令に条件判断を付ける」でした。


どんな命令であっても、フラグの状態によって「実行」するかどうかを変えられます。

条件によって「分岐しない」だけでなく、「足し算しない」「メモリに書き込まない」などなど。なんでも条件を付けられる。


プログラム中、条件分岐は非常に多いのですが、それは「変数の値が限界を超えたらリセット」とか、「キーが押されたら1足す」とか、非常に小さなものです。

じゃぁ、分岐させるまでもなく、命令をスキップさせてしまえばよい。これで、条件分岐の大半を無くすことができます。


これで、パイプラインが無駄になる、という被害を無くすことができます。


非常にユニークな問題回避方法でした。


6502 は、非常にシンプルな命令でありながら、組み合わせ次第で強力なプログラムが組めるようになっていました。

Acorn が作った CPU も、同じように「シンプルな命令を組み合わせる」仕組みになっていました。


Acorn RISC Machine…この CPU は、 ARM と名付けられます。




Acorn はこの後業績が悪化し、オリベッティ(これもユニークなコンピューターを作っていたイタリア企業)に買収されます。


この後、CPU 作成部門だけを別会社化し、ARM CPU として発売されます。

Apple の Newton メッセージパッドで採用され、3DO の CPU にも使用されます。


でも、この頃はまだ「廉価な割に性能がいい」程度の位置づけだったと思います。

廉価の割に、というのがミソで、実際にはそれほど性能は良くありません。



ARM は、CPU 設計専業の会社となりました。

設計だけを行い、製造は別の会社に任せます。場合によっては更なる改良を許可します。


これにより、DEC や Intel の改良が入り、性能が上がりました。


SH-2 の台頭の際には、それまでの「32bit アーキテクチャ」に加え、16bit 命令を拡充しました。

これにより、プログラムが小さくないと使えない組込み分野にも強くなります。


16bit 命令は、Thumb と名付けられています。ARM(腕)に対して Thumb (親指)。

イギリス童話の「親指トム」など、Thumb には「小さい」という意味があります。名付け方が非常にうまい。


その後、さらにパワフルな 64bit 命令などの拡張もあります。



ARM は、現在では、数多くのスマートフォン、タブレット端末、その他の機器で利用されています。


iOS と Android の戦い、が注目されがちですが、CPU はどちらも ARM です。

スマホ対任天堂 3DS 、みたいな構図も言われますが、CPU はどちらも ARM です。


サーバー分野でも、クラウドコンピューティングなど「性能が低めでも多くのCPUを用意する」ことが重要な分野で、ARM が積極的に使われています。


Intel は、もはや「PC だけ」に押し込められた状況。

Windows も RT で ARM に対応しましたが、どうも人気が出ずに ARM に移行しきれない様子。


#と言いつつ、マイクロソフトは最近は常に ARM 向け Windows を意識した行動に出ています。

 昔は PowerPC 向けで頑張ってたよねー。




さて、話が長くなりました。


イギリスで教育用に普及したコンピューター BBC Micro と、現在世界中で数多く使われる ARM 。

この両方の設計の中心だったのが、今日誕生日のスティーブ・ファーバーです。


他にも業績多数、なのですが、最初に書いた通りちゃんと認識していません (^^;

それでも、上に書いた2点だけで紹介するには十分すぎる、と思っています。



先日、BBC が新たな機械 BBC Micro Bit を 100万台、イギリス国内の子供に無償配布することを決定しました。


名前からわかるように、BBC Micro を意識したもの。

以前の失敗(私企業の妨害と言われた件)を繰り返さないように、配布は一度きり、と決めているのだそうです。


もちろん、CPU は ARM です。

BBC Micro は、CPU はアメリカ製でしたが、今度は CPU までイギリス由来。



最初に書いた通り、コンピューターの歴史の中で、イギリスは重要な役割を担って来ました。

しかし、今は影が薄い。


イギリスは復権できるでしょうか?


▲目次へ ⇒この記事のURL

同じテーマの日記(最近の一覧)

コンピュータ

関連ページ

ビル・メンズチの誕生日(1945)【日記 15/02/09】

別年同日の日記

06年 花が咲いた

11年 停電の記憶

14年 インフルエンザ

14年 iOS の hoverバグ回避方法


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

X68000発売日(1987)  2015-03-28 11:33:57  コンピュータ 今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

ちょうど、ぎーちさんとの対談話X68k の話題を書いたところだったけど、今日は X68k の発売日でした。


これはもう、熱い思いを18年前に書いている


でも、18年も経つと、その後の思いも多少はあります。

ちょっと書かせてもらいましょう。




定価は 36万9千円だったそうです。

正確な数字がすぐに見つかる。18年前に書いたときはそこまで調べなかった。



当時のパソコンは、だんだん性能が上がってきていて、ビジネス用の PC98 で一式40万円くらいだったかな。

ホビー用の PC88 だと、一式 30万円くらいでした。


…これだけ聞くと、X68k は案外高くないように思えますね。

PC88 と違って 16bit 機だし、同じ 16bit の PC98 より少し安い。


でも、X68k は「一式」じゃなくて、本体価格だからね。


X68k は、テレビ事業部が作ったもので、「テレビの可能性を広げるパソコン」という思想がありました。


だから、専用ディスプレイはテレビとしても使える。チューナーが付いているんです。

テレビの画面にパソコンの画面を重ねることもできる。これ、パソコン側ではなく、専用テレビ側で制御していました。


せっかく画面を重ねられるのだから、ビデオに録画できるように、テレビに「出力」機能が付いている。


さらに、パソコン側からテレビのチャンネルを変えたり、音量を変えたりできる。

本体の電源を切っている時でも、キーボードでテレビを操作できました。



技術的なことを言えば、テレビは 15KHz の映像周波数で表示を行っていて、当時の一般的なパソコンは 24KHz の映像周波数を使っていました。

X68k は、他のパソコンより画面が細かかったので、31KHz を使っています。


専用ディスプレイは、この3種類の信号入力を適切に見分け、自動的に表示を変えるように作られていました。



なんだかすごいね。

この、専用テレビがめちゃくちゃ高い。


パソコン専用ディスプレイって、細かな文字を表示しないといけない都合もあって、一般にテレビより高いのね。


それが、X68k 専用だとディスプレイだけで 12万9800円。

パソコンの機能の一部を、ディスプレイ側に入れ込んじゃってあるからね。


合計で50万円弱。1987年だから、消費税導入前ですね。




「5年間は設計を変えない」と言った、ということにされていることが多いのですけど、ちょっと違うと読んだことがあります。


当時としては、ものすごい性能の機械だった。

発表会見に集まった記者たちが驚き、こんな高性能にして採算に合うのか、と聞いた。


それに対して「5年先を見越して設計しています」と答えた。

ただそれだけ。


今はすごい機能に見えるものでも、5年後には普通になるだろう。

だから、それを見越していろんな機能を入れてある、というだけで「設計を変えない」とは言っていない。


でも、「設計を変えない」と雑誌などに書かれ、ユーザーがそれを信じるようになった。


性能が高いマシンを発売したら、ユーザーに対する裏切り行為になってしまう。

進化の激しいパソコン業界で、5年間性能を変えるわけにはいかなくなった。



これで、X68k は「性能の低い機械」となって、パソコン業界の中で取り残されていきます。

やっと5年が過ぎて、性能を上げた機械を出しても手遅れ。




まぁ、設計を変えられたのか、というと難しかったとも思います。

5年目のマシンも、ただ CPU を高速化しただけだったし、その高速化も周辺が遅いからあまり活かされなかった。


設計が美しすぎた、というのが X68k の弱点だったと思います。


全てが一体となって設計され、一分の隙も無かった。

だからこそ、後から改良を入れる余裕もなかった。設計した時点が「最高」で、その後の展開がなかったんです。


IBM-PC なんて、最初から設計が汚かった。つぎはぎだらけだった。

その代り、ツギハギ部分を叩き切って、別の機能に挿げ替えることも簡単だった。


結果として、時代に合わせて変わりつづけられました。




実は、「美しいものははかない」って、このページの開設当初からの隠しテーマなんだよね。

今は使われない昔の機種・機械を紹介しているけど、やっぱ紹介する機械は、僕なりの「審美眼」で選んだものだけになっている。


でも、その「美しいもの」はもう使われていないのです。

大抵は、設計が美しすぎて改造できず、時代に取り残されたものなのね。



僕は、大学生の頃までは「美しいことは正義」だと思っていた。

でも、そうじゃない。時代を超えるには清濁併せ持たねばならないのだ、と教えてくれた機械が X68k でした。


▲目次へ ⇒この記事のURL

同じテーマの日記(最近の一覧)

コンピュータ

関連ページ

X68000 発売日 (1987)【日記 17/03/28】

ベーマガの影響【日記 15/04/03】

ベーマガの影響【日記 15/04/03】

別年同日の日記

02年 3/28

03年 布団

04年 花見

11年 何がデマで、何がデマでないのか。

17年 X68000 発売日 (1987)


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

ビッグエンディアンとリトルエンディアン(1980)  2015-04-01 11:14:14  コンピュータ 今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

今日は何の日、なのになんだかよくわからないタイトルになっています。


長いから短くしたのだけど、今日は


「ビッグエンディアンとリトルエンディアン、という言葉が、コンピューターのデータ格納順の意味で初めて使われた日」


です。




毎年、4月1日には「ジョークRFC」と呼ばれるものが発行されています。

RFCっていうのは、インターネット技術の標準を決める文章…ってよく言われるし、実際そうなのだけど、もともとは Request For Comment の意味。


「なんか意見ある?」ってだけで、標準を定めるとか、難しい意味は無い。

ただ、技術提案がだんだん「リファレンス」の意味を持ってきて、今では標準としての権威を持つようになっただけ。


権威を持っているので、文章の発行には(いまでは)ややこしい手順を踏む必要があります。


そして、その手順をちゃんと踏んだうえで、一見技術文章に見えるような手の込んだ「ジョーク」を作り上げるのがジョークRFC。

出来の悪いものも多いのですが、出来が良いものはちゃんと技術文章になっているし、技術者じゃないと意味がわからないし、それでいて笑い出すほどバカバカしい。


まぁ、技術者の遊び心を競うイベント、とでも言いましょうか。

技術者ってまじめすぎる人が多くて、ギャグの解説書いちゃったりして興ざめの物もありますが。




インターネットは「小さなネットワークを結びつける技術」として生まれました。

上にRFCを「インターネット技術の標準」と書きましたが、もともとはRFCは「ARPANETの」標準を定めるものでした。小さなネットワークの中の標準に過ぎなかった。


ネット同士を接続する際の技術文章としては、IEN(internet experiment note)というものが別途発行されていたのですが、現在ではIENに書いていたような内容もRFCで発行するような形に統合されています。


IENで話し合う内容は、ネットワークの基礎が違う場合に何が起こるか、コンピューターの互換性が無いと何が起こるか、それらの問題を解決するにはどうすればよいか…というようなものでした。


さて、話が長くなりましたが、1980年の4月1日、IEN 番号 137 の技術文書が発行されます。

タイトルと書き出しは以下のようなものです。


 ON HOLY WARS AND A PLEA FOR PEACE

 This is an attempt to stop a war. I hope it is not too late and that somehow, magically perhaps, peace will prevail again.



訳せばこんな感じ



 聖戦における、平和の嘆願書

 これは、戦争終結への試みです。この試みが手遅れではなく、願わくば平和が戻りますように。



一体何の技術文書なんだ?

と思われるかもしれません。


この嘆願書に書かれている内容は、「ガリバー旅行記」に書かれている、リリパット国(小人国)と、その隣のブレフスキュ国の戦争を止めようというものです。




ガリバー旅行記は有名なお話ですが、確認のためにあらすじを紹介しましょう。


英国の船乗りであったガリバーは、船が難破して不思議な国に漂着します。

その国の住人は全て小人で、ガリバーが気づくと囚われの身でした。


しかし、小人が縄でガリバーを縛ろうとも、ちょっと力を入れれば簡単に縄が切れます。

ガリバーが小人に危害を加えるつもりが無いと伝えると、国王に歓待されます。


小人の国では、隣の国(こちらも小人の国)と戦争をしていました。

ガリバーは、隣の国の船が沖に停泊しているところまで歩いて行って、全部縛って捕虜にし、引っ張ってきました。


これで戦争が終わり平和になるかと思えば、国王は「ガリバーの力」を手に入れたことに気が大きくなり、次々他の国に戦争を仕掛けようとします。

その方法に反論するガリバーは、ついに命を狙われ、小人国を脱出します。



さて、問題は、小人国と隣国が戦争していた原因です。


もともと、小人国では半熟卵を食べるときは、卵の大きなとがった端から殻を剥いて食べる習慣がありました。

しかし、2代前の王様が子供の頃に、卵の殻を剥いていて、指を切ってしまったのです。


その父である3代前の王様が、これは卵の大きい端から剥いたために起きた悲劇であると考え、卵は小さな端から剥かなくてはならない、という命令を出します。


これに、一部市民が反発しました。卵を大きい端から剥くのは、祖先から受け継いだ大事な習慣である。

卵を小さな端から剥くくらいなら、死んだ方がましだと。


彼らは、レジスタンス活動を開始します。

国王軍に何度も戦闘を仕掛け、双方に多くの犠牲者が出ます。


一部の者は亡命し、隣国がこれを支援します。そして、2国間の戦争が始まりました。


この戦争は、卵を小さい端から剥くか、大きい端から剥くか、2者択一の主義を巡る戦争です。

「中庸」ということはありえず、長く続くことになります。



ところで、小さい端は英語で Little-end 、大きい端は Big-end です。

2語を合成して作った造語ですが、これ以上小さな意味に分けると意味が変わってしまうため、分解してはなりません。


これを主義主張とするものは、 Little-endian と Big-endian です。

これも、「リトルエンディアン」「ビッグエンディアン」で一語で、分解して「エンディアン」などと言ってはなりません。




さて、いよいよ話が混とんとしてきました。

ガリバー旅行記の中に出てくる戦争に、なんで技術文章で「平和のための嘆願書」が出されなくてはならないのか。


IEN 137 では、ちゃんと技術的な話が行われています。


元々、コンピューターは情報の最小単位である「bit」を寄せ集め、「word」として扱います。

コンピューターごとに、何bit が 1word となるかはバラバラでした。


また、word とは別に byte という単位もあります。通常は、word はコンピューターの扱いやすい単位で、byte はそれよりも小さく、文字を扱いやすい単位です。

byte も、6bit 、7bit 、8bit などコンピューターにより異なります。


しかし、1980年ごろには、8bit が byte で、1word が 16bit 、というような構成が一般的になりつつありました。

混乱していた情報の単位は統一されつつあったのです。


ところが、ここに新たな混乱が生じていました。


16bit の 1word を、byte 単位で情報を記録できる「半導体メモリ」にアクセスする際に、どのようにアクセスするかが機種ごとに違ったのです。


16進数4桁(16bit)で、 1234 という数値があったとしましょう。

これを、8bit 2つにわけると、 12 と 34 に分かれます。


12 は、1234 という数字の時には「上の桁」でした。これを、上位の桁と呼ぶことにします。34は下位の桁です。


そして、この 12 と 34 を記録するのですが、どちらを「下位アドレスのメモリ」に記録するかが、メーカーにより異なります。




さて、次の話をする前に、ちょっと取り決めをしておきましょう。


コンピューターでは、プログラムをメモリに納めています。

そして、いまプログラムのどこを実行しているかを、「プログラムカウンタ」というレジスタ(変数)で記憶しています。


プログラムカウンタ(以下PC)は、プログラムデータの読み取りを行った後、値を1増加します。

つまり、次の命令を読む準備をするのですが、ここで「1増加」なことに注意してください。


メモリアドレスが小さいほう(下位アドレス)が先に読まれ、大きい方は後で読まれることになるのです。



今読んでいる文章は、横書きで、左から右に読むようになっています。

そこで、横に並べて数値を書くときは、左側が先に読まれる「下位アドレス」、右側が「上位アドレス」ということにします。




用語が混乱しないように、再確認


「上位の桁」と「下位の桁」…これは、1234 という数字を別けた時の位置関係です。12 が上位。

「上位アドレス」と「下位アドレス」…これは、メモリの並び順です。下位が先に読まれる。



では、16bit の数値 1234 を、8bit づつ 2byte に区切って書きます。


12 34


あぁ、真ん中で切っただけね。なんか普通に見えます。

下位アドレスに上位の桁を置いて、上位アドレスに下位の桁を置いています。


…あれ、言葉で説明するとなんか不自然に感じる。


もう一つ書きます。


34 12


なんか、逆転していて不自然に見える。


でも、下位アドレスに下位の桁を置いて、上位アドレスに上位の桁を置いています。

説明だけみると、非常に自然。


どちらも、それなりの根拠があってやっているのですが、全く正反対の結果となっています。

そして、この主張には「中庸」という落としどころはありません。




IEN 137では、上の形式…下位アドレスに、上位の桁を入れる方法は、Big-endian と呼んでいます。

メモリからデータを「取り込む」、つまりは「食う」のが、大きな端(上位)が先になるからね。


下の形式は、逆なので Little-endian です。


…やっと、混乱していた話がまとまりました。



コンピューターの値の格納には2つの形式があるけど、これは小人の国の戦争のようなもの。

中庸の意見などなく、どちらが正しいわけでもない。


でも、IEN は「インターネット接続のための」技術文章です。

戦争を終わらせるために、お互いを理解する努力を…データの並び順に常に注意を払い、相互接続できるようにしようではありませんか、という趣旨のものです。


そういう意味では、4月1日に発行されているけど、「ジョーク」ではない。

ちゃんと重要な提案を行っているのです。


まぁ、ガリバー旅行記の戦争になぞらえたのは、エイプリルフールネタを意識していたと思いますけどね。



これ以前、こうしたデータ並び順は「バイトオーダー」と呼ばれていました。


でも、これ以降、バイトオーダーを示す用語として「ビッグエンディアン」「リトルエンディアン」が使われるようになり、さらに現在は「エンディアン」がバイトオーダーの意味で使われています。


先に書いたとおり、「ビッグエンディアン」「リトルエンディアン」でそれぞれ1語で、「エンディアン」だけにすると意味を持たないはずなのだけど、現在では当たり前に「エンディアン」という言い回しが使われている。


#日本では、ではなく、英語圏でもそうなっています。


まぁ、言葉は時代と共に変わる物なので、この事に問題はありません。

大切なのは、こうした違いがあることを認識し、データが読めない、というような問題を回避するための努力です。


ほんと、ファイルシステムがエンディアンの影響受けるとか、シャレにならないからね…



▲目次へ ⇒この記事のURL

同じテーマの日記(最近の一覧)

コンピュータ

関連ページ

Landiskと格闘中【日記 15/01/31】

別年同日の日記

04年 呪われているのか?

09年 春眠暁を覚えず

14年 おかしな言語仕様

16年 卒園


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

エド・ロバーツ 命日(2010)  2015-04-01 11:47:16  コンピュータ 今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

今日は、エド・ロバーツの命日(2010)



「世界初のパソコン」である、アルテア8800を作り出した人です。

詳しくは、誕生日の記事に書いているので、そちらをお読みください。





▲目次へ ⇒この記事のURL

同じテーマの日記(最近の一覧)

コンピュータ

関連ページ

Landiskと格闘中【日記 15/01/31】

別年同日の日記

04年 呪われているのか?

09年 春眠暁を覚えず

14年 おかしな言語仕様

16年 卒園


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

祝一平 命日(1999)  2015-04-02 12:32:52  今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

祝一平 命日(1999)

今日は、祝一平さんの命日(1999)


知る人ぞ知る、ですね。

パソコン雑誌 Oh!X のライターをやっていて、人気があった方でした。

後に有限会社満開製作所を設立、X68000 用のディスクマガジン「電脳倶楽部」を刊行しています。


1988年5月創刊です。一応、日本で最初のディスクマガジンとされています。


ディスクマガジンと言うのは当時新しい概念で、MSX 用の「ディスクステーション」が有名でした。

こちらはコンパイルが発行していたもので、1988年7月創刊。


2か月しか違わないから、真似したとは思わない。

ディスク搭載のコンピューターが増えて、そこで雑誌形式のものを作ろう…というアイディアは、誰もが思いついたのでしょう。


#追記:情報頂きました。

 1983年には DiskFM/DiskPC などが鈴木技研から発行されていた、とのこと。

 そういう先行例もあるので、ディスクステーションも含めて「新しいアイディア」ではなかったようです。

 他にも多数出ていたようですが、月刊ではなかったこと、電脳倶楽部の発行開始時にはすでに廃刊していたこと、などから電脳倶楽部は「日本初」を名乗っていたようです。



ディスクステーションは、MSX向けのゲーム情報誌の形を取っていました。

新作ゲームの体験版とか、非常に古いゲームを丸ごととか、すごい簡単なミニゲームとか、ゲームだらけ。


電脳倶楽部は、投稿中心のパソコン雑誌でした。


投稿プログラムなどもあり、アルゴリズムの解説などもあります。

X68k の画像フォーマット形式としてよく使われた、PIC などは、電脳倶楽部で発表されたものです。


また、「著作権が無いデータを電子化する」という活動を始め、古い小説や、日本国憲法全文、英語辞書などのデータが発表されていました。


これ、いくつかは現在の「青空文庫」に引き継がれ、収録されています。




実は、僕が Oh!X を読み始めた時には、祝一平氏の「最も人気があった」時期は過ぎており、あまり活躍を知りません。


友人が電脳倶楽部を購入しており、フリーソフトでほしいものなどがあった際にはコピーしてもらっていました。


…いや、正直に言えば、電脳倶楽部自体、ある程度コピーさせてもらっていました。

電脳倶楽部は、コピープロテクト掛けない方針を貫いていましたから。


#データは壊れるから、まずバックアップを取りましょう、と毎号書いてあった。



大学1年の時、大学祭のために作ったゲームを「電脳倶楽部に投稿しなよ」という友達の勧めで投稿します。


電脳倶楽部は年間購読契約をするもので、読者には必ず会員番号が割り当てられます。

投稿にも会員番号が必要だったのですが、友人の会員番号で投稿しました。


この際、学祭に出したバージョンより面データを大幅に減らしました。

ディスク雑誌なので、大きなデータを使えない制約…もあるのですが、それよりも「フルバージョンは販売したい」と思ったためです。


たいして出来が良いゲームでもないのに、金を取ろうなんて思い上がったもんです (^^;;



電脳倶楽部では、どうやら「会員以外からの初投稿」だったようなのですが、ゲームを掲載してくれました。

それだけでなく、「販売するのであれば武尊からどうか」という話を頂きました。


電脳倶楽部は年間購読契約が必要だった、と先に書きましたが、1号づつの販売も出来るように、当時ブラザー工業が展開していたソフトウェアの自動販売機「武尊」での販売を始める予定でした。


ブラザーの方でも、販売するソフトを増やしたくて探していたのです。

ただ、この時点では「法人しか相手にしない」とのことで、満開製作所が間に入ってくれました。


#その後、武尊は同人ソフトにも門戸を開きました。

 この時点でも、事実上の「同人」第1号だったわけです。




武尊で販売したい、というお話を頂いたときに、満開製作所から呼び出されて祝一平氏にもお会いしました。

冬の寒い日だったと思います。夕ご飯をご馳走になりました。


それだけでなく、電脳倶楽部の採用者や、読者プレゼントのみでもらえる様々なグッズを、まとめていただきました。


これ、投稿が採用されても、1点づつしかもらえないもの。

まとめてもらえたのはおそらく貴重なので、まだ置いてあります。


でもね、このグッズが全部バカバカしいんだ。

エッチな鉛筆セット」とかね。HB~8Hで、「ちょっとH♡」とか「すごくH♡」とか書いてあるの。


逆さまにアスキーコード表が印刷されたTシャツと言うのもあります。

逆さまになっているからこそ、自分が下を向けばアスキーコード表を読める。


アスキーコード表が裏に印刷されたカードカレンダーももらいました。

クレジットカードサイズで、カレンダーとして使えなくなっても、アスキーコードが便利で持ち歩いてた。


あ、ひとつだけ、今はもうないグッズもあります。


「おいしすぎて…コーヒー中毒」という名前の飴。

これは、満開製作所のオリジナルではなく、当時の北海道のメーカーが作っていたもの。


パッケージに描かれた顔の絵が不気味で、さらに商品名が「中毒」。インパクト大でした。

でも、飴を置いとくわけにもいかないので、全部食べちゃった。




祝一平氏に会ったときはまだ大学1年でしたが、「将来プログラマーになるの?」と聞かれました。


なれればなりたい、というようなことを答えたと思います。そしたら、「C言語は勉強しといた方がいいよ」と言われました。


販売してもらったゲーム、Comet は BASIC で作っていたのね。

実際、BASIC では限界を感じていたし、そこからコンバータでCにしてコンパイルしていたので、Cもなんとなく見ていた。


#BASIC コンバータの限界で、意図しない動作をすることがあった。

 その時は、Cになったソースを見て、何が起きているか理解して、回避する様に BASIC プログラムを変えた。


すぐにCの勉強を始め…挫折します。

なんだか、妙に回りくどくて面倒くさかった。アセンブラの方がよほど簡単だ、と思った。


それで 68k のアセンブラで1本ゲームを作るのですが、ゲームを作ると「アセンブラで全部作るのは大変だ」と思い始めた。


これで、Cとアセンブラを組み合わせ、適材適所で使う、というのを覚えます。

一度アセンブラを理解してからCに戻ったら、Cがどういう意図で作られているかもわかったし、「アセンブラで最適化されやすい」記述方法なんかも理解できるようになりました。



もちろん、実際に仕事を始めてからはCの知識は非常に役立ちました。




冒頭に添付してある写真は、祝一平氏の名刺です。

祝一平ってペンネームだから、本名の名刺ももらっている。でも、ここは有名な名前の方で。


文字しかないすごく簡素な名刺だけど、ちゃんと遊び心が入っている。



\満開製作所\電脳倶楽部編集長\

祝一平


と書いてある。

これ、MS-DOS 的なツリー構造表記で「所属」を表現しているのね。


DOS では、ディレクトリ表現にバックスラッシュ(\)を使いました。

日本語の文字コードでは、バックスラッシュではなく¥になってしまうのだけど。


今なら PC UNIX が浸透しているし、URL でも見慣れているので / で書くのかもしれない。

でも、当時は MS-DOS の方が遥かに知られていて、でもパソコン自体が一般的でない趣味。


パソコン好きな人はニヤリとするし、そうでない人には全く意味がわからず、それでいて違和感がない。

ちょっとひねった表記方法でした。



先日、僕の名刺の裏の絵を公開したのですが、表面の「所属」部分は、祝一平氏の名刺のアイディアを真似させてもらっています。


ただし、所属ではなく「属性」として、C++風に多重継承している。


(僕の名前) : 代表取締役, プログラマ


としてあるのね。


そんなところも真似させてもらうくらいには、影響受けてます。




そんなわけで、祝一平氏は1度会っただけの人ですが、僕に影響を与えた人物です。

亡くなったと知ったのは、不義理なことに1回忌を過ぎてからでした。




▲目次へ ⇒この記事のURL

関連ページ

バーベキュー【日記 17/07/02】

オーラのプログラム分担【日記 17/10/12】

ゲーム業界に進んだ理由【日記 15/04/03】

別年同日の日記

06年 花見

18年 花見


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

ジョン・ネイピア 命日(1617)  2015-04-04 00:14:24  コンピュータ 歯車 今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

当ページ内では歯車計算機なんかも紹介しているのですが、その中に「ネイピアの計算棒」というものがあります。

これ、ページ開設当初(もう18年も前だ…)に、たまたま科学館で存在を知って書いたものです。


それほど詳しかったわけでもなく、ただ面白がって知ったばかりのことを書いただけなので、あまり深みが無い記事。

(今でも、書いている内容に深みなんてないけどさ)



#ちなみに、その後知ったのですが「ネイピアの骨」と呼ばれることの方が多いようです。




いちいち計算棒のページを見に行かないでもいいように、概要だけ書いておきましょう。


計算棒は、掛け算九九が書かれた棒です。

この時、2桁の数字は、間に斜線が入っています。


上には、九九の「何の段」かが書かれていますので、この数字を並べて、掛けられる数を作ります(何桁でも良い)。

そして、掛ける数(こちらは1桁)の部分に書かれている数字を読み取ります。


斜めの線により、隣同士の棒の数字が組み合わされます。

この数字を足して、書きだすと、答えがわかります。


たとえば、左の図では、573 * 3 = 1719 であることがわかります。


…言葉で説明するとややこしいな。

つまり、掛け算九九の表を使って、繰り上がった部分は上の桁に足していくと答えがわかるんです。


ただそれだけなのだけど、「掛け算」という結構大変な計算を、ただの足し算に変えてしまう道具です。




18年前にこの道具の紹介を書いた時は、「ネイピアの計算棒」の本当の価値がわかってませんでした。

これが、ネイピア数に名を残す数学者、ネイピアの作ったものであることがわかってなかったのです。


今日は、その数学者ネイピアさんの命日。

そして、ネイピア数とは、自然対数の底 e= 2.718281828459045235360287471352…


…いや、いいんです。

対数とか e とか、見ただけで嫌になる人が多いでしょうから、そんな話をしたいわけではない。



ネイピアは、対数を発見し、計算方法に革命を起こしました。

後にそのことが評価され、対数に関係の深い数字に、彼の名前が付けられたのです。


しかし、ネイピアが発見した対数は、現代的なものとは違いました。

ネイピアの時代には、小数の概念がまだ普及していなかったのです。


このため、できるだけ分数の比率で表しやすいように、対数の定義自体も異なっていました。

それでも、その「ネイピアの対数」は、現代の対数に通じる重要な特徴を持っていたのです。




対数の重要な性質とは…


なんと、対数を使うと、掛け算を足し算に変えることができます。


…ここでも、掛け算を足し算に変えようとしているのです。


ネイピアは、計算することの重要性を理解し、複雑な計算を誰でも簡単に行う方法を追求した数学者でした。



ネイピアの考案した対数を元に、後に計算尺が生み出されます。

計算尺とは、スライドする二つの棒を組み合わせた「計算機」です。


2つの棒には、対数で同じように目盛りがつけてあります。

ここで、


1) 棒 A の目盛り 1 の位置に、棒 B の「賭けられる数」の目盛りをあわせる。

2) 棒 A の「賭ける数」の位置の目盛りの下にある、棒 B の数を読み取る。


という簡単なことをするだけで、掛け算が終わっているのです。


棒をずらしたり、さらにずれたところにある数字を読む、という操作は、足し算に相当します。

これは普通の定規でも同じね。3の目盛りから、4つ離れたところの目盛りを読めば、7と書いてある。


ただ、計算尺ではメモリが対数で刻まれています。

そして、先に書いたように、対数では掛け算を足し算に変えることができます、


だから、足し算するような操作をすると、掛け算の答えが得られるのです。



より詳しく知りたい人は、こちらのページが詳細に書いてくれています。

是非、お読みください。




ところで、先ほどネイピアの時代には小数の概念が普及していなかった、と書きました。


それ以前は、小さな数は分数で表現しました。

しかし、ネイピアと同時代の数学者が、常に 10 の累乗を分母とする分数を使うと、整数部分の10進法と相性が良くて扱いやすい、と気づきます。

小数の概念の誕生です。


しかし、当初は表記法がスマートではなく、使いにくいものでした。

そこで、「小数点」を発案したのが、ネイピアでした。


これにより、ややこしかった「小さな数の表記」も簡単になります。

ここでも、ネイピアは「計算を簡単にしよう」と工夫を凝らしています。




現存する最古の歯車計算機であるパスカリーヌは、足し算と引き算しかできませんでした。


しかし、パスカリーヌの百年前に、シッカルトが歯車計算機を設計しています。

この機械では、なんと掛け算も可能でした。


その重要な仕掛けが、ネイピアの計算棒でした。

結局、歯車では足し算しかできないのですが、計算棒を使うことで掛け算を足し算に変換しているのです。



さらにいえば、現代のコンピューターでも同じ原理が活かされています。

表を使って掛け算を簡単な足し算に変換することで、高速な計算を行っています。



一方の計算尺は、電気化されて「アナログコンピューター」となります。

オペアンプ使って計算するのって、計算尺と原理的にそれほど変わるものではない。


でも、デジタルコンピューターが高速化するにしたがって、アナログコンピューターは消えちゃった。


コンピューターなんて高価だった時代、庶民は計算尺を使っていました。

でも、これも電卓が普及したら、やっぱ計算尺は消えちゃった。



でも、「対数の原理を使った計算方法」が消えても、対数の重要性は失われません。

むしろ、強力な計算機が使われるようになって、ますます対数の存在意義は増しています。



人間の知覚は、対数に従うようになっていることが多い、ということが知られています。

こうした、「人に合わせた感覚」をコンピューターで表現するには、対数の活用が欠かせないのです。


通常、オーディオ機器などの音量調節は、対数に従って音の強さを変えます。

対数に従った表示の時に、半分の位置に音量をあわせると、半分になったように感じるためです。


音楽を聴くときも、テレビを見るときも、現代ではコンピューターの応用機器になっています。

内部ではものすごい速度で計算が繰り返されていて、そこに「対数」が何度も顔を出しています。




ネイピアの計算棒はコンピューターの計算を裏で支える基本的な原理となり、ネイピアの発案した小数点と共に計算に使われています。


そして、ネイピアが発見した対数がその計算の中で繰り返し使われ、我々の生活をいたるところで支えてくれているのです。






追記?


書き終わってから気づいた。

去年も記事書いてるじゃんよ!

内容微妙に違うからリンクしときます。



▲目次へ ⇒この記事のURL

同じテーマの日記(最近の一覧)

コンピュータ

歯車

別年同日の日記

12年 言葉の定義

13年 科学館めぐり

14年 ジョン・ネイピアの命日

16年 冒険遊び場・花見

18年 ピューロランドで誕生日

18年 ピューロランドの秘密


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

アイザック・アシモフ 命日(1992)  2015-04-06 10:32:00  今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

今日はアイザック・アシモフの命日(1992)


アシモフは好きな作家なのですが、語れるほどいろんなことを知っているわけではありません。

すごく有名な作家で、大好きな人は多いので、生半可な知識で語ったら怒られそう。



でも、大好きだから思い出話をするのです。


たぶん子供の頃(おそらく小学3年生ごろ)に、学校の図書館で本を借りて読む、ということをやりはじめました。

子供向けの冒険小説…いわゆる「ジュブナイル」ものをよく読んだように覚えています。


「SOS地底より」とか、楽しく読んだ覚えがあるのだけど、内容はもう忘れた。

(これはアシモフではないです)


そんな中に、タイトルも忘れた本がありました。

木星の衛星(たしかガニメデ)に作られた人類の移民基地で、少年とロボットが交流するお話でした。


この中に「ロボット三原則」とか出てくる。

ロボットは、確か運命に流されて少年と離れ離れになり、少年に会いたくて、その時の主人の命令に違反して逃げ出すんじゃなかったかな。

三原則違反だというアラームが電子頭脳の中で響きながら、人に見つからないように物陰に隠れている…


そんなシーンを覚えています。


後から考えるとアシモフの作品だったのかな、と思います。でも、記憶もあいまいで定かではない。

少なくともアシモフの考案した「ロボット三原則」が効果的に使われていたのは覚えています。




アシモフのもっとも有名な顔は「SF作家」で、特に「ロボットSFの第1人者」でした。


ロボット三原則は彼のロボットSFで貫かれたテーマです。


第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。



欧米では、フランケンシュタイン・シンドロームと呼ばれる心理があるのね。


「フランケンシュタインの怪物」は有名な恐怖小説ですが、若い科学者が人工生命を作り出してしまう。

その生命は、すべてにおいて人間よりも優れている。そうなるように作ったのだから。


…えーと、原作では科学者は「神の領域に手を付けてしまった」と後悔して逃げ出し、人工生命は作り主である「お父さん」に捨てられた悲しみを背負いつつ、彼を追います。

恐怖小説と言っても、心に沁みる悲しいストーリー。


でも、映画化されたときには、怪物は生まれてすぐに「自分より劣る」科学者を、殺してしまう。

この映画の方が人々の心に残っていて、「人間が作り出した、人間に似たものは、いつか人間に牙をむく」という社会通念を作り出しました。


#カレル・チャペックの戯曲で、「ロボット」の語源となった劇が、こうした「人間に反乱するロボット」のイメージの元なのだけど、影響力の強さは上に書いた映画の方が大きかったため、「フランケンシュタイン・シンドローム」と呼ばれます。



それで、ロボット物はSFではなくて「恐怖小説」のテーマになってしまっていた。

そこをアシモフが、ロボットは科学の範疇であるとしてSFの枠組みに入れようとしたとき、問題となったのがこの恐怖感をどう取り除くかでした。


その時、編集者からヒントが出され、それを元にアシモフが簡潔な言葉でまとめなおしたものが「ロボット3原則」。


だからまず、「人間に危害を与えない」が来ます。人間を守ることも明示されます。

これを最重要の項目としながら、以降、反乱を起こさないための「服従」、そして、人工生命としての「自己防衛」と続くのです。




アシモフのロボットSFが面白いのは、ここまで「恐怖を与えないこと」をテーマとしながら、ロボットがやっぱり反乱を起こすからです。

三原則を守りつつ、反乱を起こすことができる。一体どうやって強力な三原則を守ったままで反乱を起こすのか、というのが見どころになっている。


ただ、やっぱり反乱と言っても人間を殺すようなことはしないんです。


たとえば、「鋼鉄都市」のシリーズでは、ロボットが生活に溶け込んだ未来社会の中で、殺人事件が起こります。

現場には、人工知能に異常をきたした、壊れたロボット。


壊れたロボットが殺人を犯したのか?

いや、いくら人工知能が壊れていても、人工知能は人間で言えば「知性」の部分です。

「本能」である三原則は、知性が壊れていても守られるはず。


壊れたロボットは、おそらく殺人現場を目撃し、「人間を守れなかった」ために人工知能に異常をきたしたのではないかと推察されます。


でも、この都市ではロボットが重要な労働力となっていて、人間が少ない。

もし殺意を持った人間が、別の人間に近づいていけば、まだ壊れる前のロボットは「人間を守る」本能によって殺人を食い止めるはずです。



一体何が起こったのか…


えーと、確かこれは、鋼鉄シリーズの中の「はだかの太陽」だったと思う。

ここで、SF作家らしく、ちゃんと論理を積み重ねた推理劇が展開されます。


推理小説なので、ネタバレはしない。気になる人は読んでみてね。




ロボットが、「人間と同等の存在になりたい」と奮闘し、そのために周囲の人々を幸せにしていく「バイセンテニアルマン(200歳の人)」は心に残る名作。


彼はロボットだから、人と同等になるのは「命令に服従しない反乱」なのだけど、そのために取った方法が、周囲の人を幸せにすることなのね。

ロボットだから寿命は無い。長い時間をかけて、多くの発明をし続けて、社会にとって必要な存在になっていく。


しかし、彼がどんなに社会にとって必要な、有名な存在になっても、人々にとって彼は「良いロボット」なのです。

彼は人々の意識を変えるために、大きな賭けに出なくてはならなくなる。


短編なのだけど感動的で、後に映画化もされています。



アシモフのロボットは、ロボット三原則を守りつつも、常に反乱を起こそうとします。

でも、それが人間にとって悲劇ではないことも多いのね。心温まるお話が多い。


これが、アシモフがロボットSFの第一人者だと呼ばれる理由になっているように思います。




アシモフのもう一つの顔は、推理小説家です。

上に書いた「鋼鉄都市」シリーズは、ロボットSFと推理小説が融合したものでした。


SFだと何でもありにしやすいのだけど、あえてそれはしない。

SF世界と言えども、そこには人間の地に足が付いた生活が描かれていて、諸条件を提示したうえで読者に「推理」を投げかけます。


ちゃんとした推理小説として成立しているのです。


そして、純粋な推理小説として有名なシリーズが、「黒後家蜘蛛の会」。

…と、純粋ではありますが、本格推理ではないです。連続短編のオムニバス形式。


いわゆる「安楽椅子探偵」で、冒険活劇も、足で証拠を探すこともしません。

6人の仲の良い男性が、毎回1人のゲストを招いて、話を聞きながら晩餐会をする、というだけの話。


ただ、毎回ゲストが困りごとを持ち込みます。

(もともとそういう会ではなく、知らない分野の専門家の話などを聞いて楽しもう、という会だったのに、と嫌がるメンバーもいます)


で、その困りごとを、いろんな分野の専門家である6人が知恵を絞って解決しようとする。


でも、いつもこの6人は解決できないのです。

6人とも、いろんな分野の専門家ではあるのだけど、自分の専門分野で狭く考えすぎてしまう。


いつも、見事な解決を提示するのは、晩餐会の給仕を務める初老の男、ヘンリーです。

彼は給仕なんて勤めているくらいだから、決して高学歴の男ではない。


でも、給仕という立場上いつも脇にいて、皆の話に耳を傾け、出しゃばらずに考え続けます。

専門分野が無いからこそ、他の人の意見を横断的にまとめる力を持ち、解決に至るのです。


高学歴の男たちが、いつも学のない男の言葉に感心する、というのがこのお話の見どころの一つ。

でも、メンバーはみんなヘンリーの「学は無いけど頭は良い」ことに一目置いているので、嫌味にならないのね。



短編小説集なので、気軽に読めます。こちらも、気になる人は是非。




「ファウンデーション」シリーズも有名です。


こちらは、壮大なスペースオペラ。

地球が衰退した後に、宇宙に散った人間たちが、一度は文明を衰退させながらも、また発展していく数百年単位の歴史を描いたものです。


「ローマ帝国衰亡史」に触発されて、それをSFでやってみたもの、らしいのですけどね。

予言者に従ってみんなが行動する段階を経て、宗教が力を持ち、やがて武力を持つものがそれを上回る…


SFですから、予言とか宗教とか素直に出しません。

予言者は「心理歴史学」という分野の専門家で、数学を駆使して今後の来るべき展開を示している、ということになっている。

宗教も、大型コンピューターとそれを扱える技術者たち、という形に変わっている。


その翻意が見事です。現実に起こった歴史をSFに置き換えたものなので、重厚感がある。


…そして、アシモフ途中で飽きてます(笑)

最初はローマ帝国の歴史をSFに置き換える形で展開するのだけど、途中からお得意の推理劇も入ってきます。



今調べたら、7部作なのね。

僕、前期三部作しか知らないや。三部作でも、途中で飽きたな、と感じる急展開が入っている。

(急に雰囲気が変わるだけで、つまらなくはないです)


後から書かれた四部は、前期三部とはかなり違って、ロボットなども出てくるのですね。

まさに、アシモフの集大成なのでしょう。




SFや推理小説家としてのアシモフの著作は、実は僕はほとんど高校の時に図書室で借りて読んでいます。

その頃アシモフが大好きで、ものすごく読んだ。でも、借りて読んだから手元に残っていません。


手元にあるのは、「空想自然科学入門」。


アシモフのもう一つの顔は、生化学の博士としての顔です。


大学の医学部で講師をしていたそうですし、教科書を執筆もしたそうです。

論文も、非常にたくさん書いている、そうです。

(こっちは伝聞調。アメリカの教科書とか読んでないから知らない…)



空想自然科学入門では、彼の科学者としての知識を駆使して、いろんな疑問に答えています。


「空想」とついているけど、空想科学読本のような、架空の物語を論考するような本ではないよ。


実験では確かめられないようなことでも、可能性として「空想」してみよう、という内容で、内容はいたって真面目。

でも、小説家としての手腕を発揮して、非常に難しい内容でも想像しやすく、分かりやすく書いてある。



特に、生化学はアシモフの専門分野。

この本の中に、「これが生命だ!」という章があって、宇宙に生命がいるかどうかを考察しています。


えーと、最近でも、木星の衛星ガニメデの地下に海があって生命がいるんじゃないかとか、エウロパの方がいそうだとか、土星のエンケラドゥスの可能性とか…

まぁ、生命の可能性はいろいろ言われています。


ここで、「可能性」として言われている場所は、全部液体の水が存在しうる環境なのね。


こうした発表を聞いて、「宇宙生命が、地球と同じように水が必要と考える必要はないんじゃないか」と疑問に思う方はいるようです。

ネットでそういう意見見たことが何度もある。


で、アシモフは1963年に書いた(もう50年も前!)この本の中で、その疑問にちゃんと答えています。


水星には水は無いけど、液体の硫黄がある。液体硫黄に炭化フッ素を入れれば、水中の蛋白質と同じようにふるまう可能性がある。

木星には水は無いけど、液体のメタンがある。液体メタンに脂質を入れれば、水中の蛋白質と同じようにふるまう可能性がある。


…などなど、どの惑星にも、その惑星に適応した生物の可能性はある、という内容を、科学的な裏付けも付けて示します。


この本は、各種惑星探査計画に先駆けて書かれているのね。

だから、「期待できる」ことを書いている。今では、どうも生命はいないようだ、となっているけど、必ずしも水が必要なわけではない、と示しているのは読んで面白いです。




チオチモリンについても書いておこう。

これは、化学知識を元に作り出した、架空の物質。


アシモフは短編が多いのですが、チオチモリンは「架空の論文」という変わった形式で発表されました。


この物質、非常に良く水に溶けます。なんと、水を入れる前に溶けてしまうのです。

物質の原子の一部が、四次元方向にのびていて時間を吸着する(吸時性を持つ)ためとされています。


ただし、水が入ってくる「可能性」だけでは溶けません。

確実に水が入ってくる時だけ溶けます。


人が水をそそごうとしている場合、その人の「精神状態」に反応することになります。



時間を扱う可能性を示しながら、そこでタイムマシンみたいな壮大なものに話を飛ばすわけではない。

でも、「精神状態を外部から調べられる」という可能性に言及し、精神科医が使用できるかもしれないと示唆する。


この物質自体存在しないわけですが、非常に面白い特性を見つけながら、小さな利用可能性しか見いだせない。

話が大きくなり過ぎないあたりが、いかにも「本物らしい」論文です。


アシモフもこの「架空の物質」が気に入っていて、何本か論文を書いています。

最初に発表されたものは読んだことないのですが、途中の一本を読んだことがあります。




さて、アシモフは非常にたくさんの著作を残しました。


エッセイも上手で、短編集では必ず本編の間に、「その短編を書いたときの裏話」が挟まっていました。

この裏話が本編より面白い、という人もいるくらい。


どんなに短い短編でも1本、1ページのエッセイでも1本、科学論文でも1本…と数えた時、アシモフは一番多い年には、年間400本以上の原稿を書いたそうです。

とんでもない化け物です。



もちろん原稿は高速に書くことができるタイプライターで書いています。

短編集に書かれた「裏話」で、タイプライターを忘れてしまって万年筆で書かざるを得なかった、なんて話もあったけどね。


#その苦行を想像しただけで絶対に無理だ! と思いながら、しかし今書かないと原稿が間に合わないから、決死の覚悟で書きはじめ…

 と、その心中を仰々しく告白しながら「気づくと何の問題もなく書きあがっていた」そうです。



▲目次へ ⇒この記事のURL

別年同日の日記

03年 なんだかバブリー…

10年 入園式

11年 入学式・入園式

14年 花見とサクラ

14年 ジョン・スカリーの誕生日


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

PC-E500 発売日(1988)  2015-04-15 09:57:29  コンピュータ 今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

今日は、シャープのポケコン、PC-E500 が発売された日(1988)。


想いは全てPC-E500のページに書いてあるので、そちらを読んでください。

そちらにもありますが、事実上「最後のポケコン」だったと今でも思います。



だって、いまとなっては同じサイズで十分な「小型パソコン」が作れてしまうもの。

ポケコン、なんていう特別ジャンルを用意する必要はない。


持ち歩けて、BASIC が使える、というのをポケコンの定義だとすれば、いまなら Nintendo3DS のプチコンとか、ポケコンの後を継ぐものなのでしょうけど、あれだって十分「パソコン」としての性能を持っている。


小さいだけで単体では完結してないけど、IchigoJamだって BASIC を使う持ち歩ける機械。でも、ポケコンではないと思う。


なんでしょうね…ポケコン自体定義があるわけでもないので、どれが後継か、と考えること自体が無意味な気がします。



スマホだってコンピューターだしね。

みんなが「ポケコン」の後継を持つようになったともいえる。


でも、PC-E500 のワクワク感って、それとは違ったと思うんだよね。

これは、当時を知る者にしかわからない、ただのノスタルジーなのだけど。


▲目次へ ⇒この記事のURL

同じテーマの日記(最近の一覧)

コンピュータ

別年同日の日記

02年 4/15


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

エドガー・コッド 命日(2003)  2015-04-18 18:23:06  コンピュータ 今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

今日はエドガー・コッドの命日。

データベースの研究者です。恥ずかしながら、僕も今回の記事を書く際に初めて知りました。


「リレーショナルデータベース」というアイディアを最初に出した人です。




以前に、別のデータベース研究者の方の誕生日で、データベースの話を少し書いています。


なので、詳細はそちらを読んでいただくことにして、データベースの概念をざっくりと説明。


データベースというと特殊なものと思われがちですが、データを蓄積してあればデータベースです。

テキストファイルで書き溜めたものでもいいし、ノートにまとめたものだってかまわない。


もう少しデータベースらしく考えるには、必要なデータを速やかに取り出せる必要があります。


ノートに順次書いたデータベースは、おそらくデータを探すのが大変なはず。

しかし、同じように本に書かれたものでも、辞書は簡単に目的の「データ」を探し出せます。




コンピューター以前に、パンチカードの時代がありました。

これは、元々国勢調査などの目的のために考案されたものです。


1928年に IBM が考案したカードは、1枚のカードに、0~9の数字を80個記録できます。


たとえば、国勢調査であれば、一人の人間に対して、選択項目が 10 個までの質問を、80個できることになります。

一人分のデータがカード1枚の「データ」となり、カードを集めてデータベースを作れるのです。


カード集計機を使えば、データによってカードを並び変えることも、抽出することも、集計することも出来ました。

データを自在に操れるのです。これは、データベースの革命と言えました。



コンピューター時代にもパンチカードは使われ続け、1960年代に入り、同等の動作をコンピューターで行おうという動きが広がります。

IBM も含め、大手コンピューター企業が、コンピューターを使用したデータベースを競うように作成します。


しかし、この「データベース」は、パンチカードを動かすという「物理動作」を無くして高速化した、という程度で、概念としてはパンチカードと変わっていませんでした。




そこに、本日の紹介人物、エドガー・コッドが現れます。


彼は、1948年に IBM に入社し、在職のまま大学に入って研究を行なっています。


#日本では大学は「社会人の前に勉強するところ」ですが、アメリカでは、いつでも勉強をしたい人が通う場所です。

 社会人になり、仕事で必要だから入る、会社が金を出して入れさせる、ということも珍しくはありません。


そして 1969年、IBM の研究所で、全く新しいアイディアに基づくデータベースの論文を発表します。

それが「リレーショナルデータベース」でした。




パンチカード1枚には、80桁の数字を記録できました。


これをもう少し汎用的に考え、「1行のテキストに、複数のデータ列がある」と考えます。

パンチカードの束がデータベースであるならば、複数行のテキストもデータベースです。


ここまでは言い方を変えただけで、特に複雑なことはありません。

表計算ソフト…たとえばエクセルに沢山データを蓄えて「データベース」としている人もいると思います。同じことです。



たとえば、お店の商品台帳をデータベース化したとします。


商品が無くなったら、メーカーに連絡を入れて追加発注しなくてはなりません。

住所と電話番号も、商品ごとに記載しておくべきでしょうか?


それは、あまりにも手間が多いです。

ここはメーカー台帳を別に用意するべきでしょう。


商品台帳とメーカー台帳を別々に作ります。

商品を元にメーカー名を調べ、メーカー名を元にメーカー台帳を調べれば連絡先がわかります。


ここまでは、パンチカード形式でも問題なく実現できます。


ある時、メーカーが社名変更したとします。メーカー台帳のメーカー名を書き変えます。

しかし、これは「商品のメーカー名を元に、メーカー台帳を調べる」という流れを壊してしまいます。


商品台帳の方のメーカー名も、同じように書き変えなくてはなりません。

データが何万件あるかわかりませんが…まぁ、今のコンピューターなら一瞬でしょう。


でも、もっといい方法があります。

メーカー名も、メーカー台帳の方にだけ書いておき、商品の方のメーカーには「メーカー台帳のメーカー番号」だけを書き込むのです。


メーカー名で調べる代わりに、メーカー番号で調べる。

この番号は、メーカー台帳の中で一意に決まっていれば、どんなものでも問題ありません。


これで解決?


いや、これでは、今度は別の問題が起こります。

商品台帳を見て、商品を作っているメーカー名を知りたいだけで、いちいちメーカー台帳を調べなくてはならないのです。

これは手間が増えてしまいます。




説明が長くなりましたが、このくらいまで「データベースを使いこなす」ようになって、やっとリレーショナルデータベース(以下 RDB )の優位性が出てきます。


RDB では、データベースの表(ここでは、商品台帳とメーカー台帳)の間の関係性を記述することで、データを適切に扱えるようになります。


データとしては、上に書いたように商品台帳とメーカー台帳が別々に保存されています。


しかし、商品台帳のメーカー番号欄は、メーカー台帳のメーカー番号と一致している、と教えてやるだけで、商品名とそのメーカー名を同時に取り出せるようになるのです。



データベースなのですから、それまでの「パンチカード」式のシステムで出来たことは、当然全てできます。

これが、複数の表にまたがっていても検索可能なのです。


たとえば、商品がアンパンなのだけど、作っているメーカーが神奈川県にある物だけを全て抽出、なんてことができます。

RDB でなければ、アンパンを全て探し出してメーカー番号を調べ、メーカー番号からメーカーの所在を調べ、神奈川のものだけを抽出…という手順が必要となります。


#もちろん、RDB の内部ではそのような手順を使っています。

 しかし、RDB が面倒な部分を請け負うことで、RDB 利用のアプリケーションは簡単に作れるようになるのです。




さて、コッドがこのシステムを論文として発表した時、IBM はパンチカードを元としたデータベースを作成・販売していました。

せっかく開発したこの「商品」を否定するような論文に、IBM は反発します。


しかし、コッドの論文は世界に広まってしまいました。

他社も論文を元としたシステムの開発を開始し、IBM も開発に着手せざるを得なくなります。



そこで、IBM は SyetemR と呼ばれる、RDB 開発プロジェクトを開始します。

ただし、このプロジェクトにコッドは招聘されませんでした。

あくまでも IBM が自主的に開始したプロジェクトであり、社内の1研究員に過ぎないコッドの意見を聞いたわけではないのです。


SystemR では SEQUEL という言語が開発され、これが後の SQL になります。




IBM が最初の SQL データベースを発表し、他社も後を追うように SQL を使用するデータベースを発表していきます。


SQL はコッドが考えた言語ではなく、SystemR の成果でした。


すぐに「SQL を利用していれば RDB である」という誤解が広まり、それまで作られていた、パンチカードを模倣したようなデータベースを SQL 対応にしたような製品も出てきます。


コッドはこれに反発します。内部的にパンチカード同様のシステムはもちろん、IBM の製品すらも、コッドが当初考えていた「理想のデータベース」には程遠いものでした。


コッドはこれらのデータベースを批判し、RDB を規定する「コッドの12の規則」を発表します。


しかし、それは彼が勤めている IBM を批判することでもありました。

彼は会社に居づらくなり、独立してコンサルティング会社を設立します。




その後、コッドは OLAP という、新たな概念のデータベースを提唱しています。

これは現在、実際に広く利用されています。


RDB は、複数の表を利用していたため、メモリの節約などのメリットがある一方で、速度的には不利でした。

OLAP では、データ内のどんな要素についての集計・分類などでも、高速に答えを出すように考えられています。


たとえば、日本全国にチェーン店を持つお店が、毎日のように全ての売り上げデータをデータとして蓄積しているとしましょう。


これは、非常に大きなデータですが、OLAP ではこの集計を瞬時に行えます。

関東地方に住む30代の女性によく売れているお菓子の銘柄ベスト5…とか、条件を与えれば瞬時に集計してくれるのです。



こうしたシステムがあることが前提で、人間が想像もしていなかった項目からデータの相関性を自動的に見つけ出す「データマイニング」や、非常に多数のデータを扱う「ビッグデータ」などの、現在でも続く流行が生まれてくることになります。


コッドは、データベースの世界に2度の革命を起こしたのです。


▲目次へ ⇒この記事のURL

同じテーマの日記(最近の一覧)

コンピュータ

別年同日の日記

03年 ココナッツ

05年 電線架け替え

11年 難しい見積もり

13年 行く前から苦言

16年 プログラム教育と義務教育


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

NCSA Mosaic 発表日(1993)  2015-04-21 11:36:32  コンピュータ 今日は何の日

▲目次へ ⇒この記事のURL

今日は NCSA Mosaic の発表日(1993)。


以前に、ティム・バーナーズ・リーの誕生日で WEB の生まれたいきさつを書き、FireFox の初公開日に少し NCSA Mosaic の歴史も触れています。




ところで、発表日は諸説あります。公式には今日ではない、とも書いておきます。


NCSA Mosaic が作られたのは、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校(The University of Illinois at Urbana–Champaign : 略称 UIUC)にある、米国立スーパーコンピューター研究所(National Center for Supercomputing Applications : 略称 NCSA)です。


この、UIUC の NCSA に、Mosaic の歴史が書かれたページがあります。


これだと、0.1a が 1993 年6月に作られたことになっている。

0.5a が 9月16日で、0.6b が最初に公開されたベータ版。9月28日です。

最初の公式版であるバージョン1は、11月11日となっています。


この公式情報、NCSA の初期開発者であったマーク・アンドリーセンがいなくなってからずっと後にまとめられたものです。

だから、記述の信憑性が非常に低い。


でも、公式情報です。英語の Wikipedia などは、これに従っている。



ところで、Mosaic が登場する以前は、WEB なんて当然普及していません。

その頃は、情報を共有したければ NetNews を使いました。


NetNews は、分散管理されるネットワーク。

だから、そのメッセージは多数のサーバに残っている可能性があります。

偽造しにくい、という意味でもあり、こちらの方が信憑性は高い。



NetNews に、WEB 開発者であるティム・バーナーズ・リーが投稿したメッセージが残っています。


1993年の1月29日に投稿されたものですが、マーク・アンドリーセンが 1月23日に送信した「Mosaic公開」のメッセージを再送したものになっています。

ティムは「エキサイティングな新しいブラウザが現れた」と書いているので、これが初めての公開だったのでしょう。


マークも、0.5としたこのバージョンを「アルファ/ベータ版」としています。

アルファかベータかも決めかねる状態ですから、最初のリリースなのでしょう。

もちろん、正式公開ではありません。


その後、4月21日に、バージョン1の公開メッセージを送っています。これが正式公開です。


これらのメッセージは証拠性として十分だと思います。

そのため、公式には11月が正式公開ということですが、僕としては4月21日、と考えます。



ただ、WIRED で4月22日公開とした記事が公開されており、こちらの説も広まっているようです。

WIRED では情報ソースにリンクされていますが、こちらは個人の書いた記事。そして、根拠は示されていません。


日本の Wikipedia では、 4月22日が Mosaic バージョン1の公開日とされています。




ここから話は変わります。

Mosaic の「負の遺産」について。


#当初は、こちらの話が中心の予定だった。

 日本語 Wikipedia を信じて 4月22日に原稿を用意していたら、本当の公開日が怪しいとわかって、上に追記した調査を行ったため。



私見に過ぎませんが、マーク・アンドリーセンは NeXT 用のブラウザを Mosaic に改造した際に、HTML の「理念」を理解していなかったのではないかな、と思っています。


HTML は、どんな環境でも読めるし、後のバージョンアップなどで知らないタグがあっても問題なく処理できる、ということを理念に設計されています。


でも、アンドリーセンが付け加えた IMG タグは、実装方法が良くないのね。

今でも HTML を扱ううえで面倒なことになっている。



たとえば、IMG タグでは、タグの中に「画像が表示できなかった時の代替テキスト」を書きます。


<img src="~" alt="代替テキスト">


という書き方。

これ、IMG タグが「理解できない」ブラウザでは、画像も出ないし代替テキストも出ない。


本当は、次のようにすれば良かった。


<img src="~">代替テキスト</img>


IMG タグが理解できないなら、IMG タグは無視されます。つまり画像は表示されません。

でも、テキストが表示されます。


IMG タグが理解できるなら、もちろん画像が表示されます。

この時「IMG で囲まれたテキストは無視されます」というルールにしておけばよい。


IMG タグは理解できるけど、画像が理解できずに表示できない、という時は、やっぱり代替テキスト表示で。




マーク・アンドリーセンは、とにかく「あったほうが便利」と思われる機能を、どんどん追加しました。

これは悪いことではありません。実際、それまでの WEB は今から見るとあまりも単純で、ただのテキストファイルと大してかわりません。


マークが魅力的な機能をたくさん追加したから、WEB はブームとなって現在があるのです。

でも、その機能追加が、将来のことなんてあまりにも考えていない、場当たり的なものでした。



Netscape として作りはじめてからは、多少は HTML を真剣に考え、「知らないタグは読み飛ばす」ルールが使われるようになっています。


たとえば、NOSCRIPT タグは、SCRIPT タグと対になるものです。


SCRIPT タグは、Javascript などを HTML 内に書くためのものね。

万が一 SCRIPT を知らないブラウザでも変な表示にならないように、HTML のコメントの形式で内部にプログラムを書く。


一方、NOSCRIPT タグは、正しく理解するブラウザは、その内部に書かれたものを全て無視します。

つまり、Javascript などを実行できない環境でのみ、内部が解釈されるようになります。


SCRIPT と NOSCRIPT が対になっていることで、Javascript 対応ブラウザでも非対応ブラウザでも問題なく表示が行えるのです。



同じように、FRAMESET に対して NOFRAMES タグがあるなど、Netscape が拡張したタグの多くは、HTML の理念に従っています。



ただ、NCSA Mosaic として拡張された IMG と、Netscape の初期に実装された TABLE や UL/OL などは、今でもその奇妙な仕様から、CSS での「特別扱い」を余儀なくされています。


多分、これは未来永劫変わることが無いでしょう。

これらのタグは非常に良く使われていて、仕様変更は大きな混乱を伴います。


しかし、非常に良く使われるからこそ、それらが「特別扱い」で、他のタグと同じように扱えないことが、HTML/CSS を書く者にとって非常に大きな枷となっているように思います。


これらは、Mosaic の負の遺産だと思います。



▲目次へ ⇒この記事のURL

同じテーマの日記(最近の一覧)

コンピュータ

別年同日の日記

09年 女の子産まれました。

11年 情報の扱い

14年 ゲームボーイの発売日


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています


戻る
トップページへ

-- share --

0000

-- follow --




- Reverse Link -