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09-14 昨日書いた記事について
09-14 追悼 ダグ・スミス
書いたことに対する解説が必要なんて言うのは、元の文章が良くないせい。
僕にもっと文章力があればこんな蛇足は必要ないのですが、どうも胸がざわつくというか、文章が消化しきれていない感じがあるので…
「スーパーマリオの発売日」だったのですが、スーマリのことは「宮本さんの誕生日」に書いていました。
ただ、宮本さんの誕生日の中で、他人のBLOG記事を参考に書いた部分があったのだけど、そのBLOGに問題があって消されていたこともその後わかっていたのね。
良い機会だから、訂正と共に、その訂正が必要となった経緯…自分が信じてしまったが、消されてしまったBLOG記事と、そのBLOG記事が「嘘である」と指摘しながら、その指摘自体が間違っている別のBLOG記事の話を書きました。
最初に断わっておきたいのは、ここで登場する「ふたつのBLOG記事」及びその筆者さんに対する攻撃意図はない、ということです。
攻撃したいのであれば、その記事がどこにあるのか直接リンクします。リンクが無いのは攻撃したくないから。
だから、できることなら探し出して話題にすることもやめてね。
探して閲覧することまでは止めませんが。
攻撃意図が無い、というのは、昨日の記事の最後に書いたように、言論封殺になるようなことはしたくないため。
結果的に間違えていたとはいえ、どちらの記事も書かれた時点では書いた人が真実だと信じ、自信を持って送り出したものです。
ただ、今は消された BLOG記事は、どうも独自の研究に「信憑性」を与えたかったようで、事実誤認を誘導する書き方をしている。
それを批判した記事は、自分の経験「のみ」に従って、それ以外のゲームのつくり方などあり得ない、という視野狭窄に陥っている。
どちらも余り褒められたものではありませんが、どちらも「自分の信じる事実」を広めようとして書かれたわけです。
文章を書くというのは、どんなに簡単な文章でもそれなりの時間を要します。それによって自分が得られる見返りはたいしたことないのに、「自分の信じる事実」を広めたいという純粋な善意のみで記事を書く姿勢は、賞賛されるものであり、批判されるものではありません。
例え「自分の信じる事実」が、後から別の人の検証によって間違えだったとわかったとしても、です。
もし、この善意を「結果が誤りなのだからするべきでない」と言う人がいるのであれば、それは言論封殺に他なりません。
結果なんて誰もわからない。すべての人が、その時点で信じていることを書くしかない。
ここに結果論を持ち込んでしまうと、委縮して誰も物を書けなくなります。それは損失です。
結果として誤っていたとしても、後から別の人の意見により「真実」が掘り起こされるきっかけになるかもしれません。
世に向けて一石を投じる人は、常に賞賛されるべきです。
実のところ、2つのBLOGおよび作者に「攻撃意図がない」のは、これが2つのBLOGだけの問題ではないからです。
BLOG記事っていうのは注目を集めれば勝ちですから、嘘でもなんでも「新発見」のように書きたがる人が多すぎる。
本当の新発見の場合でも、他人の記事をまるごと盗んででも自分の手柄にしたい人が多すぎる。
今回の話題でいえば、「参考文献」を挙げたり、参考文献の一部を引用するなどしてその書籍から新事実を紹介するような体裁を取りながら、自分の研究を発表した記事の書き方は、「悪意がある」と見られても仕方がないでしょう。
どこまでが参考文献によるものか、どこが自分の推論かを分離して書かないといけませんでした。
記事の内容、本当に素晴らしいものだと僕は思うので、勿体ないです。
しかし、これも「注目を集めれば勝ち」という BLOG の特性が生んだ闇とも言えます。
ほかの人が事実誤認するような書き方が推奨されちゃうんですね。
同様の闇として、他人の記事で面白かった内容を「ほぼ丸パクリ」するBLOGの存在があります。
記事を「紹介」するのは構わないのですよ。
素晴らしい記事を見つけたとして、誰かが紹介して閲覧者が増えることには意味がある。
ただ、これは「元記事の」閲覧者が増えるのであれば、と言う前提です。
ほとんど内容を丸ごとコピーして、元記事の URL を示さない、URL を示してもリンクはしない、リンクしても非常に小さいなど、「自分のサイトを閲覧中の読者を逃がさない」と言う姿勢を見せるのは浅ましい。
本当に紹介する記事が素晴らしいと思って紹介するのであれば、本記事をみんなにも見てほしいと思うはずです。
それができないのなら「ただ自分が注目されたいために」盗用しているだけで、あまり紹介したいとは思ってないのでしょう。
一方、苦労して書かれた記事を、すぐに「嘘だ」「ちゃんと調べてない」など批判する…いわゆるdisる人々の行為なのですが、こちらの方が問題の根は深いと思っています。
その中でも、わざわざ BLOG に「嘘だ」と書く人は、それなりの根拠を持って堂々と発信しているので、まだ罪が軽いほう。
Twitter やコメント欄でdisる人の方が、どれだけ闇が深いか…
それだけ闇が深いというのは、問題の根っこが古くからあるためです。
おそらくは、問題の根は江戸時代ごろにまで原因が遡ると思っています。
江戸時代、日本は世界でも有数の平和を誇り、そのために末端にまで教育を行う余裕があり、識字率も世界で一番高い地域でした。
だから、多くの人が本を読む。本を作れば売れるから、多くの本が出版されました。
当時の日本は印刷技術も世界一。多色刷りの浮世絵は…特に難しい構図を描いた枕絵は今でも世界的に高い評価を受ける芸術作品ですが、これほどの印刷物が庶民の間に出回っていたなんて国は、日本を置いて他にありませんでした。
でも、識字率が高いとはいっても、やはり難しいことはわからないのね。学は無いから。
だから、本の内容も大きな挿絵が入った絵本のようなものが多いです。今でいえば、ライトノベルよりもっと文字が少なくて絵が多い感じ。
そして、そこに書いてあることは多くの読者が、無条件で信じました。
この時代本の出版は幕府の許可が必要で、特に幕府の政策に対する批判などは絶対に出版できませんでした。
でも、学の無い読者にとっては「お上のお墨付きで出版されたもの」なのだから、おかしなことは書かれていないだろうと思っていたのです。
実際には、今のBLOGと同じで注目を集めれば勝ちですから、東スポみたいな「面白ければ信憑性は問わない」ような本なども出版されていたのですけどね。
#江戸時代の宇宙人遭遇記、とされる「うつろ船」の話とか、こうした本が出典なのですが、今でも信じる人たちがいる。
どうも日本人は、この「出版物に書かれたことは信じる」癖が抜けないようで、戦時中のいわゆる「大本営発表」なども多くの人が信じました。
(もちろん、威勢の良い話ばかりなのでおかしい、と気づいている人もそれなりにいましたが、そんなこと言い出せる雰囲気はありません)
今でも新聞に書いてあることは本当だ、と思っている人が後を絶ちません。
同様の現象として「偉い人が言っていた」とか、「テレビに出ている芸能人が言っていた」などもあります。
偉い人はともかく、芸能人なんて、場合によっては仕事が忙しくてまともに学校行ってないですよ?
偉い人だって「有名だから偉いと思われている」場合も多く、テレビに出るためなら何でも喋ります。
で、ここに裏返しで「文章化するものに嘘を書いてはならない」と信じ込む一派が生まれます。
この一派は、書かれた文章に自分の知見と違うものを見つけると、「嘘だ」とdisり始めます。
ここで問題なのは「自分の知見」の範囲内で決めつけてしまうということ。
もちろん、自分の知見は絶対に正しいと信じ込んでいるのです。
人の間違いには厳しいが、自分は間違えるはずがないと思っているから堂々と disるのです。
自分の知見が限られたものだ、と理解している人は、気軽にdisったりしません。
まず裏を取るところから始めますし、十分な裏を取れれば、根拠を示して論を展開します。
これはいわゆる「disる」のとは異なり、反論なり批判なりと呼ばれるものです。
時として、妥当な「反論」を受けた側が、自分の書いたものは正しいと信じて、検証も行わずにdisで応じる場合があります。
これ、心情としてはよくわかります。時間をかけて書いたものを否定されるのは悲しいし、間違いを認めるのも恥ずかしい。
でも、記事を書いた人の目的が純粋であれば…つまり、「目立ちたいから」書いているのではなく、「知見を広めたいから」書いているのであれば、自分が書いたことが間違っているとわかった際に取る行動はわかっているはず。
感情的に相手の反論を消し去ろうとするのではなく、自分の書いたものを見直して、反論がただしければ訂正する。反論が的外れであれば、的外れの反論を誘発してしまった「わかりづらい部分」があるはずなので、補強する。
いずれにせよ、反論に対しては記事の補正で応じるのが冷静な態度なはずです。
…しかし、わかっていてもそれができない人たちもいる。
特に、マスコミ関係などは「訂正すると信用に傷がつく」とおもっているため、訂正をしたがらない傾向にあります。
つまり、この問題の闇はこういうことなのです。
1) 出版物を無条件に信じる人がいる
2) この反動で、嘘を見つけると過剰反応する人がいる
3) 誤りに気付いても、2 が怖いので出来ることなら隠そうとする
4) 1 の人々は、隠されてしまうと誤りに気付かないので「出版物は信じられる」と思い続ける
この問題を無くすには、「恐れずに訂正をできる人は、実は真摯で信じられる人だ」という事実を常識としていく必要があります。
これが常識となれば、文章の訂正が気軽に出来るようになるため、嘘を恐れずに自分が信じることを書けるようにもなります。
あと、文章を書く際にすべてが妥当か調べるのも、時間的・知識的に個人の限界を超えることがあります。
気軽に文章を公表し、自分とは違う知見を持つ人々に妥当性の検証を依頼する、というのもアリだと、皆が認める必要もあるでしょう。
さて、唐突に見えるかもしれないけど、昨日の文章を書いている時から念頭に置いていたことを吐き出します。
スーパーマリオに関する二つの BLOG 記事を取り上げながら、念頭にあったのは朝日新聞の「誤報」問題でした。
吉田証言と吉田調書。
名前は似ていても全然違うこの二つは、歴史に残る大誤報であり、マスコミを揺るがす問題に発展しています。
でも、心ある人が指摘している通り、誤報が生じたことには問題はないと考えています。
問題となっているのは、その後朝日新聞がこの「誤報」を訂正しないどころか、誤報だと気づいていながら正しいと思わせるための工作をし続けていたこと。
実のところ、朝日はこうした例はたびたび起こします。
こんなに大問題に発展したのがはじめてなだけで、かなりやらかしますし、口の悪い人は「捏造系」の新聞だなどと言います。
でも、他の新聞社も多かれ少なかれ同じような風潮があります。
2011年の震災の直後、当時我が家でとっていた新聞は、「チェーンメールが出回っているから信じないように」と言う記事を書きました。
これはまぁ、妥当。
でも、同時に「Twitter には善意ある情報が出回っているので、こちらを使うように」と誘導しました。
この記事だけでなく、震災の混乱の中でこの新聞はおかしな記事だらけになっていました。
混乱時こそ、新聞の本当の取材力がわかります。この新聞は「信用ならない」と判断し、その時点で多数の新聞を比較したうえで契約を変更しました。
その後半年ほどたって、震災時に購読していた新聞をたまたま読んだのですが、相変わらず「メールは悪、Twitterは善」と書いてました。
訂正する勇気が無いのですね。多分、今でもそのままじゃないかと思います。
新聞社の名誉のためにどこの新聞社かは書きませんが、朝日ではありません。
誤報を行って訂正をしないのは、朝日に限らないのです。
そして、先に書いたように問題の根っこは新聞社にあるのではなく、「嘘を書くな」と要求する我々にあるのです。
我々が、誤りの訂正を「誤報だった」と糾弾しなければ、新聞社も変わるはずです。
蛇足。
思ったより記事が長くなってしまったので、もう一つ書きたかったことを蛇足として。
昨日の記事で最後に書いた「過つは人、許すは神」というのは、聖書に出ている言葉ね。
許すは神、というのはわかりにくいのだけど、「だれかの間違いに対し、他人が何かを言う資格はない」と言う意味。
間違えたとしても、神は許してくれるから恐れるな、と言う感じかな。
リンク先が全く関係なさそうな、PDP-1 の音楽演奏ソフトになっていますが、譜面データの入力ミスが見つかると、「エラーメッセージ」として「過つは人、許すは神」と表示されたのです。
蛇足2。
書き終えてから、途中に仕込んだ伏線(?)を回収してないのに気付いた。
「気軽に文章を公開して、自分の知見を超える部分は別の人に検証をお願いする」というのは、先日公開された昭和天皇実録のことを言っています。
昭和天皇に関することを四半世紀かかってまとめたにも関わらず、幼少期にお好きだったという遊びについてどうしてもわからない記述があった。
この情報提供を呼び掛けたら翌日にはネットなどからの意見で判明して、多くの人が「24年もかけて何やってた」と言う反応を見せた件。
実録の編集作業者は、昭和天皇の個人史をまとめるために集められた専門家ではありますが、別に子供の遊びの専門家ではないわけですよ。
当時の児童がどんな遊びを好んだかなんて知らないし、ましてや元となる記述がわずかに間違っているのに、類似性から推察して、誤りを訂正して、何の遊びか特定できるほどの知見は無い。
でも、知見が無いからこそ広く意見を求めたわけです。
そしたら、その手の「遊び」に詳しい人が、あっという間に当時日本でも流行った舶来のボードゲームで、表記が多少間違っている(英語表記を日本語に変換する際の表記ゆれのレベル)と言うのを突き止めた。
これは、何の問題もないことです。でも、鬼の首を取ったように批判する人が非常に多かった。
根っこには、他の問題と同じく「記述者は絶対に間違えてはならない、すべてを知っていないとならない」と考える人が多い、変な風潮があると思っています。
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ダグ・スミスが亡くなったそうです。
訃報を聞いたのは昨日の朝でしたが、すぐには追悼記事が書けずに今日となりました。
ダグ・スミスはロードランナーの作者です。
このゲーム、今の若い人はあまり知らないのかもしれない。もしくは、知っていても当時のインパクトがわからないかも。
これ以前のテレビゲームって、「アクション」と「パズル」は別のゲームジャンルでした。
一瞬の判断を要求されるアクションゲームと、時間はどんなにかかってもいいから考え抜かないといけないパズルゲームは別のジャンル。
この二つを融合させ、「考えながらも瞬時の判断とテクニックを要求される」ゲームを始めて作りだしたのが、ロードランナーでした。
もっとも、ダグ・スミスは最初から「アクションパズル」と呼ばれるものを作ろうとしたわけではなく、単にアクションゲームが作りたかったようです。
当初は忙しく敵から逃げ回りながら金塊を回収し、出口に向かうという…古くは「ルパン三世」に見るような回収型アクションを作りたかったらしいのね。
ところが、敵の動きを決めるルーチンにバグがあり、初期のバージョンでは奇妙な動きをしました。
追いかけてくるはずの敵が、時に自分から逃げてしまったり、不思議な行動をとるのです。
ダグは、なぜバグが生じているのかを突き止め、修正しました。
これで当初予定していたように、敵は自分を追いかけ続けるようになったのですが…ゲームはつまらなくなりました。
おかしな動きをする敵によって、「考える」時間が生じていましたし、場合によっては「敵を上手に誘導する」面白さも生じていたのです。
敵がまっすぐに追いかけてくることで、これらの面白さが失われてしまいました。
ダグは、バグを元通りに戻し、これはバグではなく「仕様」となりました。
でも、なにぶんバグなので、移植版では動きが異なっていることも多く、意図したとおりにパズルが解けない(難易度が高すぎる・低すぎるなど)などの問題もあったようです。
世界初の「アクションパズル」とされるロードランナーは、バグによって生み出されたのです。
ロードランナーはブローダーバンド社から発売されていました。
ブローダーバンドは、「仲間たち」と言う意味のスカンジナビア語。
創業者であるダグ・カールストンが、自作のゲーム「ギャラクティック・サガ」を販売するために作った会社でした。
ゲームは宇宙を舞台とした戦略ゲームで、恒星間を航行する「仲間たち」を保護するのがプレイヤーに与えられる任務でした。
このゲームは、それなりに売れて儲かったのですが、大ヒットとはならず。
しかし、これで「ゲーム販売会社」となったブローダーバンドの元に、日本の「スタークラフト」からアメリカでの販売を任せたい、と提携の申し出がありました。
この時に販売権を得た、日本人プログラマ「トニー・スズキ」による「ギャラクシアン」(ナムコの許可を得ないで作られたコピー作品)が大ヒット。
ブローダーバンドは、個人が作ったゲームを買い取って販売する、と言う方向に舵を切ります。
さて、そんなブローダーバンドからロードランナーが発売になるわけですが、発売前には紆余曲折がありました。
まず、ロードランナーは最初からブローダーバンドに持ち込まれたのではありません。
当時は、ブローダーバンドは2番手、1番のゲーム会社はシエラ・オンラインでした。
そこで、ダグ・スミスもシエラ・オンラインにゲームを持ち込みます。
しかし、シエラ・オンラインは急成長による大企業病になっていて、社内稟議に非常に時間がかかる状態になっていました。
持ち込みゲームの採用担当は、ロードランナーを気に入って採用しようとするのですが、この稟議に余りに時間がかかりすぎ、ダグ・スミスは「返事がないのだから駄目なのだろう」とブローダーバンドに持ち込みます。
ブローダーバンドでもこのゲームを気に入りましたが、採用し販売するのに際し、いくつかの条件が出されました。
白黒画面だったので、カラー対応にすること。ジョイスティックでの操作に対応すること。ユーザーが面の構造をエディットできるようにすること、など。
そうした条件の一つに「他の床と区別のつかない落とし穴を作ること」がありました。
これに対応するために、データ構造を全部2重化する必要があったそうです。
#それまでは、「見た目」と「実際」が同じとなる構造だったのだけど、落とし穴は「見た目が床で、実際は何もない」ところなので、見た目と実際の2重構造にする必要があった、らしい。
この落とし穴、賛否両論ですが結果としては大成功のアイディアだったと思います。
パズルゲームなのに見た目でわからない、つまり「すべての情報が明かされない」と言うのは良くないという意見がある一方、アクションゲームとして見た時には、思わぬところに落とし穴があった時の悔しさ…「面の作者にやられた」感は、言いようのないものでした。
アイレムにより業務用に移植されたときは、シリーズ初期は落とし穴は存在しませんでした。
お金を入れて遊ぶゲームに「明かされない情報」があるのは良くないと考えたのでしょう。
しかし、こちらも人気が出てシリーズを重ねるうちに落とし穴が採用されました。
やはり、ロードランナーの楽しさに落とし穴は必要、と判断されたのだと思います。
チャンピオンシップロードランナー、というのも発売されました。
こちらは、面エディット機能によってユーザーから集められた面から、特に難しい 50面を入れたものです。
先に書きましたが、敵の動きはわざと「バグ」を含んでいました。
このため、移植によって敵の動きにはばらつきがありました。
しかし、チャンピオンシップでは、敵の動きが非常に重要になっているものが多く、移植に際しても統一されていたようです。
面エディット機能と言うのもロードランナー以前にはなかった概念で、この機能によって新たに「チャンピオンシップ」が生み出されたこともあってか、この後に作られたゲームでは良く真似された機能です。
#後日追記(2014.9.23)
エディット機能がロードランナー以前にはなかった、と書きましたが、後で倉庫番を思い出しました。
時期的にロードランナーの直前で、エディットがあり、アメリカでも発売されてヒットしました。
難しい面を自作するコンテストを開催するなど、類似点多し。
ロードランナーは倉庫番の販売戦略を真似したのかもしれません。
ロードランナー以前は、敵と言うのはとにかく「触れてはならない」ものでした。
しかし、ロードランナーでは敵の頭の上に乗ってもミスにはなりません。
これは、敵のかわし方として「穴に落として頭上を歩く」と言うシチュエーションがあるためなのですが、穴に落とさなくても頭に乗れるため、チャンピオンシップではこれを使った面構成などもありました。
敵に近づくのは危険なのに、上に乗ることがどうしても必要になってくる。
これは、スリルのある、よく出来たアイディアでした。
恐らくは、スーパーマリオが「乗っかると敵を倒せる」のも、ロードランナーから来た発想の一つ。
#もっとも、スーパーマリオの前にパックランドが「敵の頭の上に乗れる」を取り入れているので、スーパーマリオはパックランドのアイディアを押し進めたようにも思います。
個人的には、業務用(とMSX移植)が大好きだった「フェアリーランドストーリー」で敵の頭の上に乗れたのが思い出されます。
敵の頭に乗らないと進めない部分とかあるから、何も考えずに敵を倒すと「詰んだ」状態になってしまうのですよねー。
ブローダーバンドとしては、多分最初が「ギャラクティック・サガ」の会社だから壮大なストーリーを付けるのが好きで、ロードランナーは「バンゲリング帝国三部作」の1つとされています。
悪の帝国「バンゲリング」と言うのがあり、民衆は圧政で苦しんでいるのね。
この帝国を倒すべく、軍需工場の空爆作戦を行うのが「バンゲリング・ベイ」。
民衆を圧政から救うため、独裁者が民衆から集めた富を金塊として隠し持っているのを奪い返すのが「ロードランナー」。
バンゲリング帝国との戦いで捕虜となった友軍兵士を救い出すのが「チョップリフター」。
でも、作者は別々で、ストーリーはブローダーバンド社が後から勝手につけたもの。
だから、重税により民衆から取り立てた金塊を取り戻す…はずなのに、タイトルが「ロード」(Lode : 坑道)だったりする。
金鉱から勝手に金を奪っていく泥棒のお話だよねぇ?
ちなみに、ずっとのちに別の会社から発売になる「シムシティ」は、バンゲリング・ベイの作者によるもの。
バンゲリング・ベイの地形エディタを作ろうと思って、ある程度地形を勝手に生成するから、そこに街などの設計図を大まかに示すと、勝手にそれらしい地形にしてくれる…と言うものを作っていたら、面白かったのでゲームとしての体裁を整えたのだとか。
ちなみに、僕はロードランナーはファミコンでやったクチ。
でも、あの左右スクロールは嫌だった。友人宅でFM-7版をやり、おもちゃ屋店頭でSEGA版をやり、「何でファミコンは画面構成が違うのか。キャラは小さくても、1画面に収まっている方がパズルとして遊びやすいのに」と思っていました。
今となっては、ファミコンのハード上の仕様で、ブロックサイズをあれより小さくできなかったのだとわかりますけどね。
チャンピオンシップは友人に借りて…借りている短期間で全部クリアしましたけど、こちらはポーズ中に画面をスクロールさせ、範囲外も見ることができるため「まだマシ」でした。
話は飛ぶけど、MSX 版のチャンピオンシップ、ソニーが作ったものですが、ソニーオリジナルの面が 20面くわえられていて(本来の面は10面減らされている)、特にオリジナル最終面は当時の何かの雑誌に「最高難易度」と書かれていました。
ちょっと遊びたかった気がします。逆さにして LOVE の面、だったかな。
#当時の雑誌で読んだうろ覚えの記憶を中心に書いています。間違えている部分もあるかもしれません。
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