左富士神社からちょっと進めば、左富士の碑があります。この碑があるあたりが、広重が描いた「吉原」の場所となります。
当時はここらへん一体が松並木だったようですが、現在残っているのは写真の松一本のみ。左富士の碑も、この松の脇にあります。
本当なら松越しに左富士が見える…はずなのですが、このとき再び分厚い雲が富士を隠してしまいました。さっきまで見えていたんですけどね (^^;
広重の描いた「吉原」の地点に来たと入っても、吉原はまだまだ先です。
原 - 吉原 - 蒲原のあたりは、昔は低湿地帯だったそうです。吉原のヨシも、湿地に生える「葦」の意味。(普通は「アシ」と読みますが、それだと「悪し」と同じ発音なので、逆の意味の「ヨシ」と読む場合もあります)
海に近い湿地だと、時々大波が押し寄せて街が壊滅します。吉原はそのたびに内陸に移動して再建され、ついに東海道の道筋もここだけ「富士山の見える方向が変わる」ほどに移動したというわけです。
現在の吉原は、富士山から流れる豊富な水を使い、製紙業が盛んです。そして製紙といえば妻の趣味であるトイレットペーパーコレクション…
平家越の橋の脇、製紙会社の倉庫前に山のように積まれたトイレットペーパーの箱を見て、「うぉー、金出すから全製品1個づつくれー」とわめく妻。
「工場見学とか受け入れてくれるなら、いつか一日がかりで全部の工場をハシゴする!」と夢を語ります。大人の社会科見学のネタにはいいかも。
10時半ごろ、吉原宿に入ります。まだ昼間ではずいぶん時間があるのですが、朝ご飯がおにぎりだけだったこともありおなかがすいたのでコンビニへ。
チョコウェハース(105円)を購入すると、コンビニのおばちゃんに「歩いているの?」と聞かれます。こんな質問がすぐに出るくらい、東海道歩きをする人は多いらしい。
どこからかと聞かれたので、原からと答えます。どこまで行くのかと聞かれ、「興津まで」と予定を答えます。
「こないだ来た団体さんは、吉原駅から清水港まで行くって言っていたわよ」とか言われます。ごく普通に言われたけど、このおばちゃんは絶対にその距離がどういう意味を持っているかわかっていないと思います。
なんかおしゃべり好きのおばちゃんで、なかなか開放されませんでした。こんなところで無駄に時間をつぶしてしまった (^^;
おやつを食べながら歩き、吉原本町駅を越えると商店街に入ります。
吉原本町駅の踏切を横切った電車は「かぐや富士 がくちゃん」という良くわからない名前がついていました。
なんだありゃ? と歩いていくと、道の側溝の蓋も、かぐや姫をイメージしたらしい模様が…もしかして、竹取物語って吉原のあたりの話なのか?
竹取物語は、富士山を舞台に終わります。
月に帰った かぐや が老夫婦に残していった「不老不死の薬」。しかし、生きがいだった かぐや が居ない今となっては、老夫婦は不老不死になんの魅力も感じません。
この想いを かぐや に伝えたいと、老夫婦は月からも見えそうな高い山に登り薬を焼いてしまいます。不死の薬を焼いたこの山が「不死山」と呼ばれ、後に富士山となります。
今でも富士山から立ち上る煙は、このときの煙なのです。
後で調べたら、富士市がかぐや姫伝説を町興しに使おうとしていたのですね。
でも、竹取物語の「発祥の地」を名乗る場所はたくさんあるみたい。考えてみたら、都から若い公家が尋ねてきたり、後には帝までやってくるのだから 京都周辺というのは正しい意見な気がする…
それはさておき、現在では道が細かく伸びてどこが旧街道だかわからなくなった吉原を抜けていきます。
11時30分、本市場の一里塚を通過します。富士駅に通じる商店街を抜け、そろそろ昼ご飯の相談。
次の蒲原宿まではまだ時間がかかりそうだから、富士川を過ぎたあたりでなにか食べたいねぇ、とこのときは思っていました。
このころ、妻の万歩計ゲームがついに目的を達成します。このゲームは、世界の希少動物50種を救い出すものなのですが…。5千歩で1種救える設定にしてあったので、今日までに25万歩を歩いたことになります。
富士川までたどり着いたのは12時を少し過ぎた頃。富士川はでかいです。上流を見る限り、とてつもなく川幅が広いです。
でも、橋沿いに堰が作られていて、橋より下流では川幅が急に細くなっています(笑) なんでこんな風にしてあるのかはわかりませんが。
富士川といえば、フォッサマグナ。日本を東西に大きく分ける大断層です。
変わるのは地学的な特性だけではありません。電力も周波数が変わりますし、蛍の点滅周波数も変わります。
そうか。蛍って100V交流で動作していたのか…(もちろんウソ)
富士川を渡った先では、なぜか灯篭が増えました。歩いているとあちこちにあるのですが、全部常夜灯だそうです。
どうも神社参りの人などのために整備されていたようですが、油が高価な時代にこんなにも常夜灯を備えていたなんてすごいなぁ…と感心しながら歩きます。
歩いていくと、非常に大きな木がありました。でけぇなぁ…と思いながら近寄ってみると、どうやら一里塚のようです。
現在は跡だけが残る一里塚も多いのですが、この木は当時のままです。ということは、樹齢およそ400年。
ガイドブックによれば、蒲原に入るとすぐに一里塚があります。ということは、ここから蒲原まで一里…およそ1時間。
時間はすでに12時半。そろそろ食事したいんだけどなぁ、と思いながらも、田舎道なので食べるところがありません。蒲原では食事にありつけることを願いながら歩きつづけます。