次世代ゲーム機戦争
目次
サターン
セガはすでに書いたように、1991年ごろから「次世代メガドライブ」の開発を開始していたようです。
当時のセガがもつ最高性能の業務用基板、System32 を家庭用にしたような構造でした。5番目の家庭用ハードと言うことで「ジュピター」と呼ばれるようになります。
しかし、そこにソニーが作る新しいゲーム機…開発名「PSX」の噂が入ってきます。なんと、ポリゴンをベースとした3Dゲーム機を、家庭用に提供するというのです。
この時代、ポリゴンゲーム機は業務用でも珍しく、基板も非常に高価でした。それを家庭用で提供する、というのは衝撃でした。
ジュピターの開発は急遽方針を変更し「サターン」となります。
System32 のスプライト機能は「拡大・縮小」を持っていましたが、おそらく方針変更で「自由変形」が取り入れられています。
後から変更したために、自由変形と半透明を組み合わせると破綻するなどの問題はありましたが、とにかくポリゴンを出すことは可能となりました。
また、おそらくこの仕様変更で CPU も再選定しています。1992年夏ごろが CPU 選定の時期だった、とのことですから、ジュピターからサターンになったのも1992年に入ってからかもしれません。
市場のゲームを調査し、今後も2Dが主流と判断したのがいつかは不明です。
サターンの性能バランスを判断するための調査だった可能性もあります。
(すでに作成中の回路に機能を追加するだけで良いのか、再設計すべきかの指標は必要だったでしょう)
しかし、1992年にはまだ3Dゲームは珍しかったため、充実していなくとも、とにかくポリゴンが使えさえすればよい、と言う判断も当然だったように思います。
カートリッジ供給をやめて CD-ROM としたのも、この仕様変更だったようです。
PSX は CD-ROM 供給だ、という噂が影響したのかもしれません。
ただ、CD-ROM は遅いし、ドライブが高価なため、ぎりぎりまで判断を迷っていたように思います。
しかし、これで迎撃準備は整いました。
サターンはゲームを作るうえで、これ以上ない機能をもったハードウェアでした。
この頃、CD-ROM を使用した「マルチメディア機」が流行していました。
先に書いた 1991年に CD-i 、1994年には 3DO 、プレイディア、サターン、プレステ、PC-FX 。
NINTENDO64 はCD-ROM を持ちませんが、少し遅い1996年。この年にはピピンアットマークも発売されています。
いわゆる「マルチメディア機」は、なんでもできる、と言いながら何もできない機械ばかりでした。
必要とするすべての機能を満たしながら、それなりに安い価格で提供しようとすると、どの機能も中途半端になってしまうのです。
その点、サターンは「2Dゲーム」に的を絞り、「3Dゲームも可能」な作りでした。ゲームに特化することで、他のマルチメディア機とは一線を画していたのです。
8bit/16bit 時代に三つ巴の戦いをした、任天堂と NEC は、今回は敵ではなさそうでした。
NEC は2D機能を極限まで上げていますが、流行し始めの3Dには全く気付いていない様子。任天堂はサターン発売時点ではまだ開発途中で、発売は2年後です。
それ以外の機械は、ゲームのことがわかっていない会社が作ったものです。
誰の目から見ても、勝手に自滅するように見えました。
性能的には気になるソニーも同じです。
サターンではポリゴンゲームも作れますし、ゲームを作ったことがない会社が、勝てるはずがありません。
ソニーの弱み
ソニー自身、開発したゲーム機の弱点は判っていました。
3D性能に特化しすぎて、当時の一般的な人気ゲームが作れないのです。
3Dはマニア向けのジャンルで、3D性能に特化したゲーム機で何を作ればよいかすらわからなかったようです。
しかし、「3Dでも戦える」と確信したのは、バーチャファイターの登場(1993年12月)だったと言います。
先にも書きましたがこれはセガ側にも誤算で、「3D技術を使った2Dゲーム」という新しいジャンルを切り拓いた作品でした。
3Dがマニア向けなのは、3D空間の把握が難しいから。
どんなに3Dの表現を使っても、カメラワークによって事実上の2Dゲームを作ってしまえば、一般受けするゲームが作れるのです。
これで、3Dに特化したゲーム機でも戦える、という自信は付きました。
それでも、ソニーはゲーム業界では新参者でした。
プレステよりも半年ほど前に発売された、松下(現パナソニック)の 3DO は、「家電品会社が作ったゲーム機」の先達でしたが、惨敗でした。
決して性能が悪かったわけではありません。ゲーム業界にはゲーム会社と熱心なファンの間に「持ちつ持たれつ」の独特な雰囲気があり、新規参入が難しかったのです。
ソニーは、そのままではプレステは 3DO と同じ道をたどり、自滅する道をたどるだろう、と危機感を持っていました。
性能も知られずに「勝手に自滅」は避けたい。そのために、早くから宣伝を開始しました。
といっても、発売日のはるか前に広告をうつわけではありません。プレイステーションが面白そうだ、と思わせるため、世論を盛り上げていくのです。
「次世代ゲーム機戦争」…当時ほとんどのゲーム雑誌が、1994年のゲーム機ラッシュをこう呼んでいました。
これ、ソニーの策略だったそうです。おそらく、開発中のゲーム機の情報リークなどと引き換えに、こういう見出しで報じてもらうように取引したのでしょうね。
本当は、誰の目から見てもサターンの独り勝ちが明らかで、「戦争」なんて起こるわけがなかったのです。
でも、発売のずっと前から開発中のゲーム機などを取り上げ、「戦争」として取り上げてもらい、ゲーム好きの心をくすぐりました。
ここでは、「次世代」とは「CD-ROM の大容量と、3D表示機能を持つゲーム機」というように定義づけられました。
…もちろん、これもソニーの戦略なのでしょう。プレステの特徴を、「次世代」の定義にすり替えたのです。
NEC の PC-FX は3D表示機能がありませんでした。
実はこれは致命的なことではありません。まだまだ2Dのゲームが中心だったのですから。
しかし、「3Dで遊べる次世代ゲーム戦争」という雰囲気を醸成されてしまうと…惨敗は明らかでした。
セガにはバーチャファイターというビッグタイトルがありました。
サターンに移植されることは決まっていましたし、3Dの戦いでもやはり注目を集めていました。
…しかし、サターンの真価は2Dの機能にあります。ソニーの策略で、一番の得意技を封じられてしまった形でした。
ソニーとしては、サターンに勝つ必要はなかったようです。
ただ、「自滅」にならないように、サターンと争えるほどの性能の機械としてプレステを印象付けるのが目的です。
プレステは2D性能では、明らかにサターンに劣っていました。でも、3Dなら勝てます。
もし、セガが「3Dが遊べる次世代ゲーム機」という雰囲気を打ちこわし、逆に「プレステでは2Dのゲームは遊べないんですよ」と、ソニックシリーズや、固定ファン層の多いシューティングゲームなどを印象付ける戦略に出たら、勝負は変わっていたかもしれません。
しかし、プレステの性能の高さに慌てたセガは、CPU を増設して性能を互角にし、3D勝負、という土俵に上ってしまいます。自分の土俵に引き込んだソニーの作戦勝ちでした。
ソニーは、他にも「プレステは面白そうだ」と思わせる策略を、たくさん行っています。
プレステの発表会では、サードパーティの「数」を発表しました。これほど多くの会社が参加するから、面白いゲームが沢山出るよ、と言うわけです。
聞いたことない会社や、ゲームを全く作ったことがない会社も含まれました。実のところ、ゲーム業界にはサターンが勝利すると考えている人が多く、プレステに参加するゲーム会社は少なかったのです。
しかし、セガもこれに対抗するように「数」を発表せざるを得ませんでした。
(もしくは、ソニーに頼まれた各雑誌社が、参加企業の数を問題にするように記事を書いたのかもしれません)
それらの会社のサポートは、後々セガの重荷になっていたように思います。
ソニーの策略は、狙った以外の部分でもセガを苦しめていくのです。
とにかく、ソニーは広告戦略に長けていました。
雑誌メディアをうまく使い、ゲーム業界では有名なセガに「勝っている」部分の比較ばかりを出すことで、プレイステーションを印象付けていったのです。