丸子  2003/4/9 12:10  「岡部」まで 7.8Km

安倍川をわたってしばらく、12時過ぎには「丸子宿」と書かれた案内板を発見しました。丸子宿に入ったようです。

しばらく歩くと徐々に商店が多くなってきます。12時になって日差しも強いので、そんな商店街の一角にあった薬屋で、日焼け止め(630円)を購入します。


丸子一里塚丸子はいまはそれほど大きな町ではないようです。商店街といっても小さなもので、昔からある住宅地という感じ。

そんな商店街のはずれに、一里塚がありました。「一りづかあと」とひらがなで書かれているのと、この表示が車道に向かっているのがちょっと珍しいです。(こういう表示を車から読む人はいないので、通常は歩道に向いています)

このあとも本陣跡、お七里役所跡、などの石碑がたっていましたが…とりあえずどうでもいい感じ (^^; 軽く写真だけ撮りましたが、あまり立ち止まらずに先に進みます。


一里塚を過ぎてからほどなく、今日の食い歩き旅の2番目の目的地であり、広重の描いた鞠子の場所でもある「丁子屋」がありました。


東海道五十三次の初版では「鞠子」と表記されていて、第二版から「丸子」になりました。当時はそれほど識字率も高くありませんし、音さえ合っていれば漢字はそれほど問題ではなかったのでしょう。(ちなみに、地名は「まりこ」です)
 当時の旅行書等では、ほかにも「保土ヶ谷」を「程ヶ谷」と表記していたりする例もあるようです。

広重「鞠子」現在の「丸子」



広重の絵に描かれた「とろろ汁屋」はまさにこの丁子屋であり、いまでもとろろ汁を食べることができます。もっとも、建物は一度近代建築に立て替えられ、その後でふたたび昔の雰囲気にもどすために古民家を移築したということですので、当時のものとは異なります。


店の前についたとき、選挙演説カーが店の前に横付けしていました。ちょうど統一地方選の最中、まさか団体で貸切なんて状態では…とちょっと慌てます。

ここで昼ご飯と決めていたので、店の前にいた店員に「今入れますか?」と聞くと「どうぞどうぞ」と奥に案内してくれました。中に入ってわかったのですが、建物は見た目よりずっと大きく、隣にももう一軒あるので200人くらいは収容できるようです。


丁子屋のとろろ汁は、別名「まちかね汁」と呼ばれるそうです。客の注文があってから新鮮なとろろをするので、非常に待たされるのだとか。今日泊めてもらう友人からも、あらかじめ「丁子屋はものすごく混むから注意してね」と言われていました。

メニューを見ると…結構高いです。まぁ、有名店ですから仕方が無いですね。名物の「とろろ汁」は、定食でないと食べられない模様。一番安い「丸子」定食で1380円します。

しかし、ここはぜひ食べたかった店。さらに、メニューを見るとほかにも美味しそうな料理が…思い切って贅沢するつもりで、妻は「丸子」、僕は「本陣」(2000円)を注文します。


またされるという話なので、注文後荷物を降ろしてくつろごうとしていると…3分程度で食事が出てきました。早っ! 噂とはずいぶん違いますが、ちょうど昼時ですからあらかじめ用意しているのでしょう。平日で客が少なめ(とはいえ、数十人は入っていました)だったのも幸いしたかもしれません。

とろろ汁「丸子」定食これが「丸子」定食です。すり鉢いっぱいのとろろ汁に、おひつに入った麦飯、味噌汁と御新香、薬味のネギがついています。

メニューの裏には「とろろの正しい食べ方」という、五七調の文章が書かれていました。しかし、これを読むところによれば結局は「美味しいように食えばよろしい」ということらしい(笑) では、遠慮なく頂きましょう。

味付けには白味噌を使っているそうで、あとをひく美味しさがあります。とろろもご飯もたっぷりあるので、お代わりして食べることができます…が、我々はこのあとも歩かないといけないので、2杯半でやめておきます。っていうか、すでに食いすぎだけど。2杯半食べると、とろろ汁がなくなりご飯はすこし余る程度です。


「本陣」定食の一部ちなみに「本陣」定食は、丸子定食に「むかご揚げ団子」と「山菜2品」がついてきます。山菜は季節によって異なるようですが、むかごの梅酢和えと葉物のおひたしがついていました。

むかごは、山芋の葉っぱの付け根にできる、とても小さな実ですね。食べるのは初めてだったのですが、とても美味しい。歯ごたえがあり、味は濃厚な山芋です。

そのむかごをつぶして揚げた「揚げ団子」は、少し甘酸っぱいたれをつけて食べます。ほくほくとしたコロッケのような感じで、これも非常に美味。山菜として出たむかごのほうも梅酢和えでしたし、むかごは酸味とよくあうのでしょう。


食事の後、座敷なのでちょっと失礼して足のテーピングを直します。今回はまだそれほど歩いていないというのに、指に水ぶくれができていました。買ったばかりの靴が、どうも足になじんでいないみたい。

水ぶくれは安全ピンでつぶし、ばんそうこうで保護します。ちょっと痛いけど、まだ歩けそう。


時間確認のために携帯電話を見ると、今日泊めてもらう予定の知人から電話がかかってきていました。特にメッセージは残っていませんでしたが…

なんだろうと思って「いま丁子屋で飯食ってる。予定より30分ほど遅れている。電話くれた?」とメールを送ると、すぐに「どこにいるか聞こうと思っただけ。気をつけて来てね」との返事。

夕方5時には仕事が終わるというので、その頃に再び連絡することを確認します。


丁子屋を1時半頃出発して、1時間ほど歩くと「宇津之谷峠」につきました。今は立派なトンネルがありますが、今は旧東海道にしたがって山を越えます。ちなみに、日本で最初にトンネルが作られたのはこの山だそうで、「明治のトンネル」「昭和のトンネル」という、古いふたつのトンネルも残されているようです。

宇津之山というのは、伊勢物語にも出てくる地名だそうで、広重の「東海道五十三次」の岡部宿のタイトルにもなっています。しかし、現在「宇津之谷」という地名はあっても、どこが宇津之山なのか不明。というか、ここらへん一体全部が宇津之山なのでしょうけど。


トンネルには入らずに旧道に進み、すぐのところの民家の前でみかんを売っていました。ここにくるまでにも無人販売はたくさんあったのですが、1袋5個入りで100円程度が相場。買いたくても旅の途中で5個は買えません。

しかし、ここにあったのは1個10円。ありがたく買わせていただきます。


ちなみに、売っていたのは「スルガエレガント」という品種。あとで知人に聞いたところでは「ここ数年、急にスーパーなどで見かけるようになった新品種」といわれたのですが、ネットで調べたら昭和45年に作られた品種だそうです。
 まぁ、高級品種だったようなので、スーパーに並ぶようになったのは最近なのかもしれません。

十団子このミカンを売っていた家の玄関先に、こんなものがぶら下がっていました…小さな団子の集合体ですが、全体でも500円玉程度の大きさしかありません。

これが、このあたりに伝わる「十団子」と呼ばれる厄除けのお守り。その昔、このあたりにいた鬼を修行僧が懲らしめ、小さな団子にして食べてしまったという言い伝えがあるそうです。夏祭りの時に神社で配布されると聞いていたのでその季節しか見られないのかと思ったら、どこの玄関にもこれが吊るされていました。

東海道の旅人にとっては宇津之谷峠は難所で、命を落とす人もいたようです。実際、今歩いても結構な急坂ですし、そのような難所が「鬼」の伝説となって今に残っているのでしょう。


昔からほとんど変わっていないという町並みを越えて、やがて山に入ります。ここから30分ほどは山道です

宇津之谷峠の山道今となってはほとんど誰も使わない山道です。山を越えたければ車でトンネルを通りますし、散歩コースとしても古いトンネルや「蔦の細道」と呼ばれる古東海道が人気で、旧東海道を通る人はそれほどいないようです。

しかし、所々に旧東海道を通る人向けのガイドがあります。それももう、熱心な内容の…

「この部分の道は車道を通すために作り直されたため、本来の道とは5mほどずれています」とかって、言わなきゃ気がつかないと思うのだけど…。旧東海道を残したいと思う人たちにとっては、わかっているうちに少しでも多くの情報を後世に伝えたいのでしょう。


「でも、江戸初期と江戸末期でも道はずれていると思うんだけど、きっとそういうことはすでにわからないんだよね。」ふと思った疑問を口にします。「江戸時代で100年たったらわからなくなったみたいに、今から100年後には5mくらいの誤差の情報は、もうどうでもいいものになっているのでは?」

「まぁ、そういうことは言わない約束で。残したいって情熱があるのはいいことじゃない?」と妻。すでに峠は越え、山を下りながらそんな話をしていると…


蘿径記碑跡またなにやら石碑がありました。「蘿径記碑跡」…1830年に、当時の儒学者が「蔦の細道」が忘れ去られることを恐れてここに碑を建てたんだそうです。

つまり、170年前にも、「古い道を残しておかなくては!」って情熱を持った人がいたってことね。これが僕の疑問に対する答えだという気がします (^^;


さて、ほぼ山を下り、町が見えてきました。岡部までもあと少しです。

(ページ作成 2003-05-04)

前記事:府中     戻る     次記事:岡部
トップページへ

-- share --

0000

-- follow --




- Reverse Link -