新聞報道によれば、脱ゆとり教育の成果があらわれて、小4の学力調査で、理科・算数の国際的な順位が上がったのだそうだ。中2の学力調査は横ばい。
しかし、「理数は楽しいか」「将来理数を役立てた職業に就きたいか」のアンケート結果は非常に低い。
脱ゆとり教育で知識は植えつけられたが、理数の「楽しさ」は教えられていない、という傾向。
一応、数学コーナーを(ほったらかしだけど)書いているので、コメントしておくことにしよう。
理科離れ、という言葉が言われて久しく、そのために学校教育の改革が行われているけど、実のところそこは余り問題ではないように思う。
教育論には詳しくないし、教育の現場も良く知らない素人が何かを語るのはおこがましいのだが、いろいろと思うところがあるので書き連ねる。
僕の日記ではあまり書かない(でも時々顔を出す)政治問題も絡んでくる。
理科や数学が嫌いになる要因は、「勉強についていけなくなるから」ではないと思う。
そんなの、昔から付いていけない子はいっぱいいた。ゆとり教育で「付いていきやすい状況」になっても、理科離れは止まらなかった。
(理科離れは相変わらず進み、学力も低下する、という最悪状況に陥った)
ちなみに、僕は数学と物理は完全に落ちこぼれていた。でも、今でも数学好きだし、理科好きだ。
だから、「学習到達度」と「理科離れ」は必ずしも関係は無い。
(全く無い、とは言わない。やはり、付いていけなくて嫌になる子は一定数いるだろうから)
本来、理科は机上学問ではない。フィールドの学問だ。
それを教室で教えるからよくない、もっとフィールドに出るべきだ、という話も昔からある。
それはそうだと思う。
実際、これらの声を受けて、現在の小学校低学年の授業では、「理科」という教科はなくなっている。
理科は「生活科」の一部となっていて、この生活科というのは、できるだけフィールドに出て、当たり前に思っている自分たちの周辺を観察しよう、という教科だ。(社会科と理科が混ざった状態と思ってよい)
しかし、フィールドの時間を増やしても、やはり「理科好き」は増えていないという現実がある。
もっといえば、学習時間の都合でフィールドにばかり出られないのは、「理科が好き」という答えが多い諸外国だって同じではないかと思う。
フィールドに出ることは、必ずしも理科の楽しさを教えることと一致はしないだろう。
(これも、全く無い、とは言わない。時間が許すならフィールドに出たり、実験したりしたほうがよいのは当然だ)
おそらく、理科や数学が嫌いになる最大の要因は、「答えが正しいか間違っているかがすぐわかる」からではないかと思っている。
体育や音楽では、絶対的な正解なんて存在しない。
演奏が下手でも、逆上がりができなくても、「まぁ、できなくても生活に困らないから」と許される。
国語にも、絶対的な正解なんて存在しない。
漢字テストで「ハライとハネが正確でない」とバツをもらっても、字として読めればまぁいいかな、となる。
作者の心情が読み取れなくても、実際のところ作者が何を考えていたかなんて誰にもわからないわけで、学校のテストでは間違いってことになるけど、まぁいいよ、って話になる。
しかし、理科や数学には絶対的な正解がある。数字を間違えると容赦なく減点され、親にも「成績が悪い」と怒られることになる。
この構造で、勉強を好きになれ、というほうに無理がある。
子供はほめて育てろ…どころか、大人だってほめて育てろと言われる世の中で、理科と数学の教育だけが、できない人間を減点する厳しい方法で動いている。
まず、この意識を変えなきゃダメだ。
「教育システムを」変えるのではない。周囲の大人の意識を、社会全体の意識を変えなくちゃいけない。
勉強なんて、できなくても構わない。体育や音楽が「できなくてもいいや」と言われる程度には、理科や数学だって「できなくてもいいや」といわれないといけない。
ただ「できなくていい」と言い続ければ学力は低下する。それは本意ではない。
体育や音楽で、できない人間ががんばると「根性があった」とほめられたりする。
なのに、現状の数学や理科では、根性は評価されない。答えが間違っていれば「ダメ」という厳しい世界だ。
でも本当は、数学や理科にだって「根性」に相当する評価が可能だ。
そして、実際のところ、この部分こそが「理数系の愉しみ」の部分なのだ。
理数系では、答えは一つしかないかもしれない。
でも、応えに至る道は多様だ。いろんな考え方が合ってよい。むしろ、いろいろな考え方をしなくてはならない。
学校教育では、とにもかくにも、「問い」を設定して「答え」を導かなくてはならない。
だから、答えにいたる道筋を先生が紹介することになる。
ここで、紹介されるのは、過去数千年の人類の歴史の中で洗練された方法であることが多い。
それこそが、後世に…自分たちの子孫に残したい、英知の結晶だからだ。
でも、10年やそこらしか勉強していない人間が、過去数千年の英知の結晶に触れたとしても、「楽しい」とは思えない。ただ、そうやって解くものだと「暗記」しようとして、別の方法が多様にある、という楽しさまで見落とすことになる。
理科って言うのは、正解を求めるものではない。疑問を楽しむものだ。
なんで空は青いのだろう?
なんで海は満ち干きするのだろう?
宇宙の果てはどこにあるのだろう?
流れ星の正体ってなに?
いちおう、これらに対する「正解」は数通りはある。「小学生に聞かれたときの、それらしい説明」と、「科学を理解する人に対する説明」と、「現状一番もっともらしい説」だ。
つまり、こんな簡単な質問ですら、「正解」は一通りではない。
でも、正解を知る、なんていうのは「些細なこと」だ。
正解を知りたいと思い、もっともらしい説明をひねり出すことが理科の一番の楽しみだ。
その説明が、「いわゆる正解」と違っていたとしてもいい。
それなりの妥当性があるならば、もしかしたら正解かもしれないのだ。
日本では、教育とは「学習」、つまり、教師から知識を学び(教えてもらい)、習う(真似する・覚える)事だと思われているが、理科は記憶するものではなく、考えるものなのだ。
(ただし、考えるためには知識ベースが必要になる。この知識ベースは記憶しなくてはならない。だから、現状の教育方法が全くダメだ、というような単純な話ではない)
数学も同じ。数学は、理科から派生した「道具」に過ぎない。
だからこそ「理数」といっしょくたにされやすい。密接な関係にある。
つまるところ、数学も答えが重要なのではない。答えにいたる道筋を見つけ出すことが重要で、計算が正確であることを競うものではない。
(もちろん、計算が正確であることは重要だが、ここで言いたいのは、答えだけを見て評価してはならない、ということだ)
ついでに言えば、理科の答えが一つで無いように、数学の答えも一つではない。
学校では、評価しやすいように「答えが一つ」になるような問題ばかりを出しているだけで、数学の答えが常に一つだと思っていると、数学の愉しみを奪うことになる。
つまるところ、「答えを出さないといけない」という強迫観念が、理数離れを起こしているように思える。
理数以外の教科、国語・社会・音楽・体育なんかは、たった一つの答えを求めたりしない。
なのに、理数だけはたった一つの答えを出せと強要され、それが「出題者が想定したものでないと」ダメだ、とされる状況が問題だ。
勉強っていうのは、知的好奇心を満たしたい、という欲求から始まるものだ。つまりは遊びの一種に過ぎない。
遊びって言うのは楽しいはずなのに、「さぁ遊べ。今すぐ遊べ」なんて強要されたらつまらなくなる。
ただそれだけのこと。必ず答えを出せ、という強要を止めれば、理数はもっと楽しくなる。
もっと言えば、学校に行ったら勉強しなくちゃいけなくて、解放されたら遊んでよい、というのも「強要」の一種。
勉強なんて遊びなんだから、のんべんだらりとやったって構わない。
(ただ、テレビゲームでもだらだら無目的にやるのはつまらないもので、なにか目標を持って邁進したほうが面白い。勉強だって、学校では一生懸命やって、それ以外のときは「学校でできないような」興味心で遊ぶ、というメリハリは必要)
これ、最初に書いたように「教育現場で教え方を変えなくちゃいけない」という話ではないからね。
変わらなくちゃならないのは、これを読んでいるあなた自身。
あなたが学生であれば学ぶ態度を変え、あなたが親であれば子供に対する態度を変え、社会人であれば周囲に対する態度を変えなくてはならない。
すべてのことに対して、答えがあるはず、答えを出さなくちゃ、という考えを止めることが、ひいては「理数離れ」を食い止めることになる。
…ただ、これは案外茨の道。
答えが「ない」ことを前提に入れないといけないから。
答えがあるなら、調べればすぐわかる。記憶すれば後々困らない。これが「学習科目」の目的。
答えが無いことを前提にすると、常に考え続けなくてはならない。
これが、非常に難しい。というか、疲れる。
多くの人は嫌になり、脱落する。そして、「たった一つの答えを記憶しようとする」という元の状態に戻る。
考えることを「疲れること」ではなく、「楽しいこと」にするためには、意識を変えないといけない。
答えを出すことではなく、考えること自体を目的とする。
つまり、最初に書いたように「答えを出す必要は無い」と了解しておく。
とりあえずの答え、というのは必要だけど、それは「とりあえず」と断ってよい。
考えが熟したら置き換えても良いし、状況が変化したら破棄しても良い。
さて、最初に書いたとおり「政治問題」を絡める。
理数系学力調査の話を読んで最初に思ったのは、実はここから下の話だ。
教育問題で理数離れが続いていることは嘆くべき?
「一位じゃなくちゃだめなんですか?」っていうのは、スパコンだけの話ではない。
順位が落ちたらダメ、というのであれば、なんで?
なんで順位は上がっても、理数に興味持つ子が少ないと問題になるの?
原発問題。
危険は排除すべきだと思う。それは当然。
じゃぁ、危険って何のこと? 原発を廃炉にすれば危険は去るの?
東京電力が、現在廃炉を求められている原発の「維持費」を必要経費に計上するのは悪いことなの?
北朝鮮のミサイル発射。
なんであれを「ミサイル」と呼ぶの?
衛星を打ち上げたならロケットではないの?
日本は衛星打ち上げてよくて、北朝鮮だとダメなの?
なんでアメリカが確認できた衛星を、日本は確認できなかったの?
もしかして、自衛隊無能なの?
どの問題も「当然○○だ!」というような主張がある方も多いとは思う。
実のところ、問いかけの形にしているが、答えを求めているわけではない。
どの問題も自分の中では答えは出ている。
でも、そんな答えは重要ではない。あなたの答えも重要ではないし、僕の答えも重要ではない。
大切なのは、個々人が、答えを出そうとして熟考する過程だ。
最後に、僕以外の誰にとっても大切ではない、僕なり答え。
理数離れ、というのは、日本人が考える力を失いつつある、ということだと思う。
それは、将来、いかなる問題も解決できない…なにも決められない国になることを意味する。
いや、「理数離れ」が言われだしたのは、実のところ自分たちの世代、いま世の中を動かす中心世代なのだ。
だから、すでに日本は、何も解決できない国に、すでになっている。
問題なのは「理数離れ」という現象ではなく、考える力を失った人が多い世の中が「当たり前」の状態になってしまっていること。
子供の「理数離れ」は、大人の「考えること離れ」に起因した、表面現象に過ぎない。
すでに多くの大人が、答えが無い問題に対して、安易に答えを求めすぎる。考えようとしない。
結果として、答えとしてよさそうな意見を見ると付和雷同するだけで、その先についてのビジョンを持てていない人が多い。
付和雷同ではなく「自分で」考えなくてはならない。
それが、理科離れを、決められない国を、食い止める方法だ。
選挙はもうすぐだ。
答え、つまり選挙結果は重要ではない。
みんなが考えること。その結果に責任を持つこと。
そして、その結果は「とりあえずの答え」でしかないと開き直ること。
結果が悪ければ、次回選挙で積極的に置き換えればよい。
やり直しが効かない、なんて思わないでよい。そんなに深刻ではない。
深刻になりすぎると、結果を恐れる余り、自分の責任を回避しようとして、自分で考えずに人の意見に乗っかろうとすることになる。
それは一番避けなくてはならないことだ。
開き直ってよいのに責任を持つこと、というのは矛盾しているように思えるかもしれない。
先に「結果が悪ければ」と書いたが、選挙の結果が悪いと、次回選挙まで数年間の政治的混乱を生じることになる。
この混乱を、甘んじて受け入れること。わずか数年間の期間で限定的だが、これが結果に対する責任だ。
自分の行動に責任を取る、というのは、そういうことだ。
たとえ投票の棄権や、結果として落選者に投票して、自分の意にそぐわない人物が選ばれたのだとしても、その結果は甘んじて受け入れること。
世の中が悪いのは政治のせいだとか、どうせ信頼できる政治家がいないとか、愚痴ばかり言うのは「責任を果たしていない」。
現状は、過去の自分が選択した結果なのだから、責任は自分にある。
結果に納得がいかない場合は、愚痴を言い続けるのではなく、次回選挙で覆せばよい。
気持ちを切り替えて、次回は納得できるように、新たに考えはじめること。
これが結果に対して「開き直る」ということだ。
流動的な状況にあわせ、常に「賢く」振舞う有権者というのは、政治家にとって一番怖い存在だ。
固定票は全く怖くないし、扇動される程度の浮動票も実はそれほど怖くない。
みんなが、それぞれの立場において「賢く」振舞おうとする。
…そういう状態になれれば、それがどういう方向であれ、確実に世の中は良くなっていくだろう。
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