日坂  2003/4/10 14:10  「掛川」まで 7.0Km

日坂(にっさか)、という地名は、小夜の中山の「西坂」から来ています。扇屋を過ぎたあたりからの下り坂は、もう日坂なのです。

この下り坂には、小夜の中山にちなんだ歌や句などが、歌碑としてたくさん置かれています。普段ならこういうのを楽しみながら行くところなのですが…実は、かなり足の裏が痛いです。朝から痛かったのが、半日歩いてもう限界に近づいている感じ。

小夜鹿一里塚ちょうど一里塚を見つけたので、「写真を撮る」と言ってこれを機会と休息します (^^; 一里塚の脇に書かれた説明を読むのも、いつもより念入りに…(休憩の時間稼ぎという噂もあり)

説明文によれば、この一里塚は江戸より56里と伝えられるものであるが、1690年の記録では52里、1843年の記録では54里となっていて何番目かよくわからない、とのこと。

小夜の中山の伝説も、扇屋の子育て飴の由来も、諸説あってどれが本当か良くわかりませんでした。そして一里塚までも…どうも小夜の中山には「よくわからない」ものが多いようです。


さらに歩くこと15分。今度は「夜鳴き石跡」の碑を見つけたので、また休憩 (^^; ここは、広重が描いたポイントでもあります。

広重「日坂」現在の「日坂」



広重の絵で、道の真中に落ちている大きな石が「夜鳴き石」です。もっとも現在は移動されて、跡を示す石碑があるだけです。


明治初期に、明治天皇が東海道を通って江戸まで行く時、邪魔だからとどかされたそうです。さらには、後に東京まで運ばれて見世物にされたとか。現在は、久延寺の境内と、小夜の中山トンネル脇の2箇所に置かれています。1つしかないはずの石が2箇所に置かれているのもおかしな話ですが…

この夜鳴き石、「よくわからない」が多い小夜の中山でも、特によくわからないもののひとつだという気がします。まずは、伝説を紹介しておきましょう。

日坂へ向かう1人の妊婦が山賊に斬り殺された。お腹の赤子は無事助け出されたが、母の霊が乗り移った石とともに毎晩泣きつづけたため、寺の住職が読経して霊を慰めた。この石が「夜鳴き石」で、母のいない赤子を育てるのに使われたのが「子育て飴」

この話には様々な「亜流」があります。お腹の子供は傷口からかろうじて生まれたが、そのままでは死んでしまう。それを知らせるために、石が大声で泣いたとか、近くの寺の観音菩薩が消え、子供を飴で育てていたとか…

また、後日談として、子供が育って仇討ちを果たしたり、夜鳴き石の話を聞いた弘法大師が石の裏に経を彫ったり…

しかし、さらに調べてみると、上の話よりもっと「それらしい」話もありました。少し長くなりますが、小夜の中山の多数の謎が一気に解明できますので、紹介しておきましょう。


まず、「小夜の中山」という地名の由来です。平安時代、この地に「蛇身鳥」と呼ばれる、蛇の身体と刃の羽を持つ怪鳥が現れました。帝の命を受けた藤原良政は、この鳥を見事退治します。

このとき、この地に住んでいた美しい娘「月小夜」と良政は結ばれます。良政は月小夜を都につれてゆきますが、月小夜は気苦労の多い都の生活をさけ、やがて山に帰ります。その月小夜が住んでいた山が「小夜の中山」です。


月小夜と良政の間には、小石姫と言う女の子が生まれました。やがて、良政の決めた許婚者が都からやってきます。

しかし、このときすでに小石姫のお腹には足利尊氏の伯父、空叟上人の子供がいました。小石姫は自分の身の不幸を嘆き、松の下で自害します。


子供を産んでから自害、という話と、子供がお腹にいるまま自害、という話の両方があります。近くには小石姫の墓といわれる「妊婦の墓」もあるのですが、生んでからじゃ「妊婦」はおかしいような…。しかしこの後、残された子供の話になるのでお腹にいるまま自害も変です。お腹の子供が2人目だとすると、すでに人妻とわかっているのに周囲が結婚を勧めるのが変です。(都にいた良政が事情を知らなかった、と考えれば一番自然ですかね。)

さて、残された小石姫の子供は、空叟上人が中国伝来の製法の飴を使って育てます。これが「子育て飴」の由来です。(扇屋には、「夜鳴き石」伝説の由来と「小石姫伝説」の由来の両方が書いてあります)

さて、小石姫が自害した松は「夜泣き松」と呼ばれました。きっと、夜に人知れず泣きながら死んだ…とかの話が元になったのでしょう。この悲恋の話は有名となり、江戸時代に入って東海道が整備され、旅人が多くなると観光名所となりました。

いつしか、夜泣き松の皮をいぶした煙が、子供の夜泣きに効果があるという噂が広まります。こうなると旅人というのは無責任なもので、悲恋話ゆかりの松の皮をみんなが少しずつ削り取り、ついには松は丸裸になって枯れてしまいます。


観光名所がなくなるのは、土地のものにとっても困ります。そこで、せめて跡を残そうと、松の有った場所に大きな丸石が置かれました。すると、今度はこの石が「夜泣き石」として有名となります。

おそらく、周囲の人も最初は夜泣き石の由来である、夜泣き松の話を旅人にしていたでしょう。しかし、やがて「わかりやすい」伝説が好まれるようになり、別の話ができていきます…

幸い、この周辺には「妊婦の墓」「子育て飴」「夜泣き石」という、なんとも謂れありげなものが揃っています。これらを組み合わせて江戸時代中期に作られた「新作の伝説」が、最初に挙げた夜泣き石伝説だったというわけです。もともといいかげんな作り話なのですから、亜流が多いのにも納得です。


ちなみに、明治時代に邪魔だからとどかせた夜泣き石は、久延寺が買い取って観光の目玉にしました。東京まで運んで見世物にしたのも久延寺です。

しかし、興行は大失敗。帰りの金も出せなくなって、石を焼津まではこんだ所で運ぶ資金が尽きました。これに対し、村の大切な石をそのままにはして置けないと、村の有力者が金を出し合って石を村まで持ち帰ります。そして小夜の中山トンネルの脇にあった料理屋、小泉屋の裏に設置します。

昭和11年、再び夜泣き石は東京で見世物にされます。このときは大評判となったのですが、そうなると口惜しいのが久延寺。石の所有権を主張し始め、小泉屋と裁判で争うことになります。

結局久延寺は裁判で負け、似たような石を探してきて境内に設置しました。…つまり、これは明治期に作られた偽物ということです。しかし、先に説明したように、そもそも夜泣き石自体が偽物の伝説。

蛇身鳥退治・小石姫悲恋の伝説はともかく、そのゆかりの松を枯らせてしまったり、観光のために話をでっち上げたり、話題になった石を見世物にしたり所有権を争ったり、さらには偽物の夜泣き石を作ったり…なんとも人間の業の深さを感じる話です (^^;


日坂宿本陣跡夜鳴き石から30分歩き、14時50分日坂宿に入ります。ここは昔からのものが比較的残っていたのに加えて、東海道400年にあわせて復元工事なども行われたため、昔の佇まいを残しています。


ちなみに、右の写真は本陣跡。立派な門構えに、これまた立派な文字で「本陣扇屋」「大黒屋」と書かれているのですが、実は幼稚園。奥にはピンクの建物が建っていたりして、ミスマッチな光景に驚きます。

旧宿場町の半ばに公園があったので、そこでまた休憩します。なんか、30分ごとに休憩している気がするのですが、本当に足の裏が痛くて…。筋肉痛とかなら自分が鍛えれば克服できるのですが、打ち身の痛さなのでどうしようもないのが辛いところです。

靴を脱いで足を揉んだり、しばらく休んだら楽になりました。ちょっと公園のトイレに…。帰ってくると、妻が町のおばさんと話をしていました。話していた、というより、話し好きのおばさんに捕まったらしい (^^;

ちょうどお茶がなくなっていたので、僕は近くの自販機まで行ってペットボトル茶(150円)を買います。ほんの15mほどなのだけど、足が痛いとこの距離を歩くだけでも大変。

戻ると、ちょうど話の区切りがいいところだったので、「そろそろ行かないといけないので」と別れを告げます。15分くらい休んでいたでしょうか…足が痛いとはいえ、ちょっと休みすぎの気がします。


日坂高札場跡3分も歩くと、高札場跡がありました。さすがに今度は休まずに写真を撮るだけにしておきます。ちなみに、小夜の中山に入るあたりで男の人にもらった地図は、この高札場の所に無料で置いてありました。

本来は高札場は宿場の中心あたりにあったようですが、現在では高札場を過ぎるともう町外れです。



伊達方一里塚この後、30分ほど歩いて15時50分、伊達方一里塚を発見します。情けないことですが、足が痛くてここでまた休憩。ちょっと腹がすいてきたので、今朝買った小饅頭と、昼に買った菓子パンを食べます。

それにしても、自分でも休みすぎだと思うくらいで、妻のほうもちょっと困っているようです。せっかく歩くつもりで来ているのに、30分ごとに休憩というのは…

どうにかならないかといわれても、こちらはこれでも精一杯なのでどうしようもない。ちょっと口論になりかけますが、喧嘩をしてもつまらないのでとにかく再び歩き始めます。


20分ほど歩いた所で、再び妻から提案。「もうちょっと運動したいけど、一緒に歩いていると無理だろうから、ここから別行動にしない?」

妻のアイディアはこういうこと。おそらく僕の今のペースでは、次の掛川宿まで1時間30分程度かかるだろう。しかしその時間走りつづければ、さらに次の袋井宿までいける。電車の切符は青春18切符で乗り放題だし携帯電話も持っているのだから、電車で移動して落ち合えばいい。


たしかに、これは無理のなさそうな計画です。ちなみに、妻は高校の時陸上部で長距離をやっていたので、この程度の距離を走るのは問題ありません。

時間を見積もった結果、おそらくは僕のほうが先に駅まで到着するだろうと思われたため、切符は僕がまとめて持っていくことにしました。僕が使っていたウェストポーチを妻に渡し、携帯電話とカメラと地図を持っていきます。走るだけなのでお金はいらないだろうとの考え。僕は足が痛いだけで体力はあるので、残りの荷物を持っていきます。


16時30分、東海道の旅ではじめての別行動開始です。妻はさっさと走っていき…かなり離れてから気付きました。妻は「お金はいらないだろう」と全部置いていきましたが、先についてしまったときのために、喫茶店に入って時間をつぶすくらいのお金は渡して置けばよかった。これは、なんとしても先について待っている必要がありそうです。

僕も歩き出します。ここらへんは大通り沿いで道も簡単なので、とにかく一歩一歩前へ。足の裏はいたいのですが、自分ひとりのペースで歩けるようになったのでちょっと楽です。あの信号まで…あの電柱までと、自分で目標を決めながら少しづつ前へ進みます。

…そして、30分後に本村橋交差点で休憩 (^^; 自分のペースで楽になったとはいえ、やっぱ痛いものは痛い。しかしあまり休憩していて妻を待たせてはいけないと思い、すぐにまた歩き出します。

この交差点を過ぎると、旧街道は現在の大通りから離れて寂しい道に入ります。ちょっと静かな道を、夕暮れに一人歩いていきます。

掛川まではもうすぐです。

(ページ作成 2003-07-13)

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