2015年10月30日の日記です


クリフォード・ベリー 命日(1963)  2015-10-30 11:24:57  コンピュータ 今日は何の日

今日は、クリフォード・ベリーの命日(1963)。


ジョン・アタナソフとともに、アタナソフ・ベリー・コンピューター(ABC)を作成しました(1939)。


ENIAC よりも古いです。

ENIAC は 10進数で計算するのですが、ABCは2進数で計算します。


このため、ABCが「最初のコンピューター」だと主張されることがあります。

僕はそうは思わないのですが、まぁ、その程度に有名な機械です。


ABCマシンの詳細を知りたい方は、「ジョン・アタナソフ誕生日」のほうもご覧ください。




クリフォード・ベリー、名前は残っているのですがどのような方だったのか、詳細がよくわかりません。

調べてわかったことを簡単にまとめておきましょう。


ネット情報なので、誰でも簡単に調べられるし、まとめるほどのものでもないのですが。



クリフォード・エドワード・ベリー(Clifford Edward Berry)は、1918年4月19日にアイオワ州グラドブルックの電気店での長男として生まれました。4人の兄弟がいました。


1920年。ペンシルバニア州ピッツバーグで世界で最初のラジオ放送が始まります。

しばらくして、彼の父はラジオ受信機を作り始めました。


このとき、クリフォードも父を手伝い、父は電気技術をクリフォードに教えています。


グラドブルックの町で最初のラジオだった、ということなので、アイオワ州ではまだラジオ放送はなかったのでしょう。

そして、遠方の電波をとらえるため、非常に大きな…おそらくはアンテナのことだと思いますが…大きなラジオが完成します。


ラジオがまだ珍しかった時代。この機械を見ようと電気店を訪れる人は増えました。

その後もクリフォードは電気技術に興味を持ち続け、電気工作を続けるようになります。


11歳の時には自分でアマチュア無線機を組み立てています。




クリフォードは学校の勉強でも非常に成績がよく、1年生の終わりには、2年生を「飛び級」して3年生に上がることを提案されました。

両親はこれに反対します。理由はわかりませんが、無暗な飛び級よりも、基礎をしっかり学ぶこと、級友と共にいることを優先させたかったのではないでしょうか。


しかし、校長は毎年のように飛び級を進めます。

ついに、3年の終わりに飛び級を受け入れ、4年生を飛ばして5年生になっています。




11歳の時、父が電力会社のマネージャーの職を得ます。

この関係で、事務所があったアイオワ州の小さな町、マレンゴに引っ越します。


そして、クリフォードが高校2年生の時、事件が起きます。

父が解雇した社員から逆恨みを買い、射殺されるのです。


クリフォードは長男として、家族を守らなくてはならなくなりました。



しかし、彼の母はクリフォードの大学進学を希望します。

クリフォードは電気工学を学べるアイオワ州立大学に進学し、家族は大学のあるアイオワ州エイムズに引っ越します。


1939年、彼は電気工学の学士号を取得します。このときの指導教官はハロルド・アンダーソン。


ハロルドの非常に仲の良い友人に、ジョン・アタナソフがいました。


アタナソフは、電気式の計算機を作ろうとしていましたが、理論的には完成していても、実際に一人で回路を作成するのは大変でした。

そこで、友人のハロルドに「電気工学に詳しい学生を一人紹介してくれないか」と頼みます。


ハロルドはすぐに、クリフォードを紹介します。

そして、ふたりはABCマシンの作成を始めます。


1939年の年末には、非常に簡単なプロトタイプが完成し、デモを行っています。

これにより研究を続けることが認められ、大学から助成金も出ています。




ABCの作成中に、秘書として働いていた女性、マーサ・ジーン・リードと知り合い、1942年5月30日に結婚しています。

その後、子供も二人できています。


結婚の直後、クリフォードは国防企業に職を得ます。この関係で、カリフォルニア州に引っ越さなくてはならなくなりました。


ABCマシンは「戦争の影響で研究が続けられなくなり、未完成で中断した」ことになっています。

おそらくは、設計の中心人物であったクリフォードがいなくなったことで、続けられなくなったのでしょう。


クリフォードは大学を去りましたが、大学と特別な取り決めをしていました。

このため、カリフォルニアの会社に在籍しながらも研究を続け、1948年に物理学の博士号を取得しています。


1949年には会社でもチーフ物理学者の地位に昇格しています。




その後の彼に何があったのか、正確な記録がありません。


しかし、1960年ごろに、鬱状態となってしまったようです。


仕事での待遇にも満足がいかない、酒におぼれ、家庭生活も崩壊しかかっていました。

追い打ちをかけるように、立て続けに2回の交通事故にあっています。


精神科のカウンセラーの元にも通っていましたが、鬱を抜け出すことは難しかったようです。


このころ、アタナソフは「古い友人」であるクリフォードに会うために、はるばるカリフォルニアまでやってきています。

そして、昔の天才がすっかり落ちぶれている姿を見ています。


その後、1963年にクリフォードはニューヨークの電気技術会社の開発マネージャーの職を得ています。

「職に満足していない」とこぼしていた彼が、もっと自分を評価してくれる仕事を見つけ出したかのように思えます。



彼は、1963年の10月に、家族を置いてニューヨークに単身赴任しました。

そして、10月30日、引っ越したばかりの自宅アパートで死んでいるところが発見されたのです。


ビニール袋をかぶって、窒息死。

周囲にはおびただしい量の酒瓶が転がり、検死の結果も、彼がアルコール中毒であったことが裏付けました。


警察の見解は、自殺、です。

実際、不審な点は何もありません。


天才の悲しい最期でした。




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