今日は何の日6ページ目の日記です

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2014-08-27 レフ・テルミンの誕生日(1896)
2014-08-28 ミヒャエル・エンデの命日(1995)
2014-08-30 ジョン・モークリーの誕生日(1907)
2014-09-01 ピエール・ベジェの誕生日(1910)
2014-09-04 ジョン・マッカーシーの誕生日(1927)
2014-09-10 チャールズ・シモニーの誕生日(1946)
2014-09-11 山本卓眞さんの誕生日(1925)
2014-09-12 「テレビテニス」が出荷された日(1975)
2014-09-13 スーパーマリオブラザースの発売日(1985)
2014-09-13 プログラマーの日
2014-09-14 追悼 ダグ・スミス
2014-09-15 エンジニアの日(インドの祝日)
2014-09-22 ベンジャミン・トロットの誕生日(1977)
2014-09-27 アラン・シュガートの誕生日(1930)
2014-10-02 レイ・トムリンソンの誕生日(1941)
2014-10-07 バーコード特許成立の日(1952)
2014-10-09 日本がメートル条約に加入した日(1885)
2014-10-15 「計算機言語」が生まれた日(1956)
2014-11-10 悪魔とドラキュラの誕生日
2014-11-11 スーパーカミオカンデの完成した日(1995)
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レフ・テルミンの誕生日(1896)  2014-08-27 11:17:44  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日はレフ・テルミンの誕生日(1896)。


不思議な電子楽器「テルミン」に名を残す、ロシア生まれの博士です。

ロシア革命後、人間が近寄ったことを感知する「近接センサー」を研究している過程で、人間との距離を音階・音量で表現する楽器「テルミン」を作り出しました(1920)。




僕は音楽にはそれほど詳しくなくて、テルミンも「音を出した」ことはあるけど、演奏とは程遠いレベル。

もっとも、テルミンの演奏は非常に難しく、音楽ができれば使える、と言うようなものではないです。


音楽って、本来連続している音の周波数をあえて「区切る」ことで、人間が認識しやすい数にまとめることで成り立っています。

だから、ピアノでは鍵盤があるし、ギターではフレット(弦の押さえられる位置を決める凸部)があります。


でも、テルミンは「距離」によって音階を決めるので、音が自由に出せすぎてしまい、音楽になりません。


バイオリンもフレットがなく自由な音が出せてしまうため、テルミンは演奏方法は全く違うものの、「バイオリンと類似する楽器」として使われることが多いようです。


ただ、バイオリンの物まねをするのであれば、最初からバイオリンを使う方がいい。

テルミンの性能を最大限に引き出した演奏は、テルミンでしかない味わいが出ます。



「テルミン」と言う映画があります。博士の辿った一生をインタビューなどを中心にまとめた映画ですが、公開された 1993年に博士は亡くなっています。

(作成時点では博士は生きていてインタビューに答えているので「半生記」とすべきなのかもしれません。

 しかし、事実としては博士はインタビュー直後に無くなってしまったため、事実上は博士の一生を追った映画となっています)


日本では 2001 年に夏に公開され、興味があったので見に行きました。

恵比寿ガーデンシネマでの単館上映でした。


映画の内容は…えーと、よく覚えてない!


僕のページ、1996 年からやっているけど、2000年前後に一旦閉鎖して、2001年秋から再公開しています。

そのため、テルミン見た、と言う日記もありません。残念。



手元に今、映画のパンフレットというか、映画について書かれた小冊子があります。

映画館で買ったものなのですが、いわゆるパンフレットのサイズではなく、文庫本サイズ。


普通のパンフレットにしていないのは意味があって、カバーの中に3冊が収まっているのです。


1つは、楽器テルミンと博士の一生について解説した冊子。

もうひとつは、テルミンに魅せられた音楽家や、関係者、映画を一足先に見た著名人などからのメッセージ集。


最後の一つは、冊子ではなくて折りたたまれた紙。広げると、テルミンの回路図が描いてあります。

テルミンは古いだけに回路が単純で、その気になれば簡単に作れます。




メッセージ集には、ビーチボーイズのブライアン・ウィルソンや、最高のテルミン奏者であるクララ・ロックモア、シンセサイザーの始祖として有名なモーグ博士の談話も載っています。


モーグ博士は、「モーグ」シンセサイザー(1965)の開発者として有名ですが、元々テルミンに感化され自分でテルミンを作って販売し、その過程で音を自由に作り出す原理を学んでシンセサイザーを作成したのだそうです。



PDP-8 で MUSYS(1969)を作った Electronic Music Studios Inc. もシンセサイザーメーカー…ということはモーグの影響を受けていますし、MML の始祖と僕が考えている SCORTOS(1977) も、モーグのシンセサイザーを含むいくつかの電子楽器をコンピューターで操作するシステムでした。


なので、テルミン - モーグ - 現代のコンピューター音楽というのは、明らかにつながっているのです。




クララ・ロックモアは、博士から直接演奏法を教わり、博士より上手に演奏ができるようになった、当時最高のテルミン奏者でした。


奏者はそれなりにいたのですが、クララの演奏は次元の違う音です。

映画では、多くの演奏者が出演するのですが、明らかにレベルが違っていました。


クララの演奏は、Youtube などで見ることもできます。


最初に人間との距離によって演奏する、と書きましたが、クララの演奏では手の形を変えています。

厳密に言えば、人間との距離、ではなく、アンテナが電圧を持つことで人間との間に静電気が溜まり、この静電容量によって音を変えています。


距離が変われば静電容量も変わるのですが、電場中の「面積」が変わっても静電容量が変わります。

クララは、手の形を微妙に変えることにより、これをコントロールしているのです。


演奏には非常に集中力が必要なだけでなく、周囲の観客の動静までもが「静電容量」に影響を与えてしまいます。

このため、演奏中は周囲の人も静かにしていなくてはならないそうです。




映画を見に行った頃は、「テルミン」というのはそれほど有名ではない楽器でした。


それ以前にテレビで見たことがあって興味を持っていたのですが、日本で映画公開するまでに 8 年かかっているので、たぶんテレビで見たのもアメリカでの映画公開後だったのでしょう。


今では日本でも知名度が上がっています。

「テルミン」と言えば、名前くらいは知っている人が多いのではないかな、と言う程度には。



先に「クララ・ロックモアの演奏は次元が違う」と書きましたが、それは映画公開前の話。

今では、日本でも非常に高いレベルの演奏を行うテルミン奏者が多数います。


遊んでみたいなら雑誌の付録で入手できてしまうくらい。


もっとも、最初に書いた通り僕はそれほど音楽に詳しくなくて、生演奏のコンサートを見に行ったこともないですし、テルミンも持ってはいません。



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ミヒャエル・エンデの命日(1995)  2014-08-28 13:35:21  今日は何の日

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今日はミヒャエル・エンデの命日(1995)。


エンデの誕生日(11/12)に書きたいこと大体書いたので、リンクしておきます



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ジョン・モークリーの誕生日(1907)  2014-08-30 17:30:09  コンピュータ 今日は何の日

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ENIAC を作った2人のうちの一人です。

もう一人のジョン・エッカートは過去に記事を書きました。


モークリーは ENIAC を構想した人で、エッカートは実際に作った人でした。




ENIAC の設計前、気象学の仮説として「十分なパラメータがあれば、気象は完全に予測できる」と言うものがありました。

この頃、経験と勘で天気予報を行うことはあったけど、完全に出来るかどうかは不明だったのね。



モークリーは、この仮説を実証したかったのだけど、「完全なパラメーター」がわからないし、もしパラメータが入手できても、膨大な計算が必要だと予測されました。


それどころか、いま手に入るパラメーターを計算するだけでも、手回し計算機ではとても間に合いません。

恐らく、当時最高速だったリレー計算機や、アナログの微分解析機を使ってもダメでしょう。


#アナログと言うと遅そうですが、微分解析機はデジタルが「遅すぎるから」作られた機械でした。



そこで、超高速の計算機を作るにはどうすればよいかを考え始めます。


モークリーは自分で勉強をして、真空管を使えばリレー回路と同等の回路をくみ上げ、物理的な動作が無い分だけ高速に計算ができそうだ、という考えに辿りつきます。


モークリーはいくつかの試作機を作りますが、電子回路設計の体系だった知識は持ち合わせていませんでした。


その頃、ヨーロッパで第2次世界大戦がはじまります。

アメリカでも参戦は免れないとの考えが広まり、戦時要員の確保のために、電気工学者の養成講座が開かれることになりました。


モークリーはこの養成講座に参加します。最年長の受講生でした。

しかし、この講座の目的は「素人に最低限の電気工学を教える」ためのもので、独学とはいえ計算機を試作しているモークリーにとっては満足できるものではありませんでした。



しかし、彼はここでエッカートと出会います。




エッカートは、最年少の講師でした。

電気工学の天才で、若くして講師に選ばれていたのです。


モークリーは、講座の参加者の前で、真空管を使えば超高速の計算機が作れるはずだ…という自分の考えを披露しました。


素人の集まりの中では、この主張はあまり理解されなかったようです。

また、熟練した講師陣に於いては、壊れやすく不安定な真空管を何本も組み合わせる回路など、実現できるようには思えませんでした。



ただ一人、講師の中で最年少のエッカートだけが、この考えに共感しました。

ここに、最年長で最も知識を持った「素人」と、最年少で経験の浅い「専門家」のタッグが組まれます。


やろうとしていることは、理論的には出来るはずでした。

ただ、経験があればそれがどれだけ難しいかわかるのに、中途半端な知識ゆえに前に踏み出すことができたのです。




ところで、先に「アナログの微分解析機」という話題を出しました。


電気工学者養成講座が行われたペンシルバニア大学ムーア校では、この微分解析機を使った、大砲の弾道計算業務を請け負っていました。


大砲を打つ際には、角度と火薬の量、風向き・湿度・気温など、非常に多くのパラメーターを考慮する必要があります。


当時の大砲は急に高性能になり、地平線の向こうまで届くようになっていました。

敵を狙う際に「撃ってみて、着弾点を見て少し方向修正する」という従来の方法は使えないのです。


そこで、多くのパラメーターを考慮して、撃ったらどこに着弾するか、をすぐに調べられる「射表」を使って敵を狙う必要がありました。


この計算がとにかく大変で…地平線の向こうまで届くのですから、わずかな計算誤差が非常に大きくなります。

砲弾の飛行中の動きを全て計算し、着弾までをシミュレーションすると、当時最高の計算能力を持つ微分解析機ですら、射表を1つ完成させるのに1か月かかっていたのです。



戦局が動き、新たな地が戦場になると、湿度や気温などが大きく変わるため、新たな射表が必要となりました。

新兵器が開発されると、砲弾の空気抵抗などがすべて変わるため、新たな射表が必要となりました。


1つの射表に1か月もかかっていては、とても戦えません。

ムーア校に計算業務を委託していた陸軍では、もっと早い計算機を必要としていました。



そこに、モークリーとエッカートが超高速の計算機を作ろうとしている、という話が届きます。

射表計算を統括していた陸軍将校ゴールドスタインは、この計画にすぐに資金提供を申し出ます。


そうして、ENIAC の開発が始まるのです。




ENIAC に関しては、ずっと昔に書いた記事を読んでね。

もっと、このページのごく初期に書いた(もう17年も前だ)ものなので、今見ると拙い記事ですが。


まぁ、ざっとまとめると ENIAC は以下のようなものです。


・「世界初のコンピューター」として、広く知られています。


・でも、今のコンピューターと違って2進法ではなく、10進法を使っています。


・配線板があって、配線を変えることで計算内容を変えられます。

 今のように、メモリにプログラムを書き込む方式ではありません。


・つまり「世界最初のデジタル電子計算機」ではありますが、現代人の考えるコンピューターとは全然違います。




ENIAC の作成中から、モークリーとエッカートは「次の機械」を構想していました。


ENIAC は10進法ですが、これは陸軍の「技術に詳しくない」人々を納得させるために、あえて手回し計算機と同じ構造を採用している節があります。

もっとも、モークリーとエッカートも、設計当初はちょっとした勘違いで「2進数より10進数の方が良い」と考えていたようですが…


また、配線板によるプログラムは複雑で、内蔵したメモリにプログラムを書き込む、というアイディアも、すでに出ていました。


2進法の採用と、プログラム内蔵方式。この二つのアイディアを中心として構想されたのが、EDVAC でした。

これは、ENIAC に比べるとずっと現代のコンピューターに近いものです。


…が、途中からプロジェクトに参加した(というか、呼ばれてもいないのに割り込んできた)フォン・ノイマンによってプロジェクトチームが分裂、完成が大幅に遅れます。


モークリーとエッカートは、プロジェクト途中で離脱、「エッカート・モークリー・コンピューティング・カンパニー」を設立し、商用機である BINAC を作成します。


この会社はその後資金繰りで躓いて、レミントン・ランド社に身売り。

安定した資金で二人はそのまま開発を続け、商用コンピューターとして最初のヒット商品である「UNIVAC-I」を生み出します。


ここら辺の経緯は、エッカートの誕生日の際に書いていますので、そちらを参照してください。



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ピエール・ベジェの誕生日(1910)  2014-09-01 14:34:31  コンピュータ 今日は何の日

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今日はピエール・ベジェの誕生日。

命日の際にも書いていますが、非常に短いので再掲。




ベジェ曲線に名前を残す数学者です。もっとも、自由曲線は当時急に必要となったもので、多くの人が、同じような式を発見しています。


特に、ベジェとド・カステリョは全く同じ式にたどり着きました。先に発見したのはド・カステリョ。

しかし、どちらの式も当時は企業秘密。先に企業秘密が解除され、発表できたのはベジェでした。


このため、この式で描く曲線をベジェ曲線と呼びます。

ただし、アルゴリズムはド・カステリョのアルゴリズムと呼ばれます。


詳細は、ベジェ曲線から、NURBS曲面までの歴史を読んでみてね。



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ジョン・マッカーシーの誕生日(1927)  2014-09-04 10:07:33  コンピュータ 今日は何の日

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去年は翌日に書いたのだよね…

日付記録の意味もあり、今日が誕生日だと書いておきます。


ジョン・マッカーシーは人工知能の父と呼ばれる研究者で、Lisp 言語の設計者。


それよりも、MIT の学生ハッカーたちの守護者的な側面があり、プログラムの楽しさを普及させたことに功績があると思っています。


詳しくは去年の記事を読んでね。



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チャールズ・シモニーの誕生日(1946)  2014-09-10 16:15:45  コンピュータ 今日は何の日

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今日はチャールズ・シモニーの誕生日(1946)。


横井軍平さんの誕生日でもあるけど、それは去年の日記を見てね。




チャールズ・シモニーは Alto の上で、世界初の WYSIWYG ワープロ「Bravo」を実現します(1974)。

僕は Bravoは Smalltalk 上で作られたのかと思っていたのだけど、これは勘違いの模様。


その後、メタプログラミングの概念を提唱(1977)。

ただ、ここでいうメタプログラミングってどのレベルを言うのか、僕の調査不足で不明。


メタプログラムと言うのは「プログラムを生成するプログラム」のことです。

ちょっとした曲芸のように思われてしまうこともあるのだけど、非常に厳密さが要求されるのに、非常に長大になってしまうことがわかっているようなプログラムを、別のプログラムによって自動生成したりするのに使われます。



たとえば、yacc というソフトでは、コンパイラの文法を定義すると、その文法を解析できるC言語のソースを生成します。

実は、文法解析プログラムって、作るのすごく大変なのね。大変と言うのは、難しいというのではなくて、厳密で長大なのでひたすら面倒くさい。

それを自動生成してくれるのです。


これは、ある意味「プログラムを生成するプログラム」です。


ただ、それをメタプログラミングと呼ぶかというと…微妙。

C言語のソースは、Cコンパイラにより、アセンブラのソースを生成します。

(今では直接機械語を生成するのが普通ですが、昔はそうでした)


でも、これをメタプログラミングとは言わない。これは単にコンパイラ。


yacc もメタプログラムとは呼ばれず、Yet Another Compiler Compiler (別のコンパイラを作るコンパイラ)の略です。




メタプログラミングとは、通常は「同じ言語で」作られることに意味があります。


Lisp で Lisp のプログラムを生成し、そのまま実行するとか、Javascript で Javascript のプログラムを生成して、そのまま eval するとか。

…Javascript を圧縮してくれる Packer とか、メタプログラミングになるのかしら?


まぁ、最近ではここら辺は曲芸みたいなものになっているのですが、境界は非常に曖昧なものです。


大切なのは、プログラムでプログラムを生成することによりメリットを得られるのであれば、何も躊躇することは無い、ということ。

プログラムを作るのは人間の知的活動のなせる業だ、と言われていたときにこれを提唱したのは評価に値するでしょう。


ちなみに、曲芸的には僕も「メールアドレスを SPAM ボットに発見されないように Javascript で暗号化したプログラムを生成する Javascript」を作って公開していますので、興味ある人は見てやってください




で、チャールズシモニーの一番の功績だと僕が思っているのは、ハンガリアン記法です。


彼はマイクロソフトに入社し、Excel や Word の開発に関与しています。


多人数でプログラムを行う際の問題を解決する方法として彼が考案した変数表記方法が、今では「ハンガリアン記法」と呼ばれています。

もちろん、彼がハンガリー人であったためこの名前が付けられたのです。


ただ、彼の考案した記法はどうも正しく理解されず「システムハンガリアン」と「アプリケーションンハンガリアン」に分断してしまいました。

彼が考えたのはアプリケーションハンガリアンなのだけど、現在普及しているのはシステムハンガリアンの方。


そして、システムハンガリアンは「全く無意味」です。

アプリケーションハンガリアンのメリットを誤解してシステムハンガリアンが広まり、この記法が全く無意味だと多くの人が感じた時点で、アプリケーションハンガリアンの存在には気づかず誤解されたままこの表記法は消えゆこうとしています。



システムハンガリアンと言うのは、変数名に、その変数の「型」を一緒に入れておこう、と言うもの。

Integer (整数)型であれば、i から始まる名前に、Float (浮動小数点)型であれば、f から始まる名前に…など、名前の付け方を統一します。


これ、全く無意味なだけでなく、弊害の方が大きいです。

後で必要があって変数の型を変えることになったら、変数を使っているところを全部探し出して書き変えないといけない。


それで何かメリットが得られるかと言えば、何も得られない。

変数の型はコンパイラが把握しているから、Integer 型の変数に Float の値を入れようとしたら、警告を出してくれます。

間違えてもコンパイラが警告してくれるのに、わざわざ変数名を工夫して「人間が注意できるように」する必要が無い。



正しい使われ方であるアプリケーションハンガリアンは、「コンパイラが警告を出さない」変数の意味について、名前の付け方を統一します。


たとえば、ドルと円の両方のお金を扱わないといけないプログラムがあった時、ドル関連の変数はすべて d を頭につけ、円関係の変数は全て頭に y を付けることにします。

これで、d と y を混ぜて使おうとしていたら、何かおかしいとプログラマ自身が気づくことになる。


ゲーム作っていて、敵に関する変数は en で、自分に関する変数は my ではじめるとか、そういうのも「アプリケーションハンガリアン」に当たります。


…ハンガリアン記法、と言われなくても、なんとなく心がけているプログラマは多そうですけどね。

ただ、大人数で開発するときはあらかじめルールを決めよう、と言うのは必要なことで、これを明言した功績は大きいです。




彼はこの手法をさらに推し進め、「インテンショナルプログラミング」と言う言語環境も考案したそうです。


僕、よく理解していません。間違っていたら申し訳ないのですが、プログラムを作成するエディタに、アウトラインプロセッサ的なレベル概念を導入しつつ、ユーザーインターフェイスと内部処理を分離しながら緩く結合する、というもののよう。



…はい、何言っているのかわかりませんね。

ちゃんと解説しましょう。


まず、プログラムと言うのは、当然のことですが「全体としてやりたいこと」があるから作るのです。

でも、コンピューターは馬鹿だから、1から10まですべて教えないといけない。10が目的だとすれば、1を大量に積み上げて「10」を表現する必要があります。


でも、この作業が膨大なのですね。プログラム中のいたるところで、ちまちまとして意味の解らない作業が、膨大に発生している。


じゃぁ、そのちまちました作業に「入力がある間全部処理する」とか、「1~10まで足す」とか、「ユーザーの指示を待つ」とか、わかりやすい名前を付けて、見えなくしちゃおうよ…というのがアイディアの一つ目。


これで、細かすぎる部分が見えなくなると、全体の処理の流れが見えやすくなります。


アウトラインプロセッサと言うのはワープロの一種なのですが、章の見出しだけを表示して全体の流れを見やすくしたりしながら推敲をするためのツールです。

そういう機能をプログラム環境にも取り入れよう、というのが、アイディアの一つ目。



もう一つ、インターフェイスビルダーと言うのは、NeXT が備えていたプログラム環境ですね。

画面表示と、プログラムの内部処理を完全に分離しておき、後から画面表示だけを組み替えたりできるようになっています。


Windows では、基本的に画面表示はプログラムの一部として実装されていました。

これでは、作った後に「使いにくかった」と思っても、プログラムを作り直さないと画面表示を変えられません。


(もちろん、画面部品をデータとして持っておき、組み替えられるようにプログラムしておくことはできます。

 ただ、そういうプログラムを作るのは手間がかかります。その手間を最初から肩代わりしてくれるのが、インターフェイスビルダーでした)


これにより、プログラマーは「やりたいこと」だけに集中してプログラムが組める、と言う環境が作られます。




ただ、これは「大いなる野望」ではありましたが、いろいろとややこしいことになり、開発は頓挫したようです。


まぁ、それも判ります。

実のところ、細かな部分にわかりやすい名前を付けて見えなくする…というのは、関数化などで普通のプログラマーなら当たり前にやっていることです。

これをもっと使いやすいように支援しようとしても、煩雑な処理が増えるだけのように見えます。


恐らくは、彼の本当の目的は「意味を名前付ける」ことを繰り返させることで、全体の動作を「知らず知らずにドキュメント化」して、「保守を容易にする」ことだったのだと思います。



先に書いたハンガリアン表記も、保守を容易にする目的でした。


そして、おそらくはメタプログラミングも。

(小さなプログラムによって全体を自動構成すれば、変更が生じた際も小さなプログラムを修正するだけで済みます)


彼の興味は、プログラムを保守しやすくする環境作りにあるのでしょう。


しかし…残念ながら、多くのプログラマーはプログラムが「動く」と満足してしまい、その後の保守のために余計な労力を使おうとはしないのです。

これが、彼の考案したものが、勘違いされたり頓挫したりしながら普及しない原因かと思います。


でも、保守が大切である、と、あるレベル以上のプログラマであれば痛感しているはず。

彼の研究が多くのプログラマーに理解される日があらんことを。



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山本卓眞さんの誕生日(1925)  2014-09-11 11:51:05  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日は山本卓眞さんの誕生日(1925)


元富士通の会長さんです。2012年に亡くなっています


でも、富士通と言う大きなコンピューター会社の会長さんだったから…と言うような甘い理由で紹介したりしません。

元々たたき上げの技術者で、日本のコンピューター黎明期に、独自のコンピューターを設計したチーム(たった3名!)の一人でした。



話は 1950年にさかのぼります。


日本は第2次世界大戦中、1945年に原爆を落とされて無条件降伏を行っています。

この後、戦後は混乱と貧困の時代でした。


しかし、1950年に、朝鮮戦争が起こります。

北朝鮮にはソ連が、韓国にはアメリカが支援を行い、この際アメリカは日本を基地として使用しました。


これにより特需が起こり、日本経済は一気に回復へと向かいます。

この際、株式市場では計算が間に合わなくなり、パンチカード会計機の導入が検討されます。



この際に、富士通にパンチカード会計機を作ってみないかという誘いが来ます。

当時の富士通は電話交換機を作るメーカーでしたが、電話交換機で使われるリレー回路で計算が行えることは、多くの技術者が知っていました。

富士通も、小規模な計算機を作成して多少のノウハウは持っていました。



富士通には池田敏雄という「天才」技術者がいました。

彼は以前からコンピューターに興味を持っており、独学でアメリカから取り寄せたENIACの回路図を元に、小さな回路を動作させたりしていました。


彼を設計の中心として、交換機の設計などを行っていた山口詔規さんと山本さんが補佐として付けられました。

この3人で設計を行うことになります。



池田さんについては、いつかまた書きたいと思うのですが、いろいろ逸話の多い人です。

とにかく、日本のコンピューター黎明期を一人で支えた大天才。


山本さんは池田さんが思い付きのままにどんどん作り出す回路…基本回路だけで5000種類以上一人で短期間に書きあげたそうですが、これらをまとめ上げていく作業を行っていたのだとか。


ただ、池田さんは締め切りのことなど気にせず、面白そうなアイディアをどんどん形にしていくため、最終的にこの計算機は納期に間に合わず不採用。

(厳密に言えば、納期の時点で動作する形にはなったが、信頼性が十分でなかった)



しかし、これにより富士通のコンピューターの「基礎」が出来上がり、続けて富士通初のリレー式計算機となる FACOM の設計に入ります。

この際も、山本さんは中心メンバーの一人を務めています。


FACOM は、最初はリレー式計算機として、後にはパラメトロン(これもいつか詳細を書きたい電子部品)、そしてトランジスタ式のコンピューターへと発展していきます。



池田さんは後にくも膜下出血で急死します。




ここに書いてある内容の多くが「池田敏雄」の物語であることがわかるように、富士通の(そして日本の)コンピューター黎明期を牽引したのは、池田さんでした。

山本卓眞氏は「チームの一員として手伝った」のにすぎません。


しかし、山本さんは富士通の要職についてから、最も近くで見てきた者として、「天才池田敏雄」の存在を伝える語り部のような役割を自ら担って来ました。

山本さんがいなければ、池田さんの物語を詳細に知ることもなかったという点で、山本さんもまた重要人物だと思うのです。



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「テレビテニス」が出荷された日(1975)  2014-09-12 17:38:32  コンピュータ 今日は何の日

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今日は「テレビテニス」が出荷された日(1975)。



家庭用のテレビゲーム機です。

日本で初めて発売されたテレビゲーム、と言うことになっています。19,500円。


この頃って、発売日は今ほど厳密に決めてないのですよね。

だから、「工場から出荷された日」しかわからないようです。



業務用で最初のテレビゲームとされる PONG がアメリカで発売されたのが 1972年。


すぐに日本にも輸入されたようですが、これはアメリカで作られて、輸入販売。

純粋に「国内で発売」と言う意味では、テレビテニスが最初なのでしょう。


発売はエポック社(のちにカセットビジョンを作ります)ですが、マグナボックスとの提携のもと作られたそうですが、たぶん特許を許諾してもらった程度ではないかとのこと。


マグナボックスは、PONG よりも前に家庭用テレビゲーム機 ODYSSEY を発売した会社。

実は、PONG は ODYSSEY で複数遊べたゲームの一つ、「テニス」を元にして作られたゲームです。




僕、テレビテニス見たことないです。

この時代の2万円って、かなり高価。一般家庭に浸透、と言うほどには売れてないんじゃないかな。


なので、あまり語れる内容はないのです。


ゲーム内容については、ネットでの情報を調べ、総合的に考えるとどうやら ODYSSEY のテニスとは違う模様。

ここら辺が、「特許許諾程度」とされる根拠なのかな。


多分、PONG のヒット後ですから、ゲーム的に参考にしたのは PONG なのでしょうね。


PONG のテニスは、ダイヤルひとつで操作しました。

パドルを上下に動かします。


ODYSSEY はダイヤルが2つです。

1つはパドル上下、もう一つは、ボールをカーブさせるのに使います。

ボールにスピンを加えられる、本格的な「テニス」なのですね。

(その代りというか、ボールの基本的な動きは常に 45度です)


テレビテニスは、ダイヤル2つで、上下左右にパドルを動かせるのだそうです。


PONG は得点を機械が把握し、画面上に数値で表示してくれました。

ODYSSEY は、テニスに限らず「場を提供する」だけなので、勝敗を決めるのは人間の責任。

テレビテニスは、得点を記録するためのダイヤルが本体についています。でも、これを回すのは人間の責任。




テレビテニスには、左右に2個づつのダイヤルとは別に、さらに左右それぞれの上に1つづつ、計2つのダイヤルがあります


これ、別の画像で調べたところだと、右側は slow - fast と書いてある。

恐らく、ゲームの速度調整が出来たのではないかな。


そして、左側は 25 - 30 と書いてある。


これは何だろう? リフレッシュレートでも変えられたのかな?


子供の頃我が家にあった当時のゲーム機(テレビテニスの2年後発売の、TV FUN 801)には、カラー調整ダイヤルがありました。

同じような機構が付いている可能性もあります。


ここら辺、当時使っていたり、興味があって入手した人がいたら、教えてください。お願いします。


#教えてもらってどうなるものでもないけど、日本初のテレビゲーム機と言うのは興味を持つ人が多いでしょうから、情報があれば追記させてもらいます。




2014.9.20追記


さて、待望の情報を頂きましたので追記します。


まず、25 - 30 は、表示させるチャンネルの選択でした。

テレビテニスは、電波でテレビに画像を飛ばします。ここに、Uチャンネルを使っているのですね。


Uチャンネルもすでに死語だな。

アナログ放送の時代は、電波帯域として、VHF と UHF が使用されていました。

このうち、1~12チャンネルには VHF が使用され、13~62 チャンネルには UHF が使用されていました。


当時は、1~12 と「U」と書いた13チャンネルのダイヤルがあり、それぞれのチャンネルごとにチューニングを行えるのが普通でした。


ですから、25 - 30 と書いてあっても、6段階の切り替え式ではなく無段階だったのでしょう。

そして、U の方でもチューニングをして画像を出すのです。


余談ですが、現在のデジタル放送では、すべて UHF で放送しています。

そのため、チャンネルは 13~62を使用していますが、リモコンの番号は 1~12 を使うことで、ユーザーが従来と同じ感覚で使用できるようにしています。



情報もう一つ。YouTube にテレビテニスの動画がありました。



動きが…独特です。PONG ではなく、ODYSSEY に近い部分もある。

「特許許諾程度」だろうという推察を見ていたのですが、もしかしたらもう少し手を貸しているかも…


ODYSSEY のテニスは、打ち返した瞬間少しボールが速く動き、遠くに行くと遅くなります。

本物のテニスボールっぽい動きにしているのです。


また、ODYSSEY のテニスは、打ち返した後、ボールの飛び方をコントロールできます。

変化球を出せるのです。



テレビテニスの動画を見ると、打ち返した直後は動きが速く、ボールが「曲がる」場合があります。


…この「曲がる」の条件はよくわかりません。右プレイヤーのパドルの動きと連動するようにも見えます。


右プレイヤーは CPU に設定しているようなので、左プレイヤーがうまく使いこなせていないだけかも。

…対戦だけでなく CPU 設定も出来る、というのがまた驚きの発見です。


一方で、ODYSSEY ではボールの動きは 45度単位でしたが、テレビテニスでは PONG のように微妙な角度に飛んでいきます。


ODYSSEY とも PONG とも違う、中間的な感じです。



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スーパーマリオブラザースの発売日(1985)  2014-09-13 12:01:02  コンピュータ 今日は何の日

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今日はスーパーマリオブラザースの発売日(1985)


「今日は何の日」を書いていて、単にファミコンゲームが発売された日を書くことはしない、と言うルールを自分に課しているのだけど、これは別格です。

単にファミコンゲームと言うのではなく、世界で一番売れたゲームとして長年君臨していたし、その後のテレビゲームのあり方を大きく変えたゲームですから。




もっとも、スーパーマリオに対する僕の思いは、宮本さんの誕生日の時にすでに書いています。


ただ…この時に現在は削除されている Blog 記事を参照したのね。

(Wayback Machine で保存されているので読むことはできる)


そして、この記事に対しては内容がおかしい、と言う批判があることを後で知りました。

批判した人は、ちょっとゲーム界では名が知れた人なので、Blog 記事を書いた人は、この批判で記事を消してしまったようです。


概要だけ書くと、僕が参照した Blog 記事は、「宮本さんはスーパーマリオを作る際に、パックランドを研究して、より面白くするアイディアを加えて作った」というものでした。



批判している人は、パックランド発表からスーパーマリオ発売までの期間は短すぎて、どう考えてもあり得ない、と論を展開していました。


スーパーマリオ発売は 1985年の今日、9月13日なのだけど、製作期間に1年以上は取らないといけないはずだ、というのが反論の趣旨。

ある程度形になってから本格的に始動したとしても、本格始動が1984年の7月でないとおかしい、しかしパックランドは1984年8月発売だ、と言うのが大きな根拠となっていました。


この日程の推測は、ちゃんと根拠を示し、細かな数字を積み上げて「かなりのデスマーチ進行」でもこれだけの日程が必要であることが示してあります。

実際にゲーム作成の経験者として有名な方の解説ですから、それなりに信憑性がありました。




ただ、僕から見ると批判している人の根拠もおかしなものでした。

批判した方はゲーム作成経験があるとは言っても、コンシューマー(家庭用)です。


僕は業務用ゲームを作っていた経験がありますが、コンシューマーと作り方が全然違います。

コンシューマーでは1年程度かけるのが当然だった時代もある(今ではもっとかけるのも普通)のですが、業務用はもっと短期のスパンで作られるのが普通です。


今は僕は現役でないのでわからないのだけど、10年前なら半年程度が普通。余程の大作でも1年と言うのは少なかったように思います。

小粒なゲームなら3か月で作ることもあったし、僕が携わったものでの最短は1か月でした。


#いい加減なゲームじゃなくて、それなりの評価を貰ったゲームです。まぁ、小粒感は拭えないけど。


で、スーパーマリオの頃はまだ「コンシューマー」の歴史は浅くて、家庭用でも業務用と同じノリで作られていました。

ゼルダの伝説以前のファミコンゲームって、ゲームセンターの移植がすごく多かったし、オリジナル作品でもどことなくゲームセンターのノリが残っていました。


1980年代前半なら、業務用でも開発期間は3か月程度が普通でした。

スーパーマリオの頃は少し伸びていたと思うのだけど、それでも6か月程度だったのではないかな。

そして、これは「業務用」だけでなく、ファミコンのゲームでも当てはまる開発期間だったように思います。


というわけで、スーパーマリオがパックランドの研究の元で作られた、と言うのはあり得るんじゃないかな、と言うのが僕の立場。




どちらが正しいかはわからないが、自分も知らずに参照して記事を書いた以上、裏付けを取る責任があるだろうな、と思っていました。


そこで、論争の元となったページ…今では削除されましたが、保存されている…の最後に「参考文献」として示されていた本を古本で見つけ、購入してみました。

その本は本文中でも引用しているので、それなりの根拠があるのだろう…と期待して。



でも、全然違う内容の本でした。

この本自体は、非常に良い資料となります。任天堂のゲーム作りを「ビジネスとして」の視点でとらえ、多くのインタビューによって浮き彫りにした良書。


だけどそこにあるのは会社としての任天堂の姿であり、スーパーマリオの開発話なんて一切入っていませんでした。


どうやら、論争の元となった部分は Blog 作者の勝手な推測記事。

わざわざ関係ない本でも「参考文献」として示すのだから、開発話の部分で参考にしたものがあれば書くでしょう。それが無いのだから、勝手な推測と断じても仕方がないレベル。


ただ、それじゃぁ Blog に書いてあったことが全く嘘なのかと言えば、ある程度の妥当性があったように思います。

推測なら推測だと明記すれば、後から読んだ人の参考に十分なる程度には良い考察をしていました。


それが消されてしまい、人の目に触れなくなったというのはある種の損失だと思います。

「自分の経験」だけで、日程的にあり得ない、完全に嘘だ、と断罪した批判者の罪でもあるでしょう。




ちなみに、批判した方は日程的に1年以上は必要、マスターアップ(プログラムの完成)は、発売の2か月前、と断じていました。


この批判 Blog が書かれた後に任天堂が公式に日程を明らかにしているのですが、「(1985年)2月20日に仕様書を書いて、その半年後にはロム出し」となっています。ロム出し(プログラムの完成)は8月の中ごろ…つまり、発売の1か月前だったようです。


まぁ、こうした日程の読み間違いは批判よりも後に明らかになったことで、批判したこと自体が間違えていたとは思いません。

根拠もない勝手な推測記事だろう、というのは当たっていたようですし、多くの意見が出ること自体は健全な状況です。


ただ、現状では「日程がありえない、嘘を付くな」と批判した方は、「1年はかけているのが当然」という嘘を今でも批判記事として放置したままです。

そして、この批判により、勝手な推測とはいえある程度妥当性のある考察をしていた記事は消されてしまいました。


他人の嘘「だと思ったこと」には容赦ないけど、自分が付いてしまった嘘はほったらかし。

これにより、「多くの意見が出ることが健全」だという観点から言えば、非常に不健全な状態になっています。




僕は、人間は誤るものだと思っています

だから、間違いを書くのも当然。


間違いに気付いた人が批判、反論を出すのは当然の権利です。

ただし、これが言論封殺につながるようなことがあってはなりません。


なぜなら、反論者もまた、間違えて当然だからです。

激しい批判で記事を撤回・消去させたとして、それが後世への損失になることだってあり得る。



ただ、この件に関しては批判者だけが悪いわけではありません。


批判された記事は、「参考文献」から引用した部分から曖昧に推測部分を展開することで、あたかも信憑性のある話のように見せかけています。

これが嘘だと激しく批判されたので、問題となる記事を消して逃げてしまい、謝罪はしなかった。


おそらくは、最初から事実誤認させようという、意図的な悪意があったのでしょう。


ただ、先にも書きましたが、推測にすぎないとはいえ状況証拠はキッチリと押さえた良い記事でした。

推測ですと断りを入れればよいだけの話で、消してしまうのはもったいない。



間違えるのも人間ですが、それが間違いだと気づいたら謙虚に訂正できるのも人間だと思っています。


批判されたら、速やかに検証して、間違いと気づいたら訂正しないといけない。

検証の結果間違いはないと思ったら、そう思った根拠を改めて述べればいい。


――過つは人、許すは神



今回の記事自体が批判記事なので、自戒の念を込めて。




2015.1.16 追記


故・飯野賢治の「スーパーヒットゲーム学」という本に、宮本さんへのインタビューが載っており、そこでパックランドとスーパーマリオの関係性に答えている、ということをコメント欄で教えていただきました。


早速本を入手し、読みました。スーパーマリオのアイデア自体はパックランド登場よりも古いが、どうもゲームとして形にならず、パックランドの登場によって骨子が固まった、とのことのようです。


詳細は別記事にまとめます



2015.9.16 追記


ここで書いた「批判側」の方、自分の批判の間違いに気づいたようで、元記事の最後に「書かれたことすべてが誤りであった」ことのお詫びを書いていました。


その方自身は著名な方だったので、記事を無条件に信じてしまう人もいそうなので危惧していたのですが、安心しました。


#この記事が著名な方に盾突く形で炎上すると怖いので、記事自体へのリンクをしなかったのですが。



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【隆三】 飯野賢治さんの「スーパーヒットゲーム学」という本に、宮本茂さんとの対談が掲載されていますが、パックランドについても触れられており、大体この認識で合っていると思います。 (2014-12-05 05:38:57)

プログラマーの日  2014-09-13 12:36:42  コンピュータ 今日は何の日

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今日はもう一つと言うか、もう二つ書いておこう。


1つ目は、エド・ロバーツの誕生日(1941)。


世界初のパソコンである、Altair 8800 を作った人です。


マイクロソフトは Altair 用の BASIC を作る会社として起業しました。

(だから、ビル・ゲイツはエド・ロバーツの会社である、MITS 社で働いていたことがあります)


去年書いたので、詳細はそちらへ。



2つ目。プログラマーの日。

ロシアの祝日です。(2009年制定)


唐突ですが、今日は今年の何日目の日でしょう?



1、3、5、7、8月は1か月が 31日で、4、6月は 30日でした。

30日を基準とすると、1日多い月がここまでに5回過ぎています。


2月は 28日と2日も足りないので、超過した5回から差し引いて30日にすると、8月までに30日が8回と、3日分過ぎている。


そして、今日は 13日ですから、今日までの日数は 30*8 + 3 + 13 = 256 。


今日は今年 256日目の日です。これが、「プログラマーの日」の制定理由。

(もちろん、閏年は1日ずれて、9月12日になります。)



えっと、この話、ロシア人は 256 と言う数字が「プログラマー」に関係が深い、と言われてみんなが納得できている、と言うことですよね。

理由を知らないとしても、とにかく 256 が特別な数だというコンセンサスは取れている、らしい。



256 を「キリがいい」と言うのはプログラマーの常套句ですが、日本では理解されないことが多いように思います。




蛇足だけど、256 が何であるか理解できない人のために…


256 は 2^8 (2の8乗)、つまり 2*2*2*2 * 2*2*2*2 だというのは聞いたことがある人もいるかもしれません。

コンピューターは2進数だから、2 を掛け合わせて作れるこの数は特別なのだよ…と。


ただ、それだけなら 64 でも 128 でもいいはず。

(いや、実際それらも切りの良い数ではあるのですが)


256 が特別なのは、「8乗」の 8 もまた、2^3 として表せるから。

128 = 2^7 、64 = 2^6 だけど、7 や 6 は2の累乗で表せないのです。


もっとも、8が「2^3」なのは、ここで終わってしまって美しくない。

3 ではなくて 4 なら 2^2 になるのでもっと美しい。


2^16 = 2^(2^4) = 2^(2^(2^2)) = 65536 ですね。

ドラクエのゴールドの上限値として良く知られる値です。

(65536 種類の数値を表現できるけど、0 が起点となるので、65535 が上限)


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追悼 ダグ・スミス  2014-09-14 16:47:49  今日は何の日

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ダグ・スミスが亡くなったそうです。

訃報を聞いたのは昨日の朝でしたが、すぐには追悼記事が書けずに今日となりました。




ダグ・スミスはロードランナーの作者です。

このゲーム、今の若い人はあまり知らないのかもしれない。もしくは、知っていても当時のインパクトがわからないかも。


これ以前のテレビゲームって、「アクション」と「パズル」は別のゲームジャンルでした。

一瞬の判断を要求されるアクションゲームと、時間はどんなにかかってもいいから考え抜かないといけないパズルゲームは別のジャンル。


この二つを融合させ、「考えながらも瞬時の判断とテクニックを要求される」ゲームを始めて作りだしたのが、ロードランナーでした。



もっとも、ダグ・スミスは最初から「アクションパズル」と呼ばれるものを作ろうとしたわけではなく、単にアクションゲームが作りたかったようです。


当初は忙しく敵から逃げ回りながら金塊を回収し、出口に向かうという…古くは「ルパン三世」に見るような回収型アクションを作りたかったらしいのね。


ところが、敵の動きを決めるルーチンにバグがあり、初期のバージョンでは奇妙な動きをしました。

追いかけてくるはずの敵が、時に自分から逃げてしまったり、不思議な行動をとるのです。


ダグは、なぜバグが生じているのかを突き止め、修正しました。

これで当初予定していたように、敵は自分を追いかけ続けるようになったのですが…ゲームはつまらなくなりました。


おかしな動きをする敵によって、「考える」時間が生じていましたし、場合によっては「敵を上手に誘導する」面白さも生じていたのです。

敵がまっすぐに追いかけてくることで、これらの面白さが失われてしまいました。


ダグは、バグを元通りに戻し、これはバグではなく「仕様」となりました。

でも、なにぶんバグなので、移植版では動きが異なっていることも多く、意図したとおりにパズルが解けない(難易度が高すぎる・低すぎるなど)などの問題もあったようです。


世界初の「アクションパズル」とされるロードランナーは、バグによって生み出されたのです。




ロードランナーはブローダーバンド社から発売されていました。


ブローダーバンドは、「仲間たち」と言う意味のスカンジナビア語。

創業者であるダグ・カールストンが、自作のゲーム「ギャラクティック・サガ」を販売するために作った会社でした。


ゲームは宇宙を舞台とした戦略ゲームで、恒星間を航行する「仲間たち」を保護するのがプレイヤーに与えられる任務でした。


このゲームは、それなりに売れて儲かったのですが、大ヒットとはならず。

しかし、これで「ゲーム販売会社」となったブローダーバンドの元に、日本の「スタークラフト」からアメリカでの販売を任せたい、と提携の申し出がありました。


この時に販売権を得た、日本人プログラマ「トニー・スズキ」による「ギャラクシアン」(ナムコの許可を得ないで作られたコピー作品)が大ヒット。

ブローダーバンドは、個人が作ったゲームを買い取って販売する、と言う方向に舵を切ります。




さて、そんなブローダーバンドからロードランナーが発売になるわけですが、発売前には紆余曲折がありました。


まず、ロードランナーは最初からブローダーバンドに持ち込まれたのではありません。

当時は、ブローダーバンドは2番手、1番のゲーム会社はシエラ・オンラインでした。


そこで、ダグ・スミスもシエラ・オンラインにゲームを持ち込みます。

しかし、シエラ・オンラインは急成長による大企業病になっていて、社内稟議に非常に時間がかかる状態になっていました。


持ち込みゲームの採用担当は、ロードランナーを気に入って採用しようとするのですが、この稟議に余りに時間がかかりすぎ、ダグ・スミスは「返事がないのだから駄目なのだろう」とブローダーバンドに持ち込みます。


ブローダーバンドでもこのゲームを気に入りましたが、採用し販売するのに際し、いくつかの条件が出されました。


白黒画面だったので、カラー対応にすること。ジョイスティックでの操作に対応すること。ユーザーが面の構造をエディットできるようにすること、など。


そうした条件の一つに「他の床と区別のつかない落とし穴を作ること」がありました。

これに対応するために、データ構造を全部2重化する必要があったそうです。


#それまでは、「見た目」と「実際」が同じとなる構造だったのだけど、落とし穴は「見た目が床で、実際は何もない」ところなので、見た目と実際の2重構造にする必要があった、らしい。



この落とし穴、賛否両論ですが結果としては大成功のアイディアだったと思います。

パズルゲームなのに見た目でわからない、つまり「すべての情報が明かされない」と言うのは良くないという意見がある一方、アクションゲームとして見た時には、思わぬところに落とし穴があった時の悔しさ…「面の作者にやられた」感は、言いようのないものでした。


アイレムにより業務用に移植されたときは、シリーズ初期は落とし穴は存在しませんでした。

お金を入れて遊ぶゲームに「明かされない情報」があるのは良くないと考えたのでしょう。


しかし、こちらも人気が出てシリーズを重ねるうちに落とし穴が採用されました。

やはり、ロードランナーの楽しさに落とし穴は必要、と判断されたのだと思います。




チャンピオンシップロードランナー、というのも発売されました。

こちらは、面エディット機能によってユーザーから集められた面から、特に難しい 50面を入れたものです。


先に書きましたが、敵の動きはわざと「バグ」を含んでいました。

このため、移植によって敵の動きにはばらつきがありました。


しかし、チャンピオンシップでは、敵の動きが非常に重要になっているものが多く、移植に際しても統一されていたようです。


面エディット機能と言うのもロードランナー以前にはなかった概念で、この機能によって新たに「チャンピオンシップ」が生み出されたこともあってか、この後に作られたゲームでは良く真似された機能です。



#後日追記(2014.9.23)

 エディット機能がロードランナー以前にはなかった、と書きましたが、後で倉庫番を思い出しました。

 時期的にロードランナーの直前で、エディットがあり、アメリカでも発売されてヒットしました。

 難しい面を自作するコンテストを開催するなど、類似点多し。

 ロードランナーは倉庫番の販売戦略を真似したのかもしれません。




ロードランナー以前は、敵と言うのはとにかく「触れてはならない」ものでした。


しかし、ロードランナーでは敵の頭の上に乗ってもミスにはなりません。

これは、敵のかわし方として「穴に落として頭上を歩く」と言うシチュエーションがあるためなのですが、穴に落とさなくても頭に乗れるため、チャンピオンシップではこれを使った面構成などもありました。


敵に近づくのは危険なのに、上に乗ることがどうしても必要になってくる。

これは、スリルのある、よく出来たアイディアでした。


恐らくは、スーパーマリオが「乗っかると敵を倒せる」のも、ロードランナーから来た発想の一つ。


#もっとも、スーパーマリオの前にパックランドが「敵の頭の上に乗れる」を取り入れているので、スーパーマリオはパックランドのアイディアを押し進めたようにも思います。


個人的には、業務用(とMSX移植)が大好きだった「フェアリーランドストーリー」で敵の頭の上に乗れたのが思い出されます。

敵の頭に乗らないと進めない部分とかあるから、何も考えずに敵を倒すと「詰んだ」状態になってしまうのですよねー。




ブローダーバンドとしては、多分最初が「ギャラクティック・サガ」の会社だから壮大なストーリーを付けるのが好きで、ロードランナーは「バンゲリング帝国三部作」の1つとされています。


悪の帝国「バンゲリング」と言うのがあり、民衆は圧政で苦しんでいるのね。


この帝国を倒すべく、軍需工場の空爆作戦を行うのが「バンゲリング・ベイ」。

民衆を圧政から救うため、独裁者が民衆から集めた富を金塊として隠し持っているのを奪い返すのが「ロードランナー」。

バンゲリング帝国との戦いで捕虜となった友軍兵士を救い出すのが「チョップリフター」。


でも、作者は別々で、ストーリーはブローダーバンド社が後から勝手につけたもの。


だから、重税により民衆から取り立てた金塊を取り戻す…はずなのに、タイトルが「ロード」(Lode : 坑道)だったりする。

金鉱から勝手に金を奪っていく泥棒のお話だよねぇ?



ちなみに、ずっとのちに別の会社から発売になる「シムシティ」は、バンゲリング・ベイの作者によるもの。

バンゲリング・ベイの地形エディタを作ろうと思って、ある程度地形を勝手に生成するから、そこに街などの設計図を大まかに示すと、勝手にそれらしい地形にしてくれる…と言うものを作っていたら、面白かったのでゲームとしての体裁を整えたのだとか。




ちなみに、僕はロードランナーはファミコンでやったクチ。

でも、あの左右スクロールは嫌だった。友人宅でFM-7版をやり、おもちゃ屋店頭でSEGA版をやり、「何でファミコンは画面構成が違うのか。キャラは小さくても、1画面に収まっている方がパズルとして遊びやすいのに」と思っていました。


今となっては、ファミコンのハード上の仕様で、ブロックサイズをあれより小さくできなかったのだとわかりますけどね。


チャンピオンシップは友人に借りて…借りている短期間で全部クリアしましたけど、こちらはポーズ中に画面をスクロールさせ、範囲外も見ることができるため「まだマシ」でした。



話は飛ぶけど、MSX 版のチャンピオンシップ、ソニーが作ったものですが、ソニーオリジナルの面が 20面くわえられていて(本来の面は10面減らされている)、特にオリジナル最終面は当時の何かの雑誌に「最高難易度」と書かれていました。


ちょっと遊びたかった気がします。逆さにして LOVE の面、だったかな。



#当時の雑誌で読んだうろ覚えの記憶を中心に書いています。間違えている部分もあるかもしれません。



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エンジニアの日(インドの祝日)  2014-09-15 13:10:27  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日はインドの祝日、「エンジニアの日」。


インドで多くのダムを作ったエンジニア、Sir Mokshagundam Visvesvaraya (…読めない。モッシャンダム・ヴィスヴェスバラーヤ、でいいのかな?)の誕生日にちなんで制定されました。


なんでインドの祝日の話なんて出すのかって?

世界中で「エンジニアの日」が制定されているのに、日本にはないからですよ!



エンジニアって、国の知的生産力を支える非常に重要な存在です。

だから、多くの国で、祝日にまではなってないにせよ、エンジニアを称える日を制定しています。


先日、ロシアの「プログラマーの日」だと書いたけど、ロシアはエンジニア関係をものすごく讃えていて、宇宙飛行士の日もあるし、宇宙飛行士を称える壁画(レリーフ)も公式に作っています。

このレリーフの中には、宇宙飛行士だけでなく、科学者やロケットの設計技師、プログラマーなど、多くの技術者の姿も描かれている。ロシアでは、技術者は讃えられているのです。



アメリカでは「フリーメイソン」って組織があって、ムー的には悪の秘密結社だったりするけど、もともとは石工組合から起こって、エンジニア一般の組合になったものだとされてます。

シンボルの1つは、コンパスと直角定規で、エンジニアであることを意味するものです。


中世においては、エンジニアは尊敬され、特別な地位を持っていました。

だから職業組合が発達して、政治にまで影響力を及ぼすようになったのです。

(ムー的に悪の秘密結社なのはこのためで、フリーメイソンが政治を動かして歴史を闇で動かしていると…)



そんなわけで、世界中でエンジニアは称えられるのだけど、日本ではエンジニアって軽んじられる存在。

社会基盤を支え、日常生活を守ってくれているのに、大抵は給料も安くて仕事もきつい。


エンジニアになりたい、なんて人はどんどん減っています。

そして、それは生活を脅かす事態でしかないのに、多くの人はそのことに気付いていません。


なぜなら、エンジニアは軽んじられているから。

彼らが社会を支えていることは気づかれておらず、いなくなっても問題はない、くらいにしか認識されていない。




もちろん、エンジニアの重要性をわかっている会社はありますよ。

ものづくりをしている会社は、エンジニアがいないと商品が開発できない。

そういう会社はエンジニアを大切にしている。


それでも…そういう会社ですらも、エンジニアはあまり日の目を見ることが無い。



なぜ日の目を見ないかと言うと、技術上の苦労話をしても、誰も興味を持たないから。

ここでも、「会社内」では大切にしていても、「世間一般」との常識の乖離により、エンジニアは称えられることが少ないのです。


エンジニアが重要である、というのは、心ある一部の会社や組織内だけでの認識で、世の大多数にとってエンジニアなんて興味の対象外なのです。




インドでは、カースト制があります。

仕事は世襲制で、子供は親の仕事を受け継ぐか、もっとカーストの「下位の」仕事をするしかない。


これ、悪いように言われますが、昔から続く生活の知恵でもあります。


インドは昔から非常に人口が多かったので、皆で仕事をわけあわないと、失業して死者が出た。

だから、仕事を細分化し、自分の仕事以外は「やってはならない」ことにして、みんなに仕事が回るようにしたのです。

そして、無用な競争を避けるため、ある種の仕事をする人が急に増えたりしないようにしたのです。


このカースト制にはちょっとしたトリックがありまして、今までになかった新しい仕事と言うのは、カーストの「最下層の仕事」とされます。

それがどんなに重要な、金を生む仕事であってもです。


エンジニアも比較的新しい仕事のため、カーストの最下層の仕事。

でも、重要技術なので非常に金を生みます。国力を上げ、国民全員を幸せにする仕事でもあります。


だから、インドは貧困層に対し、エンジニアになるための教育を熱心に行っています。

優れたエンジニアになることは貧困から抜け出すチャンスでもありますし、優れたエンジニアはみんなのあこがれでもあり、尊敬されるのです。


カーストと言うのは宗教上の物であって、経済上の「儲け」や、民衆の「尊敬」とは別物。

ここが非常に良くできていて、カースト最上位の王様はもちろんお金持ちで尊敬されますが、カースト最下位のエンジニアも、優れていれば金持ちで尊敬される存在になれるのです。


そして、優れた技術を持ち、国民を幸せにしたエンジニア…Sir Mokshagundam Visvesvaraya は、王からも尊敬されるような人物でした。

だから、誕生日が祝日とされたのです。



インドでは、映画スターもカースト最下位の仕事ですね。

インドでは映画産業が盛んで、時々世界的に有名になる映画が出るのは皆さんご存知の通り。




翻って日本。


最初に書いたように、エンジニアは軽んじられています。

というか、エンジニアに必要な「論理思考」自体が軽んじられている雰囲気がある。


必要なのは、理系の知識「ではなく」、論理的な思考ができるかどうか。


でも、今の日本では、論理的な思考を展開する人は、めんどくさい人であり、ウザイ奴であり、疎んじられます。

もっと軽い、直情型の人の方が注目を浴びやすい。


それが悪い、と言うのではないですよ。多様性は重要なことです。直情型の人材はみんなを牽引する力を発揮します。

世にとって重要な人材であることは間違いありません。


ただ、そうした人材が注目を浴びることと、その逆のタイプが疎んじられることは別問題。

違うタイプは車輪の両輪ですから、逆のタイプにももっと注目が集まらないといけない。



まぁ、わかっている人はわかっていて、この傾向は1980年代ごろから起こり始めたのですが、1990年ごろには「将来のエンジニアを育てなくては」と言う動きは各所で始まっています。

2008年から始まった「未来技術遺産」登録の制度なんかも、もっとエンジニアリングの重要性を伝えていこうという意図があるし。



取り組みは数多いので、徐々にでも変わってくれればよいかと思います。


この文章を読んだ人が、少しでも「技術者のお仕事」に興味を持ってくれれば…いや、興味を持たないでもいい。町工場で油まみれで機械作っている人を「実はすごいのかも」って思ってもらえるだけでも、世を変える一歩となるでしょう。




蛇足1。


長い文章を書いていると、すぐに盛り込めない話題が出てしまいます (^^;

文章下手でスミマセンが、蛇足の追記。


アメリカでは「国民全員がコンピュータープログラムを出来るようにしよう」という政策で盛り上がっています。


一方、国内では職業プログラマーであっても「そんなこと、できるわけないじゃん」と言う反応。

まぁ、職業プログラマだからこそ、プログラムの難しさを知っていますからね。



でも、ちょっと誤解がある。

「全員がプログラムできるように」というのは、本当にコンピューター言語を使いこなせるようにすることが目的ではなくて、論理的な思考力を身につけさせよう、と言う意味合いです。


論理的な思考能力を身に着ける一番手っ取り早い方法は、自分でプログラムをしてみること。

人間相手に教えてもらっていたら時間の制限などもありますけど、コンピューターはあなたがどんなにエラーを出しても、根気よく付き合ってくれます。

あなたも投げ出さないでやり続ける必要がありますけど。


そして、見事に思い通りに動けば、それが正解だと瞬時にわかります。



別の方法でも論理的な思考力は養えるけど、「プログラムが作れるように」というのは、わかりやすいし、誰もが試しやすい方法ではあるのです。




蛇足2。


「ジョブズみたいな人材が現れない」と嘆く人が多いけど、実は必要なのはウォズだ、と言う話でもあります。

ジョブズはウォズが支えたから最初の成功を得て、その後の仕事に繋がったのですよ。


優れたエンジニアがいないと、優れたアイディアは世に出ないのです。



#日本には、優等生的に「優れた」エンジニアは多数いますが、ウォズみたいな変態(褒め言葉)レベルはあまりいないように思います。



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ベンジャミン・トロットの誕生日(1977)  2014-09-22 11:40:06  コンピュータ 今日は何の日

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今日はベンジャミン・トロット(Benjamin Trott)の誕生日(1977)。


誰? って反応で正常。名前はあまり有名ではありません。

では、シックス・アパート社は?

…これでも思い出せなければ、ムーバブル・タイプ(Movable Type)は覚えてますでしょうか?


残念ながら、覚えているかどうかではなく、最初から「知らない」人も多いかもね。

「ブログ」という言葉をブームにしたソフトウェアがムーバブル・タイプで、それを作った会社がシックスアパート。


ソフトを作り、会社を創業したのがベンジャミン・トロットです。




一時期「ブログと言えばムーバブル・タイプ」であり、これ以外の方法で WEB ページを作るなんて時代遅れ!

と言う感じになっていましたが、現在は同じ地位にワードプレス(Word Press)が収まっています。


ブログっていうのは、本来 WEB LOG の意味でした。


インターネットの「海」を進んだ記録を残す航海日誌(LOG)。

つまるところ、自分が面白いと思ったページの URL を、短文の感想と共に紹介する、日本的に言えばWEBニュースサイトの形式。


でも、URL を示すものでなくても、日々の作業日誌(LOG)などを記して、プログラムや工作の作業状況を公開するようなページも WEB LOG と呼ばれるようになりました。

で、この頃から「WEB に限らないのだから」と、BLOG 、という言い方に変遷していきます。


日本だとほとんど BLOG = 日記、と捉えられている感じがするのですが、日記は DIARY であって、LOG ではありません。

英語ページとかみてると、BLOG は大抵テーマを絞り込んでいます。

テーマを絞って、有用な情報を残そうとするものが、日誌 = LOG なのです。




ムーバブル・タイプ以前は、大抵の人が HTML を直書きしていました。

でも、BLOG という形式があまりに一般化したから、一部の人は自分用に BLOG を自動的に生成するソフトを作りはじめます。


この中で、高機能なものを作って販売しよう、としたのがベンジャミン・トロットであり、その製品がムーバブル・タイプでした。


特に目玉だった機能の一つが「トラック・バック」。

HTML は単方向リンクとして設計されていますが、Xanadu 的な「双方向リンク」を実現する試みでした。


ムーバブル・タイプで作られた記事に対し、ムーバーブル・タイプで「関連話題」を展開しようとした際に、トラック・バックが使えます。

後から書かれた関連記事が元の記事にリンクを作れるのは当然ですが、先に存在していた記事の方にも、「後から書かれた関連記事がある」ことを、機械的に挿入できます。


機械的に行われるため、元記事の作者の手を煩わせることはありません。



従来の HTML では、関連話題を書いても、元の記事からリンクしてもらうためには、作者さんに連絡し、リンクを貰うなどの手間が必要でした。

ましてや「批判記事」「反論記事」などでは、リンクを貰うことは絶望的です。


トラック・バックは、こうした問題を解消する画期的アイディアでした。


シックス・アパートは、トラック・バックを作るためのプロトコルなども公開し、他のブログシステムにも広く実装を呼びかけました。

そのため、ムーバブル・タイプ以外でもトラック・バックが使えるようになっていきます。



ムーバブル・タイプは、プラグイン構造によって機能をカスタマイズできるように作ってありました。

多くのユーザーがプラグインを作りました。この中に、RSS Feed も多数ありました。


当時、RSS という仕組みはすでに存在していました。

念のために書いておくと、更新された記事などを通知するための仕組みです。


しかし、HTML を手書きで作っていた時代には、RSS もまた、手書きで作る必要がありました。

そのためあまり活用されているとは言えない状況でした。


ムーバブル・タイプの RSS プラグインは、こうした状況を変えるものでした。

HTML は、ユーザーが書いたテキストを元に自動生成されます。そして、それと同じように RSS も自動生成します。


もう、手間をかけて整合性を確認しながら手書きする必要はないのです。




トラックバックと RSS は、ムーバブル・タイプを真似した後追いのブログシステムにも実装されていきます。

しかしそれはまた、「類似のシステムだらけ」になっていくことも意味します。


そして、類似システムだらけの中では、利用ユーザーが多いムーバブル・タイプを使うのが一番良い方法でした。

トラブルがあっても、大抵は誰かが解決方法を見つけ、情報公開しています。

プラグインもたくさんあり、その使い方ノウハウも多くの人が書いています。



最初に書いた、「ブログと言えばムーバブル・タイプ」と呼ばれた時期は、こうした過程の後に作られました。

この状況は数年続きました。




今では、ワードプレスがとってかわり、シックスアパート社も合併され、無くなっています。

(ブランドとしてのシックス・アパートはまだ残っています)


トラックバックも、機械的であるがゆえに SPAM に使われるようになってしまって、今では嫌われている状況…

(トラックバックの機能を持っていても使わない、という設定にする人が多いです)



ワードプレスは現状一番使われているブログソフトですが、これもユーザー数が多いから使われ、どんどんユーザー数が増える、という状況になっています。



えーと、僕はムーバブル・タイプが流行する前に自分で「自分向けのコンテンツ・マネジメント・システム」を作って使っていたので、ムーバブル・タイプを使ったことは無いです。


ワードプレスも使ってないけど、知人が使っていてよく相談を受けます。

「寄らば大樹の陰」で使い始めてみたけど、余りに使いにくいので困っている…と。

dis るつもりはありませんが、多くの開発者が寄ってたかって開発した結果、機能は確かに多いのだけど、すべてがちぐはぐで使いにくい感じ。



あることをするのには方法がいくつもあるのに、類似する別のことをする方法は存在しなかったり…

(用意されていない、のではなく、全くできない。最初からそのような使い方が想定されていない。

 実現したい人が多いようで、実現ノウハウのページも多数あるのですが、ソフト本体を書き変えるのでバージョンアップの度にやり直さないといけない…)


「HTML でしか結果を返さないので、HTML を元にタグを削る正規表現を書いて生データを得る」なんてバッドノウハウがゴロゴロあります。



…でも、寄らば大樹の陰は事実なんだよね。

他のブログシステムで同じような状況になったら、バッドノウハウすら見つからないのだから。

バッドノウハウでも、ノウハウがネット上で探せるだけありがたいというか…




企業向けのシステムなのでブログっていうのとはちょっと違うのですが、アサヒネットが mo'n brand っていうCMS (コンテンツマネジメントシステム)を作ってるですよ。


筒井康隆さんも、これを使って笑犬楼大通りってブログ書いてる。

(ブログと言うか、エッセイと言ったほうが良いのか)



企業向けなので、各支店が記事を書いても、本店側で許可しないと公開できないとか、地味だけどいろんな仕組みがある。

小売店なんかの支店がいっぱいあるような企業向けを想定していたのだけど、キャバクラで女の子が一人づつブログ持っていて、書いたことは店が必ずチェックする、なんて使い方もされているらしい。


そういう企業はサーバー管理なんてできない(能力の問題ではなく、それは本業ではないのでやりたくない)のが普通だから、クラウド貸しで、初期設定まで込みです。

ドメイン取得からサイトデザインまで全部やってくれて、あとは記事を書くだけ、ってところまで設定してくれる。


値段も、企業向けとしては安い。(小売店チェーン狙いだからね)


余りこういう機能を持った CMS って無いようで、人気があるそうです。



…だから何とは言えない。

一応言ってもよい許可は得ているけど、広く公開していいのかは聞いてないから。


まぁ、使ってあげてください。

使ってもらっても僕に一銭も入りませんが、嬉しくはあります。



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アラン・シュガートの誕生日(1930)  2014-09-27 11:50:42  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、アラン・シュガートの誕生日(1930)。


その昔、シュガート・アソシエイツという有名な会社を設立しました。


そんな会社知らない? でも、この会社が作ったインターフェイス規格は超有名。

「シュガート・アソシエイツ・システム・インターフェイス」、略して SASI って言います。


これでもわからなければ、この規格を元に業界標準にしたものが SCSI だと言えばわかってもらえるでしょうか。


さらに、後に「シュガート」とよく似た音の別の会社「シーゲート」を設立し、ハードディスクを発売します。

この時には SASI と違う規格を作り、この規格を元に IDE が作られ、さらに標準化されて ATA となります。




シュガートは、元々 IBM の技術者でした。

入社時(1951)、IBM は IBM 305 の開発中で、シュガートもこの開発に参加します。


IBM 305 は汎用機用の外部記憶システムで、世界初の「ハードディスク」が接続された機械でした。

これ以前は、類似のものとして磁気ドラムが使用されています。


磁気ドラムは、円筒形の「ドラム」の表面にデータを記録するものです。

しかし、ドラムの表面積では、記録容量の限界が見えていました。


そこで、ドラムと同じスペースで表面積を増やすため、円筒ではなく「複数枚のディスク」に記録を行うようにしたのです。

これが世界初のハードディスクでした。


#IBM 305 は 1958年に完成。

 ハードディスク部分は、IBM 350 の名称で、1956年完成。

 容量は、6bit を1バイトとして、5Mbyte でした。



シュガートは後に、ディスクストレージ部門の責任者となり、新商品を開発します(1971)。

ハードディスクのように磁気円盤に記録を行い、円盤だけを交換可能としたものでした。


世界初のフロッピーディスクです。サイズは8インチ、80Kbyte の容量でした。


フロッピーディスクは、紙製のジャケットにディスク媒体が納められていましたが、レコードのように「取り出す」必要はなく、ジャケットごとディスクドライブに挿入可能でした。




この新しいアイディアを特許登録しようとしたところ、すでに日本人の中松氏が類似特許を持っていました。


ここで、「Dr.中松がフロッピーディスクを発明した」と言われる話になるのですが、中松氏の特許は、「ジャケットに入れたまま記録媒体を読み取る」というアイディアに関するものです。


中松氏の発明品は、ディスク形状ではありませんし、磁気記録でもありません。使用目的も音楽用です。

でも、「ジャケットに入れたままデータが読み出せる」という発明は、フロッピーディスクのやろうとしていることそのままです。


ですので、IBM はこの特許を買い取ります。

「全然違うけど、念のため買い取った」と説明する人もいるのですが、その説明は特許と言うものを理解していない。


Dr.中松の発明は、目的も形状も違えど、「ジャケットのまま中身を読み出す」ことが利便性に繋がる、という点で、明らかに先行発明なのです。

その上、アメリカでは大企業対個人発明家、という構図の裁判が起こると、裁判員の判官贔屓で個人が勝つことが多いのです。


念のためではなく、買い取らないとフロッピーディスクを世に出すことができなかったでしょう。

(でも、それを差し引いても「Dr. 中松がフロッピーを発明した」のではないです。関連技術の一つを先行発明していただけ)




話がそれました。Dr.中松はこの際どうでも良くて、シュガートに戻りましょう。


シュガートは8インチフロッピーの開発に成功し、昇進します。

その昇進は、転勤を伴いました。…が、シュガートにはこれが堪えられなかった。住み慣れた地域に暮らしたかった。


シュガートは IBM を退社します。

彼は人望が厚く、多くの社員が彼についていったそうです。


その後いったんは別の会社で働きますがそこもやめ(また社員を引き連れて)、新たな会社「シュガート・アソシエイツ」を設立します(1973)。


シュガート・アソシエイツの最初の事業は、8インチフロッピーディスクドライブの製造でした。

この際、インターフェイス規格として、シュガート・アソシエイツ・システム・インターフェイス(Shugart Associates system Interface)を策定します。頭文字をとって、いわゆる「SASI」です。


SASI は非常に普及し、事実上の標準となりますが、シュガート社の規格に過ぎません。

そこで、後に ANSI が正式に規格として定めたのが、SCSI (Small Computer Systems Interface) です(1986)。


SCSI は、SASI の欠点を解消するために、少し変更されています。とはいえ、ほぼ同じものです。

X68k では、SASI を搭載していましたが、ソフトウェア(と、非常に簡単なケーブル工作)で、SCSI のハードディスクを接続することができました。それほど「同じ」なのです。


そして、SCSI は少しづつ規格を変えながらも、今でも使われています。




シュガート社は、5.25 インチ(通常は5インチと呼ばれます)のフロッピーディスクも開発しました(1974)。


この頃、ゲイリー・キルドールはフロッピーディスクを扱うためのソフトウェアである、CP/M を完成しています。

ただし、この時点では「インテルに売り込んだが買い取ってもらえなかった」だけでお蔵入り。


フロッピーディスクが一般に普及し始める 1976年になって市販を開始しています。


#当初は8インチ用として開発し、発売時には5インチ用だったようです。



余談ですが、8インチは「標準」サイズと呼ばれます。

5インチは「ミニ」フロッピー。3.5インチは「マイクロ」フロッピーです。


3.5インチはソニーの発明(1980)。

この頃、5インチが大きくて柔らかすぎ、ディスクメディアに誤って触れやすい、という欠点を解消すべく、各社が「次世代フロッピーディスク」を作っていました。


クイックディスク(1984) は MZ-700 / MSX 等で使えましたが、MZ-1500 では標準搭載でした。

でも、ファミコンディスクに使われたのが一番有名。


シャープがポケコン用に作った2.5インチ(ポケットディスク)とか、ソニーが電子カメラ用に作った2インチ(ビデオフロッピー)と言うのもありました。

(電子カメラは初期のデジカメと混同されることがあるが、「デジタル」カメラではなく、フロッピーにアナログ記録。)



クイックディスクが品薄となったころに、「8インチディスクから5枚切り出して自作できる」という話題がありました。

その頃はすでに8インチも珍しくなっていましたが、流通はしていました。大量にさばける製品ではないので非常に高価でしたけど。




今回横道にばかり逸れますな…


さて、5インチの開発直後、シュガートは、自分の作ったシュガート・アソシエイツ社から追い出されてしまいます。

彼は周囲の人の面倒見がよく、人望に厚かったのですが、これが株主の目には「社員を優遇ばかりして、利益を追求していない」と映ったようなのです。


株式会社ですから、株主の意見は何よりも強く、彼は社長職を解任、会社から追放されてしまったのです。


シュガート社は後にゼロックスに買収され、フロッピードライブを作り続けます。



失意のシュガートに、IBM 時代の同僚であったフィニス・コナーが声をかけます。

コナーは当時巨大だったハードディスクを小型化するという事業をやろうとしていました。


このための会社として、コナー、シュガートを中心とした設立メンバーで、新たな会社「シュガート・テクノロジー」を設立します(1979)。


しかし、同じ職種で類似の名前だったため、以前に自分が作った会社「シュガート・アソシエイツ」から、商標権侵害の警告を受けます。このため、すぐに社名を「シーゲート・テクノロジー」に変更します。

オフィスの前に海があったことと、シュガートと音が似ていることから SEA-GATE (海門) としたようです。



1979年のうちに、5M バイトのハードディスク、ST-506を発売。

(サイズは5インチ・フルハイト。つまりは、今の物よりかなり大きいってことです。)


1983年には、容量を倍の 10M バイトに増やした ST-412 を発売します。


ST-506 は、SASI とはまた違ったインターフェイスが採用されました。

この規格は ST-506規格(製品名ではなく、規格名)とされ、ST-412 でも使用されています。


このインターフェイス規格は…規格と言うのもおこがましい、非常に低レベルなものです。

事実上、ハードディスクのハードウェアを制御する信号線を、すべて引き出しただけ。

CPU がすべての面倒を見て、ヘッドを動かし、データを監視し、必要なセクタが来たらデータを読み出します。


フロッピーディスクでは…たとえば、シュガートが以前に開発した SASI では、「このセクタのデータ頂戴」と頼めば、ディスクドライブ側がコマンドを理解し、適切に動作し、データを送り返してくれます。

でも、ST-506 では、ハードディスクが動作している間、CPU がハードディスクのすべてを見守り続けなくてはならないのです。


低速なハードディスクを監視し続けるのは、CPU の時間の無駄遣いでした。


ST-506 はまた、ハードディスクの速度に合わせて通信速度も変更されました。

「高速な通信が可能になった」と言えば聞こえは良いのですが、頻繁に変更になるのは規格としては問題がありました。

しかし、ST-506 は ESDI (Enhanced Small Disk Interface) 規格と名前を変え、シーゲート以外の会社でも広く使われるようになります。



ところで、シーゲート設立の声をかけたコナーは、さらにシーゲートから独立し、コナー・ペリフェラルという会社を設立していました(1986)。

さらにハードディスクを小型化し、3.5インチハードディスクを発売します。


コナー・ペリフェラルもまた、ESDI 規格に沿ってハードディスクを作っていましたが、さらにハードディスク基板内にコントローラーを搭載することを思いつきました。


コントローラー…事実上の「CPU」です。

それまで、パソコンのCPU がハードディスクのすべてを面倒見ていましたが、ハードディスク側にも CPU を搭載することで、この手間を無くそうというのです。


これが IDE (Integrated Drive Electronics) 規格でした(1986)。


IDE は ESDI を「簡単に扱える」ようにするために定められていたため、ESDI 規格に沿って作られたハードディスクであっても、基板に CPU を搭載すれば IDE に対応できました。


IDE が ANSI 規格化(1994)されたものは、ATA (Advanced Technology Attachment) と呼ばれています。


さらにその後、信号線をシリアル転送に変更した、SATA (Serial ATA ) が現在主流となっています。




コナー・ペリフェラルは、3.5インチハードディスクと IDE 規格で大成功。

急成長を遂げ、シーゲートを買収しようとしますが、失敗。


しかし、民生用ハードディスクが普及し始めると、ライバルも増えてコナー社は失速します。

シーゲートは、大型機用のハードディスク部門を持ち、そちらにはライバルが少ないため、まだ黒字でした。


そして、1996 年、シーゲートはコナー社を買収。以前とは立場が逆転し、業界最大手となりました。


しかし、その後シーゲートも業績が悪化。

1998年に、シュガートはシーゲート社を解任されます。

自分で作った会社から、2度目の追放。


でも、すぐに「アル・シュガート・インターナショナル」を設立します。

今度は製造業ではなく、ベンチャーキャピタル。


その後、2006年12月12日、心臓外科手術による合併症のため死去。




今となっては、フロッピーディスクはほぼ使われなくなり、ハードディスクも徐々に SSD に置き換わっていきそうです。

それでも、SCSI と SATA という形で、シュガートの作ったフロッピーディスクとハードディスクの名残は残ります。


これらは彼がコンピューター業界に残した遺産。



ところで、アメリカのオンラインストレージ企業が、サービスで使用していたハードディスクの、メーカー別故障率を公表しています。


英語サイトですけど、グラフにまとめられているので一目瞭然。

シーゲートの故障率、圧倒的に高いです…老舗の品質が良いとは限らない (^^;;


ライバルは日立とウェスタンデジタルですけど…実は同じ会社。

日立の事業はウェスタンデジタルに合併したのですが、ブランドは残されているのです。


(ちなみに、元々日立は IBM のHDD 部門を買ったものなので、「老舗」といえば一番の老舗)


そして、日立ブランドは高性能だけど高価。

かつて、シーゲートが大型機用のハードディスクで黒字を出していたように、値段が求められる民生用と、品質が求められる業務用に分けているのです。


シーゲートも「業務用」の製品シリーズを持っているのですが、先に挙げた故障率ページでは、「業務用は値段も高いが、その値段に見合うほど故障率が下がったわけではない」と明記されています。


2009年には大規模なバグ(ハードディスクアクセスが急に不可能になる)で騒がれましたし、いろいろと厳しい状態なのでは…



ハードディスク業界は競争が激しく、シーゲートもウェスタンデジタルも、多数の会社を合併しながら生き残ってきました。

現在この2社で寡占状態なので、国によっては公正取引法や独占禁止法で取り調べを受けていたりもします。


シーゲートは生き残れるでしょうか?




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レイ・トムリンソンの誕生日(1941)  2014-10-02 13:08:14  コンピュータ 今日は何の日

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今日はレイ・トムリンソンの誕生日(1941)。


現代的な意味での「電子メール」を発明した人です。


現代的な意味で、っていうのは、電子メールの歴史は案外古いから。

文字が使えるようになって、タイムシェアリングで1台のマシンを複数人数で使うようになったら、もう「ほかの人に文字メッセージを送る」機能は作られ始めています。

でも、当時の電子メールなんて、「テキストファイルを、個人向けのディレクトリに保存しておく」程度の簡単なもの。


1971年10月、レイ・トムリンソンは、ネットワークの別のマシンにメールが届く仕組みを完成させます。


同じマシンを使っている人宛てであれば、個人を識別できる ID …いわゆるアカウントだけがあれば大丈夫でした。

でも、別のマシンに宛てるのであれば、マシン名も必要になります。


そこで、レイは「アカウントの後ろに @ を付け、さらにマシン名を付ける」という記述方法を編み出します。

今のメールアドレスの始まりでした。




上記エピソードでは、最初のメッセージが「QWERTYUIOPだった」とされることがあるのですが、これはレイ氏が語ったことが曲解されたもので、彼はこの発言を悔いています。


「適当に文字を打ち込んだだけで、何を送ったかは覚えていない」…これが、後に語った正確なところ。

とあるインタビューで、キーボードの上の文字を適当に押した QWERTYUIOP のようなでたらめなものだった、といった言葉が独り歩きしているそうです。


しかし、内容は本当に覚えてなくて「でたらめだったかどうかすら不明」です。

後には TEST 1-2-3 みたいな(多少は意味のある)文字だったかもしれない、とも答えていますが、いずれにせよ覚えていないとのこと。


「30年も前の特定の日の朝ごはんが何だったか思い出せ、と言われて思い出せるかい?」と言うのも彼の弁。

なるほど、テストメッセージなんて特に重要なものではないし、本当に覚えていないということなのでしょう。




彼は BBN という会社に勤めており、会社では ARPANET のための研究をしていました。

そこで、ネットワーク上でデータ通信を行う仕組みを研究していて、メールはそのうちの一つでした。


でも、彼はこれは大した仕事ではないので、あまり人に言わないでくれ…と言っていたそうです。


この時作られたコマンドの名前は、SNDMSG 。言うまでもなく Send Message の意味ね。

…どういう動作を行うコマンドだったのかは、調べてみてもよくわかりません。


ただ、SNDMSG よりも前、1970年ごろには、すでに「マシン間でファイルを交換する仕組み」が作られています。

これは後に洗練され、FTP と名付けられます。


1973年ごろに提案される メールプロトコル には、「現在は FTP で配送を行っているが」という記述があります。

つまり、SNDMSG は、FTP を応用してメール配送を行ってたようです。


…つまりこういうこと。

SNDMSG にテキストと配送先を与えると、配送先を「相手マシン」と「そのマシンでのアカウント」に分解して認識し、相手マシンに FTP で接続、相手のアカウントを明示したファイルとして、メール内容を置くのです。


なるほど「たいした仕組みではない」と言うのも、事実なのでしょう。

ただ、「なんでも送れる」FTP を適切に機能を絞り込み、メッセージの交換機能として使いやすくまとめたのは、明らかに彼の功績です。




この後も、RFC 調べてみたら進歩の過程がわかって面白いのですが、説明しても長いだけなので割愛。

番号だけ書いとくと、369,453,456,524,651,680,724,733 そして、821 あたりを読むと参考になるでしょう。


453,456 なんて今の RFC から考えると、「なぜこれを RFC で発行する」という内容。

651 ではレイ自身が再びメールの重要な進歩に関わっています。


そして、821 は言わずと知れた「SMTP」の最初の仕様ですね。現在のメールの完成です。




実は、レイはメールと同時期に、もう一つ重要なプログラムを世に送り出しています。


レイの同僚が作ったプログラムを、どうも「ちょっとイタズラ」した亜流バージョンなのですが、このイタズラが非常に大きな意味を持ちます。

(メールも「たいした仕組みではない」けど重要な仕組みですし、彼は既存プログラムに、重要な意味を持つ改変を加えるのが上手だったようです)



1970年、同僚のボブ・トーマスは、「データ転送する」プログラムを実験していて、実行可能なファイルを送り込み、それを実行させることに成功しました。

クリーパー(這い回るもの)という名前のプログラムで、ネットワークで接続された別のマシンに自分自身を送り込み、相手側で実行を開始すると、最後に自分自身を消去しました。


実行されると、画面に「I'm the Creeper. Catch me if you can!」(僕はクリーパー。捕まえてごらん!)というメッセージを表示します。

まぁ、この段階ではただの技術実験。


レイは、このプログラムにイタズラをして、最後の「自分自身を消去」の部分を無くしました。

これにより、クリーパーは増殖を開始します。世界初の「ワーム」(ネットワーク経由で感染する、ウィルスの一種)プログラムです。


クリーパーは、見事に「捕まえて」、消去してしまえば実行を停止できました。

しかし、増殖してしまっては消去しても、消去しても、消しきることはできません。


クリーパーにメモリも CPU 時間も食いつぶされ、コンピューターは使えなくなるでしょう。

しかも、そのコンピューターを再起動してもダメなのです。他のコンピューターから入ってきますから!


このままでは困るので、レイはさらにクリーパーを改造し、マシンを渡り歩きながら、クリーパーを見つけ出したら削除するプログラムを作り出しました。

これは、リーパー(死神)と名付けられます。


…この話、翌年に書かれた SF小説「HARLEI」の中で、「ウィルスとワクチン」と名前を変えて、そのまんま引用されています。

当時は、まだ ARPANET も実験開始直後。そのため、多くの人が良くできた作り話だと思ったようですけど。


このため、HARLIE は「ウィルスを予言した SF小説」だとされています。



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バーコード特許成立の日(1952)  2014-10-07 06:28:38  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日はバーコードの特許登録が成立した日(1952)。


…って、去年も書きました

でも、去年の最後に「バーコードの仕組みとかいつか書きたい」って書いたままでしたね。


せっかくなので、去年に続いてバーコードの話を書きましょう。


#去年の話はバーコードの歴史でした。興味ある方は合わせてお読みください。




バーコード、非常に巧妙に作られているんですよ。


まず、桁数について。昨年の話に書きましたが、1970年に11桁で作られた、米国の小売店用のコードが発端です。

しかし、利用が広がり、カナダも同じコードを使うことにして、1973年に1ケタ増やした12桁となります。


さらに1977年、ヨーロッパを中心に世界中で使えるコードとして作り直され、さらに1桁を追加して13桁となっています。

現在日本で使用されているのも、13桁のものです。


13桁の内訳は、先頭2桁が国別コードです。日本では非常に良く使用されるため国内で使用できるコードが足りなくなり、49と45の2つが発行されています。


続いて、国内でメーカーごとに割り当てられるコードが5桁。

メーカーの中で、商品を識別するためのコードが5桁。ここまでで12桁です。


#国別コードが3桁の国もあります。

 また、国コードの後ろは、国ごとの取り決めによります。

 国内では、メーカー5桁+商品5桁が一般的ですが、商品の少ない中小企業などにはメーカー7桁+商品3桁が割り当てられます。


そして、12桁を適切に計算して導き出される1桁。読み取り時、計算が合わない場合は「読み取りミス」となります。

これで13桁。




…と、ここまでは結構知っている人が多い内容。

でもこれは、「数字で商品を表す」という仕組みであって、バーコードの仕組みではない。


バーコードがしくみとして巧妙なのはここからです。

バーコードは、モールス信号のような「信号のありなし」で数値を表しています。


ちなみに、モールス信号では、信号が4つあります。

短い音、長い音の2つは良く知られていますが、「短い無音」と「長い無音」も同じように重要なのです。


バーコードでは、黒い部分と白い部分の太さが変わります。

この「太さ」には、1~4の4段階があり、白と黒を2つづつ組み合わせると数字1桁が作られます。


また、数字一桁は、必ず「太さ7」になるようになっています。

つまり、もし太さ4の黒い線が現れたら、あとは全て太さ1で空白、線、空白。合計太さ7です。


ちなみに、線と空白は2つづつなので、隣同士の線や空白がくっついて、太さがわからなくなることはありません。


このように「太さ」を手掛かりにして読み取る方式であるにも関わらず、バーコードのサイズは伸縮自在です。

サイズを変更しても読み取れなくてはならないことになっています。(拡大縮小範囲の基準はありますが)


これは、最初と最後、それに中間位置に、常に共通のサイズの信号が描かれているため。

これを手掛かりにすることで、他の部分の線のサイズを認識するのです。




もう1つ、バーコードの重要な秘密があります。

バーコードは、左からと右から、どちらからでも読めるように、規格が左右対称に作られているのです。


左右の両端にある「共通信号」は、細い線を、細い空白で挟んだもの。太さ3になります。

左側の数字は、1桁の左端が空白から始まり、右端が線で終わります。このため、左端の共通信号とくっついてしまうことはありません。

右側は逆に、1桁の右端が空白から始まります。


そのままでは、中央で「黒い線」同士がくっついてしまう…のですが、そうならないように中央の信号があるのです。

ここは、両端と同じ「細い線2本」を、さらに空白で囲んだ、太さ5の信号となっています。

そして、空白で囲んであるので、黒い線とはくっつかないのです。



でも、左右対称だと、逆に読んだ時に違う意味になってしまいそう。


しかし、実際にはそんなことはありません。180度回して読み込んでも、必ず正しい数字を認識できるのです。

どうなっているのでしょう?



実は、バーコードの中央から右側の半分は、必ず「1桁ごとに見ると、黒い部分の幅の合計が、偶数になる」ように作られています。

その決まりを守ったうえで、10種類の数字に線と空白の組み合わせを決めてあるのです。



そして、左側半分は、基本的には「右半分の色を逆転したもの」で数値を示します。

左側の 0 の記号を白黒反転すると、右側の 0になります。他の数字も同様。


この時、1桁の幅は7ですから、白黒を反転すると、黒い部分の幅の合計は必ず奇数になります。


左半分では黒い部分の幅の合計が偶数。右半分では奇数。

これによって、左側と右側を見分けているのです。

非常に巧妙です。




ところで、「中央に記号がある」と書きました。

バーコードは、13桁の数字を示しています。中央で分けられないのでは…?



実は、上に書いた仕組みは、現在のバーコードの元となる、アメリカとカナダで使用した 12桁時代の物なのです。

現在の13桁用は、もう一工夫してあります。


右側と左側では、同じ数字を表す記号の白黒が反転している、と書きました。

現代では、左側にのみ、「白黒反転」するのではなく「左右反転」したものが混ざることになっています。


白黒反転すると黒い部分の幅の合計が奇数になりましたが、左右反転では偶数です。

このため、記号としては全く別のものになり、間違えることはありません。


先に書いたように、右側用は必ず右端が白で、左側用は左端が白です。

反転するのでこの決まりにもあいます。もちろん、右側用と違う記号になり、間違えることはありません。


たとえば、 0 という同じ数字であっても、左半分では2種類の記号、右半分ではそれとは違うもう一種類の記号があるのです。



あれ、でも単に左右を反転しただけじゃぁ、「180度逆に読んだ時」はどうなってしまうの?


これも大丈夫。左側に時々「右半分の左右反転が入る」とはいっても、6桁の半分の3つだけ、と決められています。

(または、「全く入らない」こともあります)


このため、上下逆にバーコードを読み込ませても、これも正しく方向を識別できます。


非常に巧妙に出来ています。



そして、「半分の3つ」偶数の記号が入った時、これがどこに入るかの組み合わせが、全部で9種類あるようになっています。

これにより、1~9の数字を示すことができるのです。

(ちなみに、「全く入らない」ときは0になります)


これが先頭の数字。

バーコード自体は基本的に 12桁時代のままのサイズなのですが、内部の記号の持ち方を工夫することで、1桁多く記録しているのです。




改めてまとめると、


1) 右側は、1つの数字が1つの記号(白と黒2つづつの組み合わせ)に対応している。

2) 左側は、1つの数字が2つの記号に対応している。

3) 左側の数字が、桁ごとにどちらの方法で書かれたか、の組みあわせで、さらに数字を1つ作り出す。


3 で作られた数字は、13桁の先頭に位置するものとされています。

そして、ここを 0 と見做すと、12桁の頃のアメリカ・カナダのバーコードと互換性を保ったままになります。


先頭が 0 の場合、この後に書く「チェック」の計算にも影響を与えません。

(チェックは基本的に足し算で行われるため)


#国際的な 13桁バーコードは、アメリカでの12桁バーコードの成功を見て拡張されたものです。

 すでに普及しているアメリカの体系とは互換性を保ったまま、アメリカのバーコード「以外」の数値領域を確保する必要がありました。

 このために、非常に巧妙に拡張が行われているのです。




さて、数字を読み取る部分までは以上ですが、読み取った数字を最後に「チェック」しなくてはなりません。

最後の数字を除く12桁を決められた方法で計算し、その結果が最後の桁と一致しなくてはなりません。


チェックの方法としては、奇数桁と偶数桁を別々に足し合わせます。

そして、偶数桁だけを3倍し奇数桁と足します。


その1の位だけを取り出し、10から引きます。


 10 - (((奇数桁合計)+(偶数桁合計)*3) mod 10)


これが、最後の1桁の数字と一致すれば読み取り成功、失敗すればエラーです。




もう一度書くと、次のようにしてバーコードを読み取ります。


1) 端から順に、白と黒を判別。両端と中央には決まった太さの線があるので、その太さを基準として認識。


2) 白と黒の2つづつを組にして分離。これが1桁。中央で分けて、6桁づつ存在。

 1桁は太さ7になるので、1 で認識した基準とも照らし合わせ、線の太さを認識。


3) 片側の1桁ごとに、黒い部分の合計の幅を認識。すべて偶数なら右側。半分、または全部奇数なら左側。


4) 左右が逆なら、逆の状態で読み取られている。読み取った白黒の情報を逆にする。


5) 左側の数値を認識。この際、黒い部分の合計幅の奇偶の組み合わせで、表記されていない頭の1桁を導き出す。


6) 右側の数値も認識。これで合計 13桁が揃う。


7) 先頭の12桁を計算し、最後の1桁と一致するかチェック。



7 まで全部成功すれば読み取り完了です。

途中で想定外の事態が起きた場合、読み取りがうまくいっていないので、そのまま 1 に戻って読み取りを続行します。


お店の人が「なかなか読み取れない」と商品を一生懸命スキャナに向けているときは、途中のどこかでエラーが出続けているわけです。



実際の記号と数字の対応などは省いて、ざっくり説明しました。

もっと詳細を知りたい人に別のサイトを紹介しようと思ったのですが、いいサイトが見当たらない。


ここが比較的詳しいかな。

バーコードの仕組みと作成方法




さて、急に話は変わってデザインバーコード


デザインバーコード社が考案し、特許を取ったうえで活動しています。

最初は「こんなこと考えた」という内容の本を出したのですが、妻が面白がって購入し、この本家にあります。


#発売時はタイトルの通り「革命的」な新しさがあったのだけど、今読んでもそれほど感動は無いかも。

 基本的にはバーコードで遊んでみたデザイン集。読み物ではなく、10分で読み終わります。

 まぁ、古本は安いので気軽に読んでみるのも楽しいかも。



上に書いたように、バーコードは巧妙な仕組みですが、結局は「白黒の線」さえ読めればそれでいい。


でも、商品のパッケージデザインする人にとっては、頭の痛い問題だった時期があります。

バーコード以前にデザインしたパッケージの一角を急に「白抜き」にしてバーコード印刷されたりして、全体デザインが台無しになってしまうことも多かった。


#当時、缶詰のパッケージなどをしていたデザイナーの方が、デザイン直しなら格安でやるからひと声かけてほしい…と嘆いていました。


そこに提唱されたのがデザインバーコード。

バーコードは結局のところ1次元の線の上で白黒の縞模様が付いていればいいのです。


じゃぁ、必要な部分はしっかり確保したうえで、その周辺に絵を描いて遊んじゃおう、という内容。


今では実際の商品でも結構使われています。じゃがりこのパッケージとか有名。



基本的にはパッケージ全体に「笑い」の要素を求めるものなので、お菓子とかジュースの使用例が多いみたい。

我が家の扇風機は、バーコードが波になってサーフィンしてました。


#しかし、この扇風機海外製の安物なので、特許無視で勝手にデザイン真似してるのかもしれません。



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日本がメートル条約に加入した日(1885)  2014-10-09 20:42:41  歯車 今日は何の日

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今日は、日本がメートル条約に加入した日(1885)。


長さの単位としては、現在では世界中で「メートル」が使われていることになっています。

まぁ、アメリカではフィートを使っていたりもしますが、それでもメートルも認知はされている。


それ以前の世界では、大抵は「人間の体の一部」が長さの基準になっていました。

古くは古代エジプトで使われたキュービット(肘から中指の先までの長さ)とか、古代中国から日本に伝えられた尺(親指から中指の先まで)とか。


でも、人間の体の一部が基準だと「誰の?」というのが問題となる。人によって違うからね。

キュービットなら、その時のファラオが基準だったし、尺は時代と共に大きくされ、最後には30センチ以上になった。


なんで大きくなるのかって?

重さや長さの基準は時の為政者によって定められましたが、定めないといけない理由は「税を納めるときの単位だから」です。

大きいほうが税を多くとれるから、どんどん大きくなるのです!




で、恣意的に長さが変わるし、当然国ごとに長さの基準が違うので、これでは不便だから長さをそろえよう、ということになりました。



呼びかけたのはフランス。これにヨーロッパのいくつかの国が賛同します。

でも、どこかの国の単位を使おう、とか、どこかの国に由来するものを単位にしよう、というのでは不公平。


そこで、スケール大きく「みんなの暮らす地球」を単位とすることにしました。


当時も地球の大きさの概要はわかっていました。

そこで、赤道から北極までの長さを測り、その 1000万分の1なら大体使いやすい長さとなるだろう、と決まりました。


ただ、決めるからには正確にやらねばなりません。

呼びかけたフランスが中心となり、大規模な測量が行われます。

長さも場所によって多少は異なる、と判っていたので、「パリを通る線」と決められました。


この測量には3年を要しましたが、1799年、ついに新しい「メートル」が決まります。

ちょうど1メートルの長さに、錆びにくい白金を使った板を切り、これをフランスの国立中央文書館で保管しました。




しかし、実際にメートルが使われ始めるのはずっと後。


国際的な長さの単位にしよう! とメートルを定めたものの、なかなか新しい単位は使われませんでした。

これではいけない、国際的に普及させようと、1867年のパリ万博を機に、フランスはメートルを国際的に広める活動を開始します。

1870年に、メートルを国際的な単位とするための会議が開かれます。

日本がメートル条約に加盟するのも、こうした一連の会議の途中から(1885)。


メートルは地球を単位としている、という点で理解は得やすかったものの、何かあった時に再度基準の長さを測りなおして再定義…と言うのには不便な単位でした。


そこで、フランスが持っていた「メートル」単位の板を元に、改めてメートルを再定義します。

この板こそが「メートル」の基準であり、もう地球の長さは関係ないことになりました。


そして、この板と同じの棒を再び白金で30本作り、1889年に参加各国に配布します。

各国では、この棒を元に「メートル」を定義しました。


この棒は「メートル原器」と呼ばれました。




しかし、これもまたおかしな話です。

各国ごとに長さが違うのが問題だから「メートル」を作ったのに、各国ごとに別々に保管する棒が、その国における「メートル」なのです。


棒は金属製なので、厳重に管理しても温度によって誤差が出ます。

長さの基準とするのは「0度の時の長さ」と決められていましたが、そもそも、工作精度の問題で、作った時から長さはほんのわずかづつ違うのです。

(作り方が悪いということではなく、当時最高の技術を使って作られても、限界があったのです)


1960年、国際会議により、新たな「メートル」の基準が作られます。


「クリプトン86原子が真空中で発する光の波長の 1650763.73倍」

これが新たなメートルの基準でした。


これはまた、地球を測量するような大事業を行わずとも、また世界中のどこにいようとも、同じ基準で「1メートル」を定められる、ということでした。




クリプトン86は、クリプトンの同位体の中で最も安定したものです。


…話がややこしいですが、すべての元素には「同位体」というものがあり、一定の時間(場合によって数秒から数万年単位まで)たつと別の同位体に変わってしまいます。


変わるとはいえ、クリプトンではあります。でも、少しづつ性質が違います。

この違いを表現するのに、後ろに数字を付けて表現します。


そして、クリプトン86は、一番安定しているクリプトンなのです。


…でも、ここで一つ問題が。

一番安定している、というのは、一番入手しやすいという意味ではありません。

天然に存在する一番入手しやすいクリプトンは、クリプトン84。


そして、「同位体」というのは、少しづつ性質が違うとはいえ、ほぼ同じものです。

86 だけ分離する、というのが非常に厄介。


安定しているから、一度分離すれば他の同位体が混入する可能性は低いとはいえ、「世界中のどこでも1メートルの基準を得られる」という観点でいえば、手に入れるのが非常に難しいのです。




そこで、1983年にふたたび基準が変更となります。


「真空中で光が 1/299792458秒に進む距離」

これが新たな基準でした。


クリプトン86と同じように、光基準です。

しかし、クリプトン86が「波長」を使っているのに対し「速度」を使うようになりました。


波長と言うのは、つまり色のこと。

純粋なクリプトン86でないと、正しい計測ができませんでした。


しかし、新たな基準では「速度」だけが問題で、その光をどのように得てもかまいません。


話はややこしくなりますが、光の「速度」は、色などには関係なく、また重力や、地球自体の動きなどにも関係なく一定です。

極端な話、光の速度で動くロケットの中でも、光も逃げ出せないブラックホールの重力場の中でも、光の速度は一定なのです。



つまり、この基準であれば、宇宙のどこにいようとも、簡単に「1メートル」の基準を得ることができます。




話を最初に戻します。


古代、長さの単位は、人間の体の一部を使用したものでした。

この方法の利点は、いつでも簡単に基準長さを手に入れることができる、という点です。


国際的な共通の長さを求め、1799年に「メートル」が定められました。

これは各国で同じように使える便利な単位でした。

しかし、その反面基準長さが地球の大きさであり、簡単に手に入れることができなくなります。


その後、メートル原器を基準としても、やはり誰でも簡単に参照できるものではありません。

クリプトン86もそうでした。


それが、1983年にふたたび、誰でも簡単に手に入るものを基準にして「メートル」が再定義されたのです。

メートルを定義してから、「簡単に基準が手に入る」という定義前の利点を取り戻すまでに200年かかったのです。



普段何気なく使っている長さの単位ですが、これを「何気なく」使うために、多くの努力が払われ続けているのです。



#メートルは、重さの単位の基準でもあるが、現在重さの単位で同じような努力が進行中。

 また、メートルは現在「秒」を基準としているが、こちらでも努力が進行中。




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「計算機言語」が生まれた日(1956)  2014-10-15 11:49:21  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、計算機言語が生まれた日。

…というのは、非常に曖昧な言い方だな。


計算機言語っていうのは、つまりはプログラム言語のことね。

ただし、2進数で示される「機械語」は含まないものとします。


あれは、電気を ON/OFF するスイッチを制御するための信号だから。

また、機械語と1対1で対応しているアセンブラも、今は含まない。

(計算機言語に含む場合もあるけど、話の都合上含まないものとしてほしい)



つまり、プログラム言語とは、人間にわかりやすい形で示された「言語」を元に、機械を制御する「機械語」を直接生成するものです。




1950年代初頭、プログラム内蔵式のコンピューターは研究目的ではなく、実用になりつつありました。

そして、プログラムが思った以上の難題であることが明らかになってきます。


ここで、コンピューターは非常に高性能だから、コンピューターの力を使ってコンピューター自身をプログラムしよう、という構想が現れます。

自然言語(英語)を使って、おかしなところのない厳密な方法で仕様書を書くと、それをコンピューターが解釈して自分自身をプログラムする、というアイディアです。


これは「自動プログラミング」と呼ばれ、学術的な研究などが始まりました。



でも、意見は大きく二つに分かれます。

プログラムは想像力が必要なもので、機械にはできっこない、という懐疑派と、想像力が必要なのは仕様書を策定する部分で、そこから先の部分は機械でもできる、という推進派です。


IBM は推進派でした。

何よりも、主力商品となりつつあったコンピューターを売るためには、効率の良いプログラム方法が必要なのです。


懐疑派と推進派の論争を終わらせる方法はただ一つ。実際に自動プログラミングが可能なことを示せばよいのでした。


IBM は、この分野の研究開発を始めます。




1954年、IBM のジョン・バッカスは、問題を限られた範囲で解決するプログラム言語を考案します。


仕様書を理解する、と言っても、広範囲な仕様書では理解させるのも大変です。

そこで、当時のコンピューターの主要な利用目的であった、科学計算目的にターゲットを絞ります。


科学計算では、非常に複雑な式を扱う必要がありました。

しかし、それらの式は複雑すぎて、機械語に直すだけで一苦労なのです。


たとえば、 Y = X**2 + 5*X +4 …という、簡単に表せる数式があったとしましょう。

(X**2 は Xの2乗の意味です)


これを IBM 704 では次のように書く必要がありました。



LDQ X
MPY X
STQ Y
LDQ num5
MPY X
STQ tmp
CLA tmp
ADD Y
ADD num4
STO Y


数式ひとつ表すのにこんな苦労が必要。この部分の苦労だけでも解放できれば!


#上のプログラム、IBM704 を使ったことがあるわけではないので、自信なし。

 一応マニュアル参照しているので大きく間違っては無いと思います。

 なお、掛け算は結果を 70bit で返しますが、上のプログラムでは下位 35bit のみ使用しています。




数式を英語で FORMULA と呼びます。ここを変換、TRANSLATE する。

この言語は、FORTRAN と名付けられます。


FORTRAN は、IBM 704 をターゲットとして開発されました。


科学計算では、繰り返しもよく使われましたので、繰り返しを簡単に記述できる命令があります。


でも、数式と繰り返しを除けば、命令はほぼ IBM704 の機械語と同じです。

見た目こそ「高級命令」に見えるのですが、機械語と1対1対応なのです。



実現可能性を確かめながら、FORTRAN の文法を完成するまでに2年が費やされ、1956年に文法などを記した「Programmer's Reference Manual」が先に完成します。


実際に動作する言語処理系が完成するのは翌 1957年。


さて、このマニュアルの発行日が、1956年の今日、10月15日となっています。

(3ページ目の右上に書かれています)




FORTRAN で「自動プログラミング」が可能であることが示された後、翌1958年にはより便利な命令を増やした FORTRAN II が作られます。


FORTRAN の成功に続いて、研究目的の LISP(1958)、ビジネス向けの COBOL(1959) も作られ、さらに 、学生の勉強用に BASIC(1964) など、多くの言語が考案されています。


#余談になりますが、3D プリンタの元祖となるモデル記述言語、APTも 1958年に完成しています。


しかし、これらの言語は、今から見ると「いきあたりばったり」な文法体系です。

たしかに目的は達成できるのですが、命令の組み合わせ方が制限されていたり、論理が記述しにくかったりするのです。


FORTRAN を作り出したジョン・バッカスは、言語を作る研究をさらに続けていました。

そして、「より良い言語」を作ろうとしていた国際的なグループに参加します。


この時に作られた言語が ALGOL です。言語仕様は 1958年に作られていますが、実際に動作する処理系が出来たのは 1960年でした。


ALGOL の文法記述方法は、「バッカス・ナウア記法」(Backus-Naur form:BNF)と呼ばれます。

ピーター・ナウアは、ALGOL 開発者の一人。



BNF は、非常にすっきりと文法を記述できます。インターネットのプロトコル仕様などは BNF で表現されることが多く、RFC (インターネットで守られるべき取り決めのこと)を読むうえで、BNF を知っていることは非常に重要です。


最初の FORTRAN の記述方法などは「スパゲティプログラム」と呼ばれて忌み嫌われ、ALGOL の記述方法は良いものとされるのですが、作者は両方同じなのですね。


#FORTRAN の反省に立って ALGOL を設計した、とも言えます。




さて、FORTRAN が無ければその後の言語はありませんし、ALGOL が無ければ現在の C言語や、Java / PHP / Perl などの多くの言語もありません。


これらすべての元…FORTRAN の仕様がが世に示されたのが、1956年の今日なのですね。

そういうわけで「計算機言語が生まれた日」と書いたのです。


…発行日って恣意的な部分もあるから、本当に今日が生まれた日かわからないのですけど (^^;



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悪魔とドラキュラの誕生日  2014-11-10 15:42:08  今日は何の日

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今日は、2人の方の誕生日。


デーモン閣下(紀元前98036年)。

ドラキュラ公、ヴラド・ツェペシュさん(1431年)。


…すみません。見て判る通り、ネタです。




デーモン閣下の方は、残念ながら良く知りません。

ファンの人、多いよね。


大学時代、友人が「あんなに綺麗な日本語を使い、綺麗に歌うヘビメタは他にいない」と言っていました。

ヘビメタはあまり趣味でないので聞いてませんでしたが、解散後普通に芸能活動をし、普通に歌うのを聞いて、非常に歌の上手い方だと思いました。


最近でもNHKの朝の番組0655で歌ってたりしたけど、50歳越えてあの艶のある声は、なかなかすごいと思います。




ヴラド・ツェペシュ。

15世紀ルーマニアの君主です。


当時はヨーロッパとオスマントルコとの戦いが増えていました。

戦いには資金がいります。民衆を守るための戦いであっても、税を集めなくてはならず、民衆の恨みを買います。


しかし、そこで君主の力を見せなくては、統制が取れなくなります。

ヴラドは、反抗勢力を片っ端から処刑します。


当時の処刑は、斬首か串刺し。

斬首の方が苦しまないために「軽い刑」なのですが、統制を取るために見せしめとして処刑しているため、ヴラドはほとんどを串刺しとしました。


もちろん、戦う相手のトルコ人は、片っ端から串刺しです。

トルコ兵は、ヴラドを「串刺し公」と呼びました。


「串刺し公」のルーマニア発音が「ツェペシュ」。これは、本名ではなくあだ名です。




しかし、これは不名誉なあだ名。ヴラドはこの名前は使っていません。


ヴラドの父は、非常に勇敢な騎士で「竜公」の異名を取りました。

竜は英語でドラゴンですが、ルーマニア語ではドラクル。


そして、末尾の音を「a」に変えると、その子供である、という意味になります。

ブラドは、みずからは「ドラクラ」を名乗りました。


竜の力を持つものの息子、ですね。カッコイイ名前です。




話は急に変わります。

19世紀の初頭、詩人バイロンと友人たちは、スイスに滞在します。


その年は異常気象で、長雨が続きました。

外出できない退屈を紛らわすため、当時の科学の最先端について談話をしたり、怪奇小説を読み聞かせ合って楽しんだりします。


そして、この時に「みんなで怪奇小説を書いて、発表し合おう」というアイディアが出ます



このアイディアは、旅行の間には実現されませんでしたが、2つの小説を生み出します。


バイロンとスイス旅行をしたメンバーの一人、メアリー・シェリーは、「フランケンシュタイン」を書きあげ、匿名で出版します(1818)。


フランケンシュタインは、「科学談義」と「怪奇」をくみあわせた、科学者が死体を材料として、人造人間を作り出してしまう話でした。


科学の延長として恐ろしくも悲しい事件が起きる、というこの小説は、女性作家らしい細やかな心理描写などもあり、ちょっとした話題になります。


#当初匿名でしたが、話題になったため、数年後には実名で版を重ねています。



そこへ翌年、バイロンの名で短編「吸血鬼」(1819)が発表されます。


フランケンシュタインによって、怪奇小説が話題となっているところに、著名人であったバイロンの名で発表されたのです。

これは大流行となりました。そして、次々と新しい「吸血鬼小説」が発表されます。


#当初バイロンの名で発表されただけで、実際の作者はバイロンと共にスイスで過ごした、友人で主治医の医者、ジョン・ポリドリです。



1872年には「女吸血鬼カーミラ」が発表され、ブームが再燃します。

そして、このカーミラに影響を受けて作られた小説が、ブラム・ストーカーの「ドラキュラ」(1897)でした。



ドラキュラの名前と、「ルーマニア出身」という設定以外、ヴラドとは何の関連性もありません。

しかし、「串刺し公」として伝えられた、血を好む貴族のイメージと、紳士的だが恐ろしい吸血鬼のイメージをうまく重ねたのでしょう。



この「ドラキュラ」、僕の非常に好きな小説の一つです。


お話は日記形式で進みます。日記なので、すべては「すでに終わったこと」です。


でも、不思議なことが連続し、主人公は何が起きているのかわからない。

徐々に吸血鬼の存在が明らかになり、主人公の危機がわかってくる。


明日は命がけの脱出を行おう、と主人公が記した最後の日記で、ひとまず第1部終了、というハラハラする流れ。

その脱出がどうなったのか、全くわからないのです。


第2部では日記を書く人が増え、それぞれの視点で一つの事件を見ていくことになるのだけど、第1部から読み続けている読者にだけ、危機が見えている。

でもそれぞれの書き手は一切気づいていないのがもどかしい。


当時最先端だった「録音機」を使って日記を記録している人がいたり、日記と言っても皆が違う文体になっているので、性格の違いまで見えてきます。


やがて、別々だった人々が集まり、お互いの記録を読んで事実に気付き、吸血鬼を追い詰めていくのですが…

すごくカッコイイ。覚悟を持った男たち(+女性1人)の活躍が感動的です。


余りネタバレしようと思わないので、興味ある人は買ってね。

古典的な小説ではあるけど、今読んでも十分面白いから。



日記風にしたことがお話を面白くしている部分が多々あり、映像化の難しい作品でもあります。

ドラキュラ映画は数あるのだけど、原作に比較的忠実なコッポラ作品ですら、原作とは全然違う…




そして、ファミコンディスクで発売されたゲーム「悪魔城ドラキュラ」。

このゲーム、大好きでした。


今回「悪魔」であるデーモン閣下とドラキュラを一緒に紹介しているのも「悪魔城ドラキュラ」でつなげたいという、ネタのための仕込みでした。



そして、ゲームが大好きだったので原作に興味を持って、上の小説も読んだのです。

先に書きましたが、ドラキュラの原点とフランケンシュタインが「同じときに生まれた」と知って、フランケンシュタインまで読みました。

バイロンの「吸血鬼」や「カーミラ」は読んでませんが。


ヴラド・ツェペシュについて興味を持ったのもそのころ。

今日の日記は Wikipedia 見ながら書きましたが、当時は資料少なくて、断片的な情報を集めていました。




話が脇にそれました。ファミコンゲームの話に戻します。


元々ジャンプアクションが好きで、スーパーマリオとかも遊びこんだのだけど、悪魔城ドラキュラはものすごくやり込みました。

多分、生まれて初めて「本気でやり込んだ」ゲームではないかな。


中学生の時で、夏休みの 40日間、少しくらい休んだかもしれないけど「毎日1周」してました。

1周すると難易度が上がって1面に戻るので、そこまで行ったらわざと死んでセーブ。


1周18ステージ。たしか3周で難易度最高になっているし、ステージ数も 99 以上カウントされない(6週までしかわからない)のだけど、とにかく遊んでた。


慣れちゃってるので、もちろんミスなんてしません。

これは「敵に当たらない」という意味ではなくて、わざと敵にぶつかって、跳ね飛ばされることで近道を通ったりもする。


とにかく無駄のない動きを目指したプレースタイル。



そこまでやり込んでしまうと、続編遊んでも「何か違う」なのですね。

ドラキュラ2は、単純なアクションではなく「謎解きありのアドベンチャー風」になってしまってつまらなかった。

ドラキュラ3は、友達が購入したので少し遊ばせてもらったけど、キャラクターを変えられるシステムが「ゲームの流れを中断させてしまう」のが嫌で、好きになれなかった。


#とにかく無駄のない動きを目指していましたから、途中でキャラクターチェンジのため一時停止、とか嫌だったのですね。


X68k でドラキュラが「リメイク」されたのは、購入して遊びました。素晴らしい出来でした。

リメイクだから、初代と大体おなじなのね。同じ雰囲気で遊べる。


それでいて、ハードウェアの進化によって、昔にはできなかったような演出が入っている。

これも好きで、6周目をクリアして何週もやった覚えがあります。


#難易度は徐々に上がり、6周目で最高になる。

 ただし、「怖さ」の演出は5周目がマックス。

 6周目は、遊びこんだ人へのサービス精神旺盛なギャグが多数仕込んである。


これは後にプレイステーションにも移植されましたが、移植版はちょっと残念な出来でした。


#この移植「悪魔城年代記」としてシリーズ化する、とのことでしたが、この一作で終わったように思います。

 残念移植で批判が多かったので、続けられなくなったようです。


その後、ゲームボーイアドバンスが発売された際に、同時発売タイトルで遊びたいものが「ドラキュラ」しかなく、購入。

PCエンジン版の流れを汲むもの、とのことでしたが、迷路を探索するようなゲームだった。

せっかく買ったのでやり込んだし、これはこれで面白いゲームだったのだけど、自分の好きなドラキュラとは違いました。



自分の好きな作品とは違うから駄目だ、というのではないよ。

ただ、僕は今でも初代と、その初代を上手にアレンジした X68k 版が好き、というだけの話。




というわけで、ゲームが好きで好きで、原作小説に手を出したばかりか、その小説がモチーフとした人物まで調べてしまうような馬鹿がここにいますよ、と。


ゲームの話は日記に余り書きませんが、基本的にやり込みゲーマーです。

気に入った小数のゲームを、とことんやり込みます。


#だから、ゲーム好きならこれ知ってる? と話をふられても、知らないゲームが多い。



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先日、子供と「日本科学未来館」に行ってきました。


ここには、スーパーカミオカンデの1/10模型があります。

…というか、なんだろう。サイズ的に1/10だけど、姿を伝える「模型」とは違う、別の機能がある。


スーパーカミオカンデは、ニュートリノを検出する装置です。いわば入力装置。

でも、科学館にある模型は、過去の「検出データ」を目で見られる形で再生する、出力装置になっています。


ここら辺が説明不足なので、多くの人が「なんだかチカチカ光っていて綺麗だけど、意味わからない」状態のまま通りすぎます。

非常にもったいない。




世界中、宇宙中のすべての物質は、分子から作られています。その分子は原子の組み合わせです。


原子は電子と原子核の組み合わせで、原子核は陽子と中性子の組み合わせです。


この陽子や中性子は、さらに小さなクオークと言う物質の組み合わせで出来ています。

そのクオークの仲間として「レプトン」と呼ばれるものがあり、電子はレプトンのグループに含まれます。


そして、「ニュートリノ」も、同じくレプトングループの中にあります。


原子の大きさと比べても非常に小さいため、ニュートリノは原子を素通りしてしまいます。

電子のように電荷を持たないため、引きあったり反発したり、という反応もありません。


理論上は、ニュートリノは非常にありふれた物質で、いたるところに存在しています。

しかし、それを捉えることができないため、余りにもわからないことが多い、謎の存在でした。


1900年初頭には存在が予測されていたのに、やっと捉えたのは 1950年代。

それでも、データが少なすぎて謎が多かったのです。


数式から性質などを想像するしかない存在でした。



ニュートリノの性質が数式で「予測」された当時(1970年代)、数式が示す「宇宙全体の重さ」と、実際に観測されている宇宙全体の重さがあまりにも違う、ということが問題となっていました。


この差は仮想的な物質として「ダークマター」(暗黒物質)と呼ばれ、実際に観測が難しいニュートリノに重さがあり、宇宙全体のニュートリノをあわせたら差を埋められるのではないか、と考える人もいました。


一方で、ニュートリノの性質を予測した数式では、ニュートリノには「重さが無い」ことが示されていました。

いったい、重さが無い物質なんて存在するのか? これも議論の的でした。



数式を仔細に検討した結果、特定条件さえ満たせれば、ニュートリノに「重さがあっても構わない」こともわかります。

では、仮に重さがあったら何が起きるのか、ということも数式を元に予測されます。


この結果、ニュートリノの重さの違いは、星の大きさに関係することがわかってきました。

ニュートリノの重さがわかれば、宇宙にある星の大きさや数を、大体推計することができます。


それはつまり、宇宙全体を知るためには、ニュートリノの重さを知ることが重要だ、ということでもあります。




ところで、この「ニュートリノ」の性質を予測した数式は、大統一理論と呼ばれるものです。

理論物理学の打ち立てた、その時点での最高の数式でした。



理論物理学は湯川秀樹博士や朝永振一郎博士(共にノーベル賞学者です)をはじめとして、日本のお家芸です。

その二人に師事した(といっても、二人ともあまりに忙しく、ほぼ独学だったそうですが)佐藤文隆博士は、教え子であった佐藤勝彦博士と共にビッグバン直後の宇宙で何が起きていたか、を数式を元に予測します。


これによれば、すでに知られていた4つの「力」…重力、電磁力、素粒子間に働く「弱い力」「強い力」は、最初は1つだった、ということになります。


では、今からでもすべてを一つにまとめた数式が作れるのではないか?

1970年代にはそのような試みが行われていました。


まず、弱い力と電磁力は、早々に1つの数式にまとめられていました。これを標準理論と言います。


「違うと思っていた力が、実は1つの数式にまとめられる」ことを示した標準理論が、他の力もまとめてみよう、という試みにつながったとも言えます。


ここに強い力をまとめたものが、当時「大統一理論」と呼ばれていました。

これ、以前に紹介した当時の小説「HARLIE」の中でも、重要な小道具として出てきました。

SF 小説に出てくる程度には、専門家でなくても当時の人が注目するトピックだったのです。


#さらに後には、重力も含めた「超弦理論」になります。



1980年ごろには、この「大統一理論」の数式は完成しました。

非常に美しい数式で、素粒子の振る舞いや、理論上は大量に存在するはずの反物質が宇宙に少ない理由、ニュートリノが捉えにくい理由など、すべて説明が付いたそうです。


もうこの数式に間違いない、と誰もが思いました。

でも、まだ「これが正しい」とする証拠はありません。検証する必要があります。


日本のお家芸である理論物理学が作りだした、珠玉の宝石。これを検証するために莫大な税金をつぎ込んで作った施設…それがカミオカンデでした。




カミオカンデは、岐阜県神岡の神岡鉱山跡に作られた施設です。

「ン」はニュークレオン(陽子を含む仲間)、「デ」はディケイ(崩壊)の意味で、陽子崩壊を観測する施設でした。


先に挙げた大統一理論が正しければ、非常に強固であるはずの陽子も、時間と共に崩壊するはずでした。

非常に長い時間がかかるのですが、大量に陽子があれば、確率問題として短期間に観測ができます。


陽子が崩壊すると、電子と陽電子が飛び出して…複雑な理論は置いときますが、最終的に「非常に弱い光」に変わります。

透明な物質中でこの反応を起こせば、外側から観測できます。


そこで、カミオカンデが建設されます。

大きなタンクの壁面に、非常に暗い光でも検出できる「光電子倍増管」がびっしりと並べられ、中を純水で満たしました。


水分子も陽子を持ちます。そして、水は透明です。

陽子が崩壊すれば非常に弱い光を放ち、それは光電子倍増管でとらえられるはずです。


陽子が崩壊した時の反応は、宇宙から降り注ぐ宇宙線でも引き起こされます。

このため、宇宙から最も遠いところ…鉱山の地中深くに施設が作られました。

(多くの宇宙線は、地面によって遮られます。ただし、なんでも貫通するニュートリノは別です)



カミオカンデは莫大な税金をつぎ込んだ施設ですが、実は同様の施設は海外でもいくつか作られていました。

ただ、カミオカンデの検出力はその中でも群を抜いた設計でした。


これで世界初の検出に成功すれば、理論物理における日本の地位は、一層固まるでしょう。



…が、半年も観測すれば検出されるはずの陽子崩壊は、1年たっても、2年たっても観測されませんでした。

中には「自然は不勉強で、大統一理論をまだ学んでいないのだ」と言い出すものもいたとか。


つまり「陽子は崩壊すべきだ」と言いたくなるくらい、大統一理論は美しいものだった…のだそうです。


しかし、観測結果は非情でした。

世界中の同様施設でも状況は同じ。これは、大統一理論が間違っている、ということに他なりません。


莫大な税金をつぎ込んだのに…

カミオカンデの責任者だった小柴昌俊博士は、どう言い訳をしたものか、ずっと悩んでいたそうです。




1987年、超新星爆発が観測されます。


超新星爆発は、星が死ぬ瞬間の姿です。

星は内部で「燃える」エネルギーによって形を保っていますが、この燃える力が尽きると、急に形を保てなくなり、急速に縮みます。


そして、星全体が中央に一気に落ち込むと、その圧縮力によって最後のエネルギーが放出され、大爆発するのです。


この超新星爆発は、1987A と名付けられました。1987はもちろん年号、A は、その年最初の、という意味です。

でも、当時はコンピューター観測もなかったため、数年に一度しか超新星爆発は観測されていません。


それらも、大抵は非常に遠いところにある別銀河の物です。

1987Aは、すぐ近くにある銀河で起こった爆発で、十分肉眼で観察できる明るさでした。

このようなものは、300年ぶりでした。


#残念ながら南半球でないと観測できないもので、日本からは見えませんでした。



星が爆発するときに何が起きるか、もまた、理論物理学によって詳細に解き明かされています。

爆発するときにはまずエネルギーが光として放出され、その次に大量のニュートリノが放出されます。


そして、このニュートリノは、地球を当たり前に通過します。南半球でしか見られない爆発であっても、ニュートリノは日本に届くのです。

カミオカンデは、このニュートリノを捉えました。


先に書いた通り、ニュートリノはいかなる物質も貫通します。

しかし、確率問題で、ごくまれに「原子核に」ニュートリノがぶつかった際に、陽子崩壊と同じように非常に暗い光を放ちます。


そして、たまたま大量の水…つまり原子核を蓄え、非常に暗い光でも捉えられる実験施設がそこにあり、300年に一度のチャンスを捕まえたのです。



このデータはやがて、海外の類似施設とも照合され、全く同時刻に別の施設でも同じ反応が出ていたことが確かめられました。

つまり、観測データは偶然ではなく「1987A 由来のニュートリノの反応」と確かめられたのです。


陽子崩壊を観測する実験装置として、莫大な税金をつぎ込んで失敗に終わったカミオカンデは、「ニュートリノの観測器」として一躍有名となります。



#当時は、「光のあとにニュートリノ」と考えられていた。

 その後、観測データの解析や、そのデータを基にした数値計算により、光よりも先にニュートリノが放出され、その後爆発が起こり光が放出されるとわかっている。

 この爆発の際にもニュートリノは放出され、光よりも遅れて届く。1987Aでは、この遅れてきたニュートリノの観測に成功した。




カミオカンデは元々陽子崩壊の実験施設であり、ニュートリノを「捉えることも出来るだろう」とは考えられていましたが、そのために十分な性能を持っていたわけではありませんでした。


そこで、改めてニュートリノ補足用の施設として、スーパーカミオカンデが作られます。

今度の「ンデ」は、陽子崩壊の意味ではなく、「ニュートリノ」と「ディテクション」(検出)の意味です。



そして、スーパーカミオカンデでは多数のニュートリノを補足し、質量があることも確認しました。

これらの功績により、小柴博士は 2002 年にノーベル賞を受賞しています。




さて、最初の話に戻ります。

日本科学未来館には、スーパーカミオカンデの模型があります。


本来光電子倍増管が付けられている部分は、すべて LED になっていて、「検出した」パターンを光ることで示します。

1/10 模型ですが、中に人が入れるほど大きいです。


光る際、片側の壁面が一斉に光ることがあります。

これは、ニュートリノと原子核が衝突して光る際、その光は衝突地点から「円錐形に」放射されるためです。


まぁ、衝突地点から懐中電灯で照らしたようなものを想像してください。

そのため、大量のニュートリノが流入した際には、流入とは逆側で、一斉に光が検出されるのです。



ここまで「ニュートリノ」と書いてきましたが、実際にはニュートリノには3種類の「型」があります。

スーパーカミオカンデでの、光のパターンなどを解析すると、捉えたのがどの型であるかもわかるそうです。


そして、ニュートリノに「質量があるならば」、この3つの型は時間と共に入れ替わる、とも予測されていました。

これをニュートリノ振動と言います。


スーパーカミオカンデでは、まず太陽で発生「しているはず」のニュートリノと、実際に捉えられるニュートリノが違うことから、ニュートリノ振動が実際に起っていることを確認しました。


ただ、この時点では理論と違う、というだけで、理論が誤っている可能性もありました。


その後、250km 離れた施設から「人工的に作ったニュートリノ」を打ち込む実験で、作ったのとは明らかに違うニュートリノが検出されることを確かめています。


これらの実験は、ニュートリノに質量があることを意味していますが、質量を特定するには至っていません。





今回の話、つい先日読んだ「宇宙物理への道」(佐藤文隆著)をネタ本としています。


この本、図書館で古くなったので「不要」とされてリサイクル扱い(自由にもらってよい)になっていたのを貰ったまま、数年放置していたもの。

「そういえば読んでない」と読んだら、非常に面白かった。


佐藤文隆博士、ノーベル賞取っているわけでもないし、申し訳ないけど「知らない人」だった。

でも、文中に書いた通りノーベル賞学者に囲まれて研究していて、博士自身非常に重要な理論を打ち立て、研究した人でした。

ホーキング博士の「肉声を聞いたことがある」人も珍しいのではないかな。



理論物理は興味はあるのですが、専門家ではないので間違いがあったらごめんなさい。

その際は怒らず教えてください。修正します。




2015.10.7追記


文中では2002年にノーベル賞を受賞した小柴昌俊博士の名前を「カミオカンデの責任者」として出していました。


2015年のノーベル物理学賞に、小柴博士の教え子でもある梶田隆章氏が選ばれました。

スーパーカミオカンデでニュートリノに質量があることを突き止めた功績。文中に書いた実験の責任者だったようです。



太陽からのニュートリノ、と文中では書きましたが、宇宙線が地球大気に入ってきたときのエネルギーで発生する「大気ニュートリノ」がかなり重要だった様子。


大気ニュートリノは地球表面すべてで発生しているのに、真上からのものだけが観測され、真下から(地球を貫通してきたものが)観測されない、という謎がきっかけだったそうです。


スーパーカミオカンデでは、3種類あるニュートリノのうち、タウニュートリノを観測できないのだそうです。

そこで、「地球を貫通している距離の間に、ニュートリノ振動が起きてタウに変化した」と考えたのだとか。


この時点では「ひらめき」にすぎませんが、そのひらめきを裏付けるために、1日に1~2個しか観測されない大気ニュートリノのデータを数年分検証し、仮説を裏付ける十分な証拠を集めます。



スーパーカミオカンデは国際的な研究施設で、データだけなら他の人でも見られたはず。

でも、そのデータを見ても、「下から来ないのはおかしい」と考える人はいなかったわけです。


まさに、1%のひらめきと99%の努力、を地で行く話。


エジソンの残した言葉だけど、「ひらめきがなくては、努力しても無駄だ」という意味だからね。

努力することが大事だ、みたいに受け止められて、エジソンは悲しんでいたようですが。



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