目次
04-17 訃報(1/4)
04-17 訃報(2/4)
04-17 訃報(3/4)
04-17 訃報(4/4)
4月12日(火)、母が他界しました。
85歳でした。
父が他界したのは2009年のこと。
その後数年たってから、母の痴呆が始まりました。
最初は時々物忘れをするくらい。でもだんだん物事がわからなくなってゆき、ここ数年は僕のこともわからなくなっていました。
どうも、子供時代に戻っているのね。話ができるときでも自分の名前を旧姓で名乗るし、小学生くらいになっている。
痴呆の人は、その人が一番幸せだったころに戻ってしまう、という話を聞いたことがあります。
母は青春時代が戦後の混乱期と重なりますし、まだ女性は抑圧されていた時代。
小学生の頃が一番幸せだったのかもしれません。
ここ15年ほどは、長兄の家で暮らしていました。
今年の頭に、以前から入居を待っていた老人ホームに定員の空きが出て入居できました。
我が家からも遠くないし、一度会いに行きたかったのですが、コロナの流行もあって会えないまま。
3月末に、容体があまりよくない、という連絡が来ます。
4月1日(金)にお医者様から詳細を聞ける、というので、長兄夫婦と僕でホームに伺いました。
急に食が細くなり、十分栄養をとれていない、とのことでした。
胃ろうや点滴という手段も取れますが、その場合は病院に入院する必要があります。
ホームで最期を看取るのであれば、すぐということではないがそろそろ覚悟を、と言われます。
僕は6人兄弟なのですが、兄弟で相談。お母さんももう年だし、管をつないで無理やり生きさせるよりも、自然に最期を迎える方が良いだろう、と全員一致で決まります。
とはいっても、お医者さんもまだ先だと言っていたし、数か月くらい先のことだろう…
と、この時は思っていました。
4月8日(金)に再度連絡がきました。
いよいよ食事を食べられなくなっているそうです。
土日の間に、多くの兄弟が見舞いに行きました。しかし、僕は用事があり、いけませんでした。
まぁ、1日に行ったときに会っているし、ホーム側もコロナの関係で面会を最少人数にしたいようなので、行かなくても良いかな、と。
土曜日に面会に行った次姉が動画を送ってくれましたが、手を握ったら首を動かしたり、思ったより元気そうに見えました。
ただ、日曜日に面会に行った次兄が、「水も飲めないそうなので、それほど長くなさそうだ」と。
北海道に住む長姉が、都合もあって木曜にならないと来れない、とのことでした。
それまで持ってくれると良いのだけど…
しかし、願いむなしく、12日(火)の朝に、息を引き取ったとの知らせが来ました。
夜の間だったようです。朝6時に看護士が見たときには、すでに息をしていなかったと。
僕としては、いつでも休めるように仕事先に連絡。
今日から休んでいいですよ、と言ってもらいましたが、休んでもやることないし、12日は仕事をします。
ただ、兄弟間の連絡が飛び交い、仕事効率は落ちてました。
先に書いた北海道の長姉の都合に合わせ、木曜通夜、金曜告別式と決まります。
コロナ禍であることを考慮し、家族葬として親戚も呼びません。
僕もそれに合わせて仕事先に休みをもらいます。
その後、納棺を水曜の午後に行う、と連絡が来ました。
仕事先にまた連絡して、水曜も午前中で仕事終わりにします。
普通、納棺は通夜の直前にやるものですが、葬儀社の都合もあるようです。
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13日(水)納棺当日。
急だったので兄弟は都合がつかず、僕と兄夫婦だけ…のつもりだったのですが、次兄が来れることになりました。
また、北海道の長姉も、直前に連絡が来ました。
木曜に来る予定を早め、水曜午後に到着するのでぎりぎり参加できるかも、という状態。
遺体は長兄の家に帰ってきて布団に寝かせていたので、納棺も長兄の家で行います。
とりあえず、長兄、次兄、僕の三兄弟がそろったところで納棺の儀を開始。
末期の水をとり、体を拭き清め、死に化粧を行います。
死に化粧の前に顔の産毛をそります…とやっている最中に、長姉夫婦到着。
ここからは、化粧だからと女性意見も入り、明るい雰囲気で話が進みます。
お母さん、もともとそれほど化粧をしなかったよね。
使っていた口紅とかまだあるから、それを使ってもらおう、などなど。
以前から痴呆でもありましたし、皆の心の中に覚悟ができていたから、それほど湿っぽくならない。
できるだけよい形の葬式にしようと前向きな姿勢になります。
死に化粧が終わり、死に装束を着せます。
これからあの世への長い道中。足袋を履かせ、脚絆を巻き、手甲をします。
紐は縦結びにしてください、と葬儀社の人に言われます。
縦結びって普通は使いませんが、何でですか? と聞いたら、後で説明します、と。
説明では、長い道中なのでほどけないようにしっかりした縦結びにします、とのことでした。
いや、縦結びはすぐほどける結びだから…
死を特別なものとして、普通とは違うことをする習慣があります。
着物のあわせを逆にしたりね。
順当に考えて、縦結びするのは、こちらが原因でしょう。
死に装束も終わったら、布団のシーツを皆でつかむ形で、棺の中に移動します。
葬儀社の人が周囲を整え、納棺終了。
すでに遺影が出来上がっていましたが、これは長姉が母の頼みで撮った写真でした。
父の葬儀の時、遺影にする良い写真が無くて苦労したので、遺影にする写真を今のうちに撮っておいて、と言われたのです。
良い写真でした。葬儀社の人が加工してくれましたが、ほぼ元の写真のまま。
遺影とは別に、葬儀の際に想い出の写真などを飾ってくれるそうです。
納棺が終わって葬儀社の人が返った後、母が保存していたアルバムをみんなで開きます。
僕の知らない僕の写真がたくさんありました。赤ちゃんの時の写真とか。
家族全員が映っている写真は、謎のシチュエーションでとっていることが多い。
これは、父が人が集まると「せっかくだから」と全員で写真を撮りたがったせい。
だから、家族写真にその時たまたまいた誰かの友達が映っていたりする。
母が若い時の写真も出てきました。
中学や高校の時の写真、昔の「女学生さん」という感じで、かわいい。
あと、20歳になる前に撮ったと思われる、思い切り気取った可愛い笑顔の写真。
母も気に入っていたようで、アルバムの写真横には母の字でコメントがついていました。
こういう写真、アルバムに糊付けされていてはがせないのですが、長兄の娘(僕から見て姪)が、スマホアプリで接写し、フォトプリンタで印刷してくれます。
…こういう技術って、昔は写真店に頼まないとできなかったのに、今ではこういうことに特化した専用アプリとかあるのね。
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14日(木) 通夜当日。
遠くからくる兄弟は、姪・甥もつれてきています。
子供が小さすぎるなら連れてこないといけないし、既に働いている年齢の姪は、「おばあちゃん」の想い出もあるので。
でも、我が家は僕だけ参加。
子供たちが物心ついたころには母は痴呆が始まっており、思い出もあまりないんだよね。
家が近いので「子供を連れて行かないといけない」理由もないし、そもそも平日なので子供は学校や塾もある。
妻も、子供の塾の送迎をしないといけないので来れません。
家族葬でこじんまりと…と言いつつ、6人兄弟が配偶者も子供もつれてきたりすると、16名参加。
十分な規模のお式に思います。
式自体は滞りなく終了。
式の後、仕出し弁当で簡単な食事があります。
コロナの関係でそれぞれのお弁当なのね。葬式だと、大きな寿司桶で出たりすることも多いのだけど。
家の娘の塾が7時開始で、妻が車で送った後に、式場に寄ることになっているのだけど…
一応、会食終了予定時刻が7時半。でも、その時間を待たず全員食べ終わり、7時過ぎには「じゃぁ、今日はホテルに戻ろうかな」なんて話も出ている。
しかしそう言っていた人もすぐにホテルに行くことは無く、なんとなく周囲と話しているうちに妻が来ました。
何とか間に合った。せっかく集まっている親戚一同に挨拶して周ります。
そして、母に線香を供えます。焼香台はすでに片付けられていたのでね。
本当は、妻に車に乗せてもらって家に帰るつもりだったのですが、もう少し残ることにしました。
通夜の夜は、誰かが遺体のそばで線香の火を守ることになっています。
長兄夫婦がやってくれることになったのですが、一旦家に帰って準備をしてくることになったのです。
娘の塾の終わりは10時ごろになるので、妻はまた車で迎えに来ます。僕はその時に帰ることにして、兄のいない間の火を守ります。
1人だけでは寂しいでしょう、と長姉夫婦も残ってくれました。
これが正解で、結局長兄夫婦は、僕の妻が迎えに来るまでの間に戻ってこれませんでした。
僕が引き受けたにもかかわらず、長姉夫婦に任せて帰ります。
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15日(金) 告別式当日。
朝、長女・次女の通う中学校から電話がありました。
今日の参観日、自由な時間にご覧になって構いませんよ、と…
すっかり忘れていました。中学校は参観日でした。
コロナの影響で、密を避けるために子供の出席番号による時間指定があったのですが、長女と次女が同じ時間なのでどちらかずらせないか、と相談していたのでした。
これもコロナの影響で、参観日に見に行けるのは家族で一人だけ。
元々妻が行く予定だったのですが、この日は雨で、僕は葬儀場まで妻に車で送ってもらうつもりでした。
時間割を見ながら、「面白そうな授業」を見に行けるように妻が予定を組み立てる…
1時間目に次女の授業を見て、一度家に帰って僕を送ってから、3時間目に長女の授業を見れば大丈夫そう。
さらに、4時間目の後に懇談会と、長女の修学旅行の説明があるのですが…
4時間目の間は「密を避けるため」中学校を出ないといけないのでまた家と往復し、この日妻は1万歩歩いたそうです。お疲れ様です。
告別式は、繰り上げ初七日法要まで一気に行う形でした。
その後、棺に花を入れます。
葬儀の祭壇は、花で作られたものでした。
父の時と同じ葬儀社ですが、父の時は白木の祭壇。こちらの方が形式としては正しいようなのですが、女性の場合柔らかなイメージで、花の祭壇にすることが多いのだとか。
で、初七日法要の後、参列者は一旦別室に移り、スタッフの方が祭壇の花をすべて取り外し、ものによっては茎も切り落とします。
後で聞いたのですが、少しでもお別れの時間を長くとるために、この作業はできうる限り迅速に行ってくれたのだとか。
そして、いよいよ棺に花を入れて最後のお別れ。
母が普段来ていた服を、長兄の奥さんが持ってきてくれていました。
喜寿の時に兄弟で集まってお祝いした時、母にプレゼントしていたカーディガンもありました。
また、母が好きだったという「きんつば」も持ってきてくれていました。
…ん? 僕は「きんつばが好きだった」と納棺の時に初めて聞いたのですが、僕以外みんな知ってる。
あれ? きんつば好きだったって、知らなかったの僕だけ?
きんつばを棺に入れ、みんな花を入れていき…
「きんつば隠れちゃう」と、長姉がきんつばの位置を移動します。
さらに花を入れていくうちに、また「隠れちゃう」と移動。さらにもう一回。
誰かが「もう、お母さんにくわえさせれば?」と言い出して、一斉に「やめて」「それはダメ」なんて突っ込みが入ります。
さすがに、皆が笑いました。
「お父さんの時は、◯◯おじさんが棺に直接お酒を振りかけて、みんな笑ったね」なんて思い出話が出ました。
父の時も確かに笑いました。こうして、笑顔で送れるのはいい式だと思います。
そして棺は花でいっぱいに。
皆が母の顔に触ります。頭をなでます。
僕も感謝の念を込めて、頭を撫でました。
そして、みんなで蓋を閉じます。
これで見納めです。
火葬場まではマイクロバスで 30分ほど。
これも父の時と同じ場所です。
雨が降っていました。
そういえば、父の時も大雨だったよね、と次兄が言います。
先ほど過去の日記を調べたら、父の時は台風が来ていたようです。
そして、今回の雨も、遠くを通過する台風の雨です。
長姉の結婚式の時も、妹の結婚式も台風でした。
我が家の冠婚葬祭には「赤道直下からの大物ゲスト」が良く来るようです。
火葬は1時間ほどで終わり、皆で骨を拾います。
骨壺に収め、最後に愛用していた眼鏡を入れました。これも父の時と同じです。
父はきっと母を迎えに来ているだろう、と長兄が言いました。
そうかもしれません。よく二人で旅行していました。
父が事前に下調べをして、母を案内するように。
あの世までの遠い旅路も、父に任せられると思えば安心です。
仲の良い夫婦でしたから。
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