今日は、アメリカが日本製のパソコンに、100%の関税をかけた日(1987)
話は 1970年前後から始まります。
1960年代、コンピューターのメモリと言えば、コアメモリが「あたりまえ」でした。
しかし、コアメモリは小さなビーズを編んで作るもので、ほぼ手作業で作られていました。
大量生産に限界がありますし、手先の器用な日本人が作るものが多く、輸入コストなども考えるとアメリカでは値段が高くなってしまう。
そこで、当時新しく出てきた「集積回路」の技術を使い、メモリを作ろうとしたベンチャー企業がありました。
インテルです。
1969年には、世界初の SRAM を発売。
コアメモリと違い、電源を切ると内容が消えてしまいますが、コアメモリと同じ感覚で使用できるメモリでした。
1970年には、世界初の DRAM を発売。
通電していても、ほおっておくと内容が消えてしまいます。
メモリとして動かすには「リフレッシュ」と呼ばれる動作が必要でした。
しかし、その代わりに非常に安く、値段的にコアメモリよりも優位に立ちます。
これを機に、コアメモリは急激にシェアを落とし、半導体メモリの時代に切り替わります。
さらに翌 1971年、世界初の CPU 、4004 を発売。
そもそもインテルはメモリ作成を目指したベンチャー企業でしたが、この後は CPU の開発に力を入れていきます。
CPU は非常に複雑な部品で、制作にはノウハウが必要でした。
しかし、メモリは比較的簡単に作れる製品でした。
そのため、インテル以外にも半導体メモリの制作会社が乱立します。
そして、その波は日本にも達しました。
日本の産業は「改良」が得意です。
DRAM と SRAM という、基本原理のしっかり定まったメモリを真似し、高品質のものを量産し始めるのに時間はかかりませんでした。
1970年代の末期には、日本製のメモリは安くて品質が良く、アメリカ製のメモリよりも世界的なシェアで優っていました。
これには、未来の主幹産業として政府が補助金などを出し、国内で半導体産業が育つように保護し、輸出などを後押しした効果もありました。
1978年、当時の総理大臣である福田赳夫が訪米した際、アメリカの半導体メーカーから、日本製の半導体業界の形態に対して陳情が行われます。
企業間の競争なのに、政府が日本企業だけを保護するのはおかしい。
アメリカ企業が売り込もうにも、日本国内の流通業者に政府の圧力があり、国外製品を扱おうとしない。
値段も安いが、補助金があるからつけられる値段で、ダンピング(不当廉売)にあたる…などなど。
ある程度は耳の痛い事実でした。
国内産業の育成はそれぞれの国の内政問題なので、他国からの口出しは無用です。
しかし、それによって企業間の競争がそがれているとすれば、法の下の平等に反してしまうのです。
同時に、コンピューターがまだ国防上重要だった時代。
こうしたコンピューターの基幹部品を日本のものに抑えられてしまうのは、アメリカ政府としても黙っていられませんでした。
こうした事情もあり、幾度となく日米間で話し合いが行われ、1986年には「日米半導体協定」が出来上がります。
協定の詳細は日米間のトップシークレットであり極秘とされましたが、国内の半導体市場を開放する代わりに、アメリカが日本の内政に干渉するのもやめる、という筋の合意でした。
しかし翌 1987年の 4月 17日…つまり今日、アメリカは半導体など3品目の日本からの輸入品について、100% の関税をかけることを発表します。
100% の関税、ということは、輸出品の値段がいきなり2倍になってしまうということです。
価格競争力は失われ、事実上の「輸入禁止」となります。
アメリカには、諸外国との貿易に関する法律として「通商法」と呼ばれるものがあります。
貿易は国際間のものですから、貿易相手はアメリカのこの法律を守らなくてはなりません。
そして、この中に 301条という項目があります。
アメリカ大統領直属の「通商代表」は、不公正な貿易が行われていると判断した際、独自の判断で関税率などを変更することができます。
どのような判断でそうしたかを公表する必要はありますが、異議申し立てを取り合う必要はありません。
また、判断の元となった貿易品目と、措置を行う品目が一致する必要もありません。
このときは、理由は「日米半導体協定に違反し、日本から輸出される半導体のダンピングが続いている」でした、
先に3品目と書きましたが、半導体製品と、電動工具、カラーテレビが対象でした。
カラーテレビなどはアメリカでも日本製が人気がありましたから、主要輸出品を「人質」にとって、早期解決を求めた形です。
アメリカはダンピングと断定しましたが、この頃実際に RAM が急に安くなっています。
ファミコンの発売が 1983年。
それまでゲームを遊ぼうと思ったらパソコンが必要でした。
当時のパソコンには 32~ 128K 程度(VRAM 含む)の RAM が搭載されています。
でも、ファミコンは 4K で十分なゲームが遊べました。
そしてファミコンは大ヒットしました。
需要を見越していたメモリが、結果的にだぶつきます。
これでメモリの値段は安くなりました。
1986年には、松下とソニーから、3万円の MSX2 も発売されています。
192Kbyte のメモリを搭載していました。急激にメモリが安くなったから作れた機械でもあります。
でも、この頃から安くなったメモリをふんだんに使った製品が出始め、今度は量産効果でメモリが安くなりました。
こうした流れは日本独自のものだったことに注意が必要です。
RAM 以外にも、ロジック IC なども日本製が強くなっていました。
何よりも、同じものを高品質に作り続ける、というだけであれば、日本はまだアメリカよりも人件費が安かった時代です。
安いのは決してダンピングなどが理由ではありません。
Intel は理解していました。
だから、RAM よりも CPU に力を入れていたんです。
でも、そうした独自製品を持たない半導体企業は数多くありましたし、事実問題として、半導体産業の保護は、アメリカにとって国防に関わる問題でした。
しかし、この措置には思わぬところから横やりが入ります。
半導体の「製造企業」は政府に圧力をかけて日本からの関税を引き上げさせたのでしょうが、それによって打撃を受けたのは、半導体を「使用する」アメリカ企業でした。
特に、家電品などで使われていた液晶パネルなどは日本製以外に供給元が無く、日本からの輸入が止まると製造ができなくなってしまうのです。
日本からの「ダンピングなど行っていない」という強い陳情もあり、2か月後にはこの制裁関税を解除しています。
しかし、これは後に言う「日米半導体摩擦」の始まりにすぎませんでした。
1989年には、日本独自に開発していた OS である、TRON OS がやり玉に挙げられ、事実上潰されています。
(ソフトバンクの孫正義さんが潰したのだそうです)
1992年には、最大の山場となります。
アメリカとの協定により「外国製半導体のシェア目標」が課され、日本企業がどんなに頑張っても、普及「させてはいけない」足枷となるのです。
そして、この後は中国、韓国、台湾などが力をつけ、日本の半導体業界も斜陽産業となっていくのです。
今、その中国に対し、再びアメリカが強硬姿勢で臨もうとしています。
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