2013年11月01日の日記です

目次

11-01 ミッチ・ケイパーの誕生日(1950)
11-01 セガ初期の歴史を調べてまとめてみた


ミッチ・ケイパーの誕生日(1950)  2013-11-01 12:27:52  コンピュータ 今日は何の日

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今日はミッチ・ケイパーの誕生日(1950)。


ロータス社の社長で、1-2-3 の開発者。

いっちょうめにばんちさんごう、の方ではないよ。そんなことはわかってるか。




ミッチは、多芸な人物で…というと聞こえはいいけど、若いころは職が定まらずに転々としていました。


大学時代から、専攻学問にまとまりがありません。心理学、言語学、計算機科学を学び、さらには機械・コンピューター・生理学を融合させようとするサイバネティックスを学んでいます。


その頃に大学内のコミュニティーラジオ局でディレクターを務め、卒業後はラジオ局のDJをやっているが長続きせず、瞑想術の先生をやったり精神カウンセラーをやったり…。


この経歴をみると、どう見ても怪しい人です。人生の落伍者。もっとも、この頃のアメリカはヒッピーブームだったこともあり、定職に就かずに楽しいと思うことだけをやっている人はたくさんいました。彼が特別ダメ人間だったわけではありません。


ヒッピーかぶれのダメ人間としてはジョブズが有名ですが、そのジョブズとウォズが作った Apple II を購入したことが彼の人生を変えます。

彼は計算機科学を学んでいたのでコンピューターはお手の物。コンピューターコンサルタントを始め、MIT の院生からの依頼で、関数をグラフ化するソフトを開発したりします。



さて、Apple II のキラーソフトとして VisiCalc という有名ソフトがあります。

世界初の表計算ソフトです。この開発話も面白いのでいつか書きたいところだけど、今日のところは割愛。


#VisiCalcの話、後に書きました



ともかく、Apple II は当初はホビーとして売られていただけですが、VisiCalc が発売されてからは、このソフトが仕事の役に立つと大評判。VisiCalc を使うために Apple II を買う、という人や企業が相次いだのです。


ミッチは VisiCalc の製作者と出会い、VisiCalc と連動するソフトの開発を依頼されます。

この時に開発したのが、VisiPlot と VisiTrend でした。


VisiPlot は、データをグラフ化するソフトです。折れ線グラフ、円グラフ、棒グラフなど、いくつかの方法でデータを図にすることができました。

VisiTrend は、データをもとに線形予測を行うソフトです。たとえば、VisiCalc で1年間分の毎日の売り上げデータが用意されていたとしましょう。VisiTrend ではこのデータをもとに将来を予測し、今後の売り上げの変動を示すことができます。


ミッチの作ったソフトは VisiCalc の販売元である VisiCorp から販売され、ミッチにはおよそ170万ドルの著作権料が入りました。

当時の為替レートで、4億円近い収入です。




このお金で、ミッチはソフトウェアの作成会社、ロータスデベロップメントを設立します。1982年のことでした。

この年は、IBM PC が発売された年でもあります。ミッチは、この新しいコンピューターに標準を合わせ、VisiCalc に変わる新しい表計算ソフトを開発することに決めます。


VisiCalc は Apple II のものでした。Apple II はホビー用途を想定して作られたものですが、VisiCalc によってビジネス用途にもつかわれるようになり、ついにビジネス用コンピューターの巨人、IBM がパソコンに参入することとなったのです。

IBM PC がビジネスを想定したものであれば、VisiCalc に相当するものが必要なはずです。

そして、発売されたばかりの IBM PC には、ライバルとなる表計算ソフトはまだありません。



ミッチは VisiPlot を開発したことがあるため、VisiCalc を詳しく知っていました。

1-2-3 は、VisiCalc を使っていたユーザーが違和感なく移行でき、さらに新たな機能を「当たり前に」使えるように注意深く設計されました。


VisiCalc は、最初からビジネス用途を志向していたわけではありません。

当初は経済学の試算を行うようなソフトを想定していました。


そのため、データのグラフ化や予測、データベース化などの機能を、あとから別売りのソフトとして発売しました。

これらのソフトは VisiCalc のデータファイルを使用することで緩く繋がっていますが、別の作業を行うためには一度ソフトを終了しなくてはなりません。



これを不便だと考えていたミッチは、IBM PC が Apple II よりも大きなメモリと速い CPU を持つことをうまく使い、表計算を中心に各種機能を呼び出せるシステムを作ろうと考えました。


Calc でデータを作り、Plot でグラフ化し、それらをワープロでまとめて書類にする。

これが Apple II での VisiCalc シリーズの使われ方でしたが、この3ステップをひとまとめにしようというのです。

ソフトの名前も、それを印象付ける 1-2-3 と決まりました。




1-2-3 はプラグイン構造を取ります。

これは、世界で初めて考案されたソフトウェア構造でした。


1-2-3 自体が OS になるようなもので、呼び出された小さなソフトは、1-2-3 のメモリ上にあるデータにアクセスする方法が用意されます。


この方式は、多くの機能を持たせる際に、プログラムに使用するメモリを節約するのに便利でした。

また、ソフトの開発を別々に行えるメリットと、後から機能を追加できるメリットがありました。


しかし、考えていることが大きすぎました。

表計算と、グラフソフトと、ワープロと、それらを束ねる OS を、短期間で同時に開発するようなものなのです。


1-2-3 の開発に手間取っている間に、VisiCalc の IBM PC 移植版が発売されますし、Microsoft も Multiplan という表計算ソフトを発表します。

CP/M (という 8bit OS )で発売されていた SuperCalc の移植版も発売されました。1-2-3が目指していた「ライバルがいない環境」は、あっという間にライバルだらけになってしまったのです。


結局、開発が遅れていたワープロ機能を諦め、代わりにデータベース機能を入れる形で 1-2-3 が発売されることになります。




ライバルがひしめく中に遅れてやってきた 1-2-3 は、あっという間にライバルを駆逐し、「1-2-3 が使いたいから IBM PC を買う」人が続出するほどのキラーソフトに成長します。


VisiCalc や SuperCalc は 8bit 機からの移植で機能が少なく、Multiplan は移植性を気にして高級言語で作成されたため、動作速度が遅かったのです。


また、VisiCalc 移植版以外のライバルは、VisiCalc のユーザーが乗り換えることを想定しておらず、全く違う操作方法となっていました。

それでいて、できることは Apple II の VisiCalc と大して違わなかったのです。


そのため、ライバルは多くてもユーザーの求めるものはなく、1-2-3 以前は依然として VisiCalc + Apple II を買う人が多かったのです。



1-2-3 は、やっと「16bit機」の性能を引き出す、革新的なソフトでした。

1-2-3 の登場から3か月で、IBM-PC の売り上げは3倍に急増しました。


1-2-3 自体も、初年度の売り上げ目標…「野望的な数字」として掲げた 400万ドルをはるかに超え、目標の17倍を達成します。


さらに翌年には、1億5700万ドルの売り上げと、社員700人を抱える大企業に急成長しました。

営業部門の人数は、マイクロソフトの4倍もいました。

もちろん、MSに対抗しようなどという意図ではなく、それだけの人員が必要だったのです。



1-2-3 の発売に間に合わなかったワープロ機能は、後でプラグインとして別売りされます。

後から発売されたソフトとは思えないほど統一された操作で(笑)、非常に便利なワープロだったそうです。



ただし、これはそれほど売れてはいません。


1-2-3 は「必要なものはなんでも揃っている」ソフトでした。

とはいえ、ミッチが1人ですべてをデザインし、細部に至るまでまとめ上げたもので、ミッチの審美眼にかなう機能しか入っていません。


後から発売されたワープロは、市場リサーチを元に、必要と思われる機能を全部盛り込んだものでした。

そこには、審美眼はありません。不要な機能が多く、扱いづらかったうえに、非常に高価だったのです。


ロータス社は急成長しましたが、すぐに大企業病にかかり、伸び悩むことになります。




僕としては 1-2-3 は HP-200LX の内蔵ソフトです。


HP-200LX (というより、その元となった 95LX)自体が、「パソコンを持っていない人にも 1-2-3 を売る」ことを目的に作られた機械でした。


#これはもちろんロータス側の思惑。HP 側としては、人気のあった関数電卓の後継機として作成した。


200LX 当時のロータス社は大企業で、200LX の OS も作成しています。

MS-DOS の上に乗せられて、DOS の機能を拡張する OS … Windows 3.1 みたいなものなのですが、非常に完成度が高いです。


いまでも 200LX が手放せないとか、すでに使ってないけど今でも最高の環境だったと思うとか、そういうユーザーさんは沢山います。

もちろんハードウェアのバランスの良さもありますが、この OS のバランスのよさが一番貢献しているように思います。




ところで、VisiCorp は VisiCalc の販売元ではありますが、VisiCalc の作者の会社ではありません。

VisiCalc の作者は VisiCorp にソフトを持ち込み、売れ始めてからは依頼されて各種周辺ソフトを作っていました。


ミッチが作者から頼まれたのも、そんな周辺ソフトの1つです。


1-2-3 に市場を奪われた VisiCorp は資金繰りが悪化し、VisiCalc の作者が納期までにソフト作成を間に合わせなかったせいだ、と訴えます。

作者はこれに対し、VisiCalc は自分の著作物で、VisiCorp に販売を任せているだけだから、販売権は自分の元にあることを確認する訴えをおこします。


これはつまり、VisiCorp から製品を引き上げる、という脅しでした。一方、VisiCalc という商標は VisiCorp 社の名前で登録されていました。



最終的に、作者が VisiCorp から VisiCalc の全権利を買い上げる、という約束で和解が成立します。

しかし、作者はそんな大金を持っていませんでした。



そこに現れたのが、いまでは大金持ちになったミッチです。

たまたま VisiCalc の作者と同じ飛行機に乗り合わせた際に、その場で作者の会社を買収し、VisiCorp にも支払いを行うことで合意します。


ミッチは VisiCalc によって成功の足掛かりをつかみましたが、すでに VisiCalc とはライバル関係にあります。

しかし、彼は過去の恩を忘れていなかったのです。


支払いを肩代わりした以上、VisiCalc はロータス社のものとなります。しかし、これで VisiCorp との訴訟は終了し、VisiCalc は歴史の舞台から消えていきます。



ミッチとロータス社は、すでに VisiCalc を超えるソフトを持っていました。ですから、いまさら VisiCalc を手に入れることには意味はなかったはずです。

ただ、彼は自分が恩を感じている2人…VisiCalc 作者と VisiCorp が争っているのを黙ってみていられなかっただけでした。




ミッチは、仲の良いジャーナリストに当時の心情を明かしています。


VisiCalc 用の関連ソフトを書き、大金を手にしました。

じゃぁ、新しい IBM PC 用にソフトを書けば、もっと儲かるに違いない。


軽い気持ちで 1-2-3 を作成したところ、VisiCalc をはるかに超える大ヒットになり、ロータスは大会社に成長しました。

そして、VisiCalc は没落し、作者と販売元で訴訟合戦となっています。



でも、1-2-3 は VisiCalc のアイディアを盗んだだけ。

ミッチは、自分が「詐欺師」と呼ばれるのではないかと恐れました。


その恐れから、1-2-3 に続くヒットを出して、自分の実力を示めそうと頑張りました。

でも、ロータスはその後もソフトを開発していますが、1-2-3 に続く製品を作れないでいます。



ミッチはすっかり自信を失いました。

自分で手に入れた地位や金が、自分の実力ではない、と思うようになりました。


そして、自分のしてきたことを後悔するようになるのです。




ミッチは1986年7月にはロータスを退社しています。

(あ、それじゃ 1991年発売の HP-95LX には関与してないじゃん。)


そして、ふたたび、職を転々とします。

…ただ、以前と違ってヒッピーのような流転ではありません。


慈善団体を設立して、自分の資産を運用して人々のために役立てたり、MIT の客員教授として若者に技術を伝えたり。

ネット上での活動と言論の自由を守るのを目的とした「電子フロンティア財団」の設立者でもありますし、FireFox を開発している Mozzila Foundation の理事の一人で、理事長を務めたこともあります。また、Wikipedia を運営しているウィキメディア財団の顧問委員でもあります。


とにかく、非常にいろいろな仕事を兼務しています。



VisiCorp の裁判に手を貸した件といい、彼は非常に人情派のように思います。

自分は詐欺師ではないか、と思い悩んでいるのも、おそらくは人に対して優しすぎるから。


若いころはヒッピーのような生活をしていますし、お金は生活に十分なだけあればよく、あとは周囲の人が幸せになるために使うのが良い、と考えているタイプなのでしょう。


…評伝などを読んだだけで、実際にあったこともありませんが、なんとなくそう思うのです。



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セガ初期の歴史を調べてまとめてみた  2013-11-01 14:42:06  コンピュータ

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セガ初期の歴史を調べてまとめてみた

昨日の話だが、セガ公式アカウント氏がこんなツイートをしていた。




自分がフォローしている人が「日本娯楽物産」をどう訳したら「Service Games Japan」になるのかわからない、とつぶやいていた。


僕もこれには違和感を持った。公式氏の話は僕が知っている話とは違う。

もっとも、僕は自分の記憶はかなりいい加減だと知っているので調べてみる。


日本娯楽物産は Service Games Japan が解体されてできた会社だった。だから、どちらかと言えば「Service Games」の訳が「娯楽」になる、と思ったほうがいいんじゃないか。


でも、気になるのでさらに調べたら出るわ出るわ…

セガの歴史って諸説あって、全然違う話がいっぱい出てくる。


自分の知っている歴史と違う、と思ったのもそのせいだ。きっと、何が正しいのか誰にもわからない状態。

こんな状態だから、由来を間違っていたとしてもセガ公式氏を非難するものでもない。



ところで、自分が知っていた歴史は、セガの黄金期の社長だった中山氏に取材してまとめられたもの。

(「セガvs任天堂 【マルチメディア・ウォーズのゆくえ】」1992年 赤木哲平)

ネットで見た中で一番「知らないこと」が書かれていたのは、Kotaku という海外サイトの記事だった。


さらに調べると、セガは主要な会社だけで4つ、実際にはそれ以上の会社が寄せ集まってできた会社で、中山社長は途中参加と判った。つまり、中山氏に取材しても全容は理解できない。


海外サイトの翻訳が知らない事実ばかりだったのは、会社のうち一つが、アメリカの会社だったから。

基本的にその会社のことしか書いていないし、詳細に調べたら細かな部分は間違えていた。


でも、アメリカのサイトでセガの歴史を調べると、Kotaku に書かれている内容の方が有名なようだ。

いくつかのサイトをあたり、それなりに信憑性がありそうなものを信用することにした。


そして、日本の「セガの歴史」としてよく知られるものは、国内で作られた会社のうち、一番古い会社を起点としている。

アメリカでできた会社がかなり重要なのだが、そこは抜け落ちているのだ。だから、これも正しいとは言えない。


いろんな資料を当たりつつ、まとめてみた。

以下時系列に書いてみる。


1日でネットで調べた程度の資料なので、信憑性はそれほど高くない。

突っ込み大歓迎。情報があれば逐次修正します。


2016.10.24

その後も情報を見つけるたびに追記していましたが、主に前半部分について、追記だらけで読みにくくなったので整理し直しました。

以前のものはおそらく waybackmachine に残っています




その1。ハワイ、スタンダード・ゲームズ社


1934年 ハワイ スタンダード・ゲームズ社創設


当時のハワイは州として正式に認められておらず、今のような観光地にもなっていなかった。

アメリカはハワイを、太平洋支配のための拠点と位置付けており、真珠湾に大きな基地を持っていた。


スタンダード・ゲームズ社は、この海軍基地で働く軍人に、娯楽を提供する会社として設立された。

当たり前だが、名前通りゲームを提供する会社だ。



セガの歴史を語る際に、この会社が「ジュークボックスを提供した」とされることがある。

しかし、ジュークボックスはゲームではないことに注意。ジュークボックスの話は、後に出てくる別の企業との混同があるようだ。


物証であるスロットマシン用コインなども写真提示されている Kotaku の記事和訳のアーカイブ)は資料性が高いが、その歴史記述などは他の資料と照らし合わせるとちょっと怪しい。

(このスロットコインに関しては後ほど)


ちなみに、「ゲーミング」には賭博の意味もある。

スロットマシンなど、賭博機を中心としていたようだ。


#ジュークボックスなど、にされているのは、賭博機を手掛けていた、と言う悪いイメージを無くしたい可能性もある。




その2。1945年 サービス・ゲームズ社。


1945年、第二次世界大戦が終結する。


スタンダード・ゲームズ社は、「兵士のための」余暇の娯楽を提供する会社だ。

大きな戦争が終わったというのは転換点だった。


そこで、この年に社名を「サービス・ゲームズ」に変更する


名称変更は、兵士だけでなく、一般向けの商売も始めるためだったようだ。

と言っても、やはり中心は兵士相手だった。



大戦終結後、日本はアメリカ軍の占領下にはいった。

そのため、多くのアメリカ軍兵士が日本に駐留していた。


ハワイは、米軍としては日本に一番近い、占領のための必要物資を中継する基地となっていく。

サービス・ゲームズ社も、スロットマシンなどの娯楽機器を日本に持ち込んだようだ。




その3。日本、レメーヤー&スチュアート社


1951年 日本 レメーヤー&スチュアート社創設


サービス・ゲームズ社とは逆の立場…娯楽を「本国から輸出する」のではなく、「日本への輸入をする」会社を設立するものもいた。


レメーヤー&スチュアート社は Raymond Lemaire と Richard Stewart が起こした会社で、本国からジュークボックスを輸入する会社だった。

主に米軍人の娯楽用だったが、後には日本人向けにも商売を広げている。


「国内で起業された」セガ関連の企業としては、一番古い会社になる。

そのため、国内で書かれたセガ年表はこの会社から始まっていることが多い。


この頃、日本でジュークボックスを扱っている会社には太東貿易(後のタイトー)、V&V社があり、レメーヤー&スチュアートと併せてジュークボックス界の3大企業だった。




その4 サービス・ゲームズ・ジャパン社


サービス・ゲームズ社はアメリカから日本に娯楽機械の輸出を行う会社で、レメーヤー&スチュアートはアメリカから日本に娯楽機械の輸入を行う会社だった。


そして、どちらも在日米軍を相手とした商売だ。

商売上、敵だったのか協力関係にあったのかはよくわからないが、お互いの存在を知ってはいただろう。



1951年、アメリカで「ジョンソン法」と呼ばれる、賭博機械の移動を禁止する法律が可決される。


賭博自体は、州ごとに違法・適法を判断するもので、合衆国としては関与しない。

しかし、賭博を違法とする州に賭博機械が持ち込まれることが無いように、州を超えた機械の移動は禁止された。


先に書いたように、サービス・ゲームズ社は軍人相手だけでなく、一般向けの商売も始めていた。

この法律により、アメリカ国内での自由な販売が禁止された形だ。



さらに追い打ちをかけるように、1952年に日本の占領政策が終了する。

米軍は日本から引き上げる。これは、残された米軍相手の市場も縮小してしまうことを意味していた。



しかし、サービス・ゲームズがスタンダード・ゲームズだった頃からの創業者の一人、マーティン・ブロムリー(Martin Bromley)はむしろ商売のチャンス、と考えた。


日本はアメリカの占領下でなくなった。つまり、アメリカの法律は及ばない。

また、日本の経済が回復しつつあったことが占領統治の終了の理由であったが、日本にはまだ娯楽産業が育っていない。


マーティンは、アメリカで違法となったために大量に「廃棄」されるスロットマシンをただ同然で入手し、自社ブランドを付けて日本に輸出する商売を始める。


今までにない、大量の輸出を計画していた。日本側で販売を行う人が必要だった。

そこで、レメイヤー&スチュアートの、スチュアートと販売代理店契約を行った。


この時点でレメイヤーは関与していない。

あとでもう一度出てくるのだけど、どうもスチュアートは思い切った賭けに出る山師で、レメイヤーは堅実路線のようだ。


このため、販売はレメイヤー&スチュアートが行うのではなく、スチュアートを代表とする新会社を設立することになる。

ここに、サービス・ゲームズの日本支社、サービス・ゲームズ・ジャパンが誕生する。



最初はまだ残っていた在日米軍の軍人相手の商売だったが、大量のスロットマシンを売りさばくために、やがて日本人相手の商売も始めたようだ。




このときから、サービス・ゲームズ社は、社名を縮めて「SEGA」という商標を使い始めたようだ。

SErvice と GAmes から、それぞれ2文字づつとって組み合わせたのだ。


カタログなどには SEGA incorporated と書かれていて、商標だけでなく社名のような扱いになっている。


スロットマシンにも SEGA と書かれていたし、コインにも SEGA と入っている。

もっとも、Kotaku のサイトに写真があるコインは、もう少し後の年代ではないかとも思う。


これらのスロット・コインが販売された正確な年代は不明。

1952年から1960年代半ばまで間に、何台もの機械が発売された、ということだけはわかっている。


スロット商売についての考察は、あとでサービス・ゲームズ社が再登場した時に続ける。




その5。日本、ローゼン・エンタープライズ


1953年 日本 ローゼン・エンタープライズ創設


日本で商売を始めた者は、他にもいる。

デヴィッド・ローゼンはローゼン・エンタープライズを興した


ローゼンの当初の来日目的は、日本の安い労働力を使い、アメリカ国内でのサービスを提供することだった。


しかし、来日した彼は、日本のほうがはるかに魅力あふれる市場であることに気付く。

戦後復興期の日本は、何をするにも身分証明書が必要で、添付する「写真」に需要があった。


彼は写真技術に詳しく、数年前にアメリカで登場した「2分で写真が出来上がる」最新の機械を知っていた。

しかし、この機械で撮影した写真は、数年で像が消えてしまう、という欠点があった。


彼は独自に研究して欠点を克服し、米国からこの機械を輸入する。

これが日本で大ヒット。日本初のフランチャイズ商売も始め、全国に「2分写真」が設置されるようになる。



フランチャイズなので、何もしないでも会社は利益を上げ続ける。

暇ができた彼は、今度は日本に「アーケードゲーム」を輸入する商売を始めた。



そして、東宝系の映画館の待合室にこれらのゲームを設置した。

次の映画の開始を待つ人は暇を持て余していたが、当時の人気娯楽であるジュークボックスは、映画館には置けない。


需要があるのに娯楽が提供されない「隙間」を見事に見つけ出した形だ。

しかも、当時は映画は人気のある娯楽なので映画館は非常に多く、東宝は最大手だった。



アーケードゲームは、すぐに他の会社も輸入を開始する人気商品となった。


#興味のある人はデビッド・ローゼンの誕生日の記事も併せて読んでほしい。




その6。ふたたび、サービス・ゲームズ・ジャパン社


1957年、サービス・ゲームズ・ジャパン社とレメーヤー&スチュアート社が合併する。


先に書いたように、二つの会社の代表者は事実上同じだった。

登記上も実態に即したものにした、という程度だろう。


合併後のサービス・ゲームズ・ジャパンは、羽田に本社を構えている。おそらく、この時から現在のセガの本社位置は変わらないのだろう。

以降はスロットマシンも日本で製造するようになったようだ。


おそらく、羽田の糀谷周辺に技術の高い町工場が多いので、スロットマシン製造のためにこの場所を選んだのではないかと思う。



セガの話としては余談となるが、サービス・ゲームズは、日本支社を作った後にさらにパナマ(1953)とネバダ(1957)に支社を作っている。


パナマはアメリカのすぐ近くだが、アメリカではない。

どうやら「賭博機器を州を越えて移動してはならない」という規定をクリアして輸出を行うために、アメリカ国外の会社を必要としたようだ。


一方、ネバダはラスベガスのある州だ。州内でスロットマシンを製造し、供給することに問題はない。


これらの支社の設立の際にも、レメーヤー、スチュアートは関与している。




さて、先ほど途中まで書いた、スロット商売の考察。


スロットマシンは、事実上「闇商売」だった、と見るのがよさそうだ。

詳しい歴史がわからないのもそのためだろう。


日本にスロットマシンを輸出したわけだけど、本来日本は賭博が違法行為だ。


ただし、米国軍人は米国の法律に縛られるので、賭博自体は禁止ではない。

米軍相手だけに商売をやっているなら問題はないのだけど、先に書いたように、後には日本人向けの商売も始めている。


もっとも、まだこの頃は闇商売が横行している。

賭場だってあったのだから、現金を入れるスロットマシンを置いてある店があっても不思議はない。



当時は遊戯機器は販売者が直接設置し、売り上げを設置店とわけあう、というのが普通だった。

サービス・ゲームズ・ジャパンが日本でスロットの製造を始めた後、スロットが沖縄に持ち込まれ、現金硬貨で遊ばれたため、琉球警察が指導した、と言う事実があるらしい。


つまり、サービス・ゲームズ・ジャパンは、日本では違法な賭博を行っていた。

もっとも、沖縄は遠いので、サービス・ゲームズ社が直接設置したかどうかは不明だ。別の会社に販売し、その会社が設置を行った可能性も高い。


先に Kotaku で写真が見られる「コイン」の話を書いたが、沖縄での指導が原因で開発したようにも思えるし、もしかしたらそれ以前から作っていたかもしれない。

先にリンクした資料では、沖縄での件があってコイン式スロットを開発した、となっている。しかし、コインセレクタ(贋金などを判別する装置)さえ交換すれば、従来のスロットでコインを使うこともできたはずだ。

だから、これ以前にコインが使われていた可能性がないわけではない。


コイン商売をしたのであれば、おそらくパチンコなどと同様に、景品などと交換できたのではないか。

スロットマシンは賭博機であり、何かが懸かっていないと面白くない。



1960年代半ばまでスロットが販売された、というのも、1960年代半ばにはパチンコが庶民ギャンブルとして台頭したためではないかと思う。


1961年に、パチンコで景品をもらい、別の場所で景品を買い取ってもらうことで現金化する、と言う方法が「賭博ではない方式」として考案されている。(実際にはもっと複雑な経緯があるのだが、とにかくパチンコが合法賭博化した)

合法な賭博があるのに、いつ警察に捕まるかわからない闇賭博を行う必要はない。

スロットが1960年代半ばまでしか販売されていなかったのは、そのような経緯があったのではないかと考える。


もちろん、パチンコは「合法化」する以前から存在している。1950年代の半ばには、すでに人気の遊戯だった。

このことは、次に書くサービス・ゲームズ・ジャパンの分社化に影響を与えているように思う。




その7。日本娯楽物産と日本機械製造


1960年、レメーヤーとスチュアートの考えが異なったのか、サービス・ゲームズ・ジャパンは2つの会社に分割される。

スチュアートは日本娯楽物産として、レメーヤーは日本機械製造として商売を続ける。


名前からして、今まで通り娯楽分野を続けたいスチュアートと、時代の変化に合わせ手堅い商売を目指したレメーヤー、というところだろうか。

おそらくは、先に書いたようにパチンコの台頭により、スロットマシンの売り上げが落ちてきたのではないかと思う。



この後、日本娯楽物産は国産初のジュークボックスの製造に成功。この型番は「セガ1000」で、これがセガの名称が現れた最初のようにされていることが多いのだけど、すでに書いたようにスロットで先に使われている。


大体、日本娯楽物産で、すでに無くなったサービス・ゲームズ・ジャパン社の名前を使った、って訳わからんじゃないか。

すでにスロットでセガの名前が有名だから使ったのだ。


大成功で金を手にした日本娯楽物産は、1964年に再び日本機械製造を吸収合併。



2019.6.3 追記

日本娯楽物産の法的な設立登記は、1960年6月3日のようだ。

一応、この日が「セガの設立日」ということになっている模様。




その8。セガ・エンタープライゼス


1965年、日本娯楽物産がローゼン・エンタープライズを吸収合併。


ローゼン・エンタープライズは、2分写真のフランチャイズ展開と、アーケードゲーム機器の設置・販売で大きな利益を上げていた。


しかし、合併の直前には、証明写真機の製造に乗り出す企業が増え、過当競争に陥ったためにフランチャイズを解散している。

また、アーケードゲームの輸入を行う会社も増え、こちらも過当競争になりつつあった。


一方、日本娯楽物産はローゼン・エンタープライゼスよりも小さな会社だったが、「セガ1000」の大ヒットで勢いがあった。



この合併の際には、サービス・ゲームズ社の創業者の一人であるマーティン・ブロムリーが日本娯楽物産側の代表として交渉に当たったようだ。


すでにサービス・ゲームズ社の名前は消えているが、やはり彼の会社という側面が強かったのだろう。



結果として、存続会社は日本娯楽物産だが、社長はローゼンが務めることになった。

そして、社名をセガ・エンタープライゼスに変更する。


エンタープライゼスとは「企業複合体」の意味だ。ここまでの経緯を見ると、多数の企業を取り込んでいる。この名前はふさわしい。



「セガを興したアメリカ人は帰国したかったので会社を売却し、セガができた」という話を聞いたことがあるが、この帰国したかった外国人はスチュアートのことかもしれない。

(レメーヤーがまだいたかは不明。スチュアートに会社を売却して帰国したんじゃないかな、と勝手に思っている。で、帰国したレメーヤーを見て、スチュアートも帰国したくなってきて、ローゼンを後釜に据えた、と)


社名をセガとしたのは、ジュークボックス セガ1000 が売れていたから、知名度のある名前にしたのだろう。

元々サービス・ゲームズ社をやっていたマーティン・ブロムリーが合併交渉に絡んでいるから、名前に思い入れがあり、残したかった可能性もある。



ローゼン・エンタープライズはアーケードゲームの「設置・販売」を行っていたけど、自社で製造する技術力はなかった。

そのため、他社との差別化ができずに苦しい競争となっていたが、設置するための「ロケーション」を多数持っていることは強みだった。


ここに日本娯楽物産・(元)日本機械製造の技術力でオリジナルのゲームを作れば、まだまだ戦っていける…



セガは翌年(1966年)には「ペリスコープ」を作り世界的大ヒット。


…僕が子供の頃には、まだ置いてあるゲームセンターありました。古いゲームだったので遊んだことはないけど、コインも入れずに潜望鏡を覗いた覚えはある。


この後も、続々とヒットゲームを送り出している。




その9。エスコ貿易


1967年 日本 エスコ貿易創設


ずっと前に「ジュークボックス界の3大企業」としてV&Vという会社を書いたが、覚えているだろうか?

まぁ、覚えていなくても良い。とにかくそういう会社があった。


V&Vはジュークボックスの大手だった。そして、これからもジュークボックスは売れ続けると考えていた。


しかし、娯楽と言うのは時代と共に変化するもの。V&Vの中には、「別の事業にも手を出さなくてはならない」と力説するものもいたが、好調なジュークボックス事業があるのに、わざわざ成功するかもわからない他の事業を手掛ける必要はない、とする意見が大勢を占めていた。


これに業を煮やした一人の社員が、V&Vを飛び出し新たな会社を作る。

それがエスコ貿易だった。


エスコ貿易は、ゲーム機を手掛けた。

ジュークボックスはこれから下り坂で、その穴をゲームが埋める、と考えたためだ。


しかも、ただ販売するだけでなく、後には自社でもゲームを作ろうとした。

販売だけだと値下げ競争になってしまい苦しくなるが、自社で手掛ければ、それは他社の扱えない「付加価値」となり、値下げする必要は無くなる。


エスコ貿易は徐々に会社規模を大きくしていった。




その10。ガルフ&ウェスタン


1969年、アメリカのコングロマリット「ガルフ&ウェスタン」がセガを買収。

コングロマリットは複合企業体と訳される。訳しても意味わからんね。わからんから元の英語のまま書いたのだけど。


説明すれば、全く異なる業種であっても、つぎつぎと買収して大きくなったような企業のこと。

異業種のコラボレーションで、うまくいけば他には真似できないような商品・サービスを提供できるけど、多くの方面に手を出し過ぎて器用貧乏にもなりやすい。


ともかく、セガは急成長したのでガルフ&ウェスタンに目をつけられた。

この頃、娯楽産業は急成長していて、今後も利益を生み出し続けそうに見えたようだ。


しかし、買収によってセガの資金力が安定したのも事実。

その資金力がなければ、家庭用テレビゲームなども開発できなかったかもしれない。



セガのローゼン社長は、企業の売却後は引退してゆっくり過ごすつもりだったらしい。彼は家族と共にアメリカに戻ってしまった。

しかし、そのまま社長に据え置かれた。日本のセガには時々顔を出すだけになった。


とはいえ、社長が全く会社にいないのも問題がある。

セガの関連会社をアメリカに作り、社長は普段はそちらにいる、と言う形式をとったようだ。




その11。米国分社


上に書いたが、ローゼン社長の普段いる場所は、アメリカに作られた分社だった。


次の話と時系列が少しかぶってしまうのだが、しばらくこの米国分社の動きを追いかけてみる。



米国分社では、当初はピンボールを作っていたようだ。

セガは1971年~1979年にかけてピンボールを作っていたようだが、この会社でやっていたのだろう。


ピンボール開発終了後の1980年代初期は業務用ゲームの開発・販売をしていたようだ。

おそらく、開発は別会社に発注する形式か、小さな会社が作成したものを購入する形式。直接開発力は非常に限られていて、販売が中心だったように見える。


日本本社で作られたゲームの輸入販売も行っているし、それらのゲームの移植ライセンス供与もしている。


特に、「フロッガー」(1981)は、コナミが作成し、セガから販売されたものだが、アメリカで大ヒットして非常に多くの機械に移植されている。

この移植も、他社にライセンスを供与する形で行われている。


米国内での移植ライセンス供与は米国分社の仕事だったようだが、名著「ハッカーズ」に出てくるフロッガー移植をめぐる話によれば、「セガは自分たちの所有物の価値がわかっていなかった」。

大ヒットゲームでライセンスを欲しがる会社は沢山あったのに、売り上げの 10% という、非常に安いライセンス料しかとっていないのだ。


ライセンス供与は、「メディアごと」に行われた。

普通なら、ゲーム機ならカートリッジ、PC なら磁気メディアが使われるだろう。おそらく、米国分社もそのような棲み分けの意図でライセンス供与したのだと思う。


磁気メディア版はシエラオンラインが、カートリッジ版はパーカーブラザースが権利を取得するが、ATARI VCSはゲーム機でありながら、カセットテープ(磁気メディア)からプログラムを読み込む、サードパーティ製の拡張カートリッジが存在した。

また、ATARI の 8bit コンピューターも、カートリッジと磁気メディアの両方が使えた。


この結果、VCS と 8bit 機は2種類のフロッガーが発売されている



1982年に米国分社が発売した業務用ゲーム TacScan (開発は GREMLIN)はヒットしたようだ。

日本ではほとんど知られていないゲームだが、後で重要になる。



1982年の年末には、アメリカではゲーム業界の各企業の株価が急落する。

日本ではアタリショック、と呼ばれるものだ。

(アタリショックについては、loderun さんの Runner's High! が詳しい。)


注意が必要なのは、アタリショックと言うと「消費者のビデオゲーム離れ」と言われてしまいやすいのだが、実際にはそんなものは存在しなかったことだ。

アタリ社が経営手法に失敗したために業績が悪化し、それに端を発してゲーム関連企業の株価が急落した、というのは、経済学的には重大な出来事だったが、消費者にはほとんど関係していない。


1983年は、ATARI VCS (ATARI 2600) のゲーム市場が一番成熟した年で、ゲームの発売タイトル数も、売り上げも、最高を記録している。

そして、この 1983年は米国分社にとって激動の年となる。


米国分社は VCS 市場成熟のタイミングを見逃してはいない。

前年に大ヒットした TacScan の移植版を引っ提げて、ATARI VCS の市場に参入。ライセンス供与ではなく、セガのブランドでゲームを供給する。


VCS の他にも、Atari 5200Atari ComputerIntellivisionCommodore VIC 20Commodore 64、などに手広く供給する戦略を取る。


ちなみに、発売タイトルは VCS を基準として、他機種にも移植している感じだ。場合によっては移植されないが、商品型番をそろえているようで、欠番が生じる。

とくに、CongoBongo (日本で Tip Top として販売されたゲームの海外版) は、参入した全機種に出しているようだ。


VCS には8月までに8本を投入している。

最初に発売したゲームの発売月がわからないが、月1本以上を開発するというハイペースだ。(主に移植だから開発は簡単なのだろうけど)


7月15日、日本では日本本社から、家庭用ゲーム機 SG-1000 が発売される。

米国分社ではせっせと他社の家庭用ゲーム機向けに移植版を作り続けているが、セガ純正ハードが現れたのだ。



そして翌8月、ガルフ&ウェスタンは米国分社を売却する。

先に「8月までに8本」と書いたが、これにより米国ではセガ純正のゲーム発売は打ち切りとなる。


米国分社の売却先は、ピンボール製造メーカーの老舗 Bally だった。


Bally は、1981年に Midway を買収していた。Midway も老舗ピンボールメーカーだったが、業務用ビデオゲーム機の輸入販売もしていた。

ビデオゲーム事業は、Bally Midway のブランドで続けられていた。

そして、米国分社も合併し、Bally Midway に加わることになる。


これ以降も、VCS や、先にあげた他機種用のゲームは Bally Midway ブランドで発売されている。

ただし、「セガ純正」ではなく、ライセンス供与に戻った形となる。




その12。中山隼雄


ここからは日本本社の話に戻る。

1970年代後半は、セガはゲームを作成する会社ではあったが、作ったゲームを売ってそれで終わり、だった。


この頃にはゲームセンターが作られ始めていて、セガはゲームの作成から販売、ゲームセンターの運営まで、ゲームの全てを手掛けたいと考えていた。

ここで目を付けたのが、先に書いたエスコ貿易だ。ゲーム機の販売・運営で急成長した会社だった。


1979年、セガはエスコ貿易を吸収合併。エスコの創業者で社長の中山隼雄氏は、セガの副社長となる。

(社長はまだローゼン氏。しかし、ローゼン氏は非常勤で、中山氏が事実上の社長になった)


この後、セガは急成長。ヒットゲームを次々送り出す。



先に米国分社のところでも書いたが、1982年の年末にはアタリショックが起きている。

これで、親会社であるガルフ&ウェスタンは、セガの扱いを憂慮し始めたようだ。


日本本社ではこの頃、家庭用ゲーム機の開発を行おうとしていた。

しかし、ガルフ&ウェスタンは計画にストップをかけていた。


ガルフ&ウェスタンが計画を承認しなかった理由は、中山氏へのインタビューをもとにまとめた本では、米国では家庭用ゲーム機がすでに伸び悩んでいたからだろう、となっている。


しかし、これは違うかもしれない。

実際には先に書いたように 1983年は成熟の年で、VCS 関連の売り上げはピークとなっているし、他の会社からもゲーム機やホビーパソコンが発売されている。

米国分社でもこのブームに積極的に乗っているので、「伸び悩み」という認識があったようには見えない。


むしろ話は逆で、米国分社が家庭用に乗り出して好調な時に、足枷となるような「純正家庭用機」を出したくなかった、というのが事実ではないか。

すでに書いたように、SG-1000 発売の1か月後には米国分社は売却されている。これも「商売がぶつかる」のを避けたように見える。



ガルフ&ウェスタンの思惑はともかく、家庭用ゲーム機の開発計画を止められているのは事実だった。

中山氏はこれに危機感を持つ。その思いは、親会社は日本の状況に詳しく、長期計画を持てる、日本語が通じる会社でないとダメだ、という考えに変わっていった。


そこで、米国に行ってガルフ&ウェスタンに直接交渉、セガを売却する案を出す。さらに、売却先を中山自身に一任するように掛け合う。


これはかなり勝手な頼みだ。傘下の企業の社長が、もうおさらばだ、自分の好きなようにやらせろ、と交渉しているのだ。

ダメでもともと、と交渉したのだが、意外なことにガルフ&ウェスタンはこれを快諾。前年にはアタリの株価急落が起きているわけで、ガルフ&ウェスタンにとっても、ゲーム市場はいつ崩壊するかわからない「時限爆弾」だった。手放すなら、高く売り抜けられるときがいい。


その後、1983年に SG-1000 発売。1か月後に米国分社が売却されたのはすでに書いた通りだ。


SG-1000 は、ニュージーランドとオーストラリアでも発売されたが、アメリカでの発売はない。

セガの純正ハードがアメリカで発売されたのは、1986年のマスターシステムが最初だ。


米国分社の売却時の条件として、3年間はライセンス供与し、対立する事業を行わない、などの条件があったのかもしれない。



1984年、日本本社はガルフ&ウェスタンからコンピューターソフト開発の大手 CSK に売却され、CSK の子会社となる。

CSK の社長、大川功はローゼン氏の友人だった。


もっとも、CSK は最後に交渉に参加して、中山氏の意向で「同業種だから」選ばれている。

名前は明かされていないが、CSK 参加前は大手不動産企業が有力候補だったようだ。


それ以外に、ミネベアも買収の意向を示していたらしいが、権限が中山氏に一任されていることを知らずに、ガルフ&ウェスタンに交渉を持ちかけてしまったらしい。

ガルフ&ウェスタンは、交渉権がないのに「150億円。1週間以内に即決を」と返事をし、ミネベアは断念したそうだ。


ちなみに、ミネベアは国内のベアリングメーカー。企業買収(M&A)によって企業を大きくする、という手法を最初に作り出した企業だ。

M&Aはアメリカ的経営手法のように言われるが、実は日本生まれ。


さて、CSK の子会社となった際に中山氏は正式に社長就任。

ローゼン氏はやっと引退できた…のだが、1986 年に新たに作られたセガのアメリカ法人、セガ・オブ・アメリカの会長として呼び戻されている。



1996年にやっと会長を引退したようだ。

(記事を書いた当初、Wikipedia の英語版ではまだ役員となっている、と書いていたのだけど、これは Wikipedia の誤記だったようだ)





以上で、その後のセガの成長時代を率いた中山隼雄社長時代に入る。


ここまでをまとめるとこんな感じ。



図では、背景が緑の社名は、セガの成立に重要な役割を果たし、合併した会社だ。

水色は存続している会社。最終的にはセガだ。

黄色は、関与した会社。


合併や分割は黒の矢印で示したが、関与は赤の矢印で示した。

(アメリカの関連法人売却はどちらにするか迷い、赤にしてある。日本のセガとはほとんど関係がないためだ)


西暦は会社名のところについている、と考えてもらいたい。

矢印で「合併」と書いてある横に西暦があっても、実際の合併年はその下の会社名の横の西暦、と言う具合。


合併しても名前が変わらない場合は例外で、西暦は矢印の説明文につけられている。



この後の歴史をまとめたページは星の数ほどあるので、そちらを参照してほしい。

(勘違いを避けるために書いておけば、現在は CSK は親会社ではない。)


メガドライブを発売して PCエンジン・スーファミに負けたり、セガ・サターンを発売してプレステに負けたり、ドリキャスを…あれは自滅か?


いや、とにかくセガは中山社長の下で黄金期だったんだよっ!(笑)



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【T.Shimojo】 はじめまして。この度「Sarvice Games」のロゴが入ったメダルを発見したので、由来を探るべく検索してたどり着きました。 http://www.awa.or.jp/home/shimojo/segameda/smeda30.htm このメダルには「金品ト交換出来マセン」と書かれており、 サービスゲームズ社は「非合法な賭博機」としてではなく、(少なくとも建前上は)「健全な遊技機」としてスロットマシーンを輸入していたと推測できます。 これで、現在セガ社史の暗部(^^;とされている?スロットマシーン輸入が公然と語られるようになればいいのですが…。 (2017-01-05 07:22:13)

あきよし】 先日「セガ」を社名変更して「セガ・ゲームス」とする、という再編案が発表された件で、「ガ」がゲームの略だ、と批判している人が多いことに関しての意見ですね。
以下私見です。
現在のセガはすでに固有名詞と認識されているので、ゲームスを付けても良いのではないかと思っています。
また、当初の社名の「games」は賭博(gaming)の意味合いですが、新たな名称の games は勝敗のある娯楽を意味する言葉で、同じ単語でも意味が違います。
このことから、同じ意味が重なっている、という指摘にも当たらないかとも思います。
 (2015-02-22 09:53:10)

【たかはし】 単なる邪推とは私の書き込みのことです。悪しからず。読み返したら誤解を与えそうで申し訳ありません。 (2015-02-22 00:41:04)

【たかはし】 単なる邪推です。お話の内容からして、社名としてのセガはセガエンタープライゼスが紀元、その元の英字のSEGAは商品名(またはシリーズを意識したブランド名/冠名)だった気がします。よってSEGAの由来がServiceGamesかどうかはこの際重要ではないとも思います。 (2015-02-22 00:40:00)


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